前記天満焼
国枝史郎
|
1
ここは大阪天満通の大塩中斎の塾である。
今講義が始まっている。
「王陽明の学説は、陸象山から発している。その象山の学説は、朱子の学から発している。周濂溪、張横渠、程明道、程伊川、これらの学説を集成したものが、すなわち朱子の学である。……朱子の学説を要約すれば、洒掃応待の礼よりはじめ、恭敬いやしくも事をなさず、かつ心を静止して、読書して事物を究め、聖賢の域に入れよとある。……がこれでは廻り遠い。人間そうそう永生きはできぬ、百般の事物を究理せぬうちに、一生の幕を下ろすことになろう。容易に聖賢になることはできぬ。……ここに至ってか陸象山、直覚的究理の説を立てた。陸象山云って曰く、──我心は天の与うるもの、万物の理は心内に在り、心内思考一番すれば、一切の理を認識すべしと──ところが陽明先生であるが、その象山の学説よりおこり、心即理、知行合一、致良知説を立てられた。……」
凜々として説いて行く。中斎この時四十三歳、膏ののった男盛りである。
数十人の門弟は襟を正し、粛然として聞いている。咳一つするものがない。
説き去り説き進む中斎の講義……
「虚霊不昧、理具万事出、心外無理、心外無事」
ちょうどこの辺りまで来た時であった、夕陽が消えて宵となった。
「今日の講義はまずこの辺りで……」
云い捨て中斎が立ち上ったので、門弟一同も学堂を出た。
…………
居間に寛いだ大塩中斎は、小間使の持って来た茶を喫し、何か黙然と考えている。怒気と憂色とが顔にあり、思い詰めたような格好である。
すると、その時襖の陰から、
「宇津木矩之丞にございます。ちょっとお話し致したく」
「ああ宇津木か、入っておいで」
現われたのは若侍で、つつましく膝を進めたが、すぐに小声で話し出した。
「いよいよ平野屋では例の物を、江戸へ送るそうでございます」
「ふうんそうか、いよいよ送るか」
「どう致したものでございましょう?」
「そうさな」と中斎は考え込んだ。怒気とそうして憂色とが、いよいよ色濃くなってきた。
「やっぱりこっちへ取り上げることにしよう」
「はい」と云ったが矩之丞の顔には、不安と危惧とが漂っている。
「後世史家が何と申すやら、この点懸念にござります」
「うむ」と云ったが大塩中斎も、苦渋の表情をチラツカせた。
「拙者もそれを危惧ている。と云って目前の餓鬼道を見遁しにしては置けないな」
「先生の御気象と致しましては、御理千万に存ぜられます」
「俺は蔵書を売り払って、二万両の金を手に入れたが、日に日に増える窮民を、救ってやることは不可能だ」
「限りない人数でございますので」
「それで、断行しようと思う」
「はい」と云ったが宇津木矩之丞はやっぱり顔を曇らせている。
「本来けしからぬは徳川幕府じゃ。……その幕府の存在じゃ」と、中斎は日頃の持論の方へ、話の筋を向けだした。
「日本は神国、帝は現人神、天皇様御親政が我国の常道、中頃武家が政権を取ったは、覇道にして変則であるが、帝より政治をお預かりし、代って行なうと解釈すれば、認められないこともない。……しかしそれとて条件があって、国内は四民に不満なく、国外は外国の侵逼なく、五穀実り、天候静穏、礼楽ことごとく調うような、理想的政治を行なうなれば、預けまかせておいてもよかろう。……しかるに現今の徳川幕府の、政治の執り方はどうであるか? 北からはロシアが北海道をうかがい、西からはイギリスが支那を犯し、香港島を占領し、その余威を籍りて神国日本へ、開港を逼ろうとして虎視眈々じゃ。……さらにイギリスの双生児ともいうべき、アメリカ国に至っては、その成り上り者の根性をもって、傍若無人に日本に対し、同じく開港を強いようとしている。……それに対して徳川幕府は、特別に兵備をととのえようともせず、海岸防備を試みようともせず、外侮を受けようとしているのじゃ。……しかして国内の有様はどうか? 上は将軍家をはじめとし、台閣諸侯、奉行輩、奢侈に耽り無為に日を暮らし、近世珍らしい大飢饉が、帝の赤子を餓死させつつあるのに、ろくろく救済の策さえ講ぜず、安閑として眺めている。……これでは幕府の存在は、有害であって無益ではないか! すべからく天下に罪を謝し、政治を京師へ奉還し、天皇様御親政の日本本来の、自然の政体に返すべきじゃ!」
