荒天吉日
岸田國士
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「荒天吉日」とは、別にたしかな出典のある言葉ではなく、ふと思ひついて、こんな標題にしたのである。読んで字の如く、天気が悪くてしかも目出たい日といふ意味、いはゆる神風の吹く日などは、その最も著しい例であらう。
しかし、私は、この物語のなかで、決して神風そのものをあつかふ意思はない。たゞ、戦ふ日本の姿をぢつと見つめ、国民一人々々の希望と努力とを厳しく省みるとき、昔からいはれてゐる「艱難汝を玉にす」とか「苦は楽の種」とかいふやうな教訓ではもう間に合はぬ、もつと切迫した凄まじい叱咤の声を聞かねばならぬやうな気がするのである。
悪徳はもちろん赦し難い。けれども、悪徳が罰せられる話は私はじめ聞き飽きてゐるし、今は、戦時生活のその日その日を尊い試煉として、専心銃後の護りを固めようとしてゐる善良なある種の人々の上に、神意の如く一陣の嵐が捲き起つて、運命は彼等の欲する道を歩ましめず「感傷」と「理窟」が無残に吹き飛ばされて、そこにはじめて、彼等の力強い生活──即ちめでたき生活が創められるといふ話をしてみたい。
小説は、作り話ではあるが、決して、嘘の話であつてはならぬ。だから、実際はかうではないけれども、まあさういう風にいつておくのだ、といふ式の話ぐらゐ小説としてつまらぬものはない。現在の小説は、いくぶん啓蒙とか宣伝とかの役目をつとめなければならぬとされてゐるが、啓蒙も宣伝も真実を蔽ひ、嘘を伝へることではなく、私の信ずるところでは、国民が知らなければならぬことを十分に腹に入れさせることであると思ふ。
私は、飽くまでも、この小説がお説教にならないことを努めるつもりである。重大この上もない戦局を前にして、一篇の小説がどれほどお国の役に立つかと思ふと、つい身の引きしまるのを覚えるが小説家はたゞマジメな顔をしてゐればいゝといふやうなものではない。毎日の新聞の報道がどんなであらうと作者は予めそれを知る術はなく小説の一日一日は、時として野放図な笑ひを投げ、或はのんびりと男女の愛を語るであらう。このことだけは、どうかお許し願ひたい。作者の念願は、この厳粛な物語りが、全体を通じて戦ふ国民としての読者諸君の、いくぶん楽しい日常の話題となり得ることである。
大東亜戦争が始まつてまる一年にならうとする秋のことである。国内も戦場だといふ実感がひしひしと誰の胸にも迫つて来た。ことに大都会は、ものみな、あつと云ふ間に一変した。その変りやうにもいろいろあるが、もちろん、変るべきやうに変つたものばかりではない。うつかりしてゐてはならぬと思はせるやうなところも、心あるものには気づかれて来た。しかし、なんと云つても、これが戦争だ、といふ覚悟、この戦さにはどうしても勝たねばといふ気ぐみ、どうしたら一人一人の力がお国の役に立つであらうかといふ配慮が、ぐつと高まつて、それが、街の空気のやうなものになつて来た。眉をひそめさせるものがちらほら見えても、それを取巻く無数の眼は、むしろ頼もしく光つてゐるのが事実である。
例へば隣組といふものにしても、なるほど配給制度にからんでゐるとは云へ、決して、それがためとのみは云へぬ動きが、その精神のなかに芽生えて来た。市民の生活は、一切がもうこの隣組から切り離せなくなつた。それは無理矢理にといふのでなく、それが生活の新しい力になりつつある、とみた方がいい。既に、隣組の有難さといふ言葉を、意外な人の口から聞くやうになつた。意外な人とは、これまであまり近所づきあひといふものをしたがらず、また、しないことを自分の特権のやうに誇つてゐた一部の階級に属する人々である。
さて、かういふ人々の最も多く住んでゐる界隈、かういふ人たちばかりで作つてゐると云つていい町内の出来事が、この物語の骨子であるけれども、読者はどうか、あああの連中かといふ頭で、この人達の今日をあつさり片づけてしまはないでほしい。
変つたと云へば、これほど変つたものはないからである。
場所は東京の、今は市外ではないが、最近まで新市域などと云はれてゐた、渋谷区のはづれに近い住宅地である。例の自作を本業としてゐた農民が遽かに土地の賃貸しで地主にをさまり、大袈裟に云へば、お城のまはりに士族屋敷が並ぶやうに、そこだけは榎や杉の立木に囲まれた奥深い御殿まがひの建物を中心に、いはゆる色とりどりの安普請、なかにはいくぶん趣味を匂はせた新様式の文化住宅もあるといふ式の一区画である。が、この萱野十吉氏といふ地主さんは、至極消極的な好人物で、植木などを最近まで道楽に集めてゐた関係からか、あまり滅多な人物に土地を貸さうとせず、せいぜい二十幾人の、それも主に自分の家を建てるといふものに限つて、鶏でも飼ふやうに、楽しみながらめいめいの小屋を作らせてゐたのである。土地を借りた人たちには恐縮だが、まつたくの話、萱野十吉氏は、さういふ面白いところのある地主さんである。
そこで、少し面倒だが、話の順序として萱野一家を含む十一軒の隣組を紹介しておかう。詳しく書けば、それだけで、○○町二丁目町会第十四組評判記といふ風なものができあがるわけだが、そんなことは必要もないし、ごくざつと、それも、話の焦点をだんだんに作つて行く筆法で、おのづから軽重をつけて取捨撰択を行ふから、そのつもりで読んでいただきたい。
先づ、地主の萱野十吉一家、主人は当年五十八歳、細君に子供がなくて、夫婦養子をした。その養子はしばらくたつと徴用工として付近の工場へ通ふことになるが、その養子夫婦に五つと二つの子供ができてゐる。数百坪の植木溜めに、もはや手入れもろくにせぬ大小の植木が茂り、少しはなれたところに、まだ藷や陸稲のとれる畑を数反もつてゐる。非常に無口で、穏かな無愛想を特徴とする主人に引きかへ、細君はやはり農家の出らしいが、早口にお世辞を云ひ、人の云ふことは半分も聴かず、決断のいることはみなこの細君の頭でといふしつかりもの。養子は乙種農学校出身の、どうにでもなる青年、お嫁さんは女の兵隊にしたいほどの逞しい大乙女、バケツの水なら二階の屋根を楽々と越させるといふ腕つぷしである。
主人十吉は、僅かの畑もだんだん手に余るやうな気分になりつつある。それでも、細君に急きたてられて、野良に出る支度をするが、それよりも、自分の土地に威勢よく建てられた大小の家々、それぞれの好みで植ゑられた植木、殊に、自分も手を貸した生垣の様々な伸び育ち方をあかず見て廻つた。が、なんと云つても、以前の竹藪の跡に、○○省○○局長、勅任官、楯凡児氏の邸宅が構へられてゐることは、自慢の種である。
なるほど、萱野家の住居の玄関を出ると、一と抱へもあらうといふ太い檜の門柱が、艶々と並んでゐるが、門の両側には、玄関まで程よい通路を作るかたちで、板塀で仕切られた二十坪足らずの小住宅があり、それが道路を距てて、楯家の正門と向ひあつてゐるわけである。敷地にして二百坪あまり、豪壮とは云へぬが、なかなか凝つた純日本風の二階建で、門の開きには、定紋の花菱が抜き刻りにしてあり、普段は潜り戸から出入りをする古風な仕来りを守つてゐる。地主と並んで隣組随一の高額所得者、恐らく俸給以外の固定財産があるのだらう。しかし、主人楯凡児氏は、およそ官吏臭といふものから抜けきつた、軽妙洒脱な半面があつて、この隣組の育ての親と云つてもよく、彼の出るところ、話の纏まらぬためしはないといふほど、不思議な説得力をもつてゐる。率直な話、勅任官などといふやうな肩書の物を云ふ社会は限られてゐる筈である。殊に、いつぱし一人歩きをしてゐるつもりの面々を相手に、どんなことでも、うんと云はせる腕前はまことに見上げたものである。
本年とつて四十九歳、出世といふ点ではそれほど早いとは云へぬであらう。さういふ型のお役人には、またさういふ型の特別な味があつて、そこが一般の民衆には魅力となるのかも知れぬ。ともかく、隣組といふものが出来ぬ前から、楯氏の発案でこの横町二十数軒の親睦会が成立つたのである。はじめはどうもうまく行かなかつた。しかし、楯氏はこれと思ふ一人に目星をつけた。その趣旨をすつかり呑みこんで、会のもり立て役を買つて出たのが後に登場する田丸浩平といふ人物だが、この田丸浩平が自分の細君を激励していろいろな斡旋をさせた。先づ子供を中心の集りから、一軒一軒の細君、殊に若い細君が動きだした。楯氏夫人が、そこで、おもむろに腰をあげた。結果は思ふ壺にはまつた。草宣会と命名された。むろん、萱野家の地所を借りてゐる面々の会といふ意味を、なんでも一緒に、「さうせんかい」と洒落たつもりである。面白いことに、隣組ができて、誰云ふとなく楯氏を組長にといふ説が持ちあがつた時、楯氏はひらりと体をかはした。役人の出る幕ではないといふ口実が、みなをひどく感心させてしまつたのである。そして、もつと面白いことは、楯氏の指名みたいなかたちで、最も年少の世帯主、楠本速男にそのお鉢がまはつた。当人はぽかんとし、誰も反対はしなかつた。楠本は某新聞の社会部記者であつた。
「まあまあ、見ててごらん。楠本君のしたいやうにしてもらはうぢやありませんか。その代り、わたしは、わたしで出来る役目を引受ける。これでも使ひ道はあります。その点は楠本君が一番よくご存じだ。いや、楠本君ひとりなら、こんな役は押しつけやしない。わたしのねらひはね、はつきり申せば楠本君ご夫婦といふところです。奥さんはたしか共同学園のご出身でせう。生活科学化のチヤンピヨンだ。若い奥さんでやりにくいところは、矢代さんのご隠居さんに是非助太刀をお願ひします。失礼ながら、このお方は、立派な武家のお血筋とかねがね承つてゐます」
こんなあんばいで、初代隣組長を楠本一家が引受けさせられた。またこんなこともある。現に、この横町で誰の眼にもつく例の地主の屋敷内の植木溜めであるが、最近、楯氏が、常会の席上で、突然次の如き披露とも宣言ともつかぬ耳新しい話をもち出した。
「ちよつとひと言わたしから……。実はわたしも百姓といふものはしたことがないから、よくはわからんのですが、隣組で共同菜園を作つてゐる向きがあちこちにある。政府でもこれは奨励してゐる。狭い庭を掘り返したぐらゐではもう追つつかんところまで来てゐるのぢやないか。増産も増産だが、これはどうも副次的の利益がだいぶありさうに、私は考へます。幸ひなことに、この隣組では、地主さんが、あの植木溜めになつてゐる地所を無条件で貸してやらうとおつしやるんです。どうあつても使へとおつしやるんですよ。但しあれを畑にするのはひと通りの苦労ではいかぬがどうぢや、と、まあ、かういふところまで話が進んで来たわけです」
この話は、もうそれだけで、みんなの膝を乗り出させた。隣組勤労挺身隊の結成が決議された。男女青壮年組を中核とし、老年組、少年組を補助隊とする組織が大体ものになりさうな空気ができた。なかには、と云つても、常会にあまり顔を出さぬ二三の「多忙患者」は、細君からそれを聞かされて、ちよつと鼻で笑つてみせたが、案外細君が乗り気なので、腹の底では、一軒当りの収穫配当量をぼんやり計算をしてみるほどの意地きたなさを暴露した。
楯夫人は、主人と一緒に常会に顔を出しても、主人のゐる時は決して口を利かない。主人の諧謔を、自分が先に笑つては変だといふことも心得てゐて、つつましやかに一座の顔色をうかがつてゐる。二十三の娘を頭に六人の子持ちとは、ちよつと誰でも気づかぬほどの若づくりではあるが、ちつともけばけばしく見せぬたしなみがどこかにあり、楯氏は親しい友にはこれを糟糠の妻と呼んで悪びれないのである。難を云へば、女中使ひが少し荒いとみるものもある。しかし、また、一方では、女中と一緒に洗濯などしながら、女学校時代に覚えた唱歌を小声でうなり、その合間々々に、石鹸の使ひ方について、ちよつぴり注意を加へるといふやうなところもあるさうである。実家が農村に近いところから、時に季節のものなど送つて来るらしいのを、いちいち近所へ裾分けをして、これは断じて主人の役徳から手にはひるといふやうな品物でないことを力を入れて弁明する癖があり、それをまた貰つた細君の方で、一層力を籠めてその主人に納得させてゐる美しい情景を想像してみるがいい。上の娘はもう婚約ができてゐるが、手頃な借家がないので式をのばしのばししてゐる始末だし、次の娘は女子大学に通ひ、長男は地方の高等学校に在学中、次男三男何れも中学を終へたら海軍を志願するつもりで飛行機の研究に熱をあげてをり、ぐんと年がはなれて末つ子の国民学校一年生は、修学院の制服を着て英雄のやうに気取つてゐる。
楯氏の邸の真向うで、地主の門の両側に、いささか門番の長屋然と建てられてゐるのが、これだけは例外の萱野氏の借家で、向つて右が八谷誠、左が楠本速男の住居、いづれも家賃は二十五円といふ、時節柄法外に安い家賃の小ざつぱりした一軒建で、八谷の方は五十五で某商会の会計係、長男は支那事変で名誉の戦死を遂げた、隣組ではまだ唯一の遺家族である。長女はもう他家へ嫁ぎ、その代り、息子と同い年の教員を一人下宿させ、夫婦で申分なく世話をしてゐる。楠本の方は、前にもう名前の出た、某新聞社勤めの青年記者、三十二歳で、溌剌として、国民服がぴつたり似合ひ、典型的近代主婦と云ひたい細君との間にもう二人子供がゐる。楯氏の眼鏡にかなつた初代組長の任を、今度是非とも罷めさせてもらひたいと申出た。
楠本速男が隣組長の辞任を申出たのは、十月の常会の席上であつた。この月の常会は、矢代といふ家の座敷で開かれたが、この日は特に主婦だけでなく、各戸とも主人の出席を求めた関係で、大部分は細君に代つてそれぞれ男たちが集つた。会場に当つた矢代家では、主人の正身が長く坐つてゐられない持病があり、それを理由に中途から姿を消したので、妻の初瀬が接待に気を配るかたはら、伊吹家の未亡人と並んで、部屋の一隅につつましく坐つてゐた。この家の家族と云へば、ほかに主人の老母と、三十三の今日まで独身でゐる小姑と、国民学校四年生の一人息子がゐる。主人正身の好みで建てた五十坪あまりのちよつと風変りな和洋折衷の住ひは、外観と云ひ、部屋部屋の造りと云ひ、単純で、垢ぬけがしてゐて、どこかに古風な落ちつきさへあつた。職業と云つては別になく、金と暇にあかせて写真機をいぢつてゐるといふのが世間普通の見る眼だけれども、素人写真家として、多少その道では名前を知られてゐる一人である。玄関の横手に応接間を兼ねた大きな部屋があつて、これをこの家では「アトリエ」と呼んでゐる。なるほど、屋根と大窓には採光のための特別な装置がしてあるほか、およそ写真の作業一切の設備が整ひ、その上、骨董に類する装飾品が周囲の棚を埋め、専門書も相当蒐められてゐる。ここへ家を建ててから、もうかれこれ十年にもなるのに、近所の人間で主人の顔を見たことがないといふものが大分ある。それほど部屋にばかり引つ込んでゐるわけではないが、ただ持病があつて、めつたに外出をしないからであり、殊に、他人に会ふのを極端に嫌ふ風があり、その様子がまた特徴の少い、一度ぐらゐではなかなか頭に残らぬやうな「影の薄い」人物なので、誰もそれほど注意しないからでもある。これに反して、細君の方は、どことなく人目を惹く方で、さほどおめかしはしてゐないのだけれど、手製のさつぱりした洋服が、スカートからズボンになつて、ますます学生のやうに板につき、無雑作にコテをあてた髪が、程よくせまつた額のうへに盛りあがつて細面の流れるやうな頬から頸への線とよく釣り合ひ、一種ほのぼのとした少女の匂ひを残してゐた。夫の正身と七つ違ひの三十、自転車にも乗れば、茶の湯もたてる。声を忍んで肩で笑ふ科には、素朴で明るい慎み深さがみえるけれど、女が誰でも一応は尻ごみしさうなことを、平気でおいそれと引受けてしまふことと、型通りの奥さん然とした挨拶が絶対にできないのをみて、近所の細君連は、いくぶんこれを非常識の結果ときめてゐた。
今夜は、老人は、奥の離れで娘の梅代に肩を揉ませながら、座敷の気配にそれとなく耳を澄ましてをり、梅代は母の背中から、ぼつりぼつり、毎日朝から晩まで顔をつき合せてゐる同士の、例の他人には通じない、軽い溜息のやうな世間話をしかけてゐた。この梅代といふのは、兄とよく似て目立ちこそしないが、しかし、物静かな、微塵もいや味のない女性で、刺繍にかけては何処へ出しても恥かしからぬ腕前をもつてゐた。
さて常会の方であるが、今夜は、議長からの報告事項が終り、渋茶をすする音が一つ時続くと、やがて、議長の楠本速男は、やや改まつた口調で、
「では、常会を終る前に、組長としてみなさんにご相談しますが、今日限り僕は、隣組長の役をごめん蒙りたいと思ひます。足掛け二年、正味十七ヶ月ばかりでしたが、僕と家内とは、不敏ながら誠心誠意、お役に立ちたいと心掛けて来ました。しかし、その間、みなさんのご協力をありがたく思ふこともありましたが、案外張合のないものだと思はせられることも屡々ございました。自分たちの不注意や、徳の足りないところ、さういふことのために、時々はお叱りを受けたり、絶えず反省させられることもありました。要するに、この仕事は、誰でも一度やつてみるといいと思ふのです。そこで、今日はこの席上で、僕の辞任を聴き届けてもらふと同時に、次の組長を決めて、早速事務引継ぎをやりたいと思ひます。どうしますか? 僕は一つ時、席を外した方がいいと思ひますが。……」
「そんなことしなくつてもいいでせう」
と、誰かが云つた。
「どうしておやめになるんです? 任期といふものは別にきめてないが、もう少しあんたやつて下さいよ」
と、隣家の、近頃徴用されて通ひになつたばかりの陣内の声である。
「ひとつ、どつちにしても、この問題について、どなたか僕に代つて議長をやつて貰ひます。指名してもいいですか」
返事がないうちに、
「田丸さん、ひとつ、ここへ来て、相談をまとめて下さい。僕、ちよつと家へ帰つて来ます。十分たつたら帰つて来ます」
初瀬が同時に、廊下の電燈をつけに起つた。
田丸と名指されたのは、四十前後と覚しき一見なんとも想像のつかぬ、髪の毛をもしやもしやにした男で、黒褐色の毛糸のジヤケツの上へ、型の崩れたオーバアを引つかけ、靴下は両方とも先が破れて、趾が二本づつはみ出してゐるが、キチンとズボンの膝をそろへて坐り、両腕を胸に大きく組んで、あたりの人におかまひなく、話だけを一と言洩らさず聴いて帰らうとでもいふやうな身構へである。
名前を呼ばれて、はツと我れに返つたやうに、それでも間違ひではないかと、左右をちよつと見廻し、にツともせず、
「僕、議長?」
と、誰にともなく確かめたうへ、やをら、腰をあげた。
「では、臨時に議長を勤めさせてもらひます。第一に、楠本君の辞任をゆるすかどうか、それについてご協議ねがひます」
ぶつきら棒だが、余韻のある声で、人に物を考へさせる調子をおのづから含んでゐる。
そこへ丁度「来客があつて……」と云ひながら遅れてはいつて来たのが楯凡児であつた。和服を着ると、妙に背中を丸めてちよこちよこと歩く癖がある。意外な議題が出てゐるのに驚いて、ひそひそと隣りの萱野十吉に何か囁いてから、
「ちよつと待つて下さいよ。で、その、楠本君の辞任申出の理由は?」
と、議長の田丸に訊ねる。
「それが一向わからんのですが、多分、もう疲れたといふところらしいですよ。どうです、みなさん」
「それや、お疲れになりますよ」
と、それまで口を噤んでゐた伊吹未亡人が、ほんとに同情をするやうに呟く。
しかし、紙問屋の会計係八谷、某軍需会社の事務員大西、ブリキ職遠山といふ順に、楠本の辞任はこの際どうあつても思ひ止つてもらはうといふ意見が出て、大勢これに傾かうとした時、久保鉄三といふ口髯を生やした男が、
「疲れたといふことは理由にならんが、いつたい楠本君は、適任ですか、組長として?」
と、やや東北訛りの演説口調で云ひ出した。越して来てからまだ二年になるかならずで、それも、やれ満洲だ、南支だ、仏印だと、始終旅にばかり出てゐる関係から、隣近所の交際もろくにしてゐないこの人物の、妙に突つかかるやうな語勢に押されて、一座は顔を見合した。
「まあ、まあ、さう開き直つた話はよしませう。誰も自分で適任だと思つて、この役を引受けるひとはゐませんよ。では、久保さん、あなたが最適任と思ふ方を、ひとつ、推薦なすつたらどうです」
と、楯凡児は、心中穏かならぬものを強ひて笑顔にまぎらしながら、そつちへ向き直つた。
「いや、わしは新参でよくわからんですが、結局組長などといふのは、閑人で、口より脚のまめな人がいいんぢやないか、と、まあ、かう思ふんですがね。よその台所なんかにはあんまり干渉せん方がいいですなあ、ワツハヽヽ」
どういふ意味かといふことは、ほぼみなにはわかつたが、それにいくぶん同感するものさへ、さういふ久保の味方になる気はしなかつた。なぜなら、久保家の台所は、凡そ時節柄、最も戦時色を帯びないものの一つであり、塵捨場にはいつも、おやといふやうなものが投げ込んであり、瓦斯は二度までも止められ、配給品についての苦情の出ないことはまづなかつたからである。誰かから譲り受けたといふ今の住ひは、代金もまだ払つてないといふ噂だが、門の表札の下に「興亜経済研究所」と筆太に書いた看板が何時の間にか掛けられ、ぞろりとした細君の厚化粧と不思議な対象をなしてゐた。
「では、みなさんにお諮りいたしますが、大体、楠本君の留任を御希望のやうに見うけられます。しかし……」
と、議長の田丸は、ちよつと首をひねつた。
「しかし、留任してもらふにしても、もう少しはつきり楠本君に辞任申出の理由を訊いておいた方がいいと思ひますが、それはひとつ、この席でなく、はじめからの関係もあり、楯さんに万事お願ひして、個人的に腹蔵のないところを聴いていただいたうへで、止むを得ない事情とあれば、後任を適当な方法で推薦委嘱することにしたらどうでせう」
田丸のこの提案は、異議なく通つた。が、たまたまそこへのつそりと姿を現はした当の楠本が、そんな面倒臭いことをしなくつても、理由は至極簡単で、自分は最近外地勤めになることが内定し、家内は家内で、どうやら三番目の赤ん坊が出来たらしく、内外ともに多事といふことが、理由と云へば理由だとぶちまけた。
誰の顔にもありありと、そんならしかたがないといふ表情が浮んだ。殊に、赤ん坊が出来たらしいといふ報道は、一座の空気をこの上もなく和やかにし、「随分間をおあけになりましたわね」などと、伊吹未亡人の真顔の戯談も出たりした。田丸浩平は、ひとわたり雑談のすんだ頃を見計つて、
「楠本君の辞任はやむを得ないものと認めますか、どうですか」
「止むを得んでせう」
と、楯凡児が応じたので、すかさず、田丸は、
「それぢや、ご異議がなければ、止むを得ず承認と満場一致、決議いたします。引続き、後任委嘱の件ですが、これは議長から特に提案がございます。前例に従ひ、町内の草分け、楯さんからご指名ご推薦を願ひたいと思ひます。この種の問題に、討論は無用と認めます。指名に対しては、絶対にどうか、ご承服を前以て願つておきます」
云ひ切つて、彼は、楯氏の方へ軽く会釈をした。
楯凡児の厚い唇が、もごもごと動き、眼尻の皺が深く刻まれ、右手の中指が小鼻を撫ではじめた。そして、黙つて、彼の視線は、一人一人のうへに、交々投げられた。呼吸のつまるやうな瞬間であつた。
「ウフヽヽヽヽ」
と、楯氏は、喉の奥で笑つた。それに応じて、一同の頬がぴくりとした。先へ笑つたものが損をするとでも云ひたいやうな気配であつた。
「ウフヽヽヽヽ」
楯氏の喉が、また鳴つた。今度は、いづれも、楯氏の視線を露骨に避けはじめた。田丸は、しかし、腕組みをしたまま、むしろ楯氏の視線を追つてゐた。久保だけが、平然と天井を仰いでゐた。この家の女主人、初瀬はどうかといふと、これはまた、我慢ができぬといふ風に、両手で口をおさへ、からだをよぢつてゐた。
「指名と云はれるが、どうも今度は、さういふわけにいかんでせう」
と、楯氏の方で遂に兜を脱いだ。
「これはやはり、輿論といふものを尊重せんといかんです、その点、わたしにはちよつと自信がもてんが、どうです、無記名投票にでもしたら……」
いよいよ弱音を吐く楯氏を、田丸はぐつと睨むやうに、
「投票ですか。そんなら僕は棄権しますよ。隣組で多数決といふことが行はれたら、それこそ隣保精神の破壊だと思ひますが……」
「いや、いや、さういふ意味ぢやないのさ。ただ参考にするといふだけさ。しかし、それも名案とは云へないな」
穏やかに、楯氏は、田丸の鋒先を抑へて、さて、その序にといふ風に、
「どうだらうね、田丸さん、あんた、ひとつ、引受けてくれませんか、この難役を……」
指名には絶対服従と云ひ出した手前、田丸は、いささかたじろいた気味で、にやりと苦笑した。
「それや、ご無理でせう、奥さんがいらつしやらないんだから……」
と、助太刀に出てくれたのは、伊吹未亡人で、海軍大尉の息子を前線に送り、たつた一人の娘をもう縁づけて、今は女中を相手に、隠居にはまだ早い四十九歳のこの月日を、お茶を立てながら暮してゐる身分である。
「いや、却つていいかも知れん。今日、隣組長の職務と云へば、もうこれは立派な政治だ。女が政治に喙を容れると、それ、どこかのやうになるですからなあ、ワハツハツハ」
久保のまぜつ返しは、別に直接の反応をみせはしなかつたが、田丸の組長に異議を唱へるものとてはあらう筈がなく、伊吹未亡人の理解ある同情にも拘らず、田丸はつひに、
「家内がゐなくても出来るんならやりますが、そのへんのことは、伊吹さんの奥さんや、前組長楠本君の奥さんに、しかと念を押してからでないと、うつかりしたお返事はできないやうに思ひます。なにしろ、僕の家は、ご承知のやうに、女と云つても、よぼよぼの老人と子供つきりですから……」
老人といふのは、この夏亡くなつた妻奈保子の母親であり、子供とは十五と十二になる娘たちのことである。
「ちよつとお気の毒みたいですわね」
と、この時、矢代初瀬が、独言のやうに云つて、座を起つた。息子の貫太がなにやら駄々をこねてゐる声が耳にはひつたからである。
矢代家と田丸家とは、生垣を隔てた隣同士で、町内でも古顔の、もう十年近いつきあひであつた。田丸家の不幸は、子供から子供へと、第一に矢代家に伝へられた。明け暮れの話相手として、また、互に主人の仕事への理解者として、矢代初瀬と、田丸奈保子とは、ほとんど姉妹ほどに親しみ合つてゐた。
南太平洋の戦局は次第に複雑な相貌を呈して来た。味方の大戦果の陰には、ありありと敵の反攻企図なるものが窺はれ、頽勢挽回に秘策を練り、主力を注ぎつつあることが誰の眼にもうつるやうになつて来た。大小無数の島々からなる広大な占領地域をわが軍が如何に処理し、何処の犠牲に於て何処を確保するかといふやうな云はゆる戦略上の見透しは素人の誰かれにつく筈もないが、絶海の孤島に明け暮れ眼を見張り耳をそばだて、いざとなれば寡兵を以て敵の大軍を支へなければならぬやうな地域が、そこ此処にあらうといふことだけは察せられる。引寄せては叩き、引寄せては叩きするのもひとつの戦法であらう。緒戦に於ける秋風枯葉を捲くていの進撃は、今や一段落といふところで、果然、戦ひは地味な、従つて、自重と粘りを特色とする守備戦の形に移りつつあるのである。
国内の態勢も、この戦局の推移に歩調を合せ、例へば防空訓練やその施設なども、どちらかと云へば、これまでは万一の場合に備へるといふ程度を、ぐつと本腰を入れて、いよいよ空襲必至の立前をとるやうになつた。各戸毎に待避壕を作れといふ指令が出る。鉄兜、防毒面の配給がある。女の防空服装も、申訳の域を脱して、活動本位のキリリとした姿が目について来た。
今日も、この隣組では、焼夷弾に対する消火の演習をすることになり、群長遠山春樹の指揮で、ひと通りバケツの持ち方、梯子の登り方などを稽古した。昼間のことで、集るものは女ばかりである。
演習が済んで、解散となると、何処の細君連もすぐには家へはいらない。しばらく、二三人づつ塊つて立話しをするのである。それぞれ急ぐ用事がないわけでもないのに、さうして一つ時暇をつぶさないと、一人前のつきあひができぬやうな気分なのである。それはもう、主婦の作法の如きもの、さうしなければ恰好がつかぬといふ風なものである。
矢代初瀬も、このお義理だけは欠かすわけにいかず、バケツを片手に、お向ひ三軒のお喋りに耳を藉し、話題が商人の近頃の客あしらひに及ぶと、多少はそれに合槌をうち、子供の食事を制限する名案はないかと訊かれれば、名案とも云へぬがと断つて、自分の試してゐる方法をちよつと披露するぐらゐの修行は積んだのである。
さて、もうそろそろ、夫のアトリエへお茶を運ぶ時間になりはせぬかと腕時計をそつと見た。時間はとつくに過ぎてゐる。それをしほに、やつとその場を外したのはよいが、夫の不機嫌な顔がすぐに眼に浮んで、門から勝手口へ急ぐ足が重い。
午後になつて、風が出ると、もう落葉が軒下へたまる早い秋であつた。
「遅くなつて……」
と、云ひながら、初瀬は、紅茶のセツトを、夫の仕事机の上に置いた。夫の正身は、分解した写真機の細々した部品を、いちいち図面と対照しながら、ノートに何やら記入してゐる最中であつた。妻の気配を感じると彼は心持ち眉を寄せて、
「防空演習もいいが、きまつたことだけは、ちやんとしてくれ。貫太はどうした? 学校から帰つて来ると、すぐどつかへ遊びに行つちまふが、あれでいいのかい?」
初瀬はしばらく黙つて夫の横顔をみつめてゐた。紅茶の時間が遅れたので、こんなにじりじりしてゐるのだとは、はじめからわかつてゐたが、近頃の夫の曇りがちな気分は、それよりほかに理由があると、初瀬はにらんでゐた。健康のことももちろんあるけれども、なんと云つても、第一に、時代が彼のやうな人物には厳しすぎるのだ。生活万般の習慣も変へなければならず、そこへもつて来て、仕事の上では、もう趣味の満足といふやうなことは考へられなくなつて来た。徹頭徹尾、自分だけの流儀で押し通さうとする彼の行き方は、事毎に、無惨な障碍にぶつかつた。平生からあまり愚痴つぽいことは云はぬ性分なので、なにがどう気に入らぬかは、初瀬には呑み込めないこともあつたが、これをこのままにしておいていいとは、どうしても思へなかつた。なんとかして、気持を引立てるやうにしたい。世の中がどうならうと、男一人前の生き方がさせたいと、初瀬は心に祈るばかりであつた。
「貫太はまたお隣りの姉さんたちに遊んでいただいてるんでせう。近所に学校のお友達がないから、つい……」
「お隣りならお隣りでいいさ。お前が時々はのぞいてやらなけれや……。主婦のゐない家なんていふものは、子供を委せちやおけないよ。変なもんでも食はされてみろ」
調子がいくぶん弾みを帯びて来たので、茶を注ぎながら初瀬も釣り込まれて笑つた。
「ええ、食べものだけは気をつけてます。こないだもお隣りのお祖母さんにいただいたつて、すこし黴の来た干甘藷をみせましたわ。田舎の方つて、呑気ね」
「だいたい、あの田丸君つてひとが呑気だよ。あんな婆さん一人に子供を預けて、よく旅行なんかに出られたもんだ」
「でも、加寿ちやんたちは、もう大きいから……。ぐつと違つて来ましたわ。お母さまがおなくなりになつてから……」
「なんだか知らないけれど、二人とも、けろつとしてるぢやないか」
砂糖がちよつと足りないといふやうな顔をして、彼は、紅茶の最初のひと口を飲み込んだ。
「さういふところもあるにはあるけれど……。やつぱり、淋しいことは淋しんだわ。ただああいふたちだから、めそめそしてないつていふだけよ。元気に遊んでゐるところが、却つて可哀さうみたいで、つい……」
と、初瀬はもう眼頭に涙をためてゐた。
夫を一人残して、初瀬は夕食の支度にかかつた。姑のふではもとより、義妹の梅代も、台所の手伝は一切しない習慣であつた。女中のゐる頃はそれでもよかつたが、どうもゐつかない女中を引留める根気がなくなり、初瀬はあとを探さうともしなかつたので、一人では眼のまはるほど忙しいことがある。それでも、六十六の義母はとにかく、云はば兄の厄介になつて好きなことばかりしてゐる梅代までが、それを見て見ぬふりをしてゐるとも云へる。それはその通りだが、もう独身を通すつもりで、わき目もふらず手仕事に没頭してゐるこの義妹の態度を、初瀬は責める気は少しもしなかつた。ことに人柄から云ふと、毛頭、横着をきめこんだり、ひがんでみたりしてゐるのではなく、ただ自分の出る幕ではないといふぐらゐの遠慮がおもで、ちよつと声をかけさへすれば、気軽に起つて来てくれることもまた事実なのだから。
今晩は簡単にライスカレー一皿の予定だが、義母はひよつとすると、自分だけはお茶漬にすると云ふかも知れない。その時の用意に、無ければないで済ましたい福神漬の缶をあけた。
もう貫太を呼びに行かなければならぬ。勝手から下駄を突つかけて、小走りに表へ出た。隣りの垣根越しに、暗い縁先が見える。そこで遊んでゐれば声をかけるつもりだつたが、さては、加寿子たちの部屋にゐるかなと思ひ、門から庭の方へ廻つて、いつもの通り、
「貫ちやん、もうご飯よ、失礼しなさい」
と、奥へ呼んでみた。
すると、廊下をバタバタと走る跫音がして、先頭に妹の世津子、次に貫太の両肩を押すやうにして姉の加寿子が現はれ、
「貫ちやんはうちでご飯たべるんですつて、……いいでせう」
と、世津子がませた口調で訊ねる。
「いいわよ、ねえ」
と、姉の加寿子は甘えるやうに顔を近づけて来た。
貫太は、母の返事は如何と、しきりに瞬きをしながら、彼女の口元を見つめてゐる。
「でもねえ……」
と、初瀬はこの娘たちにかかつてはといふ風に、優しい当惑の色をみせておいて、今度は貫太に、
「今日はお家でたべませう。ライスカレーよ」
「ライスカレーなんか大嫌ひだ」
息子の剣幕はただならぬもので、これは明らかに母親への直接の示威とは思へなかつたけれど、彼女は一つ時、口が利けなかつた。
娘たちは、声をたてて笑つた。
「靴をおはきなさい」
初瀬は、わざと静かに、云つた。そして、靴脱ぎの上を冷たく頤で指した。
が、貫太は、それくらゐのことで凹みはしなかつた。母親の眼が何を云つてゐるか、もうわかつてゐた。せいぜい父に云ひつけられることだけだ。彼は、あとはどうなつてもよかつた。加寿子たちと一緒に、そして、よその家のご飯がたべたいのである。彼はここをせんどと、地団太を踏んでみせた。
そこへ、奥から、手を拭き拭き年寄りが出て来た。加寿子たちから云へば母方の祖母であるが、つい最近田舎から出て来たばかりで、主婦代りとは云ふものの、すべてに勝手が違ふらしく、まだまだ一家の抑へにはならぬところがあつた。
「なんにもございませんども……」
と、膝をついた途端に、加寿子は、何やら貫太の耳へ囁く。
「ね、ね」
それだけはつきり云つたと思ふと、貫太は渋々ながら、片足で靴の向きを直しはじめた。そして、母の顔は見ずに、
「加寿子さんたち、あとでお家へ遊びに来るんだつて……」
と、承認を求めるやうに云つた。
「さうよ、ほんとに、いらつしやいね。今日は何して遊びませう?」
ほつとしたやうに、初瀬は、娘たちへさう云ひながら、息子の靴を揃へてやつた。
夕食の後片づけもまだ済まぬうちから、もう加寿子たちはやつて来た。姉は女学校の二年生らしく、座蒲団を出されても遠慮をしてゐたが、妹の世津子は、小母さんの友禅の座蒲団の上へ平気で膝を崩してゐる。が、これも貫太と一つ違ひとは思へぬお姉さんぶりで遊びの相手をしてゐるのをみると、初瀬はいつもをかしくなるのである。
「お父さまは今日もお遅いの?」
といふ初瀬の問ひに、
「ええ、近頃はいつもよ。お勤めが変つたらしいの」
姉の加寿子の答へである。
「へえ、お勤めつて、今度はどういふ方面なの?」
「よく知らないけれど、やつぱりなんとか連盟よ。東京にはそんなに用がないんですつて……」
「ああ、それで……」
田丸の最近旅行勝ちである理由が彼女にもわかつた。
さう云へば、その父の留守中を、年寄一人相手に、しよんぼりと暮さねばならぬこの幼い姉妹の立場が、一層いとほしいものに思はれ、かうして、昼となく夜となく、暇さへあればこの家へ、ほとんど入りびたりになつてゐる彼女らへ、少しでも、「母らしい」心遣ひを見せてやらねばと、初瀬は、今更のやうに、亡くなつた奈保子の霊に誓ふのである。
彼女は、ふとこの夏の、あの胸をひしがれたやうな朝の一瞬を想ひ出した。
貫太が縁側で鉛筆を削つてゐた。彼女は、籐椅子に倚つて毛糸のほどきものかなにかを始めようと思ひながら、雨あがりの艶のいい朴の葉をながめてゐた。すると、庭伝ひに、足音を忍ばせるやうな恰好で、そつとはひつて来たのは、お隣りの、妹娘の世津子であつた。初瀬と視線が会つたけれども、いつものやうににこりとはしなかつた。
そのまま、貫太を手招きしながら、そばへ寄り添つて、口を耳に当てた。貫太の顔付が急に厳粛になり、眼のやり場に困つてゐた。
初瀬は、はつとした。奈保子の容態の急変を覚つたのである。果して、長く病床に就いてゐた田丸の妻奈保子は、その日の払暁、息を引取つたのであつた。
それはただ、お隣りの家の不幸といふだけではすまされなかつた。日頃の気持から云つて、女同士の一種執着にも似た、なにから何まで好きと云つていいほどの感情は、ほかの相手にみられぬものであつただけに、これはもう、身内の不幸に勝るとも劣らぬものであつた。
世津子を去るままに去らせておいて、初瀬は両手で顔を覆つた。泣くにも泣けない切なさであつた。ただ、胸の動悸ばかり激しくなり、若し奈保子の遺骸がそこにあれば、思ひきりゆすぶつて、なぜ死んだかと恨みごとが云ひたかつた。
それにしても、すぐお隣りへ駈けつけるのは躊躇された。奈保子の顔をみて、取乱さぬとも限らぬからで、はたの誰かれを憚らねばならぬことを、彼女は知つてゐる。家のものにこの出来事を知らせるのにさへ、必要以上の重大性をもたせることを慎んだ。事実、夫も、姑も、義妹も、ただ、通り一ぺんの驚き方をしたにすぎぬ。
「わりに脆かつたんだなあ」
と、夫は、憮然としてではあるが、花の散るのを惜しむ程度の感慨をもらした。
「さあ、田丸さんもお大変だ」
姑のふでは、もう同情が主人の方へ遷つてゐる。
「一軒の家では、やつぱり、奥さんの方が先へなくなると困るか知ら?」
義妹の梅代は、第三者的の口の利き方で、夫婦を秤にかけてみてゐる。
「その家によるけれど、女のお子さんばかりだと、それや、はつきりしたもんさ」
年の甲で、裁断は明快を極めてゐる。
朝の食事をすますと、初瀬は、
「あたくし、ちよつとお悔みに行つて参りますわ。着物はどういたしませう」
なるべく落ちつき払つて、姑に訊ねた。
「それや着換へて行かなくつちや……。お父さんは今夜でいいでせう。いづれお通夜だらうから……。お香奠もそん時持つてね」
かういふ場合、年寄りの意見は絶対であつた。
その部屋に通された初瀬は、まつたく無我夢中であつた。透き通るやうな死の化粧のなかで、奈保子は、安らかに眠つてゐた。眼を泣きはらした田丸の顔も、見るか見ないかで、彼女は勝手元へ引きあげた。悔み客へお茶を出すものもゐなかつた。親戚の人々らしいのが二三人はゐたが、なにをするでもなく、右往左往してゐた。
初瀬は甲斐々々しく瓦斯に火をつけた。
貫太は、遊び倦きて、眼をこすりはじめた。加寿子が、読み耽つてゐた雑誌を投げ出して「さあ、トランプしませう」と云つてみるのだけれども、今夜は「うん」とは云はなかつた。世津子は、やつと張り終つた模型飛行機の尾翼を貫太の鼻先につきつけて、
「これでいいんでせう、ねえ、駄目よ、ちやんと見てくれなけりや……」
と、主任技師の心細い指導に弱り果てたかたちである。
「ぢや、今夜はお風呂がないんだから、失礼してもうおやすみなさい。お離れへ『おやすみなさい』を忘れないでね」
息子を寝させてしまふと、あとは、三人でお話といふことになる。
「ねえ、また小母さまの女学校時代のストライキのお話して」
と、加寿子が、やり出す。
「いやよ、そんなこと、なんべんも……」
なるほど、初瀬はいつか、興に乗つて、そんなお喋りをしたこともあつた。
「ぢや、ストライキはいいから、先生の渾名のお話……」
「それもいや。そんな話は聞いても、すぐに忘れてしまふもんよ。小母さんだつて、もつといいお話できるわよ」
ちよつと威張つた恰好をしてみせると、今度は世津子が、ここぞとばかり、
「さうよ、田舎へ行つて、馬小屋の入口で、『ご免下さい、ご免下さい』つて云つたお話でせう」
「バカね、世津子さんは……」
初瀬は、吹き出した。
かうして他愛なく笑ひ興じてゐる三人を、ひとはなんと見るであらう。「離れ」では、いい年をしてと思はぬでもなかつた。夫の正身も、それに気がつくと、少し変だなと首をかしげるのである。なにかもつとほかに、するべきことがありさうに思へる。しかし、この一家の人たちは、それを口に出すやうなことはもちろん、顔色にさへ見せはしなかつた。
さすがに笑ひ声が高かつたのに気がさして初瀬は、急に声をおとす。
「ぢやね、今晩は、小母さんがこの家へはじめてお嫁に来た時のお話をするわ。ね、いいこと、人には内証のことばつかりよ」
「うん、早く、早く……」
と、世津子の方がせきたてた。
「待つてよ、ちよつと思ひだすから……。ええと、小母さんが十九の年よ、今から十一年前、やつぱり秋、今頃かな、うそ、もうすこし先だわ、十一月ですもの。ご婚礼のお支度、知つてゐるでせう、裾模様に大振袖よ。髪は、いやだつたけれど高島田さ、ここのお祖母ちやんがどうしてもつておつしやるの」
二人の少女は、固唾を呑んで聴いてゐる。むろん顔いつぱいの笑顔である。
初瀬はそこで切れの長い眼をぐつと細めて、
「一生に一度の厚化粧を、されるまゝにさせて、えゝい、どうにでもなれと思ひながら、迎への自動車に乗つたわ。式場へ連れてかれるのよ。式の時神主さんが祝詞を読みあげるのを聴いてゐて、だんだん頭がはつきりして来たわ。さうさう、あたしはこれからお嫁さんになるんだつけ……。可笑しかないわ、ほんとなんですもの。どんなひとのお嫁さんになるんだつけ? あゝ、このひとか。真ん前に、紋付羽織袴で畏つて坐つてる男のひと……変だなあ、こんなひとだつたか知ら? もつと瘠せてやしなかつたか知ら? あ、眼鏡をかけてるわ。おや、髪があんなに縮れてやしなかつたのに……。だつて、会つたのはたつた二度、そん時が三度目なんですもの」
「それが、小父さまでせう」
と、世津子が口を挟んだ。
「さうよ、あの小父さんよ。今と変つてないわ、ちつとも。仲人さんがその次ぎに、夫婦になつた以上は、いつまでも仲善く、助け合つて参ります、つていふ意味の宣誓文をお読みになるの。もうその時は、立派にお嫁さんになる覚悟ができて、それでも胸がどきどきして、うれしいやうな、恥かしいやうな気がしたわ。式がすんで、ご披露の席へ出ると、あつちにもこつちにも知つた顔が並んでゐて、その顔がみんな一種特別な他処行き顔で、笑ひたいのを我慢してるみたいな、妙ちきりんな顔なのさ。こつちがくすぐつたくなるわ。それから、お料理がおしまひになる頃……」
「洋食でせう?」
と、加寿子が、たしかめる。
「ええ、ところが、一人分だけ、和食のお膳が出てるの。当ててごらんなさい。うちのお祖母ちやんのお母さん。その頃八十いくつよ。田舎からわざわざそのために出て来て、帰ると、ぽくりと死んぢまつたの。いゝお婆さんだつたわ。えゝと、なんだつけ……」
「お料理が出てしまつて……」
と、世津子が教へる。
「さう、デザート・コースにはいると、お仲人の挨拶、新郎新婦の紹介、来賓の祝辞といふ順序になるわけ、まあそれは型通りつていふところだけど、世の中に、こんなつまらない型つてないわ。だつて、当人を前において、出鱈目な褒め方をするんですもの。小母さんが一番ひやりとしたのは、主婦として何ひとつ欠くるところなき資格を具へ、つて、かうですもの。あゝ、どうしようと思つたわ、まつたく……。今夜、あなたたちに、なぜ小母さんがお嫁に来た時のお話をするかつていふと、お嫁さんになるつてことは、ほんたうはどういふことだつていふお話がしたかつたからなの」
「いいこと、今までのは前置きよ。いよいよお嫁さんになつて、さあ、これからお前がいいやうにやつておくれつて、お祖母ちやんから云はれた時、このあたしに、何ができたと思ふ? なにひとつ満足に出来やしないわ。それも、なんでもないことがよ。例へばお洗濯、白いものが決してほんたうに白くならないのはどうしてでせう? お茶をいれるとするわ。お祖母ちやんがいれてくださるお茶と、まるで香りが違ふの。下駄の鼻緒が切れる。すげ替へようと思ふでせう。二時間かかつても間に合はない。下駄屋へ持つてかうとすると、お梅小母さんが、笑つて、どら貸してごらんなさい、さう云つて、十分間で、元通りにしておしまひになる。やれやれ、あたしは娘時代に何をしてたんだらう?」
初瀬は、諄々と説くのである。そして、ふと、
「ああ、さういへば、お亡くなりになつたあなたたちのお母さまとも、しよつちう、そんなお話をし合つたわ。女の仕事つていふもんは、実際、細々した、目立たない仕事ばかりのやうだけれども、さういふものが集つて、家の命になつてゐるんだ。女の仕事は、いつでも、頭と心と手とがぴつたり一致しなければ、うまく出来ない仕事ばかりで、それも、そのひとつひとつに、大した値打があるわけではなく、そのひとつひとつが、女を中心とした家の生活のなかで、ちやんと抜き差しのならない、調和のとれたものになつてゐるところが値打なんだつて……。あなたがたのお母さんは、やつぱりあたしのやうに──あたしみたいにひどくはなかつたでせうけれど──やつぱり、娘時代に、いろんな家の仕事を軽蔑した、その報いがこんなに惨めなもんだとは思はなかつたつて、ひどく後悔してらしつたわ。あなた方のお母さんは、あたしなんかとはまるで比べものにならないほど、おえらい方だつたと、あたしはいつでも思つてるけど……」
二人の少女はかういふ述懐につい引き入れられながら、その時はそんなものかと思ふ。が、それらのことを身に沁みて考へるやうになるのには、まだちよつと時機が早い。小母さんがお嫁さんに来た時の話が、いつの間にか自分たちへのお説教に変つたと気がつく頃には、それでも、初瀬の方でちやんと話題を転じて、
「さ、このお話はこれくらゐにして、こんどは、あなたたち、何か話してちやうだい。学校で面白かつたお話でもいいし、お家でお父さまから伺つたお話でもいいし……」
二人は顔を見合せる。妹の世津子は、この時、姉の肱を突きながら、
「お姉さん、ほら……あれは……?」
「なあに?」
と、姉は訊きかへす。
「あれよ、いやだ、知つてるくせに……。早く云ひなさいよ」
姉の加寿子は、やうやく思ひ出したらしく、二三度うなづきながら、
「あのね、小母さま、うちのお母さまの写真をこんど焼増しして、親戚やお友達に差上げるんですつて……。それでね、お父さまがね、お前たち好きなのを撰り出せ、それを焼増しするからつて、さうおつしやるの。あたしたち、よくわからないから、小母さまにご相談しようと思ふの。いいこと?」
「うん、それやかまはないけど、あなたたちのお祖母ちやまにも一度ご相談してみたら?」
「だつて、お祖母ちやまつたら、ちつとも似てないのを、『いい、いい』つておつしやるの」
と、加寿子が云ふのを、初瀬は軽く受け流して、いづれ明日見に行くからと返事をした。
かういふ具合に、なんでも小母さま小母さまで、小母さまでなければ夜が明けない始末に、初瀬もつい、何かにつけて世話を焼くやうになる。自分の息子のものをと思ふ時は、きつと、この二人の娘たちにもと、心を配らないわけにいかないのである。しかし、それにも際限のあることで、頃合ひの服地を見つけても、それを黙つて買つて来るといふ風にはできず、序があれば、遠まはしに、彼女等の祖母の耳に入れておくぐらゐが関の山である。第一、彼女たちの父親とは滅多に口も利かず、まして、頼まれもせぬのにそこまで内輪のことに立入る資格はないと、彼女は信じてゐた。
さういふわけで、彼女の「小母さんとしての」心遣ひが、あからさまに、「女親としての」心遣ひまでに伸び育つてゐることは、自分にもそれと気づかぬぐらゐであつた。
その翌日、午後の買出しや、夫の書類の整理やに、つい取紛れて、こつちから顔を出さずにゐると、夕刻、それも忙しい最中に、田丸の娘二人がやつて来て、母の奈保子が一人で撮つた二三十枚もある写真のなかから、これにしようかあれにしようかといふ相談である。学生時代から始まつて、ごく若い頃の写真も混つてゐた。不思議なことに、短命な女のどことなくうら淋しい表情がどれにもあつて、初瀬は今更のやうに胸がつまつた。玄人の写真師が丹念に修整をした固いポーズのものよりも、却つて出入りの青年に撮らせたと云ふ、何気ないざつくばらんな普段着姿などに、彼女らしい豊かなものが出てゐた。
「小母さんはこれが一等好き……あなたたちは?」
と、初瀬は、引伸しをしたらしいキヤビネ型の半身像を取りあげた。頬に少しの疲れをみせながら、眩しさうに、が、十分の艶やかさで、にんまりと微笑んでゐる、この春、寝つく前の写真である。
娘たちにも異議はなかつた。
「小母さんにも一枚頂戴、是非……。お父さまにお願ひしといてね」
初瀬はさう云ひながら、その写真を胸に抱くかたちをした。娘たちは、両方から同時に、初瀬の肩にしがみついた。
