鴉片を喫む美少年
国枝史郎



(水戸の武士早川弥五郎が、清国上海シャンハイへ漂流し、十数年間上海に居り、故郷の友人吉田惣蔵へ、数回長い消息をした。その消息を現代文に書きかえ、敷衍し潤色したものがこの作である。──作者附記)


 友よ、今日は「鴉片を喫む美少年」の事について消息しよう。

 鴉片戦争もたけなわとなった。清廷の譎詐きっさと偽瞞とは、云う迄もなくよくないが、英国のやり口もよくないよ。

 いや英国のやり口の方が、遥かにもっとよくないのだ。

 何しろ今度の戦争の原因が、清国の国禁を英国商人が破り、広東で数万函の鴉片を輸入し──しかも堂々たる密輸入をしたのを、硬骨蛮勇の両広りょうこう総督、林則徐りんそくじょが怒って英国領事、エリオットをはじめとして英国人の多数を、打尽して獄に投じたことなのだからね。

 が、まあそんなことはどうでもよいとして「鴉片を喫む美少年」の話をしよう。

 僕といえども鴉片を喫むのだ。他に楽しみがないのだからね。日本を離れて八年になる。三年×月□□日、釣りに品川沖へ出て行って、意外のしけにぶつかって、舟が流れて外海へ出、一日漂流したところを、外国通いの外国船に救われ、その船が上海へ寄港した時、その船から下ろされて、そのまま今日に及んだんだからね。今の境遇では日本の国へ、いつ帰れるともわからない。藩籍からも除かれたそうだし、何か国禁でも犯したかのように、幕府の有司などは誤解していると、君からの手紙にあったので、せっかく日本へ帰ったところで、面白いことがないばかりか、冷遇されるだろうから、帰国しようと思っていないのさ。

 しかし一日として日本のことを、思わない日はないのだよ。勿論妻も子供もないから、君侯のことや朋輩のことや──わけても君、吉田惣蔵君のことを、何事につけても思い出すのだがね。

 黄浦ホアンプー河の岸に楊柳ようりゅうの花が咲いて散って空に飜えり、旗亭や茶館や画舫などへ、鵞毛のように降りかかる季節、四五月の季節が来ようものなら、わけても日本がなつかしくなるよ。

 楊柳の花! 楊柳の花!

 友よ、友よ、楊柳の花のよさは、何と云ったらよいだろう!

 詩人李白がうたったっけ。──

楊花落尽子規啼ようかおちつくしてしきなく

聞道竜標過五渓きくならくりゅうひょうごけいをすぐと

我寄愁心与明月われしゅうしんをよせてめいげつにあたう

随風直到夜郎西かぜにしたがってただちにやろうのにしにいたる

 詩人王維も詠ったっけ。──

花外江頭坐不帰かがいこうとうざしてかえらず

水晶宮殿転霏微すいしょうきゅうでんうたたひび

桃花細逐楊花落とうかこまかにようかをおっておつ

黄鳥時兼白鳥飛こうちょうときにははくちょうをかねてとぶ

 が、今は楊柳の花が、僕の心を感傷的にする、そういう季節ではないのだよ。しかし僕の語ろうとする「鴉片を喫む美少年」の物語の、主人公の美少年と逢ったのは、その今年の楊柳の花が、咲き揃っている季節だった。

 その夜僕は上海城内の、行きつけの鴉片窟「金花酔楼」へ、一人でこっそり入って行った。

 その家は外観みかけは薬種屋なのだ。

 しかしその家の門口をくぐり、ちょっと店員に眼くばせをして、裏木戸から中庭へ出ようものなら、もう鴉片窟のおもかげが、眼前に展開されるのさ。

 闇黒の中に石の階段が、斜めに空に延びていて、その外れに廊下があり、廊下の片側全体が、喫煙室と酒場と娯楽室、そういうものになっていて、酒場からは酔っ払った男女の声が、罵るように聞こえてき、娯楽室からは胡弓の音や、笛の音などが聞こえて来るのさ。

