けむりを吐かぬ煙突
夢野久作
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外はスゴイ月夜であった。玄関の正反対側から突出ている煙突の上で月がグングンと西に流れていた。
庭の木立の間の暗いジメジメした土の上を手探りで歩いて行くうちにビッショリと汗をかいた。蜘蛛の巣が二三度顔にまつわり付いたのには文字通り閉口した。道を間違えたらしかったが、それでも裏門に出ることは出た。
潜戸から首だけ出した。誰も居ない深夜の大久保の裏通りを見まわした。今一度、黒い煙突の影を振返ると急ぎ足で横町に外れた。
東京市内の地理と警察網に精通している新聞記者の私であった。誰にも発見されずに深夜の大久保を抜け出して、新宿の遊廓街に出るのは造作ない事であった。
そこで私はグデングデンに酔っ払ったふりをしながら朦朧タクシーを拾い直して来て、駿河台の坂を徒歩で上って、午前四時キッカリにお茶の水のグリン・アパートに帰り着いた。
このアパートは最新式の設備で、贅沢な暖房装置がある。出入りはむろん自由になっていた。それでも私は細心の注意をして、音を立ないように三階の一番奥の自分の室に忍び込んで、内部からソッと錠を卸した。
室の中央のデスクには受話機を外した卓上電話器と、昨夜の十一時近くまで書いていた日曜附録の原稿が散らばっていた。点けっ放しの百燭光に照らされたインキの文字がまだ青々していた。その原稿の上に、内ポケットから取出した裸のままの千円の札束を投げ出した。それから素裸体になって、外套や服はもとより、ワイシャツから猿股まで検査した。どこにも異状のないことをたしかめてから、モトの通りに着直した。少々寒かった。
寝台の脚にかけたフランネルの布で靴を磨き上げた。自動車のマットで念入りに、拭い上げておいたものではあったが……。
室の隅の洗面器で音を立てないように手を洗った。立てても差支えないとは思ったが……。
最後に私は椅子の上に置いた帽子を取上げて叮嚀にブラシをかけた。細かい蜘蛛の糸が二すじ三筋付いていたから、特に注意して摘み除けた。ブラシに粘り付いたのと一緒に指先で丸めて、洗面器のパイプに流し込んだ。
そのまま室の隅の帽子かけに掛けようとしたが、その序に何の気もなく内側を覗いてみるとギョッとした。JANYSKA と刻印した空色のマークの横に、黒と金色のダンダラになった細長い生物がシッカリと獅噛み付いている。のみならずその右の前足の一本だけを伸ばしてソロソロと動かしかけているようである。
……お女郎蜘蛛だ……あの南堂家の木立の中に居った奴がクッ付いたままここまで来たのだ。私が電燈の下で掃除をする時に、持って生まれた習性で暗い方へ暗い方へと逃げまわって、巧みに私の眼を脱れながらコンナ処に落ち付いていたのであろう。……南堂未亡人の執念……?……。
私はフッと可笑しくなった。少々センチになったかな……と思いながらソッと窓を開けた。帽子を打振って逃がしてやった。あとに糸が残っていないのを見定めてから頭の上に載せた。
何がなしにホッとした。
南堂伯爵未亡人の死と、私とを結び付けて考え得る者は、今逃がしてやった一匹のお女郎蜘蛛以外に絶無である。心臓に短剣を刺された屍体が、私の名前を叫び立てでもしない限り……。
私はこの原稿を書上げ次第、雑誌社に居る友人に郵送するつもりである。同時に新聞社へ宛てて神経衰弱がヒドクなったようだから一箇月ばかり静養して来る……という意味の届けを出して、警視庁の手の届かない遠い処へ飛ぶつもりでいるのだから万に一つも捕まる心配はない。
しかし用心だけは、どこまでもしておくのが私の癖だ。
この原稿を受取った私の友人は、いつもの通り内容をロクに見ないまま文選工場へまわすに違いない。締切を突破した予告原稿だから……。
そこでこの原稿はバラバラになって職工の手に渡る。印刷されてもわかる気遣いはない。製本されて纏まった文章になって、蒸気とガソリンの速力で全国の読者に配布されても地名や人名は仮名になっているし、標題に含まれている暗示もよほど注意深く新聞を読んでいる人か、又は実地を調査した係官の中でもかなり職務に忠実な人間でなければわからないようにしておいた。だから、これがあの事件の真相だと気付かれるのはドンナに早くとも二三週間の後だろう。その間に完全な失踪が出来ない位の私なら、捕まっても文句はないだろう。
