この握りめし
岸田國士




 増田健次は復員すると間もなく警察官を志願し、今ではもう制服も身についた一人前の駐在さんになつていた。郷里は宮城県の田舎であるが、両親はもうなく、ずつと年の違う兄が後をついで僅かばかりの土地を耕している。彼は元来なら本籍地に勤務するはずなのを、特に思うところあつて、群馬県を撰んだ。職務がら顔見知りの少いところがよいと考えたばかりでなく、子供の頃からなんとなく上州という土地が好きであつた。国定忠次も嫌いではないが、それよりも、沼田という町のあるところ、その沼田という町は、明治の初年に面白い青年の一群を生んだという話を小学校の頃教師に聞いたからであつた。その話というのは、この町の青年のいくたりかで、英語学校を開き、早くも文明開化の空気を山の中の小さな町にひきいれたこと、その青年のある者は、やがて東京へ出て新聞記者になり、しかも当時世間を騒がせた事件、紀州沖でトルコ人を満載した英国船が難破したという事件があつて、その前後処理について日本政府も微妙な外交関係の板挟みで困つていたところを、その青年が百方奔走し、個人の資格でやつとそれらのトルコ人を本国まで連れて行き、時のサルタン(トルコ皇帝)から賓客扱いをされたという伝説めいた話が少年の彼を感動させたのである。

 そんなわけで、現在では、群馬県自治警察K町警察署勤務という肩書のある彼は、親しくそのあこがれの土地を踏み、朝夕上州の自然と人情とに接し、かの進取と仁侠の精神がどこから生れるのかを早く突きとめたいものと心掛けていた。

 だが、E町本署からN村の駐在を命ぜられて足掛け二年、いまだに、これという見当がつきかねている。なるほど、浅間の煙は時に激しく吹きあげ、夜の巡回の重い瞼を、その豪快な火柱が一瞬にひきあけることはあつても、いまだかつて、住民の気風のなかに、ことに青年たちの言動を通じて、特別に彼の期待にそむかぬというような美点を感じとることはできなかつた。その代り、これは、土地柄などとまつたく関係なく、どこにでもある、そしてまた、当節はそれが目立つて多くなつている、あらゆる犯罪、醜い生活のすがたは、一日として彼の眼にうつらぬ日はなく、一日として、彼の心を暗くしない日はなかつた。

 こゝ一と月ほどの記録に徴しても、例えば、肉屋へ牛を曳いて売りに来た男がいる。肉屋はその値にだまされて金を渡した。隣村の駐在から牛の盗難があつたから、そちらでも注意してくれと電話がかゝつたので、早速、肉屋へ電話でそのことを伝えると、それと察した牛盗人うしぬすつとは黒い一頭の牛を店先につないだまゝ、雲を霞と姿を消してしまつた。また一軒の温泉宿での出来事だが、その宿へ一泊した男女一組の客が、無理心中をした。それだけならまだそううるさいことにもなるまいが、その男の方が、女を絞殺した後で、ちようどそこへ顔を出した主人に飛びかゝり、前歯を二本と片腕を折つてしまつた。驚いて主人が逃げだすのとその男が薬を飲むのといつしよだつた。男は死にきれずに半日悶えつゞけ、医者が来て、やつと命は助かつた。宿の主人は、宿賃と治療費、それに慰藉料まで請求するという。それからまた、ある淫奔な娘を堕胎の嫌疑で取調べると、助産婦と結託しているのでなかなか真相がつかめない。密告によるものだけれども、その密告者と娘との関係が怪しくなつて来たので、それとなく捜査を続けているうちに、はしなくも村の有力者がこの事件の重大役割を演じていることがわかり、彼はその一味から買収されかけたが、断乎としてこれをしりぞけた。それともう一つは、公安委員の要職にある男が、ある物持の未亡人を脅迫して土地を法外な値で手に入れ、あまつさえ、彼女の貞操を奪おうと企んで、更に脅迫を重ねている事実がある。まだ確証はつかんでいないが、未亡人は後難をおそれて表沙汰にしたがらないのだと、某方面から聞き込んでいる。以上がまず目星しいところで、その他、傷害沙汰、空巣ねらい、土地争い水喧嘩、追剥ぎ放火をはじめ、交通事故、教員の酒乱、主食の闇売などを含めれば、大小なに事か駐在所に持ち込まれない日は一日もないという状態である。