一旦は指名とあつて隣組長の後を引受けはしたものの、どうしてもこれだけは無理だといふ結論に達した田丸浩平は、一と月後、即ち十一月の常会で、かういふ提案をもちだした。組長の早期交代を認めるか、さもなければ、副組長を置いて、一切の事務を代行させるか、その場合、組長は、むろん町会に対する全責任を負ふといふのである。「さうまでして田丸君を組長にしておかなくてもいいではないか」といふ説も出た。久保鉄三の発言である。しかし、衆目の見るところ、久保自身は最も組長として不適任であつたから、その説はうかうか賛成できない。肝腎の楯凡児、組長の指名役がその日生憎欠席であつたから一層事は面倒になつた。副組長を置くことで、やつと話がついた。隠居連を除いて何時もおほかた家にゐるブリキ職の遠山春樹が、防火群長をしてゐる序とあつて、副組長を仰せつかつた。遠山が「とてもそいつは」と逃げを張るのを、田丸は、かう云つてなだめた。
「しかしね、遠山さん、組長も副組長も、それや隣組の世話役みたいなもんですけれど、一方また、世話役を助けるといふか、むしろそれぞれ活動の中心になつて、組長をただ忙しいばかりにさせない役があつてもいいぢやありませんか。こいつを決めませうよ。ちよつと僕、考へて来ましたから、ご異存がなければ、これから、みなさんに組全体の仕事を分担していただくことにします。配給係の二軒は、これは月番の交代でしたな。それはそのままとして、先づ、人事関係、軍事援護、この二つを楯さんにお願ひします。次ぎは会計を八谷さん、貯蓄を八谷さんと大西さん、八谷さんはこの方もひとつ……。それから増産、物資活用といふやうな問題、廃品の回収などを含めて、これを萱野さんと久保さん、問題の範囲が広いですから、ご両家でどうぞ……。今度は、戦時生活の訓練といふ方面を、伊吹さんと楠本さんと矢代さん、これも大人あり子供あり、経済の面もあり精神的な面もあり、更に、衛生問題、身体の鍛錬といふ点も考へなければなりませんので、特にお三方にお願ひします。陣内さんは、奥さんが婦人会の役員をしておいでですから、隣組のやはり、その方面の係りといふことにしておきます」
多少のざわめきはあつたけれども、田丸の更に詳しい説明と、楠本前組長夫人の有力な支持があつたために、どうやら一同は納得したらしい。今日の常会は殆ど婦人ばかりであつた。
ところで、この田丸浩平なる人物について、相当突込んだ紹介をしておくべき順序になつた。
田丸浩平一家がこの横町へ移り住んだのは、もうかれこれ十年も前のことで、学校の先輩が建てた家を、地方へ転任といふことになつた機会に、留守を預る意味をも含めて安く借り受けたのである。当時、田丸浩平は、農業関係のささやかな団体に勤務し、可なり生活の苦しみを味つてゐた。
信州飯田の生れで、郷里の中学を卒へると岐阜の高等農林へはいつた。専門は農芸化学で、主に乳製品の研究を進めるつもりだつたのが、卒業間際に、ふと、ある書物の影響を受けて、農村問題に頭を突つ込み、主任教授の意に反して、論文の題目をその方面に撰んだため、さんざんな成績で、云はば体よく学校を追ひ出されたかたちだつた。
彼は友人の一人を頼つて上京した。
彼の父は士族の商法で失敗に失敗を重ね、当てにしてゐた一人息子の立身を待たず、窮乏のなかに世を去り、後妻の手には抵当にはひつた家と若干の借金証文を残したきりであつた。後妻は、それをそつくり義理の息子浩平に押しつけて、姿を暗ましてしまつたのである。
田丸浩平は憤起した。新聞広告で最初に飛び込んだのが怪しげな興行会社である。旅廻りの芸人を集めて地方の興行者に斡旋をするのが仕事で、時には聞くに忍びない事件も持ちあがつた。一年きりでそこを止めると、今度は先輩の勧めで例の日本農村振興協会へ籍をおいた。ここでみつちり農村に関する実際の知識と、農村指導の経験を得たが、彼の抱負はこの団体の予算があまり貧弱なため、なにひとつ達せられず、遂に不本意ながら同じ農事関係の有力な団体帝国農業へ籍を移し、専ら調査方面の仕事を担当した。彼の情熱と力量とは、やがて首脳部の認めるところとなり、間もなく事業部芸能課長といふ椅子に就いたのである。この頃からたまに評論の筆もとるやうになり、やや生活にも余裕ができたので、気が向けば家族を連れて旅行などすることもあつた。ところが、大東亜戦勃発前後、国内の体制が急速に整備されはじめ、農事関係諸団体の統合もいよいよ実現しようとする矢先、彼はつまらぬことで上役の機嫌を損じ、毎日腐りきつてゐるところへもつて来て、妻の病死といふ災厄に見舞はれた。さすがに彼も参つた。気分転換が必要であつた。ちやうどその頃、以前から仕事のうへの交渉もあつた演芸移動本部といふ新しい国民運動団体から是非来いといふ勧誘があり、参事といふ名目で、組織局農村部長の職を得たのである。
運命といふものは皮肉なもので、彼は最初の就職が興行会社であつたため、本来の専門はそれとちつとも関係はないのに、何処へ行つても農村とか農業とかの名前はつくが、何時でも芝居や映画の方面とは縁が切れない。
しかも、今度といふ今度は、いはゆる健全娯楽としての、或は啓蒙宣伝に役立つ各種演芸を全国の農村へ持ち廻るといふ、彼にしてみれば本末転倒の役目で、どうも柄にないことのやうにも思はれたが、考へてみれば、まんざらさういふ仕事に興味がないわけではない。第一に、彼の年来の主張は「農村に夢を取り戻せ」である。「夢」は詩である。郷土理想化の夢は、自然と歴史の美しさを歌ふ心の昂まりである。皇国農村の建設こそ、先づ「かくあるべき」日本農村の姿を、はつきりと瞼に描き、それによつて胸を燃やし得る指導者の出現に俟つところが大きい。彼はこの主張のために戦ふ草深い戦場の一つをそこに見出した。
さういふわけで、田丸浩平の昨今は、厳しい現実の処理に追はれながら、常に遥か先の方へ目標をおくといふやうな、われながら足許の気づかはれる、しかし、それだけに、彼のやうな男には張合ひのある生活であつた。
前々から話のあつた隣組の共同菜園も、結局、組長としての彼の動きが、自然にみんなを積極的に乗り出させることになつた。
殆んど全員出動、第一回の鍬入れが行はれたのは、十月にはいつた最初の日曜日である。
壮年、老年、婦人、少年の各組と、それに男女青年班がそれぞれ分担の仕事を割り当てられ、作業全般の監督には、珍しく顔を出した自称「浪人」久保鉄三が当ることになつた。
伐り倒すべきものと、どこかへ移植できる植木類とをまづ撰り分けて、目印をつけた。男子青年班は大木の伐採を受けもち、壮年班が小ぶりの植木の根掘りを引受けた。
壮年班が掘り起した植木は、女子青年班がそれぞれ定められた場所へ運ぶ。萱野十吉氏が、その場所を指し示す役である。梅、グミ、ナツメ、ザクロ、などは、早速買手がついた。
さて、田丸浩平は、壮年班の一員として、八谷家の下宿人、金岡先生を相手に南天の一株を挟んでスコツプを振つてゐた。
「かういふ隣組は、しかし、このへんでは珍しいですね」
と、金岡は、はじめて田丸に言葉をかけた。
「さうでせうか、いろんな条件にもよるでせうが、まあ、うまくいつてる方ですかな」
田丸は、組長の立場でそんな風に応じるよりほかなかつた。
「どうでせうね、これで日本人は、いざといふ場合に、ほんとに一致団結できるでせうか? 盲従と附和雷同は論外ですが、妙な「おつきあひ」といふほどの気持から、別に押し切つて反対もせぬといふ手合がゐますね。なんと云ひますか……こいつが一番始末のわるい、お互の間で油断のならん手合だと思ふんですが……」
金岡先生は、何ものかに向つて憤りを発してゐるらしい。
「学校教育も、この戦争をきつかけに、ほんたうの姿に変らなければうそですね。のびのびとした日本人を作りたいなあ」
と、田丸がまたそれに応じた感慨をもらすと、その時、傍らを、女子青年の一組が、五六人で、嵩ばつたツヽジの株を、えつさもつさと引つ張つて行く。
或るものは力いつぱいの表情をしてゐるかと思ふと、あるものは、申訳のやうに手をかし、たゞ汗ばかり拭いてゐる。呼吸の合はないもどかしさが、こつちから見てゐて感じられる。
「しつかり、しつかり……」
と、田丸は浴せかけた。そして、
「さあ、みんなで何か歌ひたまへ」
田丸の声に応じるやうに、それらの娘たちのなかから、最初はか細く、が、次第に張りのある調子で、「ヴオルガの船唄」を歌ひだしたものがある。誰もそれに続くものがないから、中途で消えるかと思ふと、さうでない。なかには下を向いてクスクス笑つてゐる娘もゐる。しかし、歌声はますます熱を帯びて来る。それは楯尋子であつた。今年十九になる女子大の学生で、楯凡児の二番目の娘である。
みんなの視線が一斉にそつちへ注がれた。
「いやあよ、あたしばつかりに歌はして……」
そこで、ぷつりと歌がやんだ。
あちこちで、思ひ思ひの鼻歌が聞えだした。
田丸の唇にはひとりでに微笑が浮んだ。さう云へば、いつか妻の奈保子がこんな話をして聞かせたことがある。もう二三年も前のこと、彼女の思ひつきで、近所の子供たちを集めて音楽会をやつてみた。ところが、子供が交る交る歌を唄ひ、ピアノを弾き、木琴を叩きするうちに、そこへ集つて来たお母さん連が、しまひに、なにやらの合唱をおつぱじめた。誰がいひ出すともなく、「あたしたちも」といふ気分になつたらしい。お母さん連が、調子に乗つて、もう一度、もう一度で三度目の歌を唄ひかけた時、小さな男の子の一人が、たうとう業を煮やして、「大人はやめろ」と呶鳴つたさうである。
しかし、この事あつて以来、細君同士の近所つきあひがめつきりよくなり、隣組の土台が自然に出来上つたといふ事実は、偶然も手伝つてはゐようが、死んだ妻の功績だと彼は信じてゐる。
しかし、今、彼の耳に伝はつて来るめいめいの勝手な鼻歌は、決して聞きよいものではなかつた。彼は眼をつぶつた。時が来るであらう。
壮年班に割当てられた任務は思ひのほか早くかたがつき、今度は、伐り倒された木の枝を払ふ仕事に廻つた。
婦人班もゴミ運びを終り、小枝を集めて薪束を作ることになつた。これには女子青年班も一緒に加はつた。
男子青年班の大木伐採は一番手間がとれた。一と抱へほどある榎は二人掛りでまだびくともしてゐない。根元に虫のついた栗の木が一本、たつた今、地ひびきをたてて倒れた。
二人の青年が、額に汗をにじませ、鋸を握つた手を大きく振りながら、一隅の、葉の落ちつくした桜の木の下へ歩み寄つた。藁縄を幹に捲いて伐採の目印がつけてある。
二人の青年は、無言のまま、空を仰いだ。すくすくと伸げた枝が傘のやうにひろがつて、満開の季節を想はせた。二人は眼と眼とを見合せた。そして、一人が突然、
「この桜、やつぱり伐りますかあ」
と、やけに大きな声で、訊ねるやうに叫んだ。
道ばたで、煙草を喞へてゐた久保鉄三は、そつちへちらと無表情な眼をやつて、
「伐る伐る。なんでも伐るべきものはさつさと伐る」
断乎たる命令ではあつたが、
「惜しいなあ」
と、もう一人の青年が呟いた。
すると、それが耳にはいつたとみえて、久保鉄三は、ぐつと胸を反らし、
「誰だ、君は? 何が惜しい? 梅だ桜だと云つてる時ぢやない!」
頭からきめつけられて、二人の青年は、ちよつと面喰つたかたちであつたが、はじめの、背のひよろりと高い方が、
「惜しいものは惜しいと云つたつていいだらう。梅だ桜だなんて、誰も云つてやしない」
さう云ひ放つて、どかりと、その、桜の根元へあぐらをかいた。そして、鋸を両手に握つたと思ふと、もう、ゴシゴシやりはじめた。
一瞬の不穏な空気は、作業場全体を妙に白けさせたが、そのために、却つて、この一株の桜は、人々の注意の的となり、「ああ、あの桜が……」といふやうな淡い感慨を催さしめた。大西の隠居の如きは、切りに首をふつて、あからさまに不満の意思表示をした。誰も彼も、来る春の淋しさを想つた。
田丸浩平は、四月の花を待つ風流はなかつたけれども、年々の春、この通りをパツと明るくするあの山桜の色を忘れてはゐなかつた。これも亡妻奈保子の言葉を藉りれば、まさに「横町の簪」に違ひないが、彼は、この簪がなくなることよりも、これにからんで、久保鉄三と一人の青年との間に生じた微妙な摩擦について、深く考へさせられた。
彼は、あとであの青年とゆつくり話をしてみようと思つた。この種の摩擦、その摩擦からもち上る陰鬱な空気は、日本の隅々から一掃しなければならぬものの一つであるやうに思へたからである。
見渡したところ、青年班全員五名、そのうち、顔を見覚えてゐるのは二人きりで、それも名前は知らなかつた。あの桜を受持つた二人は、何処の何んといふ息子か、そばにゐた、細君連に訊ねてみた。
「大西さんの弟さんの裕さん、背の高い方が……。それから、片一方は遠山さんの三番目のお子さんですわ」
矢代初瀬がさう教へた。
「遠山さんの三番目の……ああ、日本精器とかへ勤めてる……」
「さう、さう」
と、楠本夫人が引取つて、
「茂ちやん、もうぢき兵隊さんだわ」
「裕君は、どうしてるんです? まだ学校?」
実に近所のことといふものは、男にはわからないものである。
「いやですわ、この春もう卒業なさつたんぢやありませんか」
「ご病気でいまお勤めを休んでらつしやるのね、たしか」
初瀬が独言のやうにつけ足した。
と、その時、男の声で、不意に、
「あツ、危いツ!」
その「危い」がまつたく喉を絞るやうな、恐怖に上ずつたけたたましいものなので、誰もかれも、ギヨツとして、あたりを見廻した。と、なるほど、その時、メリメリツといふ音をたてながら、直径一尺ほどの三ツ又になつたコブシの木が、まさに地上に倒れようとし、丁度その真下に子供が二人、余念なく草をむしつてゐるのである。子供たちは、やつと気がついて、起ち上りはしたが、どつちへ逃げていゝかわからず、大きい方の女の子は、一度駈け出して、また、小さい方の男の子の手を取りに戻り、小さい方の男の子は、もう泣きべそをかいて、足がすくんだのか、ただ膝をがくがくさせてゐるだけだ。どうする暇もない。大人が四五人、そつちへ飛んでは行つたが、枝を張つた大木の頭上へ落ちかかる勢ひを、どうして制することができよう。何を云つたかわからない。口々に何かを叫んだ。そのなかで、ひときははつきり、
「世津ちやん、こつち、こつち……」
と、呼ぶ絶望的な女の声が長く尾を引いて聞えた。
それはほんの一瞬であつた。づしんばさりと、異様な地響きに、周囲が激しく顫へた。
「大丈夫、大丈夫……」
二人の子供を両腕でぐつと抱き締めたまゝ、田丸浩平がによつきりそこに立つてゐた。太い枝と枝との間である。が、そこから少しはなれて、膝を突いて、俯伏せに倒れてゐる女がゐた。梢のあふりを喰つて、押しひしがれた形である。矢代初瀬であつた。が、彼女は、顔をあげた。そして「奇蹟」を見たのである。
「貫ちやん……」
と、田丸の腕の中でもう晴れ晴れと笑つてゐる子供の名を、たゞなんといふことなしに呼んだ。
細君たちが、そばへ寄つて、彼女を抱き起さうとした時、彼女は自分で勢よく起き上つた。しかし、またぐらぐらつとした。腰へ手をあててみた。痺れるやうな痛みを感じた。
「あら、こんなに血が……」
と、誰かが彼女の頸筋へ眼をやつた。
伊吹夫人と大西の細君が附添つて、彼女を家まで送り届けた。
貫太がその後について走つた。
「どこへ行くんだ?」
世津子も走り出さうとするので田丸は呼びとめた。世津子は、振り向きもせず、飛んで行つた。姉の加寿子が、そのまた後を追つた。
「済みません。綱で反対側へ引張つてあつたんですが、どうしたはずみか、綱が弛んだんです」
青年が二人、頭へ手をのせて、田丸の前に歩み寄つた。
「僕にあやまつたつてしやうがない」
と、田丸は静かに応へた。
さすがにまだ動悸がをさまらないのを、彼はぢつと抑へるやうに、肩で大きく呼吸をした。子供たちを、このからだで庇はうとして、無我夢中で、二人を胸へ引き寄せた途端に、彼はただ、重い塊りが肩をすれすれに地上へ落ちたと感じただけである。
「それより、久保さんに断つて、早くお見舞に行つて来たまへ」
矢代夫人の怪我がどの程度のものか、彼は気がかりでなくもなかつた。が、なによりも二人の子供──世津子と貫太に怪我をさせずにすんだといふことだけで、彼はほつとしてゐるのである。組長といふことが、その時、ふと頭へ来た。そこで、責任上、黙つてゐるわけにゆかぬと思ひ、久保にはもうこのへんで今日は打切りにしてはと云ひ残して、矢代家の玄関の呼鈴を押した。
アトリエから主人の正身が出て来た。
「いや、大したことはないやうですよ。ああ、子供のことはどうも……あなたによくお礼を申上げてくれつて云つてました」
「それどころぢやありません。僕がもつとよく注意すべきだつたんです」
と、二人の応酬は至極簡単であつた。
「子供たちはどうしてます?」
彼は訊ねた。
「上つて遊んでますよ。いいぢやありませんか」
「すぐ帰るやうにつて、どうぞ……」
作業は正午にひと先づ終つた。当分、日曜日毎にやることになつた。解散の号令を待たずに、もう引上げてしまつてゐるものもあつた。
田丸は、久保に礼を云ひ、それから、男子青年班の五名を手招きした。
「君たちとゆつくり話をする機会がなかつたけれど、どうです、今夜、暇だつたら僕の家へやつて来ませんか」
「伺ひます」
と、そのうちの一人が即座に答へた。
「ほかの諸君は?」
ほかの諸君は、田丸の視線をまともに受けると、もぢもぢしながら、軽く頤をしやくるやうに頷いてみせた。これは近頃のしやれた流儀であらうか。眼を外らしてゐるので、承諾の意味だけは通じるが、快諾なのか不承々々なのかわからない。
「ぢや、七時頃から……。但し、なんにもおかまひはできない。そのつもりで……」
午後は久々でゆつくり本を読んだ。夕食の膳には義母の郷里の名産、竹輪がのつてゐた。娘たちがあまり急いで飯をかき込むので、義母は、気を揉みながら、
「どうして、そげに矢代さんとこばかりへ遊びに行きたがるんぢやろ」
老人の放つた嘆声は、田丸の胸をチクリと刺した。娘たちは、ほんたうに、いつでもそはそはしてゐた。父親の自分と対ひ合つて、ゆつくりその時間を愉しむといふ風はさらになかつた。そればかりではない。てんで、家などは見向きもしないやうに見えた。田丸は努めて彼女らに話しかけ、どんなことに一番興味をもつてゐるのかを知らうとするのだけれども、彼女らの受け答へは、どちらかと云へば、うはの空だつた。死んだ母親のことをそれとなく云ひ出してみる。すると、娘たちは、申し合せたやうに、顔を硬ばらせて黙り込んでしまふのである。彼は取りつく島のない思ひで、こんどは義母の方へ、
「今日の勤労奉仕は、案外はかどりましたよ。この分なら、今年中に畑の恰好だけはつきさうです。ハウレンサウの種ぐらゐ蒔けるでせう」
「それやまあ結構ぢや。でも、大きな木を伐つたりする時は、子供がゐると危いけに……」
と、義母はもう、娘たちからそのことを聞いてゐた。田丸はそれには応へず、
「あ、さう云へば、矢代さんの小母さん、どうだい? 怪我はなんでもないんだらう?」
すると、娘たちは、同時に顔をあげた。
「うそ、とつてもひどいのよ。血がなかなか止まらないの」
と、姉の加寿子が眉を寄せる。
「血が止まらないつて、どこの?」
「頸筋と、それから、左手のここんところ……」
世津子が自分の頸筋と左手の甲を抑へてみせた。
「そんなに大袈裟に云ふもんぢやない。小父さんは大したことないつておつしやつたよ。お前たちは血さへ見れば大騒ぎをするが、野戦病院のことを考へてごらん。世津子は赤十字の看護婦になりたいつて云つてたぢやないか」
田丸は自分ながらまづいと思ふ。こんなことを云つてみたところで、子供たちの誇張癖がなほるものではない。まして、物に動じない習慣をつけるなど、及びもつかぬ話である。かういふ場合、男の子なら、まだ始末がいい。頭ごなしにやつつけても、それはそれでなにかの役に立つのである。彼は娘たちを前にしてはただ、はらはらするか、じりじりするか以外に、気持のさばきやうがない。黙つてゐるわけにいかぬ場合、小言めくまいとすれば、それは単なる愚痴に堕する。かうなると、女親といふものの役目が実にはつきりしてくる。父親はいつでも正面から物を言へばいい。母親は、若しそれが必要とあれば、いつでも、横から、或は裏から、ちやんと筋道を通してくれる。
玄関で呼鈴が鳴つた。
義母のかせが座を起つた。
「楯さんの坊つちやんと、ほかに二三人、小父さんに会ひたいつて来とんなさる」
応接間とは名ばかりの、月賦払ひのセツトのほかに、調度らしい調度はなにひとつない寒々とした板の間である。汚点の出た壁紙も妻の奈保子は気にしてゐたが、つい貼りかへる機会もなく、そのままになつてゐる。複製のローランサン(フランスで名高い女流画家、夢幻的な美女の肖像を好んで描く)は、これも妻が嫁入支度のなかに紛れ込ませて来たもので、彼が旧友の或る画家から贈られた八号の風景と共に、やや納まらぬかたちで、しよんぼり壁にぶらさがつてゐる。よく見ると、西北二方の窓にはカーテンがない。この夏、病室の日除にと臨時に取外したのを、その後、誰もどうもしないからである。部屋の隅にちよつとした花瓶を置いた台はあるけれども、花瓶にはむろん秋の花一輪挿してない。意地わるく鼻を近づけでもしようものなら、腐つた水の臭ひがぷんとしさうである。
田丸浩平は四人の青年にそれぞれ椅子を与へたのち、しばらく一人一人の顔を見比べ、どれが何処の誰かといふことをたしかめようとした。一番年嵩のが大西で、兄多須久の家に寄寓して某軍需会社の事務所に通つてゐるサラリーマン、次ぎが楯凡児氏の長男雅一、既に読者の記憶にある例の高等学校生徒、それから、工員服のもう板についてゐる遠山、ブリキ職遠山春樹の三男で、二人の兄を戦線に送り、自分も来年は海軍予科練習生の志願をすると張切つてゐる紅顔十七の腕白盛りである。
昼間の人数をたしか五人と覚えてゐた田丸は、一人足りないなと思ひ、
「誰か後から来るの?」
と訊ねると、
「久保君が試験準備で来られないさうです」
楯雅一の返事である。
「ああ、久保君……」
と、田丸は、五人の中の一人が、興亜経済研究所長、久保鉄三の息子であることにやつと気がついた。
「久保君は来年卒業だね」
「いやいや、まだ専門部の一年ですから……」
返事をするのはいつも楯雅一である。多少家庭的のつきあひが長いせいもあらう。しかし、そればかりではない。ものが軽く云へるたちなのである。
「今夜、わざわざ来てもらつた理由はね」
と、田丸は努めてざつくばらんな調子ではじめた。
「別に改まつてどうかうといふぢやないが、まあ、早く云へば、この隣組のことでね、ひとつ、諸君にも大いに助けてもらはうと思つて、そのことで一度ゆつくり話がしたかつたんです。職場や学校の関係もあるし、ほかに個人としていろいろ興味をもたれてゐることもあるでせうけれど、今日の場合、われわれの隣組といふやつを、是非ともみんなの力でしつかりしたものに育てていかなければならんと思ひます。ところが、これはどう考へても、いはゆる大人ばかりの結びつきでは駄目だ。一応はそれでいい筈だが、ほんたうはそれぢや駄目なんだ」
田丸は、知らず識らず自分と相手との距りを忘れて、仲間と口を利くやうな調子になる。
「なぜ駄目かと云へば、大人は、現在のことしか考へないからだ。明日のことは考へても、来年のことは考へない。その証拠に、来年のことを云ふと鬼が笑ふと云ふ。これや大人の間でしか通用しない言葉だ」
青年たちの顔が心もちほぐれる。
「しかし、そんなら、青年はどうか? 諸君のことですよ。その青年は今のままでいいか? 先づ訊きたいことは、諸君の故郷が何処にあるといふことだ。僕の故郷は信州下伊那、天竜川に沿つた船底のやうな村です。想ひ出さうとすれば想ひ出せるが、一向に胸に迫るやうなものを感じない。故郷が故郷として僕の歴史のうちに生きてゐないからだ。かういふ日本人がだんだん多くなるといふことが非常な問題です。僕にしてからがその通りだ。僕の娘たちになるともう、故郷といふものの影像さへ頭に浮べることはできないのだ。これはどういふことですか? 云つてみれば根なし草だ。故郷あつての家ですから、今住んでゐるこの家の如きは、単に借家だからといふばかりぢやない、これは、彼女らにとつては、便宜上寝泊りをする一個の建物に過ぎないといふことになる。しかし、事実は、どうですか? 先生たちの歴史は、ここで始まつてゐる。両親の生活はここで終らうとしてゐるのです。しかも、ここで日常見聞きすること皆、祖国の運命を左右するやうな大事件の連続ぢやありませんか。お隣同士は、文字通り、共に歓び共に苦しむ仲だ。同じものを、分け合つて食ふ間柄だ。そして、恐らく、死なば諸共の覚悟もついてゐるのです。この横町の風物にしても、目立ちはしないが、年毎に、春夏秋冬、しみじみと落ちついたものを感じさせるやうになつた。日の丸の旗でも出てゐる日をみたまへ。もう新開地の薄手な気分は微塵もない。百年二百年続いてると云つても不思議でない、立派な日本の街の品位がついて来た。いや、己惚れぢやないぜ、諸君、ほんたうにさうだよ。啄木のいはゆる「ふるさとの山」は不幸にして東京にはないが、われわれの感覚には、一種特別な「ふるさとの山」が生れつつあるんぢやないか。いや、それを君たちの時代が完全に築きあげてくれることを、僕は切望してやまないんだ。お江戸といふ言葉はなるほど旧いが、この言葉のもつ矜りは、帝都として生れ代つた東京の今日を想ふと、実際、何処にあるんだと云ひたくなる。諸君の本籍は何県か知らんが、それはそれ、これはこれだ。第二の故郷なんて甘つたれた気持からでなく、われわれの住むところ、即ち故郷の延長なのだといふ国民としての真の自覚から、先づ隣組の郷土化に努めようぢやないか。共同菜園の勤労作業も、ただ、配給の足し前をなんていふけち臭いもんぢやないよ」
喋りまくつて、田丸は、やつと運ばれて来た茶を、ひと息に啜つた。
「お話はよくわかりましたが、それならそれで、今日、久保さんが、あの桜の木を伐る時云はれたことが、ちよつと腑に落ちないんですが……。僕たちは、この横町をある意味で自分たちの町として愛してゐるからこそ……」
大西裕が気負ひ込んで一と議論持ちかけようとするのを、
「待ちたまへ。そのことを僕も云ひたかつたんだ」
と、田丸は抑へ、
「よく聴いてくれたまへ。僕がね、その問題に触れておきたいと思ふわけはだよ、これは決して、久保さんと君たちとの間の言葉の行違ひではすまされない問題を含んでゐるからだ。こいつはね、僕はかねがね心配してるんだが、現在の日本にとつて、国内の問題としてだけ考へてみても、みんなが反省しなければならない重大な現象の一例で、特に君たち青年の立場から、よくその辺の事情を弁へ、慎重に、そして勇敢に身を処する術を心得てゐてほしいのだ。今日の事件を、最初から想ひ出してみよう。大西君と遠山君だつたね、いつたい、誰からあの桜を伐れと云はれたの?」
「誰からも云はれません。ただ、僕たち二人の手があいたもんで、今度はどれにしようかと思つてると、あの桜の木に、伐採の印がついてゐたんです。やらう──つてんで、そばまで行くと、二人でなんとなく気おくれがしたんです。若し畑に蔭を作つて邪魔なら、どつか北の隅へでも移せないかなあ、と思つたら、とたんに、ああ云ひたくなつたんです」
「なんて云つたんだつけ!」
「この桜、やつぱり伐りますかあ、つて……」
「そしたら、久保さんが……?」
「伐る、伐る、伐るべきものはさつさと伐る──言葉通り覚えてます」
「うむ。そしたら、どうだつけ?」
「遠山君が──惜しいなあ、つて云つたんです」
楯のあとを遠山が続け、
「惜しいとはなんだ。君は誰だ。梅だ桜だなんて云つてる時期ぢやない──と来た」
「──と来た、は余計だよ。それだけだね」
「いや、僕がそのあとで──惜しいものはし惜しいと云つたつていいだらう。誰も梅だ桜だなんて云つてやしない、とやり返したんです、癪にさはつたもんで……。」
「さういふ風な調子でこの話をするのはよさう。僕は君たちと一緒になつて久保さんの蔭口を利くつもりはないんだ。はつきり断つとくが、若しこれが勝負だとすれば、君たちの方の負けだよ。さうとも……君たちは、君たちの大事な矜りをむざむざ棄ててしまつてるぢやないか」
「それや一体、どういふわけですか」
と、楯雅一が喰つてかかつた。
「さうぢやないか。俗に捨白といふのがそれだ。その捨白は、明かに敗北者の自己満足なんだ。まともに物を言はず、相手の攻勢から楽に身をかはすために、ことさら強く見せかけたずるい逃避の一種だよ。敢て言へば、青年としてあるまじき卑屈な行為だ。矜りを棄てたも同然ぢやないか」
そこまでは勢にまかせておつかぶせるやうに云ひ放つたが、急に田丸は、笑顔になり、
「まあ、これだけのことを云つておいて、問題の本筋にはいらう。僕が今、問題にしたいことはね。どつちが善い、どつちが悪いぢやないんだ。まして、どつちが勝ち、どつちが負けといふやうなことぢやない。要するに、どうしてああいふつまらない空気が生じたか、なにが故に、双方で云はば不必要な言葉のやりとりをしなければならなかつたか、といふことさ。僕は飽くまでもこれを個人の問題にしたくない。若し久保さんを引合ひに出すとしたら、それは、久保さんのやうな調子で物を言ふえらいひとが存外多いからだし、君たちにしても、君たちは、むしろ今の青年のある種の型みたいなものだからさ。一口に云へば、君たちの表現を久保さんは青年の言葉として理解しないし、君たちはまた、久保さんの表現を、あまりに久保さん自身の言葉として受け取りすぎてゐるのだ。少しわかりにくいかな。別の云ひ方をしよう……」
田丸はちよつと口を喋んだ。すると、楯雅一がまた口を出した。
「いや、わかるにはわかります。しかし、そんなら、僕たちに過ちはないのだし、久保さんの方にだけ、青年を識らんといふ罪があるんぢやないですか」
「馬鹿なことを云ひたまへ。君たちは、どんな場合でも、先づ、今日の時代、もつと日本人を信用してかからなけれやいけないんだ。──この桜、やつぱり伐りますか、そんな問ひは第一どこから出るんだい。実際は気軽に口から出た言葉だらう。しかし、こいつは、全体に眼を配る責任者がゐる以上、余計な念の押し方だ。善意にとつても、責任者がうつかり桜を伐らせてしまふんぢやないかといふ心配からだらう。僭越この上もない心配だ、と云はれても、君たちは文句は云へないんだ。あの桜を伐るのは惜しいぐらゐのことは日本人なら誰でも考へる。それは十分考へた上での裁決だ、と、君たちには信じてほしい。さう信じられたら、黙つてやれんこともないだらう。また、仮に、惜しいといふ嘆声を漏らすにしても、その言ひ方が違つて来る。久保さんの胸には、少くとも、違つて響く。すると、久保さんの同じ返事が、君たちになんの反撥も感じさせないんだ。素直な激励の調子、お互の決断を促す明朗な語勢を帯びて来る」
さつきから、田丸の言葉に聴き入りながら、しきりにうなづいてゐた大西が、この時、唸るやうな溜息をついた。
「それでわかつた。久保さんの表現を久保さん自身の言葉として受け取りすぎる、といふ意味は、そこにあるんだなあ」
独言である。
田丸は、それにかまはず、言葉をつづけた。
「ここまでは、君たちの立場からの反省だ。いいかい。しかし、問題はそれだけで解決はできない。なぜなら、君たちの感じ易い心は君たち独特のもので、指導者を信じる信じないに拘らず、少しの自由を与へられさへすれば、それがどういふこととも知らず、従つて、なんの躊躇もなく、単純に、生な感情をぶちまけるやうなことがある。この、恐ろしく個人的な表現を、公式の尺度ではかると、こいつは事が面倒になる。どうかすると、指導者と云はれる人物のなかには、被指導者の一面の心理を無視して、いつでも公式の表現ばかりを要求する非常識も、現在やや流行してゐるやうだ。それが自分にとつて一番安全な道だと思つてゐる小心な人物が多いんだ。例へば戦ふ国民の心構へとか、日本精神の発揚とかいふ点で、なるほど一所懸命にだけはなつてゐても、最初から相手を信用せず、どうにでも取れる言葉や動作を、わざわざ好ましからぬ意味にとつて、頭ごなしにやつつけようとする態度、この態度は、本来の精神が却つて相手に通じないで、単に不躾な威嚇と見えるやうなことも往々あり得るんだ。これも、僕としては、誰それといふ個人を責めようとは思はない。国民互に相信じる道が失はれ、信じようにも信じるきつかけが容易に作れないところから来てゐる。垣根と云ふか、溝と云ふか、或はまた殻と云ふか、とにかく、われわれが接し合ふのに、何時でも自分でないものがその間に立ち塞つて、直接心と心とが触れ合ふ邪魔をしてゐる場合が非常に多い。しかもそれは、双方、無意識にだ。邪魔とさへ感じなくなつてゐる。今の日本人は、すべてさういふ風に育てられ、それが道徳だとさへ教へ込まれてゐるんだ。しかしだ、それが当り前のことになつてゐながら、実は、なんといふことなしに、つきあひは淋しい。どことなくお互に物足らん。始めのうちは、誰に会つても、探り合ふやうなところがある。さうかと思ふと、きつと、しまひにどつちかが相手の気を腐らせるんだ。ねえ、諸君、これぢやいかん。なんとかしようぢやないか」
さう云つて、田丸は、やつと明るく眉をひきあげた。すると、その時、大西が、こんどは独り言でなく、田丸の方へ考へ深さうな眼を据ゑながら云ひかけた。
「その、相手の気を腐らせる原因はただ傲慢といふことにあるんぢやないですか」
「それさ、傲慢乃至無反省だ。いはゆる独善といふやつだ。それがたしかにある。だが、こいつはお互日本人同士の間ではまだそれですませるが、他民族相手には、さうはいかんぞ。判で押したやうなことばかり云つてゐたり、自分自身を棚にあげた議論を吹つかけたりしてゐると、どうもしまひに信用を墜すにきまつてるな。第一、人間としての面白味がない。こんなことで大和民族が損をしちや、つまらん話だ。ほんたうの日本人の姿は、どんなところにでもあるんだが、どつちかと云へば目立たないところにある。だから、見せたい相手にはなかなか見えないといふもどかしさもあるな。その意味では、直接、戦場で日本の兵隊にまみえた奴等の印象を訊きたいな」
いつになく、頭の疲れをおぼえて、田丸は頸のつけ根をぎゆつと片手で押へた。
かうして、わざわざ自分の話を聴きに来た青年たちの顔を眺めてゐると、田丸は、実は、なにも云ふべきことはないといふ気が一方ではするのだ。彼等は、晩かれ早かれ、武器をとつて起ち上らねばならぬ。その決意を胸に秘めて、しかも、静かに順番を待つてゐるのである。前途洋々といふ言葉は、この時代の青年にとつて、まつたく新しい意味と響きとをもつものである。生死を超えた境に描き得る唯一の夢を、田丸は、これらの人々と共に想ひ描くことの如何に難いかを、今、つくづくと感じた。己れを恥ぢるといふことに若し真実があるとすれば、これをこそ、いくら恥ぢても恥ぢ足りないのではないか。
と、この時、だしぬけに、
「田丸さんは農科の方を出られたつていふのはほんとですか?」
と、楯雅一が訊ねた。ヒヨウキンな調子で、いくぶん知識青年の好奇心を含んだものである。
「うん。それがどうしたんだい?」
田丸もそれに応じた答へ方をした。
「いや別に……。ただ、さうだとすると、うちの共同菜園は大したもんだつて、父なんかが話してましたから……」
「さう?」
と、とぼけながら、彼は苦笑しないわけにいかなかつた。
「まあ、専門家がゐるゐないに拘らず、あれだけはしつかりやらうぢやないか。君たちが飽くまでも中心になつてくれたまへ。いろんな家風をもつた一軒一軒の寄り集りが、共通の新しい希望を生みだしていく最も単純な形式があれなんだ。象徴はいつでも若い生命を必要とする。ちよつと子供臭いところもなくちやならんのだ。今日の作業第一日は、いろんな点で、ものの始めらしい、秩序と混沌の面白い対照だつた。僕はなかなか楽しみにしてるんだ」
青年たちは、一斉に、美しい瞬きをしてみせた。
矢代初瀬の傷は心配するほどのこともなく、その年の暮れには、手の甲の繃帯もとれ、正月には頸筋に当てたガーゼもぐつと小さいものになつた。しかし、腰骨の痛みがなかなかひかず、温泉にでもしばらく漬かつたらと年寄りなどはしきりに勧めるのだけれど、彼女は、そんなのんびりした気分にはなれぬと云つて笑つてゐる。
三月にはいり、少し無理をして自転車にも乗つてみた。用達の時間がそれでよほど縮まるわけだが、なんとしても行列を造る暇が惜しい。買物袋には、それゆゑ、いつも文庫本を一冊入れておくことにした。今日は豆腐の配給である。夫の好物を買ひ損ねてはと、急いで駈けつけてみると、もう二十人余りも店先に並んでゐて、しかも、豆腐屋は奥で神さんと口喧嘩をしてゐる。初瀬はこの様子を見て、ご亭主の物を叩きつけるやうな荒つぽい言葉の調子に、売る品物が品物だけに、ふと可笑しさがこみあげて来た。が、それにはかまはず、彼女は自転車を横において、本の頁を繰りはじめると、いきなりうしろから、
「いやだ、ひとが呼んでも知らん顔して……」
と、肩を叩かれ、振り向いて、
「あら、さう? ちつとも知らなかつたわ。今日は早いのね、お宅……」
同じ組の伊吹未亡人の借家に住んでゐる大西の細君が、六つになる男の子の手を引いて、口いつぱいの金歯で笑つてゐる。初瀬と丁度同年の三十、しかし、どういふものかぐつと世間馴れてみえる。まことにとぼけた、その代り少しばかり「云ひたいことを云ふ」といふ評判の主婦である。
「お宅の旦那さまを今日は珍らしくお見かけしたわ。自転車で颯爽とおでかけになるあなたの後ろ姿を、つくづくと門のところで見送つてらしつたわ、たつた今……」
片眼を細くして相手の反応をうかがふといふ映画もどきの表情が、どうも不似合なものに思はれ、初瀬は、「またはじまつた」と思つたきりで、別にそれには乗らうとしなかつた。
すると、今度は、初瀬の手から書物を引つたくるやうにして、表紙へ眼をおとし、
「これ、なにさ……? むづかしいもの読んでるのねえ」
それが「アンデルセン童話集」なので、初瀬もなにがなんだかわからない。さうかと思ふと、急に、しんみりした科で、初瀬の毛糸のヂヤケツをつまんでみながら、黙り込んでしまつた。
行列が動きだした。
すべての女たちが、子供や主人の旺盛な食慾を想ひ出す瞬間である。めいめいの手に提げたアルミ鍋や大鉢小鉢が、貪婪な胃の腑のやうに彼女らを支配しはじめる。
春の日射しの、もう麗らかと云つてもよいこの一つ時を、初瀬も、戦ふ主婦らしく、ほんの心もちではあるが、人並に眼を血走らせてゐた。
「どこの家でも今夜は豆腐を食つてると思ふと、ちよつと可笑しいね」
と、夫の正身は、夕食の膳に向ひながら云つた。
「よくお昆布があつたね」
湯豆腐の鍋をのぞき込んで、姑のふでが感心してみせる。
「その代り、おシヤウガがどうしても手にはいらなくつて……我慢なすつてね、お義母さま……」
「ええええ、そんな贅沢はもう云ひませんよ」
「なんだ、シヤウガなしの湯豆腐か!」
言葉は洒落のつもりかどうか、夫が、ひどく不機嫌に顔をしかめるのを、初瀬は軽く受け流して、さつさと子供の分を皿によそつた。母の気に入らないこととみると、夫はいつでも、母にそれを云はせず、自分が代りに小言を云ひ、母が却つてそばからなだめずにゐられなくさせるといふ流儀をとつてゐた。夫の心遣ひはなみなみでないと知りながら、しかも、初瀬には、それがどうもわざとらしく思はれてしかたがない。実際、夫は、食べものにはさうむつかしい方ではなく、母とまるで好みが違ふのである。例へばこの湯豆腐にしても、母さへゐなければ、彼は、ただ醤油をかけてむしやむしや喰ひ、どうかすると、砂糖を振りかけるといふ乱暴さへしかねないのである。
母の方は母の方で、もう近頃は、あまり、食べもののことであれこれと注文は出さなくなつた。時節がら、物の不自由を察してでもあらうが、それより、若いものの時代だといふ諦めに似た気持からであることは、すべて見て見ぬ振りをしてゐる様子からでもわかるのである。
食卓の空気は、どちらかと云へば賑やかとは云へず、貫太を中心に、たまに笑ひ声を立てるぐらゐで、みんな、口数少く箸を動かすと云ふ風だから、自然、初瀬も、余計なお喋りは慎まなければならなかつた。実家の習慣と、その点まるで違ひ、彼女の父はもちろん、死んだ母なども、きまつて食事の時間になるとはしやぎ出すのを、子供心に、食事とはさういふものと思ひ込んでゐたのである。
それでゐて、かうして一つの食卓を囲みながら、誰一人、陰気な顔をしてゐるわけではない。初瀬自身にしても、最初は多少窮屈で肩が張るやうにも思つたが、慣れてくると、むしろこの時間が、一番落ちついた時間──家の営みが静かにひと処で営まれる平和な楽しい時間に違ひなかつた。
娘時代に、家庭生活といふやうな問題に関心をもちだした仲間同士が、やれ団欒の一つ時がどうの、食卓の話題がどうのと、ただなんとなくざわめいた、夜の光の下で笑ひ興じる親子夫婦のすがたを、互に頭のなかに描いて頬を熱くした記憶を手繰つてみると、そこには、まつたく別個の、今の自分には縁のない世界が、希望そのもののやうに存在してゐたのである。
姑のふでと小姑の梅代は、茶を飲み終ると、静かに「ご馳走さま」と云つて座を起つ。
すると、後に残つた三人、夫の正身と、妻の初瀬と、息子の貫太とは、別にどうといふ変つた風を見せるわけではないが、ただ、めいめいが、起ち去つた二人の隙間を自然に埋めるやうな気持のひろがりを感じだすのである。
貫太は母の肩にもたれかかる。夫の正身は、煙草を大きく輪に吹く。初瀬は、食器の後始末をちよつと延ばさうといふ気分になる。
「葡萄酒はもうないか?」
と、夫が、思ひ出したやうに訊ねる。
「まだとつときが二三本ありますわ」
「一本開けろよ」
「白? 赤?」
「白はなんだつけ?」
「さあ、持つて来てみませうか」
壜のレツテルを見比べながら、どれにしようかと首をひねつてゐる夫の、いかにも呑気さうな様子をみながら、初瀬は一種云ふべからざる淋しさを感じた。実は、ただそれだけのことなら、なんでもないのである。しかし、近頃の夫の日常には、アトリエで何をしてゐるかは別として、彼女の知り得る範囲で、およそ世間と足並を揃へるといふやうなところがない。世間との足並は揃はなくてもよい。せめて、時代の向ふ方向を、自分なりにはつきり見定めてゐるといふ態度を示してほしい。たとへば、朝夕の新聞に目を通しながら、激しく調子を張つた戦況の報道に、眉ひとつ動かさず、彼女が時折、地名などについて質問をしても、ろくに返事をしないで、ほかへ話をもつて行つてしまふ。無関心を装つてゐるなら、その理由をはつきり知りたいと、彼女はつい心が焦ら立つのをどうしやうもなくなる。
「一杯だけにしてお置きになつたら? ほら、またあとが……」
と、初瀬は、穏やかに注意をする。しかし、夫は、平気で二杯目を飲み干し、自分で栓を固く押し込んだ壜を彼女の前へどかりと置いて、
「さ、しまつとけ」
さういふ夫の科は、しかし、初瀬にとつて、いつも駄々ツ子のやうにみえ、妙に分別臭い時よりはずつとよかつた。
それをしほに、彼女は起ち上らうとした。すると、貫太が、
「加寿子さんとこへ遊びに行つていい?」
「駄目よ、今日は……。それよりお父さまに算数の宿題をみていただきなさい」
彼女は、食卓の上を片づけながら云つた。
「だつて、約束したんだもの、ねえ、お母さん」
と、貫太はぐづりはじめる。
「勝手に約束なんかする法ないわ」
「いやだあ、約束を守らなきや、なほわるいや。僕、行くよ、どうしても……」
初瀬は、わざと夫の方を見まいと努めた。
玄関で呼鈴が鳴つた。
主人の弟の貞爾が、散歩かたがた、ぶらりとやつて来たのである。同じ渋谷でもずつと省線の駅に近いところで、父親の遺産の分け前を資本に、美術出版をやつてゐる。兄貴と三つ違ひの三十四、晩婚のせいか、まだ書生つぽ風のところが多分にある。
離れへ真つ先に顔を出し、きちんと手をついて母親に挨拶をするのが例になつてゐる。さういふこの兄弟の一面を初瀬は珍しいもののやうに眺めてゐた。
茶の間へ戻つて来ると、夫の正身は、
「こいつに見つかつたら、もうおしまひだ。おい、グラスをもう一つ出せ。大きい方がいい」
「やあ、ブルゴーニユですね。しめしめ」
「お前んところに、チーズはないか」
「そんなもの、とつくにありませんよ。僕んところぢや、大々的な生活革命ですよ。一切西洋式は廃止。フオークもナイフも、鉄屑として献納です。料理も片仮名料理は禁制といふことにしました。面白いですよ、女房の奴まごまごして……」
「へえ、それや、お前の発案か!」
「僕の発案といふわけでもないんですが、まあ、どつちからともなく、さうしようといふことになつたんです。勢ひの赴くところですな、早く云へば……」
「勢ひの赴くところ、ひとの家でなら、ブルゴーニユでもなんでもござれ、か」
「それやさうですよ、別に逃げてるわけぢやないんだから……。生活の単純化が本旨です」
「単純化、即ち、経済化だな」
「むしろ、戦力化と云つて下さい」
こんな会話を聞いてゐると、初瀬は、どつちが本気なのかわからなくなるが、しかし、義弟の物にこだはらず、右顧左眄しない性格が頼もしくも感じられた。
「なににでも、一つの型つていふもんが必要ですね。あれもいい、これもいいはいかんですよ。さういふと嫂さんにはわるいけど、もう洋服なんかに用はないですね。女房は和服型標準服、僕はこの通り、筒つぽに狩袴です。いいでせう」
「いいわ、ほんとに……」
と、初瀬は改めて義弟の服装を見直した。夫はただにやにや笑つてゐる。
「それで、商売の方はどうなんだい。まだ転業はしないのか?」
「人ごとみたいに云ふなあ、兄さんは……」
義弟は、初瀬の方へも等分に呆れた顔をしてみせ、葡萄酒を自分で注ぎ足し、グラスをそつと口へもつて行きながら、
「実は、そのことでご相談があるんですが、今日はさういふ話、いやですか?」
「別にいやでもない。が、まあ、あつちへ行かう」
と、夫は、鷹揚に答へて起ち上つた。
いつの間にか姿が見えなくなつてゐる貫太のことを気にかけながら、初瀬は、アトリエへ茶を運んだ。葡萄酒の壜とグラスは、義弟が自分で勝手に持つて行つたのである。
初瀬は話の邪魔をせぬやうに、そつと引退つて、自分の居間へはいり、貫太の靴下の繕ひをはじめた。文机の上に置いた写真立てのなかで、田丸奈保子の笑顔が、なにか物言ひたげにこつちを見てゐる。子供を残して死んで行つた母親の気持が、ひしひしと胸に通じる思ひで、彼女は、その笑顔にやさしく応へた。
しかし、自分もまた、母親を早く亡した娘の一人である。加寿子たちより少し大きくなつてゐたことはゐたが、十七と云へば、まだ母に甘えたい盛りで、父一人の家は、たとへ兄や姉がゐたとしても、ずゐぶん物足りないものであつた。それを思ふと、息子の貫太の暴君のやうな我儘ぶりを、ちつとどうかせねばとも考へ、また、そのままそつとしておきたいといふ気にもなる。せめて父親が、もう少し父親らしい厳しさをもつてゐてくれたら、自分はどんなに楽に貫太を可愛がつてやれるだらうなどと、口に出しては云へぬ不満がこみあげて来るのである。
離れから義母の呼ぶ声がする。飛んで行くと、茶箪笥から缶を取り出し、老人に配給のあつたおこしを五つ六つ小皿に盛つて、こんなものでも貞爾のお茶菓子にと云ふのであつた。
「はい」
と、初瀬は、恭しくそれを受けとり、盆にのせてアトリエへはいらうとすると、中からは、今、義弟がなにやら夫に喰つてかかつてゐる激しい語勢が漏れて来る。彼女はふと、聴き耳を立てた。
「可笑しいのは兄さんの方ぢやありませんか。僕がもし興奮してるとすれば、兄さんはどうなんです。少くとも、冷静だとは、僕は見ませんよ。不感性か、さもなければ、立派なニヒリズムだ。兄さんは、日本のことが心配にならないんですか? この戦争の実体がなんであるか、それを考へないんですか? ぢつとしてなんかゐられない筈ですよ。むろん、軽薄な手合と一緒に、騒ぎ廻るのはいやでせう。そんなことは別問題です。なぜ、兄さんの能力を、直接、国の役に立てようと思はないんです。例へば国策宣伝の写真展覧会に一度でも出品しましたか? それより何より、今度の写真家の大同団結に、兄さん一人、参加を拒んでるつていふのは、どういふわけです?」
「そんなこと、お前に話したつてわかりはしないよ」
夫の冷やかな応対である。
「ぢや、兄さんは、ガダルカナルの転進を、どういふ風に思ひますか? 当局は、まだ戦局の不利を明言してはゐませんが、国民としては十分、腹を据ゑて、次の段階に備へる覚悟をしなくちやなりますまい」
弟の、ぴしぴしと鞭をあてるやうに吐きだす言葉の連続を、夫は、さも大儀さうに聴いてゐる様子である。
「お前が一体そんなことを言つて、なにになるんだい? しかも、おれの前で、なにをどうしようつて云ふんだ? 新しい仕事を始めるのに、金が欲しいつていふことはわかつた。それならそれで、おれにその金があるかないか、若しあれば、そいつをおれが出すかどうかを知ればいいんだらう?」