私のこうした行動が、この場合唯一の自白であり、且つ手がかりである事を私は知り過ぎる位知っている。……にも拘わらずドウしてコンナ大胆な……むしろ馬鹿な行動を執ったか。
その理由はただ一つ……事件の真相をどこまでも真実の形で認めてもらいたいからだ。南堂伯爵未亡人との約束を果したいからだ。
私は捕まり次第、脅喝殺人の罪に問われるにきまっている。うっかりすると謀殺か強盗の廉で首を絞められるかも知れない虞れが十分にある。そんなにまで恐しい事件にタッタ一人で触れて来たのだ。
私がすべての生命に対して特別に敏感な人間である事を証明し得る者がどこに居よう。
私は現代社会の堕落層に住む寄生虫である。卑怯者と呼ばれても悪党と罵しられてもビクともしないであろう一種の冒険を、特に「金」というものに対して試み続けて来た人間である。……況んや今度という今度ばかりは、思いがけない機会から非常に世間のためになる……被害者自身でさえも感謝しているであろう痛快な仕事を果してやったつもりでいる。六千円位の報酬では足りないと思っている位だ。
私はこれから後もこの意味で世間へ挑戦してやろうと考えている。この事件を記録した一冊のノートと六千円を資本にして……。
身におぼえのある堕落資本家諸氏よ。警戒するがいい……。
外はモウ明るくなって来たようだ。
ここいらで一服してみよう。
私は今朝の零時半キッカリに、南堂伯爵未亡人を、その自宅に訪問した。
むろん、それは尋常一様の訪問ではなかった。手早く言えば脅喝の目的であった。
私は日本屈指の大新聞、東都日報の外交部につとめる傍ら、本郷西片町の小さな活版屋で、家庭週報という四頁新聞を、毎日曜毎に発行していた。その大部分は料理、裁縫、手芸なぞの切抜記事で、上流婦人や女優の消息、芝居、展覧会なぞの報道を申訳だけに掲載していたが、本来の目的は一箇月に一度位ずつ、女学校や、上流家庭の内幕を素破抜いて、その新聞の全部を高価く売り付けるのであった。むろん売付ける新聞紙は別に刷らしていたから、警察に睨まれるようなヘマは一度もしなかった。
ところがこの頃になって、その脅喝が著しく利いて来た。近頃の大新聞が、上流社会の醜聞を昔のように書かなくなったせいらしい。しまいには原稿だけ……最近には単に口先でチョット耳を吹いただけで、五百や千の金には有付けるようになった。
資本主義末期の社会層には、不景気に反逆する上流社会の堕落例が夥しいものだ。だから私はチットモ金に困らなかった。そうして金を掴めば掴むほど、そうした堕落層の裏面に深入りして行った。女優を買う女、男優を買う男の名前なぞは、一人残らず知っていた。
南堂伯爵未亡人は、その尤なる者であった。
巨万の財産を死蔵して、珍書画の蒐集に没頭していた故伯爵が四五年前に肺病で死ぬと間もなく未亡人は、旧邸宅の大部分を取毀して貸家を建てて、元銀行員の差配を置いた。自身は僅かに残した庭園の片隅の図書館に、粗末な赤煉瓦の煙突を取付けて住み込んで、通勤の家政婦を一人置いていた。
未亡人の美しさが見る見る年月を逆行し始めたのは、その頃からの事であった。モウ四十に近い姥桜とは夢にも思えない豊満な、艶麗な姿を、婦人正風会の椅子に据えて、弁舌と文章に万丈の気を吐き始めた。
彼女はスバラシイ機智と魅力の持ち主であった。物質的にも精神的にも決して敵を作らなかった。子供のない残生を公共の仕事に使いつくす覚悟だと云い触らしていた。幼稚園や小学校に行って子供を愛撫するのが何よりの楽しみだとも云った。又、実際、彼女はそんな風に見えた。
彼女の事業に共鳴し、彼女の仕事のために奔走する紳士淑女が彼女の周囲に雲集した。彼女の事業を援助する興行物は必ず大入満員を占めた。
新聞や雑誌は争うて彼女の写真や、言葉や、文章を載せた。彼女の見事な筆跡で書いた半切や色紙短冊が飛ぶように地方へ売れた。天下は彼女のために魅了されたと云ってもよかった。世間の評判以上の隠れた評判を彼女は保有していた。
