芝居と僕
岸田國士



       一


 今更回顧談でもないが、今度「現代演劇論」といふ本を出したあとで、僕は、なんだかこれで一と役すましたといふ気がふとしたことは事実である。これからまだあとにどんな役がひかへてゐるにせよ、それがまた今まで以上に満たされない結果に終るかも知れぬにせよ、ともかく、今日まで十数年の間、僕は、芝居のためにするだけのことはし、僕の能力で齎し得るだけの成果は収めたつもりである。もつとしたいこともあつた、やればできたかも知れないやうな仕事もあるにはあつたらうが、それらはすべて、熟慮の上、望み得る程度が、現在の諸条件に照して、あまりに低いものでありすぎる場合に、僕の熱情を掻き立て得なかつたまでゞある。云ひかへれば、自分が今そんなことをしても誰のためにもならぬといふ見極めをつけた上でのことなのである。

          ×

 僕は最初、文学に志し、偶然仏蘭西語を子供の時からやつてゐたといふだけの理由で仏文学をかぢり、仏文学を原統的に学ばうと思ひ立つて先づ古典作家を読みはじめ、その代表的な作品が戯曲であつたところから、劇文学に興味を持ち、仏蘭西へ渡る機会を作るに当つて、将来の職業のことも考へた結果、日本に於ける演劇界の現状に一瞥を投げる気になり、当時の新劇運動を若干の舞台を通じて観察した。「復活」、「修善寺物語」、「忠直卿行状記」並に「その妹」、強いて附け加へれば坪内士行の「ハムレツト」、これが渡仏前に観た日本演劇の殆んどすべてゞあつた。

 巴里で最初に訪れた劇場はサラ・ベルナアル座で、演し物はロスタンの「雛鷲」、一番前の列で、女優の凄いメーキアツプを孔のあくほど見つめてゐた。

 現代作家のものは多少は読んでゐたが、ロスタンとヱルヴイユウを当代の双璧と思ひ込み、或は思ひ込まされてゐたものゝ、本場の消息を探つてみると、少くとも、一癖ある批評家は、この二人を問題にしてゐないことがわかり、大慌てに慌てた。そんなら、やつぱりキユレルが偉いかと云へば、「あんなもの」といふ奴がゐる。ポルト・リツシユの人気も侮り難い。新進のものを漁りだすと、いろんな影響がわかつて面白い。ミユツセ、ルナアルの陰然たる勢力をすでに感じた。ベツクの姿も大きく映つて来た。イプセンの亡霊が、シエイクスピヤの亡霊と手を組んで歩いてゐる。モリエールの哄笑が忽ち耳をつんざく。巴里人の眼を追つてそつちを見ると、クウルトリイヌといふ好々爺が小声で群衆に話しかけてゐる。その傍らで、ブリユウが、腐りきつて頬杖をついてゐる。

 芝居は、本を読んで行かないと三分の一もわからない。見物が笑ふ時、こつちが笑へないくらゐ淋しいものはない。が、それでも、舞台を見て、はじめて作品のよさがわかるといふ気がした。当時の僕の、脚本の読み方が如何に覚束ないものであつたかといふ証拠になるだけではない。俳優といふものが、如何に脚本を活かすかといふことをはじめて学んだのである。舞台にあるものは、脚本にあるものと同一物であつて、しかも全く別個の物であるといふ演劇の真髄に触れ得たのは一年後である。

 ヴイユウ・コロンビエ座のコポオにやつと僕の意を通ずる決心をした。研究生の資格で木戸御免の許しを得、隣の下宿屋に陣取つて毎日学校と舞台裏へ通つた。仏蘭西の芝居を理解するためには、何よりも西洋演劇の伝統をつかまねばならぬと感じた。それと同時に、さういふ伝統を生んだ文化、並に、仏蘭西の土壌について、考へねばならぬことが沢山あつた。舞台を通じて生活を見ることでは不十分なのである。生活を通じて舞台を感じる努力をした。その結果、一時代の演劇は、その時代の文化的生活人の手によつて形づくられねばならぬことを痛感した。作者は勿論、俳優が何よりもさうでなければならぬ。俳優であるが故に、民衆の偶像であつてはならないのだ。常人以上の人間的魅力──叡智と感受性の豊富さ──によつて民衆の心を捉へ得る人物なるが故に、一段高き舞台に立ち得るのでなければならぬ。近代の演劇とはかくの如きものであるといふ信念に到達した。それを除いた一切の「演劇的興行物」は近代芸術の名に価しないのである。従つて、日本には、まだ「新しい芝居」は生れてゐないと、僕は早くも断定を下してしまつた。

          ×

 一九二十年から二十三年にかけての巴里は、凡そ五十年に一度といふ演劇的開花期であつた。今から考へると、恐らく欧羅巴に於ける最後のそれではなかつたかと思はれる。その頃巴里にゐたわれわれは、演劇のあらゆるジヤンル、あらゆる時代、あらゆる民族的創造のコンクールを極めて短時日に閲覧し得る幸福に恵まれた。

 モスコー芸術座のレアリズムからアール・エ・アクシヨンの主観主義を通じて、近代の舞台が進まうとする方向と求めつゝある精神を検討し得た。「一切の新しさは、そのものゝ変化する部分である」ことが明瞭になつた。

「新しさ」はまことに、当時の僕にあつては眩惑的な魅力であつた。しかし、日本の演劇に何かを附け加へる必要があるとすれば、それは寧ろ、欧洲の演劇史を通じて、その「変る部分」よりも「変らない部分」なのだといふ見当がつきはじめた。

 それはなにか?

