緑の星
岸田國士
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ヨーロッパ通ひの船が印度洋をすぎて、例の紅海にさしかかると、そこではもう、太古以来の沙漠の風が吹き、日が沈む頃には、駱駝の背越しに、モーヴ色の空がはてしなくつづくのが見える。
その時、海の旅にあきた誰れかれの眼に、きまつて妖しく映るのは、地平線のうへに、次ぎから次ぎへと湧きでる、あの星ともいへぬ星、ひとつひとつが胸飾りのやうに鮮明な、エメラルドの星のまたたきである。
深草乃里は、二十何年か前の秋の航海で、その星の輝きがひとしほ眼の底に残つた、ある一夜の出来事を想ひ出してゐる。
どうして急にそんな記憶がよみがへつたか、もちろん、今日までそのことを、片時も忘れたことはないのだが、この日に限つて、彼女は、あの甲板の上で仰ぎみた真夜中の星の色を、まざまざと眼にうかべ、もう、六十に手のとどく皺だらけの頬に、われしらずぽつと血ののぼるのを感じた。
深草乃里は、現在、ある高原避暑地のホテルで、女中頭をつとめてゐる。若い頃から欧洲航路の客船で船室係をしてゐた経験が、船をおりてからもかういふ仕事をえらばせたのである。ずんぐりと肥つたからだに、丈長の黄色い毛糸のスエーターを着込んだ姿は、ホテルの客の眼をある意味でひいてゐた。年も年、どちらかといへば、大造りないかつい眼鼻だちで、そのうへ必要以上に取り澄ました表情が、機械的な動作とともに、およそ色気とは縁の遠い存在であつたが、ただ、ハイヒールの音を小刻みに響かせて、絶えずあちこちへ眼をくばつて歩き、事務的で、しかも、行き届いたサーヴィスぶりを、自分ながら得意にしてゐるらしい愛嬌は、旅慣れた客なら、年期を入れた女中頭のタイプだといふことがすぐにわかる。その上、ふだんはむつつりしてゐるかと思ふと、案外、気心の知れた滞在客などには、馬鹿丁寧な切口上で、聞きたくもない世間話をしかけることがある。
夏が過ぎると、客はぐつとへる。それでも、紅葉の頃には、団体の予約もあり、冬は冬で、スキイ場まではすこし遠いけれども、ここを足場に撰ぶ幾組かの若い泊り客がある。
今年も、やがて涼風が立ちはじめ、ホテルはひつそりと静まりかへり、人手もぐつと少くして、そろそろ冬の支度にストーヴの薪を仕入れる頃になつた。ところが、夏場からずつと一人きりで、病気の保養に来てゐる相原夫人だけは、まだいつかうに引上げさうもない。ちよつと見たところでは、呼吸器がわるいとも思へぬ溌剌とした三十そこそこの女性で、主人も子供も東京にゐるといふのに、この二た月以来、ついぞ誰も訪ねて来ず、誰に会ひに行くでもない、いはば孤独無聊な生活をけつこう楽しんでゐる風がみえた。午前中は散歩と読書、午後は一定時間の午睡をとると、また読書と散歩、夕食後は、きまつて、階下のポーチで好みのレコードを聴くのが日課であつた。ほかの客とは、めつたに口をきかうとせず、たまに話相手にするのは、大学生に限られてゐた。双方の興味の焦点が、そこで合ふといふ偶然の理由によるのだけれども、相原夫人の魅力と雰囲気には、さういふところがあつたのである。従つて、女中頭の深草乃里には、決して扱ひ易い女客ではなかつたが、ただの平凡な奥さんではないといふところが、また彼女の心を強くひきつけ、なにかにつけて気を配る張合のある相手になつてゐた。
今日はすこし早目に夕食をしたいと言つて、相原夫人は、六時にはもう食堂に姿を現した。すつきりとした和服に、ストンマーテンの毛皮を軽く肩に巻いてゐた。
帳場からそれを目礼で送つた深草乃里は、ポーチへちよこちよこと歩を運んで、夫人が平生自分で撰ぶレコードの一枚を電気蓄音機にかけた。
ちやうど、そこへ、前ぶれもなく、男女一組の客が着いた。彼女は、マネージャアの指図どほり、二階の百二十一号室へそれを案内して、これが一番見晴しのいい部屋だと説明し、紅葉にはまだ早いけれども、間もなく、あの遠くの山の峯に白いものが見えるだらうと、きまり文句のお愛想を言ひながら、その一対の素姓をそれとなく観察した。男はまだ五十にはいくつか足りないほどの、肩幅のひろい、みるからに巌乗な、工員から叩きあげた事業家といふ風貌、女は、細君にしては、若すぎるが、さうかといつて、細君以外とも見えぬ下町育ちのお神さんタイプである。いづれも、元来ならこの純洋風ホテルなどには似つかはしくない客で、箱根か熱海の旅館ならと思はれるふしもあるが、近頃の客種は、よきにつけあしきにつけ、自分の柄など気にかけぬ風であつてみれば、深草乃里も、いまさら怪訝な顔つきをおもてに出すはずもなく、
