誰でもない……自分でもない
岸田國士



 人は自分で自分をどうすることもできないことがあります。それは、ほかからの力でもなく、自分のうちにあるものといふことすら気のつかないことがしばしばあるのです。男でも女でもそのことはおなじですが、女はことに自分の生涯をなんびとかの手にゆだねるといふ習慣からなかなかぬけきれません。なにごとも運命と考へたり、はかない夢をいつまでも追ひつゞけるのは、まつたくそのためと言つてよいのです。

 しかし、また、このことのために、少くとも愛情の世界では女を主体とする複雑な生活が形づくられます。一見、謎めいたものも、そのうちにはあるのです。

 この物語はさういふ女たち二つの典型を組合せて、それぞれをどうすることもできない結末に導く一つの、寓話にすぎません。



 根本保枝は結婚生活をだんだん重荷に感じだした女の一人でした。

 二十二のとき、勧めるひとがあつて型どほりの見合結婚をし、その頃中学の教師をしてゐた夫の薄給をおぎなふ目的で、自分もさる女学校の家事を受持つてみたのですが、間もなく子供ができ、通勤は無理といふことになつて、いろいろ考へてゐる最中、夫の卯吉が胸の病気にかゝり、治癒が思はしくいかぬばかりか、たうとう再起不能の宣告を受けるといふ始末で、彼女は多少自信のある毛糸編物を手内職にして一家の生計を立てなければなりませんでした。しかし、幸ひなことに、子供はわりに丈夫に育ち、男の子としてはまづ性質もおとなしい方で、母親を手こずらせることはすくなかつたばかりでなく夫の卯吉も、なるほど胸膜剥離の手術に失敗して完全なからだに復することはできませんでしたが、よく身のほどをわきまへてゐて、神妙に病床の味気ない生活に堪へ、我儘かん癪で妻に当るやうな傾向はまづないと云つてよかつたやうです。

 保枝は、そんなわけで、世間的な苦労はひととほり嘗めたつもりですが、よく考へてみると、自分よりもつと不仕合せな女がいくらでもゐることがわかり、ともかく、夫の健康をのぞいては、さうさう愚痴をこぼすいはれもないといふ風に自分を慰めるのが常でした。

 彼女はことし三十六になりました。年のことだけは忘れたいと思ふのです。鏡を見るのがなんとなくおそろしいといふ年配です。それといふのが、彼女のどこかに自分のすがたを美しく保たうといふ慾望が残つてゐて、十人並よりはちよつと見られると自分でも信じてゐる顔の手入れを、毎日欠かしたことはなく、久々で若い頃の訪問着などを取り出して、相当の値になればこれも手ばなさうかと思ふしりから、これでも帯さへ替へれば未だ着られないことはない、などとひとり考へなほして箪笥の奥へしまひ込んでしまふのです。

 日常の生活は、さういふわけで、これと云つて堪へられないほどのものではないにかゝわらず、結婚以来の年月をふりかへつてみて、女としての現在の立身をつくづく考へると、そこにどうしてもある物足りない感じ、希望らしいもの、次第に疲れて行く有様が刻々と身に迫るのです。そして、それは、煎じつめれば、結婚生活の重荷だけがなんの魅力もなく後に残るといふわけなのです。

 彼女の最近の日記にこんなところがあります──

七月二十九日

暑い、暑い、生れてはじめての暑さ。なぜこんなに暑いのかと思つてみたら、ラヂオが何十年ぶりとかの暑さだとか云つてゐた。暑さ寒さの記録がつけられるやうに、愛情の度を計る機械があれば面白いだらう。私は毎日の目盛に気をつけてゐて、それを丹念につけておく。万一、ゼロになれば私は自分を疑ふだらう。しかし、それはまた、私の生活から重い荷をおろす決心もできる時ではないか。Uの私に対する愛情は、たゞ正常でないといふだけで、その程度はいつも間違ひなく私には感じとれるやうな気がする。それも今の私には、なにか重苦しい圧迫といふ一面が強くなつて来た。Uの眼つきは、殊に私に注ぐ眼つきは、なんとも云へない悲しい色にみちてゐる。私はたゞ、その悲しみにこたへる方法を知りたい。知らなければいけない。

Fがまた毛糸を持つて来てくれる。原価で手数料を一割だけくれと云ふ。一ポンドで六百円からの得になるのは不思議なやうだ。それからまた、スエーター一着の編み賃四百円は安すぎると云ふ。こつちへの手取り七百円として自分が仕事を引受けてもいゝと云ふ。しかし、Fはすこし信用のできないところがある。

大庭常子さんからまた切符を送つて来た。今度こそ聴きに行かなければ義理がわるい、仲のいゝ友達の独演会だといふのに、なぜこんなに聴きに行く気がしないのか。出掛ける日のことを思ふと、たゞ、気が重くなるばかりだ。


 夫がちようどその頃は動けない状態だつたので、疎開騒ぎにも巻きこまれず、戦災もやつと免れて、借家とは云ふもの、今どき人にうらやまれるほどの小ざつぱりした家に落ちついてゐます。場所は……これはまあどこでもいゝことにします。ある大都会の郊外としておきませう。五十坪ほどの庭は、まだ畑になつてゐて、季節の野菜が彼女の手でまあまあといふほどに作られてゐます。奥の八畳が夫卯吉の病室で、物理を専攻致した証拠のやうに、本棚には、その方面の専門書が和洋とりまぜぎつしりつまつてゐます。が、枕許には、偶然か、コナン・ドイルの翻訳と漫画の雑誌がほうり出してあります。

 保枝が編物の手をやめて、隣室からそつとはいつて来た時には、卯吉は、あふむけになつてうとうとしてゐました。

「またおよつてらつしやるの?」

「うむ、たゞ眼をつぶつてるだけだ」

「夜また、ねつかれないつて、おつしやらないでね」

と、彼女は、いつものことのやうに、やさしく夫をたしなめながら、敷布のしわをのばしました。

「光一は?」

「おもてゞ遊んでます」

「復習はやらせたかい?」

「大丈夫ですよ。自分でしたくなつたら帰つて来ますよ」

「そんなこと言つて、お前は、子供を買いかぶつてるよ。あいつの算数ぎらひは、今のうちになんとかしないと困るぜ」

「母親に似たんだから、仕方がありませんわ。お熱はかりませう」

 さう云つて、保枝は、検温器を念のために振りました。夫の脇の下へ自分でそれを差込んでやることもあり、時によると、たゞ、手に渡しただけで、勝手にさせることもあります。まつたくその時のはづみでさうするのです。ところで、いま、夫の手が別にそれを受けとらうともせぬのを、ちよつといまいましく思ひました。──また、あんないたずらをしようと思つて……と、

 この前、夫が、脇に入れた彼女の手を検温器ぐるみ強くはさんで、なかなか緩めようとしない、しつつこい戯談を思ひだしたからです。が、夫は、いつまでも知らん顔をしてゐます。

「はい、お熱……もう時間ですわ」

「はさませてくれ」

と、夫は、天井を向いたまゝ、身動きもしません。彼女は、そこで、用心ぶかく、寝間着の襟をひろげ、あてづつぽうに検温器の先を脇の下と思ふところへ突つこまうとするのですが、夫は、これに応じません。

「さ、早くなすつて……」

 夫は、そこで、しぶしぶ、脇の下へ隙間をこしらへました。

「よく、おはさみになつてね」

 彼女は、起ちあがらうとして、ふと、夫の眼をみると、をかしなことに、睫毛が濡れてゐます。おや、と思ふうちに、一筋の涙がこめかみを流れました。

「どうなすつたの?」

 膝をついたまゝ、彼の顔のうへへ自分の顔を近づけました。

「どうもしない」

と、夫は、眼をそらすやうにして、しづかに答へました。

 長い沈黙がつゞきました。なにもかも、お互にわかつてゐてどうにもならぬかすかな夫婦の気まづさです。

 彼女は、しかし、このまゝ座をたつわけにはいきませんでした。骨ばつた夫の手を軽く握つて、内証ごとのやうに云ひました。

「ご病気にさわるといけないからよ。ごめんなさいね。そのかわり、今晩は、おいしいものをこさへますわ」

 そんなことがなんの云ひわけになりませう。彼女は自分ながら、そのしらじらしさにあきれるほどですが、かうでも云つて自分をごまかすよりしかたがないのです。

 頬のこけた、ひげも伸し放題の夫の横顔が目について離れません。彼女は、どこの娘が着るのかもわからないアンゴラの水色に染めた半袖のスエーターを、また編みはじめました。

 この時、玄関で「ごめんください」といふ女の声がします。たしかに聞きおぼえのある声ですが、すぐには誰と思ひ出せない、艶のある作り声です。

 スカートについた毛糸屑を手早く払ひながら出てみると、これはまた、久しく顔を見せなかつた大庭常子といふ女学校のクラスメート、現在はその道では知られてゐる声楽家です。

「あら、どうしよう。おこらないでね」

と、保枝は、この眩いばかりに垢ぬけのした友達のすがたに見とれながら、云ひました。

「おこるもおこらないもないわ。ほとほと、あんたには兜をぬいだわ」

「どうして?」

「えゝえゝ、あんたは良妻賢母の模範よ。なにひとつ、ほかのことには興味ないのよ。友情なんかどうでもいゝのよ。大庭常子の歌なんか、牛がほえるぐらゐに思つてるのよ」

「誰も牛がほえるなんて思つてやしないわ。まあ、そんなこと云つてないで、おあがんなさいよ」

「もちろんあがるわよ。お宅はおひろいんだから、おしやべりがあんまり旦那さまの方へ筒ぬけにならないお部屋へ案内してちようだい」

「さうもいかないけど、ぢや、お茶の間にしようかしら?」

「お茶の間でも特別応接室でもいゝから、風通しのわるくないところがいゝわ。日蔭もろくにない道をてくてく一時間も歩かされてさ、喉がひつつりさうだわ」

「一時間はひどいわ。駅から、あたしの足で十五分よ」

「感じでいふのよ。あたしは、あんたのやうに物事をわり切るのはきらひなのよ。一日が三年に思へたり、十年が半年ぐらゐにしか思へなかつたりするもんよ。あゝ、長かつた、長かつた、あたしの半生は……」

と、大庭常子は、何を思つたのか、そこで、しんみりとなつて、火のない長火鉢の横へ、もうべたりと坐つてゐました。

 こんな時に、冷蔵庫でもあれば、と、保枝は、水道の栓をひねつて、それでも、心ばかりの濡れ手拭ひを絞つて出しました。

「これ、旦那さまのお見舞ひ、もらひもんよ。……一つたべてみたけど、飛びきりの品ぢやないわ、──でも今日あたり食べ頃よ」

 メロンが一つ、紙に包んでありました。大庭常子のいつもの流儀で、なにかしら手土産は忘れないのですが、それが形式張つてご進物になつてゐるのが特色です。甘栗なんかを袋のまゝ投げ出して、一緒に食べようなどと云ふこともありました。

 こゝでちよつと、この大庭常子なる女性の説明をしておきますが、三十五の今日まで、これは独身を通して来た、と云つても、必ずしも異性との条件が全然なかつたといふ意味ではなく、つまり、夫と名のつく人物と同棲をした経験が一度もないといふだけで、みづからオールド・ミスをもつて任じてゐる女性です。

 親戚の若い娘を一人、弟子とも秘書とも手伝ひともつかぬかたちで、同じアパートの部屋に住はせてゐます。収入は動かぬところ月に二万はあつて、ひと通りの贅沢はしてできぬはずはないのですが、どうも金遣ひの下手なところがあるとみえ、身につくものは何も残らず、ステージへ出る衣裳も大部分借りになつてゐる始末です。

 見たところ、痩せぎすの、洋服の似合ふすらりとしたからだつきですが、これでも目方は六十キロ近く、裸にすると驚くほどの肉附で、保枝は、一度、銭湯へ連れて行つて、びつくりしました。

