言葉言葉言葉
岸田國士



 ──僕はあなた見たいな女が好きですよ。

 ──さう? あたしも、あなた見たいな男が好き……。

 ──へえ、それぢや、入れ代つたらよかつたなあ。


 かういふ間違ひは、そんなに稀ではない。



 頭のてつぺんから──うしろから──額の生え際から声を出す人がある。

 日本の役者は妙な処から声を出しますね。──旧劇では頬のあたりから。新派劇では眼と眼の間から。そして、所謂新劇では、はてな、あれはと、耳の上からでしたね。たしか……。



 公園のベンチに腰をかけてゐると、一匹の野良犬が、どこからかやつて来て、ベンチの脚に小便をひつかける。

 犬は、してしまふと、僕の方をちらと横目で見て、あわてゝ眼をそらす。さうして、気まりが悪るさうに、向うへ行つてしまふ。

「おい、君、君……」

 僕はうつかり、さう呼びかけるところだつた。



 批評家が、自ら他人に加へた批評を読み返して見て、常にそれが、恰も他人が自分に加へた批評であるかのやうな感銘を受ける時、その批評家は、みぢめである。

 彼は、しまひに、本当のことが言へなくなるだらう。

 僕もさういふ一人であるらしい。



「翻訳者の歓びは、発見者の歓びである」

 僕がかういふのに対して、友の××は言ふ。「翻訳にも創造がある」と。そして附け加へる。「マラルメやヴアレリイを訳してゐれば、自分も詩を作らうなどといふ欲望は起らない」と。

 僕がこの友を畏れ、且つ愛する所以である。



 親戚の青年が一人、僕のところにやつて来る──月に一度乃至二度。

 彼は、来た時にはたゞ頭を下げる。それから帰る時、「もう帰ります」と云ふまで、黙り続けてゐる──二時間でも三時間でも、時とすると半日。

 僕は仕事の手を休めて彼の顔を見てゐる。といふよりも彼が今、何を考へてゐるかを知らうと努める。……彼は何も考へてはゐない。たゞ、悩ましげに、「自己の存在」を見つめてゐるのだ。

 彼は僕と話をしに来るのではない。彼には、黙つて彼の前にすわつてゐる人間が必要なのかも知れない。

 誰にでもさういふ時がある。



 庭にコスモスを植ゑさせた。少し時期が遅いかも知れないといふことであつた。ひでりが続いた。朝晩、丹念に水をやつた。萎れかけてゐた葉が、茎が、活き〳〵と伸び上つた。立派についた。

「なあに、コスモスなら、ほうつといてもつきますよ」

 今になつて、人が、かう云つたとする。

 あなたは、水をやつたことを後悔しますか。ほんたうに後悔しますか。



 十六になる妹は波をわがらない。二十になる姉は怖わがる。

 五つぐらゐの男の児は、波が寄せて来る毎に泣いた。三十を余計は越してゐないと思はれる、その母親らしい女は、子供をあやしながら、波に背を打たせてゐる。

 髪白の老婆が、黒い日傘の下から、「あぶないよ、お前」と叫んだ。



 あまり虫が多いので、窓に葭簾よしずの戸をはめさせた。

 さうすると、一匹の蠅が、十匹の蛾よりもうるさくなつた。



 女どもにも、たまには良い空気を吸はせてやらう──かう思つて……。

 海岸の宿屋に来てから、彼女らは盛に食ふ。──ほんとに、いゝのか知らと思ふほど食ふ。

「やつぱり、からだの具合が違つて来るんだね、薬なんだね……そんなに腹がへるのは」かういふと──

「それや……自分でお勝手をしないだけでもね」



「非常に佳い」甲の友は云ふ。

「どうも下らない」乙の友は云ふ。

 その中間を取つて、「まあ相当なものだらう」と思ふのが人情なら、その人情は、また「鬼に呉れ」てしまへ。

底本:「岸田國士全集19」岩波書店

   1989(平成元)年128日発行

底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社

   1926(大正15)年620日発行

初出:「文芸春秋 第二年第八号」

   1924(大正13)年91日発行

入力:tatsuki

校正:Juki

2005年1123日作成

青空文庫作成ファイル:

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