現代日本の演劇
(コンテンポラリイ・ジャパン所載)
岸田國士
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一
封建的、鎖国的な旧日本の文化は、所謂「能」と「歌舞伎」とを今日に残した。この二つの珍奇な演劇種目は、それぞれ長い伝統の上に築かれた特殊の美を誇つてをり、一つは、貴族的、武士的な趣味を、一つは民衆的、市井的な趣味を代表し、現在に於ても、熱心な支持者をもつてゐる。
凡そ世界の舞台芸術を通じて、人間の創造的努力が、これほど犠牲的に、ある完成のために捧げられ、「常識美」の極致を徐々に、無意識に築き上げた例はないのであつて、その点、民族的なもの或は時代的なものと、個人的なもの或は天才的なものとを、その中で区別することは甚だ困難なのである。
旧日本文化の特色は、道徳的、宗教的ではあつたが、哲学的でも科学的でもなかつた。西洋文明の移入は、恐らく芸術の分野に於て、最も相容れない二つの潮流を形づくる結果になつた。音楽、美術、舞踊、そして文学、何れも、さうである。
過去五十年の歴史は、表面的に日本を近代化したやうに見えるが、国民生活の根柢には、まだまだ多くの封建的なもの、意識的に伝統を固執する精神が氾濫してゐる。殊に、指導階級は、その教養に於て、常に鎖国的であつた。国際的であることにある種の危惧を懐いてゐるのである。
かかる情勢に於て、近代芸術が伸び伸びと育つ筈はない。若いヂェネレエションのなかにさへ、三百年前の感情が眠つてゐるのである。
しかしながら、一方では、時代の要求が様々な形で敏感な精神をゆすぶつてゐることも事実だ。芸術の革新運動は、それゆゑ、先駆的であると同時に啓蒙的な色彩を帯びる。美術、音楽、文学、何れも、欧米のそれの紹介から始まつて、そのコピイ、模倣、次いで、咀嚼の時代にはひる。現代日本の生活は、公平にみて、まだ「近代芸術」を呼吸してゐないのである。独自な魂を盛るべき普遍にして至高な形式を発見し得ないのである。
そのうちで、現代日本が、やや自負を以て、われわれの芸術と称し得べきものは、恐らく「短篇小説」であらう。殊に「心境小説」と呼ばれる作家の内生活の記録は、その深さ、その鋭さ、その渋さに於て、正に世界文学の如何なる傑作にも比肩すべきものをもつてゐる。
嘗て、否、今もなほ、美術家は巴里に、音楽家は維納に遊び、その技を練ることができる。大多数の作家は、外国語の散文を読みこなす力をもつてゐる。ところでわれわれは、欧米の演劇を、如何に紹介し、模倣し、咀嚼したか?
民衆が演劇を生むといふのは、あらゆる文化の水準が一定の高さに於て平均され、風俗の規準が社会的に統制されてゐることを条件とするのである。現代日本の公衆は、自己の生活の中に、「演劇美」を構成する要素があるかないかをまだ知らずにゐる状態である。真の意味での「近代的舞台表現」なるものは、屡々その道の専門家によつて試みられ、そして失敗した。戯曲は散文でありすぎ、俳優は人形でありすぎ、劇場は研究室でありすぎたのである。一言にして云へば、われわれは、精神的娯楽としての現代劇──形式内容ともに現代知識人の要求を充たす演劇──といふものをもつてゐない。
二
東京及び大阪の商業劇場に於て、「歌舞伎」の外に、「新派」と称する劇団が、現代生活の舞台化を試みてはゐるが、その俳優の教養は、寧ろ歌舞伎俳優のそれに近く、殊に、近代文学の理解に乏しいため、その写実主義は殆ど些末主義の悪どさに堕し、彼等自身に親しみある生活環境を映す場合にやや独特な雰囲気を醸し出すにすぎない。
「歌舞伎」も「新派」も、倶に、その観客層は極めて狭い範囲に限られてゐる。月々の興行は、俳優個人個人の奔走によつて、彼等の「ひいき」と称する後援者たちに切符を売りつけなければ成立しない有様である。そして、その「ひいき」なるものは、多くは伝統的文化の心酔者であり、花柳界を中心とする浪費階級である。
