ある夫婦の歴史
岸田國士

愛するものよ、おんみもしわれを裏切りてわれこれをゆるさんとおもへど、その力なきとき、おんみその力をわれに与へうるや

──ある時代の悲喜劇から



 内海達郎は、近頃あまり経験したことのない胸騒ぎを感じた。それは、十数年前にパリで知合つて、わりにちかしく交際をした一人のフランス人、ロベエル・コンシャアルから、思ひがけない手紙を受けとつたことからである。

 手紙の文句はあらまし──戦争はすんだが、君の消息をまづ知りたい。無事であつてくれることを心から祈る。おそらく、君からの直接の返事が貰へるとしても、それを待つてゐる暇は自分にはないと思ふ。一ヶ月後には東京に向つて出発する。ある貿易商の秘書兼通訳の資格でといへば、君は、自分の日本語研究が今やつと役に立つたのだといふことを察しるだらう。船は君も承知のアンドレ・ルボン、ヨコハマ着は七月の末、そちらも雨季が明けた頃だと思ふ。家内や子供としばらく別れるのはつらいが、君のあの頃のことを思ひ出してみて、同じ運命が自分を訪れた皮肉におどろいてゐる。写真でしか知らぬマダム・ウツミに僕の敬意を伝へてくれたまへ。親愛なる友よ、再び君の手を固く握り得るチヤンスが近いことを確信する、といふ意味のものであつた。

 実をいふと、このロベエル・コンシャアルといふ男を友人にもつてゐるといふことを、内海達郎は、今日まで忘れてゐたくらゐである。フランス滞在の四年間を通じて、なるほど、しばしば、顔を合せた異国人の一人ではあつたが、それはまつたく、日本に対する興味だけで向うから近づいて来たといふ以外に、こつちから求めたつき合ひではなかつた。なるほど、ソルボンヌに籍をおいて、かたはら東洋語学校で学んでゐる青年だといへば、まんざら話の合はぬ間柄ではなかつたが、なにしろ、専門がまるで違ふところへもつてきて、なまじつか下手な日本語をしやべり、日本について並はづれた好奇心をもつてゐることが、彼には却つて荷やつかいな相手であつた。早くいへば、しよつちゆう利用されてばかりゐる、といふ感じで、それがまた、特別に無遠慮ときてゐるので、どうかすると、会ふのを避けるやうな態度をみせたことも、一度ならずあつたくらゐである。

 ところで、さういふ男からの久々の便りを見て、この胸騒ぎはいつたいなんだらうと、内海達郎は、自問自答した。

 T大学の細菌学教室が彼の勤め先であつた。講師の肩書は、さほど有がたいものではなかつたが、臨床の方面はまつたく自信がないので、生涯顕微鏡をのぞく仕事に没頭する決心でゐるのである。

 あと始末を助手に委せて、研究室を出た。この十年はまつたく一瞬に過ぎたやうに思つた。そしてその回想は、いきほひ、十年前のパリ生活につながるのである。デュトオ街のアパルトマンから、近所のパストゥウル研究所に通ふ、あの朝夕の、すがすがしい、そして、また一方では、いひしれぬものうい気分にとらはれた、あのパリの生活である。

 大学の門を一歩踏み出すと、焼け残つた本郷の通りが、彼を現実の埃のなかに引きもどす。込み合ふ電車、表情を失つた顔、どきつい女の衣裳、これでもかこれでもかといふ広告ビラ……。

 押し流されるやうにして、中央線のA駅を降りる。そこできまつて、ほつとする習慣がいつの間にかついた。

 妻の実家の疎開以来、そのあとへ納まつてゐる現在の住居は、延坪六十坪にあまる屋敷で、親子三人の暮しでは文句のいひやうもない。誰か気心の知れたものなら、半分住はせてやつてもよいといふ妻の意見もあるのだが、彼は、周囲の例から同居生活の不成功を数へあげて反対した。

 食卓につくと、彼は、妻の真帆子に言つた。

「君にいつか話したことがあるかもしれないが、パリで知り合つたコンシャアルつていふ男が、近いうちに日本へやつて来るさうだ。今日手紙で知らせてきたんだ。なんの目的だか、その頃、日本語の勉強をしてた男だが、別に深いつきあひをしたわけぢやない。だが、日本へ来れば、きつとなにかと、面倒をみてやらなけれやなるまい」

 妻の真帆子は、それ以上、詳しいことを聞かうともしなかつたが、それは、内海達郎にすると、すこし物足りない。もつと好奇心を起してもいいはずである。外国人の客が、一人や二人あつてもいいなどと、だしぬけに言ひだしたこともある彼女である。

 さういへば、彼等が結婚したのは昭和十年の秋で、その翌年の春、急に文部省からフランス留学の沙汰が出て、彼は身重になつた妻を残して日本を離れた。二年の予定であつたが、妻の実家に相談して、あと二年滞在の費用を出してもらひ、やつと研究をまとめることができた。その時、妻から、子供を両親が預るといふから、自分も出かけて行きたいと言つて寄越したのを、彼は賛成できない一理由があつて、思ひ止まらせたのである。その理由といふのは、ほかでもない。彼は年上のあるフランス女と同棲してゐたのである。この秘密は、むろん妻には知れるはずはないのだが、二つ返事で彼女を呼び寄せなかつたことは、いまだに、妻を釈然とさせてゐないこともまた事実であつた。

 娘のルナ子がひとりでおしやべりをはじめたので、内海達郎は、自然に話題を変へることができた。今年十五になるこの娘は、母に似て眼が大きく、色が白く、神経質であつた。

「すこし、黙つてらつしやい」

 と、母にたしなめられて、舌を出し、父親の方へいたずらつ子のやうに首をちぢめてみせた。

「かういふ連中が五十人ゐる教室は、ちよつと想像がつかんね」

「ルナ子は特別ですよ。不思議だわ。だれに似たのかしら?」

 なるほど、母親は、どちらかといへば口数の多い方ではなかつた。少女時代は、すましやさんといはれたくらゐで、彼との婚約の期間も、やつと一と月かそこいらだつたのに、第一の苦労は、彼女に口をきかせることだつた。

 しかし、言葉数の少いわりに、彼女の眼は実によくものを言つた。どんな問ひにも、キッパリ答へるその瞳の表情は、天下無類のやうに思はれた。三十六の今日まで、一種つややかな風姿を保つてゐるのは、まつたくそのためである。内海達郎は、新婚の幾月かを夢中で過したといふものの、四年の別居生活を隔てて、いはば、新しい妻を発見したのである。十年の歳月は、普通のコースを踏まず、日に日に妻への思慕をつのらせるといふ不思議な朝夕であつた。



 ロベエル・コンシャアルは、シンガポールで船をすて、英国旅客機に便乗して、七月三十日の朝、羽田へ着いた。

 彼等の一行は、都ホテルにはいつて、旅装を解いた。ロベエル・コンシャアルの日本語はすぐに役に立つた。彼は、帳場に現れて、内海達郎の勤め先へ電話をつなげと言ひつけた。

 かうして、内海達郎は、ロベエル・コンシャアルの到着を知つたのである。

 彼は、午後四時、ホテルの玄関をはいつた。ポーチでしばらく待つ間もなく、両手を差し出しながら、当の相手は、階段を駈け降りて来た。すぐには、見分けのつかぬくらゐ風体が変つてゐた。頭髪は薄くなり、口髭をちよつぴり生やしてゐる。相変らず血色はいいが、もう昔の若さは失はれ、微笑をうかべた眼つきに、どことなく生活の疲れのやうなものがみえた。彼は、日本語でまづ言つた──

「ご機嫌は、いかがですか。ずいぶん、久しぶりですね」

 彼はその日本語に、索然としたものを感じ、わざとフランス語で、

「よく来ましたね。君も無事でゐてよかつた。いつ頃まで、滞在の予定ですか?」

 彼は、また、日本語で、

「ええと、三ヶ月の予定……です」

 内海達郎は、自分のフランス語にさほど自信があるわけではない。しかし、この程度の日本語を使ふ外国人と、日本語で話をするのは、実にたいぎなものだ。相手もこつちのフランス語をあぶなつかしく思つてゐるに違ひないのだが、そこは身勝手なもので、第三者でなければ公平な判断はできない。ともかく、内海達郎は、この相手と日本語で話すのは、やはり、半分利用されてゐるといふ気がしてならないのである。

 しかし、かうして久しぶりで会つてみると、さう好もしくない記憶だけが浮んでくるわけではなかつた。サン・ミシェル通りを二人で夜おそくまでほつき歩き、パリの学生生活の裏をはじめてのぞかせてくれたのもこの男である。ひと夏、ブルタアニュの田舎で暮したいと思ひ、その親戚に当る農家へ、紹介状を書いてもらつたこともあるのだ。

 ところで、だんだん話が進んでいくうちに、ロベエル・コンシャアルは、ふと、こんなことを、フランス語で言ひ出した。

「マダム・ホチムスキイから便りはありますか? 僕は、時々、戦争中も会つてゐた。話題は君のこと以外にはなかつた。僕が日本に行くと言つたら、悲しい顔をしてゐましたよ」

 そこで、内海達郎は、思はず顔をほてらした。マダム・ホチムスキイとは、彼がパリで最後まで一緒に暮してゐたユダヤ系の年増女であつた。彼の下宿してゐた家の隣のアパアトに、独り住んでゐる未亡人であつたが、ふとした機会に接近するやうになり、やがて、人目がうるさいといふので、二人はモンパルナスのホテルに部屋を借りて同棲した。

 ロベエル・コンシャアルは、このホテルへ度々やつて来て、三人で芝居を観に行つたり、食事をしたりしたこともある。そればかりではない。彼がいよいよ日本へ引上げる年の春休みに、その女を連れてポオといふ街へ、二週間ほど旅行に出たことがあるのだが、その旅先へ、ロベエル・コンシャアルがふらりとやつて来て、勧めもせぬのに、三四日逗留して行つたことがあるのである。その時のことは、もやもやした感情となつて彼の頭に残つてゐる。なぜなら、その三、四日の間に、ロベエル・コンシャアルは、必要以上にアメリイ・ホチムスキイを追ひまわしてゐたからである。

 ある日の夕方、公園のカジノで、彼がルーレットに興じてゐると、いつの間にか、そばにゐた二人の姿が見えなくなつてゐた。彼が懐ろを空にして、バアの方へ歩いて行くと、二人は庭に面した廊下の隅で、肩をすり寄せて話をしてゐた。

 また、ある日の午後、彼が頭を刈りに出て帰つてみると、アメリイは部屋にゐない。ロベエルの部屋をのぞくと、これも留守である。しばらく窓から外を見てゐた。買物袋をさげたアメリイとロベエル・コンシャアルが、市場の方から帰つて来るのである。

「アメリイのことは、話すのはよさう」

 と、内海達郎は、キッパリ言つた。ロベエル・コンシャアルは、そこで、薄笑ひをうかべ、

「それもよからう。ただ、彼女が君への愛情を大切に、まだしまつてゐることを告げたかつたのだ。どうだね、君の細君に紹介してくれますか?」

「お望みなら……」

 と、彼は無愛想に答へた。



 次の日曜日に、内海達郎は、ロベエル・コンシャアルを自宅へ案内した。

 妻の真帆子は、この珍客を、それでも、甲斐々々しくもてなした。相手の日本語が思つたより達者なので、彼女は、それが却つて気味がわるいやうな気がし、返事の言葉につかへるほどであつた。

