記憶のいたづら
岸田國士




 妻の順子が急に、

「どうも、怪しいわ。こんなに痛いはずないんですもの」

と、顔をしかめながら言ふのをきいて、鈴村博志は、今更のやうにギクリとした。

「だつて、予定は来月初めぢやないか。まだ二週間はたつぷりあるぜ」

「あたしもそのつもりだつたのよ。だから、なんにも用意なんかしてないわ。でも、病院へ行くひまあるかしら……。苦しい、とても苦しい」

 さう言つたまゝ、妻の順子は、そこへ突つ伏してしまつた。

 鈴村博志は途方にくれた。今すぐ病院へ電話をかけて、それで間に合ふかどうか? 医者が駈けつけて来るとしても、それまで自分ひとりでどうすればいゝのか?

「弱つたな。とにかく、しつかりしろよ。万一の用心に、そこの産婆にでも来てもらはう。病院へは、むろん連絡はするがね」

 彼は、妻のために夜具を敷き、隣家の細君にちよつと声をかけておいて、ドテラ姿のまま家を飛びだした。

 思へば迂闊な話である。結婚してから既に十五年、これが最初の経験ではなく、妻の順子は、三度身重になり、そのうち二度は流産といふあつけない結果であつただけに、こん度は大事をとつて、毎月医者に見せ、いよいよとなつたら入院する手筈をきめてゐたのである。

 どちらかといふと、二人とも晩婚で、彼は三十二で、はじめて、家庭と名のつくものをもち、妻の順子は、二十六で、平凡な人生の伴侶を見つけたのである。事実、二人の間には、なにひとつロマンチックな思ひ出といふやうなものはなく、そのかはり、また、これといつて期待を裏切られたといふ悔いもなかつた。

 彼は、B大学の専門部を出るとすぐ現在の製紙会社へはいり、勤続二十五年の功でやつと課長の椅子にすわると、彼女は、いつさいボーナスに手をつけない主義で、ひたすら老後の安泰を心掛けた。彼は、立身出世に見きりをつけ、たゞ周囲との円滑な交渉、妻と二人きりの生活の平和を念願として、人生の降り坂を悠々と歩いてゐた。そして、彼のこの心境をうつして、申し分なく内助の役を果してゐる妻の順子は、美貌とはいへないが、決して、ひからびた存在ではなく、明けて四十歳の今日、気分次第では、ひとり台所で「野ばらの歌」を口吟む若々しさをのこしてゐる。

 焼け残つた東京郊外の、空ツ風の吹きまくる道を、鈴村博志は、無我夢中で、電車の停留所目がけて、呼吸をきらしながら、前のめりに歩いてゐる。たしか、このへんで、産婆の看板を見かけたはずだが、と、あたりへ気をくばる。どうして、そんなことを覚えてゐるかといへば、それは、ちよつとしたひつかかりがあるからで、以前、この道を通つた時、ふと目についた、よくある例の四角い白ペンキ塗りの立て棒の看板に、「産婆大野登志」と書いてある、その名前が、彼の遠い記憶をおぼろげに呼びさましたからである。

 オホノトシ、オホノトシ、と、口の中で繰り返してみて、彼は、その名前の響きといつしよに、おほげさにいへば、懐しい胸騒ぎを覚えた、そのことが、それ以来、その看板を見るたびに、おなじ印象として、今日まで続いてゐるのである。

 彼は、もちろん、一方では、同名異人といふ場合が世間に珍しくないことを知つてゐる。この名前にしても、彼の記憶のなかに生きてゐる人物と、なんの関係もないといふことの方が、可能性としては大きいに違ひない。彼がオホノトシと名乗る女性を識つたのは、彼の生家のあつた名古屋のお城に近いある町の一隅である。その間に、何十年といふ歳月の流れがあり、今、この東京の近郊で、おなじ名前の産婆が開業してゐるとしても、第一、相当の年配で旧姓を名乗る例は少いし、嘗てのオホノトシは、果して「登志」と書いたかどうか、彼はたゞ耳でその名を聞き覚えてゐるにすぎないのである。

 さて、鈴村博志は、さういふ因縁話と関係なく、大野登志が腕のいゝ産婆であつてくれればと心に祈りながら、その助けを一刻も早く求めるべく、例の看板を血眼で探したのである。平生は、なんの気なしに、その看板を見過してゐたことが、ひしひしと後悔された。いざ、どこで見たかとなると、それがなかなか思ひ出せない。ともかく、通ひなれた一筋道である。見落すわけはないと、必死になればなるほど、ほかの看板だけが、むやみに突つ立つてゐるのが目につくだけである。たうとう停留場まで来てしまつた。すると、なんのことはない。その停留場の交番の横に、ちやんと、それが立つてゐるではないか!