 わずか五百戸に足らぬ辺鄙な山村であるが、なまじ鉱泉が少しばかり湧くおかげで、温泉宿と名のつく旅館が二軒あり、それにつれて、旅のものが入り込む機会も多く、青年男女の風儀もとかく乱れがちで、終戦後、他村にさきがけて社交ダンスの真似事が流行はやりだしたが、その熱がやゝさめたと思うと、それらの青年は三里の道をバスに乗つて町のダンス・ホールへ通つていたのである。

 それはそうと、増田健次巡査は、着任以来なかなか評判がよく、以前の駐在は威張りん坊で振舞酒が利くというので、まず一般からは敬遠されるかたちだつたのを、彼は、若いのに物わかりがよく、職務に至つて忠実でありながら、決して弱い者いじめをしないところが善良な人々からは十分に買われていたのである。

 たまに戸籍調べに廻つて行くと、たいていのところで、お茶がでる。彼はお茶を一杯飲むには飲むがお茶受けには決して手を出さない。酒をつけて出すうちがたまにあると、彼は笑いながら、警官に酒を飲ませると、きつとその家には祟りがあるからやめなさいと言う。なぜかと訊くとそういう家を悪魔が見込んでこつそり忍び寄るからだと答えるのである。

 しかし、どこへ行つても、警官の制服をそう軽々しく見るものもないかわり、誰と口を利いても、妙に警戒めいた調子がみえて、彼は淋しかつた。頼られるにしろ、突つ放されるにしろ、どこかもつと、腹を割つたところがみせてほしかつた。なかには酒を浴びると厭味の一と言ぐらい言うすれつからしもいるにはいる。それも実は、顔色をうかがいながらである。こつちの眼附次第で、どうにでもなるのである。古参の同僚は、なにかにつけて、最近の仕事のしにくさをこぼすのだが、それというのも民主々義のご時勢で、警察の威光が昔ほど物を言わぬからだときめてかゝつている。彼の考えでは、そういうところもなくはないが、むしろ、逆に、警察官はもつともつと民衆の一人になりきる方が仕事がし易くなるのではないか、ということである。

 しかし、それこそ、生やさしいことではないということもよくわかる。なぜなら、公人としての役目を果すには一個人の利害を無視し、私の感情をまつたく殺さねばならぬことがあるから、それをよく理解する世間を向うに廻してでなくては、公けの務めを民衆の一人の立場で処理したつもりでも、世間はそう受けとつてくれぬおそれがある。現に、増田巡査も、そういうジレンマに苦しんだ経験がもうたびたびあるのである。彼は、そのたびごとに、法の冷たさというものを悲しく思つた。そして、その冷たさを自分の身に背負つている限り、いくら個人として温かい心を失わぬつもりでも、民衆に互して真にその仲間となることはできぬのではないかという不安が襲つて来るのである。



 ある日のこと、それはちようど秋の末で僅かな耕地の名ばかりの収獲もすみ、早霜がすでにいくどか降り、炬燵こたつには火を絶やすことのできぬ頃であつた。珍しく風もない日で、朝から増田健次は駐在所の窓ぎわの机に向つて、新制高等学校の講義録を読んでいた。

 そこへ、のつそり顔を出したのが、いつか泊り客の心中事件があつた信濃屋旅館の主人である。ものをいうたびに、欠けた前歯の隙間からチヨロチヨロ舌の先がみえ、そこから呼吸が漏れるとみえて、発音がはなはだ明瞭でない。

「お早ようござんす。またご勉強かね。増田さんは、その分じやと、すぐに部長さんだね。昇進はえゝが、転任は困りますぜ。なに、困るのはこつちばかりだが、お蔭さんでせつかく枕を高うして寝られるのに……」

 この和島佐五郎という男は、前科こそないけれども、ふだつきのいかさま師で、政治と賭け事がなによりも性に合うと自分で言いふらし、事さえあれば顔役気取りで問題の納め役を買つて出るのだが、それには多少の金も使うところから部落での発言権はわりに大きかつた。

「なんだね、信濃屋さん、また心中じやあるまいな」

「心中でもなんでも、宿賃をきちんと払う客なら大いに歓迎するがね。当節、一と月あまりも只食いをされたんじや、商売はあがつたりだよ」

「そんな客がいたかね」

「それごらん、駐在さんの耳にだつてはいつとらんじやろう。これは、わしの腹ひとつで今まで我慢しとつた。相手が若い絵かきと来とるでね。昔、なんたらいう立派な絵かきが、貧乏しとる頃、ある宿屋に泊つて宿賃が払えんようになつた。主人が追い立てたあとで、なんと屏風に描きなぐつてあつた松の絵を、さる大名が見つけて千両で買いとつたつていう話を、わしは聞いとるでね」