 僕は度々来て慣れているので、すぐに石の階段を上り、酒場の入口を素通りし、娯楽室の楽器の音を聞き流し、喫煙室へ入って行った。

 度々来て鴉片をむ僕にとっては、悪臭と煙と人いきれと暗い火影と濁った空気と、幽鬼じみて見える鴉片常用者と、不潔な寝台と淫蕩な枕と、青い焔を立てている、煙燈エントの火がむしろ懐かしく、微笑をさえもするのだが、そうでない君のような人間が、突然こんな部屋へやって来たら、その陰惨とした光景に、きっと眼を蔽うことだろうよ。


 僕は入口で金を払い、中へ入って一つの寝台へ上った。そうしてすぐ横わり、先ず煙燈エントへ火を点じ、それから煙千子エンチェンズを取り上げた。それから煙筒エンコに入れている液へ──つまり一回分の鴉片液なのだが、その中へ煙千子を入れ、鴉片液を煙千子の先へ着け、それを煙燈の火にかざした。つまり鴉片を煉り出したのだ。

 寝台は二人寝になっているのだ。寝台の三方は板壁で、一方だけが開いていて、そこには垂布たれぎぬがかけてあるのだ。すなわち一つの独立した、小さい部屋を形成しているのさ。

 隣りの部屋も、その隣りの部屋も、その隣りの部屋もそうなっているのさ。

 どの部屋も客で一杯らしかった。

 何という奇怪なことなんだろう!

 政府が鴉片を輸入させまいとして──すなわち支那の人間に、鴉片を喫煙させまいとして、ほとんど一国の運命を賭して、世界の強大国英吉利イギリスを相手に、大戦争をしているのに、肝心の支那の人間は、風馬牛視して鴉片を喫っている。鴉片窟はここばかりにあるのでなく、上海だけにも数十軒あり、その他上流や中流の家には、その設備が出来ているのだよ。

 そんなにも鴉片は美味なものなのか? 勿論! しかしそれについては、僕は何事も云うまいと思う。僕が故国へ帰って行かない理由の、その半分はこの国に居れば、鴉片を喫うことが出来るけれど、日本へ帰ったら喫うことが出来ない。──と云うことにあるということだけを、書き記すだけに止めて置こう。

 やっと鴉片を煉り終えて、煙斗へ詰めてしまった時、一人の少年が垂布をかかげて、僕の部屋へ入って来た。

 僕の部屋と云ったところでこの部屋へは、誰であろうともう一人だけは、自由に入ることが出来るのさ。

 で、その少年はこんな場合の、習慣としている挨拶の、

大人たいじん、私もお仲間になります」

 こういう意味の挨拶をして、同じ寝台の向こう側に寝、ゆっくりと鴉片を煉り出したものだ。

 僕はすっかり驚いてしまった。

 と云うのはその少年の顔と四肢とが、──つまり容貌と、姿勢すがたとが、余りに整って美しかったからさ。

 友よ、全くこの国には、人間界の生き物というより、天界の神童と云ったような、美にして気高い少年が、往々にしてあるのだよ。

 勿論同じように素晴らしい天界の天女と云ったような、美にして気高い少女もあるがね。

 僕は無駄な形容なんか、この際使おうとは思わない。

 僕はただこう云おう。──

「僕は同性恋愛者ではない。しかし実のところその時ばかりは、その少年を見た時ばかりは、忽然としてかなり烈しい、同性恋愛者になってしまった程、その少年は美しく、そうして魅惑的で肉感的だった」と。

 その少年がそれだったのだ。この物語の主人公だったのだ。

 名は? さよう、宋思芳そうしはんと云ったよ。

(云う迄もなく後から聞いたんだがね)

 宋思芳は鴉片を煉り出した。

 ところがどうだろう、その煉り方だが、問題にもならず下手なのさ。

 君には当然解るまいと思うが、鴉片の煉り方はむずかしく、上手に煉ると飴のようになるが、下手に煉るとバサバサして、それこそ苔のようになってしまって、鴉片の性質を失ってしまい、そうして煙斗へ詰めることが出来ず、従って喫うことが出来ないのだ。