「奥さんの写真を十年前に見ました。それは美しい絵を見た如くの感動でした。私の日本に関する夢においては、奥さんの和服でのすがたと、それから雨のなかの鳥居とが、いつでも浮びました」

「おやまあ、ほんとですか」

「それ、ほんとです。外国語では、なかなか嘘は言へないものです。非常にこまかいことが言へないだけ、ねえ、内海さん」

「それだけこまかけれや、たくさんだ。僕の経験では、外国語では、お世辞は言ひ易いね」

「ノン、ノン、あなたは一度も、私にフランス語で、お世辞言つたことはないでせう」

「このひとの一番下手なのは、お世辞ですわ。女は、それがすきなんですのにねえ」

 これはあんまり早口だつたせゐか、相手には通じないらしかつた。

 坐りにくさうなので、座蒲団を二三枚重ねさせようとすると、ロベエル・コンシャアルは、

「いえ、いえ、坐るのはよく出来ます。私、家でも、床にクッションだけ敷いて、その上にアグラかいてゐました」

 それはほんたうらしかつた。彼の東洋趣味は、さういふところに屡〻あらはれてゐた。彼は箸を使ふことにも馴れてゐた。そして、それが得意であつた。

 妻の真帆子は、客の気心をあらまし呑み込むと、次第に、自信ありげに振舞ふやうになり、それは、平生彼の前ではもちろん、ほかの如何なる客に接しても見せたことのない、よそ行きの姿態であつた。

 それはまことに複雑な神経の使ひ方で、しかも、十分それを楽しんでゐる風がみえた。茶の湯式の作法かと思へば、日本舞踊の下地をのぞかせ、品よく澄ましたあとで、屈託なく派手に笑ひ、その間、例の眼は、その特色を発揮した。

 彼女は、自分の美しさを強調することによつて、日本の女の一典型を、身をもつて描いてみせてゐるとしか考へられなかつた。

 さういふ妻の他愛ない自負心を、大目に見ないわけにいかぬほど、内海達郎は、その効果に自分も酔つてゐるのに気がついた。ロベエル・コンシャアルは、

「エレ・メルヴェイユウズ」

 と、小声で、しかし、力をこめて内海達郎の耳に囁いた。(これはたいしたもんだね)といふ意味である。

 内海達郎は、工夫をこらした妻の手料理にも満足した。パリの日本料理にはみられない垢ぬけのした献立を、いちいちもつたいをつけて説明する労をいとはなかつた。

 娘のルナ子も、おそるおそる顔を出した。

「おいくつですか? お嬢さん?」

「十五です」

「西洋式では十四ね。花ならば蕾、お母さんの蕾……」

 それを受けて、内海達郎は、

「お母さんの蕾、フランス語に直訳すると、ブートン・ドウ・ラ・メエル……お母さんのおできだ」

「あら、おできにちがひないわ」

 と、妻の真帆子は、手で口をおさへたが、ロベエル・コンシャアルは、キョトンとしてゐた。

 夕食が終ると、娘のルナ子はピヤノを弾かされた。グノオの子守唄になると、ロベエル・コンシャアルは、それに合せて低く歌つた。

「まあ、いいお声……ね、ルナちやん」

 と、妻の真帆子は、拍子をとる手真似をした。

 このあたりから、内海達郎の胸に、ロベエル・コンシャアルの昔の記憶がふと蘇つてきた。それはちやうどアメリイ・ホチムスキイ夫人を挟んでの彼の存在が、そのままそこに再現したかたちだからである。特別な二人の関係を十分認めながら、強引に二人の間に割り込んで来るあるものが、彼のなにげない態度のなかにある。アメリイの場合は、それがだんだん露骨になり、はつきり意識的な攻撃姿勢となつたのだが、今の場合、それほどとは思はぬまでも、なかなか油断のならぬ身構へが、既にできてゐるやうに感じられた。それはこの男の、早くいへばドンジュアニスムに由来するのか、または、白人特有の女性観にもとづくものか、その区別は、彼にはつきかねた。いづれにせよ、この印象は、内海達郎にはこころよからぬもののひとつであつた。

 しかし、その日は、表面なにごともなく、晴れやかな笑声に送られて、ロベエル・コンシャアルは内海家の玄関を出たのである。



 それから十日ばかりたつたある日のこと、内海達郎はロベエル・コンシャアルが急性の肝臓炎で入院をしたことを知つた。それが、目白にあるカトリックの病院であることもわかつた。

「見舞に行つてやらうと思ふが、君も行くかい?」

 と、彼は妻に訊ねた。

「さうね、その方がよければ、行かうかしら?」

「いいか、わるいかぢやない。行きたいか、どうかだ」

「あら、別に、是非行きたくもないわ」

 彼は一人で行くことにした。その病院は、普通の病院と違つて、清潔と規律とが厳粛なまでに支配してゐた。長い廊下を往来する尼僧の姿が、そのまま宗教的な空気になつてゐるのも、著しい特色である。

 部屋をノックしてはいると、意外なことに、若い女の先客がゐた。ひと目でただの女でないといふことがわかつた。

「カトウ・ミネコさん」

 と、ロベエル・コンシャアルは、さすがに、すこし照れた風で紹介した。

「僕は、内海です」

 彼は、形式的に頭をさげた。

「私のパリからの友達、ドクトルでプロフェッサア」

 と、ロベエル・コンシャアルは附け足し、やがて、病状の説明をフランス語でしはじめた。ビタミンCの欠乏に原因する風土病の一種で、和名は紫斑病といふものらしかつた。それだとすると、なかなか難病で、手当が遅れては取りかへしのつかぬことになる。異郷の空で長い病床につくことの味気なさを、彼も経験で知つてゐる。なんとか慰めの一と言を言つてやりたいと思ふが、自分も医者の肩書をもつてゐる以上、月並な気安めを口に出すわけにいかぬ。と、そばから、いきなり、

「一週間もしたら、なほるわね。あたし、もう時間だから、失礼するわ」

 と、女が言ひ、起ちあがりながら、片手を差出して、

「一週間……さう、また来てください」

 長い握手であつた。

「ダンサアだね」

 ドアが閉まると一緒に、内海達郎は訊ねた。

「よくわかりますね。東洋での私の最初のタンドル・コネサンス……」

 タンドル・コネサンスといふ言葉は、何かの本でみた言葉である。十八世紀の匂ひのする粋人めいた表現で、「わりなき仲」とでも訳せばよいか。内海達郎は、苦しい微笑をうかべて、大きくうなづいてみせた。

 しかし、この驚くに足らぬ事実は、内海達郎の胸につかへてゐる危惧のやうなものを一掃した。おぼろげな敵意さへ、今は感じなくなつた。

「僕は、君のアヴァンチュールが、やがていい思ひ出になることを祈るが……」

 と、そこまでをフランス語で言つて、

「しかし、今は、健康を取りもどすことが第一だね。少し長くかかるかもわからないが、日本の医学は決して馬鹿にならないから、心配することはないよ。この病院には、僕の同僚がゐる筈だから、あとでよく話を聴いておくよ」

「風土病なら、なほさら、日本の医者を信用するほかない」

 と、ロベエル・コンシャアルは、眼を伏せて言つた。そして、寝返りを打たうとして、顔をしかめた。関節の疼痛も紫斑病の特異な徴候である。

 彼はその足で医局を訪ねた。院長の出ない日で、副院長の都築博士に会ふことができた。大学の先輩で、向うでは内海の名を知つてゐた。

「外人が感染したケースは、ごく稀なんですがね。今のところ危険はないと思ひますが、面白い研究材料ですよ。パリ時代からご存じだとすると、文字どほり旧友ですね。日本語が達者だから助かります。まあ、できるだけのことはやつてみませう」

「お願ひします。何か連絡の必要があつたら、大学の教室の方へ電話をいただきます」

 内海達郎は、さう言ひながら、ロベエル・コンシャアルの生命を、自分が預つてゐるやうな責任を感じた。

 それから、彼は、三日にあげず病院を訪れ、果物や菓子や雑誌類を運んだ。加藤ミネ子なる女性には、あれ以来一度も顔を合せなかつたが、ロベエル・コンシャアルも、彼女のことには一言もふれなかつた。ただ、いつもきまつて、「奥さんによろしく」とか、「マダムは元気ですか」とか、忘れずに言ひだすので、彼は、帰つてから妻にそのことを伝へると、

「一度ぐらゐ、顔を出しとかないといけないわね」

「なにかのついでに行つてやれよ」

 すると、「今日はちよつとついでがあつたから、病院をのぞいて来た」と、彼女はある晩、彼に報告した。

「志村の鈴ちやんと、学習院の名画展覧会つていふのを見に行つたの。あたしが、コンシャアルさんの話をすると、自分も連れて行けつて言ふの。あのひとさういふところ、ものずきよ。丁度いいから一緒に行つたの。わりに近かつたわ。鈴ちやんつたら、ろくにしやべれもしないくせに、フランス語使ひだすから、あたしヒヤヒヤした」

「鈴江さんのこと、なんて紹介したんだ」

「それが困つちやつたの。西洋人には、ミスかミセスかをはつきり言はなければいけないと思つてたもんだから、あたし、わざわざ、マドゥムアゼル・シムラつて紹介したのよ。志村さんつてば、さうしたら、あたしの背中を、いやつていふほどぶつんですもの。あたしは、ひやつとするし、コンシャアルさんはオウつて、眼を白黒させるし、……変ぢやない、そんなの?」

「マドゥムアゼルを皮肉にとつたんだね。ああいふ階級の三十ばあさんには、そんなところがあるよ」

「普通は、独身主義を得意でふりまはしてるくせに……」

「コンシャアルのやつ、もう女をこしらへてやがる。君には言はなかつたが、初めて病院へ行つた日、偶然、来てたよ」

 妻の真帆子は、それを聞いて、ちよつと眉を寄せたが、そのまま黙りこんでしまつた。



 志村鈴江の代々木の家は、やつと接収を免れた洋風の小じんまりした住宅で、もともと兄のために建てたこの家を、兄が父の亡くなつた後の本宅へ移つたので、彼女はいくらかの動産と共にこれを貰ひうけ、自由気儘な生活をしてゐるのである。

 しかし、戦争以来、手許不如意は、金利生活者の一般の例にもれず、彼女も、しばらくは持物の売食ひで凌いではゐたものの、近頃はいよいよそれも先が見え、なにかとあせりだしてゐる始末である。

 男爵令嬢の昔の夢を見てゐるといふほどでもないが、万事に締りのない性格で、それがまた一面、聡明らしくみえて、すきだらけなものの考へ方を押しとほして、何にでもぶつかつて行く大胆さにもなつてゐた。

 この風変りな女性と、内海真帆子との結びつきにはまた妙な因縁があつて、真帆子が夫の留学中、さるつてを求めて、フランス人の一宣教師に語学の手ほどきをして貰ひはじめた頃、その宣教師のところへ、やはり会話の稽古に来てゐた若い娘が、この志村鈴江なのである。年は五つ六つ違つてゐたけれども、いい友達になつた。年下だと思つてうつかりしてゐると、どうしてきわどい消息を微細に知りつくしてゐるやうなところがあり、時には眼をみはつて、