その中に私だけがタッタ一人、彼女に眩惑されなかった。或る不思議な動機から、出来るだけ彼女に遠ざかりながら、出来る限り真剣になって彼女の裏面を探りまわっていた。
その不思議な動機というのは南堂家の図書館に新しく取付けられている煙突であった。
……事実……私が南堂伯爵未亡人の素行調査にアンナにまで夢中になり始めた、そのソモソモの動機というのは、アノ粗末な、赤煉瓦の煙突に外ならなかったのだ。
大久保百人町附近の人は知っているであろう。
昔風の鉄鋲を打ち並べた堂々たる檜造りの南堂家の正門内には、粗末な米松の貸家がゴチャゴチャと立ち並んでいて、昔のアトカタもなくなっていることを……同時にその裏手へまわってみると正反対に、同家の由緒を語るコンモリした松木立や、ナノミ、樫、椿、桜なぞの混淆林の一部が、高い黒土塀とがっちりした欅造りの潜り門に囲まれて正門内の貸家とも、又は、附近の住宅ともかけ離れた別世界を形づくりつつ昔ながらに取残されていることを……。
ところでその杉木立の中にポツネンと立っている南堂家の図書館というのは、五間に四間ぐらいの二階建の鉄筋コンクリートに茶褐色のタイル張りで、上等のスレート屋根の下に緑色に塗った鉄のブラインドが並んでいる。全体が耐震耐火のルネッサンス擬いという、故伯爵の凝り性と用心深さを遺憾なく発揮したものであった。
ところが伯爵の死後、玄関と正反対の位置に新たに取付けられた煙突というのは、普通の赤煉瓦を真四角に積み上げたデッカイ、不恰好なものであった。理想化された図書館の様式とは全然調和しないばかりでなく、そのまわりを取囲むコンモリした杉木立の風趣までもブチコワしてしまっていた。まるでどこかの火葬場といった感じであった。
私はズット前から、この煙突の正体を怪しんでいた。……というのは、この煙突が出来てから、一と冬越した翌年の春になっても、煙を吐いた形跡がなかったからであった。
この事実を初めて発見した時には流石の私も首をひねらせられた。往来のマン中に突立ったまま暫くの間、茫然と、その煙突の絶頂の避雷針を見上げていた。その避雷針の上を横切る鱗雲を凝視していたものであった。
しかし、わからないものはイクラ空へ考えてもわからなかった。
図書館にはズット以前から昼間の動力線と瓦斯が引いてあった。同時に石炭やコークスの屑が附近に散らばっていた形跡はミジンもなかったばかりでなく、そんな商人が出入りした事実も未だ曾て発見されなかった。……にも拘わらず石炭を焚く以外には必要のなさそうな赤煉瓦の煙突を、何のために取付けたものであろう。ストーブの火気抜ならば立派な化粧煉瓦と対のものが、玄関に向って右手の室の壁にチャント附いている。又、普通の意味の通気筒ならばモット手軽い、品のいい、理想的のものがイクラでも在る。台所も電気と瓦斯だけで片付けているに違いないのに、何の目的でコンナ殺風景なものをオッ立てたのであろう……なぞと考えれば考える程、私は不思議でたまらなくなって来た。一度室内に忍び込んで、様子を見てやろうか……と思った事も、何度あるかわからなかった。
ところが又、そのうちに一年も経ってその煙突に火の気が通らない証拠に、何とかいう葉の大きい蔓草が、根元の方からグングン這い登り始めた。その蔓草は麹町区内のC国公使館の壁を包んでいるのと同じ外国種の見事なものであったが、生長が馬鹿に早いらしく、二夏ばかり過すうちに絶頂の避雷針の処まで捲き上げてしまって、房々と垂れ下る位になった。すると又それに連れて図書館の外側の手入れが不充分になったらしく、スレート屋根の上にタンポポだのペンペン草だのがチラチラと生え始めた。緑色の鉄のブラインドには赤錆が吹き始めた。それにつれて煙突を登り詰めた蔓草が今度は横に手を伸ばしはじめて、二年も経つうちには殆んど図書館の半分以上を包んでしまった。その上にお庭の立木にも植木屋の手が這入らなくなったらしい。枯れ枝がブラ下ったり、杉の木が傾いたりして、だんだんと廃墟じみた感じをあらわし始めた。
今まで不調和であった煙突が、今度は正反対に建物や立木とよくうつり合って来た。一種のエキゾチックな風趣をさえあらわすようになって来た。恰も、その主人公の心理状態のあるものを自然に象徴しているかのように……。