 幸ひ、警官がその番地をよく知つてゐて、すぐに道順を教へてくれた。

 彼は自宅から一町も距つてゐない、産婆大野登志の玄関に辿りつく。見習か弟子とおぼしい若い娘が取次に出た。

「すぐそこの活版屋の横を入つた鈴村といふものですが、家内が、今、急に腹が痛いと言ひだして、実は困つてゐるんです。大至急来ていたゞけないでせうか?」

「予定日はいつになつてをりますですか?」

「それが、すこし早すぎるには早すぎるんです。医者は来月初めと言つてたんです」

「お医者におかゝりになつてるんですね」

「それが、本郷の病院でして、医者はもう間に合はないと思ふんで……」

「先生はたゞ今、ご近所へ往診中ですから、早速、さう申しあげてみます」

 出先に電話があつて、すぐに、そつちから廻るといふ返事であつた。

 彼はほつとすると同時に、今、ひとりつきりで苦しんでゐる妻の様子を思ひ浮べ、なにはともあれ、家をのぞきに帰ることにした。

「おい、大丈夫かい? もうすぐ産婆さんが来るよ」

 表から声をかけながら、玄関をあがると、隣の細君が、もう、エプロン姿で、うぶ湯の支度をしてゐてくれる。

「やあ、どうもすみません。まつたくお産なんていふもんは、人騒がせなもんですなあ」

「それや、さうですわ、みんな旦那様のせいですもの」

 いやなことを言ふ神さんだ、と、彼は思つた。

 妻は、軽い唸き声を時々出しながら、彼の方をすこし焦れたやうな眼つきで見あげてゐる。

「心配しないでいゝよ。万事、心得てるよ。あと、病院に電話をかけてさ、産後の手当を間違ひなくやつてもらへばいゝんだらう」

「だつて、あなた、それぢや、産婆さんにわるかない?」

「そんなこと言つてる場合ぢやない。まあ、おれに委せとけよ」

 産婆の来るまでにと思ひ、彼は、近所の電話をかりて病院へ言ひわけ半分に産婆を頼んだことを報告し、それでも、なるべく早く立ち会ひを頼むと念を押した。そして、こんな場合にも、彼は、会社へひと言、欠勤の届けをすることを怠らなかつた。



 彼が再び家の閾をまたいだのと、産婆大野登志が、助手をつれて、奥の産室へはいるのといつしよであつた。

 陣痛の発作は既に絶頂に達してゐた。

 彼は産婆とたゞ目礼を交したきり、妻の空をつかむやうによぢる手を固く握り、見る見る汗ばむその額に、ぢつと眼を注ぎ、時々、耳もとへ口を寄せて、「しつかり、しつかり……もうひと辛抱だ」と、産婆の言ふとほりを、ほとんど真似るやうに、たゞ、切なく胸をえぐられる思ひで、叫び叫びした。

 やがて、ギャッといふ異様な声に、産婆の晴れやかな、「まあ、まあ、大きなお嬢ちやん」といふ声がかぶさり、妻の打つて変つた静かな笑顔が彼のかすんだ眼にうつると、彼は、もう、我慢がならず、鼻をつまらせて、

「やあ、えらかつた、えらかつた」

と、妻の手をしきりに撫でまはした。

 すべてが、手早く、鮮やかに運ばれていつた。器用に、大胆に、うぶ湯を使はせながら、産婆の大野登志は、やつと、彼に話しかけた──

「ほんとは、旦那さまには、どこかでお待ち願ふとよろしいんですけれどね。おそばにお顔がみえると、それが癖になつて、今度からはどうしてもつていふことになりますんですよ」

