岷山の隠士
国枝史郎
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1
「いや彼は隴西の産だ」
「いや彼は蜀の産だ」
「とんでもないことで、巴西の産だよ」
「冗談を云うな山東の産を」
「李広の後裔だということだね」
「涼武昭王暠の末だよ」
──青蓮居士謫仙人、李太白の素性なるものは、はっきり解っていないらしい。
金持が死ぬと相続問題が起こり、偉人が死ぬと素性争いが起こる。
偉人や金持になることも、ちょっとどうも考えものらしい。
李白十歳の初秋であった。県令の下に小奴となった。
ある日牛を追って堂前を通った。
県令の夫人が欄干に倚り、四方の景色を眺めていた。
穢らしい子供が、穢らしい牛を、臆面もなく追って行くのが、彼女の審美性を傷付けたらしい。
「無作法ではないか、外をお廻り」
すると李白は声に応じて賦した。
「素面欄鉤ニ倚リ、嬌声外頭ニ出ヅ、若シ是織女ニ非ズンバ、何ゾ必シモ牽牛ヲ問ハン」
これに驚いたのは夫人でなくて、その良人の県令であった。
早速引き上げて小姓とした。そうして硯席に侍らせた。
ある夜素晴らしい山火事があった。
「野火山ヲ焼クノ後、人帰レドモ火帰ラズ」
県令は苦心してここまで作った。後を附けることが出来なかった。
「おい、お前附けてみろ」
県令は李白へこう云った。
十歳の李白は声に応じて云った。
「焔ハ紅日ニ隨ツテ遠ク、煙ハ暮雲ヲ逐ツテ飛ブ」
県令は苦々しい顔をした。それは自分よりも旨いからであった。
五歳にして六甲を誦し、八歳にして詩書に通じ、百家を観たという寧馨児であった。田舎役人の県知事などが、李白に敵うべき道理がなかった。
ある日美人の溺死人があった。
で、県令は苦吟した。
「二八誰ガ家ノ女、飄トシテ来リ岸蘆ニ倚ル、鳥ハ眉上ノ翆ヲ窺ヒ、魚ハ口傍ノ朱ヲ弄ス」
すると李白が後を継いだ。
「緑髪ハ波ニ隨ツテ散リ、紅顔ハ浪ヲ逐ツテ無シ、何ニ因ツテ伍相ニ逢フ、応ニ是秋胡ヲ想フベシ」
また県令は厭な顔をした。
で李白は危険を感じ、事を設けて仕を辞した。
詩的小人というものは、俗物よりも嫉妬深いもので、それが嵩ずると偉いことをする。
李白の逃げたのは利口であった。
剣を好み諸侯を干して奇書を読み賦を作る。──十五歳迄の彼の生活は、まずザッとこんなものであった。
年二十性倜儻、縦横の術を喜び任侠を事とす。──これがその時代の彼であった。
財を軽んじ施を重んじ、産業を事とせず豪嘯す。──こんなようにも記されてある。
ある日喧嘩をして数人を切った。
土地にいることが出来なかった。
このころ東巖子という仙人が、岷山の南に隠棲していた。
で、李白はそこへ走った。
聖フランシスは野禽を相手に、説教をしたということであるが、東巖子も小鳥に説教した。彼は道教の道士であった。
彼が山中を彷徨っていると、数百の小鳥が集まって来た。頭に止まり肩に止まり、手に止まり指先へ止まった。そうして盛んに啼き立てた。
それへ説教するのであった。
李白はそこへかくまわれることになった。
ある日李白が不思議そうに訊いた。
「小鳥に説教が解りましょうか?」
「馬鹿なことを云うな、解るものか。あんなに無暗と啼き立てられては、第一声が通りゃアしない」
「何故集まって来るのでしょうか?」
「俺が毎日餌をやるからさ。小鳥にもてるのもいいけれど、糞を掛けられるのは閉口だ」
一度彼が外出すると、彼の道服は鳥の糞で、穢ならしい飛白を織るのであった。
「一体道教の目的は、どこにあるのでございましょう?」
ある時李白がこう訊いた。
「つまりなんだ、幸福さ」
「幸福を得る方法は?」
「長命することと金を溜めることさ」
洵にあっさりした答えであった。
2
「どうしたら金が溜まりましょう?」