 僕は、ヴイユウ・コロンビエ座の仕事と精神のなかに、最もその顕著なるものを見た。何が「演劇を作るか」といふ根本的な問題がそこに横はつてゐた。日本には、「新しい演劇」がないばかりでなく、「演劇の正統的なもの」が見失はれようとしてゐたのである。

 僕は、日本から新作家の戯曲を取寄せて読みくらべてみようと思つた。私は誰の名もはつきり知らなかつた。一マルクス学徒たるN君が、選択して送つてくれたのが、長田秀雄、吉井勇、武者小路実篤、久保田万太郎の諸家であつた。

 自分が戯曲家にならうなぞとは夢にも思つてゐなかつたから、これらの作品に、それぞれ辛い点をつけた。が、不思議なことに、一見、甚だ日本的と思はれる久保田万太郎氏を、僕は、そのなかで最も西洋演劇の伝統につながる作家とみなし、その意味を深く考へた。

          ×

 その頃、露西亜人ピトエフ夫妻が、超民族的一座を結成して巴里で旗挙げをした。上演目録の多様性に興味を惹かれ、首脳者ピトエフの演出者としての独自なシステムに学ぶところがあると思ひ、僕は、一日彼の楽屋に刺を通じた。彼の芸術的放浪は、当時の私を感傷的に共鳴させたが、それよりも第一に、孤立無援の演劇運動が、如何に犠牲多き事業であるかを知らしめた。ピトエフの名は次第に聞えて来た。座員は悉く饑えてゐた。「どん底」のルカに扮した一俳優は、マチネの終演後、僕の勧誘に応じてさゝやかなランチを共にしたのだが、彼はミユーズの嫣笑に身を持ちくづした男と自称し、ピトエフを恨みつゝ去り難き理由を説明した。

 さう云へば、ヴイユウ・コロンビエの有力な俳優も、その動機はなんであれ、一人づゝ離れて行く気配が感じられた。劇団が「食へる」まで、個人は付てないのである。僕は、いろいろの事情を綜合して、これを俳優の「巣立ち」と呼んだ。事実、成長した才能は、これを迎へる手が八方にひろげられてゐるのである。

          ×

 この間に、僕は、所謂「商業劇場テアトル・ド・ブウルバール」と「前衛劇場アヴアンギヤルド」との関係を調査した。そして、更に、国立劇場と俳優学校の意義と使命について、あらゆる否定的な論議を透しつゝ、これを肯定的に批判する立場を発見した。

 演劇の芸術的発展と、文化的基礎の二元的考察がそこから生れるのである。

 戯曲家が優れた作品を生む経路もほゞ理解され、時代の要求に応ずる俳優が、如何にして現はれるかの順序も、一切の例外を含めて截然と僕の頭のなかに描き出された。

 アントワアヌとスタニスラフスキイとコポオと、この三人を同時にシヤンゼリゼエの舞台の上に見た記憶は、僕の演劇理論を組み立てる象徴的な夢なのである。われわれは、その何れをも真似る必要はない。たゞ、彼等が、何ものであり、如何なる時代に生き、何ごとをなし得たかを知ればいゝのである。

 僕は、仏蘭西で食へなくなつたら、日本へ帰るつもりでゐた。食へなくなる怖れがだんだん増して来た。日本へ帰つたら、ひとつ、帝劇舞台監督の助手にでも傭つてもらはうと考へてゐた。そして、その傍、独特な仏蘭西演劇史の稿を起すつもりでゐた。舞台監督助手が駄目だつたら、翻訳の仕事でも探さう。尤も、僕が訳したいと思ふものは、みんなもう訳されてゐるだらうとも考へ、内心不安であつた。

          ×

 ある日、ピトエフと楽屋で話をしてゐた。なにか日本のものをやりたいが、どんなものがあるだらうといふ。僕は即答ができかねた。第一に、なんにも知らなかつた。第二に、手許にある僅かな脚本は、やらせたくないものか、やらせても駄目なものばかりのやうに考へられた。僕は、黙つて別れたが、ひとつ、づるいことをやつてやらうと思ひつき、早速、生れてはじめてと云つていゝ現代劇の創作にとりかゝつた。一週間後に、知合ひの仏蘭西人の協力を仰いでそいつの仏訳をまとめ上げた。題して、「黄色い微笑アン・スウリイル・ジヨオヌ」!

 ピトエフに見せると、「こいつは面白い」と云つた。嘘のやうな話だがほんとである。

 その数日後、私は、喀血をして、下宿のベツトで死の覚悟を決めた。が、死は僕を見放した。かくて、シヤンゼリゼエの小屋に無限の心残りを感じつゝ、医者の勧めで南仏ポオへ旅立つた。ピトエフからはなんの便りもなかつた。

 いよいよ、仏蘭西を去る日が来た。僕は、ピトエフに別れを告げに行つた。彼は、「黄色い微笑」について語るところは少く、たゞ、「ピトレスクだが、上演となると……」で、あとは言葉を濁してしまつた。夫人は、女主人公フサコがやつてみたいと云つた。お世辞であらう。

          ×

 当時、巴里にゐた辰野隆氏は、僕と劇を談ずる唯一の友であつた。私は、この先輩に、ちよつと照れながら、自作の脚本といふやつを読んでみてくれと頼んだ。念のため、といふわけでもなかつたが、いくぶん本気だといふ意味を伝へるために、この仏訳をピトエフに見せたこと、彼の批評はまんざらでもなかつたことを附け加へた。辰野氏たるもの、さぞ困られたことであらう。いくぶん本気で読むことを強ひられた形であつた。

 ここで、辰野氏の好意に満ちた激励の言葉を書き列ねる必要はあるまい。

 友情は、つひに、私を駆つて、この処女迷作を日本に持ち帰らせたのである。


       二


 さて、もう一度話を前に戻す。

 日本にゐる頃、学校の教室や、僅かな参考書や、たまにのぞいてみる新聞雑誌の類で、現代フランスの劇壇について若干の知識を得たつもりでゐたのが、巴里へ渡つて実際の情勢を探つてみると、いろいろ新しい問題にもぶつかり、ぼんやりしてゐたことがはつきりし、今迄の価値判断が根こそぎ覆されるといふやうな始末であつたが、僕は、それについてかういふ風なことを考へた。第一に、芝居、殊に戯曲がほんたうに優れたものであるかどうかは、上演の結果だけではわからないのみならず、肝腎なことは、その時代の文学一般との関係に於てこれを検べなければならないのではないか? 従つて、劇評家の批評だけでは、何か肝腎なものが見落されてゐる惧れがあり、やはり文芸批評家の批評と併せて、その作品の時代的意義が全面的に浮び上るのではないかと云ふこと。