 保枝は東京の下町生れで、両親とも商家の出ですが、大庭常子は九州の大藩の儒者といふ家柄の血をうけて、どこか骨つぽいところがあり、母ひとりを兄の手許にあづけきりで、自分は気ままに好きな道へ飛び込んだわけです。音楽学校を思ひきりよく中途でやめて、一時、三浦環の門に出入りしたこともありましたが、たまたま、イタリヤの音楽修業から帰つて来て、そのまま世間には名を出さずにゐた某夫人に、みつちり本場の歌を仕込んでもらひ、突如として楽壇に名乗をあげたのがもう十年の昔です。もとより、変則的な出方をしたために、八方から白い眼でみられたやうなこともありました。しかし、やはり、実力が物を云ひました。イタリヤものも得意でしたが、やはり歌劇の歌ひ手として独特の持味を発揮し、日本の女性にめづらしい豊かな表情も手伝つて、ぐんぐん人気があがりました。そこへもつて来て、女の性格的な魅力がまた多くの人々を引きつけました。ずばぬけた美貌の持主といふのではありませんでしたが、例へば、一度見たら忘れられないほどの強い印象を与へるのは性格的に明るい顔とその大胆な発声法でした。それはちよつと形容を絶した複雑な魅力で、南国的な熱と光を思はせる一種の雰囲気を舞台に作り出します。たいていのものは一度で、彼女の歌そのものより、歌をひつくるめた彼女全体が好きになるといふ具合です。

 ところが、妙なことには、彼女のステージの魅力は、平生は何処へ消えたかと思ふほど、消極的なものに変つてゐます。保枝などからみれば、もちろん寸分隙きのない堂々とした押し出しですが、なんとしても、女らしいやわら味が、からだつきや物の言ひ方にはなく、たゞ、友達としての心意気だけに、女同士ならではと思はれるやさしみがふわりと感じられるだけです。

 保枝は二三度彼女を夫の卯吉にも会はせたことがあります。ほんの五分かそこらで、それも、特別な話題もないまゝに、双方ともやゝ手もち無沙汰になるくらゐでしたが、その印象を夫は保枝に言ひました。最初の時は、──「どうも噛みつかれさうな気がしたよ」と。二回目だつたかには、──「しかし、なかなか敏感なところがあるね。頭はいゝらしいな」それから、最近になつて、一度、こんなことを言ひました──「オールド・ミスでゐる理由がわかつたよ。あれで、しんから淋しいなんてことはないんだね。男性に求めるものはなにもないつていふ風ぢやないか。あんなにコケティツシュでない人気商売の女、見たことはないよ、僕は。そこがさつぱりしてゐて、お前が好きなところかも知れないね」

 それはともかく、大庭常子は、これまでに、いくたりかの男性と、さうならぬわけにいかぬ関係を結びました。おほつぴらにそれが世間に知れ渡つたこともあり、いくぶん秘密にその状態が続けられたこともありました。最初は音楽学校の上級生で歌は下手でしたが文学の好きな、いくぶんニヒリスチツクなところのある青年でした。彼女は、実に大胆にこの男の誘惑に乗りました。それによつて何か大切なものを失ふのだといふ「迷信」を打ち破るつもりでした。どつちにしても、やりきれないほどつまらないことでした。彼女は、それ以来、その青年の近づくのを拒みつゞけました。

 第二の男は、イタリヤの歌を習つてゐた夫人の弟といふ人物でした。ニューヨークから帰朝早々の外交官とやらで、夫人に紹介された翌日、夕食に誘はれて、そのまゝ、如何はしいところへ連れ込まれました。英語で愛の言葉を囁くといふ気障つぽさを、どう勘違ひしたのか、極めて婉曲で洗錬された趣味のやうに思ひこみ、自信たつぷりに迫つて来る、その芝居がゝりの科を、たゞぢつと、この不安こそが幸福の前じらせであらうと、眼をとぢたまゝ、するまゝにさせておきました。

 それきり、外交官は姿をみせませんでした。いつの間にか、トルコだか、どこだかへ転任をして、うんともすんとも云はずしまひです。彼女はもう二十三でした。

 やがてステージに立つやうになつてからの彼女の身辺は、云ふまでもなく、賑やかなものとなりました。何処からでも伸びる手を、それとなく払ひのけるのに、まつたく精がつきるくらゐでした。そのなかで、たゞ一人、ある新聞の音楽批評を受持つてゐる佐山某の、うそとは思へぬ力の籠つた賛辞と、会へばきまつて顔色を赤らめる年に似合はぬ幼々しさとに、彼女は無関心ではゐられませんでした。しかし、佐山某は、至つて無口でした。人前ではもちろん、たまに練習を聴きに来て、そばに誰も居合せないやうな時でさへ、決して、余計なことも、余計でないことも言ひ出しませんでした。それはたゞ内気な青年のはにかみとも違ひました。彼女は、はつきりと男の自尊心といふものをそこに見ました。自然であるべき感情をさへ犠牲にして顧みないゆがめられた自尊心を、です。それは、却つて、卑屈にさへみえました。

 彼女は、ある晩、楽屋の入口に立つてゐる彼に向つて、耳もとでかう問ひかけました。

「あんた、あたしが好きなの?」

 彼は、うろたへたのはもちろんです。黙つて、一度伏せた眼を、まともに彼女の方に注いで、口を動かさうとしました。

「意久地なし、もう、あたしのとこへは来ないでちようだい!」

 彼女は、さう云ひすてゝ、さつさと、廊下を歩きだしました。それ以来、佐山某の書く批評は、彼女についての場合に限りますが、目立つて生彩を失ひました。

 さういふことがあつて間もなく、彼女は、そのひとでなければならぬ伴奏者をみつけました。その男は、もう四十に近い無名のピヤニストですが、誰の紹介もなく、突然彼女の楽屋を訪れて、是非、一度でいゝから彼女の伴奏をさせてくれと申込んで来たのです。見すぼらしい風体の男であつた。そのうへ、片眼が不自由らしく、それも、その眼を含んだ顔の左半分に引つつれができてゐるのをみると、なにか外傷のあとらしくも思はれます。たゞ、いくぶん猫背になつたその上半身と、両方へだらりと垂れた長い腕との釣合ひに、なにかを鋭くつかんでゐるものゝ迫力のやうなものを感じて、彼女は、もう一度、その顔を見直したのです。無雑作に左右へ垂らしてゐる髪、ひろすぎる額、深く凹んだ眼、呼吸をするたびに大きく動く小鼻、への字に結んだ厚い下唇、前へ突き出た下顎、どう見ても人相がいゝとは云へませんが、さうかと云つて、それは決して平凡な顔ではありません。わけても、眼附が一と癖ありげです。物おぢをしてゐるやうでゐて、なかなか、さうではない。犯罪に関係のある鋭さともまるで違ひ、むしろ、自分の内側を見つめる、精神の輝きを深くたゝえた眼の色です。

「一度、宅の方へ来ていたゞけませんかしら、午前中ならいつでも結構ですわ」

 金谷秀太といふ名刺を、彼女は、誰れかれにみせました。誰も知つてゐるものはありませんでした。が、その翌朝、まだ彼女が顔も洗はずにゐるところへ、彼は訪ねて来たのです。

 ためしに、まづ、サンタ・ルチヤをひとりで弾かせてみました。非常に風変りなテクニツクが使はれてゐるやうに思ひました。しかし、十分に聴かせる腕をもつてゐることはたしかです。シヨパンの何かを一曲、念のために所望したところ、彼はぢろぢろ彼女の顔を見あげ、にやりと笑ひました。それは、あまり好い感じではありませんでしたが、それと同時にもう、即興曲の目まぐるしい旋律が彼女の胸をゆすぶつて来ました。──「たいしたもんだわ」と、彼女は、心の中で呟きました。それから、彼女は、ナポリの舟唄を伴奏つきで軽く歌ひました。

「結構でした。あたしの歌が恥かしいくらゐだわ」

 お世辞でなく、彼女はさう云はずにゐられませんでした。

 それ以来、ずつと、この金谷秀太を伴奏者ときめて、どこの演奏にも出ることにしてゐました。が、困つたことがひとつありました。なるほど、この男の伴奏だけは申分のないものでしたが、その同じ彼と口を利くのが、なによりもいやだつたことです。かういう例はほかにたくさんあるかどうか、有名なギリシヤ生れの舞踊家イサドラ・ダンカンの回想録を読むと、彼女がやはりその伴奏者を見るのがいやで、ステージでも、伴奏者との間に衝立をおかしたといふ話を書いてゐますが、大庭常子の場合とよく似てゐることはゐます。おまけに、イサドラ・ダンカンは、その伴奏者が彼女にたゞならぬ執心をもつてゐることを知つたのです。その結果はどうであつたかつい忘れてしまひましたが……。

 わが大庭常子もまた、ある時、その金谷秀太からひそかな想ひを打ち明けられました。それは、ほとんど毎日顔を合せてゐるのに、わざわざ、彼の手から一通の手紙が彼女の手に渡されたのです。彼女は、あとでそれを読んで腹をかゝへて笑ひました。世にもぎごちない文章で、大胆に告白がしてあつたからです。彼女は、それに対して、一行の返事を書いて渡しました。──「今後いつさいそのことにふれないでください」

 金谷秀太は、それ以来、固く彼女の云ひつけを守りました。その代り、唖のやうに口を利かなくなり、彼女の視線を頑強に避けとほしました。この男のかういふ態度は、むしろ自然のやうに彼女には思はれだした。それは、必要な伴奏をするだけの人物、彼女の楽器の一部にすぎない存在になることでしたから。──

 五年の年月が流れ、金谷秀太は、たうとう病気といふ名目で伴奏の役を他に譲りました。強度の神経衰弱だといふことでしたが、それから間もなく、彼は行衛不明になつてしまひました。事情をうすうす知つてゐるものの間では、自殺のおそれがあるといふ噂をしました。

 彼女は、男性といふものを、時に戯れの対象として想ひ描くことはありますが、ひとつには、その獣類のやうな醜い振舞ひのために、興ざめなといふ感じを抱かせられることが多いのです。最近二年ばかり、周囲ではもう誰も彼女の「愛人」ときめてゐた作曲家の巨摩さへ、彼女にしてみれば、愛人などと呼ぶにふさはしくない、平凡な情事の相手にすぎませんでした。

 さて、かういふわけで、彼女は、自然、結婚の問題を考へてみたことはありません。もつと正確に云へば、結婚にみちびかれるやうな恋愛の経験もなく、また、単に、結婚を生活の方便として、それに適した男性の条件を数へあげてみたこともないのです。

 さういふ彼女の眼には、結婚生活といふものは、なにか自分には縁遠いものゝやうに思はれ、友人の誰れかれ、ことに最も親しい根本保枝の主婦ぶりなどが、一種崇高なものに見えることさへあるくらゐでした。

 いはゆる同性のフアンは、今の彼女には珍しくはありません。それこそ、種類はピンからキリまであつて、なかには、たのもしい、教養の高い夫人連もゐましたが、それらの一人々々に接してゐる時の自分は、どこかに身構えのやうなものができていやなのです。それに引きかへ、招待券をやつてもほとんど顔をみせたことのないこの根本保枝は、学校時代からウマの合つた間柄でもありましたが、それ以来、ちつとも変らぬ親しみと、年毎に深まつて行くやうな信頼感とで、彼女をたへず追ひまわす具合になるのですが、そもそも、根本保枝のどこに、そんな力があるのでせう。保枝自身も、ふとそれを疑ふことがあります。──あんなに有名になつてからまで、あたしをまるで姉妹きようだいのやうに思つてくれるのは、いつたい、二人のどこに共通なところがあるんだらう? 別段共通なところがあるといふわけではありますまい。それはむしろあべこべで、大庭常子は、保枝のなにげない人柄のうちに、自分には持ち合せない、そしてそれがなによりも羨ましい一つの精神の像とも云ふべきものを見出してゐるのではありますまいか。

 二人は、今日も、あらん限りのおしやべりをしました。ちよつとした秘密の打ち明け合ひから、人間の好し悪しについての議論になり、近頃でのうまかつた食べ物の話がでたかと思へば、戦争後の若い娘たちの目立つてあけすけな傾向を取りあげ、ちよつとその途中で病室を二人でのぞき、またもとの座へもどつて、夫婦生活のほんたうの味はどこにあるのかと、大庭常子が物好きな質問を今更らしくすると、保技は、むろん、本気でそれに返事をする気もなく、──「さあ、一度、旦那さんていふものを持つてみないと、話したつてわからないわ」と受け流すのでした。