「違ひますよ、兄さん、だから僕はさつきから言つてるぢやありませんか。使ひ過ぎた穴を埋めるんだとか、一と儲けするために資本がいるとか、そんなことなら、わざわざ兄さんに相談をもちかけやしませんよ。僕は、自分もこの際、もつとぢかに戦争に関係のある仕事ができ、兄さんにも、現在の日本人として、男らしく起ち上つてほしい、さういふつもりで、兄さんの肚の中を見せてもらひに来たんです。最初に企業整備のことを持ち出したもんだから、兄さんはそれにばかりこだはつてるけれど、僕は、続けて出版をやつて行く自信もあるし、軍需工場の新設は、ほかに金の当てもないことはないんです。僕の一番望んでゐたことは、兄さんが──おれは金は出せない。しかし、お前の考へてることはよろしい。おれは、おれの立場でこんな計画を立ててゐるんだ──さういふ調子の返事を聴きたかつたんです」
義弟の声は、ここで急にうるんで、鼻を啜る音さへ交つた。
初瀬は、一旦はよさうかと思つたが、決心して扉を叩いた。
夫のかすかな返事。
彼女が、扉を開けると、二人とも顔を反対の方へねぢ向けて、ぢつと黙つてゐた。
「少しお寒かありません? お炭もうつがなくつてよろしいか知ら……?」
さういふ彼女の遠慮勝ちな声に、誰もなんとも応へない。スタンドの、部屋の一隅だけを照してゐる光が、外の風でいくらか揺れてゐるやうに思ふほかは、なにひとつ動かず、なにひとつ音を立てない静かな夜の気配であつた。
初瀬が出て行つて、しばらくたつと、正身は弟に云つた。
「おれはなあ、貞爾、お前からそんな風に云はれるより──兄貴、金を少し貸せ。いつ返せるかわからん。悪いことに使ふ金ぢやない──たださう切り出してもらふ方がいいんだ。おれのことはおれでなけれやわからんところもあるしなあ。第一、もう、からだが利かん。からだが……。ぢつとしてる人間には、ぢつとしてる人間の言葉つていふもんがある。おれは、ちぐはぐなことが一番嫌ひだ。しかしだよ、こんなことは、なにも言ひたくつて言つてるんぢやないんだ」
彼はさう云つて、ぢつと眼をつぶつた。
さういふことがあつて、一と月ばかりたつた頃であつた。
常会の席で誰かが云ひだしたのを、これは面白からうといふので、隣組の応召者へ、それぞれの留守家族を中心として、組の子供全部を集めた写真を送ることになつた。
すると、伊吹夫人が、
「それなら、矢代さんの旦那さまにお願ひすればちやんとしたものができますわ」
と、初瀬の方を見ながら云ふのを、つい、
「さあ、ちやんとしたものなんか……。でも、さう申してみますわ」
と、半分引受けたやうな返事をしてしまつた。
ところが、帰つて、夫にその話をすると、おいそれといふわけにいかぬことが、はじめてわかつた。
「そんな、誰にでもできるやうなことに、僕を煩はさないでくれよ。そのへんの写真屋を呼んでくればいいぢやないか。いくらもかかりやしない」
「それとはまた、話が違ひますわ。あなたがお撮りになつたつていふところが値打ぢやありませんか」
「いやだよ。それやどういふ意味だい?」
「ですから、わざわざそんな商売人に……」
「商売人? 商売人がいけなけれや、素人だつてゐるだらう、いくらも……。写真機ぐらゐ持つてない奴はないよ」
「えゝ、それやさうでせうけれど……」
初瀬は、夫の出方が妙に絡んだやうになつて来たのを警戒しながら、これ以上理窟を云つてもしやうがないと思つた。なるほど頼みやうは手軽に過ぎたかもしれぬ。この事のほんたうの意味が夫に通じないのである。それが通じてゐれば、実際はひとの思ふほど簡単なことでないにしても、「よし」とひと肌脱いでくれてもよささうなものである。夫が決して人の情を解しないやうな人物でないばかりか、日本人としての意気と誠を十分にもつた男だと信じれば信じるほど、こんな些細なことに偏窟な自尊心をみせる気が知れない。
もうかうなつたら、なんと云つても駄目なことは平生からわかつてゐる。初瀬は押問答をやめることにした。だが、今度といふ今度は、是が非でも、夫の我を折らせてみせようと、心に固く誓つた。
幸ひ何時までにといふ期限もないことなので、彼女は気ながに、しかし、油断なく機会をとらへる工夫をはじめた。
近頃の夫は、なにせ、写真機を使ふといふことをまつたくしなくなつてゐる。物を写すことより、機械そのものをいぢる興味の方が主になつてゐるので、少し始末がわるいのである。
四月も終りに近づいて、珍しく晴れあがつた空に、花の香りを含んだ微風が何処からともなく吹いて来る日の朝であつた。
貫太を学校へ送り出し、女たちはもう食卓をはなれようとしてゐるのに、夫の正身はなかなか起きて来ない。昨夜おそくまで調べものをしてゐたことを初瀬は知つてゐたから、わざとそつとしてある。ぐつすり眠込んでゐる夫の鼾は特徴のある鼾で、彼女は、よほどのことがなければ、それを揺り起す気にはならないのである。
もうやがて九時だ。鏡の前につい長く坐つてしまつた彼女は、少し多すぎると思はれる抜け毛を手の平で丸めながら、それでも、今朝の化粧にはわれながら満足して、さつと起ちあがつた。
アトリエの一部をカーテンで仕切つた小部屋が夫の寝室になつてゐる。彼女はまづ、アトリエの窓の鎧戸をそつと押し開け、清々しい朝の光を射し込ませておいて、さて夫の寝台に近づいた。
夫は眼を開けてゐた。
「あら、もうお眼覚めだつたの!」
「煙草を喫はうと思つたら、マツチがないんだ」
マツチは仕事机の上にちやんとあるのに、自分で起きていくのが面倒らしい。
「ごめんなさい」
さう云ひながら、彼女はマツチをすつてやる。
「どうしたんだい、今日は?」
と、夫はじろじろ顔をみる。
「なにが?」
「いやにすつとしてるぢやないか」
「とてもいゝ気持なの、早くお起きになつてよ」
「起きてどうしろつていふんだい?」
「いゝからお起きになつてよ。なんだか、こんな爽やかな気分の日は、もうないつて気がするの。お願ひだから、今日一日は、なんにもお叱りにならないでね」
彼女は、着物を後ろから着せかけた。
配給ものを取りに来いといふ報らせの拍子木が通りで鳴つてゐる。
夫の食事を義妹に頼んで、彼女は、表へ飛びだした。小松菜と葱とで八銭、配給係の大西夫人は、鼻の頭に汗をかいて、袋の数をいくども数へ直した。
「萱野さんのご養子んとこへ徴用が来たんですつて……」
と、楯氏のところの女中さんはなかなか早耳である。
が、初瀬は、なにか気のせく思ひで、二銭のおつりをもらふと、袋をひつ抱へるやうにして家へ戻つた。
夫は食事をしたくないと云ひ、縁側でぼんやり庭の木を眺めてゐた。ほかに誰もゐないので、初瀬は、庭伝ひにそのそばへ寄り添ふやうにして、
「ねえ、あたし、今日、ひとりつきりの写真うつしときたいわ……」
さう云へば、こゝ五六年、彼女は、子供と一緒以外に、写真といふものをとらせたことがなかつた。
「部屋の中か、外か、どつちにする?」
案外すらすらといきさうである。
「どつちでも……あなたのおよろしい方……」
「肖像なら、やつぱり部屋のなかだなあ」
と、夫は、今更らしく彼女の全身を見あげ見おろしするのを、こつちは、わざと首をかしげて気取る真似をした。さういふことに、てんで不器用な彼女であつてみれば、これはよくよくのことに違ひない。果して、夫は眼を丸くした。彼女は泣きたいほどであつた。
アトリエの準備ができ、彼女は半身だけといふのを、夫は、序に全身もと云つて聴かない。
そんならズボンがこれではと思つたけれども、彼女は観念した。どうせ、自分の写真などはどうでもいゝのである。
「あなたも、ひとつとつてお置きになつたら……? 教へてくだされば、あたしがやつてみるわ」
「この恰好でかい?」
「いいぢやありませんか。それとも、ジヤケツをお召しになれば……?」
「お前には無理だよ。それより外のを庭で一枚、どうだい? 逆光線が面白いかも知れない」
それをこつちから云ひたくてむづむづしてゐるところであつた。
「写真機、それでよろしいの?」
「いや、こつちのにする」
と、彼は、携帯用のいくつも並んでゐる棚から、ライカをひとつ撰び出した。
そして、二人は、庭に出た。
いく久しく見られなくなつてゐたこの風景を、離れから、姑と義妹とが、何事がはじまるかといふやうな顔つきで見てゐた。
初瀬は、夫が云ふとほりのポーズをとつた。しまひに、芝生の上へ寝ころんでタンポポの花に顔を寄せろと、とんでもない注文まで出した。夫は、ことのほかご機嫌であつた。最後に、簡単な説明をして、自分のを一枚とらせた。
初瀬は真剣に機械の数字に見入つた。すべてを頭に入れておくためである。
「お母さま、梅代さん、ちよつとお縁側へお坐りになつて……。あたしの腕前をおみせするわ」
お義理のつもりばかりではなく、彼女は、離れへ声をかけた。夫が、しかたがなしに、また、機械のいぢり方を説明した。
すべては、計画通りに運んだ。あとは、天気のいい休みの日を待つばかりである。
子供たちが、みんな元気で集つてくれればいいがと、彼女は、もうそれだけが心配だ。
夫自身を、いざその場になつて引張り出せるかどうか、運を天に委せるより外はない。
五月にはいつた。
来る日曜も来る日曜も、誰か彼か差支へがあり、殊に肝腎の出征家族である遠山家では、三男の茂が日曜なしの工場勤めで、なかなか家にゐないのである。
が、軍事援護係の楯夫人は、たうとう、苦心の結果、日曜ではないが、子供たちがみんな揃ふ午後の時間をみつけ出した。前日、廻覧板が廻された。
まづ、遠山夫妻に、三男の茂とタイピストになつてゐる長女さわ子と、これだけを中心に、店の前でとるのが一枚、それから海軍大尉の息子をもつ伊吹未亡人を中央にして玄関前でとるのが一枚と、その外に、別に、名誉の戦死者を出した遺族として、八谷家を記念する為の一枚を写す予定である。
子供といへば、年はいくつまでかといふことが問題になつたが、楯夫人は、あつさり、満二十歳まで、と宣言した。
すると、さし当り楯家が女子大生の尋子を筆頭に五人、八谷家が次男の保一人、大西家は十と六つになるのが二人、久保家では、長男、長女、次男と三人、楠本家の七つと五つ、陣内家が二十の娘を頭に、六つの末つ子までこれまた五人、遠山家の長女と三男、更に矢代家の息子一人と田丸家の娘二人、これがいつも姉弟のやうに離れず、萱野家の孫は一人がやつと立ち、一人がお母さんの膝でといふ総計二十五人の勢揃ひである。
そこへもつて来て見物の大人が四、五人、遠巻きにあれこれと口を出すといふ騒ぎである。
さて、撮影技師であるが、矢代の主人がやがて現はれるものと、それまでは一同待機の姿勢で楯夫人だけが、しきりに椅子を置き換へ置きかへしてみてゐるといふあんばいである。
そこへ矢代初瀬が、やつと自分で写真機をもつて姿をみせる。
脚を立てるのにやや暇がかかる。
「奥さんが助手か」
と、誰かが、うれしさうにひやかす。
初瀬は黙つて、脚を立て終る。
「さあ、みんな並んだ、並んだ」
八谷老人の声である。
「どういふ風に並ぶの?」
と、楯の娘が、もつともな応酬である。
「ぢや、どうぞ、真ん中へお二人、その両側へ茂ちやんと、さわ子さん……。あとは、まあ、どこつてことなしに塊つて……」
楯夫人の指図は、てきぱきしてゐる。
「あんまりきちんと並ばない方がいいや」
どこかの息子の意見がでる。
初瀬は、框の中へみんなをはめこんでしまふと、ちよつと光線の具合を見るかたちで、空へ一眼をやり、さて、一同の視線をまぶしさうに受けながら、思はず口へ手を当てて笑つた。
「ちよつと待つてちやうだい。あとは先生でないと、どうも……」
さういつたと思ふと、いきなり、駈け出して行つた。
顔が火のやうにほてり、胸が苦しいほどの動悸である。
夫は、何事も知らぬ顔でアトリエの書棚をあさつてゐた。
窓が開け放しになつてゐる。
初瀬は、外から、トントンと硝子戸を叩き、振り向く夫へ、軽く手招きをしながら、
「ちよつと、ちよつと……困つちやつたわ。すぐいらしつてよ」
「なんだい」
と、夫は落ちついたものである。
「急に自信がなくなつたの。すみません……。もうすつかり用意はできてるの。だから、ちよつとごらんになるだけ、ごらんになつて……。お下駄、こちらへ廻すわ」
有無を言はせぬ決意が、ありありと見えた。頭にのぼつた血が急にさがつた気持ちで、初瀬はふらふらつとした。
夫が下駄を突つかけて、自分の後について来るではないか。
彼女は、涙がぎゆつとこみあげて来た。
待ち遠しさうに、それでも、並んだままの形を崩さず、そこにちやんと塊つてゐる子供たちの群を、霞む眼で、彼女は見た。
無愛想な、すこしてれた夫の会釈に、一同は晴ればれと大きく応へ、そして緊張した。機械のそばへ近づくと、彼女は小声で、
「みんな、あんなによろこんでるわ」
と、夫の耳に囁いた。
どこがどうなつてゐるかをひと通り調べてから、
「もういいのかい?」
と、彼女に訊ねる夫を、軽くにらんで、
「お待ち遠さま……写します」
それを合図に、誰かが、妙な声を出した。笑はせようといふのである。
シヤツタアがおりてゐた。
あとの二枚も、ここまで来ると、わけはなかつた。夫は徹頭徹尾、笑顔をみせず、さうかといつて、なげやりな態度ではなく、そんなにまでと思はれるほど時間をかけ、いくらみんながしんとなつても、うまく一緒に笑つてみせても、容易に満足な瞬間を見出さない風であつた。駄目だと思ふと、なんべんでも彼は、そつぽを向く。真面目な顔つきでそれをやるから、娘たちは可笑しがつて肱で突つつき合ふ。
見てゐて気が気でないのは、初瀬である。
が、それもこれも、彼女にしてみれば、難関を突破したあとの気持の軽さで、ただ、日暮れに間近い、気まぐれな照りかげりを、大丈夫か知らと案じるだけである。
「ありがたうございました」
「みなさん、ご苦労さま」
「あたし、どんな風にとれてるか知ら?」
さういふ声々をあとに、初瀬は夫よりひと足おくれて家へ帰つた。
「やつとこれで重荷がおりたわ」
彼女は、夫の手に機械を渡しながらいつた。
夫は、それについて何も言はうとはしなかつた。
移動演劇金剛座の一隊を載せたトラツクが、今まさに、動き出さうとしてゐる。
あれが役者だと聞けば、なるほどとも思はれる、地味だが気の利いた制服に身を固めた男女十数人、年配からいふと二十から四十そこそこまでといふところ、いづれもつつましい笑顔で、見送りの村長はじめ組合、婦人会、青年団などの主だつた人たちに、もう一度別れの挨拶をした。
昨夜、国民学校の講堂での公演をすませた後、座員は二、三名づつ分宿をして、今朝七時、村役場の前へ集合したのであつた。
隊長のほかに、本部からは普通、連絡員が一人派遣されることになつてゐるが、今度はこの隊の全日程を通じて、特に田丸農村部長がみづから行動を共にした。
日程は静岡県一市七町村、奈良県九町村、石川県六町村、三重県十二町村となつてゐて、東京出発以来既に四週間、あと三重県の数ヶ村を残すだけである。
公演は主に夜であるが、ところによつては昼夜二回のことがあり、公演地に一泊して翌朝次ぎの土地へ向ふならまだよい方で、夜の舞台をしまふと、終発の夜汽車に間に合ふやうに、道具を纏めて駅へ駈けつけるやうなことが度々ある。
いはゆる旅廻りの、昔からある何のそれがし一座などといふのと時々は同視されて、思はぬ笑ひ話の種を蒔くこともあるが、数億といふ費用をかけたドイツの「カーデーエフ」すなはち評判の「歓喜力行団」とはちよつと比較にならぬが、その発足の動機は、やはり時局の要請にこたへたもので、政府も相当力瘤を入れてゐる。
隊員はすべて軍隊式の態度物腰で、まづ見物をあツといはせ、この手でどうやら信用を博するらしく、まさしく戦時型娯楽の見本といふべきもの、もしそれ大都市の生半可な芝居通など相手とせず、勤労を生命とする素朴な見物の心を心として芸を磨くならば、未来の新しい天才俳優は必ずこの畑から生れるだらうと、これは少し作者の「行き過ぎ」であるが、あへて提灯を持つておくことにする。
さういふわけで、田丸浩平は、財団法人演芸移動本部に籍を置きながら、実際、芝居のことはなにも知らぬといふ変り種であるが、しかし自分の専門からいふと、娯楽機関に恵まれない農山漁村に、ともかく「これは見せたい」といふ芝居を持つて行くことは、愛児への土産に美しい絵本を買つて帰るやうな歓びであつて、そのうへ彼の担任の職務は、その農山漁村に、合理的な観衆組織を作ることなのである。これはまだ何処でも手をつけてゐない仕事である。営利的な立場をはなれた一種の利用組合を町村自体に作らせるといふやり方は、いはゞ営養摂取の機能を活溌にすることであつて、農山漁村の健全な育成に寄与する結果となるのである。
田丸浩平は、前の日、宿舎に当てられた産業組合理事長の家で村の主だつた人たちと会ひ、よく仕事の性質を呑み込ませたつもりである。役場と組合から若干の基金を出し、村民何歳以上一人当りいくらといふ割合で極く僅かな積立をすれば、少くとも年一回、移動演劇及び映画の巡回公演が見られる理窟になる。それも、この事業全体から見れば実費にさへ当らぬ程度で、大部分の経費は興行者側の犠牲以外、国庫の補助と公共団体の寄附で賄ふのだから、見物としての村民の負担は殆ど問題にならないくらゐである。これまでは主として産業組合あたりの斡旋提供といふ形をとつてゐたのだけれども、これからは、それだけを当てにせず、村民自身が某劇団を招聘するといふ自主的な立場をもとるわけであつて、これこそ自治体の矜りにかけて、すみやかに実行にうつさなければならない運動なのであると、彼は説く。
田丸はさういふ趣旨を村から村へ、芝居の前に、またあとに説き廻つた。即座に反応をみせる村もあつたが、馬耳東風と聞き流す村もあり、なかには、芝居を観もしないうちから、農村へ都会風の演芸など持ち込まれては迷惑だと、露骨に渋い顔をする村の指導者もゐた。
なかなかの苦戦だと、田丸は思つた。
しかし、この仕事を始めて以来、既に全国を通じて、着々組織を進めてゐる村も相当の数にのぼつてゐた。支部を設けたある県では、全県へ呼びかけて、いくつかの町村を一つのブロツクとし、そのブロツクを移動単位とする整然たる統一組織にまで乗り出したといふ報告があつた。もつとも理想的な形はさうでなければならぬ。
ところで、昨夜から今朝にかけて、田丸は口が酸くなるばかりでなく、頤がしびれるほど、誰彼をつかまへて喋りしやべりしたのであるが、その結果はどうかといふと、あまり大きな期待はもてないとにらんだ。なぜかといへば、ある村の古参訓導の話では、この村の連中は、大体、「金」は「物」と引換へに出す筈と考へてゐて、「滓も残らないやうな」眼の楽しみぐらゐに、どうして財布の紐を解くものか、といふのである。いはれてみればそれも尤もな話であるが、一方、困つたことには違ひない。それなら子供を学校へなぜやるか? 「お昼の給食があるからですよ」と、その訓導は平然と笑つてゐるので、彼は、さすがに味気なく、あとの言葉を交へなかつた。訓導の皮肉は極端だとしても、教育者をしてさうまでのことを言はせる何かが、この村にはあるのかも知れぬ。
走り出すトラツクの上で、田丸浩平は帽子を脱いで振つた。
五月の陽は、こゝではもう真夏のそれのやうに暑かつた。
次の村へはざつと五里といふことだが、相当の荷物もあらうし、峠を越すのに徒歩では大変だと、実はその村の好意でトラツクを迎へに出してくれたのである。思ひもかけぬこの取計らひは、隊員をまつたく有頂天にした。
沿道の若葉に胸ををどらせながら、連日連夜の疲労を忘れて、一同は移動演劇隊行進曲を合唱しはじめた。
長老格の市村なにがしは、義太夫で鍛へた声を張り上げて、得意然とテノールのさわりをやるのだから、誰でも可笑しくないわけはない。第一に肩上げのとれたばかりの女優、連田萌子といふのが、田丸の後ろへしがみついて、からだ全体でいやいやをするのを、彼は、ぢつと振り返つて、小さいものにいふやうにいつた──
「人のことを笑ふもんぢやない。そら、そら、気をつけないと、車から放り出されるぞ」
まことに長閑な旅である。しかし、田丸浩平にとつて、今度の旅は聊か長すぎるやうに思はれた。といふのは、その間、ちらほらと家のことが頭に浮び、田舎から出て来た老人の、勝手が違つて手も足も出ない主婦振りが思ひやられ、二人の娘たちのことは、考へまいとすればするほど、わけもなく不安な予感となつて募るばかりだからである。
本来なら、私事を顧る暇もなくまた、何事によらず、後ろ髪を引かれるやうな状態にあつてはならぬ自分でありながら、事実をいへばこの通りであるから、彼も思案に余るのである。
公の務め、父親としての責任、これは天秤にかけてみるまでもなく、両立両善を絶対の目標としなければならぬと彼は信じてゐる。一方を私事と片づけても、片づけなくつても、それはどつちでもよい。彼は娘たちをこの上もなく愛し、その健やかな成長を楽しみ、避け得られる悲しみから彼女らを護り、そして、雄々しく、また心優しき母としての行末を見届けたいのである。この希ひは、切々として、日夜、彼の胸に、疼くやうな痛みをさへ感じさせる。
夫をして家を忘れさせてくれる妻といふものの存在が、彼に初めてしかとわかつた。
やがて、車は峠道にさしかかる。そして揺れて揺れて揺れまくる。
凹道になつてゐて、まづ大した危険はないと思つてゐるうちに、突然、山腹の断崖へさしかかる。みんなが、わツと声を立てる。
水平線がくつきりと眼の前に横はつてゐる。藍色に光る波のうねりが、もう潮の臭ひを鼻にぶつけて来る。
小さな港に漁船が集つてゐる。檣はゆらゆらとしてゐるが、まるで眠つてゐるやうだ。朝のひと仕事はとつくに済んだのである。
漁師半分、百姓半分と、運転手の説明でわかつた。この村の特徴は、段々畑に三方を囲まれた遠浅の入江を前に、ちんまりと塊つた一部落を半円の中心として、他の部落は悉く山の反対側に散在してゐることであつた。
出迎へのものに早速、芝居は何処でやるのかと訊ねると、それははつきりは知らぬが、多分、海岸の砂浜だらうとのこと、
「なにが来ても、あしこでやりますのや」
といふ挨拶であつた。かねて覚悟はしてゐるし、さういふ経験もないではないが、砂浜とだけではいかにも心細い、足の踏ん張りの利かぬ舞台が想像された。
村役場は廃屋にもひとしい、今にも潰れさうな建物であつた。
一行十何名がともかく腰をおろすために用意されたらしい空室には、むろん数だけの椅子はなく、それにも拘はらず、世話役の青年たちは一生懸命であれこれと心配してくれる。水が飲みたいといへば遠くの井戸から手桶いつぱい「いくらか塩気のない」水を汲んで来るし、男優の一人がズボンに鈎裂きをこしらへたといふので糸と針とをどこかへ探しに行くといふあんばいであつた。
昼の弁当の用意がないと、お互にわかつたのは、もうどうにもならぬ時間であつた。一方は昼前に着くのだから先方で準備をしておいてくれるだらうときめこんでゐたし、一方は夕食だけ出せばいいつもりでゐたといふのである。世話役は呆然としてしまつて誰がなんといつても返事をしない。青年の一人が、めいめいの家から握り飯でもこしらへて持つて来ようといふのを、田丸浩平は横からぢつとこの様子を見ながら隊長の尾沢に耳打ちをした。
「断じてさういふことはやめてもらひたまへ。一食ぬきにしよう、大丈夫だよ」
隊員たちはその申渡しを欣然として迎へた。あまり力はないが、笑ひ声も聞えた。
午後六時開演には、まだ十分間はあるけれども、例によつて全員は舞台装置の手伝ひである。現場を看て来た演出係が小屋掛の模様を報告する。
「舞台は、小高い砂丘の上へ国民学校の教壇を据ゑるんださうだ。ところで、学校はあの山の向ふ側だつていふから、誰が運ぶか知らんが、こいつはひと骨だよ」
「とにかく電線と出入の幕だけ張つとかう」
一同は隊伍を組んで海岸の道を進んだ。
仕来りといふものは面白いもので、なるほど場所は誂へ向きの露天劇場である。
一帯に浅い盆地になつてゐる砂浜の、正面は松の木立を背にしてやや平たく自然の台地をなし、見物席はなだらかな斜面の半円を形づくつて波打際に近い丘陵の頂に続いてゐた。
海の風が容赦なく砂を捲きあげた。
まばらな青草のなかに立枯れの薄の穂が二三本やけに頭を振り、鳶の群が舞ひ降りようとして、あはてて方向を転じた。
舞台用の教壇が来るまで、しかし、誰も何もすることがない。ボウフウの採集をするものがある。美しい貝殻を探すものがある。若い男女は潮水に足をひたして騒いだ。と、やがて、誰かの声で、
「やあ、来た、来た……」
一斉に視線がその方角へ向けられる。
中腹まで畑になつてゐる山の陰に、一筋の道がついてゐる、その道を登りきつたあたりであつた。ちやうどビスケツトに蟻がたかつたやうに、大きな箱形のものを真ん中にして、その前後左右をうろうろと一団の人影が動いてゐるのが見える。
そして、それは悉くモンペ姿の女であつた。
一里以上もあるといふ山道を女たちばかりの手で運ばれて来る国民学校の物々しい教壇を、移動演劇金剛座の隊員一同は、胸せまる思ひで迎へたことはいふまでもない。
しかも、それらの女はすべて花恥かしい乙女たちであつたから、田丸浩平も「うむ」とひと声唸つたきり犒ひの言葉を忘れるほどであつた。
どれもこれも、真つ赤な顔に露のやうな汗を溜めてはゐるが、誰一人肩で呼吸をするものさへなく、教壇をそこへおろすと、もうさつさと引揚げにかかるのを、隊長の尾沢が追ひ縋るやうにして、今夜の芝居は観て行かないのかと、そのうちの一人におそるおそる訊ねるといふ始末であつた。
すると、その返事は、
「着物を着かへてからまた出直して来るのや」であつた。
なるほど幕が開く前には彼女らはもう、一張羅と着替へて、ちやんと舞台の真正面に陣取つてゐるのである。
この日の舞台は、この見物の故に一層張切つてゐるやうに見えた。
貯金奨励の宣伝劇を最初に据ゑるのはどうかと危ぶまれたが、それも素直にうけいれられ、第二の南方第一線における朗らかな挿話を本筋に、銃後の頼もしい決意を結びとした悲壮喜劇とも名づくべき演し物は笑ひと涙の挟み撃ちで一見、申分のない効果を挙げた。
田丸浩平は、どうも、かういふ芝居を観てゐて、はつきり善し悪しはわからないのであるが、いつたい芝居の値打は、専門家がきめるよりも見物が多勢できめる方がたしかなやうに思ふのである。但し普通の見物は、ただ面白いか面白くないかを、いろんな反応で示すことは示すが、その面白さをどういふ風に面白いか、なぜ面白いかといふ風に見ていくことはなかなかできないものである。下らぬものを非常に面白がる人間がゐるとしたら、さういふものを黙つて与へるべきであらうか? そこでその面白さの種類なり性質なりを誰かが判定して、かういふ面白がり方はあまり感心しないとか、かういふ面白がり方ならまあよろしいとか、そのへんの区別をちやんとつけ、どんな見物でもいい面白がり方をするやうな芝居を撰んで見せなければならぬ、と、そこまでのことは彼も考へないわけではない。
ひと口に程度の低い見物とか、芝居のわからない観衆とかいふけれども、人間はさうさう悧巧に出来てゐるものではなく、特に芝居のやうなものになると、案外、学歴や社会的地位に物をいはせる紳士、淑女などが一番低脳の部類に属し、単純な心で人生の明暗に触れ、人間の感情を活き活きと身につけた名もない民衆といはれる老若男女こそ、却つて鋭い目利きではあるまいか。田丸は、さう信じたいのである。それが信じられなければ、こんな仕事はおよそ意味がないとさへ思はれる。
彼は、開演中、油断なく見物の反響に心をくばつた。
ところが、今度の演し物は二つとも例外なしに見物は面白がつてゐる。その点は、昨夜もおなじことである。しかし、彼にはなんとなく安心のできないところがあつた。なぜなら、笑ふことはげらげら笑ふが、その笑ひ方を注意してみてゐると、いくぶん照れ臭さうに笑ひ、ことに、明らかに相手を馬鹿にし自分も馬鹿になつて笑つてゐるところがみえるし、また同じ泣くには泣いても決して気持よくは泣いてゐない。後味のわるい泣き方だといふことがいろんな点で察せられる。それは見物は笑ふけれども自分にはくすぐつたいだけだつたり、見物が泣いても自分はどうにも腹が立つてしようがないといふ場面が、ところどころあることでも、たしかに証明できるのである。見物は笑ひさへすればいゝ、泣きさへすればいゝ、といふやうなものではなく、こんな笑ひ方もできるのか、こんな泣き方もできるのかといふやうな、濁りのない、気分のせいせいするやうな、笑つたこと、泣いたことが自分ながらうれしく、えらくなつたやうな心持になる、さういふ笑ひと涙を、無意識にではあるが、本心は芝居に求めてゐるに違ひない。そんなものがあることをまだ知らずにゐるかもわからない。しかも、さういふものがあればきつと「これだ」と気がつき、芝居の有難さ、芝居の本当の面白さを会得するに違ひないのである。田丸はかういふ独断に近い意見をまだ誰にも話してみたことはないが、今夜の見物のまことに神妙な、なにか見事なものを待ち設けるやうな見物のしかたを非常な感動を以て打ち眺め、これに対して与へる側の立場としては、舞台が進むにつれて、これではいかん、これではいかんと繰返し繰返し心の中で叫びつづけた。そして自分の目指してゐる仕事がいかに程遠い道であるかを痛切に感じた。
が、それはともかく、多くの見物のなかでひときわ目立つてお愛想のいゝ、役者にいはせれば手応への馬鹿にある一と塊りはさつき教壇を担いで来た娘たちである。この種の見物はもう普通の芝居の見物ではない。初めから「友あり、遠方より来る」といふ式に心をときめかせてこの一行を迎へてゐるわけである。芝居はその一行の挨拶であり、土産である。歓迎の熱意は舞台の上へ、絶え間なく花びらのやうに舞ひあがるのも道理ではないか。
田丸は、なにはともあれ、舞台の上と下とを通じるこの微笑ましい風景を、今夜ぐらゐ楽しく見入つたことはない。
これは普通の芝居の見物ではない。だが、これを例外として看過してはならぬと彼は気がついた。すべては、まづこの信頼と好感の上に築き上げられなければならないからである。
最後の幕が下りると、それらの娘たちはめいめいの包みから、ふだん着とモンペを取り出し手早くそれと着替へて、降りそそぐ月光を浴びながら、今まで舞台だつた教壇を、もと来た道へしづかに運び去つた。
その夜、一行の宿舎は部落のはづれにあるお寺の本堂であつた。住職は五十がらみの禅僧らしくがつしりとした、そのくせ物の言ひつぷりはひどく砕けたところのある人物で、話相手に饑ゑてゐるといふ風がみえた。
田丸はこの坊さんから詳しく村の様子を聞くことができ、宗教家は宗教家らしい見方をするものだと感心はしたが、さて、移動演劇の話になると、和尚はわざと聞えないふりをしたり、冗談をいつてはぐらかしたりするのである。彼はその真意がどこにあるのかわからないながら、もう一と押しのつもりで、宗教が昔はあれほど芝居を利用したのに近頃ではさつぱりさういふことはみられなくなつた理由について、一体どう思ふかと訊ねてみた。
「それやあんた、わかりきつたことや、坊主もけふ日は役者となんぼも違ひあらへん。人前いふたら、いつもかも芝居しとるやないか」
田丸は苦笑した。
しかし、彼はこの放言のなかにどんな誠意が含まれてゐるかを知りたかつた。
「さういはれるあなたご自身は?」
「むろん、その例に漏れずや」
「ご謙遜ですか?」
「阿呆いひなはれ、ただわしはこれで、いくぶん芝居が上手な方やと思ふとる」
話がまたわき道へ外れる。
「信仰も信仰やが、第一この村は寺いふものが成り立たん。和尚もなかなか苦労やて」
「成り立たんと言はれるのは?」
「読んで字の如し」
「それなら、お寺なんかどうなつてもいいぢやありませんか! 仏のお弟子がさういふことを言はれるのはちよつと……」
と、田丸もこれ以上相手になる気はしなくなつた。
実のところ、彼は、これまで僧侶といふものをあまり知らなさすぎた。ことに辺鄙な村などで、まつたく想像もしなかつたやうな立派な坊さんに出会つた時など、彼は、やはり宗教の力といふものを信じないわけにいかないのである。これだけの人物がこんなところに隠れてゐる、といふ印象だけでこの世に光が射したやうな一種敬虔な感謝の気持ちが湧いて来る。宗教家には宗教家の使命があるであらう。しかし、彼は宗教家がもつともつと村の生活のなかにはいつて行つて、村民と共に村の運命を担ふつもりになつて欲しいと思ふ。肉体の病は村医がゐれば村医の受持ちである。村医のゐないところでも保健婦が何かと役に立つてゐる。ところで、精神の患ひは、いつたい誰の受持ちなのだらう? 宗教家は何をしてゐるのか!
若し移動演劇に農民の士気を鼓舞する何ものかがあるとすれば、村の宗教家は、教育家と共によろしく率先して移動演劇の片棒をかつぐ雅量と勇気とを示すべし、といふのが、我田引水ながら、田丸の近頃の主張である。
彼の主張が、いかに演劇と宗教とを結びつけるにあるとはいへ、この和尚さん相手ではどうにも歯が立たず、諦めて蒲団にもぐり込んだが、さて藪蚊は刺す、鼠は出る、しまひに和尚さんの鼾まで聞えて来て、眼が冴えるばかりであつた。
長く家をあける時は、旅先へどんな便りでも寄越すやうに、わざわざ日程表を娘たちの手に渡して来てゐる。自分も絵葉書など見つかるたびに、彼女たちのよろこびさうな消息を簡単に書いて出す。が、これまで一度として彼女たちからの手紙といふものを受取つたことがない。こんなことを人にいふと、人は嗤ふかも知れない。娘なんてみんなそんなものだ、と、鼻であしらはれさうな気がする。しかし、さうでない娘もあつていいではないか……。
破れた雨戸から月夜の明りがいつまでも射し込んでゐると思ふと、もう爽やかな朝の空気が肩を撫でる。慌てて夜着を引きあげて一と息うとうととした頃、枕もとで急に木魚の音がしだした。
すると、この木魚の音がふと彼に妙なことを想ひ出させた。それはつひこの間のことで、別に大して気にとめずいい加減に聞き流したのだが、実は最近二、三の方面から再婚の話を持ち込まれた、その一つなのである。そしてそれがあるお寺の娘で三十五とか六とかになるが初婚だといふ、その話である。
この連想は、淡い夢の名残りのやうに、すぐ消えるには消えたが、一瞬彼をどぎまぎさせたことは事実である。
彼は手桶をぶら下げて裏の井戸端へ出た。女優組がもうそこで口をすすいでゐた。
「お早うございます」
と、明るい声の一人がまづ先に挨拶した。
「お早う。よく眠られましたか?」
「えゝ、ぐつすり……」
「あんなに蚊がゐてもねえ」
「あら、そんなでもございませんでしたわ、なんて……さういへば、方々、痒いわ」
頸筋や両腕を、急にぼりぼり掻きはじめる女の茶目つぷりを、田丸浩平はにやにや笑ひながら見てゐた。
「君たちはかうして旅に出てゐて、家で心配する人はゐませんか?」
質問の意味をどう取つたものかと、みんなで顔を見合はす。
「だからさ、別に旦那さんとか恋人とかに限らずさ、お母さんにしても、お父さんにしても……」
「初めのうちは、心配らしかつたわね」
と、一人が一人を顧みていふ。
「さう。だんだん信用がついて来たからね」
「君たちの? それとも劇団の?」
「さうおつしやられると困るけど、まあ、あたしたちのだわ」
そこで、また、思ひ思ひの派手な笑ひ方で、女たちは笑つた。
木魚はまだ鳴つてゐた。
移動演劇金剛座の後を追ひかけ追ひかけ、やつと旅の日程もあと三日といふ三重県○○村の公演の夜、田丸浩平に宛てた一通の部厚な封書が役場の吏員から彼の手に届けられた。珍らしく留守居の義母からの速達便で、日附を見るともう十日も前に出したものである。
少し気がかりになつて急いで封を切ると、例の達者な筆書きで、多少廻りくどいところを省いて要点をつまんでみると、──公務を帯びた旅行中にこんな話を持ちかけるのは心苦しいけれども、帰りを待つてといふほど落ちついてゐられないので、旅先でもなんとか処置が考へられたら考へてもらひたい。といふのは、金沢にゐる長男の嫁が流産のあとが悪くて寝ついてしまつたので、小さな孫の世話をどうしても自分がしてやらねばならず、病人もやはり自分でなければ満足な看護はできさうもない。こちらはこちらで、不憫な孫娘の顔を毎日見てゐると、このままあとを他人に委せて行く気はどうしてもせぬけれども、せめて、お前様と入れ代りにちよつとでも金沢へやつてもらへまいか。帰京の日取がきちんと決まつてゐるらしいから、それはどうにもならぬにしても、帰つたその日にでも発てるやうに予め心づもりをしてゐてほしい。それについては女手がやはり必要であらうと思ひ、親戚の誰れかれをひとりびとり頭へ浮べてみたにはみたが、どうもこれといふ都合のいゝ人物がゐない。からださへあいてゐれば誰だつて自分などより表面の役には立つかも知れぬが、家のため、娘たちのためといふことになると、うつかりした真似はできぬ。殊に、こゝの娘たちと来ては、なかなかどうして、勘はよし、理窟はうまし、相手を甘くみたらもうおしまひ、口先でおだてたり、つまらぬ威し文句を並べるぐらゐのことでは、却つてよくない結果を招くのが関の山であつてみれば、なまじ遠い親戚などよりは、多少費用は嵩んでも、家政婦のやうな人を思ひきつて置いた方がよくはないかと思ふ。ただ、こんな機会にいひ出すのも変なものだが、ほんたうは家のためにも、子供たちのためにも主婦であり、母である人がどうしても必要なやうに思ふ。亡くなつた奈保子に代つてこの自分からお願ひしたいのは、一日も早く、適当なひとをみつけて、後をやつて行つてもらふこと、ただそれきりだ。誰に遠慮もいらぬと、はつきり申しておきたい。子供たちも今日までは元気で、相変らず二人とも好き勝手なことをしてゐるが、別に心配するやうなことは何もない。昨日は矢代の小父様に、隣組の子供たちが写真を撮つていただいたさうで、これは戦地へ送るものらしい──
と、義母の手紙は、まあざつとこんな意味のものであつた。
田丸浩平は読み了ると、われ知らず、ホツと溜息をついた。が、事態がだんだんはつきり呑み込めて来るにつれ、なんとしてもこれはうつちやつて置くわけにいかぬと、彼は真剣に考へ込んだ。
予定どほりの日程をすませていよいよ今日は引揚げといふ、東京直行の夜汽車の中である。
田丸浩平はなに気なく隣りの男が読んでゐる新聞の一面に視線をおとした。
大本営発表として、見出しの大きな活字がまづ彼の注意をひいた。そしてそれは「アツツ島守備隊全員玉砕」の悲壮な報道であつた。
「たいへん恐縮ですが、あとでちよつと拝見させて下さい」
相手は即座に新聞を渡してくれた。
彼は、貪り読んだ。
一、「アツツ」島守備部隊は五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中の処、五月二十九日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信全く杜絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものはこれに先だち悉く自決せり。我守備隊は二千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特種優秀装備の約二万にして五月二十八日までに与へたる損害六千を下らず。
二、「キスカ」島はこれを確保しあり。
彼はこゝまで読むには読んだが、これらの文字の一つ一つに生々しい、しかも無限にひろがつて行く幻影の、慌しく眼前に去来するのを感じ、簡潔な言葉が伝へる事実の輪廓を超えて、明かに敵の表情を読み、血の飛沫を浴び、わが将兵の最後の呼吸を聞く思ひがした。
彼は丁寧に新聞を折つて返した。返す方も受取る方も無言である。しかし見知らぬ旅人の間にも互に通じ合ふものがあつた。
十日前に、福井の宿で、山本司令長官戦死の報をラジオで聴いたばかりである。それといひこれといひ、大局からみてどうといふ判断はつきかねるけれども、少くとも、国民全体の耳朶を激しく打つた警鐘であるに違ひない。
悲憤の涙を流すのはよい。しかし、それよりも、何よりも、肝に銘ずべきことは、敵の鋒先が胸近く擬せられてゐるといふことである。まづ、感情の浪費を戒めなければならぬ──田丸浩平は、ひとり心の中で、自分にいひきかせた。
決意とは口で言ふことではない。身を以て行ふことである──と、彼は更に自分を鞭うつた。
彼はぷいと席を起つて、一行四五人が塊つてゐる席の方へ近づいて行つた。
「どうだらう、君たちの知り合ひで、誰か僕の家へ手伝ひに来てくれさうな女のひとはないかねえ。主に子供の面倒をみて貰ひたいんだ。一度お嫁に行つたつていふひとなら、なほいゝなあ」
「お父さま、あのね、こないだ学校の先生がね、結城さんのことを、あの方、今度いらしつたお母さまつて、お聴きになるの。困つちやつたわ」
下の娘の世津子が、汗になつた制服の上着の背を、陽に干すやうな恰好で、彼にいつた。
夏休みの一日が、妻の命日にあたるので、田丸浩平は娘たちを連れて、郷里の飯田へ墓参に来たのである。
墓地のことでは彼も思案をしたが、東京なら多摩へと一時は決めながら、いよいよとなつて、やはり、両親の側へ葬ることにした。
墓参を終つて、昼食を食ひに、町はづれの眺望のいい料理店の座敷へ上つた。その座敷の縁から、天竜川に沿つて南北へ開ける伊那の谷一帯を見おろしながらである。
「うむ、母の会へ出てもらつたもんだから……」
と、彼は、ひとり言のやうにつぶやいた。
「それに、結城さんたら、ちよつとお手伝ひのひとみたいぢやないからよ」
姉の加寿子が、何か意味ありげに口を挟んだ。
「それやさうさ。ただの手伝ひぢやないつてことは、お前たちも知つてるだらう? 女学校を出て、ちやんとしたところへお嫁に行つて、未亡人になつたひとだ。まあ家政婦といふ名儀だけれども、主婦代理といつた方がいいくらゐなんだ。お父さんは一切のことを委せてある。お前たちの世話だつて、普通の手伝ひのひとには、ああはできないよ。勉強のことも見てくれるし、薬の心配もするし……。それに行儀だつてお前たちが見習つてもいいくらゐだしさ……」
すこし褒めすぎるかなと思ふほど、彼は結城ひろ子のことを褒めあげた。
結城ひろ子は、移動演劇金剛座の座員の一人、芸名園一枝の姉で当年三十三の、いはば何処にでもゐる平凡な女性である。強ひて特徴といへば、子供の頃踊りを習つたことがあるといふ、その下地のせいか、からだのこなしに癖ほどの技巧がみえ、つくりはどちらかといふと、下町好みの渋さが勝つてゐる。小柄で、色の浅黒い、いやみのない顔だちのところへ、万事控へ目に振舞ひながら、することだけはぴしぴしやるといふ風が、わりと彼の気に入つてゐた。
と、果して、娘たちは、彼の言葉に、いちいち逆らふやうな眼くばせで、まづ妹の世津子が、
「でも、学校のこと聴いたつて、なんにも出来ないつていふのよ」
「それや、先生みたいなわけにいかないさ。若し、さういふ必要があるなら、家庭教師を頼まなくつちや……」
「それに……」
と、今度は姉の加寿子が妹に応援した。
「お母さまの箪笥を勝手に開けたりなんかして、あたし、ああいふの、いやだわ」
「それやきつと土用干しかなんかしようと思つたんだらう。結城さんがしなけれや、誰もするもんがないぢやないか」
こんな理窟で娘たちが納得するとは思へなかつたけれど、彼はこの小さな子供たちの眼が意外な光り方をするのを知つて、ちよつと驚き、その驚きを顔に出すまいとして、ついさういふ出方をした。
二人の娘たちは、むろんまだ納まらぬといふ風で、そこへ運ばれた膳に向つた。
加寿子は箸を取りあげると、それでも、近頃珍らしい種々の料理を、ひと色ひと色、味はつては父の方をみた。
「おいしいか?」
それには黙つてうなづいてみせ、思ひ出したやうに、少し口籠りながら、またこんなことをいひ出した──
「結城さんてば、毎日ご飯の支度をするたんびに、お父さまこれお好き、お嫌ひ? つて、あたしたちに訊くの」
田丸は、やりきれんと思つた。
十六の少女が、いつたい何を考へてゐるのか。そして自分のいつてることがどんなことか、ちやんとわかつてゐるのか。
義母を金沢へ帰したその翌日から、こつちのいつたとほり、風呂敷包み一つを提げて飛んで来てくれた、この縁もゆかりもない女が、二月たつかたたぬかの間に、もう、わが家の空気をかき乱す存在になつてしまつた。
それについては、彼になんの責任もないことだけは、誰の前でもはつきりいへるのである。一家のあるじとしての彼の起居は、むしろ単調なほどにきまりきつたものであり、自然、結城ひろ子とは娘たちのゐる時以外に、親しい口を利くこともないくらゐであつた。身のまはりの世話など、こつちからは何ひとつ頼んだこともなく、普通、女の心遣ひとみえるやうな、細々とした用事にも、いちいち礼をいふほどの距てもつけてゐるつもりであつた。
が、さうはいふものの、男一人女一人の接触には、互に微妙な神経の使ひ方をしなければならぬ場合も生じて来る。彼が服を脱いだ裸の背へ、浴衣を着せかけるといふやうな科を、相手は平然とやるにしても彼の方では、待てよ、と、その瞬間うしろを振り返らずにはゐられないのである。
結城ひろ子にしてみても、おそらく程度といふものを弁へてゐるであらう。たしかに、それがあればこそ、彼の寝間へは、蒲団の上げおろしと掃除以外、顔をみせたこともなく、彼が寝たところへ灰皿を洗つて持つて来るにも、それを唐紙の陰から声だけを掛けて、姿はみせず、そつとそこへ置いて行く始末である。
思へば、さういふところに問題があるのである。
僅か三日かそこいらの間であつたけれども、かうして明け暮れ娘たちを相手にのんびりした気分になつたことが、彼をまた動きのとれぬ羽目に追ひ込む結果となつた。
どんな小さなこと、ほかからみれば取るに足りないほどのこと柄にも、人間は時と場合によつては、全身を打ち込むものである。
全身を打ち込むといふことは、決して生やさしいことではないが、また同時に自分では気もつかぬうちに、事実はさうなつてゐるやうな場合もあり得る。一方は強い意志の力によつて始めてできるのに反して、一方は全くといつていいくらゐ、意志の力を働かせてゐない。一方は抵抗を押しのけ、一方は流れに身をまかせてゐるのである。
さて、田丸浩平は、私事に煩はされないで全身を仕事に打ち込めるやうに、一家の問題は手軽に片づけて大切な公の職務に没頭しようと、あせればあせるほど何時の間にか、およそ、いはゆる「決戦の段階」とは関係のない、愚にもつかぬ家庭の瑣事がしばしば彼の頭を支配し、どうかすると、そつちの方へ「半身」ぐらゐは打ち込みかねない由々しい傾向が見えだしたので、彼はある日、娘たちをわざわざ自分の寝間へ呼びつけ、すこし改まつた調子でかういふ質問をしてみた。
「今のお前たちには、まだよくはわからないだらうけれど、主婦のゐない家といふものは、心棒のない車みたいなもの、或は舵のない舟みたいなもので、家のものがみんな安心して暮して行けない。そればかりぢやない。この戦争では一軒一軒の家が戦争に勝つための用意をちやんとしていかなけれやならん。お母さんがゐなくなつてから、うちだけは、どうしてもほかのうちのやうにうまくいかないところがある。それはなるほど当り前で、誰だつてお母さんのやうに自分で考へて、自分でいいやうにするつていふわけにいかん。お父さんにいちいち相談しないでも、お父さんの思つてるとほりになんでもするつていふ人間はこれはお母さん以外にないのだ。そこで、お前たちに訊ねたいのだが、もう一度死んだお母さんに生きて来てもらふなんてことはどうせできないんだから、お前たちにとつても優しい小母さんで、お父さんもこの女なら家のこと、お前たちのことを委されると思ふひとを、ひとつお母さんの代りに探さうぢやないか。それが一番いいと思ふが、どうだ?」
二人の娘は口を固く結んで、眼はそれぞれ一点を見つめたまま、なかなか返事をしようとしない。
「加寿子はどうだ?」
彼は促した。
「でも、やつぱり、お母さんて呼ぶの?」
「さう呼べるひとがいいぢやないか」
「結城さんぢやないんでせう?」
この逆襲を、彼は待ち構へてゐたやうに、
「さうぢやない。それははつきりいつとく」
「そんなら、どうでもお父さまのいいやうに……あたしはいいわ」
「あたしは、いいわ」
と、いつてしまふと加寿子は激しく瞬きをした。涙がぼろぼろとこぼれた。
それをみて、田丸は「しまつた」と思ふ途端、横から世津子が、いきなり、思ひ余つたやうな声で、
「あたしは、いや」
と、実に、キツパリ、が、少しヒステリカルな調子で叫んだ。
「お前にはまだ訊いてゐないぞ」
と、田丸は喉まで出かかつた言葉を、ぐつと呑み込んで、今度は、その方へ向き直つた。
「どうしていやなんだ?」
努めて、やはらかく言葉をかけた。
「どうしてでも、いや」
「どうしてでもいや……ふむ、ほんとのお母さん以外のひとを、お母さんと呼ぶのはいやなんだね」
「お母さんみたいにされるのがいや」
この方は、十三でも、時々十三のやうな口の利き方をしないことがある。義母にいはせると「世津子は理窟つぽい」さうだが、おそらく、頭が理論的だといふよりも好きな読物の影響であらうと彼は推察してゐるのである。
彼には返す言葉はなかつた。若し父親の感傷が許されるならば、なんと、死んだ母親に聞かせたい言葉ではないか!
