落葉日記
岸田國士
|
郷田梨枝子は、叔母と並んで東京駅のプラット・フォームに立つてゐる。そして、今着いたその汽車から降りて来る筈の父親の顔をちつとも覚えてゐないのである。
「すぐ教へてね、叔母さま……。いやだわ、いろんな人が顔を突き出して……」
「ああ、お待ちなさいつてば……。あたしだつて間違ふかも知れないよ」
心細い話だが、これも十年会はないうちに、兄がどんなに変つてしまつたか、さつぱり見当がつかなかつた。
震災の翌々年、郷田廉介は妻のアメリイを喪つて、鬱々としてゐるのを、周囲のものが励ますやうにして二度目の外遊を思ひ立たせた。それが、専門の研究を名とした悠々十年の旅である。当時八歳の梨枝子は、まだアンリエットと亡き母の好みの名で呼ばれてゐた無心の少女であつたが、すぐに祖母の下枝子に懐いて、文字通りおとなしくその留守をした。
「よう、一枝ぢやないか」
果して、ぼんやりしてゐる妹の眼の前に、長身赭顔の一紳士が立ち塞がつた。
「あら、兄さま……しばらく……お元気で……」
と、あとはもう涙声になつて、
「これ、兄さま、アンリエット……こんなになりましたわ」
まだポカンとして、それでも、眼だけは笑ふ用意をして眩しさうにこつちを見据ゑてゐる娘の肩を、軽く押へた。
「ふむ……キスしてもいいかい?」
「ええ」
うなづくと一緒に、頬を差出したが、父は額にそつと唇を押しあてた。
「さ、パパにもしてくれるか」
父のナポレオン三世風の頬髯がチクリとした。やつと胸の動悸が鎮まりかけた。彼女は、この時、祖母から予て聞かされてゐた可笑しな逸話を思ひ出した。それは、彼女が小さな時分、父に頬ずりをされて、
「パパの骨、イタイ」
と云つて逃げたといふ話である。
「兄さま、でも、ちつともお変りにならないわ」
叔母がさういふと、
「おや、変だぜ、さつきは、さうでもなかつたやうだが……」
「いいえ、よく見るとよ……それや、お髭なんか前とはすつかり……」
「写真は送らなかつたかね」
「パパは、何時でも小さく写つてるんですもの……景色ばつかり大きくつて……」
梨枝子がはじめて、馴れ馴れしく口を利いた。
「パパより大きな景色か。それや、大きいさ、リエット、景色つていふもんは……」
そんな戯談口をきき合つてゐるうちに、ふと、梨枝子は、祖母の容態のことが気にかかり出した。出がけに眩暈を起して倒れたのをそつと床に就かせて、医者を呼んだのだが、少し気分が落ちつくと、もう出掛けると云つて承知しなかつた。それを医者が厳しい言葉で止めた。
「ぢや、一人で行くかい、あたしのことは心配しないで……、ああ、早くパパに会つておいで……あたしの分も頼んだよ」
そんな言葉が妙に耳に残つてゐる。で、梨枝子は、叔母の耳に、そつと囁いた。
「お祖母さまのこと、パパに云つといた方がいいわね」
うんうんと首だけで返事をして、叔母は黙つてゐろと眼で知らせた。
手荷物の始末をすますと、三人は、待たせてあるタクシイに乗り込んだ。
車が動き出すと、廉介は、梨枝子の横顔をつくづくと眺めながら、
「ええと、女学校の四年だつたね。どうも忘れつぽくなつて困るが、何を訊かうと思つてたんだつけな……。ああ、いろんなことが訊きたいよ。今日は、お祖母さんは風邪でも引いたのかい?」
「ええ」
と、一枝が引取り、
「大したことぢやないらしいんですけど、さつきお出かけになる支度最中に、なんでも、眩暈がなすつて……」
「眩暈? 危いぞ、それや……。医者は呼んだんだね!」
「加治先生がすぐ来て下すつたわ……」
「へえ、あの先生、まだ生きてるか」
「大丈夫でせう、脳貧血よ、きつと……」
さういふ一枝の声も、実際は、かすかにふるへてゐた。
梨枝子が真ん中、左に父、右に叔母が坐つてゐた。
叔母の一枝は、これも、若い頃未亡人になり、もう四十を一つ二つ越えてゐるのに、趣味のいい扮りも手伝つて、人目を惹くに足る瑞々しさがあつた。京城の帝大にはひつてゐる息子の弘とは、よく姉弟と間違へられるのも不思議はない。これに反して、まだ五十に手の届かない父の方は、梨枝子の眼にはそれほどに映らぬかも知れぬが、著しく年齢の疲れを見せてゐた。そして学者らしいとでも云ふのか、黙り込むと、深々とした瞳が何を見てゐるのかわからない。梨枝子は、この二人の間で、神妙に畏まつてゐた。が、やがて、父が突然、独言のやうに呟いた。
「東京も変つたな。しかし、震災前より、好いとは云へないね」
「早速悪口ね……。どんなところがお気に召さないの?」
と、叔母が口を夾んだ。
「いや、東京ばかりぢやない。何処も、都会といふ都会は近頃台なしだ。しかし、これは少しひどいよ。統一がなさすぎる」
「新しいものに興味がおありにならないんだから、それや駄目よ」
一枝は、混ぜ返した。なるほど、彼の専門は考古学で、新しいものに興味ないといふ洒落は成りたつかもわからない。
梨枝子は、この話を聴きながら、見はつてゐた瞼を大きくしばたたいた。東京が乱雑なことはわかつてゐるが、欧羅巴の大都市などといふのも、そんな風になりつつあるのであらうかと思つた。昔ながらの美しい静かな街が世界の何処かにありさうな気がした。母は、かすかな記憶の中でではあるが、自分の学生時代を過した巴里の街の物語や生れ故郷の丁抹の都コペンハーゲンの話などを聞かしてくれたが、自分はつひぞ行つて見ようと思つたことはない。祖母は、繰り返し、日本がどの国よりも一番いい国だといふこと、あらゆる時代、あらゆる民族の文化がここに集つて、それは何百年後のことかわからないが、とにかく、未来の理想郷を築き上げるのだといふ意見を諄々と説くのが癖であつた。孫娘が血液の混り合ひのために、故国といふものを見失つてはならぬと人知れず心を遣つてゐるせゐもあるにはあらうが、下枝子自身の平生の生活振りを細かく観察してゐると、自然に身についた和洋の習慣が、見事な調和を保つて、素朴で繊細な趣味の中に溶けこんでゐた。
今でこそ東京市の中にはひつてゐるが以前この家を建てた頃は、まだ雑木林が遠く秩父の山々をすかして見せる茫漠たる武蔵野の真ん中で、井荻村といふ名に応はしい趣があつたが、青梅街道をわざわざ馬車でこの別荘へ通ふといふのが、長く外交官生活をした先代郷田謙三の思ひつきであつた。別荘が隠居所となり、やがて、夫の死、嫁の死、娘婿の死と、計らずも次ぎ次ぎに見送つた下枝子は、これを手頃な住居として、残されたものだけを一つ屋根の下に収容した。新しい、しかも、実は以前に復したやうな家族が出来上つた。狭い谷を見下す南斜面の松林の中に、時代離れのした僧院風の洋館が一棟、煉瓦には程よく蔦がからみ、芝生が整然と刈られ、晩春の爽やかな陽がテラスの前あたりにくつきりと日溜を作つてゐた。そして広い芝生のところどころに、茜色のギャアベラが滴のやうに咲いてゐた。
光と蔭が一斉に踊る、あわただしい季節の朝だ。
十坪ほどもあるテラスの一隅に、籐の寝椅子。その上から、一枚の毛布がずり落ちてゐるのは、たつた今までそこに誰かが寝転んでゐた証拠である。
若い女中が、庭に面した扉をそつと開けてその毛布を手繰り上げるやうに腕に抱へて再び姿を消した。何処かに犬小屋があるのであらう。シェパアドらしい声が猛烈に吠え立てた。
東を受けた二階の寝室に、再び意識を失ひかけた下枝子が、医師に見戍られながら、朦朧とした眼を天井に向けてゐた。
「奥さん、しつかりして下さい。なんでもありませんよ。今日はあんまり気をお遣ひになつたから……さ、もうぢきですよ、汽車はとつくに着いてる頃です」
主治医の加治老博士は、事態容易ならずと察してゐるが、故ら落ちついた調子で、下枝子の滅し去らうとする感覚を呼びさますことに努めてゐる。さつきから、必要なだけの注射も試みた。しかし、その効果は瞬間的で、心臓は刻々に力を失つて行くのである。
すると、突然、病人の唇が動いて、きれぎれに、かすかに、こんな言葉が漏れた。
「もう少し早く帰つてくれたら……。先生、ひと目だけ……」
「いけません、奥さん、そんな元気のないことぢや……」
脈をはかつてゐる手を振るやうにして、加治博士は声を励ました。
三本目の注射が行はれた。
寝台の枕元には、小さな回転書棚が置いてあり、仮綴の洋書が幾冊かそこに並べてある。彼女は毎晩床にはひつてからも、眠つかれない時などは、そのうちの一冊を抜き取つて頁を繰る習慣がついてゐた。
彼女が昨夜も読み耽つた、アナトオル・フランスの「花咲く人生」に、かういふ詩の文句があつたことを、今、思ひ出してゐるかどうか。一つ時、輝きを増したとも思はれるその聡明な額が、再びかき曇り、やがて、身悶えるやうに肩を左右にふるはした。
「いけない、いけない、違ふよ、梨枝子……そら、パパはそこにゐるぢやないか……海は荒れなかつたかい……」
続けさまに、さう叫んだと思ふと、時計の振子が止るやうに、ばたりと呼吸がとまつた。
と、その時、玄関の呼鈴が、けたたましく鳴り響いた。
梨枝子、一枝、廉介の順に、階段を駈け上つた。三人の姿が、部屋の中へ吸ひ込まれる途端、
「お祖母さま……」
と、呼びかける梨枝子の声が、まづ聞えた。
「ただ今……」
廉介の低い声がこれに続いた。
応へるものは、息づまるやうな沈黙! その沈黙を破つて、急に、忍び泣く二人の女の声……。
外の廊下の片隅に、二人の女中が、袂を顔に押しあて、鼻を啜りながら、壁に背を寄せかけてゐた。
澄み渡つた青空に、伝書鳩の群が輪を描いてゐた。
葬式の日には、京城から弘も帰つて来た。郷里の熊本からは、親戚のものも二三人出て来た。告別が済んで、骨は多磨墓地に埋めることになり、小雨の中を、自動車が二台、列を作つて走つた。
弘だけは当分滞在するやうに、母の一枝が引止めた。顔色がどうもよくないといふ口実のもとに。
廉介は、一室に閉ぢ籠り、客がある時と食事の時だけ下に顔を見せた。憂鬱と云ふよりも、不機嫌な、荒々しい調子が目立つた。
「お帰り早々、大変ね。あたしも、どうしていいかわからないわ」
一枝が、時々、こんな風に話しかけると、
「おれもどうしていいかわからん。まるで、留守中、家ん中は滅茶苦茶だ。婆さんはもう少し、しつかりしてると思つたよ」
この返事に驚いて、彼女は、
「あら、家ん中が、どう滅茶苦茶なの?」
「いろんなものが、もう少し残つてると思つてたんだよ。おれも遣ふには遣つたが、こんな筈ぢやなかつた。この屋敷まで抵当にはいつてること、お前知らないのか?」
「あら……そんなことちつとも知りませんわ。でも、それをお兄さまがご存じないのは、どういふわけ?」
「おれに相談しないからさ。何時帰るかわからないと思つて、印鑑も何も、一切、婆さんに預けてあつたんだ。金を送れと云つたつて、家を抵当にまで入れろたあ云やしない」
「だつて、それや、兄さま、ご無理よ。家の財産がどれくらゐだつてことは、ご承知ない筈ないんですもの……。お母さま、兄さまのおつしやる通りのことをなすつただけよ」
「ないものはないと云やいいんだ」
「でも、旅先で兄さまが不自由なすつちやいけないとお思ひになつたんだわ」
「とにかく、これぢや、明日から食ふに困るんだからね。お前もそのつもりでゐてくれよ」
一家の財政がそんな状態におかれてゐるといふことは、一枝自身、夢にも気がつかなかつたことだけに、兄の言葉が寧ろ信じられないくらゐであつたが、母の下枝子の立場を考へ、その平生のやり方から察しると、恐らく、どうにもならない生活の破綻を人にも語らず、ぢつと待つよりほかなかつたのであらう。
「あたしにも責任があるかも知れません。でも、ほんとに、そんなことは、ちつとも知らずにゐましたの。ぢや、これから、どうすればいいんでせう。あたしたち、兄さまのおつしやる通りにしますわ」
「今、すぐどうしろとは云はないさ。お前の方の財産は別に手をつけないであるんだらう」
「ええ、まあ、それだつて知れたもんだけど……」
「お前たちだけは、それでとにかくやつて行けるね」
「さあ……。それやまあ、今まででも、弘の学費はあたしの方から出してるんですから……」
「この家は早晩、引き払ふよ。さうしたら、別々になるんだね」
「それや、もう、ご都合で、どちらでも……」
兄妹は、気まづく、顔を反け合つた。
一方、かういふ情景に係りなく、裏のテニス・コートでは、梨枝子が弘を相手に、ゲームを挑んでゐた。彼は、すぐに疲れた。病後の健康がまだ十分に恢復してゐないのである。
「弱いのね、相変らず……。もう走れないの……」
梨枝子は、容赦なく、相手を軽蔑した。
房々とした栗色の捲毛をリボンで止めて、うんと日に当てた両腕を、逞ましく、左右にひろげ、白セルのスカートをぴんと膝で張つて、今、将に第二のサーヴを行かうとしてゐる。
が、青年は、もう、額に脂汗を流し、呼吸を切らして、ラケットをさも重たげに、左手に持ちかへた。
「今日はこれくらゐでよさうよ。また、レコードかけない?」
「いやあよ、ママに叱られるから……」
「だから、ポータブルの方を、林ん中へ持つてけばいいぢやないか」
「だつて、喪中は音曲禁止よ」
「無宗教葬に、喪中なんてあるかい」
「あら、それに関係ないわ。ぢや、もう、テニスはしないのね」
「やるなら、やつてもいいさ。ただ、少し休ましてくれよ、苦しくつてしやうがない」
「生気地なし、やあい」
ラケットを、ひよいと肩にかついで、くるりと踵で廻つた、この少女の大人びた科には、明らかに、残忍とも云ふべきものがあつた。少くとも、弘は、心寂しく、その後ろ影に見入つてゐた。
ところが、ふと、彼女は、従兄の方に、明るく笑ひかけた。そして宙を飛ぶやうに、彼の傍に駈け寄つて、耳もとへ口を寄せた。
「ポータブル、早く持つて来てよ。レコードはあん中へはいつてるだけでいいわ」
それから、十分後に、二人は、もう、田圃を隔てた雑木林の中に分け入つた。朽葉を踏む音が、彼等をただ不安にするだけであつた。
空地には、もう青い草が伸び、薊が咲き、立ち枯れの薄の穂が軽く頬を撫でた。
「この辺でいいわ。ちよつと、ハンケチ持つてない?」
梨枝子は、自分の坐る場所をさつさと作つた。
「ハンガリヤン・ラプソディイ」
弘は、眼をつぶつて、それに聴き入つた。
が、やつと曲が終つて、眼を見開くと、彼は、
「あッ」
と叫んだ。
前に足を投げ出してゐる梨枝子のうしろに、一人の若い男が立つてゐる。勿論見覚えのある青年だが、名前を急に思ひ出せない。
「やあ、失敬……。黙つて仲間入りをしてゐます」
「ずるいのよ。跫音をさせないで来たりなんか……。でも遠くから、あたしたちだつていふこと、おわかりになつた?」
梨枝子も、初めて口を開いた。さつき、自分の後ろに、人の気配がするので、驚いて振り返ると、彼なので、ただ、ぎゆつと睨む真似をしたばかりであつた。
「わからなくつてどうします。この辺に、こんなことをする連中は、ほかにゐませんよ」
この青年は、熊岡嶺太郎と云つて、やはり附近に住んでゐる陸軍主計監の息子である。妹が梨枝子と同じ女学校の上級生である関係から、ちよいちよい二人で家へ遊びに来るやうになり、商科大学を来年卒業するのだといふから、弘よりも二つ三つ年上であらう。それだけに、何処となく世間を識つてゐるやうなところもあり、そのくせ、素朴で、運動好きで、快活で、物にこだはらない一面が、梨枝子のテニス相手として申分なかつた。
「菊子さんは?」
梨枝子は訊ねた。
「ああ、今日は、あいつ、家で拗ねてますよ」
「あら、どうかなすつたの?」
「お袋と喧嘩したんでせう。僕にまで当り散らすもんで、癪にさはつたから、こら、あいつの草履、穿いて来てやつた」
「まあ、いやだ」
呆れたやうな顔を、弘の方に向けて、梨枝子は、美しい歯で笑つた。
弘も、釣り込まれて苦笑した。しかし、こんな風に自分にも戯談が云へたらと、多少熊岡を嫉ましく思ひ、やけに草の葉をちぎつて投げた。
「梨枝子さん、これ、今日はどうです」
熊岡が、ラケットを振る手つきで、彼女を誘ふと、
「いいわ」
と彼女は、身軽に立ち上つた。
弘がレコードを外してゐる暇に、二人はもう林を縫つて駈け出して行つた。
「いつまでも弘を休ましといていいのかい? あのからだで、勉強が障ることもあるまい」
或る日、廉介は、一枝をつかまへて、かう云つた。
「からだもからだですけれど、若しか、この家を解散するやうなことになつたら、いろいろ相談もしなけれやなりませんし……」
「その時はその時で、呼び戻すこともできる。遊び癖をつけるとおしまひだぜ」
「ええ、わかつてますわ」
一枝は、兄の態度が幾分直つて来たやうに感じはするものの、昔ほどの親しみがどうしても湧かず、無理にもしんみり話をしてみるやうな気は起らなかつた。お互に独り者になつて、同じ家に寝起きする兄妹の、何処に打ちとけられないわだかまりがあるのであらう。
彼女は、兄を食堂に残して、自分はテラスに出た。母を喪つて、急に身のまはりが寒々として来たことに気がついた。老人と娘との間に夾まつて、知らず識らず、若さと熱情を失つて行つた自分を、今はじめてふり返つてみるとどうにも諦めのつかないくらゐ焦ら立たしく、かうしてぢつとしてゐるのさへ苦痛である。
そこの籐椅子にぐつたりと腰をおろすと、彼女は、こみ上げてくる涙を、ぢつとこらへた。
「母さん……なにしてるの?」
弘の声が二階の窓から落ちて来た。
「なんにも……。降りてらつしやい」
スエタアを肩へひつかけて、弘が、前に突つ立つた。
「泣いたね、母さん」
「あんた、妙に黙つてるね。どうして、もつと話をしてくれないの?」
「そんな無理云つたつて、母さん、用がなけれやしやうがないでせう」
「用はいくらだつてあるさ。そんなにじろじろ顔を見てないで、ここへお坐んなさい」
長椅子の半分を頤で指して、腰をずらした。
「学校の方はどう? 勉強できる? 疲れやしない?」
「大して勉強もしてないけど、及第はできるでせう。伯父さんは、それやさうと、あんなんだつたかなあ……。もつとにこにこしてたと思ふんだが……」
「伯父さんには、大変な心配事がおありになるんだから……」
「へえ、なんです、それや……」
「もう云つてもいいだらうと思ふけど、この家は、おつつけ人手に渡るんですつて……」
「すると、僕たちは……」
「だからさ、それを考へておくれよ。あたしは京城へついて行つてもいいと思つてるんだけど、あんた、いやでせう」
「いやつてことはないさ。母さんさへよけれや……。でも、梨枝ちやんが可哀さうだなあ。世話をしてやる人がないぢやないの」
「お父さんがゐれば、それでいいさ。もう、あんなに大きいんだもの」
「大きくつたつて、女の子は、お父さんだけぢやどうかなあ」
「男の子がお母さんだけでも育つぢやないの」
「男の子は、何がなくたつて育つさ」
「馬鹿お云ひ、母さんがゐなくつてごらん」
「それごらんなさい。だから、云つてるぢやありませんか。ねえ、母さん、僕のお願ひ聴いてくれる? あのね、母さん、梨枝ちやんの母さんにもなつてやらない?」
「すると、あんたの妹にするわけね」
「妹つて云ふより、つまり、なにさ、僕のお嫁にするのさ」
「えツ!」
この意外な提議、と云ふよりも、寧ろ、大胆な告白に、一枝は息をつまらせた。
「戯談でせう、それは……」
やつと、さう云ひまぎらして、彼女は、探るやうに息子の眼を見た。
「どうして戯談なの? 僕、本気で云つてるんですよ」
「だつて、あんた、従兄妹同士で、そんなことできると思つて?」
「できないことないでせう。例がいくらだつてあるもの」
「悪例よ、あれば……」
「悪例でかまはないよ」
「かまはなかありませんよ」
「僕がどうしてもつて云つたら?」
「知らない……。野蛮ね、あんたは……」
一枝は、また、胸がつまつた。急いでハンケチを出して、眼に押しあてた。
「泣かないだつていいでせう、母さん。どうしていけないのか、ちやんとした訳を云つてごらんなさい。従兄妹同士つていふことは、絶対の理由になりませんよ」
「…………」
「梨枝ちやんが混血児だから、それが困るつていふんでせう、ほんたうは……」
「…………」
「さうでせう。混血児ぢやどうして困るんです? 僕だつてさう云や支那人の血が混つてるかも知れやしない。つまらない迷信みたいなことはよさうぢやありませんか。梨枝ちやんの女としての価値と、眼の色とどう関係があるんです? 理由にならない理由は、僕、絶対に受けつけませんよ」
一枝はぢつと、しばらく相手の顔を見つめてゐたが、急に表情をこはばらせて、つめ寄るやうに頤をしやくひ、
「ああ、そいぢや、ほんたうの理由を云つてあげようか? いいかい、梨枝子は、あんたなんか、好きになりやしないよ」
「僕を……」
と、弘は、云ひかけて思はず唇を噛んだ。
夏休みも近いことだし、いつそ今から京城へ帰る手間を省いて、内地でからだをしつかり作つて行けと母に勧められ、弘は、勿論そのつもりになつた。が、梨枝子と同じ屋根の下で暮すのは、もうそんなに永いことではあるまいと思ふと、朝夕、彼女と顔を合せることが、刻々に失はれて行く希望をぢつと見送るにも等しい辛さであつた。
だが、彼は、梨枝子の心が何処にあるかをはつきり見極めたいと思ふばかりに、その一挙一動に注意した。
えにしだの花を、束にして庭をよぎる彼女の姿を窓から見かけると彼は、その花の行方に想ひを馳せる。やがて余つたひと枝を、最後に彼の机の上の花瓶に挿しにきてくれる。ぱつと幸福の光が部屋に射し込む。彼は胸ををどらせて、その場に跪きたいくらゐである。
弘は、もう、彼女の前で、口が利けなくなつた。何を喋つても、思ふことが半分も云へず、うつかり物を云ふと、へまなことになりさうだつた。それだけの気持を、なぜ、彼女に、直接伝へることができないのであらう。そんなことをすれば、相手は、腹をかかへて笑ふか、つんと横を向いてしまふに違ひないといふ懼れがあるからだ。この種の告白に、ぢつと耳を藉す年齢──少くとも、それだけの成熟にまだ達しないといふ見当がついてゐるためもあらう。それよりも、第一に彼の性格として、それだけの決心が、それに価する結果を齎らさない場合の惨めさ、気の利かなさを予想しないわけには行かないからである。早く言へば、彼の意志の弱さは、自尊心のひとつの現はれであると云へないことはない。
蒼白な額に、不安な感情をつつんで、毎日焦ら焦らと頭をかきむしつてゐた。
一方、梨枝子は梨枝子で、さういふ彼と遊ぶことは一向楽しくなかつた。彼女は、それを病気のせゐだと思ひ込んでゐるらしく、テニスにも、無理には誘はうとしなくなつた。学校から帰ると、父の眼を盗んで外へ飛び出すことが多く、叔母の一枝には、ただ、お友達のところへと云ふきりで、時には、彼女のために夕飯の時刻が遅れるやうなこともあつた。
六月にはひると、急に蒸し暑くなつた。
ある日、食堂から出ようとする弘に、伯父の廉介が、珍しく声をかけた。
「おい、弘、あとでちよつと話があるから、書斎へ来てくれんか。食後の散歩をするならして来てからでもいい。うん、それとも、その辺を一緒に歩かうか」
「ええ、さうしてもようござんす」
彼は、別段、散歩をする気もなかつたが、誘はれるままに、伯父の後について裏庭から林の縁に沿つた里道へ出た。
曇つた空が、却つて緑の明るさを目立たせて、露を含んだ若葉が微風にゆられる毎に、弘は、眼鏡の奥で眩しさうに眼を細めた。
「お母さんから聞いたらうと思ふが……」
伯父は、そこでステッキを小脇にかかへ、葉巻に火をつけた。そして、徐ろに、言葉をつづける。
「いよいよ、あの屋敷を手放すことにした。惜しいがどうも致し方がない。僕も、何処か教師の口でもと思つたのだが、どうも今更、友人の世話になるのもいやだし、本を書いたつて売れる当はなし、思ひ切つて、また日本を離れるつもりだ。羅馬の考古学会でなら、これで適当な仕事をあてがつてくれる筈だから……。やつぱり、通用するところで通用させんと、僕らの学問は持ち腐れだ」
弘は、それを聴きながら、梨枝子も一緒に連れて行くのかどうか、序でにたしかめてみようと思つたが、すぐには云ひ出せなかつた。
「何時頃、お発ちになります?」
「さあ、まあ、この秋頃になるかな」
「梨枝ちやんもですか」
「あいつ一人、置いてくわけにも行くまい。向うの学校にでも入れよう。どうかな、仏蘭西語の方は……もう、話もろくに出来ないんぢやないかな……」
「伊太利でも仏蘭西語ならいいんですか」
「いや、学校は仏蘭西人のやつてる学校があるから、それでいいわけだ。ひとつ、試験をしてみてやらう……」
「お祖母さんは、伊太利語もおできになつたんですね」
「ああ、あれや、語学の天才だつたよ。お祖父さんが通訳に連れて歩いたくらゐだから……ラテン系統の言葉なら、どれも自由だつたね」
「しかし、日本が一番いいつて云つておいででしたよ」
「さう云はなきや、しかたがあるまい。僕だつて、日本へ帰つたら、西洋のいいとこなんか忘れようと努めてゐる。自分の損だからな。しかし、学者どもの偏狭さ、唯我独尊振りには、聊かあきれたよ。うん、ところで、こつちのことばかり話してゐてもしやうがない。それでだね、弘、われわれも、今月いつぱいであの家を引き払ふが、君たちも手頃な住居を見つけて貰はうぢやないか。二人きりなら、アパートなんか、どうだい。お母さんにも勧めようと思ふんだが、取りあへず、君の耳にそのことだけ入れておくからね。実は、近頃、お母さんと話をするのが辛くてかなはん。女つていふものは、先廻りばかりして、人の云ふことを、そのまま受け取らんので困るよ」
「へえ、お母さんにもそんなところがありますかねえ。あれで、なかなか聡明な部類だと思つてたんですが……」
「いや、聡明は聡明だ。しかし、その聡明さの用ひどころがないといふ形だね、今の生活では……。退屈だらう、第一……。その次ぎに、こんなことを君の前で云つていいかどうか知らんが、早く独りになりすぎたね。なんとかならんもんかな」
「さうですかね、再婚の必要がありますかね」
「本人はどういふか、第三者の眼からは、必要、大いにあるね」
「どういふところがですか?」
「息子にはわかるまい。また見せもすまいが、あれや、君、完全なヒステリイだよ」
やつとついた買手が、こつちの弱味につけ込んで邸の値を踏み倒さうとする算段に癇癪を起し、郷田廉介は、たうとう、話をぶち毀してしまつた。ぢつと、その様子を見てゐた一枝は、半ば義侠的に、半ば自分の思惑も手伝つて、こんな風に、兄の気を引いてみた。
「どうでせう、もう少し待つてごらんになつたら……? それとも、どうしてもお急ぎなら、少し無理だと思ふけど、一時、あたしがこの家お預りしますわ。二万五千以上は、今のところ、つけるものないにきまつてるんですから、それをもうちつと負けて下されば、あたしの方で、なんとかそれだけを都合してみますわ」
「うむ……」
と、廉介は、流石に驚いて、妹の顔を見据ゑた。
「といふと、お前に、そんな金があつて、この家を買つてくれるといふわけだね」
「そんな金つて、別に、あり余つてるわけぢやありませんけど、ほかをつめれば、しばらく融通がつけられるかと思ふだけですわ。弘の洋行費にと思つて、手をつけないである債券が、丁度それくらゐ、銀行にある筈ですから……それも、少しづつ、お金にしてはゐたんですけれどね」
「さうか、その親切は有難いが、あとで困りやしないだらうな。よし、さうなら、こつちへ、二万ほど出してくれれやいいよ。それなら文句はないだらう」
郷田といふ標札が、阿久津といふ標札に掛けかへられたのは、それから、一年も後のことであつたが、廉介は、ともかく妹から金を受け取るとすぐに、娘の梨枝子を残して、しばらく旅に出ると云ひ、家を離れた。
梨枝子は、別に父のゐないことを淋しがりもせず、相変らずの快活さで、叔母の干渉を軽く受け流しつつ、自由な行動を楽しんだ。
廉介からは、一と月ぶりに、三人に宛てて札幌の消印のある絵葉書が届いた。
弘は、幾分、元気づいて、しかし、妙にぎごちなく梨枝子の後を追ひ廻した。
「何処へ行くの?」
彼は、階段を駈け降りる跫音を聞きつける度毎に、自分の部屋の戸口から声をかけた。
「菊子さんとこよ。来るなら来てもいいわ」
さう云はれると、彼は、無我夢中で帽子もかぶらずに飛び出さうとする。それをまた、母の一枝は、下のホールで見とがめる。
「弘さん、また帽子を忘れた。日中は気をつけなきや駄目よ」
「大丈夫ですよ。ハンケチをかぶつてくから……」
熊岡兄妹は彼等を迎へると、或る時は、テニス・コートへ引つ張り出し、ある時は、麻雀を挑み、また或る時は、父の退役少将を交へて紅茶を飲みながら雑談を交した。
さういふある日の夕方、食事を一緒にして行けと勧められ、二人が躊躇してゐると、嶺太郎がさつさと電話口へ起つた。
「いいさうだよ。その代り、小母さんも、今夜は、ひとりで映画を観に行くんだとさ。僕たちも飯を食つたら出かけようか。八時からのに間に合ふぜ、今週は日比谷がいいらしいよ」
で、四人が、東京の夜の灯を目指して、郊外の停車場へ出る途中、梨枝子は常に嶺太郎の傍らに寄り添ひ、弘は、おほかた、菊子と並んで歩かねばならなかつた。
どちらかと云へば口数も利かず、羞む時以外は滅多に笑顔を見せないやうなこの菊子といふ少女は、眼鼻だちの整つた割に、ぱつとしたところのない、淋しいとは云へないまでも何処か真面目すぎるやうな感じの少女であつた。兄の嶺太郎に批評させると、剛情で、エゴイストだといふのだけれど、弘には、別にそんなところは見えず、寧ろ、内気な、人の云ひ放題になる面白味のない女としか映らなかつた。
ところが、かうして一緒に外へ出てみると、うつかり自分が足を速めると、慌てて、小走りに追ひ縋つて来て、「待つてえ」と甘へた口調で上着の端を引張るやうな仕種をしてみせるなど、人懐つこいところがだんだん見えて来て、弘は、時折、くすぐられるやうな快感を感じることがあつた。
が、それはすぐ、梨枝子の、誰憚らず嶺太郎と腕を組んで歩いてゐる恰好が眼につくと、忽ち気持が白々と冷めて行く思ひで、菊子の手をつい荒々しく払ひのけたくなるのである。
新宿でタクシイを拾ひ、嶺太郎はさつさと自分で助手台に飛び乗つてしまつたので、三人は、後ろへ並んで腰をおろした。
弘は、こんな時に限つて、貪るやうに梨枝子に話しかけた。
「母さんと一緒になると面白いね」
「叔母さまは、きつと帝劇よ」
と彼女は、ませた口調で、意味ありげにそつぽを向いた。
彼はさう云はれて、ふと何時か三人で帝劇へ行き、そこで母が偶然に出会つたらしい一人の紳士と、馴れ馴れしく廊下で立話をした揚句たうとうその紳士の名前をさへ彼等二人に告げようとしなかつたことを思ひ出した。この時は別に気にも止めずにゐたのだが、かうやつて梨枝子の印象になにか曖昧な影を残してゐるのを見ると、彼は、自分のことのやうに顔を赧らめ、それとなく、弁護の労を取りたかつた。が、梨枝子の今の言葉は果して、その事実を暗示してゐるのであらうか。さうとすれば、女の嗅覚といふものの異常さにあきれるほかはない。彼は、おし黙つた。
菊子はと見ると、これは、窓の外をさも珍らしさうに眺めてゐる。半蔵門から濠端に沿つて、空と水にうつる灯が次第に闇を消して行くと、
「ああ、綺麗……」
まるで子供のやうに、弘の方をふり返つた。
映画は予期に反してつまらなかつた。男二人は、その点意見が一致した。どこがつまらんなどと理窟を云ふものは誰もない。しかし、泣いたり笑つたりするばかりが面白いといふ、彼等はそんな程度の見物でないことだけは確かである。その証拠に、つまらんとか、面白くないとかいふ代りに、馬鹿くさいとか、愚劣だといふ形容詞も使ふのである。女たち二人も、さう云はれればさうかと思ふくらゐに、今日の写真はなんとなくがさがさしてゐて、気持よく観てゐられなかつたことを告白する。それで批評はおしまひである。口直しに銀座へ出てお茶でも飲まふといふことになつた。尤も、愉快になつたら愉快になつたで、やはり、お茶を飲む口実はできるわけである。ともかく、四人は、初めて揃つて夜の散歩をするのだといふ、物珍しい気持でいつぱいだ。
弘は、実は、今夜こそ、梨枝子と肩をならべて、鋪道の視線を集めることができるだらうと思つた。彼は、嶺太郎と彼女との間へ、絶えず割り込んで行つた。
無雑作な、しかし、身についた梨枝子の洋装は、その髪や肌の色と共に、果して、人目を惹いてゐた。
「何処にしよう?」
嶺太郎が誰にともなく相談をすると、
「今夜は、僕に委し給へ」
弘は昂然と引き取つた。
とは云へ、彼は、最近の銀座は頗る不案内である。静岡高校から京城の大学へと、彼の東京生活は、その期間を通じて、僅か数ヶ月なのだから、こんなところがあるのかと一同を驚歎させることなど思ひも寄らない。そこで、無難な、千疋屋を選んだ。
幸ひボックスが一所あいてゐた。
「さあ、なんでも註文した」
彼は、鷹揚にメニューを女達の前に押しやつた。メロン・シャアベット、フルーツ・ポンチ等々が運ばれ、それぞれ、浮き浮きと食べ、且つ喋つた。このお喋舌は、いちいち書き止める必要はあるまい。ただ重要なことは、梨枝子が、中途から、急に浮かぬ表情をして、誰が物を云つてもろくに返事をしなくなつてしまつたことである。
「どうしたの、梨枝ちやん……」