「なるほど、信濃屋さんはさすがに抜け目がないな。宿賃の代りに絵を貰つとくつていう寸法だね」

「いや、いや、わしもちつとは書画骨董の眼は利かんわけじやないが、あの絵は、増田さん、油絵ちうやつだでな。ちよつと日本じや金にならんて。そいつをはじめからたしかめとくとよかつたんだ」

「しかし、信濃屋さん、油絵だつて、わしの聞いたところじや、大家になると万という値打ちのもんだそうだよ」

「あれが大家の顔かね、あの顔が……。よだれ垂らさんのが不思議さね」

「大賢は大愚に似たりか。天才は気狂いと紙一重なんだよ、信濃屋さん」

「そうかも知れん。しかし、今日の経済事情はですよ、増田さん、あの岡本某なる三文絵かきが天下に名を出すまで、誰も待つちやおらんのですよ」

「わしはその岡本さんと口を利いたことはたつた一度だ。戸籍調べに行つた、あん時だけだ。なるほど風変りな人物だとは思つたが、決してインチキをやるような男じやないね」

「正々堂々と無銭宿泊をするなら、罪にならんのですかい」

「逃げも隠れもしないんだろう」

「逃がさんもの、こつちが」

「いずれ払うとはいうんだろう」

「すぐ払つてもらいたいんだ、こつちは」

「払えるもんなら払わせたらいゝな」

「払えんとなると、どうなるね」

「そこは相談さ。いつまで待つとか、代りに品物を置いて行かせるとか……」

「待つ当てもなく、これという金目のものはお持ちにならんとすると?」

「信濃屋さんの義侠心に訴えるか、警察の手に引渡すか、どつちかだよ」

「警察の方で立て替えてもらえるかね」

「多分そいつは無理だと思うが、本人の意志はどうなんだね」

「それがなんともはや、わしにはわからんのさ。昨夜ゆうべから今朝けさにかけて、待て、待たんを繰り返すばかりだ。いつたい、何時まで待てばいゝのかと訊くと、やつこさん、にやにや笑いながら、それが自分にも見当がつきかねるとかすんだ。そんな法つてあるかね。え、増田さん、笑いごつちやねえよ。何かこれというもんを持つてるかつて訊くと、ふところから何を出したと思うね。手拭だかフンドシだかわからねえ煮しめたような切れつ端を出しやがつた」

「だがね、信濃屋さん、そんなに金のない客をどうして一と月も黙つて泊らしておいたんだい」

「どうしてつて、増田さん、そこが、つい、絵かきつてものを、信用しちまつたのさ。絵かきつていう前触れで、ピンと頭に来たのがさつきの話さ。なにしろ、家じや、絵かきを泊めるなあはじめてだからね。こいつは面白くなつて来たと思つたのさ」

「それが、そろそろ面白くなくなつて来た原因は?」

「煙草代を貸せ、が、毎日のようになつたからだよ。それに、一ヶ月もいて、一度も宿賃のことを口に出さないなんて、千万長者にも珍しいと思つたからさ」

「で、今までで、どれくらい溜つてるね」

「昨夜計算してみたら、宿泊料だけで一万九千六百なにがしさ。酒代はむろん別、そのほかに、新聞、煙草、甘いもの、薬代、なにやかやの立替が三千いくら、入浴科は特別に只にしてある、めつたに風呂はへえらない様子だから……」

「弱つたな。すると、なにかね、信濃屋さんは最後の手段として、警察へ訴え出たつてわけだね」

「まあ、そういうわけになるかも知れねえが、その前に、増田さん、表向きに引つ張るなんてことでなくさ、あんたから、忠告みたいに、なんとか一言、言つてみてくれないかね。わしはもう手を焼いちまつたよ。よつぽど横つ面ぶん撲つてやろうかと思つたよ」

「いや、なんなら、引つ張つてもいゝがね、そいつは横つ面ぶん撲るのと、結果はおんなじだろうな。信濃屋さんのお望みとあれば、わしが出てもいゝが、なんでも話をつけるのは信濃屋さんのお手のものだとばかり思つとつたが……」

「ひとの話ならつけ易いつてことがわかつたよ。だが、たいていの奴なら、わしの凄文句すごもんくで顫えあがるんだが、この貧乏絵かきばかりは、歯が立たねえんだから、あきれるよ」

