國文學の發生(第一稿)
呪言と敍事詩と
折口信夫



        一


日本文學が、出發點からして既に、今ある儘の本質と目的とを持つて居たと考へるのは、單純な空想である。其ばかりか、極微かな文學意識が含まれて居たと見る事さへ、眞實を離れた考へと言はねばならぬ。古代生活の一樣式として、極めて縁遠い原因から出たものが、次第に目的を展開して、偶然、文學の規範に入つて來たに過ぎないのである。

似た事は、文章の形式の上にもある。散文が、權威ある表現の力を持つて來る時代は、遙かに遲れて居る。散文は、口の上の語としては、使ひ馴らされて居ても、對話以外に、文章として存在の理由がなかつた。記憶の方便と云ふ、大事な要件に不足があつた爲である。記録に憑ることの出來ぬ古代の文章が、散文の形をとるのは、時間的持續を考へない、當座用の日常會話の場合だけである。繰り返しの必要のない文章に限られて居た。ところが、古代生活に見えた文章の、繰り返しに憑つて、成文と同じ效果を持つたものが多いのは、事實である。律文を保存し、發達させた力は、此處にある。けれども、其は單に要求だけであつた。律文發生の原動力と言ふ事は出來ぬ。もつと自然な動機が、律文の發生を促したのである。私は、其を「かみごと」(神語)にあると信じて居る。

今一つ、似た問題がある。抒情詩・敍事詩成立の前後に就てゞある。合理論者は抒情詩の前出を主張する。異性の注意を惹く爲とする、極めて自然らしい戀愛動機説である。此考へは、雌雄の色や聲と同じ樣に、詩歌を見て居る。純生理的に、又、原始的に考へる常識論である。其上、發生時に於て既に、ある文學としての目的があつたらしく考へるからの間違ひである。律文の形式が、さうした目的に適する樣に、ある進歩を經てから出來て來た目的を、あまり先天的のものに見たのだ。

わが國にくり返された口頭の文章の最初は、敍事詩であつたのである。日本民族の間に、國家意識の明らかになりかけた飛鳥朝の頃には、早、萬葉に表れたゞけの律文形式は、ある點までの固定を遂げて居た樣に見える。

我々の祖先の生活が、此國土の上にはじまつて以後に、なり立つた生活樣式のみが、記・紀其他の文獻に登録せられて居るとする考へは、誰しも持ち易い事であるが、此は非常に用心がいる。此國の上に集つて來た澤山の種族の、移動前からの持ち傳へが、まじつて居る事は、勿論であらう。

併し、此點の推論は、全くの蓋然の上に立つのであるから、嚴重にすればする程、科學的な態度に似て、實は却つて、空想のわり込む虞れがある。だから、ある點まで傳説を認めておいて、文獻の溯れる限りの古い形と、其から飛躍する推理とを、まづ定めて見よう。

其うちで、ある樣式は、今ある文獻を超越して、何時・何處で、何種族がはじめて、さうして其を持ち傳へたのだと言ふ樣な第二の蓋然も立てられるのである。さうなつた上で、古代生活の中に、眞の此國根生ひと、所謂高天原傳來との交錯状態が、はつきりして來るのである。

文章も亦、事情を一つにして居る。敍事詩の發達に就て、焦點を据ゑねばならぬのは、人稱の問題である。

土居光知氏は、日本文學の人稱問題の發達に、始めて注意を向けた方である。氏と立ち場は別にして居るが、此事は、言ひ添へて置きたい。

日本紀の一部分と、古事記の中、語部カタリベの口うつしに近い箇所は、敍事として自然な描寫法と思はれる三人稱に從うて居る。時々は、一人稱であるべき抒情部分にすら、三人稱の立ち場からの物言ひをまじへて居る。「八千矛神と妻妾との間の唱和」などが其である。此は、敍事詩としてのある程度の進歩を經ると、起り勝ちの錯亂である。ところが間々、文章の地層に、意義の無理解から、傳誦せられ、記録せられした時代々々の、人稱飜譯に洩れた一人稱描寫の化石の、包含せられて居る事がある。

一人稱式に發想する敍事詩は、神の獨り言である。神、人にカヽつて、自身の來歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡の恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。而も種族の記憶の下積みが、突然復活する事もあつた事は、勿論である。其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡の口を衝いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文要素が加つて居た。全體、狂亂時・變態時の心理の表現は、左右相稱を保ちながら進む、生活の根本拍子が急迫するからの、律動なのである。神憑りの際の動作を、正氣で居ても繰り返す所から、舞踊は生れて來る。此際、神の物語る話は、日常の語とは、樣子の變つたものである。神自身から見た一元描寫であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに發想は一人稱に依る樣になる。