「あなたは驚いた方……あたしよりよつぽど大人だわ」

 と、嘆声を発せざるを得ぬことすら、しばしばあつた。

 その志村鈴江も、ぐずぐずしてゐるうちに、もう三十になつてゐるのである。当人はぐずぐずしてゐるやうな風は見せないで、盛んに活躍してゐることを吹聴するのであるが、ほんたうはあれこれと迷つた末、今ではただ、遊んで暮せる道さへあればといふ気持になつてゐるのである。

 わざと、化粧を目立たたせない好みから、髪も自分で無造作に結び、地味な和服を器用に着こなして、スッキリとした形の美しさを生かしてゐた。顔立ちは、彫りの深い内海真帆子のあでやかさはないが、むしろ、古典的とでもいひたい、整つた線の細さが特徴で、どうかしたはずみに、熱した調子になると、切れの長い眼尻がつり上つて、妙に凄味をおびてくるのである。

 長年勤めてゐる年寄りの女中に、そろそろ暇を出さうかと思つてゐる。それがもう、負担に感じられる昨今である。

 彼女が、現在一番持てあましてゐる代物は、時間であつた。なぜかといへば、金のかかる遊びや交際は、ほとんど縁がなくなつたから、懐ろのいたまない暇のつぶし方を考へなくてはならぬ。読書とはいふけれど、まさか図書館へ通ふ気にはならない。好きな書物は、手の届くところになければ、ないも同然なのである。

 さうなると、気の合つた友達を訪ねるぐらゐが関の山である。しかし、これも主婦となつた女友達は、みな例外なく、うはの空である。さもなければ、二言目には、主人がどうしたかうしたである。女房の口から亭主の話を聞くぐらゐ、間のびのしたものはないと、彼女は思つてゐる。

 そこへ行くと、感心なのは内海真帆子である。彼女は、直接さうとは言はぬけれども、夫なるものを必要以上に重大な存在と考へてはゐない。彼女は、夫のためにのみ生きてゐるといふ錯覚からさめてゐる。彼女には自分の生活がある。それが、志村鈴江には、話相手として頼もしかつた。

 彼女は今日も女中に暇を出すことについて、この頼もしい女友達に、一言相談してみようと思ひたつた。電話で打合せがすむ。

 どんな無理をしても、手ぶらでは行けない習慣である。そして、どんな場合でも、そのへんでざらに買へる品物なぞさげて行く気はしないのである。そこで、銀座へ出て、虎屋で羊羹を一本包ませる。

 さて、二人が会ふと、話はいくらでもある。ロベエル・コンシャアルの印象が話題になる。ところで、その時、思ひ出したやうに、

「あたし、あれからまた、ぶらつと訪ねてみたのよ。ずゐぶんよくなつてるらしいわ」

 と、志村鈴江は言ふ。

「へえ、ひとりで……相変らず勇敢ね」

「ひとりの方がよつぽどいいわ。遠慮がいらなくつて……」

「あたしに遠慮してんの?」

「遠慮よ。あたしは、フランス語でおしやべりがしたいのよ」

「あ、さう……ぢや、どうぞお一人で、たびたびお越し遊ばしませ」

 と、内海真帆子は、あきれて、言つた。

「でも、もうちつと、どうかした男ならねえ」

 志村鈴江は、残念さうに言ふ。

「思召しにかなひませんか? すこしやぼつたいでせう?」

 と、真帆子が合槌をうつ。

「少しどころぢやないわ。あんなの、パリジャンだなんて、うそだわ」

「パリジャンぢやないことよ。ボルドオへんの生れよ」

「どうりで……。葡萄の搾り粕みたいなとこがあるわ。いくつ、あれで?」

「三十六ですつて、向う流によ」

「頭の毛は五十だし、言ふことは二十だし、その平均つていふわけね」

「気持が若いのね、第一……。みんなさうらしいけど、なぜでせう?」

「気持は若くつてもいいのよ。センスが幼稚なの、やつぱり田舎者のせゐね」

「教養もあんまりないらしいわ。商人の通訳ですもの」

 ロベエル・コンシャアルの噂は、これで一応おしまひだつた。

 ところが、女中を手離す話になると、真帆子は、頭から不賛成を唱へた。

「あなたのやうな方は、最後まで召使ひが必要なのよ。一緒に餓ゑ死をしたつていいぢやないの。そこまでは、ごめんだつて言ふんでせうけれど……」

「追んでて行くまで使つてろつて言ふのね。それができれば仕合せね。見事だわ。ああ、わらはも近代の女性なれば、か。実は、倹約のためより、先々が可哀さうなのよ」

「ひとりになつたら、家でも売つて、あたしのところへいらつしやい」

「それも考へてるの。でも、だれからも注意されてゐない気楽さつてものを、一度は味つてみたい。外国旅行のさばさばした身軽さはそこにあるんぢやない? 死んだ父が、だれかとそんなふうな話をしてたわ」

 外国旅行のことから、男はいつたい家庭をはなれて、長い間、異性の香りを嗅がずに通せるかどうかが問題になつた。

「当り触りはないでせう? 一般的な話だから……」

 と、志村鈴江は念を押した。

「そんなこと、あたし、考へたことないけど、男によりけりぢやない?」

「相手のあるなしにもよるわね。商売女まで下落すれば別よ」

 真帆子は、そこで、ロベエル・コンシャアルにもう女ができたことをしやべらうかと思つてふと、思ひ止まつた。



 内海達郎は、研究発表の準備に忙しく、しばらく見舞を怠つてゐると、ロベエル・コンシャアルが退院したといふ通知をうけとつた。非常に経過がよいことは都築博士から聞いてゐたが、そんなに早く普通のからだになるとは思つてゐなかつた。

 で、時間を作つて、ホテルを訪ね、もう一度食事にでも呼んで、日本流にいへば全快を祝つてやりたいと思つた。

 ホテルの帳場で取次を頼むと、彼は、すぐそこのポーチの一隅で、客らしい日本の婦人と茶卓を挟んで話をしてゐる最中である。なんだか見覚えのある女だと思ひ、そのそばに寄つて行くと、

「あら、内海先生だわ」

 と、言つて、志村鈴江が起ち上つた。

 彼は、なにか辻褄の会はぬやうな気がし、却つてドギマギしてゐる自分に気がついたが、

「珍しいこともあるもんですね。僕の友達と家内の親友とが、かうしてゐるんだから、別に不思議はないわけだが……」

 と、言つた。

「さうよ。あなたはお忙しいし、奥さまはなかなかお家をおあけになれないから、あたくしが、代りにちよいちよい病院へ、お見舞にあがつたのよ。そしたら、こんなにお仲好しになつてしまつて……」

「それはどうも……。ねえ、ロベエル君、マドゥムアゼルは立派な家柄の日本女性だから、君の研究のいい助言者であり、対象でもあると思ふよ。一番都合のいいことは、彼女がまつたく自由だといふことだ」

「それは知つてゐる」

 と、ロベエル・コンシャアルは、もはやそんな紹介の必要はないといはぬばかりに遮つた。

「時に、どう、健康は大丈夫かね? 医者の手をはなれても、急に無理をするといけないぜ」

「ありがたう。無理は、人がさせなければ、決してしません。私、通訳だから、自分ですることはなんにもない」

 志村鈴江は、声をたてて笑ひ、

「お仕事で無理をなさらなくつても、ほかのことで無理をなさるから、ダメよ」

「ほかのこと? 私、酒少ししか飲みません。タバコ喫はない。ご馳走たべるお金ない」

「それより、もつとわるいことがあるわ」

「恥しいこと、言はないでください」

 ロベエル・コンシャアルは、いつかう恥しくもなささうに言つた。

「それはさうと、この次の日曜日に、ロベエル君、昼飯を食ひに来てくれませんか? 家内からも是非といふことだから……それから、マドゥムアゼル・志村も、その時おつき合ひにどうぞ……。賑やかでいいから……」

「だつて、奥さまは、そのおつもりぢやないんでせう?」

「いや、かまひませんよ。却つてよろこびますよ。こいつは、僕の手柄にしませう」

 二人を承知させて、内海達郎は、意気揚々と家へ帰つた。

「あきれたひとね……黙つてそんなことしてるんだわ。こんだ、にらみつけてやるわ」

 妻の真帆子も、新たな好奇心が加つて、その日の来るのを待つた。

 いよいよ、日曜である。ロベエル・コンシャアルの方は一人で道がわかるかしら、と、心配してゐるところへ、呼鈴が鳴り、真帆子が玄関へ出てみると、志村鈴江がドアの外に立ち、その後ろに、ロベエル・コンシャアルが控へてゐた。

 今日は、家族も食卓を共にした。

 志村鈴江が、ひとりではしやいでゐるやうにみえた。真帆子は、鈴江の真意をはかりかねてゐた。手洗に起つた時、後ろから追ひかけるやうにして、

「あなた、大丈夫なの?」

 と、笑顔に真剣味をまぢへて、詰め寄つてみたけれども、

「なにが大丈夫なの? 見てればわかるわ」

 と、突つぱねられた。

 夕刻、二人が引きあげた後、真帆子は、溜息をついた。

「鈴ちやんも、たうとうおしまひね」

 と、言つた。

「あのひとには、はじめもおしまひもないんだらう。ロベエルだつて、あの相手はちよつと手ごわいよ」

「あゝあ、ひとつて、信用できないわ。どこで何をしてるか、わからないんですもの」

 さう言ふ妻の言葉を、内海達郎は自分にも向けられたものと思はないわけにいかなかつた。

 すべてが妙なふうになつて来るのを、彼はいまいましく思つた。ロベエル・コンシャアルの行動が、どうやら、パリにおける自分のそれを、そのまま示してゐるやうに、妻の眼に映るとしても、それは無理とはいへなかつた。

 彼と自分とは、どこが違ふか。人種が違ふといふ以外に、本質的な違ひがあらう筈はない。習慣も道徳も、その性格さへも、気紛れな慾望を制する絶対の基準になるとはいへないのである。妻は、既にその疑ひをもつてゐた。コンシャアルは、不必要に妻の前に現れて、その疑問を確定的なものにしてみせてゐるのである。

 彼は、妻と明るみで対座することはむろん、ともし火を暗くした寝室で、彼女をその腕に抱くことも苦しかつた。

 妻が彼の純潔を疑つてゐるといふよりも、ある過去の秘密の存在を確信してゐるらしい、その気配をなによりも堪へがたく思つた。

 そして、今や、その秘密の正体は、コンシャアルから志村鈴江に、そして、鈴江から、妻に暴露されぬとは保証できない傾向を辿りつつあるのである。



「ねえ、真帆子、君は十年この方、僕に黙つて悩んでゐることがあるだらう? 僕に一と言、ほんたうのことを言はせたいと思ひながら、ぢつと我慢してゐることがあるだらう? どうだい?」