そんな光景を見過して来るうちに私は、いつの間にか煙突の不思議を忘れてしまっていた。煙の出ないのが当然の事のように思い込んでしまって煙突とは全然無関係としか思えない、ほかのネタを探ることばかりに没頭していた。……思えばこれも不思議な心理作用ではあったが……。
しかも私の頭が一旦、煙突の問題を離れると、彼女の裏面の秘密に関する私の調査がグングン進捗し始めたのは重ね重ねの不思議であった。
私は彼女が、わざわざ遠方から大久保の自邸に呼び寄せているタキシーの番号を一々ノートに控えた。その番号から運転手の名前を探り出して、鼻薬を使いながら未亡人の行先を尋ねてみると、私の着眼が一々的中している事が裏書きされて来た。……のみならず、まだ私の知らない、意外な処に在るスキャンダルの坩堝までも発見する事が出来た。そんな場所は、普通の記者や探偵の眼が届かない高い、奥深い処に隠れているのであったが、そんな方面の秘密に手蔓の多い私にとっては、かえって便利であったばかりでなく、そんな坩堝の中で彼女と熔け合いに来る紳士たちは皆、別に探索する必要を認めないくらい、世間に知れ渡っている顔である事を発見した。
馬鹿馬鹿しい話であるが、私は今更のように東京の広さに呆れさせられた。
そこで私は潮時を見計らって南堂家に出入りしているタッタ一人の家政婦の自宅を突き止めた。膝詰めで買収にかかってみた。
その家政婦の自宅と名前は可哀相な筋合いがあるからここには書かないが、××戦争で死んだ勇士の未亡人であったことは間違いない。その癖に、気の弱い中婆さんで、一人娘の嫁入り先に迷惑をかけたくなかったから……とか何とか涙まじりにクドクドと云い訳をしながら、大久保の自邸に於ける未亡人の乱行と、その時刻と、それから相手を女装して、連れ込むその奇抜巧妙を極めた方法とを、相手の種類と名前がアラカタ見当が付く程度にまで詳細にわたって白状したのは私にとっての大収穫であった。
しかし、まだ何かしら重大な秘密を隠しているらしい恐怖心が、その態度や口ぶりに見え透いていたので、モウ一度その自宅を訪問してネタをタタキ上げるべく心構えをしていると、意外にもその家政婦が突然に行方を晦ましてしまった。キチンと家賃の払いを済ましてどこかへ引越したものらしく、大久保の南堂家へもパッタリと出入りしなくなった。その代りに若い無邪気な小娘が、やはり昼間だけ通勤で南堂家へ通うようになった。
これは、たしかに私の不注意であった。重要な手がかりを探す手がかりが全く絶えた。せめてその一人娘の嫁入り先だけでも聞いておくところであったが……。
しかし一方に伯爵未亡人が案外に手剛いらしいのにも驚いた。これはモウすこし様子を見てシッカリしたところを押えてから火蓋を切った方が有効、かつ安全と思ったので、それから暫くのあいだ躊躇するともなく躊躇していた。
ところが、この家政婦の行方不明をキッカケにして、忘れかけていた煙突問題が、又もや、生き生きと私の頭に蘇って来たから不思議であった。
それは私の第六感というものよりもモット鋭敏な或る神経の判断作用らしく感ぜられた。むろんあの煙突が伯爵の死後に起工されたことも、こうした判断を有力に裏書しているにはいたが……。
しかしこの秘密を具体的に探り出すのはナカナカ容易な仕事でないことが最初からわかり切っていた。探りを入れるにしても大凡の見当を付けてからの事にしなければならないと考えたが、そのアラカタの見当が、なかなか付かなかった。
伯爵家の不動産が担保に這入りかけているという事実を、意外な方面からチラリと聞き出したのは、その頃の事であった。
その話を聞かしてくれたのはC国公使のグラクス君であったが、そう聞いた瞬間に、これは棄てておけないぞ……と私は思った。マゴマゴしているうちに粕を絞らせられるような事になっては堪らぬと気が付いたので、すぐに一通の偽筆、匿名の手紙を書いて、面会の時日を東都日報、中央夕刊の二つに広告しろと云ってやったら、その翌る朝、まだアパートで寝ているうちに、東都日報から……という電話がかかった。
私は慌てて飛び起きて受話器を取上げた。……又事件か……と思って、本能的にイヤな顔をしながら……。
「……オーイ……何だア……」
