花問答
岸田國士




 父は旅行、母は買物、兄は散歩といふわけで、珍しく民子たみこ一人が、縁側で日向ぼつこをしてゐるところへ、取次も乞はず、義一がのつそり庭伝ひにはひつて来た。

「あら、だあれも出なかつた?」

「呼んでもみなかつた。」

「物騒ね。」

「ねらつてゐる奴がゐるからな。」

 さう云つて、あづま一は、民子の顔をじろ〳〵見直した。

「へえ、今日は日本の着物を着てるんだな。似合ふよ、なか〳〵。」

「和服が似合はなかつたら、大変だわ。」

「自信がある人は違ふよ。」

「さういふ風に取るのは、いけないわ。」

「おい、ピンポンしよう。」

「駄目よ、相手に取つて不足だわ。」

「生意気云つてらあ。しかし、今日あたり、奥村おくむらがやつて来さうなもんだなあ。」

「あの方、あんまり真剣で、こはいわ。でも、今度は決勝戦なの。」

「あいつ、なんでもむきになるたちだからなあ。お父さんは何処へ行つたの?」

「舞鶴よ。姉さんのとこの子供が、見たいらしいのよ。」

「さう〳〵、男の子だ。民ちやんも早く見せてあげるといゝや。」

 が、それには答へないで、民子は、自分も来年は二十二だといふ考が、ふと、頭に浮んだ。

 東義一は、海軍大尉で、軍令部出仕の参謀であつた。同郷の関係で、兵学校時代から、父が保証人になつてゐた上に、近頃では、外務省に勤めてゐる兄の速男はやをとも仲好しになり、かうして、月に一度か二三度は、きまつて訪ねて来るのである。軍人らしい磊落な半面に、何処か冷徹なところがあり、それだけ人物が複雑なやうに思はれた。

 父の南条宇吉なんでううきちは、長く欧洲航路の船長をしてゐたのが、今は職を退いて気楽な余生を送れる身分でありながら、ぢつとしてゐるのが嫌ひな性分で、その後も二三の海運事業に関係したりして、実際以上にせはしさうな風をしてゐるのである。豊かな見聞をもつてゐるせゐか、あまり窮屈な掟を設けない代り、何かよくないことをする人間を見ると、「あいつは日本人の名折れだ」と、罵倒するのが癖であつた。

 この父は、上の娘を「商人」にやつたから、下の娘は「銭勘定のわからん男」にやつてもいゝなどと、戯談半分に云ふくらゐだから、それとなく、この海軍大尉に眼をつけてゐることは、民子自身にもわかつてゐたのである。

「兄貴はどうしたの。」

「球突でせう。あ、さうだわ。まだ御存じないのね。兄さん、また外国行よ。」

「今度は何処?」

土耳古トルコなの。悦んでるわ。文明国はもう厭き厭きだつて……。」

「大きく出たね。しかし、土耳古のモダン・ガールと来たら凄いんだぜ。で、何時発つの。」

「まだ内命だけでわからないんだけど、来月早々らしいわ。」

「来月つて云つたつて、もう幾日いくんちもないぢやないか。」

「さうよ。桜が散つてしまつた頃、送別会をするつてことになるんでせう。」

 さういふ話をしてゐるうちに、民子は、妙に淋しい気持がして来た。二年前に、久々で仏蘭西フランスから帰つて来た兄が、また遠くへ行つてしまふのだといふ妹らしい感傷も、むろん含まつてはゐるが、それよりも、実を云ふと、まだ誰にも明かしたくない理由が外にあつたのだ。

 民子は、つと起上つて庭下駄を突つかけ、垣根に添つたれんげうの植込みに近づいて、咲き残つた花を一つ、何気なくむしり取つた。それは、微かな不安を追ひ払ふはかないヂエスチユアであつた。が、そこへ後ろから、東義一の声が、かぶさるやうに響いて来た。

「民ちやん、どうしたんだい。いやに考へ込んぢまつたね。」

「うそよ、今、この花の特徴を探してんのよ。」

「ふうん、さうして女理学博士にでもなるのかい。」

 理学博士と云はれて、彼女は、またはツとした。それは、自分でも可笑しいと思ひながら、どうすることもできないのだつた。そこで、慌てゝ、手に持つた花を、空に向つて投げた。頭の真上で黄色いほのかな花びらが散つた。

「あのね、東さん、今時分咲く花で、一番綺麗なのはなんでせう?」

 と云ひながら、民子は、頭の中で、一人の青年の姿を想ひ浮べてゐた。それは、さつき、ピンポンの話の時一二度名前が出た、奥村圭吉おくむらけいきちであつた。兄の中学時代の友達で、一年ほど前から急に足繁く遊びに来るやうになつた、若い理学士なのだ。彼はある半官半民の化学研究所に勤めてゐた。詳しい専門のことは、なぜか口をつぐんで語らないが、なんでも日本では珍しい、しかし、重要な軍事用薬品の研究をしてゐるのだといふ話だけは、兄から聞いてゐた。学者らしい落ち着きと、物に感じ易い性情とが、程よく入り交つて、その風貌に云ひやうのない好もしい陰翳を与へてゐた。