「まあ、めんどくさいから、それはよすとしてさ。……」

と、大庭常子は、いくぶん顔をひそめ、

「あたしね、今だから云ふけど、ほんとは、ひとつ一生の念願があるの!」

「え? ネンガン?」

「ネンガン、わからない? ねがひよ。神さまにどうぞお授けくださいつて、祈るでせう、あれよ、そのお願ひよ」

「へえ、なに、いつたい?」

「笑はないね。──あたし、おそろしくでつかい恋愛がしたいの、そこいらにある、誰でもが誰とでもできるやうなもぢやない、もつと、すばらしい、偉大なる恋愛よ。いけねえ声まで大きくなつた」

と、彼女は首をちゞめてみせます。そして、とつぜん、

「グラン・タムール……オー、グラン・タムール……」

と、叫んだのです。

 保枝は、吹きだしました。女学生の頃とそつくりだからです。三十いくつにもなつて、グラン・タムール(大いなる恋)もないもんだ、と思つたからです。しかし、いゝ形の指の間へアメリカ製の巻煙草を小意気にはさんで、なるほど紫だといへば紫にもみえる煙の環を吹きながら、遠くをうつとりとみつめるやうな眼ざしで、この異国的な化粧のをかしくない女の口から、こんな寝言めいた言葉を聴くのは、ちよつと、花やかな見ものでもありました。

「さう云へば、あの頃、グラン・タムールつて、はやつたわね。あたし、よく覚えてないけど、誰が云ひだしたの?」

「英語の教師で、大学を出たてのフラちやんつてのがゐたぢやないの。あたしたちが卒業の年に来たのよ。誰だかの詩の訳をしてる最中、これが、フランス語でいふ、グラン・タムール、大いなる恋、といふやつです、……なんて、見得を切つたのえ」

「さう、さう、思ひだしたわ。それから、それを学校ぢうにひろめたのは、井沢さん、井沢のレイちやん……」

「二十一で死んぢやつた」

「処女のまゝ……」

と、保枝は口をすべらして、夫の寝てゐる部屋の方へちらつと眼をやつた。

 二人はそこで、期せずして、同時に溜息をついた。

「グラン・タムールでも、すばらしい恋でもいゝけれど、そんなもの、現実の世界にあるかしら? すくなくとも、今の日本にあり得ることかしら?」

と、保枝は、妙に胸のつまるやうな気持で云つた。

「あつても、なくても、あたしはするの」

「なけれや、できないでせう?」

「じようだん言はないでよ。ないからこそするのよ。あたしが、それを、あらしめるのよ」

「できるかもしれない、あんたには、但し相手があればね」

「相手? 相手は、それや、必要よ。でも、どんな相手だつて、理想の相手にまで引上げるのは、こつちの力よ。それでなきや、グラン・タムールなんて云へないわ」

「あら、あたしはまた、相手が、なにかの意味で、立派な、偉大な人格でなけれや、ダメかと思つてたわ」

「それや、それに越したことはないわ。恋愛は男女の合作ですからね」

 この他愛のない会話は、しかし、この二人の女性、花ならば明日は凋むかといふ中年の女性を、一つ時、若やいだ気分にさせただけではすみませんでした。殊に、この次はアツといふニユースを持つて来ると約束をして帰つた大庭常子の後ろ姿を見送りながら、保枝は、泣きたいほど、ひとの自由が羨ましかつたのです。



 夏もやつと過ぎたと思ふと、また炭の心配をしなければならない季節になりました。しかし、たまつた編物は、いくらせかれてもさうさうは捗らず、予定は片つぱしから狂ふ一方で、今月は少しは浮くかと思つた収入も、貯金帳をしらべると、また喰ひ込みといふ始末です。さうさうひとの好意にばかり甘へてはゐられないと思ふしりから、伏見のことが想ひ出されます。手紙を出して、この間の話を、彼の言ふとほりにしてもらはうかしら、と、保枝は考へます。編物の仕事を彼の手で取次いでもらへば、編賃がほとんど倍額になるといふあのうまい話なのです。毛糸の仕込みも、彼のおかげでずいぶん楽になつたのですし、そのうへ、有りがたいことは、彼の郷里が信州の農村なので、来るたんびに、あれをすこし、これをすこしと無理を言つて、食糧の不足分をどうやら公定並みで間に合はせてもらへることです。もともと、そんなに深いつながりのある間柄ではなく、夫の卯吉が入院中、しばらくついてゐた看護婦の兄といふだけなのですが、これが海軍の兵曹長上りかなにかで、戦争中、たまたま妹を通じて夫からの「よろしく」といふやうな伝言を聞いたらしく、それがよほどうれしかつたとみえ、復員早々、妹と一緒に家を訪ねて来たのでした。その彼が、信州と東京とを股にかけて、一種のブローカーをはじめたのです。

「普通のカツギ屋とはちつと違ひますから、どうぞご安心ください。将来の見透しからいふと、どうしても、農産物の加工に目をつけるべきです。農民は退嬰的で非科学的で、お話になりません。都会の商人は、目先の利益ばかりを追つて、生産者と需要者の信用を失ふばかりです。そこで、わしのやうな人間の割り込む余地ができるわけです。生産者からは、ほかよりすこし良い位で原料を買ひつけます。それを、最高の技術と適正な価格で加工させます。そして、そいつを、すこしほかより安い値段で需要者の手に渡すのです。いま、緬羊とアンゴラの原毛を集めてゐます。是非、奥さんもご協力ください」

 願つてもない話でした。

 保枝は、ともかく毛糸の斡旋を頼みました。闇値の釣り上るほど、彼の持つて来る毛糸の値段はさがりました。

「こんなお値段でいゝのかしら?」

「もちろん、お宅は特別です。奥さんはわしのお得意さまだとは思つてやしません」

「そいぢや、なんだと思つてらつしやるの」

 保枝は、ちよつと警戒の微笑をもらしながら訊ねました。

「さあ、早く云へば自由、わしの利益は、奥さまの利益といふ勘定です。アハツハツハ」

 なるほど、さうでなければと思はれる彼の身の入れ方であつたが、それだけにまた、保枝としては、夫と相談もしずに、この男の好意を無条件に受け容れていいものかどうかと、いくぶん気味わるくも思ふのでした。

 が、こつちになにも弱味さへなければ、つけこまれるといふ心配はないと思ひかへし、ともかく相談があるといふ速達の端書を出すと、その翌日の晩、伏見菊人は飛んで来ました。まつたく、飛んで来たのです。彼は夜行で信州へ発つつもりでした。

 保枝は、いそいそと彼を迎へました。ひとまづ、例によつて夫の病室へ通し、それから、茶の間へ案内して手製のキヤルメラ焼きの残りでお茶を出し、おもむろに口を切りました。

「お恥かしい話だけど、どうしても、そんなことにでもしなけれや、やつていけないの。ご近所からの頼まれものは、急に上げるといふわけにもいかないでせう。だから、こつちの手持だけ、その値段でやれると大助かりだわ」

「わかりました。お安いご用です。序に、奥さん、もうちつと儲かる方法をお教へしませうか? 第一は、毛糸の仕入値段をもつと引下げること……」

「あら、だつて、あなたより安い口があるの」

「あります。わしは、細かく云ふと、あれでまだ毛糸を高く買つてゐます。原毛が間に合はんからです。仮にわしが、自分で原毛を買ひつける時に、奥さんの分として、いくらかきめて割り当てゝおけば、あとは、加工賃だけで、製品として工場から卸値で買ふより、何割か安くなる計算です。奥さんの方は、月、だいたい何ポンドあれば十分ですか」

「さうね、三日でスエーター一着として、まあ、十ポンドもあればいゝわ」

「なるほど、すると、どういふことになりますか。十ポンドの毛糸は、原毛でざつと二貫五百目とみなさればなりません。一貫目、現在の相場は、四千から四千二百です。加工賃一貫目千六百として、まあ四千円、原毛の仕入を一万四百とみて、合計一万二千円。運賃をおまけにして、毛糸撚上もの一ポンド千二百円につきます。いかゞです。わしの持つて来るものよりや、ぐつと安くあがるでせう」

「それやさうだけど、原毛を仕入れたり、加工に出したりするのに、いくらか資本がゐるわけね」

「資本? わづか五、六万のね。奥さんは、資本といふものを、現金に限ると思つておいでですね。大間違ひです。奥さんの腕が立派な資本ぢやありませんか。若し、こゝでわしと奥さんで合資会社をこしらへるとしますぜ。わしは、ポンと十万、投げ出します。奥さんは、涼しい顔で、編棒を動かしてゐてください。……奥さんの能率給を別にして、利益配当は、山分けです」

「そんなうまい話つてあるかしら!」

「あるからしかたがないですよ。──もつとうまい話をしませうか?」

「もう、たくさん……。頭がぼうツとするわ」

 伏見菊人は、そこで、煙管を出し、巻煙草を半分にちぎつてつめ、ライターで火をつけました。彼はさすがに、得意げでした。

 潮風にやけた海上生活者独特の皮膚の色です。骨張つた四角い顔、広い肩幅、厚い胸、頑丈に握つた両の拳が、保枝の眼には、たゞ荒々しいものに見えましたけれども、その声には、切口上を切口上にせぬやわらか味があり、素朴で敏捷な鳥の一種をおもはせるところがありました。

 やがて、汽車の時間だからと云つて、彼は起ちかけました。合資会社の話はまあいづれといふことにして、ともかく、彼女の希望は達せられたのです。

 あとから、その話を夫の卯吉にして聴かせました。すると、彼は、口重くではありましたが、伏見菊人に対する感情を率直に述べました。

「僕は人をみることはあんまり上手とは云へないけれど、無制限に好意らしいものを示す人物を、ほんとうに信用したくないんだ。さういふ性格で、自然にそれをやらずにゐられないといふ人間もゐることはゐるさ。しかし、僕に云はせると、それも一種のエゴイストだと思ふ。さういふ人間に限つて、相手がそれを負担に感じることなどちつとも考へない。おまけに、きつと、それを受ける側の反応におそろしく敏感なんだ。自分では欲得をはなれたつもりでゐるかもしれない。それが却つて相手の出方に注文をつけたくなる原因なんだ」

 さう云はれてみると、保枝にも、それは実によくわかりました。それがその通りである証拠に、彼女自身、伏見菊人と向ひ合つて、どこか意を迎へるやうなところを見せてはゐなかつたか、と、顔の赤らむやうな思ひでした。

 夫の意見を聴いたときは、たしかに、それに同感したのですが、夜になつて、ひとり寝味にはいつてから、ふと、こんな考へが浮びました。──「しかし、人間には、動機次第で、あくまでもひとを助けようといふ気になることはないだらうか。相手がそのために負担を感じるといふのは、まだまだその相手に余裕があるからではないか。義侠心といふのは、いつたいなんだらう。弱いものへの奉仕の精神ではないか。エゴイズムとはまつたく反対なものだ。自分たちの現在の生活は、誰がみてもたいへんなことはわかつてゐる。下をみればきりはないけれども、いろんな条件を照し合せてみて、第三者が心から同情してくれたとしても、ちつともこつちは、そのために、自尊心を傷けられることはないと思ふ。物質的な施しを受けるまでになつてゐないといふほこりさへ保てれば、進んで与へられる他からの力は、それを受け容れるのが、素直な人間の道ではないだらうか」

 保枝のこの論理は、一応、彼女のとつた処置を弁護するやうでしたけれども、すぐにまた、こんな疑ひが胸の底に湧きあがりました。──「いつたい、あの伏見といふ男が、あらゆる好意を示さうとしてゐるのは、夫の卯吉に対してか、或は、この自分に対してか?」

 さあ、かうなると、問題が微妙になります。病床にゐる夫を中心とした根本一家への同情と解してしまへば事は簡単なのに、それを彼女は平然と飛び越えて、わざわざ免倒な疑問へ自分を引きずり込んでゐるのです。それは結局、「自分といふ家内がゐなくても、はたして、伏見菊人は、たゞ妹を介しての因縁だけで、これほど親身になつてくれたであらうか」です。もつと突つ込んで云へば、──「伏見がこれほどまでに何もかも世話を焼いてくれるのは、たゞ、自分といふ一個の女性、人妻であるなしは別として、たゞ、女である自分に、よく思はれたいためではなからうか?」といふことです。