「バスはご自由にと、申しあげたいんでございますけれども、ただ今ボイラアを休ませてございますので、勝手でまことに相すみませんが、ちよつと、お時間をおつしやつていただけば、下の浴室をご用意申しあげます」
と、丁寧に腰をかがめて、部屋を出ようとした。すると、
「おい、ちよつと、君、風呂はまあ、それでいいがね、食事はやつぱり、食堂へ出なけれやまづいかね?」
男が声をかけた。
「いいえ、どちらでも結構でございます。普通のホテルなみに、ご都合でお部屋へ、お運びいたしてよろしうございます」
「ぢや、さうしてもらはうか。日本酒があつたら、熱いところを一本、いや、二本、まあ、それくらゐにしとかう。むろん、食事は洋食だ。めしをつけてくれ、めしを。なあ、お前もその方がよからう。遠慮するこたあねえ」
さう言つて、女の方に笑つてみせた。
「ご飯は、さあ、急にはいかがでございますか。なにしろ、ほかにお客さまがお一人きりで、ずつとパンを召上つてらつしやるもんでございますから……。でも、なんとかできますでせう。お時間は、すぐになさいますか?」
「ああ、腹がすいてるから、すぐにしてくれ。君は、ずつとこのホテルにゐるの? 何年ぐらゐになるの?」
と、その男は、しげしげと深草乃里の顔を眺めるのである。彼女は、その視線に、なにか不気味な威圧を感じ、眼を伏せるといつしよに、
「あたくしでございますか、はあ、このホテルだけでも、もう、十年近くになります」
「その前は、どこにゐたの?」
「その前は、船に乗つてをりました」
「船つていふと……?」
「欧洲航路の客船でございます」
これを聞いた瞬間、男の顔は、急に、ゆがんだやうに見えた。
「さうか、だうりでハイカラな小母さんだと思つた。もういいよ。別に、わけがあつて訊いたんぢやない。なるほど、この眺めはすばらしい。あの山の色は、夕日を受けてああなるんだな。おい、見てみろよ。星があんなに光つてらあ、星が……」
くるりと背を向けて、窓に近づいた男は、連れの女へといふよりも、ほとんど独り言のやうに呟いた。
深草乃里は、食堂へ降りて行つたが、なにゆゑか、胸騒ぎがしてしやうがない。はじめて会つた客で、しかも、どこの誰だかまだ名前さへ聞いてゐない男と、一と言二た言口をきいたばかりだのに、こんなに強い印象を受けるのはいつたいなぜだらうと、彼女は自分の感情を疑はずにはゐられなかつた。
なるほど、この年になつて、若い同伴の客には、実のところ、一種の嫉妬に似た好奇心が起ることはある。しかし、どんな男の客に対してでも、いまだかつて、直接に異性として特別な興味をひかれたためしはないのである。現在では、男性とは、もはや自分には縁のない存在としか思へなくなつてゐる。そのうへに、今日の二人づれの客は新婚とか、連れ込みとかいふ種類の艶つぽさからは遠い、どつちかといへば、世帯臭い夫婦の一組にすぎないし、その男にしても、これまで接し馴れた多くの紳士たちにくらべて、特別に彼女の浮気心をかきたてるやうなところがあるわけでもなかつた。にも拘はらず、彼女の眼の底には、いつまでも、その男の面影が残り、いくらか荒々しい声のひびきまで、からみつくやうに彼女の後ろを追ひかけてくる。
食堂の係に二階の注文を伝へると、彼女は、ちやうど、そこで食事をしてゐた相原夫人の晴れやかな笑顔にぶつかつた。それはいつになく親しげな、相手を求めるやうな笑顔であつた。深草乃里は、一方でハッと呼吸をつまらせ、なにかを見破られたといふバツの悪さと、一方では、それが救ひ手でもあるやうな安堵とを感じながら、つかつかとその傍らに近づいて行つた。
「お客さまらしいわね。やつと、あたし一人になつたと思つたら……」
と、夫人は、低く、しかし、澄んだ声で、いくぶん戯談めかして言つた。
「ほんとに、今時分、珍しいお客さまでございますよ。ご一泊ださうですけれども、おはじめてでは、とんだところへ来たと思召していらつしやいませう」