 その前歯では、と、増田健次は喉まで出かゝつてぐつと呑み込んだ。



 よつぽど制服を脱いで行こうかとも思つたが、増田健次は、それも面倒なので、そのまゝ帽子だけ持つて、信濃屋旅館へ出かけて行つた。主人はわざと同席を遠慮させ、その絵かきの泊つている二階の奥の部屋へ一人で上つて行つた。障子の外から、

「岡本さん、ちよつと失礼します。わしは、増田つていう駐在のもんですが、個人的にちよつとお話しがしたくつて伺いました」

 すると、中で、不精無精ふしようぶしようの声が、

「おはいんなさい。どんなご用ですか」

 見ると、岡本は、腹這いになつて、画集のようなものをひろげ、長い髪の毛の間からモウモウと煙草の煙を立ち昇らせていた。

 それでも、客人への礼は心得ていると見え、やおら起きあがつて、膝を正しながら、

「あ、時どきお顔をみて知つています。おまわりさんはどこにいてもすぐにわかるから変だな」

 と言つた。

 この挨拶にちよつと虚をつかれた増田健次は、しかし、すぐに、話が楽にできそうに思い、

「わからない方がいゝ場合もあるんですがね。そこへ行くと、絵かきさんは、仕事をしているか、道具をさげていないと、わからん方が多くはないですか」

「さあ、僕なんかゞみればたいがいわかりますよ。もつとも、会社員みたいな絵かきも大分ふえて来ましたがね」

「岡本さんは、どういうグループに属しておいでゝすか」

「僕は、まつたく無所属、展覧会へは何処へ出しても落選。個展を二度やりました。絵は一枚も売れませんでした」

「失礼ですが、やはり、絵で生活しておいでなんですか」

「まあ、そうでしようね。ほかに収入はありませんから」

「これもたいへん立ち入つた話ですが、そこにある、浅間だと思いますが、あれくらいの絵はどれくらいするもんでしよう」

「公定相場はありません。僕がいゝと思う値段で売ります。但し、買手があればです。君買つてくれますか。安くしときますよ」

「いやあ、わしなんか、そんな……」

 という風なところから、話がほぐれて行つた。

「わしは絵のことはなんにも知りませんが、やはり、昨日までは無名でも、突如として有名になるような場合もあるんでしような」

「その例はありますね。尤も、有名になる、なり方にはいろいろありますがね。絵そのものゝ値打ちはわかるものにしきやわからんのです。また、それでいゝんです。芸術家に不遇なんてものはありませんよ」

「はあ、そうすると、よほど自信がなければいかんわけですな」

「君、廻りくどい訊き方はよして、どうして宿賃が払えんのか、と訊いてくれたまえ」

 こゝで、また、増田健次は、虚をつかれてしまつた。しかし、もうこゝまで来れば、腹を据えなければならぬ。

「いや、実のところ、まだわしらの出る幕じやないと思うんですが、ですから、個人としてお話を、とお断りしたわけです。お差つかえなかつたら、そのへんの事情を聞かせてください。今日は、たゞ、あなたにお目にかゝつて、どういう方だかを知つておきたいと思つたんです。ほんとに、それだけが目的でした。金がある都合で払えないことは誰にでもあることですから……」

「どうも、そう言つちまわれると、こつちが恐縮するけれども、いつたい、こういう場合、警察が仲にはいると、どういう効果があるんです。僕の場合は、強制力じや、どうしても駄目なんで、この宿の主人が、そう急ぐわけはないんだから、もう少し待つてくれるのが一番いいんですよ」

「待つことは待つと思うんですが、その期限が知りたいつていう話です。これも無理のないことでしようから……」

「いやね、こゝへ来る時は、一週間分の金は持つてたんだ。宿賃を催促しないもんだから、それをいゝことにして、飲んじまつたんですよ。だもんだから、早速、友達にそういつて、東京にある僕の絵を二三点、すぐに金にしようと思つて、頼んではあるんです。そう当てになりませんがね。いよいよダメなら、僕自分でちよつと出掛けてみるつもりです。なに二万や三万、どうにかなりますよ、一年も待つ気なら……」

 呑気というか、図々しいというか、増田健次には、ちよつと正体のつかめぬところもあつたが、しかし、常識からいつて、この態度はどつちみち承服しかねるように思われた。で、彼もいささか気色ばみ、