昂ぶつた内律の現れとして、疊語・對句・文意轉換などが盛んに行はれる。かうして形をとつて來る口語文は、一時的のものではある。併し、律文であり、敍事詩である事は、疑ふ事が出來ない。此神の自敍傳は、臨時のものとして、過ぎ去る種類のものもあらう。が、種族生活に交渉深いものは、屡くり返されて居る中に固定して來る。此敍事詩の主なものが、傳誦せられる間に、無意識の修辭が加る。口拍子から來る記憶の錯亂もまじる。併しながら、「神語」としては、段々完成して來るのである。

文章としての律要素よりも、聲樂としての律要素の方が、實は此「神語」の上に、深くはたらきかけて居た。律語の體をなさぬ文も、語る上には曲節をつける事が出來る。此曲節に乘つて、幾種類もあつた「神語」が巫覡の口に傳つて、其相當の祭り・儀式などに、常例として使はれて來た。つまりは、團體生活が熟して來て、臨時よりも、習慣を重んずる事になつたからなのだ。

郡ほどの大きさの國、邑と言うてもよい位の國々が、國造・縣主の祖先に保たれて居た。上代の邑落生活には、邑の意識はあつても、國家を考へる事がなかつた。邑自身が國家で、邑の集團として國家を思うても見なかつた。隣りあふ邑と邑とが利害相容れぬ異族であつた。其と同時に、同族ながら邑を異にする反撥心が、分岐前の歴史を忘れさせた事もあらう。

かう言ふ邑々の併合の最初に現れた事實は、信仰の習合、宗教の合理的統一である。邑々の間に嚴に守られた祕密の信仰の上に、靈驗あらたなる異族の神は、次第に、而も自然に、邑落生活の根柢を易へて行つたのである。飛鳥朝以前既に、太陽を祀る邑の信仰・祭儀などが、段々邑々を一色に整へて行つたであらう。邑落生活には、古くからの神を保つと共に、新に出現する神を仰ぐ心が深かつたのである。

單に太陽神を持つて居た邑ばかりでなく、他の邑々でも、てんでに發生した事實もあらうが、多くはかうして授けられたらうと思はれる一つの樣式として、語部カタリベと言ふ職業團體──かきべ──が、段々成立して行つた。

ガヽりの時々語られた神語の、種族生活に印象の深いものを語り傳へて居る中に、其傳誦の職が、巫覡の間に分化して來た。さうして世襲職として、奉仕には漸く遠ざかり、詞句の諳誦と曲節の熟練との上に、其が深くなつて行つたものと思はれる。

語部の話は、私の研究の筋を辿つて、雜誌「思想」(大正十三年一月)に公にせられた横山重氏の論文がある。私の持つて居る考へ方は、緻密に傳へられて居る。それを推擧して、私は唯概念を綴る。


        二


神語即託宣は、人語を以てせられる場合もあるが、任意の神託を待たずに、答へを要望する場合に、神の意思は多く、譬喩或は象徴風に現はれる。そこで「神語」を聞き知る審神者──さには──と言ふ者が出來るのである。

中には人間の問ひに對して、一言を以て答へる、一言主ヒトコトヌシ神の樣に方法を採るのもあつた。

神の意思表現に用ゐられた簡單な「神語」の樣式が、神に對しての設問にも、利用せられる樣になつたかと思はれる。

私は「片哥」と言ふ形が、此から進んだものと考へる。旋頭歌の不具なる物故と思はれて居る名の片哥は、古くは必、問答態を採る。「神武天皇・大久米命の問答」・「酒折宮の唱和」などを見ると、旋頭歌發生の意義は知れる。片哥で問ひ、片哥で答へる神事の言語が、一對で完成するものとの意識を深めて、一つ樣式となつたのである。併し、問答態以前に、神意を宣るだけの片哥の時代があつた事は、考へねばならぬ。

今日殘つて居る片哥・旋頭歌は、形の頗整頓したものである。我々の想像以前の時代の、此端的な「神言」は、片哥・旋頭歌には近いだらうが、もつと整はぬものであつたらう。なぜなら、此二つの形は、敍事詩がある發達を遂げた後に、固定した音脚をとりこんだものらしく思はれるからである。つまりは、自由な短い樣式が、段々他の方面で發達して來たものに影響せられて來たのである。時代の音脚法によつて、整理せられたと言うてもよからう。片哥を以て、日本歌謠の原始的な樣式と考へ易いが、かうした反省が大事である。

けれども、我々の立場からは、複雜の單純化せられ、雜多が統一せられて行く事實を忘れてはならない。旋頭歌が、一つの詞形──文學意識は少いが──と考へられて來ると、形の上にこそ本句と末句との間に、必、休息點は置いても、思想の上では一貫したものになつて來る。本末のある句を繰り返して、調を整へるのも、他の詩形の影響である。