「……あの……お手紙ありがとう御座いました。今夜の十二時半キッカリに自宅の裏門でお眼にかかりましょう。おわかりになりまして……今夜の十二時半……わたくしの家の裏門……」
という未亡人自身の声がした。そうしてソレッキリ切れてしまった。
私は身内が引締まるのを感じた。
相手は何もかも知っているのだ。……ことによると明日が私の休み日になっている事までも知っているかも知れない。
そう思い思い私は充分の準備と警戒をしてコッソリとアパートを出た。
……何糞……と冷笑しながら……。
指定された通りに裏門の潜り戸から這入ると、そこいらのベンチに待っていたらしい訪問着姿の未亡人が出迎えた。無言のままシッカリと私の手を握ったので又も緊張させられた。私が時間にキチョウメンな事まで知っているらしい。
しかし恐るる事はない。誘惑するつもりなら、されても構わない。要点だけは一歩も譲らないぞ……と思いながら、夜目にも荒れ果てた庭草の間を手を引かれて行くと、森蔭のジメジメした闇の道伝いに、杉木立の中の図書館の玄関から引っぱり込まれた。そうして燈火も何もつけない短かい廊下を通り抜けると正面の真暗な室のマン中に立たされた。
そこで私の手を離した未亡人が、室の真中まで行って電燈の紐をコチンと引っぱった。
私はアンマリ眩しいので二三度瞬きをした。……が、そのうちにこの家が、私の最初からの予想通り、名ばかりの図書館であることをたしかめた。
すくなくとも私が連れ込まれた室は、南堂伯爵が、生前に寝室にしていたものに相違なかった。そうして伯爵の死後、未亡人が秘密の享楽場としていたものに相違なかった。
ムンムンと蒸れかえる瓦斯仕掛の大暖炉の蘊気と一緒に、早くも彼女の濃厚な化粧と、旺盛な肌の匂いが漂い初めていた。
しかし私は平気であった。入口と正反対側に在るグランド・ピアノの上に外套と帽子を置くと、黒い、薄い、婦人用の絹手袋をはめたまま、おなじように冷静な彼女と向い合って椅子に就いた。
二人は手軽く頭を下げ合って初対面の挨拶をすると同時に、申し合わせたようにスピードアップした会話を、剃刀で切ったように交換し初めた。お互いに双方の顔色の動きに関心し合いながら……。
「お電話ありがとう御座いました。……ほんとにお手数をかけまして済みませんでした。お手紙はお返しいたします」
「……ハ……たしかに……」
「……で……あの新聞の原稿は、お持ちになりまして……」
「相済みません。原稿と申しましたのは嘘です。実は僕のアタマの中に在るんです。原稿にして差上げたって同じ事だと思いましたから……」
「……まあ……では、あの以外にまだ御存じなのですか」
「この間、本国へ帰任したC国公使と貴方との御関係以外にですか」
「ええ」
「そう余計にも存じませんがね。大変に失礼ですけど、故伯爵とお別れになった後の貴女は、非常に皮肉な御生活をお始めになったようですね。婦人正風会長になって日本中の婦人の憧憬を、御一身にお集めになる一面には、あらゆる方法であらゆる紳士方の裏面を御研究になったのですからね。もっとも貴女が研究の対象としてお選びになった方々の全部は、そうした紳士道を心得ている外国人や、秘密行動に慣れた貴顕紳士に限られておりましたので、そんな御研究の内容が今日まで一度も外へ洩れなかった訳ですがね……実は貴女の御聡明に敬服しているのですが」
「ホホホホ。貴方の仰言る資本主義末期の女でしょうよ。……ですけど……よくお調べになりましたのね」
私は相手が意外に早く兜を脱いでくれたので内心ホッとさせられた。同時に、こうした仕事に対する私の「顔」の効果を自認しない訳には行かなかった。
「……僕は……その末期資本主義社会の寄生虫ですからね」
「……まあ……でも、お話と仰言るのは、それだけでしょうか」
「……モット買って頂けるでしょうか」
「……ええ……なにほどでも……チビリチビリだとかえって御面倒じゃないでしょうか」
「……御尤です……では全部纏めまして、おいくら位……」
「貴方の新聞をやめて頂くぐらい……」
「ハハハ。御存じでしたか。それじゃ、すこしお負けしておきましょう。ええと……只今二百五十七号を二千部ほど刷っているところですから、全部、買収して頂くとなれば一万ぐらいお願いしなければならないのです。私としては毎月二百円位の収入がなくなる訳ですからね。しかし何もかも御存じの事ですから、ズットお負けしまして半額の五千円ぐらいでは如何でしょうか」