「どうして? まさか、知らずにつてこともないでせう」
「それやなんともわかりませんですが、たいがいわたくしどもの眼には、それがわかりますんです。来てみて、おやおやとお思ひになる方、なるほどとお思ひになる方、それはよく見分けがつくんでございますよ。この山の中は、まつたく別世界でございますからね。なにかちやんとした目的がおありにならなければ、普通の方には、面白くもをかしくもございませんもの」
それを聴きながら、相原夫人は、もうすつかり日の落ちた窓外の景色に眼をやつてゐた。
あまりしやべりこんではと気がついて、深草乃里は、会釈をして出て行つた。そして、レコードをまた、相原夫人のために新しいのと取換へた。流れ出るワルツの曲に、彼女は、すこし浮々となつて、そのまま、そこの椅子に腰をおろす。彼女は、ふと、さつきの客のだしぬけな問ひを想ひだす。
「……君はずつと、このホテルにゐるの? 何年ぐらゐになるの?」
なぜ、そんなことを訊ねる気になつたのだらう? それから、このホテルへ来るまでどこにゐたかと訊く。船に乗つてゐた。船つていふと? 欧洲航路の客船……。自分はまた、なぜ、すらすらと、そんな返事をしたのだらう? 真つ正直に自分の前身などを、誰にでもしやべつてなにになる。黙つて笑つてゐられなかつたのか?
──さう、さう、あの客はまた、急にお星さまのことなんか言ひだした。この山のお星さまは、なるほど、はじめて気がついてみると、平地でみるお星さまよりは、ギラギラしてゐる。しかし、お星さまなら、なんといつても、あの……。
そこで、彼女は、二十何年か前の、あの狂ほしい紅海の一夜を、まざまざと想ひ出したのである。
食事を終つた相原夫人が、いつものやうにポーチの一隅に陣取つて、静かにレコードを聴いてゐた。ポーチの電燈は、季節をすぎると、ほぼ客の数に応じてへらされる習慣であつたから、今は、たつた二つしかついてゐない。従つて、蓄音機のあるところと、すこし離れた茶卓の上がわづかに鈍い光で照し出され、相原夫人は、ことさら、その光の届かぬ窓辺の籐椅子に坐つてゐた。
と、その時、庭の白樺の植込みを縫つて、窓に近づいて来る人影があつた。窓はもう閉されてゐたが、その窓ガラスがコトコトと鳴つた。
相原夫人は、おやといふ表情で、そつちを振り向く。人影はつと遠ざかつて、闇の中に消える。夫人は、すこし落ちつかぬ風で、椅子から起ちあがり、蓄音機のそばでもの想ひにふけつてゐる深草乃里の肩越しに、もう終りに近いレコードの旋回をぢつとみつめてゐた。
「夜になると、窓を叩きに来る鳥つてあるかしら?」
いきなり、相原夫人は、深草乃里に訊ねる。驚いて顔をあげた乃里は、
「さあ、そんなことがございましたですか?」
「そんな気がしたの、たつた今……」
「よく夕方、眼のきかなくなつた小鳥が、窓ガラスにぶつかつて、落ちてゐることがございますけどね………」
夫人は、それきり、踵をかへして、もとゐた場所に帰つた。
が、しばらくすると、表玄関のドアを押して、元気よく一人の青年がはいつて来た。帳場に向ひ、何か簡単に声をかけて、そのまま、つかつかとポーチに歩を運び、深草乃里が慌てて腰を浮かし、
「まあ、お坊つちやま、いつお見えになりました?」
と、大袈裟に問ひかけるのに、
「たつた今……。別荘へはゆうべから来てるんだよ。ひとりで退屈だから、ちよつと遊びに来たのさ。いやにガランとしてゐるね」
無造作にさう答へて、今度は、ゆつくり、相原夫人のそばへ近づいて行つた。
「奥さん、しばらく……。僕は自分一人で賭けをしたんですよ。もうとつくにお引上げさ、と、一人の僕は断言するんです。いや、まだ、まだ、と、もう一人の僕が言ひ張るんです。そこで、ちよつと学校をサボつて、確かめに来たんですが、やつぱり、さうだつたのか」
「酔興ね、あなたも……。で、負けた方のあなたは、どうなさるの?」
「それが困るんですよ。僕は自分自身に公平であるために、つまり奥さんがもういらつしやらなかつたら、一週間、この山の中にゐること、もし、まだおいでになるやうだつたら、ちよつとお目にかかつて、その後、十二時間以内にここを出発することに決めたんです」
「あら、ずいぶん変だわ。ぢや、もう、あすの朝はおたちね」
と、相原夫人は、なにも感じないもののやうに言ひ放つた。