「わしは、まだ職権をもつていうわけじやないですが、当てのない金で長逗留をするのは、あとで悶着の種になる……」

 と、増田が言いかけると、

「職権をもつて言うんでなけれや、それや、君、余計なお節介だ。そうでしよう。じや、よろしい。職権をもつて、僕をなんとでもするさ。もちろん、法律の命ずるところに、僕は従います。だがねえ、よく考えてみてくれたまえ。この宿の主人は、あれや、いつたい何者です? 旅館の看板を掲げて、あらゆる悪事を働いている。金はどこからでもはいつて来る。その金はことごとく、不正と乱行のためについやされているんだ。いゝですか、僕は、警官としての君にこれを言つてるんだぜ。いや、それはどつちでもいゝ。僕の言うことが素直にわかる人なら、誰にでもいいたい。あつちこつちのめかけや与太者に貢ぐ金を、僕がしばらく払わないつたつて、彼はそうギャアギャアいう権利はないと思うが、どうですか?」

 増田健次は、苦笑しないわけにいかなかつた。この理窟は屁理窟にちがいないが、どこか人情をうがつたところがあり、表向き賛成はしかねるが、次第によつては、眼をつぶつてもかまわぬような気がした。しかも、借家人がいかにその義務を怠つても、家主から立退料をせしめることができる時代であつてみれば、宿屋といえども、宿料をとゞこおらせた客だからとて、追い出すからにはそれ相当の立退科を出して然るべき筋合かも知れぬとさえ考えられた。法律は正しいものを守るために存在するとすれば、信濃屋主人和島佐五郎と、文無し画家岡本弘とを比べてみて、直ちに、岡本に非ありとは断じかねるのではないか。しかしながらまた、法は人を裁くが如くにして、実は、その罪を、その罪の軽重のみによつて裁くのである。情状酌量には限度がある。この岡本の竹を割つたような性格には、なるほど一点の邪悪らしいものは感じられないけれども、その言動には、多少慎みを欠いたところがあり、社会秩序をみだる何ものかゞひそかに含まれていないでもない。思想的偏向か、それとも、心理的異常性か、なにはともあれ、警官として、これを公に是認することはできない。

「お話はよくわかりますが、あなたも気持よくこの宿に泊つていられた方がいゝんですから、主人の宿料請求に対しては、向うで納得するように、十分ご相談なすつたらどうです。場合によつては、金策のために上京される必要があるとしたら、例えば、借用証書を一札入れるとか、出来れば、相当な保証人をお立てになるとか……」

「ないですよ、そんな保証人なんか」

 にべもなく言つてのける岡本の口吻に、増田は、むかむかと腹が立つた。

「じや、わしはなんにも言いません。このまゝ引きさがります。まだ正式の訴えが出てるわけじやありませんから、わしの立場としては、たゞ個人間の貸借の問題としか認めません。しかし、解決の方法がまずいと面倒なことになるかも知れませんから、その点、ご注意申しあげておきます」

「わかりました。君はなかなか話せるおまわりさんだ。またちよいちよい、それこそ、個人の資格で遊びに来てください。時々は退屈してるから、粗茶でも差し上げましよう」

 この野郎、人をからかやがると、一瞬、相手をにらみつけたとたん、その相手の瞳のまるで子供のような澄んだ輝きに、彼は、心を打たれた。



 それから二三日して、増田健次は、久しく廻つてみない山添いの部落のはるかに浅間の山裾の見晴らせる崖のふちをコツコツ歩いて行くと、その崖にのぞんだにれの木の根もとに画架を据えて、一心に絵筆を動かしている岡本の姿が目にとまつた。

 彼は何気なくそれに近づいて、後ろから、カンバスをのぞき込んだ。人の気配に気づいた岡本は、ちよつと振り向いたまゝ、

「よう」

 と、ひと言、あとは黙つて、絵具をしきりに混ぜ合せている。骸骨の行列そのまゝの雑木林をへだてゝ、薄く白雪をいたゞいた山の連なりが黒々と描かれ、ひときわ高く朱色に聳えた浅間らしい山の頂きから誇張された奇怪な姿の噴煙が、虹を掻きまぜたような色彩に塗りたくられてあつた。

