劇的伝統と劇的因襲
岸田國士
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批評家がいろいろの立場から作品の価値を論じることは自由であるが、文芸の種目(ジャンル)に関して、聊かも定見のないことを暴露するに至つては、甚だ心細い。
今日文芸批評の筆を取る人々のうちで、自分には詩の批評はできないと公言し、または、無暗にさうきめてかかつてゐる人が多いやうである。そして、世間は勿論、文壇のうちでさへ、誰もそれを不思議だと云はず、「詩が解る」といふことは、「文学が解る」といふことのうちにはひるのだとは信じてゐないやうである。
従つて戯曲なども同様に、所謂批評家の批評を受けずにすむかといへば、さうではなく往々「小説が解れ」ば「戯曲も解る」ものと思ひ込んでゐるらしい批評家のとんでもない評価を受けるのである。この理窟がどうも僕には解らない。
僕はここで、戯曲批評論をしようとしてはゐない。ただ、所謂、劇評家(クリチック・ドラマチック)をして、遂に戯曲評を断念せしめつつある現在の演劇界を見る時、われわれの如き、批評を専門としないものでも、少しは戯曲について語ることを許されるであらうと思ふのである。
僕は第一に、毎月各種の雑誌に発表される戯曲が、如何に舞台的伝統を無視したものであるか、しかも、たまたま、その点でパスするものがあるとすれば、それはまた、如何に舞台的因襲に囚はれたものであるか、この二つの傾向について、若い演劇愛好者の注意を喚起したいのである。
それならば、舞台的伝統とは何か。つまり、劇的伝統である。これは要するに、演劇が今日まで、それのみによつて、芸術としての存在を保ち続けて来た本質的の要素で、所謂「舞台の生命」を醸し出す表現の魅力である。
これに反して、舞台的因襲とは、即ち、劇的因襲で、演劇が、それによつて、今日まで娯楽としての存在を主張して来た従属的の要素である。所謂「舞台の約束」と自称する、安易な手順にすぎないのである。
なるほど、従来のドラマツルギイは、たしかに、この従属的の要素について論じすぎてゐる観がある。しかし、それは演劇が、他の姉妹芸術の如く、早くから俗衆に見切りをつけなかつたことに基因する。
最近、「新潮」誌上や「都」紙上で、森田草平氏が論じてをられることは、従来のドラマツルギイから一歩も出てゐないものであり、さういふ観方をしてゐるものがまだ多いから、日本の新しい芝居はなかなか生れて来ない。
新しい戯曲は、その思想的内容もさることながら、また、主題の文学的価値もさることながら、第一に──と云つては語弊もあらうが──少くとも、新しい戯曲なるが故に、どこか旧い戯曲と異る一点を、その様式上の進化に求めたいと思ふ。その進化とは、いふまでもなく、本質に即した進化でなければならない。作家も、批評家も、俳優も、舞台監督も、劇場経営者も(僕は公平であることに努める)そして、殊に一般観客も、新しい戯曲の標準をここにおくことによつて、新しい演劇の将来が決定されるのである。
僕は近頃、日本の現代戯曲を読みながら、一寸興味のある問題にぶつかつた。それは、これらの戯曲の作者を先づ二種類に分けることができる。甲の群は、早く云へば、どんな俳優が演じても相当の効果を挙げ得る戯曲を書く作家である。乙の群は、それと同じ俳優が演じたのでは割の悪い戯曲を書く作家である。言ひ換へれば、甲は、俳優が良ければ良いに越したことはないが、少しへたな役者でも、それほど致命的結果を見ずに済むのに反して、乙は、良い俳優が演つて、初めて効果を挙げることができるが、少しへたな役者にかかつたら、すつかりぶちこはされるといふ──さういふ違ひがあるのである。
そこで、この二つの種類の作家について、どういふことが云へるか。
「あの作家の書いたあの作品は、確かに傑作だ。あんなへたな役者がやつても、あれだけ面白い。ああなると、舞台とか俳優とかは問題でなくなるんだね」
なるほど、この言葉には真理がありさうだ。
それでは
「あの作家の書いたあの作品は、あんなへたな役者にやらすべきものぢやない。まるで、佳いところを滅茶苦茶にされてしまつてる。やつぱり、あの素晴らしい場面は、それだけの役者でなければやりこなせないんだね。あの人物の性格からして、普通の役者ぢや、どうしたつて出しきれないよ」
これも、一応尤もな議論らしい。
何れも、作者にとつては、有難い、好意に満ちた批評であるが、この結果は、ある種の観客に云はせれば、また違つた観方として現はれるかも知れない。即ち、
甲の場合は──「面白いね、役者は素人だつていふが、なかなかやるぢやないか……。これなら、どこへ出したつて恥かしくないや」
乙の場合には──「なんだい、一体この芝居は……。どこが面白いんだい。退屈な脚本だね、またなんて人だい、作者は……」