 ある夜、内海達郎は、妻に言つた。

「どうして、そんなこと、今更、お訊きになるの?」

「なんとなく、さつぱりしないからだ。君の心の中にわだかまつてゐるものが、僕の心の中にも、やつぱりわだかまつてゐる。これぢやいけないと思ふんだ。コンシャアルといふ男がやつて来てから、お互に、なにか、このわだかまりを、意識しはじめたやうな気がするんだ。はつきり言つてくれ。僕は、君のどういふ疑問に答へればいいんだい?」

「疑問なんかないわ」

「うん、さうだ。それはもう疑問のかたちぢやない。なんといふか、むしろ、僕の口からはつきりそれを言はないことに対する不満なんだ。さうだらう?」

「いいえ、さうぢやないわ。そんなことぢやないの。もう、そのお話、よしませうよ」

「どうして? しかし、なにかあるね。もやもやしたものが、なにか、二人の間にある。それを取りのけたいんだ」

「どうすることもできないんぢやないかしら? あなたにそれを感じさせるのは、ほんとはあたしがダメだからよ。もう、とうに過ぎ去つたことと思へば思へるんだわ」

「だからさ、それを僕が率直に白状すればいいんだらう?」

「いいえ、いいえ。そんなこと、あたし、もう、してほしくない。あなたは、弱味なんかお見せになる必要ないのよ。あたしは、ほんといふと、どうかして、あなたのすべてを信じたいと思つてるんだから……」

「さう言ひながら、泣いてるぢやないか。僕を信じたいといふなら、信じられるやうにしようぢやないか。秘密は、たとへ、過去の秘密でも、全部、君の前にさらけ出せばいいんだらう? それなら、僕は、できるよ」

「もうたくさん……けつこうよ。秘密は秘密のままで、その人を信じることだつてできる筈だわ。秘密のない人間はゐないつていふ意味でよ。あたしにも、心の中の秘密はあつてよ、だれにも言へない、言ひたくないある想ひを、罪として責めることはできないわ。ある種の慾望は、人間のよろこびやかなしみとおんなじよ。もうすこし眠らせてほしいと思ふことだつてあるわ」

 さう言ふとき、彼女の脳裡に浮ぶいくたりかの男のシルエットがあつた。ことに、夫の留守中、偶然電車の中で出会つた嘗ての求婚者の一人、父の反対でいくぶん心残りのまま別れてしまつた、映画監督の北村悦三と久々で言葉を交し、その後に二三度遊びに来て、危ふく唇をゆるすところまで行つた、あの息づまるやうな瞬間をふと想ひ出した。

「君の言ふこともわかるやうな気がするよ。しかし、僕の君に対する愛情からいへば、君がだれにも言へない秘密だつて知りたいんだ」

「あたしはどういふのかしら? 事柄によつて、ギリギリ結着のところまで行つてしまふのはいやなの。卑怯かもしれないけれど、なんにもならないつていふ気がするの」

 彼女のせつない幻影はまだ続いてゐる。子供の頃から青年期にかけて、住居が近所だつた関係で、断続的にではあつたが、互に好意を見せ合つてゐた北村悦三の名は、やはり忘れ難い名であつた。大学を出て、ある映画会社にはいつたきり、交渉がぷツつりきれ、それが幾年か後に、突然、監督として名前が出ると同時に、彼女の前に姿を現し、直接ある程度まで諒解がついた上で、正式に結婚の申込をして来たのである。父は、映画と聞いて、それだけで首を横にふつた。どうすることも、当時の彼女にはできなかつたのである。

 燃えない妻にからだを持てあまして、内海達郎は、眼をつぶつた。眼は閉じたが、なかなか眠つかれない。

 彼は、世間の夫が、妻を裏切ること日常茶飯事の如き、あの闊達さを時に羨むことがあつた。煎じつめれば、「女房に惚れてゐる」夫の典型として、自分自身を憫む結果にもなるのであるが、そのことだけなら、別に恥づべきことではないと思つてゐた。しかし、遊戯にもひとしい旅先での女関係が、かういつまでも心に傷を残す理由について、彼はどう説明しやうもない。秘密は告白によつて重さを減ずるのではなく、その秘密の性格によつて、波紋の大小を異にするだけであることが、おぼろげにわかつてきた。

 彼は、アメリイ・ホチムスキイの、あの烈しい官能の乱舞を想ひ起してゐる。パリ生活の最後の二年間は、ただ爛熟した肉体の饗宴が夜毎に彼を待ち、彼もまた、半ば惰性的にその甘美な陶酔に身を委せたのであるが、不思議なことに、一方、故国の妻への思慕は、日に日に募るばかりであつた。それは、ほとんど満腹のあとの飢ゑにもひとしかつた。

 さういふ矢先に、妻から、旅立ちの相談があつたのである。もちろん、前ぶれもなく来られては大変であつた。さうかといつて、そのつもりで準備をするといへば、アメリイとキッパリ手を切るよりほかはない。

「家内が来るといふんだが、どうしよう。きれいに別れられるかしら?」

 別れよう、とは言へなかつた。

「奥さんが来るんなら、それや別れてもいいわ。あなたと別れるつていふことは、あたしにとつて、どういふことか、知つてる?」

 明らかな脅迫である。

「僕が日本へ帰るんだと思へば、いいぢやないか」

「それは、たしかに約束したわ。でも、やつぱりパリにゐるんでせう? あと二年は、ゐるはずでせう? その二年は、あたしのものだと思つてたんだわ。それを、みすみすひとにとられるのはいや……いやよ。そんなこと……」

「ひとつて、それや、僕の女房だよ。女房があることは、ちやんと言つてある」

「さうよ、トオキヨオにゐる奥さんのことは知つてるわ。パリに来る奥さんなんて、あたし、知らないわ」

「どこにゐたつて、女房は女房さ」

「パリの奥さんは、あたしぢやないの。あんたのパリの生活は、あたしがそばについてゐて、はじめてできるのよ。あなたがいよいよパリを引上げる時は、あたし、笑つて送つてあげるつもりよ。ほんとに笑へるかどうか、知らないけど……。とにかく、美しい別れかたをするわ。パリの女の別れかたよ。でも、二年たたなけれや、いや……」

「しかしだね、女房は、二年のつもりでゐたのが、また二年延びたんだ。来たいのも無理はないぢやないか」

「二年だつて、四年だつて、おんなじよ。二年も待てるんだつたら、四年ぐらゐ平気よ。あたしだつたら、半年でもいやだわ。さういふ奥さんと、あたしとをいつしよくたにしないでちやうだい」

「それが、エゴイストつていふんだ」

「いいわ、エゴイスト、けつこうだわ」

「無茶言ふなよ。なんとか考へてくれよ。君は自由なんだから、いくらだつてアミをこしらへたらいいぢやないか」

「よけいなお世話よ。あんたが嫌ひになつたら、さうするわ、言はれないでも……」

「嫌ひになつてくれ」

「それも、こつちの勝手にさしてほしいわ」

「僕の方で、嫌ひだつて言つたらどうする?」

「証拠がないもの」

「女房を呼びたいつていふのは?」

「…………」

「別れようつて言つてるんだぜ」

「…………」

「どうだい?」

 女はしばらく窓の外を見てゐたが、やがて、

「ねえ、聴いてよ、タツロ、そんな残酷な言ひ方、しなくつていいわ、今日まで、あんなに優しかつたあんたが……」

 と、低く呟くと一緒に、静かに椅子をはなれて化粧戸棚の方へ行き、姿見に顔を映した。

 どちらかといへば、大がらなからだつきに、北方系と思はれるブロンドの頭がちんまりとのつてゐた。白蝋のやうに、滑らかな肢体と、ソバカスの目立つ面長な顔と、深く窪んだ緑色の眼のほかは、どこといつて特別に人眼をひくやうなところはないのだが、性格的とも思はれるロマネスクな好みは、技巧的なもの言ひと相俟つて、男性の好奇心をそそるに十分であつた。

 しかし、当時、内海達郎は二十八、女はもう三十六であつた。三十二といふのが嘘なことは、彼女の持つてゐる居住証明書ですぐにわかつた。しかし、二度結婚して、一度は男の方から、一度は自分の方から別れたといふ話は事実らしい。いくらかの資産もあるのはたしかで、その点、内海達郎の負担は軽かつたが、金銭のことは非常に細かく、外で食事をする時などは、今日はどちらの番ときめるか、さうでなければ、めいめいに勘定を払ふことになつてゐた。芝居の前売切符を買つて来ると、一枚分は必ず彼に請求した。どうして生活全部の責任を彼に負はせないかといふと、自分は「細君でもなければ、メカケでもない」からで、ただ「アミ」なら贈物と招待以外は、男の世話にならぬのが原則だと言ひ張つた。が、彼女の真意は、むしろ、彼の留学費が二人を十分に賄へないことを知つてゐたからで、その証拠に、一緒に街を歩きながら、彼女の目についたものを買つてやらうとすると、

「いいわよ。あたし、欲しかつたら自分で買ふから……お金持ちでもないくせに……」

 と、言つて、断つた。

 さて、別れ話は、それきりうやむやになつたわけではない。



 鏡に姿を映しながら、アメリイ・ホチムスキイは、「パリの屋根の下」のメロディーを口吟んでゐたが、急に、彼の腰かけてゐる寝台のそばへ近づいて来て、その肩に手をかけ、

「どうしても別れてほしいつていふなら、別れてあげるわ。あんたのためにぢやなく、奥さんのためによ。ただ、その代り、時々会つてくれる? 月に三度でいいわ」

 彼は、そんな約束をしてはならぬと思つた。

「それは困る。別れた以上は、絶対に会はないことにしよう。はるばる日本をはなれて来た女房を、ここで万一、不幸な目にあはせたら、それこそ、僕は、悪党だからね」

 彼女は、肩をぴくんとさせ、

「ヘマなことさへしなければいいんだわ。パリでは、さういふ内証事がどんなに安全に行はれてるか知つてる? 三角関係のドラマは、いつでも例外の事件よ」

「僕たちにはさういふ訓練がないんだよ。恋人に会つて来た夫の顔には、ありありとそれが見えるんだよ。さうぢやないかと思ふ。だから、日本では、習慣として一夫多妻がまだ厳然としてあるんだ。但し、僕は、その主義には反対なんだ。第一、必要も感じないよ」

「必要はよかつたわ。奥さん一人でたくさんなわけね。ぢや、かうしない? 試しに、ちよつと別れてみませうよ。どつちかが降参したらおしまひ……。頑張れたら、それでいいわ。ここはあたしの借りたアパートだから、あんたが出て行く方が早いわ。荷物も少いんだし……。部屋捜しに行つてらつしやい。あたし、ついてつてあげてもいいわ」

 内海達郎は、その言葉を真に受けたものかどうか、思案した。しかし、乗りかかつた船なので、

「ぢや、さうしよう。ただ、決心をつけるために、女房に、すぐ立てつて電報打つからね」

 すると、アメリイは、慌てて、

「いや、いや、そんなことしちや……一と月だけ待つて……一と月たつて、どつちもどうもなかつたら、電報打つていいわ。それまでは、後生だから、あたしを絶望させないで……。自分で自分にちやんと言ひきかすんでなけれや、あたしは気ちがひになるわ」