 今迄民子の眼の前に現はれた男性のうちで、これほど彼女の心を惹きつけた相手は一人もなかつたのである。それは全く、無条件にと云ひたいほどだ。

 と云ふのは、東の方は、もう長い交際つきあひでもあり、彼女に対して、自然に親みを加へて行つたといふだけで、別に変つた素振りも見せないでゐるのに反し、奥村の方は、来る度毎に、何処となく、彼女に臨む態度が違つて来てゐる。云はゞ、好意以上のある感情をひそかに抱いてゐることが彼女自身にもわかるのである。ところが、東の方は、さういふ風でゐて、何時なんどき、直接にしろ、間接にしろ、結婚の話を持ち出すかもわからないのだが、奥村の方は、今迄の様子から見て、必ずしも自分の方へ手を差出すとは限らないのである。或ひは、兄がゐなくなれば、それつきり、顔を見せなくなるかも知れない。兄の友達として以外、表面、この家へ足を向ける理由がないと云へばないのである。

 それを思ふと、彼女は、どうしていゝかわからない。

 花の問答は、海軍大尉には苦手と見え、

「さあ、僕は花が咲いてゐるのはわかつても、この花がなんの花かつていふことをあんまり考へたことはないんだ。桜は春、菊は秋、それくらゐかなあ、知つてるのは……。」

 と、東義一は、素ツ気ない返事をして、その返事をいはゆる豪傑笑ひで紛らしてしまつた。

「あの笑ひ方……。」

 と、民子は、心持眉をひそめた。どう考へてみても、海軍大尉は何かしら余計なもの、又は足りないものをもつてゐた。少くとも彼女の好みから云つて、東ならどうでもよく、奥村の方はなんとかしてといふところまで気持が進んでゐた。彼女が人知れず望んでゐることは、東の方で話を切り出さない先に、奥村の本心を確めておきたいことだ。



 民子は、急に何かを思ひ出したやうに、奥に向つて呼んだ──。

「おかうさん、ちよつと……。」

 中年の女中が、手を拭き拭き現はれた。

「あら、お客様……。ちつとも存じませんで……。」

「お紅茶でもおいれしてね。それから……まあいゝわ、あとで頼むから……。」

「紅茶より麦酒ビールの方が結構だな。いけませんか、民ちやん。」

「構はないわ。それぢや、お麦酒ビールを……。ピーナツかなんかあつたでせう。」

「はい。」

 やがて、麦酒が運ばれた。

「今、手があいてたら、大急ぎで曾根そねさんところまで、一と走り行つて来てくれない? 松代まつよさんと鋭市えいいちさんに、お遊びにいらつしやいませんかつて……。ブリツヂのいゝお相手がいらしつてるからつてね。名前を云つちや駄目よ。」

「僕だつていふと、来ないか?」

 東義一は、横から口を容れた。

「松代さんより弟の鋭市さんがはにかなのよ。あなたの前へ出ると、なんだか頭がしびれるみたいだつて云つてたわよ。」

「文科をやらうなんていふ男の頭は、ぶよ〳〵に出来てるんだ。」

 お幸さんが、笑ひながら去つた後で、民子は、もうトランプを出して、器用に独り占ひの遊びをしはじめた。

 洋服では見られないほの〴〵とした襟足が東義一の微醺を帯びた眼に妖しく迫つて来た。

「大人になつたね、君も……。」

 彼は、憮然として呟いた。十年前の彼女を識つてゐるのだから、それは偽りのない告白であらう。

 つい近所と見えて、曾根姉弟が間もなくやつて来た。松代といふのは、民子の学校友達で、今でも、洋服裁縫の稽古に一緒に通つてゐる仲間である。

「それごらんなさい、やつぱり東さんぢやないの。」

 と、彼女は弟の肩を叩いて凱歌をあげた。弟の鋭市は、まだ新しい高等学校の制帽を指の先で廻しながらもぢ〳〵してゐる。

「鋭ちやんたら、きつと奥村さんだらうつて云つてきかないの。」

「どつちでもいゝぢやないの、早くしませう。」

 民子はさう云ひ放つて、さつさと卓子テーブルの用意をした。

「どつちでもいゝつていふことになると、少し考へるぞ。」

 真面目腐つた顔附で、東義一は、腕を組んでみせた。松代は、純白のセータアの袖を口のあたりに持つて行つて、大きく笑つた。

 パアトナアを決める間、みんな神妙に黙つてゐた。民子が鋭市、松代が東と組むことになつた。

「鋭市さん、しつかり頼むわよ。」

「ひとつ、頭をしびれさしてやるかな。」

 東をにらんだのは、民子である。

 ゲームは、物々しく、朗らかに進行した。

 曾根姉弟は、かうして、民子を東との差向ひから逃れさせてくれたのである。云はゞ、援兵であつた。今日の彼女は、それほど、東義一と二人きりでゐることを怖れなければならなかつた。まさかとは思ふが、この「勇敢なる水兵」は、どんな気紛れから、今日にも、その問題に触れて来ないものでもない。──民ちやん、僕のお嫁さんにならないか、などと、あつさり提議でもされたら、それこそ返事に困るだらう。それを、はつきり断わらないにしても、さういふことがあつてからでは、もう、自分の女としての生涯に、何か淋しい思ひ出を残さなければならないであらう。

