新劇界の分野
岸田國士
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昨今の戯曲界を見渡すと、月々発表される戯曲の数こそ多いが、そして、その数の多いことが何となく華々しい外観を呈してゐるが、質の上からいへば、注目に値するものが寔に少い。実際舞台にかけて見て、相当見応へがあると思はれるやうなものは、極く稀れである。この点、私自身も、自ら顧みて忸怩たるものがある次第であるが、かくの如き状態は、度々繰り返して云ふことであるが、わが国の劇作家が、常に一つの「完成された舞台」から、好き刺激と霊感とを受ける機会がなく、一方、雑誌を唯一の発表機関とする不合理な状態から、知らず識らず「舞台的感覚」が作劇の上で、無視せられがちであるからだと思ふ。その上、多くの作家の生活様式が、月々四五十枚の原稿を二晩か三晩で書き飛ばすことを余儀なくさせ、しかも、その生活様式を改めようとしないのであるから、どつしりした、密度のある作品がなかなか生れて来ないのは当然である。しかしながら、これらの理由は、一人の天才の前では、少くともその意味を失ふ性質のものである。それは断るまでもない。
かくの如き戯曲界の現状に向つて、誰がどういふ批難を加へようと、その批難は常に真理を含んでゐると見られる。そこで喧々囂々、甲は乙の傾向を罵り、乙は丙の色調を貶し、丙は又甲の主張を嘲るに日もこれ足らざる有様である。
文壇の事情に通ぜず、また一個の定見を備へない世人の中には、殊に、新しい演劇に好奇の眼を向けつつある若きアマトゥウルの中には、自らその帰趨に迷つて、徒らに頭を悩ます連中がなくもないやうである。これは已むを得ないことには違ひないが、その結果は、新しい演劇に対する民衆の不信と軽侮とを生み、その発達進化の上に著しい障碍を齎すことは慥かである。
私は、自ら一つの立場をもつてゐる演劇研究者であり、殊に、意識的にも、無意識的にも限られた趣味に活きる芸術修道者であるから、期せずして我田引水に陥るかもわからないが、努めて公平な態度を持しつつ現代の戯曲界、並に演劇界の分野について、簡単なる討究を試み、主なる傾向の特色を明かにしたいと思ふ。
一、北欧系。これはスカンヂナヴィヤ、露西亜、及び独墺の作家から影響を受けたもので、それら様々の作家の思想、形式、手法、色調を幾分づつ受継いだもの。この一派は戯曲に「力」を要求し、「深刻さ」を求め、従つてその戯曲中に「人生の意義」を、「社会の問題」を描かうとし、従つて、人物の性格も暗く、沈鬱で、理窟を好み、時によると喧嘩ばかりしてゐる。とは云ふものの、それは北欧作家の共通点でなく、日本の北欧系作家が、その点を強調してゐるだけである。これらの人々の中には、ドラマによつて「魂をゆすぶられ」、「心臓をつかみ出され」ることを望み、「ドカーンと丸太棒でぶんなぐられるやうな不愉快な」目に遭ふことを此の上もなき愉快なこととしてゐる人々がある。
尤も、この一派が、特別に、さういふ要求をし始め、さういふ旗色を鮮明にし出したのは、次に述べようとする一派が擡頭し出したからであることは云ふまでもない。その一派とは、即ち
二、南欧系。南欧系と云つても、主に仏蘭西作家のあるものから影響を受けたやうに思はれてゐる一派であるが、この一派は、まだその数も甚だ少く、殊に、年少の無名作家中に時々見るくらゐなもので、北欧系の人々が考へてゐるほど有力な傾向ではない。この方は、仏蘭西のどの作家から直接影響を受けたのか分らない。仏蘭西にそんな傾向があるのかどうかも分らないが、人々がこれを仏蘭西的であり、南欧的であると呼ぶ理由は、多分これらの作品の多くが軽いスケッチ風のものであり、「力」よりも「香り」を、「深さ」よりも「ニュアンス」を尊び、「人生の苦悶」を苦悶としては取扱はず、寧ろ多分のファンテジイによつてこれを喜劇化し、「社会の冷酷」さを描くよりも、その冷酷さに堪へ得ない人間の自嘲を、又はその冷酷さを憤る人間の泣き笑ひを、理窟抜きに暗示することで満足してゐるからであらうか。この傾向は、一面、信念なき軽薄児の遊戯的人生観とも見られがちである。また、実際さういふものもあるにはある。それは、作家自身の問題である。傾向の罪ではない。或は、南欧人は北欧人よりも軽薄であるといふ見方と、いくらか関係があるのかもしれない。