「よし。一と月だけ待つてもいい。お互に、しかし、最善の努力だけはしようね」

 彼は、帽子を取り上げた。

「やつぱり一人で行くの?」

「来るなら来てもいいよ」

 どうせ宿をとるなら、研究所か大学のそばがいいと思ひ、勝手を知つた貸間のある家を、つぎつぎに見て歩いた。

 サン・ミシェル街の裏通りにあるフアルギエールといふ通りに出ると、貸間の札が軒並に出てゐる。

「この界隈は、日本人がたくさんゐるんだ。うるさいかな」

 と、内海達郎は、なんといふことなしに、同胞に顔を見られるのを憚る気持だつた。

「そんなら、もつと、ほかを捜したら?」

 二人は、ソルボンヌ大学の正門の前から、ルュクサンブール公園の方に出た。

 噴水のしぶきが初夏の夕陽を受けて、並樹の若葉の色を仄かに光る煙のなかに包んでゐた。

 二人は、疲れて、そこにあるベンチに腰をおろした。

「もう、どこでもいいや、部屋でさへあれや……」

 と、内海達郎は投げ出すやうに言つた。

「日割勘定のホテルの方がいいわ。月ぎめぢや、どうなるかわからないから……」

 と、アメリイが、これも、けだるさうに応じた。

 天文台のすぐわきに、手頃な貸間があつた。風通しのいいのがなによりであつた。明日から来るといふ約束をした。主婦は、ムッシュウ一人かと念を押した。

 翌朝、彼が眼を覚ましたのは、十時であつた。アメリイは、まだ正体なく眠つてゐた。

「最後の夜」になるかもしれぬといふ仮定が、いくらか芝居気も手伝つて、この一夜を狂ほしいものにした。

 彼はそつと寝台を抜け出して、支度にかかつた。衣類を戸棚からトランクに移すのに案外手間どつた。書物の整理もひと苦労だつた。

「なにしてるの、タツロ?」

「…………」

「そんなこと、あとで、あたしがするわ」

 その日は研究所を休み、昼近く、朝のコーヒーをすすつて、やつと引越しのタクシーを呼んだのである。

 ひとりきりの暮しは、内海達郎にとつてもう堪へがたいものになつてゐた。しかし、彼は歯を喰しばつた。夜、寝床のなかで、彼はふと耳を澄す。もしや女の跫音が部屋に近づいて来はせぬかと思ふのである。アメリイが、今、この部屋に現れ、涙にぬれた眼で自分を眺めるか、熱い唇をこの瞼に押しあてたとしたら、自分は苦もなく彼女の虜になるだらうと思はれた。

 しかし、つひに、一週間は過ぎ、十日は過ぎた。夜食をすましたカフエのテラスで、ぼんやり道行く人々を眺めてゐると、機敏に投げられる街の女の視線にわれ知らず心を弾ませることもある。彼は、さういふ時、妻の真帆子を強ひて思ひ浮べる。そしてただ気分を鎮めるために急いで妻への手紙を書きに宿へ帰るのである。彼女からの相談の手紙は、まだ見てないことにして。

 ところが、ちやうど二週間目のある夜、アメリイから速達で、──会ふまいと思へば思ふほど胸の炎は燃えるばかりだ。自分を制するといふことにも限りがある。そのために、今、床に就くほどの病気をしてゐる。ちよつとだけ顔を見せてほしい。それ以上のことは望まぬ。お前の声だけが、自分にもうひと息、堪へ忍ぶ勇気を与へてくれるだらうと書いてあつた。

 彼は、その手には乗るまいと考へた。しかし、そのしりから、唾が呑み込めぬほど、胸がわくわくしてゐた。

 その夜から、彼は、再び彼女との夜を繰り返した。しかし、宿だけはまだそのままにしてあつたので、たまには自分の部屋でひとり夜を明かすこともあつた。旅に出てみようかとも思つた。生憎、懐ろがさびしかつた。黙つて宿を移さうかと思つた。P研究所といふ勤め先を知られてゐるので、なにもならない。もう二度と会はぬ決心をしたから、待つてゐてもむだだといふ電報を打つた。

 すると、間もなく速達で──

「待つなといふお前の気持は察せられなくはない。しかし、同じパリにゐて、いつまでもお前に会へないとは、どうしても信じられない。いつかといふ希望をまつたく失はせるやうな事実が、眼の前に現れない限り、自分はお前を待たないわけにいかない。さういふ事実を、お前が作るか、自分が作るか、どちらかだ。お前にもしそれができなければ、自分の方で作らうと思ふ。しかし、どんな方法を選べばいいか。自分は今、アフリカへ行つてしまふこと(チュニスに友達がゐて、来いといつてゐるから)と、もうひとつは、これは愚かなことだけれども、永久に眼をつぶることと、この二つを考へてゐる。自分がそのいづれを選ぶかは、お前が、ここで自分にみせてくれる愛情のかたちできまる。お前の愛情を疑つてゐるのではない。自分の取らうとする行動にひとつの支へが必要なのだ。パリをしばらく離れる支度に一週間はかかる。その間だけ、自分のそばにゐて、旅立ちを見届けてくれる親切はないだらうか? お前と自分とにふさはしい別れ方だけが、その後の孤独な心を慰めてくれるにちがひないと思ふ」

 と、言つて来た。



 内海達郎は、迷つた。知らぬ顔をしてゐるか、なんとか、返事をするか? 返事するとすれば、どういふ風に書くか? やわらかくなだめるか、冷やかに突つぱねるか? 情理をつくして他に手段のないことを訴へるか、芝居がかりに運命を呪つてみせるか? それとも、また……。

 彼は、どうしてもこの場合、返事を書く手はないと思つた。

 すると、それから三日目の朝、突然、前の宿、即ち、彼がアメリイ・ホチムスキイと同棲してゐた家の門番が、彼を研究所に訪ねて来て、彼女が昨夜、催眠薬をのんで自殺をはかり、今朝、昏睡状態のまま病院に運ばれたといふ知らせをもつて来たのである。

 オピタル・カシヤンといふのは国立の施療病院で、彼も二三度見学に行つたことがある。門番の爺さんは、それを発見したのは、毎朝の習慣で、娘が牛乳を配つて歩いた時だと言ふ。呼鈴の綱を引いても返事がない時は、ドアの外へ置いて来ることもあるのに、今日はたしかにゐる筈だし、それにちよつとした用があつて、なんども綱を引いたのだが、どうも変だといふので、下へ知らせに来た。神さんが行つてみた。最後に爺さんが合鍵でドアを開けた。揺り起しても起きない。大変だといふことになつたのである。

「警官から聞かれたもんで、ムッシュウの名前を言ふにや言つたが、ここしばらくお見えにならんこともはつきり、わしは言つといた。いろいろご迷惑がかかつてもと思つたからです。マダムは二三日前から、チュニスへ行くんだつて、荷物の支度なんかしてゐたやうです。部屋は出来上つた荷物が積んであるほか、キチンとなつてゐました。最後のトランクが、ただ、衣類をつめかけたまま蓋が明いてゐたつけ。わしらは大体、あんた方の事情は察してゐましたよ。別れなさるな、と思つとつた。かういふことをしでかすなんて、まつたく、女つてやつは、手をやかせるからね」

 と、門番の爺さんは、その道の苦労人らしく、ひとりでうなづいた。

 内海達郎は、ともかく、黙つてゐられなかつた。

「僕以外に、だれか身内の者がゐないと困るが、さういふひとは、あなたは知らないかなあ」

「独り暮しの女は、たいてい、親兄弟のことはしやべらないね。しやべつたつて、死んでるか、遠くにゐるかだ。わしらにも、見てゐて交際の範囲はわかるがね。マダムはフランス人とは言つてるが、どこの生れだか、わしは知らん。ムッシュウは、日本人だといふんだが、わしらにや、ほんとかどうか、わからんやうなものさ」

 門番のおしやべりは際限がない。内海達郎は、

「よろしい。万一の場合は、あとのことは僕が責任をもつ。ありがたう」

 そこで彼は、まづ病院へタクシイを走らせた。

 アメリイ・ホチムスキイは、やつと意識をとりもどしたところであつた。か細い呼吸が心臓の衰へを示してゐた。

 彼の顔が見えると、眼に涙をため、その涙が、ぽたぽたと枕の上に落ちた。唇を動かしはじめた。声がまつたく出ない。彼は脈をとつてみた。ケッタイはあるが、絶望とはいへないやうに思つた。

 果して、翌日から、容態が著しく持ち直した。夕刻頃には、医者や看護婦に礼を言ふやうになり、内海達郎がそばへ寄ると、

「ごめんなさい。神さまが死なせてくださらないの。あたしひとりでは、なんにもできないのね」

 と、かすかに皮肉な微笑をうかべながら言つた。

 退院の日取がきまると、彼は、ほかに誰も世話をするものがゐないといふ理由で、まだひとり歩きはむづかしい彼女を、車に乗せて、そのアパートへ送り届けた。かうして、また元のやうな二人の生活がはじまつたのである。

 内海達郎は、妻に宛てて次のやうな手紙を書いた。

──二月十五日附の手紙、たしかに受けとりました。留学期間延長の儀は、大学及び文部省の諒解つき次第、父上の思召に従ふつもりですが、その機会に、君の渡仏を実現させることについて、いろいろ考へてみました。経済的な問題は別として、ルナ子を君の手許から離すことは、たとへ御両親がなんと言はれようと、小生としては、将来の禍根となるやうな気がしてなりません。ルナ子を連れてならばと、一応言へるけれども、これはまた異郷の空で、風俗習慣言語の障碍と戦ひながら、親子三人が平安な生活を送る予想はまつたくつきません。役所勤めか単なる観光旅行ならいざ知らず、短期間の研究といふ任務を帯びた小生の日常は、繁雑な神経の浪費からなるべく解放されてゐなくてはならないのです。一家団欒の半面には、当然のこととして、あらゆる心労があります。現在の事情から推して、この上、君と子供とを身辺において、しかも研究に没頭することは、二兎を追うて一兎を得ざる結果になるおそれが十分にあります。ルナ子を残してといふ御両親の御配慮も、多分そのへんのところから出たものと信じますが、それは前にも言つたとほり、小生は絶対に不賛成ですから、結論は、もう二年間、お互に孤独に堪へて、それぞれ自分に課せられた責任を果すよりほかないといふことです。

せつかく与へられた好機会なのにと、君は不満に思ふかもしれない。それは尤もです。小生にしたところで、この二年間は、まつたく長すぎる二年間だつた。君がそばにゐてくれたらと思はない日はないくらゐです。しかし、仮にルナ子が生れてゐなかつたにしても、君が今このパリへ来てどんな生活ができるか。小生は朝早くから夜おそくまで、研究所に入りびたりです。たまには電車がなくなつて宿へ帰れないこともある。君と一緒に過す時間はごく少いと思はなければなりません。言葉の通じない外国人の悲哀を君はしみじみ味ふだらう。パリくんだりまでなんのために来たのかわからないといふ不平を、君はきつと抱くやうになると思ふ。それを口には出さなくつても、小生にはその気持がわからない筈はない。おそらく小生の力ではどうすることもできぬそのヂレンマを、現に想像するだけでもおそろしいのです。