 保枝は、はつきりこゝまでは考へませんでしたけれども、頭のなかで、いや、むしろ胸の奥で、伏見菊人の自分に対するある種の特別な感情を、かすかながら想像しないではゐられませんでした。意味ありげないろいろな言葉のはしばし、無理な註文をおいそれと引きうける、あの気軽さのなかにのぞかせる争へぬ満悦、時として、不用意に自分の横顔に注いでゐるあの熱い瞳……彼女は、急に、夜具の襟に顔を埋めて、自分のはしたない妄想を追い払はうとしました。

 眼がさめたのは何時ごろでせう、彼女は、頭にも、胸にも、腰にさへも、うつすらと汗をかいてゐました。夢をみたのです。伏見菊人と、夫の卯吉とが、何か言ひ争つて、その揚句、伏見が寝てゐる夫の上に馬乗りになつて、その首を締めようとしたのです。彼女は、なにか叫んで、伏見の肩に縋りつきました。伏見は彼女を片手に抱きながら、夫から離れました。夫の眼は怒りに燃えてゐるやうでもあり、絶生の悲しみをたゝえてゐるやうでもあります。彼女は、伏見を押しのけるため、必死の努力をします。しかし、なんの甲斐もありません。第一に、彼女の全身からは、まつたく力がぬけきつてゐるのです。押すことも引くことも、どうすることもできません。そのうへ、からだには、重みがちつともないのに気がつきます。浮きあがるやうな気持です。これではいけないと焦ります。夫は、もう、そこにはゐません。ゐるかも知れないけれども、自分には見えないのだといふ気がします。伏見の顔も、うしろになつてゐて見えません。たゞ、頸筋に激しい呼吸づかいが感じられるだけです。気が遠くなりました。そして、はつと、眼がさめたのです。

 彼女は、こんな夢をみたことは、生れてはじめてです。なんといふ変な後味でせう。罪の意識に似て、それともいくぶんちがひます。心に覚えのない夢をみせる悪戯らな神を、彼女は憎みました。

 それから二、三日たつて、明るく晴れた午後のこと、夫に聴かせるつもりで、ちようど音楽の時間にラジオをかけてみました。

「おい、聴いてるかい? なにしてるの?」

 夫が叫ぶ声に、台所から急いで来てみると、

「あれ、大庭常子だよ」

 なるほど、それに違ひありません。カルメンを歌つてゐるのです。

「チキシヨウ! うめえなあ」

と、夫は感嘆の声をもらします。あまり音楽のことはわからぬ筈なのに、いやにわかつたやうなことを云ふので、彼女は、はじめちよつとをかしい気がしましたけれど、聴いてゐるうちに、これも上手下手のうちにはいるのか、大庭常子のカルメンは、なにか迫るやうな不思議な声の調子で全身をぞくぞくさせます。

 うつとりと耳を澄ましてゐる夫の方へ、彼女は、時々、一瞥を投げました。横向きの静かな顔ですが、瞼がなによりも深い陶酔を語つてゐます。

 曲が終ると、夫の卯吉は、独語のやうに呟きました。

「おれは大庭常子をちよつと見直したよ。おれがいままで持つてゐた女の概念にあてはまらないところにある。しかし、やつぱり女だ。類のない女だ」

 保枝は、その言葉をたしかに耳にはさんだのですが、そのまま勝手の方へ来てしまひました。ぐつと胸につかへるものがありました。なにか黙つてはゐられない、反撥を感じさせられる言葉でしたが、ガスが思ふやうに出ないのに気をとられて、ついそのことは忘れてしまつたのです。

 ところが、夕食の時間に、子供を探しに門口へ出ようとすると、一枚の端書と一通の封書とがそこへ投げこんであるのをみつけ、急いで拾ひあげると、封書の方の差出人は大庭常子で、長野県軽井沢間島様方としてあります。「おや」と思ひながらその場で封を切つて、書簡箋五六枚に例の悪筆で乱暴に書きとばした文句を、ざつと読み通しました。


先日はお邪魔さま、ちかごろあんなに夢中になつておしやべりしたことないわ。でも、あたしが何言つたか、あんたがなんて答へたか、みんなはつきり覚えてるの。あれから、急に思ひ立つて軽井沢の友達の別荘へ来てしまつたわ。来てよかつたと思つた。いろんな空想ができるの。浅間が煙を吐いてゐたり、すゝきの原に雨が降つたり、夏の最後のバラが咲いてゐたりするんだもの。あたしは物を考へるのが苦手で、考へたことはすぐに出来なくつちやいやなの。だから、出来さうもないことは考へないことにしてるのよ。あたしには、偶像みたいなものはないの。だから、恋愛の相手も行きあたりばつたりで、その場限りみたいになつてしまふの。それがいけないのか知ら。でも、あんたはやつぱりどうかしなけれやいけないわ。今のまゝぢやあんまり意味ないわ。だから、あんたに、きつと、出来さうもないことばかり、わざわざ考へるやうになるのよ。はじめから出来つこないなんてきめておいて、そのことをもし出来たらつて空想するのが、あんたの楽しみになつてやしない? さういふところがありさうだわ。そんなの、あたし大反対だわ。

この十五日に放送があるの。そのため、ちよつと東京へ帰るけど、すぐまた引つ返すつもりなの。暇があつたら寄るけどあてにしないでね。放送は、カルメンを歌ふの。どうせ、あんたは聴きつこないんだから、言ふ必要はないけれど。

あたし、こないだの話、ほんとに実行してよ。もう、そのつもりで、相手を物色してるの。これと目をつけたら、もうこつちのもんだわ。筋書どほりに、ぐんぐん事を運んでみせるわ。グラン・タムールの条件をあたし数へてみたの。その話、一度あんたとしたいわ。こんな話、ちやらつぽこの相手としても面白くないからね。

ほら、いつかあんたに話したこともあるでせう。自分で志願して、以前、あたしの伴奏をずつとしてゐた男のことさ。金谷秀太つていふの。それが死んだものとばかり思つてたら、まだ生きてたんですつて。この間あたしのリサイタルで、たしかに見かけたつていふひとがゐるの。二階の隅で、ぢつと聴いてたんですつて、間違ひかもしれないわ。でも、ちよつと変な気がするの。

あたしは、いま、自分のこともだけれども、ほんとは、あんたのことが気になつてしやうがないのよ。あんたは、自分で思つてゐるより、ずつと美しい。女は、自分が美しいと思ふだけ、それだけ美しくなるんぢやない? 病人は病人でそつとしておきなさい。あんたは、自分の美しさに値する運命を切り開くのがほんとよ。急がなければダメよ。

あゝ、もう時間がないわ。これから、この家の主人の友達だといふアメリカ人が、ドライヴに誘つてくれてゐるの。尻ごみは大損の元なんていふ諺なかつたかしら。では、元気を出しなさいね。旦那さまに、どうでもいゝけど、よろしく言つてちやうだい。


 保枝は、この手紙を、晩にもう一度読み直すつもりで、帯の間へはさみました。それから、思ひ出して、なにげなく、端書の方をみると、自分宛のものには違ひありませんけれども、字体にはまるで覚えがなく、おまけに、差出人は男名前です。ともかく裏を読んでみました。


妻 福代こと去る九月八日死去いたしました。急性肺炎の手おくれが原因であります。まつたく、小生の機敏を欠いだ処置のためで、自ら慰めやうもなく、妻にもたゞ申訳なく思つてゐます。葬ひは時節柄、内輪だけですませましたが、生前特別な交誼を願つてゐました貴女へ、とりあへずご報告いたしたく、一筆認めました。なほ妻の旧友の方には、二三心覚えだけで通知はしますが、お気づきの向きへは、貴女から然るべくお伝へくださるやう願ひます。


 加部福代が死んだといふことは、すぐには信じられませんでした。住居が女学校の近所なのと、教室で席が並んでゐた関係で、保枝はわりに折々その家へ遊びに行つたことがあり、卒業後、向うはすぐに養子を迎へることになつて、その披露にも同級では自分がたつた一人招かれたのですが、それ以来、だんだん疎遠になつてしまひ、お互に訪ね会ふ機会もなく、年一度のクラス会にもかけちがつて顔を合はせたことはないのでした。終戦後、どこやらの疎開先から帰つたといふ知らせをだしぬけにもらつて、さうさう、こんな友達もゐたんだ、と、旧い記憶をよびさまされたほどです。

 夫の枕許に食事を運んで、これから、子供と向ひ合つて、いつものやうに、保枝はつゝましい夕飯の箸をとりました。

 今日は重ね重ねいろんなことがあつた日なので、彼女は、落ちつきませんでした。しかし、なんと云つても、加部福代の死んだ知らせが、いちばん、こたへました。打ち絶えて便りもせずにゐたこの旧い友達のことが、あれこれと思ひ出されます。いつも控え目で、たゞ眼もとに勝気なところをみせてゐる、静かな少女でした。養子に来たのは、その頃たしか大学生だつたと思ふのですが、或は、大学の研究室にゐたのかも知れません。さう云へば、どんな時にも、友人の間で加部福代の話はよく出たものです。旦那さんは大学の講師で、思想的な論文を方々の雑誌に書いてゐる人だといふことを聴いたのはずいぶん前のことでした。保枝はてんでさういふものには縁のない方ですから、さつきの端書に、加部錬之介の署名があつたにしても、それが当節名義の売れてゐる評論家だといふことさへ気がつく筈はありません。たゞ、死亡通知の文句を、ちよつと変つてるな、と、思つたことは事実です。

 そんなことから、保枝は、加部福代の半生をともにした加部錬之介なる男が、夫としてどんな人物であつたかを、ふと好奇心で知りたくなりました。それを知ることだけで、加部福代の短い生涯の意味がきまるやうに思へたのです。

 保枝は、その翌日、近所のをばさんに病人のことを頼んで、ともかく、悔みに行くことにしました。葬式はすんでゐるのですから、羽織と帯だけ黒にして、半襟は目立たない白地をえらびました。かういふ時ででもなければ、よそ行きを着ることのない近頃の自分を、鏡の前でしばらく飽かず眺め入りました。ざつと解きつけた髪も、偶然にふつくらと思ふかたちになりました。さて、香奠は、と気がついて、どうしたものかと迷ひました。闇も公定もない代物ですから、気前をみせるか見せないかの違ひです。夫に相談しても、夫は相手にしてくれません。彼女は、百円札を二枚重ねてみ、それから五枚にし、また急いでそれを三枚にしてしまひました。

 さて、昔どほりの処番地なので、探す手間はいりません。ところが麹町一帯は、方角もわからないほど変り果てたバラツク街です。このへんと思ふあたりをたづねて、やつと土蔵を改築したらしい、「加部」と標札の出てゐる家をみつけました。

 窓の小さい、冷え冷えとした室の奥に、蝋燭の光がゆれてゐます。

「どなたですか」

 いきなり、薄暗い隅の方から影がして、一人の男が起つて来ました。それが加部錬之介でした。

 霊前での二人の対話は、あらまし次のやうなものでした。

「福代はあなたを唯一人の女友達だと云つてゐました。……いくら会はなくつても心が通じてゐればいゝとも言つてゐました」

「たしかお子様がお一人おありになつたやうに伺つてをりましたが……」

「死にました。疎開先で川にはまつて死にました」

「まあ、ご運のわるい……」

「さうです。運とでも思ふよりしかたがありません。あなたもご主人が長くお患ひになつてゐるさうですが……」

「これも運でございませう。生きてゐてくれましたら、あたくしには、なにか張合ひがございます」

「さうも云へませうが……なかなかむづかしいもんです。その問題は……。福代はあゝいふ女ですから、なにひとつそんな気配はみせませんでしたが、僕にはわかつてゐました。僕たちの結婚はやつぱり失敗でした。──福代は女の幸福といふものを、遂に知らずに死んで行つたのです。僕の責任でもあり、彼女の宿命でもあつたのです」

「さういふご事情はわたくしにはわかりませんけれども、福代さんが幸福でなかつたなんていふことは、あたくし、信じられませんわ」

「このことは僕一人の胸におさめておくつもりでしたが、福代の心の友であられたあなたに、かうしてお目にかゝつてみると、やつぱりあなただけには聴いていただきたくなりました。実は、かういふものが出て来たんです。整理をする暇もなく、そのまゝ残して行つた手紙の束のなかに、これを見てください、こんなものがあるのです」