私は敍事詩の發生と時を同じくして片哥が出來たと考へ、神の自敍傳としての原始敍事詩と、神の意思表現手段としての片哥と對立させて、推論を進めて來たが、其にしても、此音脚の上に整理の積んだ形は、可なり敍事詩時代の進んだ後、其洗煉せられた樣式をとり入れたものとしか思はれない。


        三


種族の歴史は、歴史として傳へられて來たのではない。或過程を經た後、「神言」によつて知つたのである。其すら、神の自ら、如何に信仰せられて然るべきかを説く爲の、自敍傳の分化したものであつた。祭祀を主とせぬ語部が出來ても、神を離れては意味がなかつた。單に、史籍の現れるまでの間を、口語に繋ぎ止めた古老の遺傳ではなかつたのである。信仰を外にしては、此大儀で亦空虚にも見える爲事の爲の、部曲の存在をば、邑落生活の上の必須條件とする樣になつた筋道がわからない。其に又、人間の考へ通り自由に、其詞曲を作る事が許されて居たのなら、子代部コシロベ名代部ナシロベの民を立てる樣な方法は採らなかつたであらう。

國と稱する邑々が、國名を廢して郡で呼ばれる樣になつても、邑の人々は、尚、國の音覺に執着した。私に國を名のり、又は郡を忌避して、カタを稱して居た。其領主なる國造等は、郡領と呼び易へる事になつても、なほ名義だけは、國造を稱へて居たのが、後世までもある。けれども、さうした國造家は、神主として殘つたものに限つて居る。邑々の豪族は、神に事へる事によつて、民に臨む力を持つて居た。其國造が、段々神に事へる事から遠ざかつても、尚、神主カムヌシとして、邑の大事の神事に洩れる事が出來なかつた。さういふ邑々を一統した邑が、我々の倭朝廷であつたのである。

一つの邑の生活が、次第に成長して、一國となり、更に、數國數十个國の上に、國家を形づくる事になつた。こんなにまで、所謂國造生活が擴つても、やはり他の邑の國造とおなじく、神事を棄てゝ了ふ訣にはいかなかつた。今もさうである樣にある時期には、神主としての生活が、繰り返されねばならなかつた。古い邑々の習慣が、祖先禮拜の觀念に結びついて、現に、宮中には殘つて居るのである。さうした邑々の信仰が、一つの邑の宗教系統に這入つて來る樣になる。倭朝廷の下なる邑として、單なる、豪族となつても、邑々時代の生活は易へなかつた。殊に經濟組織に到つては、豪族として存在の意義が其處に繋つて居るのだから、革まることはなくて續いて居た。難波朝廷(孝徳帝)から半永久的に行はれた政策の中心は、此生活を易へさせる事であつた。此がほゞ根本的に改つて來たのは、平安朝に入つて後の話である。

邑と豪族とを放し、神と豪族との間を裂くと言ふ理想が實現せられて、豪族生活が官吏生活に變つて了うても、元の邑の自給自足の生活は、容易に替らなかつたのである。

邑々に於ける國造は、自分の家の生活を保つ爲に、いろんな職業團體──かきべの民──を設けて、家職制度を定めて居た。奈良朝になつてからではあるが、才能の模樣では、所屬以外の部曲に移した例はある。朝妻アサヅマ手人テヒトである工匠が、語部に替る事を認可せられた(續紀養老三年)のは、社會組織が變つた爲ばかりでなく、部曲制度が、わりに固定して居なかつた事を見せて居るのであらう。

朝妻手人から語部に替ると言ふのは、聲樂の才を採用したものであらう。其外に尚、血統の上の關係があるかも知れぬ。唯、諳記力の優れて居たのだらうと言ふ想像は、語部の敍事詩をとり扱うた方法に、理解がないからである。稗田阿禮が古事記の基礎になつて居る敍事詩を諳誦したと言ふのも、驚くに當らぬことである。

語部の諳誦した文章は、散文ではなかつたのである。曲節を伴うた律文であつたのだから、幾篇かの敍事詩も容易に諳誦する事が出來たはずである。邑々の語部が、段々保護者たる豪族と離れねばならぬ時勢に向うて來る。豪族が土地から別れる樣になるまでは、邑々の語部は、尚、存在の意味があつたのである。神と家と土地との關係が、語部の敍事詩を語る目的であつた。家に離れ、神に離れた語部の中には、土地にも別れねばならぬ時に出くはした者もある樣である。自ら新樣式の生活法を擇んだ一部の者の外は、平安朝に入つても、尚、舊時代の生活を續けて居た事と思はれる。