パリは決して人の言ふやうな花の都ではない。東洋の一留学生にとつては、パリの生活そのものは、石畳のやうに冷たく、灰色です。その憂鬱を君と分ち合ふだけでも、と、思はぬわけではないが、それは結局、小生のエゴイズムです。パリが世界に誇るものは、たしかにその伝統のなかにあるでせう。しかし、それを十分に味ふためには、金と暇と才能とが必要のやうです。

もうあと二年、辛抱してくれたまへ。ギュメ教授との協同研究にやつと曙光が見えはじめた、といふことは、小生も世界の学者と今に肩をならべられるといふことです。非常に貴重な二年間です。それがわれわれ二人の愛情の歴史を空白にする筈はないと思ふ。今度のルナ子の写真はまつたくよく撮れてゐた。君の膝の上で、君の顔をぢつと見あげてゐる表情は、「母」といふ意識がはつきり眼覚めてきたことを感じさせ、小生は胸が熱くなつた。

ルナ子には、小生の写真をよく見せておいてくださいよ。そして、これが「パパ」だといふことをはつきり覚えさせておいてほしい。「パパ」とは何者かといふことは、帰つてからゆつくり教へてやらう、二人で。父上、母上、加津子によろしく。

   五月十七日  
達郎

  真帆子殿


 彼は、妻の来ることを妻のためにもおそれるといふ点で、やつと、良心に眼かくしをすることができ、かういふ手紙を書く決心がついたのである。このまま、妻を遠くにおいて、今までどほりの生活を送ることが、一番無難だといふ漠然とした見通しで、彼はほつと息をついたかたちであつた。

 ちやうどその頃である。ロベエル・コンシャアルと、大学の前のカフェーで知り合ひ、間もなく、アメリイ・ホチムスキイにも紹介しなければならぬ破目になつたのは。

 最初の一瞥で、ロベエル・コンシャアルは二人の関係を見抜いてしまつた。もちろん、それを隠しておく理由はなかつた。彼の前で二人は、だんだんおほつぴらに、チュトワイエ(敬語ぬきの言葉使ひ)し合つた。それはそれでなんでもないのだが、ロベエル・コンシャアルのアメリイに対するなれなれしい態度のなかには、ただ友人のアミとの隔てのない口のききかた以上に、一種の微妙な競争心理のやうなものがあり、わざと内海達郎には通じない洒落しやれを言つて、自分たちだけで高笑ひをするといふ風な、傍若無人さが目に立つてきた。

 しかし、アメリイ・ホチムスキイは、陰ではしきりにロベエル・コンシャアルの棚おろしをした。

「フランス人のわるいところを、みんなもつてる男だわ。上ッ調子で、しみつたれで、己惚れが強いときてるから、あんたのお友達になれつこないわ」

 だが、フランスをはなれる前の数ヶ月を想ひ出してみるまでもなく、ロベエル・コンシャアルとアメリイとの間は、それから後どれだけ接近したか、ほぼ見当がつくのである。


一〇


 志村鈴江がロベエル・コンシャアルと、ほとんど三日にあげず会ひ、日光や箱根へ連れだつて遊びに行つたといふ事実を、真帆子がかぎつけたのは、それから間もなくのことである。

 彼女は、その話を夫の達郎にした。

「なんだか、がつかりしちやつたわ」

「鈴江さんつて、さういふひとぢやなかつたのかい?」

「ううん、それやどんなことしてもいいわ。ただ、あたしに隠してるのがいやなの。だつて自由ぢやないの。堂々とやつてほしいわ。第一あのひと、別に好奇心以上のものをもつてるとは信じられないんですもの。恋愛関係なんか絶対にないつて言ふのよ。さういふところはまた、とてもガッチリしてるんだから……」

「さうだらうさ。いくらものずきで、相手がいくらすばしつこくつても、まさか旅先でのなぐさみものになりはすまいさ」

「ええ、だからよ、あたしに黙つてそんなことする必要ないと思ふわ。もともと、あたし達が紹介したんぢやないの」

「だからさ、先生に言はせると、僕たちが忙しいから、代りに遊び相手をしてるんだつて言ふにきまつてるよ。まつたく、僕ときちや、頼りにならない友達だからなあ。東京の街を連れて歩いたこともないんだぜ」

「そんなことぐらゐ、おできになれるでせう?」

「したくないんだよ。どこへ連れてけばいいんだい? 僕が東京で、彼に見せたいものといへば、この廃墟以外にはない。しかし、彼もフランスで、そいつは見あきてゐるはずだ」

「あつちのひとは、日本へ来ると、すぐにゲイシャ・ガールを見せろつて言ふらしいわね。あのひと、さう言はない?」

「僕には言はないね。むろんもう、どつかで見せられてるだらうがね」

 こんな会話の間に、夫婦の気持は別々な方向に動いていつた。夫の達郎は、ロベエル・コンシャアルのタンゲイすべからざる行動を追ひ、妻の真帆子は、志村鈴江の大胆不敵な態度に引きかへて、自分の影の薄さ、夫への勝算歴然とした抗議さへ控へたくなるやうな心の弱さを、歯がゆく思ふのであつた。

 ところで、かういふ焦点の合はぬ夫婦の気持が、次第に二つの波紋となつてひろがつて行くのは当然であつた。そして、それは、意外な行動の出発点へ二人を運んだ。

 内海達郎は、志村鈴江の口からいつかは自分のパリ生活の真相が、妻の耳にはいるであらうといふ前提もいくぶんその動機とはなつたが、むしろ、妻との間のもやもやしたわだかまりを解決するために、結果はどうであれ、ひと思ひにすべてをぶちまけようといふ気になつた。

 妻の真帆子は真帆子で、夫から直接でなく、なんとかしてロベエル・コンシャアルから、それとなくパリ時代の夫の素行について、ある点まで確かなことを聞きただす方法はないものかと思案した。

 さて、夫達郎の方には、その機会はいくらでもあつた。夫婦が二人きりになるぐらゐたやすいことはない。

 しかし、前置きなしには切り出せぬ話題なのが面倒であつた。

「ねえ、真帆子、僕はどうしても君に聴いてもらひたいんだ。ほら、あのことさ……」

「いやねえ、まだそんなこと考へてらつしやるの? あたし、絶対に伺ひたくないわ」

「しかしだよ……」

「しかしもなにもないわ。そんなことが、なんになるの?」

「僕の気がすめば、それでいいぢやないか」

「ああ、あなたの気安めなの? でも、あたしはどうなるの? わからない方ね」

 で、こんどもまた、それきりになる。

 妻の真帆子は夫の告白がどんなものであらうと、それが彼女の胸に真実と響く期待はもてなかつた。真実を語る言葉なら耳を藉しもしようが、如何なる真実を自分に伝へる欲求が、今の夫にあるのであらう?

 彼女は、ただ、夫がもつてゐる秘密ならぬ秘密の核心を一挙に衝きたいのである。例へば、その女はどういふ種類の女であつたか? それだけでいいのである。

 夫は、それについてかう言ふにきまつてゐる──なに、恋愛の相手にするやうな女ぢやないのさ。きまつてるぢやないか。むろん美人の部類にははいらないし、教養だつて、たいしてありやしない。商売女とは言はないが、まあ、それに近い、外国人にフランス語を数へるといふ名目で、手頃なアミを物色してゐるオールドミスさ。が、この説明では、決して彼が、数年間をその女のために捧げた理由にはならないのである。

 そこで、彼女は、早速その翌日、夫と娘を送り出すと、外出の支度をし、さて、箪笥の底から新聞紙に包んだ古い手紙の束を取り出し、そのなかから一通を抜きとつてそれをハンドバックへ入れ、あとをまたひと纏めにしてもとの引出へしまひ込んだ。戸締りだけはして、隣りの細君に声をかけた。志村鈴江のところを訪ねようといふのである。


一一


 志村鈴江は、眼をさましたばかりであつた。

「なにごとが起つたの?」

 彼女は髪の毛を両手で抑へながら、瞼を引きあげるやうにして、応接間へ現れた。

「あなたこそ、疲れた顔してるぢやないの?」

「なんのこと、それ?」

「ううん、この頃、どこでなにしてるのか、さつぱりわからないからさ」

「そんなことないわ。この頃、もつぱら、コンシャアル氏の案内役よ。ああ、こないだ来てくだすつたんだつてね。あん時は、箱根までのしたの。よけいな路をてくつたりして、くたびれちやつた」

「どうなの、いつたい、さういふ役目は? 人目がうるさくない?」

「別にさうでもないわ。いくらなんでも、パンパンにはみえないからね。堂々としてるから……」

「ぢや、なんと思ふかしら?」

「そんなこと考へたことない。なんとでも思ふがいいわ。宿ではちやんと部屋を別にとるしさ。あたしは奥さま、向うはただの外人さん。白いお伴をつれた黄色貴婦人つてところよ」

 自分で自分のことを貴婦人などといふのが、反語とも失言とも思はれず、ちつともいや味でないのが、この女の不思議な特色であつた。

「のんきね、あんたも」

「あたり前よ、コーヒー召上る? 召上らない?」

「いただくわよ」

 呼鈴を押す。老女中が、笑顔で、この間のおしやべりがばれはせぬかといふ警戒をみせる。

「コーヒー、濃く出してね。トーストを上手に焼いてちやうだい。ついでに、卵の半熟一つ、あたしだけよ。出来たら、食堂へ行くわ」

 かうして、距てのない馬鹿話がひとしきりすみ、食堂を出て、鈴江の居間へ通る。ここだけは六畳の畳敷で、純和風の凝つた女部屋である。

「あたし、この部屋、わりに好きなの。嫂が、和室がひとつどうしても欲しいつて作らせたんですつて……。だんだんお婆ちやんになると、あたしも、坐るとこが性に合ふんだわ」

「ハイカラなあなたでもね」

「ハイカラはよしてよ。ことに、近頃は、外人とつきあふでせう。身についたもんで太刀打ちをしなけれや、うつとしくつてしやうがないの。コンシャアル氏が遊びに来ても、ここへ通すのよ。気が楽で、好きなことが言へるの」

「ほんと言ふとね、怒つちやいやよ、あたしたち夫婦で、カケしてるのよ。コンシャアルさんとあなたと、どうなつてるかつてこと……」

「どうなつてるとは? だから、さつき言つたぢやないの。向うは、それやうづうづしてるわよ。面白いわ」

「大丈夫? あんまり罪なことしない方がいいわ」

「まさか。どうせ相手は曲者よ。でも、おんなじ口説くにしても、はじめつから、遊びのつもりでかかつて来るから、始末がいいのよ。ただ、その遊びが真剣な調子なの。つまり芝居がかりなのよ。こつちもその気で芝居をしてやるの。キッパリ刎ねつけるなら事は簡単よ。それぢや芸がないでせう。ちつとはぢらさなきや、こつちの遊びにならないわ。それも、娼婦の型にはまらないやうにね。これで、なかなかやるのよ。いつでも、小説の場面が眼に浮ぶわ。アンナ・カレーニナだとか、ベル・アミだとか……。あつちの男は、それや素直にこつちの演出どほりになるわ。心得がもともとあるから、呼吸が合ふのね」

