幕が下りて
岸田國士
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自分が芝居の実際方面に関係してから、まだ半年もたゝないのだが、その間に、色々の経験もなめた。理窟だけを並べてゐた時代には、そんなでもあるまいと思つてゐた劇壇の内情を見聞きするにつけて、私は、自分ながら、飛んでもない処へはまりこんだなといふ気がし出した。「血があれる」といふ言葉が本当によく当つてゐるやうな、さういふ雰囲気を感じ出した。かういふ世界で、本当に自分の仕事をして行く人、何か知ら「とらはれない仕事」をして行く人があれば、その人は、全くえらいと思ひ出した。
私は自分の熱情と、素質に疑ひを持ち出した。
新劇協会は、今、私の『葉桜』を上演してゐる。私は初めて自作の舞台監督をしたが、作者は、──殊にあゝいふ種類の戯曲の作者は、自ら舞台指揮をなすに当つて、最も困難な立場に置かれるものであるといふ事実を知つた。
いろ〳〵な事情で、稽古は四五度しか出来なかつた。それでも登場俳優があの通り二人きりで、しかも、その二人が、相当、舞台的経験のある人達だから、黙つてゐてもある程度までその役柄を仕活かしてくれるので私は楽なことは楽だつた。実際は監督らしい仕事もしてゐないくらゐである。それといふのが、私の書くやうな戯曲は、舞台監督がどんなに骨を折つても、それほど演出上の効果に変りがないのみか、舞台監督の下手な工夫は、却つて俳優の演技を萎靡せしめるやうな結果になることを知つてゐたから、私は、大体、伊沢、水谷両嬢の「仕易いやうに」といふ消極的態度を取つた。これは、何も、舞台監督としての責任を回避するわけではなく、むしろ、さういふ演出法もあり得るといふ一例を示したつもりである。果して多くの見物は、蘭奢、八重子両嬢の演技に喝采を送つた。
ところで、私が、作者兼舞台監督として、今度はじめて味はつた気持についていへば、作者としての自分は、舞台監督としての自分に少なからず不満を感じてゐるのである。それと同時に、舞台監督としての自分は、作者としての自分に可笑しいほどの気の毒さを感じ、しかも、それは、どうしやうもないといふ自暴自棄に似た逃げ口上をさへ用意してゐるのである。
余りに作者の意図を知り、しかも、あまりに作者に忠実であらうとする舞台監督の悩みが、そこにあるのではないか。否それよりも、「自分の仕事」をもたない、「自分の仕事」の範囲について明確な意識をもたない舞台監督のみじめさがそこにあるのではないか。
作者が劇場に足を踏み入れる危険が、また、そこにあり、舞台監督が文学者である不都合が、従つて、そこにある。
私は、少し考へなければならない。
私は、それに、やゝ恢復しかけた健康を、またいくらか損ひかけてゐる。私の主治医は、今日もきびしい、いましめの言葉を残して行つた。体重を計つて見たら、この一月の間に六百目へつてゐる。私は少し暗い気持になつて、町の浴場を出て来た。
向うから、明るい色の背広を軽軽と着て、片岡鉄兵君が歩いて来る。横光利一君の新居を訪ふ道すがらであることがわかつた。
劇場は、この幸福な両君──しばらく想像を許し給へ──この幸福に輝く両君を、あの上、瘠せさせないやうに。
そんなことを思ひながら、私は、本屋の店頭で、文芸戦線の拾ひ読みをした。
新劇協会第二回公演の批評が出てゐる。どうしてこの連中はかう意地悪るなんだらう。全く親しめない人達だ、金子君や村山君や佐佐木君は、私の知つてゐる人のうちでも、個人的にも親しみのもてる人々なのに、やつぱり、同じやうに、こんな考へ方をしてゐるのであらうか。こんな考へ方をしなければいけないと思つてゐるのだらうか。
私は、文筆を以て社会戦の陣頭に立つことを少しも誤つたことだとは考へてゐないが、かういふ態度で「味方となり得るもの」を遠ざける必要がどこにあるのだらう。
人には、いろいろな欲求がある。いろいろな計画がある。いろいろなテンペラメントがある。文筆を以て立つもの、芸術を以て志しとするもの、必ずしもその文筆を、その芸術的活動を、直ちに所謂「目的意識」の具に供しなければならないわけはない。
革命家を以て任ずる諸君は、宜しく、微々たる文士芸術家の群をのみ対手とせず、まして、諸君と同様「賤民」(二葉亭の訳による)の集りに過ぎぬわれ〳〵の小劇団を兎や角非難する暇に、それほど「演劇」に関心をもつなら、もつと、名実共にブルジョワ的なる大劇場をぶツつぶし給へ。
新劇協会の客足を止めることが、決して前衛座の成功をもたらす唯一の手段ではあるまい。恐らく、新劇協会をみて新劇に興味をもちはじめた見物が、やがて、前衛座の舞台から何ものかを得るのかも知れない。
それくらゐの「遠い眼」をもつてゐてほしい。
私は、ひそかに、前衛座の仕事に、同情と期待をもつてゐる。私は、その仕事に対し、芸術的立場から批評を試みることさへ一種の冒涜であるとさへ思つてゐる。同人諸君の「美しい意思」に対するわきまへなき仕業であるとさへ信じてゐる。
人に総てを望むことの不可能であることは、何人も知つてゐる筈である。