「働いて溜めるより仕方がない」
「その癖先生はお見受けする所、ちっとも働かないじゃありませんか」
「うん、どうやらそんな格好だな」
「働かないで溜める方法は?」
「よくこの次までに考えて置こう」
一向張り合いのない挨拶であった。
「どうしたら長命が出来ましょう」
「いろいろ方法があるらしい」
「それをお教え下さいませんか」
「俺には解っていないのだよ」
「物の本で読みました所、内丹説、外丹説、いろいろあるようでございますね。枹木子などを読みますと」
「ほほう、それではお前の方が学者だ。ひとつ俺へ話してくれ」
李白これには閉口してしまった。
ある日東巖子が李白へ云った。
「天とは一体どんなものだろう?」
「ははあこの俺を験す気だな」
すぐに李白はこう思った。
「道教の方で申しますと、天は百神の君だそうで、上帝、旻天、皇天などとも、皇天上帝、旻天上帝、維皇上帝、天帝などとも、名付けるそうでございますが、意味は同じだと存じます。天は唯一絶対ですが、その功用は水火木金土、その気候は春夏秋冬、日月星辰を引き連れて、風師雨師を支配するものと、私はこんなように承わって居ります」
「ふうん、大変むずかしいんだな。俺にはそんなようには思われないよ。色が蒼くて真丸で、その端が地の上へ垂れ下っている。こんなようにしか思われないがな」
これには李白もギャフンと参った。
「地についてはどう思うな?」
これは浮雲いと思いながらも、真面目に答えざるを得なかった。
「地は万物の母であって、人畜魚虫山川草木、これに産れこれに死し、王者の最も尊敬するもの、冬至の日をもって方沢に祭ると、こう書物で読みましたが」
「お前の云うことはむずかしいなあ。俺にはそんなようには見えないよ。変な色の、変に凸凹した、穢ならしいものにしか見えないがね」
これにも李白は一言もなかった。
「お前は人の性をどう思うね?」
「はい、孔子に由る時は、『人之性直。罔之生也。幸而免』こうあったように思われます。しかし孟子は性善を唱え、荀子は性悪を唱えました。だが告子は性可能説を唱え、又楊雄、韓兪等は、混合説を唱えましたそうで」
「だがそいつは他人の説で、お前の説ではないじゃアないか」
「あっ、さようでございましたね」
「で、お前はどう思うのだ?」
「さあ、私には解りません」
「解るように考えるがいい」
「あの、先生にはどう思われますので?」
「俺か、俺はな、そんなつまらない事は、考えない方がいいと思うのさ。形而上学的思弁といって、浮世を小うるさくするものだからな」
これには李白は何となく、教えられたような気持がした。
「不味い物ばかり食っていると、肉放れがして痩せてしまう。美味物を食え美味物を」
こう口では云いながら、稗だの粟だの黍だのを、東巖子は平気で食うのであった。
「綺麗な衣裳を着るがいい。そうでないと他人に馬鹿にされる」
こう云いながら東巖子は、一年を通してたった一枚の、穢い道服を着通すのであった。
「出世をしろよ、出世をしろよ、いい主人を目つけてな」
こう云いながら東巖子は、山から出ようとはしないのであった。
彼は言行不一致であった。
それがかえって偉かった。
彼は盛んに逆理を用いた。
李白は次第に感化された。倜儻不羈の精神が、軽快洒脱の精神に変った。
ある日突然東巖子が云った。
「お前は山川をどう思うな?」
「山は土の盛り上ったもの、川は水の流れるもの、私にはこんなように思われます」
「さあさあお前は卒業した。山を出て世の中へ行くがいい」
──で、翌日岷山を出た。
3
開元十二年のことであった。
李白は出でて襄漢に遊んだ。まず南洞庭に行き、西金陵揚州に至り、さらに汝海に客となった。それから帰って雲夢に憩った。