 保枝は、読めと言つて突き出された幾通かの封書を、手にとる気もしませんでした。

 加部錬之介は、やがてかう言ひました。

「お読みになりたくない。それでは無理にとは言ひません。福代が僕にかくして文通をしてゐたある男の手紙といふだけです。内容はお察しください。これによると、福代は僕をまだ裏切つてゐないことだけはたしかのやうです。言はゞ、強力な誘惑と激しく戦つてゐる状態がわかるのです。僕は、福代を絶対に責める気はないのですが、僕の自尊心はこのために、ひどく傷つけられました。それと同時に、僕たち夫婦の歴史は、たゞ二人だけの歴史だといふ確信が、もろくも崩れてしまひました。僕は自分がすこし惨めになり、それにもまして、福代といふ女が、あはれな女に思はれてしかたがないのです。僕といふ男の腕のなかで、もう一人の男を思慕しつづけてゐた女のあはれさを、僕はしみじみ、いま思ひやつてゐるのです。福代のあつけない死に方には、涙もろくに出なかつた僕ですが、かうして、この写真の前で、──お前はなぜもつと早く僕にそのことを知らせなかつたんだ、と云つてやつた時、僕は、もう我慢ができず、ほんとに声をあげて泣いてしまひました。……」


 かう言ひながら、加部錬之介は、もう声がかすれ、眼鏡の奥で、きらきらと涙が光つてゐました。

 保枝は、相手のこの感動をそのまま実感として胸にうけることはできませんでしたが、ただその場の情景と、それが自分に向つて直接言はれてゐる言葉だといふだけで、なにか、やるせない、そこへ突つ伏してしまひたいやうな気持になりました。

「それを伺つて、あたくしはもう、なんにも申しあげることはございません。福代さんを責める気はないと、たゞいまおつしやいました、そのことだけを、あたしは、女として、ありがたくお聴きして帰らせていたゞきますわ」

 これをきつかけに思ひ切つて座を起たうとしたが、加部錬之介は、それに頓着なく、まだ話しつゞけようとします。

「待つてください。僕の言ひたいのは、福代に罪はないといふことです。しかし、そのことゝ、僕の苦しみとはまつたく別です。それがわかつていたゞけるでせうか。決して同情を求めてるんぢやありませんよ。たゞ、僕は、あなたのやうな女性に、公平な裁きをうけたいんです。僕の方に罪があるか、ないかをです。一人の女の愛情をつなぎとめる力のない男に、いつたい罪はあるでせうか?」

 保枝は、まつたく途方にくれました。なにしろ突拍子もない問題の提出しかたです。しかし、彼女は、加部錬之介ほどの男が、自分のやうな女をつかまへて、真剣に心の悩みを訴へ、困難な疑問に答へさせようとする、どことなく生一本な態度を、さう軽く受け流すこともできませんでした。そこには、年配から云つても、不思議と思はれるほどの若々しさが感じられるのでした。

「さあ、さういふこと、あたくしなんかにおたづねになるのは、どうかと思ひますわ。ご自分に罪はないとお信じになれれば、それでよろしいんぢやございません」

と、彼女は、さつきまで、どことなく重みもあり、鋭さもあるその言葉つきと風貌とに押され気味であつたのに、いつか、それにかゝわりなく、かへつて年下のものに対するやうな馴れ馴れしさで物を言つてゐることが自分にもわかりました。

 すると、加部錬之介も、それに釣りこまれてか、かすかに苦笑をうかべながら、

「どうも自分の問題となると、主観をはなれてなんでいふことは容易ぢやありません。あなたに福代の代弁をさせるつもりぢやなかつたんですが、ついさういふ形になつてしまつて、失礼しました。何か福代の持物で紀念になるものでもと思ふんですが、それはいづれ落ちついてから、──といふことにします」

 こゝでやつと、話が途切れ、保枝は、しかしまだなにか、最後のひと言を云ひ残したやうな気持で別を告げました。

 この足で多摩墓地へとも思ひましたが、もう、日が暮れようとしてゐます。寝てゐる夫の顔が眼に浮びます。気が狂ひだしさうです。



 大庭常子は、このシーズンに六大都市で独唱会を開く予定でした。関西を先にといふマネーヂヤアの意見で、まづ京都を皮切りに、大阪神戸と順調にすまし、いよいよ東京でといふことになりました。今度はだいぶん切符を捌くのに骨が祈れるといふ見透しで、彼女自身、名簿に枚数を書きこんで、後援者の総動員です。

 名簿を見て行くうちに、ふと、加部福代のところへ来て、彼女はハツとしました。

「いけない。まだお悔みにも行つてないわ」

 そのとほりで、死亡通知はたしかにもらつてゐるから、どうせ葬式には間に合はないのだから、そのうちに悔みだけ行かうと思ひ、それがつい、それつきりになつてゐたのです。もともと、それほど親しい間柄でもなかつたのですけれど、同級生のうちで、頼めばちやんと切符を二枚買つて来てくれる少数の一人だつたのです。さう云へば、ついせんだつて、根本保枝からの手紙のなかにも、そのことが書いてあつたのに、と、大庭常子は、しばらく、考へ込みました。しかし、なにぶんもう、日にちの余裕がありません。新作の練習も、まだまだ不十分だと自分では思つてゐます。──遅れついでに、あとにしよう、あとに……、と、ひとりでさう決めて、加部福代の名前の上に赤インキで筋を引きました。

 そこへ、のつそりはいつて来たのは、作曲家で、彼女の愛人といふことになつてゐる巨摩六郎です。

「ねえ、常ちやん、僕の『蜜蜂の女王』ね、君の歌はまあいいけどさ。どうも伴奏が、あれぢや、困るんだ、伴奏が……」

「あたしの知つたこつちやないわ。第一黙つてはいつて来るの、どうして?」

 彼女は、顔もあげません。

「ドアがあいてたからさ」

「ドアのせいにしないでよ。あんた、こゝを自分のうちだと思つてんの?」

「へんなこと云ふなよ。どうしたんだい、今日に限つて……」

「あたし、すこし、考へてることがあるの。目障りにならないやうにしてほしいわ」

「へえ、そんなに目障りになるかねえ、神戸で僕に先へ帰れつて云つたのは、そのためかい?」

「あんたの作つたものは、これからも歌はしてもらふわ。はつきり云ふと、あんたのほかのものはね、もうあたしに用はないのよ」

「なるほど、はつきり云つたね。──ちかごろ、誰かできたのかい?」

「うゝん、まだ……」

と、彼女は、平気で首をふつてみせ、それから、くるりと後ろへ向き直つて、巨摩の顔を見あげました。眼は、いつぱいに笑つてゐるのです。

「戯談だらう?」

と、この隙に、彼は、その手を彼女の首へかけようとすると、彼女は、それを振り払ふやうに起ちあがりました。

「さわつちや、いや。あたしはもう三十五よ。をかしいやうだけど、さうなのよ。いつまでも、こんなことしてられる、いつたい! わからない? こんなことつて、あんたとしてるやうなことよ」

「だから、君さへその気になつてくれれや……」

「なによ、その気つて? そんな気なんかないわよ。あつてたまるもんですか。早く帰つて、奥さんにさうおつしやい大庭常子とは手を切つたつて……」

「奥さんはなんにも知りやしない」

「知らなきや、知らせてあげてもいゝ」

「おい、おい、もつと静かに物は云へないのかい」

「しづかに言ふ時は、ほかにあるさ」

 さう云ひすてゝ、彼女は、なにやら、セレナアデ風のものを口吟みはじめました。

 ちようどそこへ、使ひに出してあつた、例の弟子とも秘書とも手伝ともつかぬ笹山千鶴子といふ娘が帰つて来ました。

 大庭常子は、その娘が何か云ひ出さうとするのを、人差指を唇にあてながら「シユ、シユ、シユ」と云つて、それを制しました。さうしておいて、

「あんた、もう一度ご苦労だけど、下へ行つて電話かけて来て……。下田さんにね、今夜八時からいつものところで練習をいたしますからつて……それから、忘れないでかう云つてちようだい──『蜜蜂の女王』もうちよつとどうかなりませんかつて……」

「あ、そいつは……」

と、巨摩六郎が口を挟まうとすると、大庭常子が、

「さ、さ、早く、早く……」

と、云ふのと、同時でした。笹山千鶴子のかげは、もうそこにはみえませんでした。

 そこへ、また、つぎつぎに、後援者の一人である籾山夫人とその妹や、マネエヂヤアの藤本や、洋裁店の注文取りなどがやつて来ます。籾山夫人が常子を食事に誘ひます。

「巨摩先生もご一緒にどうぞ……」

と、夫人が言ふのを、

「巨摩先生はどうぞご遠慮あそばして……」

 大庭常子は、布地の見本から眼をはなさずに云ひます。

 そして、みなが、ほとんど一緒に部屋を出ました。

 すこし遅れて起ちあがつた巨摩六郎は、あとに残つた笹山千鶴子をつかまへて、かう問ひかけました。

「先生は、いつからあんなに変なんだい?」

 別に返事はありません。

「あゝ、さう」

と、ひとりで、なにかわかつたやうに、巨摩六郎は出て行きました。

 それから一週間後に、大庭常子の独演会が日比谷で開かれました。なんと云つても大事なステージです。その日の朝の軽い練習をすまして、彼女は、人に会ふのを避けるために、籾山夫人の迎への車に乗らうとしますと、伴奏者の下山康一が、今日は開会前遅くも一時間前に、楽屋へ来てほしいと云ひます。

「一時間……そんなに早く? 大丈夫よ、もう、大丈夫よ……ほんとに」

と、彼女は車を急がせました。

 会場は満員とまではいきませんでしたが、まづ十分の入りです。プログラムが進みます。彼女得意の伊太利民謡です。その一曲の序章が伴奏ではじまり、彼女の肉声がピヤノのメロデイのなかに融け込んで行つた瞬間、伴奏が急に狂つて、伴奏者下山康一は、もがくやうに、鍵の上を両手でおさへ、そのまゝがくりと前へのめつたはずみに、こんどは、横倒しに椅子からぶつ倒れました。

 この突発事件は、場内を一時騒然たらしめましたが、幕がおろされ、伴奏者下山康一が楽屋へ運ばれると、あとは、ひつそりと静まり返り、聴衆は、たゞ、ぼんやり、何かを待つてゐるといふ有様でした。

 大庭常子は、長椅子に横たはつた下山の傍らで、その容態を気づかつてゐます。彼は、多分、脳貧血の発作で倒れたらしくやうやく正気づいた模様です。むろん医者も駈けつけました。

「すみません」

と、たゞひと言、下山は常子に云つたきり、まだ眼を閉ぢたまま、肩で呼吸をしてゐます。

「どうでせう、少し休んでも無理でせうか」

 マネエヂヤアの藤本は気を揉みながら、医者にたづねます。

「脳貧血も軽微なものなら、すぐなほりますがねえ。この脈搏では……ことにピヤノと来ちや……」

「どうしませう? すぐ代りの誰か頼めないかしら?」

「誰にします。といふより、誰がすぐ間に合ふかだが……」

「今、誰か来てない? 郡山先生、ダメかしら」

「先生はむづかしいからなあ、急ぢや、うんと云ひませんよ。あ、見えた、郡山先生、ひとつ、お助け願ひます。この通りの状態です」

「いや、それやわかつてますがね、大庭さんの伴奏は、どうも、僕ぢやまづいよ。それに、いきなりぢやね」

「それやもう、ごもつともですが、そこをまげて……」

「藤本さん、もういゝわ。あたし、今日はやめるわ。聴衆の方に、わけを云つて、あやまつてちようだい」

 彼女は、さう云つて、大きく溜息をつきました。全身の力がぐらぐらツとぬけ、そこにあつた椅子のひとつに、やつと腰をおろしました。

 マネエヂヤアの藤本は、まだ諦めきれず、今までに彼女の伴奏を一度でもしたことのあるピヤニストで、電話のあるところを手帳を出して調べはじめました。

 その時、影のやうにはいつて来て、大庭常子の前に突つ立つた男がゐました。

 彼女は、引く息をとめたまゝ、その男の顔を、まぢまぢと眺めました。見る影もなく痩せほうけた顔です。たゞ、凹んだ瞼の奥で、あの沈痛な瞳が、むしろ、何かを押しつけるやうに彼女を見据えてゐます。読者はもう、この人物が何物であるかを察せられたでせう。