「これで、こつちのもんだ。」

 東義一は、成算成れりといふ顔付で、次の札を応援に差出した。──さうだ、この人は、なにもかも安心しきつてるんだわ、と、民子は、心の中で微笑した。

 民子組がさん〴〵の敗北で、一ゲームが終つた。

「こんどは、女同志で組まない?」

 松代が言ひ出した。

「女が男に戦ひを挑むといふ時代は、もう過ぎた筈ですぜ。」

「おや、さうか知ら、何時の間に過ぎたの。」

 と、松代が由々しげに訊ねた。

「もう五十年ばかり前です。奴隷時代、玩具時代、反抗時代、独立時代、そして、今は、協力時代にはひつてゐます。」

「競争時代つていふのは、なかつたのか知ら……?」

 今度は、民子が、混ぜ返すやうに言葉を挟んだ。

「それは、独立時代の中に含まれてる。」

「なるほどね。」

 とぼけ方の上手な松代が、札を分けながら首をひねつた。

 手よりも口が働くやうになつて来た頃、突然、玄関の呼鈴がけたゝましく鳴り響いた。

 お幸さんが、

「あの、奥村さんがお見えになりました。」

 と、心安だてか、次の間から声をかけた。



「先見、過たず、奥村理学士の御入来だ。」

 東義一は、独言のやうに云つたが、ちつとも皮肉な調子はなく、親しみの感情を籠めて、奥村の眼に挨拶を投げた。

「さつき、君の下宿へ電話をかけたんですよ。」

 奥村は、抗議ともつかず、弁解ともつかぬことを言つた。

「へえ、さうしたら、荻窪へ行つたつてさう云つたらう。」

「あゝ、さう云つた。」

「僕はまた、君がこゝへ来てるだらうと思つてやつて来たんだ。いや、さういふと若干正確でないが、こゝへやつて来る時、君も来てやしないか、或ひは来やしないかと思つたことは思つたんだ。」

「科学的だなあ。」

 さつきから、幾分寛いだ気持になり、この時やつと、鋭市は口を開いた。

「今、男女敵味方で一と勝負やらうつていふところだ。君がはひるなら、僕は棄権してもいいよ。」

「いや、いや、僕は見物だ。おや、速男君はゐないんですか。」

 と、彼は、あらためて民子の顔をみた。そして、もう、心もち照れてゐるやうに見えた。民子は堂々たる二十八歳の紳士が、かう易々と照れるのをみて、不思議と悪い気持はしないのである。それどころか、この男の「自分に対する特別な感情」が、その中にもはつきり示されてゐるやうな気がするのだ。それは、どんな巧みな言葉を以てするよりも、純にして正なる「告白」であらうと思はれた。

 が、それにしても、彼のさういふ態度は、もう半年以上続いてゐて、それが、ほかの形になつて現はれて来ないのである。「愛されてゐる」と感じながら、それが「愛」だと云ひきれないもどかしさ。「愛し」てゐながら、それを相手に感じさせる勇気のない悲しさ。それを彼女は今、しみ〴〵と知つたのである。

「もう帰つて参りますわ。土耳古行き、御存じでせう。」

「えゝ、こなひだ電話のついでに聞きました。」

「御目にかゝりたいつて申してましたわ。」

「僕も早く会ひたいんですけれど、近頃、役所が馬鹿に忙しいんで……。」

「気をつけろよ、あんまり無茶なことをするなよ。」

 東義一は、意味ありげに、注意した。

「大丈夫だよ。それより、君は今度の異動に関係はないの。」

「ない。まあ当分、都住ひだ。ふねの上は呑気は呑気なんだがなあ。」

 男同志のさういふ会話は、いつも民子の好奇心を惹きつけた。よく母などが、自分たちに関係のない話になると、欠伸を噛み殺すやうにして、眼のやり場にさへ困つてゐるのを見るが、どうしてあゝなのか知らと思ふくらゐである。わかつてもわからなくつても、その言葉の調子といふか、リズムといふか、一種力強い語気の抑揚に、自分たち女の窺ひ得ない世界がもく〳〵と浮び出て、思はず胸の引締る思ひがする。それは、例へば真実に触れた芝居を観る時の興奮に近いものだ。