 少年の煉り方がそうだったのさ。で、幾度煉り直しても、苔のようになってしまったのさ。

 僕は思わず吹き出してしまった。

 僕はまだ鴉片を喫っていなかった。喫うのを忘れてその少年の美と、その美しい少年の、不器用極まる鴉片の煉り方とに、先刻から見入って居ったのさ。

「僕、煉ってあげましょうか」

 とうとう僕はこう云った。

「有難う、どうぞお願いします」

 そう云った少年の声の美しさ、そう云った少年の声の優しさ、又もや僕は恍惚うっとりとしてしまった。

 僕はそれからその少年のために、鴉片を煉りながら話しかけた。


「これ迄喫ったことはないのですか?」

「鴉片を喫うのは今日がはじめてです」

「なるほどそれでは煉れないはずだ。……がそれなら鴉片なんか喫わない方がいいのですがね」

「こんな大戦争を起こす程にも、みんな喫いたがる鴉片なのですから、私も喫いたいと思いましてね」

「そう、誰もがそう云ったような、誘惑を感じて喫いはじめ、喫ってその味を知ったが最後、みすみす廃人となるのを承知で、死ぬまで喫うのが鴉片ですよ。……全く御国の人達と来ては、鴉片中毒患者ばかりです」

「御国の人? 御国の人ですって? ……では貴郎あなたは外人なのですか?」

(しまった!)と僕は思ったよ。

 とうとう化けの皮を現わしてしまった。

 友よ! 僕はね、八年もの間、この支那の国に住んでいるので、言葉も風俗も何も彼も、すっかり支那人になりきることが出来、誰にも滅多に疑われなかったのに、自分からこの日は底を割ってしまい「お国の人」なんて云ってしまったのさ。

 これには自分ながら愛想を尽かしたが、たとい身分をなのったところで、害になることもなかったので、

「実は僕は日本人なのです」

 こう云ってから漂流したことや、ずっとそのまま支那にとどまり、支那人生活をしていることなどを、すっかりあけすけに話したものさ。

「日本の武士?」と宋思芳は、ひどく好奇心に煽られたように云い、それからそれといろいろのことを──日本の武士は任侠的で、人に頼まれるとどんなことでも、引き受けるというが本当かとか、日本の武士は剣道に達していて、強いというが本当かとか、そんなことを質問した。

 で、僕はみんな本当だと、そう云って宋思芳に答えてやった。

 宋思芳はひどく考え込んだが、

「英国のやり口をどう思いますか?」と訊いた。

「勿論正当のやり口ではないね」

 こう僕は答えてやった。

「グレーという英国人をご存じですか?」

「司令官ゴフの甥にあたる、参謀長のグレーのことなら、戦争以来耳にしています」

「大変もない怪物でしてね、あの男一人を殺しさえしたら、こう迄も清国は負けないのですよ。大胆で勇敢で智謀があって、まだ壮年で好色淫蕩で、女惚れさえするのです。でもエリオットとは仲が悪いのです」

 そう宋思芳少年は云った。

「エリオットはどっちのエリオットなのです?」

 そう僕は訊いて見た。

「水師提督の方のエリオットです」

 水師提督エリオットは、この上海の英国領事の、もう一人のエリオットの親戚なのだが、鴉片戦争が始まるや否や、印度及び喜望峰の兵、一万五千人を引率し、軍艦二十六隻をひきい、大砲百四十門を携え、定海じょうかい湾、舟山しゅうさん島、乍浦チャプー寧波ニンポー等を占領し、更に司令官ゴフと計り、海陸共同して進撃し、呉淞ウースンを取り、上海を奪い、その上海を根拠とし、揚子江を堂々溯り、鎮江チンチャンを略せんとしている人間なのさ。