「それでおよろしいですの」
「結構です」
未亡人は卓子の下からハンドバックを取出して札を勘定し始めた。それを見ながら私は腹案を立てていた。新しい名前で第一号から新聞を発行するには千円もあれば沢山だ。今度は学芸新聞を創刊してインチキ病院や、インチキ興行をイジメてやるかな……それとも全然河岸を換えて最新式の安アパートでも初めながら、原稿生活を続けてやろうかナ……なぞと……。
そのうちに未亡人は札を数え終った。
「……あの……六千二百円ばかり御座います。ハシタが附きまして失礼ですけど、用意しておいたのですから……」
「……それは……多過ぎます……」
「イイエ。あの失礼ですけど、わたくしの寸志で御座いますから……」
「ありがとう存じます。お約束は固く守ります」
私は思わず頭を下げさせられた。今更に伯爵未亡人の名声が高大な理由を認めない訳に行かなかった。
しかも、こんな場合本能的に、そうした気前を見せる相手の心理状態に、是非とも探り入らずには措かぬ習慣を持っている私のアタマが、この時に限って痲痺したようになっていたのは何故であったろうか。自分でも気付かないうちに未亡人の魔力に毒されていたのであろうか。それとも相手の頭の良さにまいっていたのであろうか。……千円やそこらのお負けにポーッとなるような私ではなかったが……。
……さもあらばあれ……。
大小取交ぜた分厚い札束を、いい加減に二分して左右の内ポケットに突込んだ私は、すこし寛いだ気持になった。すすめられるまにまに細巻の金口を取って火を点けた。この際私に危害を加えるような、ヘマな相手でない事がハッキリと直感されたから……。
その間に未亡人は紅茶を入れて来た。そうして自分も細巻を取上げた。
「……では、あの、お伺い出来ますかしら……今のお話と仰言るのを……」
「……あ……お話ししましょう。これはお負けですがね。お負けの方が大きいかも知れませんが……ハハハハ……」
「すみませんね。どうぞ……」
「ほかでもありませんがね。今申しました貴女と古いお識合いのC国公使のグラクス君が、ツイこの間帰任しがけに面白いものを見せてくれたのです。いわば貴女の御不運なんですがね」
「……妾の不運……」
「そうです。貴女はグラクス君が、世界でも有名なミステリー・ハンターという事を御存じなかったでしょう。……ね……そのグラクスが僕に素晴らしいネタを呉れたのです。僕が或る珍しい倶楽部に紹介してやったので、そのお礼の意味で提供してくれたんですがね。お思い当りになりませんか」
「……さあ。それだけではね。ちょっと……」
「そうですか。それじゃ、もうすこしお話してみましょう。つまりグラクスの話によりますと、貴女のような深刻な趣味を持った婦人はどこの国にも一人や二人は居る筈だって云うんです。そうしてその趣味が深刻化して行く経路が皆似ているって云うんです。もちろんその中でも貴女は最も著しい特徴を持った方で、しかも、今では、そうした猟奇趣味の最後の段階まで降りて来ていられるとグラクス君が云うのです」
「……最後の段階って……」
「そうです。その証拠はコレだと云ってグラクスが見せてくれましたのは、白紙に包んだ一掴みの爪だったのです」
「……爪……?……」
「そうなんです。色んな恰好をした少年の爪の切屑なんです。十二三人分もありましたろうか……おわかりになりませんか」
「まあ。そんなものが妾と何の関係が……」
そう云ううちに未亡人は何となく気味わるそうな表情になった。わざと指環をはめないで、化粧だけした両手の指を、これ見よがしに卓子の上に並べながら、ウットリと遠い所に眼を遣った。
私はその視線を追っかけた。冷ややかに笑いながら……。
「そんなにシラをお切りになっちゃ困りますね」
未亡人は私の顔を正視した。
「……わたくし……何も白ばくれてはおりませんが……」
「それじゃ僕から説明して上げましょうか。これでも貴女ぐらいの程度には苦労しているつもりですからね。蛇の道は蛇ですよ」
