「不可解」の魅力
岸田國士
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解らない、然し、何だか、かうふわつと来るものがある。少しぢれつたい、が、悪い気持ちぢやない。
芸術の鑑賞が、常にこれでは少々心細いが、僕はたしかに、今日まで、かういふものにぶつかつたことがある。
処が、さういふものでも、処々はつきり解る部分がないではない。そして、此の解る部分の魅力が、解らない部分の魅力をかなり左右することにも気がついてゐる。
僕は、此の解らない部分の魅力といふやつが、相当に好きなんだ。その代り、解る部分がつまらなければ、解らない部分は一向に魅力をもたない。まあ、さういふことになる。信用といふものは恐ろしいものですね。
実は築地小劇場で、「朝から夜中まで」を観たんです。
第一あの脚本であるが、銀行の出納口からホテルの一室までは、あの露骨さがいやだつた。処が、雪の野原を過ぎて出納係の家に来ると、あの「詩」がある。僕にも解る「詩」がある。佳い「詩」だと思つた。競馬場も貴賓とやらが来るまでは無難。踊り場の空気もいゝ。救世軍の会堂は、傑れた諷刺である。僕は、こやつ凡庸作家に非ずと思つた。解らない白がざらにある。翻訳では無理なエツキスプレツシヨンも多からう。工夫の余地もあらう。がその解らない処にも例の魅力がやつぱりある。軽蔑ができない。尤も趣味といふことになると、これは別だ。
次に、演出。やはり初めの二場は不満が多い。あとがだん〴〵佳くなる。あれだけ「雰囲気」が出せれば申分はない。
舞台装置は、「思ひつき」としては新しいものでないと云へばそれまでゞあるが、また、あれが表現派だと云つてしまへばそれまでゞあるが、兎に角、現在の日本には珍らしい、そして、意義のある試みである。所謂「真似事」の域を脱してもゐるし、効果も十分である。これまた、趣味の問題になると別に云ひ分はある。が、あれから「新しい美」が感じられなければうそだ。侮つた意味でなく、民衆の好むべき美がある。子供にも解る美がある。そして、それは日本では新しいものだ。
僕は前に、「どん底」の演出を見て、築地小劇場の出発点はこゝだと云ひ張つた。今度「朝から夜中まで」を見て、築地小劇場の出発点はこれでもいゝと思つた。
日本の新劇が、少くとも演出の上で、此の小劇場から色々の暗示を受けることは好ましいことである。少し場数でも多いと、上演不可能ときめてかゝる劇場主などは、舞台監督などは、一度、「朝から夜中まで」を見るがいゝ。序だから云ふが、ピトエフといふ舞台監督は十五場や二十場の脚本は、平気で舞台にかける。やり方一つですよ。
問題の要点がわきへ外れたが、近頃、表現派の戯曲を書く人が日本にも出て来たやうである。酔払ひや狂気の囈言を真似ても、それや、かまひはしませんが、余程上手に真似ないと、つい正気で物を云つてしまつたりなどする。正気で物を言ふと、つい人にも解つて、それが面白くなければ「不可解の魅力」も生じないわけで、一寸困るのです。
底本:「岸田國士全集19」岩波書店
1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「時事新報」
1924(大正13)年12月11日
初出:「時事新報」
1924(大正13)年12月11日
入力:tatsuki
校正:Juki
2008年11月30日作成
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