 第二は、初演には大成功を収めたといふものが、だんだん人気を失つて行くに反し、最初は冷評乃至酷評を受けたものが、十年二十年とたつてから、たまに再演される機会を恵まれ、これが何人も予想しなかつたセンセイシヨンを捲き起す例が屡々あるのはどういふわけだらうか? ミユツセ、ポルトリツシユは何れもさうである。原因は恐らく単純ではないであらう。しかも、優れた作品が長く埋れてゐたといふ事実に変りはない。ある時代が享け容れるものには限度があるといふことになるのであらうか? それなら、ある時代が享け容れないものとは、なんであらう。思想や形式の場合もあるだらう。しかし、それよりも、多くの例は、劇壇の因襲が、批評家や見物の保守的偏見が、伝統の新しい、飛躍的な発展に対して目をふさいでゐた証拠を示してゐる。が、また、ある場合は、上演の諸条件が、まつたくその作品の魅力を封じてしまつたことも想像できるのである。就中、配役の不適当は、ある作品にとつては致命的でさへある。

 僕は、努めて、上演後刊行された戯曲を読み直すやうにしてゐた。舞台で相当面白く、評判もなかなかよかつた作品が、活字で読むと一向つまらぬやうなものもあつた。

 そのうちに、僕は専門の劇作家が書いた戯曲と、小説家や詩人がたまたま書いたといふ戯曲とを比較してみる興味を感じだした。それから、今度は、小説家や詩人が戯曲を書いてみたくなつた動機を調べられるだけ調べてみた。で、最後に、作家と俳優とが、フランスではどういふ関係にあるか、俳優は与へられた脚本のテキストを何処まで尊重するか、作者は一字一句も変へさせないか、さういふことを注意してみた。

 ところが、意外なことには、劇作の筆を取るほどの文学者は、必ず相当の俳優を友人に持つてをり、自分の作品のプランを先づ話し、書きはじめると、時には一幕づゝ読んで聞かせ批評と忠告を聞き、更に書き改め、時には、合作の程度にまで協力を仰ぎ、いよいよ上演の運びになると、更に、稽古中、様々な修正推敲が行はれるのである。

 勿論、駈けだしの作者は、別に相談相手もなく、いきなり書いたものを劇場なり、これと思ふ俳優の手許になり持ち込むこともあるが、その場合、劇場主や俳優は、勝手に注文をつける。作者は、これをさほど侮辱とは考へてゐないやうである。

 このことはどういふことかといふと、作者が劇場主や俳優をある程度信用してゐるといふこと、事芝居に関しては、向ふが玄人だと思つてゐること、その玄人には結局触れられない一面で、充分、作者は自分の特色を作品の中に盛り得るものであることを知つてゐるのである。多少の無理を忍んでも上演して貰ひたいといふ欲望は、これはまた別である。文学者としての矜恃の問題は、もはや、個人的な領域であり一般論とはならない。要するに、作者と俳優との、仕事の上での見事な協力が行はれてゐること、俳優は作者を傷けることなしに、自分の主張を貫徹し、作品の価値を「相互の為めに」高める能力をもつてゐるといふことは、これは僕の一大発見である。日本の座附作者の例もあるから、形の上だけでは珍しいことではないが、真の芸術家として、文学と演劇との密接な融合をはかる実際的方法はこれ以外にはないのである。


 僕はフランスの演劇史並に主なる戯曲作家の評論をあさるうちに、傑作の蔭には必ず当代の名優があり、劇場の華やかな文化があつたことを見落さなかつた。勿論、天才的作家の出現がその周囲にひとつの新しい運動を捲き起すといふ事実も認めるには認めるが、その天才なるものが、やはり、伝統によつて耕された土壌、徐々に新機運を齎す雰囲気のなかにのみ育てられるものであることをも否認できないのである。従つて、僕は、所謂「先駆者」とその業績についても、時代の背景を否定的面でのみ判断することの危険を、しみじみ感じたのである。

 例へば、「既成劇壇が堕落しきつてゐたから其々の革新運動がこれこの旗幟をかゝげてかういふ大胆な試みをした」といふやうな記録だけで、その運動の正体はつかめないのである。

 早い話が、大戦後のあらゆる「新劇運動」を通じて、私が最も興味を惹かれたヴイユウ・コロンビエ座にしても、なるほど、ジヤツク・コポオはある意味で、「先駆的」には違ひないが、その反面には、「伝統」への忠実な奉仕者であり、「伝統」とは、全体的の進化といふものを認めた上での「変る部分」でなくて「変らない部分」なのである。さういふものが、最も進歩的な立場でさへ、はつきり重要なものだと断言できるフランスといふ国を、僕は実に羨ましいと思つた。

 僕は勢ひ日本の古典劇といふものに想ひを馳せざるを得なくなつた。

 結論を急げば、たとへ歌舞伎や能にどんな「演劇的伝統」があるにせよ、今、われわれの仕事は、これまで「日本にないもの」を一旦そのまゝの形で採り入れ、更に、これを「日本人的に」処理することである。その時、或は、「日本古典劇」の美学が、現代の精神のなかに蘇るかもわからない。それはそれでいゝ。たゞわれわれは、如何なる意味でも、もはや「歌舞伎的」表現に魅力を感ぜず、魅力を感じたとしても、それは自分の「旧さ」のせいであり、「あまりに日本人的」なせいであり、世界共通の文化を建設するための未来の劇場は、東洋の一孤島に於て特殊な発達を遂げ、近代的な頭脳や心臓と没交渉な、個々の創造がまつたく無力化したかゝる演劇形式からは何ものも受けつぐ必要はない、といふのが僕の最後の肚であつた。


       三


 千九百二十三年の七月、僕は、いはゆる業半ばにして巴里を去らなければならなかつた。観のこした芝居もまだあつたし、買ひ集めたい本もいくらかあつたが、日本で長男に生れると、かういふ場合に自由が利かないのである。

 足が十五年ぶりに踏んだ故国の土は、僕にとつてなんであらう?