ここに至つて万事休すである。しかし、幸ひにして、これほどの間違ひをする見物は、この雑誌の読者のうちにはないと信ずるが、「これに似た間違ひ」は、世間にまんざら無いでもないことは事実である。その証拠に、甲の部類に属する作家が常に持て囃され、乙の部類に属する作家が、次第に忘れられようとしてゐるではないか。それだけならまだいい。甲の部類の戯曲は、ますます舞台的に成功し、従つて、よい意味にさへ発達し、乙の部類に属する戯曲は、だんだん舞台から遠ざかり、舞台的生命が稀薄になり、従つて、新劇運動の中心となつて有力な役割を演ずることが、不可能な状態に陥りつつあるのである。
例を挙げることは容易であるが、その必要はあるまい。但し、この二つの部類は、ただそれだけで、何れが芸術的に、戯曲として高級であるとか、或ひは、新しいものであるとか、そんなことは云へない。人間でいへば、テンペラメントのやうなものである。それだけで、価値批判はできないが、しかし甲の部類は、現在の日本のやうな国では、劇壇に、あまり好ましい刺激を与へないばかりでなく、却つて、姑息な、独りよがりな、大ざつぱな空気を作り出すことになりはしないか。ところが、乙の部類になると、それが優れたものを生めば生むほど、どこかに知らず識らず眼に見えない「理想の舞台」が築かれ、どうかしなければといふ気運を促進することになるだらうと思ふ。何よりも、俳優が眼を覚ますだらう。見物が黙つてゐないだらう。
僕は、この意味で、若い劇作家が、今後、「新しい戯曲」をと志す場合に、なんとかして、在来の俳優にはやれないやうなものを書かうと企てることが、既に、「新しい演劇」への意義ある第一歩であると信じてゐる。
かう述べて来ると、かの劇的伝統なるものは、現在の俳優が全く表現し得ないものであるかの如き誤解を生むかもしれないが、それにはさう厳密に云ひ切る必要はない。まして、現代日本作家中、所謂、甲の部類に属する作家が、悉く劇的因襲のみに囚はれて、他を顧みないといふわけでは決してないのである。要するに、この二つの方面から、現今の日本劇壇を観ようとしたまでである。しかしながら、少しでも、僕の言つた言葉の裏がわかつてくれる人ならば、この二つの傾向が、全く無関係に存在してゐるとは思はないだらう。
俳優の演技によつて、その効果を左右されることが少い戯曲とは、一体どんな特色をもつた戯曲だらう。その特色は、果して、その戯曲の芸術的価値を高めるやうな性質のものばかりだらうか。これが問題なのである。
例へば、「筋が面白い」といふ特色もその一つに違ひない。これは、「主題の価値」と結びついて、確かに作品の芸術的生命を形造るものである。が、しかし、「その面白さ」は、ややもすれば、かの「劇的」なる美名の下に、通俗的興味を満足させるにすぎない場合が多いではないか。かうなると、単に「筋の面白さ」を求めることは、戯曲の邪道であり、演劇の堕落である。
次に、「場面の変化」である。これも、作品を単調から救ふ必然の変化であれば、何等問題はないのであるが、往々、目先を変へるための不自然な、取つてつけの「粉飾」を施すことがある。これも、絶対に作品の芸術的価値を高めるものではない。殊に、舞台の機械的装置によつて、観衆を眩惑しようと試みるが如きは、演劇と見世物とを混合するものであり、この種の演劇の道具に使はれる戯曲こそ迷惑千万だといはねばならぬ。
更に「台詞の云ひ易い」といふことである。台詞が云ひ易いといふことは、二つの場合がある。即ち台詞がよく書けてゐる場合。つまり自然な、又は板についた台詞である場合と、もう一つは、平凡な、単純な、大ざつぱな、露骨な台詞である場合と、──そして、この二つの場合は、全く相反してゐるやうであるが、「誰にでも云へる台詞」といふ点で一致する場合がある。つまり、自然ではあるが月並な、板についてはゐるがうま味のない、流暢ではあるが平坦な、さういふ台詞は、確かに、俳優のへたなことによつて、左ほど聞きづらくもならず、さうかといつて、俳優が上手でも、これまた、その割に聴き栄えのしない結果を生むのである。
今日比較的新劇の舞台で成功し、未熟な俳優をして、天下に懼るべきものなしと云はんばかりの自信を抱かせ、日に日に、演劇を芸術家の手より遠ざけつつあるものは、誠にこの種の戯曲である。自然な会話、板についた台詞、これは、今日まで、舞台的伝統といふよりも、むしろ舞台的因襲の標準によつて律せられてゐたのではあるまいか。
以上は単にその一例にすぎない。度々云ふことであるが、現在の演劇は、もうどうにもならないものである。われわれが明日に求める演劇は、従来、あまりに重要視されてゐた劇的因襲から脱却して、永遠に生命ある劇的伝統の探究に立脚すべきである。
今日の舞台、今日の俳優、今日の観客よ、そして最後に、それらの忠実な相手たる作家よ、ここでお別れをしよう。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「女性 第九巻第六号」
1926(大正15)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月18日作成
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