 さて、さういふ話の間に、幸福の札と不運の札が、色とり〴〵に卓子テーブルを埋めて行つた。

 傾いた日が、もう窓硝子に黄色く映る頃である。母の須栄すえが、大きな紙包みを幾つも提げて、「寒い、寒い」と云ひながら上つて来た。

「お帰りなさあい。」

 と、男女混声のコーラスに迎へられた。

「おや、まあ、大変だこと。」

 さも大変さうに、眼を見張つて、一体、誰々がお客さんなのかを確めようとした。

 海上生活者の妻として、申分のなかつたこの女性は、慎ましく、そして陽気であつた。

「松代さんたちは、御飯どうなさる? 先決問題よ。」

「あたしたち、帰りまあす。」

「よし。紳士諸君は、また玄米御飯で御異議ありませんか。あら、いやなあたしだこと。奥村さんを速男だとばかり思つてた。いらつしやい。」

 さう出直されて、奥村圭吉は、かしこまつた。

「御留守に伺つて……。僕は、時間でちよつと外へ参らなければなりませんから、今日は失礼します。」

「ほんと、奥村さん?」

 と、民子は恨めしげである。

「速男君は、そんな遠くへ出掛けたんですか。」

「散歩に行くつて出たんですけれど、多分、駅のそばの球突ぢやないかと思ふのよ。今迎へにやりますわ。ゆつくりなされるんだとばかり思つてましたの。」

「いゝさ、いゝさ、ゆつくりしたつて……。外へ参るつて、何処だい、云つて見給へ。」

 奥村は黙つて、笑つた。

「それぢや、僕が帰りに、その球突をのぞいてみますよ。」

「いゝえ、それぢやなんにもならないわ。」

 民子は、また、お幸さんを呼んで、駅まで走らせようとした。すると、台所から、

「あたくしが行つて参りませうか。」

 今、奥さんと一緒に帰つて来たのぶといふ若い女中である。

「お前は球突屋と散髪屋と、間違へる人だからおよし。」

 奥さんが容赦なく撃退した。やつぱりお幸さんを煩はすことになつた。

 では、速男君が帰るまで、そして、あんまり暗くならないうちに、ピンポンを一回やらうといふことになり、互角の腕前と定評のある民子対奥村圭吉の試合が開始された。

「いやね、たもとが邪魔つけで……。」

「今日は、腕が鳴つてますから、そのおつもりで……。」

「あら、こはいわ。」

 その実、あんまりこはくもなささうに、民子は、泰然と、そして晴れやかに相手のサアヴを待つてゐる。

 ピンポン台を置いてある広い日光室サンルーム風のヴエランダは、西日をいつぱいに受け、それに向つた奥村圭吉は、絶えず眩しさうに顔をしかめてゐた。民子はそれに気がついてゐたが、真面まともに見据ゑられるよりも気が楽で、わざわざ代らうともしなかつた。その代り、自分もおつき合ひに、時々眼を細めたり、左手を額にかざしたりして、それで幾分の心遣ひを見せたつもりでゐた。

 敵は、意外にもろく敗れた。拍手を浴びる快感の底で、彼女は、しんみりと奥村の会釈にこたへた。

「今日はどうかしていらつしやるわ。それとも、あたしがどうかしてるのか知ら……。」

「両方ともどうかしてる。さあ、来い、民ちやん。」

 東義一が、促した時、何処かで半鐘が鳴り出した。

「火事だわ。」

 と、民子は、耳を澄ました。続いて、遠く近く、蒸気ポンプの警笛サイレンが長く尾を曳いて、無気味な混乱を想像させた。

「近いらしいわ。」

 松代が、窓の方に駈け寄つた。

 その時、お幸さんが、勝手口をはひるなり、大声で母に告げてゐた。

「奥さま、火事は、曾根様の御近所らしうございますよ。」

 すると、これを聞いた弟の鋭市が、

「いけねえ。」

 と、云つたまゝ、玄関へ飛び出した。



 流石に、松代嬢は、もう色を失つてゐた。民子も、どうしていゝかわからなかつた。そこへ母が、わざと落ち着きを見せて、はひつて来た。

「慌てちや駄目ですよ。松代さんは、こゝにぢつとしていらつしやい。お家ぢや御存じなんでせう。あら、鋭市さんはもう行つちやつたの。義一さん、あなた済まないけれど、ちよつと様子を見て来てあげて下さいよ。」

「今、どうしようかと思つてたとこなんです。御役に立つかどうか、そんなら、行つてみませう。」

 東義一が、出掛けようとした時、民子は、やつと、奥村の姿が見えないのに気がついた。

「あら、奥村さんは。」

「今、鋭市と一緒にいらしつたらしいわ。」

 松代が、おろおろ声で答へた。

「あたし、御案内するわ。」

「民ちやん……。」

 と、母が制するのも聴かず、民子は、もう東義一と共に宙を走つてゐた。

 なるほど、北の空がぱツと明るく、火の手は正にその方角と知れた。二三丁も近づくと、もう薄闇に炎々と燃え上る焔の柱が、喚き狂ふ群集の影に囲まれて、彼女の足を立ちすくませた。東義一は、そこで、