この時彼は結婚した。妻は許相公の孫娘であった。
数年間同棲した。
さらに開元二十三年、太原方面に悠遊した。
哥舒翰などと酒を飲んだ。
また譙郡の元参軍などと、美妓を携えて晋祠などに遊んだ。
やがて去って斉魯へ行き、任城という所へ家を持った。孔巣父、裴政、張叔明、陶沔、韓準というような人と、徂徠山に集って酒を飲み、竹渓の六逸と自称したりした。
こうして天宝元年となった。
この時李白四十二歳、詩藻全く熟しきっていた。
会稽の方へ出かけて行った。
剡中に呉筠という道士がいた。
二人はひどくウマが合った。共同生活をやることにした。
東巖子に比べると呉筠の方は、ちょっと俗物の所があった。それだけにその名は喧伝されていた。
時の皇帝は玄宗であった。
「剡中の呉筠を見たいものだ」
こんなことを侍臣に洩らした。
呉筠の許へ勅使が立った。
出て行かなければならなかった。
「おい、お前も一緒に行きな」
「うん、よし来た、一緒に行こう」
李白は早速行くことにした。
やがて二人は長安へ着いた。
長安で賀知章と懇意になった。
賀知章は李白を一見すると、驚いたようにこう云った。
「君は人間なのか仙人なのか?」
「どうもね、やはり人間らしい」
「仙人が誤って人間になると、君のような風采になるだろう。君は謫せられた仙人だよ」
「まあさ、見てくれ、謫仙人の詩を」
李白は旧稿を取り出して見せた。
賀知章はすっかり参ってしまった。
「素晴らしい物を作りゃアがる。こいつちょっと人間業じゃアねえ。君のような人間に出られると、僕の人気なんかガタ落ちだ。だがマアマア結構なことだ。御世万歳、文運隆盛、大いに友達に紹介しよう」
「話せる奴でもいるのかい?」
「杜甫という奴がちょっと話せる」
「聞かないね、そんな野郎は」
「だが会って見な、面白い奴だ。だがちっとばかり神経質だ」
「そんな野郎は嫌いだよ」
「まあまあそういわずに会って見なよ。君とは話が合うかもしれない。ひょっとかすると好敵手かもしれない」
「幾歳ぐらいの野郎だい?」
「そうさな、君よりは十二ほど若い」
「面白くもねえ、青二才じゃアないか」
「止めたり止めたり食わず嫌いはな」
「どうも仕方がねえ、会うだけは会おう」
杜甫は名門の出であった。
左伝癖をもって称された、晋の杜預の後胤であった。曾祖の依芸は鞏県の令、祖父の審言は膳部員外郎であった。審言は一流の大詩人で、沈佺期、宋之門と名を争い、初唐の詩壇の花形であった。
父の閑は奉天の令で、公平の人物として名高かった。
杜甫は随分傲慢であった。弱い癖に豪傑を気取り、不良青年の素質もあった。ひどく愛憎が劇しかった。それに肺病の初期でもあった。立身出世を心掛けた。その顔色は蒼白く、その唇は鉛色であった。いつもその唇を食いしばっていた。人を見る眼が物騒であった。相手の弱点を見透しては、喰い付いて行くぞというような、変に物騒な眼付であった。威嚇的な物の云い方をした。その癖すぐに泣事を云った。
決して感のいい人間ではなかった。
体質から云えば貧血性であったが、気質から云えば多血質であった。
いつも不平ばかり洩らしていた。
だが意外にも義理堅く、他人の恩を強く感じた。
忠義心が深かった。
義理堅いのをのぞきさえすれば、彼は実に完全に、近代芸術家型に嵌まった。
彼の幼時は不明であった。
が、彼の詩を信じてよいなら──又信じてもよいのであるが──七歳頃から詩作したらしい。
「往昔十四五、出デテ遊ブ翰墨場、斯文崔魏ノ徒、我ヲ以テ班揚ニ比ス、七齡思ヒ即チ壮、九齡大字ヲ書シ、作有ツテ一襄ニ満ツ」
すなわちこれが証拠である。
「七歳ヨリ綴ル所ノ詩筆、四十載、向フ矣、約千有余篇」
こんなことも書いてある。
開元十九年二十歳の時、呉越方面へ放浪した。