しかし、このことがあつて、娘たちは結城ひろ子を、いくぶん警戒を緩めた眼で見るやうになつたらしい。
その証拠は、結城ひろ子がある晩、彼の書斎へ茶を持つて来た序に、めつたにないことだが、そこへ坐り込んで、こんなことを喋つた。
「申上げよう申上げようと思つて、ついそのままになつてをりますんですけれど、あたくし、なんにもお役に立ちませんし、それに妹からあんなにいはれましたもんですから、取敢へずどなたかいらつしやるまでと思つて、かうして伺つたわけなんでございますよ。ですから……なんて申しませうか、自分でも中途半端な気持ちで精いつぱいのことができませんし、それではまた先へ行つて、こちらさまのお為めにならないことはわかつてをりますので、あんまり長くなりませんうちに、そろそろお暇をいただかうかと存じますの。最近は急にご様子がお変りになりましたけれど、それでも、やつぱりもうあれだけのお年になりますと、余計な気兼ねを遊ばしたり、さもなければ、あたくしの方で差出たことをしてしまつたり、なかなか、むづかしうございますわ。実を申しますと、只今のやうなお取扱ひでなく、女中なら女中としてお使ひ下さいますなら、また別でございますけれど……」
「わかりました。考へておきませう。だが、子供たちの様子が変つて来たつていふのは、あなたの方からいへば、楽なんでせう?」
「それや、ずつと楽になりましたわ、先生からなにかおつしやつて下さいましたの……」
「いや、いや別に……そんなことはなんにもいひやしない。僕だつて細かいことにさう気がついてゐないから……」
「それやさうでございませうとも……。いいえ、なんですか、急に打ち融けたやうなところをおみせになりますんですよ。小さいお嬢さまなんか、わざとでせうけれど、お甘えになりますの……」
といつて、結城ひろ子は屈託なく笑ひこけた。
聞けば聞くほど少女の心理の不思議さに彼もほとほと呆れはてるばかりである。
まあ、かういふあんばいなら、しばらく放つておいても大丈夫だと彼はひそかに高を括つてゐた。
ところが、これまた娘たちの報告によると、今度は隣組の細君のうちの誰かが、世津子をつかまへて、根掘り葉掘り結城ひろ子のことを訊ね、
「いまにあなた方のお母さまになる方でせう?」
と、独りぎめに決めてゐるばかりでなく、ほかの細君連に向つて、
「あの方とはあたしたちもそのつもりでおつきあひをしなければ」
などと公然、しかも子供のゐる前でいつてのけたといふのである。
それをいつた細君が何処の細君だつたか、名前をうつかり聞き漏らしたので、もう一度聞き返さうとしたが、娘たちの顔をみてゐるとそれも馬鹿々々しくなつて、よした。
「そんなこといふひとには、いはせておけばいい。お前たちが知らないうちに、さういふひとがこの家の中にはいつて来るといふやうなことは、絶対にない。そんなことを心配するより、来年になると加寿子は四年、世津子は女学校だ。もうそろそろ、二人で家の事を覚えなさい。お父さんは男だけれども、中学へ上るとすぐ、ご飯焚きをさせられたことがある。自分のものは必ず自分で始末しなければ、お祖父さんにひどく叱られたもんだ」
かういひながら、彼は、継母の冷たい顔を侘びしく思ひ出しはしたけれども、彼は、世間の「継母」なるものに対する通念を信ぜず、娘たちが、やはりその通念によつて、正当な理解を防げられてゐる事実を、ただ慨かはしく思ふばかりである。すべての女が、いくぶんかは、すべての子供の母であるといふ真理を、一般社会が、理窟でなく実感で、たしかに認める時代は、そんなに早く来ないものであらうか? 血の濃さを説くのはよい。しかし、生みの母親でなければ、と、その事だけを過大にいひふらす、一種迷信にも似た功利主義を、彼は見逃すわけにいかなかつた。
それから数日たつて、彼は嘗ての仲介である宇治博士を能率協会の研究所に訪ねた。
そして、最近の家庭の事情を手短かに語り、熟考の末、再婚の決心をした旨を告げ、適当な相手はまだ見つからぬが、先生もひとつお心掛けをと、そのへんは、雑談にぼかして引きさがつた。
やつとこの七月で亡妻の一周忌もすんだところへもつて来て、彼に再婚の意志があるといふことが、知れるところへは知れるとみえ、最近急にあちこちから、候補者の紹介、推薦をして来る向きがふえ、田丸浩平はそのために、見たくもない写真をみせられ、会ふのに躊躇するやうな異性との会見を強ひられもした。
この調子の狂つたやうな身辺の賑やかさに、彼は事実、辟易したけれども、今更あとには退けぬといふ状態で、たうとう、最後に、ある女学校の国語教師で、生徒間に素晴しく人気のあるといふ笠間由子を、初対面の印象で、これならと心に決め、しばらく、なんといふことなしに家庭へ出入りしてもらひ、幸ひ娘たちが懐いたなら、正式に話を進めるといふことにした。
笠間由子は、三十八の今日まで独身で通して来た、いはゆる老嬢には違ひないが、その風丰と云ひ、挙止と云ひ、殊に、多少鼻にかかる言葉の調子に至つては「老」の色よりも「嬢」の気が勝ち、世間タイプで云ふ先生型のなかでも、寧ろ一風変つた姐御肌の、少女たちの眼からみれば、ちつとも怖くはないが、どこか頼もしいといふ、あの型の先生であつた。
田丸浩平は、あらかじめ、父親としての立場から、ひと通り相手の参考にもと、娘たち二人の性格について語りはしたものの、笠間由子は、さういふことには一向無頓着らしく、ただ、「どんな女の子でも、女の子でありさへすれば可愛い」の一点張りで、それが、懐くか懐かぬかは、専らこつちの出方にあるといふ信念を、やや自信を交へた口ぶりで述べるだけであつた。田丸浩平は、むろん、この女性の、さういふ自信を高く買つたのである。
娘たちには、最初、どういふ風に紹介したものであらうと、田丸はちよつと頭をひねつた。が、結局、笠間由子の家庭も是非のぞいておきたかつたし、彼は、娘たちに映画を見せると云つて浅草へ連れ出した序に、少し廻り路をして田端へ寄つた。おやつの時間であつた。器用に盛られた手製の菓子、砂糖の利いたしるこ、缶詰のパインナプル、その合間々々に、笠間由子は、トランプの手品をやつてみせ、室内用の環投を持ち出し、その他、娘たちが一つ時も退屈しないやうな用意が整へられ、そして、それが一家を挙げての招待として、手順よく運ばれて行つた。一家と云へば、家族は両親と三人きり、養子を断念してよそへ出すことにした一人娘の笠間由子なのである。父親は、機械の仲買といふ商売を早くやめて、今は、ささやかながら、金利生活をしてゐるといふ話であつた。
加寿子、世津子の娘二人は、この不意打ちの饗応には、さすがに、ただごとでないものを感じたらしく、「お父さまはどうしてこんな家をご存じなの?」と云はぬばかりの眼付を、ちらちらと田丸の方に投げてゐた。
ともかくも、一応これで、笠間由子が時をり田丸家を訪ねて来るきつかけができたやうなものである。極めて自然にといふわけにいかなかつたことは、田丸も重々承知のうへであるが、これで押し切るより外はない。
笠間由子は、それから一週間ほどたつて、田丸の勤先へ電話をかけてよこし、次の日曜日の都合はどうかといふことであつた。田丸は「どうぞ」と返事をした。
娘たちは、笠間由子のことを、もうまるで忘れてでもゐるやうにその後一度も彼との話題にのぼせなかつたが、彼の方で、
「笠間さんね、ほら、こないだ映画の帰りに寄つた家さ、今度の日曜日に遊びに来るさうだ。お友達になるといい」
と、話をそこへ持つて行くと、姉の加寿子は、
「今度の日曜、あたし学校のお友達と勉強のお約束があるの」
と、明らかに、それよりも大事なことがある風を示す。妹の世津子も、その尻馬に乗つて、
「あたし貫ちやんに図画を描いたげなくつちやならないわ」
「図画を? 学校のかい?」
「ええ」
と、平気なものである。
「どつちも一日かかりやしないだらう、折角来るんだからお相手をしてあげなさい」
その日曜日が来た。
娘たちは家を飛び出したまま、なかなか帰つて来ず、昼になつてやつと、もう食卓の用意ができた頃前後して「ああお腹がすいた」といひながら庭伝ひに戻つて来た。
田丸浩平は、娘たちの靴音を聞きつけるとわれながらギゴチないものを感じ、奥の書斎から、
「おい、こつち、こつち……」
と大きな声で呼んだ。
笠間由子は物馴れた笑顔で、二人の少女を迎へ、
「あら、あんなに汗をかいて……でも、お二人とも好い顔色……」
と、ハンケチで妹の顔を拭いてやらうとする。世津子は羞恥みながら、肩を引く。姉は、急に妹の手を執り、
「さ、あつちへ行つて顔拭いて来よう……」
奔馬のやうに廊下を駆出して行つたあとへ、結城ひろ子が、
「お食事のお支度ができましたです。なんにもございませんですが……」
「まあ、とんだお手数をかけてしまつて……」
と笠間由子は、かねて話に聞いてゐた、この「臨時手伝ひ」の女性を、更めてとくと観なほす。
しかし結城ひろ子は、茶の間の一隅へ、盆を膝にのせたまま小さく坐り、ちやんと自分の居場所を心得てゐるものの確さで、この女客が何者であるかを既に見ぬき、鮮やかに、さういふ相手をもてなすべきやうにもてなした。
その日の笠間由子は、それでも、娘たちの心を十分に掴んだやうにみえた。帰りには、田丸の指図を待たず、娘たちは彼女を電車の停留場まで送つて行き、この次ぎの休みには多摩川へ一緒にハイキングをするのだと云つて、田丸を微笑ませた。
その多摩川のハイキングは生憎田丸は来客に妨げられて仲間入りはできなかつたが、その方が却つてよかつたかも知れぬと彼は思つた。なぜなら、娘たちは終日、笠間由子に手を曳かれたといふだけで、ぐつと彼女への信頼感が高まり、殊に、草や鳥の名ならなんでも識つてゐたり、小野小町や若山牧水の歌をすらすらといつて「これ誰の歌?」と訊ねたりすることはこの年頃の少女に文句なく頭をさげさせるに違ひない。
この調子ならと、田丸浩平はやや前途を楽観して、第二段の試みを実行することにした。それは今度の出張旅行中、笠間由子に留守居かたがた泊りに来てもらふといふことである。朝夕起居を共にすることは双方の親しみを一層深めることでもあり、その間に家の様子も十分呑み込んでほしいといふのが田丸の希望であつた。笠間由子は、気軽にそれを承知した。
で、田丸浩平は、出発に先だつて娘たちに申し渡した。
「笠間さんは、お前たちと仲よくなれさへすれば家へ来て、お前たちのお母さんになつてくれるさうだ。ともかくお父さんは明日から旅行に出るが、留守中笠間さんが泊りに来てくれる筈だから、もう家のひとのつもりでなんでも相談するがいい。よその小母さんだと思はないで、お前たちの方から気持よく家のひとにしてあげるこつちや!」
娘たち二人は、ちらと顔を見合せ、そのまま黙つてゐる。
「わかつたかい?」
田丸は自分の気持を引立てるやうに云つた。
娘たちは軽くうなづいた。たしかに彼女たちの眼は歓びに輝いてゐるとはいへない。しかし決してその反対のものを示してもゐないと、田丸は判断した。彼女たちにとつて最も重大なこの宣告が、まづこの程度の衝動で済んだとしたら、それ以上を望むことは少し虫がよすぎると彼は思つた。
朝は早く新宿駅へ出た。
約二週間の予定で長野、新潟方面を廻り、大体今度は移動公演を終つた後の町や村へ出掛けて行つて公演の結果について調査をしたうへ、できれば利用組合を作る準備工作をして来ようといふのである。
一緒に連れて行く筈の若い部員が、もう来てゐはせぬかと、ホームの上をあちこち眼で探してゐると、笠間由子が階段の口に立つてゐて、目立たぬほどにこつちへ笑ひかけてゐた。
「学校へ出がけに、ちよつとお見送りしようと思つて……」
彼はなんにもいへずただ帽子のツバへ手をかけた。
「思つたより成績がいいの、全部で五十八貫と何百匁だつたか、ざつと六十貫よ。ね、相当なもんでせう。でも一人当り、一貫とちよつとにしかならないんだから、心細いつていへば心細いけれど……。あら、お襦袢脱いでおしまひになつたの?」
夫の寝台のそばへ膝をおろすと、初瀬は、息せわしく、さういつて、はだけた夫の襟をかき合せた。
今日は隣組共同菜園の、待ちに待つた甘藷の収穫日で、夕方になつてやつと分配が終つたところである。さて、その分配についてであるが、
「一人当りといふのは不公平ぢやないか。多勢の家族で、それだけ労力を提供してない家もあるだらう。労力の計算は無理かも知れないが、せめて、各戸平均に分配するのが、まだしも合理的だ」
といふ意見もあつたにはあつたが、この前の常会で、組長の田丸が極力それに反対した。理由はただ、多勢ゐれば沢山食べる、それだけだと、彼は簡単に片づけてしまつた。
夫の正身は数日来、風邪気だといつて床に就いてゐるのだが、例によつて、甘藷の収穫の成績や分配率の当不当についてなんら関心をもたず、初瀬の報告にもたいして耳を傾ける風ではなかつた。
「で、ご気分はどう? お熱計つてみませうか?」
と、初瀬は、もう甘藷の話を打切りにして、腰をあげた。
風邪気も風邪気であらうが、それよりも、夫の容態は、ただの風邪ではすまされぬ兆候をみせてゐた。当人はなかなか医師にかからうとせぬのを、初瀬は切りに懇意な医者を呼ぶことを勧めてゐるのである。かうして検温器を振りながらも、彼女は、そのことをまたいひ出さうかどうしようかと迷つてゐる。
──さうだ、お母さんにお願ひして、言つていただかう。
検温器を夫の脇へはさませておいて、急いで離れへ行き、姑にその訳を話した。
案の条、姑の一言は効き目があつた。
医者が来た。
病名ははつきりいはずに、当分絶対安静を命じた。
玄関まで送つて出た初瀬の耳へは、しかも、重大な宣告が下された。曰く、病気は多分心臓肥大で、何時急変があるかも知れぬ、といふのである。
青天の霹靂とは正にこのことである。
初瀬は、頭がぼうつとして、壁に手を支へなければ、それへ倒れさうな気がした。
すぐに病室へ戻ることはどうしてもできなかつた。自分の顔色で病人がすべてを読んでしまつたら、もうそれまでだと思つた。
しかし、一方、診察を受けたあとの、病人の様子ものぞいてみたかつた。ほつとしてゐるのではあるまいか。若し、夫が「それみろ、なんでもありやしない」と、いひでもしたら……。
果してその晩から、病人は少しづつ苦痛を訴へだした。間をおいて呼吸困難の発作が起つた。
それから一週間、不眠不休の看護を続けながら夫の血色の日に日に失せるのをみ、初瀬はいくども自分が代りにこの苦しみを苦しみ、そしてこの命を差出せるものならと思つた。
また蒸し暑い晩が時々あつた。さういふ晩は、彼女は特に夫のそばを離れなかつた。夫は絶えず氷のかけらを口へ入れてくれといつた。その声はかすれて聞きとりにくかつたけれども、気のせいか、それほど弱々しくはなく、むしろ底知れぬ力を感じさせるものであつた。そのうへ、どんなに呼吸がせはしいやうな時でも、自分で苦しいとは絶対に口に出してはいはない。顔をしかめることさへなかなかしなかつた。「お苦しい?」と訊ねても、ただ首を振るだけである。
平生はあれほど駄々ツ子にみえた夫の、病気で寝ついてからのこの変りやうを、初瀬は決して見逃さなかつた。何に向つての努力であらうか、それははつきりわからぬながら、ともかく人並外れた努力が夫のこの頃の朝夕であることだけは確かであつた。不安は募るばかりである。それは絶望の連続といつてもよい。しかし、夫のこの何ひとつ取乱さぬ態度は、初瀬の唯一の支へであつた。
「もう一つ」
と、夫は口を開けた。
「あら、みんな溶けてしまつてこんなに小つちやいの……」
さういひながら初瀬は、匙で氷の破片をすくひ、夫の舌の上にのせる。
「やつと夜が明けたね。もういいよ、あふがなくつて……」
初瀬が団扇を動かす手を止めるのを待つて、彼は更に言葉を続けた。
「随分疲れたらう」
「あなたこそ……もつとよくお眠みにならなくつちや……」
「うん……」
と、しばらく黙つて、ひとつ大きく息をついた。が、あらためて、
「ねえ初瀬、お前はもう覚悟をきめてるだらう、どんなことがあつても、しつかりしてゐられるね。あと、せいぜい二日だよ、二日……」
初瀬は、聞くともなく夫の言葉を聴いてゐた。それを制したいと思ふのだけれども、どういふわけか口が利けない。眼さへものをいはなくなつてゐる。
「そこで、今のうちにお前にいつておくが──細々したことは、その机の抽斗を開けると、封筒に入れた書きものがあるから、それを見ればわかる──それより、かうして直接お前に頼んでおきたいことがあるから、ちやんと聴いてくれよ。その前に、氷をもう一つ……」
氷は悉く水になつてゐた。
初瀬がコツプを持つて起ちあがらうとすると、その水をまづ飲ませろと、病人は云つた。
氷が来るまで、矢代正身は、妻の意外に落ちついた態度について、いろいろのことを考へてゐた。
初瀬は初瀬で、夫のこのお喋りが、いはゆる遺言といふものだと、頭のなかでははつきり意識しながら、それを云ひ出す調子の、あまりに突然で、無造作なことが、どうしても実感として胸にぴんと来ないのである。
やがて新しい氷の一とかけを含んだまま、夫の正身は、もう、さつきの話の続きをしはじめた。
「第一に頼みたいことは、あの西側の戸棚の、一番隅に重ねてあるノート全部と、レンズの入れてある硝子戸棚のなかで、番号を書いた紙を貼つてある分だけ、ノートの上にのせてある手紙と一緒に、その手紙の宛名の人物に届けること……いいかい。直接、お前が手渡しをするんだよ。勤め先は、あそこに書いてあるけれども、日本光学技術研究所だ。自宅が調べられたら、そつちへ持つて行つてもいい。おれはまだ会つたこともない奴だ」
そこで、夫は、口を開けたまま、待つてゐる。初瀬は、はツと気がついて、氷をいれる。手が顫へてゐる。涙がこみあげて来るのである。
「それが一つと……第二は、貫太のことだ。あいつは、男のくせに意気地なしでいかん。家のなかでは威張つてやがるけど、ほんとは、骨なしだ。むろんおれの責任でもあるが、これから、なんとかしなけれや、どうにもなるまい。学校の先生とも相談して、寄宿へ入れるなり、どこかへ預けるなりしてくれ。お前は不賛成かも知れないが、女親の手ではもう駄目だ。あいつだけは、おれみたいな弱虫にしたくない。何処へでも出せる男、誰とでも口の利ける男に仕立ててくれ。どんな高いところからでも、平気で飛び降りるといふ、さういふ気性の男に、叩き直してくれ。頼む……」
初瀬は、夫の横顔をぢつと見つめ、頬を伝ふ涙を拭ひもせず、両手は膝の上でハンケチを握りしめてゐた。
「第三はと……さうだ、お母さんのこと……。だが、貫太のことでもう少し云へば、第一にからださ。まあ、あんなもんだと思つてゐるのは、われわれの眼が都会の子供に馴れてしまつてるからで、そこが問題だと思ふ。あのからだを、どうだ、ひとつ思ひきつて鍛へあげてみたら? おれは、田舎の学校へ上げるのに限ると思ふ。環境がからだを作る。神経もからだの一部だからな。あと二三年だ……飛行機へ乗るにしても、戦車へ乗るにしても……」
と、病人は、しまひは独言のやうに口の中で云つて、さすがに疲れたといふ風に、ひと息ついた。
飛行機へ乗るにしても、戦車へ乗るにしても……と夫の正身は今たしかに言つた。初瀬は、それが貫太のことだと思ふにつけ急に身の引締るのを覚えたが、それよりも、なにか、その言葉が、一瞬にして夫の風貌を変へ、死を間近にひかへて静かに語るその痛烈な念願は不思議な閃光のやうに初瀬の胸を射たのである。
「ええ、わかりましたわ」
と、彼女は、はつきり、それに応へた。応へはしたものの、あとは身悶えるやうに夫の枕もとに顔を伏せた……。
刻々、病人の脈は衰へた。
医者は、あと二十四時間はもつまいと云つた。
弟の貞爾が駈けつけて来た。
「兄さん、僕です、わかりますか」
意識は、まだあつた。しかし、弟の方へちらと眼を向けて、会釈をしたと思ふと、そのまま昏々と眠りに落ち込んで行く。
「正身……」
母が呼んだ。
眼を薄く開けた。
「お母さん、貞爾が来てますね」
「ゐますよ」
と、弟は顔を近づけた。
「お前は駄目だよ、貞爾、本なんかどうだつていいぢやないか、それよりなあ、ビール壜と、本と、万年筆と……いいか、ビール壜は胴体だ。本が翼さ。うんとこさ出来るぞ。飛行機が……。万年筆は爆弾……。太平洋横断、サンフランシスコは飛び越して、いきなり、ワシントン、紐育……倫敦……窓から飛び込む……戸別訪問だ。わけないさ、こいつと思ふ奴の心臓へ、万年筆をプツリ……どうだ、名案だらう。あとはなあ、よく聴けよ、本の翼は、巴里の上空でばらまく。セーヌ河岸の古本屋がまつさきに拾ふ。ビール壜の胴体は、独逸の戦線へ落とす。同盟軍へのお見舞だ。……」
病室は、森となつた。
矢代正身の四十年の生涯は、この不気味な沈黙のなかで終りを告げた。
臨終の場面を、ことさら詳しく語るには当るまい。それは世の常の悲しみに外ならぬ。ただ、ここで特に異様に感じられたことは、弟の貞爾が、女たちの極度に声を呑んだ忍び泣きの間から突如抜け出した途端、長椅子の上へ仰向けに倒れざま、それこそ、誰憚らず、大声で泣き喚いたことである。
卒然として中心を失つたこの一家の生活は、今後誰れを、何を軸として新しい転び出しをするか?
遺書は、そのことについて別に示してはゐないが、財産としては、妹の梅代が若し独身を続けるなら、株券でこれこれのものを譲るとあり、貫太が家を成す前に死亡したら貞爾が本家を継ぎ、母と初瀬とを養へとあつた。
去年の七月は田丸家から、また今年の九月は矢代家からといふ風に、隣同士の二軒から続いて葬式を出したことは、隣組の人々を暗然とさせた。八谷家の長男の戦死は、もとよりこれと同列に語ることはできない。遺族の哀しみは、おのづから満足と矜りに高められて、よそ目にもあとに暗い影を引かぬのが当り前であるけれども、田丸奈保子や矢代正身の場合は、死の意味の軽さに引きかへて、後に残されたものの足どりはまことに重く、侘しさもまたひと際と思はれる。
組長の田丸はちやうど出張中であつたが、副組長の遠山をはじめ、ほとんど各戸、夫婦代る代るに詰めきつて、なにくれとなく葬式の手伝ひをした。これが一年前の田丸家の時には、まだまだかうはいかなかつたのであるから、ほかの理由を多少勘定に入れても、隣組の変りやうは目ざましいと云はねばならぬ。
さて、葬儀は型の如く、しかし極く地味に取り行はれた。
喪服に薄化粧をした矢代初瀬の姿は、朝夕顔を合せてゐる近所の人々さへちよつと見違へるほど窶れてゐたが、しかし、涙をさつぱりと拭ひ去つたあとの、清々しい風情がなくはなかつた。
焼香の帰りらしい女二人の会話に、
「でも、奥さんのしつかりしてること……よくあんなに平気でゐられるわね」
などといふ蔭口も聞えたくらゐである。
会葬者のなかには、思ひがけない人も混つてゐた。名も顔も識らぬ人がゐた。さうかと思ふと、貫太の同級生が二人、受持の先生に連れられて来た。初瀬にとつて、それは強い印象であつた。が、この焼香の一時間を通じて、彼女の心を最も動かしたのは、隣家の田丸家の姉妹が、打ち揃つて静々と前を通つた時であつた。
想へば、たつた一年前のことである。この幼い姉妹は、自分と貫太が今ここに立つてゐるやうに、父田丸氏と並んで、あの夏草の茂つた庭の中に立つてゐたのである。
二人のその時の姿を、初瀬は、はつきり眼に浮べることができる。姉の加寿子は、母親の勝気な半面をうけて、涙を押しかくし、キツと頭をあげてゐた。妹の世津子は、恐らく、同じ母親の、自然な半面をうけて、募る哀しみに身を委せてゐた。
初瀬は、その時の二人を、そのままそこに見る思ひで、二人の戻つて行く後ろ姿をいつまでも見送つてゐた。
が、彼女の視線は、ふとその時庭の一隅に吸ひ寄せられた。別に大した発見ではない。ただ、今年も夏ぢゆう咲き通して、しばらく花を見せなかつた一株の白バラが、また思ひ出したやうに、新鮮な蕾の色をのぞかせてゐるのである。
さて、葬式もすませ、ひと通りするべきことをしてしまつた。その翌日からの、あの人知れぬ空虚感は、初瀬もほかのものとおなじであつた。ただ彼女には、続いてすぐにも果さなければならぬ役目があつた。それは、夫の遺言の第一にあつた、例の品物を見知らぬ相手に届けるといふ使ひの役である。
次の日の朝、彼女はアトリエの掃除をざつとしておいてから、在り場所をちやんと示されてゐるノートの一と重ねと、ケースに納めたレンズの一連とを、それぞれ戸棚を開けて出した。
ノートを数へてみると十四冊、表紙には、一、二、三の番号がうつてあるきりで、何気なく最初の一冊の表紙をめくると、扉に、「透霧撮影ノ可能性ニ関スル理論的根拠」といふやうな、素人には縁遠い文字が横書きに書かれてゐる。彼女は、それきり、ノートの数を数へ全部で十四冊を一束にして丁寧に紐をかけた。
次に、レンズであるが、これは夫の云ふ通り、いちいち小さな紙の番号札が貼つてあり、二た並び三十二個で、レンズ用ケースの一部分に納められてゐる。
両方で、それほどの荷物にはならない。
電話で前もつて連絡をとらうかとも思つたが、それも却つて面倒な気がして、いきなりぶつかつてみることにした。
日本光学技術研究所は、研究室と附属工場とに分れてゐて、どちらも蒲田の同じ番地内にあり、ただ入口が別々になつてゐるので彼女は多少迷ひはしたけれども、やつと、会ひたい人物は、研究室勤めの技師だといふことがわかつた。
初瀬は、受付へ夫の名刺を差出し、
「代理でございますが……」
と云ひ添へることを忘れなかつた。
応接室があるのか、ないのか、彼女は、しばらく廊下で待たされた。
旧いコンクリートの建物の間へ、新しいバラツクが次ぎ次ぎと建てられるらしく、研究所の構内にある研究室は、事実、工場との区別がつけにくいほど、激しく動くものの気配に満ちてゐた。
それは、光学技術なるものの実体をつかみ得ぬ彼女の眼にも、場所と時代との関係をはつきり映す証拠が、その動くもののうちに見えたといふことである。
作業衣を着けた男が、急ぎ足で、時々、彼女の側を通りすぎる。後を振り返るものもあるが、そのまま行つてしまふものもある。
それらの男は、年こそまちまちだが、どこか共通な型があり、普通の事務家とも違ひ、医者に似てゐるやうで似てゐず、教師に近いかと思へば、まるで反対なところがあり、初瀬には全く目新しいタイプの一群である。
──いつたい、吉村彪つて、どんな男か知ら……?
更めて云ふまでもなく、初瀬は夫の遺言によつて、この吉村といふ男を訪ねて来たのであるが、手紙の内容は見ないからわからぬけれども、手渡しをしなければならぬ品物が品物なのと、この男が光学技術研究所の技師であるといふ事実とを照し合せて、初瀬は、おぼろげながら、この使ひの意味を察することができた。
──つまり、夫は生前ひそかにレンズに関する特殊な研究をしてゐたに違ひない。その研究の結果を世に問ふ機会がなかつたので、かねて名前だけ識つてゐるその道の権威にそれを示し、云はば、どんな形にしろ、いつぱしの努力が報いられることを望んでゐるのであらう。
で、夫がその道の権威として一面識もない人物を撰び、しかも、自分を使者としてその人物に直接会へと命じた、それが、もう間もなく眼の前に現れようとしてゐる、技師吉村彪なのである。さうなると、初瀬の、この人物に対する好奇心、期待は、事実、相当なものであつたが、一方夫の仕事の価値ばかりでなく、自分がわざわざ此処へ来たことの意味の大小まで、その人物によつて決められてしまふのだと思ふと、これはまた、嘗ての試験官の前に引き出される時のやうな面映ゆさが先に立つのである。
さつきの受付の少女が、長い廊下の向うから、道草を喰ふやうな恰好で戻つて来た。
「吉村さんは只今手の離せない仕事をしていらつしやるんですが、ご用向きは?」
ははあ、やつぱり不味かつたかなと、初瀬は思つた。それで、しかたがなしに、風呂敷包みから、吉村に宛てた手紙だけを取り出し、
「では、これをどうぞごらん遊ばして……」
受付の少女は、その手紙を無造作に受け取ると、また、ぶらぶら道草を喰ふ恰好で、廊下の向うへ姿を消した。
しばらく待たされた。が、やがて、それらしい作業衣の男が、さつきの少女を従へて、これは、大股に、初瀬のそばへつかつかと寄つて来て、
「矢代さんですね。お持ちになつたものは?」
初対面の挨拶をしようとして、彼女は、つい、それをしそびれるくらゐ、相手は、せつかちであつた。
瘠せぎすの、見上げるやうな、眼鏡の奥で瞬きをし続けてゐる、まだ三十をいくつも出てゐないらしい五分刈の書生つぽを、彼女はそこに見た。
出された品々を一応あらためて、なんべんもうなづきながら、彼は、しばらく考へてゐる風であつた。そして、初瀬の顔は見ずに、
「ご病気はそんなに悪いんですか?」
「は?」
と、彼女は聴き返さないわけにいかなかつた。しかし、それが、手紙を見ての話だと気がつき、声を落すやうに、
「あの、主人はこの十日に亡くなりましたんでございます」
「あ、もう亡くなられたんですか?」
「これをあなた様のところへお届けしろと申す遺言がございましたものですから……。まだお目にかかつたこともございませんのに……それにたいへん厚顔ましいお願ひをいたしまして……」
初瀬は、さういふ以外に、なんと云ひやうもなかつた。それも精いつぱいのところである。
「すると、あなたが奥さんですか?」
「はあ、さやうでございます……どうぞ、なにぶんよろしく……」
どうも、すべてがとんちんかんになるのだけれども、彼女は向うの出方に応じないわけにいかない。
と、この時、ふと、彼女は若しかしたら、この相手は吉村本人ではなく、その下に働いてゐる助手かなにかではないかと思ひ、
「失礼でございますが、吉村さまでいらつしやいますか?」
と、念を押した。
「ええ。どうしてですか?」
やつと、視線が合ひ、それでもこつちの感情に拘りなく、怪訝なといふ風を露骨に示し、もう一度ノートとレンズの数を数へ、
「ぢや、たしかにお預りします。急にといふわけにいきませんよ。さよなら……」
自分ひとりで、勝手に切りあげて、さつさと行つてしまつた。
一風変つてゐることはたしかだが、初瀬は、この青年技師の物腰に、云ひ知れぬ痛快なものを感じ、薄暗い廊下の真ん中へ素気なくおつぽり出された自分を、別に惨めには思はず、却つて、女などには寄りつけもしない、一種純粋な知能型の魅力を、心ゆくばかり味はつたといふ気がした。
埃つぽい街を、いくども曲り曲りして、蒲田の駅へ出たのが、もう昼近くであつた。混み合ふ電車のなかでも、初瀬は、時々、吉村のぬつとした姿を想ひ浮べ、唐突な言葉の調子を心の中で繰り返して、あれがほんとの天才であつてくれればと、死んだ夫のために念じた。
ところで、吉村といふ人物が仮に天才であり、あの年でその道の権威であるとしたら、いつたい、自分の夫正身は、何者であつたか? 妻の眼からは、男はすべて、主人以外の何者でもないのか? 生涯をかけて成し遂げようとしてゐた仕事が、そもそも何であつたかを、妻は、どうして知ることができないのであらう? お前の夫は、死後にこれこれの業績を残し、かういふ点で優れた才能を示し、これだけの仕事で世の中のため、国のために尽したのだといふことを、万一、他人の誰かから教へられるやうなことになつたら、妻としての自分は、少しも恥ぢるところはないのだらうか? それをただ、自分の矜りとして、慰めとして、胸にたたんでおけばすむのだらうか? さう考へて来ると、彼女は淋しかつた。
しかし、彼女はその淋しさを押しのけるやうに、自分自身にかう宣言した──
──あたしは、ただ、心から夫を愛してゐるのだから……。
ひと先づ重荷をおろした気持で、翌日から初瀬は夫の遺品の整理にかかつた。それは事毎に胸のふさがる、物重い仕事であつた。何ひとつ心を励ますものとてはない。すべてをそのままにしておいて、しかも、すべてが眼に触れないといふ風にはできないものであらうか、と、彼女は夫の仕事机の前で今もぼんやり頬杖をついてゐる。
窓にうつる九月の空は眼にしむやうに碧く、飛行機の爆音が何処かを遥かに流れてゐた。
気をとり直して、彼女は机の抽斗の一つを開けた。空つぽである。おや、と思ひ、次の抽斗を開けた。空である。順々に同じことを繰り返したが、一つだけ細々したものがきちんと並べて入れてある。
こんな用意までしてゐたのかと、彼女は今更のやうに驚き、夫が生きてゐる頃のその日その日となんの変りもないつもりで見てゐたこの部屋の隅々が、かうまで整然と死の装ひを凝らしてゐる事実に、顔を蔽はないではゐられなくなつた。
が、彼女は、ふと雑多な書類の入れてある棚に眼をやつた。すると、殆ど機械的に起ち上つて、例の吉村の処へ持つて行つたノートの一と重ねを抜き出した、そのそばに金の背文字でそれとわかる年々の日記が数冊、昭和十二年を最初に十八年まで順に並べてある中から、その十八年をいきなり手にとつた。
パラパラと頁を繰る。
九月四日の書き込みが最後である。そして、そこには、ただこんな文句が見える。
──これで当分日記は附けないことにする。或は、もう附ける必要はないかも知れない。若しさうだとしたら、実に
あとが、そのまま切れてゐる。
初瀬は「実に」のあとを、その空白を、一心不乱に読まうとした。まつたく無駄な努力であることが次第にわかつた。わかるにつれて、絶望的なもどかしさが彼女を捉へはじめる。
九月一日の日付に眼をうつす。
──危機が近づくのを感じる。しかし、危機といふものは幾度でも来る。それを、常に最後のものと信じる悲劇は、人間の歴史と共に続く。
女房は今俺が何をしようとしてゐるかを知らない。気紛れに死後の準備をすることだけは、誰に知らせる必要もなく、女房の手を藉りることの最も困難な仕事だ。
この文句にギクリとして、初瀬は、それを読み直す代りに、その頁をひろげたまま昭和十七年の一冊を手にとつて、全く無意識に中ほどのところをバタリとひろげた。すると、これはまた偶然、七月二十九日、即ち田丸奈保子の亡くなつた日の日付が出た。
昭和十七年七月二十九日──
夏のばら咲き咲きて君のゆきにけり
俺の想ひ出らしい想ひ出のなかには、不思議に花といふものが出て来ない。
それなら、何が出て来るかと云ふと、木の葉が出て来る。草の実も出て来る。殊に、松の木の根だ。
ああ、俺の青春と松の木の根。
女房はお梅の説に反対して、生き残つた亭主よりも、あの家の場合に限つて、第一に死んだ人が可哀さうな気がすると云ふ。
その次ぎが娘たちだと云ふ。
余計なセンサクだが、俺はお梅と同感だ。女房に死なれて、至極憐れつぽくみえる亭主の一例のやうに俺も思ふ。
初瀬は、一と息にそこまで読んだ。
頭が妙にこんぐらかり、胸が押しつけられるやうで、声を出すとしたら、きつとその声はふるへてゐさうに思へた。
ほかの頁を開けるのが急に怖ろしくなつた。
それでも、今読んだところを、もう一度、読み返さないではゐられなかつた。
俳句など作る夫ではなかつた。しかし、この句は誰の句だらう?
もちろん、初瀬は、庭の白バラのことを考へてゐた。奈保子の枕辺へ最後に挿したのも、あの白バラであつた。
が、そんなことを知る筈もない夫が、どうして、奈保子の死とこの花とを結びつける気になつたのだらう?
さう云へば、共にこの世を去つた二人の間に、何かしら相通じるものがあることを、自然は巧みに教へてゐるのかも知れぬ、と、彼女は素直に解した。
ところが、そのあとの文句が腑に落ちない。「想ひ出らしい想ひ出」とは何を言ふのか? 殊に、「青春と松の木の根」に至つては、意味深長らしく、そのうへ、この自分とはなんの関係もないのである。
考へれば考へるほど、この「松の木の根」はをかしい。あの夫に限つて、とは思ふものの、なぜか、「松の木の根」が胡散である。
様々な情景が、松の大木の盛り上つた根を中心にして、頭に浮ぶ。
いづれも、彼女の記憶の中にあるか、或はそれに近い漠としたものであつたが、一番生々しい現実の色彩を帯びて浮びあがつたのは、彼女が十二三の頃、家族総出で海水浴に行つた房州の海浜である。
太い根つこを四方に張つて、その根の下を潜れば潜れるやうな松の木が五、六本、潮風にさらされてゐる。
その根の上を、よく蟹が這つてゐた。
松の木の根を這ひ上る蟹が、ぽたりと砂の上に落ちた。彼女はその蟹をつかまへたいのだけれども、からだのわりに大きな鋏を時々振りあげるのが気味わるく、手を出さうとしては引つ込め、右へ廻り左へ廻りしながら、隙をうかがつてゐた。兄を呼ばうとした。しかし、兄は沖の方で泳いでゐて声が届きさうもない。誰か男の子はゐないかと、あたりを眼で探す。
ゐた。しかし、それはもう子供とは云へない、眼鏡をかけた青年である。誰かに似てゐる。さうだ、夫の正身そつくりだ。なにをしてゐるのだらう。誰かを待つてゐるに違ひない……。誰を? 何者を?……。
初瀬の幻想は、ここで消える。頭がしびれるやうだ。
彼女は日記の頁をやや荒々しく閉ぢる。取り返しのつかぬことをしたと思ふ。読んではならぬものを読んだ、といふ気がする。
だが、彼女は、例によつて、さういふ自分をたしなめる。深淵の前で軽く身をかはす。心の青空がのぞく。夫がこの日記をこのまま自分の手に残して行つたといふことは、とりも直さず、彼の潔白を証明する、といふ風に、思ひ直す。
青春は誰にでもある。男の青春は力にあふれ、女の青春は清らかなものに満ちてゐる。彼の青春に若し松の木の根が必要であつたとしたら、自分の青春には、何がそれほど近かつたか? 彼女は、ほんとのところ、花はなんでも好きだつたし、木の実は、果物でありさへすれば撰り好みをしなかつた。十八になり、女学校の五年になると、妙な習慣があつて、下級生の間に一種の人気投票のやうなことが行はれ、五年生のうちで誰さんは何、誰さんは何と、一人一人花の名前をつけて騒いでみるのである。
初瀬はうつかりしてゐて、そのことを随分後に知つたのだが、彼女は晴れがましくも「白バラ」であつた。それだけならまだいいが、ある日下級生のうちの押しの強いのが一人、わざわざその「白バラ」の鉢植にしたのを彼女の家へ届けに来た。
「あら、いやだわ」
と、彼女は云つて、顔を赤くした。
さうは云つたが彼女は、その白バラの鉢を大切にした。やがて嫁入道具と一緒にトラツクの上にのせて来たのである。
矢代家の庭の隅へ根をおろし、年どしの季節々々に花をつける白バラの由来は、まさにこの通りであるが彼女は如何になんでも「わが青春と白バラ」などといふ嘆声を発する気にならぬ。
それよりも、
夏のばら咲き咲きて君のゆきにけり
の句が彼女の胸をしたたか打つた。
夫がどんな気持でこんな句を書きつけたかは今はもう問ふところでない。
彼女は、日記をもとの場所へしまひ、木鋏をもつて庭へ降りた。さうして、もう咲ききつた一輪の白バラを心を籠めて夫の位牌の前に手向けた。
予め通知を出しておいたのに、集りが非常にわるく、農繁期で無理もないとは思ふものの、田丸浩平は、いささか失望の気味で、会場の薄暗い電燈の下へ、それでも顔を見せた八九人の有志と車座を作つた。
長野県のはづれに近い○○村の青年道場である。
むろん、いづれも初対面で、ただ、農業会の指導部長をしてゐる小川といふのが、最近この村へ来た移動演劇の世話一切を引受けた因縁で、この集りの斡旋まで序にしてくれたのである。
田丸浩平は、今までもさうであつたが、この村へ着くとすぐに役場と学校を訪ね、村長、校長をはじめ主だつた人々に、移動公演のための協力を謝し、その成績について意見を徴し、本部としての今後の方針を語り、最後に、これに対する村自体の積極的活動を希望し、例の観衆組織の具体案をざつと示した。
村長は先づ、さう出るだらうと思ふやうな出方で、よく研究した上、皆と相談をしておくが、急にはどうも、といふ答へであつた。
校長は校長で、この村は元来、芝居の如きものを好むのであるが、少し度が過ぎて、自分らで何か芝居の真似事のやうなものを時々やることがあり、そのために、若いもののなかには、肝腎の野良仕事をそつちのけにし、やれ稽古だ、やれ舞台装置だと云つて暇をつぶす奴がゐて困る。その上、風紀上、よろしくないやうな問題も起りがちで、教育者の立場としては、旅芝居とか移動演劇とかいふものの影響を多少懼れないわけではない。しかしながら、先達の移動演劇は、従来のものと大いに違つてゐてただ観てゐる分なら、なかなか為めにもなり、面白くもあつた。──さあ、これが、観てゐるだけでは、先生たち、つひに納まるまいでなあ、といふ意見である。
この意見には別に反駁も加へず、田丸浩平は黙つて引退つたのであるが、青年団と婦人会の幹部には多分の希望をつないでゐた。
ところが、どういふ集め方をしたものやら、この寥々たる顔ぶれでは、一挙に主力を撃滅するといふわけにいかぬ。戦法を変へて少数を味方に引入れるより外はない。
いづれも二十前後の青年で、たつた一人、斡旋役の小川が飛び抜けて四十に近いかと思はれ、注意すべきことは、青年八人のうち、半数が女性だといふことである。
小川といふ人物は、ちよつとみると平凡なお百姓であるが、少し話をしてみた結果、どうして、一筋縄ではいかぬ頭と肚の持ち主で、恐らく指導部長としての抑へは十分に利かしてゐるに違ひないと、田丸浩平はにらんだ。
その小川がまつさきに口を切つた。
「わしもようはわからんが、この間の芝居は、県の農業会から寄越してくれたつもりでをつたに、あの芝居の勧進元は、政府からも金の出とる演芸移動本部ぢやといふことが、ここにをられる田丸さんの話でどうやら呑み込めただ。みんなはせはしいのに、よう出てくれた。女青(女子青年団のこと)が馬鹿に優勢でねえか」
このとぼけ方は、信州のあちこちで屡々お目にかかるものだが、田丸浩平はこの小川のそれには思はず引き入れられて、みなと一緒に笑つた。
寛いだ気分に、誰も彼もなつた。
「田丸さんに最初云ひたいだけのことを云つてもらはう。あとでみんなも云へ。それでいいづら」
田丸にも異議はない。
「さあ……」
と、彼は相手に応じた言葉を探しながら、
「これだけの人数ならさう改まつて話をする必要もないが……その前にちよつと断つておきます。今、小川さんは非常にうまい紹介をして下さつたが、僕はその芝居の勧進元としてやつて来たわけぢやありません。その点あなた方は小川さんよりよくご存じかも知れない。演芸移動本部といふのは、昔からある芝居の勧進元に代つて、できるだけいい芝居を、できるだけ安く、ある時はただで、一番見せたい人達に見てもらへるやうにすべてのお膳立てをする、政府指定の公の機関です」
そこから始めて、彼はいはゆる供給者の立場と需要者の立場を説明し、この事業に対する需要者側の理解と協力との必要を説き、
「そこでだ、無知蒙昧の徒ならいざ知らず、苟くも多少の教育をうけ、国民としての自覚をもち、ものの値打が金目をはなれてですよ、いくぶんわかる連中なら、きつと人から与へられるものだけでは満足できない筈です。自分が求めるものを、自分で撰びたいといふのが普通です。それが何時でもその通りに行くかどうかは別問題だ。まして多勢が求めるものとなると、これはなかなか面倒だ。然し、この村ならこの村で、何時頃かういふ催しをする。ひとつ東京から芝居を呼ばうぢやないか。どんな芝居がよからうか。それは演芸移動本部の企画相談所へこつちの希望を云つてやらう。よろしい。経費はどうする? 役場には予算がない。農業会もさうさうは困る。寄付を集めるか? 戯談ぢやない。ではまたこのつぎといふことにしよう。ところで、このつぎつて何時のことでせう? 永久に来ない時をいふことです。この間のやうな慰問の芝居をどこかから送つてくれるのを待つ以外に方法はないでせうか?」
で、彼は、そこから例の利用組合式の観客組織について数字的の計算まで示し、所要経費大体八百円乃至千五百円の芝居を、百五十円乃至二百五十円程度で年一回村へ呼べること、そのための一人当りの負担は、加入者千人として、凡そ年十五銭乃至二十五銭にしかならぬことを説明した。
田丸浩平の話に注意深く耳を傾けてゐた青年たちの一人は、この時片手を挙げて発言を求めた。
「すると、なんですか、その百五十円を出した残りは移動本部で負担されるわけですか?」
「さうしたいのは山々ですが、まだ政府の補助金がそこまで出てゐません。従つてその負担は、政府は別として、第一に劇団をもつてゐる興行会社又は公共団体、第二に特志家の寄付、第三に、これは重要なことですが、さつきの利用組合の組織自体です。つまり、一村だけでなく、最寄りの数ヶ町村が同時に相談をして呼ぶといふ形にするのです。それによつて移動経費の割当が著しく軽減されるわけです」
「さうすると、必ずしもこの村で呼びたい劇団を呼ぶといふわけにいきませんね」
と、また一人が云つた。
「厳密な意味ではさうかも知れない。しかし、ある村で、かういふわけでこの劇団をと特に希望した場合、他の村がなんにもわからずに反対を唱へる理由があるでせうか? ただ好みであれこれと云ふなら別ですよ。村のためを考へるなら、おのづから選択の標準はきまるでせう」
田丸はさう答へておいて、急に調子を変へ、
「それはさうと、諸君のなかに、この戦争最中、芝居なんか観る必要はない。農村はそんな悠暢な、或は浮き浮きした真似はしてゐられない。それだけの暇があれば、よろしく縄の一本も余計になへ。──といふやうな考へをもつてゐる人はゐませんか?」
青年たちは、この質問は予期しなかつたとみえ、ちよつと警戒を交へた微笑を浮べながら黙り込んでゐる。
「ゐないか? ゐてもいいんだぞ」
だしぬけに小川が云つた。
すると、それに勢ひを得て一人の青年が突つかかるやうな口調でまくし立てた。
「わしは芝居や映画を観る必要はないとは思つとらんが、自分らがわざわざ金を出してまで呼ばんでもええと思ふだ。是非観せたいもんなら、政府がまるまる費用を負担すべきでねえか。但し、慰問とか激励とか云つて、われわれ百姓をおだてるやうなことはやめてもらいてえだ。楽しみたけれや、百姓はいくらでも自分らの楽しみちうもんがあるだ。その楽しみを忘れとるもんはたしかにある。農村の娯楽は農民自身の生活から生れたもんでなけらにや、値打はねえだ。農民は疲れるにや疲れるが、それだけ仕事がせはしいだで、当り前のこんだ。東京から芝居をもつて来た、それで疲れがとれるかと云や、そんなもんぢやねえ。一晩ぐつすり眠りや、その方が疲れは休まるだ」
田丸浩平は、いちいちうなづきながら聴いてゐた。かういふ議論を聴かされるのは始めてではない。云ふことはちやんと筋が通つてゐる。それも単に、理窟のための理窟ではないといふことは、この青年の場合にもよくわかる。しかし、田丸は、この青年のものの言ひ方のなかに、必ずしも素直とは云へない、ある先入見を交へた独りよがりが、ちらちらとのぞくのを感じた。で、田丸は、かう応じた。
「今の意見は、ご尤もといふ外はない意見だが、僕の質問に対して答へられてゐる部分は、つまり、君の知つてゐる芝居なるものは、わざわざ金を出して観る値打はないものだ、といふことになるわけですね。しかし、そいつは、君一個の立場からさう云へるんぢやないの? 例へば、政府がこれは農民諸君に観せたいといふやうな芝居があつたら、それを政府の手に委せておかず、村自身が率先して観る手段を講じたらどんなもんだらう?」
すると、また別の一人が、これは極めて遠慮がちに、田丸の方へ言葉をかけた。
「わしらの村では大事なことでまだちつとも手をつけてないことがいくらもあるだが、それを後廻しにして、芝居を東京から呼ぶ算段をせにやならんといふわけが、なかなかみんなにはわかるまいと思ふだ。そこんところを、どういふ風に言つたらええか、ひとつ教へてもらへんですか?」
「なるほど……これは深刻な質問だ」
と、田丸は、小川の方を顧みながら、呟いた。実にその通りである。彼の仕事の困難もそこにあるのである。早い例が、日本の政治が芝居といふものをどういふ風に取扱つて来たか。これは田丸が最近に仕入れた知識であるが、遠き昔は別として、徳川幕府以来明治維新を経て極く最近に至るまで、政治は芝居を取締るだけが能であつた。芝居は目学問といはれながら、その芝居を正しく育てる道を積極的に講じやうとせず、国民教育の面でも、社会政策の面でも、芝居の重要性が殆ど顧みられなかつた事実は、いつたい誰に責任があるのか?