この青年は、増野俊春といふP大学の経済学部の学生で、同じ土地に父親の別荘があり、終戦後毎夏休暇を過しに来る関係で、よくこのホテルにも出入りし、今年の夏のはじめ、二三人の仲間と一緒に相原夫人を知るやうになつたのである。その仲間はみんな、数日の滞在で切上げなければならぬ身分であつたが、彼だけは、別荘住ひの特権で、時々は公然と夫人の訪問客となり得た。いふまでもなく、二十四歳の青春の血を、豊かに熟したこの一女性の、研ぎすまされた魅力に、人知れず湧き立たせてゐたのである。
あすの朝はおたちね、と、事もなげに言つてのけられた増野俊春は、ちよつとドギマギした風をみせ、やがて、精いつぱいの努力を日頃の才気で辛うじておほひながら、
「今夜、このままお別れすれば、ですが、僕は、お許しさへあれば、あすの朝まで、ここでねばるつもりです。むろん、ストーヴには火を入れさせます」
相原夫人は、からだを曲げるやうにして肩だけで笑つた。そして、いきなり、
「お乃里さん、ちよつと、このお客さまに、お紅茶でもね。それから、ウイスキー、あたしもいただくわ」
と、言つた。
深草乃里は、さつきから、あたり憚らぬ増野俊春の声に、ぼんやり耳を傾けてゐた。なにをしやべつてゐるのか、いくぶん熱をおびたその言葉の調子にも、格別の意味があるとは思へなかつた。
「は、はい」
と、虚をつかれたかたちで、彼女は、一、二歩夫人の方へ歩み寄り、
「お紅茶と、ウイスキーでございますね、かしこまりました、はい。お坊つちやまは、もう、あすの朝、おたちでいらつしやいますか?」
小耳にはさんだ通りを言ふと、夫人は、くすくすと、今度は声を立てて笑ひ、
「ねえ、お乃里さん、このお坊つちやまは、今夜ひと晩ぢゆう、あたしとお話がなさりたいんですつて……。いけないわねえ」
夫人の、この戯談ともなんともつかぬ言葉に、彼女は、真顔で、胸をぐつと張り、
「それやいけませんです、はい」
と、答へた。
「なに言つてるんだい、君の知つたことぢやないよ」
青年は、素ッ気なく、やり返した。
「いえ、お坊つちやま、奥さまは、おからだを休めにいらしつてるんでございますから……」
「知つてるよ、そんなことは……。僕は奥さんとランニングをしようなんて言つてやしないよ」
「でも、夜ふかしは……」
「うるさいつたら……。奥さんは、部屋でなにしてると思ふ? 夜明けまで考へごとをして、それから、アドルムを呑むんだぜ」
「うそばつかり……」
と、相原夫人は、身に覚えがなくもないやうに、低く呟いた。
十時が鳴るまで、増野俊春は動かうとしなかつた。
深草乃里は、その間、ポーチを出たりはいつたりしてゐた。レコードを掛けかへる仕事があるといふ口実は成り立つけれども、それより、相原夫人と増野青年との会話が、だんだん微妙な境に進んで行くやうに思はれ、なんとしても、最後の結論を聞きもらしたくなかつたからである。
が、彼女は、十時が鳴るのを合図に、玄関の戸締りをしなければならぬので、さりげなく、そのことを二人に告げに行つた。
「では、このへんで、幕つていふことにしませうよ。いい幕切れだわ」
と、相原夫人は起ちあがりながら言つた。青年もしぶしぶ椅子をはなれ、
「なるほど、主役の奥さんにはいい幕切れでせう。僕は、端役にすぎません。いつ消えてしまつてもいい役です。おやすみなさい。ご機嫌よう」
夫人は、青年のうしろから、その肩に手をかけながら、
「おやすみなさい。もつともつと、華やかな主役があなたに廻つてくるんですもの。それをお待ちになるといいわ」
玄関まで送つて出て、夫人は、もう一度、
「おやすみなさい」
と、言つた。
深草乃里は、そこにぢつと立つてゐる夫人を、おそるおそる見あげながら、
「奥さま、ほんとに相すみませんが、ちよつとお時間をいただけませんでせうか。あたくしつて、まつたく妙な女でして、けふといふけふは、もう、がまんができませんです。いえ、つまらないと申せばつまらないことなんでございますけれど、自分ひとりの胸にたたんでおくことが、もう、どうしてもできなくなりました。ふつとしたことから、急に、そのことを想ひだして、気が狂ひさうなんでございます。どなたにも、そんなこと、お話し申しあげられるやうなことぢやございません。奥さまなら、きつと笑つて聞いてくださるだらうと、勝手にあたくしきめてゐるんでございますが、いかがなもんでせう?」
