映画の観客と俳優
岸田國士
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映画はその歴史が若いやうに、映画の観客といふものは、概して非常に若い。一体に、芸術的なもの、精神的な娯楽を求める年代は、まだ生活のためには時間を多く取られない青年期であるに相違なく、文学的な読書なども四十を過ぎると、もうその必要を感じなくなるといふのが普通らしいが、それでもまだ、文学や演劇の方面では、大人にも十分魅力のあるやうなものがあるのである。ところが、映画となると、先づ第一に、内容がどうも大人の頭で考へられてゐず、世間をある程度知つてゐる眼から見ると、馬鹿々々しい嘘が多すぎ、形式から云ふと、自由であるだけに洗煉されてゐないところがあり、珠に、映画館の空気といふものが、変に子供臭くできてゐるのである。若い人達が沢山ゐるといふやうなことではない。装飾にしても、設備にしても、大人の神経にはどうも容れられないところがある。つまり、気恥しいのである。
映画は時代の尖端を行くものだから、時代遅れの年寄には向かんといふ理窟は成り立つやうで成り立たない。映画はなるほど時代の尖端を行く芸術たり得るものであらうが、日本今日の映画企業は、さういふ意味の感覚に於いて寧ろ甚だ遅れてゐるがために、即ち、青年的であるよりも寧ろ幼稚さを暴露してゐる場合が多いために、若さのもつ魅力よりも若輩をしか吸引し得ないあざとさによつて、十分時代に敏感な人々をすら近づけないといふこともある。
この点は、西洋の映画についても云へないことはない。ただ西洋ものには、相当の例外があり、娯楽としてなら十分大人を満足させ得るほどの本格的商品が出はじめてゐるのである。
日本の映画も最近では、さういふ程度のものを目がけてゐるらしい傾向があり、甚だよろこぶべきことであるが、まだ、なんとしても、興行者側が本腰を入れてゐないことが明らかで、その著しい証拠は金をかけるべきところにかけてをらず、根本の問題に一向手を触れる様子がない。
それでは、根本の問題とは何かといふと、第一に、西洋映画は何故面白いか、といふことを少し考へてみればわかるのである。
興行者は、きつと答へるであらう。それは市場の関係で、日本の数倍といふ金を製作費にかけ得るからだ、と。また、批評家は云ふであらう、監督の頭脳と技術が、比較にならぬほど優れてゐるからだ、と。しかし、一般の見物は案外正直で、しかも勘がいいのである。即ち彼等の大部分は、西洋映画に於ける俳優の魅力を真つ先に語るであらう。
いや、それならば興行者も批評家も、それに気づかぬ訳ではないと云ふかもしれぬが、僕の見るところでは、恐らくそれに気がついても、それはどうにもならぬと思つてゐるくらゐの気のつき方で、やつと監督だけが、どうにかせねばならぬと思つてゐるにすぎないやうである。
それでは、日本の俳優は西洋の俳優に比して、どれだけ劣つてゐるか、どこが劣つてゐるか、何故に劣つてゐるかといふ問に答へてみよう。
先づその前に、日本人は西洋人に比べて、俳優としての素質が劣つてゐるかといふと、決してそんなことはないと思ふ。ただ、はつきり云へることは、西洋で俳優になるやうな種類の人物が、日本では殆ど俳優にならうとしなかつた、といふことである。もつとはつきり云へば、日本で、かういふ人物がスクリィンの上に現はれて欲しいと思ふやうな人物は、なかなか少くないのだが、悲しいかな、さういふ人物は一人も俳優になつてゐない、また、俳優になる意志はないといふことである。
この事実は決して、現在の映画俳優が、すべて素質に於いて零であるといふ意味ではなく、可なり優れた素質をもつてゐるものでも、映画俳優を志して、その修業の道程にはいつた途端、人間としての面白味がだんだん失はれ、演技の熟練が全くその線に添つて、積み重ねられなかつたといふ驚くべき錯誤の結果である。
人間としての面白味、つまり、あらゆる方面で責任ある仕事をしてゐる人物の、おのづから備へてゐる風格といふものは、何よりも、その人物の背負つてゐる生活の反映であつて、俳優も亦、俳優としての生活が、社会的に下らないものである限り、その風格も亦、卑小浅薄、所謂、芸人の域を脱しないのが当然である。
例へば、頭脳労働者には頭脳労働者の風貌がある。収入の如何に拘はらず、また地位の高下に拘はらず、他の階級のものでは到底真似のできないある種の雰囲気をもつてゐる。今日の俳優で、この階級の人物に扮し得るものが果して幾人あるか?
僕の意見では、一人もないのである。ところが、俳優の大部分は、実際、その職業を忠実に果し得るためには、一面、立派な頭脳労働に従事しなければならぬ筈である。ところが、西洋では大臣や会社の重役や、大学教授やに扮して、少しも不自然を感じさせない俳優がざらにゐるにも拘はらず、日本には、もう、官庁や会社の課長級、さては、中学校の英語教師さへも、一個のタイプとしてみる時、これに適した俳優がなかなか探し出せないではないか。勿論、厳密な配役標準によるのであるが、これをいい加減にやるところから日本映画の根本的幼稚さ、インチキ性が生れ、これを飽くまでも厳密にやり得るが故に、西洋映画の技術以上の面白さ、即ち真実さが生れるのである。(一九三六・八)
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
1936(昭和11)年11月15日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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