階段を降りながら、弘は、その耳もとへ囁いたが、それにも答へがない。
「どうしたんだらう……なんかあつたの?」
今度は、菊子の方へ、小声で訊ねた。菊子は、しばらく躊躇した後、彼の後ろへ顔を近づけ、
「さつきね、後ろのボックスで、誰かが、混血児つて云つたのが聞えたからでせう」
弘は、無意識に舌打ちをした。
やがて、新橋の角を、右へ曲らうとすると、一台の自動車が、四人の前をすつと通り抜けた。菊子が先づ、
「あつ」
と叫んだ。嶺太郎が、眼を丸くして弘の顔を見た。梨枝子は我れを忘れて、弘の肱をつついた。が、彼、弘自身も自分の眼を疑つてゐるのだ。それも、その筈である。今の自動車の中に、母の姿を見たのだ……しかも、見知らぬ男と並んで……。
「さうなの……? ぢや、すぐ、車を止めればいいのに……。映画があんまりつまらないもんだから、新橋演舞場でものぞいてみようと思つたの。さうしたら、あんた知らないかしら……ほら、お父さんのお友達で、株屋さんの大泉つていふ方がゐたでせう、その方も来てらしつて、帰りに新宿まで送るつて、ご自分の車があるもんだから、無理に乗せられちまつたの。でも、四ツ谷の駅で降りたわ。さつぱりしたいい人よ」
この釈明を信じるとしたら、事件はなんでもないのである。弘も、ほつとして、母の落ちつき払つた調子に巻き込まれ、自分の観た映画も面白くなかつたとか、銀座の喫茶店で梨枝子が不機嫌になつたとかいふ話を、朗らかにまくし立てた。それが翌朝のことである。
さてそれから一週間もたつてからのこと、梨枝子は、学校の帰りに友達の家へ寄るかも知れないと云つて家を出たのだが、夕方、電話がかかつて来て、夜まで遊んでゐるから食事は待つてゐないやうにと云ふのである。
「何処なんだらう、お友達つて……」
一枝が、さほど不安らしくもなく眉をひそめるのを、弘は、却つてむきになつて憤慨した。
「いけないなあ、女学生が勝手に夜遅くなるなんて……」
「あたしが、あんまりやかましく云ふわけにも行かないしね」
「そんなことありませんよ。母さんが云はなきや誰が云ふの? あれで、もうぢき、不良になるから……はふつとくと……」
「責任は負へないよ、あたしは……」
「僕が負はうか?」
「また、始つた。あんたにはいいお嫁さんをみつけてあげるから、もうしばらく辛抱なさい」
母のこの戯談に、弘は、荒々しく椅子を蹴つて、
「なに、母さん、それや……。僕が何時、お嫁なんか欲しいつて云つた? 辛抱しろとはなんのこつてす? 下品ですよ、そんな云ひ方をするのは……」
「あら、怒らなくたつていいわ、変な子……」
と、母の一枝は、硬く笑つて、これも座を起たうとした。すると、弘は、
「ねえ、母さん……母さんは一体、梨枝ちやんの将来を考へてやつてるんですか? 僕の話はどうでもいいんですよ。梨枝ちやんは可哀さうな子ぢやありませんか。ただ預つてればいいんですか?」
と、母のそばへ躙り寄つた。
「まあ、静かになさいよ。あたしに、あの子が教育できると思つてるの? お祖母さんがあんなに甘やかしてしまつてさ、お父さんは、あの通り我れ関せずでゐるしさ、可哀さうなことはわかつてるけど、人の云ふことなんか聴かないんだからしやうがないでせう」
「聴かせる方法がありますよ」
「どんな方法! 云つてごらん」
「熱ですよ……愛ですよ……母さんは、梨枝ちやんに冷淡なんだ」
「それや、あんたとは違ふでせうよ」
「皮肉ですか? そんな皮肉が何になるんです? 叔母として姪に対する愛は、本来なら、母親のそれと違はない筈です。さういふことは不思議でもなんでもないと思ひます。なるほど、母さんは、伯父さんとの兄妹仲もよくないやうですね。だから、自分の息子だつて、ほんとに愛してるかどうかわかりやしないんだ」
さう云つて、彼は、椅子にぐつたりと倚りかかり、ぼろぼろ涙をこぼした。
一枝は、ぢつと、それを見守つてゐたが、気を取り直して、息子のそばへ起つて行きざま、その頭を抱へるやうにして、額に顔を近づけ、
「弘さん……喧嘩はよさうね。母さんは、そんなに悪い女かしら……? あんたがさういふのを聞いてると、あたしは、自分がなんだかわからなくなるよ。母親つていふもんは、こんな情ない目に逢ふもんだらうか、ねえ、弘さん……。なんとか、もつとやさしいことを云つておくれよ……」
彼女は、つひに、息子の前に膝を折つた。そして、これも泣き濡れた眼をしづかにあげて、彼の視線を追つた。
さういふことがあつて以来、一枝は、梨枝子に対して幾分、母性的な態度を示すやうになつた。
「菊子さん菊子さんつて、そんなにお邪魔していいの? 熊岡さんつてお家は、たいへん厳格なお家ださうだから、あんまり、だらしなく遊びにばかり行くと、しまひにいやな顔をなさるよ」
「大丈夫よ」
梨枝子は平気である。
「その大丈夫がいけません。あんたなんか、まだ世の中のことを知らないからよ。日本の旧式な家庭では、さういふことをやかましく云ふんですよ」
「あら家は旧式なの?」
「家はまあいいとしてさ。向うさんのことさ」
「をかしいわ……菊子さんだつてさうだけれど、お兄さんなんか、とつてもハイカラよ。弘お兄さん、かなやしないわ」
「どうかなはないんだい」
側から、弘が、口を夾むと、
「どうつて……簡単には云へないけどさ、遊ぶんだつて、もつとずうつと、朗らかだわ。人の前で、あたしと一緒の時なんか、照れたりなんかしやしないわ」
弘は、返す言葉もなく、ぽかんとして、ただ、唇が自然にゆがんで来るのを、一枝が、
「梨枝子」
と、たしなめるのである。
六月の終りに近づいて、空は梅雨らしく、幾日も晴れ間を見せず、昼間はそれでもやつともつのだが、日が暮れるときまつて雨が降つた。
眼を覚ますと、ストオヴが欲しいやうな、湿つぽく、薄ら寒い朝であつた。
梨枝子は、まつ先に起きて、下へ降りた。学校の支度があるからである。
食堂の卓子に、もう郵便物がのせてある。何気なくその一つ一つを見て行くうちに、父の筆蹟で、叔母に宛てた封書があつた。久々のことでもあり、彼女は雀躍りして、それを叔母の部屋へ持つて行かうとした。が、途中で気がつくと、珍らしい切手が貼つてある。
──あら、どこにいらつしやるんだらう……。
さう思つて、差出地名を見ると、意外にも、それは、日本ではなかつた。
とあるのである。
「叔母さま……」
階段を駈け上つて、彼女は、叔母の寝台の前に立つた。
「これ、読んで……。あたしにも、なんか書いてあるかしら……」
一枝は、カーテンを開けさせて、物憂げな手つきで封を切つた。
──しばらくご無沙汰、一同お変りないことと思ひます。例の放浪癖で、朝鮮から支那へはひりました。今、表記のところにゐます。勿論、収獲は大いにあるし、第一、此処の生活が気に入りました。支那の民家に宿を取つてゐます。梨枝子と同じ年の娘がゐて、名を瑩芳と云ひます。日本へ連れて行かうかと訊ねてみたら、よろこんで行くと云ひます。どうしたもんでせう。此処も美しい緑が、野と山を彩つてゐます。
僕は、一度日本の軍事探偵と間違へられ、甚だ面目を施しました。しかし、学者だといふことがわかり、一般から非常な尊敬と便宜を与へられてゐます。この秋頃には、帰るつもりです。珍しい人形をお土産に持つて帰りませう。
一枝様
弘様
梨枝子様
一枝は、黙つて読み終ると、あとは梨枝子の手にそれを渡したまますつぽりと、肩を羽根蒲団のなかへ埋めてしまつた。
夏が来た。
一枝は、息子の弘をなんとかして梨枝子のそばから引離したいと思つた。それにつけても、兄廉介の無責任な仕打が恨めしく、この秋には帰つて来るなぞと云はずに、すぐにでも梨枝子を呼び寄せる算段をしてくれればいいのにと、幾度もそんな意味の手紙を書きかけてみるのだつた。しかし、やはり、梨枝子のことを考へると、弘から云はれるまでもなく、自分が面倒を見てやるのは当り前だといふ気もする。それに、我儘なところもあるにはあるが、また一方、人懐つこいこと此の上ない性質を見抜いてゐるだけに、たとへ、息子のためとは云へ、この少女に対して残酷であることはどうしてもできないといふ気がしてゐる。
そこで、彼女は、ある日、息子の弘に、こんな風な提議をしてみた。
「ねえ、弘さん、この夏は、何処か山へでも行つて来たら? 一人でつまらなかつたら、誰かお友達を誘つて、上高地へでも行つてらつしやいよ」
すると、弘は、一つ時母親の顔を見据ゑてゐたが、
「それで、母さんたちはどうするの?」
「どうするつて、母さんは、此処にゐますよ。別に避暑なんてする必要ないんだから……」
「ぢや、僕だけ、どうしてその必要があるの」
「いやな人……あんたは、なるたけ空気のいいとこが好いんでせう。とにかく、土地を変へるつてことだけでも、あんたのからだには好いのよ」
「わかつてますよ、母さん……。その間に梨枝ちやんをどうかしようつていふんでせう」
一枝は流石にギヨツとして、
「馬鹿なこと云ふのはおよし。梨枝子はちやんと母さんが預かつててあげるよ。心配しないで、うんと元気に遊んでらつしやい。母さんはもう一度よく考へるから。あの娘がどうすれば自然にあんたのものになるかつてことさ。ね、いいでせう。だから、しばらく母さんの云ふことをきいて、気分転換をしていらつしやい」
そこで、弘は、膨れた顔をゆるゆる元へ戻して、悦しさをつつみきれぬやうに、
「そんならさうと早く云へばいいのに……。ぢや、僕、明日からでも出掛けますよ。何処つてきめないで、方々歩いてみるんだ。海だつていいね、少しは泳いでみたいしなあ」
「海は駄目よ。泳ぎなんかもつてのほかだわ。山で静かに、本を読んだり、散歩をしたりするぐらゐでなけや……。嶺太郎さんを誘つてごらん」
「ううん、先生は、もう房州へ行くことにきめてるの。家を借りたんだつて……」
「みなさんいらつしやるの?」
「ああ、さうだつて。梨枝ちやんにも来ないかつて云つてたから、行きたいつて云ひ出すかも知れませんよ。行かない方がいいなあ」
一枝は黙つて、リングを嵌めた自分の薬指を見つめてゐた。
弘が上野から発つた日の晩、一枝はほつとして、梨枝子の部屋をのぞいた。
「なにしてるの、あんた?」
すると、机に向つて何かこそこそやつてゐた梨枝子は、驚いたやうに、
「なんにもしてないわ。抽出ん中を片づけてんのよ。叔母さま、この写真ごぞんじ?」
と云つて、後ろへ差出した一枚のキャビネを、一枝は近づいてのぞき込むと、それは、梨枝子の母のアメリイと兄の廉介とが巴里の郊外か何処かで写したものらしい。二人はまだ若く、殊に、アメリイの方は、短いスカートのせゐもあるだらうが、日本へ来た時よりもずつと子供子供したところがあり、しかも、誰憚らず廉介の肩へ手をかけて、無邪気に気取つた風をしてゐるところなど、やつぱり西洋の女はかなはんと思はせるやうなものであつた。
「どうしたの、この写真?」
一枝は、笑ひながら訊ねた。
「お祖母様にいただいたの。それが、変でせう。おなくなりになる二三日前なのよ」
「それやいいけどさ、ねえ、梨枝ちやん、かういふパパやママのお写真みて、あんた、どんな気がする?」
すると、梨枝子は、その質問の意味が半分わかつたやうな、半分わからないやうな、空ろな表情をして、パツと顔を赤くした。
「どんなつて? そんなこと知らない……」
さう云ふが早いか、その写真を手早く抽出の中へしまひ込んで、ぷいと背中を向けてしまつた。
「うそよ、梨枝ちやん……そんな変なことぢやないのよ。どら、もう一度、見せて頂戴……。それ、ママの幾歳の時かしら……?」
が、梨枝子は、もう返事をしなかつた。で、一枝は追ひ縋るやうに、
「まあ、そんな方を向いてないで、今晩は、叔母さんとゆつくりお話をしようよ。ねえつたら……こつちをお向きよ。あら、叔母さん、そんないやなこと云つた?」
なるほど、梨枝子は、素直に椅子を向け直したが、眼に涙をいつぱい溜めてゐる。透き通るやうな顳顬の皮膚の下に、静脈の青い線がふるへ、ぴつたり後ろへ撫でつけた生え際の、やや地肌を見せたあたりに、もう子供とは思へない分別がのぞいてゐた。
「叔母さま……あたし、お願ひがあるのよ」
と、今度は、逆に彼女が口を切つた。
「なに? 云つてごらん」
やさしく、一枝は相手の方へ歩み寄つた。
「あのね、あたし、学校よして、ステイジ・ダンスかなんか習ひたいの」
「ピアノはどうするの?」
「ええ、ピアノもだけど、もう本式にやるの、遅いわ。今まで怠けちやつたから……。ダンスなら、まだ平気だわ。そんなにうまい人ゐないから……」
「そいで、ダンスをやつて、踊子になるつもり?」
「踊子つて、舞踊家よ。そんならいいでせう」
「さあ、パパがなんておつしやるか」
「パパなんか、なんでもないわよ。いまに、びつくりさせてやるんだわ。欧羅巴、亜米利加を廻つて、支那へ渡るでせう。そしたら、パパのゐるところへも行くでせう。そしたら、パパが見に来て、どんな顔するか、とつても楽しみなの」
さういふ彼女の瞳はもう希望に輝いて、「楽しみなの」と云つた、その口の形を、そのまま、叔母の同意を期待するもののやうに、頤をぐつと引いて、大きな瞬きを続けざまにしてみせた。
「そんなことを云つて、あんた、ダンスが一人前踊れるやうになるまで、幾年かかると思つて?」
「十年と思つてればいいでせう? もつと?」
「それまでパパが支那にいらつしやるかしら……」
「いらつしやるわよ。だつて、日本にはご用なんかないんですもの」
それを別に皮肉でもなんでもなく云ふこの少女の心の底を、一枝は測りかねて、
「とにかく、パパにお見せするの、それやいいわ。でも、若しかしたら、パパがこの秋帰つてらつして、一緒に何処かへ連れてくつておつしやつたら?」
すると、梨枝子は不思議さうに、
「そんなこと、おつしやる気づかひないわ。あたし、この前、パパに、日本が一等好きだつて、さう云つたんですもの」
「そんなこと云つたの? へえ……」
と、一枝は、つい、道理でといふ顔付になり、その気持をもて余し気味で、大きく溜息をついた。
その翌日、熊岡兄妹がやつて来て、いよいよ房州へ行くんだが、梨枝子にも一週間ぐらゐ遊びに来ないかと、公然勧誘を試みた。
一枝は、傍らからすぐに、
「ぢや、折角おつしやつて下さるんだから、お邪魔しに行つてらつしやい。あんた、泳げるんだつたね。でも、気をつけるんですよ。あぶないから……」
すると、嶺太郎が、引きとつて、
「なあに、僕がついてるから、心配いりません。その代り、ご馳走なんかしないから。思ひきり、簡易生活をするんです。浜で買つて来た魚を、自分たちで焼いたり煮たりして食べます。ベッドなんかしないですよ」
かうして、子供たち二人を送り出した一枝は、広い邸のなかで、女中だけを相手にぽつねんとして暮す幾日かを想像しただけで、これは大へんなことになつたといふ気がした。この隙間だらけな自分の心が、どつちへ向つて走り出すかさへも見当がつかなかつた。自由なことの空恐ろしさとでもいふか、今かうしてゐても、何時なんどき、何処からか声がかかつて、こつちへ来いと云はれれば、その方へわけもなく引きずられて行きさうな不安がなくもないのである。
が、さういふ不安が、どうしてまた、彼女にとつて楽しくないと云へよう。
姿見に、あらはな肩を映して、彼女は、牡丹刷毛をふツと吹いた。
その日の午後、女中三人を呼んで、彼女はかう云つた。
「さ、今夜はお客様よ。応接と食堂とホールとお玄関を丁寧に掃除して頂戴。ことによつたら、お泊りになる方があるかも知れないから、お客様用の寝室を両方とも使へるやうにしといてね。お花は、あたしが剪つて来るから、花瓶を食堂へ揃へといて……。あ、お料理は、ほかから取るからいいの。支那料理だから、お台所の支度、いつもの通りにしてね。それからと……まあ、あとは、だんだんに云はう……」
そこで、彼女は、電話をあちこちへ掛けた。
「……別に改まつたことぢやないのよ。ただ子供たちがでかけちまつて、淋しいからなの。あら、そんなわけぢやないけど、夏でせう……田舎の気分もいいだらうと思つて……。いいえ、そんなに大勢ぢやないの……まあ四五人の予定……。そんなこと、いちいち訊かないで、とにかく、いらしつてごらんなさいよ……さう、六時頃としとくわ……ぢや、お待ちしててよ」
風が少し出て、楢の林が、ざわざわと音を立ててゐた。
一枝は、部屋部屋を野生の草花で飾り、電気の球を変へさせ、客間には香を焚いた。それから、湯上りの化粧を丹念にして、わざと黒つぽい単衣を軽く身につけた。
彼女は、二十八の年に夫を喪つた。それを知つてゐるものでさへ、今が四十二であるとは誰も忘れてゐるであらう。弘の父、阿久津繁は、土木関係の技師であつたが、親譲りの財産が多少あり、その上、利殖の才に長けてゐて、いろいろな方面に手を出した。それが、ある橋梁の架設工事で台湾へ出張中、四十になるかならずで病死するまで、遺族だけならいい加減贅沢のできるほど金を溜め込んでゐた。一枝は、その金の管理を、夫の親友で、関東信託に勤めてゐる瀬戸といふ男に頼み、その高については、母の下枝子にさへ内証にしてゐたのである。
六時が打つと同時に、玄関の呼鈴を鳴らしたのは、その瀬戸であつた。
「どうも遠いんで驚きましたよ。こんなところでしたかねえ」
彼は、実直らしく揉手をしながら、応接間へ通つた。
「こんなとこつて、初めてみたいなこと……」
一枝はにらむ真似をした。
「ああ、お母さんのおなくなりになつた時、それや伺ふには伺ひましたが、あんな時は、夢中でね。緊張してましたからなあ」
「あらまあ、今日は、そんなに寛いでらつしやるの。結構ですわ」
瀬戸は、なんとなく尻の落ちつかぬやうな面持で、部屋の中をぐるぐる眺め廻しながら、
「二万なら、これや高くないですな」
「土地つきよ」
と、一枝は、いつぱし女事業家を気取つて、扇風機の方へ椅子を近づけた。
「で、今日は、ほかにどういふ方が……?」
招かれた意味が、まだ彼には呑み込めぬので、それを確めようとするらしい。が、一枝は、さういふ気遣ひがさも可笑しいといふやうに、肩で溜息をついてみせ、
「そんなこと、あとでわかるぢやありませんか。あなたのご存じの方もあるし、ご存じない方もあるし……でもみなさん、あたしとはご懇意な方ばかり……ただ、ご婦人方だけはお呼びしなかつたわ」
さう云つてゐるうちに、また、玄関の呼鈴が鳴つた。
それは、大泉といふ五十がらみの風采堂々たる紳士であつた。
「久しぶりで、家の様子が変りましたなあ。女城主はここで何をしてるんです?」
先客の瀬戸を、彼女が紹介しようとするのも待たず、大泉は、馴れ馴れしく言葉をかけた。彼は、法学士、元大使館二等書記官といふ肩書があり、表面無職有閑を標榜してゐながら、その実、相場が本業のやうなもので、一枝の夫も、その道で彼を参謀格にしてゐたらしい。それゆゑ、彼等の間の話と云へば、株の話ばかりで、彼女も、うちうちでは、大泉さんといふ代りに、株屋さんと呼んでゐたくらゐであつた。
その大泉は、夫の歿後、しばらく交渉を絶つてゐたのだが、一度弘が外交官になると云ひ出した時に、彼の意見を訊いてみようと思ひ、その事務所を訪ねたのがきつかけになり、それ以来、と云つても、この二三年であるが、ちよくちよく芝居の切符など送つて来ることがあつた。いくらか俗つぽいところはあるが、それだけ、あけすけな人間味といふやうなものがあつて、彼女は、なんとなくこの男とは口が利き易かつた。
「女城主、毎日、欠伸ばかりしてますわ」
それから、初めて引合はされた男二人は、お互に探るやうな眼付で、近頃郊外の発展は目覚ましいといふ話をし合つた。
「阿久津君から、お名前は聞いてたやうに思ふんだが……」
と、大泉が云へば、瀬戸も、ごくりと唾をのみ込んで、
「さやう、あなたには、阿久津君のオフィスで一度お目にかかつた筈です。いや、旧いことですから……」
「ほんとに……。弘がまだ小学生の時分ですもの」
と、一枝は、暗に、自分もあの頃は若かつたといふ思ひ入れをしてみせた。
「それにしちや、この奥さん、ちつとも変りませんね」
大泉が例によつて、さう来るだらうと思ふことをちやんと云ふのを、彼女は、心の中で嗤ひながら、
「あら、さう云つて下さるのは、あなただけよ」
と云つた。すると、瀬戸が自分も黙つてはゐられないといふ風に、
「なんしろ、暢気な未亡人ですからな」
「ええ、さうでせうとも……。暢気に見えれば、それで本望だわ」
さういふ時、彼女の眼のあたりは、やや嶮を帯びて美しかつた。
食堂の準備ができる頃、やつと五人の客が揃つた。
瀬戸と大泉のほかに、北川といふ建築家、津留といふ婦人科医、郷といふ騎兵大尉である。
北川は一枝の夫の同窓で、下宿も同じだつたといふ関係から、彼女の婚約時代に、もう戯談を云ひ合つたりしたやうな相手なのだ。夫の死後売り払つた本郷の家も、彼が最初図面を引いたといふ因縁もあつて、一時は家族同様に出入りをしてゐた。
「奥さん、僕は今夜、よつぽど家内を連れて来ようかと思つたんですよ。しかし、たうとう一人でやつて来ました。家内は、だから、僕が何処へ行つたのか知らずにゐます。それでいいんでせうか」
ほかの連中を見廻しながら、彼は、剽軽な顔をした。
「阿久津夫人には、昔から、神秘的な趣味がありましたな」
津留は、何かを想ひ出すやうに眼を細めた。
「お互の年配なら、もうこんな話はなんでもないと思ふが、夫人はですよ。お産の時に絶対旦那さんを部屋の中へ入れないんです。いや、そればかりぢやない。僕たちにも、マスクをかけろと云ふんです」
「弘さんの時ですか」
大泉が訊ねた。
「いや、まさか……その時分は、僕なんか、子供がどうして生れるか知らずにゐた」
「あなた、失礼ですが、そんなですか?」
「そんなとは、そんなに若いかといふ意味ですか」
男同士は、すぐにざつくばらんな調子になつた。が、ひとりさつきからむつつりと煙草ばかり吹かしてゐるのは郷大尉だつた。これは、やはり外交官の息子で、子供の時分から、寧ろ一枝の母の下枝子に親しみ、その結果、軍服を着るやうになつてからでも、時折、乗馬姿か何かで、ぶらりと訪ねて来るといふ風であつた。一枝は、その度毎に、ちよつとロマンチックな風景を目撃した。白髪の老婆と、馬の手綱を握つた青年士官とが、二階の窓と下から、慇懃な挨拶を交し合ふのである。一枝は、弟のやうに彼をあしらつた。彼は、ぐんぐん大人になつた。彼は結婚した。結婚はしたが、その細君はすぐに肺病で死んだ。後を貰つたかどうか、その先は、彼女は知らなかつた。
津留医学士の際どい話題に、一枝は、ちよつと眉を寄せたが、それよりも、生れると間もなく息を引取り、自分の乳を与へる暇さへなかつたあの女の児のことが、今はもう夢の記憶ほどかすれてゐるのに、はツと胸をつかれた。
支那料理の皿が次ぎ次ぎに運ばれる。大泉と津留とが喋りまくるだけで、他の男三人は一向面白くないやうな顔をしてゐる。しかし、瀬戸だけが、時々、小声で、一枝の方に話しかけた。彼は二三杯のラウチュウで眼の中まで赤くし、とんでもない時に、
「奥さん、さう云へばあなたダンスは如何です」
などと問ひかけた。
なるほど、ホールからレコードのワルツが聞えて来た。予め女中の一人に云ひつけておいたのだが、どちらかと云へば、この集りに音楽など不似合なやうに思はれた。
酒がまはるにつれて、それでも少しづつ一座の空気が賑やかになり、奇妙な風習の話、悪食の話、近頃の青年子女は何を考へてゐるかといふ話から、世界各国の女の話、所謂国際愛の話。日本の男と女とはどつちが立派かといふ話などになり、めいめいそれぞれの意見を述べたが、北川と瀬戸とは、そのために大激論をはじめ、座が頓に白けた。
「まあまあ、議論はそれくらゐにして、もうちつと奥さんを酔はさうぢやありませんか」
大泉が、徳利を一枝の方に差出すと、彼女は、もう既にぽツとなつた頬ををさへながら、甘へるやうに盃を受けた。
「郷さん、あなたどうしてそんなに大人しいの」
ぐつとその盃を飲み乾して、騎兵大尉の方へからだを捻ぢ向けた。彼は、苦笑しながら、眼で何か合図をした。──だつてこんな連中と一緒に騒げますか、といふ意味にとれた。彼女は、つつましく瞼を伏せ、──それやさうね、といふ返事をしたつもりである。
津留医学士は、さつきから、一枝の視線を追つてゐる。それは大胆な挑戦とも思はれた。彼女は、それに気がついてゐるのである。ただなんとかしてはぐらかさうと苦心してゐる。こんなに手軽に反応を示すやうな男を、わざわざ呼んだのは不覚であつたと、今更後悔してゐるくらゐである。
彼女は、そつと席を起つた。足が少しふらつくやうに思つた。静かに、ホールの方へ歩いて行つた。網戸には、蛾が群がつて、羽ばたきをしてゐた。生ぬるい風が庭から吹き込んで来る。彼女は、ぐつたりと一つの椅子に倚りかかつた。暗い悲しみのやうなものが、ふとこみ上げて来た。胸がはち切れさうに痛い。今、弘が帰つて来たら……と、そんなことも考へた。
「ああ、早く時間がたつてくれれば……」
さう、口の中で呟いて、思はず両手で顔を押へた。
と、後ろから、人の近づいて来る気配がした。
一枝はそのままの姿勢でぢつと耳を澄ましてゐた。酔ひに乗じた男の不躾な行動を警戒する気持と、五人のうちの誰が真つ先に自分の後を追つて来たかといふ好奇心とが、あやしく胸ををどらせた。
「奥さん……逃げちやひどいよ」
それは、まぎれもなく、津留医学士の声である。
「あら、逃げやしませんよ。なんだか少し眩暈がしたから……」
「どら、どら……」
と、彼は、彼女の真ん前へ来て立ち塞り、両手を腰にあてて、ぢつと容態を観察するやうな身構へをした。そのくせ、眼はとろんとして何を見てゐるのかわからない。舌で唇の上下を舐めながら、からだを前後にゆすぶり、重心を今にも失ひさうに見えた。
「ひとつ、お脈を拝見しませうかな。なに、大丈夫、そのお顔色なら、ちよつと僕が手当をすればすぐなほる」
さう云ひながら、がくりと膝をついて、彼女のそばへ躙り寄つた。そして、いきなり、手を取らうとした。が、その瞬間、つと彼女は起ち上つて、奥の方へ姿を消した。津留は、そのまま椅子の上に突つ伏して、正体なく寝込んでしまつた。
食堂では、北川の羽目を外した笑ひ声と、大泉の何やら立てつづけに喋るのとが聞えるだけである。
一枝は、トアレットで化粧くづれをなほし、食堂へ引つ返した。すると、大泉が、
「ねえ、マダム、今夜は、もうこれつきりですか。あと、何か面白いことでもあるんですか!」
「さあ、面白いことつて、あなた方がそれを考へて下さらなくちや……」
「そいつは難題だね。女一人に男五人で、どんな面白いことができる?」
と、北川がとぼけてみせた。
「ぢや、これから、吾輩がいいところへ案内しよう。女城主、どうです、あなたは新橋の芸者といふものを見たことはないでせう」
「見たことぐらゐあつてよ。銀座を歩いてるぢやありませんか」
「いや、歩いてることを云ふんぢやない。ちやんとお座敷でサーヴィスするところ、つまり、彼女らを彼女らに応はしいバックの前に坐らせたところですよ」
「それは、きつとないね、阿久津君は、さういふところを細君なんかに見せる男ぢやないよ」
瀬戸が、これも好い加減舌をもつらせながら、ひとりでうなづいた。
「よし、ぢや、今日は吾輩が是非とも連れて行く。諸君も監視の意味でお附合ひを願ふ。なに、監視はあつてもなくつてもおんなじだが、吾輩はまだ諸君にそれだけの信用はない、それやわかつとる。マダム、支度はよろしいか。車の用意をさせて下さい」
「まあ、いいわよ、そんなとこへ行かなくつたつて……。ねえ、郷さん、芸者がゐなけれやお酒がまづいなんて、そんな法はないわ」
さう云ひながら、彼女は、誘はれるままに、そんな風なところへなら、ちよつと行つてみたかつた。
「どう、みなさん。いらつしやる?」
「行きますとも……」
と、北川が即座に応じた。
「瀬戸さんは?」
「わたしは、どつちでも……」
「郷さんは、真面目ね」
「僕は、行くなら一人で行きますよ」
「まあ、凄い。かういふ方はどうしたらいいんでせう」
「あ、お医者さんはどうした?」
と、大泉が、津留のゐないのに気がついて、眼をまるくした。一枝は知らん顔をしてゐた。
勢ひの赴くところ、もうどうすることもできず、大泉を先頭に、ぞろぞろ玄関へ繰り出した。彼の自家用が車寄せに着いてゐた。
一枝は、女中に耳うちをした。
「お客さまがお一人ホールでおやすみになつてるからね、そうつとしといておあげよ。お目覚めになつたら、車をお呼びしてね。あたしは、少し遅くなるかもしれないから……」
それから今度は、郷大尉をそつと呼んで、
「あなた、先へ帰つちやいやよ。今夜、あたしの護衛ね、頼むわ」
肩を軽く叩いて、返事を促したが、
「断るわけにいかないんですか」
と、彼は、ぶつきら棒に、興味のなささうな顔をした。
「だけど、今からぢや、もうね……。ほら、呼んでるわ……いいぢやないの、好い加減なところですつぽかせば……」
やがて、五人を乗せた大型のナッシュは、青梅街道をまつしぐらに東へ走つた。
歌ひ、弾き、舞ふ女たち、黙つてゐないために饒舌を振ふ女たち、盃と燐寸から眼をはなさない女たち、無学を吹聴することが愛嬌だと信じてゐる女たち、同性に眼を尖らす女たち、女以上の何ものでもない女たち、と、一枝は、さつきから、ずらりとそこへ並んだ女たちを見比べてゐた。
これが東京の代表的な芸者であるかどうかは知らぬが、たやすく男の心をとらへるのは、かういふ魅力なのであらうかと、彼女は、彼女らの一挙手一投足に注意を怠らなかつた。さう云へば、大泉は、かういふ場所では、なかなか幅を利かしてゐるらしく、それが、女たち一人一人を相手に、円転滑脱な応酬を試みるあたり、殆どそのための修練をした人間のやうである。そこへ行くと、北川も瀬戸も、顔色なしである。二人は、何か気の利いたことを云はうとして、女たちに足を掬はれてゐた。郷大尉は、黙々として盃をふくんでゐた。眼に美しい張りのある若い芸者が、はじめから彼の側を離れなかつた。これはこれで一つの流儀なのであらうと、彼女は思つたが、なんとなく、その方に気を取られ、それをまた誰かに気づかれはすまいかと、ひそかに用心をした。
一座は次第に乱れて来た。北川が洋髪の女をつかまへてダンスをはじめた。瀬戸は割箸を両手に、皿を叩き出した。大泉は、女に三味線を弾かして何かを歌ひ、時々、一枝の方へ、わけのわからぬ手附で合図をした。すると女たちは、キヤツキヤツと囃し立てた。
少し自分が無視されすぎてゐると思ふと、一枝は、妙に胸がつまり、顔をあげてゐるのが苦しくなつた。そばの女に小声で囁いた。
「あのね、その頭を短く剪つた人にね、あたしがもう帰るつて云つてるつて、さうおつしやつて頂戴」
郷大尉が、やがて、こつちを見た。そして、すうつと起ち上つて、部屋を出た。一枝も、時機を見計らつて、座を外した。
「何処まで送つて下さる?」
呼ばせた車に、ともかく二人は乗つた。
「新宿」
と、郷大尉は命じた。
「あら、新宿まで……? 序でに家まで送つて下さらない。それにはね、わけがあるのよ。ほら、津留つていふお医者がゐたでせう」
「ゐなくなつたですよ」
「ええ、それがよ、あん時、女中の話で、まだ家ん中にゐたことがわかつたの。ホールへ寝そべつてたんですつて……」
「そんなに酔つてたかなあ」
「酔つてもゐたでせうけどさ、あたし、一人で帰るのに、ちよつと気味がわるいわ。まだゐたらどうするの。だからさ、あなたがゐて下されば、変なことないでせう。お部屋はちやんと用意させるわ。明日はお早いの?」
「泊るんですか? そいつはちつと考へもんだなあ」
「奥さんにわるい?」
彼女は、そこでわざと訊ねた。
「奥さん……? いやだなあ……。まだ知らないんですか、女房に死なれちやつたことを……?」
「それや、知つてますよ。あとをお貰ひになつたんでせう、どうせ……?」
「どうしまして。女房は一生に一度もてば沢山ですよ」
「恋愛は一度で懲り懲りつていふ意味?」
「まあ、さういふ意味もありますね。なんて、あの女房は、あなたのお母さんがきめて下すつたんですよ」
「自分の女房を人にきめて貰ふなんてないわ。そんなこと云つて、あたしがなんにも知らないと思つてるの? 乗馬のお稽古を度々拝見しましたからね。今、生きてらつしやれば、おいくつかしら?」
「死んでからあとの年なんか訊かないで下さいよ。折角、若くつて死んでるのに……。いいなあ、あいつは、いつまでたつても二十三だ……」
「いいわね、ほんとに……。未亡人もそれとおんなじに、亭主をなくした年からあとを勘定しないことにするといいんだわ」
十二時近くにやつと井荻の家に着いた。
ホールをのぞくと、津留医学士は、椅子からずり落ちて、絨毯の上へ仰向けに寝転び、カラアをはづし、ワイシャツの胸をはだけて鼾をかいてゐる。
郷大尉がそばへ行つて揺り起さうとするのを、一枝は強く制して、
「そうつとしといた方がいいわ。また飲むなんて云ひ出すとうるさいから……。酔ひがさめた頃、降りてみませう」
それから、女中に、郷大尉を二階の一番奥の部屋へ案内するやうにと云ひつけ、自分は、そつと着物を着かへに寝室へはひつた。
