幕間
岸田國士
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妙なことを云ふやうですが、僕は、芝居を観に行くたんびに、「劇場の空気」といひますか、あの幕間の数分間が醸しだす見物席乃至廊下の雰囲気を、そんなに有難いものだとは思はないのです。出来ることなら、たゞ一人、親しい連れでもあれば、その連れと二人でもいゝ、どこか、人も見えず、人にも見られないやうな一隅を見つけ出して、次の幕があくまで、今見たばかりの舞台を、もう一度静かに、頭の中で繰り返して見たい、さういふ慾望を制し得ないのです。
これは甚だ間違つた了見かも知れません。間違つた了見と云へば、僕は先年、イタリイの旅を終つてパリに帰つた時、印象はと聞かれて或る友人に答へた言葉が、「イタリイにイタリイ人がゐなかつたら、さぞよからう」
僕は、今、「芝居を観る処が劇場でなかつたら、さぞよからう」と、それほど皮肉なつもりもなく云ひ得るやうな気がします。
これは日本でも西洋でも同じことだと思ひますが、芝居小屋、即ち劇場といふ処は、或る意味で一つの社交機関と見做されてゐる。或ひは、いろいろの点から、流行のマニフェスタシヨン、ヴアニテエの相互満足が行はれる場所なのです。
美しい性のいはゆる「芝居行きのお化粧」はまあ別として、「処で、今度僕の方の会社ではね……」と云つた話の調子から、「昨夕の放送曲目は、なつちやいないぢやないか」などゝいふ物腰に至るまで、さては、「僕も読んだよ、一寸いゝ処があるね、あれならまあ褒めてやつてもいゝ」──「こゝの洋食は近頃うまくなつたよ。僕は認めてやるよ」
みんな、少しづゝ、上気せるんですね。
が、まあ、それもいゝとしませう。
どうせ、幕間が舞台より面白かつたりしては大変ですから。
尤も、幕間といふものが無ければ、芝居には来ない連中があるかもわからない。
それほどでなくとも、幕間なるものが無いとなると、自分が芝居を観に来てゐるといふことを、つひ忘れてしまふ連中があるかもわからない。少くとも、芝居を見に来たやうな気がしない連中があるかもわからない。
僕なども、実を云へば、二時間も続け打ちに舞台を見せられてゐては、どうにも疲れてしやうがないのですが、幕間があるなら、一人で観てゐるより連れがあつた方がいゝ。話などはしなくても、幕が下りて、たゞ、お互ひに顔を見合はせたゞけで、「なるほど」と首肯き合へるやうな連れが一人ほしい。
パリの劇場で、幕間の数分間を、さほど不愉快に思はずに過せた劇場と云へば、まあ、コメデイー・デ・シヤン・ゼリゼエの、それも木曜のマチネでせうか。
見物の数は三四十人。座席はあれで八百もありましたらうか。ピトエフ夫妻が、死物狂ひの舞台を見せてゐるやうな時でした。
それは、今日の築地小劇場と、やゝ似た「客種」であつたせいもあり、それでゐて、あらゆるジエネラシヨンを網羅し、あらゆる性が略ぼ平等の数を占めてゐたからでせう。
幕間の廊下は、恐ろしきまでの沈黙を守つてゐました。
ヴイユウ・コロンビエの幕間も、また、特筆すべきものゝ一つでせう。
こつちは、何しろ、もうパリ名物の一つであるだけに、外国から、わざわざ見物に来た、さういふ連中が、あの狭い廊下で、いろんな色の眼をきよろつかせてゐる。
初日などは、場所が少いお蔭で、パリの劇評界を一眼で見渡すことができる。
こゝで、一番困るのは、それと相場のきまつてゐるアメリカの「文学老女」とそれを取り巻くスノブの群、これなら、まだしも、神経衰弱の五百羅漢が、薄暗い廊下の隅に、「此の戯曲は抑も何派なりや」を考へ悩んでゐるわが築地小劇場の幕間こそ、世にも尊きものでなければなりません。
国立劇場コメデイー・フランセエズの幕間は、それぞれの頭の中を割つて見ない以上、これこそ、理想的な幕間でせう。なぜなら、そこには、けばけばしさと、物欲しさと、焦立たしさとがないからです。
少しばかり、「予期の満足」があり過ぎると云へば云へませう。「感激」よりも「誇らかな同感」がある。しかし、幕間の気分には、その為めに「落ちつき」と「温かみ」が生じる。一種の「気品」さへもついて来る。