 グレーというのは英軍切っての、謂うところの花形で、毀誉褒貶いろいろあるが、人物であることは疑いなく、この男の参謀戦略によって、英軍は連戦連勝し、清国は連戦連敗しているのさ。

 僕達二人は鴉片を喫わず、永いことそんなような話をした。

 その翌夜も翌々夜も、僕達二人は同じ鴉片窟で逢った。

 宋思芳はだんだん鴉片を煉るに慣れ、追々鴉片の醍醐の味に、沈湎ちんめんするように思われた。

 僕はしばしば宋思芳に向かって、どういう素性の人間なのか、どこにどんな家に住んでいるのか、家族にどういう人達があるかと、そんなことを訊いて見たが、彼はいつもうまく逃げて、話をしようとはしなかった。

 ところが次第に変な調子になった。

 と言うのは宋思芳が僕に対して、思慕の情愛を示し出したのさ。

 女が男を恋するような情を。

 僕は同性恋愛者ではない。が、宋思芳が前に云った通りの、世にも珍しい美少年だったので、そういう彼のそういう情愛が、僕には不自然に感ぜられなかった。


 さて、それから一月ほど経った。にわかに宋思芳少年が、鴉片窟へ姿を見せなくなった。すると僕は恋しい女と、不意に別れたそれのような、寂寥と悲哀と嫉妬さえも、強く心に燃えるようになった。

(いつか俺もあの女を──女のようなあの美少年を、恋していたものと思われる。)

 そう僕はつくづく感じた。

 そういう心を慰めるため、僕は旅へ出ることにした。

(揚子江でも溯ってみよう!)

 で僕は出発した。もう楊花は散り尽くしてしまい、梨の花が河の岸あたりに、少し黄味を帯びた白い色に、──それも日本の梨の花のような、あんな淡薄な色でなく、あんな薄手の姿でなく、モクモクと盛り上り団々と群れて、咲いているのを散見しながら、岸に添って僕達の船は上った。戎克ジャンク、筏、帆をかけた筏──その筏の上で豚を飼い、野菜を作り、子供を産むと、そう云われている筏船などが、僕達の船のそばを通った。

 今にも鎮江が陥落しそうだとか、北京の清帝が蒙塵するらしいとか、戦争の噂は船中にあっても聞こえ、その噂はいつも支那側にとって、面白くないものだった。

 船は江陰チャンインで碇泊した。で、僕は上陸した。江陰にも英国兵が駐屯していて、戦争気分が漲っていたが、昔から風光明媚として、謡われるところだけに、家の構造つくり、庭園の布置に、僕を喜ばせるものがあり、終日町や郊外を、飽かず僕は見て廻った。夕方まで見て廻った。船は三日程碇泊するので、今夜は陸の旅館へ泊まろう、こう僕は最初からきめていた。

 で、気持のよい旅館を探そう、こう思って町の方へ足を向けた。その時洋犬と支那美人とを連れた、中年の英国の将校が、僕を背後から追い越した。

「あ」と僕は思わず声を立てた。

 と云うのは支那美人が宋思芳と、非常に顔が似ていたからであった。

 すると支那美人も僕の顔を見たが、思いしか表情を変え、驚きと懐しさを現わしたようであった。

 しかしその儘歩み去ってしまった。

 友よ、こんな際、その支那美人の後を、僕がどこまでもつけて行ったところで、不都合だとは云わないだろうね。

 僕はその後をつけて行ったのだよ。

 と、その一行は町の入口の、かなり立派な屋敷へ入った。

 屋敷の門際に英国の兵士が、銃を担いで立っていたので、僕はその一人に訊いてみた。

「今行った将校は誰人どなたですか?」と。

「参謀長グレー閣下」

「ご一緒のご婦人は奥様ですか?」

「奥様ではない、愛人だよ」

 英国兵などは気散じなもので、微笑しながらそう教えてくれた。

 僕はその夜町の中央の、××亭という旅館へ泊まったが、どうにも眠ることが出来なかった。

 そこで町を彷徨さまよった。

 もう明け方に近い頃で、月が町の家並の彼方、平野の涯へ落ちかかっていた。

 と、不意に道の角を廻り、この辺りに珍しい二頭立の、立派な馬車が現われたが、その上に海軍の将校服をつけた、半白の髪をした英国人と、支那少年とが同乗していた。

 僕は以前上海の地で、英国の水師提督エリオットを、一二度見かけたことがあって、容貌風采を知っていたので、馬車中の老将校がエリオットであることを、僕は早くも見て取ることが出来た。