四年の間を放浪に暮らし、開元二十三年の頃、京兆の貢拳に応じたものである。
だが旨々落第してしまった。
4
彼はすっかり落胆した。
奉天の父の許へ帰って行った。泰山を望んで不平を洩らした。
二年の間ブラブラした。
それから斉や趙に遊んだ。
それから長安へ遣って来たのであった。
李白と杜甫との会見は、賀知章が心配したほどにもなく、非常に円滑に行なわれた。
会後李白が賀知章へ云った。
「彼は頗る人間臭い。それが又彼のよい所だ。詩人として当代第一」
また杜甫はこう云った。
「なるほどあの人は謫仙人だ。僕はすっかり面喰ってしまった。詩人としては第一流、とても僕など追っ付けそうもない」
互いに推重をしあったのであった。
李適之、汝陽、崔宗之、蘇晋、張旭、賀知章、焦遂、それが杜甫と李白とを入れ、八人の団体が出来上ってしまった。
飲んで飲んで飲み廻った。
いわゆる飲中の八仙人であった。
酒はあんまりやらなかったが、一世の詩宗高適などとも、李白や杜甫は親しくした。
三人で吹台や琴台へ登り、各自感慨に耽ったりした。
𢙾慨するのは杜甫であり、物を云わないのは高適であり、笑ってばかりいるのは李白であった。
高適の年五十歳、李白の年四十四歳、杜甫の年三十二歳であった。
だがこの時代は李太白が、誰よりも詩名が高かった。
玄宗皇帝が会いたいと云った。
で、李白は御前へ召された。
誰が李白を推薦したかは、今日に至っても疑問とされている。
ある人は道士呉筠だと云い、ある人は玉真公主だと云い、又ある人は賀知章だと云った。
すべて人間が出世すると、俺が推薦した俺が推薦したと、推薦争いをするものであるが、これも将しくその一例であった。
金鑾殿という立派な御殿で、玄宗は李白を引見した。
帝、食を賜い、羹を調し、詔あり翰林に供奉せしむ。──これがその時の光景であった。非常に優待されたことが、寸言の中に窺われるではないか。
彼は翰林供奉となっても、出勤しようとはしなかった。長安の旗亭に酒を飲み、いう所の管ばかりを巻いていた。
「李白に会いたいと思ったら、長安中の旗亭を訪ね、一番酔っぱらっている人間に、話しかけるのが手取早い。間違いなくそれが李白なのだからな」
人々は互いにこんなことを云った。
その時唐の朝廷に一大事件が勃発した。
渤海国の使者が来て、国書を奉呈したのであった。
国書は渤海語で書かれてあった。満廷読むことが出来なかった。
玄宗皇帝は怒ってしまった。
「蕃書を読むことが出来なければ、返事をすることが出来ないではないか。渤海の奴らに笑われるだろう。彼奴ら兵を起こすかもしれない。国境を犯すに相違ない。誰か読め誰か読め!」
百官戦慄して言なし矣であった。
そこへ遣って来たのが李白であった。
飄々乎として遣って来た。
「おお李白か、いい所へ来た。……お前、渤海語が解るかな?」
「私、日本語でも解ります。まして謂んや渤海語など」
「それは有難い。これを読んでくれ」
渤海の国書を突き出した。
李白は一通り眼を通した。
「では唐音に訳しましょう」
そこで彼は声高く読んだ。
「渤海奇毒の書、唐朝官家に達す。爾、高麗を占領せしより、吾国の近辺に迫り、兵屡吾界を犯す。おもうに官家の意に出でむ。俺如今耐うべからず。官を差し来り講じ、高麗一百七十六城を将て、俺に讓与せよ。俺好物事あり、相送らむ。太白山の兎、南海の昆布、柵城の鼓、扶余の鹿、鄭頡の豚、率賓の馬、沃州綿、湄泌河の鮒、九都の杏、楽遊の梨、爾、官家すべて分あり。若し高麗を還すことを肯んぜずば、俺、兵を起こし来たって厮殺せむ。且つ那家が勝敗するかを看よ」
皇帝はじめ文武百官は、すっかり顔色を変えてしまった。
「いま辺境に騒がせられては、ちょっと防ぐに策はない。一体どうしたらいいだろう」