「君は、来ない方がいゝ。」

 かう叫んで、ひとり、群集の中へ紛れ込んだ。

 民子は、風向きを見てゐると、どうやら、曾根の家は安全らしく思はれた。それに、かうしてゐるよりも、少し廻り道をすれば、楽に目的の場所へ行きつけさうな気がして、そのままきびすをかへした。吹きつ晒しの細道を、曲り曲りして行くうちに、果して、曾根の家は、火元からは一丁あまりも離れてゐることがわかつた。

 門の前では、奥村も交り、鋭市とその父親とが、安全な火事見物の最中だ。曾根周文そねしうぶん氏は民子の姿を見ると、

「おやおや、民子さんまで……。元気なお嬢さんもあつたもんだ。」

「御見舞にあがりました。」

 と、少しはしやいで、彼女は、そつと奥村の顔を見上げた。

「もうおしまひらしいな。」

 奥村は、誰にともなく云つた。

「ほんとだわ、さつきより勢がなくなつたわ。」

 で、この二人は、「お茶でもあがつてらつしやい」といふのを振り切つて、ひと先づいとまを告げることにした。

「松代にすぐ帰るやうに云つて下さい。」

「はい。」

 と、民子は答へたきり、足を速めて、奥村の側へ寄り添つた。彼女は、こゝで思ひがけない幸福を拾つたやうな気がしてならない。彼女はひとりでに上気し、胸がかすかにをどつた。

「こつちからの方が、混まなくつてよろしいわ。」

 来た道と同じ道へ彼を誘つた。蒸気ポンプが引上げて行くらしい、大通りの物音から、次第に二人は遠ざかつた。日がとつぷりと暮れて、葉の落ちつくした雑木林が、眼の前に黒く浮んでゐた。

「東君はどうしました?」

 と、奥村は訊ねた。

「一緒に出て来たんですけど、途中で、別々になりましたの。火事場へ真つすぐにいらしつたから……。」

「待つてないでもいゝですか。」

「かまひませんわ。寒いんですもの。」

「ほんとに、それぢや寒さうですね。僕の外套を貸してあげませうか。」

「あなたがお寒いわ。」

「なあに、さつき走つたら暑くなりましたよ。」

 さう云つてるうちに、もう彼女の肩さきへ、重い男の外套が覆ひかぶさつた。

「あらツ。」

 と、彼女は、その衿へ手を添へた。ある瞬間が、一歩一歩近づいて来る。──さういふ気配がむづ〳〵と感じられた。

「兄がもう帰つてるかも知れませんわ。」

 軽い溜息と一つしよに、彼女はかう吐き出した。

「僕も、そのうちに外国へやつて貰はうと思つてます。研究も研究ですが、実際、息抜になりますからね。」

「今のお仕事は、そんなにお苦しいんですの?」

「いや、仕事は面白いです。周囲ですよ。生活ですよ。なにひとつ、思ふやうにならないぢやありませんか。」

「さうお思ひになるだけぢやありません? 御自分で、かうしようとなされば、おできになるんぢやないの?」

「勇気がないんですかねえ。」

「用心深くつていらつしやるんだわ。」

「まあ、そんなことはどうでもいゝんですが、この暮は、何処かへいらつしやるんでせう。」

「えゝ、どうなりますか、母はやつぱり温泉へ行きたいつて申してますわ。」

「僕もちよつと正月に郷里くにへ帰るかも知れません。その間に速男君が発つてしまふやうなことはないでせうね。」

「そんなこと、ないと思ひますわ。兄が留守になつても、お遊びにいらしつて下さいますわね。」

「さあ、そんなことをしてもいゝでせうか。」

「どうして?」

「おツと、危い。こつちは水溜りですよ。」

 二人は、左右に、それを避けた。

「東さんと御一緒にいらつしやれば、なんでもないでせう。」

「東君が誘つてくれゝば、それや……。」

「あたくしが御招待するんぢや、駄目ですの?」

 戯談めかして、彼女は、かう訊ねた。が、すぐあとで、如何にも野暮つたいことを云ひ出したやうに思ひ、顔を覆ひたくなつた。で、それを紛らす為めに、借りた外套を脱いで、それをそつと相手に着せかけようとした。

「それなら、悦んで伺ひます。」

 と云ひながら、彼は急いで手を差し出した。着せかけようとする手と、さうさせまいとする手が、外套を中心に揉み合つた。が、たうとう、奥村が折れた。

「や、どうも……。」

 といふ返事を妙に遠くから聞く感じで、彼女は、何時の間にか辿りついた家の門を潜るのだつた。



 玄関口で、彼は、ちよつとためらつた形で、

「速男君が帰つてゐなけれや、僕、これで失礼いたしたいんですが……。」

 と云ひだした。

「まあ、ちよつとおあがりになつて……。今、見て参りますから……。」

 彼女は急いで奥へはひつて行つた。兄は、帰つてゐなかつた。お幸さんの返事では、球突場には今日は顔を見せなかつたといふのである。序に、東はどうかと思ひ、応接間をのぞいてみたが、彼もまだ戻つてゐないらしい。