「でも、くたびれるでせう?」

 と、真帆子は、同情してみせる。

「しんき臭いよりましよ。日本の男は、大阪風に、いきなり『どや?』と来るか、東京風に理窟を並べるか、どつちにしても、照れかくしがすべての邪魔をするわ。舞台が引つ立たないわけよ。さういへば、北村悦三氏はどうしちやつた?」

 突然、北村の名が飛び出したので、真帆子は面喰つた。旧いことをよく覚えてゐると思ひながら、

「ポスターで時々名前を見るだけよ。くだらない映画だと思ふと、あのひとだから、いやになつちやふわ」

 と、真帆子はその通りのことを言ひ、それでもすこし顔をぽつとさせた。

「昔の恋人の名前を、時々ポスタアで見るなんて、ちよつと何かになるぢやないの。さうかなあ、あのひとダメになつたの?」

「知らないわよ、あたし。ただ、そんな気がするの。映画つていへば永くみないわ」

「行つたなあ、あの頃は……。さうさう、またフランスものが出はじめたわね」

「パリの屋根の下……」

「女ばかりの都……。どうもいささか懐古的ね、われわれは」

「さうだ。けふは、折入つたご相談があつて来たの」

 と、ここで、真帆子は、急に、当面の用事を思ひだした。

「はい、伺ひませう」

 とぼけて、志村鈴江は、膝を乗り出した。

「これは、まだあなたにも内証にしてたんだけどね、ほら、内海が留学の期限を延ばしたでせう? 二年のところを四年にしたでせう? そん時のいきさつ、覚えていらつしやる?」

「うん……覚えてるやうな気がするな」

「うちの父が費用を出すつてことから、さうなつたんでせう。それで、そのついでに、あたしもあつちへ行かうとしたでせう?」

「さう、さう、どうしてダメになつたんだつけ?」

「内海が反対したからよ」

「反対の理由は、聞いたかしら?」

「ええ、それがなのよ。その時からどうしても納得のいかないところがあつてさ、あたしそんなもんぢやないと思ひながら、ともかく諦めはしたんだけれど、まあ、ちよつと、この手紙、読んでみて……。あんとき見せれば……と、言つたところで、その頃のあんたは、まだやつと十九のお嬢さん……」

「ちよつと待つて……これは軽々しく手にとるべきもんぢやないわ。さうすると、念を押すやうだけれども、このお手紙は、ムッシュウ・ウツミが、はるか異郷の空から、最愛の妻真帆子に宛てためんめんたる便りね。わかりました」

 志村鈴江は、さう言つて、洋罫紙五六枚にこまごまと認められた、例の苦心惨憺たる説得の文句を黙読しはじめた。


一二


 読み終ると、志村鈴江は、ほつと肩で呼吸をした。

「なかなかいい手紙ぢやない? 内海博士の面目躍如たりだわ」

「そのなかに、どの程度真実があるとお思ひになる?」

「さあ、さう言はれると困るな。第一なんだつてわざわざ今頃、こんなものを持ち出して来たの?」

「だからよ。あたしを来させまいとして、いろいろ理由をならべてるでせう? どれも苦しい理由だと思はない? なにかほかにわけがあるつて、だれでも気がつくでせう?」

「奥さんの身になつてみればね。さうかもしれないわ。それで、そのことが、今頃、どうして問題になるの?」

「今頃になつてぢやなく、それ以来ずつとなの。こつちも突つこんで洗ひ立てる気はしなかつたし、向うから言ひ出すわけはないし……それが、近頃になつて、急に、お互に、そのもやもやを意識しはじめたのよ。あのコンシャアルつてひとが来てから、内海が変にあたしの顔色を見るやうになつたんですもの。むろん、あたしの方が先に、暗い気持になつちやつたの。だつて、どうしやうもないわ。内海のパリ生活を想像するつていふだけで、あたしには、なんかピンとくるもんがあるの。実は、あたしのさういふ様子に気がついたからでせう。内海は、なんべんも、そのことに触れようとするの。秘密の告白までしようつて言ふのよ。あたしは、一方で、それが知りたいくせに、内海の口から直接、それを聞かされるのが、とてもたまらないつていふ気がして、そのたびに、耳をふさいで聞かうとしないの。どう言つたらいいかしら……あとで引つ込みがつかなくなるのが怖いのかしら……?」

 ここまで言ふと、真帆子は、もう眼頭が熱くなつた。

「だつて、旦那さまがそんな告白をなさる以上、あなたは黙つてゐてさ、その態度によつて、罪を赦すかどうか、きめればいいぢやないの」

「態度によつてなの? 罪そのものの性質によつてぢやないの? どつちにしろ、あたしは、はつきりそれを知らされたら、もう、あのひとの顔をみるのもいやになると思ふわ」

「それぢや話にならないや。そんなら、疑ふのはよしたらどう?」

「もう疑つてやしないわ。なにかがあると信じてるわ」

「その、なにかが、やつぱり、疑ひでせう?」

「ううん、わかつてるわ、女との関係よ」

「だから、どうなの? あと、何を知る必要があるの?」

「あのひとの感覚では決してわかりつこない、その女の正体よ。それから、その女に対してもつてゐるあのひとの感情よ」

「弱つたな。それは、神秘の彼方にあるものよ。知らうたつても無理だわ」

「それが知りたいの。今のあたしの救ひは、それだけよ」

「どうしたらいいだらう?」

「そこで、お願ひなの。コンシャアルさんは、その女を知つてる筈よ。だから、あなたから何気ない風で聞きだしてみてくださらない? あたしがもう、そのことをあらまし知つてることにして……」

 志村鈴江は、ちよつと上眼づかひに考へ込むしぐさをしたあとで、

「さあね、それだけは、できさうもないな。あたしの一番きらひなことだもの。探りを入れることね、あたしの趣味ぢやない、たとへあなたのためでも……」

 と、言つて、さも途方に暮れたやうに、真帆子の顔を斜にのぞき込んだ。

「ぢや、あたし、直接、聞いてやらうかしら?」

「できたら、やつてみるといいわ。しかし、下手をすると恥をかくわよ」


一三


 志村鈴江から、二、三日して電話があり、ロベエル・コンシャアルが来てゐるから、すぐ来いといふ知らせである。

 雨がしよぼしよぼと降つてゐたけれども、真帆子は、一張羅のお召を出し、念入りに化粧をして出かけた。鈴江が、如才なく膳立てをしておいてくれた。

 明け放された南向きの出窓から、庭の木立がみえ、部屋には香が焚きこめてあつた。

 挨拶がすむと、鈴江は、いきなり、真帆子に言つた──

「ムッシュウ・コンシャアルはね、かういふ部屋にお住みになりたいんですつて……。──おひとりで? つて伺つたらね、──ノン・アヴェック・ヴウ、と来たわ」

 そして、彼女は、笑ひこけた。

 真帆子も、アヴェック・ヴウの意味ぐらゐはわかつた。この『あなたと一緒に』を、人前でずけずけと吹聴されたロベエル・コンシャアルの狼狽は、ちよつと見ものであつた。しかし、その狼狽を、ただ狼狽とみせない腕はもつてゐた。まづ、にやりとし、頬を真つ赤に染め、女二人を代るがはる見くらべ、それから、眼のやり場のないやうに天井を見あげ、急にガクリと首を垂れ、やがて、憐みを乞ふやうに真帆子の方へ絶望的な視線を向けて来たのである。

 かういふ場合に、当意即妙の一語が、ぴよいと飛び出さない真帆子であつたけれども、ロベエル・コンシャアルの痛々しい表情から、ふと思ひついて、

「それやさうよ、この部屋にあなたがゐなければ、脱いだ着物とおんなじだわ」

 かう言つて、ロベエル・コンシャアルの方へうなづいてみせると、彼は勢ひを得て、

「さう、藻ぬけの殻……わたしひとりで、なにもすることないです」

「ねえ、コンシャアルさん、このお部屋、そんなにお気に召したのなら、ひとつ、写真にとつてお置きなさいよ。機械、おもちになつてるでせう?」

 と、真帆子が言ふと、

「あら、いやだわ、写真になんかとられるの。これが日本の代表的な部屋だなんて、国辱だわ」

 が、もう、ロベエル・コンシャアルは、写真機を出して、用意をしはじめた。鈴江が真帆子をにらむ真似をして、部屋を出て行かうとするのを、

「あら、ほんとに藻ぬけの殻ぢや、しやうがないぢやないの」

 と、呼びとめたが、鈴江は振りむきもしない。

「マダム・ウツミ、どうぞ、そこへ……」

「いやですよ、あたしは……」

「どうして?」

「それ、フランスへ、持つてお帰りになるんでせう?」

「もちろんです」

「奥さまにお見せになるんでせう?」

「見せない理由はありません」

「ええ、でも、なんて説明なさいますの?」

「マドゥムアゼル・シムラの部屋におけるマダム・ウツミ……」

「信用なさるかしら?」

「信用、ああ、妻はわたしを信用してゐます」

「日本の女なら、信用しません。婦人部屋にゐる婦人の肖像を、あなたが持つてゐらつしやることが不思議ですもの。マドゥムアゼル・シムラはまつたく例外的に、あなたをこの部屋へお通しになるのよ」

「よくわかります。わたし、そのこと光栄に思ひます。妻にも、それはよく言ひきかせます」

「お笑ひになつてらつしやるけど、それほんとですのよ。フランスの婦人の方は、あたしたちより、きつと、嫉妬深いと思ひますわ」

「シット、シット」

 と、首をひねつてゐるところへ、鈴江が帰つて来た。

「ねえ、ちよつと……嫉妬つて、フランス語でなんだつけ……」

「ジャルウジイ……形容詞なら、ジャルウ……女性はジャルウズ……」

 と、鈴江は、教師のやうに、或は教師の質問に答へるやうに言つた。

「オオ、ジャルウズ、わかりました。フランスの女、日本の女より、ジャルウズ……。わたしまだくらべることができない」

「そんなら、かういふ例をおみせするわ」

 と、鈴江は真帆子の方へ眼くばせをして言つた──

「マダム・ウツミはね、ムッシュウ・ウツミが、パリでアミと一緒に暮してゐたことをご存じなのよ。いいこと、それでゐて、ひと言もムッシュウに……」

 と、言ひかけると、

「さうぢやないのよ」

 真帆子は、慌ててそれを制する手つきをした。

「まあ、あなたは、黙つてらつしやい。いいですね。ひと言もムッシュウに、文句を言はないのよ。文句がわからない。それぢやね、うらみごと、なほわからないか。つまり、いやな顔をしないのよ。かういふのは、どう?」

 鈴江は、企みを蔵して、問ひつめた。この手厳しい詰問にも、ロベエル・コンシャアルは途方に暮れたらしく、

「聖女のやうに心のひろい、マダム・ウツミに敬意を表します」

「ただね……」

 と、鈴江は、畳みかける──

「この聖女は真実を愛してゐます。彼女は、ただその真実によつて、永久に救はれたいと思つてゐるの。この場合、真実は神だわね。ムッシュウ・コンシャアル、どうぞその真実を、彼女に伝へてあげてください。あなたはムッシュウ・ウツミの、四年間親しくしてゐたアミをご存じね?」