 人々の好奇的な視線が、そこに集まりました。誰も、一言も発しません。やがて、この不気味な沈黙のなかで、わづかに、大庭常子の、低く、たゞ、

「おねがひするわ」

といふ声が、暁の鐘のやうに聞えました。

 金谷秀太の伴奏は、何人も意外に思ふほど好調子で、大庭常子自身も、自然に楽々とそれに乗ることができ、久しく忘れてゐた熱演の快味を想ひ出させるものでした。

 会のはねたあとで、彼女は衣裳を着かへ、さて、もう一度金谷秀太に会つて、ゆつくり礼をいふつもりでした。ところが、何時の間にか彼の姿は会場から消えてゐたのです。

 マネエヂヤアの藤本も、ついうつかり現在のアドレスをきゝ損つたといひ、本気で探す気なら探せないことはないと高をくくつてゐますが、彼女は、なにか、そんなことでは安心ができません。彼がいま、何を考へ、これからさき、何をしようとするのかを、すぐにでもはつきり訊きたゞさなければ承知ができないのです。しかし、それは必ずしも彼に対する新しい興味からではなく、彼女の身をさ迷ふ奇怪な影の正体を見きわめるためなのです。

 彼女は、もうけろりとしてゐます。彼女の楽屋には、さつきから、一人の青年がもぢもぢしながら、隅の方に立つてゐました。それをみつけると、彼女は、いきなりそばへ寄つて行き、その肩へ手をかけました。

「やつぱりいらつしたの。どう? 批評きかして……」

 青年はまだやつと二十三、四にしかみえませんでした。眉目秀麗と云つてもよいでせう。たゞ、いくぶん健康を損つてゐはせぬかといふ風な色艶で、躾けのいゝ家庭のお坊つちやん然としたところが特徴のやうにみえます。

「批評なんか……それより、母も一緒に出て来る筈だつたんですけど、汽車が閉口だから、こんどは失礼するつて云つてました」

「さうよ、軽井沢からわざわざなんて、こつちが恐縮しちやうわ。で、あなた、もうすぐお帰りになるの?」

「僕、ついでに病院でレントゲンをかけて、レコオドを二三枚買つて帰るつもりです」

「あたし、今晩はダメだけど、あしたの午後から、からだあいてるの。とにかく、三時頃、よかつたら、いらつしやいよお待ちしてますわ」

 この情景は、彼女の周囲を取り巻く常連にも、ちよつと首を傾けさせるものでした。今日まで、こんな青年は、彼女の身近くにはゐなかつたのです。そのうへ、彼女のこの応待ぶりは、たゞごとでないといふ印象を与へずにはおきませんでした。

 事実、この夏、大庭常子に、軽井沢ではじめて秋葉一家の人々──東京の家を戦災で焼かれ別荘へ移り住んでゐる元子爵未亡人とその息子に紹介され、度々その家へ出入るしてゐるうちに、その母親よりもむしろ息子の精と日に日に親しみを増すやうになり、音楽の話を緒として、次第に感情の機微な点に話題がふれるやうになつて来てゐるのです。

 ところが、この秋葉精なる青年は、大庭常子が早速これと目星をつけた新しい冒険の相手には違ひありませんが、なにぶん公爵の血を引いただけあつて、形式万般を整へて、じわじわ進まうといふスタイリストで、彼女もすこし剛の煮えないところがあります。それに、なにもかも心得てゐるやうに振舞ひはしますが、やはり、耳学問目学問の域を出ない観念の浮きあがりが目立ち、その点、彼女は気が楽です。たとへ性格的には、思ひあがつたドンジュアニズムをかくしてゐるにせよ、その端麗な容姿と感受性とは、彼女の求めて想ひを焦がす相手には、まづもつて来いの若者でした。

 それはさうと、大庭常子は、その翌日、この青年の訪問を受けます。彼女の戦略は、この訪問で、彼をいゝ気にさせないといふことです。いくらかのよそよそしさ、できれば、どこかうはの空で、心こゝにあらずといふ風をみせておかうといふのです。この戦略は図にあたります。秋葉精は、三十分ほどもゐましたか。話が途切れがちなのを、彼は、自分のぎごちなさのためだと思ひ込み、いやにしほしほと引きあげました。男は一度ぺしやんこにしておく必要があります。

 大庭常子は、薬が利きすぎやしないかと案じながら、これも家を出ました。急に根本保枝の顔がみたくなつたのです。

「あんた、福代ちやんのお悔みに行つて、あたしの歌、聴きに来ないのかい」

と、いきなり、噛みつくやうに云ふと、

「家を持たないものは、さういふこと云ふのよ。あの切符その代り、福代ちやんの旦那さまに送つたわ」

 保枝のこの応酬は、大庭常子を唖然とさせました。

「どういふの、それや?──喪中に音曲はどんなものだらうね」

「知つてゝよ。そんなこと知つてるけど、ちよつとわけがあるのよ」

「云つてごらん」

 そこで、根本保枝は、かいつまんで、加部錬之介の述懐を聞いた話をしました。

「うん、わかつた。案じられるね。で、それと音楽会の切符と、どう関係がある?」

「だからよ、福代ちやんの旧友のあんたの歌でも聴いて、もんもんの情をお慰めなさいつてわけよ」

「親切だね。さういふもんかねえ。どんなひと、その旦那さんつて?」

「学者よ。大学の先生よ。なんか書いてもゐるんでせう。あら、あんたまだ知らないの?」

「それくらゐのことは、あたしだつて知つてるさ。福代ちやんも罪な死に方をしたもんだなあ。お寺はどこさ?」

「お墓は多摩墓地なんだつて……いつか、私達一緒にお参りしない?」

「お墓参りつて、ありや、遺族のためにするもので、死んだ人間は、お前さん、あすこにゐやしないもの」

「軽井沢で、なんかあつたらしいぢやないの」

「そんなこと書いたかねえ。まだ本もんとは云へないけどね。あるにはあつたさ」

「グラン・タムールの口なの?」

「まあ、そのへんだね。さうさう、あれを云はなくつちや、グラン・タムールの条件つてやつをね。いゝかい。第一はまつたく打算をはなれること。つまり、功利的ぢやないこと。第二は、唯一人が相手だといふこと……」

「あたり前だわ」

「黙つてなさい。そんなこと云ふけどさ、実際の交渉は一人に限られてゐてもさ、時によつて、ほかの相手がちらちら眼にうつるなんていふのはダメなのさ」

「うん、それやさうね、第三は?」

「第三は、なんだつけな、さうだ、第三は、相手の欠点が全然見えなくなること。つまり、アバタもエクボつていふ、あれさ。スタンダールの云ふ、『結晶作用』が完全に行はれてゐるといふ状態、これさ」

「それだけ?」

「いや、ここまでは、まあ、初歩の原則みたいなもんさ。第四はだよ、これが大事なんだけど、相手のためにはだね、一切を棄てられるといふことさ。むづかしいよ、これは。あたしは、今まで、恋愛とは、与へることぢやなくつて、奪ふことだと思つてたよ。よく考へてみると、さうじやない。やつぱり、グラン・タムールは与へることだね」

「おや、おや、バカに神妙なのね」

「それさ、神妙であること……敬虔な心と結びつかない恋愛は、小恋愛だよ」

「変ね、今日は……お説教ぢやない?」

「まぜかへすなら、よすよ。なにも、誰にでも、それをしなけれやいけないつて云つてるわけぢやないよ。猫や杓子は、なにをやつたつていゝさ。たゞ、なにをやつても面白くないもんが、それを考へりやいゝんだよ」

「なあんだ、さうなの? はじめから、それはできないものなの?」

「できたら、その方がいゝにきまつてるよ。運のいゝやつはそれにぶつかるのさ。古今の語りぐさによくある、あれさ。うそだらうがね」

「それが最後で、最大の条件ね」

「いや、もう一つある。これはちよつと微妙なところだがね。一番、第三者にものぞきにくいところで、神のみぞ知り給ふ秘中の秘だよ。それはね、早く云へば、霊肉一致さ。精神と感覚とのそれぞれの完全な融和、均衡のとれたどつちにも片寄らない、両性結合の満足を云ふんだよ。こゝは、すこし、受け売りだがね」

「わかるやうな気もするわ」

「そこまで行つてない証拠だ」

 二人の話声が夫の耳にはいりました。むろん、言葉のいちいちが、はつきり聞えたわけではありませんが、ともかく、小恋愛だとか、与へるだとか奪ふだとか、秘中の秘だとか、いふ言葉は、そのまゝ、途切れ途切れに夫の神経を尖らせました。

「大庭さんが見えてるんだらう」

と、夫は、たまり兼ねて、怒鳴りました。

 そこで、女二人は、まださつきからのくすぐつたい笑ひをそのまゝ唇と眼尻に残して、夫卯吉の前に姿を現はしました。

「なんの話をしてたの? や、いらつしやい」

と、卯吉は、枕からちよつと頭をあげました。

「大きな声で、おやかましかつたでせう。あたしくせなの。すぐ調子に乗るんですの」

「いつも切符をいたゞくんださうだけれども、僕がなほるまでつて、こいつが遠慮するんですよ。こないだの放送は伺ひました。天下一品だな、あなたのカルメンは」

「おや、褒めていたゞいて、なんだけど、あれはとんだ出来損ひ。いま、保枝ちやんと恋愛論をしてましたの」

「いやだ」

と、保枝は、頬を赤らめます。

「いやなことないわ。あたし、旦那さまの前でも、してよけれや、するわ」

 大庭常子は、わざと、そんなことを云つてみるのでした。

「大いにやつてください。家内とは、そんな話は金輪際できませんからね」

「あら、さうかしら? 保枝ちやん、これでなかなか意見がおありなのよ」

「さ、行きませう、行きませう」

 保技は、照れかくしに、はしやいで、無理矢理に大庭常子の手を引つ張つて行きました。

 元の座につくと、いきなり、大庭常子は、ものものしい調子で、言ひました。

「さう、さう、もう一つ、大事な条件……これを忘れちやなんにもならない。さつき云つた五つのほかによ、第六、眼の前に、非常な困難が横はつてゐること。ね、無理をしなければ遂げられないつてやつさ。手が届きさうで届かないとか、つまり、道が嶮しいこと、これは絶対に必要だわ。坦々たる恋愛の道なんて決して、偉大な恋愛の道ぢやないの。『グラン・タムール』つて、だからさ、その意味ぢや、命を賭けた冒険をふくんだ、悲しい恋愛のことさ」

「なむあみだぶ……アーメン」

と、保枝は言つて、勝手へ、沸いた薬缶の湯をとりに立ちました。

「あたし、お肉すこし買つて来たんだけど、ご飯たべさしてもらへる?」

「あら、どうせ、そのつもりよ。お肉、なににする?」

「あたしに委せなさい」

 そこで、保枝は、エプロンを出して来て大庭常子に渡します。

 かうして、仲のいゝ女友達二人の共同炊事がはじまります。

「さつきの話ね、あたし、すこし異議があるのよ」

と、保枝が、玉葱の皮をむきながら云ひました。

「どういふことさ」

と、大庭常子は、豚肉を鼻に近づけて臭ひをかいでゐます。

「第六だつた? ほら、最後の条件も、大きな障碍があつてそれを乗り越えて行くやうなものつて云ふんでせう? 茨の道云々よ。あたし、それ、すこし不健全だと思ふわ。それに限らないと思ふの。平板なといふ意味でなく、広々とした、光に満ちた大手を振つて歩ける道でも、お互の心の結びつき方、感情の高まり方では、それが、「大きな恋愛」と云へないことはないと思ふわ。あたしの考へではよ、結局、それは男でも女でも、人間次第、そして、組合せ次第だと思ふの」

