「追憶」による追憶
岸田國士
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八月号で芥川竜之介氏の「追憶」といふ文章を読み、誰でも同じやうな追憶をもつてゐるものだといふことを知り、転た感慨を催した次第であるが、昨日、K社の山本氏に会ひ、たまたま芥川氏の近況を知ることを得た。それで本誌への責ふさぎかたがた、この一文を草することにした。病床にある同氏への御見舞ともなればこの上もない幸せである。
幼稚園
僕の通つた幼稚園は、四ツ谷の津の守坂にあつた。今はもうあるまいと思ふが、大きな椎の樹が遠くから見えた。椎の実が落ちる頃、僕はよく風邪を引いて休んだ。
僕のおやぢは、その頃陸軍の大尉だつたので、僕にも軍服をそのまま小さくしたやうな服を著せたものである。しかし、袖の筋は二本しかつけてくれなかつた。おやぢのは、いふまでもなく、三本だからである。
幼稚園への送り迎ひをしてくれた女中は、なかなかの才女で、僕に百人一首を暗誦させたのださうだ。
僕は、途中で一度うんこがしたくなつた。彼女は、顔をしかめてゐる僕に「柚の皮、柚の皮」と云つてお尻を叩けと教へた。小さな陸軍中尉は「柚の皮」を連呼しつつ、津の守坂を下つた。
ブランコ
その頃、僕の家は、塩町にあつた。だから、遊びに行くといへば、青山の原か、乳屋の原である。乳屋の原とは、今の荒木町一帯を指すらしく、その頃は不見転芸者などゐたかどうか、兎に角、牛がモーモー鳴いてゐたのである。その原にブランコがあつた。
そのブランコから落ちて、怪我をした時のことである。傍らで風船をついてゐた少女が、その風船を僕の額の傷口に押しあてて、なんとか優しいことを云つてくれたのを覚えてゐる。その少女は、たしか、染物屋の娘である。今はさぞいいお神さんになつてゐるだらう。
相撲
僕もよく相撲を見た。しかし、両国まで出かけて行つたことはめつたにないらしい。大方は招魂祭の余興相撲であつたらう。見物は軍人とその家族が、大部分であつたやうに覚えてゐる。梅ヶ谷が常陸山に負けて、べそをかいてゐた──と、僕はその時信じてゐた。負けても土俵の上に頑張つてゐて動かない、小緑といふヘンな男がゐた。
画家
小学校に通ひ出して、一家は左門町に引越した。向ひ側にMといふ同級生がゐて、そのお父さんが画家だつた。それは日本画の方に相違ない。襖だと思つてゐたのは、今考へると屏風で、草の葉の間を蛍が飛んでゐる画を描いてゐた。先づ小さな丸い紙片を処々に貼つて、その上を一面に薄墨で塗り、あとで紙片を剥がすと、蛍の尻ができてゐる。それから、月を描く時、茶碗をふせて、そのまわりにやはり、墨を塗りつけた。「ずるいなあ」と思つた。
痴情沙汰
風呂場が騒々しかつた。朝である。
母の後ろからなかをのぞくと、女中のよしが、壁にもたれて泣いてゐる。馬丁のオカドが右手に木鋏を持つて、そのそばに立つてゐる。よしの髪の毛が半分、オカドの左の手から垂れてゐた。
学問
僕は尋常小学で何を習つたか覚えてゐない。読方は、ハタ、タコ、コマ、カマといふ文句だけしか習はないやうな気がするし、習字は、小野道風の表紙がついた習字帖のことだけしか記憶にない。そして、先生は「三ツ口」といふ綽名だけが頭に残つてゐる。
そのくせ、穢い女の子と並ばされたうら悲しい気持だけが、馬鹿にはつきり浮んで来るのはどうしたものか。
旅行
小学校にはひる前、旅行をしたのは、熱海へ行つた時だけである。おやぢが、馬で怪我をした、予後の保養かたがた、温泉を選んだものと思はれる。
熱海といつても、温泉が時間をきめて噴き出すことと、顔ぢう火傷のあとのある宿の女中のことと、海へキシヤゴを取りに行つたことと、「渡るに安き安城の……」といふ歌を唱ひながら、おやぢと一緒に山道を歩いたことと、ただそれだけが想ひ出の全部である。
おやぢ
おやぢは僕を兵隊にしようと、その頃から思つてゐたらしい。そして、僕が、後年、文学をやり出したのを見て、心甚だ平かでなかつたのは確かである。
然るにおやぢが、嘗て、一篇の新体詩をものしたことのある事実を、最近に至つて発見したのである。
それは、日清戦争が始まつて、将に戦地に向はうとする時、宇品から、母に送つたものである。勇壮な歌調、しかもおのづから纏綿たる情緒を漂はせたものであることはいふまでもない。一介の武弁、あれでも三十にして多感の詩人であつたかと思ふと、僕の幼時は、案外文学的に恵まれてゐたかもしれぬ。
お伽噺
少年世界は、毎月取つてゐた。もちろん、小波の愛読者である。なかでも、太郎露と次郎露の話ほど、僕の夢をベルセした話はない。
僕は今でも、あの蟷螂が、意地の悪い爺に見えてしかたがない。
それから、はつきり眼に浮ぶ挿画は、地獄へ墜ちた小波が、閻魔の舌を抜いてゐる絵である。
昔噺では、「大江山」が好きだつた。
老婆といふものが、不気味なものと思ひ出したのは、「安達ヶ原」を読んでからである。
活動写真
神田の錦輝館へ初めて活動写真を見に行つたのは、幾つの年だつたか、なんでも戦争の写真である。亜米利加の星条旗が風に翻り、軍艦が波を蹴立て、鉄砲の銃先から、パツパツと白い煙が出るのを、不思議な感動をもつて見つづけた。
今でも、活動写真に対する僕の興味は、さういふ「原始的」な部分に集注されてゐる感がある。汽車が音を立てずに走り、人が声を出さずにものを言ふ、その奇妙な現象は、確かに一種の恐ろしい魅力である。(一九二六、九)
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
1936(昭和11)年11月15日発行
初出:「文芸春秋 第四年第九号」
1926(大正15)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月19日作成
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