 娼公、俳優とでも云いたいような、艶かしい装いをした支那少年は? エリオットと同乗していた支那少年は? 友よそれこそ宋思芳だったのだ!

 その証拠にはその少年は、僕を見かけると微笑して、軽く一揖いちゆうしたのだからね。

 では先刻の支那美人は! グレーと同伴していた支那美人は?

 わからない! 解らない! 解らない!


 僕は上海へ帰って来た。

 鎮江は容易に陥落しなかった。

 いろいろの噂が伝わった。鎮江は揚子江の咽喉で、地勢は雄勝で且つ奇絶、すこぶる天険に富んでいる。そこへ清軍の精鋭が集まり、死守しているのでさすがの英軍も、陥落させることが出来ないのだと、そういう人間があるかと思うと、水師提督のエリオットが健康を害し、かつ頭を悪くして、昔日の俤がなくなったので、それが士気に影響して、鎮江が陥落しないのだと、そんなように云う人間もあった。しかし参謀長のグレーの方は、益々壮健で頭脳も明晰だから、早晩彼の策戦で、鎮江は陥落するだろうと、そんなように云う人間もあった。

 さて僕だが上海へ帰るや、例によって例の如く、鴉片窟や私娼窟へ入り浸って、その日その日をくらしたものさ。

 そこで君は不思議に思うだろうね、僕という人間が生活基礎を、どういうものに置いていて、そんな耽溺的生活に、毎日耽ることが出来るのかと?


 それについてはいずれ語ろう。

 そう、いずれ語るとしよう。が、今はそんなことより、その後僕が遭遇した、世にも奇怪な出来事について、消息する方がいいようだ。

 友よ、それから一カ月経った。

 その時僕の家の玄関に、厠で使う紙の面に、

「明後日迎いに参るく候」

 こういう意味の文字が書かれてあり、心臓に征矢そやを突き刺した絵が、赤い色で描かれたものが、針によって止められていた。

 これには説明がいるようだから、一つ説明することにする。

 上海には上流の女ばかりによって、形成されている秘密倶楽部がある。

加華荘舎かかそうしゃ」と云われている。

 その目的とするところは、性の享楽ということなのだ。

 で、これと目星をつけた、美男の住んでいる家の玄関へ、今云ったような張り紙をし、それからかごで迎いに来るのだ。

 男は絶対に拒絶することが出来ない。もし拒絶しようものなら、その男一人ばかりでなく、その男の一家一族までが、ひどい惨害に遭うのだからね。

 この国における女の勢力! それは到底日本の比でなく、全く恐ろしい程なのだ。今日ばかりではなく事実この国の──支那の、ずっと昔からの、習慣であるということが出来る。則天武后だの呂后ろごうだの、褒似ほうじだの妲妃だっきだのというような、女傑や妖姫ようきの歴史を見れば、すぐ頷かれることだからね。

 しかしそれにしても僕のようなものへ、白羽の矢を立てて召そうとは、すくなくも僕にとっては以外だったよ。

 と云って何も僕という人間が、醜男だったからと云うのではない。自画自賛で恐縮だが、僕という人間は君も知っている通り、かなりの好男子であるはずだからね。

 僕の云うのはそう云う意味からではなく「僕のような生活を生活している者に、そんな招待をするなんて、何て冒険的な女達だろう」──つまりこういう意味なのだ。

 僕のような生活を生活している者? のような生活とはどんな生活なのか? おそらく君は知りたいだろうね。よろしい云おう、そのうちに云おう。

 とにかくこうして当日となり、その日が暮れて夜となり、その夜が更けて深夜となった。桂華徳街の百○参号、そこが僕の家なのだが、果たしてその処へ一挺のかごが、数人の者によって担い込まれた。

 僕は新しいさんを着け、そうして新しいを穿いて、懐中に短刀──鎧通よろいどおしさ、兼定かねさだ鍛えの業物だ、そいつを呑んで轎に乗った。

(淫婦どもめ、思い知るがいい!)