それにも拘はらず日本の芝居は独自の伸び方をした。世界に誇るべき舞台を創り上げた。ただ、非常に政治と結びつきにくいものになつてしまつたのである。──
田丸浩平は、このことを前提として、話を進めれば進められると思つた。が、それでは少し問題が大きくなりすぎるので、
「それはねえ、ひとつ、相手に応じて、なるほどと思ふやうな理由をこしらへるんですね。いろんな手があるでせう。別に瞞すわけぢやない。理解の程度、興味のもち方に、浅さ深さがあるからです。ただ、君たちに考へてもらひたいことは、現在、この決戦下における芝居の役割、芝居の力といふことです。国策宣伝もよろしい。娯楽慰安もよろしい。芝居さへちやんとしたものなら、大いに効き目があります。しかし……」
「しかし……、それだけの目的なら、芝居でなくつたつて、ほかにいくらも方法がなくはない。今やかましく云はれてゐる国内の戦力増強は、主に物を作ることらしいが、物を作るのは人だ。精神と肉体の力です。その力は、一人の力ではない。最も大きな力を生み出すのは、人と人との和です。一致団結と云つてもよい。協力同心と云つてもよい。人と人とが集つて共通の高い理想を眼ざし、幾多の困難に堪へ、智恵をしぼり、情熱を傾けていく姿が、日本の戦ふ姿でせう? ところが、われわれの日常生活は、さういふことをつい忘れさせる現実的なものに満たされてゐる。ほんとは、さうではいけない。恐らく諸君のお仕事は、諸君の信念と自覚によつて国の理想に直接つながつてゐるでせう。だが、多くの人は、まだまだそこまで行つてゐない。そこで、さういふ人たちに、われわれは今、どんな姿で戦つてゐるか、われわれ一人一人の力は、どういふ風にして国の力になるのか、われわれの創りつつある歴史は、どんな素晴しい未来を約束し、われわれが営みつつある今日の生活は、どんな美しい夢をはらんでゐるか、さういふことを、ひとりでに会得させ、なんだか知らんが、みんなと一緒に働くのがうれしくてたまらんといふ風に思はせるのが、ほんたうの芝居の役目です。芝居といふものは、元来、協同体の生活を生命とするもので、また同時に、神への感謝、祈願から始まつたものだといふことはご承知の通り。われわれはこの芝居といふ形式のなかで、民族の矜りと決意とを、非常にはつきり示すことができ、戦ふ国民の底力をぐんぐん養つていけるものと信じてゐます。僕の云ひたいことは、これだけです」
と、そこで、田丸浩平は、額の汗を拭いた。
一つ時、沈黙が続いた。
「どうだね、女のひと、なんか云ふことはないか? 原口さん、どうだね?」
小川が、原口さんと呼んだのはたつた一人珍しく白いスーツに紺セルのズボンを穿いた娘で、ほかの連中の鄙びたモンペ姿と面白い対照をなしてゐた。しかし、それでゐて、ちつとも水と油といふやうな別々な感じはしない。洋装がきりりと身についてゐて、並んだ縞の筒袖のなかに融けこみ、その上どちらかといへば華奢なからだつきだのに、両隣りの肩の怒つた頑丈な二人とくらべて、その初々しさ、艶々しい皮膚の色、何かを求めてやまぬ燃えるやうな眼ざしが、まつたくおなじと云つていいからである。
「わたし、ちよつと伺ひたいことがあるんですけれど……」
と、原口早苗は、首をかしげて膝の上へ両手を重ねた。原口早苗が何を云ひ出すか、といふ興味は一座の男女の顔つきにありありと浮んだ。
「今のお話で、なるほどさういふ芝居があつたらと思ひますけれど、それにはやつぱり、芝居をするものと、それを観るものとの間に、しつくりした、なんて申しますか、感情のつながりでせうか、さういふものがなければ、と思ひます。先達のお芝居を見せていただいて、一番わたしたちが物足りなく思つたことは、芝居をなさつてゐる方々の……作者と俳優をひつくるめて……いつたい、どういふ生活をなさつてゐる方々なのか……無論、人間であり、日本人であることはわかつてゐますけれど、わたしたちとどこまで同じことを考へ、どこまで同じ心をもつておいでになるのか、といふことが、どうも、あのお芝居を観ただけでははつきりしないんです。よその国のことと思へばなんでもないんですけれど、やつぱり、さうは思へません。これは、第一に、都会と農村とが、いろんな点で離れすぎてゐる結果ではないでせうか? 教養の違ひとか、風習の違ひとか、そんなことではなく、なんだか、体温が違ふやうな気がします。一応泣いたり笑つたりはしますが、どうも、親しみがもてないんです。これではいけないんだといふことはよくわかりますけど、そんなら、どうしたらいいんでせう? わたしたちの方に罪があるのかどうか? 近頃は、農村でしきりに云はれてゐますことは、都会風なものを持ち込まれては困るといふことです。たしかに困ることもあると思ひます。だからと云つて、例へば、お薬なんか、田舎では出来ません。消毒薬ひとつ、自分たちの手では作れないんです。まして、衛生知識のやうなもの──衛生には限りません──生活を合理的に、健全なものにしていく知識や技術は、どうしても都会で生れたものを、おほかた、こつちで利用するかたちになるんです。農村の生活にも、一面、自慢にしていいところがずゐぶんあるつていふことは、わたしたち、忘れてはならないことでせうけれど、もつと、都会のいいところ、つまり、浄化された都会が、農村に新しい力を与へてくれることを、ほんたうに、わたし個人としては、心から望んでをります。お芝居なんかも、さういふ意味で、これは元来、都会のやうな集団生活のなかで発達するものでせうから、そのうちの、正しく育つた、練りあげられたものを、時々、わたしたちは観せていただいて、心の糧にしたいと思ひます。それには農村の生活も、さういふものを享け容れるだけ、素直な、余裕のある姿にしなければなりませんが、それと同時に、お芝居の方も、もつと、もつとわたしたちを抱きすくめてくれるやうな、美しい、高いものを持つて来ていただきたいのですが、これは無理な注文でございませうか?」
この若い娘の驚くべき雄弁に、すこしたじたじとなつて聴き入つてゐた田丸浩平は、相手のおよそ罪のない顔を興深げに眺めながら、
「失礼だが、あなたは、この村の保健婦さん?」
と、訊ねた。
「はあ、さやうでございます」
原口早苗は、ここで羞恥むやうに眼を伏せた。
原口早苗が村の保健婦であることをたしかめておいて、田丸浩平は、更に、
「ふむ、ぢや、今のお訊ねに答へる前に、こつちからちよつと訊きたいんですが、あなた、保健婦になられてから、もうどれくらゐ?」
「あの……まだ新米ですの」
と、長い睫毛をふるはせるやうに、上眼をつかふ。
すると、そばから、小川が云つた。
「原口女史は、一昨年の秋、県の養成所を出て、東京で一年ばかし修行して帰つて来ただ。県の方で是非つて望まれただが、女史は、自分の村のために保健婦になる決心をしただから、それは断つたちうだ。まだ仕事を始めて間はねえだが、どうして、優秀なもんさ」
「うそですで……そんなこと……」
「うそなもんか。なあ、おしげさん」
隣で袖口の綻びを気にしてゐた、一番がつしりした娘がおしげさんであつた。原口早苗にぴつたり寄添つて、さも仲の良い風をみせてゐる。
「ほんと……病人が急に減つただから……」
と、これはぶつきら棒に云ふ。
「だんだんさういふひとが出て来るのはいいなあ」
田丸浩平は、ただ胸の熱くなるのを覚え、独言のやうに呟く。そして、思ひ出したやうに、
「では、さつきの質問だが、実際のところ、あれは質問とはうけとれない、僕の云ひたいことを、あなたがみんな云つてくれたやうなもんだ。しかし、やつぱり、僕がそれを聴いて、よかつたと思ふのは、それがほんたうに眼覚めた農村を代表する意見だといふ、僕の信念を強めてくれるからです。僕たちの移動演芸といふ仕事は、まだまだ経験も浅いし、修行も足りないし、これからだと思つて下さい。しかし、この仕事は、あなた方の協力がなければ健全に育たないことだけは、今日の僕のお願ひとして繰り返しておきます」
田丸浩平は、この話はもうこれで打ち切るつもりで、軽く頭をさげた。が、まだ時間は早かつた。
「もう、誰も云ふことはないか? 柴野、お前、何か訊ねたいことがあるづら」
名を指されたのは、役場か農業会で働いてゐる青年らしく、国民服のポケツトに万年筆の頭をのぞかせてゐた。小川は、田丸に説明して曰く、
「この君は、自分で芝居を作つて、みんなにやらせるのが好きだで……ええことか、わるいことか知らんが……」
首根つこへ手を廻して、「この君」は恐縮してゐる。
さあ、田丸浩平にも、それは、ええことかわるいことか、実を云ふとわからないのである。
そこで、田丸浩平は、早速予防線を張り、
「僕は、断つておきますが、芝居の専門家でもなんでもありませんよ。ただ、農村の問題には非常に関心をもつてゐるだけです。なんとかして、日本の農村を立派なものにするお手伝がしたいと願つてゐるだけです。芝居といふものを、それだけ切り離して考へることは、僕には興味はないんです。諸君もさうでせう? だから、芝居のことはもうこれくらゐにして、この村について、諸君の考へてゐることを少し聞かして下さい」
と云つた。
それには、しかし、手応へがない。
それもその筈である。演芸移動本部とやらから派遣されて来た名もろくに知らぬ男に、農村の青年として、芝居の問題以外、何を語ることがあらう。それに、近頃は、いろんな名目で、いろんな人物が村へ押しかけて来る。そのたびに、或は講演、或は座談会といふ風に、その人物を中心にしての催しが行はれる。来る人物も来る人物も、農村へ何かを教へに来る。自分の言ふことさへ聴いてゐれば間違ひはないといふやうな口調で物を言ふ。肚のなかで、「またか」と思ふやうなこともあるが、それでも、農村の人々は、どんな人物の云ふことにも、一応耳を傾けるのである。「今度こそは何かいいことを言つてくれるだらう」といふ期待があるからである。田丸浩平は、最初から、さういふ人物の一人と勘ちがひされない用心をしてかかつた。それにも拘らず、これらの青年たちは、こつちから訊ねたり、協力を求めたりする気持は、それほど汲まうともせず、ただ、「何者かがまた何かを教へに来た」と、早合点をしてしまつてゐるのである。
東京から一緒に連れて来た部員の毛利には、午後から弁当もちで部落から部落を廻り歩かせ、大体、老人、壮年、青年、少年と、それをまた性別にして、この間の芝居を観た印象を、調査資料として蒐めさせてゐるのである。その毛利と、ここで落ち合ふ約束をしてあるので、もう少しねばつてゐなければならぬ。
で、今度は、小川をつかまへて、田丸は、いろいろな話をしかけた。相当突つ込んで村の経済のこともたづね、殊に、最近注意を惹きだした農村と工場との関係、いはゆる農工調整の問題にも触れてみた。が、なんと云つても、小川指導部長の力を籠めて説くところは、耕地整理と供出米の問題であつた。何処へ行つてもさういふ話は出るが、この小川の場合、多少違つてゐるところは、肩を聳やかした自慢話でもなく、愚痴を交へた苦労談でもない。先づ淡々とあまり芳しくない現状を語り、その原因について意見を述べ、最後に、
「急ぐからと云つて無理をしちやいかんでな。そこへ行くと、女の力はでかいと思ふです。見とつてみなさい。結構、引つ張つて行くだ」
そこにゐる娘たちは、一斉に眩しさうな眼をした。
その晩はわりに早く宿へ引きあげ、毛利の報告を一緒に床にはいりながら聴き、どつちが先といふこともなく、ぐつすり眠入つてしまつた。
かういふ旅は田丸には珍しく、職務といふことを考へると、いくぶん心細いところもあつたが、精いつぱいの仕事をしてゐる満足感だけは味ふことができた。
村から村へ、かういふ旅が続けられた。信州から越後路へはいると、風土も風土だが、人気といふものが一変した。その村その村によつて、多少の特徴があることは信州とおなじであるが、国境を越える途端に、人の肌触りがぐつと違ひ、そしてなほかつ、農民は農民としての共通な風貌をもつてゐることが、実に鮮やかに感じられた。
長岡に近いある村に着く前、田丸は、連れの毛利に云つた。
「人に会ふのはいいが、その人の言葉にあんまり気を取られ過ぎちや駄目だぜ。われわれの使つてゐる言葉なんていふもんは、まつたく少しのことしか言へないもんだ。誰も彼も、大概、二た通りか三通りのことしか言はないやうにみえて、自分ではもつと、いろんなことを云つたつもりでゐるんだ。しかしねえ、一方から云ふと、また、いろんなことを言つたつもりでゐるいろんな人間の、肚を割つてみると、存外、おんなじことを考へてゐて、それを自分では気がつかずにゐるつてこともあるんぢやないか。近頃、僕は、農民の思想について、さういふことを、ふと感じだした、尤も、これは農民には限るまい。農民の代りに、日本人つて云つたつていいんだ。だから、農村を識らうと思へば、極端な言ひ方だが、誰の話を聴く必要もない。僕は田舎の生れだが、農村に育つたわけぢやないから、大きな口は利けないよ。だが、ほんたうの農民の魂だな、日本の歴史が始るまへからのね、そいつは、ちよつと妙な云ひ方をするとね、耳を澄まして、ぢつと土の囁きを聴くよりほか、どうにもわからんもんぢやないかなあ」
かういふ述懐は、田丸でなければ恐らく空疎な観念の遊びと云つてしまへるだらう。しかし彼は、事実、その「土の囁き」を聴き得たと信じてゐるのである。なぜなら、彼は、農村研究家としては直観を重要視し、数字を極度に軽蔑してゐた。若し仮に指導者の立場に立つことがあるとしたら、彼は一切の、功利的な目標をその本来の位置に引き下げ、徹頭徹尾、「美しき村」としての饒かな穣りをあげてみせようと思つてゐる。
それにしても、彼の任務は、まことに、力瘤を入れにくいところがある。話が熱を帯びると脱線し、ここぞと思つたところで飛躍してしまふのである。すべて準備に属するやうな仕事は、たとへそれがどんな役に立つにもせよ、「自分が」役に立つのだといふ考へはあまりもたぬ方がよい、と、彼は、東京へ帰る夜汽車の中で、うつらうつらと覚つた。
旅に出たこの一週間のあひだ、田丸浩平は家のこと、娘たちのことを想ひ出さぬではなかつた。しかし、それは、物事がまづまづ順調に運んでいく安らかな想像であつたと云つていい。
その証拠に、彼は一度も娘たちへ便りを送りもしなかつたし、なんとなく胸苦しい夜を過したこともなかつた。
朝、上野へ着くと、すぐその足で、新橋の本部事務局へ顔を出し、上役に挨拶をし、溜つてゐる書類に眼を通した。東京へ帰つて来るとやつぱり気ぜはしい。それだけ現在の戦争では、大都会が敵に近いのであらう。ここでは、もう誰も、半年さきのことは考へてゐないやうにみえる。すべて、眼の前の勝負である。店頭の行列は、一分を争ふものの、抑圧された焦躁のすがたであつた。
夕暮れの見慣れた街の風景に、彼は不思議に旅人のやうな感慨を催したが、すぐに、「これは日本の首府だぞ」と、大きな声でどなりたい衝動にかられた。
と、込み合ふ電車の一隅に、死んだ妻の奈保子と、横顔のよく似た女をみつけ、渋谷の駅を降りると、そこでまた、姉娘の加寿子かと思つたほど、後姿のそつくりな女学生が眼に映つた。
彼は、急ぎ足になつた。
矢も楯もたまらず、娘たちの顔が早く見たくなつた。宙を飛ぶとはこのことであらう。停留場から家の門を潜るまで、彼は、何処で何を見たか、その途中はまるきり覚えてゐない。
玄関へは、賑やかな出迎へである。
四つの顔が、それぞれに笑つてゐた。
加寿子は、いきなり、父の手から鞄を引つたくつた。そして、云つた。
「矢代さんの小父さま、お亡くなりになつたわよ」
世津子は、帽子へ飛びついた。そして、云つた。
「お葬式に、世津子たち、二人でお焼香に行つたの」
結城ひろ子は、エプロンを片手に、ちよつと離れて、柱の陰へ膝をついてゐた。
それに対して、笠間由子は、物々しく割烹着を着こんで、飛び跳ねる世津子を、後から抱きかかへるやうに引き寄せ、立つたまま、
「お帰りなさいませ」
と、誰よりもはつきり云つた。
夕食の卓子は、まるで歓迎会であつた。
なにしろ、いちいち解説づきの料理で、田丸浩平は、それを、「ふむ」「はあ」と聴きながら箸を取つた。
頭のどこかに、なにかがこびりついてゐる。
さうだ。
「おい、加寿子、それで……矢代の小父さんが亡くなつたつて、何時?」
加寿子が指を折つて考へてゐると、そばから、結城ひろ子が、
「ええと……昨日が初七日でございましたから……」
「初七日……さうか……」
と、田丸浩平は旅の日程を逆に繰りながら、矢代家にこの意外な不幸が訪れた日に、自分は何処で何をしてゐたであらうと、ぼんやりではあるが、その前後の記憶をひろひ出してゐた。
笠間由子が、何やら上の娘に注意を与へたらしい。それに気がついて、加寿子の方へふと眼をやると、ぺろりと舌を出してゐた。
彼は、実を云ふと、今日、玄関をはいるや否や、まつさきに見届けようと思つたのは、笠間由子と娘たちとの間がどうなつてゐるかといふことだつた。一瞬の観察はまづまづ希望を裏切るやうなものではなかつた。が、だんだんに、いろいろのことが眼についた。笠間由子の、露骨ではないが、それと感じられるものには感じられる満々たる征服慾、娘たち、殊に姉娘の、自分ながらどうすることもできぬとみえるそれへの軽い反撥、妹の世津子が、その間を潜りぬけて、結城ひろ子にばかりまつはりついてゐる様子を、彼はたしかににらんだ。
が、それも気にかければ気にかけられる程度で、笠間由子の明るさ、刺のなさが、すべてを救つてゐた。
父の帰りを迎へるこの晩餐の趣向にしても、娘たちの、至極あつさりした、普段そのままの出方は笛吹けど踊らぬたぐひのものではあつたけれど、笠間由子はそれに頓着なく、
「さ、加寿子さん、ほら、あなた方のこしらへたお菓子、もうお出ししていいの。世津子さんは、お取り皿とフオーク、お盆のまま運んでちやうだい」
といふあんばいに、滞りなく持つていつた。
田丸浩平は、茶を飲み終ると、
「ご馳走さん、話はあとでゆつくりするとして、ちよつとお隣りへお悔みに行つて来ます」
結城ひろ子が、
「お召し物は?」
と、訊ねる。
脱いだばかりの国民服に、喪章をつけさせて、彼は、矢代家の玄関に立つた。
初瀬自身が取次ぎに出た。
彼は、深く頭を垂れた。
「いま、旅行から帰つて、はじめて承知しました。なんとも申しあげやうがありません。組長としても、ちつともお役に立ちませんでした。おゆるしください」
「いいえ、そんなこと……」
初瀬は、低くさう云つたきり、急に顔をそむけた。彼の顔を見ただけで、胸がつまつたのである。
やがて、奥の部屋へ通され、仏壇の前へ坐ると、彼は、そこに飾られてある矢代正身の写真にしばらく見入つた。
思へば、これまでは、なじみの薄い隣人であつた。顔を合せることは、月に一度あるかないかで、しかも、口を利いたことと云へば、それこそ、前後を通じて、たつた二三回である。
二三回と云へば、そのうちの一回を、いまはつきり覚えてゐる。
もう二三年も前のことであつた。その頃、隣同士の生垣へ通路を設けよといふ達しがあり、田丸、矢代の両家は、女たちが適当な場所を相談してきめ、いざ、協同で垣根を取毀しにかかつた。
田丸が勤めから帰つて来たのはちやうどその時だつた。早速、上着を脱いで、女たちの手を払ひのけるやうに、自分でなにもかもやつた。引き抜いた植木や棒杭を、
「これでも薪になる」などと云ひながら、取りかたづけてゐると、正面のアトリエの窓ががらりと開いて、矢代が首を突き出し、挨拶もそこそこ、
「そんなとこへ路をつけられちや、困るなあ」
と、云つた。
一同は途方に暮れた。
田丸浩平はむつとしたけれども細君に気の毒だと思ひ、
「まあまあさうおつしやるな。このへんのことは細君連に委せようぢやありませんか。僕はただの勤労奉仕です」
と、やつた。すると、それにはなんとも応へず、
「だけど、そんな二列縦隊で通れるやうな路を開ける必要があるのかなあ」
「いやだわ、あなたはお礼をおつしやればよろしいのよ。せつかく田丸さんが、すつかりやつて下すつたのに……お疲れのところ……を……」
と、たまりかねて、初瀬が口挟む。
「うん、それやさうだけど……」
いくぶん、気がついたとみえて矢代正身は、につと笑顔になる。
田丸も、につとなつた。妻の奈保子は、初瀬の肩に縋るやうにして笑ひこける。
「うん、それやさうだけど……。そんなの、あるかしら」
初瀬は夫の口真似をして、わざとぷりつとする。
「旦那さまはびつくりなすつたのよ、門が急に出来たみたいだから……。誰が通るのかとお思ひになつたんだわ」
奈保子は、いつまでも、笑ひがとまらぬ様子である。田丸は、なるほどと思ひ、
「さうかなあ、非常通路にしては、ちつと大袈裟かな。大体、垣根なんてものは不必要だつていふ頭が、こつちにあるもんだから、つい、かうなつちまつたんだ」
矢代正身は、窓を閉めながら、最後にいつた。
「垣根をすつかり取払ふなら取払つてもいいんですよ。そこだけぱくんと口を開いてゐると、人が仕事をしてる前を、子供たちがしよつちう往つたり来たり、うるさくつてしやうがない」
窓が、びしやりと閉まつたのである。
田丸浩平は、その時の情景をまざまざと想ひ浮べながら、彼の妻、奈保子が、そのすぐあとで矢代を批評した短い言葉──天才にだけ許される性格──といふ言葉を、ふと、頭の隅から拾ひあげた。
そして、それを云ふ時の妻は、この矢代に対してこれつぱかりの悪意も示してはゐず、却つて、さういふ夫をもつ初瀬を羨むやうな口ぶりであつた。そして、また、初瀬こそは、かかる夫に似つかはしい、稀な女であることを断言して憚らなかつた。
なにはともあれ、田丸浩平は、焼香をすませ、そこへ出て来た矢代の母に、あらためて悔みを述べた。
すると、向うからも、
「その後、あなた様でもお淋しうございませう」
といふ同情の言葉をかけられて田丸浩平は、この老婦人のおのづからな威儀に押された。
「でも、お母さん……」
と、その時、初瀬は、姑に向つて、婉曲な注意をした。
「ほんとに、おあとのことがいろいろおありでせうけれど、やつぱりねえ……」
老人は、落ちついたもので、言葉を濁しながら、後へはひかない。
田丸浩平は、話が自分の方へばかり来ることを警戒し、初瀬に正面を切つて問ひかけた。
「時に、立ち入つたことを伺ふやうですが、お隣に住んでゐながら、矢代さんとはゆつくりお話をする機会がなくつて、実は、お仕事の方面のことは、皆目見当がつきません。いつたい、写真と云つてもどういふ方面の研究をしてをられたんです?」
「さあ、あたくしにもよくはわかりませんの。アトリエへ引込んだきり、ひとりで何かこつこつ調べてはゐたやうですけれど……」
初瀬は、姑の方へ気をかねながら、夫の仕事については、これ以上のことを喋るまいと、心に決めてゐた。
「いいえ、どうしてこんなことを伺ふかと云ふと、それにはちよつとしたわけがあるんです。こんなこと云つては失礼かも知れませんが、かねがね、僕も、死んだ家内も、お宅のご主人に対しては、一種特別の敬意を払つてゐました。つまり、隣人としての尊敬以上に人格としての畏れをもつてゐたとでも云ひますか、なんとなく、凡人に非ずといふ風な印象を受けてゐたんです。そこで、かうしてお亡くなりになつてみると、僕としては、なにか、立派なお仕事でも残されてゐるんぢやないか、といふ気がするもんですから……深い専門のことは、どうせ伺つたつてわかりますまいが……」
田丸浩平の、まんざらお世辞でもなささうなこの説明を、初瀬は耳をくすぐられるやうな思ひで聴いてゐた。
「ねえ、貫太にご挨拶をさせたかい?」
と、その時、老人は初瀬に云つた。
「いいえ、まだ……」
彼女は、急いで座を起つた。
お茶せんにきちんと結んだ髪がもうすつかり白くなつてゐるわりに、皺ひとつ目立たない身じまひのよささうなこの老婦人は、噂に聞いたとほり、態度物腰から言葉使ひに至るまで、なるほど芝居に出て来るやうな隠居であるが、武家の出といふやうな印象よりも、むしろ下町の旧家のにほひが多分にあり、江戸末期の旗本ならかうもあらうかと思はれる、都会的なものを感じさせた。
子供を呼びに行つたにしては暇がかかりすぎると思つてゐると、
「どこ探してもゐないんですの。またお宅へお邪魔してやしないかと思つて、のぞいてみたんですけれど……加寿子さんたちもおうちにはいらつしやらないんですつてね」
初瀬が、さう云ひ云ひ帰つて来た。
「え?」
と、田丸は意外な面持ちで、
「いや、貫太君にはいづれまた……。では、みなさん、どうかお心落しなく……。今後また、お役に立つことがありましたら……ちつともご遠慮はいりません……」
そんな口上を述べ終つて、田丸は、玄関へ立つて行く廊下の途中で、なんとなくもう娘たちのことが気になりだした。
が、彼はその足で副組長の遠山を訪ね、留守中の礼を云つた。
暗い路次の奥で、若しやと云ふほどの控へ目な声で、「貫ちやん……どこにあるの……貫ちやん……」と、初瀬がしきりに呼んでゐる。
田丸は、家へ帰ると、黙つて服を着かへはじめた。
すると、笠間由子が、茶の間から言葉をかけた。
「あの、あたくし、これでもうお暇させていただきますわ。明日また早うございますから……」
「あ、さう」
と、田丸浩平は、ちうぶらりんな返事をした。なるほど、留守番かたがたと云つて泊りに来てもらつたのだから、自分が帰つて来れば、彼女の役目は一応すんだかたちである。そのうへ、留守中だから泊りにも来られたので、厳格に物を考へれば、今から帰るといふのは、先方としては当然であり、こつちも、引止める手はないやうなものである。そこで、彼は、もう一度、
「あ、さう」
を繰り返し、さり気なく、
「で子供たちは?」
と、訊ねてみた。
「さあ……お隣りでもないやうですし……どこへいらしつたんでせう」
「おひろさん」
と、田丸浩平は結城ひろ子に声をかけて、
「ちよつとお隣へ行つてね、貫太君のゐどころがわかつたかどうか、訊いて来てくれ」
「あら、加寿子ちやんたち、お隣へいらつしつてるんぢやございませんの?」
笠間由子が、不審さうに云つた。
「貫太君も家にゐないんですよ」
さうあつさり答へて、田丸は書斎へ引つ込んだ。笠間由子がそこでどうするかを見たかつた。
結城ひろ子がしばらくして帰つて来た。
「矢代さまの奥さまも、たつた今、お心当りをお探しになつたんださうでございますが、坊つちやんも、こちらのお嬢さまがたも、ご近所にはどこにもお見えになりませんのですつて……。どういたしませう?」
田丸は、ぐつと不快なものが込みあげて来たが、それを顔に出さず、
「ぢや、もういいからはふつときなさい。別に遠くへ行く筈はありやしない」
結城ひろ子は、それでも、一つ時は、そこにぢつとしてゐた。何か云ひたげな風であつた。
廊下に跫音がした。笠間由子である。
「どうなすつたんでせう。お二人とも何時の間にか見えなくなつてしまつて……」
そこへ坐ると一緒に、独言のやうにさう云つた。
「あたくしがお玄関の電燈を消しに参りました時、表で世津子さまのお声がいたしますの。加寿子さまをお呼びになつていらつしやるんです。もうこんなに暗いのにつて、あたくしふつとさう思ひましたつきり、別に気にもとめずにをりましたもんですから……」
さういふ結城ひろ子の方はみずに、田丸はぢつと耳を傾けてゐた。
「毎晩、相変らず遊びに出るの、あいつら?」
田丸は、誰にともなく、訊ねた。
「いいえ……そんなでもないわね。昨夜なんか、遅くまで五人でトランプをして遊びましたの」
「五人とは?」
彼は聞きとがめた。
「お隣の坊つちやんが来てらしつて……」
「まあ、それはそれとして、留守中別に変つたことはありませんね、子供たちのことで……」
女たちは、互に、云ふべきことを探さうとしてゐたが、結城ひろ子は、何か物音が耳にはいつた様子で、慌てて起ちあがつた。
「どうですか、うまく行きさうですか?」
と、二人きりになつたところを、田丸はやつとこつちへ向き直つた。
笠間由子は、その瞬間、実に晴れ晴れとした表情になり、いくぶん胸を張るやうにしながら、
「まあ、こんなものだと思ひますわ。むづかしいことつて別にございませんもの」
「で、子供たちはどう考へてるでせう。もうその気になつてますか!」
不躾な問ひ方だとは思つたが、田丸は、今の気持で、さうぶつかつて行くよりしかたがない。
「さあ……あたくしは大丈夫だと思ひますけど……。お父さまから改まつてお訊きになれば、なんておつしやいますか……。とにかく、お二人とも、素直で、明るくつて、とつても可愛い……」
彼女は、──とつても可愛い、と、そこからあとをぼかすやうに云ひ、眼を細め、軽く肩をしやくつた。その科は、女学生風の誇張に似て、どこか艶めかしく、田丸は、思はず頸筋へむつとしたものを感じ、喉の奥が引きつれ、ぐいと唾をのんだ。
円窓の障子が少し開いてゐる。
湿気をふくんだ夜風が部屋を通りぬけた。
火の気のない火鉢が机の横に置いてある。
田丸は、それに手をかざしてゐる。
藪蚊が一、二ひき、二人の顔のあたりを飛びまはつてゐた。
楯家の娘であらう、ピアノを弾く音が、時々高くなり低くなりして、聞える。
田丸浩平は、いつまでも押し黙つてゐた。別にわざとさうしてゐるわけではない。何か云へばヘマなことを云ひ出しさうなのである。
表の通りで、急にさわがしい人の声がする。
近所の女たちと、それに、小さい子供も混つてゐる。
「ちよつと、なんですか、見て参りますわ」
笠間由子はやつと腰をあげた。
表はひつそりとなつた。
田丸は、呼吸をとめ、耳を澄ました。
が、ふと彼は円窓から半身を乗り出して、庭越しに通りの方を見てみる。
ちらちらと懐中電燈らしい光りが点いたり消えたりする。
八谷の主人の声で、
「とにかく交番へ誰か走れ、おい、久保君、君、うちの自転車でひとツ走り、頼む」
周囲はもう騒いでゐるのである。
田丸はしかし、動かうとしなかつた。
──なぜ、そんなに騒ぐ必要があるのか? 子供がそのへんに見えなかつたら、帰つて来るまで待てばいいぢやないか。なぜ、ひとりで帰るまいと勝手にきめるのだ? 迷子になる年ではない。しかも、多分、三人一緒にゐるにきまつてゐる。どんなことがあつたにしろ、一人は帰つて来るだらう……。
さういふ風に心の中で自分に云つてみる。
不吉な想像があとからあとから頭をもたげて来る。
尻がむずむずする。
彼はしかし、ぢつと机に向つて、そこに置いてある書物の頁を開く。
活字が無意味に並んでゐるだけだ。遮二無二、活字と取組む。そして溜息とともに呟く、
「馬鹿ツたれめが!」
田丸は、旧友の一人で、最近戦線から帰還した一陸軍中佐の話を想ひ出してゐた。
それは、偵察機隊長としての述懐であつたが、任務を与へて出した飛行機が、何時までも還つて来ない時の隊長の胸中を、軍人らしい表現で、「やりきれん」とただ云つた。その言葉から、その時の緊迫した情景を眼に浮べ、無量の感慨を推しはかることができた。
天幕の下で、地図と時計と空の一角とを交る交る見つめる偵察機隊長になりすました田丸浩平は、平坦な地肌を見せた広漠たる飛行基地の、砂塵と陽炎の中にもう自分を置いてゐた。
それは、昭和十二年の秋から翌年の春にかけて、北支戦線のところどころを、農業視察員として、輜重隊と一緒に歩きに歩いた、その道すがら、いくども印象にとどめた何処のといふこともない飛行基地なのである。
日が暮れる。
整備員の黒い影が地上照明のなかに浮びあがる。
自爆か、不時着か、生か死か。
生も死も念頭にないあの若い部下の、出動命令に応じて起ち上つた凜然たる姿を、いま、隊長は、ここにかうして、再び見るべく、頑として動かない。
真夜中である。
虫が鳴いてゐる……。
田丸浩平は、何時か、端坐して眼をつぶり、下腹に力をいれ、縁先にすだくかぼそい蟋蟀の声を聴いてゐた。
笠間由子が、そつと部屋をのぞいた。
「さうしてらしつて、よろしいんですの?」
彼は振り返つた。
「ご近所の方が、みなさんで手分けをして、探してくだすつてますのよ。かいもく、見当がつかないつておつしやつてますわ。どうしませう……あたくし」
笠間由子は、さも精がないといふやうに、そこへ、へたへたと坐つた。
「あなたは、あんまり遅くなるといけないなあ」
田丸は、そのつもりで云ふと、
「あら、そんなことぢやございませんわ。あたくしがゐて、こんなことぢやなんにもならないから……」
と、笠間由子は、云ひ直した。
が、田丸は、それにはなんとも応へず、
「おひろさんは?」
「さあ、やつぱり、探しにいらしつたんでせう。なにせ、このへんは勝手がわからなくつて、あたくしぢや……。でも、電車通りまでは出てみましたの。まさか、電車で遠くへ行くなんて、そんなことはないだらうつて、みなさん、おつしやつてましたわ」
田丸は、時間を訊いて、もうやがて十時だと知り、意を決して起ち上つた。
彼は、懐中電燈を探したが見当らず、そのまま玄関から下駄を突つかけて表へ出た。
表へ出るには出たが、別にどこを探すといふ当てもなかつた。しばらく門の前に立つて、もう森と静まり返つた通りの右左を、闇の中へ消えて行く小石まじりの道をぼんやり眺めてゐた。
還るべきものが還らないのではない。出て行かなくてもいいものが出て行つたままなのである。どうもただ待つてゐるといふ気分ではない。むしろ、後を追ひかけたい。追つかけて、見付け次第、引摺つて来たいといふやうな、荒々しい気持が自分にもわかる。
これではいかん、と、田丸浩平は、そのへんをぶらぶら歩いた。
明りを点けない自転車が不意に傍らを通り過ぎた。
それが矢代家の門の前で止る。
自転車を降りた男が、こつちへ後戻りをして来る。
「だれ?」
声をかけられて、よく見ると、楯の長男、雅一である。
「あ、田丸の小父さん……。加寿ちやんたち、まだ見つかりませんか?」
「君も探してくれてるの? それはそれは……」
と、田丸は、頭をさげた。
「僕は洗足池の方を見て来ました。一と廻り廻つてみることはみたんですが、わかりません」
「あんな方まで……?」
「なんべんも僕たちと遊びに行きましたからねえ。ことによると、と思つて……」
「やあ、どうもありがたう。お家へも、ご心配をかけてすまないつて、さう云つてください」
「ええ、でも、僕、見つかるまで探しますよ」
楯雅一は、また自転車へ飛び乗らうとした。と、ちやうどそこへ、また一つ自転車が、出会ひがしらに止つた。楯雅一は、
「駄目かい?」
と、声をかける。
「駄目だ」
久保鉄三の長男、大陸である。
「交番へなんべんも寄つてみたんだけど、まだなんの通知もないさうだ」
「あ、久保君……ご苦労さんだなあ。君はどつちの方を見て来てくれたの?」
「僕は出鱈目にぐるぐるそのへんを走り廻つたんです。横町をいちいち通つて、待避壕はみんなのぞいてみました」
「それや、また、大変だ」
と、田丸は詫びるやうに云つた。
楯雅一は、すると、突然、久保に向つて、
「しかし、変だなあ。こんな探し方してたんぢや見つかりつこないぜ。家の外には断然ゐない!」
と見得を切つた。久保は、それに応じて呟いた──
「ぢや、やつぱり、押入れんなかか!」
「押入れの中」
といふ着眼は、田丸をギクリとさせた。ギクリとはしたものの、すぐに、張りつめた気持の底から可笑しさが込みあげて来た。それといふのが、自分にも覚えがあるからである。なるほど、貫太ぐらゐの年であつた。なにか気に入らぬことがあり、拗ねた揚句のことだが、その時は、すぐにおやぢにみつかり、ひどくどやされた。
もちろん、久保も戯談めかして、さう云つたのだけれども、これも、自分の経験からだらうと思ふと、なほさら可笑しかつた。
「だつて、加寿ちやんがゐるんだもの、まさか……」
と、楯雅一は、真面目に否定する。
「ところが、あの加寿ちやんが、わからないんだ」
久保大陸は、妙なことを云ふ。いかにも加寿子の平生を呑み込んでゐるやうな口ぶりである。
「ううん、僕は、加寿ちやんか世津ちやんの友達の家だと思ふ。この近所で、誰がゐる?」
どうせ田丸は知る筈がないと思ふから、楯雅一は久保大陸を相手に、さう訊ねる。
「知らないよ、そんなこと……」
「うそつけ。いつでも加寿ちやんを誘ひにくるの、誰だい、あれや?」
「そんなら、雅ちやんだつて知つてるぢやないか。今村菊江さん」
「家も知つてるだらう」
「知つてるさ。雅ちやんだつて知つてるだらう。よせやい」
田丸は、この応酬を黙つて聴いてゐる。
「おひろさんがもう行つてるかも知れないよ。第一、貫ちやんも一緒だとすると、変だよ」
久保大陸は、理窟をつける。
「どうして変だい? 菊江さんのお母さんと矢代の小母さんとは同窓なんだぜ」
と、楯雅一も負けてゐない。
さうかうしてゐるところへ、向うからすたすたやつて来る一人の女の影を、田丸はすかすやうにしてたしかめた。
結城ひろ子である。
三人は彼女を取囲んだ。
「平生往き来してらつしやる学校のお友達のお宅を、片つぱしから尋ねて歩きましたの。どちら様でも、今日は全然お見かけしないつておつしやいましたわ。でも、ひとまづ、こつちの様子を見に帰つて参りましたんですけれど……」
さう云つて、結城ひろ子は、ほつれ毛を手で掻き上げた。
「矢代さんの小母さん、まだ帰つて来ないんだらう?」
楯雅一は、誰にともなく云ひ、そのまま、自転車を飛ばしてどこかへ姿を消した。
「おひろさんは家へ帰つてていい。これ以上騒いだつてしやうがない。久保君も休んでくれたまへ」
田丸浩平は、吐き出すやうに云つた。そして、なんの目当てもなく、ただ足の向く方へ歩きだした。
もうかれこれ一時間あまり、初瀬はこの停留場の改札口に立つてゐる。時々、自働電話で家と連絡はとつてゐたが、何時までかうしてゐてもきりがないと思ひ出した。なぜなら、彼女は最初から、ここを目当てに来たのではない。ただ、何処を歩いても暗いばかりでどうにもならず、自然に明るみへ吸ひ寄せられたかたちであつた。そして、ここでは、少くとも一と電車ごとに、いくたりかの子供が降りて来た。ひよつとしたらといふ、かすかな期待が糸のやうにつながつてゐるだけである。
しかし、貫太が、たとへ加寿子たちと一緒であつたとしても、そんなに遠くへ行く筈は絶対にないと心の底では信じてゐた。
彼女は、今日、夕食の時間に、珍しく行儀のことで姑が貫太に小言を云ひ、貫太はまた祖母に叱られるといふことがそれほど意外だつたのか、なんとも云へない妙な眼付でじろじろ祖母の顔を見ながら、ひと足ひと足、後すざりに茶の間から逃げ出して行つたことを、さつきから想ひ出してゐた。
それとこれとの間に、なんの関係もないとは云へないと、彼女は思ふにつけ、いろんな問題が、急に大きく眼の前に迫つて来た。
第一に、貫太の性質について、第二に、自分の母親としての責任について、第三に、姑の立場の変化について、第四に、加寿子たちと貫太との友情について、第五に……といふ風に。
が、なにはともあれ、彼女は、今夜の事件を、それだけとしては、そんなに深刻に考へたくなかつた。まして、子供がこれきりどうかなつてしまふなどとは夢にも考へてゐない。だから、彼女の胸が切なさにをののいてゐるとしたら、それはむしろ、この夜更に、時間のなかをさ迷ひ歩く貫太の姿を想像することからであつた。
そこで彼女はまた思ひかへすのである。
貫太はひとりぼつちではない。加寿子と世津子とが、きつと手を引いてくれてゐる、と。
そんなら、加寿子や世津子が、どうして、貫太をなだめて早く家へ連れて帰らうとしないのか? 今日は、久々で彼女の父親が旅から戻つて来た日ではないか!
すると、つい二三日前、姉の加寿子が初瀬の耳に囁いた、穏かならぬ言葉が気になりだす──
「今うちに来てる笠間先生ね、あたしたちと仲好しになれたら、あたしたちのお母さまになるんですつて……。でも、もうすつかり、そのつもりよ。つまんないわ」
初瀬は、単純なやうで何ひとつ素通りのできない子供の世界をおそろしいものに思つた。
ふと気がつくと、線路の上の青い信号燈が霧雨にけぶつてゐる。
初瀬はもう一度家へ電話をかけてみた。貫太はまだ帰つてゐなかつた。彼女は改札口を離れた。
襟足へまづ冷やりと雨の滴が落ちた。肩先がすぐにじつとりとして来た。
踏切りを越えると、道が急に暗くなる。
彼女はハンケチをひろげて頭へのせた。その恰好を人が見たらと思はぬではなかつたけれど、もうそれどころではない。
下駄穿きの素足にハネがめちやめちやにあがるのを気にもせず、彼女は、すたすたと歩いた。
道はだんだら坂の上りになつてゐた。
左側は小高い丘で、崖の上はお宮の境内である。古い杉の立木がまだ伐られずに残つてゐて、夜明け方、よく梟の啼く声を聞くのはこのあたりである。
もう人通りは絶えてゐた。
坂を登りきると十字路である。
その十字路の真ん中に、男が一人、突つ立つてゐた。
残置燈の火影に横顔が照し出されてゐる。
初瀬は、ハツとして、無意識に頭のハンケチをとつた。
男もこつちを見た。田丸浩平である。
二人は会釈をした。
が、どちらも、なんにも云ひ出さうとしない。なにを云う必要があらう!
田丸は裾をまくり上げて、歩きだした。それは、自分勝手にといふよりも、──さあ、ぽつぽつ引きあげませう──と、初瀬を促す身振りとしか思へない。
初瀬も、なんといふことなしに、それに従つた。
やがて、神社の鳥居の前へ来た。
初瀬は、ごく自然に歩をとめ、鳥居の方に向つて、しばらく頭をさげてゐた。
田丸浩平は、ややぎこちなく、それを真似た。
しかし、彼は、この時、やつと初瀬に声をかけた──
「かういふことになると、まつたく親もだらしがありませんね、どうしていいか判らないんだから」
すると、初瀬は、その意味が呑み込めぬという風に、首をかしげ、眼もとへほんのりと笑ひを浮べながら、
「でも、加寿子ちやんとご一緒だと思ひますから、あたくし、そんなに心配ぢやございませんの。ただあんまり遅くなると、道が暗うございますからね……」
田丸浩平は、この落ちつき払つた答へに、すこし反撥を感じたが、さりげなく、
「それや、まさか迷子になる気づかひはありませんよ。僕もたつた今、家を出て来たんです。みなさんをお騒がせしてすまないと思つたから……。あなたがさう云つて下されば、僕はもう安心です」
と云つた。
雨はだんだん大粒になつて来た。
「やあ、あなたもずいぶん濡れましたね。大丈夫ですか?」
田丸浩平は、初瀬の肩からズボンの膝のあたりへかけて、じくじくに濡れてゐるのをみて云つた。
彼女は、顔に当る雨を、無雑作に袖口で拭いて、
「あたくし、なんですか、まだ家へ帰つてみる気がいたしませんの。もうしばらく、そのへんで休ませていただきますわ」
さう云ひ終ると、彼女は、石段を上り、鳥居を潜つて、社殿の方へ静かに歩いて行つた。
彼、田丸浩平も、さう云はれれば、まだ帰る気はしないのである。
そのまま初瀬の後について行くことは、ちよつと躊躇されたけれども、まだなにか話し足りない、聞き足りないといふ思ひが先にたち、ふらふらと雨に光る敷石を伝つて行つた。
見ると、拝殿の正面に額づいて、彼女はかしは手を打つてゐた。一心不乱に、何か祈願をこめてゐる敬虔な姿である。
彼は、その邪魔をせぬやうに、そつと道を外し、拝殿のまはりを大きくひと廻りした。
さうかうして時間をとつたのはいいが、さて、不意にいま彼女の前へ自分が現はれたら、彼女はどんなにびつくりするであらう? そこへ気がつくと、彼は、わざと遠巻きに、そのへんを往つたり来たりした。自分もここに来てゐるといふことを、彼女に予め覚らせるためである。
礼拝をすませて、初瀬は、あたりへ注意深く眼を配つた。
田丸が後からついて来たことを、彼女はとつくに知つてゐた。その姿がどこかに見えはせぬかと探してゐるのである。
彼女も、田丸に念を押してみたいことがあつた。余計なことかも知れないけれども、加寿子たちのことをすこし耳に入れておくべきではないかと、かねがね思つてゐる。しかし、それは、よくよくの場合でないと切り出せない問題である。今日だけが、その、よくよくの場合に当るのではなからうか?
拝殿の廻廊を背にして、初瀬は瞳を凝らした。
田丸浩平は、片手を挙げて、ゆつくりそつちへ近づいて行つた。そして、空を仰ぎながら、
「晴れさうですね」
と、云つた。
なるほど、雨は小降りになり、霧はまだ濃く地を這つてゐるが、光りを吸つて乳色の沢をおびはじめてゐた。
「子供たちも、この雨で濡れてゐますでせうか?」
初瀬は、田丸がそばへ来ると、いきなりさう云つた。
「子供は平気ですよ、そんなこと……」
「あら、あたくしだつて、ちかごろ、雨ぐらゐなんでもなくなつてますわ……でも……」
「あたくしだつて、雨ぐらゐなんでもなくなつてますわ……でも……」
と、初瀬は、淋しく笑つた。強がることと、ほんとに強いこととは、まるで違ふのだけれども、せめて強がることで、少しは強くなれるのも、また、うそではないことを、彼女は、ちかごろしみじみと感じてゐる。
冷えきつたからだが、さつきから、ところどころ無感覚になつてゐる。そして、時々、ぞつと身顫ひがするのを、止めることができない。
「貫太君も、あんまり頑丈な方ぢやないぢやありませんか?」
田丸は、訊ねた。
「ええ、なんですか、風邪ばつかり引いてをりますの、お宅の加寿子ちやんたちは、そのわりに、しつかりしてらつしやいますわね」
「そうですかね。さうかも知れないな。滅多に寝ませんから……。さう云へば、子供が病気をしないつてことは、たいしたことでせうね。つい、あたり前のことだと思つてるけれど、これは、なるほど大したこつた。女房が生きてるつていふことが、既に大したことなのと、おんなじですね。こいつはご主人の場合も同様だと思ひますが、人間は、当り前のことには、すぐ馴れてしまつて、そのなかにどんな大きなものがあるかを忘れてゐるんですね」
聞いてゐるにはゐるのだが、初瀬には、この田丸の感慨が、どうもぴつたりと胸に来ない。それは、平凡な幸福の礼讃とも思はれる一種の事勿れ主義のやうにも受けとれるのである。
彼女が今、何かを求めてゐるとすれば、それは、激しい力で自分をゆすぶつてくれるやうな言葉、見事な速さで、この沈んで行く気持を、天空開闊の境地へ引きあげてくれる一と声なのである。
彼女は、この田丸がさういふ言葉を持ち合せてゐるやうな気がする。なんでもかまはぬ、彼の大喝一声が聞いてみたい。彼女は、われ知らず、軽く足踏みをしはじめてゐる。
「加寿子ちやんたちが、お父さまのお留守中、どんな風だつていふこと、どなたかから、お聞きになります……?」
と、初瀬は、突然こんなことを云つた。
「詳しいことは誰も云ひません。聞かせてください、お気づきのことを……」
田丸は、非常に熱心に応へた。
「何時か申上げる機会があればと思つてをりましたの。もつともお留守中とは限りませんけれど……こんなこと、お父さまにはあんまりおわかりになつてないと思ひますから……お二人とも、やつぱり、お家らしいものに饑ゑておいでですわ。それは、お母さまの代りつていふやうなもんで満たされはいたしません……」
そこまで云つて、彼女は、ちよつと考へた。
「お母さん代りではいけない、すると、なんでせう?」
田丸は、好奇的な調子で訊き返した。
「若し失礼になりましたら、ごめん遊ばせ、加寿子ちやんたちと仲好しになれたら、その上でお母さまに、といふやうな方は、絶対に、加寿子ちやんたちと仲好しになれつこないと思ひますわ。仮にさういふ方がお母さまにおなりになつたら、その方にもほんたうにお気の毒だと思ひます。さつきのお話のやうに、母親つて、そんなもんぢやございませんもの。子供にとつて、母親が好きだなんていふ意識は、却つて邪魔なものですわ。ゐてもそれに気がつかないものが母親ぢやございません……?」
「父親はゐなくつても、それに気がつかないものかな」
と、田丸は、苦笑しながら云つた。
「ゐなくなつて、はじめて、どんなものだかがわかるなんて、まつたく変なものですわねえ」
自分もいつか咏嘆に落ちこんでゐるのに気づいた初瀬は、もう遠慮はいらぬといふ風に、肱をすぼめて、からだを大きく揺つた。ぐつしよりとなつた肌着が、それほど冷たくはなかつた。
「あたくし、ですから、時々さう思ひますの──戦死をなすつた若い兵隊さんたちは、そのお母さまがたにとつて、どんなに立派な、親孝行な息子さんだつたらうつて……。
母の愛情なんて、ただ、子供を美しい神様に仕上げたい念願のやうなものですわ」
「なるほど……」
と、田丸は、この初瀬の、思ひつめたやうな言葉の調子に引きこまれた。
風が出たとみえ、木の梢がカサカサと鳴つてゐる。
初瀬の声はそのまま途切れたけれども、風の音に交つて、下駄の歯を踏み鳴らす単調なリズムが田丸の耳についてゐた。
すると、だしぬけに、田丸は、耳を澄ますやうにして、
「ちよつと……」
と、彼女を手で制する真似をした。
「…………?」
初瀬は、田丸の眼の色で何事かを読まうとした。田丸は、低く、
「あの話声、聞えませんか?」
彼女も、眼を据ゑて、聴き耳を立てる。
「子供の話声ですわね」
囁くやうに云つて、彼女は、瞼でその声の所在を探す。
田丸の顔に、サツと明るみが射した。
「ゐますよ、そのへんに……」
さう云ひながら、もうそつちへ行かうとする。
初瀬は、急いで、彼の袂をつかんだ。
「あんまり不意におどかさないで……」
「大丈夫……」
拝殿の廻廊を覗くやうに見上げながら、田丸は裏手の方へ徐ろに足を運んだ。
子供の話声は、そんなに高くはないが、さつきよりもずつとはつきり聞えだした。
たしかに女の子の声である。しかし、その声はかすれてゐて、どうも聞き覚えのある声のやうではない。世津子か知ら? それとも加寿子か知ら? と初瀬は、二人のどちらかでなければと、呼吸を殺して、声の色合ひを聴き分けようとする。いつまでも一人が喋つてゐる。引く息まで手にとるやうにわかるのに、言葉の意味はなにひとつ捉へることができない。
田丸はどうしたのか?
彼は、後戻りをして来た。彼女は待ちきれずに、
「違ひます?」
と、からだを乗りだすやうにして訊ねる。
「そこにゐますよ、三人とも……。あなた、行つて下さい」
「ええ」
彼女は、さう応へると、田丸にちよつと笑ひかけた。彼の心遣ひがうれしかつた。が、それよりも、なによりも、貫太がそこにゐるといふことが夢のやうであつた。どれどれ、どんな顔をしてそこにゐるのだ、と思ふと、彼女はひとりでに微笑まれるのである。
動悸が打つて、打つて、脚がふるへる。手さぐりで廻廊の縁を伝つて行く。なるほど、声はすぐそこでしてゐる。いつたい何処にゐるのだ!
声は、やがて、頭の上から落ちて来る。廻廊が高く、彼女の位置からは覘いてみることができない。しかし、声の主は、もう、世津子に違ひなかつた。
「わかつた? え? 貫ちやん、まだわからない? いや、返事しなくつちや……」
「ちよつと、誰か来たわよ」
あとのは、加寿子である。
ぴたりと、声が止む。
「さ、お迎ひに来てあげたわ。帰りませう……」
初瀬は、やつと、それだけが云へた。
こもごも起ち上る気配と一緒に、
「お母さんだ!」
と、貫太が叫ぶ。
「さうよ、お母さんよ。加寿子ちやん、世津子ちやん、小母さんよ……」
胸をつまらせて、彼女は伸びあがつた。
「小母さん……」
姉妹が同時に叫ぶ。
三つの顔が、手摺からのぞく。
「早く降りてらつしやい……気をつけてね」
正面の階段へ、三つの影が動く。
下駄を穿くのにちよつと手間どる。
貫太は母親の腕に縋りつかうとする。
「みんな、ちやんとお辞儀をして帰るのよ」
四人は拝殿の前に並んで、一斉に頭をさげた。
雨はやんでゐた。
ずつと前を、田丸は、振り向きもせず、ゆつくり歩いてゐた。初瀬は、子供たちの肩が濡れてゐるかどうかをしらべた。ほとんど湿つてさへもゐなかつた。
「貫ちやんがどうしても帰らないつて云ふのよ。困つちやつたわ」
みちみち、世津子が、まづ云ふ。
「みんなが心配して探したのよ。どうしてあんなところへ行つたの?」
初瀬は、素直な答へが引き出せるやうに、優しく訊ねた。
「はじめ、お家の前で遊ばうと思つたの。そしたら、貫ちやんてば、なんにもしないのよ。怒つてばつかりゐるの。そしたら、蝙蝠が飛んでるのをお姉さんが見つけたの」
すると、妹の言葉を受けて、
「──あ、カウモリ、カウモリつて、あたしが云ふと、貫ちやんが──カウモリなんか、八幡様にいくらだつてゐらあ、つて、威張るのよ」
と、加寿子が訴へるやうに云ふ。
「威張りん坊!」
と、そこで、世津子が貫太の方へ頤を突き出した。
「よしなさいよ」
加寿子がそれをたしなめる。
貫太は、しくしく泣きだした。
なにがなにやらわからず、初瀬は声を立てて笑ひ、
「馬鹿ね、男のくせに……」
と、わざとそつぽを向いてみせる。
が、事の顛末は、およそ見当がついたので、初瀬は、それ以上を訊かうともしなかつた。
門の前でしばらく立つてゐた田丸は、初瀬に、「おやすみなさい」と云つて、引つこんだ。
娘たち二人は、父親のあとから玄関をはいつた。
初瀬は貫太を連れたまま、隣組一軒一軒へ声をかけに廻つた。
おひろさんも、田丸の指図を待たず、おなじやうに、礼を云つて歩いた。
初瀬はおひろさんと道で出遇ふ。
「よろしうございましたね、奥様……」
と、おひろさんが、さもほつとしたやうに挨拶をした。
「加寿子ちやんたち、お父様にうんと叱られたでせう?」
初瀬は、その様子が知りたい。
「いいえ、旦那様は、なんにもおつしやらずに、お書斎へすぐに引つこんでおしまひになりましたわ。まつたく、お帰り早々、ねえ……」
と、おひろさんは、眼で笑つて、眉を寄せる。
「ぢや、あたしが叱つたげるから、明日、学校から帰つたら、ちよつと来るやうにおつしやつてちやうだいよ」
「そんなこと申上げなくつたつて、さつさとお自分からいらつしやいますよ」
さう云ふおひろさんの調子は、まことに軽く、刺がない。
「旦那様、明日はお休みか知ら?」
と、初瀬は訊ねた。
おひろさんは、手を振りながら行つてしまふ。
で、おひろさんとはそのまま右左に別れたが、さて、これから姑の前へ出るのだと思ふと、初瀬は、玄関の呼鈴を押しながら、急いで髪の毛を撫でつけた。
義妹の梅代が、扉を開ける。
「あら、ゐたの!」
と、それでも、何時になく仰山な表情で迎へる。
姑は、床を敷かせて、その上に坐つてゐた。そして、母子二人が敷居の外へ坐るのをみると、
「おや、お帰り」
ただそれだけである。両手をついたまま、初瀬はやや固くなり、
「ご心配をおかけして、すみません。八幡様へカウモリを見に参りましたんですつて……。そしたら、雨が降りだしましたもんですから……」
「へえ、カウモリを……。カウモリだつて、もう眠る時間ですよ。早くおやすみ。初瀬、あんた、びつしよりぢやないの。お湯を沸しとくんだつたね」
「いいえ、お母さま、もう乾きましたの。『おやすみ』は、貫ちやん?」
息子を引つ立てるやうにして、初瀬は居間へ戻つた。
貫太は、まだボロボロ涙をこぼしてゐる。
寝間着を着かへさせながら、彼女は、じりじりして来る。別に誰と云つて腹の立つ相手がゐるわけではない。貫太がめそめそするのは、子供心になにか悲しい理由があるのであらう。それを思ふと、自分も一緒に泣きたいくらゐだが、ただ、男の子が、こんな風でいいのだらうか? いい筈はない。悲しいなら悲しいでよろしい。仮りにも自分が男親なら、その悲しみを、物の見事に吹つ飛ばしてやれる、なにか、かうキビキビした、胸のすくやうな方法がありさうに思へる。
彼女は、そこで、夫の遺言を想ひ出した。
──この子は、やつぱり自分の手から離さなければいけないのか!
貫太は、横になると、すぐに、すやすやと眠つた。
ぢつとその寝顔に見入りながら、初瀬は、いつぞや見た映画の一場面の中に、それを置いた。映画といふのは、海軍少年飛行兵の訓練と生活を写したもので、場面は、それらの少年たちが、イガ栗頭を並べてぐつすり寝込んでゐるところである。やがて起床喇叭が鳴り響く。少年たちは、バネ仕掛けのやうに飛び起きる。手早く寝具を片づけ、点呼に整列する。さういふ情景のひとつひとつが、貫太の姿をまじへて、大きく彼女の眼にうつる。
それにつれて、彼女の胸は引き締る。腕に力がはいる。
──貫ちやん、しつかりするのよ!