僕は帝劇といふものに、こゝ六七年御無沙汰をしてゐます。従つて、最近の感想は述べられないわけですが、あそこの「客種」は一寸変つてゐるさうですね。話に聴けば、どうも、あまり感心しないものらしい。そんなら、歌舞伎とか市村とかはどうか。僕は、まだ前者には失礼してゐるが、此の間、市村座に行つて、六七年前と比べて、余程、幕間の──つまり劇場の雰囲気といふものが、変つて来たことを感じました。劇場の建築や、装飾や、見物の服装や、化粧や、そんなことよりも、見物の一人一人が、それぞれ、或る意味で変つて来たのだと思ひました。西洋風になつて来たかといへば、さうでもない。さればと云つて、必ずしも僕の理想に近くなつて来たといふのでもない。
不景気のせいでもありませうが、それから、近頃の芝居が下落したせいもありませうが、日本の見物は、どうも面白くなささうな顔をしてゐますね。さういふ顔が、あの窮屈な廊下を、無意味に行つたり来たりしてゐる。処々に、三々五々、「芝居も毎日ぢや飽きるね」といふやうな笑ひ方で、相手の顔よりも擦れ違ふ抜け襟の中に眼を落しながら、無性に敷島を吹かしてゐる中年以下の紳士連を見ることは見ます。
それよりも、座席と便所と売店との間を、廿日鼠の如く、無表情にキリキリ舞ひをして歩く美装の淑女は、一体、あれや、なんですか。
またフランスの芝居に戻りますが、「芝居は笑ひに行くところ」なるモツトオがあるにしても、パリの見物は概して、開幕中のみならず、幕間をさへ陽気にする術を心得てゐるらしく思はれます。
「謹厳第一」は必ずしも幕間を愉快にする信条ではありますまい。
幕が開いてゐるうちは静かでも、幕が下りた瞬間、破れるやうな拍手に交つて、見物席の隅々に起るあの「うれしキツス」の音を聞いたものは、日本のお役人さんならいざ知らず、やがて幕間の、のびやかな、くつろいだ、どうかすると、ちつとたしなめてやりたいほどの「たんのう気分」を、さうむきになつて憤慨はしないでせう。
僕だつて、その方は我慢ができる。我慢できるどころに非ず、どうせ、頭をひねるやうな芝居でさへなけれや、幕間は「見物が無邪気に演ずる即興劇」であつてほしい。自分でも一役ぐらゐもつていゝ。
「見物が無邪気に演ずる即興劇」であるからには、幕間の面白さは、戯曲に関係しない。役者たる見物の腕次第、頭次第、どうかすると腹次第といふことになるかもわからない。
とは云ふものゝ、劇場の舞台と廊下とは、その実甚だ交渉が密接であります。
早い話が、舞台で悲劇をやれば、廊下の空気も悲劇味を帯び、喜劇をやれば、廊下の空気も喜劇味を帯びる。表現派の戯曲を上演する。見物は表現派の表情で壁の額や天井のランプを見つめる。立廻り劇となると、食堂での箸の運びが、どうも穏かでなくなる。ラヴ・シインの後では、令嬢の挨拶までが、なかなかしめやかである。
僕は、かういふ点で、芸術的感銘の深い舞台の印象が、そのまゝ幕間の雰囲気を形るやうな劇場を、たゞ一つ東京にもちたく思ひます。
そして、希はくば、悲劇的なると喜劇的なるとを問はず、その雰囲気が、できるだけ快朗性を帯び、一種の弾力を感ぜしめるやうな調子があつてほしい。
僕は、この分で行くと、だんだん芝居といふものを観なくなる恐れ(?)があります。それといふのが、舞台には惹きつけられても、劇場に怖ぢ気がさすのです。幕間がつらいのです。それなら、幕間だけ、外に、通りに、出てゐればいゝぢやないか。さうです、その足が家の方に向きさへしなければ……。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社
1926(大正15)年6月20日発行
初出:「女性 第八巻第二号」
1925(大正14)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
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