その意味で、私はまた、築地小劇場が、藤森成吉氏の『何がかの女をさうさせたか』を上演した態度に敬服してゐる。ここまで来れば、私は、たゞ、だまつて、襟を正すよりほかにない。あの戯曲が、実際、どれほどの舞台効果を生むか、それは芸術的に最早、問題とする必要を認めない。私は、たゞ、あの戯曲の演出が見物に何を教へ、見物をどれほど感動させ、どこまで見物の魂を「プロレタリアの魂」に結びつけるかの問題を考へればいゝ。その成功は少しも、所謂「芸術的成功」である必要はない。さういふことを云々するのは、作者藤森氏、並びに演出者土方氏に対する「余計なおせつかい」である。
私は何よりも、あれほど「芸術的」に不評だつた戯曲を、進んで舞台にかけた築地小劇場の勇気、「演劇」といふものに対する当事者の徹底した見識に頭を下げる。これは決して皮肉ではない。その証拠に、私は、今、自分の瞼が熱くなりつゝあるのを感じてゐる。
藤森氏の小説は、私の最も愛読するものゝ一つである。しかし戯曲はその小説の如く私の興味を惹かない。築地小劇場の演出がどうであらうと、私は、『彼女』を観に行く気はしない。しかし、それはそれでいゝのである。藤森氏よ、それがために私のあなたに対する敬愛の念が少しでも薄らいだのだとは思つて下さるな。芸術家は、芸術的によいものを残しただけで、たゞそれだけで、芸術愛好者の尊敬を受けなければならない。他の方面で、「またよいこと」をすれば、他の方面から、また尊敬を受けるだけである。私が藤森氏に二重の尊敬を払つてゐても、少しも不思議はない筈である。
私が、今、築地小劇場に対して、新たな讃辞を呈する所以もまた、そこにある。
宝塚国民座は、目下、私の『百卅二番地の貸家』を上演してゐる。開演後間もなく、未知の演出者から舞台の写真を贈つてくれた。上演許可後、何の音沙汰もなく、作者をして不安な日を過ごさせる多くの劇場当事者の中に、このやうな行き届いた人のあるのは嬉しい。
所用あつて近々京阪地方に赴く予定であるが、是非宝塚を訪れて、一夕を国民座の見物席で過ごさうと思つてゐる。
大劇場の舞台に適しない私の戯曲が、これまで二三度、計らずも大劇場で脚光を浴び、その度毎に私は自分の仕事の前途を思つて心細さを感じたが、今度も同じ経験を繰返すことだらう。
私は決して小劇場主義者でもなければ、小劇場向の戯曲のみを書かうと心掛けてゐるわけでもない。たゞ、これも作家の素質如何に関係するもので、どう考へて見ても、数千の見物を前に私自身としては、何を語つていゝかわからない。
それが私一人ならいゝ。現在の劇作家──少くとも私たちと同時代の作家の多くは、これと同じ疑問にぶつかつてゐはしまいか。
新劇協会なども、これから、もつと多勢の見物を喜ばせるやうな舞台を仕組まなければならない時機に達してゐながら、その舞台にかけ得られさうな新戯曲が、何時現れて来るか、今の処、ちよつと見当がつきかねる。困つたことだ。
来月十五日から、既に帝劇の舞台を借りて臨時公演を行ふ予定すらあるのである。
その出し物についても、一同は協議に協議を重ねたが、これといふ目星しい案も浮かばない始末である。興行政策からいへば一幕物を三つ並べるより、三幕物を一つ出す方がいゝらしい。一幕物といへど大抵は小劇場向きである。私などは近頃、一つ二つ、やゝ長いもの──といつても百枚足らずの中篇である──を書きはしたが、何れも、一幕物の引きのばしといつた程度のものに過ぎない。雑誌に発表する便宜などの関係もあるが、もつとどつしりした作品──形式からいつても大劇場向きの(必ずしも通俗的であることを要しない)作品が現れて来ることが、新劇の将来のためにも望ましいことである。
新劇協会は、今、さういふ戯曲を求めてゐる。活字になる前に舞台へ上せる──さういふ発表方法を選ぶ若い作家があつてよさゝうなものだ。
なほ、私たちの求めてゐるのは有望な俳優志願者である。現在、新劇協会の研究生が十三名ばかりゐるが、これらの青年男女は、何れも無月謝で左の講義を聴講してゐる。
演劇論 一週一回
戯曲鑑賞 同
欧洲比較文学史 同
東西美術史 同
舞台装飾研究 同
文芸講話 臨時
朗読術 一週一回
なほ、最低の報酬で左の科目を修得してゐる。
声楽 一週三回
舞踊 近日開始
講師は私の外に、関口次郎、井汲清治、勝本清一郎、岩田豊雄、その他劇壇諸家、声楽は発声法の大家中島九郎氏が献身的に力を注いで下さつてゐる。追々科目もふやすつもりであるが、何分講師はみな無報酬であるから、理論方面は主として、研究生自身の自発的研究にまつところが多く、われ〳〵は、その研究の忠実な指導者たることを期してゐる。
補欠として、もう四五人採用する筈であるが、われ〳〵の責任ある指導を信頼して、相当教養ある青年淑女の応募を望む次第である。
私はこれから、この方面の仕事に可なり力を入れやうと思つてゐる。
都新聞で、伊原青々園氏が新劇協会の今度の公演について好意ある批評をして下さつた。先輩の理解ある評言は未熟なものに取つてこの上もない刺戟である。
正宗白鳥氏が、わざ〳〵大磯から見に来て下さつたこと、そして、「面白かつた」と、何時になく、お世辞をいつて下さつたことは、やつぱり嬉しかつた。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「新選岸田國士集」改造社
1930(昭和5)年2月8日発行
初出:「東京日日新聞」
1927(昭和2)年4月24日、26日、27日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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