 先づ食ふことを考へなければならない。

 見渡すところ、芝居の世界で僕の働けさうな場所は何処にもないのである。

 僕は、時節を待つ気持で、ぼつぼつ翻訳の仕事にとりかゝつた。先づ、ルナアルの戯曲を手はじめにやつてみようと思つた。

 戯曲の翻訳と云へば、外国に行く前、太宰施門氏とエルヴイユウのものを共訳したことがあるきりである。これは、井汲清治君と僕とで太宰氏に仏蘭西語の個人教授を受けた時分、テキストとして使つた「ラ・クールス・デユ・フランボオ」を僕がすぐに台詞調に訳し直し、「帝国文学」といふ雑誌に出したものであるが、後に、「炬火おくり」といふ題で全く新しく改訳した。

 この翻訳の話も詳しく書くと面白いが、あまり余談に亘るからやめる。とにかく、新旧両訳を物好きな人があつたら比べてみてほしい。自分の恥を吹聴するやうなものだが、語学力の進歩といふやうなこと以外、フランスの芝居を観てからと、観ない前とで、同じものがかうも「違つて」感じられるかと思ふほどである。更めて断るまでもなく、最初の訳が二十五点とすれば、後の訳はまあ五十点から六十点の間であらうか? もう少し時間をかけ、その上原作に興味をもちつゞけてゐたら、八十点ぐらゐまでは僕でも行けるのではないかと思ふ。

 そこで、ルナアルの戯曲であるが、これは是非とも、勉強のつもりで、できるだけ丁寧に訳してやらうと思ひたち、先づ、「日々の麺麭」を訳した。毎日二三枚づゝ、気長にやつてゐると実に楽しい。

 が、実は、そんなことばかりしてゐられる身分ではないのだから、もう少し金になる仕事を見つけねばならぬ。幸ひ、友人の鈴木信太郎君や辰野隆氏などが、「フランス文学叢書」の計劃を発表し、僕にも何か訳さぬかと勧めてくれたので、早速、同じルナアルの短篇集「葡萄畑の葡萄作り」を、これは、散文だから一日三十枚平均、全部を十日あまりでかツ飛ばした。ルナアルの文体は散文と会話との間に微妙なつながりがあつて、戯曲を訳す参考になつたことは非常なものであつた。

 話は少し前後するが、帰朝後間もなく、僕は歌舞伎劇を一度観てやらうと思ひ立ち、鈴木信太郎君を誘つて、たしか市村座であつたらう、菊五郎一座を見物した。菊五郎といふ役者をこの時はじめて観たのである。勿論、完全に酔つた。巴里で最初に、ロスタンの「雛鷲」を見た時、やゝこれに近い感動を味はつたが、精しく云ふと、向うでは胸がどきどきしたくらゐであつたが、こつちでは、悲しくもないのに涙が眼がしらに満つて来るほどの違ひがあつた。

 僕は、この日の経験をあとでいろいろ考へた揚句、やつぱりかういふものだらうと思つた。歌舞伎といふものは、すばらしいものだ。菊五郎といふ役者は立派な役者に違ひない。僕は素直に、その魅力を享け容れ、純粋に芸術的感動を味つたと云へるであらう。が、しかし、僕の芝居といふものに向つて見開かれてゐる眼が、これによつて、少しも狂ひを生じたとは思へぬ。云はゞ、今日の日本に於て、芝居そのものはたしかに二つの道──二つの伝統を過去と未来にもつといふ事実を確め得たに過ぎぬ。その二つの道は同時にこれを踏んで行くことはできないのである。一方は過去より現在につながる伝統である。もう一方は、現在より未来へつながる新しい伝統なのである。その証拠に、菊五郎の芝居は、如何に完璧であつても、そこから何を生み出す力をもつてゐるか? 僕の不覚な涙は、或は民族的なある繋がりを証拠だてるかもわからないが、断じて、それは、未来性をもつものではないのだ。僕は歌舞伎の形式の美しさに、ある人々の如く芝居の本質的な生命を感じる雅量をもち合せてゐない。つまり、個人的な問題にふれることを許してもらへば、僕のなかにある封建的なものが、僕自身にはいやであり、しかも、うつかりするとそれが幅を利かすやうなことがあり、たまたま、友人と久しぶりで歌舞伎を見物するといふやうな場合に、この西洋劇の信奉者は、正体もなく馬脚を現はしてしまふのである。

 こゝで、はつきりさせておきたいことは、歌舞伎といふものゝ、世界演劇界に占める地位についてゞある。僕の意見では、これは東西に比類なき高級参考品である。殊に西洋の芝居が今日あるやうな発達のしかたをした後では、もはや、全く別個な一つの方向を開拓しなければならないことに誰でも気がついてゐるのである。日本のカブキは、かゝる時機に於て、誠に珍重すべき研究資料たるを失はぬのみならず、舞台表現の一つの究極として、これが時代的意義を詮鑿しない限り、寧ろ驚嘆に値する「新芸術」の見本なのである。

 ところが、現代日本の芝居を通じて、歌舞伎といふものゝ存在がどれほど新しい芝居の勃興を妨げてゐるかを考へたならば、観方はおのづから別にならざるを得ぬし、内容は取るに足らぬが、形式はそのまゝ受継いで行けるといふ議論の如きも、少し落ちついて考へたら、これは危険な議論だといふことがわかると思ふ。

 西洋人が歌舞伎に感心することは、日本人が西洋劇に学ばうとすることゝ、まつたく同じ動機から出てゐると云つていゝ。しかも、如何なる西洋人が、徳川時代の庶民的感情を真に理解し、その生活と風習とを批判したか?

「日本人的」といふ言葉に含まれるあらゆる非文化性、島国性、事大性、愚昧性を、たゞにその思想のなかばかりでなく、その表現形式の、一見豪華な、洗練された、又は単純素朴な伝統のなかに、われわれは発見することができるのである。

 われわれは、今日の世相のなかに、自分自身の周囲に、否自分自身のうちにさへ、既に「歌舞伎的なもの」を如何に多く、如何に根深く感じつゝあるか。われわれは、歌舞伎を観ずに既に歌舞伎に食傷してゐるのである。

 僕は、日本人自らが国宝と叫ぶこの伝統的舞台に対して、たゞ、反感を以てこれを斥けようとはせぬ。寧ろ、愛情を以て、「汝、占むべき地位を占めよ」と宣告する。

 さて、僕は、翻訳をつゞける傍ら、戯曲を書けるなら書いてみようといふ野心を棄てることができず、旧友で作家として名を成してゐるたゞ一人の人物を頭に思ひ浮べた。それは豊島与志雄君であつた。