今世紀の初め、欧米を巡業した川上音次郎貞奴夫妻は、所謂「新派」の創始者であるが、彼等は、その演劇的訓練に於て、当時、素人の域を脱してゐないもので、たまたま、「歌舞伎」の模倣的演技が、西洋人の好奇心を煽り、彼地に於て誰も予期しなかつたやうな喝采を博したのであらう。ただ巴里に於てジュウル・ルナアルが唯一人、彼等の舞台に嘲笑を投げてゐるのは、炯眼といふべきである。
「歌舞伎」「新派」に対抗して起つた一つの演劇革新運動──これは、西洋諸国の「近代劇運動」に相通ずるもので、日露戦争後、俄かに擡頭した様々な思想運動、殊に、一般の文学熱を背景としてゐることはいふまでもない。
坪内逍遥はその先駆者である。彼は、俳優研究所を起し、イプセンの「人形の家」を上演し、シェイクスピヤの翻訳演出を試みた。
次に、小山内薫が、青年歌舞伎俳優左団次と共に、仏蘭西のそれに傚つて「自由劇場」を創立し、イプセン、ブリュウ、その他の近代劇を紹介上演し、新作家の出現を促した。
これに刺激されて、多くの研究劇団が生れる一方、歌舞伎や新派の俳優が続々「新劇」の畑へ乗り込んで来た。が、ただ単に、西洋の戯曲の逐字的翻訳やそれをお手本にした若年作家のたどたどしい脚本を、速成の俳優にやらせるといふだけでは、演劇自体の魅力は生れて来ない。イプセン、ストリンドベリイ、ハウプトマン、ショウ、チェエホフ、メエテルランク等は、その「文学」によつて新時代を陶酔せしめはしたが、舞台と作品との間に、到底埋めることのできない空白があることに気づいた時、「新劇運動」ははたと行き詰つた。
東京の大震災は、かかる時機に到来した。帝都の商業劇場は全部焼失した。
小山内薫と土方与志が、大きな抱負を以て、「築地小劇場」をこの灰燼のなかに建てた。小山内は主として露西亜劇を、土方は主として独逸劇の紹介演出を担当した。モスコオ芸術座のコピイを初め、欧洲大戦後の先駆的傾向は、次ぎ次ぎに舞台の見本となつて現はれた。スノビズムの勝利であつた。
三
演劇革新運動の勃興以来、純粋に「近代劇」を目指すことなく、歌舞伎俳優の演技能力を標準とし、若干の新趣向を盛つた「歴史劇」を書く作者が輩出した。坪内逍遥、岡本綺堂等はその代表的なものである。
しかしながら、彼等が歩む道とは全く別に、寧ろ単なる文学的要求から、西洋近代劇の思想と形式とを追求した新作家は、当然、商業劇場に迎へられることが遅かつた。真山青果、中村吉蔵、菊池寛、山本有三は、今日では、この一群を代表する大家である。それも、彼等の作品のすべては、歌舞伎乃至新派俳優の主なるものによつて舞台的成功を収めた結果、劇作家としての確乎たる歩を占め得たのであつて、その意味に於ては、彼等はなほ、前時代に繋る何ものかを、意識的にせよ、無意識的にもせよ、身につけてゐると思はねばならぬ。
真山青果は、秀れた技術家である。彼は、現在では時たま良心ある問題劇を提供する以外、商業劇場の註文に応じて、興味本位の通俗劇を数多くでつち上げてゐる。中村吉蔵は、イプセンの研究家と目されてゐるが、初期の一幕物に真摯な態度が見られるだけで、近来は余技的な作品しか発表してゐない。
菊池と山本とは、共に戯曲を見捨てて、小説のみを発表するやうになつた。劇作家が芸術的にも経済的にも酬いられない現状にあつて、彼等の才能は、真にこれを求める方向に伸びようとするは亦自然である。
もともと菊池は英文学、山本は独文学を専攻した。一はアイルランド作家の、一は、ストリンドベリイとシュニッツレルの影響を受けた。特に山本は、その熾烈な正義観と一作をも忽せにしない芸術的良心によつて、劇壇に孤高の地位を築いた。が、何れも、その気質からいへば、西洋的であるよりも東洋的であり、その著しい自由主義的色彩にも拘はらず、西洋演劇の本質に対して十分な興味を惹かれなかつたことが、彼等の演劇的熱情を早くも冷却せしめた一大原因であらう。