「母さん、松代さんは?」

 と訊ねてみたが、これはもうとつくに引上げてゐた。

「大分離れてるつていふぢやないか。さつき薬屋の小僧が来て、それがわかつたから、それぢやお帰りなさいつて、さう云つたの。義一さんは?」

「あたし、奥村さんと御一緒に帰つて来たの。でも、兄さんがゐなけれや上らないつておつしやるのよ。どうしませう。」

「お急ぎなら仕方がない。でも、こんなに遅くなつたんだから……。」

 母はさう云ひながら、玄関へ出て来た。

 二人がなんと勧めても、奥村は帰ると云ひ張つた。

「速男君には、明日電話をかけてみます。こゝ一二ヶ月はちよつと伺へるかどうかわかりません。みなさん、ご機嫌よう……。」

 柄にもないそんな挨拶を、まんざら茶目ツ気でもなく、もそ〳〵云ひ終ると、丁寧に頭を下げて、彼はゆつくり出て行つた。

 その後姿を見送りながら、民子は、急に泣きたいやうな気持になつた──。これで自分はどうすればいゝんだ? わかるだけのことがわかつてゐて、それで一歩も前に進めないといふのは、お互のどつちに罪があるんだらう。それは、自分の力ではどうすることもできないものだらうか。しかし、まだ希望を失ふのは早すぎる。兄さんが発つてしまふまでは、あの人の心が自分に通じる道があるのだ……。

「さ、もう義一さんが帰つて来るだらうから、お前、御相手をしてあげておくれ。あたしは、どうしたんだか、さつきから寒気がしてしやうがない。ことによつたら、先へやすましてもらふからね。」

 民子は、さういふ母の言葉を、まつたく上の空で聞いてゐた。

 一方、奥村圭吉は、南条家の門を出ると、もう一度、さつきの火事場の方を振り返つた。

 提灯をつけた自転車が、三つ四つかたまつて走つて来る。その微かな明りを横顔に浴びて、東義一が、帽子も被らず、上着を片手にぶら下げて、こつちへやつて来る姿を見かけた。「おや」と思つて、圭吉は立ち止まつた。

「どうしたんだ?」

 声をかけると、東義一は、汗と埃にまみれた顔をあげて、

「やあ、ひどい目にあつたよ。家がわからなくつて探してるうちに、火事場の手伝ひをやらされちまつたんだ。赤ん坊を出し忘れたつていふお神さんにとつつかまつて、命懸けの仕事をやつたよ。」

「助かつたか、子供は?」

「それが面白いぢやないか。子供を僕の手から引つたくると、そのお神さん、礼も云はずに何処かへ行つちまつた。母親の本能が文明を抹殺したんだ。僕は僕で、その瞬間、人間的感情を軽蔑した。火と闘ふ快感に自分を投げ込んだ。何をしたか知らん。たゞなんべんも焔と煙と、ホースの雨の中を潜り潜りした。お蔭で、この通りだ。」

 彼の上着はびしよびしよに濡れ、ワイシヤツの胸は黒く焦げてゐた。

「おゝ、さう〳〵。」と、東はことばをついだ。

「速男君の送別会のことで、近いうちに相談に行くよ。それから、君は、民子さんと結婚する気はないかね。」

 突然、かう出られて、奥村圭吉は、息がつまるほど間誤まごついた。

「ない。」

 と、彼は、やつとの思ひで答へた。

「嘘つけ。」

 東はやり返した。

「どうしてだ。訳を云へ、民子に対する君の感情は、誰にだつてわからん筈はないぞ。」

「感情は兎も角、結婚の問題なんて考へてゐない。僕は、速男君が外国へ行つたら、それつきり、あの家へは出入しないつもりだ。訳は、今云ひたくない。ぢや、また会はう、失敬……。」

「待て、民子とは、さういふ話をしたことはないんだね?」

「あゝ、誓つてない!」

 奥村圭吉は、そこでほつとして、この友人の突飛な質問に背を向けた。



 その秋、南条民子は東義一と結婚した。



 十二月の、押しつまつた、しかも雪の降る日であつた。

 民子は夫を役所へ送り出すために、あれこれと気を配つてゐた。洗ひたてのハンケチにまだアイロンがかけてない。彼女は、長火鉢の方へ膝をずらして、こてを炭火の中へ突つこみ、その間に、夫の読み耽つてゐる新聞の裏へ、何気なく眼をやつた。すると、今日はどうしたものか、大小の死亡広告が殆どその一段を埋めてゐる。

「まあ、よく死ぬのねえ。」

 ひとり言のやうに、それでも、凶事とは縁のない艶のある声で、彼女は驚いてみせた。

 夫の義一は、

「うむ。」

 と、訊き返すでも、同意するでもない曖昧な返事をしたまゝ、「ロンドン発聯合」の記事から眼を放さない。

「こんなかに、ひよいと識つてる人の名が出てたらどうでせうね。通知を貰ふほど親しみはないけれど、黒枠の中で、何々儀なんて書かれてるのを見ると、急に胸がつまるやうな、そんな人はいくらだつてあると思ふわ。」