 八月のある日のこと、豊島君を千駄木に訪ねて、例の「黄色い微笑」の一読を乞うた。その時は、たしか、「古い玩具」と題を改めてゐたと思ふ。

 豊島君は、その原稿を僕の手から受け取つて、先づかう云つた。

「君、原稿用紙は二十字詰を使ふ習慣になつてゐるんだ。書き直した方がいゝな」

 なるほど、僕は、そんなことゝは知らなかつたから、なるべく一枚に沢山はいるやうに二十五字詰を使つてゐた。

 同君は更にかう云つた。

「僕は戯曲つてやつはよくわからないから、こいつはひとつ山本有三君に読んで貰はうぢやないか。僕の方から廻しておかう。紹介するから一度訪ねて行つてみたまへ」


       四


 山本有三といふ名前を僕はその頃知つてゐるにはゐたが、作品は一つも読んでゐなかつた。外国へ行く前、赤坂のローヤル館で武者小路氏の「その妹」を観た、その時の舞台監督として知つてゐたのである。勿論、新聞か雑誌でその後名前を見たやうな気もするが、文壇劇壇に於ける同氏の地位といふやうなものはどうも見当がつかない。たゞ豊島君が信用してゐる劇作家なんだから、さういふ専門家に僕の書いたものを見てもらへれば有りがたいと思つた。しかし、念のために、といふよりも寧ろ、礼として、同氏の作品を少しは読んでをかねばならぬ。その時何を読んだかはつきり覚えてゐないが、たしか「津村教授」ではなかつたかと思ふ。

 それに豊島君の話では山本氏が独文科の出身だといふことだから、僕のどつちかと云へば「フランス臭い」ものを頭から軽蔑しはせぬかといふ懸念もあつた。つまらんことを考へたものだが、当時の僕は、日本に於ける「新劇」の独逸的色彩など念頭になく、たゞ、寧ろ、自分の好みがあまりに「フランス張り」であることを意識してゐたからであらう。

 ところが、山本氏の家の二階で、生れてはじめて僕は「新進作家」としての待遇を受けたのである。

 夕刻であつた。フランスの芝居の話などしてゐるうちに、食事の時間になつた。僕の原稿は、天ぷらと一緒に運ばれて来た。山本氏は、暇がなくてまだ眼を通してゐないから、これから飯を食ひながら読まうと云ふのである。それでも結構である。が、今の僕なら、百枚にあまる駈け出しの原稿を読まされることは如何に苦痛を覚悟してかゝる必要があるかを知つてゐるけれども、自分がその駈け出しである場合は、「飯を食ひながらとは少々一挙両得すぎるぞ」と、秘かに先輩といふものゝガツチリさに驚嘆するのである。

 しかし、いざ、僕は箸を取りあげ、山本氏は箸と原稿を取りあげ、僕が口だけを、山本氏が口と眼を働かしてゐるのをみると、内心感謝の念がしみじみとわいて来た。第一に、そんなにまでして読むべき値打のある、代物かどうか、それより天ぷらが冷めてはまづいであらうにと思ひ、次に、これでもし、僕がせめて口でも動かしてゐなかつたとしたら、自分の書いた文章をかうして読まれてゐるそばで、ぢつと待つてゐるのはさぞ照れ臭いことであらうと思ひ、二重の意味で、山本氏の配慮の周到なことに気がついたのである。

 第一場、第二場と進んだころ、

「うむ……」

と、山本氏の唸る声がした。退屈したとも取れ、感心したとも取れる、甚だ微妙な唸り声である。

 第三場が終つた時、ちよつと休憩である。思ひ出してもぞつとする瞬間だ。山本氏の箸は、急に活気を呈し、眼鏡の奥で、眼が言葉を探してゐる。そして、僕の耳に、やがてこんな意味の言葉が、夢のやうに伝はつて来た。

「近頃読んだ脚本のなかで、これくらゐ面白いものはない」

 僕は率直に、この甘い批評をこゝに書きつける。公けにすべき性質のものでないことは知つてゐるが、僕の作家生活の希望あるスタートは、この激励に負うてゐるからである。

 帰りの夜道は、心の明るい灯によつて照らされてゐるやうであつた。

 とは云へ、その興奮がさめた後の、あの名状しがたい不安をこゝで書き漏してはならぬ。それはなにか? 果して第二作が書けるかといふことである。あとにもだ、なにかが残つてゐるかどうかといふことである。

 この不安は、恐らく、僕のやうに、「偶然になつた作家」の場合に限られるものではないかと思ふ。最初の作品が生れたものでなく、作りだしたものである、といふ弱味から来るのであるかも知れない。或は、単に、褒められすぎた駈けだしの不心得な自尊心か。

 改造へでも推薦しようといふ山本氏の好意に、なほすがる外はなかつた。

 期待のうちに日が過ぎた。

 しかも、それから十日もたゝぬうちに、あの大震災である。


       五


 日本の演劇界がこの大震災を境界としてどういふ風に変つたか? 少くともこの種の歴史的事件によつて、物質的、精神的に、あらゆるものが相当大きな影響を受けたであらうが、芝居の方面はどうであるか? 今になつてそれは調べればわからないことはないが、当時の僕には、それほどはつきりした姿で映つては来なかつた。

 例へば東京のあらゆる劇場が灰燼に帰したといふ新聞の報道も、あゝ劇場もかと思ふだけで、それが自分の仕事、生活の領域で、直接なんとかせねばならぬ問題として響いては来ない。これが若し、震災前に何等かの形でその道に足を踏み込んでゐたら、もつと激しいシヨツクを受けてゐるであらうことは勿論、やがて起つた所謂「演劇復興」の掛声に対しても、また別な感慨をもつてこれを迎へたであらうと想像されるのである。

 早く云へば、劇場の封鎖も雑誌の休刊も、当時の僕には、それほど痛痒を感じさせなかつたと云へるかも知れない。あの混沌たる情勢のなかで、僕は早くも自分の原稿のことなど忘れてしまひ、明日から親同胞を養つて行く職業のことを想ひめぐらした。そして、古本屋をやらうと決心するに至つたこと、それがおいそれとは出来なかつたこと、そこへもつて来て旧友鈴木信太郎君から耳よりな仕事の話を持ち込まれたこと、など、詳しく語つてゐる暇はない。