日本歌謠のおほざつぱな分類の目安は、うたひ物語り物の二つの型である。敍事風で、旋律の單調な場合が「かたる」であり、抒情式に、變化に富んだ旋律を持つた時が「うたふ」である。此分類は、長い歴史ある、用語例である。物語と言ふ語も、後には歴史・小説など、意義は岐れて來たが、單に會話の意味ではない。此亦古くからある語で、語部の「語りしろ」即敍事詩の事なのである。

語部の曲節に、音樂として、さほどの價値があつたらうとは考へられない。けれども、出發點から遠ざかつて固定を遂げる間に、若干の藝術意識は出て來た事と思はれる。文字や史書が出た爲に、語部が亡びたとは言へない。眞の原因としては、保護者を失うた外的の原因のほかに、藝術的内容が、時代とそぐはないものになつたと言ふ事が考へられる。語部の物語が段々、神殿から世間へ出て來た時代が思はれる。家庭に入つて諷諭詩風な效果を得ようとした事も、推論が出來る。一族の集會に、家の祖先の物語として、血族の間に傳る神祕の記憶や、英邁な生活に對する惝怳を新にした場合なども、考へることが出來る。神との關係が一部分だけ截り放されて、藝術としての第一歩が踏み出されるのであつた。書物の記載を信じれば、藤原朝に既に語部が、邑・家・土地から游離して、漂泊伶人としての職業が、分化して居た樣に見える。

落伍した神人は、呪術・祝言其他の方便で、口を養ふ事は出來る。かうして、家職としての存在の價値を認めない、よその邑・國を流浪してゆくとなると、神に對しての敍事詩と言ふ敬虔な念は失はれて、興味を惹く事ばかりを考へる。神事としての墮落は、同時に、藝術としての解放のはじめである。かう言ふ人々が、奈良から平安になつても、幾度となく浮浪人の扱ひは受けないで、田舍わたらひをした事と思ふ。併し、今一方、呪言系統の文藝の側にも、かうした職業の發達して來る種はあるのである。

「神言」に今一つの方面がある。神が時を定めて、邑々に降つて、邑の一年の生産を祝福する語を述べ、家々を訪れて其家人の生命・住宅・生産の祝言を聞かせるのが常である。此は、神の降臨を學ぶ原始的な演劇に過ぎない。

以前、私の考へは、呪言と敍事詩とを全く別な成立を持つものとしての組織を立てゝ居た。其は生産其他を祝福しに來る神の託宣と、下の事實とを關聯させないで居た爲であつた。

生命・生産を祝福する神の語が、生産物に影響を與へると言ふ觀念が、一轉して人間の言語で、祝福しようとする形式をとつて來るのである。

近世まであり、現にありもするほかひものよし・萬歳などは、神降臨の思想と、人のした祝言の變形である。

萬歳の春の初めの祝言は、柱を褒め、庭を讚へ、井戸を讚美する。其讚美の語に、屋敷内の神たちをあやからせ、かまけさせようと言ふ信仰から出てゐる。單に現状の讚美でない。ほむほぐと言ふ語は豫祝する意味の語で、未來に對する賞讚である。其語にかぶれて、精靈たちがよい結果を表すものと言ふ考へに立つて居る。言語によつて、精靈を感染させようとする呪術である。其上に言語其物にも精靈の存在して居るものと信じて居た。「言靈コトダマさきはふ」と言ふ語は、言語精靈が能動的に靈力を發揮することを言ふ。言語精靈は、意義どほりの結果を齎すものではあるが、他の精靈を征服するのではない。傳來正しき「神言」の威力と、其詞句の精靈の活動とに信頼すると言ふ二樣の考へが重なつて來て居る樣である。

呪言は古く、よごとと言うた。奈良朝の書物にも、吉事・吉言など書いて居るのは其本義を忘れて、縁起よい詞などゝ言ふに近い内容を持つて來たのであらう。壽詞と書いて居るのは、ほぐの義から宛てたのではなく、長壽を豫祝する「齡言ヨゴト」の意味を見せて居るのだ。併し、それよりも更に古くは「穀言ヨゴト」の意に感じても居、眞の語原でもあつたらしい。世が「農作の状態」を意味することは、近世にも例がある。古くは穀物をと言うたのである。即、農産を祝ぐ詞と言ふ考へから出たらしい。

底本:「折口信夫全集 第一卷」中央公論社

   1954(昭和29)年101日初版発行

   1965(昭和40)年1120日新訂版発行

   1972(昭和47)年520日新訂再版発行

初出:「日光 第一卷第一號」

   1924(大正13)年4

入力:野口英司

校正:多羅尾伴内

2005年317日作成

青空文庫作成ファイル:

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