相原夫人は、われに返つたやうに、深草乃里の顔を見た。このあまりにも唐突な、それでゐて、やけに真剣な老ハウス・キイパアの言葉を聞き流すわけにはいかなかつた。
「さうね、今夜は、あたし、くたびれてるんだけど、どんなお話かしら? ただ伺ふだけでよければ、聞かしていただくわ。それで、あなたのお気持がすむなら……」
さう言ひながら、彼女は、もう薄ら寒い夜気のただよふ廊下を、ゆるゆるとポーチの方へ歩きだした。
「おそれ入ります。なんなら、お部屋の方で、おやすみになりながらでも結構でございます。それとも、そんなにお手間はとらせませんから、一、二枚レコードでもお聴きになつてゐる間に、あたくし、おそばで勝手におしやべりをさせていただきませうか?」
相原夫人は、その思ひつきは、まんざらでもないと思つた。
「ぢや、なんか静かなものがいいわ」
「ペエア・ギュントは、いかがでございます?」
「どうぞ……」
深草乃里は、まづ、ハンケチで口を拭いた。軽い咳払ひをした。それから、瞼のたるんだ眼を天井に向けて、おもむろに語りだした。
「どういふ風にお話し申し上げてよろしいやら、すこし長くなりますけれども、あたくしの生ひたちから、ちよつと……」
と、前置きをして、急に、顔を伏せ、小首をかしげる科よろしく、
「あの、あたくし、生れは横浜でございます。父の代から、魚の商ひをはじめましたんですが、母が亡くなりまして、後添ひを貰ふだんになつて、あたくしをある外人さんのお邸へ奉公に出しましたんです。十六でございました。その外人さんは、銀行の支店長をなさつてゐる英国の方で、ご夫婦の間に、お小さいお子さまがお二人、上の方がエリザベスさまとおつしやるお嬢さま、下がお坊つちやまで、ヂョーヂさまとおつしやいました。あたくしは、おもにエリザベスさまのお守役を仰せつかりましたが、そのお邸になんだかんだで、たうとう十三年……前々からお暇をいただきたいと申出ましても、おゆるしにならないんでございます。それでも、やつと、エリザベスさまが本国のハイスクールへおはいりになることになり、あたくしがロンドンまでお伴を仰せつかりましたのが、このご奉公の仕おさめでございました。でも、長い間、及ばずながら精いつぱいのお世話をいたしましたお嬢さまとお別れするのは、なによりも辛うございました。同じ船で、今度は一人つきりで、帰つて参りましたんですが、もうなにを考へる張合もございません。第一、このまま船から上つても、だれもあたくしを待つてゐてくれるものはないと思ひますと、船が横浜の港にさしかかりましたとたん、あたくしは、外聞もなにもなく、甲板の上に泣きくづれてしまひました。事務長さんがそれをごらんになつて、いろいろ事情を訊いてくださいますので、あたくしは、ありのままを申しあげ、できることなら、この船の洗濯係にでも使つてほしいと、お願ひしてみたんでございます。かうして、やつとのこと、郵船K丸の客室係を勤めさせていただくことにきまりました。
でもねえ、奥さま。あたくしは、その時、もう二十九でございますよ。なるほど、十人並とさへいへませんこの器量で、花の盛りなどあるわけはございませんが、それでも、これで、女のはしくれには相違ございますまい。人知れず何かを待ちわびる気持は、決してないわけではございませんでした。ところが、待てど暮せど、なにひとつ、それこそ、まつたくなにひとつ、心をときめかすやうな話を聞かせられた覚えはないんでございます。同じ年頃の娘が、やれ恋愛の、やれ縁談のと騒いでゐるのを見ますと、あたくしは、不思議な気がいたしました。どこを探せば、そんなものがみつかるのだらうと、自分のまはりをそつと見廻すことがよくございました。でも、考へれば考へるほど腑におちませんのは、かう申しちやなんでございますが、もつともつと、あたくしなんぞより条件のわるさうな女が、ちやんと、一人の男のそばで、なにかしら、幸福さうな顔をしてゐるぢやございませんか。それや、大なり小なり、いざこざはございませうよ。女を不幸のどん底に落すのも、男の所業だとはわかつてをります。それにしましても、一度は、廻り合ふ幸福の瞬間を、二十九にもなつた女が、てんで味はつてもみないといふ法がございませうか?