 増田健次は、その画面と、実物の風景とを見比べながら、こうも違つてよいものかと思つた。

「なるほど、新しい絵というもんはこういうもんですかなあ。実際と空想とが火花を散らしてるんでしような」

「面白いことをいうね。君もひとつ絵をやつてみたまえ、絵を……」

「わしは、小学校の時から、図画が不得手でね。丙ばかりもらつとつたですよ」

「僕もそうだ。その方がいゝんだ。世の中で一番つまらん絵は、お手本の絵……」

「そうなると、ますますわからんぞ。いや、お邪魔になるでしようから、これで失礼します。今夜はお暇ですか」

「今夜でなくつても、夜はたいがい暇だよ」

 その晩、増田健次は、夕食をすますと、ドテラに着かえて、風呂をもらいかたがた信濃屋へ出かけて行つた。

 信濃屋の主人は、帳場にいて、小声で彼に囁いた。

「昨日、前橋へ行つたら、ちようど絵の展覧会があつたもんだから、のぞいてみたんだがね、係りの人に、岡本弘つていう油絵の絵かき知つてるかつて聞いたら、ちやんと知つてたね。非常に有望なんだそうだよ。わしは、今朝、先生の絵を言い値の半分で買う約束をしたよ。まず損はないと思うよ」

 増田健次は、ほつとした。一風呂浴びて、岡本の部屋へ行くと、まだ晩酌の最中だつた。

「いよいよ妥協成立というところらしいですね」

「うむ、まあ、しかたがないさ。おれの絵はおれの絵の好きな奴に買つてもらいたいんだが、そうばかりもいかんよ。まあ、一杯行こう。ところで、君は、いつたい、いくつ? 僕の兄きか、弟か?」

「二十七です。多分、弟でしよう」

「いけねえ、おなどしだ。じや、お前、おれで、これから話そう。岡本さんなんて呼ぶなよ。岡本でいゝ。こつちも、なんだつけ?」

「増田です」

「です、は、いかんよ。おい、増田、おまわりなんぞになりやがつて、いつたいどういう量見だ。まず、それを言え」

 相手は一杯機嫌で、そんなことはなんでもなさそうだが、こつちは、いきなり、おいそれとその調子に成りかねた。それでも、ぼつぼつ、酔うに従つてというよりも、酔つたふりをして敬語をはぶくことにし、

「そんな、無理言つても困るよ。職業を撰ぶ自由は誰にでもあるからな」

「当りめえよ。だからさ、どんな量見でお巡りなんぞになつたんだ、と訊いてるんだ」

「そんなら、そつちも、どんな量見で、絵かきになんぞになつたんだ?」

「とぼけるねえ。絵かきになるのが、どこがわるい?」

「お巡りになつたのが、わるいというのか、やいこら」

「よくもあるめえ、糞面白くもねえ、罪人をふん縛る商売なんぞ、人に任せとけ」

「誰かがやらにやなるめえ」

「おい、おい、やりたい奴にやらしたらどうだ。おめえはだぞ、そんなことより、ほかにやりたいことがあつただろう?」

「いやなこと言うなよ。人間には出来ることと出来んこととがあるでな。おれにはな、そうたんと出来そうなことはねえ。せいぜい、兵隊で鍛えたからだでもつてな、弱いものを助けたかつたんだ。世の中の邪魔になるものを取りのけたかつたんだ」

「えらそうにいやがる。おめえらは、そう言いながら、知らず知らず、強い者の味方をし、世の中の進歩の邪魔をしてるのに気がつかねえのか」

「そういう奴もたしかにいた。そういう場合もないとはいわん。しかしだ、それは、どんな制度にも弊害はつきものだつてこととおんなじだぜ。近頃は軍人の悪口を云いさえすれば、いつぱし世間に通用するように思つてる奴がいるが、どんな文明国にだつてちやんと軍人はいるんだ。進歩の親玉みてえに己惚れてる国が、ちやんと、警察を抱えてござるからな」

「そんな話をしてるんじやねえよ。おめえ自身のことを問題にしてるんだ。おめえは、評判のいゝお巡りだそうだが、お巡りなんてものは、憎まれ役になるのが当り前だと、おれは思うんだ。評判のいゝなんてこたあ、どこかに隙のある証拠だ。おい、それで役目がちやんとつとまるのかい。泥棒をみつけて、おい、早く逃げろなんていうお巡りじやねえのかい?」

「やれ、やれ、絵かきなんてものは、物事を単純に考えるもんだな」

「おや、単純と来やがつた。そうだ、おれは単純派だよ。人生なんてものは、単純なもんさ。それをいやに複雑にしたり、複雑に考えたりする奴がいるから、人間がこすつからくばかりなるんだ。すべて単純で行け、すべて……。平和と進歩、いや、進歩なんて、ほんとは、人騒がせに過ぎん。言わばマンチヤクだ。平和と自由、これならいゝな。おい、増田のあんちやん、貴様はなかなか美男子じやないか。この家のフウ公は毎週パーマネントをしに行くが、貴様に色目を使つてるぞ。気をつけろ、やい」