「えゝ、さういふ話は聞いてますが、それもわるくないと思ひましてね」

 彼は、口から出まかせを言つたつもりではなく、もう、こんな経験は二度と妻にはさせぬ覚悟をきめてゐたのである。

 それはさうと、鈴村博志は、この時、やつと、産婆大野登志の全貌をとくと観察する余裕ができた。

 年の頃は、もう五十をいくつか出ると思はれる、わりに品のいゝ中婆さんで、半白の髪の毛をキリヽと後ろで結び、整つた口元に、冷たくないほどの自信がひらめいてゐた。そして、なによりも特徴があると思はれるのは、睫毛の長い、しつとりとうるんだ眼で、その眼が、時によるとぼんやり宙をみつめ、また時によると、なんともいへぬ花やいだ微笑を投げかける。

 鈴村博志は、しかし、この老婦人のどこにも嘗て自分が見たオホノトシの面影を探しだすことはできなかつた。と、いふよりも、彼の昔の記憶はまつたく色褪せてゐて、その名がはつきりと口に出せるほどに、それがどんな顔だちの娘であつたか、あらましの輪廓をすら眼の前に描いてみるわけにいかなかつたのである。

 さうならさう、違ふなら違ふで、はつきりした見極めがつけたかつた。なにしろ、まだ小学校に上りたての時分、たゞ、近所に住んでゐて、時々、道で会つたり、彼女の家の門口に立つてゐるのを眺めたりしただけの話である。そして、その当時、彼よりもずつと年上の美しい女性として、彼の漠とした最初の憧れ、言はば、春の目ざめの、ひそかな、影とも形ともつかぬ思慕の的であつたオホノトシの、たゞ眩しいやうな存在、ひとが彼女と話をしてゐてさへ、妬ましいほどのあでやかな姿が、あだかも、幻のやうに、彼の眼の底に焼きついて、そのまゝ、いつか、忘れるともなく忘れてしまつてゐたのである。

 一度でも口を利いたことがあつたらうか? 多分、一度もなかつたやうに思ふ。家同士がつき合ひをしてゐたわけでもなく、或は、彼女の弟か妹が同じ小学校に通つてゐたかも知れぬが、そんなこともいつかうに覚えてゐない。なにかの折りに、向ふから話しかけて来たことがあつたにしても、こつちは、どんな返事をしたことか。おそらくは、恥かしさにうつむいたまゝ黙りこくつてゐたにちがひない。まあ、ざつと、そんな間柄にすぎなかつた。同じ町内に住んでゐたとはいへ、長い期間、顔を合せる機会があつたのではない。彼女がどこかへ姿を消したか、自分が先に一家と共に東京へ引移つたのか、そのへんのこともぼんやりしてゐるのである。

 それにも拘はらず、彼の前半生を通じて、少年時代の想ひ出を飾るたゞ一人の女性の存在は、彼にとつて、かけがへのない存在にちがひなかつた。それは、まことに頼りない、話にもならぬ話ではあつたけれど、ほとんど毎日のやうに、例の立看板の名前を見てゐるうちに彼女のかすかな印象は、彼の精いつぱいの空想に色どられて、実はこの世に存在しない一女性の幻影を作りあげつゝあつたのだ、と、言へぬこともないのである。

 見るかげもなくぶざまな赤ん坊は、それでも、真新しいうぶ着につゝまれて、母親の傍らにぽつんと寝かされた。

 妻の順子は、もう血色ももとに復し、産婆が、さう軽い産ではなかつたといふのに、愛想よく礼の言葉を述べ、やがて、彼の方へ、眼顔でなにか合図をしてみせた。彼はどぎまぎしながら、耳を妻の口に近づけた。

「もつと、ちやんと、あなたからもお礼をおつしやつて……」

「あゝ、さうだ」

と、彼は、膝を正し、産婆に向つて言つた──

「どうも、年甲斐もない慌て方で、ご無理を願ひました。お蔭でやつと安心しました。友人関係に婦人科の医者がゐるもんですから、すつかり委せきつてあつたのが間違ひのもとでした。とにかく、知らせるだけは知らせておきましたが、なに、もう、その必要もなくなりました。実は、お名前だけは、ずつと以前から、駅前の立看板で承知してゐたもんで、早速それを思ひ出して、お願ひにあがつた次第です。いや、まつたく、助かりました」

 ひと息に、自分でもすこしをかしいと思ふくらゐ、舌が廻つた。

「ほんとに、なにがご縁になるかわかりませんですこと……。あたくしも、お宅の前は始終通りますもんですから、お名前を伺つただけで、すぐに飛んで参りましたの。今ですから申しあげますけれど、一分間遅れてゐたら、もう、赤ちやんか、お母さまか、どちらかゞ大変なことになつてゐましたわ。ねえ」