「誰だい、例へば?」

 と、その時、夫は、相変らず顔を伏せたまゝではあつたが、やゝ開き直る調子で問ひかけて来た。

 彼女は、そこで、誰だらうと考へてみた。その途端、頭に浮んだ名前が一つ、が、彼女は、それを口に出す前に、今の夫の語気を、やつと警戒するだけの暇があつた。

「誰つて、学校時代のお友達やなんか、いろ〳〵あるわ。あなただつておんなじでせう? おありになつてよ。考へてごらんになれば……。」

「奥村圭吉か、さしあたり……。」

 ずばりと、この名前を指されて、民子はちよつと間誤ついた。しかし、表面はまことになんでもなく、指の先をちよつと舐めて、鏝の底をためしながら、

「奥村さん、さうよ。あの方のことは、でも、お互に云はない筈でしたわ。」

「もう云つたつていゝさ。僕は、この頃、なんとも思つてやしないよ。君だつて、名前を聞かされたぐらゐ平気だらう。一度訪ねてやるかな。」

「およしになつた方がいゝわ。あなたは御自分の気持で、人になんでも押しつけておしまひになるから……。」

「なるから……どうなんだい?」

「困る人がゐるのよ。あら、もう、お時間よ。この時計五分ばかり遅れてますのよ。」

「待てよ、気になり出した。向うから来なくつても、こつちが知らん顔してる法はない。今日、役所の帰りに、ちよつと様子を見に行つてやらう。」

 やがて、金モールの飾緒をつけた軍服の胸へ、彼女は、甲斐々々しくブラツシをあてるのだが、その手が妙にふるへるのをどうすることもできなかつた。

「行つてらつしやいませ。」

 後姿へ、努めて朗らかにさう声をかけてから、急いで奥へ引つ込んだ。払ひ退けようとすればするほど、眼の前にふさがる幻影を、今度は、ぢつと睨み据ゑた。そして、心の中で叫んだ。

「意気地なし! 嘘つき! 卑怯者!」

 結婚以来、よくも忘れてゐたと思ふくらゐ、彼女は、奥村圭吉のすべてを、短時日に記憶の中から抹殺する努力に成功した。新しい生活の希望と刺戟のなかへ、完全と云へるほど自分を融け込ませて、文字通りわき目もふらず、夫義一を「愛し続けた」のである。

 それが、今日といふ今日は、なぜこんなことになつてしまつたのだらう──。自分の方から、何気なく持ちかけた話が、そこへ落ちて行くとは夢にも気がつかなかつた。女が貞淑であるといふことを自ら矜りとするのは可笑しいと信じてゐたにも拘はらず、如何にまた精神的不義が易々と行はれるものであるかを、今はじめて知つたやうな気がして、彼女は、幾分しよげないわけにいかなかつた。

 ふと障子の外を見ると、何時の間にか雪が降り止んで、薄い日射しが、植込の上に落ちてゐる。

 晴れてくれゝばいゝ──と、彼女は思つた。



 その夕刻、またちら〳〵と粉雪が降り出した。

 民子は、女中を相手に、勝手で揚げ物を支度してゐると、表口から大家の息子の声で、

「電話ですよ。」

「何処からでせう。」

 さう訊き返す暇もなく、ガタガタと溝板どぶいたを踏む足駄の音が遠ざかつた。

 今時分呼出電話をかけて寄越すのは、荻窪の実家さとの母か、役所の夫か、どちらかのうち一人であらうと思ひ、民子は、エプロンも外さず、番傘をかぶるやうにさして、つい二三軒先の大家の内玄関へ飛び込んだ。

 夫の方であつた。

「まあ、いらしつたの? えツ、病院……?」

 彼女は、思はず叫んだ。が、それから、息を殺して、受話機へぢつと耳を押し当てた。

「もう危いらしいんだ。」

 夫の声は、厳粛であつた。彼女は、この動悸が、電線を通じて夫の耳に感じられはせぬかと、思ふほどだつた。しかし、ひと言も口を利かなかつた。

 ところで、彼女は、今の気持を、なんと夫に伝へればいゝのであらう。実際、彼女の頭も、心も、たゞ混乱してゐるといふだけであつた。たゞ慌てゝゐるだけと云つてもいゝ。それは、なんの意味もなく、どんな感情とも名づけられない一種の精神的痙攣に過ぎなかつた。

「それでねえ。」

 と、夫は、やゝあつて言葉をついだ。

「一度、君、会つてやる気はないか? 意識は、まだ可なりはつきりしてゐるが、口が自由にならんらしい。──奥さんに、どうかよろしく、それだけの言葉がやつとさ。それで、女房を寄越さうかつて訊いてみたんだ。たしかに聞えた筈だが、そのまゝ眼をつぶつて返事をしないんだ。詳しいことはあとで話すが、会つてやれよ。おれが許すよ。」彼女は、まだ、黙つてゐた。