 増田健次は、そこで、ちよつと、ギクリとした。後は、話をそらして、その晩は、早々に引きあげた。



 その日以来、画家と警官とは、もつと胸襟を開いて話し合う間柄になつた。

 増田健次は、しかし、この新しい友人の、どこにどう興味をもつているのか、まだはつきりわからなかつた。時には感心するような意見も吐くが、屡々手のつけようのない無軌道なところをみせ、芸術家という仕事の性質も一応彼に対する無意識の尊敬にはなつているが、増田自身の人物評価の標準からすれば、自分より彼の方が数等上手だとは思いたくなかつた。それにしても、芸術家という資格と無関係ではないかも知れぬが、もつとほかに、どことなく言うに言われぬ親しみ、ほかの誰からも得られぬ温かさがうるおい、時には、烈しい火のようなものを胸の奥深く注ぎ込まれるのである。

 増田健次は、たまたまひとり駐在所の一隅で彼の風貌を想い浮べる時、ふと、平沢事件の主人公の職業が記憶の中によみがる。これも芸術家なら、あれも芸術家であつた。才能の比較はもちろんできないけれども、絵かきという天分に於て、その性質は変る筈はないと思われた。

 この連想は不幸にして、増田健次の職業的本能を刺激した。二重人格という言葉が、その事件の当時、新聞にも使われていたところから、彼は、岡本弘のうちに、もう一人の人物がひそんでいたら、という根拠のない疑念に囚われはじめたのである。

 しかし、その疑念は、岡本の宿をたずね、しばらく彼と対坐しているうちに、跡かたもなく晴れるのが常であつた。

 と、秋もようやく過ぎて、十二月の声をきく頃、その日、朝から降りだした雪が、もう夕方には、膝を埋めるようになり、バスも午後から通わぬという始末であつたが、増田健次はその日の日誌をつけ終ると、急に岡本弘に会いたくなり、ゴム靴の底にたまる雪をはたきはたき、信濃屋の玄関をはいつた。

 岡本は将棋盤に向つて、しきりに詰め手の研究をしていた。二三日前に、さんざん増田にいじめられたからであろう。二人はすぐに駒を並べだした。序盤戦はいずれも慎重をきわめ互に、口舌を以て牽制これ努めるという風であつた。

「なんだ、その手は、どうもスパイの臭いがするぞ。いかん、スパイはいかん、争われんもんだ、お里は………」

「脛に傷もつなんとやら……後暗くなければそれでよろしいが……」

「よし、こういこう。単刀直入、一戦を交えよう」

「戦にも法則がある。玉砕の覚悟と見えたがどうじや」

「法則は人によつて活き、かつ死すだ。危いかな、法のとりこ……」などと、他愛なく、応酬する二人の眼が同時に、廊下の外に向けられた。あわただしく階段を上つて来る女の足音である。

「ちよつと、増田さんいなさるかね」

 と、障子をガラリと開けたのは、宿の娘、近来おしやれに余念のない、やつと十八になる富士子である。

「ねえ、増田さん、二軒茶屋のほら、滝の見える坂道のところに、行き倒れがいるんですつて……。たつた今、駐在へ知らせに来た子供がいるのよ。大丸屋のお神さんが、それをまたうちへ連れて来てくれたの」

「なんだ、慌てゝ言いに来たのは、そんなことかい。行き倒れと……二軒茶屋か……チヨツ、旅のもんだろう」

「そんなこと知らないわ。早くしてね、下で子供が待つてるから」

 増田健次は、しぶしぶ腰をあげる。まだ将棋盤を見つめてはいるが、むろん、心こゝにあらじで、実は行き倒れの処置について、法規になんとあつたかを想い出そうと焦つているのである。

「じや、ちよつと行つて来るわ。あとの続きはまた明日の晩と……」

 出かける背中へ、岡本が声をかけた。

「おい、おい、握り飯を持つてつてみろよ」

 が、その声は耳にはいつたのか、はいらないのか、そのまゝ、あたふたと、増田は階段を降りて行つた。



 二軒茶屋というのは峠から谷へ降りようとする村はずれの紅葉と若葉の頃はバスの乗客がいずれも眼を輝やかせて絶景をたゝえる、県道と村道とのわかみちであるが、その人里をはなれた道ばたにスキイ帽をかぶつた屈強そうな男が、手提を手拭で肩にかついだまゝ、うつ向けに倒れ、そのからだは半ば既に雪の中に埋つていた。