 こういう心持を持ちながら、轎に乗ったというものさ。

 さて轎は道を走った。その道筋を細描写しても、君には面白くあるまいと思う。で、一切はぶくことにする。

 轎は目的の館へ着いた。

 そこが「加華荘舎」の在場所なのさ。僕は一室に通された。

 ここで僕はこの館の構造つくりを、ほんの簡単にお知らせしよう。

 階段があると思ってくれたまえ。そうだ一筋の階段が。その階段を上り切った所に、一つの小広い部屋があり、その部屋から無数に細い廊下が、四方に通っているのだよ。そうしてその廊下の行き止まりに、一つずつ小さな婦人部屋があり、そこに会員達がいるのだそうだ。又、階段を下り切った所に、同じく小広い部屋があり、その部屋から今度は一筋の廊下が、一方の方へ通じて居り、その行き止まりに風呂場がある。そうしてその風呂場の一方の壁に、秘密のドアが出来て居り、そこを出ると廊下となる。この廊下は充分長く、そうして風呂場と平行していて、そうして左右に部屋があるのだ。そうだ、いくつかの寝室が。会員の数だけの寝室が。

 で、召されたミメヨキ男は、先ず風呂に入れられて、すっかり体を洗われて、一つの寝室へ寝かされるのだ。と、互いに籤引きをして、真先に当選した会員の女が、これも最初風呂へ入り、体を洗いお化粧をし、それから男の寝ている部屋へ、導かれて侵入する。

 もうその後は書く必要はあるまい。

 さて、すっかり陶酔してしまうと、又女は風呂へ入り、綺麗に汗とあぶらとを落とす。そうして自分の部屋へ引き上げて行く。と今度は男の方が、風呂へ入れられて洗われる。それから別の寝室へ送られ、二番目の女を迎えることになる。こういうことが繰り返され、二日でも三日でも五日でも十日でも、男の精力のつづく中は、女達の欲望の消えない中は、無限に繰り返されて行くのだよ。

 友よ、そういう加華荘舎へ、僕は招待にあずかったのだ。そうして今云った手順を経て、一つの寝室へ通された。その寝室には寝台があり、寝台には鴉片の装置があり、酒を飲むようにもなっていた。ほのかな燈火あかりもともされていた。僕は寝台に横になり、

(来やがれ、淫婦ども?)と思っていた。

 とうとう女はやって来た。

 外から部屋の錠を外し、内へ入ると錠をかい、平然として近寄って来た。彼女等はすっかり慣れているのだ。男が女を弄ぶことに、すっかり慣れているように、彼女等は男を弄ぶことに、これまたすっかり慣れているのだ。

 僕はかづいていたふすまの中で、鎧通の柄を握り──殺そうなどとは夢にも思わず、傷付けようなどとも夢にも思わず、せいぜいのところひっこ抜いて、おどしてやろうと考えていた。と、衾が捲くられた。つまり女が捲くったのだ。で、僕は女の顔を見た。