と叱咤するような口調で云ってみた。実はその爪の屑が、何を意味するものなのか、この時まで全然わからなかったのだから……。
すると果して反応があった。私の顔を穴のあく程みつめていた未亡人の頬に見る見るポーッと紅がさして、眼がこの上もなく美しくキラキラと輝やき初めた。
「ホホホホホ。わかりましたわ。あの家政婦からお聞きになったのでしょう。説明なさらなくともいいのよ。白状して上げるから待ってらっしゃい」
未亡人の言葉つきが急にゾンザイになった。同時に椅子に腰をかけたまま左手をズーッと白くさし伸ばして背後の書物棚から青い液体を充たした酒瓶とグラスを取出した。
「……貴方お一つどう……オホホ……おいや……では妾だけ頂くわ。失礼ですけど……まだ妾の気心がおわかりにならないんですからね。仕方がないわ。よござんすか……よく聞いて頂戴よ」
見る見る雄弁になった未亡人は、深いグラスに注いだ青い液体をゴクゴクと飲み干した。フーッと長い息を吐くと、芳烈な緑色の香気が私の顔を打った。
しかし私は瞬一つしないまま未亡人の顔を凝視した。俄かに変って来たその態度を通じて、告白の内容を予想しながら……。
「……まったく……貴方のお察しの通りなのよ。妾は妾の手にかけた少年たちの爪を取り集めて、向うの机の抽斗しに仕舞っといたのよ。西洋の貴婦人たちが媾曳の時のお守護にするそうですからね。その包みの中のどれか一つをグラクスさんが妾の寝ている間に盗んで行ったのでしょう。妾との関係が切れないようにね。ホホホ」
彼女は又もフーッと青臭い息を私にマトモに吹きかけた。
私は固くなってドキンドキンと胸を躍らせながら……。
「……あたし主人と別れてからこっちというもの時々たまらない憂鬱に襲われることがあるの。あれが妾のヒステリーっていうものかも知れないけど、そのたんびに妾よく男装して方々に活動を見に行ったんですよ。ハンチングを冠ってロイドの色眼鏡をかけて、ニカボカを着るとまるで人相が変るんですからね。帝劇のトーキー披露会で貴方とスレ違ったこともあるわ……御存じなかったでしょう」
私は正直にうなずいた。
「……ね……そうして不良少年らしい顔立ちのいい少年を往来で見付けると、お湯に入れて、頭を苅らして、着物を着せて、ここへ連れて来るのが楽しみで楽しみで仕様がなくなったの……もっとも最初のうちは爪だけ貰うつもりで連れて来たんですけどね。そのうちに少年の方から附き纏って離れなくなってしまうもんですから困ってしまってカルモチンを服ましてやったのです……そうして地下室の古井戸の中から、いい処へ旅立たしてやったんです。ここの地下室の古井戸は随分深い上にピッチリと蓋が出来るようになっていて、息抜きがアノ高い煙突の中へ抜け通っているんです。妾が設計したんですからね。誰にもわからないんですの。……でも貴方にはトウトウわかったのね……ホホホ……モウ随分前からの事ですからかなりの人数になるでしょう……御存じの家政婦も入れてね……ホホホホホ……」
私は見る見る血の気を喪って行く自分自身を自覚した。タマラナイ興奮と、恐怖のために全身ビッショリと生汗を流しながら、身動き一つ出来ずにいた。
これに反して相手は一語一語毎に、その美くしさを倍加して行った。そうして話し終りながら如何にも誇らしげに立上ると、寝台のクションの間に白い両手を突込んで探りまわしていたが、そのうちに一冊の巨大な緞子張りの画帳をズルズルと引っぱり出した。重たそうに両手で引っ抱えて来て石のように固くなっている私の膝の上にソッと置いて、手ずから表紙を繰りひろげて見せた。
私は正直に白状する。重たい画帳を載せると同時に両方の膝頭がガクガクと戦いているのに気が付いた。画帳を開こうとすると指がわなないて自由にならなかった。話にしか聞いた事のない恐ろしい変態殺人鬼が、現在タッタ今、眼の前に居ることをヤット意識し初めて……その殺人鬼に誘惑されながら、ドウする事も出来なくなっている自分自身を発見して……。
未亡人は、そうした私の傍に突立ったまま嫣然と見下していた。私の意気地なさを冷笑するかのように……私を圧迫して絶対の服従を命ずるかのように……。
私は、そうした妖気に包まれながら、わななく指で左右の手袋の釦をシッカリとかけ直していたように思う。……何故ともなしに……そうして絹本を表装した分厚い画帳を恐る恐る繰り拡げていたように思う。