 肩をつかんで揺すぶつてみたが、なんの手応えもない。増田健次は、大声で叫んだ。

「おい、しつかりしろよ、大丈夫だぞ、脈もしつかりしてるじやないか」

 脈はたしかに打つている。念のために、首筋へ手を突つ込んでみると、まだ体温もある。雪明りへ顔を向け直そうとすると、眉がぴりぴりと動き、唇がかすかに物言いたげにふるえた。まだ四十そこそことみえる行商風の旅慣れた恰好からいつても、たゞの行路病者でなく、なにか急病の発作としか思えなかつた。

「どこが悪いんだ、え、物が言えんのか」

 連れて来た青年と二人で、近所の農家まででも運ぼうと相談しているところへ、岡本弘が、襟巻の一端を風になびかせながら駈けて来た。彼は、いきなり、やつと横向けにしたばかりの男の顔に自分の顔を近づけて、呼吸をたしかめ、やがて、ふところから取り出した大きな握り飯を、その鼻先へ突きつけた。その男は、しばらく喉をごくごくいわせていたが、やつと、それこそ、精いつぱいの努力で、口をあんぐりと開いた。まさしく、極度の空腹のために、歩く力を失つていたのである。



 翌朝、その旅の男は、元気なすがたで駐在所に近い愛仙閤という旅館を発つて行つた。増田健次は、しかし、型通りの戸籍調べをしたにはしたのだが、別段、自分がなにをそれ以上にしたか、報告に綴るほどのことはなにもしていないのに気がついた。

 それどころか、昨夜、この宿に案内するまでは勿論、今朝、まだ早くから駐在へ顔を出して百万べんも頭をさげ、お蔭さまで命びろいをしましたと繰り返すその男に向つて、いや、君の命を救つたのは、この自分ではない、そうはつきり言うべきであつたと、彼は、あとから、後悔の念がむらむらと起つた。

 若し岡本があの時握り飯を持つて駈けつけて来なかつたら、この旅の男は、或は、あのまゝ事切れていたかも知れぬ。それでも、警官としての自分の責任は、ともかく果したと言えば言えるのである。職務にも忠実だつた自分、偶然にもせよ一人の人命を救つた彼、この場合、職務に忠実であるとは、いつたい、なんだ。救い得る命を、わずかな気持の違いで、或は遂に亡びるに委せてかまわぬということか? 増田健次は、終日、苦悶し、自己嫌悪に陥り、岡本が彼に、なぜ警官などになつたかと詰問した意味がおぼろげにわかりかけた。

 彼は、岡本弘に対して、一種の嫉妬を感じさえした。なぜ、彼には、あんなことが出来るのだ? なぜ、とつさに、あんなことを思いつき得るのだ? 実に、実に、いまいましい奴だ! 彼はその晩、悄然として、岡本の前に現われた。

「おれは、ゆうべは、たしかに参つた」

「将棋のことか?」

「いや、人生の勝負でだ。人間とはお前のことなのだ」

「おそろしくおだてるな。おれがいつたいなにをしたというんだ?」

「あの握り飯……おれはあんな握り飯がこの世の中に在ることを、すつかり忘れていたんだ」

「代用食の癖がついてるんだ」

「おれの頭は警察法規の活字でいつぱいだつた。たしかに、お前が、握りめしをといつた言葉は耳にはさんだ記憶がある。しかし、あの時、それがなんのことだか、さつぱり、ぴんと来なかつたんだ」

「おれの頭は蛙のように空つぽなんだ。飲むこと食うことばかり考えてる人間なんて、あんまり感心はできないよ。それより、お前は、およそ立派なお巡さんだ。いや、皮肉じやない。こうして、おれのところへ、そんなことを言いに来る奴が、ほかにいるかい。なんでもいゝ、おれは上州の生れじやないが、人間、人前であつさり兜が脱げるようなら、まずつき合えるとみてるよ。まして、よそう、もう警官のことを云々するのは、おい、そんなのおかしいよ、はなをかめ、はなを……」

 増田健次は、岡本の顔をみていると晴れやかにほゝえむつもりで、涙が出て来たのである。

底本:「岸田國士全集16」岩波書店

   1991(平成3)年99日発行

底本の親本:「日光 第三巻第一号」

   1950(昭和25)年11日発行

初出:「日光 第三巻第一号」

   1950(昭和25)年11日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2011年925日作成

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