風流皇帝の顔色には、憂が深く織り込まれた。
誰一人献策する者がなかった。
5
すると李白が笑いながら云った。
「文章で嚇して来たのです、文章で嚇して帰しましょう。蕃使をお招きなさりませ、私、面前で蕃書を認め、嚇しつけてやることに致します」
翌日蕃使を入朝せしめた。
皇帝を真中に顯官が竝んだ。
紗帽を冠り、白紫衣を着け、飄々と李白が現われた。勿論微醺を帯びていた。
座に就くと筆を握り、一揮して蕃書を完成した。
まず唐音で読み上げた。
「大唐天宝皇帝、渤海の奇毒に詔諭す。むかしより石卵は敵せず、蛇龍は闘わず。本朝運に応じ、天を開き四海を撫有し、将は勇、卒は精、甲は堅、兵は鋭なり。頡利は盟に背いて擒にせられ、普賛は鵞を鑄って誓を入れ、新羅は繊錦の頌を奏し、天竺は能言の鳥を致し、沈斯は捕鼠の蛇を献じ、払林は曳馬の狗を進め、白鸚鵡は訶陵より来り、夜光珠は林邑より貢し、骨利幹に名馬の納あり、沈婆羅に良酢の献あり。威を畏れ徳に懐き、静を買い安を求めざるなし、高麗命を拒ぎ、天討再び加う。伝世百一朝にして殄滅す。豈に逆天の咎徴、衝大の明鑒に非ずや。況や爾は海外の小邦、高麗の附国、之を中国に比すれば一郡のみ。士馬芻糧万分に過ぎず。螳怒是れ逞うし、鵝驕不遜なるが若きだに及ばず。天兵一下、千里流血、君は頡利の俘に同じく、国は高麗の続とならむ。方今聖度汪洋、爾が狂悖を恕す。急に宣しく過を悔い、歳事を勤修し、誅戮を取りて四夷の笑となる毋れ。爾其れ三思せよ。故に諭す」
実にどうどうたるものであった。
皇帝はすっかり喜んでしまった。
そこで李白は階を下り、蕃使の前へ出て行った。文字通り蕃音で読み上げた。
蕃使面色土のごとく、山呼拝舞し退いたというが、これはありそうなことである。
奇毒、すなわち渤海の王も、驚愕来帰したということである。
「俺は長安の酒にも飽きた」
で、李白は暇を乞うた。
皇帝は金を李白に賜った。
李白の放浪は始まった。北は趙魏燕晋から、西は邠岐まで足を延ばした。商於を歴て洛陽に至った。南は淮泗から会稽に入り、時に魯中に家を持ったりした。斉や魯の間を往来した。梁宋には永く滞在した。
天宝十三年広陵に遊び、王屋山人魏万と遇い、舟を浮かべて秦淮へ入ったり、金陵の方へ行ったりした。
魏万と別れて宣城へも行った。
こうして天宝十四年になった。
ひっくり返るような事件が起こった。
安祿山が叛したのであった。
十二月洛陽を陥いれた。
天宝十五年玄宗皇帝は、長安を豪塵して蜀に入った。
李白の身辺も危険であった。宣城から漂陽にゆき、更に剡中に行き廬山に入った。
玄宋皇帝の十六番目の子、永王というのは野心家であったが、李白の才を非常に愛し、進めて自分の幕僚にした。
安祿山と呼応して、永王は叛旗を飜えした。弟の襄成王と舟師を率い、江淮に向かって東下した。
李白は素敵に愉快だった。
「うん、天下は廻り持ちだ。天子になれないものでもない」
こんな事を考えた。
詩人特有の白昼夢とも云えれば、倜儻不羈の本性が、仙骨を破って迸しったとも云えた。
意気頗る軒昂であった。自分を安石に譬えたりした。二十歳代に人を斬った、その李白の真骨頭が、この時躍如としておどり出たのであった。
「三川北虜乱レテ麻ノ如シ、四海南奔シテ永嘉ニ似タリ、但東山ノ謝安石ヲ用ヒヨ、君ガ為メ談笑シテ胡沙ヲ静メン」
などとウンと威張ったりした。
「試ミニ君王ノ玉馬鞭ヲ借リ、戎虜ヲ指揮シテ瓊筵ニ坐ス、南風一掃胡塵静ニ、西長安ニ入ッテ日延ニ到ル」
凱旋の日を空想したりした。
ところが河南の招討判官、李銑というのが広陵に居た。永王の舟師を迎え討った。
永王軍は脆く破れた。
永王は箭に中って捕えられ、ある寒駅で斬殺された。そうして弟の襄成王は、乱兵の兇刄に斃された。
李白は逃げて豊沢に隠れたが、目つかって牢屋へぶち込まれた。