さうは申しますけれども、やはりこれは、生れつきが半分、運が半分と、あたくしはもう見極めをつけてをりました。船の生活は、それでも、お邸勤めと違ひまして、毎日が単調ではございませんし、それに、なんといつても、自由でございました。口をきく相手もいろいろでございます。見たり聞いたりすることが、ひとつひとつ、あたくしには珍しうございました。ところが、奥さま、人間つていふものは、どうしてあんなに裏表のあるものでございませう。船で一緒に働いてをります男も女も、お客さまや高級船員の前では、それこそ、虫も殺さないやうな顔をしてをりますけれども、蔭で自分たちだけとなりますと、これはもう、恥かしいなんてことはまるで知らないもののやうになつてしまひます。猥らな仕草は平気、下卑た戯談はおかまひなしで、あたくしなぞ、そばにゐたたまれないやうなことが、しよつちゆうでございます。いえ、いえ、蔭と申せば、お客さまや高級船員が、なにをなさつてるかわかりやしません。この眼で、おやッと思ふやうなところを、なんど見ましたか。
かういふ気性で、あたくしがつい、朋輩なんかの前で、あんまりだと思ふ時は、ふつといやな顔をして見せるもんでございますから、だんだん、あたくしにだけは遠慮するやうになりましたけれども、それでゐて、人に煙つたがられるつていふことは、あんまり好い気持のもんぢやございませんもの。できるだけがまんして、いやな顔はしてみせないつもりでゐるんでございますけれども、そのことに気がついた時は、もう遅かつたんでございませうね。若いボーイさんや水夫火夫の連中なんか、あたくしが通ると、そつぽを向くつていふ風になりましたですよ。
まあ、それはよろしいんでございますよ、奥さま。おなじみになりましたお家族づれのお客さまなんかは、それや、あたくしをごひいきになすつてくださいまして、とんでもないチップなんかいただいて、困つてしまつたこともございます。
あ、どうも脇道へばかりそれまして……。その船に、これがまた九年ばかり乗つてをりましたわけでございますが、奥さまの前ですけれども、三十をすぎますと、若さといふもんに自信がなくなります。ことに、あたくしのやうな女には、若さの去つていく気配さへみえずに、ただ、暗い年月を送り迎へいたすやうな結果になつてしまひます。忘れもいたしません、ちやうど三十五になりました秋のことでございます。十月はじめに日本を離れました船が、その下旬には、ご承知の印度洋をすぎて紅海にさしかかります。レッド・シイと申しまして、アジアとアフリカを距ててをりますあの細長い内海でございます。常夏の国でございますから、むろん、みな白服でございます。インド洋の風は、それでも、時には熱さを忘れるくらゐでございますが、ここへ参りますと、おそろしいくらゐの凪ぎがつづきます。時たま吹く沙漠の風は、ほんの肌をくすぐるだけで、あたくしのやうに肥つてをりますと、せめて、夜の空気にでもあたらなければ、汗を乾すひまもございません。
その晩も、あたくしは、十時すぎに一旦部屋へ帰りはいたしましたが、あまりの寝苦しさに、これはほんとは禁じられてゐるんでございますけれども、そつと浴衣一枚に着かへて、下甲板にあがりました。もう、コロンボからこつちへ参りますと、デッキ・パッセンヂァーは一人もをらず、下甲板は、宵の口以外、だれも出てはをりません。それでも多少はあたりへ気を配りながら、舳に一番近いボートの蔭で、手摺りへのうのうとからだを寄せかけました。間近に見えるのは、メッカに通じるアラビヤの陸でございます。月はございませんが、澄んだ夜空はお星さまでいつぱいでございます。そして、そのお星さまが、失礼ではございますが、奥さまはまだごらん遊ばしませんでせうか、それはそれは、その一つ一つが、宝石のやうに輝いてゐるんでございます。今でもはつきり、そのお星さまの色が眼に浮びます。気のせゐですかなんですか、どのお星さまも、緑がかつた金色で、まづ、エメラルドをふり撒いたとでも形容いたしませうか……そのお星さまの群れが、奥さま、生きてゐるやうに瞬きをしながら、どこまでもどこまでも続いてをりますんです。あたくしは、うつとりと、その美しい星空を眺めながら、娘のやうに楽しくつて悲しい気分になりました。エリザベスさまがお小さい時、よくお唱ひになつた歌を、あたくし、聞き覚えてをりましたから、その時、はじめの方だけ、低い声で唱つてみましたの。お笑ひになつちやいけません、奥さま。あたくし、ひどい音痴でございますのよ。ですから、人前では、これつぱかりも、歌なんぞ唱つたためしはございません。