やがて、女中たちを寝かしてしまふと、彼女はもうなにか取り返しのつかないことをしてしまつたやうに思ひ、ベッドの上へからだを投げ出し、顔を枕のなかへ埋め、しくしく泣き真似をした。が、さういふ科では処理できない切羽つまつた気持が、もくもくと頭をもたげて来る。咄嗟に、亡くなつた夫の顔が眼に浮んだ。しかし、それは今夜に限つたことではない。空閨十年の朝夕を通じ、心をしびれさせるものと云へば、この幻との束の間の抱擁であつた。
と、その時、扉をそつとノックする音が聞え、
「もうおやすみですか」
といふ郷大尉の声である。彼女は、ハツとして、寝台の上へ起き上つた。それから、
「だあれ?」
と、わざと訊き返しながら、扉に近づいた。
「僕が寝ちまつちやなんにもならないでせう。どうすればいいんです? あなたの部屋の前に立つてるんですか、歩哨みたいに……」
きちんと背広を着たままの彼であつた。
「それもいいけどさ、まあ、ちよつとはいつていつ服めしあがれな。アイス・ウォータアいかが?」
彼女は、さう云つて、彼のうしろの扉を締めた。
それから三十分ほど時間が経つた。
津留医学士は、眼をさまして、あたりを見まはした。ふらふらと起ち上つた。家の中はしんとしてゐる。腕時計をみると、もう一時近くである。彼はふと耳を聳てた。廊下を小刻みに歩く靴音が、だんだん階段の方へ近づいて来る。やがて、郷大尉の無表情な顔が電燈の下を横ぎり、玄関の方へ消えた。すると、少し遅れて、浴衣に伊達巻を締めた一枝の姿が、それを追ふやうに階段を駈け降りた。
「ねえ、後生だから、そんな風にして帰らないで……。今、車を呼ぶわよ……」
ばたり! 玄関の重い扉が音を立てた。
津留は、なにを思つたか、急にぐつたりと元の位置へ寝そべつた。が、暫くさうしてゐて、やがてまた起き上つた、一枝のスリッパを踏む跫音が遠ざかつたからである。彼は、用心深くそつちへ歩いて行つた。
一枝は部屋へはひらうとして、何気なく後ろを振り返つた。
「奥さん、わたしの部屋は?」
津留は、壁に片手を支へながら、問ひかけた。一枝は、唇を噛み、一歩一歩近づいて来る相手をぢつと見据ゑてゐた。が、急にその眼を閉ぢて、かすかに、
「ここよ」
と答へたまま、吸ひ込まれるやうに扉の中へ隠れた。
翌朝、蝉の声がやつと聞えだす時刻、と云へば日のまだ昇らない、森も畑も乳色の霧につつまれた時刻である。玄関の呼鈴がけたたましく鳴つたので、女中たちは一斉に眼をさました。
弘が突然、旅先から帰つて来たのである。
「母さんは?」
「まだおやすみになつてらつしやいます」
「梨枝子は?」
「あの、房州の海岸とかへおでかけになりました」
「何時? 誰と?」
「若旦那さまがお発ちになるとすぐでございます。熊岡様とご一緒にたしか……」
「いいから、早く飯を食はしてくれ。それから、母さんを起して来いよ。おれ、またすぐ出掛けるから……。おや、これ、誰の帽子だい?」
外套掛に見なれない男の麦藁帽子が一つかかつてゐた。
彼は、無我夢中で二階へ駈け上つた。そして、ずらりと並んだ部屋の扉を片つ端から開けてみた。鍵のかかつてゐる部屋は、扉に耳を押しあてた。最後に、母の寝室の前に立つた。すると、途端に、扉があいて、寝間着姿の母が首をつき出した。
「まあ、弘さん……。なにを騒いでるのさ? どうしてこんなに早く帰つて来たの……」
「どうして? それや、母さん、自分に訊いてごらんなさい。この家には、何か僕の知らない、僕に知らせない秘密があるに違ひないんだ。梨枝子を房州へやつたんですつてね。たしかに家にはゐないんですね?」
「ゐませんよ、をかしな人……。菊子さんたちと一緒だからいいぢやないの。あんたも遊びに行つて来るといいわ、そんなに云ふなら……」
「行きたけれや勝手に行きますよ。母さんは僕の意見を尊重しないんですね。そんなら、ようござんす」
玄関の帽子のことを云はうとしたが、なんだかそれは気がとがめた。重たさうに瞼を引きあけてゐる母の顔に、弘は、反感の一瞥を投げて、そのまますぐ前の自分の部屋の鍵を開けた。
津留医学士が、一枝の部屋をそつと抜け出し、帽子をかぶらずに裏口から帰つて行つたのはそれから二時間もたつてからであつた。
弘は、食事をすますと、母に行先も告げず再び出て行かうとした。
「弘さん、お小遣はまだあつて?」
一枝は機嫌を取るやうに訊ねた。
「何処にゐるつていふ葉書だけおくれね」
何を云つても返事をしない息子を、それでも彼女は玄関まで送つて出た。
今日も朝つぱらから三人は海岸へ出て遊んでゐる。嶺太郎一人は海水着で、もう水にはひり、菊子と梨枝子は、揃ひの浴衣で砂浜の上を歩いてゐる。
九十九里の、見渡す限り白い波頭の続く茫漠たる眺めのせゐもあるが、この一隅は、避暑地といふよりも寧ろ漁村に近く、日盛りの海に、華やかな色が浮んでも、それは点々と数へるほどしかないのである。
熊岡一家は、土地の有力者が建てた別荘といふのを借り、近所の婆さんを通ひで傭ひ入れ、主人の主計監は一週に一度東京へ出て、ある購買組合の事務所に顔を出し、その序でに食料品を若干買ひ込んで来ることになつてゐる。
「兄さん、もうご飯よ」
菊子が、兵古帯を結び直しながら叫んだ。梨枝子は、さつきから、貝殻の蒐集に余念がない。
滴をたらしながら、嶺太郎があがつて来た。
「この辺には、珍らしい貝はないよ。なんだい、それや、蛤ぢやないか。そんなもんしやうがねえや」
ぽんと梨枝子の手を下から跳ね上げたので、貝殻は一斉に飛び散つた。
「あら、ひどいわ」
追ひかけるのを、彼は焦らすやうに逃げ廻つた。逃げながら、やがて、家の門口へ来た。
「いいわ、小母さまに云ひつけるから……」
梨枝子は、まだ恨んでゐる。
「なにさ? なに喧嘩したの?」
熊岡夫人は、笑ひながら、膳の上の蠅を追つてゐた。
食事がすむと、一時間、学校の復習をすることになつてゐる。梨枝子は、大体、雑誌を読む。さもなければ菊子の邪魔をする。嶺太郎の後ろへ忍び寄つてその帯へ「コノ男危険ニツキ注意スベシ」と書いた紙ぎれを結びつけることもある。
十時になると、また海へ行く。女二人は、嶺太郎から本式の泳ぎ方を習ふ。梨枝子の方が進歩は早い。菊子は、波が来ると、どうしても逃げ出さずにはゐられない。
三人は、一定の間隔をおいて、丈のやつと立つぐらゐのところを、浜に沿つて泳いでゐる。嶺太郎が一番後にゐるので、型が崩れると、追ひついて来て呶鳴る。好い加減のところで、彼は、沖の方へぐんぐん泳ぎ出す。梨枝子がついて行かうとすると、後ろ向になつて水をぶつかける。来てはいかんといふのである。すると、彼女は、しばらく我慢してゐて、声が届かなくなる時分に、自分で大丈夫と思ふところまで行つて帰つて来る。
それを嶺太郎は、ちやんと知つてゐるのである。
「おい、梨枝ちやん、あんなことして死んでも知らないよ。いざつていふ時、間に合はないぢやないか。ちやんと試験をして、もういいつていふところで、遠くへ連れてくよ。君が一と月ゐるなら、向うに見えるあの船んとこぐらゐまで泳げるやうにしてやるさ。僕の云ふこと聴かなけれや駄目だ」
彼がさういふ風にむきになつたことは、初めてなので、梨枝子は、眩しさうな眼をして、彼の顔を見てゐた。
「いいかい?」
「ええ」
と応へた彼女は、相手の笑顔にほつとして、もう、砂の上を転がり廻つた。
──なんていい人だらう。男らしくつて、親切で……。
彼女は、どんなに喧嘩をしても嶺太郎が好きであつた。ああいふ兄さんが欲しいと思ふこともあつたが、兄さんでなけれやどうしていけないのかと思ふこともあつた。
さういふ時、従兄の弘の顔がふと頭に浮ぶのだが、それはほんの瞬間で、すぐに忘れてしまふ。
嶺太郎が、彼女と菊子とが寝そべつてゐる前へ、真つ赤な蟹を投げてよこした。二人は、大袈裟に悲鳴をあげて、飛びのいた。
「それ、東京へお土産に持つてくといいや」
「ああ、それ、面白いわ」
菊子が、すぐに賛成した。二人は一生懸命につかまへようとするのだが、何処を持つていいかわからない。大騒ぎをしてゐるところへ、不意に、
「かうすれやなんでもないぢやないか」
と、背広を着た若い男が手を出した。
「あツ、弘お兄さま、いついらしつたの」
それはどつちが先に見つけたのか、どつちがさう叫んだのかわからなかつた。
その日のうちにどうしても帰るといふのを、熊岡夫人が上手に引留めて、弘はずるずるべつたりに腰を落ちつけてしまつた。
浜に沿つた一と並びの人家が、夜になると早く明りを消してしまひ、散歩をすると云つても、村はづれはもう草深い小径が砂丘を縫つてゐるだけで、月のない晩は、足許さへ危いのである。
弘は、しかし、好んで夜の散歩に出た。誘つても誰も来ないことがある。梨枝子は、嶺太郎が行くと云はなければ決して起ち上らないし、菊子は梨枝子と一緒でなければ外へ出ないのである。さうすると、彼は、一旦波打際まで行つて引つ返して来る。家の裏手をそつと通り抜けて、座敷の様子を窺ひ、賑やかな声を聞いて苦い気持になり、そのまま、街道へ出て橋の袂まで下駄を鳴らして行く。
寝る時は、嶺太郎と同じ部屋に床を並べるのであるが、彼は何時までも寝つかれない。
二三日たつてのことである。
彼も海水着を買つた。泳ぎは嫌ひだと頑張つてみたが、それでは一向退屈なばかりで、得をするところがない。遊泳は中学の時分にちやんと四年続けて習つてゐるのだから、忘れてゐる気づかひはないと思つた。
ところが、梨枝子と菊子とが見てゐる前で嶺太郎が、颯爽と抜手を切るのをみて、彼もはじめは敵はぬと思つたが、つい、負けん気を出し、一つ変つたところをと、こつちはうろ覚えの背泳をやつてみせた。女たちは、好奇の眼を輝やかしつつ、盛んに拍手を送つて来る。案外楽に泳げるので、彼は得意であつた。と、急に呼吸が苦しくなり、慌ててからだを捻ぢ向けようとしたが、もう脚が利かなくなつてゐる。眼が見えなくなつて来た。そこへ、波の大きなうねりが、ぐいと腰をもち上げたはづみに、気が遠くなるのを感じた。
「大変よ……誰か来てえ……」
菊子の声に、梨枝子もやつとそれが戯談に溺れた真似をしてゐるのでないことがわかつた。
人々が駈けつけた。嶺太郎は沖にゐて、それを知らずにゐたが、漁師の舟が漕ぎつけてやつと救ひ上げた。意識はまだ失つてゐなかつた。しかし、疲労と恐怖のために、彼は口が利けなかつた。時々眼をあけては、またつむつた。空ろな眼であつた。梨枝子と菊子とは、おろおろしながら、彼の両脇から顔をのぞき込んでゐた。誰かが仁丹をのました。
「水を飲んでやしませんか」
髭を生やした会社員風の男が声をかけた。弘は首を振つた。そこで嶺太郎が駈けつけて来た。
「兄さん、駄目よ、早く来てくれなくつちや……」
菊子は、泣声で、兄の腕に縋つた。
さういふことがあつてから、弘は、海へはひることを断念した。それと同時に、この海岸で日を過すことに苦痛を感じ出した。彼はなるべく浜へは出ないやうにした。
「梨枝ちやん、あんまりここの家に永くゐちやわるいだらう。一緒に帰らないか?」
さう云ひ出してみたが、梨枝子は、平気な顔で、
「いやよ、まだ一週間にしきやならないわ。二週間の約束よ」
「それや、二週間でもいいけどさ……。よその家つてことを忘れちや困るよ。海でいい加減遊んだら、今度は僕が上高地へ連れてつてやらう」
「二人つきりで?」
「うん、いやかい?」
「いやぢやないけど……二人つきりぢやつまんないわ」
「誰が来ればいいんだい、それぢや……」
「菊子さんたちは?」
「菊子さん一人でいいかい?」
梨枝子は、黙つて、足のゆびをいぢつてゐた。
その日の午後、彼が縁側でレコードをかけてゐると、表から、梨枝子が、しよんぼりと帰つて来た。たつた一人である。タヲルのケープを肩にひつかけて、眼を泣きはらしてゐる。
「どうしたの?」
と、彼は訊ねた。そこへ、菊子がまた帰つて来た。これも、不断と違つた顔をしてゐる。いきなり彼女は梨枝子の肩に手をかけ、
「あんな風に云はなくつたつていいんだわ。兄さんは、すぐあれなのよ。ごめんなさい、あたしがあやまるわ。泣かないでさ、ねえ、そいぢやつまんないわ、あたし……」
「なに? 喧嘩したの?」
弘は、菊子の方へ問ひかけた。
「ううん、なんでもないのよ。ただ、梨枝子さんが勝手に深いところへ泳いでつたつて、兄さんが怒つたのよ。心配なんでせう。でも、その怒り方がひどいんですもの。たうとう梨枝子さんを泣かしちやつたの」
話声を聞きつけて、熊岡夫人が台所から出て来た。
「おや、二人で先へ帰つて来たの? 兄さんは……?」
「お母さん、あのね、兄さんにさう云つてよ、あたし、梨枝子さんにわるくつて……」
「なにがさ?」
「兄さんつてばね、威張つてしやうがないの。今日なんか、梨枝子さんが少し深いところへ行つたつて、いきなり、もう東京へ帰れなんて云ふの。本気で云ふのよ。そんなの、失礼ねえ。梨枝子さん、だから、泣いちやつたのよ」
すると、熊岡夫人は、大きく溜息をついて、
「さあね、どつちが悪いかしら……。まあ、ひとつ、兄さんが帰つたら、わけを訊いてみよう。梨枝子さん、あなた、泣き真似してるんでせう。さ、みんな、早く上つて、西瓜の冷えたのを召上れ」
弘は、その夕方、帰ると云ひ出した。みんなが一応反対したが、梨枝子だけは、知らん顔をしてゐた。彼は、これから上高地へ行くんだと云つた。みんなで、乗合の停車場まで送つて行つた。乗合は、白い埃を立てて田圃の中の街道を真つすぐに走つた。
梨枝子は、いつまでも嶺太郎と口を利かなかつた。嶺太郎は、彼女の方を時々横目で見ながら、煙草を吹かしてゐる。
寝床にはひつてから、梨枝子は、また悲しくなつて来た。日本人は怒るとき、どうしてあんなに怖い顔をするのだらうと思つた。西洋の若い男は、ああいふ時、あんな風に呶鳴るだらうか。いくら親切からとは云へ、お客に来てゐる娘を、弟子か家来のやうに扱ふ法があるだらうか? 平生はあんなに嗜みのいい青年が、どうしてあんなに礼儀を忘れるのだらう? ああいふのを率直とか、一本気とか、云ふのであらうか? それがつまり熱情家の証拠なのかしら? 幾分は叱られるのが面白くつて、わざとやつてゐたところもあるのに……と、自分の気持が、何処か純粋の日本人にはわからないのではないかとさへ思はれて来る。皮膚の色が違ふといふだけで、習慣も言葉も、何ひとつ違はないつもりなのに、やつぱり、気質のやうなものが特別に育つて行くのを、今やつと彼女は意識した。さうしてみると、自分は、父よりも母に似たのであらう。母の血を余計引いてゐるといふことは、自分の生命が、この日本の土地でよりも、欧羅巴の土地での方が、より強く、より美しく伸び得るといふことであらうか?
勿論、もつと漠然とではあるが、さういふ大人びた考へまでが頭の中へ渦を巻き、菊子の静かな寝顔を、何時になく嫉ましい思ひで、うち眺めてゐた。
さうしてゐるうちに、彼女の空想は際限なくひろがつて行つた。世界の何処かに、この自分を完全にうけいれてくれる場所があるやうな気がした。そこには、嶺太郎よりもつと立派な、もつと優しい青年がいつぱいゐて、そのうちの一人を自分が選べばいいのだ。それはなんといふ名の国であらう。その国ではどんな言葉が通じるかしら。初めは誰も顔を識らなくつて困りはしないだらうか。さうだ、舞台で踊りを踊つてゐればみんなが顔を覚えてくれ、名前も知れわたるに違ひない。そこでいよいよ好きな人ができたら、嶺太郎に手紙を書かう。その手紙を読む時、彼はどんな顔をするであらう? 今日みたいに怖い顔をして、一人で呶鳴ればいい。
ぐつと可笑しさがこみ上げて来て、彼女は首を縮めた。
それから幾日も経たないある日の朝、梨枝子に宛てて叔母の一枝から送つたコロンバンのチョコレートが、附箋をつけて帰つて来た。一枝は、では入れ違ひに帰つて来るのかと思つたが、同時に出たとしても、郵便物の方が先に着く筈はないと気づき、急いで菊子宛に電報を打つた。
返事がすぐに来た。
弘の行先は無論わからなかつたが、これでみると、梨枝子は三日も前に発つてゐるし、弘も房州海岸へ出掛けて行つて、一足先に発つたのだといふことが想像された。
どう調べやうもなかつた。一枝は、二重の不安でその日は一日食事が喉を通らないといふ始末であつたが、夕方、ひよつこり、熊岡嶺太郎がやつて来て、
「電報ぢやよく話がわからないと思つて、とにかく来てみたんですが、をかしいなあ、黙つてほかへ廻るなんて……」
「何処かへ行きたいなんて云つてませんでした? あの子……」
「いいえ、なんにもそんなことは聞いてませんよ。ただ、弘君は上高地へ行くつて、そん時はみんなでバスまで送つてつたんです。ただ、かういふことがあつたもんで、僕、ちよつと心配なんですが……」
と、嶺太郎は、例の泳ぎの練習で彼女を叱つて泣かせてしまつたことを、云ひにくさうに、しかし、笑ひながら話した後、
「だから、僕には怒つてましたよ。口もろくに利かなくなつちやつたし、海がつまらなくなつたことは事実でせうね。僕、だけど、そんなつもりぢやなかつたんですよ。をばさんにも大丈夫だつて引受けた手前、万一のことがあつたら、それこそ申訳がないと思つて……」
「それやさうですとも。……あたり前ですわ、そんなこと……。よく叱つて下すつたわ、ほんとに……」
「いやあ……叱り方がまづかつたことは認めますよ。ついどうも、一生懸命になるもんだから……」
「自分が悪いんだけど、でも、がつかりしたんでせう、叱られたのがあなただから……」
と、一枝は意味を籠めた目くばせをしたが、嶺太郎は、それに気がつかぬらしく、
「それにしても、どうしませう。僕、方々探して歩いてもいいんだけど……何処どこへ見当つけてつたらいいでせうね、上高地は別として……」
「さあ……お金だつて、そんなに持つてないのよ。遊ぶつもりで行つたなら、ぢき帰つて来るでせう」
「遊ぶつもりでないとすると、どんなつもりかしら……。いやだなあ、そんなこと考へるの」
「考へなくつたつていいわよ。あなたはまあ、責任を解除してあげるから、ゆつくり海でからだを鍛へてらつしやい。なに、あの子、あれでしつかりしてますよ。何時までもめそめそしてやしませんよ」
「ええ、だけど、あの様子ぢや、僕を恨んでるなあ。もつと早くあやまれやよかつた。だつて、をばさん、それまでは、がみがみ僕が呶鳴つたつて、平気で笑つてたんですよ。まだいい、まだいいつて、僕、思つたのが失敗さ。東京へ帰れつて云つたのが、こたへたんだなあ」
「それやこたへるわ。今のうちは、もつと優しくしてやつて頂戴よ。ああいふなんだから、甘へる相手が欲しいんぢやないの。あなた、好きなんでせう、あの娘?」
ずばりと、平気でそんなことを云ふ女を、この年頃の青年はどう思ふであらう。嶺太郎は、もうそんなことには驚かないのである。却つて与し易しといふやうに、調子を改めて、
「好きつて、どういふ風にです? まあ、しかし、そんなことは問題外でせう。菊子のお友達として、僕も可愛がつてあげてるつもりでした。だから、いいでせう? 僕、とにかく、ちよつと上高地まで行つて来ますよ。梨枝ちやんなら、すぐわからあ。弘君は、何処へ泊るんです? まさかキャンプぢやないでせう」
夕食を無理に取らせて、嶺太郎を送り出した一枝は、それでなんだか、ほつとした気持だつた。今夜は家にゐなければと、一方では自分を制しながら、電燈がつく時分になると、もう例の津留から電話がかかつて来はせぬか、それが気になつてぢつと落ちついてゐられないのである。それも、彼女の気持では、万一、そんな風に呼出しの電話でもかかつたら、凄い文句で撥ねつけてやらうといふのであつた。生娘の恋愛ぢやあるまいし、あんな男に二度と気まぐれを許すもんかといふ切ない矜りもあるにはあつたが、さうかと云つて、向うがあのまま黙つてゐるのでは、また、それ以上に自尊心が痛むのである。そこで彼女は久し振りに、それこそ何年ぶりかでピアノに向つた。譜をめくるのも物憂く、ただうろ覚えに、子守唄を一つ二つかき鳴らした。
その翌日、嶺太郎から、
といふ電報が届いた。
「君はいいよ、僕が心当りを探すから……」
弘は嶺太郎にさう云つて、宿を引上げる準備をした。
「手分けをしてなるべく早く処置をした方がいいだらう。君の指図通りに僕は動くよ」
嶺太郎は、やはり責任を感じるらしく、その足で何処へでも飛んで行かうといふ身構へをした。
二人は一緒に山を下りた。そして、ひと先づ井荻の家へ帰つて、警察の協力を求めるかどうかを母の一枝に相談しようといふことになつた。
勿論、それ以外に方法はなかつた。二三、知合の家へ電話をかけたりなどもしたが、無駄であつた。弘は、彼女の失踪の原因が、嶺太郎との喧嘩にあるとは信じられなかつた。直接の動機にはなつたかも知れぬが、もつと根本の理由がほかにあるやうに思はれてならなかつた。
「母さんにそれがわからないの? 不断の様子でわかりさうなもんだがなあ。それとも、なんか、母さんの云つたことで、梨枝ちやんを悲観させたやうなことない?」
彼は、むきになつて母を責め立てた。
「よしておくれよ、馬鹿なこと云ふのは……。あたしが、そんなことを云ふわけがないぢやないの。それや、ああいふ境遇の娘だから、むつかしいにはむつかしいけど、なにひとつ、こつちの意見を押しつけようとしたことはなしさ、家にゐる時は我儘放題にさせてあるのを、あんたも知つてるでせう。こないだも、踊りを習ひたいつていふから、それもよからうつて返事をしたくらゐよ。あれでなかなか空想家だからね」
「踊りを習つてどうするんだらう?」
弘は、腑に落ちないといふ顔をした。
「舞台に立つんだとさ。お父さんをびつくりさせるんだつて云つてるよ」
すると、嶺太郎が、そばから、
「ああ、そいつは、梨枝子さんらしい思ひつきだなあ。ステーヂ・ダンサーはいいよ、一番国際的で……」
「あの年ぢや、もう遅いだらう。母さんは、さういふ時、ちやんと云つて聴かせてやらないから駄目なんだ。無責任すぎるよ。ほんとに舞踊家として立つなら、五つぐらゐから始めなきや物にならないんだぜ。どうして、好い加減な返事したの、母さん……」
「だつて、それとこれとはなんにも関係ないでせう。こんどの家出とどんな関係があつて?」
「ないとは限らないさ」
「あら、いやだ、そん時、反対してたら、あんた、なんて云ふつもり? なんでも母さんのせゐにするのは、よしてよ。それより、今思ひ出したけど、お祖母さまの古いお友達で、ピッコロミリつていふ伊太利人の奥さんだつた女がゐるのよ。梨枝子もよくお祖母さまに連れられて遊びに行つたことがあるし、それに日本人だけど、羅馬で本式に踊りを習つて、バレエ団かなんかに加はつて世界中を廻つたとかつていふ話だから、ことによつたら、梨枝子がそこへ訪ねて行つてやしないかねえ。まさかとは思ふけど、一度、聞き合せてみようかしら……?」
「何処なの、家は?」
「待つとくれ……横浜のどこだつけ……名簿を調べてみなくつちや……」
やがて、それが横浜本牧三ノ谷だといふことがわかり、生憎電話はないが、夏の七八九、三ヶ月は軽井沢滞在として、その番地までちやんと名簿に出てゐた。さう云へばその別荘へも、二三年前のひと夏、梨枝子は祖母の下枝子と一緒に招待されて行つたことを一枝は覚えてゐた。
三人はしばらく顔を見合せてゐた。が、弘は、突然、
「よし、僕が行つて来よう。ピッコロミリ夫人ね……どういふ綴り?」
それを手帳に書きつけながら、
「未亡人なんだね。ピッコロミリ・ツネコか。何してるの、今?」
「さあ、なんにもしてないんでせう。旦那さんはもと領事だつたか、商務官だつたか……。なんでも、上海で結婚して、日本へ来ると、間もなく亡くなつたつていふ話……。だから、その人の遺産と、扶助料かなんかで、日本にゐながら外国で暮すやうな暮し方をしてるらしいね。あたしもちよいちよいこの家で会つたことあるよ。うちのお祖母さんをもう少し若くしたやうな、わりにさつぱりした女だよ」
カラ松の林に取囲まれた瑞西風の山荘が、軽井沢のゴルフ・リンクに近い斜面の中腹に建つてゐた。極く質素な見つきで、殊に、ところどころ修繕の跡が目立つその古び加減に至つては、ちよつと附近に類のないくらゐなものである。が、なんと云つても、その設計は西洋建築の本格的なセンスを外れてゐないことが、これまた特徴で、恐らく日本人の手になつたものではあるまいといふ判断は、誰にでもつくのである。
霧の霽れあがつた高原の野道を伝つて、今、この山荘の門をはひらうとしてゐるのは、女あるじ、ピッコロミリ・常子であつた。小柄でゆつたりとした肉附の、洋装の日本婆さんには珍らしく朗らかな感じの老婦人である。手にさげた籠には、秋草の数々が摘んであり、純白のスエタアが、朝の陽を吸つて冱え冱えとしてゐた。
この時、二階のヴェランダへ、奥の寝室からタヲルのパジャマのまま飛び出して来た少女が、手すりに腹這ひになつて片手を差出しながら、
「をばさま、おはやう……」
と叫んだ。
果して、梨枝子が、そこにゐたのである。
「お寝坊さん、おはやう……。おなかが空いたでせう。早く降りてらつしやい」
常子夫人は、無理にからだを反らして、二階を見上げた。
食堂には、朝の支度ができてゐる。味噌汁、トースト、山羊の乳、それから浅間葡萄のヂャミ。
支那人の女中兼コックが、お給仕をする。
「おみおつけ、おきらひか。ぢや、山羊のお乳をどつさり召上れ」
常子夫人は、味噌汁の中へパンをちぎつては入れいれして、スプンを器用に口へ運んだ。
「あのね、をばさま……あたしね、をばさまに嘘ついちやつたの」
と、上眼づかひに、梨枝子は夫人の顔を見ながら、突然かう云つた。
「嘘をついたつて……それやいけませんね。家へ黙つて出て来たの? さうでせう」
「…………」
梨枝子は、図星をさされて、ただうなづいてみせた。
「それに、一枝叔母さまからよろしくなんて、随分ね。どうりで、ちつと変だと思つた。あんたの荷物に海水着がはいつてるの、あたし見たよ」
そこで梨枝子は、一切を白状した。一切といつても、嶺太郎のことには触れず、ただ、何処にゐても面白くないし、将来のことでゆつくり相談もしたいし、をばさまならいろんなことがわかつて貰へると思つて、もう家へは帰らない覚悟でやつて来たのだと、年に似合はずませた口調で、すらすらと喋つた。
「だつて、一枝叔母さんは、別にあんたに辛くあたるわけぢやないんでせう? 可愛がつて下さるんでせう」
「ええ……でも、それや、違ふわよ、をばさま……。あたし、なんだか、怖いのよ。あたしには、それや、優しい顔をなさるわ。でも、パパとお話してらつしやる時のお顔みたら、あたし怖くなつちやつたの。それと……ほら、あたし混血児でせう、なんだか、それが、はつきりは云へないけれど、一枝叔母さま、おいやなんぢやないかと思ふわ……」
「そんなことないですよ。それや、あんたのひがみですよ。いくらか遠慮みたいなものはあるかも知れないけど、あのひと、そんなひとぢやないですよ」
さういふ言葉遣ひを夫人はわざとする癖があるので、梨枝子は、その調子がでると、もうなんだか取りつく島がないのである。
「ねえ、をばさま……家へ帰れつておつしやらないでね。後生だからここにしばらくおいて頂戴ね。あたし、おとなしくするわ。ご用もするわ。ねえ、いいでせう?」
急に、子供つぽくなつて、彼女は泣き出しさうな声をした。
夫人は、眼を大きく見ひらいて、しんみりとなるのを自分で紛らすやうに、
「へえ、そんなに家にゐるのがいやなの? ぢや、いつそ、あたしの子供にしちまはうか」
「ええ、いいわ」
と、梨枝子は椅子から飛び上つた。
「パパがいけないつておつしやつたら?」
すると、ちよつと首をかしげ、
「さうね、いけないつておつしやるかしら……。ぢや、いいことがあるわ。パパも独りでせう。をばさまもお独りでせう。だから、若しかしたら……」
「もしかしたら?」
「変だから、云はない」
「変でもなんでもいいから、云つてごらん」
夫人は、笑ひをこらへて、耳を澄ます恰好をした。が、梨枝子は、自分でふとその意味に気がついたやうに、耳朶を真つ赤にして、うつむいてしまつた。
「あなたつていふお嬢さんは、奇想天外なことを考へますね。ここにゐるのは、六十のお婆さんですよ。よく覚えといて頂戴……」
精がないといふやうに、溜息をついて、常子は起ち上つた。それから窓ぎはの籐椅子に長々と寝ころんで、ジャパン・タイムスを読みはじめた。
「パパは今、どこにいらつしやるんだつけ……。誰かから聞きましたよ。あのお家を一枝叔母さんがお買ひになつて、パパはまた旅へお出になるとかならないとか……」
「さうよ。いま支那よ」
「支那……へえ……支那ぢや、あなたを連れてらつしやるわけにいきませんね」
「どうして、をばさま?」
「学校がないでせう、まあ、ところにもよるけど……。どうせ、辺鄙なところでせう、古いものを掘り出したりなさるんぢや……」
表の門をはひつて来るものは、その窓からすぐにわかるやうになつてゐる。常子は、時々、新聞からテラスの前の薄の株に眼をうつす。琥珀色の穂が房々と伸びて、そのまはりを赤トンボが舞つてゐる。それから夫ルナアトの丹念に作つた花壇が、庭の隅に、今は荒れ果てて僅かに一二本の山百合だけが淋しく花をつけてゐるのに気がつく。夫は、昔、よく、濃い口髭のなかから彼女の名を呼んで、鈴蘭がまた一株芽を出したことなど知らせたものであつた。
想ひ出はそれからそれへ続く。と、門の柵が音を立てた。見ると、これも近所の別荘に住んでゐる萱野夫妻が、息子の安里と一緒に、テニスをやりに行く途中、例によつて声をかけに来たのである。
「どうです、今日は見物はなさいませんか?」
萱野夫人は、ラケットを振つてみせた。
「梨枝子さんは?」
と、息子の安里が訪ねた。これは二十そこそこの青年で、両親が純粋の日本人であるのに、どうしたわけか、白人の血を引いてゐることが明らかであつた。
梨枝子は、その声を聞きつけて、窓ぎはへ走り寄つた。
「あたし行つてもよくつて、をばさま?」
「ぢや、またお仲間入りをさせていただくのね。あたしは、ちよつと新聞を読んで、あとから行きます」
やがて、梨枝子は支度をして出て来た。
「行つて参りまあす」
「お待ちしててよ」
四人は肩をならべて門を出て行つた。
乾いた道が埃を捲き上げて、安里の軽い口笛が林の中へ消えて行つた。
新聞をひろげてはゐるが、常子の眼はもう活字を読んではゐなかつた。思ひがけない梨枝子の告白を聞いて、これはなんとかしなければならぬと考へてゐた。それにしても、ただ大胆なことをする娘だといふ風には思へない。親代りの祖母下枝子夫人の歿後、この少女を取り巻く一家の空気に、何か堪へ難いものがあるのではないかと想像した。
──若しも自分に子供があつたら……。
ふと、彼女は、夫が口癖のやうに子供を欲しがつてゐたことを思ひ出した。彼女は、しかし、子供を生まぬ決心を、どうしても翻さうとしなかつたのである。
「いいえ、あたしたちは、子供の将来について責任が負へないぢやありませんか。伊太利で暮すなら別ですけれど……」
すると、夫は、
「伊太利で暮すなら、子供はいらんよ」
と云つた。
さういふ話を、嘗つて下枝子ともしたことがある。従つて、梨枝子の運命は、そのまま、自分たちの子供の運命であるやうに感じられ、常子は、思はず太い溜息をついた。
が、気がつくと、梨枝子はもうあの連中とテニスに出掛けてしまつたのである。萱野といふのは仏蘭西雑貨並に葡萄酒の輸入商で、最初これも国際結婚をしたのだが、巴里生れの細君が子供を残して国へ帰つてしまひ、その後へ、今の細君が来たのである。息子の安里は、この母親をママと呼んだり、お絹さんと呼んだりするので、父の萱野氏は閉口してゐるらしい。とにかく、さういふ連中と一昨日から近づきになつて、梨枝子は、もうすつかり友達気取りであるのが、常子にしてみれば、いささか心配でないこともない。
で、新聞はひとまづ畳んで、様子を見に行くことにした。
「お昼は昨夜のチキンの残りをきざんで、マカロニのグラタンにしておくれ。それと、胡瓜のサラダかね。バタがもうなければ、帰りに買つて来よう」
時代ものらしい日傘を、悠々とひろげて、彼女はテラスを降りた。
その時、一人の青年が、柵の外から、
「ピッコロミリ夫人のお宅はこちらですか?」
「はあ……さやうです。あなたはどなたさま?」
「僕、阿久津弘つていふもんです。あの、郷田下枝子の孫にあたるんですが……」
「あら、まあ、さうでしたか。ぢや、おはいりになつて……さあ、さあ……」
庭に出てゐる椅子を薦めながら、彼女は、弘といふ名前を想ひ出さうとした。
「へえ、あなたが、そいぢや、一枝さんのご子息さん……おちいさい時分に一度、たしかお目にかかりましたよ。どうも、年を取ると忘れつぽくなつて……。さうさう、朝鮮の方へなんでしたね、京城大学ですか? もうご卒業でしたかしら……」
「いいえ、まだ一年あります。母からもよろしくつていふことでした。それから、早速ですが、うちの梨枝子がこちらへお邪魔に上つてやしませんか」
そこで、常子は、黙つて相手の顔を見つめた。隠す気は毛頭ないが、なんとかうまい返事のしかたはないかと、一瞬間、頭をひねつた挙句、