 たゞ、この仕事の話といふのは、前にも云つた「フランス文学の叢書」といふ厖大な翻訳事業のことで、例の辰野氏、豊島君などもこの計画に加はつてゐる関係から、僕は自分の好きなものを勝手に引受けるといふ特権(?)を与へてもらふ形になつた。で、僕は先づそのなかゝら二つを撰んだ。例のルナアルの「葡萄畑の葡萄作り」と、アナトオル・フランスの「鳥料理レエヌ・ペドオク」である。このことを特にこゝで記しておくのは、僕のその頃傾倒してゐた二人の作家の名を計らずも掲げ得る機会を得たからである。「鳥料理」は、つひに手をつけずにしまつたが、その叢書の刊行も書肆側の都合で完成をみなかつたと記憶してゐる。

 さて、さういふ先の長い仕事がみつかつた以上、慌てることはないのである。そこへもつて来て、棚から牡丹餅式に、豊島君からと鈴木君からと、語学教師の口がかゝつて来た。一方は法政大学、一方は中央大学で、それぞれフランス語を教へてみろといふのである。時勢の移り変りは恐ろしいものだと思ふ。当時は、まだ文学士の数は足りなかつたのである。

 戯談は別として、僕もいよいよ先生になる覚悟をきめ、収入の足らないところは翻訳と個人教授で埋める方針をたてた。そこで、住居も便利なところをと思ひ、牛込若松町の坂下に一戸を借りうけ、専門の芝居にはしばらく別れを告げる意味で、門口に「仏蘭西語教授・モリエール学会」といふ看板を掲げた。仏英和女学校の附属小学校のオカツパの生徒が一人、女中に連れられて習ひに来てくれたことはせめてもの慰めであつた。

 いや、慰めと云へば、もつと大きな慰めがあつた。時々、山本有三氏宅で、文学や芝居の話をするグループに会ふことであつた。

 ある日のこと、その席上で、新しい演劇雑誌が創刊されること、それにはわが劇壇の錚々たる名士が挙つて同人となり、演劇復興を目指して大いに新風を鼓吹する方針で、その編輯責任に山本氏自身が擬せられてゐるといふ景気のいゝ話が持ち出された。

 なるほど、みんなの顔色でもそれがどんなにセンセイシヨナルなニユースであるかは察しられたが、実は、かういふところが、当時の僕にはぴんと来ないらしく、新しい雑誌といふ意味が、新しい演劇運動といふものにそれほど結びつかない。が、こいつは不思議でもなんでもない。僕は、日本の劇作家が雑誌のなかから生れるといふ重大な事実を知らなかつたのである。


       六


「演劇新潮」はその年の暮に、創刊大正十三年正月号を出した。

 同人として左の人々が名前を連ねてゐる。

伊原青々園

池田大伍

小山内薫

岡本綺堂

吉井勇

谷崎潤一郎

中村吉蔵

長与善郎

長田秀雄

久保田万太郎

久米正雄

山崎紫紅

山本有三

里見弴

菊池寛


 編輯は山本有三氏これに当り、その下に、能島武文、北尾亀男の両氏が働いてゐた。

 今、その創刊号といふのを開いてみると、当時僕の気のつかなかつた劇壇の情勢が、手にとるやうにはつきり眼に浮ぶ。「復興後最初に見たい、演じたい、監督したい、装置したい脚本」といふ諸家のハガキ回答も、この雑誌の誕生を意味づけるものである。

 僕の処女作「古い玩具」は、さういふ関係で、この雑誌の第三号に載せてもらふことになつた。

 無名作家の、なにしろ百枚以上のものを一度にのせるといふのは、編輯者としては冒険であつたに違ひない。現にその月は二つしか戯曲がのらないので、後記はその断りを陳べてゐる。

 さて、雑誌が店頭に出ると、僕はさすがに落ちついてゐられなかつた。誰がどこで読んでゐるかわからないと思ふと、外へ出るのも面映ゆいと云つたあんばいで、甚だ滑稽であつたが、果して、未知の読者から若干の手紙を貰つた。なかに、シユニツツレルを想はせるなどゝいふ有りがたい批評もあつて、僕はぼつとした。ところが、二三日して、読売新聞文芸部記者の訪問を受けた。これは大事件だ。僕の経歴を話せといふのである。写真を撮らせろといふのである。僕は神妙に問ひに答へ、レンズの前に坐つた。妹と二人暮しであつたから、その妹も序に坐らせた。あゝ、日本といふ国はなんといふ有難い国であらう。あれくらゐのものを書いて、遂に、僕は「知られ」ることになつた。

 それまでは、さほど気にとめるつもりもなかつた世評に対して、僕は、やはり好奇心を動かした。しかし、月評を漁つて読むといふ手は知らなかつた。で、自分のとつてゐる新聞で、人が何と云つてゐるかを注意した。時事新報で、金子洋文君が好意に満ちた批評をしてくれたのが最初である。翌月の演劇新潮で、柴田勝衛氏が毛色の変つたものとして「古い玩具」をあげてゐた。柴田氏は当時読売の文芸部長、僕のところへ訪問記事を取りに来た青年記者は、現在同紙の文芸部長清水源太郎氏であつたことを思ひあはせると、誠に今昔の感に堪へない。

 その外の批評は、出たかも知れぬが僕の眼にはまつたく触れずにしまつた。たゞ、「新演劇」といふ雑誌で、小寺融吉氏が、「新人の名に値しない作品」だとこきおろしてゐるのを後に読んだ。読んだ時は「何を」と思つたが、さういふ人もあつてくれてよかつたといふ気が今はするのである。誰がかう云つて褒めてゐたとか、貶してゐたとかいふ間接の話が随分聞かされたが、みんなあらかた忘れてしまつた。

 四月号から、僕は、山口才十といふ匿名で雑文記事を書きだした。「仏国劇作家の利権擁護運動」といつた類のものである、五月号では、水谷八重子の芸術座公演を批評した。

 この批評文は、僕の最初の「新劇印象記」であるからこゝにちよつと抜萃する。


 演技について。(シヨオの「軍人礼讃」)

 私はまづニコラに扮した東屋三郎氏に満腔の讃辞を呈する、どこがいゝのか未だよくわからない。何しろ日本にもかういふ役者が出て来たかと思はれるやうな一種のエスプリイを持つた人のやうに思はれた。口だけでものを言つてゐない。すばらしい瞼の働きをもつてゐる。……

