日本映画の水準について
岸田國士
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映画愛好者の分布がはつきり二つに別れてをり、一つは西洋映画フアン、一つは日本映画フアンであり、その間に、ほとんど共通な分子がなく、強いて求めれば専門の研究家ぐらゐのものだといふ事実を、日本の映画当事者はなんとみてゐるか?
勿論、西洋映画フアンが悉く教養ある階級であるとも云へず、日本映画フアンがすべて無知識階級であるとも断言はできかねるが、大体に於て、西洋映画を求める序に、日本映画で満足する人々よりも、映画に対する鑑賞眼が高いばかりでなく、西洋そのものに魅力を感じ、西洋の人物と国情とにある種の憧憬を抱いてゐるのだと云へないことはない。かういふ連中は、多少外国語の素養もあり、若し外国旅行の経験がなければ、その機会の到来を待ち望み、現代日本の文化に対して、若干の批判をもち、無意識的にもせよ、風俗的に西欧の模倣者たることを誇りとしてゐるものがないではない。
これに反して、日本映画の方に親しむ人々は、必ずしも保守的ではないかも知れぬが、西洋文化に対する興味や関心が薄く、日本の現状をそのまゝ享け容れる素朴さがあり、従つて、想像力と批評精神に乏しく、「知つてゐることしかわからない」頭脳の持主で、日本国民の「健実な(?)」部分には違ひないが、同時に頼りない附和雷同の徒である。
私は、西洋映画の技術的芸術的優秀さの故に日本映画を一概に排斥するものではなく、また、日本映画の水準の低さのために徒らに西洋映画万能を唱へるものでもない。寧ろ、日本映画か西洋映画か、その何れかを取らねばならぬといふ今日の事情を悲しむだけのことである。
日本映画も、いろいろと困難と戦ひながら、ともかくも、やゝ見るべきものが作られるやうになり、その興行成績も常にわるいわけではないと聞くにつけて、時代も徐々に移りつゝあるのだといふ感じがする。
先日本誌で、フアンク氏の日本映画論を読んだが、なかなか適切なことを云つてゐると思つたが、実は、今更われわれは、同氏から「如何にすれば優秀な映画が作れるか」といふ教へを受ける必要はないのである。たゞ、当事者がそれを、欲し、プランを樹て、これを実行に遷せばよい時機なのである。
先づ、経済的な立場から、市場の拡張もはからねばならぬことは自明の理で、それがためには、どうしても、より一層合理的な撮影所の機構を完備しなければならぬ。私は敢て云ふが、部分的にアイデイアだけでは駄目だ。根本的なシステムと人的材料の整備、訓練が必要である。
既成の会社は、種々の関係で急速に改革は望まれないかもわからない。そこで、私の考へとしては、先づ、政府の負担に於て、民間の有為な技術家芸術家を網羅した研究機関を設立すべきである。この場合、外国の専門家を交へることが有利であらう。
この研究機関は、一種の官立アカデミイの母胎となるもので、将来は、技術家(監督、カメラマン、録音技師、俳優、シナリオ・ライタア、批評家等)の養成に進まねばならぬ。勿論、基礎的な、理論と実習に重点を置くものであるが、必要に応じ、こゝでは、統一あり、権威ある「文化映画」の製作を試みることもできるだらう。国家の名において外国の市場にまみえるこの種の作品が、今日の如き状態では、却つて逆効果を生む恐れがないとは云へない。これは絶対に統一強化さるべきであつて、そのためだけにでも、相当完備した永久的な研究製作所の独立を必要とするのである。
このアカデミイに最も期待すべきは、技術家、殊に、新俳優の養成である。
西洋映画の強みは、監督の技倆や機械的な設備以上に、かの豊富にして熟練な「教養」と「生活」をバツクとする俳優群の魅力ある演技なのである。この点、フアンク氏は、その直接使用した俳優への好意ある批評を含めてゞあらうが、日本映画俳優一般への認識に恐ろしい「甘さ」があるやうに思へる。彼はむろん、この領域に於て専門的批判者ではないが、少くとも、東洋人に対する好奇的な眼が、俳優の特性なるものを忘却して、愚かなる人間としてのエキゾチツクな美を謳歌せしめたのだと見てさしつかへない。これも映画的効果としては十分生かし得るものであるが、同国人たるわれわれにとつては、エキゾチスムは、零と計算すべきであるから、フアンク氏の御世辞で鼻を高くするには当らぬのである。
日本紹介のために「文化映画」よりも「劇映画」の効果あることを説くあたり、流石に、欧羅巴的教養を感じさせて、日本当局の御参考になつたと思ふが、この場合「旧劇」は百害あつて一利なきことを注意して欲しかつた。フアンク・イデオロギイをもつてしては、却つてその反対が云ひたいかも知れぬが、日本国民の一人として、私は真に「日本的なるもの」を「旧劇」のなかに見出される苦痛を感じないわけに行かぬ。これは「旧劇」に限らない。所謂、日本の伝統的風俗習慣を外国人の目にさらして、どういふ利益があり、どういふ誇りを示し得るかを考へてみればわかる。「珍しい」といふことは自慢にはならない。日本人や、特殊の日本研究家に「厳粛」で「愛す」べき情景と感じられるものが、実は、多くの欧米人、殊に大衆にとつて「グロテスク」で「浅薄」に感じられる場合が非常に多いことを注意すべきである。ところが、欧米人が日本に最も興味をもつのは、案外、かういふ部分なのであつて、その好奇心を助長し、刺激するのは、日本人、殊に、西洋人相手の商売人と、外人客の機嫌取りに汲々たる政府当局であるとすると、われわれは、泣くにも泣けないのである。