「あ」と僕は思わず云った。

 その女が彼女だったからだ。江陰の郊外でグレーと一緒に、散策していた支那美人──宋思芳と似ている支那美人だったからだ。

 僕は鎧通を手から放した。

 そうして寝台の一方を開けた。彼女が寄り添って寝られるように。

 で彼女は僕のそばへ寝た。

 そうして二人は陶酔してしまった。

 満足して彼女が立ち去る時、彼女は僕へ囁いた。

「他の女へ貴郎をお渡しするのは、私大変厭なんですけれど、少なくももう一人の女へだけは、貴郎をお貸ししなければならないのです」と。

 僕はそれから風呂へ入れられ、別の寝室へ案内された。

 扉をあけて中へ入った途端、しかし意外の光景を見た。まぎれもない宋思芳少年が、一人の外人に咽喉を抑えられ、寝台の上へ捻じたおされ、圧殺されようとしているのだ。

「タ、助けて!」と息も絶え絶えに、その宋思芳が僕へ云った。

 で、僕はほとんど夢中で、その外人へ飛びかかり、持っていた鎧通で一えぐりした。外人──それはグレーだったが、もろくもそのまま死んでしまった。

 友よ、グレーの血に染まった、醜悪な死骸を寝台の側へ置いて、僕と宋思芳とが寝台の上で、再度の陶酔に耽ったことを──再度というのは宋思芳と、先刻の支那美人とが文字通り、同一人だからそういうのだが──友よ、咎めてくれたもうな。こんなことは青幇チンパンに嘱している、僕という人間には普通のことだし、又、紅幇ホンパンに嘱している、宋思芳にとっても茶飯事なのだからね。

 今日も例の鴉片窟「金華酔楼」で恋人同士として、僕は彼女──彼と云ってもいい。彼女は今日も男装であり、男装の方が似合うのだから。──その宋思芳と逢って来た。鴉片を喫って恍惚として、無我の境地で抱擁し合う、この極度の快感は、日本にいる誰も知らないだろうよ。

 だが彼は──いやいや彼女は……そうだやっぱり僕としては、彼女と云った方がいいようだ。で、彼女は、何者なのか? 事実彼女はその昔は、良家の娘だったということだ。が、今はこの国における、二つの大きな秘密結社──殺人、人買い、掠奪、密輸入、あらゆる悪行をやりながら、不断の貧民の味方として、かつ貧民の防禦団体として、根本においては祖国愛主義の、青幇チンパン紅幇ホンパンという秘密結社の、その紅幇に嘱している、女班の利者きけものの一人なのだ。

 そうして僕は青幇会員で、この会員であるがために、生活することが出来ているのだよ。

 今日彼女は僕に云ったっけ。──

わたし、グレーとエリオットとの二人へ、女装をしたり男装をしたりして、自由に体を任かせたのも、紅幇の頭から命ぜられたのではなく、自分から進んでやったのよ。そうやって二人をだいなしにして、殺してやろうと思ったからだわ。でもとうとうエリオットの方は、妾から鴉片を進めたのに乗って、鴉片を喫い出したので頭を悪くし、昔のあいつじゃアなくなったし、グレーの方はあんな具合に、貴郎あなたに殺して貰ったし、妾の目的は遂げられたってものよ。……これじゃアなかなか鎮江は、英軍の手には落ちないわね。……二人の大将が駄目になったんですもの」

「それにしてもどうしてグレーって男が、あんな所へやって来たんだい?」

「妾からやっぱり、呼んだからよ。例の厠の紙を使って。好奇ものずきあいつやって来たのさ。毛唐って奴、好色だからねえ……ところが現われた女ってのが、自分だけの情婦だと自惚れていた、妾だったので嫉妬して、私の咽喉を締めたんだわ」

「じゃア僕をんだのは、グレーの奴を殺させるため、……ただ、それだけのためだったんだね」

「それもあったわ、でももう一つ、妾あんたが好きだったからよ」

 ──それならいと僕は思ったよ。

 友よ、これでおしまいだ。

 古人こじん燭をとって夜遊ぶさ。今人こんじんの僕はこんな遊びをしている。あくどい、刺戟の強い、殺人淫楽的の遊びを!

 しかもそれが生活でもあるのさ。

 さようなら、さよなら。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷

   1993(平成5)年930日初版発行

初出:「オール読物」

   1931(昭和6)年12

入力:阿和泉拓

校正:門田裕志、小林繁雄

2005年910日作成

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