北欧系が「思想らしきもの」を重んじ、舞台の「動き」を尊重するに反し、南欧系は「詩」を重んじ、「言葉の効果」に神経を集める。「思想」があれば、「詩」はいらぬといふわけではあるまいし、「人生的主義」を伝へるために、最も「言葉の効果」に敏感な神経を働かせればよいのである。が、双方は、何れもその主張に於て、自ら恃むところを、強調するのは已むを得まい。
北欧系は、「人生に正面からぶつかる」ことが文学の本道なりと云ひ、南欧系は、別にそんなことは何とも云はぬが、内心、「人生の脚を掬つ」たり、「睾丸をつかむ」ぐらゐ平気だと考へてゐるらしい。どうかすると、「人生の脇の下をくすぐつて」大いに悦に入ることもある。これが北欧系の気に入らぬ点で、「それは相撲の手ではない」と云つて腹を立てるのである。南欧系は、とぼけて、おや、「おれは相撲を取つてゐるつもりではなかつたが」と、苦笑するなど、甚だ意志の疎通を欠く次第である。
これはまた別の分類法であるが、前述の二傾向に関係なく、特別の名で呼び得る一派がある。
一、近代主義一派。これは、云ふまでもなく、未来派、表現派、ダダイズム、構成派などの芸術的新傾向の追従者で、多くは北欧系に属する作家であるが、もうそろそろ、南欧系の中から、例へば、コクトオやリイヌの亜流の如きものが出て来てもよささうなものである。
未来派、ダダイズムなどの傾向を取り入れた戯曲は、まだ日本に出て来ないやうであるが、表現派、構成派などの名を冠した、一寸信用のでき兼ねる戯曲が近頃ちよいちよい現はれる。この一派は、勿論、既成美学の破壊、従つて、在来の演劇の否定に進みつつあるのであるから、普通、筋道の通つた戯曲や演劇は、彼等から軽蔑され、敵視されてゐる。ここに於て、北欧系の作家中錚々たる人々でさへ、彼等の前では大きな顔ができないのである。その台詞の如きも、例へば「お面だ、お小手だ、お胴だ、そら、お突だ!」といふやうな猛烈な掛声の連続であるから、さすが「力」の作家たちも、たぢたぢである。然しながら、これらの傾向は、何も、恐るるに当らない。沈滞萎靡した末流文学に、一脈の活気を与へるべく生れた注射文学に外ならない。少し痛くても我慢するより外はない。効き目はいつか現はれる。痛い時は、まだ効いてやしない。
この近代主義諸傾向を尻目にかけて、しかも実は、密かに「効くなら一本刺してもらはうか」と思案しながら、それほどでもあるまいと落ちつきを見せてゐる一派、これが、
二、既成作家及びその後継者一派である。シェイクスピイヤより、イプセン、ストリンドベリイ、さてはチエホフ、ブリュウ、マアテルランクなどを師と仰ぎ、オニイルに感心し、ルノルマンを褒め、ルナアルを新しがり、アンドリェエフを一寸真似る手合である。この一派は、近代派が攻撃するほど、「どうにもならない」連中ばかりではなく、勉強次第では、オニイルやルノルマンぐらゐまでなら漕ぎつけ得る才能を恵まれてゐるものもないではない。それくらゐになつたつて何にもならないと云へばそれまでであるが、私は、世人と共に、やはり、この一派に最も期待をかける。何となれば、近代主義も、畢竟、しつかりした基礎の上に築かれなければならぬと信じるからである。写実主義、新浪漫主義、象徴主義、これらの諸流派は、既成文学として排し去るためには、まだ、わが国に於てはあまりに幼稚である。他の部門は兎に角、演劇に於ては、殊に戯曲に於ては、なほ、これらの畑に、本当の果実を実らさなければならない。