と、傍らの助手にも証言をさせようといふ風であつた。

「さうですか。やはり、さういふこともあるんですなあ。しかし、失礼ですが、拝見してゐて、なんと言ひますか、大したもんだと思ひました。専門家もよほどの経験をもたれないと、あゝは行きますまい。自信満々とけふところが、実に、こつちを大船に乗つた気持にさせますからなあ」

「あら、さうお褒めにあづかるほどの腕前ぢやございませんけれど、産婆に大事な勘は、自分の力でうまくいくかどうかを、早く、見てとることですの。手遅れが一番、恐ろしうございます」

「もう、よほど永く、この土地で……?」

 彼は、さりげなく訊ねた。

「はあ、もう、かれこれ、二十年になりませうか。お宅さまも、ずゐぶん、おふるくつていらつしやいますわね」

「えゝ、えゝ、二十年にはなりませんが、このへんでは古顔になりました。さうしますと、その以前は、どちらで……?」

 ぢりぢりと詰め寄るやうに、彼は、返事を待つた。

「東大の附属病院にしばらく勤めてをりました。免状だけは早くに取つておきましたんですけれど、なんですか、独立するのがこわいみたいで……」

「なるほど……良心的な医者が、たいてい学校の医局勤めをなん年かやるやうなもんですな。いろいろ伺ふやうだけれど、ご郷里は?……」

 この質問には、ちよつと、意外だといふ顔つきをしてみせ、

「あたくし? あたくし、生れは西の方でございます。田舎者ですの」

「西の方とおつしやると……関西ですか」

 相手が明らかに言ひ渋つてゐるのを、彼は容赦なく追求する。

「いゝえ、そんなに遠方ぢやございません。あたくし、自分の郷里があんまり好きぢやないもんですから、つい……。あの、愛知県ですのよ」

 鈴村博志は、ぐつと唾を呑んだ。



 その翌日、大野登志は、主治医に一度会つておきたいといつて顔を見せた。主治医の樫倉は、昨日、産婆が引きあげた後に、のこのことやつて来た。ちよつと気まずい応酬の後、この分なら産婆でもよからうと言つて、ろくに後の注意も与へずに帰つて行つたのである。

 妻の順子も、産婆の方が気が楽でいゝといふし、彼も、それですめば経費も安上りのやうに思ひ、医者の手からはなすことにしたことを大野登志に告げた。

「こちら様さへそれでおよろしければ、あたくしが責任をおもちいたしますから……」

と、彼女は、キッパリと言つた。

 鈴村博志は、彼女の素姓について、とことんまでのことをたしかめたかつたのだけれど、なぜか、昨日は、たゞ、愛知県の生れと聞いたゞけで、あとの口が利けなくなつてしまつた。なぜ、もうひと押し、手がゝりだけをつかんでおかなかつたか。せめて、ひと頃名古屋にゐたことがあると、たつたそれだけのことでも言はせておけば、またなんとか、話の緒ができないものでもないのにと、今日、彼女の前に坐つて、彼は、子供のやうに固くなり、胸をわくわくさせてゐた。

 昨日の夕方から手伝に来てゐる弟の嫁が、彼を隣の部屋へ手招きして、

「兄さん、ダメだわ、しよつちうそばにばかりついてらしつちや……。お産のあとの手当てがあるのよ。奥さんにだつて、すこしは遠慮なさるもんよ」

「さうかなあ。別に、そんな必要ないと思ふが……。順子がいやだつたら、あつちへ行けつて云ふだらう」

「順子さんも順子さんだわ。あたしだつたら、まつぴらだわ」

 この忠告は、なんの効果もなかつた。鈴村博志は、再び、産室へ舞ひ戻つて、裸にされた赤ん坊を、別にうれしくなささうに眺め、妻の順子に、

「名前はなんてつけようか? お前の好きな名前にしろよ」

と言つた。

「あなた、いつか考へてらしつたぢやありませんか? あれ、男の子の名前だけ?」

「うむ、別に、本気で考へたわけぢやない。しかし、名前つてものは、変なもんだよ。遠い昔に聞いた名前で、不思議に忘れられない名前があるもんだ。顔は思ひ出さなくつてもだぜ。そんな名前が、誰にだつて、一つや二つはあるだらうな」