 ライナに扮する水谷八重子嬢は悲劇の主人公にもしまほしき美しさだ。彼女の持味は古典喜劇の「オボコ娘アンジエニユウ」だ、コケツトを演ずるためには何か知ら欠けたものがある。

 田村秋子嬢のルーカはあゝ何時もすねてばかりゐなければならないであらうか。だから、ほんとにすねる時に、そのすねが利かなくなる。よくあることだ。

 要するに翻訳劇を日本でやるとすれば、先づ第一に脚本の詮衡、原作者の名前に囚はれないで、上演に適した翻訳であるかどうかを吟味することが必要である。こんなことは云ふまでもないことであるが、この誤りは逆に俳優を窮地に陥れるものである。あののびのした台詞廻し、朗読の範囲を一歩も出ない抑揚緩急、科と白との間に出来るどうすることもできない空虚、これらは前に述べた戯曲の文体から生ずる舞台的欠陥である。

 私は日本の近代劇が先づこの点で大きな障碍とぶつかつてゐることを痛切に感ずる。


 六月号に、ルナアルの戯曲「日々の麺麭」の翻訳をのせた。


       七


 そして、この年の六月には、日本新劇史上、劃期的の事業とされてゐる築地小劇場が創立せられ、その旗挙公演が華々しく行はれた。

 私は勿論、大なる感激と期待をもつてこれを迎へた。かねがね、いろいろな機会に、この運動の具体化されつゝある情報を耳にしてゐたことはゐたし、ほゞ、その輪廓は推測し得るものであつたが、要するに、独逸帰りの土方与志氏が巨万の私財を投じ、嘗ての「自由劇場」の創立者小山内薫氏が采配をふるふといふことだけで、十分、合理的なプランと良心的な目標とが掲げられるものとわれわれは信じてゐた。

 さて、第一回公演に先だつて、「築地小劇場建設まで」といふ小山内氏の文章が発表された。

 この文章は、永遠の青年小山内氏の面目を伝へるばかりでなく、当時の若い世代が新演劇に対して抱いてゐた熱情の一つの型を代表するものだと思ふ。参考のためにその全文を引用する。


「私が去年の三月、松竹と手を切つた時──それは私が日本の営利的劇場のすべてに対して、望みを絶つた時でした。

 私は再び日本に於ける営利的の劇場には如何なる関係に於いてもはひつて行くまいと決心しました。私は唯書いて、僅に生活し、僅に自分を慰めました。

 その内に私の思想の上にある黎明が来ました。それは独逸に行つてゐる土方が帰つて来たら二人で演劇学校を興す事でした。

 大地震が来ました──その時私は家族を挙げて地方にゐました──東京の殆ど総ての劇場は焼け亡びてしまひました。私の心の中で半年前に亡びてしまつてゐた総ての劇場は目に見える形の上でも亡びてしまつたのです。……

 併し、総ての劇場が亡びると共に私自身の希望も亡びてしまひました。少くとも十年のギヤツプが私の目前に口を開いたのです。

 震災後の東京の劇壇──すべてが亡びて、すべてが新らしく生れて来なければならない劇壇──そこから生れて来たものは果して何でしたらう。営利劇場の基礎もない競走的宣伝、劇場の全滅をいゝ事にして、そこここに首をもたげた怪しげな新劇団、バラツク俳優、バラツク演技、バラツク興行師……。

 私はいよいよ絶望しました。私は唯読んで書かうと思ひました。書いて読まうと思ひました。如何に叛かれても憎む事の出来ない演劇を狭い書斎の内に、それよりも狭い自分自身の頭脳の内に作り上げようとしました。そこへ欧羅巴から土方が帰つて来ました。

 そして吾々の劇場を建てようと思ふがどうだと言ふのです。今ならバラツク劇場の建設が許される。そして、こゝ五年間はそれを吾々の舞台とする事が出来る。本建築で吾々が劇場を持つと云ふ事はいつ出来るか解らない。バラツクなら吾々の劇場が持てるのだ……。

 吾々の劇場──自分達の研究劇場──それが持てるといふ事は、私にとつて可成り強い誘惑でした。私は何も考へず唯それだけの誘惑に引つぱられて行きました。「よし、やらう」私は直ぐに賛成しました。それがこの二月三日でした。

 それから、この四ヶ月──それは総ての為の準備に費されました。

 準備とは何ですか。先づ同志を糾合する事でした。若い同志が集つて来ました。毎日のやうに議論がありました。人々は附いたり離れたりしました。そして最後に組織せられた同人が演出家として土方と和田精と私と、俳優としての汐見と友田と、経営者としての浅利鶴雄とでした。この同人六人はこの劇場経営維持に同じ程度の責任と義務とを持つものでした。

 敷地の選定、警視庁の許可、それにも二ヶ月以上の考慮と奔走とが費されました。建築のプラン、舞台設備の設計、観覧席の研究──それにも一ヶ月以上が費されました。今年一杯の演出目録の予定、同人以外の同志──その内には俳優もあり、照明家もあり、舞台装置家もあり、舞踊家もあります、──が集められました。


 議論又議論、熟議又熟議、一つのアンサンブルとしての基礎は固くなつて来ました。最初に俳優の基礎教育が始まりました。発声、律動、発語の訓練が始まりました。建築についての当局との交渉も円滑に進みました。四月廿六日の朝、築地二丁目の小さな敷地に縄張りが施されました。そこの後には武藤山治氏の二千人はいるといふ演説場が既に天を突いてゐます。そこの隣りには団十郎座の建設が既に計画されてゐます。政界革新の機関に利用されようとする舞台と、瀕死の吐息をつきつゝある、古典的歌舞伎の保存に供せられようとする劇場との間に介在して、吾々の劇場は抑も何をするのでせう。それはこゝには申しません。唯見てゐて下さい。見てゐて下さい。


 築地小劇場に於ける私は今までの私とは全く別なものでなければなりません。

 私はもう単なる舞台の芸術家ではありません。私は一つの全人格としてこの劇場の中で働きたいと思つてゐます。私は生れて初めて何者にも拘束されない自由な国を此の小劇場の舞台の上に見出ださうとしてゐるのです。