 多分、看護婦あたりが廊下を走る音であらう、夫の声にかぶせて、ドシドシ又はバタバタといふ小刻みな響きが伝はつて来る。薬の臭ひのやうなものが、不思議なことに、鼻をぷんとつくのである。

 彼女は、やつと、

「もし、もし……。」

 と、呼びかけた。そして、きつぱり、

「あたくし、行く必要ありませんわ。あなた、それで、何時頃お帰りになれて?」

 云つてしまふと、彼女は、ほつとした。それはまつたく、救はれたやうな心の軽さであつた。

「とにかく、一旦帰るよ。ぢや、来ないね。よし……。腹がぺこ〳〵だ。」

 ぼんやりしてゐると、もう、電話は切れてゐた。



 東義一は、七時過ぎに食卓についた。

 民子は、平生と変らぬ夫の顔色をさういふものかと思ひながら見守つてゐた。奥村圭吉の話をしてゐるのである。

「……さつき、待てと云つた、その病気のことだがね、これは、多分あの役所で秘密にしてることだと思ふが、君は軍人の妻だから云つて聴かせるんだぞ……。」

「……。」

 彼女は、もう少しで「光栄ね」と、戯談みたいに云ふところだつた。

「あいつは、毒瓦斯の研究をしてたんだよ。それ知つてるかい。」

 毒瓦斯とは初耳であるが、薄々、感づいてゐないでもなかつた。それでも簡単に首を振つてみせた。

「あいつはね、その毒瓦斯を自分でこしらへて、自分のからだへ試験してたんだよ。おれもその話は今日初めて聞いたんだ。尤も、この春からださうだ。試験のしかたはいろ〳〵あるんだが、動物試験はまどろつこいし、皮膚の組織が人間と違ふから、正確な計算が出来ない。そこで、奴さん、自分の脚へ一定量の薬を塗つて、反応の比例を出さうとしたんださうだ。少量のうちは、痺れた部分を治療するのに暇はかゝらなかつたが、だん〳〵、極量に近くなつて来ると、全身に薬が廻つて、その度毎に、一週間、二週間、一と月つていふ具合に病院へはひらなけれやならない。今度がその最後だつたんだね。いや、最後とまでは、自分で思つてゐなかつたらう。しかし、事実上、最後だつたんだ。薬が極量に達したんだ。命と交換つていふ放れ業を演じやがつた。凄い奴さ……。」

「でも、この春つて云へば……。」

「さうさ、荻窪の家へ遊びに来てた時分さ。」

 ぐつと何かゞ胸にこたへて、民子は、眼を膝の上に落した。

「どうだい、なにもかもはつきりしたらう。」

 義一は箸を持つたまゝ、その腕を食卓の上について、民子の顔をのぞき込んだ。彼は、奥村圭吉の嘗ての「躊躇」が、かういふところに原因してゐたことを、計らずも、今日知つたのだが、この真相を逸早く妻に伝へてやることが、何故か愉快であつた。そればかりではない。「天下を挙げて讃嘆すべき、この劃期的な犠牲行為に対し、苟も身を軍籍に置く彼としては、たゞたゞ頭を下げるより外はない」──のである。と、同時に、そのために「一個の私情」たる恋愛をなげうつたといふ潔さは、彼義一にとつては、当然すぎるほど当然なことに思はれた。

 それにしても、民子は、下を向いたまゝ、顔をあげようとしない。

「茶だツ。」

 と、例の号令を浴びて、彼女は、はツと横へ視線を外らした。

 涙で曇つた眼に、鉄瓶の湯気がふはツとからみついた。

 遠い遠い、何時の日かの思ひ出が、霧のれるやうに、次第にまざ〳〵と浮び上つた。

 焦れつたい、息のつまりさうな、足掻きのとれないあの当時の自分の気持、周囲の空気、それが、たつた今、晴れ晴れとした、胸の透くやうな、例へば、希望と確信に満ちたものであつたかのやうに、彼女の記憶のなかへ忽ち一変したすがたをもつて現はれて来たのである。

 それは、また所謂、うつゝながら夢のやうでもあつた。あの頃の奥村圭吉が、今の東義一ではないかとさへ思はれるのだ。

 民子は、なにしろ、我慢ができなくなつた。

 泣きたいといふのか? さうでもない。

 笑ひたいといふのか? いや、そんなことはない。

 彼女は、いきなり、急須を下において、夫の傍らへぐつとにじり寄り、われを忘れて唇をその唇の上へ押しあてた……。

底本:「岸田國士全集 9」岩波書店

   1990(平成2)年49日発行

底本の親本:「花問答」春陽堂

   1940(昭和15)年1222日発行

初出:「婦人之友 第二十九巻第十号」

   1935(昭和10)年101日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2020年221日作成

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