 ロベエル・コンシャアルの顔は、さすがに硬ばつてみえた。そして、まるで牧師のやうな口調で、

「マダム、わたし、その質問にはお答へしない権利があります。ゆるしてください」

 真帆子は、もうこれ以上追求したくないと思つてゐると、鈴江は、平然たる面持ちで、声に笑ひさへ含ませながら、

「あなたの権利は尊重しますわ。しかし、この三人の、ここでの話は、決して他に漏れるやうなことはありません。マダム・ウツミは、あなたから何を聞いたといふことを、絶対に、ムッシュウの耳に入れるはずはありません。あたしがそれを誓ひます。いつか、あたしにしてくだすつたお話で、あなたは、ムッシュウ・ウツミと、なんとか夫人と、三人でスペイン国境の、ポオでしたか、なんでもそのへんへ旅行なすつたことがありましたね?」

「ああ、その旅行の話はしました」

「遠慮なくおつしやつてください。一緒にいらしつた婦人は、なんていふお名前でしたつけ」

「マダム・アメリイ・ホチムスキイ……しかし、これは、ウツミのアミだとは言ひませんでした」

「おつしやいました。おつしやらなくても、お話の様子で十分察せられましたわ。お忘れになつたのです。さあ、このあとは、真帆子さん、ご自分でお訊きなさい。でも、ムッシュウ・コンシャアルがあんまり困るやうなことはよしませうね」

 真帆子は、鈴江の快刀乱麻式の応酬に見惚れてゐた。が、自分の名前を言はれると、やつとわれに帰つたやうに、

「もう、あんなに困つてらつしやるわ」

 と、ロベエル・コンシャアルをいたはるやうに、その方へやさしく笑ひかけ、

「その女のひとは、チャアミングな方でしたの?」

「ムッシュウ・ウツミとまつたく関係ないものとして、それぢやお答へしませう。パリの女としては、別に目立つほどのひとではありません」

「聡明な方ですか? 頭のいい方ですか?」

「普通だと思ひます。考へ深いとはいへません。が、ものわかりのいいひとです」

「愛情の深い方ですか?」

「それはわかりません。愛されたことがありませんから。しかし、わたくしの知つてゐる限りでは、激しく愛し、そして、愛情をAからBに移すことが、自然にできる女のひとりでした」

「マダムとおつしやつたのは、もちろん、未亡人でせうね」

「たしかさうです。ホチムスキイといふのは、フランス人ならユダヤ系、多分、ポオランドにある姓です」

「もうよかない、それくらゐで……」

 と、鈴江が口を挟んだ。

「なんだか、まだはつきりしないわ」

 と、真帆子は物足りなさうであつた。しかし、階下からアイスクリームが運ばれて来たので、会話は途絶えた。鈴江は言つた──

「ぢや、かうしてるところを、一枚、写真にとらしてあげようぢやないの。おそるべき訊問に遭つた代りに……」

 ロベエル・コンシャアルは、やつと放免されたやうに起ちあがつた。

 真帆子と鈴江とが並んで、アイスクリームの匙を口に運んでゐるところを、部屋ぐるみレンズにおさめて、彼はほくほくであつた。


一四


 その夜ほど、真帆子にとつて、夫の愛撫を堪へがたいものに思つたことはなかつた。たうとう彼女は、おひかぶさらうとする夫の厚い胸を、力まかせに押しのけた。そして、ハッとして、身をすくめた。「どうしたの?」と言ひながら、夫は、再び、彼女のうなじに肩をすり寄せて来た。彼女はぐつたりと動かなかつた。閉ぢた瞼の底に、金髪の裸婦の臥像が浮び、そのしどけないポーズの上に、夫の眼が吸ひ寄せられてゐる。彼女は、無意識に顔をそむける。全身が波をうつ。呼吸がつまる。鳴咽が堰を切る。単なる悲しみではない。「いや、いや。あたしもういや……」と、いきなり叫んだと思ふと、彼女はからだをくねらせて、夫に背を向けてしまつた。

「なにがいやなんだい。気ちがひみたいな真似はよせよ」

 と、夫の達郎は、興ざめた調子で、唸るやうに言つた。

「ええ、気違ひです、あたしは……。あなたのそばにゐるのが、もう、もう……」

 と、あとは言葉がつづかぬほど、またはげしい涙がこみあげて来た。

「また、あのことか……。もうすんだ筈ぢやないのか? そんなら、僕はどうすればいいんだい? 君は、あくまで僕の罪を責めようといふんだね。ゆるすことができないんだね。僕の言ふことは聴きたくない。それは、どういふ意味なんだい? 君はひとりで苦しんでゐたいのか? 僕だつて、君の苦しみを見ることで、二重の苦しみを負つてゐるんだぜ。僕は、君のゆるすといふ一と言がききたいんだ。それですべてを忘れることができる。君はいつたい、僕に何を与へ、僕から何を求めようとしてるんだい?」

 夫の達郎は、いつになく激越な調子で、かう言つた。

「…………」

 彼女は、何も言ふことができない。すべては、その通りにちがひない。しかしまた、夫の言ふことはなにひとつ、彼女の心に光明を与へるものではないのである。

 今日、わざわざロベエル・コンシャアルに会ひ、その口からあれだけのことを聞きだしたのは、なんの目的だつたか? 結果としては、なにひとつ彼女を真実に近づけたと思はれるやうなものはなかつた。むしろ、それは、彼女の頭を去らない忌はしい幻影をかき立てる効果しかなかつたといへるのである。

 それなら、どうしたらいいのか?

 現に、彼は、妻をかつて裏切つた行為を認め、その罪を告白することによつて赦しを乞はうとしてゐるではないか。すでに、ありありと悔悟の情がみえるばかりでなく、帰朝以来、ただの一度も、妻たる彼女に向つて冷やかな態度を示したことはない。どういふ点からいつても彼を非難すべきいはれはないといふことが、彼女にもはつきりわかつてゐる。できることなら、彼の知らぬ間に、その過去をきれいに拭ひ去つて、再び純潔な夫を取りもどしたいのである。

 そんなことはできない相談である。

 彼女の背に夫の深い呼吸づかひが伝はつて来る。時々、鼻をすする音がする。泣いてゐるな、と思ふ。珍しいことである。

 世間の細君は、かういふ場合に、どんな方法で問題を解決してゐるのだらう、と、彼女は考へる。すると、いろいろな場面が想像に浮ぶ。簡単に事がばれて、大風一過、また簡単に落ちつくところへ落ちつくのが普通のやうに思はれる。それなら、どんなに楽だらうと思ふ。自分たちの場合は、まつたく事情が違ふといふ気がする。罪の性質はとにかく、それがいかにも手の込んだ仕方で巧妙に蔽はれ、それも完全に尻尾をみせないのではなく、却つて無慈悲なかたちで、久しく疑ひのまま残されてゐたといふことは、まつたく例のないことのやうに思はれた。そして、そのことは、夫の秘められた過去が、いつかもうその骨身に沁みこんで、いかなる贖罪もこれを掻き消すことはできぬ、そのことが、彼女をかくものつぴきならぬ運命に追ひ込んでゐるのではないか。いはば永劫の罪を背負つた夫と、その罪には眼をそむけながら、なほかつ、人並の愛情につながれた妻との宿縁をどうすることができよう?

 彼女は、夫の方へそつと向き直りたい衝動にかられたが、いつ時ぢつとそれを制しながら、後ろへかすかに声をかけた──

「ねえ、ごめんなさい。あたしがこんな風なのを、もてあましていらつしやるでせう? 自分でも、ほんとに、いけないと思ひながら、どうすることもできないの。あんまり苦しいから、あたし、今日、思ひきつて、コンシャアルさんに、パリ時代のあなたのことを……あなたのことといふより、その女のひとのことを、聞いて来たの。鈴江さんのところへあのひとが来ることがわかつたから……。でも、やつぱり、ダメだつたわ。コンシャアルさんは用心して、なんにも言つてくれないのよ。それはね、あなたを信用しないからぢやないのよ。あなたにそんなこと言はせたくないから……。あなたのご存じないうちに、なにもかもはつきり知つてしまつて、それでさつぱりしようと思つたからなの。そんなこと、だつて、できるはずないわ。ただね、家へ帰つて来て、あなたのお顔見て、かうして、しばらく、あなたのおそばにゐるうちに、すこしづつ自分の気持がわかつてきたのよ。なにか、見透しがついたやうに思ふの。それはね、なんていふんでせう……苦しみからのがれようとしないで、その苦しみに甘んじるつていふこと……宗教のことはわからないけど、さういふ人間の生き方もあるんぢやないかと思ふの。あたしがこれからもし、悲しい顔をしてゐても、それは別のことだと思つてちやうだいね」

 夫はしばらく黙つてゐた。が、やがて、

「いま、君の話を聴きながら、つぎつぎにいろんな感情がこみあげて来た。カッと腹を立てさうにもなつた。しかし、そのあとで、すぐに、君が可哀想になつた。僕と一緒に暮すことが君にとつて苦痛なら、そして、それはどうすることもできないものなら、僕は君に完全な自由を与へてもいい、と、かねがね思つてゐた。君の方から、それを言ひだしさへすれば、僕の決心はついてゐるんだ。これはもちろん、あくまでも君のためにだよ。ところが、今の話で、君の考へはまづさうぢやないことがわかつた。僕として、できることはなんでもするつもりだが、君の苦しみをすこしでも軽くできたらと、ふと、こんなことを思ひついた」

 さう言つて、彼は枕もとのスタンドをつけ、寝床から起き上つた。しばらくどこかへ行つてゐたと思ふと、やがて帰つて来て、手にもつた一通の封書、その封は切つてあつて、すこし皺のよつた角封筒であるが、それを妻の方に差し出した。妻は顔をあげて、その封書の上書を読み、いぶかしさうに、それを受けとつた。宛名はむろん内海真帆子様、差出人は、北村悦三となつてゐる。

 内海達郎は、自分の寝床へはいり、しづかに言つた。

「べつに君を驚かすつもりぢやない。けふ、君の箪笥の横に、落ちてゐたのを、何気なく拾つたんだ。中味はむろん読んではゐない。日附がその通り古いもんだから、たぶんしまひ忘れてゐて、なにかの拍子にそこへ落したのだと思ふ。その人物の名前は、結婚当時、たしか一度君から聞いたやうに覚えてゐるが、その頃まで文通をしてゐることは知らなかつた。僕は君の潔白を信じてゐる。だから、なんにも言ふ必要はない。ただ、そんな手紙をいつまでも残しておかない方がいい。僕の眼の前で破つてみせておくれ。それで、もう、あとはなんでもない。君に黙つて箪笥のなかへはふり込んでおくつもりだつたが、やつぱり、かうして君に手渡しをした方がいいと、今、考へ直したんだ。さ、早くそいつを破つて、こつちへおいで。いいかい、あかりを消すよ」

 闇の中で紙を裂く音がした。と、思ふと、激しい女のすすり泣きにまじつて、「よし、よし、わかつた、わかつた。さ、かうすればいいだらう」といふ、子供をあやすやうな男の声が聞え、やがて、しいんとなつた。

底本:「岸田國士全集15」岩波書店

   1991(平成3)年78日発行

底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店

   1951(昭和26)年115日発行

初出:「苦楽 臨時増刊第四号」

   1949(昭和24)年720日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2011年925日作成

青空文庫作成ファイル:

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