「梨枝子さん? ええ、ええ、来ておいでですとも……。一人でよくまあこんなところへ来られたつて、褒めてあげたんですよ。今の若い娘さんたちは、元気があるやうで、みんないざとなると駄目ですよ。自分でなんにもできやしない。そこへ行くと、梨枝ちやんは、なかなかえらいぢやありませんか。お家へは黙つて来たんですつて? それを今朝聞いたんですよ、あたしは。びつくりなすつたでせう、お家ぢや……。でも、大丈夫ですよ、あの調子なら……。もうしばらく自由に遊ばしといておやんなさいよ。ちよつと悪戯がしてみたかつたのね。茶目さん、しやうがない」
ひと息に喋りまくられて、弘は、あつけに取られた。
「で、今、ゐるんですか?」
「ゐますよ。そのへんでテニスでもしてるでせう。行つてごらんになる?」
「ちよつと此処へ呼んで来ていただけませんか?」
「連れて帰らうつておつしやるの?」
「話次第では、さうします。母の云ひつけですから……」
「お母さまには、まあ、あなたから、よろしく取りなしていただくとして、いいぢやありませんか、あたしに夏中預けてお置きなさいよ、折角来てるものを……」
「僕は、それや、かまひませんけど、母がなんて云ひますか。行先を暗ますなんて、どうも、みんなに迷惑がかかりますから……」
「おや、おや、あなたまで怒つてらつしやるの? そいつは困つた。では、ちよつと呼んで来ませう。まあ、そのへんで、涼んでらつしやい。喉がお渇きになつたら、女中におつしやつて、お冷でもお番茶でも召上れ」
三十分も経つたであらうか? 弘は、ピッコロミリ夫人が明らかに梨枝子の味方であることを見て取つた。このまま、だから、梨枝子を何処かへ逃がしでもしたらどうしようと、それが気になりだした。
と、だしぬけに、後ろから眼かくしをされたので、彼は、驚いた。優しい、が、張りのある女の指であつた。振りほどかうとしても、両臂と頭が自由にならない。恐ろしい粘り強さで、ぐんぐんのしかかつて来る力と彼は真剣に闘つた。が、しまひに、彼は馬鹿馬鹿しくなつた。といふよりも、寧ろ、それが梨枝子だとわかつた以上、ぢつとしてゐるのもわるくなかつたのである。
「降参つて云ひなさい」
「…………」
「云はないの」
「…………」
「ぢや、何時までも放さないわよ」
丁度いいからさうしてゐてくれと、彼は心で答へながら、両腕をぶらりと垂れたまま、頑固に口を噤んでゐた。
「なにしに来たの?」
彼女は、そのままの形で問ひかけた。
「君がゐるかどうか見に来たんだ」
「ゐたから、どうなの? それでいいんでせう」
「いいもわるいもないさ。僕たちは、ただ、心配しただけさ」
「さう。ぢや、ごめんなさいね。誰が一番心配した?」
「誰だと思ふ?」
「知らないわ」
さう云つたかと思ふと、急に、手を放して、くるりと正面に廻つた。
「いやだ、そんな怒つたやうな顔して……。菊子さんたちも心配してた」
「菊子さんはどうだか、僕、遭やしないよ。嶺太郎君と会つただけだよ。あいつは、心配して家へやつて来たよ。母さんが電報打つたんだ」
「弘兄さま、何処にいらしつたの、あれから……」
「何処だつていいよ」
「あたしがここにゐるつてこと、どうしてわかつた?」
「何処にゐたつてわかるよ、そんなこと」
「名探偵ね。叔母さま、なんて云つてらしつた?」
「そんなこと訊いてなんになるんだい? 僕と一緒に帰れよ」
「…………」
梨枝子は薄の穂を手繰り寄せて、頬を撫でさせてゐた。
それまでの様子を、ぢつとテラスの上から眺めてゐた常子は、思はず微笑を漏らした。若い従兄妹同士のこの会話には、すべての感情が閃いてゐたからである。
「ねえ、梨枝ちやん、とにかく一度家へ帰らうよ。それからあとで、また来るなら来てもいいぢやないか。梨枝ちやん、君は、元来、自由なんだぜ。だあれも君を束縛しやしないんだぜ。母さんもさう云つてるよ。したいことは、なんでもさせてあげるつて……。だから、ちやんとさう云つたらいいぢやないか? 僕だつて、君から相談をうけれや、君のためになるやうに計るつもりだよ。自分で勝手に絶望しちまつちやいけないよ」
夢中で、彼は、そこまで云つて、ふと、テラスの方へ顔を向けた。常子夫人と視線が合ひ、ひどく照れて、眼のやり場に困つた。それで、なんといふことなしに腰を浮かし、もう一度、梨枝子の方へ、強く促した。
「さあ、帰らう。いやかい?」
と、それにぶつけるやうに、彼女は、荒々しく叫んだ。
「いや!」
しかし、彼女は、そのあとで、静かに顔を伏せた。泣くまいと腕をよぢつてゐるのがわかつた。
常子夫人はこの時横から口を出した。
「ねえ、弘さん、そんなに心配なら、あなたもしばらくここにゐたらどう? 部屋はまだありますよ。お母さんにちよつと断つとけばいいでせう。そのうちにこの娘も飽きて来ますよ」
「あら、あたし、飽きないわ」
梨枝子の拗ねた顔を、弘は恐る恐る見ながら、その同意を求めるやうに押し黙つてゐた。
昼の食卓は、まだいくぶん白けた空気が残つてゐたが、夕食には、弘も梨枝子もあたり前に話したり笑つたりした。夜は二人で一緒に公会堂へ「映画の夕」を観に行つた。
そこで弘は例の萱野一家の人たちに紹介されたのだが、梨枝子がもうこの土地で遊び相手をこしらへ、こんなに馴れ馴れしく口を利き合つてゐるのを見ると、彼はまた憂鬱になるのである。殊に、安里といふ青年のスマートな風貌は、梨枝子と並べてみるのにこの上もなく応はしいものであることが、一層彼を絶望的にした。嶺太郎の場合は、如何にその逞しさを以てしても、まだ何処かに東洋風の豪傑肌がしみ込んで、梨枝子との間に十分の隙間が感じられた。ところが、こつちは同じ分量だけ白人の血を受けてゐるといふことだけでも、すべてに、例へば髪のちぢれ工合とか、洋服の着こなしとか、膝を組んだ脚先の恰好とか、戯談を云ひながら片眼をつぶつてみせる表情とかに、心にくいほどの近代味があり、近代味といふのは、弘に云はせれば、「西洋映画の味」なのであるが、さういふ点、梨枝子の好みにもしつくり合ふやうな気がするのである。
しかし、また一方で、弘は、この安里といふ青年の教養に疑ひをもつた。亜米利加式のガサガサしたところも眼についた。いくら仏蘭西語がわかるにしても、スクリーンの人物のつまらぬ洒落などに、足を踏み鳴らしてげらげら笑ふところなど、梨枝子だつて軽蔑しやすまいかと思つた。
別れしなに、明日はまたテニスに誘ふからと、安里が梨枝子に耳うちをするのを、弘はわざと聞えないふりをしてゐた。すると、常子夫人が、何を思つてか、
「テニスもいいけど、明日は、みんなでピクニックしませうよ。お弁当をもつて……」
「何処へ行くの!」
と、梨枝子はそれほどに乗り気でない。
「いいとこへ連れてつてあげます。鬼押出しつていふところ知らないでせう」
「僕知つてる」
安里が云つた。
「あなたは知つててもいいの。お客さまをご案内するんだから……。それより、あの近所で浅間葡萄がとれるんですよ。それから時間があつたら、養狐場を見て夕方帰つて来るの。いいでせう。道には、いま秋草がいつぱい咲いてるし……」
萱野夫人は、有名な養狐場といふのを一度見ておきたいと云つた。
「銀黒狐つていふのは巴里ぢやあんまり流行らないんですけど、いいのはやつぱりよろしいですね」
「あなたがなすつてらつしやるの、あれやなんでしたつけ?」
常子夫人は、毛皮の方はあんまり通でないとみえる。
「あたくしの持つてるの、あれ、青狐」
「さう、さう……あれ、なかなかいいです」
大人の女がさういふ話をしてゐる間、梨枝子は、安里と弘との間にはさまつて、両方へ等分の注意を払つてゐた。弘への気兼ねみたいなものをはじめて感じだしてゐたからである。
家の前まで来ると、
「ぢや、明日の朝八時ね、遅れちや駄目よ」
さう云ひながら、安里は梨枝子の方へ手を突出した。その手を自然に、軽く握つて、
「大丈夫よ、おやすみなさい」
と、彼女は、少女らしく科をつくつた。
乗合は満員だつた。軽井沢から沓掛の駅へ出ると、道はぐんぐん登りになる。浅間の麓を大きく迂回しながら、崖を切り開いた火山灰の道が、灌木と薄の生ひ茂つた高原の斜面を縫ひ、白樺、カラ松、くるみ、楢、櫨などの密林をかき分けて、はるかに雪の妙義山を見晴らせるところへ来ると、女車掌は、金切声で、名所案内の文句を小学生のやうに諳誦してみせる。乗客は鼻をふくらまして笑ひたいのを我慢してゐるのである。
が、梨枝子は、その女車掌にすつかり感心してゐた。説明のしかたにではなくて、かういふ仕事を勇敢にやつてのける覚悟にである。彼女は、この時はじめて、自分にもひとりで食べて行く道はあるなと考へた。
浅間登山口、峰の茶屋から道が分れて、噴火の都度焼石の降る六里ヶ原を抜けきると、浅間の中腹から西北へ流れる大熔岩の連続がすなはち「鬼押出し」で通る一風変つた展望である。巌窟ホールといふ休憩所の前で、一同は乗合を降りた。
「何処まで行けるか行つてみない?」
もう、梨枝子は、岩から岩へ飛びうつつて行つた。
「危いですよ、気をつけないと」
常子夫人は、あとからよちよちついて行つた。安里と弘とがそれを追ひ越して、梨枝子に負けないところをみせようとした。安里は大声で叫んだ。
「梨枝ちやん、あの一番高いところまで競走よ」
弘はすぐに息をきらした。それで諦めて、途中の岩へべつたり尻を落ちつけた。
「ハイ・ヒールぢや無理だわ」
梨枝子の澄んだ声が何処からか聞える。
「どら、手を貸してごらん」
それは安里であつた。
かうして、鬼押出しは弘にとつて退屈な場所となつた。彼は、老人たちの仲間からも離れ、たつた一人で嬬恋の平野を見おろしてゐると、自分のみすぼらしい姿をまざまざと意識した。どうしてかう梨枝子ばかりを追ひまはさなければならないのか? 永久にこつちを振り向いてくれない一女性を、何時まで胸に描いてゐたらいいのであらう。この少女には、まだ真実の価値、男の純粋な愛などといふものはわからないのだと思ふと、彼は、一方で反撥する気持が起ると同時に、一方ではへたへたと力が抜けてしまふのである。
が、そのうちに時間が経つて、浅間葡萄の採集がはじまつた。自動車道をそれて、一面に美しい苔の生えた石ころの原つぱへ出ると、ひねこびた松やゑんじゆの根もとに、緑の地を逼ふやうな枝ぶりの細かな葉が紫色の実をつつましくかくしてゐる。それが浅間葡萄である。
「あつた、あつた」
ここでは、みんなの力が平等に発揮された。弘もはじめのうちは、自分が真つ先に沢山あるところをみつけて、梨枝子にいちいちそれを教へてやつてゐたが、
「ふんだ、これつぱつち……。さつきのとこには、まだまだ取りきれないくらゐあつたわ」
などと云はれ、安里が自分では探さずに、梨枝子のしやがんでゐるそばへのこのこ出掛けて行つて、よく熟してゐるのを片つぱしから口へ入れてゐるのをみると、あの方がよつぽど気が利いてゐると思ひだした。
常子夫人は、手頃な木陰を見つけて、
「さあ、このへんでお弁当にしませうか。まあ、やはらかな苔だこと。新聞を敷くのがもつたいないやうね」
さう云ひ云ひ、袋からサンドウヰッチの包みと林檎をいくつか取り出した。
萱野一家は、めいめいの好みで、主人は沢庵と握り飯、細君は干葡萄入りのパン、安里は雛鶏の股肉にキャベツといふ風な取合せであつた。萱野氏は水筒に白葡萄酒を入れて来た。
「弘君、いつぱいどうです」
「いや、僕は……。うん、それぢや、少し下さい。酔ふかなあ」
といふやうなあんばいで、陽気な昼飯であつた。
「さあ、大変……弘兄さま、そら、真つ赤よ、もう……」
梨枝子はおどかしたが、弘はいい気持で、林檎を皮ごと齧つてしまひ、腹ができたところで、林の奥へ探険にでかけた。ただ人ツ気がないといふだけで、およそ不気味なものはなにひとつ感じない、明るく乾いた、冱え冱えと身にしむ空気、健康な緑の空気に満たされた文字通りの仙境である。
鶯の啼き声に誘はれて、方角も見定めず、枝をかき分けかき分けぐんぐん進んで行くうちに、深い崖のへりへ出た。すると、すぐそばに大きな木が一本、見事に枝を張つてゐて、それに藤とも違ふ、青い梅ほどの実をいつぱいつけた、名も知らない蔓草が梢の方へ伸びあがつてゐる。そして、一羽の瑠璃鳥が、細い枝の先にとまつて、その実をうまさうにつついてゐるのである。弘は眼を細めてうつとりとその光景に眺め入つた。この時、ポタリと、地面の上へ、鳥の啄を外れた実が一つ落ちたやうである。彼は、落葉のなかからやつとそれを拾ひ上げた。
「ああ、あれだ、ひらくちだ」
何時か、秋の白馬へ登つた時、案内の人夫が教へてくれた山の木の実である。なつめと無花果とをいつしよにしたやうな、ちよつと舌を刺す不思議な味のものだといふことを覚えてゐる。ためしに、指の間で押してみると、まだ少し固いが、細かな種を含んだ青い実がチューブの歯磨のやうに押し出されて来た。これに違ひない、舌の上へのせると、甘酸つぱい味が口ぢゆうへひろがつた。
──占めたツ!
彼は、精いつぱいの声で、
「みんな、早くウ……素敵なもの見つけたぞオ……」
実は梨枝子だけを呼びたかつたのである。
が、間もなく、
「どこ、どこ」
と云ひながら、駈けつけて来たのは、安里であつた。弘は黙つて、なんでもない方を見てゐた。
「なんだい、素敵なもんて……」
「梨枝子は?」
「こつち、こつち……」
安里は、後ろへ呼びかけた。
「いやだわ、先へ行つちやつて……」
梨枝子の顔をみると、弘はいきなり、上の方を指し示して、
「あれ、なんだか知つてるかい? あの実さ……。今まで瑠璃鳥が一生懸命で食べてたんだぜ。人間にだつて食へるんだよ。ひらくちつていふんだ。取らうか?」
「まだ青いぢやないの」
が、もうその時、弘は、靴を脱ぎすてて太い幹を我むしやらに攀ぢ登りはじめた。
安里は、それを戯談だと思つたらしく、アハハハハと腰をおとして笑ひこけた。梨枝子はこの珍らしい弘の行動を、あつけに取られて見てゐたが、だんだん心配になつて、
「いいのよ、そんなことしなくつて……。なんか、棒かなんかない?」
しかし、弘は夢中であつた。最初の枝に足を踏んばつて、手の届くところにあるひらくちの実を、ひと房づつちぎつて下へおとした。
「いいかい? 今度は大きいよ」
「ちよつと待つて……手がいつぱいだから……」
受け取つたのを安里に渡してゐるのが、上から見える。弘は、枝から枝へ跨いで渡る危つかしい芸当を、彼女がはらはらしながら打ち眺めてゐる、その緊張した顔へ、いくども、誇らしい微笑を投げかけた。
常子夫人は、この時、弁当をすまして、いつ何処ででもするやうに絵入りの小説本を読みだしてゐた。萱野氏は、あふむけに寝転つて昼寝をし、細君は毛糸の編物を取り出したからである。女同士は、それでも時々、顔を伏せたまま、他愛のない口を利き合つた。
「なんかしてないと気がすまないつていふのは、年を取つた証拠なんでせうね」
四十を越えたばかりの萱野夫人は、夫や息子の手前、なるだけお婆さんじみなければならぬと考へてゐるらしい。それでも、テニスなどに引張り出されると、颯爽としたところを見せるので、
「その、なにかのなかへ、テニスがはいつてゐるうちは大丈夫ですよ。あなたなんぞ、息子さんのお母さんと見る人はなし、旦那さまの方で若くなつて貰はなきやいけませんよ」
「それが、これですもの」
と、萱野夫人は、正体なく金歯の口をあけてゐる夫の顔を顎で指した。
「あらまあ、大きな鼾だこと……」
につともせずに、常子夫人は応へた。
「これで、安里にはお行儀をやかましく云ふんですからね。それも、日本式で、をかしいんですよ」
「おや、日本式つて、どういふの? あなたのとこは、みなさん巴里仕込みぢやありませんか」
「とまあ、見せかけてゐるだけですよ。主人は他処行きと不断とを、はつきりさせるんですよ。日本人に向つては日本式でやれ、これがプリンシプルなんです」
「それぢや、安里さんも、なかなかね」
こんなことを、ぽつりぽつりと、両方で云ひ合つて、またしばらく黙り込んだ。が、また、だしぬけに、
「梨枝子さんていふお嬢さんは、無邪気なやうで、どうして、しつかりしていらつしやるのね。あたし、感心した」
萱野夫人は、もう、独言である。相手は、だから、返事をしない。かと思ふと、
「可哀さうな娘ですよ……。お祖母さんの生きてる頃は、可愛がられたもんだけど……」
しばらくたつて、思ひ出したやうに、常子夫人は呟く。今度は、また、なんの反響もない。
と、その時、突然林の向うで、梨枝子のはしやぐ声が聞えた。
──もつと左よ、……そつちぢやないつたら……左、左……そら、その枝のずつと先……。危いわよ……手をはなしちや……。いいから、まつすぐ放つて……。そつと落せばいいのよ……ほうら、うまいもんでせう。
常子夫人は、書物からちよつと眼をはなして、「なにをしてるんだらう」といふやうな顔をした。が、それつきりまた、先を読み続ける。
──そんなに上へあがれる? えらい、えらい……。もうちよつと上……。届く? ああ、もうちよつと……。いや、いや、そんな細い枝へ乗つちや……。そら、そら、折れるわよ……。ひとりで食べちやずるいわ……。もう降りたら? これでたくさんだわ……。よう、降りてつたら……そんな乱暴すると、云ひつけるわよ……をばさまあ……。
と、その声のけたたましさに、常子夫人は、はつとして、あたりを見廻した。
──をばさまあ……弘兄さまが云ふことを聴きません……木の高いところへずんずん上つてくんですよ……細い細い枝の上で居眠りの真似なんかするのよ……。あらツ、駄目よ、駄目よ……後生だから……降りて……。
続いて、安里の声が、一段強く響いた。
──おうい、弘君……馬鹿なことをするなよ。
が、そのすぐ後で、萱野夫人が編棒の手をやめたのと、常子夫人が書物を投げ出したのと、それから、梨枝子の「あツ」といふ絶え入るやうな叫びとが殆んど同時であつた。
──パパア……大変だ……。
安里が宙を飛んで来た。
やがて、十月も終りに近い頃であつた。
弘の葬式をすましてこのかた、一枝はいよいよ自分ひとりがこの世に取り残されたやうな寂寞を感じ、早くこの家を引払つて、市内の賑やかなところへ住居をきめたいと思つてゐた。
梨枝子は見違へるほど大人になつた。父が帰つて来るまで、決して叔母の云ひつけにそむかぬといふ約束もした。しかし、これは約束といふよりも、ピッコロミリ夫人が彼女を叔母の前に連れて行つた時、お詫びの意味でさういふ条件がもちだされたのであつた。が、ともかく、彼女は、一枝に対して痛々しいほど神妙であつた。弘の話が出ると、なんでもないことにでも、すぐ涙ぐんだ。
ピッコロミリ夫人は、時々横浜からやつて来た。そして、梨枝子をそばにおいて、一枝とこんな話をする。
「踊りは諦めた方がいいですね。第一、日本ぢやいい先生がありませんもの。踊りなんていふものは、日本で通用するだけぢや駄目ですからね。物珍らしいとすぐに騒がれますけど、あとが惨めでせう。やつぱり小さい時からさういふ雰囲気のなかにゐなくつちや、物になりませんよ。あたしなんか、まあ、日本の女つていふんで、あつちぢや変り種で通つたんですけれど、大きな顔はできませんでしたから、正直な話……。ルナアトが好い時に救つてくれたんですよ」
救ふといふ言葉が可笑しいので、一枝は笑ひながら、
「梨枝子も、誰かちやんとした人に救はれるといいんですわ。ねえ、梨枝ちやん」
「え?」
と、梨枝子は、何かほかのことを考へてゐる。
「それより、梨枝ちやんは学問をする気ないかしら? 学者になるのよ、パパみたいに……。なんでもいいわ、好きなものをひとつこさへてさ、植物学なんていふのも面白さうぢやないの。むろん、考古学だつていいけど……」
常子夫人の話に、一枝は眼を光らした。
「でも、学問をするのにはお金がかかりますからね。パパ一代でたくさんでせう」
「お金のあんまりかからない学問だつて、ありさうなもんね。さういふ方面はあたしぢやわからないけれど、パパがお帰りになつたら、ひとつご相談してみるといいわ」
父の廉介は、さう云へば、秋には帰るといふ話であつたが、その後支那からはなんの便りもなかつた。
ところがそんな話をしてから一週間目に、ひよつこり、前ぶれもなく父が帰つて来た。弘の訃報を受け取つて、ふつと舞ひ戻る気になつたといふのである。
「お前も淋しからうと思つてね。このおれぢやあんまり頼りにもなるまいが……」
彼は、一枝に向つて、そんなことを云つた。弘の奇禍について細々とした話が繰りひろげられた。彼は、髭のなかへ固く口を結んだまま眉ひとつ動かさず聴いてゐた。が、突然、
「さういふと、まるで梨枝子の責任みたいぢやないか」
と、吐き出すやうに云つた。
一枝はさつと顔色を変へて、
「あら、何時あたしがそんなことを云ひました? ただ、さういふ風にして遊んでゐた時つて云つただけぢやありませんか。すぐ変におとりになるから、兄さまは……」
かうして、最初の日に、久々で会つた兄妹はもう気まづい思ひでめいめいの部屋へ引きとらねばならなかつた。
梨枝子は父の部屋へついて行き、鞄を開ける手伝ひをした。お土産だと云つて出された支那の人形を膝に抱いて、しばらくその顔を眺めてゐたが、急に気味が悪くなつて、そつと後ろの卓子へそれをおいた。
「もつと可愛らしいお人形だと思つたわ。これは大人のお人形よ。でもいいわ。大人になるまでしまつとくから……」
彼女がさう云ふので、父は、困つたやうな顔をして、
「さうか。お前はもう大人かと思つてたんだよ。ごめん、ごめん。それぢや、これをあげよう、なんだか知つてるかい?」
それは見覚えのある品物だつた。写真を嵌め込むメダルのついた鎖の頸飾である。
「ママのでせう。ああ、さうだわ」
写真は母のアメリイに違ひなかつた。
「これ、いただいていい?」
彼女は早速、それを頸にかけた。
「ねえ、パパ……」
と、彼女は急に甘へた調子になり、
「これからもう、一人でよそへ行つちやいやよ。あたしいろんなご相談があるのに、パパはいつもお留守なんですもの。つまらないわ」
「どんな相談があるんだい。云つてごらん」
父は起ち上つて、パイプを口に銜へた。
「でも、それは今日でなくつてもいいのよ。パパはずつとこの家にいらつしやるの? あたしたち、どつかへ行くんぢやない? 叔母さまも、市内へ引越したいつて云つてらつしやるわ」
「動くのは面倒臭いよ。旅は別だけどね。お前も学校を出たら、パパが一緒に何処へでも連れてつてあげるよ。それまではおとなしくしといで」
あくる日から、廉介は、仕事部屋に閉ぢ籠つて、滅多に梨枝子とも口を利かなくなつた。時々郵便局へ手紙や小包を出しに行くくらゐで食事も自分の部屋へ運ばせることが多かつた。
梨枝子は、父の姿をみつけると、そばへ走り寄るやうにするのだが、そのたびに、
「さ、パパは忙しんだから、あとでね。そら、こんなにいい天気なんだから、お友達のところへでも行つて遊んで来なさい」
が、そのお友達も、熊岡兄弟がぷつつり遊びに来なくなり、ほかに往来をしてゐる友達といつては近所にないのである。ただ、遊びに行きたいと云へば、安里のところであつた。家は神奈川といふことだけ聞いてゐる。向うから遊びに来る筈になつてゐるのに、あれからなんとも音沙汰がないのはどうしたわけか。ピッコロミリのをばさんに訊いてみようと思つてゐながら、いざとなるとつい恥しい気がして云ひ出せないのである。かういふ時、安里に妹があればいいのにと思ふ。せめて詳しい番地を聞いておいたら、手紙でもなんでも出せたであらう。
ある晩、梨枝子は叔母と父とがまたなにやら云ひ争つてゐるのをみた。そして、そのすぐ後で、父が帽子もかぶらずに外へ出て行かうとするのを、
「パパ、どこへいらつしやるの?」
と云つて、その手にしがみついた。
すると、叔母の一枝が、後ろから、
「梨枝ちやん、パパはね、叔母さんのことを吝嗇坊だつておつしやるのよ。あたし、そんなに吝嗇坊かしら?」
「おい、さういふ云ひ方はやめてくれ。梨枝子にはほんとのことを云ひ聞かしてやつて貰ひたいんだ。ねえ、梨枝子、それぢや、パパから云ふがね……さうだ、寒くないかい? それぢや、一緒に散歩をしながら話をしよう」
そこで、二人は、玄関から夜霧のおりた萩の植込みの間を縫つて、裏木戸へ出た。そこは嘗つて、廉介が弘と並んで、やはり家事上の話をしながら散歩をした道であつた。
「梨枝子、お前は、あの叔母さんをどう思ふ。パパと云ひ合ひばかりしてゐるから、いけない叔母さんだと思ふだらうが、ほんたうはさうぢやないんだよ。今迄、お前にはなんにも知らさずにゐたが、パパはもうお金がなくなつたんだ。お前と二人で食べて行くお金もないくらゐだ。あの家も、とつくにパパの家ぢやなくなつてゐるんだよ。叔母さんの家なんだ。お前は、だから、今迄だつて叔母さんの世話になつてゐたのさ。パパは働いてお金を儲けたいと思ふが、日本にゐてはさういふわけに行かんから、また伊太利へでかけるつもりだ。そこで、お前を連れて行くかどうか? 実は、さつきから、叔母さんと相談してるんだが、その相談がうまく纏らないんだ」
ぢつと耳をすまして、父の言葉を聴き漏すまいとしてゐる梨枝子の表情は、父の眼にも頼母しく映つた。
「それで、パパは、どうしようとお思ひになるの?」
「パパかい? パパは実は、もうしばらく一人でゐたいんだ。仕事の都合もあるし、向うへ行つて、すぐ楽な暮しができるかどうかわからないからね。お前を学校へ入れることもできないやうぢや困るからな」
すると、梨枝子は、父の顔をのぞき込むやうに前の方へからだを屈め、
「いやだわ、パパは、あたしが働けるつてことごぞんじ? なんだつてできるわ、一人で食べて行ければいいんでせう……」
「ほほう」
と、父は驚いてみせ、
「なんだつてできる? どんなこと、例へば? 云つてごらん」
「バスの車掌だつてなんだつて……」
「羅馬でかい? そんなことまでする必要はないさ。それはまあいいとして、パパは当分、お前を叔母さんに預けといて、学校でも出たら呼び寄せるつもりでゐたんだ。ところが、叔母さんは、反対なんだ」
「一緒に行つた方がいいつておつしやるんでせう。それやあたりまへよ」
「いや、ところがだよ。お前を連れて行くなら、それだけお金を余計出して貰はんけれや困るつて云つたんだ」
「パパが叔母さまにそんなことおつしやつたの?」
「ああ、だつて、叔母さんはお金持だもの」
二人は、何時の間にか、雑木林の中を抜けて、水田へ降りる斜面の中腹へ来てゐた。狭い谷を渡つて来る風が冷え冷えと肌にしみた。梨枝子は薄いスエタアの臂を抱へるやうにすぼめて、黒い森の上にかかつた上弦の月を、物珍らしさうに眺め入つた。
──あの叔母さんが、どうしてそんなお金持なんだらう。
さういふ疑問を起してみたが、勿論、どうしてだかわかる筈もなく、父の云ひ分に不自然なものを感じながら、それも、はつきりさうとは断じかねてゐた。
「それで、どうなのよ。叔母さまは、お金をそんなに出して下さらないつておつしやるの?」
「まあ、さうだ。だから、叔母さんが無理なんだよ。吝嗇坊つていふのは云ひ過ぎかも知れないが、それくらゐのことはしていい筈なんだ。お前から頼んでみても駄目かなあ、パパは、もう、これ以上、叔母さんに頭をさげるのはいやだ」
さう云ひ放つた拍子に、父は廻れ右をした。彼女も慌てて踵を返した。叔母の一枝は、寝室へはひつたきり、その夜、姿をみせなかつた。
それから二三日たつて、父が珍しく東京へ出た留守に、ピッコロミリ夫人が萱野夫人と息子の安里を連れて、訪ねて来た。
「どうです……立派なシャトオでせう。あのお庭の松の木みてごらんなさい」
ピッコロミリ夫人は、同伴の二人に自慢をしてゐる。
梨枝子は、早速、安里をテニス・コートへ引つ張つて行つた。
「あたし、もうぢき伊太利へ行くかも知れないのよ。パパが連れてつて下さるんですつて、若しかしたら……」
「伊太利? どうして仏蘭西へ行かないの? 君のママ、パリジェンヌでせう?」
「あら、伊太利だつていいぢやないの。西洋は西洋よ。巴里より羅馬の方が古い都なのよ」
「古いばかりぢや、駄目だよ。僕も近いうち巴里へ行くんだ。僕と一緒に行かない?」
安里は、さう云ひながら、ネットを夾んで梨枝子の肩へ手をかけた。
梨枝子は、羞むやうな瞬きをしながら、そつと安里を見上げた。
安里の眼が何を語つてゐるか、彼女にはすぐにわかつた。どういふ風に応へたらいいのか? と、もう、彼の唇が迫つて来た。別におそろしくはなかつた。ただぽつと眼がくらむやうな気がした。が、その瞬間、彼女は、ぐいと顔をひいて、するりと彼の腕から脱け出した。そして、笑ひこけるやうな恰好で、ラケットを投げ出すと一緒に、無我夢中で駈け出した。安里は、これも笑ひながら、その後を追つた。木戸を抜けて裏の小径を出ると、梨枝子は、不意に雑木林の中へ姿を消した。獲物を追ふ犬のやうに、安里は、方向を見定めて、まつしぐらに草叢の中へ飛び込んだ。
「あ、痛たツ」
茨が膝へからみついたのである。
「やあい」
幹をすかすと、すぐ眼の前に、梨枝子が手を叩いてはやしてゐる。
二人は、さうして、一つ時、林の中を走り廻つた。
「ああ、くたびれた。タンマよ」
ぐつたりと枯草の上に足を投げ出した彼女は、額に垂れ下つた髪の毛を無雑作に撫であげて、大きく肩で息をしてゐた。
安里も、そのそばへ腰をおろしたが、彼はわざと怒つたやうな顔をしてゐた。
しばらくして、彼はやつとかう云つた。
「どうして逃げるの? 戯談だと思つてるの? それぢや、つまらないなあ」
ちつとも戯談だとは思つてゐない。逃げたのは、ただ、あそこでは誰かが見てゐるかもしれないと思つたからだ。それがわからないのかしら? だから、今なら、かうしてぢつとしてゐるではないか! さう云ひたかつたが、それは云へなかつた。黙つて、両手を後ろについて靴の先で野薊の蕾を撫でてゐた。
すると、安里は、急に彼女の方へからだをずらして来て、
「僕たちは愛し合つてゐるんだらう、心の中で……。二人とも、それをどうして黙つてなけれやならないの? 君にはじめて会つた時、僕はもう決心したんだ。誰がなんて云つても、梨枝ちやんは僕のもんだ、さう思つたのさ。だから、僕は、毎日が楽しみだつたのよ。君もさうでせう、ほんとのこと云ふと……。僕たちが、さういふ風に仲よしになるわけは、二人にだけはわかつてるんだ。ね、さうでせう? だつて、二人ともおんなじ境遇だしさ……」
「わかつてるわよ」
と、この時、梨枝子は、自分の方から、安里の首にぎゆつと抱きついた。そして、二人のからだは、そのまま後ろへ倒れ、近づき合つた顔と顔とが、深い草の葉の中に埋まつた……。
やがて、彼女は、不意に起き上らうとした。
「ぢつとしといでよ」
安里は、命令するやうに云つた。
「そんなことするなら、いや……」
彼女は、彼の手をはらひのけた。
「梨枝ちやん……リエット……お嫁さんがそんなこと云ふもんぢやないよ」
「あら、まだお嫁さんぢやなくつてよ」
「そいぢや、いつお嫁さんになる?」
「パパに訊いてみなけやわかんないわ」
「パパつて、君のパパは、いつでも家にゐやしないぢやないか」
「晩に帰つて来たら、そのこと話してみるわ。でも、あなたのママから叔母さまに話して下さるといいんだけどなあ」
「若し、パパがいけないつて云つたら?」
「いけないつていふかしら……」
梨枝子は首をかしげた。
「だから、そん時にさ、もうかういふ風になつてしまつたつて云へば、パパだつて、反対はできないよ。ね、僕たちは、自分で自分の運命を切り開いて行かなきやならないんだぜ。世界中に、ほんたうの親つていふのはゐないんだからね。故郷のない人間同士は、もつと信じ合はなくつちや……」
さう云ひながら、安里は、なほも彼女のからだを引き寄せて、眼と云はず、頸と云はず、唇を押しあてた。
彼女は彼の動作がだんだん荒々しくなるのを感じ、からだを硬ばらせてぢつと眼をつぶつてゐたが、たうとう、我慢ができなくなつた。それは、一瞬に蘇つた純潔さの身ぶるひのやうなものであつた。力まかせに相手を突きのけると、裾の乱れを気にもとめず、片腕で顔を押しかくすやうにして、その場を逃れようとした。が、その一方の手を素早くつかんだ彼は、
「どうして? え、どうして? ぢや、もう、仲よしぢやないんだね。僕はこのまま帰つてもいいんだね。あとで泣いたつて知らないよ」
「はなして……よう……はなしてつたら」
「はなしたら、行つちやうぢやないの」
「ええ、だから、あつちへ行くのよ。さあ、行きませうよ」
今度は、彼を引つ張るやうに、ぐいと力を入れたが、相手は腰をあげなかつた。
「いや……行くなら、一人で行き給へ。その代り、僕とはこれつきり会へないつもりでゐるといいや」
彼女の手が、ぶらりと下に垂れた。と、同時に、彼女は、唇を噛んでくるりと彼の方に背を向けた。そして、ゆるゆると歩き出した。はじめは足を引きずるやうに、が、だんだんに歩を早めて、林を抜けきると、一目散に家の方に向つて走つた。庭に面したテラスでは、まだ叔母たちが卓子を囲んで話をしてゐた。
「安里はどうしました?」
萱野夫人が梨枝子一人の姿をみつけると、かう訊ねた。
「あのね、安里さん、近いうちにフランスへいらつしやるつて、ほんと、をばさま?」
