「ゼンマイの戯れ」に就いて
岸田國士
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僕は元来活動写真といふものを、それほど研究的に観てはゐなかつた。巴里にゐる間近所に常設館があつたので、チヤツプリンの喜劇がかゝると観に行つたぐらゐのものである。たまたま、アントワアヌが新聞の「演劇時評」中で、アベル・ガンスの「車輪」を激賞してゐるのを読んで急にそれを観に行く気になつた。行つて見て、いゝことをした。いろいろのことを教へられた。活動写真の芸術的生命に可なり大きな期待をもつやうになつた。それから、「巴里の女」を観た。「ステラ・ダラス」を観た。「殴られるあいつ」を観た。そして考へた。将来は兎に角、今のうちなら、われわれ文学者が活動写真といふ仕事に参与し得る余地があると考へた。
なるほど、映画脚本なるものに、いろいろの様式、いろいろの段階があることは想像し得られる。しかし、演劇に於ける戯曲の地位は得られなくとも、謂ふ処の「文学的要素」が、もう少し自由に、豊富に、少くとも正しく取り入れられた映画があつてもいゝではないか。それが為めには、監督の「文学的教養」もさることながら、第一に、映画脚本を「筋」と「テクニツク」との案配に終始せしめず、映画の「効果」に一層の「詩」を盛らうとする努力が、当然一部の人々によつて脚本そのものゝ上に試みられなければならないと思つた。
かういふ考へは、固より「我田引水的」である。たゞし、僕は、我が田にのみ水を引かうとするものではない。演劇が当然文学から独立し、戯曲が舞台から駆逐せられてもいい如く、映画の生命は、文学的要素を離れて存在し得ることは、今日誰も疑ふものはないのである。たゞ、今日迄、僕は寡聞にして、全然「文学的要素」を排除して、立派に芸術的効果を挙げ得た映画といふものを知らない。むろん、今日まで「佳き映画」とされてゐるものゝ多くは、「文学的要素」と関係なく、その特質を発揮してゐるかも知れない。それは決して、「優れた文学的要素」を否定する理由にはならないのみならず、それらの映画が、その平凡な、又は低級な「文学的要素」の為めに、どれほど全体的価値を低めてゐるか、これは映画製作者の均しく考慮すべき問題であると思ふ。「巴里の女性」然り、「ステラ・ダラス」然り、「殴られる彼奴」然り。何れも、不必要に「文学」を軽蔑してゐる。「詩」を傷けてゐる。それが為めに、映画として、どれだけ「よりよく」なつてゐるか、それが聞きたいものである。
今度、衣笠貞之助君の監督で、川端康成君作の「狂つた一頁」といふ映画が出来た。これは、一見筋らしい「筋」はないやうに見える。あつても、それは珍らしいとか、面白いとか、いふやうな筋ではない。しかし、あの筋をあゝ取扱ふところに「文学的価値」がある。「不必要なものを加へない」といふことは素晴らしい「文学的手腕」である。
結局、映画の芸術的価値は、今の処、かなり脚本の文学的生命に左右されてゐる──演劇に於ける戯曲ほど根本的ではないが──と云へよう。文学を無視するのはよろしい。下らない文学に縛られないやうにしたいものである。下らない文学に縛られない為めには、優れた文学的要素を選べばいゝ。強いて、それを避けるには当らないのである。それほど文学を怖わがる必要はない。どうも、映画専門家のうちには、文学を眼の敵にしてゐる人があるらしい。だから、文学でないやうな顔をした「下らない文学」が、あなた方の味方面をするやうになるのである。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
初出:「演劇・映画 第一巻第八号」
1926(大正15)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月6日作成
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