おや、また脱線いたしました。あたくしは、この時、しみじみ、この地上にも楽園があると思ひました。そしてまた、しみじみ、あたくしは、たつた一人でもこの悦びを味へるのだと感じました。さう思ふと、急に胸がいつぱいになり、お星さまの一つに眼を据ゑて、その眼がだんだんに曇るのを、ぢつと待つやうな気持でをりました。それはちやうど、お星さまに連れられて、見知らぬ国へ近づくやうな、気の遠くなり方でございました。
この時、とつぜん、逞しい男の腕があたくしの肩へ捲きつきました。あたくしは、よろよろと後ろへよろけたはづみに、帆を巻いて重ねてある、その上へ、横倒しに倒れかかりました。だれの悪戯だらうと、その男の顔を見ようとするのですけれども、そこは、ボートの影が落ちてゐて真暗でございます。男は、強引にあたくしを抱きすくめ、あたくしは、それがなんのためだかを考へるより、実のところ、その男がだれだかを知りたい一心でございました。あたくしは、からだを防ぐことを忘れて、その男の正体をたしかめようとあせりました。躯がぴつたりと寄り添つてゐて、その顔は、かいもく見えず、骨組みや肉附から察しますと、まだ二十そこそこの小僧つ子のやうにも思はれます。「いつたいだれなの、あんたは……? ちやんと名前を言ひなさい」──やつと、これだけのことを、あたくしは申しました。返事がないのです。それでも、奥さま、お恥かしながら、あたくしは、無意識に、ほんとに無意識に、その男にすべてをゆるしてしまつたのでございます。あたくしは、たつた一と声でもこの耳で、その男の地声を聞いておかうと思ひました。ダメなんでございます。せめて顔の輪郭だけでもと、その顔へ手をかけようといたしますと、その手はムズと押へられてしまふのでございます。──「ちよつと、待つて……後生だから、あんたの名前だけ、名だけでいいから聞かして……。後をどうかういふんぢやない……」あたくしは、必死になつて、男の脚に縋りつきました。ところがどうでございませう。あたくしは、お乳の下を、いやといふほど蹴飛ばされました。奥さま、これはいつたいなんといふことでございませう? あたくしは、その、獣のやうな男を、決して恨む気がいたしませんのです。ただ、ひと目はつきりと、その顔が見たいばかりなんでございます。口の中ででもいい、ちやんと名前が呼んでみたいばかりでございます。この変な気持が、奥さまにはおわかりになつていただけませうか。それからといふもの、あたくしは、無我夢中で、船の中の男の顔といふ顔を、ぢろぢろ眺めまはしました。もちろん、その時のシャツ一枚の男の肌は、火夫ときめても間違ひのない油の匂ひをさせてをりましたから、あたくしの注意はおもに若い火夫に向けるやうにいたしましたが、その火夫と申しますのが、平生はどれもこれもみんなおなじやうに真つ黒けになつてをりますし、そのうへめつたにあたくしどもと、顔を合せる機会のない場所で働いてをりますので、船が港へはいつた時、上陸するのを待ち構へてゐなければなりません。ですが、奥さま、見覚えのない顔を、見分けるといふことが、そもそも無理な話でございます。あたくしを見る眼つきや素ぶりで、それとかぎつけることができればでございますが、どの顔もどの顔も、あたくしには縁もゆかりもなささうな顔ばかりで、あたくしはもう、ほとほと、根がつきました。そこで、奥さま、浅間しいやうでございますが、あたくしは、最後の手段として、ひと航海のいく晩かは、きまつて真夜中に下甲板へあがつてみることにいたしました。同じ時刻に、同じ場所で、ぢつと、待つてゐるのでございます。それを、三年半も続けました。一度あつたことが二度あるとは限らないことを、やつと知つて、あたくしは、諦めました。それから、間もなく、船を降りてしまひました。