喉へ出かかる叫びをぐつと抑へて、彼女は、夜具の上から息子を抱きしめた。
日支事変以来、いろいろ新しい言葉、珍しい言葉が使はれだした。時代がさういふ言葉を必要とする一方、さういふ言葉がまた時代の調子を作つてゐる。
いちいち例を挙げるまでもないが、第一に「非常時」から始まつて、「超非常時」「決戦段階」といふ風なことを二た口目には誰でも云ひ、「大政翼賛、臣道実践」は近衛公爵の宣言に源を発し、「新体制」と共に忽ち世上を風靡したが、「滅私奉公」は誰が云ひだしたか、国民日常の戒訓となつた。
しかし、「総力戦」といふ言葉ほど耳新しく響いた言葉はそんなにない。
武力戦だけが今日の戦争ではなく、これと並行して、国家のすべての機能、国民のあらゆる活動が、戦ひの勝敗を決する一素因であるといふ意味がそこに含まれてゐる。
経済戦、外交戦、思想戦、宣伝戦、謀略戦、などはすぐに耳にも眼にも慣れて来たが、「生産戦」はほやほやの感があり、「生活戦」となると、まだ大分説明がいりさうだ。
矢代初瀬は、四五年前、「生活戦に備へて」といふ誰かの文章を雑誌で読んだ記憶がある。日本人の「生活観」を吟味せよといふことから説き起し、現代の風潮に厳しい批判を加へ、武士道の精神と武家の家風とを結びつけ、質実剛健を旨とする日常生活こそ、戦ふ国民の底力であるといふ前提のもとに、能率、健康、品位の三点から、可なり具体的に、戦時生活の根本的建て直しを唱道したものであつた。
議論といふものは面白いもので、まつたくその通りだと思ひながら読んでゐるうちに、さう思つただけで、もう満足してしまふやうに書けてゐるものである。
ほんたうは、さういふつもりで書いてゐるのではないだらう。なるほどと思つたら、その通り実行して貰ひたいといふのが論者の希望であらうけれども、さて、実行しようといふ気持を起させる文章は滅多にない。さういふ気持が、一瞬、仮に起つたとしても、その気持を持ち続けるといふことが容易でないのである。
まことに、議論といふものは、整然としてゐればゐるほど、真の決意からは違いものといふことができよう。
しかし、それだから、議論はいらぬといふ意見も亦をかしなものである。
なぜなら、議論は議論として使ひ道があり、議論はいらぬなどと人の議論に気をとられてゐる暇に、さつさと実行すべきことを実行したらいいのである。議論はいらぬといふ連中が、とかく他愛もない雑談に時を過すことが多い。
さて、さういふわけで、矢代初瀬も、時々は議論めいた文章を読んだり、婦人会の講演を聴きに行つたりするけれども、いはゆる理窟から実践への橋渡しをしてくれるものがないので、いつも、そこのところが胸につかへてゐてしやうがない。
「生活」は、彼女にとつて、ただ一つしかないのである。
「生活」は一つではない、といふものがあるかも知れぬ。女と雖も、今日は、公私二つの生活をもつてゐる筈だと、或は云ふものもあるだらう。
しかし、少くとも、矢代初瀬は、さう考へたくなかつた。さういふ考へ方がむしろ危険ではないかとさへ思はれた。なぜなら、男にせよ、女にせよ、「生きてゐる」といふすがたに変りはなく、その一筋の生命を二つに使ひ分けることは、結局一方を誤魔化すことで、破綻が何時かは来るものと覚悟しなければならぬ。
今日の国民に課せられた最も困難な役目は、おそらく、「私」の生活を「公」の生活から切り離さず、これを一体として身につけ、私生活の充実がそのまま公生活の原動力となり、公生活の秩序が、引いて私生活を豊かにするといふやうな工夫努力を積むことであらう。
しかし、それを極端に、公生活のみがあつて私生活はないのだと言ひ切るのはまだよいとして、公生活さへ立派なら私生活はどうでもよいといふ流儀が、現在はなかなか幅を利かしてゐる。事実、公生活のための私生活だとは云へるけれども、常に公式張る人間は、早く云へば機械に近い人間である。私生活のために公生活があると思つてゐる人間が、よくこの手合ひのうちに見られる。そして、さういふ人間を裏返してみると、多くは獣のやうに見えるものである。
矢代初瀬が、なぜこんなことを考へはじめたかといふと、夫正身の死後、急にいろいろな問題が身辺に集まり、それが、事小に見えて、実は案外大きな結果を予想させたり、遠い将来のことだとは思ひながら、現在もうすぐに、その用意だけはしておかなければならなかつたりするので、その日その日を、なんとかして、悔いのない、人からも後ろ指をさされないやうな暮し方をしたい、いやいや、そればかりではなく、進んで、女一人の力でも、戦ふ日本の力になりたい、といふ突きつめた気持が、いくぶん急きたてられるやうに、ぐんぐん高まつて来たからである。そこで、普通、男ならばさしづめ、対手をみつけて熱をあげるほどのところを、彼女は、表面、別にこれと言つて変つた様子もみせず、ただ姑が一切家政家事のことに喙を容れないのを幸ひ、消費生活の思ひきつた緊縮、割当を遥かに超える国債の消化を手始めに、廃品の供出と云へば、惜しげもなく不用品を持ち出し、ヒマの栽培となると、庭一面に種を播くといふ具合で、それが彼女の場合は、ほかからみて、そんなに目立つた振舞ひにならぬことがまた不思議であつた。
ある時は、町会から種兎を分けるといふ話があつて、この隣組では、青少年班の手で協同飼育をしてはどうかといふことになつたのだが、さて、適当な場所がない。あれはどうも臭ひがするので、と誰も彼も尻込みをし、その議はつひに立ち消えになりかけた。
ところが、
「では、あたくしのところでよろしかつたら……」
と、彼女は、これも早速、引受けてしまつたのである。
兎を飼ふ話がきまると、矢代家は、忽ち隣組青少年の集会場になつた。
箱を集めて来て巣を作るのが男子青年の役で、これはアトリエを工場に充て、飼育に関する予算をたてるのは女子青年で、この方は初瀬の居間の机にかじりつく。少年組は、もう、兎の好きな雑草を集めに出かけるといふ騒ぎである。
作業のための人手はそんなにいる筈はなく、おほかたは、がやがやしてゐる手合ひであるけれども、初瀬は別にそれをうるさがらず、時間になれば、ありあはせのおやつでも出すといふ風であるから、子供たちにしてみれば居心地のわるい筈はなく、用があつてもなくても、学校から帰ると「矢代さんのとこへいつて来る」が、どこの家でも通用する挨拶になつた。
たしかに、これは一面、初瀬を中心とする青年男女の倶楽部といふ体裁を帯びて来たとも云へるのであつて、そこに気のついてゐる親達は、まだないらしい。
初瀬自身は、しかし、さういふ現象をむしろ興味をもつて眺め、これこそ田丸組長の任命による生活訓練係が、責任をもつて監督指導に当らなければならないところだと考へてゐた。ただ自分がその任かどうかといふことになると、彼女の自信はぐらついて来る。伊吹未亡人や、楠本の細君に、一応相談をしてみる必要があるかも知れぬ。
とは云ふものの、元来、青年男女の交際といふやうな問題を、生活訓練の立場からみるといふこと自体が、一般に理解されるであらうかと、初瀬は、そこに疑問をもつた。
余計なことに係り合はない方がいいといふ意見も出るであらう。家庭によつてそれぞれの方針があるべきだから、といふ反対も予想されるが、まだなによりも「生活訓練」の範囲を「異性間の交際」にまで広げることを意外に思ふ両親はゐさうである。
初瀬は度胸をきめた。そして、成行きを見ることにした。
ただ、しかし、彼女は、この集りの雰囲気を飽くまで清潔なものにしようと思つた。調子に乗つて悪ふざけをする若者があると、彼女は、それを直接たしなめる代りにいつ如何なる場合でも、
「さ、今日はこれで解散にしませう。」
とさりげなく宣告した。
この宣告はなかなか手応へがあつた。
「また解散を命ぜられるぞ」
などと、仲間を戒める声が聞えるやうになつた。
初瀬は、笑つてゐてもいいのである。
「うちの息子は、親たちがなんと云はうが、縦のものを横にもしない息子ですのに、矢代の小母さんがかうしろつておつしやつた、ああしろつておつしやつた──と、まるでどうかしてますのよ」
なかには、こんなことを云ふ細君もゐた。
仔兎はなかなか配給にならなかつた。しかし、隣組の子供たちは、もう仔兎のことは忘れて、毎晩のやうに矢代家の座敷へ集まつた。
アトリエへピンポン台が備へつけられた。
少年組と青年組とは、一緒になつて遊ぶこともあり、別々になにかをすることもあつた。
すべてが自然に委されてあつたために、揃ふ顔がだんだんきまつて来た。男子青年が圧倒的に多く、女子青年の数は次第に減つていつた。それはどうすることもできず、また、どうしようとも初瀬は思はなかつた。年頃の娘たちにとつて、この雰囲気はそれほど魅力のあるものとは思はれない。ただ、年頃前の、云はばお転婆盛りが、相手として不足のない遊び仲間をそこに見出した。
田丸の娘たちは、もちろん常連であつた。男同胞をもたぬこの二人は、半ば物珍らしげにこれら男子青年の言動に眼をみはり、彼等から対等にあしらはれることを誇りとし、時たま見せられるちよつとした騎士道に頬を熱くした。
わけても、姉の加寿子は、もう自分の周囲を取巻く特殊な気配を感じてゐた。
彼女は、自分の小さな力が影響する範囲を見てとつた。これならと思ふ相手には高飛車に出た。
「すげえ、すげえ」
と、みんなが囃したてた。
土曜日の晩などは、ずゐぶん晩くまで話し込むやうなことがあつた。切り炬燵に火を入れるやうになり、ぎつしり詰めれば十二人は周りへ腰かけられるのだが、初瀬は、一度の経験でこれはまづいと気がつき、炬燵は女の専用といふことにした。男たちは、小さな火鉢を一つあてがはれ、それも火が消えると、ズボンのポケツトへ手を突ツ込むよりしやうがなかつた。
少年組は、貫太を除いては、一人も残つてゐない。貫太が眠むさうな眼をすると、あたりが切りに気をもむ。閉会になることを懼れるのである。
しかし、貫太は我慢をしない。決して一人で寝に行かうとはしないが、平気でアクビをし、母親の肩へ寄りかかる。
初瀬は、貫太に、先へ寝ろとは云はぬ。ひと悶着が起るにきまつてゐるからである。
風呂のある日は、面倒が少い。老人は寒いから寝しなにはいるといふので、貫太を真つ先に入れる。
初瀬も一緒に着物を脱ぐことがある。集つてゐる連中は、それをしほに引上げる。
その日も、それであつた。
「加寿子ちやんたちは、もう長くお風呂へ行かないんでせう。はいつてらつしやいよ、手拭貸したげるから……」
と、初瀬は帰らうとする二人に云つた。
二人は顔を見合はせてゐたが、世津子の方が、
「うん、さうするわ。あたし、お手拭とつて来る」
加寿子たちも一緒にはいるといふので、急に元気づいた貫太は、真つ先にひとりで裸になり、湯加減をみてゐる初瀬の顔へ笑ひかけながら、文句も云はず湯槽へ肩まで沈んだ。
「熱くない?」
「熱いもんか」
「へえ、これで?」
初瀬は、内心、世話が焼けなくていいと思つた。
娘たち二人が競争みたやうに飛び込んで来ると、初瀬は今更のやうに驚いた。もう子供のからだではない。
「ちよつと、ちよつと……二人とも足が真つ黒よ。ちやんと洗つてちやうだい」
からだは子供ではないが、することはまるで子供である。自分の足をどう洗ふのか、それも知らない。
「シヤボン、はい……」
棚から石鹸を取つて渡す。すると、それの奪ひ合ひがはじまる。
あとから、初瀬も着物を脱いだ。
濛々とした湯気のなかで、四つのからだがもつれる。
初瀬は、娘たちに洗ひ方の順序を教へる。手拭に石鹸を含ませて、まづ頸をこすらせる。手拭がすぐに黒くなるので、二人はキヤツキヤツとよろこぶ。
貫太は母親に頭を洗つてもらひながら、世津子に話しかける。
「世津子さんは、頭、だれに洗つてもらふの?」
「自分で洗ふわ」
「洗へる?」
「洗へるわよ。やつてみませうか?」
「うそよ、お父さまに洗つていただくのよ」
姉の加寿子が素つ破ぬく。
「たつた一度きりぢやないの」
「銭湯ぢやなかなか洗へないわね。これから、うちへ来た時洗ふといいわ。貫ちやん、動いちや駄目よ」
貫太は頸根つこを押へつけられ、眼を固く押しつぶりながら、
「ねえ、世津子さんとこ、どうしてお風呂沸かさないの?」
「焚くものがないからよ」
と、加寿子が大人ぶつた口調で云ふ。
「うちへ貰ひに来りやいいのに……ねえ、お母さん」
「うちだつて、そんなにありやしないわ。だから、うちで沸かした時、はいりに来ればいいのよ」
初瀬は、かういふ応答は苦手である。
「だつて、小父さんやおひろさんはどうすんの?」
貫太の同情は少し度が過ぎるやうである。
「大人はいいの。少し黙つてらつしやい。口へシヤボンがはいるわよ」
果して、貫太は、ペツペツと、やけに唾を吐いた。
貫太の頭を洗ひ終ると、初瀬は、世津子の頭を引き寄せて臭ひを嗅いでみる。
「これは大変だ」
と、初瀬は、坐り直す。
貫太は湯槽のなかから、また世津子に云ふ。
「うちのお母さん、上手だよ。眼をうんとつぶつてれば痛くないよ」
世津子はくツくツと笑ふ。
加寿子は、順番が来ないうちに、
「あたし、自分で洗ふ」
「待つてらつしやい、あんたも……。寒ければ一度漬かつて……」
初瀬はキツパリと命令する。そして、世津子の髪の毛を丁寧に掻きあげながら、
「なんて多い毛でせう。まるでジヤングルだわ」
ジヤングルが気に入つたとみえて、貫太は一層はしやぎ出す。
「さうしてると、まるで、うちのお母さんが世津子さんのお母さんになつたみたいだよ」
初瀬はグツとなる。しかし、言葉が出ない。
すると、それを聞いた加寿子が、
「貫ちやん、いやでせう、お母さんをひとにとられて……」
貫太にはそんな厭味は通じない。
「だつて、僕のお母さんはゐなくなりやしないよ。加寿子さんたちのお母さんはもうゐないんだから、僕のお母さんが、加寿子さんたちのお母さんにもなればいいぢやないか」
「ほんと?」
と、加寿子が、力を籠めて念を押す。
「ほんとさ。丁度いいんだもの。加寿子さんたちはお母さんがゐないし、僕はお父さんがゐないから、うちのお母さんが加寿子さんたちのお母さんになつてさ……」
そこまで云ふと、
「そいで、うちのお父さんが貫ちやんのお父さんになるの?」
と、世津子が、シヤボンの泡のなかから、やつと声を出す。
ここまで来ると、初瀬は、もう聞えないふりはできない。すこし無理にではあるが、喉の奥で笑ふ。
さすがに、姉の加寿子は、その意味の重大さに、やつと気がついた様子である。
「そんなこと云へば、貫ちやんは、もう、矢代貫太ぢやなくなるわよ」
「さうさ。矢代と田丸を合して、半分に割ればいいよ。矢田貫太だ」
さう云つて、愉快さうに、「矢田貫太」を繰り返す。
初瀬は、はらはらする。誰かに聞えたら、妙なものである。さうかと云つて、真面目に制するほどのことでもあるまい。が、貫太の大声をぴたりと止めたのは、加寿子の一言であつた。
「うそよ。さうなれば、田丸貫太よ」
姉の言葉に勢ひを得て、世津子がまた口を挟む。
「さうよ、田丸貫太よ。あたしは貫ちやんのお姉さんよ。ちやんと云ふこと聞くのよ」
なんの不安もなく、からだを初瀬に委せつきりにして、この小娘は生意気な調子を出す。
「うそだい。田丸でなくつたつていいんだねえ、お母さん。世津子さんだつて、矢田世津子でいいんだよ」
「矢田世津子……あら、をかしい。さういふひと、小説書くひとにゐるわ。雑誌に名前が出てるわ」
加寿子が、それを厳然たる否定の理由にする。
「ねえ、お母さん、お母さんはどうなるの?」
貫太が、すこし怪しくなる。
もう好い加減におしまひにさせようと、初瀬は、わざとその話に乗らない。そして、加寿子の頭は、また今度といふことにする。
湯槽に浮んだ三つの顔を、初瀬は、ぼんやり見較べながら、子供のお喋りも油断がならぬと思ふ。さう思ひはするが、また、これが三人の姉弟であつたら、と、想像してみる。それはつまり、自分の子供が三人になるといふことである。それはそれとして、別に、大したことではない。現に、かうやつて、三人とも一緒くたに風呂に入れて、自分としては、なんの不自然なところもなく、さしたる苦労も感じないのである。
それにも拘らず、それはそれだけで済まないわけを、この三人は、はつきり知つてゐるかどうか?
一つ時、静かになつたと思つたが、貫太は、なにか悪戯をはじめた。多分、手拭に空気をはらませて湯の中に沈め、それを押へてぶくぶくと音を立てる、あれをやつたらしい。
「誰か、おならしたよ」
娘たちには甚だ迷惑と思はれる悪戯であるが、こつちが心配するほどではない。世津子の如きは、早速、報復戦に出る。洗ひ桶を伏せたまま湯の底へ足で押し込み、それを貫太の尻の下で放す。ゴボゴボツと威勢よく桶と空気の塊が浮き上る。敷設水雷ださうである。
初瀬は、際限なしとみて、その桶を取り上げる。
「さ、早く温まつて出るのよ。貫ちやんひとりで拭けるわね」
貫太は真つ赤にゆだつて、起ち上る。
加寿子も世津子も、いい色になつた。
冷えきつて、蒼みを帯びたほどの自分の肌を、初瀬は、はじめて熱い湯にひたした。
脱衣場での子供たちのお喋りをもう聞くともなしに聞いてゐた。
「加寿子さんも世津子さんも、ほんとに、うちのお母さんの子供になる?」
「貫ちやんも、ほんとに、うちのお父さんの子供になる?」
「貫ちやん、うちのお父さんの子供になる?」
といふ加寿子の問ひに、貫太がなんと答へるか、初瀬は軽い好奇心と多分の危惧とをもつて聴いてゐた。
すると、貫太の声は聞えず、ただ、娘たち二人が、両方から、勢ひ込んで、「きつとね」「ぢや、ゲンマン……」と、彼の言質をとらうとしてゐる様子がうかがはれた。
「貫ちやん、いつまでも愚図々々してるんぢやないわよ。早くお寝間着を着て、学校のお道具を揃へなさい」
初瀬は、自分の声が自分の耳にも厳しすぎるくらゐ甲高く戸の外に向つて叫んだ。
彼女が湯からあがると、もう貫太と世津子の姿は脱衣場には見えなかつた。そして、加寿子一人が鏡の前で切りに髪をときつけてゐる。
「小母さん、このクリームすこしちやうだいな」
「あんた、もうクリームなんかつけるの? ええ、いいわ」
さうは云つたけれども、初瀬は、なにか一と言つけ足さずにはゐられなくなり、
「加寿子ちやんは、もう来年は十七ね。女の十七と云へば、どういふ年だか知つてる?」
「知つてるわ。昔ならお嫁に行つた年でせう。うちのお祖母ちやんがさう云つたわ」
即席の答へとしては少し出来すぎてゐたが、初瀬は、それを言ふ加寿子の調子のあまりに事もなげなのをみて、なんとなく興冷めがした──
「いやだわ、そんな平気な顔して……。うそよ、お嫁に行く行かないぢやないのよ。それよりもつともつと大事なことがあるんだけどなあ」
真正面からでは効き目がないとみて、彼女は、かう遠廻しに持ちかけた。
「なに、もつと大事なことつて?」
「教へてあげる代り、ただ聞きつ放しにしちやいやよ。自分でそのあとをよく考へるのよ。いいこと? あのね、今迄のやうに、ただのお嬢さんでなくなること。お嬢さんつて、どんなもんだか知つてるでせう?」
加寿子は、鏡の中をのぞき込むやうなかたちで、ぢつと耳を澄してゐた。明らかに胸にこたへたらしく、ほんの瞬間ではあるが、さも悲しげな表情をした。
それに気がつくと、初瀬もひとりでに鏡に顔を近づけ、加寿子のうしろから、その肩を優しく抱きながら、しみじみと云つた──
「男はみんな、命堵けで戦争をしに行くのよ。明日、敵がここへ攻めて来たら、あたしたちは、立派に死ぬ覚悟をしなきやならないわ。さうだとすると、今日、あたしたちは、なにをしたらいいでせう? 先づ女がしなければならないこと、女でも出来ることは、それこそなんでもして、お国の役に立つことだわ。十七の娘がしなければならないことつて云へば、なんでせう? 加寿子ちやんの場合よ。なにせ、特別よ、あんたは」
加寿子は、別に、なんとも云はなかつた。鏡に映る初瀬の顔へ、ちらと訴へるやうな視線を投げ、そのまま彼女の腕からすり抜けようとする。
「小母さんのお部屋で待つてらつしやいね。すぐ行くから……。今夜はいいもの、ご馳走するわ」
さう云つて、彼女は急いで着物を着た。
子供たち三人は、何事もなかつたやうに、めいめい、勝手なことをして遊んでゐた。
初物の蜜柑を二つづつ膝の上へのせてやると、子供たちは眼を丸くした。
「貫ちやんは、あしたのにとつとくのよ。ほら、ね」
母親のこの注意は、貫太を照れさせる。世津子が、もうくすくす笑ふ。
「あたしもさうするわ」
と、加寿子が云ふ。
「あたしも……」
と、世津子が真似る。
「あたし、一つお父さまにあげるから、世津ちやん、おひろさんにあげなさい」
加寿子の提案に世津子は黙つてうなづく。
二人はやがて帰つて行つた。
初瀬は、今日一日もやつと終つたといふ気が、ふとする。生温い一日だと思ふ。なぜもつと、くたくたに疲れないのかと、それが不満である。さうかと云つて、今日此頃、決して忙しくないわけではない。することはいくらでもあるし、からだはいくつあつても足りないほどだのに、用事といふ用事は、ほとんど暮し向きのことばかりである。工夫もヘチマもあつたものではない。瓦斯の使用量を制限したり、ボロを継ぎ合せて雑巾を作つたり、いざといふ場合の食糧をリユツクサツクに詰めたりしてみても、てんで「これが戦争だ」といふ切迫感がともなはない。彼女にとつて、そんなことは力瘤を入れるほどのことではないのである。
と、この時間に、勝手口で誰か人の声がする。
出てみると、楠本の細君が戸の陰に立つてゐた。
「あら、こんなとこから……」
と、初瀬は、驚く。
「いいえね。実は、誰にも内証でご相談にあがつたの。困つたことができちやつたわ」
楠本夫人は、それほど困つた顔付もしてゐない。
「なに、いつたい? まあ、お上りになつたら?」
「だから、ここの方がいいの、目立たなくつて……」
さう云ひながら、あたりへ素早く眼を配る様子は、なるほど、ただごとではなささうである。初瀬は、急きたてた──
「ぢや、早くおつしやいよ」
「今云ふから待つて……。どう云へばいいか知ら……。順序を考へて来て、忘れちやつたわ……ええと……今日ね、あたし、午前中、二時間ばかり家を明けたの。子供たちを連れて親類へ顔出しをして来たんだけれど、その間の出来事よ……」
初瀬はただうなづきながら聴いてゐる。
楠本の細君は考へ考へ喋る。言葉のひとつひとつを探しながら、そして、それらの言葉をいちいち吟味しながら口に出すといふ努力と思慮のほどをみせる。
「出がけにお隣の陣内さんへお頼みしますつて声をかけたの。すると、ちやうど久保さんの奥さんが来てらしつて、──あたし今日は暇だからお留守番しますわ、つて冗談みたいにおつしやるのを、こつちは、急ぐもんだから、ろくに返事もしないで、何時ものやうに、玄関とお勝手の戸締りだけして、出かけてしまつたの。縁側の方はお隣からまる見えでせう、だから……。お昼ちよつと前に帰つて来て、お隣をのぞくと、陣内さんは、一等下のマリちやんがお茶の間でなんかして遊んでゐるつきり、うちの中はがらがら……序に久保さんはどうかしらと思つて、裏から廻つてみると、奥さんはお勝手でお煮物の最中なの。そしてあたしの顔を見ると、ちよつと驚いたやうな風をなすつて、いきなりかうよ──お宅なんかいいわねえ、お米がずいぶん余つていらしつて……それを聞いて、あたし、どんな顔をしたとお思ひになる?」
初瀬も、この細君がどんな顔をしたかを想像するとをかしかつたが、それよりも、第一に、久保夫人の量見がわからない。人の家の米櫃をまさか留守に黙つてのぞいてみたわけでもあるまいに。
ちよつと間をおいて、楠本の細君は続ける──
「まつたく、あきれるどころぢやないわ。ひとりでに、大きな声が出るほど、ギヨツとしたわ。でも、真面目に、どうしてそんなことご存じ? とも訊けないから、──さう余つてるわけぢやございませんつて、返事すると、ほら、いつものでんで、ご主人と子供さんたちの健啖ぶりを、誰はなんぜん、誰はなんぜんつて吹聴なさるの。それだけならいいわ、しまひに、ご主人と大きい坊つちやんとが、お櫃の取りつこをするつていふ話までなさるの。聴いてゐられる、そんな話?」
初瀬も、それはさぞ聴きづらからうと同情した。しかし、肝腎の話はまだなのか? わざわざ相談に来るほどの困つた出来事とは?
「まあ、それはそれとして……」
と、楠本夫人は、いよ〳〵本筋にはいるらしい──
「考へると、あたしも可笑しいぢやないの。家へあがつて、早速お米櫃をのぞいてみたわ。まあ、どうやら計画どうりにやつていけるのは、結局、赤ん坊は別として、家ぢゆうがその気になつてくれてるからだ、と、そんなことを考へながら、何気なく、お米を手で掬つてみてゐると、まあ、どうしたつて云ふんでせう……。見たこともない毛ピンが一本ほら、これよ……出て来たぢやないの……。ああもういやだわ、そのさきを云ふのは……」
なるほど、楠本の細君もそのさきをいふのはいやに違ひない。初瀬は、そのいやなことを云はずにゐられない、楠本の細君の思ひあまつた様子を眉をひそめるやうにして打ち眺めてゐた。
「神様、どうかおゆるし下さいつて、心の中でお詫びをしながら、あたし、お米をすつかり量つてみたの。目方にして、ちやうど〇・三キロあまり、大体両手でひと掬ひ、たしかに足りなくなつてるつてことがわかつたわけよ。たつたそれつぱかり、秤にかけてみなきや、絶対にわかりつこないでせう。そこに企みがありすぎるとも云へるけど、それより、なんだか、両手でひと掬ひのお米を、と思ふと悲しくなるぢやないの。誰にしたつて、この出来事を、常識にあてはめて考へるひとはないと思ふわ。実際、あたしにしたつて、お米がどうかうつていふ問題ぢやないんですもの。さうね、云つてみれば、眼を蔽ひたいやうな惨酷な場面をふと見たつていふ気がするだけよ。ただ、事件の性質はそれだけぢやないから、さて、困るの。この隣組の問題として考へる場合、あたしは、いつたい、どうすればいいんでせう?」
しばらく、また、沈黙が続く。
初瀬は、悪夢から覚めたやうに、
「おそろしいこと……。でも、ほんとに、そんなことつてあるか知ら……?」
と、口の中で云ふ。
「間違ひであつてくれればと、どんなに祈つたか知れないわ。でも……事実の前に眼をつぶることはあたしにはできないから……」
「隣組の問題には違ひないけど、それよりもつと大きな問題もあるんぢやない? もちろんたつた一人の例外だわ。でも、あたしたち、女の仲間から、大事な時に、弱い犠牲を出したつてことね」
口惜しさ、憤らしさに、初瀬はわれを忘れて、何ものかに挑みかかる。相手は、話題の女ではなくて、それを取巻くいくたりかの人物である。主人、息子、娘である。自分もその一人であるところの隣人の群である。
楠本の細君は、しかし、初瀬の重く沈んだ言葉の調子だけで、すべてを読むことはできなかつた。
「主人がゐないもんで相談はできないし、いきなり組長さんのところへ持ち出してもどうかと思ふし、女同士で一番気のおけないあなたにだけ、とにかくお話してみようと思つて……」
さういふ楠本夫人の、なんでも物事にけじめをつけたがる流儀を、平生から初瀬は呑み込んでゐた。初瀬は、それに応へるにしてはすこし漠然とした言ひ方で──
「だから、これはあたしたち二人の胸にをさめておきませうよ。やつぱり戦争だわ……ほんとに戦争だわ……」
早咲きの薄紅梅が、ほんのりと庭の隅で匂つてゐる朝、楯凡児氏は、儀礼章をつけた国民服の胸を張つて、まつ先に通りへ出た。
まだ、誰の顔も見えない。
からりと晴れた空を、ひと渡り見まはして、大きく呼吸を吸ふ。もう、横町のどの門にも国旗が出てゐる。
矢代家から男の子が飛び出す。楯凡児氏の姿を見ると、キチンと帽子を脱いでお辞儀をする。お辞儀をしたと思ふと、隣の田丸家へ駈け込む。
やがて、すぐ前の八谷家の玄関が開いて、日の丸の襷を制服に結んだ次男保を先登に、一家四人が次ぎ次ぎに出て来た。
「お早う」
「お早うございます」
「典二さんは?」
「いや、今すぐ……」
楯氏は、ちよつと家の方を振り返る。
田丸家の娘二人と矢代の男の子が、手をつないで通りへ現はれる。が、三人はすぐにまた矢代家へ姿を消す。
その頃、あつちからも、こつちからも人が集る。
珍しく、男たちの、弾みを帯びた朝の挨拶。
遠山の三男、茂が、これは工員服の上に国旗の襷、刈りたての頭を撫でながら、うつむき加減に歩いて来る。
楯氏は、しきりに時間を気にしてゐる。
みんなの吐く息が白く、それだけが目立つ。
「お父さまア」
娘の声に呼ばれて、楯氏は、
「おうい」
と云ひながら、潜り戸を潜つて引つ返す。
突然、ふだん開けたことのない正門の大きな扉が、重い音を立てながら中から開く。
と、楯氏の後ろから、大勢の同胞に取巻かれた次男の典二が、これも中学の制服に日の丸の襷凜々しく、そのくせ、隙があれば眼顔で誰かに悪戯をしかけたさうな様子で、玄関から門までの砂利石を踏みはじめる。少し遅れて、楯夫人が襟をかき合せながら、小走りについて来る。
「組長さんは?」
と、楯氏が左右を見る。
「今朝一番で帰つて来るから、きつと間に合ふつて、さう云つておいででしたが……」
遠山副組長が云ふ。
「送別の辞は遠山さんにお願ひするちうわけにもいくまい、なにせ茂君を送るだで……」
八谷が口を挟む。
云ふまでもなく、この隣組から、こんど、同時に三名の海軍飛行予科練習生を出すことになつたのである。しかも、その三人がお互に、是非とも一緒にはいらうと誓ひ合ひ、それがその通りになつたのだから、彼等の得意、想ふべしである。
さて、隣組のほとんど全員と、そのほか近所の有志とがどうやら出揃つた頃、組長田丸浩平は、旅行トランクを肩に、停留所前の煙草屋で借りた自転車を飛ばしてやつて来た。
定刻を過ぎること三分、誰もかれもほつとした顔付のなかに、彼の娘二人だけは、この見馴れぬ父親の恰好を、気まりわるがつてゐる。
「やあ、みなさん、お待たせしました。どうも電車つてやつはじれつたくつて……」
トランクを道ばたへおろすといつしよに、田丸浩平は、流れるやうな額の汗を拭いた。
「上野に何時に着いたのか」とか、「上野からここまでよくその時間で来れたものだ」とか、「やつぱり動きつけてゐる人は違ふ」とか、様々な声がかかる。
「では、早速ですが、始めませう。まづ、三人の諸君、このへんにお立ちを願はう。ご家族の方々は、両側へ適当に……。ほかのみなさん、こつち側へどうか……」
いちいちこんな世話まで焼かねばならぬ組長もたいていではない。
わざと遠く離れて見物でもするつもりでゐるものがある。これももつと近くへ招き寄せて、参列者らしい位置につかせる。
家族でもないのに、家族のたまりへ紛れ込んで平気な顔をしてゐるのはどうしたわけであらう。それも、子供だけではない。
田丸は、もうそんなのにはかまつてゐられず、きちんと丈の順に並んだ三人の紅顔の勇士の前に一歩進み出る。
「この隣組は、今日は、まことに肩身がひろい。もちろん、今日まで肩身がせまかつたわけぢやありません。それどころか、出征軍人あり、徴用工員あり、従軍記者あり、殊に、名誉の戦死者を出してをり、なほ隣組全員、力を協せて銃後の御奉公を励んでゐるつもりでありますが、さて、それにも拘らず、戦争の現在の有様は、どちらかと云へばこつちは受身です。まさに国難といふ言葉があてはまる時機です。この調子を盛り返すためには、どうしても南太平洋の制空権をおさへなければならん。来るべき空の決戦は、つまり、日本が、大東亜が、活きるか死ぬかの岐れ目です。諸君の熱血が湧き立つたのは、実にそのためだと信じます。しかも、八谷保、楯典二、遠山茂の三君が、聞くところによれば共に誓ひ、共に励まし、初志の貫徹に邁進された結果が、ここに、三君揃つて芽出度く出陣といふ、この隣組にとつても、なんとなくほこらしい、が、一方、しみじみと諸君並に諸君のお父さんお母さんにお礼を申したいやうなこの壮んな出来事になつたのです。
今、かうして、諸君を前にして、われわれがここに集つたのは、諸君の門出が、家の門を出ることであると同時に、隣組の懐をはなれることだといふ、そのことだけを忘れずにゐてもらひたいからです」
田丸浩平は、そこまでは、隣組を代表しての気持を素直に述べたつもりである。が、そこから、急に、自分にもわけのわからない感情が盛りあがり、どうしても、それを言葉にしないではゐられなくなつた。
「諸君は、既にもう、いろいろな激励の言葉を聴かれたでせう。ここにゐるみんなもまた、云ひたいことはたくさんある。しかし、恐らく、このことだけは、わたしから、はつきり今、諸君の心に伝へておかなけりやならんと思ふ。それは諸君にとつて、この隣組は小さくとも、ひとつの故郷だといふことです。諸君の家がひろがつて日本の国をつくつてゐるわけを切実に教へ、諸君の生ひ立ちを朝夕眺め、諸君の立派な覚悟が生れる一つの土台になつたのは、この隣組だからです。やがて、忘れることのできない数々の想ひ出が結びつき、戦場の夢はきつとここへ通ふでせう。隣組は諸君の故郷だからです。その故郷を護るわれわれの名で、最後に諸君に云ひます──
今日から尊い任務を帯びた諸君は先づ、国に捧げた大事なからだだといふことを肝に銘じて下さい。そして、これまでになるのには、どれだけの愛情と、おまけに、手数がかかつてゐるかといふことを考へて下さい。「今こそ」といふ時に素晴らしい働きができるやう、その働きが、もちろん、生死を超えたものであるやう、われわれは切に、切に祈つてゐます。終り」
田丸浩平の挨拶が終ると、三人の少年は、一斉に挙手の礼をした。そして、年長の八谷保が、いきなり、肩を聳かし、空の一角をにらみ、
「只今のお言葉は決して忘れません。うんと頑張ります。ありがたうございます」
と、喉が裂けるほどの声で云つた。
すると、楯典二も、そのあとから、
「僕は、滅茶苦茶に撃ちまくつてやらうと思ひます。体当りでもなんでもやります。平気です、あんな奴ら……」
その調子に、思はず、どつと笑ひ声が起る。が、その笑ひ声がぴたりと止む。遠山茂が、小さなからだをゆすぶつて、これも何か云はうとしてゐるからであつた。しかし、みんなの視線を浴びながら、この少年飛行兵は、何を云つていいかわからない。たうとう、ぺこりと頭をさげた。そして、
「行つて参ります」
と、ただ、それだけ云つた。
誰も彼も、眼をしばたたいた。
矢代初瀬は、さつきから、うしろの方で、この様子をぢつと眺めてゐる。貫太は、列の前へはみ出してゐる。加寿子と世津子とが、初瀬のそばへ、神妙に並んで立つてゐた。
楯凡児氏が、家族側を代表して礼を述べた。殊に組長の言葉は大いに我が意を得たものであると云ひ、隣組の力強い発展を、単に、三人の少年のためばかりでなく、国家のために要望して、慣れきつた挨拶を結んだ。
その日、田丸浩平は、是非顔を出さなければならぬ会合が午前午後と二つあり、夜は夜でまたある関係団体の首脳部を招待する席へ列ることになつてゐた。
実に、明けても暮れても会合である。会合をしてゐさへすれば仕事が捗るやうに考へてゐる向きが、あちこちにないとは云へない。田丸はそのことを時々不思議に思ふ。連絡、協議、懇談、名前はいろいろにつく。しかし、今時分そんなことをしてゐて間に合ふのかと思はれるやうなものが随分多い。甚だしいのは、二人で五分間も話せば用が足りさうなことを、わざわざ十六人も集つて、昼食を食ひ、それも、欠席者が七人ゐて、その分だけの余つた皿が、健啖家の前へ引き寄せられるといふに至つては、時節柄、人聞きも悪い。
第一、この現象と戦争の現段階とはどんな関係があるかと、開き直つて訊ねられれば、誰もなんとも返事はできないであらうが、田丸浩平は、二三、それについて憤慨するものをなだめて曰く、
「それはその通りだ。その通りだが、しかし、物には観方があるよ。殊に、今は、どうにもならないことを、やかましく云つてみてもはじまらない時機だ。不必要に見える会合だつて、それをやらなければなほ困るといふのが現在の実情ぢやないか。この戦争は、たしかに、日本人同士がなんでもないことを話してみなければわからなくなつてゐることを気づかせた。気がつけば、もう占めたものさ」
田丸浩平は、せつせと会合に出た。そして、お互に「話せばわかる」日本人の信頼感を、更に、「話さなくてもわかる」一体感にまで高める努力をしつづけた。
朝のうちは晴れてゐた空が、昼ちかくになると急に曇りだして、東京名物の空つ風が、辻々を吹きまくつた。
が、平生と違ひ、今は、帽子も飛ばず、裾も翻らず、都大路は、ただ真面目に、砂ほこりのなかで、ひたすら戦備を整へてゐるかにみえる。
現に、疎開といふ問題が、やつと市民全体の気分を支配しはじめた。寄るとさはると、その、話が出る。──君の方は疎開区域か?──僕の家はやつと免れたが、親戚の一家族が臨時にころがり込んで来た。早速手頃な住居を探すと云つてゐるが、まあ急には見つかるまい。さう云へば君は老人と子供を田舎へやつたさうだね。──うん、やつたはいいが暮しが二重になるので、こいつをなんとかしようと思ふ。──地方では疎開者の評判があまりよくないといふ話だが……。──いやいや、疎開者に対する地方の理解が足らんのだ。云々、といふやうな具合である。
なにしろ、勝手の違ふことだと、みんなが気を揉む。みんながてんでんに意見を述べる。そして、やつてみれば、なんでもないこともあり、誰がやつても、うまく行かないこともある。
夜の会合には、政治家として名前の聞えてゐる臼本圭方の顔が見え、彼は、砕けた調子ではあつたが、国民士気の昂揚について、かくあるべき戦争観に基く当面の指導原理とも云ふべきものを披露した。
彼によれば、「大東亜戦争は、道義と機械との戦ひであつて、道義は必ず機械に勝つ」といふのである。
この、一見、彼我の立場を喝破したやうな論法のうちに、田丸浩平は、一種の詭弁に似た俗臭を嗅ぎつけた。
この戦さには、むろん勝たねばならぬ。しかも、堂々と勝たねばならぬ。いかに苦闘を重ね、いかに満身創痍とならうとも、日本人は、絶対に負けるなどといふことはない。が、それと同時に、同じ勝つにしても、決して穢い勝ち方をしてはならぬ。それゆゑにこそ、われらの勝利は、まさに神慮によると云ひ得るのである。
堂々と勝つ、とは、大敵を向うに廻して、渾身の力をふるひ、危ふしとみえながら、実はさうでなく、その証拠に、受身に立つことはあるが、些かも取り乱さず、奇襲を試みはするが、破れかぶれにはならず、確かな成算と、溢れる闘志と、至妙な技とをもつて、最後の止めを刺すことなのである。
果してさうだとすると、臼本圭方の指導原理なるものは、少々あわてふためいた議論のやうであり、敵のいはゆる「機械力」なるものを妄想して、われにそれと対抗する「機械力」がないやうに速断し、もともと、機械と噛み合せることなどできる筈もない「道義」を持ちだして、これなら大丈夫と、ひとり悦に入る光景は、どうしても、頭が混乱してゐるとしか思へない。
彼は、最初は、言葉穏かに、かう質問のかたちで切り出してみた。
「お説の主旨はよくわかつたつもりですが、さういふ論理は誤解を招くばかりでなく、ほんたうに国民を納得させることはできないやうに思ふんですが、どうでせう? つまり、道義と機械との戦ひではなく、一面、日本の道義と米英の似而非道義との戦ひであり、日本は既にこの戦ひには勝つてゐるのです。若し彼らに強大な機械力があるとすれば、われわれが用ふべきものは、その機械力を破砕するに足る霊妙な智能の働きぢやありませんか? 現に「飛行機には飛行機を」といふ宣伝も行はれてゐます。それはそれでよろしいが、これでは、国民は一所懸命にはなるが、まだなにか物足りない。もちろん飛行機の性能や、操縦者の素質が、彼より優れてゐると聞けば何よりも心強いわけです。しかし、僕が国民の一人として、知りたくて知りたくてたまらないことは、敵の機械力、つまり、物質を戦力化したものに対して、われにも亦、物質と精神とを含めたあらゆる「存在」を、より以上戦力化しつつありや否やといふことです。恐らく、それはなされつつあるでせう」
田丸浩平は、一座がやや白けたやうにみえたけれども、それにおかまひなく、喋つた。
「それならそれで、そのことを、もつとはつきり、国民に云つてほしい。具体的な例を挙げてもらへれば、なほ国民は奮ひ立ちます。増産も貯金も、ただ勝つためには違ひありませんが、国民の心理は実に微妙です。必勝の信念と云ひますけれども、それは国力に対する絶対の信頼なしには生れません。軍隊への信頼にひとしい信頼が、政治に対して、特に、さつき云ひました、すべてのものを戦力化して、敵の物量を誇る機械力に当らしめる方策に対して、ひとしく払はれなければならないと思ふんです。その努力だけは十分認められます。が、少しは、その結果を、匂はせてほしいもんです。国民がさう思ふ以上に、当局が、鞭撻の意味にもせよ、事毎に、まだ足りない、まだ足りないを、口癖のやうに繰り返すのは、どうも感心できませんな。おまけに、ドイツがちよつとした新兵器を使つたといふので、まるで自分のことみたいに新聞にはやし立てるんですから、国民は、日本の科学者は何をしてるんだらうと思ひます。別に、科学に限つたわけではありません。生産の隘路とか、運輸の隘路とか、あの隘路といふ言葉も面白くない。一般国民がそんなことを知つたつて、なんにもならんでせう。なんにもならんどころぢやない。却つて、当路者への不信を増すばかりです。先達、ある地方の人と話をした時、その隘路の問題に触れたんですが、その人は、『われわれとしては、ただ玉砕あるのみです』と云つた。それを聞いて、僕はひやりとしました。玉砕といふ言葉がとんでもない意味に使はれてゐる……」
「おい、君、君、田丸君……さう、君ひとりで喋つちや困るよ」
と、その時、上役が口を挟んだ。
なるほど、多少酒はまはつてゐるが、彼は、ひとりでまくしたててゐる自分を、ちやんと意識してゐた。だからさう注意をされても、彼はびくともしない。
「ちよつと。……もうしばらく……」
片臂をついたまま、その手で逆に上役を制しながら、
「ここなんです。道義の勝利を以て満足すべきかどうかといふことは。僕自身は、与へられた仕事がうまく進まないのを、自分の責任として大いに愧ぢてゐる次第ですが、しかし、一方、この世情の嶮しさはどうです。これをただ、試煉といつただけですまされますか? なるほど、試煉は試煉に違ひありません。ただ、この試煉に国民が堪へ得られるかどうかです。個人個人についても、かういふ時代ほど、めいめいの、肚といひますか、性根と云ひますか、さういふもののわかる時はないですな」
「こら、こら、もういい加減によさんか。今夜は、君の話を聴く会ぢやないよ」
今迄にやにやしてゐた事務局長も、たうとう痺れを切らしたらしい。「もちろん、それは承知してゐます。しかし、臼本先生は天下の論客でせう。その高遠な思想がどれほどわれわれを動かしたかといふと、失礼ながら、さつぱり動かさない。なぜでせう? 忌憚なく云へば、先生の論法は、戦争の現実を直視する冷静さと勇気とを欠いた論法だからです。この種の言論は、わりに真正面から反対するものがないので、いつも大手を振つて歩いてゐます。奇怪至極です。そんな苦しい云ひ方をしないでも、偉大な国力の源泉が何処にあるか、その源泉から如何に滾々と戦力が流れ出てゐるか、それを、事実に即し、意気揚々と国民の前に示すのが、責任ある政治家の任務ぢやありませんか! 僕らと雖も、幸ひに直感でそれがわかります。しかし、僕らが云つたつて始まらない。国民がこの人こそ云つてほしいと思ふ人物が、それを巧みに、力強く、云ふべきだと思ひます。紋切型の御説教と月並な激励の辞は、もう聞き飽きてゐる。まして、牽強附会は真つ平だ。世論悉くこれに傾けば、実に国の威信に関します。戦意昂揚どころではない!」
臼本圭方は、黙つて、それを聴いてゐた。二三度、ぴりぴりと眉が動いたけれども、さすがに一城の主らしい落ちつきをみせ、田丸の最後の言葉が、低く独語の調子に落ちて行くのを見すまし、やをら膝を乗り出して、両腕を食卓の上に、大きく組んだ。
「ふむ……なかなか元気がいいね。だが、君の議論は、それや、米英流の合理主義といふやつだ。なるほど、大学出のインテリには、僕の思想は難解だらう。疑ひから始まる知識を、知識のすべてだと心得てゐる連中には、信念からはいつて行く悟達の道はちよつと縁が遠い。しかしだよ、君も、仕事の関係で一般大衆に接する機会は多いと思ふが、大衆といふものは、案外、素直なものだ。僕の云ふことが、実によくわかるんだ。近頃、方々で話を頼まれると、大抵、前置きに、この議論を少し砕いて話してみるんだが、面白いほど手応へがある。──道義は断じて機械に勝つ! とやると、文字通り万雷の拍手だ。ピンと胸に響くものがあるんだよ。君が心配するやうなことはない。但し、一般政治家の言論の貧しさ、殊に、本を読まないことを表白してゐるやうな空疎な言葉の羅列は、全く困りものだ。その点は君と同感。秘書に書かせた原稿を読むんだから、無理もないさ。どれ、もうひとつ、今夜は会があるんでね。甚だ、なんだけれども、諸君、お先へ失敬……」
臼本圭方は、もう田丸を対手にした一瞬を忘れたやうに、あつさり、座を起つた。
少しの酒に珍しく酔つて、田丸浩平は家に帰つた。玄関の呼鈴を押したのは、もうかれこれ十時であつたが、子供たちはまだ起きてゐた。
「何時までもなにしてるんだい?」
さう云ひながら、茶の間にどつかりと坐る。
「お手紙のお返事書いてるの」
世津子が云ふ。
「誰に?」
「笠間先生……。でも、どう書いていいかわからないわ」
と答へて、姉の加寿子は父親の顔色を読まうとする。
「笠間先生?」
彼は、正月以来、ぷツつりと出入りをしなくなつた彼女のことを考へ、──さう、さう、あれもなんとかはつきりさせなければ、と思ふ。
そこへ、茶を汲んで来たおひろさんが、一通の封書を状差しから抜いて渡した。
笠間由子から、これは、彼に宛てたものである。ここで読むのはまづいな、と思ひながら、読む。
──その後、みなさまお変りいらつしやいませんか。もう一度お目にかかつてと存じましたけれど、なんですか、それも気おくれがいたしますので、妙な具合ですけれど、手紙でごめん蒙ります。
去る一月半ば、最後に御邪魔いたしました節、加寿子さまのことについていろいろお話がございましたが、あとでだんだん考へますと、それはただ妾へのお心づかひといふ以上に、もつと深い意味をおもたせになつたのだといふことが、わかつて参りましたの。
もちろん、もつともつと早くそのことに気がつき、妾の方から潔よく身を引くべきでございました。しかし、ご縁があつて、仮にもお嬢様方の行末をお案じ申しあげる地位に擬せられました妾として、何よりもお二方のお気持を案ぜずにはをられません。加寿子さまがどんなに気むづかしくいらつしやらうと、妾は、そのことだけなら、ご同情をこそいたせ、決して、それを惧れてはをりませんでしたわ。真実の母でさへ、ふとしたことから、子供の不機嫌を買ふことがあるのを承知してをりますもの。でも、あなた様がよくよく妾とお嬢様方との間を御覧になり、どうあつても見込みなしと思召すなら、これは是非もございません。この前のお言葉のうちから、すぐにそれを読み取ることができませんでしたのは、かへすがへすも妾の不束さでございますわ。
この二た月あまりの間、実は、お便りをお待ちいたしてをりましたの。こちらからも、今日はお電話をしてみようか、今日はひよつこりお訪ねをしてみようかと、いくど考へては止め、考へては止めいたしましたか存じません。ほんたうに、それをしなくつてよかつたと、今更、ほつといたしてをりますの。なぜと申しますなら、今日こそ、はつきり妾の態度もきまり、そのことを念のために申しあげておく機会が得られたからでございます。
手紙はそこから、ほとんど別人のやうに文字が乱雑になつてゐた。
──思はず切口上になつてしまひましたわ。こんな風に申上げるはずぢやございませんでしたのに……。いろんなことが、まつたく夢みたいですの。自分でもそれは不思議なくらゐ、うきうきとした幾月かを過してしまひました。女として、この世で与へられるすべてのものを、一時に与へられるよろこびが妾をさうさせましたの。そんなら、今は、どんな大きな失望があるかつて申しますと、これもまた不思議なことに、それは、失望とは云へないやうな、淡い疲れみたいなものが残つてゐるだけですの。瘠我慢ではございませんわ。あなた様にはそれを信じていただけさうに思ひます。ただ、ちよつぴり恨み事を云はせていただけば、妾が、あの幾月かの間、あなた様にとつて何者だつたか、といふことが、実にはつきりしなかつたこと、これはどうも、妾の罪ではなく、あなた様の不必要なご用心深さのためではございませんでしたか知ら? あなた様にとつて何者でもないものが、お嬢様方にとつて、何者かであることは、ほんたうにむつかしうございます。まあ、そんなことは過ぎ去つたことで、妾の場合がさうだつたと、このつぎ、どなたかの場合に、是非、あなた様に想ひ起していただけばよろしいのでございます。
ほんとに、ほんとに、加寿子さま、世津子さまのご将来が光明に照されますやう、神かけてお祈り申しあげます。かしこ
三月十七日
田丸浩平様
御許に
読みをはつて、それを封筒にしまひ、冷めた茶をぐつと飲みほすまで、田丸は、娘たちの方を見ようとしなかつた。
彼は、娘たちに宛てた彼女の手紙がそこに置いてあるのを、黙つて引寄せた。同じ書簡箋に、この方は楷書で丁寧に、こんな文句が認めてある。
──しばらくの間でしたけれども、あなた方とお友達になれてうれしうございました。お亡くなりになつたお母様に代つて、ずつとお二人のお世話をするつもりでをりましたけれども、わたしにはその資格がなく、また、もつと適当な方がいらつしやるだらうと思ひ、それは断念いたしました。しかし、あなた方のことは、わたしの特別なお友達として一生忘れることはできません。それは、ただ、あなた方が大好きだといふだけでなく、あなた方のことを考へると、先々が、それはそれは心配だつたり、楽しみだつたりするのです。そんなお友達は、ほかに一人もありませんよ。どうかお父様をまづお仕合せにしてあげてくださいね。
「お父さまをまづお仕合せにしてあげてください」と結んである、その意味はとにかく、さういふ文句だけから、田丸浩平は、相手の不敵な自尊心を感じ、それを撥ね返すなにものも彼にはないことがわかると、ただ苦いものを飲み下したあとのやうに、その手紙をもとの位置へ返し、そのまま、娘たちのすることを見てゐた。
娘たちは、もう書き終つた返事を封筒に入れ、飯粒で封をしようとしてゐる。
「どんなことを書いたの?」
彼は訊ねた。
「二人で相談して書いたの。でも、お父さまにお見せするの、いや」
姉の加寿子である。
「うむ、見せなくつてもいいよ、ほんとのことさへ書いてあれば……」
彼は、そこで起ち上つた。彼に宛てた笠間由子の手紙をポケツトに突つこむことを忘れなかつた。
起ち上つて寝間へはいらうとしたが、ふと、冷い水でからだを拭きたくなつた。で、湯殿へ行つて裸になつた。
結城ひろ子が寝間着を置いて行つた。
「子供たちを早く寝させてくれたまへ」
「はい」
といふ声はもう遠くで聞えた。
頭のしんに何かこびりついてゐるやうな気分の日である。なによりも、この気分が明日まで持ち続けられてゐてはならぬと、彼は思つた。
しかし、さう思ふだけではどうにもなるまい。現に、燈火を消し、眼をつぶつてはみるが、すぐに臼本圭方の高飛車な口調が耳につき、いきり立つ自分の声がか細く消されて行く有様にじりじりして来る。さうかと思ふと、笠間由子の自信たつぷりな笑顔が眼に残り、その笑顔が次第に冷笑に変つて来るのである。
──こんなことのために、心を腐らしていいのか?
自分を叱りつける。はツとはするが、そのあとから、今度は、最近の戦況、タラワ、マキン南島守備隊の玉砕、クエゼリン、ルオツト南島指揮官以下四千五百名の悲壮な戦死、敵有力部隊のロスネグロス島上陸の、相次ぐ緊迫した戦局が、ひしひしと胸を締めつける。
が、そこへ来ると、彼の気分は、もう重いといふだけではない。むしろ、重いものを押しのけて、一歩でも前へ進みたい、ありつたけの力で何かにぶつかつて行きたいといふ衝動が起つて来る。
──おれはいつたい、これから、何に向つて突進すべきだらう? 今やつてゐることは、もう間に合はぬ仕事ぢやないか? 誰か、このおれに、何処へ行けと、しつかり命じてくれ……。
と、静かに唐紙の開く音がした。
眼を開けて、田丸浩平は、闇のなかを透してみた。
小さな影が二つ重つて立つてゐるのがわかる。
「なんだい?」
と、彼は横になつたまま声をかける。
「電気つけてもいい?」
姉の加寿子が、小さな声で云ふ。
彼は、自分で手を伸ばして、スタンドをひねつた。
「今時分、どうしたの? なにか用かい?」
二人の顔を見比べるやうにして、彼は、やや急きこむ。娘たちは、真面目なやうな、おどけたやうな顔つきで、枕元にちよこなんと坐つた。
「あのね、お父さま、あたしたち、お願ひがあるの」
加寿子が口を切る。
「云つてごらん」
努めてやさしく、わざと微笑を含むほどの調子で彼は促す。
「あのね、矢代さんの小母さまに、あたしたちのお母さまになつていただいちや、いけない?」
彼は、まつたく虚を衝かれたかたちで、驚く。もつとも、驚くと云つても、別に、ギクリとするやうなものでなく、「へえ……」と心の中で云ひ、自分の耳を、どつちかと云へば疑ふといふ風な驚き方である。
が、彼は、しばらく間をおいて、ゆつくり話をするやうに云つた。
「待ちなさいよ。それはどういふことだい? お前たち二人とも、では、矢代の小母さんの子供になるつていふことだね。うむ、それだけはまあ、わかつたとして、お前たちが矢代の家へ貰はれて行くのか、それとも、小母さんにこの家へ来てもらふのか、どつちだ?」
娘たちは、返事をしない。この反問は予期しなかつたとみえ、二人で、そつと顔を見合せる。
「そんなら、もうひとつ訊くが、そのことはお前たちが勝手に考へたことか、小母さんにも話したのか、それを云つてごらん」
彼は、この問ひを発するまでに、ちよつと気持の準備をしなければならなかつた。場合によつては、子供相手ではすまされなくなる問題だといふ予感がちらとしたからである。
果して、世津子が、したり顔で、大きくうなづきながら云つた──
「小母さまもご存じよ、ちやあんと……。だつて、貫ちやんと三人でなんべんもさう云つたら、小母さまは、──ぢや、よく考へとくわ、つて、たうとうおつしやつた」
田丸はそこで、身構へを変へなければならなかつた。
「だからさ、小母さんに、なんて云つたんだい? それを先へ云ひなさい。加寿子、お前、姉さんだから、はつきり云ひなさい」
「あのね……あのね……」
「あのねばかり云つてないで!」
田丸浩平が娘たちの口から何を聞いたか、それはもう、読者諸君のご推察にまかせることにする。
どうせ子供の云ふことであるから、彼もそれほど本気にはしなかつたけれども、さういふ問題が、仮にも、娘たちと矢代初瀬との間で話題になつたといふことだけでも、彼として、聞き逃すわけにはいかなかつた。なぜなら、娘たちの心理について、思ひがけない発見をしたばかりでなく、今迄は、それほど身近い存在とは思へなかつた未亡人矢代初瀬の面影が、娘たちを通じて、なにか、かけかへのない一女性の姿として浮びあがつて来たからである。
彼は、しかし、娘二人を前において、はつきりかう云つた──
「はじめに小母さんがおつしやつたとほり、そんなことは、絶対にできない相談さ。第一に、向うには、貫ちやんといふ長男がゐて、長男はよそへ養子に行くなんてことは法律上できない。法律上できないばかりでなく、小母さんは貫ちやんを矢代家の後取りとして一人で立派に育てあげることが、亡くなつた小父さんに対する第一のお務めなんだ。だから、小母さんも、決して矢代といふ姓をかへることなんぞなさるはずはない。──考へておくなんておつしやつたのは、お前たちがわけもわからず、あんまりうるさく責めたからだらう」
娘たちは、まだそれでも後へ退きさうもなかつたけれど、彼は、最後に、すこし調子を強めて云つた。
「お前たちは、もうそんなことを考へずに、女でも兵隊になつたつもりで、一所懸命、学校のことをやりなさい。加寿子はもう挺身隊で工場へも働きに行つたんだらう? 世津子だつて、もうぢきだよ。一番大事なことは、女がもつと強くなるといふことだ。自分のことは自分でちやんとやりなさい」
さういふことがあつてから、彼は、隣組の用事などで矢代初瀬と顔を合せるごとに、ふと娘たちの云つたことを想ひ出し、多分問題にはしてゐまいと思ひながら、それでも、妙に、こだはる気持が湧いて来た。
娘たちがどこをそんなに、と思ひながら、この若い未亡人の特徴をつかまへようとする好奇心も、時には起らないではない。およそ誰に対しても相手を意識しないと云つていいほどの自然さ、それが却つて、めいめいの相手に、自分だけへの親しみと思はせかねない無警戒の魅力でもあつた。
ひと通りの化粧が、人並以上に目立つことはあつても、趣味と云ひ、気分と云ひ、派手なところはちつともないどころか、いはゆる普通の女が身につけてゐるわづかのコケツトリイさへ、普通のかたちでは全然現はれてゐない。おそらく、その軽快な肉体の輪郭と、あどけなく澄んだ眼と、豊かに落ちついた声の色とによつて、辛うじて無愛想、或はぶつきら棒から救はれてゐるやうなものである。
田丸浩平の方で、そんな観察を初瀬に対して下しはじめてゐる間、彼女の方でも、彼の存在を、更めて注意するやうになつた。
それと云ふのが、田丸の娘たち二人は、貫太をすつかり丸めこんで、相変らず総攻撃の手をゆるめないからである。
理窟を云つて聞かせても、ああ云へばかういふで、なかなか油断のならぬ反駁をして来る。しまひには、ただ同じ家に住み、同じものを食べ、始終一緒にゐられればいいとまで云ひだす。殊に、ちよつと老人と話しをした疎開のことを、この娘たちの耳に入れたのがわるかつた。
「連れてけつたつて、あなたたちは、お父さまの側でなくつていいの?」
「だからよ、うちのお父さまと小母さまと二人で、疎開のことを相談なさつたら?」
これは世津子の言葉である。
初瀬は、どうも世津子には敵はぬと思ひ、ひとりでに浮ぶ微笑を、露はに見せまいとして、
「お宅のお父さまは、怖いから、ご相談なんかするのいや、小母さん」
と、戯談にまぎらす。
すると、貫太が、
「僕、ちつとも、小父さんなんか怖くないよ。お母さん、それぢや、うちのお父さんと、小父さんとどつちが怖い?」
「え? うちのお父さんと? なに云つてんの! うちのお父さんが怖いなんて、お母さん、云やしませんよ」
「お父さんだから怖くないんでせう? 小父さんだつて、僕のお父さんになれば、お母さん、怖くないよ、きつと」
初瀬は、がつかりしたやうに、肩で溜息をつく。──この小僧──と云ひたいところである。
世津子は、よろこんで笑ふ。加寿子は、さすがにちよつと笑へない。
「それはさうと、あなたたち、お父さまにまでこんなお話をお聞かせして、ほんとによくないわ。小母さん、とても困るわ。だつて、考へてごらんなさい。……考へたつて、あなたたちには、まだわからないか……」
と、初瀬は、そこで、娘たち二人の肩に手をかけ、ぼんやり天井を見上げる。
彼女は、亡くなつた夫正身の幻影を、ぢつと追つてゐるのである。彼の様々な表情が、次ぎから次ぎへと浮ぶ。一つ時、静まり返つた夜の気配のなかで夫の声が、かう云つてゐる。──云つてゐるやうに思ふ。
「おれは生涯おれ自身のことしか考へなかつた。お前はもう、おれのことはもちろん、おれに繋るすべてのものから、自由になれ。おれは、死の直前、やうやく、おれの生きてゐた意味がわかつた。お前は、おれの記憶にばかり縋つてはいけない。より以上広く、大きなものへ、お前の残された生命と愛情とを捧げるがいい」
自分を慕ひ寄る他人の娘を眼の前にして、死んだ夫の幻影から、どうしてこんな声なき声を彼女は聞いたのであらう?