これに反して、久保田万太郎は、その作品の回顧的な主題と保守的な生活感情とに拘はらず、確乎たる文学的精神を以てこれを貫き、稀にみる純粋かつ新鮮な舞台的生命を創造した。西洋劇に於ける心理的詩味の伝統は、不思議にも彼の手によつて初めて日本の劇壇に移されたといつていい。その世界は極端に狭いものであるが、雰囲気の描写と会話の劇的リズムとは自ら彼の作品をユニックなものにしてゐる。商業劇場は、それゆゑに、彼を迎へようとしないのである。
前記築地小劇場の創立は、様々な意味で新時代の作家を刺激したが、新劇当事者の気まぐれと衒学的態度は、遂に、そこから有為な作家も、訓練ある俳優をも生み出すに至らず、間もなく、小山内の死と共に、劇団は崩壊した。
この期間に、別の方面で、西洋近代戯曲の大部な翻訳出版が行はれた。浪漫主義より表現派までの、あらゆる先駆的作品は、悉く日本語で読み得るやうになつた。仏蘭西劇が新しい面貌をもつて登場した。
旧劇俳優に魅力を感ぜず、所謂新劇俳優の技術を信じない少数の新進劇作家は、勢ひ、「未来の劇場」のために書かざるを得なくなつた。ここで、改めて、「戯曲の本質」といふ問題が考へられ、「舞台の言葉」を探す努力が続けられた。
その結果が、漸く現はれた。この二三年来、劇文学の領域に於ては、舞台と関係なく、著しい進化が認められるやうになつた。
一時、若い演劇的スノブを総動員し得た観のあるプロレタリア演劇が、再び鳴りをひそめて以来、真に才能ある戯曲作家の一群がそれぞれ質実な、同時に溌剌たる作品を彼等の同人雑誌に発表して、輝やかしい未来を約束しはじめた。
彼等の書くものは、もはや、歌舞伎乃至新派俳優の手におへぬものである。更にまた、所謂今日までの新劇俳優と呼ばれるものの西洋翻訳劇の経験のみをもつてしては、満足な表現を期待することが困難なものである。それは、恐らく近代の教養と感覚とが、生活そのもののうちで整理された、品位とニュアンスに富む演技を必要とすることが誰にでもわかるのである。
が、さういふ素質の演技は、恐らく、俳優が舞台の上で修得するものではなく、生れながら、少くとも、俳優を志すと同時に会得してゐなくてはならぬ。言ひ換へれば、将来、全く別な方向から、俳優志望者を募らなければならないのである。ところで、現在の劇場は何れを見ても、かかる素質をもつた青年男女を惹きつけるやうな好餌がない。演劇の地平線は、まだ暗雲に閉されてゐる。
東京の大劇場では、欧米の都市ですら見られないやうな悪趣味と幼稚さが幅をきかし、半素人の研究劇団は、常に収支が償はぬため、気息奄々たる有様である。
昨年の暮、「わが演劇文化の向上発展を期する」目的で、新劇関係者の全部を網羅する一つの連絡協力の機関が設立された。日本新劇倶楽部がこれである。営利劇場に対抗して、真に演劇芸術の孤城を守らうとする同志の結合であるが、その事業は、極めて広汎で、且つ限定されてゐるにもせよ、この機運は、何れなんらかの実を結ぶであらう。
日本演劇の特殊性に興味をもつ人々が、この消息に多大の関心を示すだらうとは考へられないが、われわれは、われわれの特殊なものを誇示する前に、先づ、世界共通の文化の樹立を心がけてゐるのである。過去の遺産によつてのみ生きようとする民族の精神的怠惰と戦はねばならぬ。わが歌舞伎や能の審美的価値は、欧米人に如何に評価されようと、われわれは、その半面に於ける文化的反動性を指摘して、現代生活に何等慰藉と鞭撻とを与へるものに非ざることを、大声に叫ばなければならないのである。
この率直に過ぎるかもしれない報道は、愛国者であると同時に、国際人たらんとする一日本人の、共に真理と美を愛する世界の同胞に向つて、示し得るモデストな宣言である。(一九三五・一一)
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「劇作 第五巻第十号」
1936(昭和11)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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