それがあんまりだしぬけなので、みんなが顔を見合はせた。
「今もそのお話をしてたんだけど、まだきまつたわけぢやないの。どうして? あなたも、いらつしやりたい?」
「ううん、さういふわけぢやないけど……ほんとかしらと思つて……」
彼女は、ふと、みんなの視線が自分に集つてゐるのに気がつくと、急に、顔を伏せた。そして、そのまま、家の中へはひつた。
階段を駈け上る音がした。やがて、二階の扉が、バタリと音をたてた。
テラスでは、三人とも、しばらく黙り込んでゐた。が、ピッコロミリ夫人が、やつと、口を切つた。
「なにかありましたね、あの様子ぢや……」
一枝の眼が鋭く光つた。と云つても、それはほんの瞬間で、すぐになに気ない笑顔になり、
「さつきのお話ですけどね、あたくしは、別に異議ございませんわ。兄がなんて申しますか……多分、これも、賛成するだらうと存じますけど……」
「では、ともかくお考へあそばして……。安里もまだやつと二十二やそこらですし、そんなに急ぎはいたしませんのですけれど……。まあかういふご縁はめつたにないと存じまして」
「ほんとですよ」
ピッコロミリ夫人が、大きくうなづいた。
みんなが帰るといふので、一枝は梨枝子を呼びにやつたが、どうしても降りて来ようとしないのである。
「安里、お前さん、なんか失礼なことでも云つたんぢやないの」
萱野夫人は、途方に暮れて、息子の方を振り返つた。
「僕、なんにも云やしないよ。訊いてごらんよ」
彼は、にやにや笑つてゐる。一枝は、さういふ彼の顔つきに、なにか不快なものを感じて、興ざめな気持になり、
「ぢや、まあ、今日は赦していただくとして、いづれあらためて……」
と、云ひながら、先へ立つて、一同を門の方へ送つて出た。
引つ返して梨枝子の部屋をのぞくと、彼女は、寝台の上にうつ伏して泣いてゐるやうであつた。
「まあ、どうしたのさ」
思はず口へ出してさう云ひはしたが、いきなりがみがみ云ふのもと思ひ、そつと肩へ手をかけると、優しく、
「梨枝ちやん……どうして、さよならを云ひに来ないのさ。みなさん変にお思ひになるわよ。安里さんと、なんか云ひ合ひでもしたの?」
彼女は、ただ首を振つてゐる。
「ぢや、恥づかしいことでもあつたの? ちやんと云つてごらんなさい」
返事がないので、一枝は、そこにある椅子に腰をおろした。
「もう、あんたも子供ぢやないんだから、あんまり体裁のわるい真似しないで頂戴よ。あたしが困るからね」
その晩、父の廉介は遅くなつて帰つて来た。
その跫音が廊下の奥に消えるのを、うつらうつら聴きながら、梨枝子は安里のことをまだ考へてゐるのである。──こんなに、好きで好きでたまらないのに、どうして、あの人を怒らしてしまつたのだらう。……ほんとに、これつきり会へないかしら? 若し今度会つたら、会ふことができたら……あの人の云ふとほりになつてゐよう……。さう思ふと、すつかり安心してしまつた。甘い悲しみで心が洗はれたやうに、彼女はすやすやと眠りについた。
翌朝、食卓で、ピッコロミリ夫人の話が出た。一枝は婉曲に、萱野一家のことを説明し、その息子の安里がどうやら梨枝子に眼をつけてゐるらしいと、笑ひながら附け足した。
廉介は、ちよつとどぎまぎして、娘の方へ露骨な視線を投げたが、梨枝子は、一向平気な顔をしてゐた。
「おい、よせよ、こいつの前でそんな話をするのは……」
さう云ふ父を、梨枝子は、心の中でをかしく思ふほどであつた。すると、叔母は叔母で、
「あら、かまはないぢやありませんか。どうせさういふ問題が起るんですもの。晩かれ早かれ、耳に入れといた方がいいんですよ。ねえ、梨枝ちやん、あんたはどうなの、あの安里つていふ人、好きなの? 嫌ひなの?」
「馬鹿だなあ、それとこれとは話が違ふよ」
廉介は、なぜか、横を向いて取り合はうとしない。
「どうして? あなたがそんなことおつしやつちや、駄目ぢやないの。実は、昨日、正式にその話があつたんですよ、お母さんから……。ですから、あたしの意見は、あとで云ふとして、先づ、梨枝ちやんの気持を訊いてみようぢやありませんか。もう、なんでもわかる年なんだから……」
すると、廉介は、急に、おどけた調子で、
「わかるかい?」
と、娘の方を振り返つて、妙に照れた表情をした。
梨枝子は、叔母の顔をぢつと見てゐた。全体の空気から、この叔母の意見が、相当重大な役割をするといふことに気づいたからである。
「わかりますとも……。さあ、はつきり云へるでせう、あんた……好きか嫌ひか」
「云へるわ」
と、そこで、梨枝子は、小声で云つた。そしていきなり、からだを卓子の上へ横倒しにして、父の方へ甘へた眼付をしてみせた。
「うむ」
と廉介は、唸つて、しばらく天井を見上げてゐたが、
「どんな青年だい、その安里つていふのは?」
「まだ二十そこそこの坊つちやんですよ」
叔母が応へるのを、
「二十二よ。日本風に云へば二十四ですつて……」
と、梨枝子は訂正した。
「学校は?」
「どこだつけ?」
一枝は、それを訊き忘れてゐた。
「横浜の中学を出て、あとはお父さまのお店を手伝つてらつしやるんですつて……。でも、フランス語はとてもうまいのよ」
「ぢや、まあ、あんたの気持はわかつたから、あとは、叔母さんたちに委してお置きなさい。さ、もういいわ、お部屋へ行つて勉強してらつしやい」
梨枝子を追ひやつて、二人はいろいろ相談をしたが、一枝は、安里の印象があまりよくなかつたといふ一点で、この縁談に反対の意向を漏らしはじめた。
「お前がそれだけ考へてゐてくれるなら、おれはなんにも云ふことはないよ。しかし、梨枝子のやつ、それで納まるかえ。どうも驚いたよ。すつかり参つてやがる」
廉介は、吐き出すやうに云ひすてて座を起つた。
「だから、油断はできないつて云つてるんです。早熟なのね」
「早熟だかなんだか知らんが、娘のああいふところを見せられるのはいやだな。こつちが惨めになる。それだけでも相手の男に反感が起るよ。こいつもどうかしてるが……」
そんなことをぶつぶつ云ひながら、廉介は、二階にあがらうとした。と、その時、玄関わきの電話が鳴つたので、受話機を外すと、男の声で、
「もし、もし……阿久津さんですか? 奥さんはご在宅でせうか?」
それだけを聞いて、彼は奥へ呼びかけた。
「おい、一枝、電話……」
「どつから?」
と云ひながら、彼女は小走りに出て来た。廉介は、何気なく後ろへ聴き耳を立てながら階段をのぼつた。
「もし、もし、ああ、さう……わかりましたわ。あれからどうなすつたの……ええ、ええ、忘れちまひましたとも……うそですよ。……兄が帰つて来たもんですから……。そんなこと、駄目よ、駄目、駄目、お蔭で、さつぱりしましたわ。もう、どうもないやうですわ。では、ごきげんやう……。おやすみなさいませ」
それつきり、家の中はひつそりと静まり返つた。
廉介も、梨枝子も、一枝も、その晩は、めいめいの部屋で、いつまでも眠つかれなかつた。
二三日立つて、梨枝子は父の部屋へ呼ばれた。
「ねえ、リエット……。まあそこへ掛けなさい。パパはよく識らないんだが、お前の好きな安里つていふ青年は、叔母さんの話ぢや、どうも感心せんらしいぜ。どこをどういう風にいかんといふのか、叔母さんの云ふことははつきりはしないが、さういふことは、案外間違はんもんだ。お嫁に行くつていふのは、女にとつて一番大事なことだから、さういふ心配のあるところへは、パパだつてお前をやりたくない。さう思つて、実は、ピッコロミリさんのところへ、昨日、行つて来たんだ。あの人にはあの人の考へ方もあつて、まあ、あれくらゐならといふんだけれど、パパがとにかく一度会つてみることにして来た。この次の日曜、ピッコロミリさんのところへお茶に招ばれる筈だから、お前も一緒に行きなさい」
梨枝子は、眼をみはつて大きくうなづいたが、叔母が安里をなぜ悪く思ふのか、そのわけが知りたかつた。なにかしらぴんと胸にこたへるやうな気がしないでもない。叔母の眼が何事でも見抜く力をもつてゐるやうに思はれて、少し気味がわるいくらゐだ。
と、その週の土曜日のことであつた。朝食後、廉介は一枝に向つていつものやうに小遣を請求した。近頃では、それが当り前のことのやうになつてゐるのである。
「おい、五十円ばかり欲しいんだが……」
それを、黙つて出すかはりに、一枝は、その日に限つて、
「さあ、今、あるかしら……。そんなになくつてよ」
と云つて、新聞から眼をあげようともしない。
「なけれや、出して来たらいいぢやないか、小切手でもいいよ」
その返事がまた少し遅れたので、廉介は癇癪をおこした。
「いちいち、いやな思ひをさせるなよ。ちつとは気を利かして、そつちから紙入ぐらゐ調べたらどうだ」
一枝が、それを聞いて、皮肉な微笑をうかべると、廉介は突然、呶鳴つた。
「お前はこのおれを侮辱する気だな。研究のために財産を費ひ果した兄貴が、それほど軽蔑に値する兄貴か? 夫の遺産で贅沢のできる身分が、そんなにえらい身分か? おれの研究は、元来なら、国家が補助して然るべき研究だ」
近頃は、二た言目にはそんなことを云ひだす兄の気持も察しられないことはない。伊太利の研究所からは、外国人の所員を新しく入れる場合に、研究費以外、つまり、生活費までは負担しないといふ返事が最近来たばかりである。当てにしてゐた伊太利行がそれで駄目になつたわけであるから、彼は、急にあせり出した。一枝にしてみれば、いくらさういふ境遇に同情はしても、これからさき、二人の父娘を養つて行く義務はないと思つてゐるし、月々、二百円からの小遣を大威張りでふんだくられるのは、いまいましいのである。
彼女は、つい妹らしくない口の利き方をする。
「さうなら、あたしにばかりそんなことおつしやらないで、国家とやらにさうおつしやいな。夫の遺産で楽に暮すのがいけなかつたら、妹の懐ろをあてにしてぶらぶら好きなことをしてるのがいいんですかねえ」
「お前がさういふ気なら、おれはいつでも出て行つてやるよ。梨枝子だつて世話にならなくつていい。おれたちは、施しを受けてゐるんぢやないんだ」
かうして、彼は突然、別居をする決心をしたのである。真つ先に金を作らねばならぬ。彼は古道具屋を呼んで家具類を売り払はうとした。一枝は黙つてそれをみてゐた。が、あとでその道具屋に耳打ちをした。
「あたしがそつくり買ひ取りますからね。これは秘密よ。だから、そのつもりで、お金だけ兄に渡しといて頂戴」
そんなこととは知らずに、廉介は、いくぶん溜飲をさげた気で、悠々と引越しの支度をはじめた。小一万の金が手にはひつたのであるから、彼は梨枝子を学校の寄宿舎に預けて、自分は当分ホテル住ひをすることにした。
その日の夕方、もう、トランクが運び出された。廉介は、一枝に向つて云つた。
「ながなが、ご厄介になりました。今日限り、おれはお前の何者でもない。誰に遠慮もいらんから、せいぜい道楽をするなり、貯金を殖やすなりするといい」
梨枝子は、さすがに叔母に悪いといふ気がし、父が玄関を出たあとで、一枝に縋りついて、
「ごめんなさい、叔母さま……。あたし、どうしていいかわからないのよ。でも、パパはやつぱりパパでせう、だから……」
と云ひながら、眼をしばたたいた。
「いいのよ、あんたは心配しないだつて……。大人つて、みんなこんなものよ。自分で好いと思ふことばかりできないから困るの。これから、しつかりしなきやだめよ。男のひとにだまされないこと、ね。これだけは忘れないで……。ぢや、早く、さ、パパが呼んでらつしやるわ」
ホールの長椅子に倚りかかつて、一枝は、やがて動きだす自動車の音に耳を澄ましてゐた。
知らず識らず、涙が頬を伝つた。
ピッコロミリ夫人のお茶の会は、予言どほり、二た家族を客とした極めて家族的な集りであつた。
廉介はその間に、安里の一言一動を怠らず観察した。
梨枝子がかういふ青年に魅力を感じるのは、まつたく血液的なものだといふことがわかり、妹の一枝が「不良」と見たのは、西洋の、殊に仏蘭西型の生意気な青年をてんで知らないからだと彼は思つた。安里と梨枝子とは、まるで口を利かず、安里の視線を彼女が避けてゐるやうなのも、廉介としては得意であつた。
彼は努めて安里に話しかけた。教養の程度を試験するためであつて、それがどうかすると露骨すぎるので、ピッコロミリ夫人は、気を揉んだ。
「ムッシュウ・安里は、さういふ科学的な方面より、芸術的な方面の興味がおありなのね。梨枝子さんも、映画はお好きね。あたつたでせう?」
「ええ、でも……。めつたに、行くことなんかないわ」
「ムッシュウ・安里は、それや映画通なんですよ。ほら、いつかだつてさうでせう……」
映画などといふものは、元来観たことがないので、廉介は口を噤むよりしかたがなかつた。
萱野氏は、始終、にこにこしながら、だしぬけに自分の健康法などをまくしたてた。
「先生は、如何ですか、胃腸の方は?」
といふ調子で廉介に立ちむかふので、今度は細君がはらはらしだした。
「あなたのなんとか式はもう沢山ですよ、先生は、あんなにご立派なご体格ぢやありませんか」
彼女も夫にならつて廉介を「先生」と呼んだ。梨枝子は、はじめ誰のことかと思つた。が、それに気がつくと、やつと安里の方へ機敏な目くばせをして笑ひかけた。
安里は、さつきからいかにも窮屈さうに、なんども脚を組み直しては溜息まじりに煙草をふかしてゐた。
若いもの同士の手持無沙汰な様子を見てとると、ピッコロミリ夫人は、二人に写真を出してみせた。意外なことに、廉介の青年時代、即ち、最初の洋行記念に祖母の下枝子と一緒にうつした写真が出て来た。梨枝子が父にそれをみせると、彼は苦笑しながら、そいつを押し返した。次の頁には更に面白い写真が貼つてあつた。祖母と母と自分と三人で撮つた、素人の腕らしい小型の写真である。安里がそれをみて笑ひだすと、ピッコロミリ夫人がのぞき込んで、それは「うちの亡くなつたルナアト」がとつたのだと説明した。安里はその写真と梨枝子の顔をぢつと見比べて、
「ママにそつくりですね」
と云つた。梨枝子は、ちらと父の方をみた。彼は眉に皺を寄せて、横を向いてゐた。やがてピッコロミリ夫人は、起つて行つてピアノに向つた。
「もう忘れてるかも知れませんよ。ひとつ、歌をお聞かせしませう」
この老婦人の、ちよつと羞んだ表情はまつたく美しいと梨枝子は思つた。歌は伊太利の民謡だつた。
「これ、あなたのお祖母さまが大好きな歌よ。なんべんも弾かされましたつけ……」
「もう一度、どうぞ……」
廉介が所望した。お世辞でないことは、その声のうるんだ調子ではつきりわかつた。
「うむ……それ、それ……僕も覚えてゐますよ。母が口癖のやうに唸つてゐたのはそれだ」
眼をつぶつたまま、廉介は、誰にともなく呟いた。みんなが、しんみりとした。
帰りがけに、廉介はピッコロミリ夫人の手を固く握つて、
「非常に愉快でした。梨枝子のことは、どうぞ、あの子に代つてよろしくお願ひします」
梨枝子は、安里の差出す手を両手で持つて大きく振りながら、
「あたし、寄宿舎へはいるのよ、ねえ、パパ……」
と、わざとはしやいで云つた。
その次の週から、事実、彼女の寄宿舎生活がはじまつた。
郊外の、まだ附近には住居も疎らな広大な敷地に、彼女の通ふミッション・スクールの瀟洒な白堊の建物が並んでゐた。寄宿舎は、窓の広いカッテージ風のアパアトで、芝生に程よく松の株をあしらつた前庭が、明るい抒情味を添へ、一見、少女たちの健やかな夢を伸ばすに適した環境のやうであつた。廉介は、一年分の寄宿料を前納してほつと息をついた。それから、ピッコロミリ夫人を通じて、萱野家へ婚約の内諾を与へることにし、梨枝子にも、その旨を伝へた。
「しかし、学校の勉強はちやんとしなけれやいかんよ。日曜には帰つて来なさい。時々は横浜へ連れて行つてあげる。ピッコロミリのをばさんが一緒なら、映画を観に行くのもよからう。まあまあ、卒業までは、あんまりそのことは考へない方がいい」
自分でも何を云つてゐるかわからず、廉介は、娘の輝く瞳を、ただ索漠とした気持で眺めてゐた。
一と月はぢきに過ぎた。十二月にはひつた。
寄宿舎で新しい友達ができると、梨枝子は、別に淋しいとも思はなかつた。ただ、特別の仲のいい友達が一人もゐないのだけは物足りなかつた。誰一人として意地わるをするわけではないが、自分だけを妙にお客さま扱ひにするのがよくわかつた。こんなことには慣れてゐると云へば云へるが、朝晩寝起きを倶にする間柄で、やはりさういふものかと思ふと、急に味気なく思はれることもあつた。が、それもしばらくたつて、冬休みが近づく頃になると、みんなが、なんとなく感傷的になり、大勢が集つて話をするより、二人づつ手をつないで夕方の散歩に出るといふ傾向になり、彼女も、手をつなぐ相手をたうとう見つけた。一級上の間部福子といふ、北海道生れの、背のひよろ長い生徒であつた。非常によくできるといふ評判なのだが、ちつとも復習などしてゐる様子はなく、暇さへあれば、詩集や小説を読んでゐた。学芸会などでは、委員ぶりがなかなか鮮やかで、参観人がよく先生と間違へるといふほどの凜々しさであるが、梨枝子と二人きりの時は、まるで行儀がわるく、大胆な議論を吹きかけるかと思へば、急に、コケチッシュな身ぶりで彼女を面喰はせる。なにしろ、ひと通りの女学生でないことはたしかで、その点、梨枝子は、半分怖いやうな半分頼母しいやうな気持で、この年上の同室者に引廻されてゐた。そんなわけで、しばらくのうちに、その間部福子から、男性といふものについて、驚くべき知識を与へられたのである。彼女はそれ以来、安里の顔を見る楽しみが半減した。
そこへもつて来て、冬休みになる前の日曜日に、ホテルへ父を訪ねると、父は、そつと彼女の肩を押へて、こんなことを云ふのである。
「リエット、困つたことができたよ。実は、なんかの間違ひだらうと思つたんだが、よく調べてみると、どうもたしかに証拠があがつてるらしいんだ。びつくりしちやいかんよ。安里が、婦人関係で警察へ引つ張られてるんだ」
それを聞いて梨枝子は、いつとき、きよとんとしてゐた。それが自分の問題だといふことさへ、はつきり呑み込めないくらゐだつた。
食事をして行けと云はれたけれど、梨枝子は黙つて首をふつた。
「今から寄宿へ帰つてもしやうがないだらう」
と、廉介は、彼女をエレベーターまで送つて来ながら云つた。
「あたし、これから、ピッコロミリのをばさまのところへ行つてみるわ」
なんとなく頼りにならぬ父のそばに、こんなとき、ぢつとしてゐられるものではないといふのが彼女の肚であつた。
横浜へ着くまで、安里のことをあれこれと考へつづけてはゐたものの、いつたい、どんな悪いことをしたのか、さつぱり見当がつかないのである。婦人関係といふ父の言葉も、それほどどぎつい意味には響かないのだからしかたがない。ただ、警察へ引つ張られたといふことが、なんだか恐ろしいやうな気がするだけであつた。
ピッコロミリ夫人は、彼女を迎へ入れると、もうその顔付ですべてを察したとみえ、
「ほんとに困つたよ、あたしも……。大した問題ぢやなささうなんだけどね。日本ぢや、かういふことをすぐ表沙汰にするから厄介なのさ」
で、詳しい話といふのはかうであつた。
安里がある機会に識り合つた某船長の細君と、四五日前、夜おそく国道をドライヴしてゐるところを警官に見とがめられ、身元調査の結果、その細君の素行が当局を憤慨させたと同時に、安里はさういふ行為の常習犯とにらまれ、そのまま留置場へ放り込まれたのだが、萱野氏がいろいろ運動した結果、ひとまづ身柄を引取ることができたといふのである。
「さういふわけだからさ、あんたはどんな気持がするか知らないけど、あたしから云へばね、この問題はたとへ表沙汰にならないまでも、事実は事実として安里さんも認めたことなんだし、もうなんと云つたつて、純潔な青年として、あんたのお婿さんになる資格はなくなつたやうなもんだと思ふの。さうでせう。だからさ、をばさんの不明はいくへにも赦してもらふとして、この結婚は、さつぱり、思ひ切つてしまはうぢやないの。それや、あんたは、苦しいかも知れないよ。苦しいでせう、きつと……。でも、先々のことを考へると、そんなことは云つてられないんだからね」
梨枝子は、さういふ話を聴きながら、ぢつと唇を噛んでゐた。涙がこみあげて来る。なんといふことなしに口惜しいのである。それにしても、真相がはつきりした今、安里をほんたうに恨む気になつたのかと云へば、さうでもない。むしろ、彼と自分とを距てる何かが、急にのさばつて来た感じで、それに対する反感が募るばかりである。相手の女といふのはどんな女か、それさへちつとも問題ではなかつた。ほんとを云ふと、この結婚をさつぱり思ひ切れなどと、平気で云へる当のピッコロミリ夫人が一番恨めしいくらゐであつた。
「あたし、一度、安里さんに会ひたいわ」
と、これだけのことを云ふのが精いつぱいだつた。
「会はない方がよくない? あんたがさう云ふのは無理もないけど、かういふことは、まあ、年寄りに委せときなさい。わるいやうにはしないから……」
そんなこと云つて、こつちは安心してゐていいのかしら、と、梨枝子は思つた。すると、急に、わツと泣けて来て、卓子の上へ突つぷした。
「そんなに悲しいの? うん、うん、それやさうだらう。あたしが、察しがなさすぎたね。あんまり、あんたを子供扱ひにしてたのがわるかつた。ぢや、もつと、よく話をするからお聴きなさい。ね、いいこと……」
と、膝を乗り出すのを、梨枝子は、もうたくさんといふやうに、やたらに首を振つた。
「どうして? え、どうして? あたしの云ふこと、聴きたくない? あんまり勝手だと思ふんでせう……。それや、わかつてますとも……。大人がすつかり信用をおとしちやつたんだからね、今度つていふ今度は……。でも、まあ、もう一度だけ、云ふことを聴いて頂戴……。それでないと、あたしも気が済まないんだから……。それやね、男には間違ひつてもんはありますよ、女にだつて、あるんだもの……。今度のことだつて、安里さんの、若い時代の間違ひですます気なら、それや、なんでもありませんよ。さあ、そこなのよ。問題の性質つてものを、よく見きはめなきや……。それは、なかなか、むつかしいこと……。ほんとのことは、神さまでなけれやわかりません。わたしだつて、安里さんばかりを責める気はないんだけれど、生憎、これがパパの耳にすぐはいつてしまつたもんだから、まあ、責任上、安里さんに身を引いてもらふことにしたんです。それだつて、ほんとを云ふと、ひと騒ぎしたのよ。あの人は、自分であんたにあやまるつてきかないんだから……」
梨枝子は、もうすぐにでも安里のところへ飛んで行きたかつた。さうして、ただ彼を赦しさへすればいいのだとしたら、こんなやさしいことはないと思つた。
が、その時、ピッコロミリ夫人は、彼女の肩を抱くやうにして、やさしく言葉をついだ。
「ぢやあ、ね、かうしませう。あたし、今から安里さんを呼んで来てあげるわ。あたしの前で、あの人があなたにどういふ誓ひをするか、それを聴きませう。それではと……その間、ピアノのお稽古でもしてらつしやい。レコードも、古いものばかりだけれど、よかつたらかけてね」
ひとりになると、梨枝子はレコードの棚に近づいた。一枚一枚しらべて行くうちに、彼女はふと、死んだ弘のことを想ひ出した。かうしてレコードを選るときは、きつと彼がそばにゐたからなのであらう。が、その弘の幻が、突然、電のやうに頭をかすめた。高い木の枝から真逆さまに谷底へ落ち込んだ、あの瞬間の怖ろしい記憶が、いままた蘇つて来たのである。彼女は、思はず眼を閉ぢた。と、そのはづみに、手に持つたレコードが、激しい音を立てて床の上へ落ちた。
安里がピッコロミリ夫人の後から、そつと部屋へはひつて来た時には、梨枝子は、もう、真ツ二つに割れたレコードのことなど忘れて、悪戯半分にピアノをかき鳴らしてゐた。
急に後ろを振り返つた彼女の視線と、強ひて笑ひをふくんだ安里の視線とが、ぱつたり合つた。彼女は、いつとき、表情を硬ばらせて、ぢつと相手の顔を見つめてゐたが、やがて起ち上ると、黙つて彼の方へ歩み寄りながら、
「あたし、なんとも思つてなくつてよ。だから、いいでせう。そんな変な顔しちやいや……。をばさまに、もうあんなことしませんて、早くおつしやいよ……」
さう云つたかと思ふと、相手の胸を押しつけるやうにして、ちらりと横眼でピッコロミリ夫人の方をみた。
夫人はもう椅子に腰をおろしてゐた。
「をばさんには、僕、もうあやまつたよ。もう一度あやまるの?」
安里は、不平さうに口を尖らした。
すると、ピッコロミリ夫人は、ぎゆつと睨む真似をして、声だけ厳かに、
「ううん、あたしにはまあいいとしてさ、そこで、ちやんと梨枝子さんに、これから決してこんな悲しい目に遭はせるやうなことはしないつて誓ひなさい。それだけ、真面目に、あたしの前で、このひとに誓つて頂戴……」
「そんなこと面倒臭いや。だつて、梨枝ちやんはもう、僕を赦すつて云つてるんぢやない? だから、をばさんは、あつちへ行つてらつしやいよ。二人で、二人つきりで話すことがあるんだから……」
「いいえ、今日はさういふわけに行きません。話があれば、あたしはかうしてるから、二人で勝手に話したらいいでせう。をばさんに秘密な話つてない筈よ」
安里は、すると、むきになつて、
「秘密な話があるかないか、をばさんにどうしてわかるんです? 僕たちには、二人の間には、二人だけの秘密つてものがあつてもいい筈なんですよ」
ピッコロミリ夫人は、その言葉を聞いて、驚いたやうに眼をみはつたが、急に、がくりと大きくうなづいてみせた。
「あんたも、案外、理窟を云ふのね。なるほど、一本やられました。ぢや、あたしは神妙に引きさがりませう。口惜しいけれどしかたがない」
もう、朗らかな笑顔になつて、夫人は、部屋を去らうとしたが、ふと、気がついたやうに梨枝子の方を振り返つて、
「しつかりするんですよ。いいこと!」
夫人の姿が奥へ消えると同時に、安里は、ぐいと梨枝子を引寄せて、狂ほしく唇をその唇にあはせた。
やがて、彼は、自分の腰かけた膝の上へ、軽々と彼女を抱きあげ、もう一度、強く接吻したあとで、その顔をのぞき込むやうにして云つた。
「もう、なんにも云はなくつていいね。云つたつて云はなくつたつておんなじだね。なんでもいいから、リエットが早く僕のお嫁さんになつてくれるといいんだよ。ただそれだけだよ。何時なる? え? 今日からぢや駄目? 今夜、寄宿舎へ帰るの?」
畳みかけられて、梨枝子は返事に困つた。寄宿舎と云へば、夕方少し帰りが遅いと、同室の間部福子が、門の横の白い柵にもたれて、右と左へかはるがはる眼をやりながら、梨枝子の姿をどつちかの街角でとらへようとしてゐる、あの執拗なポーズが気になる。そして、さういふ晩に、きまつて、夜具の下から眼だけ出して、
「ねえ、梨枝ちやん、最後のものは、大丈夫ね。フィヤンセだつて油断はならないわよ」
と、さういふ風なことを、深刻な含み声で云つたりするのである。すると、梨枝子は、なんといふことなしに、ぞつとして、足を縮こませ、息を殺す。さうでなくつても、殆んど毎晩といふやうに相手の手が、そつと何かを探るやうにこつちへ伸びて来る。自分の手が、知らず識らずにそれを迎へる。ぐい、ぐいと、相手が力を入れるたびに、瞼がだんだん重くなつて行くのである。
──もうどうなつてもいい。
彼女はいま、安里の逞しい腰と、激しい呼吸を皮膚に感じながら、ふとさう思つたが、間部福子の例の含み声が何処からか聞えて来て、もう、かうしてはゐられないといふ気がして、ぴよいと安里の膝から飛び降りた。
「そんなこと云つたつて、無理よ。学校にゐる間は、学校のことしか考へちやいけないつてパパに云はれてるんですもの」
「学校のことしか……? ぢや、僕のことは考へないでいいつていふの、君のパパは?」
「ううん、さうぢやないのよ。考へるだけならいいけどさ……。知らない、それからさきは……」
ピアノに背を向けて、急に後ろへ廻した手を、鍵の上へポンとのせた。
「もつと、ほかのお話しませうよ。いつでもおんなじこと、つまらないわ」
「話つて、どんな話? ただかうしてちや、話なんかありやしない」
梨枝子は、困つて、
「ぢや、あたしが、学校のお話したげませうか? 寄宿舎のお話……。いいこと、あたしの部屋にはね、あたしとも二人ゐるのよ。ほら、いつか云つたでせう、間部福子つていふ、上の級のひとよ。すごく出来るひとなのよ。四年の時、ほかの学校から変つて来たんだけど、ずつと級長よ」
「君だつて、間部福子のことばかり云ふの、よしてよ」
「あら、よしてよだつて……。よせよつていふのよ、男は……」
こんな他愛のない会話が続いてゐるうちに梨枝子は、さすがに、自分のギコチなさに気づき、なんとかこの空気を一変させる工夫はないかと考へた。で、たうとう、
「をばさま……ちよつといらしつて……」
と、奥に向つて、大きな声で叫んだ。
冬休みになつた。梨枝子は父に連れられて熱海へ来た。正月を暖い海岸で過す習慣がしばらく途絶えてゐたので、梨枝子には珍しかつた。
それにしても、ピッコロミリ夫人がどうしてもつと早く安里のことを父に話してくれないのだらうと、それが気がかりだつた。一度ゆつくり会つて父を説き伏せてみようといふ約束になつてゐるのである。それでないと、公然、文通もできないわけだから、彼女は、ピッコロミリ夫人が今日来るか今日来るかと、待ちわびてゐるのは当然であつた。が、いよいよその日が来た。帳場からの電話へ、父が、──え、ああ、ピッコロミリさん……わかつた。下のサン・ルームへお通ししてくれたまへ、と答へた時、側にゐた梨枝子は、心の中で雀躍りした。
「あたし、行つてもいい?」
すると、父は、ちよつと考へて、
「うん、あとで呼んであげる」
廉介は、ガウンを脱いで、背広に着替へ、ちよつと鏡をのぞいてから、部屋を出た。
午前の爽やかな日光を硝子戸いつぱいに受けて、南面の細長いホールは、丁度がら空きだつた。藍地に水玉模様の地味なローブの後ろ姿で、すぐにそれとわかりはしたが、廉介は、この母のやうな老婦人の、何処かにひそんでゐる若々しさに素朴な親しみを感じてゐたので、ふと茶目気分を出して、わざわざ正面へ廻り、
「あ、やつぱりさうだつた。たいへん粋な恰好でいらつしやるから、ついおみそれしました。よくおわかりになりましたね。梨枝子がお知らせしたんですか?」
「こんなに早く伺つて、どうかと思つたんですけれど……。ええ、梨枝ちやんからも伺つてましたよ。あたしや、このホテルははじめて……。なかなかよろしいぢやありませんか」
「シシリイといふわけには行きませんな」
「やつぱり、そんな風な比較をなさりたいですかねえ……。あたしは、もう、さういふ癖がなくなりましたよ。それも、ルナアトの教育ですよ。あの人は、どこへ行つても、その土地の特色を発見する人でしてね。足りないものに決して不服を云ひません。さうです、ここなら、寧ろ、かう云つてほめるでせう──なるほど、シシリイには、この瓦の色はないねえつて……」
「日本に住まなけれやならんとなつたら、さうでも云ふよりしかたがないでせう」
「あの人は、上海も好きでしたよ。それから、廈門……。あんなところのどこがいいのか、あたしにやさつぱりわからなかつたんですよ。壁と水溜りと毒々しい看板の街ぢやありませんか。それを、あの人々に云はせると、亜細亜大陸の裾を飾つてゐる古びたレースなんださうです」
廉介は、別にそれには応へず、ただ、ぼんやりと、その言葉で、曾遊の地を頭に浮べてゐた。なるほど、水溜の多いことだけは覚えてゐるやうな気がした。
ピッコロミリ夫人はしばらく黙つてゐたが、やがて、調子をあらため、
「あなたも日本人、あたしもこれで純粋のジャポネーズですから、お話はわかると思ふんですが、どういふもんでせうね、お宅の梨枝ちやんのやうな方は、いつたい、これから、どういふ気持で、この自然、それから、今の日本人の生活つていふものを批評するやうになるんでせう? あなたみたいに、口では日本をけなしていらしつても、真底は、どうにもならないつていふ諦めがあればそれでいいですよ。ところが、ああいふ風に、白い血の混つた人たちは、日本が好きでも嫌ひでも、これが、落ちつきどころのないもんだと思ふんです。しよせんは、自分たちだけの故郷を、特別に感情生活のなかに求めなければやりきれないわけぢやありませんか? ですから、あたしの考へぢや、やつぱり、同類を相手の結婚が、ただひとつの心の広場だと思ひますね。それについてなんですよ、まあ、あたしの云ふことをお聞きなさい。例の萱野の息子さんですがね、安里さん、これや、あんなことがあるにはありましたけど、よく事情をしらべてみると、あのキャピテン夫人との関係つていふのはですよ、そんなにシリアスなもんぢやない……と云ふのは、あと腐れのない……さつぱりしたもんなんです、一時の迷ひとさへ云へますまい。相手は、それこそ、馴れたもんなんですよ。安里の方でも、誘はれたからちよいと応じてみたつていふ程度の、云つてみれや、本牧でショートタイムを遊んだぐらゐの気でゐるんですからね。あの年で、それを問題にすべきかどうか、あたし一個の意見としてはですよ、あなたの前だけれど、危なかつたね、さう云やすむこつちやないか……」