「どうも不可ねえ、夢だったよ」
憮然として彼は呟いた。
「兵を指揮するということは、韻をふむよりむずかしい。そうすると俺より安石の方が、人殺しとしては偉いらしい。もう君王の玉馬鞭なんか、仮にも空想しないことにしよう……。ひょっとかすると殺されるかもしれねえ。何と云っても謀反人だからなあ、もう一度洞庭へ行って見たいものだ。松江の鱸を食ってみたい。女房や子供はどうしたかな? 幾人女房があったかしら? あっ、そうだ、四人あったはずだ」
李白はちょっと感傷的になった。
無理もないことだ、五十七歳であった。
李白は皆に好かれていた。
新皇帝粛宗に向かって、いろいろの人が命乞いをした。
宣慰大使崔渙や、御史中丞宋若思や、武勲赫々たる郭子儀などは、その最たるものであった。
そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。
道々洞庭や三峡や、巫山などで悠遊した。
李白はあくまでも李白であった。竄逐されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。
乾元二年に大赦があった。
まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。
そこで江夏岳陽に憩い、それから潯陽へ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。
あっちこっち歩き廻った。
到る所で借金をした。九割までは酒代であった。
のべつに客が集まって来た。
やがて宝応元年になった。
ある県令に招かれて、釆石江で舟遊びをした。
すばらしく派手やかな宮錦袍を着、明月に向かって酒気を吐いた。
波がピチャピチャと船縁を叩いた。
十一月の月が水に映った。
「ひとつ、あの月を捕えてやろう」
人の止めるのを振り払い、李白は水の中へ下りて行った。
水は随分冷たかった。
彼の考えはにわかに変わった。
どう変わったかは解らない。
李白は水中をズンズン歩いた。
やがて姿が見えなくなった。
それっきり人の世へ現われなかった。
「李白らしい死に方だ」
人々は愉快そうに手を拍った。
東巖子は岷山にいた。
相変わらず小鳥の糞にまみれ、相変らずぼんやりと暮らしていた。
ある日薄穢い老人が、東巖子を訪れて来た。
「先生しばらくでございます」
「誰だったかね、見忘れてしまった」
老人は黙って優しく笑った。
なるほどまさしく薄穢くはあったが、底に玲瓏たる品位があった。人間界のものであり、同時に神仙のものである、完成されたる品位であった。
で、東巖子は思わず云った。
「おお貴郎は老子様で?」
「いえ私は李白ですよ」
「いえ貴郎は老子様です」
東巖子は云い張った。
「どうぞ上座へお直り下さい」
李白は平気で上座へ直った。
数百羽の小鳥が飛んで来た。音を立てて庵の中へ入った。
そうして東巖子の頭や肩へ……いや小鳥は東巖子へは行かずに、李白の頭や肩へ止まった。すぐに李白は糞まみれになった。
今でも岷山のどの辺りかに、李白とそうして東巖子とが、小鳥を相手に日向ぼっこをして、住んでいる事は確かである。
底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「大衆文芸」
1926(大正15)年4月
※漢詩漢文の読み下し文の旧仮名づかいは底本通りです。また促音の大小の混在も底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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