 彼は、さう言ひながら、そつと、大野登志の方を横眼でみた。

 大野登志は、左手で赤ん坊の首筋を支え、右手に石鹸をふくませたガーゼを巻いて、毛の薄い頭をごしごし洗つてゐたが、急に、言葉をはさんだ。明るい弾んだ声で、

「あら、さうおつしやれば、あたくしにもさういふことがございますの。いつか、最初にお宅の表札を拝見して、おや、このお名前は、ずつと昔、どこかで伺つたお名前にそつくりだと気がついて、いろいろ考へてみたんですけれど、その名前の主がどうしても思ひだせませんの。あたくしの記憶では、なんでも、ヒロちやんていふ、ちつちやな男の子でしたわ。こつちも、まだ若い時分の頃ですけれど、たしか、ご近所にさういふ名のお子さんがゐて、時々は道ばたで遊んでゐる姿を見かけたやうな気がするんです。でも、まさか、お宅の旦那様ぢやいらつしやいませんわね」

 鈴村博志は、もうぢつとしてはゐられなかつた。顔が思はずほてり、頬がぴりぴりとひつつれ、腰のあたりがやけにむづむづするのである。

 妻の順子は、それをたゞ座興のやうに聞いたのか、

「へえ、やつぱり、その子供さんは、鈴村つておつしやいますの?」

「それが、鈴村ヒロシ、そのヒロシつていふ字まで、どこで知つたのか、あたくし、ちやんと覚えてますのよ。お宅の旦那様の博志、そのまゝなんですもの」

「それは、このわたしにちがひありません。あなたのその頃のお住ひは、名古屋の撞木町ではありませんか」

 このひと言を耳にすると、さすがの産婆も、赤ん坊を取り落すかと思ふほど、驚いて、

「名古屋、撞木町、そのとほりでございます。では、やつぱり、それに間違ひはございません。まあ、なんて、不思議な廻り合せでせう」

と、叫んだ。

「まつたく奇妙な廻り合せです。しかし、あなたは、そのヒロちやんなる腕白小僧を、ちつとも覚えてゐませんか?」

「それと申すのが、あたしは、そこに一年あまりしかをりませんでしたし、ご近所に、おんなじやうな男のお子さんがいくたりもいらしつて……」

「いや、そのおんなじやうな男の子のうちでも、特別にあなたの注意をひかうとしてゐたのは、このわたしですよ。あなたが、わたしの家の前を通られると、わたしは、わざわざ門から飛び出して、トンボ返りをしてみせ、石を拾つて電信柱にぶつけ、水の溜つた溝の中へじやぶじやぶはいり、あげくの果ては、あなたの後ろから全速力であなたを追ひ越し、そのまゝ大光寺といふお寺の境内へ逃げこんだものです」

「まあ、あきれた。でも、どうして、それが、さうだつていふことが、あなたにおわかりになるの? いつたい、いくつの時なの?」

 妻は、すこし、心外なといふ調子で、彼をさへぎつた。

「まあ、聴け。それや、わかるさ。今日はじめて、お前にいふが、おれは、ずつと前から、あの駅前の立看板が気になつてゐたんだ。小学校の二年か三年の時分の記憶だが、ちやんと、大野トシといふ、近所にゐたすてきもなく綺麗なお姉さんのことを覚えてゐたんだ。しかし、正直なところ、そのお姉さんが、産婆さんになつてゐるとは信じられなかつた。今のおれには、産婆さんといへば、大野登志といふ名前しか頭に浮ばない。それが、よかれあしかれ、因縁といふものだらう。四十年近い昔の想ひ出を、この三人は、もう笑つて話し合へる年だと思ふがどうだ。さうでせう、大野さん」

 大野登志は、赤ん坊をタオルにくるんだまま、感慨深い面もちで、彼の顔をぢつと見つめてゐる。

「ねえ、大野さん、ちよつとでいゝから、わたしの幼な顔を想ひ出してくださいよ。別に美少年といふんではなかつたが、おやぢがその頃はまだ珍しい背広型の服を着せてくれたもんだから、それをいくらか得意にしてさ、女の子の前をぶらぶら歩いてみせたこともありますよ。だが、大野トシといふお姉さんには、徹頭徹尾、頭があがらなかつた。顔もまともには見られなかつた。さうさう、その洋服を着ると、よく、大野なんとかつていふ表札の出てゐる、つまり、トシ姉さんのゐる家の南の溝板の上にしやがんで、その溝板へ指でいたずら書きをしたもんだ。お姉さんが今にも出て来るか出て来るかと、心待ちに待ちながら、夕日の沈む頃まで、楽しいやうな、淋しいやうないく時間かを過したもんです」