この時、廉介は、サン・ルームの入口に、梨枝子の姿をちらと見つけて、思はず眉を寄せた。
「それや、あなたの立場は、また違ひます。第三者の立場……と云つてもよろしいが、あたしに云はせると、不思議な現象があるんです。その解釈はあとでするとして、実は、お宅のお嬢さんは誰からもそんな解釈を与へられないうちに、ちやんと、物事の真底をつきとめてゐるのに、あたしは驚きました。無条件にですよ、勿論安里に会はないうちにです。あたしの顔を見るといきなり、赦すつていふひと言です。待つて下さい。プライドをもつてですよ。その証拠に、あたしが一応、婚約の取消しをした話をすると、是非会ひたいつていふんです。会へばわかるつていふ自信のあるところ、面白いぢやありませんか。あたし、責任をもつて、安里を連れて来ました。安里には、とにかく、あたしの前で、不幸なフィヤンセにお詫びをさせようと思つたんです。ところが、梨枝ちやんは、そんな必要ないつて、相手をかばふぢやありませんか。そんなことは、してもしなくつてもおんなじだと云ふんです。まあ、直感といふんでせうか。非常に、なにかを飛び越えて、二人が解り合つてるといふ印象をうけました。これには、あたしも、一言なかつたですよ。普通の日本のお嬢さんと違ふでせう。ただ恋心に眼のくらんだ、嫉妬することをさへ忘れたおぼこ娘の純情でせうか? 違ひます。もつと力強いもの、もつとノーブルなものを、あたしは感じました。そして、殊に、なんといふ新鮮さでせう。あなたが、パパご自身がみていらしつたつて、ちつとも、痛々しいもの、愚かなものをお感じにはならないだらうと、あたしは信じます。梨枝子さんは、堂々と、一人の青年を征服なすつた。世にも美しい夫婦ができ上るでせう。今日は、あらためて、そのお祝ひにあがつたんです」
かうまくしたてられて、廉介は、いつ時眼のやり場に困つた形であつたが、しまひに、ぴよこんと頭をさげて、
「その道のことは、あなたを信じて間違ひないと思ひます。いろいろ、どうも……」
と、まだはつきりしない自分の気持をごまかすやうに、彼は苦笑した。
梨枝子が、また、図書室の方から、こつちをみて、もういいかいといふ合図をしてゐる。
かうして、大風一過のあとの静けさが、梨枝子にとつて、却つて無気味なものに感じられだしたのは、一月二月と過ぎて、三月のあはただしい日が学窓を訪れる頃であつた。なぜかと云へば、安里には、ほとんど日曜毎に会ひ、会へば楽しく語り、なんの屈托もなく寄宿舎へ帰つて来るのであるが、寄宿舎では、間部福子の態度が急に親しさを越えて、ある種の気むづかしさを見せるやうになり、──自分が卒業したらもうあんたには会へなくなるかも知れないから、わざと落第してやるんだなどと口走しる様子をみてゐると、彼女はどうしていいかわからないのである。
安里のことを根掘り葉掘り訊ねるので、ありのままを答へると、そのあとはきつと福子は機嫌がわるく、今度は、安里にそれとなく福子の話をすると、にやにや笑ひながら、顔が赤くなるやうな戯談を云つて冷かした。で、しまひに云ふのである。
「一度、その女を連れて来てごらん」
福子の方でも、
「この次、一緒にあたしも横浜へ連れてつてくれない? あんたのフィヤンセつて、どんなシャンか見といてあげるから……」
別に福子に自慢するつもりはなかつたが、何時でも日曜に一人で出るのを気兼ねするよりもと思ひ、丁度卒業試験がすんだといふ翌日の日曜に、梨枝子は福子を誘つて、安里の家を訪ねた。
初めのうちは、三人でなにかかにか話題にすることもあつたが、そのうちに、安里はすぐにいつもの調子で自分勝手なおしやべりをはじめ、福子はだんだん黙り込んでしまつた。ところで、安里は、そんなことに頓著なく、福子の眼の前で梨枝子の手を弄んだり、頸を抱へるやうにして引寄せたり、はらはらするやうなことばかりした揚句、帰りぎはには、いやだといふのを無理に長々と接吻をして、さて、福子に、──ごめんなさい、と云つたものである。
これが原因で、福子は、すつかり「意地わる」になつた。帰りの電車では一と言も口を利かないし、寄宿舎の門を潜り部屋にはひると、いきなり、
「あああ、つまんない。あんたつていふひと、すつかり見損つたわ。もつと悧口なひとだと思つてたら、まるで……男の玩具ね」
梨枝子は、蒲団をかぶつて泣いてゐた。
「どうして泣くの?」
と云つて、いきなり、福子は、彼女の横へからだをずらして来た。冷い足のさきが、ひやりと腿のあたりに触れたと思つたとき、彼女は、声を立てようとした。が、もうその時は、呼吸ができなかつた。
翌朝彼女は福子の顔をまともに見るのが恥しく、そこそこと洗面所へ駈け出して行つたくらゐだが、そんなことがあつてから、梨枝子は、急に快活さを失つた。
卒業式には、間部福子は、やはり総代で答辞を読み、寄宿舎の送別会で、みんなを泣かせるやうな挨拶を述べ、そして、その晩、梨枝子に、最後の愛撫を与へた後、飄然と、ジャワのバタビヤとかへ、迎へに来た父親といつしよに旅立つてしまつた。父親は、南洋で成功した日本人の一人だといふことを予ねがね聞いてゐた。あつけない別れであつた。が、彼女は、一方で、ほつとした。こだはりなく安里にも会へることがなにより気楽だつた。
春休みの幾晩かを、ピッコロミリ夫人の家で泊ることを父に許され、安里とも毎日遊べる機会ができて、彼女はしみじみ幸福であつたが、ピッコロミリ夫人も、安里も、彼女がひどく変つたことに気がつき、二人で、交るがはる、いつたいどうしたのかと、しつつこく訊ねるので、彼女自身も、なんだかその理由を考へなければならないやうに思ひ、やつと「女」といふものについて、意識的にその性格を分解してみるやうな興味をもちはじめた。彼女は、手あたり次第に、恋愛とか結婚とかいふ様な題のついた本を、いくぶん秘密をのぞくやうなおそろしさで読み耽つた。新学期がはじまつても、日曜に一冊づつ学校へ持つて帰り、そつと何処かにかくしておいて、暇さへあれば取り出して頁を繰つた。
ある日、散歩の時間に、たつた一人、小型の叢書の一冊を懐ろへ忍ばせて、裏庭の植込の蔭へ腰をおろし、あたりへ先づ警戒の眼を配つてから、貪るやうに特に折目のつけてあるところをひろげた。それは、モオパッサンの「女の一生」であつた。やつとここからといふ場所をみつけて、もう、それだけでなんとなく胸さはぎがするといふ、その瞬間であつた。後ろで衣ずれの音がしたと思ひ、慌てて頁を閉ぢるといつしよにそつちを振り向くと、舎監のミス・オーヱンがぢつと下を見おろしてゐる。
「なにを読んでますか! 貸してごらんなさい」
梨枝子は、黙つて唇を噛んだ。そして、書物を握りしめた手を膝の下に押し込んだ。
「おや、かくすんですか。いけません。早くお出しなさい。いま、お父さんが面会所で待つていらつしやいます。その本をここへおいて行つておいでなさい」
さう聞いて、彼女は、「女の一生」を投げ出すといつしよに、チャペルの裏を駈けぬけて、表玄関の横手になつてゐる面会所へ飛び込んだ。
「なにか、ご用? パパ」
父はひどく真面目な顔をしてゐた。
「さうせかせかしないで……もつと落ちつきなさい。どうだ、勉強はできるかい? この間の日曜は、何処へ行つた? もち横浜か?」
「もち、さうよ。どうして?」
「来ない時は来ないつて、電話でもかけてよこさなきや、パパは待ちぼうけを喰はされるぢやないか」
「あら、待つてらしつたの? ごめんなさい。ぢや、これから、行くときは電話をかけるわ。黙つてたら、横浜へ行くわ、それでいい?」
「それやまあ、どうでもいいが……。今日は、お前にひとつ相談があつて来たんだ。パパはね、また、しばらく旅行に出ようと思ふんだ。今度は、急に帰れるかどうかわからんので、お前のことはピッコロミリのをばさんに頼んで行かうと思ふ。それとも、やつぱり阿久津の叔母さんの方がいいか? 若し、その方が望みなら、今から井荻町へ寄つてみるんだが、どつちにしよう?」
「旅行つて、どこへいらつしやるの?」
「うん、それがまだはつきりきめてないんだ。が、ともかく、一週間以内に発ちたいんでね」
「何処だかわからないところへ、そんなに急にいらつしやるの、どういふわけ?」
父はしばらく天井を仰いでゐたが、やがて、太い溜息をついて、
「お金がそろそろなくなつて来たからさ」
と、吐き出すやうに呟いた。そして、すぐあとで、まるで弁解でもするやうに、
「おれは、日本の土地で野たれ死はしたくないよ」
「あたしも従いてくわ」
彼女は、思はずさう叫んだ。が、さう云つてしまつて、嘘をついたとは思はぬまでも、ぎくりとした。自分の心が、ひらりと後ろへ飛びのくやうな感じがした途端、父の眼に、涙がにじんでゐるのをみた。
それから幾日目かに、父の廉介は急にホテルから姿を消した。
梨枝子はピッコロミリ夫人からの便りでそれを知り、同時に、これから先は、一切の世話をこの「をばさん」がしてくれるのだといふことを聞かされ、なにか身のひき締るやうな思ひがした。夫人の手紙は、そして、かう結んであつた。
……ほんたうは直接に会つてお話をしたいんだけれど、あいにく風邪をひいて寝込んでしまつたものだから、とりあへず、そのことだけあなたのお耳に入れておかうと思ひます。パパのお見送りもできないであなたもさぞ残念だらうけれど、ああいふ風にしてぶらりと旅にでることがお好きなんだつていふから、まあそれはしかたがありません。その代り、これからはをばさんがなんでもしてあげるし、決して淋しいことなんかありませんよ。それに、あなたにはもう安里つていふフィヤンセがあるんですからね。さう云へば、こんどの日曜には、安里と二人でお待ちしてゐます。曇つてゐたら下着を重ねていらつしやいよ。
ピッコロミリ夫人はほんとにいいひとだけれども、ざつくばらんのやうにみえて、あれで、どことなく取りすましたポーズが生活のしんにあるせゐか、梨枝子には、どうしてもなじんで行けないところがあつた。阿久津の叔母は、そこへ行くと、表面に冷たさやぎすぎすしたものは感じられはするが、それにも拘はらず、思ひがけない時に、ふはりとやはらかな腕で自分を抱いてくれるやうなところがあり、父の前では云ひにくかつたが、いざどつちかを母代りに選ぶとなれば、今では阿久津の叔母の方へ自分の心が傾いてゐることを彼女は自分でもちやんとわかつてゐた。あの時、黙つて返事をしなかつたばかりに、父が勝手に決めてしまつたこの処置を、梨枝子は、今更うらめしく思つた。
が、彼女は、実を云ふと、もう誰の世話にもなりたくなかつた。なんでも自分の思ふことがしてみたかつた。冒険なら冒険で、それも面白かつた。さういふ身軽さを感じることから、彼女の心はかへつて勇みたつた。
そこで、ふと気まぐれにこんな手紙を安里に書いた。
──あなただけにいろんなことお話したいのよ。こんどの日曜に、だから、あたし横浜へ行かずにこつちで待つてるわ。××電鉄の停留場へ九時までに来てちやうだい。
その日は、四月の空にしては珍しいくらゐカラリと晴れて、やうやく満開に近づいた校庭の桜が眼にしむやうなふかぶかとした色に輝いてゐた。
彼女は、薄萌黄の毛糸のスェータアに純白のスカート、それに同じ白のベレエを阿弥陀にかぶつて、いそいそと寄宿の門を出た。
柵に沿つて右へ、ゆるやかに丘の斜面を切り開いた砂利路が、わづか一町も続くと、もう、そこは、水田を埋め立てて敷いた郊外電車の停留場で、ペンキ塗りの見すぼらしい待合室があたりの風物に頓著なく建てられてゐた。踏切の手前に小川が流れてゐる。赤ん坊をおぶつた女が岸で草摘みをし、そのそばで、七八ツの男の児がしきりに目だかを掬つてゐる。梨枝子は、まだ時間が少しあると思ひ、橋の上に立つてそれをぼんやり眺めてゐると、もうなんとも云へない静かな気持になり、ひとりでに微笑が浮んだ。が、ふとわれにかへつて、さういふ自分に気がつくと、急に誰かに見られてゐやしなかつたかと、そつとあたりへ眼をやつた拍子に、すぐその肩先へ、若い男の顔が、これものぞき込むやうにこつちへ眼を向けてゐる視線にはたとぶつかつた。そして、彼女は、息を引くやうに声を立てた。
「あら、いやだわ、どうしてこんなとこにいらしつたの?」
それは、絶えて久しく会はない熊岡嶺太郎であつた。よく見ると、彼はひどい洋服を着てゐた。ネクタイがよれよれになつて、チョッキからはみ出さうとしてゐる。昔からそんなにお洒落の方ではなかつたが、制服のよく似合ふキリリとした青年であつたのに、これはまたなんといふ変り方であらう。強ひて笑はうとする眼がどぎつく光つて、唇が薄気味悪くゆがんでみえた。と、彼はやつと帽子の縁へ手をかけた。
「どうです、その後は……元気ですか?」
不思議なことに、声は昔のままだつた。
「ええ……」
さう返事をしたきり、梨枝子は、あとがつづかなかつた。いちどきに、いろんな記憶が頭のなかにひろがつて来た。
「いま寄宿にゐるんですつてね。菊子から時々話は聞いてゐました。僕、あれからすぐ教師と喧嘩して学校を飛び出しちやつたもんだから……」
そこで、眼を伏せて、靴の先で石ころをひとつ蹴つた。
「まあ、ちつとも知らなかつたわ。で、どうなすつたの?」
「菊子はなんにも云はなかつたのかなあ。どうするもかうするもないですよ。親爺が愚図愚図云ふもんだから、勝手にしろつて家を追ん出てやつた。ところが、仕事つてやつがなかなかないのさ。今はどうかかうかやつてますけどね、悪戦苦闘ですよ」
「顔色がわるいわ」
彼女も、そこで、やつと、相手の真情に触れた安心を言葉の調子に出すことができた。
「そんなに悪いですか。病気はしないんだがなあ。毎日歩き廻つてるから大丈夫さ」
さういふ間に、なるほど、さつきの印象とうつて変つて、またもともと通りの朗らかな、逞しい風貌が蘇つて来るやうに思はれ、彼女もついつり込まれて、
「毎日歩くお仕事つて、なあに?」
「さあ、当ててごらんなさい。お巡りさんぢやありませんよ」
「そんなこと、わかつてるわ」
笑ひこけるやうに、からだを曲げて、彼女はあらためて彼の服装に注意した。別に、どこと云つて特徴のない服装であつた。チョッキのポケットに幾本も鉛筆が差してある。それが曲者と云へば曲者であつた。
ぢつと考へてゐると、今度は、彼の方で、腹をかかへて笑ひだした。かつがれてゐるのかしらと思ひ、何処からが嘘なのか、それを相手の顔で読まうとしたが、もうなにがなんだかわからなくなつた。
「ひどいわ、そんないい加減なことばつかり……」
拗ねてみせると、彼は慌てて真面目になり、
「ぢやね、歩く商売つて、どんなのがあるか考へてごらんなさい。先づ、なんです?」
「知らないわ、あたし、そんなこと……」
「知つてなくつちや困るでせう。現代の職業は凡そ複雑だからなあ。ハズバンドを選ぶんだつて、第一条件は、それぢやありませんか」
「さうかしら……」
と、何気なく首をかしげて、彼女は、ぽつと顔を赤くした。が、その途端に、安里のことを思ひ出した。──さうさう、もうとつくに九時だ。ひよいと、停留場の方を振り返つた。いつの間に電車が着いたのか、安里はもうそこに来てゐた。おまけに、こつちを見てゐる。待合室の入口にもたれたまま、彼女の方へ手を挙げて、ここだといふ合図をしてゐるのである。
嶺太郎へは挨拶もそこそこ、彼女は、そつちへ駈け出して行つた。いきなり両手を取り合ひ、胸と胸とが触れるほどに二人はからだを近づけた。
「随分待つた?」
「ううん……誰さ、あれ……?」
そこで、彼女は小声で囁いた。
「あれはね、お友達の兄さん……熊岡嶺太郎つていふ人……もと商大にゐたのよ。家がご近所だつたし、よくテニスをしたわ……。いい人……とつてもいい人……」
「そんなに力を入れて云はなくたつていいよ。なるほど、さうらしいや。横目でこつちを見てやがるぜ」
「やがるなんて云ふもんぢやないわ。あれで、家はいいのよ、お父さんは少将よ」
「少将なんてなんでもないや。なんだい、あの洋服の恰好は……見世物の猿だ、まるで……」
「どうしてそんな悪口云ふの。いま自分で働いてるんですつて……。なにか変つた商売らしいわ。そんなにぢろぢろ見るもんぢやなくつてよ」
安里は、くるりと踵で廻つて、いきなり口笛を吹きだした。彼女には、気づまりな一瞬であつた。
「何処へ行く?」
肩を抱くやうにして、彼は彼女を引寄せた。次の電車を待つのが待ちきれなかつた。彼女は、
「このへん、すこし歩いてみないこと? その道をずつと行くと、まるで田舎の村なのよ。あたし、百姓家のお庭をのぞいて歩くの大好きさ」
さう云ひながら、そつと彼の腕を払ひのけて、どしどし先へ歩き出した。
後ろで嶺太郎がまだこつちを見てゐると思ふと、からだがこはばり、襟筋がむづむづする。その気持から早く逃れたい一心に、彼女は安里をかまつてゐられなかつた。が、安里が大股に後を追つて来る。その跫音を聞きながら、彼女は、自分で自分が怖ろしくなつた。やつと曲り角へ辿りつくと、いきなり、そこへ来た安里の胸へ飛びついて行つた。
「ああ、呼吸がきれた。ほらね、ここからが田舎よ。ごらんなさい、あの竹藪……もう筍が出てやしないかしら……?」
安里は黙つてゐた。
梨枝子は、ひとりではしやいだ。畑が見えると、畝を伝つて、菜の花を折つて来た。
「ぢつとしてんのよ……いいからみてらつしやいよ」
その花を彼の釦孔に挿して、その序でに、大急ぎでキスをした。
安里の機嫌はまだなほらなかつた。
何処かで豚が鼻を鳴らしてゐた。それを聞きつけて、彼女は正体を見届けようと云ひだした。それには興味のなささうな安里を無理矢理に奥まつた路地に引つ張り込んだ。薄暗い納屋の蔭に、果して豚小屋があつた。母屋の方には人影が見えない。彼女は、つかつかと中庭を横切つて、小屋の前へ行つてしやがんだ。
「来てごらんなさい、早く……二匹よ……あら可愛い仔豚が乳を飲んでてよ」
安里は、渋々近づいて、小屋をちらりとのぞき、すぐにそこを離れて、母屋の縁先から家の内部を隈なく眺めまはした。
「いやよ、泥棒にはいる気ぢやない」
その戯談も効果がなかつた。彼は、引つ返して来て、今度は納屋の戸口へ首を突つ込んだ。そして、そのまま、その中へ姿をかくした。どうしたのかと、彼女もつい腰をあげて戸口からこはごは中をのぞき込んだ時、藁束のやうなものが一面に敷いてある上へ、安里があふむけに寝そべつてゐる姿を見て驚いた。
「いやだわ、なにしてんのよ」
頭がどつちを向いてゐるのか、それを確めるために、一足そばへ寄つたはづみに、何かに躓いて、前へのめつた。そこへ安里の両手が、ぐつと伸びたと思ふと、彼女のからだは軽々と彼の手の上に支へられてゐた。一切は無言であつた。わづかひと筋の糸のやうな光線が一隅に射し込んでゐる。彼女は、唇を噛んで、そのか細い光に眼を注いでゐた……。
かツと明るみに出た時、彼女は安里の腕に辛うじて支へられてゐる自身を見た。まだ生きてゐたのかと思ふくらゐであつた。
安里は相変らず口を利かうとしなかつた。
彼女は、しかし、彼が何か云ひ出しはせぬかと、寧ろそれを怖れてゐた。何よりも、彼に顔を見られたくなかつた。泣きたいほど口惜しいのだが、ただ口惜しさともわけが違つてゐた。すべてを与へたのだといふ矜のやうな気持が湧いてゐるにはゐた。なぜもつとうれしくないのだらう……? すべての恋人たちが追ひ求める幸福とは、こんな切ない、眼を伏せずにはゐられないやうなのであらうか?
路地を抜け切ると、両側が一段高い畑になつてゐる小径に出た。土手には、名のわからない花が咲いてゐた。彼女は、無意識に、その花をあちこちと摘んで、鼻の先で弄んだ。そして、惜しげもなく、捨てた。前を歩いて行く安里の背中に、藁すべが一筋、ぶら下つてゐた。取らうかどうしようか、迷つた。ふと、可笑しさがこみ上げて来た。それとは知らずに、肩を振り振り、すまして歩いてゐる彼が、なんとしても滑稽であつた。彼女は、路ばたに腰をおろした。彼は、やつとこつちを振り返つた。はじめて彼の眼が笑つてゐた。と、どうしたわけか、ぐつと胸がつまつて、彼女は、慌てて両手を顔へもつていつた。涙が容赦なくあふれ出る。それを誤魔化す気もなく、寧ろ、自然に、肩をゆすつてくすくすと声をたてて笑つた。
その日の午後梨枝子は安里を送つて横浜へ行き、夕食をピッコロミリ夫人の家で食べ、さて、帰る時間になると、彼女は、急き立てる夫人に向つて、寄宿へ帰るのはいやだと宣言した。
安里もちよつと驚いた風をしたが、夫人は、更に面喰つた様子であつた。
「梨枝ちやん、そんなこと云つてると、ほんとに遅れますよ」
「いやだつたら、いやよ。もう、学校へ行くのもいや、あたし……」
「どうしてさ」
夫人は、半信半疑で、その顔をのぞき込んだ。
「どうしてでも……。つまんないから……」
彼女は、平気だつた。さういふことが、すらすらと運ぶものと信じてゐるらしかつた。
「困つたね。どうする、安里さん……? 一人で帰るのが淋しけれやもう一度ついてつてあげなさいよ」
「淋しいんぢやないわよ。どこにゐたつて、そんなことおんなじだわ」
あとは、独言のやうに声を消した。
「なんとか云つたら、ねえ、安里さん……。あんたのことぢやないの」
さう云はれて、安里は、にやにや笑ひながら、梨枝子のそばへ寄つて行つた。
「馬鹿だなあ……駄々をこねてるんだらう。あと一週間の我慢ぢやないか。また迎へに行つてあげるよ。さ、駅まで送つてけばいいだらう」
しかし、梨枝子は動かうとしない。で、たうとうそのままになつてしまつた。つまり、学校は、何時やめるともなくやめてしまつたのである。その代り、家のなかで甲斐甲斐しく働きだした。もちろん、なんでもない夫人の手伝ひをするに過ぎないのだが、それをさも面白さうに、しかも注意深くやるのを見て、夫人は、この娘の趣味がどういふところにあるのか、てんで見当がつかなくなつた。それを萱野夫妻に話すと、二人は、上機嫌で、息子の嫁が家庭向きなのは何よりだと月並にきめてしまつたが、ピッコロミリ夫人は、それはそれとして、その底にもつとなにかがあるやうな気がしてゐた。
果して、幾週間か過ぎると、梨枝子の態度はがらりと変つて来た。
ある晩のことである。彼女が安里と遅くまで海岸を歩いたと云つて帰つて来た時、夫人は食堂で編物をしてゐたが、わざと顔をあげずに、
「おかへり、まあ、そこへかけたら……」
と云つた。そつと椅子を引寄せて坐る気配がした。
「どう、面白かつた? 毎日二人で遊びに出てばかりゐてよく飽きないわね」
少しも皮肉を交へずに、夫人は、優しくさう云つてみた。すると、
「あたし、もう飽きたの」
梨枝子は、即座に答へた。思ひがけない絶望的な調子であつた。夫人は、はつと、眼をあげて、もう一度その調子をたしかめようとした。
「飽きたつて、どういふの? まさか、安里のことぢやないでせう!」
返事を一つ時躊つた後、
「さあ、なんて云つたらいいかしら……。だつて、おんなじことばつかり、云つたり、したり……あの人つたら、あたしの面白いと思ふこと、ちつとも面白がらないのよ。映画だつて、さうよ。可笑しくなけれやつまんないんですつて……」
「おや、おや、もう意見の衝突ね。だからさ、もつと会ふ時間を短く、今のうちは、まあ、三日に一度ぐらゐにしとかなけや駄目よ。でも、明日になると、また会ひたいんでせう?」
梨枝子は、そこで、自分でも矛盾を意識したやうに、軽くうなづいて、憚るやうな笑顔を作つた。彼女は云ひたいことが、胸につかへてゐた。できれば、いろんな疑問も晴らしてしまひたかつた。実際、もう、今となつては、安里なしには生きて行けない気持と、その安里が、もつとどうかしてゐさへすれば、もつともつと好きになれるだらうと思ふ焦れつたさ、それとこれとを、どういふ風に処理していいか、これは、彼女にとつて、はつきりさうと云ひ現はすこともできないほどの複雑な問題であつた。
ひとりきりになると、彼女は、安里のあの激しい抱擁と、その瞬間の波立つ自分のすべてを、半ば夢のやうに想ひ起すのが常であつた。が、それは、要するに、与へるよろこびに過ぎなかつた。彼女は、彼がまだ何処かに隠してゐるに違ひない力強いもの、気高いもの、しみじみとしたものを、探し求めてゐるのだといふことは、ふと、どうかしたはづみに、この頃になつて、死んだ弘のこと、ついこの間遭つた嶺太郎のことなどを、妙に懐しく思ひ出すことでも明らかに察しられるのであるが、何ものも、それをさうと知らせない時代、年齢といふものがあるのである。
さういふ状態のまま、彼女は、五月のある風の強い日、山の手の天主堂へ、初々しい花嫁姿を現はした。
タキシイドのぴつたり合つた新郎安里の腕に支へられて、彼女の眼はうつとりとしてゐた。叔母の一枝も、その日は式に参列する筈であつたが、何時まで経つてもやつて来なかつた。
ニューグランドの披露も、小人数のささやかなパアティイであつた。
萱野氏の意見で、新婚旅行は不必要といふことになり、秋には仏蘭西へ連れて行く約束で、安里もやつと納得した。ホテルを出ると、萱野氏は、梨枝子の耳もとへ、小声で囁いた。
「自動車へだけ二人で乗せてあげよう」
港には白い波頭が光り、プロムナアドには人影が稀であつた。
車のなかで、安里は欠伸を噛み殺した。梨枝子は、それを見て見ないふりをし、もう幾度も二人きりで半日を過したこれからの自分たちの部屋を、もつと綺麗に飾つてやらうと考へてゐた。
あんまり音沙汰がないのは不思議だといふので、ピッコロミリ夫人は、梨枝子を誘つて、前触れもせずに叔母の一枝を訪ねてみた。すると、どうしたわけか、門がかたく鎖されて、「阿久津」といふ標札も剥がしてある。近所で訊ねやうにも、近所は遠かつた。それでも念のために、少しはなれた雑貨屋で様子をきくと、別に引越しをした模様はないといふのである。ただ、この四五日奥さんの姿を見かけないところをみると、旅行でもなすつてらつしやるんぢやないかと、別に気にも留めてゐないらしい口ぶりであつた。訪ねて来る客はないかと問うても、一向にしかとした返事は引出せない。出入の商人にでもと思つたが、大袈裟になるので、そのまま引つ返すことにした。
「なに、調べればすぐにわかるよ。だけど、まあ、当分そつとしておかう。向うからなんとか知らせて来るまで黙つてる方がいいかも知れない……」
ピッコロミリ夫人は、梨枝子を顧みて、さう云つた。
自分の住みなれた家が、かうして打ちすてられてあることが、梨枝子には、たまらないやうな気持を味はせた。もう一度、外からでもいい、あの窓々をぢつと眺めでもしたかつた。なにひとつ変つてゐないあたりの様子にも心を惹かれた。と、急に、あの林の向う側にチャペルの塔だけが見える学校の方へ視線が吸ひ寄せられた。あそこで寝起きをしてゐたのが、ついこの間までのことだといふのが、どうしても嘘のやうな気がした。
「ねえ、をばさま、あたし、変でしやうがないわ……」
思ひ出したやうに、彼女は夫人に追ひ縋つて、いきなりさう云つた。
「なにが変なのさ?」
「なにもかも……。月日が自然に流れてゐないやうな気がするの」
さういふ云ひ方は自分でもをかしかつたが、夫人は、忽ち、声をたてて笑つた。
「面白いことを云ふのね、あんたは……。さういふことつて、よくありますよ。あたしも、主人をなくした当座は、丁度そんな風に思つたね」
「どうしてでせう……」
「さあ、どうしてだか……まあ、急に年を取るとでも云ふんですかね。それやさうよ。あんたなんか、女学生から急に奥さんになつたんだもの……」
二人はしばらく黙つて歩いた。
駅で切符を買ふ段になると、彼女は、だしぬけに夫人の腕をつかまへて、
「あたし、横浜へ帰るの、いやんなつたわ。安里の顔、みるの、いや……」
ぢつと、眼を据ゑて、常子夫人は、なんと応じたものか迷つてゐるらしかつた。
「あの家に、一人つきりでゐたいわ。淋しくなんかないのよ。あたし」
そこで、夫人は、やつと、
「だれも、あんたが淋しいのなんか心配してやしないよ。その前に、あんたはどうなるのか、安里はどうなるのか、それを考へてごらん。つまらないこと云ひ出すもんぢやありませんよ」
が、梨枝子はもう、今来た道を、すたすたと逆戻りをしはじめた。夫人はあつけに取られて、それを見送つてゐたが、戯談とも思へないので、大きく溜息をつくと一緒に、これも、彼女の後を追ひかけた。
「梨枝ちやん、いい加減におしよ。をばさん怒つてよ」
人通りのない新開地の裏通りを、かうして、一町も来たところで、夫人は、強く梨枝子の肩をつかんだ。
「急にそんなこと云ひだしたつて、をばさん、わけがわかりませんよ。だから、わけをおつしやいよ、わけを……。安里がどうかしたの?」
梨枝子は、首を振るだけである。そして、また、逃げるやうに、今度は、駈けだした。
途方に暮れたピッコロミリ夫人は、この手におへない我儘ぶりを、ほんとに怒つていいのかどうか、それさへ判断をつけかねて、一つ時、道ばたに佇んでゐた。梨枝子の後ろ姿がだんだん小さく見えはじめた。何れにしても、あの足と競走は断念しなければならぬ。なにを目指して、あんなに急ぐのであらう? 留守番もゐない、あの広い邸へ、ほんとに飛び込んで行くつもりだらうか。戸締りがしてあるのをどうするつもりであらう? ただ単なる少女の感傷か? それとも、思ひつめて、気でも狂つたか。
もう、彼女の影も形も見えなかつた。
──勝手にするがいい。
さう、腹のなかで云つてはみたが、さすがにそこまで強くも出られなかつた。駅へ引つ返して、たつた一台のタクシイを見つけたのは幸ひであつた。
「阿久津さんのお邸、知つてるでせう。お留守のことはわかつてるの。ちよつと、外から家を見たいから……」
十町あまりの道を、急がせて、門まで乗りつけると、梨枝子はそこにゐなかつた。車を降りて、屋敷の外側を、小径に沿つて、裏の方へ廻つてみた。木戸にはやはり錠がおりてゐた。が、ふと、鉄網を張つた柵の隙間から、庭に面したテラスの上をみると、どこをどうして越えたのか、梨枝子がそこで、膝をついて、ホールの硝子戸に顔を押しあてたままさめざめと泣いてゐる様子であつた。
耳をすますと、とぎれとぎれに、
──お祖母さま……お祖母さま……。
と、呼ぶ声が聞えた。
──こんなにご無沙汰するつもりはなかつたのですが、わたしの身辺にもいろいろ煩はしい問題が起り、先月の終りに井荻の家を引払つて、いま表記の通りアパアト住ひをしてゐます。
あなたの結婚式に出られなかつたことはほんとに残念でした。ピッコロミリの奥さまにも済まないと思つてゐます。でも決してあなたのことを忘れてゐるのではありません。何時かわたしの気持にもゆとりができ、あなたの方でもたつた一人の叔母がどうしてゐるだらうかと想ひ出して下さる時が来たら、きつと昔どほり、勝手なことを云ひ合ふ間柄になれると思ひます。
さて、今日突然お便りをする気になつたのは、昨夜ある旧い知合ひの方から、偶然パパのお話を伺ひ、これは是非ともあなたの耳に入れておかなければならないと思つたからです。その方も直接パパにお会ひになつたわけではないさうですけれど、なんでも今、印度支那のハノイ(河内と書くんださうです)とかいふところにいらつしやるとか、そこへお着きになる早々おからだの加減がわるく、ずつと床についたままでいらつしやるといふことです。あなたのところへも多分そんなことは云つておよこしにならないだらうし、あたしからお見舞をあげるのはどうかと思つたもんだから、とにかく、あなたとご相談して、こつちから、適当な方法をとらうと思ふんです。なにしろ遠いところだから、おいそれとなんにもできはしませんが、もう少し詳しい様子を知りたいものです。パパは、あの通りあたしを嫌つておいでだけれど、こつちはなんとも思つてゐないのよ。昔からああいふ人なんですもの。あなたのことだつて、世間の父親なみに心配はしてゐなさるにきまつてゐます。ただ、可愛がりやうが一風変つてゐるといふだけなんです。むろんエゴイストといふ点では弁護の余地はないわ。でも、エゴイストにだつて愛情はあるんですからね。
あたしの方でも、できるだけ調べてみますから、あなたも、ピッコロミリの奥さまにお願ひして、なるべく早く向うの消息がはつきりわかるやうにして下さい。
ハノイには日本の領事館もあるらしく、そつちの方面からなにか手がかりが得られやしないかと思つてゐます。
では、ご機嫌よう、みなさんによろしく。
読みをはると、梨枝子はその手紙を黙つて安里の臥てゐる寝台の方へ差出した。
「ぢや、読んどいてね。あたし、あつちへ行くから……」
「ばあさん、まだ帰らないのかい?」
「シツ! サロンでママとお話してらつしやるのよ」
ピッコロミリ夫人のことである。この手紙は一枝から同夫人に宛てた手紙のなかへ同封してあつたのを、この時刻に、わざわざ持つて来てくれたのである。
安里は、外へ出ない時は、九時が鳴るときまつて床へはひる習慣であつた。
サロンへ帰ると、梨枝子はピッコロミリ夫人と姑の萱野夫人とに、叔母からの手紙の内容を話して聞かせた。
三人は、顔を見合せたまましばらく口が利けなかつた。まつたく、どうすればいいのだ!