 保枝のこの雄弁は、大庭常子にとつて、なんの効果もありません。

「それが甘いつていふんだよ。そんなの、おとぎばなしだよ、抵抗のないところに、美しいものはないんだよ、……この人生にはね」

「そんなことを云へば、心中は、みんな偉大な恋愛になるのかしら?」

「うん、いや、それはちよつと違ふ。例外はあるけれどね。心中、片想ひ、刃傷沙汰、みんな、グラン・タムールに似て非なるもんさ。深刻さうにみえたつてダメ……。迷信、憶病、短慮、一徹、──どれも、これも、偉大な行為とはなんの関係もないぢやない」

「なかなか、よく調べてあるわね」

「調べてあるは、痛かつたね、ちつとばかり、本を読んだよ。でも、自分でさうだと思つたことしか、あたしは言はないよ……」

「で、どうなの? だいたい条件のそろつた相手がみつかつたの?」

「はじめから条件なんかそろやしないよ。たゞ漠然と見当をつけるのさ。ぶつかつてみなきや……」

「はい、キヤベツと玉葱……二つに切つたわよ。あと、どうするの?」

「どうもしないでよろしい。七輪の火、よくおこつてるか、みてちようだい。塩と胡しよう、出てるね」

 かういふ風にして、恋愛談義は味覚の構成を妨げませんでした。



 秋も深まつたある日の昼近くのことです。

 多摩墓地の、松林を切り開いて間もない一劃の小径を、物思はしげに、ゆるゆると歩を運んでゐるのは、加部錬之介でした。着古してはありますが、まだ形のくずれてゐない焦げ茶の地味な背広、あまり折り目のついてゐないやゝ短か目のズボン、広い縁から波打つ長髪をのぞかせてゐる同じ色のソフト、レーンコートと革の折鞄を片手に、ポケツトに突つこんだ右手を時々出して、度の強さうな眼鏡を神経質に押しあげるかつこうは、まぎれもない一個の頭脳労働者です。

 さらさらと、道の上を落葉が走ります。昼啼く虫は、墓地の静寂をひときわ深いものに思はせます。

 加部錬之介は、時々、あたりに気を配り、近づいて来る足音に耳をすましました。が、やがて、思ひ直したやうに、一直線に右へ折れ、とある玉垣をめぐらした墓石の前に進み寄つて、その石に刻まれた「加部家代々の墓」といふ文字に眼を注ぎます。つぎに新しい白木の墓標をちらと眺めます。別に帽子も脱ぎません。感慨めいた表情を示すでもありません。たゞ、腕時計をちらと見ます。すこしぢりぢりした様子で、また、大股に歩きだします。

 すると、ものゝ十分もたつたと思ふ頃、表入口の方から墓地の中央を通つてゐる広いアスフアルトの路の上を、小さな白い花束を手にした洋装の女が一人、一つ一つの墓石を見あげるやうなかつこうで、とぼとぼとやつて来ます。緋の裏をつけた黒い洋羅紗の半外套の胸を開いて、ヴエールを垂らした縁のない帽子を小意気に頭にのせた、背の高い三十がらみの女です。早く言ひませう。これが大庭常子です。

 彼女は、もう、加部錬之介と電話で三度も打ち合せをして、今日、この時間に、こゝで会ふ約束をしたのです。明日は、加部福代の四十九日に当るのです。それでわざわざ一日だけ繰りあげて今日にしたのは、めつたな人間に会ひたくない双方の肚だからです。

 はじめ彼女が電話で彼と話をした時、加部錬之介は、彼女の声を覚えてゐて、そんな電話なんかぢやなく、是非一度訪ねて来てくれ、淋しくしてゐるから、と、人懐げに言ふのでした。──むろんお焼香に伺ひたいと思ふけれど、今からぢや、もう直接お墓へお参りした方がなんとなく気分が出ていゝ、などと彼女が答へると、──それはそれ、僕がお会ひしたいといふのは、それとはまた別だ、と、彼はおつかぶせて言ひました。──そんなら、そのうちに伺ひますと、彼女は、一旦、その時は電話を切つたものゝ、追つかけて、──四十九日がもうぢきだと思ふが、その日、もし彼が墓地へ出掛けるつもりなら、自分も、おまゐりに行つてもいゝ、といふ電話をかけてみました。──僕は実は親戚どもの手前、ちよつと行くには行くが、会ふのはその日でない方がいゝ。ゆつくり話ができさうもないから、といふことで、その時、いろいろの案がでましたけれども、その場では双方の都合をきめかねて、いづれ、連絡をするといふことで、また話を打ち切りました。それから、最後に、こんどは彼の方から電話で、今日の都合をたづねて来たのです。手は込んでゐますが、ただそれだけのこと、表向き世間を憚る理由はちつともないわけです。しかし、さうは云ふものゝ、これは単に儀礼的な、或は事務的な会見とみなすわけにゆかぬ理由は、読者はせんこくご承知です。

 話がまたすこし遡りますが、実は、大庭常子は、旧友の主人としての加部錬之介には、音楽会などでちよいちよい会つてゐたばかりでなく、自分の独唱会にはほとんど欠かさず夫婦連れで顔をみせ、楽屋を訪ねてくれたことも二三度あり、そのたびに、口はあんまり利きませんでしたけれども、親しい間柄としての挨拶は自然にできてゐたのです。しかしもともと加部福代との友達関係が、単に学校時代のクラスメートといふだけで、それも特別仲が良かつたわけでもなく、学校を出てしまへば、いくぶん互に澄し合ふといふ程度の距りもできて、勢ひ、ご亭主にもあまり関心を払はなかつたのは事実です。若しいくらか印象に消しがたいところがあるとしたら、加部錬之介の職業と、その職業に似つかはしい風采物腰です。音楽家仲間の誰かれと似てゐるやうで著しく違つたところは、芸術家と学者との違ひとでも云ふのか、妙にしやちこ張つたところがあり、物をすぐシリアスに考へすぎて、融通無礙の風がみえないことでありました。

 しかし、かういふ印象は、今度の、妻福代の死を契機として、つまり、根本保枝から聴かされた彼の述懐の様子や、最初の電話の口の利き方などから、大庭常子の頭のなかで、可なりな変化を来したと云へば云へます、彼女の彼に対する興味は、日毎に加はりつゝあるのです。そして、今や、加部錬之介といふ一つの男性像は、彼女のきまぐれな冒険の相手として、様々な衣裳を着、様々な姿態を演じる役割をふりあてられるやうになりました。

 さて、大庭常子は、もう既に、加部錬之介の姿を遠くからみつけてゐました。彼女は、すぐそばに近づくまで、知らん顔をしてゐました。加部錬之介は、帽子へ手をかけました。

「どこ、教へて……」

 眼だけで挨拶をして、彼女は、ぶつきら棒にかう言ひました。新しい墓標の前に立つて彼女は、しばらく黙つて、首をうなだれてゐました。と、いきなり、彼女は、真ん中の大きな墓の台石に、ちよこんと腰をおろします。遠くを見つめます。かすかなまばたきをします。ハンケチを出して、静かに眼をおほひます。が、急に、そのハンケチを握つた手を膝の上におきます。唇がふるへてゐます。突然、その喉から、歌声が流れ出ます。はじめは、かぼそく、やがて、絞るやうに高まります。マスネの「エレヂイ」です。

 が加部錬之介の存在は、この時までまつたく無視されたかたちでしたが、彼にも、この「エレヂイ」のかうして歌はれる意味がわかりました。彼は、いつとなく帽子をとり、勅語を聴くやうな姿勢で、その歌に聴き入りました。

 歌が間もなく終りました。

 大庭常子は、すつと起ちあがつて、加部錬之介の手に花束を渡しました。彼は、ちよつとどぎまぎしました。それをみて、彼女は、ちらつと白い歯をみせて笑ひました。そして、その花束を再びとり上げるやうにして、福代の墓前に捧げました。花筒にはどれも水が涸れてゐましたので、彼女は、わざとその花束を横に寝かしました。軸の方を右に向けたり、左に向けたりします。この間に、彼女はまた小声で、ブラームスの「別れの歌」を唱ひだしました。歌はつづいてゐます。彼女はそのまゝ加部錬之介の前に立つて、その顔をぢつと見つめます。彼は、軽く頭をさげます。彼女は、つと両手を前に差出し、彼の両手を執ります。ゆるゆると、後ろへさがります。二人は道の上に出ます。彼女は相変らず、低く歌ひつゞけます。歌は、フランツの「胸の痛み」に変つてゐます。彼女は、いつまでも彼の手を放しません。道はまつすぐです。たゞ、明るみから木蔭へ、そして、木蔭の深さは次第に増すばかりです。加部錬之介は、子供のやうに手を引かれて行きます。笑つていいのかわるいのか、迷つてゐるやうな顔つきです。けれども、歌のリズムは、かういふ形の踊りがあるやうに、手を繋いだ二人を、一方は前へ、一方は後ろへ、足取りも軽ろげに運んで行きます。

「根本保枝さんがこの前お訪ねしたつて、ほんと?」

 だしぬけに、彼女が問ひかけます。

「えゝ、みえました」

 未だ、さつきの歌のつゞきの一節があつて、

「あなたのこと同情して、それや大変よ」

「へえ、それやまた、どういふんです?」

 それに答へるやうに、ちよつと歌つてから、

「あのひとも、そんなに仕合せぢやないの、だからでせう。熱情をかくした、聡明なひと……もがいてますわ」

「……」

 ぢつと相手の眼に見入りながら、立ち止ります。

「どうもないの、それを聴いて、あなた?」

「どうもかうも、しやうがないぢやありませんか」

「あのひとが、あなたを好きでも? それがはつきりわかつてゝも?」

「あなたの前で、僕にその返事をしろと、おつしやるんですね?」

「できたら、おつしやい」

「歌をもつと聴かせてください……あなたの歌を……」

 彼女は、また、後向きに歩きだしました。そして、シューベルトの「さすらひびとの夜の歌」が胸をゑぐるやうに歌ひはじめられました。

 加部錬之介の手には、だんだん力がはいります。彼女の指はその手のなかで、しびれるやうに痛みます。二人の視線はぴつたり重つてゐます。彼女の引く力よりも、彼の引き止める力が強くなります。二人の距離が縮まります。顔と顔とが近づきます。彼女は、仰向き加減に、彼の覆ひかぶさるやうな顔全体を見あげます。なんの相図もなく唇が合はうとします。彼女はそこで身もだへるやうに、彼を押しのけます。

「あたしの悪魔!」

 消え入るやうな声です。

「そこ動かないで……ね、しばらく、あなたはこゝにゐるの、あたしを、このまゝ、先へ帰して、ね……うゝん、今日は、このまゝ帰して……後生だから……」

 彼女の後ろ姿は、すぐに道の四ツ角で消えました。

 加部錬之介は、道ばたの苔の上に腰をおろして、遠ざかる女の靴音を聴いてゐました。

 ところで、一方、根本保枝は、その翌日、加部福代の四十九日を待つやうにして、朝、早めに多摩墓地へ出掛けました。

 ひよつとして加部錬之介に会つたら、といふ期待もなくはありませんでした。それも墓地へ足を踏み込んで、事務所で道順をきゝ、いよいよこのあたりと思はれる場所へ近づくにつれて、もしこゝで彼に出会つたら、なんて挨拶をしたものだらうと、胸のおどるおもひでした。いゝ年をしてほんとに、と、自分ながらあきれる状態ですが、彼女にしてみれば、生れてはじめてそれこそ夫に対してさへもつたことのないやうな、異性に対する一種複雑な感情を、彼と短い対談によつて経験したのですから、それが仮に、恋情と名はつかなくても、世間の肌にふれるだけふれた女心に、なにか消すことのできない波紋のあとをつけずにはおかなかつたのです。それは、云ふまでもなく、彼女が加部錬之介から予期しない破格な取扱ひをうけたといふ感銘、しかも相手は、普通の男ではない、自分の夫などよりはるかに学識の高い、従つて、人格も練れてゐる一名士だといふ尊敬の念、そこへもつて来て、たとへ自分が彼の亡妻の学友であつたといふ因縁があるにせよ、あれだけの秘密を、率直に、大胆にしかも、そくそくと胸をうつやうな言葉で語つてくれる心のひろさ、ゆたかさ……といふ讃美が、彼女の加部錬之介像を作りあげてゐるのです。さういふ表現は彼女の頭には浮びませんが、彼こそは、彼女の知つた、実に最初の「美しい人間像」なのです。彼女は、さういふわけで、あれから後、大庭常子の送つてくれた独唱会の招待券を、わざわざ加部錬之介に廻し、考へに考へた文句をそれに添へました。