 今この部屋の上でゲエリングの「海戦」の稽古が始まつてゐます。恐ろしい速度で弾丸のやうに詞が飛んでゐます。大砲の響が時々家を動かします。神を祈る者があります。服従を否定する者があります。異常な情慾に燃える者があります。気狂ひにならうとしてゐる者があります。それは戦争です。しかもその戦争の行きつく処は何でせう……吾々は今戦争に直面してゐます。そして吾々の目的は何でせう。弾丸が飛んでゐます。火焔が上がります。砲弾は吾々を震撼してゐます。吾々は何処へ行くのでせう。誰れも知りません。未だ誰れも知りません。併し知つてゐるものがあります。少くとも知つてゐるものが一人はあります。……」


 ところで、それと前後して、小山内氏は、たしか慶応の講堂で行はれた講演会に於て、一つの重要な宣言を発表した。

 今、その正確な記録がないので、言葉どほりを伝へることはできぬが、当時の文献によると、氏は、築地小劇場の抱負を語るに当つて、現代日本の創作劇中には自分らの演出慾を唆るものがないから、向ふ二年間は外国劇の翻訳のみを上演すると「豪語した」さうである。

 実のところ、僕などはその噂を伝へ聞いて、別に「豪語」といふやうな印象はうけなかつたが、一般戯曲創作界はたしかにある種のシヨツクを受けたに違ひない。演劇新潮同人の間に喧々囂々の論議が持ちあがつた。

 しかし、これだけの問題だとすると、小山内氏や土方氏の意図を善意に汲むこともできるのである。現に、僕などは、帰朝早々、西洋劇の本質的な研究によつて日本の新劇界は地ならしをしなほすべきであるといふ主張をもつてゐたから、なまじつかな創作劇をやられるよりも、西洋劇の優れた上演を見せてもらひたく、また、自分自身もその方面で若干の野心を抱いてゐたし、機到れば、築地小劇場の舞台でフランス劇の演出でもやれたらと、ひそかに考へてゐたくらゐである。

 さういふ関係で、いよいよ、旗挙公演の出し物が、チエーホフの「白鳥の歌」、マゾオの「休みの日」、ゲーリングの「海戦」ときまり、初日招待の切符を受けとると、僕は、心の中で呟いた。

 ──出し物は、別に文句はない。今日の日本の俳優が西洋劇をどの程度までやりこなせるか、

 そのための訓練と指導が、どの程度まで行はれてゐるか、まづ、これが目のつけどころだ。

 丁度、その頃、巴里で識り合ひになつたHといふフランスの青年がはるばる日本にやつて来てゐた。宿をきめるまでといふので僕の家に寝泊りをしてゐた関係から、たまたま、マゾオの「休みの日」を観せてやらうといふことになつた。彼は前もつて原文のテキストを読んでおきたいといふのだが、僕は生憎、そのテキストをもつてゐない。ヴイユウ・コロンビエ一座の上演目録中にはひつてゐたことだけ知つてゐたが、かけちがつてその上演も見そこなつてゐるし、こつちも読んでおく方がいゝから、やつと人から借りて、そいつを彼に朗読させたものである。

 妙なもので、やはり、素人でもフランス人の声で聴くと、巴里で芝居を観るのに近い印象をうける。「心理詩派」マゾオのエスプリと文体はほゞ呑み込めた。日本の俳優には一番苦手なやつである。第一、これがどんな翻訳になつてゐるか? 微妙なニユアンスが果して捉へられてゐるか?

 僕は、正直なところ、築地小劇場の自信をもつて世に問ふこの度の舞台に、半ば興奮に似た期待と、半ばわがことのやうな不安とを抱きながら、例の歴史的な銅羅の鳴り響くのを聞いたのである。


       八


 さていよいよ築地小劇場の旗挙公演である。胸おどる招待日の印象をこゝに書きとめることは、今の僕にとつてまことに感慨無量である。

 新装成つたこのバラツク劇場のフアサードは、一見、植民地の教会堂然たるものであつた。足を踏み入れた途端、妙に呼吸苦しい、取りつく島のないやうな感じがした。灰色の壁の低い空を思はせる陰鬱さもさることながら、アーチ形のプロセニウムが階段でオルケストルにつながつてゐる、その冷たく重い線のなかに、僕は、もう、「北方」を感じて、思はず肩をすぼめてしまつた。

 無装飾と単純さはありがたい。しかし、この渋面グリマスと臂の張り方はなんとしたものであらう?

 が、これは趣味の問題としておいて、幕のあがるのを待たう。

 やがて、あの歴史的な銅羅が鳴り響き、幕の向ふには、輝やかしい興奮の渦が巻いてゐるらしく思はれたが、われわれ、幕のこつちでは、くすぐつたいやうな微笑がそここゝで、「おどかすない」と云つてゐた。それは、別段、不愉快なものではなかつた。しかし、如何にも子供臭い威勢のよさで、かつ、若干異国的な不気味さを交へてゐるからだつた。

 この、どつちかと云へば、心和まぬ空気にもかゝはらず、僕は、熱心に、期待にあふれつゝ舞台に眺め入つた。

 幕間には、さすがに巨万の財力を基礎とする劇団の余裕をみせ、招待客全部に紅茶とサンドウイツチの饗応があり、僕などは危く辞退するほどだつた。

 そこで、舞台そのものゝ印象はどうであつたか?

 クツペル・ホリゾントとやら云ふ日本最初の背景装置はなるほど効果的であると思つたほか、実を云ふと、演しもの三つを通じて、その如何なる部分にも感心しなかつた。ちつとも面白くないのである。退屈至極でさへもあつた。時々は、腹立さしさに腕をよぢつた。あゝ、こんなことでいゝのだらうか?

 僕に、今夜の劇評をしろと云ふものがあつた。少し考へさせてくれと、僕は答へた。

 新聞の劇評は、僕には書けないやうな気がした。「この芝居は観に行くな」と云ふやうなものだからである。

 それにしても、まだ絶望するのは早い。僕は、公演の終る頃をまつて、需められるまゝに「新演芸」といふ雑誌に一文を送つた。「築地小劇場の旗挙」と題する「劇評」ならぬ「意見書」のやうなものである。

 次にその全文を掲げることにする。

〔以下省略〕

底本:「岸田國士全集23」岩波書店

   1990(平成2)年127日発行

底本の親本:「劇作 第六巻第一号~第九号」

   1937(昭和12)年11日~91日発行

初出:「劇作 第六巻第一号~第九号」

   1937(昭和12)年11日~91日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年1112日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。