しばらくたつて、安里がガウンをひつかけて現はれた。
「なんだい、これや、みんな勝手ぢやないか。僕たちになんの責任があるんだい?」
いきなり誰にともなく喰つてかかるのを、梨枝子は眼を伏せて聞かない風をしてゐた。
「リエット、お前のパパはまだ生きてたのかい? おれやちつとも知らなかつたよ。なんだぜ、君、会ひたけれや会ひに行つてもいいぜ」
脅やかすやうに、からだをねぢ向けて、彼は浴せかけた。
「安里、そんなに云はなくつたつていいでせう。それに、その恰好はなに……」
萱野夫人は眉を寄せながら息子をたしなめたが、梨枝子はその時、顔をあげて優しく、
「あなたも一緒に行つて下さるの? そんなら、あたし、お見舞に行きたいわ」
「戯談云ふなよ」
と、安里は空うそぶいた。
「君はなんのためにお嫁に来たの? しよつちゆう外のことばかり考へてるぢやないか。僕の方をちやんと見てゐられないのかい? なんかかんか理由をつけて、僕のそばにゐない工夫ばかりしてるね。それや、いつたいどういふんだい?」
ピッコロミリ夫人が、そこで何か云はうとしたが、その前に梨枝子は、
「あら、うそよ……そんなこと、ちつともないわ……」
力をこめてさう云ひ返す、その調子はもう精がないといふ風であつた。
さういふことがあつて、はじめて、安里の梨枝子に対する仕打に妻として忍び難いものがあるのではないかと、ピッコロミリ夫人も察するやうになり、内々萱野夫人にその話を持ちかけてみたのだが、
「でも、仲の好い時は、それや仲が好いんですからね。親の眼からですけれど、安里だつてさう野蛮な人間ぢやありませんし、ただおそろしく神経質なんですよ。さう云へば、梨枝子つていふ娘はどうかすると冷たく見えることがありますね。気を使つてないわけぢやないんだけど、男にしてみれば、物足りないところがあるかも知れませんよ。尤も、まだ年が年だから……」
「さうですかね、あんな人懐つこい娘は少いと思つてたんだけど……やつぱり年ですかねえ」
他人にはこれだけのことしかわからないのであるが、実際は、梨枝子にしてみると、誰にも云へない苦しみがあり、安里に云はせると、こんなつもりで彼女と結婚したのではないのである。安里は口癖のやうに、女はもつと「アムールーズ」でなければ駄目だと云ふ。「アムールーズ」とは、女の恋心について、フランス語でまあ「濃厚な」とか、「旺盛な」とかいふぐらゐの意味だらうが、梨枝子には、そのことが既にもうよくは呑み込めなかつた。が、さういふ安里を彼女は愛してゐないとは云へなかつた。「ここへおいで」と云はれれば胸ををどらして飛びついて行く。ところが、そんな場合にきまつて、愛撫の伴奏のやうに小言が混るのである。そこで、彼女は忽ち索漠とした気持になり、眼をおしつぶつて外のことを考へはじめる。例へば、海岸の好い景色のこと、晴れた空に浮ぶ飛行機のこと、今度誂へようとする帽子の型のこと、来週オデオンで封切の映画のこと……、で、どうかするとそれを、つい口に出して云つてみるのである。と、ひどい時には安里の手が素早く頬へ飛んで、眼から火がでるくらゐである。彼女は、泣き出す。泣きながらぢつとするままになつてゐる。安里は、こんどは、「もつと泣け、もつと泣け」と云つてからかふ。
さういふことが、結婚以来、殆んど、毎日と云つていいのである。自分でも、どうしていいかわからない。たしかに、瞬間的には、反感をもち、軽蔑したくなり、早く逃げ出したいとさへ思ふこともあるが、そして、さういふ時不思議に死んだ従兄の弘のことや、この間道傍で遇つた嶺太郎のことなど思ひ出す癖がついたのだけれど、それは自分でも怖ろしいことだと気がとがめ、最初安里と識り合つた軽井沢の夏の生活を楽しく振り返つてみると、今かうして「あの人」のそばにゐる幸福がどうしてわからないんだらうと、ひとりでに淋しい微笑が浮んで来るのであつた。
さういふわけで、つい、叔母の一枝に返事を出すことさへ億劫な気がして、一日二日と延ばしてゐるうちに、たうとう一週間たつてしまつた。
はげしい胸騒ぎといつしよに、父の病気のことを急に思ひ出したので、今日こそは叔母を訪ねようと、朝、床を離れる時に、そつと安里にそのことを云つてみた。すると、安里は、
「うん、行くのはいいさ。だけど、叔母さんていふ人は、失敬だぜ。それだけ覚えとけよ」
と、さも憎々しげに云つてから、彼女のシュミイズの肩へいやといふほど噛みついた。
「あいたツ」
彼女はさう叫んで、跳ね起きた。
彼は悠々と枕の下から、一枚の写真を取り出してにやにやと眺め入つた。映画女優かなにかのブロマイドである。
「この女、知つてるかい? 知らないだらう」
黙つて返事をしないでゐると、
「まあ、いいや、早く叔母さんのとこへ行つて来いよ。今夜は泊つて来てもいいぜ。僕は、この女と会ふ約束をしてるんだ」
と、云ひ終るが否や、その写真を唇の上へ押しつけた。
ピッコロミリ夫人の家へ駈け込むまで、梨枝子は無我夢中であつたが、夫人の顔を見ると、なんとしても事実をありのままに云ふことができず、しばらくもぢもぢしてゐるうちに、夫人は、なにか察したらしく、大仰に両手を腰にあてて、やれやれといふ風に肩で溜息をついてみせた。
「また喧嘩をして来ましたね。困つた人たちだこと……安里がどんな悪いことをしたの?」
と、それでも、味方は味方らしく、どんな相談にでも乗るといふ身構へであつた。梨枝子もいくぶん救はれた気持になり、故ら甘へた声で、
「をばさま……あたしどうしていいかわかんないわ、安里が無理なことばつかり云ふんですもの……ううん、今朝はさうでもないんだけど……いやなのよ、あたし、ああいふひと……なんでもかんでも、あのひとのすること、もうどうしても我慢ができないわ……だからどうすればいいの? ねえ、をばさま、パパんとこへ行つちやいけない?」
咄嗟に考へついたことだけれども、相手の顔色を見ながら、彼女はさう云ひだすより仕方がなかつた。
「まあ、お待ちなさい。あんたがさういふ決心をしたのなら、もう少しをばさんにも考へさして頂戴。で、いつたいどんなことなの、我慢ができないつて……」
夫人の問ひに、彼女は黙つて眼を伏せた。そのあとは、夫人がひとりでしやべつた。それも、彼女の気持を翻へさせようとする努力にすぎなかつた。しかし、彼女が一口も返事をせず、ぢつと空を見つめた眼にだんだん涙がにじんで来るのを見て、たうとう根気負けがしたらしく、
「ぢや、しかたがないから、しばらくをばさんのうちに来ててもいいわ。そのうちにまた、なんとかいい方法を考へませう」
と云ひはしたが、実は、途方に暮れた様子であつた。
梨枝子は、その日の午後、小石川のアパアトへ叔母の一枝を訪ねると云つて出て行つた。叔母は生憎留守であつた。夕方までには帰るだらうといふ事務員の言葉をあてにして、彼女は、その間に銀座でもぶらついて来ようと思つた。いろんなことで頭がいつぱいだつた。なにが当面の問題であるかさへ、自分にもはつきりわからないくらゐである。が、とにかく、眼の前が真つ暗だといふことは事実なのだ。それだけのことは、かうして一歩一歩鋪道の上をふみしめてゐてもわかるのだつた。
初夏の太陽が、皮肉にも眩しすぎた。彼女は、タクシイを拾つて、このまま、何処へでも連れてつてくれと云ひたかつた。しかし、問はれるままに、低く「新橋」と答へた。
その晩、ピッコロミリ夫人は、晩くまで梨枝子の帰るのを待つてゐたが、遂に姿を見せなかつた。小石川の叔母のところで泊つたか、さもなければ、あんなことを云つてゐながら直接安里のそばへ帰つて行つたのであらうと、そのまま床にはひつたが、翌日になると、萱野夫人が顔色を変へてやつて来た。
ピッコロミリ夫人は、とりあへず一枝のアパアトへ電話をかけてみようと云つた。一枝の返事では、昨日昼頃、来るには来たらしいが、留守で会へず、それから先のことはわからぬといふことであつた。
更めて、安里の訊問がはじまつた。彼は昨夜二時過ぎに帰つて来て梨枝子のゐないのにはツと思ひはしたが、瘠我慢をはつて今朝まで知らん顔をしてゐたのである。母親とピッコロミリ夫人とに交るがはる問ひつめられて、梨枝子を怒らした原因をやつと告白した。
「その写真をみせてごらん」
萱野夫人は、安里の渋々差出すブロマイドにしばらく眺め入つたが、いきなりそれをずたずたに引き裂いた。ピッコロミリ夫人は、その早業を笑ふにも笑へず、安里の照れ臭ささうな顔をちらと横目で見て、いくどもうなづいた。
萱野氏は早速警察へ捜索願を出した。
二日三日とたつても梨枝子の行方は杳としてわからない。安里は癇癪をおこしたり、生意地なく鬱ぎ込んだり、あてもなく市中をさ迷ひ歩いたりした。
殆んどその頃、横浜入港のフランス・メール・スフィンクスの三等船客でマダム・クラビンスキイと名乗る女が、波止場の人力車に「ここへ」と云つて、一片の紙ぎれを見せた。その紙ぎれには、立派に日本語でピッコロミリ夫人の宛名と住所とが書いてあつた。
ピッコロミリ夫人が、この意外な訪問客を玄関へ迎へると、いきなりその女は伊太利語でかう初対面の挨拶をした。
「親愛なる奥さま、前触れもなくお訪ねしたことをお許し下さい。わたしは、あなたの家族的な友人、郷田廉介の現在の妻です。お驚きになるかも知れませんが、この手紙をごらん下さい。彼は今、印度支那にゐます。ハノイの郊外の、みすぼらしいアパアトで呻いてゐます。癒る見込みのない病気と、私たち二人の力では打克つことのできない貧窮のためにです。とにかく、この手紙をお読み下さい。わたしは、彼の運命と私の愛とをかけて、単身、お国のどなたかに救ひを求めに来たのです」
その手紙といふのはまさしく廉介の筆蹟に違ひなかつた。やがて、客間へ通ると、
「海がひどく荒れて、こんな苦しい旅はしたことがありません。日本に近づくほど暗くなる空……燻んだ港々の景色……沙漠のやうなヨコハマ……わたし、こんなところに幸福があるのかと思ひました。あなたにお目にかかれて、こんなうれしいことはありません……」
と、その女はのべつ幕なしに喋つた。
ピッコロミリ夫人は、黙つて手紙を読み続けた。
──詳しいことはこの婦人からお聞き下さい。先づ娘梨枝子のことで万々お礼を申上げねばなりませぬが、今、小生の危急は、死ぬにも死なれぬといふことです。金を費ひ果した瞬間に一生を終るといふ目論見が外れて、懐中無一物の今日、病躯を異郷に横たへてゐる始末です。この手紙持参の婦人は、前身はともあれ、当地に於て公に小生の妻と名乗る女性ですからご心配なくご引見下さい。半ば当人の決意でもあり、小生としても結果の如何に拘はらず、これを最後として妹一枝並に萱野家の同情に縋りたく存じます。其許様のご配慮お取なしを伏して懇願いたす次第です。
「いつたいご病気といふのは、どこがわるいんですか」
ピッコロミリ夫人は、そこで訊ねた。すると、女は、肩をぴくんとあげたきり、しばらく口を開かずにゐたが、やつと、
「どこもかしこも……第一に疲労です、勉強の疲れ……毎晩殆んど眠りません。おお、それは、わたしの罪ではないのです」
前身云々と手紙にもある通り、この女の素性は、あらかた見当がついてゐる。ピッコロミリ夫人は、さういふ類ひの女をいくたりか識つてゐる。植民地稼ぎの商売女と言へば、海千山千のしたたか者のやうに聞えるけれど、さういふ風な女さへ、何処か捨鉢な人情のやうなものが残つてゐて、それが却つて、普通の人間には想像もつかない義侠心の形をとり、しばしば朋輩や好きになつた男のために自分を投げ出して悔いないことがあるのである。
「あなたのお国は」
夫人は訊ねた。
「わたし、マケドニヤの生れです。ナポリに永くゐました。それからポートセード、ヂブチ、それから一度マルセイユへ行つて、こんどはハノイ……どこもおなじですよ。マダムのお話、廉介からよく伺つてゐます。あなたは仕合せですね。気楽な未亡人が一番よろしい」
「あなただつて、お金溜めようと思へば溜められたでせうに……」
「自分で稼いだお金は、使はなけれやつまりません。今のわたしはどんなに辛いことでせう。きまつた男をもてばお金は一文もはいらないし、稼げば楽になるとわかつてゐながら、それはあんまりあの人が可哀さうだし……やつと旅費だけこしらへました、内証で……」
さう云つて、女は片眼をつぶつて笑つた。扮りの野暮つたさに拘はらず、顔だちは整ひすぎるほど整つて、瞳が黒々と澄んでゐた。よく見ると、多少アラビヤの血が混つてゐさうな皮膚に、もう小皺が寄つてゐるとこは、好い加減な年に違ひないが、笑顔が妙に派手で、声も弱々しいわりに明るかつた。
さういふ印象が、ピッコロミリ夫人を寧ろ惹きつけたと云つてよく、だんだん打ちとけた話ぶりで、
「男の苦労ならあたしもちつとはしてますからね、まあ、できるだけのことはしてみませう。ムッシュウはなんて云つたか知りませんけど、日本にだつてさうさう鷹揚な人ばかりはゐませんからね。ところで、これは云つとかなきやならないけど……」
と、梨枝子の出奔事件で萱野家は、今、ごつた返しだといふことを耳に入れた。女は驚いたらしく、
「その娘さんには会ふなといふことだつたんです。でも、一と目会つて帰るつもりでした。それや大変ですね」
と云つて、しんみり考へ込む風をした。
前の晩からしとしとと小雨の降り続いた日の朝方である。
新橋駅から遠くない裏通りを、路地から路地へ抜けて行くと、不思議な一角へ出る。表は相当な門構へで、石畳がずつと玄関へ続いてゐる古めかしい住宅風の一軒建であるが、その建物は二階だけが洋館作りになつてをり、正面に窓が三つ、それがひとつびとつ、半開きに開け放されて、女物の長襦袢やスカートが手摺にかけてある。
玄関わきの事務所らしい部屋から、丸髷の中年増が奥へかう声をかけた。
「おい、そこに誰かゐる? 三号の間部さんにお電話」
やがて降りて来た若い女が、受話機を取つて
「なんだ、梨枝ちやんか……え? また調べに来た? うるさいのね……ぢや、早く抜け出しておいでよ。うん、あたし、まだゐる……ええと……今日は休んでもいいよ。愚図愚図してちや駄目よ」
そのまま、すたすたと階段をあがつた。これは、梨枝子が女学校時代、寄宿舎で同じ部屋にゐた例の間部福子である。一旦父親のゐる南洋へ帰つてから、あらためて上の学校へはひる目的で東京へ出て来たのだが、ふとしたことから生活が荒み、仕送りはそのまま、小遣の不足はなにをしても稼げるといふ度胸のよさが、彼女をこんなところへ巣くはせたのである。
で、あの日、梨枝子の後ろ姿を銀座で見かけ、追ひついてポンと背中を叩いたのが二人の再会であつた。そして、そんなら、あたしのところへと云つて引つ張つて行かれ、ぶらぶらしてるより働きなさいと、自分がこないだまでゐたといふ一軒の酒場へ住み込ませてくれたのである。
珍しい和服姿で、梨枝子は間もなく、この家の門を潜つた。
「どうだい? 落ちつけさうもない? ぢやしかたがないから、方面を変へるかな」
「うん……仕事は楽なんだけど……ただお酒飲みつてこわいね」
梨枝子は、胸に手をあてて、眼をパチクリさせた。なんの屈托もなささうな、朗らかな様子に、福子もつい釣り込まれて、
「自分でも飲むやうにならなきや駄目さ」
「なんて、あんた飲める?」
「飲めるさ、飲まうと思や……」
「不良ね」
「そんなに用心するみたいな顔しなくつていいよ。いくら不良でも、芯はこれでも、淑女だからね。下品な真似はしないよ」
なにがなんだか梨枝子にはわからなかつた。とにかく、かうしてゐる間にもお巡りさんが調べに来やしないかと、それが気がかりでしやうがない。早くどこか安全なところへ隠れてしまひたい。押入れでもなんでもいい──そんな気がした。
福子は、その間に悠々と紅茶を入れはじめた。部屋はなかなか洒落た装飾がしてあつた。ベッドには友禅の夜着がのせてあるのがちよつと不釣合なだけで、テーブルには剪りたての花が挿してあり、壁に貼りつけた写真やポスタアもどこか西洋好みのすつきりとしたものばかりで、鋳物の本立には翻訳ものらしい小説類がぎつしり並んでゐた。そのくせ彼女は飽くまで和服主義とみえ、パーマネントをかけた断髪にぐつと、襟をつめた大柄の銘仙がなるほどよく似合ふやうに思はれた。
「いやだ、帯をもうそんなにぐたぐたにしてさ……手伝つたげるから締め直しなさい」
初めての借り着で自分ながら思ふやうに着こなせないのを、梨枝子は知らないではないが、今迄着てみたいとも思はなかつた和服をかうして身につけると、なにかしら新鮮な気持がして、つい楽しいのである。崩れるやうに笑つて、つと起ち上つた。
「お客が珍らしがつたらう? いやなこと云つたら返事しないだつていいのよ」
福子は、紅茶をひとつ梨枝子の前へ置いて、狂ほしくその頸を両手で抱へた。
その時、廊下を踏む荒々しい足響がして、いきなり入口の扉が開いた。
洋服を着た見知らぬ男が一人、帽子も脱がず、眼を光らせて、つかつかと部屋のなかへはひつて来た。
仏領印度支那の首都、河内の街はづれに、ぽつりと一軒の洋館が建つてゐて、「VILLA COTE D'AZUR」といふ門標がかかつてゐる。二階建の古びた白堊のファサードはこの土地で珍しくはないが、緑のはげたままになつてゐる鎧戸が、不気味に閉ぢられて、人の出入も極く稀れなのは、普通の住居にしては少しをかしい。正面の入口で、安南人のボーイが鼠革の女靴を一足、馬鹿丁寧に磨いてゐる。
口髭の生えた白人の老婆が、階下の窓からそのボーイに何やら云ひつけたらしい。ボーイは二階にあがつて行つた。
八月の真昼である。亜熱帯の無風季節は、太陽の直射と、湿気の多い空気とのために、戸外では呼吸をするのも苦しいくらゐである。灰色に乾いた路の上へ、ところどころ、血を滴らしたやうな真つ赤な汚点ができてゐる。土人が噛んで吐きだすビンロウジュの汁が、雨にも流されずそのまま固つてゐるのである。海防行きの列車が鉄橋を渡る音が聞える。
丁度、その時刻に、一台の人力車が、この「ヴィラ」の前で梶棒をおろした。中から、白服にヘルメットを被つた男が降りた。
門標をたしかめてから、つかつかと玄関の方へ歩いて行つて、ボーイに、
「ムッシュウ・ゴウダ、イレラ?」
と訊ねた。
「ムッシュウ・ゴウダ、ヰイ・ムッシュウ・イレラ」
かう答へはしたが、ボーイは、そのまま起ち上らうとしない。
「ケレ・ル・ニュメロ!」
男は更に訊ねた。
「ニュメロ・トロワ。アン・オー」
と、頤で上を指した、そのボーイの顔を、ぐつとにらんで、男は内へ姿を消した。
やがて、No3と書いた部屋の扉をノックして、彼はぢつと耳を澄ました。
「アントレ」
と、低い声が聞えた。
扉をあけると、いきなり、
「突然伺つて失礼ですが、僕、熊岡です。熊岡嶺太郎です。小父さん覚えておいでですか?」
寝床の上にやつと片肱をついたのは、云ふまでもなく郷田廉介で、髪は蓬々と左右に垂れ、頬はげつそりとこけ、眼は落ち窪んで、文字通り見る影もない姿であつた。しばらく返事もなく、空ろな視線をこの不意の訪問客にそそいでゐたが、やつと、
「熊岡さん……ええと……井荻の家でご近所だつた、あの熊岡さんか?」
「ええ、さうです。思ひがけないところでお目にかかります。実は、昨日ここへやつて来たんですが、今朝、東洋博物館で、館長にあなたのお話を伺つて……」
「ああ、さうですか、それはそれは……。ご旅行は、どういふ目的で? あ、そこの椅子へかけて下さい。うむ、やつとはつきりして来た。お妹さんがいらしつたな、梨枝子とお友達の……」
そこで廉介は、はじめて微かに笑つた。
「ええ、よくお邪魔にあがつたんですが、小父さんは書斎にばかりいらしつて、あんまりお目にかかる機会がありませんでしたから……。ご病気はよほどお悪いさうですが……如何ですか?」
「ありがたう。病気も病気だが、この通り貧乏になつちまつてね。なつちまつたもをかしいが、旅先ぢやどうすることもできんのでね。で、君はしばらく滞在ですか? 失敬、大儀だから横にさせてもらふ。君もどうか楽に……」
「どうぞ……。いいえ、さうゆつくりは出来ないんです。ある経済関係の雑誌に勤めてるもんですから、今度統計を作る必要上、社長の命令で南洋方面のスピード視察をやらされたんです」
熊岡嶺太郎は、あらましのことを聞いては来たのだが、この有様にはまつたく一驚した。東京の人たちはなにをしてゐるのであらうか? 家庭内の事情を詳しく知らないだけに、彼は、この惨澹たる父の消息を娘の梨枝子が知らない筈はないと思つた。
が、わざと梨枝子のことには触れず、
「阿久津の小母さんは、こんなことをご存じないんですか?」
と訊ねた。
「いや、もう知らせた。知らせないつもりだつたが、是非自分で知らせに出かけるといふ女がゐてね。……なに、今一緒になつてゐる女なんだが……もうそろそろ帰つて来てもいい時分だから、心待ちに待つてるところです。阿久津の妹は、しかし、なかなかガツチリしてるんでね。今迄、随分迷惑をかけたこともかけたが……。君もどうか、日本へ帰られたら、ちよつと訪ねて下さい。なにしろ、からだが自由にならんので閉口だ。生きるのにも死ぬのにも、自分の思ひどほりには行かんのだよ」
さう云つて、廉介は眼の縁を伝ふ涙を枕にすりつけた。
嶺太郎は、しばらく考へてゐたが、別に慰める言葉も見つからず、
「僕は、来週の火曜に海防を出るフランス・メールへ乗る筈になつてるんですが、それまでこの地方を中心にして少し調べものをしたいと思ふんです。何かご用がありましたら、ホテル・エクセルシオルへ使なり手紙なりいただけばわかるやうにしておきます。では、お大事に……」
外へ出ると、嶺太郎は、ほつとした。余計なひつかかりを作つたといふ後悔もなくはなかつた。しかし、一種の義憤に似た気持が、彼の心の一隅に燃えあがつて、すぐにも領事館を訪ねようとしたが、今迄の旅行で既に観たところでは、植民地で食ひつめた同胞の救護を政府当局に希望するなど沙汰の限りである。
彼は、一旦ホテルに引あげ、その人力に果物を一籠と日本から持つて来た羊羹の残りを届けさせた。
「それぢや、仲好く行つてらつしやい。小母さんも後から出掛けるかも知れませんよ」
ピッコロミリ夫人は、甲板を降りがけに、梨枝子と安里とに向つて云つた。
「パパにはよくさう云つて頂戴。あたしはもう裸も同然なんだから、これ以上のことはできませんからつてね。井荻の家がどうしても売れないこと、話せばわかるわ。それより、あんたこそからだに気をつけなさいよ」
叔母の一枝が、その後で、梨枝子をそつと指招いて、低く囁いた。
「とにかく、二人とも、これで一人前になるんだ。お互に我儘を云つちやいかんよ。マルセイユでは沢村が船まで迎へに出てる筈だが、ぼんやりしてるとわからんかも知れん。若し、見当らなかつたら、領事館へ行け。あとは、沢村によろしくやつて貰へ」
萱野氏は、安里へ七分、梨枝子へ三分話しかけた。
「途中、上陸して迷子にならないやうにね」
萱野夫人は、さう云つて、梨枝子の手を握つた。
ただ一人、マダム・クラビンスキイは三等甲板で、手もち無沙汰さうに手摺へ肱をもたせかけてゐた。
横浜をまさに出帆しようとしてゐるフランス船アンドレ・ルボンのこつちは二等甲板である。
桟橋から、めいめいはテープを投げ合つた。船客は全部で幾人と数へるほどしかなく、上海までは至極閑散なのがこの船の特色であつた。
「ボン・ヴォアイヤアジュ・メ・ザンファン! オオ、ルヴォアル」
萱野氏は、珍らしく仏蘭西語を使つた。息子の安里とも、家庭では絶対に異国語を使はないことにしてゐた彼である。
安里と梨枝子とは腕を組んでゐた。安里は元気さうに、梨枝子はやや淋しさうに笑つてゐた。
叔母の一枝は、ハンケチを口にあててゐた。梨枝子はそれをみて、自分も泣かなければわるいかしらと思つた。
「叔母さま、一枝叔母さま……ご機嫌よう、……お土産買つて来るわよ」
泣かうとしてか、泣くまいとしてか、彼女は声を限りに叫んだ。一枝は、ただ、いくどもうなづいただけで、返事をしなかつた。
「パパ……ママ……淋しかつたら、いらつしやいね」
「ほんとに行くかも知れないよ。不意に行きますよ」
萱野夫人は、急いでハンケチを出して眼ををさへた。すると、ピッコロミリ夫人も、同じやうに、ハンケチを探した。
船は動き出した。
「アディヨ!」
不意に、マダム・クラビンスキイが、からだを手摺から乗り出して下へ叫んだ。一同は、それに手を振つて応へた。
梨枝子は、警察からピッコロミリ夫人の手に引渡され、夫人は更に彼女を萱野家へ連れて帰つたわけだが、最初どうしても帰らぬといふ梨枝子をともかく、黙つて夫の家を出るといふ法はないから、いよいよ我慢ができなければ、ちやんと冷静に、その話を持ち出して、安里にも、両親にも承諾を得なければいかぬと云ひ聞かせたのである。
で、一旦、安里と両親の前で、「どうもすみません」とあやまらせ、さて、安里に、無断で家出させるといふのは、これは夫に寧ろ責任があるのだと、夫人は、きつぱり、云ひきつた。暇をくれとさへ云へぬやうな立場に細君を陥れては、もう男として世間に顔向けができぬ筈だとまで云はれてみると、安里も、頭をかかずにはゐられず、梨枝子の顔をみるまでは、自棄気味で、「もうあんな女は、こつちでごめんだ」などと強がりを云つてゐたのに、その晩は、梨枝子の前へ膝をついて、
「僕がわるかつた。ね、リエット、ごめんよ。ほんとにわるかつた、なにもかも……」
と、泣かんばかりにかき口説くので、梨枝子もついほろりとなり、崩れるやうに彼の腕に抱かれて、そのまま朝になつたのである。
完全に仲なほりができたとみて、萱野夫妻は、ピッコロミリ夫人にも相談して二人をしばらく巴里へ遊びにやることにした。勉強は無理、商売はあてにならず、やはり、思ひきつて遊んで来いといふほかはなかつた。
萱野氏がさういふことを思ひ立つた動機は、やはり彼等若い夫婦が純粋の日本人と違ひ、一緒に一日を楽しく暮す機会がないのがいけないのだといふ結論から生れたので、その言葉にピッコロミリ夫人は首をひねつたが、まあ、お金のある人は巴里で暮すに限ると、婉曲な同意のしかたをしたのである。
ところで、さうきまると、ハノイから来た廉介の使ひ、素性のわからぬマダム・クラビンスキイとやらをどう始末するかといふ問題が後に残る。が、これは三等の旅費でもやつて追ひ返すよりほか手はなく、廉介の方は、幸ひ船も寄ることであるし、梨枝子の手から直接に若干の見舞金を置かせることにしようと話がきまつた。
それについては、萱野家だけでそつちを引受ける義務もないのだから、一応阿久津の妹の方へも当つてみるべきだと、ピッコロミリ夫人の意見で、この方も、十分とは行かぬが千か二千の金ならばと、早速耳をそろへて出したのであつた。
いよいよ旅券もおり、船を決めるといふ時、萱野夫人が、一緒の船なら一人だけあの女を三等に乗せるのもと、いくぶん気兼をするのをピッコロミリ夫人は断乎として、いや、三等でかまはぬと云ひ切つた。
さて、船を見送つてから、後に残つた四人、萱野夫婦と一枝とピッコロミリ夫人とは、海岸の小ぢんまりとしたレストランで一と休みすることにした。
「ああ、これでやつと安心した」
ピッコロミリ夫人は、ソファに腰をおろすと、溜息まぢりに、一同を見まはして云つた。
「ほんとに……いろいろどうも……」
萱野夫人は、悔みを云はれたやうに、眼を伏せて礼を述べた。
「あたくしこそ、今まで何もお役に立ちませんで……。まつたく申わけございません」
一枝は、誰にともなく頭をさげるのを、萱野氏は、軽く笑つて、
「いや、なにしろ、むづかしい世の中です。人間一人が満足に育たないとなると、日本といふ国は、これや考へもんですぞ」
誰も、その言葉の意味がはつきりわかつたものはなかつた。
「人間一人つて、安里のことですか?」
萱野夫人が、恐るおそる訊ねた。
「うむ、なに、おれのつもりでは、安里だとか梨枝子だとかいふ種類の人間を云ふのだよ。われわれを生んだ土といふやつは、よほど変つた土と見える。種が少し違ふと、どうも根をおろさんでな……。その証拠に……まあ、そんな愚痴は云ふまい」
海岸のプロムナアドを、ラケット片手に、一組の白人の男女が、金髪を風になぶらせながら、大股に歩いてゐた。
並木の葉が二三枚、枝をはなれて、アスファルトの上を舞つて行つた。
安里は別人のやうに分別のある夫になつてゐた。
長い航海中、梨枝子を退屈させないために、あらゆる心づくしをみせた。すべてを彼女本位にした。波の静かな夜は、甲板に出て空の星を二人で眺めた。さういふ時、彼は朧ろげな記憶を辿つて、子供の時代を過した巴里のこと、彼が十五の時死んだ母親のこと、南仏の小都会にある母親の実家のことなどを、面白をかしく話してきかせた。
彼等の姿が、昼間、甲板にみえると、不意にマダム・クラビンスキイが三等客室の方からあがつて来ることがあつた。
彼女はフランス語の、それもひどく怪しい、いはゆる「プチ・ネーグル」と呼ばれる植民地的片言で二人になにかと話しかけるのだが、さういふ場合、安里はしかたがなしに相手になつて、揶揄ひ半分に彼女の帽子を褒めたりした。
梨枝子は、祖母の下枝子が生きてゐる頃は、よくフランス語の会話をしたものであるが、祖母がゐなくなつてからは、殆んどさういふ機会がなく、だんだん母の言葉を忘れて行く一方であつた。それゆゑ、安里とマダム・クラビンスキイとの間で、どうかすると馬鹿に話がはづんでゐても、やつと単語の意味がわかるくらゐで、そばから口を夾む気にはどうしてもなれなかつた。
「お前のパパはとても親切。お前に親切なやうに私にも親切。しかし勉強をしすぎた。地べたの中のことばかり勉強して、地べたの上のこと、勉強しなかつた。世の中のことさつぱり知らない。好い人間の心だけわかる。それは、彼が神により近い証拠だ。わたしたちは、みんな神と悪魔と両方の心をもつてゐる。彼は悪魔の心少ししかない。それは子供とおなじだ。日本人、みんな子供。支那人そんなことない。日本人、なぜ子供か? わたしわからない。多分、日本といふ国、苦しみ少ない国だらう。わたし、日本人の奥さんになつて、二人前苦しまなければならない」
そんな意味のことを、ところどころ、伊太利語を混ぜて、独言のやうに云ひつづけるのである。
さうかと思ふと、また、急に上機嫌になり、
「これは、お前、小さなマダムに云ふのだが、この小さなムッシュウは、世界一の美男子だ。好い眼をしてゐる。わたし、かういふ眼、大好き。ヨーロッパ人とアラビヤ人の混血児に多い眼。わたし、どこの国の男でも知つてゐる。支那人と黒ん坊を除いて。年を取つて独りでゐたら、支那人の奥さんになる。そのわけ知つてゐるか」
「もういいよ」
と、安里は、手を振つてみせる。すると、彼女は、横目でぢろりと安里をにらんで向うへ行つてしまふ。
梨枝子は、むろんその意味がさつぱりわからなかつたけれど、なんとなく、その話しぶりの卑しさ、殊に、最後の猥らな表情が頭にこびりつき、かういふ類ひの女と一緒に暮してゐる父の気が知れなかつた。しかし、仮にも、父の「奥さん」と名乗る女であつてみれば、自分の何にあたるかといふことを考へないわけに行かず、遠くから眼顔で会釈をされれば、精いつぱいの笑顔で挨拶を送るし、「おやすみ」と云つて手を出されれば、ことさら親しみを籠めてその手を握り返してゐたのである。
神戸では知合を訪ねるからと、こつちは諜し合せて別々の行動を取ることにしたが、上海では、たうとう後をつけて来られ、お蔭で見物も早く切り上げねばならぬ始末であつた。
梨枝子は、この大陸の国際都市で、はじめて日本以外の風景を見たわけである。そして、それは、悲しいことに、日本よりも住み心地のよささうな風景であつた。なぜなら、自分といふ存在が、そこでは、なにものでもないのである。周囲と同じであらうとする努力が、まつたく不必要であるやうに感じられた。
殊に、街の到るところに貼られてある「抗日何々」といふポスタアの意味を安里から教へられ、それが自分たちに向けられてゐる嶮しい眼であることを諒解しながら、どこかで白を切つてゐる自分の心持をどうすることもできないのである。
──あたしたちが日本人だつていふこと、わかるかしら?