それは彼女自身にも不思議な事実であつた。
たとへ過去十年の月日を、その身辺に侍つて、あらゆる感情の翳を吸ひ、ひと通り眼の色を読む習慣がついてゐるとは云へ、たつた今、それと知つたやうな考へが、夫の平生の何処を押せば飛び出すのか、彼女にも、そんな秘密のわからう道理はないのである。
奇怪と云へば、むしろ彼女の耳ではないのか?
田丸の娘たちをやつと帰し、貫太を寝床に就かせ、彼女は、ひとりきりになる。
鴨居には、引き伸しをした夫の写真が懸つてゐる。彼女がつい先頃、はじめてライカを手にした時の、偶然の佳作で、夫がよくする「なんでもない顔」がそのまま写つてゐる。
机の上の写真立てには、相変らず、田丸奈保子の半身像が淋しく微笑んでゐた。
その両方を何気なく見比べてゐるうちに、彼女は、また、変な錯覚に囚はれはじめた。
と云ふのは、田丸奈保子に自分がなり、夫だと思つてゐるその顔の上へ、田丸浩平の顔が重つて見えだしたのである。そして、その結果が、ちつとも不合理でなく、なにかさうなる約束でもあるやうな、きはめて自然なものに思はれた。それは、また、面を伏せずにゐられぬ妄想の類ひでもなく、誰にわるいといふ風な邪念のひとかけすらないことが、彼女の平静な態度にうかがはれた。
離れの廊下をみしみしと踏む跫音が、ふと耳につく。彼女は我れにかへる。
障子の外から、義妹の声で、
「お火種すこしない? おばあちやんが本を読んでくれつておつしやるんだけれど、お火鉢の火をすつかり切らしちやつて……」
初瀬の居間にはむろん火はなかつた。
「ぢや、今、瓦斯でおこしますから、ちよつとお待ちになつて……、おばあちやま、もう、お横におなりになつてるんでせう?」
義妹がそれなら自分でするからと云ふのを、初瀬は無理に押し帰して、台所へ起つた。
が、おこつた炭を離れへ持つて行つてみると、年寄りはもうすやすや眠り、義妹がぽつねんと小説かなにかを読み耽つてゐた。
「あら……」
と、義妹は、もう炭のことは忘れてでもゐたやうに、初瀬の顔をみて、すまぬといふ風をする。
「ごめんなさい。あたし、うつかりしてて……。ぢや、折角だから、お嫂さまのお部屋でしばらくあたらせていただくわ。ね、さうしませうよ。まだおやすみにならないでせう?」
しかたがなしに、初瀬は、言ふ通りにした。
義妹の梅代は、年にすれば三つ年上の三十四であるが、初瀬とはまつたく違つた型の女性で、どちらかと云へば気の重い、物腰の静かな、従つて、老けてみえる一面がある代り、一面、世間と没交渉で通るためか、内気をいいことにしたねんねえのやうなところがあり、これまでに、むろん縁談もいくつかあるにはあつたが、いつでもさういふ話が出ると、顔を真つ赤にして座を起つてしまふので、誰もだんだんそんな話は持つて来なくなつてしまつた。
たまに人の集る場所へ出されるときまつて、一番隅つこか、誰かの真うしろで小さくなつてゐるといふ風だが、それでゐて、決して、いぢけたところはなく、からだつきこそややずんぐりとしてゐるけれども、眼鼻立ちは、よく見ると仏像のやうに整ひ、殊に、皮膚の艶は赤ん坊ほどに水々しい。
うちうちの気安さで、袖を掻き合せながら、首を縮めて、待ち遠しさうに初瀬のすることを黙つて見てゐるこの義妹の前で、初瀬は、時々、嫂らしく振舞ひたくなる。ところが、どつこい、さうはいかないのである。やらせてみると、どんな仕事でも素晴しく器用だし、書物は驚くほど読んでゐて、ただ知らん顔をしてゐるだけだし、そのうへ、兄に似て、兄が手古摺るほどの負けん気と来てゐる。
火鉢の灰を掻き、炭火をつぎ、座蒲団を出し、さて自分もそこへ坐るまで、初瀬は、義妹の梅代がなぜ今夜、こんなにおそく話し込みに来たのかと思ひ、滅多にないことなので不思議な気がしてゐた。
「おばあちやま、どんな本を読んでほしいつておつしやるの?」
初瀬は、義妹のむつちりした手の甲を眺めながら訊ねる。
「それが、なんでもいいつてわけにいかないのよ。読みかけて、つまらないと、すぐに、──あ、もうたくさん。なんかほかにないかい、ですもの」
「あたしだつたら困るわ。なんにも読んでないから」
「をかしいのよ、あれで、近頃は翻訳ものをつて、時々云ふの、唐人はづけづけものを云ふから面白いんですつて」
「あら、さうでせうか。でも、名前なんかよくお覚えになれるわねえ」
そんな話をしてゐるうちに、ふと、鴨居の額と机の上の写真立てとを見比べながら、梅代は、思ひ出したやうに云ふ。
「自分の死んだ後のことがすつかりわかつたら、どんなもんでせう? あたし、いつでもさう思ふの。ただ、死んでからは、人間が少しは変るでせう。きつと、娑婆の人間みたいな考へ方はしないと思ふわ。ずつと見栄坊でない、我執をすてた人間の心で、世の中を見るに違ひないわ。それにしてもよ……」
「それにしてもよ……」と、そのあとは続けずに、梅代は、二人の写真をぼんやり眺めてゐる。
初瀬は、突然そんなことを云はれたのでは、なんのことかわからない。まして、この種の空想は彼女の好みとはやや遠く、云はば、彼女にとつては「哲学的」すぎるのである。従つて、相槌の打ちやうがなく、
「さうねえ、自分のお葬式を自分が見てゐたら、なんて思ふと、変だわね」
と、笑ひながら云つた。
「こんなこと云つちやお嫂さまにわるいけど、あたし、ここの兄さまは、きつと、いい時に死んだと思つてらつしやるだらうと想像するの。だつて、あとの心配はなんにもないし、ご自分が生きてらしつても、周囲がかういふ風になつて来れば、ただいらいらなさるばかりですもの。好きなことはなにひとつ出来ない世の中でせう」
「さあ……」
初瀬はどうもこの話には乗つて行けない。
「ところが、やつぱり、女だといふこともあるけれど、田丸さんの奥さんは、お気の毒ね、どんなにはらはらしながら、お家のなかを見てらつしやるかわからないわ。さう思ふと、人間の生きてる間の幸不幸なんて、当てにならない気がするわ」
「それやさうだわ。でも、幸福つて、なんでせう? 梅代さんの幸福と、あたしの幸福と、ずゐぶん違ふんぢやないかしら?」
やつとそれを云ふ自信が、初瀬にはもてた。そして、夫正身の生前と死後とを通じての幸福は、やつぱり、男としての仕事の価値いかんにあるといふ気がした。
──さうさう、あの結果を訊きに行かなくつちや……。
彼女は、日本光学技術研究所の吉村技師から、例の夫の研究について、何か耳よりな返事が聞けるのを心待ちにしてゐるのである。しかし、もうかれこれ半年もたつのに、なんの便りもない。一度それとなく催促をしてみようと思つてゐた。そのことが、いまふと、頭に浮んだ。
義妹の梅代にも、その当時ざつと話はしておいた筈である。が、どういふものか、さういふことにはさほど関心を示さない彼女であつたし、初瀬は、すべての点で、この妹の兄に対する特殊な感情──立てるところは立派に立てながら、どこかで高を括つてゐるやうな、目上として敬ふことはするが、個人としての能力をわりに甘くみてゐるといふやうなところを、うすうす気づいてゐたから、あまり、夫の仕事のことには触れたくないのである。
で、話をほかへ持つていかうと、彼女は、最近、楯の長男雅一がうつした子供たちの写真を二三枚取り出して、梅代にみせた。
「あら、いやだ、かうしてみると、まるで同胞ね、この三人は……」
貫太を中心に田丸の娘二人と、そのうしろに自分が、顔をくしやくしやにして笑つてゐる写真である。初瀬は、こんな顔をして写した写真ははじめてなので、大事にしまつておかうと思つてゐる。
それをみて、義妹の梅代がなんといふかと思ふと、三人の子供たちが同胞みたいだと云ふ。
「そんなに似てる?」
うつかりさう云ふと、
「あら、似てなんかゐないけど……一緒にゐる気分が、なんだかそんな風にみえるわ」
初瀬は、その写真をあらためて手にとつてみる。
──ああ、さうだ、あたしのせいだ!
心の中で、彼女はうなづく。
「ねえ梅代さん、急にへんなこと云ふみたいだけど、若しかして、あたしがこの家を出て、加寿ちやんたちのお母さんになつてくれつて頼まれたら、さういふこと、できるとお思ひになる?」
まつたく、それは、なんの用意もなく、彼女の口から出た言葉であつた。
すると、梅代の方でも、別にそれを聞きとがめるでもなく、きはめてあつさり、
「貫ちやんはどうするの? 連れてくの? 置いてくの? 置いてつちや困るわ、あたしたち……」
初瀬は、また、釣りこまれて、
「それや、貫ちやんは、あたしの手許で大きくしたいわ。それを条件にしてよ、むろん……」
「おばあちやんもあたしも普通とあべこべね。子供は小ちやいほど苦手だつて、二人で話してるの」
「どんな子供でも、だんだん大きくなるから、まあよかつたわね」
と、初瀬は、もうそこで冗談を云つた。
さういふことがあつたにはあつたが、二人はもう、そんな話をしたことを、サラリと忘れたやうな具合であつた。
三月は、皇軍印度国境突破の快報と共に過ぎ、やがて四月にはいる。
それ以来、南太平洋の戦局いよいよ切迫、敵の機動艦隊は遂に深くわが内南洋を侵す形勢となり、刻々、全国民の耳朶を打つ重大発表を待たなければならなかつた。
しかし、それにも拘らず、都鄙を通じて、戦ふ銃後の士気は決して衰へるどころでなく、民衆の表情は沈痛であるよりも、むしろ、平静、躍起になつてあれこれと気を揉む一部の人々を除き、さすがに恃むところある民族の本能は、かの無気味なほどの落ちつきと微笑とをもつて、来るべき大苦難の秋を迎へようとしてゐる。
六月はじめ、反枢軸軍が、独軍鉄の防備を突いてノルマンデイーの一角に雪崩れこんだ。と思ふと、月の半ば、在支米空軍は、二十数機の編隊をもつて、わが北九州を襲ふに至つた。
久々で帝都にも警戒警報の発令があり、全市民は、今度こそ来るぞと、待ち構へたのであつたが……。
しかし、その夜、矢代一家も防空服装のまま、みなそれぞれ横になつたことは云ふまでもない。
ついさつき十二時が鳴つた。
初瀬は非常持出用の食糧をもう一度検べ、老人のためになにか別に作つておかうかどうしようかと考へてゐた。が、どうも台所の燈火をつける気がしない。電球に覆ひはきせてあるのだけれども、流し端を明るくすると、いくぶんその光が硝子窓に映りさうな気がするのである。その窓に遮光幕を張ればいいものを、つい、義妹の梅代が外から見て大丈夫だと云つたのを、そのままいいことにして、自分がたしかめてもみなかつたのである。
──なにか、なかつたか知ら? と、一旦探しには起つたが、さて、そんなものがありさうな部屋は、生憎おほかた電球が外してある。
暗がりを、手さぐりで、彼女は、押入と云はず、棚と云はず、心覚えをたよりに、あれこれとひつくり返した。
それも、音をたてないやうにである。
妙なもので、手に触つただけでは、それがなんだかすぐには見当のつかないものがある。それをまた考へるのが面白くなり、彼女は、つい意外な時間をつぶす。大きな紙包みにぶつかる。なにを包んだものか、忘れてしまつてゐる。外から、押してみる。押す方はいいが、音の出ないやうに叩くのは、骨が折れる。さうかと思ふと、滑べつこい木で出来た、蜜柑大の、少し平たい球形をしたものがある。左右といふか、上下といふか、真二つに、ぐるりと溝で分け目がつき、その分け目へ喰ひ込むやうに、細く長い紐が捲きつけてある。最初は、なんだか得体の知れないものだと思ひ、その紐をほどいたり、捲き返したりしてゐるうちに、やつと、淡い記憶が蘇つて来た。もう十年も前に、夫が机の曳出から出て来たと云つて赤ん坊の眼の前で、得意にやつてみせた「ヨーヨー」といふ流行遅れの玩具であつた。
初瀬は、閉めきつた部屋の、むれるやうな空気のなかで、汗をじとじとにかいてゐた。
それでも、どうやら、使ひ残しの紙製遮光幕を納屋から見つけ出し、仮に飯粒で窓框へ張ると、さあ、これでどんなものか知ら、と、下駄を突つかけて表の方へ廻つてみる。
門を一足出ると、彼女は、息がとまるほど驚いた。
誰かが、人の家の防火用水槽へ、バケツの水をあけてゐるのである。それも、一杯だけでなく、引つ返して行つて、またバケツへ水を満たして運んで来るのである。
二杯目のバケツをあけ終つた時、初瀬は、
「まあ、おそれ入ります」
と、声をかけながら、その男の方へ近づいた。
すると、向うも驚いたやうに顔をあげた。田丸浩平であつた。
「そんなに少うございました?」
彼女は、気まりわるげに、水槽の中をのぞく。
「栓が抜けて漏つてるんですよ。誰か悪戯をしたらしいですな」
なるほど、云はれてみれば、そのあたり一面は水浸しである。
「ほんと……いやですわねえ」
茫然として、彼女は、田丸の後ろ姿を見送つてゐた。
──どうして、しかし、この人がそれに気がついたんだらう? 群長さんでもないのに……。おまけに、こつちを起しもせずに、自分で水を汲みいれてくれるなんてずゐぶんまめなひともあればあるもんだ。
もちろん、まめなひとと云つても、ただ普通の「まめ」といふ意味ではない。もつと複雑な性質を帯びた感心のしかたであるが、しかし、やはり、「まめな」といふ印象が一番強く、この人物のこの行為に対して、例へば一概に「親切」とか、「公徳心」とか云ふ言葉でこれを評し去ることは、なんとしてもぴつたりせず、むしろ、それは、せつかくの味ひをなくしてしまふやうなものである。
そこで彼女の心をかすめたこの「まめな」といふ漠とした讃嘆の種類が、いちばん、この場合、田丸浩平にはうつりがよく、同時に、彼女自身の、素直なものの受け容れ方を示してゐるのである。
つまらぬところへながながと註釈をつけるやうであるが、これは、この二人の人物を理解するうへに重要な点であるから、ことさら読者の注意を惹いておくわけなのである。
さて、初瀬はさういふ感慨にいつ時耽つてゐたが、気がついてみると、水槽の水はまだ半分にも達してゐない。あとを汲み込むのは自分の役目ではないのか。なにをぼんやりしてゐるのだ!
彼女は、そこで慌てて、物置へ走る。ホースを出す。
が、田丸浩平は、それでもまだ、バケツをはなさない。水槽へ注ぐホースの口へそのバケツを当てがひ、いつぱいになつたところを、今度は、お向ひの久保家の水槽へあけに行く。
「そちらもやつぱり栓が抜いてございますの?」
「いや、こつちは、栓はちやんとなつてるんだが、いやに減つてるから……」
「ホースがもうすこし長ければ……」
「ひとの家まで届くホースなんか、用意しとくのは、消防隊ぐらゐなもんでせう」
初瀬はその言ひ方の可笑しさに、ふと両手を口に当てて、反るやうなかたちをした。
闇の空で飛行機の爆音がかすかに聞えた。
「あたくし、すこし、代りませう」
初瀬は、いきなり、田丸の提げてゐるバケツの柄に手をかけた。
「いいですよ。手伝つて下さるなら、あなたもバケツを持つてらつしやい」
ほんとにさうだ、と、彼女は駈け出す。
かはるがはるバケツに水を満たしては、数歩のところを往き来する、その、すれ違ふみちみちの二人の会話──
「お宅は疎開をなさるつて、ほんとですか?」
「さういふ話も出ましたんですけれど、義母がいやだつて申しますの」
「へえ、おかあさんが……。で、あなたはどうなんです? すべて、お宅はあなた次第のやうに伺つてゐますが……」
「おや、さうでもございませんわ。義弟がなんども急き立てに参りますのよ。あたくしは、でも、子供のことを考へて……」
「年寄と子供のためでせう、第一、疎開の問題は……」
「それはさうですけれど……もしさうなら、お宅の加寿子ちやんたちは、どうなさいますの……」
「逆襲ですか。母親のない娘は別です」
「…………」
──長い沈黙。
「父親のない男の子は、なほさら考へものですわ」
「…………」
──間。
「ところで、うちの娘たち、なにかあなたに無理なこと云ひませんでしたか?」
「無理もないことをおつしやいました。なんべんも、なんべんも、それをおつしやいますの」
「それで、どういふ風に云つて聞かせてくださいました?」
「どう云つてお聞かせしても、駄目ですの。うちの貫太までが、しり馬に乗つて、──僕、田丸の小父さんの子供になつてもいい、なんて……」
「これや、もつとも難題でせう。しかし、そのことだけなら、云つて聞かせやうがありますね。仮にあなたが加寿子たちのお母さんになつてやつて下さるにしても、貫太君は、れつきとした矢代家の長男として、わたしが大事にお預りすることも考へられないことはない。あなたも、その方を望まれるでせう」
「…………」
──沈黙。
「大きな意志が、どこかで働きさへすればよろしいんですわ。自分の意志よりも、もつと大きな意志が……。女の感情は、いつでもさびしい子供の母親になりたいんですもの」
「その感情をはばむものはなんでせう? 世間の思惑ですか? 未亡人の道徳ですか?」
「あたくしの場合は、どつちでもございません。ただ、意志の弱さですわ」
田丸浩平は、空のバケツを提げたまま、立ち止つた。
空のバケツを提げたまま、初瀬は、そのへんをぶらぶら歩いてゐる。
「おやすみなさい」
田丸浩平は、さう云つて、自分の家の方へ帰つて行かうとする。
「おやすみなさいまし。どうも、ありがたうございました」
晴れ晴れと、初瀬は、そつちへ声をかけた。
あつけないが、しかし、わだかまりのない別れ方であつた。
その翌日、昼すぎ、警戒警報が解除になつた。
初瀬は、急に思ひ立つて、蒲田へ出かけて行つた。吉村技師をその研究所へ訪ねるためである。
「ああ、さうですか。わかりました。別にお返事をする必要もないと思つたもんですから……。それに、あなたに説明をしてもわかるまいと思ふんです。非常に専門的なことですからね。しかし、折角いらしつたんだから、簡単に云ひますが、あの研究は、第一に、未完成です。第二に、着眼は可なり面白いが、推論がちよつと飛躍しすぎてゐて、肝腎なところの証明が不足です。第三に、部分的には、際立つて独創的な発見と方式とがあるにはあります。しかし、その理論を発展させる基礎に、致命的な弱さがある。つまり、研究態度の甚だしい孤立といふことです。従つて、殆ど徒労に近い努力と、滑稽なほどの、なんと云ひますか、時代錯誤があるんですな。例へば、僕のところなんかでもう解決してしまつてる問題を、暗中模索してゐたり、十年も前に公表されたある研究の結果が、得々と今頃、迂遠な実験で論証されたりしてゐるんです。要するに、個人の研究、殊に、僕が想像するやうなラボラトリイでの実験の結果としては、ちよつと驚くべきものだといふことは確かで、さういふ研究家を今までわれわれの仲間が識らなかつたつていふことは、実際、残念です。それと同時に、もう少し早く、自分の研究がなんのためであるかといふことに気づかれて、広くわれわれの仲間に協力を求められたなら、恐らく、御主人の業績は輝かしいものになつてゐたでせう。率直に云ひますとね、元来、この種の研究は、アマチユアには無理なんです。なぜつて、アマチユアは、いつでも一人でせう。学問とか技術とかつてやつは、どうも平行して発達するものらしいですな。門外不出の知識は、決して科学として伸びないのです。アマチユア写真家の名人気質を、御主人も持つてゐられたんぢやありませんか?」
この話に耳を傾けながら、初瀬は、ひしひしと胸にこたへるところがあつた。
──ああ、もう少し生きてゐてくれたら!
初瀬は、仏壇の前に坐つてゐた。
手を合せながら、彼女は、心で夫の写真に呼びかけてゐた。
「──もう、なにもかもご存じでせう。吉村さんは、多分、あなたに直接おつしやりたいことをあたしにおつしやつたのだと思ひます。あなたのお心持は、あたしなんぞにちよつと想像はつきませんけれど、吉村さんのお言葉がもし当つてゐれば、あたしは、悲しくつて悲しくつてしやうがありません。この十年は、あたしたちにとつて、なんといふ月日だつたでせう。なにひとつ、あなたのためにできなかつたといふことは、女のあたしには、堪へられないことですもの。あなたは、もつともつと立派なお仕事がおできになつたのだ、と、今更、ひとに云はれて、やつとそれを知つたなんて、ほんとに情けない妻ですわ。
でも、こんなことは、あなたに申しあげても、お笑ひになるだけだと思ひます。それよりも、ご臨終のすぐ前、あたしに、あれほど真剣になつて、貫太のこれからのことについてお望みになつた事柄を、あなたの第二のお仕事として、あたしのありつたけの力で、立派に果してお目にかけますわ。それは、世間普通の母としてではないかも知れません。貫太は、あたしたち二人の子供に違ひありませんけれど、ただそれだけではない筈だと思ひます。あたしは、あなたのお許しを得て、貫太をしばらくほかへ連れて参ります。あたしは、いろいろ考へた末、田丸の娘たちの、仮の母親になり、貫太と一緒に、この娘たちの面倒もみてやらうと決心いたしました。どうか誤解をなさらないで下さいまし。あなたのお心があたしを去る前に、あたしの心があなたをはなれることは、決して決してないのですから……。あたしは、ただ、自分のことだけを考へるのは、もう、いやなんです」
涙がひとりでに頬を伝つてゐた。
彼女は、一日おいて次の日、下谷の実家へ足を運んだ。
やや久しく、父の橘円蔵は中風の気味で寝てゐるのである。代々、木版を業とする家に生れ、父も、最近までは、気の合つた絵かきの仕事をたまに引受けたりしてゐた。
息子一人娘一人を残して妻ははやく世を去つたが、その一人息子は、嫁をとると、その翌年、満洲へ渡り、爾来、二年に一度ぐらゐ、ぶらりと帰つて来るのである。大きな土木事業をやつてゐるといふことだけ、彼は知つてゐた。
初瀬はこの父の気性をすつかり呑み込んでゐた。理窟が嫌ひであつた。義侠心のかたまりみたいなところがあつた。
「どうしたい? なんか面倒なことでも起つたか?」
いきなり、顔をみると、さう浴せかける父を、初瀬は、笑ひながら、団扇であふいで、
「これから起きさうつていふの」
「よせよ、おどかすのは」
と、父の円蔵は例の調子で云つた。
「敵はもう玄関まで来てるつて云ふぢやないか。サイパンつて云や、お前、裏の時計屋さんの親類がお巡りさんになつて行つてるとこだ。冗談ぢやない。わしはもうご近所の迷惑になりさへしなきや、このまま爆弾でも油脂焼夷弾でもなんでも頂戴するよ。だが、東京はいつたいどうなる? 畏れ多いことだが、お膝元はしつかりしてるか? 如才なく護つてはあるだらうが、とにかくひと騒動だ。なにを笑つてるんだ!」
「笑つてなんかゐませんよ、お父さん……あんまり暑いからよ」
初瀬は、団扇を持ちかへて、バタバタと自分の襟に風をいれる。
「暑いからにやにやする奴もないもんだ。だからさ、そのうへ、お前まで面倒なことを持ち込むなつてことさ」
「ええ」
と、初瀬は、顔を斜にして、困つてみせる。
そこへ、嫂の藤枝が冷やした番茶を運んで来る。三つ年下の嫂である。
「お父さま、珍しいお花をいただきましたわ。あとで活けていただかうと思つて……」
初瀬が、それにかぶせて、
「あら、嫂さんに活けていただかうと思つたのよ。だつて、むづかしいんですもの」
「なんだい、花は?」
と、老人が、淡々と訊く。
「朴の実ですつて……」
藤枝が、聞いた通りを云ふ。
「朴の実か……花は、なるほど、もう過ぎたな。どら、見せてごらん」
まだ青い、ツムのやうな大きな実をつけた枝が二た枝、豪快な若葉を車形にひろげて、老人の眼をぱツと明るくする。
「ふむ、いいにはいいが、この床にはどうかな。まあ活けてみな」
どつちが活けるともきまらず、朴の枝はいつたん流しの手桶にをさまる。
初瀬は、その前に、話だけしておきたいと思つたからである。
なにもかにも、ありのままに話す。父は、時々、眼をつぶつて聴く。眉の間に皺を寄せることもある。入歯を舌で押しあげなどもする。
彼女は、なるべく自分の感情だけを伝へ、その感情を正当化するやうな言葉を避ける。それは、帰するところ、田丸の娘たちがこれほど自分に懐き、自分もそれをいとほしく思ふからには、貫太を連れてなら、田丸の家へ自分だけの籍をうつしてもいいやうな気がする、が、どうであらう、と、いふのである。
「すると、どういふことになるんだい? その田丸とやらの家へお前がはいつてさ、娘たちの世話をやくだけで、それですむのかい?」
初瀬は、この父の問ひには、ちよつとまごついた。わざとそこだけに触れないでおいたわけではない。それはただ、結果としてさうなるといふ程度にしか、彼女は考へてゐなかつたのである。
だから、父の顔をみたまま、黙つてゐた。
「田丸つて男は、どんな男だい?」
父は、さういふ風に訊きなほした。
「さうね、貫太のお父さんになつてもらつてもいい人だと思ふわ。むろん、そんなわけにはいかないけど……。正身のもつてないものも持つてるひと……すこし田舎者よ」
自分でも、これはいささか、しどろもどろだと思ふ。そして、云つてしまふと、いやに顔がほてり父の視線がまぶしい。
「いくつだい、相手は?」
「相手だなんて……。四十五よ」
「十二違ひなら、まあまあだ」
初瀬は、ほツとする。
「だが、こいつは、さう、おいそれといく話ぢやないぜ。後取りを連れてつて云ふのは、そんなに聞かない話だ。矢代さんの婆さんが承知すまい」
「お婆ちやんは、梅代さんと二人で、結構やつてらつしやれるわ」
「子供が嫌ひだつて云ふからな」
「あら、嫌ひつてことはないでせうけど……」
「ううん、このわしにさう云つたよ。ひでえ婆だ」
「お父さん、あたし、さういふ意味で云つたんぢやないのよ。梅代さんがゐなけれや、あたしの決心だつてつかないわ、きつと」
初瀬は、ほんとのことを云つた。
「うむ、そんなもんかも知れない」
と、父にも、それはわかつた。
「で、お前がそれを婆さんに云ふか? どうする?」
「さうしてもいいけど……やつぱりお父さんからちよつとお手紙でも出していただかうか知ら?」
「わしからか。わしからぢやまづい。順序を踏むとすれや、浅見の爺さんにひと口上述べてもらはにやなるまいが、仲人もこの役はまつぴらだと云ふだらう。とにかく、お前の籍は一旦帰るわけだ。わしから云や、まあ頭をさげて、かうかう娘が申します、まことに不都合な次第だが、反対する元気もないので、と、あの婆さんに、詫び入る一手だ。喧嘩さ、きつと……最後は……むかつとして……いい顔はしないにきまつてるから……それで差支へないか?」
ひとりでに眼を伏せて、初瀬は、父の痛ましい誇りを胸いつぱいに感じてゐた。
「ありがたう、お父さん、もうそれだけ伺へばよろしいの。あとは、あたし、いいやうにするわ」
そつと起ち上つて、彼女は、流し元へ行く。
やがて、青い実のついた朴の葉枝が、彼女の手で、古い石刷の軸の前へ、闊達に活けられた。
昭和十九年七月十八日、大本営発表として、サイパン島守備の我が軍全員戦死の報道が伝へられた。国民は粛然として声を呑んだ。
翌十九日の新聞は、もちろん一斉にこの記事を掲げ、首相の談話をはじめ、各方面代表者の感想、決意を紹介し、全国民の悲憤熱涙をもつて紙面を覆ふかにみえた。
最高指揮官南雲海軍中将、陸軍部隊指揮官斎藤中将、海軍部隊指揮官辻村少将の写真が「サイパン全将兵、壮烈な戦死」の大見出しと並んで、更に読者の胸を打つた。
六月十五日以来、この方面の戦局は刻々手にとるやうにわかつてゐたから、国民は、実は、この事あるを予期してゐた。ただ、最後の日が一日でもおくれることを祈るばかりであつた。
しかし、その日は遂に来たのである。
その日は来たけれども、それは一方から云ふと、国民が不幸な結果をはつきり知つたといふだけではない。この結果をもたらした大原因がどこにあるかといふことを、厳しく省みなければならぬと同時に、更に、重要なことは、この日を迎へるまでに、われは為すこともなく手を拱いてゐたのではないといふことを、お互に固く信じなければならぬ。はつきり云へば、サイパンの喪失は疑ひもなく戦局の一大危機を意味するであらうけれども、また、それは、大東亜全戦域の態勢からみれば、明らかに一局部の戦闘消息であり、しかも、国民の知り得る範囲を超えた軍事的秘策善謀の一環のなかで、如何なる役割を果しつつあつたかを静かに思ひめぐらすべきである。
わざと敵を引き寄せるのだといふやうな、虫の好い気安めは云はなくてもよい。さうだとしたらそれでもよいが、さうでなくても、図に乗る敵の弱点を見逃すはずはなく、まして、本土防衛の表玄関と云はれる戦略上の一拠点を、それに優る代償を求めずして、むざむざ敵の手に委ねる道理はないではないか。
演芸移動本部の事務所は、朝から、みな沈痛な表情で机に向ひ、それでゐて仕事が手につかぬといふ風で、正午の黙祷まで時を過したが、黙祷に先だち、事務局長の訓示が、大体以上のやうな趣旨を徹底させることに力を注いだものであつたから、全員の面上にやや明るさを認めるやうになつた。
事務局長の訓示は、あらかじめ、各部長と相談のうへ、かういふ趣旨で行かうといふことに一決したのである。そして、それがさうきまるについては、田丸浩平の主張が他を圧したかたちであつた。
劇場や映画館は、一日休業を申合せ、それを実行した。演芸移動本部も、それぞれ派遣先へ公演中止の指令を発した。
が、田丸浩平は、事務の所管は違ふけれども、この問題について、いろいろ考へてみた。
これが若し、政府当局の意向を反映したものとし、今日、すべての演劇や映画がいはゆる平時に於ける「歌舞音曲」の取扱ひを受けるのであるとしたら、ここにも亦、国家のため、由々しい事態がひそんでゐると、彼は思つた。
誰がなんと云はうとも、内外の情勢は、ただ暗鬱であつた。国民各々全力の発揮に努めながら、その力を遮るものが互のうちにあることを感じてゐた。
しかし、理想を追ふものは、現実のすがたに失望してはならぬ。清掃に塵埃はつきものであり、障碍のないところ、前進といふ言葉すら無意味である。一億一心は動もすればあるべきかたちとしてのみ考へられ、その困難がどこにあるかを真面目に指摘するものが少なかつた。国内にも、調子に乗つてゐたところがないと云へぬ。調子に乗るものの常として、在るものを在るがままに見ないのである。
一喜一憂も個人的には人情としてゆるされよう。だが、国民の表情は、もつと不動でありたい。国民の表情を不動ならしめるものは、為政者の信念と聡明な配慮である。
田丸浩平は、かう考へて来ると、その為政者の責任を、国民みなが倶に負ふべき今日の光栄を、日本人として、しみじみと感ぜずにはゐられない。「草莽の微臣ここにあり」と云つた、先人のあの思ひが、彼の胸にもまた、沸々と湧いた。
二人の娘も、姉はこの数週間、学校動員であるゴム工場へ通つてゐた。妹は、これも学校から近在の農家へ勤労奉仕に出掛けて行つた。いづれも、元気に、それぞれ与へられた仕事にぶつかつて行くのを見ると、彼は、なるほどそんなものかと思つた。
若しこれで、結城ひろ子が四、五日前、急に暇をくれと云ひ出してゐなかつたら、彼は、別に、家のこと、娘たちのことで気がかりなことはなにひとつないのである。
なぜ、そんなに急に結城ひろ子は暇をくれと云ひだしたか?
それが田丸にもよくはわからないのだが、彼女の云ふところを、いろいろに推察すると、どうも、この家では働きにくいといふのが、結局のところらしい。
はじめは、自分にはかういふ家庭を切り廻して行く自信がないと云ひ、──ちやんとやつてくれてるぢやないか、と云ふと、──それに、母親が先々のことを心配して、身を固めるならやつぱり家にゐた方がいいとしきりに近頃云つて来るから、と、それを理由にする。──ここにゐたつて、さういふ話が進めば何時でも帰れるやうにするから、と、一応、引止めてみたが、それに対しては、──いや、自分がかうしてゐたんでは、却つてこちらの、いろいろあるお話の方の邪魔になるんではないか、などと、つまらぬ心配までしてみせる。
田丸は、すこし面倒になり、では、さういふ気持なら、無理にゐてもらはなくつてもいいから、早速、代りの手を探すことにする。一週間ばかり辛抱してくれと、それでも、怒つた顔はせずに云ひ渡した。
四、五日は、そのまま過ぎてしまつたのである。
しかし、いよいよとなつたら、娘を相手に自炊をするつもりでゐた彼は、今時分、手伝ひの女はゐないかなどと、ひとに相談をしてみる気にもならず、一週間目が来たら、結城ひろ子に出て行かれても仕方がないと諦めてゐた。
ところが、その一週間目が来て、彼が、どうも代りは見つかりさうもないと云ふと、彼女は、笑ひながら、一日二日を争ふわけでもないから、それでは、代りの見つかるまで、もう少し置かせてもらふと、至極ものわかりのいい挨拶である。
さうなると、今度は、彼の方で、いつまでもうつちやつてはおけなくなる。第一、先々の用事を頼んでおくわけにもいかないので、これには参つた。
「かたがつかないから、こつちにはかまはず、そつちの都合で何時でも帰つてくれたまへ。あとはまた、なんとかなるよ。子供がどうするか、見ててやるのも面白いから……」
彼はそんなことも云ふには云つたが、結城ひろ子は、てんで相手にしない。
「いくらなんでも、このままでは、お暇をいただくわけに参りませんわ。ですから、せめて、笠間先生のやうな方でもお見えになれば、早速、あたくし、入れ替りに引取らせていただかうと思ひますの」
「笠間君のやうな人つて、どういふこと? あのひとの場合は例外さ。今度は、後妻なら後妻で、初めから、さうきめて家へ入れるよ」
「それや、さう遊ばすのがほんとでございますわ。かう申しちやなんですけれど、笠間先生は、ずゐぶん御苦労なさいましたでせう。あたくしだつて、ほんとに、あの方の前でどういふ風になにしていいか、困りましたですわ」
「みんな困つたんだから、それでいいさ。ところで、僕があとを貰ふとして、君は、その話がきまるまでゐてくれるかい?」
「…………」
承知とも不承知ともつかぬやうな沈黙と微笑であつた。
田丸浩平は、矢代初瀬のことを考へてゐた。
さうなれば願つたり叶つたりだ。といふ半面に、そんなことは到底望み得ないのだ、といふ半面が、彼を一歩も前へ進ませないのである。
が、なぜ、そんなことは到底望み得ないのか?
再婚の一番大きな障碍となつてゐるのは、娘たちの気持ではないか。彼女たちが、自分でこのひとならお母さんになつてほしいといふ人物が、すぐ眼の、前にゐるとしたら、そして、その人物も、敢てそれを辞さないとしたら、あとにどんな困難があるだらう!
先方に長男があるといふことか。しかし、これは、実際問題として、どうにでも解決がつく。さうだとしたら?
なるほど、さういふ風に、いちいち問題を拾ひあげていくと、別にこれと云つて、絶対不可能な点はないやうである。しかし、田丸浩平はなんとなくまだへんなのである。
そこで、ひと思ひに、彼の心理に解剖のメスを入れてみることにする。
元来、田丸浩平といふ男は、世間態なるものはあまり気にしない方で、自分がかうと思へば、周囲はどうあらうと、ひとりでどしどしやつてのけるといふ風であるが、事、異性に関する限り、おそろしく慎重になる。なぜかと云へば、彼には一種の偶像として心に描いてゐる女性像があつて、どんな女も、この偶像とくらべては、ほとんど、彼の好奇心を惹くに足りないのである。ところが、たまたま、この偶像にとつて代る、或は非常に近い女性の一人を発見すると、彼は忽ち、少年の幸福感のやうなものにひたる。そして、自分の存在が、彼女の前でいかに小さいかをおそれる。もちろん、それは意識の下にかくれてゐる微かな卑下感であるけれども、表面は、年甲斐もなく、照れて照れて、始末にわるい。
最初の妻奈保子の場合がさうであつた。
彼は、至極照れ臭い顔で見合をしたまではいいが、頗る照れながら二た月の交際を続け、大に照れながら結婚式を挙げ、遂に、照れ通しで、妻と、十幾年かの生活を倶にした。
ここに、再婚の相手として登場する女性がいくたりあつても、彼がほんとに照れないうちは、どうしたつて物になりつこはないのである。
然るに、妻の死後、月日がたち、止むを得ずとは云ひながら、再婚の肚をきめ、さて、偶然、娘たちの口から、矢代初瀬の名を聞いた時、彼は、なんのことはない。からだ全体で照れてしまつた。
女ばかりではない、男にしても、照れた時にはまづ反射的に、拒否の姿勢を取る。
これが一つ。
もう一つの心理は、これ以上に複雑だが、もつと道徳的な意味をもつてゐた。
つまり、男女の貞操といふ問題、一家の歴史といふ問題、他家を継ぐべき男子の教育について自ら負ふべき責任の問題などが、微妙に入り混つた反省がこれである。
が、この反省も、決して、すべてが否定的な方向をとつてゐたわけではない。理窟ならどうにでもつけられるといふ種類のものであつただけに、彼は、彼なりの理窟をつけて、自分を納得させることもできた。ただ、彼といへども、理窟が理窟どほりに行くかどうかを危ぶむくらゐの、現実を観る眼をもつてゐたのである。
彼の道徳は、常に現実との戦ひを挑む。彼の理性は、しかし、現実は処理すべきものであつて、これと闘ふが如きは愚なりと教へる。
戦ふ用意はあつても「処理」し得る自信がまだつかぬ、といふわけなのである。
さて、さういふわけで、田丸浩平は、身辺のやや差しせまつた問題を解決することと、現在の息づまるやうな戦局に対して、自分がほんたうに力を出しきれるやうな仕事の方向を見出すことが、実は二つのことではなく、若し天来の妙案が浮びさへすれば、それは一挙に求め得る一つの活路にすぎぬといふ気がして来た。
彼は辺僻な山村に未開墾地を求め、自らも鍬をふるつて、営々増産に挺身する一家三人の姿を想像した。
或は、自分は農業技術の指導員として、娘たちは託児所の保姆見習として働かせ、父娘の生活を全体として新しい農村建設のために献げる夢をも描いてみた。
が、それにしても、ともかく、娘たちの女としての成育に欠くことのできないものは、母親の心くばりであるとしたなら? そしてまた、男子をして家を忘れさせてくれるものは、云ふまでもなく妻以外のものでないとしたら?
警戒警報の出たあの晩の出来事が、彼の頭をはなれるわけはない。バケツの水は何杯汲んだか覚えてゐないけれど、矢代初瀬との問答は、ひと言ひと言、鮮やかに彼の記憶に残つてゐて、まだ相手の声がそこに聞えるやうである。
彼の決心は徐々について来た。
決心をつけると、彼の気分は急に軽くなり、重大なものが行手に待ち構へてゐるといふ予感がしないわけではないが、それすら、ものの見事に乗り越えてみせるといふ満々たる自信に自ら酔つた。
先づ、彼は、まだ金沢にゐる筈の義母に手紙を書き、再婚の諒解を求めた。
この次ぎには、嘗ての媒妁人、宇治博士を訪ねて、やつと候補者の見当がついたこと、それはかうかうしかじかの人物であること、世間の常識から云へばいろいろ問題もあらうが、事情はまつたく例外的な動機を含んでゐて、自分としてはこれ以上自然な径路を踏むことは困難だと思ふわけを事細かに語つた。
宇治博士は、心理学を専攻する能率研究の権威であるだけに、この再婚はまことに能率的であると云はんばかりに賛意を表した。
彼はなほ、話はまだ公式にちつとも進んでゐるわけではなく、ほぼ可能性があるといふ見透しがついてゐるだけなので、若し、先生のご賛成を得たら、早速、先方へ順序を踏んで当つてみるつもりであると付け加へた。
「お姑さんにぢかにぶつかるのがいいか、誰か適当な人を立てた方がいいか、どうしたもんだらうと思つてゐます」
「それや、君がぢかにお姑さんにぶつかる手はないさ。先づその細君の実家へ話をもつて行くんだね。それから後は、実家の人と相談すればいい。さあ、お父さんがゐるとしたら、そのお父さんがなんて云ふか、難関はそこらだね」
その日の夕刻、田丸浩平は、矢代家を訪れた。
初瀬が取次ぎに出たので、改まつて面会を求めなくてもよかつた。
「ちよつとお話したいことがあるんですが。……」
と云ふと、彼女は、
「どうぞ……」
と、落ちついた調子でスリツパを揃へる。
座敷へ通されてはまづいと思つたから、
「込み入つた話ですから、そのおつもりで……」
下駄を脱ぐ前に念を押す。
「ぢや、こちらがよろしいかしら……」
彼女は、アトリエの扉を開けた。
「組長として来たんぢやありませんよ」
与へられたソフアの方へ行きながら、もう一度念を押す。
「あら、どんな資格でいらしつたんでせう?」
彼女はそこではじめて悪戯ツ子のやうな笑顔をみせる。
「単刀直入に云ひます。こないだのお話ですが、あなたがその気にさへなつて下されば、僕は、是非さうしていただきたいと思ひます。多少無理な点もあるでせう。しかし、最後はわれわれ二人の決心次第ですから、今日、はつきりお返事を伺つて、その上で、若しよろしいといふことなら、早速にもこいつを実現させるやうに努力してみようぢやありませんか」
顔を伏せ加減に、しかし眼だけは彼の視線をまともに受け片頬に深いゑくぼを作つて、そこだけで心の動揺をぢつと抑へてゐるやうにみえた。
が、彼の言葉が切れるのを待つて、
「突然なやうな、突然でないやうなお話ですわ。ずゐぶんお考へになりましたでせう? お察しいたしますわ。でも、あたくしのお答はもうきまつてをりますの。実家の父にも相談いたしましたわ。父は、まあ、黙つてゆるしてくれるさうでございます。それから、ここの義妹にもそれとなく、耳に入れましたの、そしたら、義妹だけの考へでせうけれど、子供を置いて行くんでなければつて申しますの。義母はまだなんにも知らないと思ひます。しかし、子供の籍はちやんと残すといふことと、主人の一周忌をすましてからといふことと、これさへはつきりすれば、異議はございませんでせう。さういふ気がいたしますわ」
「では、お義母さんには、どなたから話していただきませう? あなたからではまづいでせう? さういふ手はないから……」
と、田丸は、宇治博士にいはれたやうに、彼女に云つた。
「父が出て来てくれるとよろしいんですけれど、永らく伏せつてをりますので……。でも、そこはなんとかなりますわ」
「そこはなんとかなる」といふ初瀬の言葉で、田丸浩平は、もう重荷をおろした気になつた。
そして、ほんとに久々で、意気揚々となり、娘たちの待つてゐる食卓の前へ、大きく胡坐をかいた。
「お父さま、何処へ行つてらしつたの?」
浴衣になつた父の姿が急に見えなくなつたのを、娘たちは、結城ひろ子と一緒に、家ぢゆうを探したからであつた。
「うむ? ちよつとお隣りまで……」
「矢代さんとこ?」
「うむ。ほらほら、箸をもつたまま茶碗を出すやつがあるか」
彼は、別にそれを隠すつもりはないが、娘たちの好奇心が異常であることに気がつき、そのうへ、たつた今、別れの目礼を交した初瀬の印象を、この娘たちの眼はそのままきつと自分のどこかに読みとるであらうと思ふと、彼は、われながらをかしいくらゐどぎまぎした。
その翌日のことであつた。
朝、彼は事務所へ出掛けるつもりで門を出ると、初瀬が、買物袋を提げ、自転車を押しながら、後からついて来た。
二人は、横町をしばらく並んで歩いた。
「義妹の話ですけれど、義母はもう知つてるさうでございますわ。別に大して問題にもしてゐない様子ですの。結局、義妹と二人つきりの生活の方が暢気でいい、なんて申してますんですつて……」
「それで、あなたには直接なんにもおつしやらないんですか?」
「なんにも申しませんの。普段とちつとも変りない顔をしてゐますわ」
そのまま、彼女は、「ごめんあそばせ」と、自転車へ飛び乗つた。
この瞬間の対話は、彼の出勤の道すがらを、大袈裟に云へば、明一色に塗りつぶした。
しかし、彼女はいつたい、何を待つてゐるのか?
とりあへず、彼女の実家へ、自分の方として、なんらかの申入れをする必要はないだらうか? 自分で出掛けるべきか? もう、他人を煩す年でもあるまい、そのことについて、彼女の意見を聞いてみたらよかつたのに。
あとはただいはゆる手続の問題である。さういふ風に考へて来ると、彼の頭に、ふと奇抜な、しかし、まんざら意味のなくはない構想が浮んだ。
これはひとつ、隣組の事件として、組の誰かに仲介を頼んでみたらどうであらう。両家の事情も呑み込み、云はば双方の生活にまで立ち入ることのできる資格は、今日、隣人以外にはないと云へるのである。誰が一番適当であらう? 年配から云ふと、八谷誠であらう。社会的地位から行くと、楯凡児でもよい。しかし、すこし格を外して、地主夫婦といふことにすれば、いつそ淳朴な面白味はあるかも知れない。
こんな空想も、彼としては、まんざら気まぐれではなかつた。それどころではない。多少、功利的な分別も混つてゐないとは云へないのである。
といふのは、常に物事を興味本位にとりたがる世間の口をいくぶん塞ぐことができるといふことである。つまり、隣組を第三者の立場におくよりも、自分たちの内輪の問題として、これに最初から関与してもらふ方が、きつとあとがうまく行くといふ考へ方である。
それにしても、また一方から云ふと、別な面白くない半面を予想することができた。
なにかと云ふと、この極めて私的な問題が、近頃の戦時的話題として取りあげられ、模範隣組の一例などとこじつけた記事が新聞にでも出ようものなら、それこそ滑稽千万である。
田丸浩平は、生れてこの方、今度といふ今度ほど、自分の姿を鏡に映してみたことはない。
金沢の義母から返事が来た。──自分もかねがねそれを願つてゐたのだから、どうか一日も早くその話を進めてもらひたい。地下の奈保子もきつとそれで安心するだらう。矢代の奥さんなら自分もまんざら識らない方ではなし、殊に、加寿子たちには、うつてつけのお母さんだと思はれる。ただちよつと心配なのは、ご近所の思惑と、先方のお姑さんとの関係だが、場合によつては、ひと思ひに住ひを移した方がいいかも知れない、といふ風な、例によつてあれこれと気を配つた手紙の内容である。
この方はこれでよし、と、彼は思つた。
ところで、なによりも厄介なのは、ひと言相談をかけようにも、目と鼻のところにゐる当の相手が、れつきとした隣の細君なので、さう易々と呼び出すわけにもいかぬといふことである。
いちいち「御免下さい」も大そうだし、まさか娘に書付けをもたせてやる馬鹿もできず、さうかと云つて、変名の手紙などもつてのほかである。
田丸浩平は苦笑しながら、じりじりして来た。
出がけにちやうど道で一緒になる機会をまたつかまへればつかまへるのだが、彼は、当てのないことを待つといふのが嫌ひである。
そこで彼は、初瀬の方にはおかまひなく、自分の手で出来るだけの順序を踏むことにした。
で、先づ、もう一度宇治博士に頼んで、矢代の隠居に会つてもらひ、十分特別な事情を呑み込ませ、とかく起りがちな誤解を避けるやうに話を運び、初瀬の立場をできるだけ苦しいものにせず、同時に、矢代の家に傷のつかぬといふ、万善の考慮を払つて事にのぞむ段取りをつけた。
東条内閣総辞職の報が伝はつた。
いはゆる政界の事情に疎いものにとつて、この消息はまつたく予想のほかであつた。予想のほかどころではない。むしろ、あり得べからざる事実のやうに思はれた。
サイパンの失陥につぐ内閣の瓦解といふ風に見て来ると、国民の胸は、ただ、「申訳ない」といふ気持でいつぱいになる。
田丸浩平は、それでも、巷間の雑音によつて、薄々このことあるをかねて覚悟してゐた。が、いよいよ、首相談として発表された挂冠の弁とも云ふべきむのを読むにあたつて、事、一内閣の問題としてではなく、戦ふ日本の危機が遂に到来したことを知り、国民一人一人の至誠が何故に天に通ぜぬかと、眼のくらむやうな憤りを感じた。
内閣とはなんだ? 誰の内閣でもない。国民全体の上に築かれた政治の中枢ではないか。内閣をして為すべきを為さしめない国民が、この大戦争の遂行中、一人でも日本にゐたのか。総理大臣は、全国民を率ゐ、全国民に支へられてゐるのではないか。総理大臣は、最も苦しく、最も確かな地位にある。彼は、ただ国民を信じ、国民に信ぜられるだけでよい。彼は恐らくある意味では、誰よりも孤独であらう。しかし、彼はまた、時代の英雄たることによつてのみ、その任を果し得るのである。
大将東条英機をしてその孤独を忍ばしめ、これを真の英雄として天下の眼に映じさせることをしなかつたのは、いつたい誰の罪だ!
日本の政界は、この期に及んで、なぜ国民を裏切るやうなことをしてくれたのだ、と、田丸は歯ぎしりをした。
すると、やがて、後継内閣組織の大命が、小磯、米内両大将に下つたといふ報道がはいる。田丸浩平は、日比谷から三宅坂までの電車のなかで、眼をおしつぶつて泣くまいとした。
なるほど、この戦さは楽々と勝てぬ戦さだと、彼はしみじみ思ふ。そして、さう思ふしりから、いやいや、この戦さは、楽々と勝つてはならぬ戦さだ、と、思ひ直す。
神慮による国民の試煉、といふ言葉が、ふと胸に浮ぶ。
戦ひの惨苦は、第一線にのみあるのではない。国を挙つての悩みは、いつ、どういふ形で示されるかわからぬが、たとへ局部的にもせよ、戦線の後退、敵の凱歌は、全国民の腸を断ちつつある。
特に、国内政情の不安動揺は、仮に他国のそれと大いに意味を異にするとは云へ、同胞相擁して呼吸のつまるやうな思ひである。
それもこれも、思へばみな、因つて来るところがあり、神は厳かに、われら国民に向つて、ひとつひとつの反省を求められ、しかも、決して、好い加減なところでお赦しにはならぬのである。──これが、田丸浩平の結論であつた。
後継内閣の顔ぶれがきまつた。
田丸浩平は、ただうれしかつた。閣僚の一人一人は、むろん彼自身となんの関係もなく、名前や閲歴のあらましを識つてゐるくらゐで、誰が実際にどれだけの人物かといふことなど、おぼろげに推察する程度を出ないのだけれども、とにかく、ここにずらりと並んだ肩書と姓名は、この難局を背負つて起つた政府の決意と、その決意に応へる国民の期待とを映して、いやがうへにも力強く、堂々としてゐるやうに思はれた。
──しつかり頼む! どんなことがあつても、みんなついて行くから、自信満々といふところを見せてくれ!