 その時、産婆大野登志の頬がかすかに紅らんで、彼を優しく睨むやうに見えた。

「まるで、嘘みたい……」

と、妻の順子は、吐き出すやうに言つた。

「嘘みたいだが、ほんとなんだ。おれも、昨日きのふ、この大野さんにお目にかゝつた瞬間、やつぱりこいつは違ふと思つたよ。それほど、お年をとられたといふよりも、おれの少年時代の記憶が、なんといつても、あやふやなんだ。たゞ、大野さんと違ふところは、大野さんはまつたく無関心、おれの方は、夢中でのぼせてゐた、といふところだけだ」

 彼も、その話が、妻の順子にとつて、あまり愉快なものではないらしいと気がついたので、いゝ加減に打ち切らうと思つてゐると、今度は、大野登志が、赤ん坊を妻のそばへ連れて来た序に、妻に向つて、低く、笑ひながら呟いた。

「奥さん、あたくし、やつと、ぼんやり想ひ出しましたわ。大人みたいな服を着た、頭をおかつぱにしたおませさんの男の子が、しよつちう家の門の前でうろうろしてるのを、そこは、伯父の家でしたけれど、伯母が、変な子だねえつて言つたのを覚えてますわ。でも、あたくしは、ちつとも変だなんて思ひませんでしたの。人懐つこい子なんだなあ、と、たゞ、さう思つただけですの。さうでした、その時、ちやんと、伯母から、その子の名前を聞いたんですわ。それから、姪の学校の入学式に附添つて行つた時、その子が、たしか、上の級の級長をしてゐて、その名前が教室の前に、級長鈴村博志つて出てゐるのを、はつきりこの眼で見ましたの。さう、さう、さうですわ。今、はつきり、その子の顔も眼に浮ぶやうですわ。でも、それが、この旦那様だなんて、まるで見当もつきませんわ」

 大野登志は、しみじみとした調子で、赤ん坊に薬をふくませながら言つた。

「あなたでも、級長なすつたことおありになるの。ちつとも知らなかつたわ」

と、妻の順子は、とんでもないところに、さも興味をそゝられたやうに、夫の顔を上眼づかひに見あげた。

「そんなことは、おれは忘れたよ。とにかく、おれにとつては、バカに懐しい時代だよ。あの頃、わたしは、あなたのお年なんていふものは、まるつきり考へてもみなかつたが、それでも、ずゐぶん、距たりがあることだけは感じてゐましたよ。いつたい、おいくつぐらゐでしたか?」

「さあ、あれで、十八九でしたかしら? なにしろ、田舎の両親が早くお嫁に出さうつていふんで、名古屋へ稽古ごとをさせに連れて来たわけですから……」

「すると、あれからすぐ、おかたづきになつたわけですね」

「はあ、でも、それがあたくしの不仕合せのもとでした。一年でその主人とは別れました。実家へは帰れず、思ひ切つて、上京いたしましたの、看護婦にでもなるつもりで……」

「ぢや、その後、なんですか、ずつとおひとりで……?」

 鈴村博志は、われながら、はッとして、口を噤んだが、もう遅い。なぜ、ぶしつけにそんなことまで問ひ質す必要があつたのだらう。彼は、妻の眼が、キラリと光るのを見逃さなかつた。

「はあ、いえ、まあ、そのへんのことはご想像にまかせませう。かういふ商売をしてをりますとね、やつぱり、生活に裏おもてつていふものができましてねえ。さう、簡単に、ひとりだとか、二人だとかは申せませんのよ。オホヽヽヽ」

と、大野登志は、控え目ながら、艶つぽい笑い方をした。

 鈴村博志は、すこし割り切れぬまゝに、釣り込まれて、ウフヽヽヽと笑つた。

 妻の順子は、その時、片手を静かに枕のかげにのばし、夫の手を探りあてゝ、ぎゆつと握つた。眼じりから、一と筋、涙が流れてゐた。

底本:「岸田國士全集16」岩波書店

   1991(平成3)年99日発行

底本の親本:「スタイル読物版 第二巻第四号」

   1950(昭和25)年41日発行

初出:「スタイル読物版 第二巻第四号」

   1950(昭和25)年41日発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2011年925日作成

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