早いものでございます。それからもう、二十三年もたつてしまひました。天にも地にも、あたくしの知つた男といふのは、そのだれとも知れぬ男ひとり、しかも、たつた一度といふわけなんで、……その影のやうな思ひ出を、あたくしはいつでも、星空の眺めといつしよに、胸の奥にちやんとしまつてゐるんでございます。
をかしなもんでございますね、奥さま。もう、この年になりますと、色恋沙汰にはなんの興味もございませんけれど、なまじつか男に苦労をさせられるより、あたくしはむしろ、運がよかつたと思つてをります。それにしましても、今晩はなんていふ晩でございませう。さきほどお着きになりましたお二人づれのお客さまを、お部屋にご案内申しあげましてから、ひと言ふた言、旦那さまからお言葉をおかけいただきましたんですが、ふつと、その時から、それまで眠つてゐた、二十三年前のあの晩の気持が、妙に胸にこみあげてまゐりました。どうにも切なくて、切なくて……声をあげて喚きたいほどでございます。やつぱり、あたくしは、何かを待ちわび、探しあぐねてゐたんでございませう。奥さま、どうぞ、なんかおつしやつてくださいまし。ひと言、なんでも構ひません。力を、光をお与へになつてくださいまし……」
ここで、ぷつりと言葉を切つて、手に持つたハンケチを眼にあてる深草乃里の肩は、丸くふくらんだまま小刻みに揺れてゐた。
相原夫人は、やがて終らうとするソルヴェイヂの歌のメロディーに、半ば耳を傾けながら、深草乃里の長い述懐の最後に、──奥さま、どうぞ……と呼びかけられ、力を、光を、と、喘ぐやうに訴へられる声を、一方で、しかと聞いた。彼女には、このあはれな物語は、いはば想像もできぬ愚かな茶番にすぎなかつたが、それを語る当人の、おそろしく生一本な、愚かさを愚かさにしてしまはぬ、超人的ともいひたい善意が感ぜられるだけに、その場かぎりの挨拶はできなかつた。
「さうね、ほんとだとしたら、変つたお話だわ。でも、あたしには、どつちみち、そのお話はぴんとこないの。だつて、普通ぢや考へられない心理ですもの。ただ、あたしは、それであんたつていふひとがずゐぶんわかつた。それが、まあ、うれしいだけ。どうしろつて言つたつて、あたしにはどうすることもできないわ。でも、たいがいの女は、夢がなければ生きていけないのよ。その夢があんたの夢なら、手荒にゆすぶつたりしないことだわ」
これだけ言つて、相原夫人は、つと椅子から起ちあがつた。と、それを合図のやうに、二階から足音もたてず、寝間着姿の男が降りて来た。帳場はもう明りを消してあるので、彼は、ちよつと躊つた後、明りの見えるポーチの入口まで来る。
男の視線が、深草乃里のそれとぱつたり合ふ。彼女は、ギクリとして、「あッ」と、声を呑む。
「あすの朝、一番で発つから、ハイヤーを呼んでくれ。わかつたね」
その翌朝、K駅までの小道を走る自動車の中で、男は女に言つた──
「おい、あの婆さんの女中さ、あいつ、どつかで見たことのある女だと思つたら、やつと思ひだしたよ。ほら、以前、船に乗つてたつて言つたらう。おれも若い頃、その同じ船で火夫をしてたと思ひなよ。その時分、たしかに、あの女だ、一度このおれを口説きやがつたのは、……。いや、おれの方から手を出したのかな。どつちだか、はつきりしたことは忘れちまつた。えらく蒸し暑い晩だつた……おめえ、今更、妬くこたあねえだらう。あんな、マント猅々みてえな女……」
相手の女は、ただ、げらげら笑つてゐた。
底本:「岸田國士全集16」岩波書店
1991(平成3)年9月9日発行
底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店
1951(昭和26)年11月5日発行
初出:「スタイル読物版 第二巻第二号」
1950(昭和25)年2月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2011年10月13日作成
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