と、彼は、心の中で云つた。
そして、晴れ晴れと、大股に、新橋の駅を、出札口の方へ歩いて行つた。
昼近くだつたけれども出札の順番を待たなければならなかつた。と、同じ勤めの身らしい事務員風の若い女が二人、すぐそばでひそひそと話をしてゐるのが、聞くともなしに彼の耳にはいる。
「大宮島つて、グアム島のことね」
「さうよ。こつちが初めに奪つたとこよ。癪ねえ」
「だつて、まだ奪られやしないんでせう。上陸を開始せりつて云ふんだから……」
「でも、敵はまた優勢だつていふぢやないの。いつでも、優勢なのねえ」
「それやしかたがないわ。向うは攻めるんだし、こつちは守るんですもの。攻める方は自分の都合のいいところへ、いくらでも兵力を注ぎ込めるのよ」
「あんた、詳しいのね、さういふこと」
「あら、いやだ。みんなさう云つてるぢやないの」
あとは、今着いた電車の音に掻き消されてしまつたが、田丸は、このニユースは初耳であつた。
昼の会合が午後まで続いた。
なんびとも、新内閣について論じるものはなく、また誰一人、大宮島について語るものもなかつた。
それは無気味な冷静さともみられ、云ひたいことがありすぎるための沈黙ともみられた。
四時すこし前の解散で、田丸浩平は、蒸し暑い部屋をゆだつたやうになつて出たのはいいが、さつきからバラバラと落ちはじめた雨が、会場の玄関に立つた頃から、急に大粒になつたと思ふと、まだ雲のきれ日のある空から、突然、雷鳴が起つた。
雷鳴は風を促し、風は更に激しい雨を呼んだ。ビルデイング街の窓といふ窓は次ぎ次ぎに閉ぢられた。窓硝子の悉くが、飛沫を立て、アスフアルトの路はたちまち川を作つた。
旱魃を惧れられてゐた昨今の天気である。
「降る時には降つてみせるツ!」
と、云はぬばかりの、この土砂降りを、田丸は、痛快な面持ちで眺め入つた。
が、降るとしても、さてさて、こんなに降るとは!
「お前さんがそんなつもりでゐるなら、あたしや、なんにも云ふことはない。さつさと出て行きなさい。貫太はあたしたちが育てるから。滅相な、よその家へなんぞ預けられるもんですか」
初瀬は、その夜、姑の前へ呼び出され、かういふ宣告を受けた。
ちよつとお母さんから話があるといふ義妹のしらせで、初瀬は離れへ出向いた。
姑は、端然と床の間の前に坐つてゐた。
いきなり、そこへ手をついた初瀬に向つて、
「初瀬、お前さん、もう一度縁づきたいつていふの、ほんとかい?」
と、浴せかけた。
──どうして、さういふことを……
と云ひかけて、初瀬は、ぐつと喉がつまり、そのまま姑の顔を見つめた。
「いいえ、ただ、ほんとかどうか訊きたいんだよ」
重ねて、姑は、言葉の調子を強めた。
「あたしが、ちよつとお話したのよ」
と、義妹が口を挟んだ。
「あら、梅代さん、どうして? ちやんと順序を踏んでと思つてましたのに……」
初瀬は、それをむしろ姑の方へ云ふ。
「順序もへちまもないよ。この家を出たいつていふことに変りないんだもの。そんな話を片つ方で進めながら、よくここの門が潜れたね、矢代の家の門がさ」
「申しわけございません」
初瀬は、そこで、やつと、うなだれた。
すると、
「お前さんがそんなつもりでゐるなら……」
云々の宣告が下されたのである。
「あの、父からはまだなんとも申して参りませんでせうか……」
ひよつとしたらと思ひ、初瀬は肚をきめて訊ねた。
「お父さんもご同意なのかい? へえ、そんなもんかね。正身の一周忌もすまないうちから……」
と、姑は、浴衣の袖を眼にあてた。
初瀬は、かうなつては、もうなにもかもおしまひだと思つた。今更弁解がましいことを云つて何にならう!
それにしても、自分の進退をどう決めたらいいか!
貫太を残して、自分一人がこの家を出るなんていふことは、これまで全然考へたこともなく、それは如何になんでもあんまりだと、彼女は、それを思ふだけで、胸がいつぱいになつた。
しかし、この姑の出かたをみてゐると、自分に対する反感がすべてを支配し、云はば、赦しがたい罪の裁きをするのだ、といふ風なところがあつた。
それにしても、その罪の意識なるものが、彼女にはないのである。突如として、一つの考へが、彼女の頭を掠めた──。
いつまでも押し黙つてゐる初瀬の様子は、平生ぼんやり物を考へてゐる時の、あの深々とした眼差しに、いくぶん憂ひの色をふくんでゐるだけで、彼女がその時胸の一隅に抱いてゐたやうな、そんな大それた決心は、露ほども示してゐなかつた。
部屋へ引退つてから、彼女は、田丸浩平に宛てて手紙を書いた。
──思ひがけないかたちで、義母から申渡しを受けました。子供を置いて、すぐにでも矢代家から出て行けと申すのでございます。義妹からどういふ風に話をしたのか、まだはつきりわかりませんけれど、多分、話しかたもまづかつたものと思はれます。でも、誰だつて、こんなこと、上手には話せないと思ひます。受けとる方が受けとる方でございますから。やむを得ませんので、この上は、子供を連れて、一時、何処か遠方へ参らうかと存じます。何処へ参つたらよろしいか、お教へ下さいまし。何処でもかまひません。ただ、いづれは、加寿子さん世津子さんとご一緒になれますやう、祈つてをります。
翌日は日曜であつた。
朝手紙をもう一度読み直す。貫太を呼ぶ。
「加寿子さんにね、これ、お父さまにつて、……ちやんと渡すのよ」
貫太は、さういふ使ひは始めてなので、勇んで飛び出した。飛び出しはしたが、すぐに戻つて来て、
「加寿子さん、今日はゐないよ。学校の防空訓練なんだつて……新しい防空服着てつた」
「ふむん、加寿子さんゐなけれや、世津子ちやんでもいいのよ。世津子ちやんもゐなかつたら、小父さんにぢかにお渡し」
すると、貫太は、にやにやしながら、
「小父さんに? ぼくが? おひろさんぢやいけない?」
「いけません」
今朝回覧板を持つて行つたので、田丸が家にゐることだけはわかつてゐた。
昨日の嵐で、共同菜園のタウモロコシが根こそぎ倒されてゐる。午前十時からは草むしりを兼ねて、畑の応急手当を隣組のみんなですることになつてゐた。
初瀬は、身支度をして、庭のヒマをひと渡り起し、茎の折れたのには支柱をあてがつた。それから、その序に、裏へ出てみた。
ぽつりぽつりと人が集つた。女ばかりである。
「東北線がまた不通になりましたのね。今朝着く筈の主人が、どうも遅れるらしいんですの」
と、楯夫人が云ふ。
「池袋の方には、大きな雹が降りましたんですつて……硝子戸をだいぶん破られたつて、今朝親戚から参りました使のものが申しますんですよ」
伊吹未亡人が、大袈裟な表情をする。
「旦那さまはすこしお熱がおありになりますので、今日は失礼させていただくさうでございます」
田丸家のおひろさんが、さう云ひながら、手拭を姐さん被りにして、ちよこちよこと裏木戸から姿を現はす。
「まあ、お珍しい、あんなお元気な方が……」
と、八谷の細君が眼をみはる。
初瀬は、ちらとおひろさんの方をみた。
なにか気がついてゐるらしい。目立たないやうに会釈をする、その仕方でそれがわかる。
一瞬、彼女は、顔がほてつた。
久保鉄三が、最初の男手として、増産係主任として、ぶらりと顔を見せる。この増産係主任は、共同菜園第一回の鍬入れ以来、まるで忘れたやうに出て来たためしはないのである。そこで、もう一人の係主任、地主の萱野十吉が代つて世話を焼くかといふと、これはまた、共同菜園には一向に興味がないらしく、といふのは、自分は自分の畑で手いつぱいだと云ひ、共同菜園の作物は小豆一粒欲しいわけぢやないと、蔭で威張つてゐる。だから、細君の方でも、おつきあひに孫をおぶつて見には来るが、道ばたから、タウモロコシはうちのよりよく育つたが、カボチヤはどういふわけか不出来だねえ、などと、甚だ傍観者的態度である。
で、意外なことに、楯夫人が一番熱心で、かつ、相当研究もしてゐるらしく、あれこれとうまく指図をして歩く。
初瀬は、その楯夫人のする通り、タウモロコシの、もう太くなつた幹を、露に濡れた葉ぐるみ、力まかせに抱き起して、その根もとへ、足で土を踏み寄せた。
「なかなかどうして、これや大したもんだ。食糧政策の根本を、ひとつ考へ直さにやいかん。さすがは瑞穂の国だな。奥さん連が、なんのことはない、みんな生れながらのお百姓ぢやないか。ワハツハツハ」
初瀬の耳もとで、久保鉄三が、自分自身を相手に喋つてゐる。と、急に、
「どれ、それぢや、こつちはお委せして、わしは出掛けて来ます、午前中に農商大臣と会ふ約束があるから……」
一戸一人以上の勤労奉仕は、それでも、十一戸十五人といふ出動率を示した。一戸三人の挺身振りで、八谷家は気を吐いた。
その日の午後、初瀬は、実家の父に事の次第を告げておかうと、身支度をしかけてゐるところへ、玄関で呼鈴が鳴つた。下着のままでどうすることもできずにゐると、奥から、義妹が取り次ぎに出たらしい。
その声で、すぐに、客は義弟の貞爾だといふことがわかつた。
ぢかに離れの方へ通るその跫音を追ひながら、初瀬は、変な胸騒ぎがした。義弟を間にはさんで、話はすぐに彼女のことに及ぶに違ひない。──せめて、自分もその席にゐたら!
手早く、和服型標準服の仕立卸しを着をはると、彼女は、冷やした番茶を汲んで離れへ持つて出た。
まだなんにも変つた様子は感じられなかつた。
「やあ、嫂さんもいよいよ我党の士になりましたね。今、お母さんと話をしてたとこなんだけれども、愛知県の新城つていふ町にいい家があいてるんですがねえ。畑も相当できるし、第一、近所に僕の店にゐる男の実家があつて、万事世話もしてくれるつて云ふし、お母さんのお好きな富士も見えるし……もつともこれは、見えないところだつてあるでせうが、まあ、疎開には持つて来いの場所だと思ひますがねえ。なんなら、一度、僕と見分に行きませんか? 嫂さんから、もつと強硬にお母さんを説得して下さいよ。駄目だ、お母さんもお梅姉さんも、疎開の意味がわからなくつて……」
貞爾がまくしたてると、そばから梅代が、
「あら、あたしにはわかつてるのよ。ただ、あたしたちは、その必要がないと思つてるだけよ。お嫂さまだつてさうだわねえ」
初瀬は咄嗟の応答に迷つた。予想した雰囲気とまつたく違つた雰囲気のなかへ突き出されて、もう、白を切る度胸もない。
「さあ」
と、軽くあしらつて、そそくさと座を起つた。
ものの一時間もたつて、義弟が、いつもなら、大きな伸びをしながら離れの縁先へ出ると、なんかかんか大きな声で庭の植木や草花のことを褒めたりくさしたりした揚句、庭下駄を突つかけて裏の方へ廻り、初瀬が勝手元にゐれば彼女に冗談を云ひ、その序に、あれこれと家のことで心配りをみせ、物置の外に自転車でも置いてあると、中へ入れておかないと不用心だと云つて担ぎ込んでくれるといふ風であるが、今日に限つて、離れへ居坐つたまま、一向出て来る様子もなく、話はそれからそれへと続いてゐるらしい。もうてつきり例の問題だ、と、彼女は、肚をきめた。さう云へば、話声も普段より低く、義弟の時々の高笑ひも今日は聞えない。
こんなことなら、義弟にだけでも予め相談をしてみるんだつた、と、彼女は、いつになく後悔じみた気をおこす。
と、そこへ義妹の梅代が冷蔵庫にもうトマトははいつてないかと訊きに来る。
生憎みんなおしまひになつたと答へると、首をすぼめ、舌を出す真似をして引返した。
初瀬は、なにがなにやらわからない。この義妹の自分に対する感情は、まつたく、つかまへどころのないものである。母と一緒になつて自分を悪しざまに云つたのなら、なぜもつと直接にさういふ態度でのぞまないのか? 常に第三者として、義母と自分の間をすり抜けて通るこの不思議な存在!
いつそ、自分の方から、今、離れへ出て行つて、義弟の率直な意見を訊かうかと、腰を浮かしたところへ、また、玄関で呼鈴が鳴つた。
初瀬は、玄関の扉を開けると一緒に、
「おや!」
と云つた。
田丸浩平が意外にもそこに立つてゐた。
「お義母さんにお眼にかかつて、僕から詳しくお話をしてみようと思ふんですが、どうでせう。その方がよくわかつていただけると思ひます。たしかに、あなたの立場は、一番いけなくなつてゐます。順序がまるで逆になつたからです。僕にも責任がありますから……」
さう言ふ田丸の調子は、この時の初瀬に、なにか力強いものを感じさせたが、彼女は、少し渋るやうな面持ちで、
「あの、今、主人の弟が参つてをりますの。でも、いつそのこと、その方がおよろしければ……」
と、田丸の顔をうかがつた。
「さうですか。ご主人の弟さんて云ふと……ああ、さうですか。わかりました。お義母さんとご一緒で、却つて、それ、いいぢやありませんか」
田丸は、矢代正身の弟について、薄々は話を聞いたこともあり、老人一人を相手にくどくど自分の立場など語るよりも、云はば矢代家の代弁者としての彼と、男同士の話合ひにしてしまふ方が、万事手取り早いやうな気がしたのである。
彼をしばらく座敷で待たせておいて、初瀬は、奥の離れの閾ぎはへ、さつきとは丸で様子の変つてゐる空気の中へ、静かに膝をついた。
「お隣りの田丸さんがお見えになつて、お義母さまにちよつとお目にかかりたいつておつしやるんですが……お座敷の方へお通し申しておきました」
義母の唇には、意味のわからない薄笑ひが浮び、義弟の方へ、ちらと眼くばせをして、
「さあ、どんなご用か知らないが、年寄りのあたしぢや、面倒なお話はわかりかねるから……。なんなら、ちやうど貞爾も来てるし……。ねえ貞爾、お前さんもお話をそばで伺つておくれよ」
「それや、僕がゐてよけれやゐますが、あんまり会ひたくもないな」
と、彼は、横を向いた。
「あちらでよろしうございますね?」
初瀬は、念を押して、起ち上つた。瞬間、ふらふらと眩暈がした。親しいものの敵意をこれほどまでに感じたことはなかつた。
田丸が手持ち無沙汰さうに、天井を仰いでゐた。
「お目にかかるさうでございます。義弟も同座させていただきます。あたくしは、どういたしませう?」
「さあ、どつちでも……。僕の云ふことが間違つてゐたら訂正してください」
「では、後ほど……」
と、彼女は、座蒲団を二枚新しく並べ、跫音のする廊下の方へ軽くからだをねぢ向けてから、つと、座を外した。
初瀬が茶を汲んで再び座敷へ戻つた時には、やつと三人の挨拶がすみ、老人が近頃の陽気の不順について、誰でも云ふやうなことを云つてゐる最中であつた。
が、彼女が、少しはなれて一番下座へついた。その途端、田丸は、少し改まつた口調で、かう云ひだした。
「もうお察しのことと思ひますが、今日は、私として非常に申上げにくいことをご相談にあがりました。その前にお断りしておきたいのですが、このご相談は、かういふ順序で持ち込むべきものぢやなく、また、さういふ筈でもなかつたんです。ところが、これよりもつとまづい順序で、もうお義母さんのお耳にはいり、それについて、お義母さんからこちらの奥さんに、だいぶん手厳しいお達しがあつたといふ風に承りました。恐らく、話の筋道がお義母さんには十分お呑み込めにならないためでもありませうし、また、それ以上に、この話が偶然、奥さんの立場を非常に悪くするやうなかたちで伝へられたといふ点もありませう。いづれにしても、奥さんとしては、もうご自分でそれを釈明なさる時機でもありません。僕にしても、今更、弁解がましいことを申し上げるのはいやですが、奥さんに対する責任上、一応できることなら、お義母さんのいくぶんか誤解をなさつてゐるかも知れない点を、はつきりさせ、奥さんのお心持はもちろん、私の今日までの希望についても、決してお義母さんのお思召に逆ふやうなものではないといふことを、知つていただきたいのです。始めからお話しをすると、非常に長くなりさうですが、先づ、私が家内を亡くしてからこつち、娘たち二人を抱へて、どんな生活をし続けたかといふことを、ざつと申上げます」
彼は、そこで、あまり愚痴つぽくならぬ程度に、男親の惨澹たる苦労を、笑ひを含みながら語つた。
それから、後添ひをといふ二三の勧めにも拘はらず、娘たちの母親といふ資格を考へると、どうしても、彼女たちの年相応の気持を第一に汲んでやらなければならないので、容易にさういふ条件に適つた候補者を求めることができなかつた事情を述べ、殊に、かういふ時世に、男が家庭に心を奪はれて仕事の方に少しでも身がはいらぬやうなことがあつてはならぬと思ひ、さうかと云つて、安易に事を運ぶ危険は、なほさら目に見えてゐるといふわけで、まつたく進退両難に陥つてゐたところへ、娘たちから或る日、矢代の小母さんに是非自分たちのお母さんになつていただきたいといふ誠に突飛とも思はれる申出があつたことに言ひ及んだ。
「もちろんその時は、真面目にさう云ふのですから、こつちも真面目に、さういふことは絶対にできないわけを話し、簡単に諦めさせようとしました……」
こゝで、ちよつと田丸浩平は、初瀬の方をみた。娘たちがその時既に、初瀬から若干の希望を与へられてゐたといふ点に、触れるべきかどうかを、ふと決しかねたのである。
が、彼は、すぐにあとを続けた。
「娘たちは、ご承知のやうに、こちらの奥さんを以前から、ただお隣の小母さんといふ以上にお慕ひ申し、また、奥さんからは、不憫な娘たちとして、亡くなつた母親の愛情をそのまま、あらゆる機会に、あらゆる形で、二人の上に注いで下さつてゐました。これ以上は、私の推量ですけれども、多分、娘たちは、奥さんを自分たちのお母さんと呼べるやうになりさへしたら、きつと、ほかから、お母さんは来ないですむだらうと考へたのだと思ひます。さうして、そのことを、奥さんにもお願ひしたらしいのです。さうさう、貫太君のことも云つてゐました。貫太君をもう弟としてみてゐるのです。自然な感情でさう思つてゐることがわかります。奥さんは、娘たちに、正確にはなんとおつしやつたか、私は知りませんが、娘たちは、直観で、きつとどうかなると思つたんでせう。少くとも父親の意志次第、努力次第でこの念願が達せられない筈はないと信じてゐる様子でした。私も、さう云へば、一時は問題にもしなかつたこの申出を、その後娘たちの顔を見るたんびに思ひ出し、絶えず催促を受けてゐるやうな気がしたのですが、そのうちにだんだん、この問題は、世間普通の再婚といふやうな観念では割り切れない、もつと、神聖なもの、もつと厳粛なもの、つまり、なんと云ひますか、是非の判断を超越した運命……」
と、云ひかけて、田丸は、その表情の誇張に、われながら、ハツとした。
すると、その時、老人の唇が動いた。
「お話はようくわかりました。ほんたうに、お察しいたします。でもはたでどんなにご苦労をなすつてらつしやるだらうと思ひながら、なんともならないんでございますからねえ」
言葉は意外にも鄭重で、それでゐて、しみじみとした調子がわざとらしくなく、田丸の胸にひびいた。しかし、言外に、ずばりと何かを言ひ切つてゐる、その鋭い余韻が、彼をいくぶん急きたてた。
「はあ、それはその通りです。誰に訴へやうもないものです。ですから、比較的罪のない子供の意志を救ひたいと思ふほかはないのです。奥さんも、おそらく、僕とはまた違つた立場で、娘たちの声に、心から、耳を傾けて下さつたのだと思ひます」
そこまで云ふと、老人の眼が、キラリと光つた。
「初瀬はどこまでも、矢代正身の家内で、矢代貫太の母親でございますからね」
現実の障碍を予知しながら、娘たちの空想に乗つてしまつた父親の弱身は、この老人の態度の前で、いよいよ危い姿勢をとりだした。
「もちろん、それは承知してゐます。それは万々承知のうへで、ゆるされた道がどこかにありやしないかと思つたんです。周囲の事情がゆるせばといふ奥さんのお気持は、むろん、このことがまはりの方々に正しく理解されたらといふ意味だらうと思ひます。私も、娘たちの幸福がちよつとした行違ひのために阻まれないことを祈りました。つまり、これは考へやうによつて、どつちかにきまる問題です。奥さんとしては、矢代家のためには、当然貫太君のお母さんであることに変りはなく、田丸家にとつては、また、救ひの神とでもいふやうな、われわれ父娘にとつて有難い役割を果して下さることになるのです。これは、決して、矢代家に背くことでもなく、矢代家を傷けることでもないと思ひます。却つて、これこそ、大きな母性のすがたではないでせうか?」
田丸浩平は、ここまで云つて、ぢつと、老人とその息子の顔を見比べた。
二人とも、無反応と云ひたいほどの表情で黙つて聴いてゐた。初瀬はどうかといふと、これは、もう眼を伏せたまま、畳のへりを指でこすつてゐた。
「どうでせう、弟さんは、これについてなにか……?」
と、田丸は、促した。
弟の貞爾は、右手を左の脇に差込むやうなかたちで、母の傍らにただ控へてゐるのである。「弟さん」と呼ばれて、それには別に応へる様子もなく、ゆつくり煙草に火をつける。ひと吸ひの煙を長く上へ吹きあげる。そしてから、にツと白い歯をみせる。それは「なにも言ふことなし」と明かに言つてゐるやうなものである。
さつきから、田丸浩平が縷々述たところは、半ばこの弟に聴いてもらひたかつたのである。老人には通じないかも知れぬ特殊な問題の性質が、この弟にならぴんと響くに違ひないと思つたからである。
しかし、それも駄目だとすれば、もうあとは、嘆願の一手あるのみである。
「まあ、ありのままの事情をお話しすればこの通りです。第一に、奥さんの立場が、このために非常に悪くなるやうなことがあつては、それこそ心外に堪へません、どうか、お義母さんも、その点だけは、奥さんを絶対に信じてあげてください。今日は、そのことをお願ひにあがつたんです。ですから、もう一度、なにもかも始めからやり直します。ちやんと順序を踏んで、ご相談申上げるといふ風にします」
「ちやんと順序を踏んでご相談申上げるといふ風にします」
と、田丸は、自分だけでさう片づけたつもりであつたが、「それはさうしてくれ」と相手が云ふ筈もなく、それを云つたから、すべてがもとへ戻るわけでもないことが、あまりにはつきりしすぎてゐた。
果して、老人は、膝をさすりながら、徐ろに口を開いた。
「どうも年をとりますと、いろいろお話を伺つてもよくは解りませんのですが、いづれ、あとで弟にも考へを訊いてみましたうへで、なにぶんのお返事を申しあげます。それにいたしましても、初瀬が貫太を連れて矢代家を出ますことは、わたくしばかりでなく、これも決して賛成はいたしますまいと存じます。いえ、なに、初瀬だけなら、これはもう、他家から参つたものでございますから、この家を出たいと申しますなら、これはもう縁のないものと諦めて暇を出しさへすればよろしいんでございます。死んだ伜も、それはとやかく申しますまい。ただ、貫太をお宅様の方へ、一時にもせよ、連れて参ると申しますことは、これだけは、なんといたしましても、わたくしが許しません。貫太はあくまでも矢代家の長男として、矢代家の手で育てるのがあたりまへ、また、さうでなければ世間様にも申しわけがございません。母であつて母でないひとを、仮にもずつと母と呼ばせることなど、思ひもよりません。さういふ考へ違ひは、どなたにもしていただきませんやうに……」
切口上といふにはあまりに口重く、むしろ噛んで吐き出すやうな一言一言が、田丸浩平の胸を鋭く刺した。
それは頑迷固陋に似て、ややそれとも違ふ、もつと爽やかなものさへ含んでゐる異常な手強さ、鋭さであつた。
田丸浩平は、もう返す言葉もなく、この反撃に唖然として襟を正さないわけにいかなかつた。
なんといふ不思議な力であらう!
が、この感慨は、ほんの一瞬のことであつた。
にべもなく言ふだけのことを言つてしまつた老人の、たつた今、傍らの初瀬に与へた一瞥は、敵意とまでは云はなくても、たしかに、苦つぽい感情の露はな表示であり、これには田丸も思はず眉を寄せた。
そして、やや、挑むやうな口調で云つた。
「なるほど、一応、立派なお考へだと思ひます。矢代家の長老として、矢代家のことだけをお考へになればその通りでせう。しかし、ほんとに、それだけが日本人にとつて大切なことでせうか? 矢代家は矢代家のためにあるのではないと思ひますが……」
努めて誠実に、と思ひながら、言へば言ふほど気がさすやうな言ひ方になる。
老人一人に向つてなら、また、別の言ひやうもなくはない。田丸浩平は、一挙に、三人を説き伏せうとしてゐるのである。
と、この時、突然、弟の貞爾が、空嘯くといふ言葉そのまま、
「矢代家は、矢代家のためにあるんぢやないと云はれましたね。さうかと云つて、まさか、田丸家のためにあるんぢやないでせう!」
と、口を挟んだ。
今になつて何を云ふか! と、田丸浩平は、カツとなる。
しかし、かういふ揚足取りは、相手にすればきりがないと、彼は自分をやうやくなだめ、
「まあ、水掛論になるからやめませう。お義母さんに最後にお願ひしますが、若しかういふご相談をもつて来ることがそもそも間違ひであれば、そのことをどうか、さういふ風におつしやつてください。お年寄りのお言葉からは、教へられることが多いのです。そのうへで、われわれが若し、間違ひであつたことを悟れば、すべてをゆるしていただきたいのです。殊に、奥さんのすべてをゆるしてあげてください。われわれは、もともと、お義母さんや、矢代家の方々の意に反して無理に、勝手に、かういふことを決めてしまつてゐるのではないのです」
彼は、このままでは、初瀬が可哀さうだと思つた。彼女が自分でどういふ決心をしてゐるにしろ、なにも好んで悪者にされる必要はない。時機を待つといふことさへ考へられるのである。老人は、この田丸の希望に対して、ほとんど応答を与へなかつた。たとへ彼の心持だけは通じたにせよ、それはただ「承りおく」といふ程度にしか受けつけない身構へと解せられた。
──まづい。どうしても、まづい。と、田丸浩平は心の中で呟く。
これはただの手違ひや誤解に基くものではない、と彼は思ふ。世間で云ふ嫁姑の感情がそこにはある、と彼はにらむ。しかも、そればかりではない。この一家の場合は、それに加へて、初瀬と矢代家の人々との間に、機会さへあれば爆発しかねない鬱積した何ものかがあり、老人を中心とする血の勢力が、外来者初瀬を意識的に排撃するものと断ぜざるを得ないふしぶしがある。
そこへ気がつくと、更にまた、初瀬に対する老人の気早な宣告が待ち設けた機会を逃すまいとして、さながら意気揚々と下されたらしくも思はれる。
いづれにせよ、かうして対ひ合つてゐる老人とその息子の、なんと泰然自若たるものではないか!
今まで打ち沈んでみえた初瀬が、すると、急に顔をあげた。昂然として、額をあげたのである。
昂然と額をあげはしたが、初瀬の眼は、意外にも、平生のやうに澄みきつてゐた。
なにか云ひだすのかと思つたが、さうでもない。縁側に吊るされた風鈴の音に、聴き入るやうに首をかしげる。
田丸浩平は、自分だけが何かを言はねばならぬやうな、この沈黙にはほとほと参つた。
「では、私の直接伺つた主旨はおわかり下さつたことと思ひますから、これで失礼します。十分目的を果したやうな気はしません。これだけは残念ですが、今日はひとまづ引退ります。お義母さんには、いろいろご心配をかけて申わけありません」
両手を膝にのせたまま、彼はきちんと頭をさげた。
老人は、座蒲団をはづして、
「どういたしまして……。わざわざご丁寧に……」
と、慇懃に挨拶を返す。
弟は、肱を張つて、書生風にただお辞儀をする。
初瀬は、もう起つて、廊下のスリツパを揃へてゐた。
一歩、矢代家の門を出た途端、田丸活平は、自分で自分の頭をどやしたくなつた。
それは、後悔に似て、それとは違つたものであつた。
敗北者の憂鬱と云つて云へないこともない。が、ほんとを云ふと、それほど絶望的な暗さはなく、むしろ立ち上りさまに、グンとひと押し押しまくられ、気勢頓に衰へようとしてゐる、そのすがたとみるのが当つてゐた。
彼は、七月の夕陽をまともに浴びながら、真つすぐな郊外の新道を、外れへ外れへと、歩いて行つた。
伸びきつたタウモロコシの葉がわづかに影をおとしてゐる白つぽい道である。このあたりは、つい一二年前まで、見事な花畑であつた。その頃は、たしか、ダリヤ、カンナ、グラヂオラスなどが、数反歩、燃えるやうに咲かせてあつた。花畑が菜園に変つただけなら、さしたる変りやうとも云へぬが、その菜園は、眼まぐるしいまでに細かく区切られ、それぞれ、思ひ思ひの丹誠と慾深な計画に喘ぎ、ただならぬ競り合ひの恰好を示してゐた。そして、そこここに、退職官吏ともみえる中老の紳士が、入道雲の下で、せつせと鍬を振つてゐるのである。
田丸浩平は、その光景を眺めるともなく眺め、これが戦ふ日本の姿だとは思ひたくなかつた。しかし、戦ひは、また、余儀なく、或る種の人々をそこへ引きずり込むのだとも思つた。そして、彼は考へる──
戦ひとはなんだ! 勝利を目指して全力をあげ、一切の苦しみに耐へることではないか。苦しみとはなんだ。不安、恐怖、疲労、欠乏……。違ふ。ただ道ひとすぢを貫き通すために、一切のものを断ち切ることなのだ。
「道ひとすぢを貫き通すために、一切のものを断ちきる」のが、戦ひに勝つために、誰しもが堪へ忍ばねばならぬ苦しみなのだ、と彼は断定する。
彼はこの「断ち切る」といふ思想に、なにか自分らしくない、しかし、自分もそれに従はずにゐられない一種の力を感じる。
豁然として、眼の前がひらけたやうに思ふ。
戦ひは、まさに、巷の慾望を氾濫させた。
思ふことが思ふやうにならぬ、それを苦痛とする戦ひに、なんの勝利の日があらう!
さうではない。戦ひとは、そんなものではない。慾望を制することが苦痛なら、戦争は始めから負けである。慾望はおろか、個人の生命も、愛情も、希望も、なにもかも、民族の歴史と矜りの前には問題でないのだ。
──さう云へば、この真理が「家」といふかたちで見事に保たれてゐるのが、矢代の家ではないだらうか?
田丸浩平は、たつた今まで、そのことに気がつかなかつた。
矢代の老人は、たとへ表面は、世間並の感情に支配されてゐるらしく思はれるにもせよ、従つて、言葉の応酬からだけでは、単に融通の利かぬ年寄女としか見えぬにもせよ、もうひとつ踏み込んで、彼女の梃でも動かぬ態度、如何なる事情にも耳を藉さぬあの冷厳な構へのなかに、彼女が全身全霊を以て、無意識に守りぬかうとする一つの「掟」が宿つてゐるのだと、どうして、もつと早く気がつかなかつたのだらう。
いや、田丸浩平は、実は、はつきりさうとは気がつかなかつたけれども、この老人の、あまりににべもそつけもない挨拶が、却つて、妙に爽やかなものを感じさせたことを、今も想ひ出す。
矢代家の名と秩序とを、絶対至上のものとして、あの老人は生き、そして死ぬのである。
矢代家の名と秩序とを紊すものは、すべて敵である。矢代家の敵であり、彼女の敵である。
彼女にも心がないわけではなく、理窟もいくらかわからぬ筈はない。が、妥協は常にまた敵の乗ずる隙である。
矢作家を守るといふ道ひとすぢを貫き通すために、一切のものを断ちきつたすがたが、あの老人の、取りつく島のない態度なのだ。
──なるほど、戦ひは、これだ。かうなくつちや負けだ。
と、田丸浩平は、苦笑した。
苦笑は、しかしながらもう、自ら卑める気持を伴つてはゐなかつた。
その証拠に、彼は、苦笑しながら、入道雲に向つて肩を聳かす。
入道雲は、七月の夕陽の照明を浴びて、光と影の踊りを踊る。
郊外電車の警笛が地鳴りのやうに響く。
すべてが挑むものの気勢に満ちてゐた。
私立○○初等学校の講堂である。
学童疎開の問題について、校長から父兄に話があるといふので、矢代初瀬も出席した。
息子の貫太を自分の手元から離して、たとへ先生の監督下とは云へ、見知らぬ遠い土地へやるといふことは、今迄まつたく考へてもみなかつたことで、校長の詳しい説明があつた後でも、なんだか、ひとごとのやうな気がした。
しかし、事情は差しせまつてゐるのである。来月十日頃までには、特別に縁故先へ疎開をするものを除いて、上級学年の全部が、行動を共にしなければならぬといふのである。
行先は甲府に近い農村のお寺で、受容れる側では、もう、万端の準備を整へてゐるとの話、校長は、父兄の即答を求めた。
初瀬は、受持の教師を囲む父兄たちの一群に混つて、あちこちから出る質問と、それに応へる教師の言葉を、ぼんやり聴いてゐた。
愚問もなかなか多かつた。それにしても、子を持つ親の心理には共通なものがあることをお互に感じ、途方もない取越苦労もまんざら笑へぬといふ風であつた。
「矢代さんは、どこかへたしかお決めになつたんぢやありませんか、疎開先は?」
と、受持の教師は初瀬に向つて云つた。
「いいえ、まだ決めてなんかをりませんの。ですから、やつぱりご厄介にならうかと思ひます」
それは、さう云ふつもりもなく、すらすらと彼女の口から滑り出た返事である。
が、云つてしまふと、彼女は、急に、不思議な胸騒ぎがした。
ほんとにそれでいいのか、と、自分で自分に念を押す。いいもわるいもない、かうなるのが当り前だ、と、心の中で云ふ。──
──さうだ、なにもかも、これでさつぱりした。
校庭で体操をしてゐる子供たちのなかから、貫太の姿を見つけ出さうとした。見つからない。
貫太をそんな遠方へ送り出したあと、この自分は一体どうすればいいのだ? と、ふと思ふ。
その後まだ田丸浩平に会つてゐないのである。彼がすごすごと帰つて行く後ろ姿を見たきりである。
義母も義妹も、あのことについて、あれからまつたく口を噤んでゐる。
そのくせ、顔を合せれば、いつもとそれほど変つたところはない。
彼女が一番知りたいのは、田丸浩平がどう考へてゐるかである。もう少しうまく説き伏せるかと思つたのに、義母や義弟の出方も出方だつたけれど、案外、腰の弱いところを見せられ、彼女は、がつかりした。まさか、このまま引退る気でもあるまい。
なにしろ、このまま宙ぶらりんの状態はごめんである。
家へ戻ると、初瀬は早速、姑に今日の話をした。
「来月十日頃ださうでございますから、大急ぎで支度にかからなければなりませんわ」
姑は眼をまるくした。が、さういふ表情ほどに驚いた様子もなく、
「それやまあ、どこへ預けるよりも安心だよ。で、お前さんは、一緒について行かないとすると、どうなるんです?」
どうなるとは、どういふことであらう? やつぱりあのことを云ふのか知ら、と、初瀬は、一つ時、考へて、
「貫太がさうなりましたら、あたくしは、また、あたくしで、なんとかいたしますわ」
と、あつさり答へた。
むろん、貫太を手放したあと、自分だけがすぐに田丸の家へはいるなどといふことは思ひもよらなかつたけれど、さうかと云つて、このまま、この家に留まる気は毛頭ない。さういふ意味を籠めたつもりであつた。
ところが、見ると、今日ほど、姑の眼が和やかに自分に注がれてゐることはないのである。
「お義母さま……」
と、つい、喉まで出かかる声を、彼女は、そつとおさへて、席を立つた。
居間の鏡の前へ、がくりと膝をついて、何気なく顔を映してみる。
──おや、なんて怖い顔!
と、自分ながら、自分の眼つきの嶮しさにおどろく。柱の暦が視線にはいる。
暦は幾日もめくつてない。今日は土曜日のことは土曜日だが……。
起ち上つて、二十三日からの分を、一枚一枚ちぎつていく。
二十九日、土曜日といふところで、彼女は、その数字に眼を据ゑる。
そして、七月二十九日、と、口の中で呟いたと思ふと、彼女は、くるりとそれに背を向け、机の上の写真立ての前へ、飛んで行つて坐る。
「今日は、あたし、どうかしてるわ。あなたの三周忌ぢやないの!」
と、田丸奈保子の写真をのぞき込むやうにして、しみじみと云つた。
「あなたご存じね、あたしが今考へてること……? でも、待つて……。これから、お宅へ伺ふわ、お花を持つて……。さうさう、今年もあの白バラか咲いたから」
と、彼女は、ほんとに生きたものに云ふやうに云ひ、箪笥から袂を切つた黒紋付を出して着る。
バラの花束を手に、彼女が田丸家の玄関に立つた時、もう女学生になつた妹娘の世津子がちやうど学校から帰つて来た。そして、初瀬のからだへまつはりつくやうに、
「あのこと、どうなつたの、小母さま?」
世津子のこの問ひに、初瀬は無言の微笑をもつて答へた。すると、
「お父さま、帰つてらつしやるかしら?」
さう云ひながら、世津子は庭の方へ廻る。と、すぐにまた引つ返して来て、
「いらつしやるわ。でも、今、お客様よ」
初瀬は、それはどうでもよかつた。
おひろさんの案内で焼香をすませ、帰らうとすると、田丸が姿をみせた。
始めて書斎へ通され、かうして彼と向ひ合つて坐ると、初瀬は、この家が急によそよそしく思はれた。自分のゐる場所などどこにもないやうな気がした。
「その後いろいろ考へてみたんですが、お義母さんのおつしやることは、理窟や感情を超越したもので、あれはお義母さんのご意見といふよりも、日本の家の至上命令みたいなもんだと思ふんです。僕たちは、さういふ点で非常に甘いんぢやありませんかね。もちろん、あのお話を言葉どほりにとれば、こつちにも云ひ分はありますが、問題はそんなところにあるんぢやない。あなたが現在の事情で、矢代家を出られるといふこと、そのことが、どうも、家族主義の立場からは許されないことなんでせう。許されないといふ断定は、こいつは絶対的なものでなけれやならない。この絶対的なものに従ふといふことが、実際、日本の家の生命だと、僕はやつと気がついたんです。この生命があればこそ、いざといふ場合の力がそこに出て来るんぢやないでせうか? 僕は決して、これを楽天的な気持で云つてるんぢやありませんよ。この、家の生命と云ひ、家の力といひ、どつちかと云へば、悲劇的な性格を帯びたものだとさへ信じてゐます。しかし、それによつて日本人の美しさが発揮できるとしたら、個人々々の欲望なんかどうでもいいぢやありませんか。僕は、今度の問題を、戦争に結びつけて考へるんですが、国民はいつたい国家の至上命令といふものを、はつきり腹の底で感じてゐるかどうかと思ふんです。絶対的なものに従ふ習慣を、われわれは実に失つてゐる。第一、何がその絶対的なものかといふ、そこのところで、もう、われわれはじめ大部分のものが、いい加減なものの考へ方しかできなくなつてゐるんです。これぢやまともな戦争はできません」
田丸浩平は、ぽつりぽつりとではあるが、相手におかまひなく、ながながと喋つたあとで、煙草に火をつけた。
初瀬は、さういふ言葉の裏表から、もうすつかり彼の結論を読みとるには読みとつたが、その先をどういふ風に云ふのかと、ぢつとまだ耳を澄ましてゐる。
「ああいふ話のあとぢや、お義母さんとの間が変ぢやありませんか?」
急に田丸は、調子を変へた。
「はじめは変でしたけれど、だんだんそんなでもなくなりましたわ」
と、初瀬は答へた。
「それぢや、あの話はあれで打切るとして、あなたは、なにごともなかつた以前のやうにしてゐられますね」
田丸が重ねて訊ねる。
「さあ、それは保証できませんわ。でも、今度、貫太が学校の集団疎開で甲府の方へ参ることになりましたので、あとは、あたくしひとりでございますから……」
「あなたおひとりだから……?」
「ええ、ですから、なにか外の仕事でもさがしますわ」
「…………」
初瀬は、これも、その時ふと心に浮んだことを云つたまでであるが、嘘も飾りもない、自然に湧いた智恵のやうなものであつた。
が、彼女は、なんとしても田丸の態度が消極的にすぎ、その消極的であることを弁護するためにいろいろ理窟をつけてゐるやうに思へてしかたがない。そして、それに釣り込まれて、自分までが、分別臭く、今まで考へてもゐなかつたことをつい云つてしまつたのだと、瞬間、田丸の顔から眼をそらして、違ひ棚の上においてある書物の背文字に見入つた。
すると、何ものかに矜りを踏み躙られたやうな、深い悲しみに襲はれて、彼女は、もうぢつとしてゐられなかつた。
「お暇いたしますわ」
と、彼女は、そこで云つた。
「ちよつと待つてください。もう少しあなたに聴いていただきたいことがあるんです。僕たちは、このままでは実に惨めだといふ気がするでせう? その通りです。たしかに思ひ通りにならないといふことは、勝負に破れたといふことですからね。しかし、さつきから云ふ通り、いつたい、僕たちを負かしたのは何者ですか? そこをよく考へてみてください。決してお義母さんの反対ぢやありませんよ。妙な云ひ方をすれば、この勝負に負けるといふことは、むしろ、ある意味で勇気のいることだと思ひます。なぜなら、今までの自分を敵として戦ふ、新しい自分の発見が必要だからです。さういふことは、しかし、自分で意識しないでも、堪へ忍ぶといふかたちで、僕にしろ、あなたにしろ、いつかは勝利者の立場に立つてゐるんぢやないでせうか。なんだか、こんなことを云ふと、偽善者めいて聞えるかも知れませんが、僕は、今だからこそ──戦争の最中だからこそ──こんなことを考へるんです。戦争が若し破毀だけを目的とするんだつたら、話はまた別です」
田丸の云はうとすることが、すこしづつ初瀬にもわかつて来た。
貫太を手離す不安も、これでどうやら消し飛んだ。いや、消し飛んだとまでは云へないが、その不安と闘ふ自分に、強い矜りを感じだした。
それから十日たつた。
いよいよ、矢代貫太が、母親の手許をはなれ、級友何十名かと共に甲府へ疎開するといふ日の朝である。
この隣組からはまだはじめての疎開学童で、学校の違ふほかの連中よりも一足早く出掛けることになつた。
母親と一緒に、近所へ挨拶に廻つてゐる。
田丸の娘二人は、そのあとにまたくつついて廻つてゐる。
門口へ出て見送らうといふものもある。
一軒一軒の玄関先で、貫太は、大声に、「行つて参りまあす」を繰り返す。
「まるで予科練へはいるみたいだわ」
と云つて、加寿子は出て来る貫太の肩を叩く。
貫太は、ひと通り挨拶をすますと、もう泣き出しさうに、瞬きばかりする。
すこし重すぎるほどのリユツクサツクを、なんべんも肱で持ちあげ持ちあげする。
近所の学校へ通つてゐる少年組は、電車の停留場まで、中等学校以上は渋谷の駅まで、登校の道順を利用して見送ることにする。
貫太には好いお友達がたくさんあつて、と、初瀬は、うらやましく思ふ。
しかし、これらの友達は、いはゆる近所の遊び仲間といふやうなものでないことはたしかである。まして、個人的に仲善しといふやうな連中ばかりではむろんない。学校も違ひ、年も違ひ、平生ならば通りいつぺんの、「何処そこの子供」である。隣組はここまで来たのである。戦争はこれらの子供たちを固く結びつけた。これこそ明日の日本の希望でなくてなんであらう、と、初瀬は、少しはなれて、後ろから、貫太の左右を取巻く一群の若い姿を、尊いものに思ひながら眺めた。
新宿駅で引率の教師に貫太を預けてしまふと、初瀬は、ほつとした。
二列縦隊でフオームへ繰り込む子供たちのいぢらしさ!
ハンケチを眼にあててゐる母親らしい女もゐたが、初瀬は、途中でこつちを振り向く息子へ一度だけ手を上げてみせ、眼顔で、そんなことをするなと叱つた。
さあ、もうこれで自分の始末さへつければいいと、彼女は帰るみちみち、やれば出来さうな仕事のことを考へた。やれば出来さうなといふ仕事はいくらもあつた。なんでもやつて出来ないことはないといふ気がする。妙なもので、かうなるとなまじつか撰り好みをしたくない。
誰かに相談をしてみる必要はないだらうか。が、それも誰か次第で、あなたならまあこんなところと手心を加へられるのはいやだ。
そこで、彼女は、ふと、国民動員署といふ厳めしい名前を頭に浮べる。女子挺身隊のことも、つい先達、婦人会の寄合で話があつた。主婦は除外されてゐた。
その晩、田丸の娘二人が遊びに来た。遊びに来たとは云ふが、貫太はもうゐないのである。「おあがんなさい」と、初瀬が声をかけても、縁先でもぢもぢしてゐる。
改まつて自分の居間へ通すこともないと思ひ、初瀬は、座蒲団を提げてまだ薄明るい縁側へ出る。
「貫ちやん、元気で発つたわ」
と、彼女は自分の気持を引立てるやうに、二人に報告する。
「あたしたち、十月から工場へはいるの、三月まで寮へ泊り込みなんですつて」
姉の加寿子が云ふ。
「へえ、泊り込みで……」
「つまんないわ。あたしたち、疎開もできないし、寮にもはいれないし……」
と、妹の世津子が、女学校一年生の悩みを訴へる。
初瀬は、笑ひながら、
「あらいやだ。あんたは、今のうちに学校の勉強をうんとすればいいぢやないの」
「先生もお父さまもさうおつしやるんだけど、あたしたちに勉強させるつもりなら、もつとみんな騒がないでほしいわ。うるさくつて……」
世津子は、相変らず生意気を云ふ。
「騒ぐつて、どういふ風によ」
面白がつて、初瀬は訊く。
「騒いでるぢやないの。お姉さんだつて、工場へはいる工場へはいるつて、一日になんべんも云ふんですもの」
「ああ、さう……さういふことなの」
と、初瀬は、姉娘の方へちらと笑ひかける。姉の加寿子は、妹のこの種の不平には慣れてゐるらしく、
「工場へはいるからはいるつて云ふんぢやないの。世津ちやんの方がよつぽどうるさいわ」
この姉妹の口喧嘩は、聞いてゐるとなかなか滑稽だけれども、好い加減にやめさせないと、際限がなく続くのである。
「世津子さんに怒られるかも知れないけれど、小母さんも、そのうちお勤めにでかけようと思つてるの。でも、なぜかういふこといふか知つてる? いつかのお話ね、やつぱり駄目なの。どうしても駄目なの。今はそんなこと考へる時ぢやないつて、つくづくわかつたわ。貫ちやんをごらんなさい。ね、さうでせう……」
初瀬は、さういふ風に云ふよりほかなかつた。
「もうそのお話、お父さまから伺つたわ。あたしたち、よくわかつたの。でも、小母さま、遠くへいらつしつちやいやよ。遠くへいらしつてもいいから、また帰つて来てね」
と、加寿子が云ふ。
「引越しちやいや、この家……」
と、世津子が、眼に涙をためる。
二人の少女の感傷は、初瀬の胸をしめつけはしたが、しかし、二人の少女は、もう堪へ忍ぶことの意味を知つてゐるやうであつた。
この月の隣組常会が楯家の応接室で開かれた。
田丸浩平は、ひと通り話がすんだ頃、突然、この前の組長楠本速男がさうしたやうに、辞任を申出た。
「今度手伝のものを帰して、しばらく子供たちに家のことをやらせてみようと思ひますので……」
理由はただそれだけであつた。
みな、これには反対のしやうがなかつた。
しかし、この隣組の十一世帯は、その後それぞれに変動があつた。
楯家では、細君が下の男の子二人を連れて先月から地方の実家へ納まり、留守は主人と長男、長女夫婦、次女の五人となり、女中は農繁期だけといふ約束で田舎へ手伝ひに帰つてゐる。長男の雅一は陸軍特別幹部候補生の試験を受け、婚約のある長女は手頃な借家があるまで式をのばしてゐたのを、たうとう探しあぐねて新郎ともども同居といふことになつたのである。
陣内家は主人の徴用が切れて新たに就職の奔走をしてゐる矢先、親戚一家四人が強制疎開の区域から臨時にころがり込んで来てゐる。
八谷家に下宿してゐた国民学校の訓導は、この六月応召。
萱野家の養子常夫は、徴用でしばらく工場へ通勤中、肋膜発病、目下入院加療中。
楠本速男が報道斑員として南方第一線へ赴いたのは半年前である。留守宅では細君がこの五月に第三男子安産。
久保鉄三、興亜経済研究所長、自称「政界の影武者」は、七月の炎天の下で一週間、未教育兵として生れて始めての猛訓練を受け、毎晩細君に腰をさすらせた。
ざつと見ていつてもかういふ風な状況であるから、常会の空気も、おのづからのんびりしたところはなくなり、田丸組長が差支へで出られぬやうな時は、どうかすると事務的になりがちである。
副組長の遠山が、田丸の後に続いて、
「わたしどもも、今度、商売を思ひ切つてやめようと思ひます。どうせ生れは百姓ですし、田舎の兄が来いと云ふもんですから……」
で、これも同時に、副組長の役を譲ると云ふ。
「弱つたな。さうなると、男ぢや、もうわしぐらゐなもんだ、いくらか暇があるのは……」
誰もなんとも云はないのに、感心に後任を買つて出たのは八谷誠である。
「もうちやんと地ならしがでけとるだで、わしや助かるです」
「ぢや、お序に副組長の指名をして下さい」
田丸の言葉を受けて、八谷は、云つた。
「さやうさな……まさか楯閣下といふわけにも行くまいで、矢代さんの奥さん、ひとつ……」
「矢代さんの奥さん」といふ八谷の指名は、みんなにしても意外であつた。
しかし、よく考へてみると、なるほど、そんなに見当はづれではなく、初瀬が、「まあ」といふやうな顔をして、例のくせで、両手を口のあたりへもつて行くのを、
「さうだ、これや是非、さう願ひたいもんだ」
と、楯氏も賛成した。
かういふ場合、いつもなら別に尻ごみをしないのが矢代初瀬の特色であるけれども、今日に限つて、彼女は、
「あたくし、駄目ですわ。多分来月から勤めるやうになると思ひますの」
「へえ、それはそれは……」
八谷がまづ眼をみはる。
「どちらへ? ほんとですの?」
と、伊吹未亡人が、睨む真似をした。
副組長はさういふわけで、伊吹未亡人にお鉢がまはつた。
が、常会が解散になり、初瀬は散らかつた茶碗を盆に集める手伝ひなどして、ゆつくり玄関へ出ると、田丸浩平が、そこでたつた一人、まごまごしてゐる。履物がわからぬといふのである。どんな履物かと訊ねられて、古い男の下駄だが、これほどひどいものではないと、そこにある一足をつまみあげる。
「それ、いやですわ、あたくしのですわ……主人の穿き古しを好い加減に突つかけて参りましたの……」
と、初瀬は、声をたてて笑ふ。楯氏をはじめ、楯家の娘たちも笑つた。
さうすると、誰かが跣で来たか、さもなければ、一足だけ足りない勘定になる。
不吉な想像が誰の頭にも浮ぶ。
そこへ、長男の雅一が、外からぶらりと帰つて来た。一同の視線が彼の足もとへ集る。近所の友人のところへちよつとノートを借りに行つたのである。
「あ、さう? いけねえ」
と、雅一は、脱いだ下駄を田丸の前へ丁寧にそろへる。
楯凡児氏のむにやむにやを後に聞き流して、田丸浩平は初瀬と並んで、通りへ出た。
「戦争はたしかに嵐だ。人類の頭上にくだる狂暴な災厄といふ意味にもなりますが、それより、民族の一切の力の覚醒を促すといふ意味に於てもです。戦争は嵐と同様、容赦をしない。神のお思召しは、正しいものの側にもあるでせうが、また、強いもののうへにもあると思ひます。真に強いもののみが正しきを行ふ資格があるからです。
国民一人一人の苦難は、戦ひをひたすら戦ひながら、一方、私の生活を自ら営まなければならないところにある。嵐の試棟は、その私の生活のうへに先づ加へられます。お互に、戦争とはかういふものだといふことを、私の生活を通じて、心底から体得したわけです。さうでせう?」
と、田丸浩平は、静かに云つた。
「ええ」
初瀬は、ただ、さう応へた。心の燈火がぱつと明るく行く手を照した。
この小説は昭和十九年三月から八月まで、即ち大東亜戦争のまつただなかに於て、中部日本新聞のために連載を目的として書いたものである。
当時、言論一般が如何なる制約を受けてゐたかはここに喋々するまでもないが、作家として、また一国民として、若し需められて何かを言はねばならぬとしたら、そもそも何を言ひ得たであらう。この小説は、まさに、わが民族の大なる危機を予感しつつ、辛うじて良心の命ずるがままに、言ひ得る限りのことを言はんと試みた作者の努力に外ならぬ。
もちろん、今日、事ここに至つては、黙して語らざるに如くはなかつた。この意味では、この小説は、一片の反古であるかも知れぬ。しかしながら、作者が「荒天吉日」の主題によつて、飽くまでも祖国の苦難に立ち向ふ決意を示したことは、ひとたび敗戦の汚名に衄られた日本の運命を、全く新しい希望の中に見出さうとする同胞大多数の念願に通ずるものだと信ずるが故に、この物語も亦、われわれのいなむべからざる一精神の歴史として、戦後、再確認せらるべき性質の記録ではないかと思ふ。
自由とは、強制と誘惑とに抗して、自ら偽らず、善しと信ずる道を往くことである。
小説「荒天吉日」は一応完結の形をとつてはゐるが、昭和二十年八月を界として、根本的な主題の発展がみられるであらう。作者は、この部分に於て、より困難ではあるが、一層率直に何事かを語り得ると思ふ。いづれ機会を得て「続篇」を書くつもりである。
昭和二十年十一月
底本:「岸田國士全集15」岩波書店
1991(平成3)年7月8日発行
底本の親本:「荒天吉日」開成館
1945(昭和20)年11月5日発行
初出:「中部日本新聞」
1944(昭和19)年3月18日~28日、30日、31日、4月1日~26日、28日、29日、5月1日~7月18日、7月20日~8月31日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2012年10月21日作成
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