ある西洋人は私に語つて云ふには「日本人がわれわれになんかと云ふと富士やサクラやゲイシヤを見せびらかす量見がわからぬ。なにひとつ日本人の民族的能力を示すものではないではないか。この日本人のやり方を、西洋の心ある人々は苦々しく思つてゐる。胸がわるくなる」と云つてゐる。
これを聞いて、私は、至極同感であると答へた。が、その時、ひそかに思つたことであるが、それよりもなお変なのは、日本人が外国人に向つて、自分たちは如何に愛国心が強いかを吹聴する癖のあることである。一種の示威的行動と見られないこともないが、それが、そんな必要のない場合つまり、単なる社交的儀礼にさへそれを示すのであるから、相手は挨拶に困るであらう。「これほど愛国的な国民なのだから、お前たち無礼を働くと、目にもの見せられるぞ」と威してゐるわけだが、その反面に、日本人の非常識な行為、時代錯誤の風習、非紳士的言論が普く彼等の眼や耳に伝へられてゐるのだから、なんにもならぬ。つまり、東洋人、殊に未開人種共通の「自尊心」が近代の国家意識と結びついて「愛国者面」をしたがるのだと解せられてもしかたがないのである。
西洋のどの民族にもこの種の自尊心はあるにはあるが、その現し方が、もつと巧妙で洗練されてゐるところが大に違ひ、例へば、自国の真相を平気で伝へて、それに対する自国民の批判が織り込んであるといふ風なのは、誰が見ても、その国民を軽蔑する気にはならぬのである。軍隊の戯画化や、社交界の暴露や、学校教師への諷刺やさういふことが盛んに行はれてゐる。最近のフランス映画でも「沐浴」の如きは、陸軍将校の私生活を極度にだらしなく描いて、仏蘭西軍隊はさんざんのやうに見えるが、別にそのために独逸人は仏蘭西を恐れなくなるわけではないことを知つてをり、フランス当局も亦、これは国辱映画だなどゝ輸出禁止をするやうなこともしないのである。つまり、フランスは、モオパツサンを生んだことで十分得意なのである。そして、あの映画が「芸術的」に真実を伝へ得たら、それで、国威を発揚したことになると信じてゐるのである。
映画が一国の「宣伝」になるといふ意味を、もつと広く考へてみなければならぬ。独逸などは目下特別の事情にあるから問題にならぬが、それさへ、材料の優秀さによつて、露骨に形式的統制をカムフラジユし得てゐる。ナチスの党旗はなるべく出さぬやうにし、ヒツトラアさへも、俳優に劣らぬ「演技」をもつてゐるのである。こゝが面白いところで、一般西洋映画の魅力の抑もの土壌を思はせるものである。ヒツトラアに限らず、政治家に限らず、彼等は、田舎の農民一人を取つてみても、肉体的条件を別にして、どこか、人間的に「生活」のこなれた表情をもつてゐるのである。社会的訓練のお蔭ではあるが、日本では、この社会的訓練を補ふ意味の教育が、先づ俳優に授けられるけれど、映画は断じて、見るに堪へるものとはならず、西洋人の前に出して、日本の真の姿を「芸術的」に認識せしめることが困難なのである。芸術的にとは、畢竟、粉飾を施すといふことではなく、「正しい批判を加へて」といふ意味に外ならぬ。一例をあげれば、小学校の内部を映写するとする。小学生はまづよろしいとして、先生が教壇から熱心に何かを教へてゐるところで、現在の日本の俳優は、誰一人スクリーンを通じて、真に先生らしい先生の姿を呈することは不可能なのである。(この際、実物の先生を連れて来ても駄目である)なぜ不可能かと云へば、演技以前の「生活」がないからである。現代の小学教師を正当に「感じ」得る教養と精神がないからである。形は真似るであらう。魂が抜けてゐるのである。俗衆はこれに気がつかぬこともあるが真の大衆は、何処かに不満を感じてゐるのである。だから、うまく真似れば真似るほど、彼等は「笑ふ」のである。それが喜劇化されてゐない場合に、どうして可笑しいか? 真実のみがもつ厳粛さを欠いてゐるからである。これを西洋人が見たら、まづい役者だと思ふ以上に、日本では、あんな間抜けな教師が小国民を指導してゐるのであらうかと思ふのである。惹いては、日本人全般をこの標準で批判するやうになる。戦争には強いかも知れぬが、工業は猿真似で発達してゐるかも知れぬが、人間としての文化的価値はなるほど低いといふ、軽蔑の第一歩がはじまるのである。豈に小学教師のみならんやである。映画の宣伝力とは意外にもかくのごときところにある。今日、スクリーンの上の日本人は、殆ど例外なく「真の日本人」を代表してはゐないと見るべきである。ニユース映画に現はれる名士の情けない表情、態度を見せつけられて、日本の見物は内心、冷汗をかいてゐる。俳優は、たゞ、しやあ〳〵としてゐるだけで、日本の如何なる階級、如何なる職業、如何なる社会的地位の人物にも、正確な調子をもつて扮し得ないといふのが現在の実状なのである。
この認識から出発しなければ、日本映画の質的向上は望んでも無駄だと私は固く信じてゐる。
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「日本映画 第二巻第二号」
1937(昭和12)年2月1日発行
初出:「日本映画 第二巻第二号」
1937(昭和12)年2月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
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