ふとそんなことを安里の耳へ囁かうとして思ひ止まつた。安里の出かたはきまつてゐる。それが、こつちを安堵させるものではなく、却つて、妙に反揆させるものであるに違ひないことは、彼の平生の態度で見当がついてゐるからである。
香港は、一層、彼女の気に入つた。そこでは日本人街といふのを通つたが、なるほどと思つただけで、なんの感慨もおこらず、これに反して、クヰンス・ロードの店舗街から、植物園の方を歩いてみて、三々伍々、白人の家族が打ち連れて通るのに逢ひ、なにか身近な温かい空気を感じた。それは、横浜の外人の群と、どこか違つてゐた。日本にゐて、白人といふものにそれほど身近なものを感じることのないのは不思議と事実であつた。それが、ここへ来ると、まるで、あべこべだ。
そんなことも、安里はどう思ふか訊いてみたい。しかし、彼はさういふことに興味はないらしい。いや、そんなことは問題にせず、頭ごなしに、──おれたちの何処が日本人だ、と来るにきまつてゐる。それが、彼女には恐ろしく、もう飽きあきしてゐるのである。
話に聞いてゐるよりも美しい港の夜景を後に、船は、やがて最後のコースにはひつた。
今夜は荒海るかも知れぬと食堂のボーイにおどかされて、梨枝子は早くベッドに就いた。
安里は、さういふ時、いつでも、用心にと云つて「アダリン」を彼女に飲ませた。コップの水をうまさうに飲み乾すのを、自分で受け取つて、
「さ、早くおやすみ。電気を暗くしとくよ。僕、ここにゐるからね。安心して眼をおつぶり」
彼は、時々梨枝子の寝息をうかがふやうに顔を近づけ、頬に軽く唇を押しつけて、さて、自分もそろそろ上着を脱ぎなどする。
梨枝子は、よく眠つた。が、ふと何かに驚いて眼をさました。
「アンリ! アンリ! もう眠たの?」
上段のベッドへ声をかけた。返事がない。舷へ波がうちつけるのであらう、シヤア、シヤアと、絶え間なく水のはねる音がして、閉ぢた窓が闇の色をぎらぎらと映してゐる。
「アンリ! なんだか淋しいわ。どうして眼がさめたかしら……」
さう云ひながら、彼女は、そつとからだを起した。両足をずらしてスリッパを探すと、急いで電燈をつけた。
どうしたのだらう。上に寝てゐる筈の安里の姿が見えない。時計を見ると、もう十二時過ぎである。今時分、この天気に甲板でもあるまい。
ひどく蒸し暑い晩である。
ぢつと眼をすゑて、船の揺れ方を感じ取らうとした。大きな波のうねりが、足の裏に伝はつて来る。しかし、歩けないことはない。
トァイレットをそつとのぞきに行つた。
キャビンを仕切る薄暗い廊下を、しばらく往つたり来たりした。広い食堂に、電燈が一つついてゐるきりなのが、ひどく陰気である。
何時まで待つても安里は出て来ない。
何処へ行つたんだらう? まさかとは思つたが、甲板へ出る階段を一段一段、昇つて行つた。
空は晴れてゐた。さつと吹きつける風を、背中で防ぎながら、手摺のそばまで後ずさりをして行つた。人影らしいものはどこにも見えなかつた。
ひとりでに溜息がでた。と、なんだか、急に胸さわぎがする。なにをどう考へたわけでもない。ただ、彼が何処にもゐない、ゐなくなつたといふ漠とした空虚が、彼女をとらへただけである。
夢中でキャビンへ引つ返した。呼鈴へ手をかけようとした。ボーイを呼ぶつもりである。
──こんな時間に起きてくれるだらうか? あのカイゼル髭を生やした高慢ちきなボーイが……? 船長の部屋はどこだらう? 早く船を止めてもらはなければ……。
ひとりでに、呼鈴を押してゐたものとみえる。扉をノックする音に続いて、もうその扉が外から開いて、ボーイが、眠たさうな顔をつきだした。
「お呼びですか?」
梨枝子の眼は血走つてゐた。
「私の夫がゐません?」
上ずつた声が、自分でも気になつた。
と、ボーイの顔が、急に崩れて、窪んだ鋭い眼が、にたりとした。
「あんたの旦那? そいつはね、三等にゐる太つた奥さんに訊いてみなさい」
その意味が通じないとみて、髭のボーイは、更に語調を強め、手真似身振りで、彼方を指さし、所謂「太つた奥さん」の恰好を巧みに演じてみせた。
はつとそれを覚つた瞬間、彼女は、汚らはしいものを追ひ払ふやうに、つかつかと起つて行つて扉をぱたりと閉めた。そして、そのまま床の上へぶつ倒れた……。
印度支那の北部一帯、雲南の国境にかけて今朝は雨であつた。
しかし、その雨も昼頃にはやんで、ハノイ郊外の飛行場は、煙る水蒸気のなかで活気を見せはじめた。世界記録を目指して巴里を出発したフランスの飛行機が、終点の日本へ飛ぶ最後の着陸を予定してゐるのが、このハノイであり、既にラングーン無電局から、午前十一時、上空通過の報告がはひつてゐるのである。
当地在住のフランス人は悉く陸軍格納庫の前に集つてゐる。そこを中心に、トンキン政府の官吏、土人の有力者、外国人の観客席が設けられ、一般群集は、騎馬憲兵の叱咤に遇つてその附近には寄りつけない。
その外国人の席で、ことさら目立つのは、居留日本人の一団である。男は洋服であるが女は悉く和服の、しかもなかにはけばけばしい友染模様の裾を高々とからげたのが七八人、名物の出稼娼婦であることは見るものが見ればわかるのである。その上これらの日本人は、手に手に日仏の国旗をかざしてゐるのだから、満場の視線はおのづから彼等の上に注がれないわけにいかない。
「わしが合図をするから、みんな一緒にバンザイをいふんだよ」
「着陸した時かね」
「いや、飛行機の姿が見えたらぢや」
「そんなの聞えやせんが……」
「なに云うてる。日本人の元気なところを、ここにゐる奴等にみせてやるんぢや」
後ろの方から、この会話を聞いてゐた熊岡嶺太郎は、ちよつと顔をしかめた。
「そら、来た!」
フランス人の席から、さういふ女の声が聞えた。彼等は、一斉に双眼鏡を眼にあてる。歓喜のどよめき。
「何処ぢや、なんにも見えやせん」
「かまはんから、バンザイをやらう」
こつちでは、そのバンザイがはじまつた。嶺太郎は、ひやりとして眼を伏せた。その途端、肩をぽんと叩かれて横を向くと、松葉杖にすがつた郷田廉介が、たつた今来たといふやうに息をきらし、やや興奮した眼に強ひて微笑を浮べながら、すぐそばに立つてゐた。
「あ、どうしたんです。よくおでかけになれましたね。そんならお誘ひに行くんでしたのに……」
「何時雲南から帰つたの?」
「昨日です。しかし、お歩きになつて大丈夫なんですか?」
「さあ……途中で何度も休んだから……。雨で埃がたたんでいい。これが外へ出る最後だらうと思つてね。日本へ飛んで行く飛行機にちよつと挨拶がしたかつたんだ」
「超スピードらしいですね。どうです、乗せてつてお貰ひになつたら……?」
嶺太郎は、そんな戯談を云ふのにも、相手の気持を考へたつもりだつた。
「うむ……。途中で海の中へでも落ちてくれればね」
爆音が急に頭上に響いたと思ふと、忽ち機影は雲をつんざいて低く場内に舞ひ降り、軽く地上を滑つて、藍色の巨大な翼を眼の前に休めた。
周囲からそれを目がけて、人波が押し寄せた。操縦席へ起ち上つて片手を高く差伸べた青年の顔は、崩れるやうに笑つてゐた。
「帰らう、君はまだゐるか?」
廉介は、ぶつきらぼうに云つた。
「いいえ、もう用はないんです。どれくらゐ休むんでせうね。出発は明日の朝でせうか」
さう応じながら、ゆるゆる歩きだした。
「僕と一緒ぢや迷惑だな。この通り蟻の逼ふやうなもんだ。なんなら先へ行つてくれ給へ。ただ、ひと言頼んでおきたいんだがね。実は、昨夜電報が来てね。船からなんだが……梨枝子夫婦が今度フランスへ行く途中、此処へ寄るらしいんだ。例の女も同じ船で帰つて来るには来るが、ハイフォンへあがつて、あとどうするのか、一晩ぐらゐハイフォンで泊るか、そこのところはなんともわからんのでね」
その言葉の調子はひどく物憂げであつたが、現在の彼の境遇を考へると、それも無理はないと思ひ、嶺太郎は、ちよつと暗然とした。
「へえ、梨枝子さんがですか……」
彼はさう云つたきり、眼をみはつてゐた。
「いや、あいつが来ようとは思はなかつたよ。会ふのも億劫だ。なんとかならんもんかと思つてるんだが……」
「梨枝子さんの嫁かれた先は、この間伺ひましたが、やつぱり、うまく行つてるぢやありませんか。洋行は洒落てるな。しかし、一と船遅らすとなるとたいへんですね。僕も、その間ずつと此処にはゐられないでせうけれど……」
「また、何処かへ行くの?」
「ええ、もうそろそろ引上げる時機ですから……。予定が一と月以上延びちまつて、弱つてるんです」
「さうですか」
と、廉介は、ちよつと立ち止り、大きく呼吸をついた。
後ろから二三台の空の人力車が、この二人を目あてに従いて来てゐたのだが、この時、それが、一度に前へ廻つて梶棒をおろした。
嶺太郎は、近頃、運動のためにたいがいなら車に乗らない習慣をつけてゐる。思はずステッキを振つて、追ひ払はうとしたが、ふと、廉介が車代にも不自由をしてゐるのかも知れぬと気づき、
「あ、うつかりしてゐました。どうぞ、お乗り下さい」
と、自分もその一台へ足を掛けようとすると、
「いや、いや、車に乗つてゐちや話ができないから……。それに、君も急がんのなら、すぐそこだから、歩かうぢやないか」
なるほど、廉介のゐるヴィラまでは、水田を一つ越せばいいのである。
梨枝子が来るといふ話を聞いて、嶺太郎はなんとなく気がせいた。──心の中では、ハイフォンまで出迎へようかと思つたくらゐであるが、彼女一人ならともかく、それも余計なことだと思ひ返した。
空は雲がきれて薄陽が射しはじめた。放し飼ひにしてある水牛の群が、何に驚いたのか、どれもこれも首をもたげて、水田から道へ逼ひ上つて来た。そのうちの一頭が、並木の幹へ角をひつかけて、からだを左右にゆすぶつてゐる。
嶺太郎は、この前、白人の女がこの水牛に追ひかけられたといふ話を思ひ出した。廉介はとみると、一向不安さうな様子もなく、話を続けてゐる。
「だから、僕は、自分の生れ、育つた日本といふ国に、ちつとも愛情を感じないんだ。かういふ言葉は君を悲しませるだらう。或は怒らせるかもわからない。が、それはしかたがない。従つて、梨枝子といふ娘の将来を考へると、寧ろ、日本においておきたくない気がするんだ」
「それを、小父さんは、どうして僕に向つておつしやるんですか?」
水牛のゐるところをやつと通り抜けると、嶺太郎は、ほつとして、さう云つた。
「どうしてとは?」
「いいえ、あなたのやうな方が一人や二人ゐてもそれやかまはないと思ふんですが、僕はやつぱり日本へ帰つて、日本のために働きたいと思ふんです。そんなことは当り前なことで、わざわざ云ふ必要はないんですが、返事をするとなると、まあ、そんなことしか云へませんね」
怒るなら怒れと云はれた手前、露骨に不愉快な顔もできない代り、なんとなく、興ざめな気持で、彼は、あたりの平坦な野の景色に眼をうつしてゐた。
ホテルへ一人で帰り着くと、帳場で船の時間を調べた。アンドレ・ルボン号は今朝早くベエ・ダロン沖合に碇泊したことがわかつた。そこで、また急いで、ハイフォンの二三軒のホテルへ電話をかけさせたところ、さういふ客は着いてゐないといふ返事である。最後に駅へ訊ねてみたがさつぱり要領を得ない。
彼は、しかたがなしに、その晩早く床に就いた。
翌朝、彼は、睡眠不足の眼をタヲルで冷やし、夢の続きをまだ見つづけてゐるやうな気持で、ふらふらと下の食堂へはひつて行つた。南側はヴェランダ風に張り出てゐて、朝の珈琲はそこで飲むことにしてゐたから、彼は、自分の卓子へまつすぐに近づいた。そして、椅子を引き寄せる途端に眼をあげると、すぐ前の卓子を夾んで、若い夫婦づれの客が、もの珍しげにこつちを見てゐる。
「あツ!」
と、思はず叫んで、彼は腰を浮かした。
梨枝子は、大人びた笑顔を、やや皮肉にほころばせて、
「あたしたち、さつきからお待ちしてたのよ。もうお眼ざめになるかと思つて……」
彼は、そこで安里に軽く会釈をすると、
「こつちへいらつしやらない。ご紹介するわ……」
男同士は、握手をした。
「やつぱり昨夜の汽車ですか?」
「汽車はボロ汽車だつていふから、自動車を飛ばしたのよ。長いでせう。着いたらへとへとなの。でも、昨夜のうちに、ちよつと父のところへは顔をだして来ましたわ。随分あなたにご厄介になつたんですつてね。どうも……。だけど、不思議だわ……」
「お父さんは、こつちへいらつしやらないんですか?」
「あの女が反対するんですもの。お聞きにならない? マダム・クラビンスキイつていふ女のこと……」
「ああ、お名前は聞いてませんが……お父さんのなんでせう?」
彼女はちよつと夫の方をみて笑つた。
「案外、父は元気ですわ。もつと病気がひどいのかと思つてましたけど……」
「いや、実際はひどいんぢやないかと思ひますが……。無理をしておいでになることはたしかです、昨日も……」
「さうですつてね。あたしたち、今朝、もう飛行機の出るところ見て来たのよ」
嶺太郎が驚いてみせると、
「この女はさういふことが好きですからね。おかげで眠いところを早く起されて……」
安里は、はじめて口を夾んだ。嶺太郎は、この青年のわざと落ちつき払つた、そのくせ、幼稚な気取りを消しおほせてゐない態度に、もう反感を感じてゐた。
「で、あなた方は船をひとつ延ばされたわけですね。さうすると……」
「まあさういふわけですけど、丁度、香港からシャルジュウル・レユニつていふ会社の船が明後日はいるんですの。それへ乗ると、西貢で前の船に追ひつける予定なんですわ。二日もゐればたくさんね」
と、彼女は、また安里の方へ眼を向けた。
「君のいいだけゐるよ。熊岡さんは、何時頃までご滞在ですか」
「僕はまだきめてないんですが……もう、引上げたいと思つてます。用事は済んだんですから」
と、そつちへ返事をしておいて、更に、梨枝子の方へ、
「あなたはたしか巴里ははじめてですね。お祖母さんからよくボア・ド・ブウロオニュの話を聞かされましたね、覚えてますか?」
すると彼女は眼を輝やかして、
「覚えてますわ。それと、ルュクサンブウル公園でせう。なんだか一度行つたことあるみたいな気がしてしやうがないの。やつぱりそのせゐよ」
「それに、あなた方は、文字通り、お母さんのお国なんだから、洋行つて云つたつて、半分帰省みたいなもんですね」
何気なく云つたつもりのこの言葉に、安里はちよつと眉を曇らしたが、それは梨枝子だけが気がつき、嶺太郎はなほ夢中で喋つた。
「僕は昨夜もそのことばかり考へたんですが、お父さんは、あれで満足なんでせうね。日本なんかへ帰りたくないつて云つておいでですよ。さうなると、何処が故郷なんでせう。人間至るところ青山ありつてわけですかねえ? 僕だつて別に、日本が一番住みいい国だとは思つてゐませんが、自分は日本人だと思ふよりほか、どうすることもできないんです。僕らは、ほんとに自分が世界人だと思へるまでには、非常な年月と努力を必要としますからね。さうなることを望むといふ意味で、あなたが先天的にいくぶんその資格を備へておいでになるのが羨ましいんです」
二人ともそれには答へず、黙つて、空になつた珈琲茶碗を弄んでゐた。
そこへボーイがはひつて来て、一通の封書を安里の前へ差出した。
「なに?」
と、梨枝子がのぞき込むのを、彼は手早く封を切つた。そして、拙い筆蹟の横文字の数行へ目を通すと、いきなり、かう叫んだ。
「おい、大変だ。パパが……」
「パパがどうしたの?」
梨枝子はサツと顔色を変へた。
郷田廉介は、その朝、クラビンスキイ夫人が顔を洗ひに行つてゐる間に、護身用のピストルで見事に頭蓋骨を撃ち貫いてゐたのである。
梨枝子に宛てた遺書が発見された。
お前が幸福なのを見届けて安心した。
この上生きてゐてもしかたがないし、どうせお前より先に死ぬ運命のパパだから、此処へ来た序にお前たち夫婦の手で葬式をして貰はう。折角持つて来てくれた金だが、あれはあのまま今迄世話になつたククラ(クラビンスキイ夫人のこと)にやることにするからそのつもりでゐてくれ。あの女とお前たちとの関係はこれでまつたく切れたわけだ。
トランクには書類と蒐集品がはひつてゐるきりだ。書類はお前が整理をして、持つて行くものはもつて行き、研究に関するものは、蒐集品と一緒に、ここの東洋博物館に寄贈することにしよう。館長にはお前からよろしく云つてくれ。以前親しくしてゐた間柄だから、さう話せばわかる。
言ふまでもなく、お前に遺す財産はなにもない。東京の家屋敷も叔母さんの手に渡した。くれぐれも相済まぬ。パパの大失態だ。
墓の心配などするに及ばぬ。遺骨も東京へ送る必要なし。ここの共同墓地へ仮埋葬しただけでよろしい。
安里君には梨枝子のことを頼む。
これを読んで、梨枝子は、あらためて父の死顔を見た。涙にぬれた眼には、その輪郭さへはつきりと映らぬながらも、不遇な生涯をかうして終つた肉身の父の姿に、新たな尊敬の念が湧かぬでもなかつた。離れてゐればさほど会ひたくもなかつたといふのは、なにか二人の間に通じないものがあつたのではあるまいかといふ気さへして、いまさら、心を責められる思ひがした。
クラビンスキイ夫人は、ただしやくり泣きをしてゐるばかりであつた。警察医の検死が終ると、夫人は厳重な取調べを受けた。
安里は、警官に遺書を翻訳して聞かせた。
「この令嬢が、死者の娘さんなんですか?」
「令嬢ぢやない。夫人だ」
と、安里は訂正し、警官は更めて梨枝子を見直した。そして、丁寧に挙手の礼をした。
嶺太郎は、腕を組んで部屋の一隅にぽつねんと立つてゐた。
様々な手続や後始末などで、一週間はまるまる潰れた。
最後に、梨枝子は嶺太郎の案内で東洋博物館を訪ね、館長のB教授に会つた。安里にも一緒に行つてくれといふのに、彼はきまりが悪いと云つて応じなかつた。そのほんとの理由は、晩になつてはじめてわかつたのだが、これこそ、梨枝子にとつて、青天の霹靂であつた。といふのは、嶺太郎と二人でホテルへ帰つて来ると、帳場で、
「旦那様は日本領事館へおでかけになりました。ことによると遅くなるからとおつしやつておいででした」
かう云はれて、おや、変だと思ひはしたが、そのまま嶺太郎とロビーで話をしてゐると、いつの間にか七時になり八時になり、やがて食堂が閉まるといふので、しかたがなく食卓についた。
「今頃まで何してるのかしら? 領事館に電話かけてみようかしら」
明らかに不安の色をうかべて、梨枝子は、耳をすますやうな恰好をした。
「大丈夫ですよ。領事館へなら僕がかけてみてもいいですよ。細君のゐる男をそんなに引止めやしませんよ。先生、パラスでルーレットでもやつてるんぢやありませんか」
「そんなものあるの?」
「ええ、あのホテル一軒でやつてるんです。フランス人はああいふもんがないと街にゐるやうな気がしないらしいですね」
十時すぎに、二人は別れてめいめい部屋へ引き取つた。
明りを消さうとしてゐると、そこへ安里が飛び込んで来て、
「やあ、失敬、失敬、遅くなつちやつた。領事館の奴がむやみに引留めやがるもんだから……。トランプがはじまつてね」
「細君のゐる男をそんなに引留める筈ないわ」
彼女は突つ撥ねるやうに云つた。
「ところが、ほら、そこが日本人の野蛮なところぢやないか。みんな細君のある連中だぜ。なかには臨時の細君つてのもあるけど……。それやいいけど、飛び入りの僕がみんなからいきなり二百ピヤストルも捲き上げちまつたらう。さあ、承知しないさ。明日は日曜だから朝からやりに来いつていふんだ。逃げるのは卑怯だつて云はれちやしかたがないや。明日いつぺんだけで、絶対おしまひにするからいいだらう。その代り、明後日の晩に、パラス・ホテルへ連れて行くよ。二人でルウレットをやらう。それがいやなら今オペラがかかつてるさうだから観に行かう」
さういふわけで、その翌日、朝から出て行つたきり、そのまま、彼は帰つて来なかつた。クラビンスキイ夫人と二人で、ハノイから姿を消してしまつたのである。
MM汽船会社の支店へ問ひ合せてみると、クラビンスキイ夫人が昨日の朝、香港までの切符を二枚買つたといふことがわかつた。
「どうします?」
嶺太郎は、今にも気の遠くなりさうな顔をしてやうやく椅子にからだを支へてゐる梨枝子に、そつと訊ねた。すると、彼女は、急にしやんと胸を張り、夢からさめたやうに瞳を据ゑたまま、
「それだけわかればいいわ。どうもありがたう……」
と云つて、紅つ気のない唇を噛みしめた。
「船が出るのは午後四時ださうです。汽車はもう間に合ひませんけど車なら大丈夫ですよ。それに、警察へさう云へば……」
そこで、あとの言葉を呑み込んで、彼は、促すやうに彼女の視線を追つたが、なにも返事はなく、これ以上立ち入ることはどうかと思はれて、
「ご用があつたら、いつでも……」
と、そのまま部屋を出ようとしたが、なにかまだ云ひ残したいやうな気がして、足が前へ進まない。
そこで、もう一度からだを彼女の方へ向け直すといつしよに、
「梨枝子さん、あなたは不幸な方ですね。僕はもう黙つてゐられないんだ。かういふ同情はあなたを侮辱することになるでせうか? いや、そんなことは決してありません。あなたは、こんな残酷な運命を、自分の責任だと思ひますか? 僕の前になにも恥ぢるところはないですよ。勇気を出して下さい。威張つて僕に命令して下さい。あなたを苦しめる敵があつたら、僕に力を藉せと云つて下さい。さ、これからすぐハイフォンへ車をすつ飛ばして、安里君を船へ乗せないやうにさせませう」
焔のやうに燃える一句一句を、彼は、容赦なく叩きつけた。
が、梨枝子は静かに首をふつて、
「駄目よ、そんなこと……あたしは、もう諦めてるのよ」
意外な言葉であつた。そして、それを云ふ調子の冷たさに、彼は思はずたぢたぢとなり、そこにある椅子にどかりと腰をおろした。
「さうかなあ。さういふ風に諦めるべきもんかなあ。ぢや、とにかく結果は第二として、あなたの今後の自由のために、もつと堂々と行動してもらつたらどうですか? それが僕には不可解なんだ。卑怯ですよ、こんな真似をするのは……」
また語勢が高まるのを、彼は、どうしやうもなかつた。
「堂々とつて、どういふ風に?」
「わかりませんか? しかし、それを僕が云ふのはをかしいなあ。例へば、先生があなたよりもあの女を愛してゐるといふことをちやんと告白してですよ、あなたを先づ自由にし、それから自分の道を歩いて行くやうにするとか──」
これはまづいと思つたが、果して、
「いやだ。そんなことすれば、みんなわかつちやふぢやないの」
彼女はさう云つて、淋しく微笑んだ。
「だから、みんなわからせるんですよ。つまり、二人ですべてを諒解しあつた上で……」
「諒解なんかしないわ。はいさうですかつて、誰が云ふもんですか。あたしにはさういふことはできないわ。向うがさういふ立派な態度だつたら、あたし、泣いて、泣いて、縋りついて、きつと自分の方へあのひとの心を取戻してみせるわ」
なるほどと、彼は、深くうなづくやうに頭を垂れた。なんといふ強さであらう! そして、なんといふ単純さであらう!
その間に、彼女は、ぢつと眼をつぶつて、ハイフォンの桟橋を頭に浮べてみた。船は潮の加減で桟橋近くに着いたり、沖に泊つたりすると聞いてゐるが、今日はどうであらうか? この四時にあの桟橋に立つた自分の姿を想像してみる。しづしづと澪を残して離れ去る船の甲板に、あの二人が肩を並べて立つてゐるとする。今はこの通り出ない涙が、その時は、眼いつぱいにあふれ落ちるであらうか? 向うではこつちをみて笑つてゐるやうである。こつちも、精いつぱい手を振つて合図をする。心の中で、「安里、ご機嫌よう」と叫ぶ。ああ、そんな芝居ができるものか! がたりと音がしたので眼をあけると、嶺太郎が、跫音を忍ばせて外へ出ようとしてゐる。
「ちよつと……あのね、もう少しご相談があるから、ここにゐて下さらない?」
さう云ひつつ、彼女は、鏡台の前に近づいて、重い瞼をそつと指先で撫でた。
その晩、嶺太郎はどんなに眠つかうとしても眼が冱えて眠つかれなかつた。
殆んど一年間まつたく消息を絶つてゐる家のことが、なぜか急に心にかかり、妹の菊子はどうしてゐるであらうかと、しみじみ思ふにつけて、学生時代の日曜日をよく遊び暮した梨枝子の家のことが、懐しく胸に浮んで来る。
なんと云つても彼は、その頃から梨枝子に心を惹かれてゐたのである。妹の友達といふ以上、またそこに同年輩の弘といふ青年がゐたといふ事実のほかに、彼は、梨枝子一人を相手にいくらテニスをしても飽きなかつた。彼のさういふ感情は、しかし、ある平凡な先入見のために、自然に伸び育つことを妨げられてゐた。つまり、彼女が混血児であることは、二人の結婚の障碍であると勝手にきめてゐたのである。ある時は、あの無慚な死を遂げた弘といふ青年が、彼女の許婚者ではないかと疑つたこともあるが、そのことにさへ、ただの一度も嫉妬らしい気持を感じたことはないと云つていい。そのくせ、梨枝子の姿をふと見かけると胸がをどるといふ経験は珍しくなく、例の房州の海岸から東京の家へ帰らずに何処かへ姿をくらました時の如きは、責任感といふよりも彼女への思慕から、命がけで行方を探さうと覚悟をきめたくらゐであつた。
ところが、あれ以来、なんとなく交渉が絶えてしまひ、一面、精神の負担は軽くなつたと云へるが、やはり、家庭的の悶着を理由に学校をやめ、家を飛び出すやうになつた動機の一つには、心の寂寞を数へなければならないのである。
さて、それ以来、彼の境遇は一変し、生活の問題に追ひつめられ、現実を観、自由を得る戦ひとは如何なるものであるかを知つた。その頃、偶然に会つた彼女は、もうまつたく彼に背中を向けてゐたではないか。彼は半ば自嘲的に「混血児でなければならぬといふ法はない」と妙な力み方をして、それつきり過去一切の幻影を葬つたつもりでゐた。
しかし、今また、日本を離れて、かういふ土地で、彼女にめぐり合ふことになつた。元来なら遠い記憶のなかに眠つてゐる筈の彼女が、かうも鮮やかな、かうも生々しい感覚をもつて彼の全体をゆすぶらうとはまつたく予期しないところであつた。
どうしたらいいか? いつそ、このままハノイを立ち去らうか? 逃げたと思はれてもかまはない。一度はさうも考へてみたが、さういふ自分を試したい気も手伝つて、ともかく、明日、彼女と約束した通り、東洋博物館の館長に会ひ、彼女を助手かなにかに使つてもらふやうに頼むこと、そして、その結果、駄目なら駄目で、日本へ連れて帰らう。若し、彼女が日本へ帰らないと云つたら、その時こそ、自分も此の土地に残る算段をしよう、と、もう白みかけた空を希望の光りのやうに胸に抱いて、うとうとと夢路にはひつた。
昼近く眼をさました彼は、慌てて飛び起きると、一旦梨枝子の部屋をノックし、明るい声がそれに応じたので、外から、
「用意ができたら出掛けますよ」
と、こつちもできるだけ朗らかに呶鳴つた。
「あら、ご飯おすみになつて……」
扉がなかから開いて、今日は清々しい化粧のあとをみせた彼女の姿である。
「いや、寝坊した罰に、すぐ行きます」
「いやよ、そんなの」
押問答の末、珈琲をいつぱい飲むことにして、二人は下へ降りた。
博物館長B教授は、この土地に三十年からゐるといふ老学徒で、東洋古代史の世界的権威である。日本語も独学だといふ割に正確に読み、書き、話すのが不思議なくらゐであつた。
「予算があまりありませんから、月給は余計あげられません。けれど、部屋はわたくしの家の一と部屋をただで貸しますから、勉強するだけのつもりなら、置いてあげましてもよろしいです」
と、事情を聴いて、博士はさう答へた。別に、ことさら同情を示すやうな風でもないが、淡々とした好意がおのづから感じられて、二人は、同時に頭をさげた。
「お父さんの研究、大へんよろしいものです。あなたも考古学勉強して、お父さんのやうになりますね」
かう云つた時、はじめて、フランス人らしい軽い調子を見せたので、梨枝子は、うれしさを包みきれず、
「ええ、一生懸命しますわ」
と、声をふるはせた。
さあ、かうなると、嶺太郎は、あとに自分の問題が残つてゐるだけである。思ひ切つて今の気持を告白してしまはうかと、いくど口まで出しかけても、それこそ、あんまり女の弱味につけ込むやうなやり方で、気がひけるのである。
が、彼はたうとう、彼女がB教授の家へ移らうといふ朝、こんな風に切り出してみた。
「ぢや、僕はもう用はありませんか。あなたがもう帰つてもいいとおつしやるまで、僕はいつまででもここにゐるつもりですが……」
彼女は、その言葉の意味を、あれこれと探るやうに彼の顔を一つ時見つめてゐたが、
「いつまでもつて、そんなに長くいらしつてかまはないの?」
あどけない訊き方である。
「ええ、かまひません、一年でも、二年でも、一生でも……」
もうかうなれば、あとは楽だ。すると、彼女は、急に眼を伏せて、
「ありがたう……。でも、そのお心持はどなたかのためにとつてお置きになるといいわ。あたしは、もう、こんなだから駄目よ。ほんとに、もう、駄目なの……」
「こんなだからとは?」
彼は、真面目に訊き返した。
「こんなだから、こんなのよ」
その悲しげな、おどけた顔には、少しの曇りもなかつた。
希望を捨てるのはまだ早いと、彼は思つた。そこで、目立たないやうに、毎日彼女を博物館に訪ね、時には立ち話をし、時には昼休みを利用し、時には館長の許しを得て、夜、食事を共にするなど、努めて会ふ機会を作つた。
その日も丁度、昼休みの時刻であつた。この土地の習慣なのだが、昼は午睡の時間としてたつぷり三時間は暇があるのである。彼女は、食事をひとりで済ませ、一旦自分の部屋へ帰つて、トランクの底から一冊の本を抜き出し、それを持つて、博物館の前庭にある植込の庭のベンチに腰をおろした。何処よりも涼しい場所をかねて見つけておいたのである。
偶然手にした本は、祖母の下枝子が始終繰り返し読んでゐたアナトオル・フランスの、「花咲ける人生」の原書であつた。久しく打ちすててあつたフランス語をまたものにしようといふつもりもあつたが、祖母があれほど愛読した書物とは、いつたいどんな内容のものか、それを知らうとする好奇心が今日はじめて彼女のうちに起つたからである。
ぱらぱらと頁を繰つてみると、鉛筆で方々に書き入れがしてある。赤インクで線を引いたところがある。
ふと、その一つを読んでみると、
Je remarquais que dans le monde, beaucoup de jeunes gens, qui ne me valaient pas, plaisaient et réussissaient mieux que moi.
──世の中で、私ほどにも値打のない青年の多くが、私よりも(婦人に)好かれ、うまいことをしてゐるのに気づいてゐた。
意味はよくわかつた。それがどうだといふんだ? 彼女はぢつと考へ込んだ。
と、その時、表門をぶらりとはひつて来る嶺太郎の姿を見つけ、彼女は手を挙げて、こつちといふ合図をした。
「何を読んでるんです? へえ、そんなもの、生意気だなあ」
そばへ腰をおろしながら、彼は、本の表紙をのぞき込んだのである。
「お祖母さまの愛読書よ、だから……」
と、彼女は少し照れて、本を後ろへかくしかけた。
「さうでせう。そんなものはお婆さんの読むもんですよ。碌なことは書いてないでせう。尤も僕は読んだことない」
二人は快活に笑つた。が、彼は急に真顔になつて、かう云つた。
「僕はいよいよ、どつちかに決めなけやならなくなりました。発つか、ゐるか。それで、最後のあなたのお返事を伺ひに来たんですが……。あなたは、一度も僕を……なんと云つていいか……好きだつたことはありませんか?」
この質問は彼女を狼狽させた。いつか誰かにも、さういふことを訊かれたことがあるやうな気がする。そんなことがあつたかしら? しかし、彼女は平然と答へた。
「ええ、あつてよ、ずつと昔……。あなたは知らん顔してらしつたわね。だから、あたし、怒つたの。今から考へるとをかしいわ。ほんとに怒つたのよ。でも、あたしはそれとあべこべのこともしたわ。弘兄さんは、さうだつたの、あたしに怒つて、だから、死んだのよ。これは、考へると悲しいわ。あたしつていふ女は、さういふ風になつて行くんだと思ふわ。向うから離れるか、こつちから離れるか、生きてゐるものでも、死んで行くものでも、みんな、あたしの眼にはさう見えるの。ママもさう、お祖母さまもさう、パパもさう……弘兄さん……あなた……」
「安里君……」
と、嶺太郎は、力を籠めて云つた。
「ええ、安里……。それから、阿久津の叔母、友達もみんな……」
幻を追ふやうに、彼女は低い声で附け足した。しかし、それは、およそ感傷の響を含まない、言はば、澄みきつた、寒々とした声であつた。
彼は思はず、背筋にぢんとしたものを感じ、絶壁の上に立つた瞬間を思ひ浮べた。が、この美しく若い生命のなかに、どうしてそんな索漠とした心の風景がひそんでゐるのであらうかと、疑はずにはゐられなかつた。と、いきなり彼女は、調子をかへて、
「あ、さうさう、日本にお帰りになつたら、一度井荻の家を見に行つて下さらない? そして、できたら、あの家の写真を一枚、撮つて送つて頂戴。今、たしか閉めてある筈だから、外からでいいわ。景色も入れてね」
「ええ、ひとつ、傑作を送りませう。十一月と……。丁度、裏の柿がなつてる頃ですよ。うまかつたな、あの柿は……」
「掃除をしないから、落葉がきつと大変だわ。いいの、落葉の積つた庭なんて、此処ぢや見られないから……」
ぼんやり受け答へをしながら、嶺太郎は、ふと、彼女の姿を、舞ひ散る無数の落葉のなかに見た。
底本:「岸田國士全集11」岩波書店
1990(平成2)年8月9日発行
底本の親本:「岸田國士長篇小説集第七巻」改造社
1939(昭和14)年7月17日
初出:「婦人公論 第二十一巻第六号~第二十二巻第五号」1936(昭和11)年6月1日発行~1937(昭和12)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「アパート」と「アパアト」、「スエタア」と「スェータア」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2018年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。