──先日は失礼申上げました。その節はいろいろお話をうけたまはりましたけれど、そんな大事をなにゆえにわたくし風情におもらしになるのやら、たゞ承るだけで身のすくむおもひがいたしました。平凡な女のわたくしが、あなた様の今日この頃のお心持を推しはかるすべとてございませんが、わたしはわたくしなりの気持で、ぶしつけをかへりみませず、同封の切符一枚お目にかけます。ご承知のとほり、大庭常子女史は、おなくなりになりました奥様やわたくしのクラスメートで、世のしきたりはどうか、存じませんが、その歌のしらべをしづかにお聴きになり、すこしでもお心がはれゝば、亡き福代さまも安らかにお眠りになれるのではないかと存じます。


 返事は簡単に、音楽会には折角だが先約があつて行けぬとあり、この前話したことは、あの場合の自然の欲求で、人間の感情のはけ口は、実に意外な相手を発見するものだといふことを、はじめて教へられたと云ひ、最後に、別便小包で、しるしばかりの物を送つたが、福代の形見として納めてもらひたいと結んでありました。そして、着いた小包を開けると、丁度ひとつ欲しいと思つてゐた革のハンドバックで、色合と云ひ、手ざわりと云ひ、ことにその持ち頃の形と云ひ、飛びつくやうなものでした。

 こんなこともあつた、保枝は、やつと探しあてた加部家の墓地の前に立つと、そこに眠つてゐるはずの旧友福代の面影と、その夫たる加部錬之介のすがたとが、こもごも彼女の眼に浮んで、しばらく、気持の整理がつきかねるほどでした。

 ところが、その時、ふと新しい墓標の前に、まだ活き活きと匂つてゐる白菊の花束が横たへてあるのを発見しました。

 ──おや、もう誰か来たんだわ。

と、彼女は独語のやうに呟いて、その傍らへ、自分の持つて来た、それよりもずつと貧弱な黄菊の束をおきました。

 彼女は、それから、小一時間もそのへんをぶらぶら歩きまわりました。眼にふれるものすべては、彼女をさまざまな「死」の連想に誘ひました。むろん、自分の死といふことも考へました。しかし、ふと、夫の死に想ひいたつて、彼女は、背筋に冷やりとしたものを感じました。見てはならぬものを見たといふやうな、恐怖と自責に似たあの刺すやうな胸の痛みです。

 ──かうしてゐてはいけない……と、彼女は、自分を急き立てるやうに、もと来た道を戻つて行きました。

 表門から軽便の駅へ通じる曲りくねつた砂つぽい道の上で、一台の自動車とすれ違ひました。五、六人の男女が集つてゐて、そのうちの一人は、たしかに加部錬之介のやうに思はれましたが、それをたしかめようともせず、彼女は、パラソルで自分の後ろ姿をかくすやうにして、さつさと駅への道を急ぎました。

 家へ帰つて、保枝は夫の枕許へ、途中で買つて帰つた栗の袋をおきます。

「大きい栗でせう。味はどうかしら。焼いて召しあがる? それとも、栗御飯しませうか?」

「一つ生で食ふ」

「ダメですよ、そんなこと……おなかおこはしになるわ」

「一つだけ食はせろ」

「ぢや、半分ね」

と云つて、彼女は、小刀で皮をむきはじめました。

 と、そこへ、息子の光一がはいつて来ます。遊びあきたのかと思つて、後ろを振り返ると、同時に、

「お母さん、電報……」

 渡された紙片を引きたくるやうにして、ひろげます。

「オウバツネコキトクオイデコフ」フジモト


 大庭常子のアパアトでは、上を下への騒ぎでした。保枝が駈けつけた時、部屋の入口にはマネージヤアの藤本と刑事らしい男が立つてゐて、名前を云ふと、藤本が、

「あ、根本さんですか。間に合ひます。早く会つてあげてください」

 なにがなにやら、彼女はたゞ胸をおどらせて、部屋の隅のベツトに近づきました。

「常ちやん……いつたい、どうしたの……」

 蒼白い顔をやゝこつちへ向けて、大庭常子は、眼を見開きました。

 そばについてゐた医者が、その時、脈をとらうとしましたが、大庭常子は、しづかに首をふり、そこへ現はれた保枝になにか言ひたげな風でした。

 一、二度顔見知りの笹山千鶴子が、この時、保枝の耳もとで囁きました──

「先生は今朝までお元気だつたんです。十時ごろ、あたしが外から帰つて参りますと、不意に、──どうも変だ。気分がわるいつておつしやつて、横にならうとなすつたら、もう、おからだが動かないんです。やつとベツトへお連れしたんですけれど、……お医者様は、なんか劇薬のやうなものをお飲みになつたらしいつておつしやるんです。でも、そんなご様子はちつともございませんのです」

 すると、その医者が口を挟んだ──

「むろん、服毒の徴候は明らかですが、多分近頃流行のアレだと思ひます。一応応急手当は、すませましたが……どうも……」

と、そこで、あとを言ひしぶります。

「それで、自分で飲んだか、人にのまされたか、それもわからないんですか」

と、保枝は、笹山千鶴子の方をまるで責めるやうに見据えます。

「それが、あたくしにも、さつぱりわからないんですの。──かういふ容態になるのを、ご自分でもまつたく予期していらつしやらないところをみると……」

 そこで、藤本が、引きとつて、

「だからさ、今日午前中に四人も出入したものがあるんだから、ご自分でないといふことになれば、その四人のうち、誰かゞ、といふことになるんです。その方はもちろん早速、警察で手配をしてくれてゐます。大庭さんは、さつきやつと意識を快復されたんですが、すると、すぐに、あなたに会ひたいと云はれるんです。平生から度々お名前は伺つてゐましたし、無二のご親友といふことでしたから、とりあへずお知らせしたわけで、実にどうも、意外な事件です」

 保枝はさういふ説明を聴きながら、常子の様子をぢつと見入つてゐた。まだ口は利けないらしく、こつちの云ふこともはつきり聞えるかどうか疑はしいやうに思はれました。が、彼女はもう一度、顔を近づけた。

「常ちやん……あたしが来てるのよ。わかるんでせう?」

 大庭常子は、薄く見開いた眼で、保枝の視線を探してゐます。なにやら、口を動かして、話しかけたい様子はさつきと変りありませんが、かすかに唇から呼吸のもれる気配がします。保枝は、すぐに、耳をその唇の上に重ねました。

「なにもいふことない……あんたの顔みればいゝ……」

と、保枝の耳は、とぎれとぎれではありますが、たしかに聞きました。

「誰が飲ましたの!」

 保枝は、こんどは、常子の耳のそばで、囁いてみました。そして、その返事をきゝとるために耳を再び、その唇に寄せます。

「だれでもない……あたしでもない……グラン・タムール……」

 この最後の言葉は、保枝には、すぐには腑に落ちませんでした。しかし、なにか、悲しいほゝえみの調子をふくんだその言葉は、保枝の心をかきみだしました。

「誰でもない……自分でもない、……」

と、保枝は、それだけを口の中で繰り返し、そのことを藤本にそつと伝へました。

「それがなんのことだかわからんのです。やつぱり多少、頭へ来てゐるからでせうな」

「でも、むやみに人を疑ふわけにも行きませんわね。いつたい、どんな方、今日みえたつていふ三人の方は……」

「それが、あたくしはずつとお使ひに出てゐて、よく存じませんのですが……」

「下の事務所で、いちいち訪問者の訪ね先だけ聞くことになつてゐますからね。われわれはもう木戸御免だが……」

と、藤本は、次のやうな説明を加へます。──事務所の受附ではつきりわかつてゐるのは作曲家の巨摩六郎だけで、あとの男二人についてはどうもあいまいなことしか覚えてゐず、いろいろな印象を綜合すると、どうも、その一人は以前の伴奏者金谷秀太らしく、もう一人は、一度数週間前に訪ねて来たことのある例の軽井沢の青年に違ひないといふ断定が下されました。更に、最後の女の訪問者は、受附の言ふことが非常にあいまいでまるで見当がつきません。玄関をはいると、顔も向けずに、あつさり受附へ声をかけて、さつさと上へあがつて行つたので、よほどこの家に慣れてゐる人物とにらんでよく、それにしても、服装や、年配や、その他の特徴をいろいろ聞いても、それがいつこうに要領を得ず、相当の年のやうに思へたけれども、声は透きとほるやうな美しい声で、大庭常子の歌を聞くやうだ、などと、とんでもない比較をする始末ださうです。

 ところが、厄介なことは、男の訪問客三人のうち、来た順序ははつきりしてゐますけれども、帰つた順番がどうも不確実で、そのうへ、男二人は前後して帰つたことだけ見とゞけてゐるのですが、一人の男と、女の訪問客とは、いつの間に帰つたか、つい気がつかずにゐたといふわけです。

 そして、更にまたこの事件を複雑にしてゐるのは、自殺にしろ、他殺にしろ、その方法と順序を示すなんの形跡も、手がかりもないことでした。つまり、それに用ひた薬品も、それを盛つた容器の類も、まつたくそのへんには見当らず、たゞ、午前中のある時刻に、件の書物が彼女の体内にはいつた事実だけが確かであるに過ぎないのです。

「根本さん、あなたから、ひとつ、最後に来た婦人の名前だけでも言はせてみていたゞけませんか」

 藤本が、あたりを憚るやうに、保枝に言ひました。そして、眼で、そばに突つ立つてゐる笹山千鶴子に、あつちへ行つてゐるやうに相図をしました。

「さつき訪ねて来た女のひとつて、だれ?」

と、保枝は、自分だけがそれを知るものならと思ひながら、息をひそめました。

「……だれでもない……グラン・タムール……」

 たゞ、それだけです。

 それから一時間後に、大庭常子は、解しがたい謎をのこして眠るやうに呼吸を引きとりました。

 …… …… …… ……

 大庭常子の変死は、楽壇はもとより、世間の好奇心をそゝりました。金谷秀太と軽井沢の青年秋葉精の来訪は確実となりましたが、それ以上、なんら嫌疑を受けるべき証拠がないといふことになりました。もう一人の婦人の訪問者については、まつたく雲をつかむやうな話で、その婦人を見たといふたつた一人の人物、事務所の受附けの少女は、たゞ、洋服の、背の高い、三十ぐらゐの婦人といふだけで、人相や、声などについて細かいことをたづねると、それは、ひとりでに大庭常子そつくりの女性になるといふ、厄介な証人でした。

 だいたい、各方面の推断は、やはり他殺だらう、といふ説に傾きましたが、一部では自殺説も相当根強く、たゞ、根本保枝だけは、だれからなんと訊かれても、絶対に自殺説を否認しつづけたのです。それは必ずしも、親友をかばふ気持ではありませんでした。大庭常子の性格も、境遇も、また、その思想も、決して、彼女を自殺に導くものとは考へられなかつたからです。そして、殊に、最近、彼女が口癖のやうにしてゐた「グラン・タムール」すなはち、「大いなる恋」の夢は、生きる意志の徹底した祝讃にほかならなかつたからです。

 それなら、根本保枝に言はせると、大庭常子の死は、なんと解したらいゝのでせう?

 保枝にも、それは、わかるやうで実はわからないのです。

 ──「誰でもない……グラン・タムール……」

 意識の朦朧としたなかで、大庭常子の呟いたこの印象的な数語を、たゞ、彼女だけの意味にとつて、歌姫大庭常子の絶望と歓喜の瞬間を、たゞ僅に想像し、そして信じるばかりでした。


 たゞ、この物語の作者は、神秘的なことを好みません。大庭常子を訪ねた一女性が、大庭常子自身であつたとしても、別になんの不思議もないわけではありませんか。

底本:「岸田國士全集15」岩波書店

   1991(平成3)年78日発行

底本の親本:「苦楽 臨時増刊第二号」

   1948(昭和23)年1110日発行

初出:「苦楽 臨時増刊第二号」

   1948(昭和23)年1110日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2011年925日作成

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