もう一つ違つた分類に従へば、これは近頃、問題視されてゐる
一、プロレタリア一派。即ち、共産主義を奉ずる青年作家の一群である。この一派は、文学的流派と呼ぶことはできないが、兎に角、文壇的に擡頭しつつある一勢力である。彼等は文学を以て、共産主義宣伝の手段にすぎずとなす点に、特色がある。従つて、戯曲も、一つの思想的傾向に色づけられ、演劇も、芸術である前に「運動」でなければならないと主張する。甚だ簡単明瞭であるから、議論の余地はないのであるが、ただそれだけならいい。彼等は、共産主義的思想を露骨に掲げない作品、ブウルジュワ階級に対する呪咀、怨嗟、罵詈を根柢としない戯曲を「一文の価値」なきものの如く批評し、引いて、さういふ作家を仇敵の如く、人非人の如く取扱ふに至つて、私は、聊かその了見の狭きに驚くのである。
凡そ、文学の使命といふものは限られてゐる。それが如何なる思想を含んでゐようと、その思想のために人は文学を愛しはせぬ。まして、その思想に同化されはせぬ。なるほど、トルストイの思想は若干の共鳴者を出しはしたが、それは彼が、優れた芸術家であつたと同時に、偉大な人格を背景としてゐたからである。共産主義の思想と雖も、トルストイの如き人物が説いてこそ「宣伝」にもなれ、お互ひが、如何に大声叱呼しても、それは、ただ、「自己の宣伝」に終るのみである。「自己宣伝文学」といふならわかる。然らずんば、単に衆愚を対手とする「煽動文学」たるに甘じるがいい。ただ惜むらくは彼等の中に、二三の才能の優れた作家がゐて、その芸術的才能を動もすればその「目的」のために酷使し、磨滅せしめてゐることである。
私は、共産主義が、彼等の手段より、もつと巧妙に、もつと有効に、もつと正々堂々と「宣伝」されつつある事実を知つてゐる。そして、その「宣伝者」は、その「文学」に「共産主義の色」をつけなくてもすむのである。あらゆる「優れたる文学者」は、常にその優れた芸術のみによつて、「革命」への秘密の導火線を努めてゐる──優れた科学者が、常に社会を変形しつつあると同様に。アインシュタインを、長岡半太郎を、ブレリオを、パストゥウルを、誰かブウルジュアジイの走狗と呼ぶものぞ。況んや、労働組合に加入せざる靴屋の一職工が、一々自ら造るところの靴に、「革命」なる焼印を捺さずとも、いつの日か決然と起つて、彼等の指揮下に馳せ参じないと保証できるか。
彼等の仇敵視する
二、ブウルジュワ作家一派。その中に、彼等の最も信頼すべき味方を発見する日があるであらうと同時に、その思想といひ、その生活といひ、その趣味といひ、一から十までブウルジュワ的な作家が幾人かあることはある。それらの作家は、その作品の中で、その思想を暴露し、その生活を語り、その趣味を表はしてゐる。彼等は思想的に、ブウルジュアジイの弱点を擁護する反動的態度を明示してはゐないが、所謂「現代を呼吸せざる」作家の通弊として、時代の歩みに鈍感であり、「幸福」の観念にわれわれと相通じないものがある。道徳の仮面を着た「獣」であるのは已むを得ない。この種の作家は、今や多く新劇界から忘れられようとしてゐるから、さまで顧慮するに足らぬ。
これ以外に、更に分類のし方もあると思ふが、これら様々の傾向から生れる作品、舞台に接して、その優劣を批判し、好悪を定め、取捨選択を行ふのは世人の勝手である。単に無責任な泥の塗り合ひによつて、その何れにも幻滅を感じない用意が必要である。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「演劇新潮 第二巻第三号」
1927(昭和2)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月6日作成
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