それは歴史画の巨匠、梅沢狂斎が筆を揮った殷紂、夏桀、暴虐の図集であった。支那風の美人、美少女、美少年が、あらゆる残忍酷烈な刑に処せられて笞打たれ、絞め殺され、焙られ、焼かれ、煮られ、引き裂かれ、又は猛獣の餌食にあたえられて行く凄愴、陰惨を極めた場面の極彩色密画であった。その一枚一枚毎に息苦しくなってゆくような……それでいて次の頁を開かずにはいられないような……。
「ホホホ。感心なすって……。妾にそうした趣味を教えてくれたのはこの画帳なんですよ。もっとハッキリ云うと亡くなった主人なのよ。……主人は亡くなりがけに、自分が生きている間じゅう許さなかった女の楽しみをスッカリ妾に許して行ったんです。そんなにまで主人は妾を愛していたんですの……ですから妾は、そんな遊戯の真似を、この室でするたんびに、主人の霊魂がどこからか見守っていて、微笑していてくれるような気がしてならないのよ」
「……ウ──ム……」と私は唸った。同時に私の頭の中に高く高く積み重なっていた硝子器の山が一時にガラガラガラッと崩れ落ち始めたような気がした。
「……ね。安心なすったでしょう……ホホホホホこれだけ打ち明けたらモウいいでしょう」
未亡人の声が神様のように高い処から響き落ちて来た。
私はブルブルと身ぶるいをした。
眼をシッカリと閉じた。
画帳の上に突伏した。
それから私がドンナ事をしたか順序を立てて書く事が出来ない。
頭がグラグラするほど酔っていたことを記憶している。
何でもカンでも未亡人の云う通りになっていたことを記憶している。
その中に、ただ一つ酔っ払い式の片意地を張って、左右の手にはめた黒い手袋をドウしても脱がなかったので、未亡人から臆病者とか何とか云って散々に冷かされていた事も忘れていない。
併し最後にトウトウその手袋を脱がされた。そうして、見るからに外国製らしい銀色の十字型の短刀を夫人から渡されると、その冴切った刃尖を頭の上のシャンデリヤに向けながら、大笑いした自分の声を、今でもハッキリと記憶している。
「ハッハッハッハッハッ、これで自殺しろと云うんですか」
私は室の中央に突立ったまま何度も何度も舌なめずりをしていた。そのダラシのない姿が、寝台の上に寝そべっている夫人の姿と重なり合って、室の奥の大鏡にアリアリと映っていた。
「そうじゃないのよ。妾を殺して頂戴って云うのよ」
「……ハハハ……死にたいんですか」
「……ええ……死にたいの」
「……どうして……」
「……だって妾は破産しているんですもの」
「……ヘエ……ホントウですか」
「貴方に上げたのが妾の最後の財産よ。今夜が妾の楽しみのおしまいよ」
「……ウソ……ウソバッカリ……」
「嘘なもんですか。妾は一番おしまいに貴方の手にかかって殺されるつもりでいたのよ。そうして妾の秘密を洗い泄い貴方の筆にかけて頂いて、妾の罪深い生涯を弔って頂こうと思って、そればっかりを楽しみにしていたのよ」
「……アハハハハアハハハハ……」
「イイエ。真剣なのよ。貴方の手がモウ妾の肩にかかって来るか来るかと思って、待ち焦れていたんですよ」
「……フーム……」
私は短刀を片手に提げたまま頭をガックリと傾けた。理窟を考えよう考えようとしたが、自分の両足の下の藍色の絨緞と、その上に散乱した料理や皿の平面が、前後左右にユラリユラリと傾きまわるばっかりで、どうしても考えを纏めることが出来なかった。
私は鏡の中の自分の姿を、眩しいシャンデリヤ越しに振り返ってみた。真白く酔い痴れた顔が大口を開いて笑っていた。
「アッハッハッハッハッ。……よしッ……殺してやろう……」
といううちに私は、短剣を逆手に振り翳しながら、寝台の上に仰臥している未亡人の方へ、よろめきかかって行った。
底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年8月24日第1刷発行
2004(平成16)年2月10日第4刷発行
入力:將之、雨谷りえ
校正:A子
2006年9月18日作成
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