「先生々々、もうその御議論は……」
矩之丞は四辺りを憚って、押止めるように手を振った。
「うむ、よしよし」と中斎は頷き、しばらく沈黙していたが、
「矩之丞」と秘めた声で、
「こういう内外の悪情勢に際し、何が最も恐ろしいか、何を最も戒心すべきか、知っておるかな? 心得ておるか?」
「…………」
「外国渡来の悪思想、及び悪い宗教じゃ」
「これはごもっともに存じます」
「外国渡来の悪趣味の娯楽、これも注意して打倒しなければいけない」
「ごもっともに存じます」
「外国渡来の悪宗教といえば、過ぐる年わしは吉利支丹信者の、貢という巫女を京都で捕らえ、一味の者共々刑に処したが……」
「これは与力でおわしました頃の、先生のお手柄の随一として……」
「いやいや自慢をするのではない。心にかかることがあるからじゃ」
「…………」
「貢の門下にお久美というしたたか者の女がいたが、それをあの際取り逃がしてのう」
「久美なら私も存じておりまする」
「どこへ行ったものか行衛が知れない。……これが心にかかっておる。……引っ捕らえて刑に処せねばと……」
急に矩之丞は別のことを云った。
「二三ヶ月前に入門いたしました、飛田庄介、前川満兵衛、それから山村紋左衛門、ちと私には怪しいように……」
「どういう意味かな、怪しいとは?」
不思議だというように中斎は訊いた。
「隠密などではありますまいかと」
「これこれ」と中斎はにわかに笑い、
「お前は俺の前身を、もう忘れてしまったと見える」
「は、何事でございますか」
「俺は以前は与力だったよ。だからこの俺の塾内に、そのような隠密など入り込んで居れば、観破しないでは置かないはずだよ」
「これはごもっともに存じます」
矩之丞は苦笑した。
部屋内しばらく静かである。
と、中斎は静かに訊いた。
「例の物を平野屋が江戸へ送る、ハッキリした日取りは解って居るかな?」
「それはまだ不明にございます」
「是非とも探って確かめるよう」
「かしこまりましてございます」
自分の屋敷へ帰ろうと、宇津木矩之丞が只一人で、中斎の屋敷を立ち出たのは、その夜もずっと更けてからであった。
思案に暮れて歩いていたためか、道を取り違えて淀川縁へ出た。
2
「去年からかけて天候不順、五穀実らず飢民続出、それなのに官では冷淡を極め、救恤の策を施そうともしない。富豪も蔵をひらこうともしない。これでは先生が憤慨されるはずだ。とは云え他人の大切なものを、横取りをして金に換えたら、盗賊とより云うことは出来ない。それを先生にはやろうといわれる。俺には正当に思われない。そればかりならともかくも、兵を発し乱を起こし、城代はじめ両奉行をも、やっつけてしまおうとの思し召し、成功の程も覚束ないが、よしや成功したところで、乱臣の名は免れまい。……あれほど明智だった中斎先生も、近来は少しく取り違えて居られる。……狂ったのかな、あの明智も……」
考え考え考えあぐみ、木立のある所まで来た時であった。卑怯にも左右から声も掛けず、何者か二人切り込んで来た。
「おっ」と叫んだがそこは手練、宇津木矩之丞剣道では、一刀流の皆伝である、前へパッと飛び越した。
と、もう引き抜いていたのである。
「無礼! 誰だ! 宣らっしゃい! 拙者宇津木矩之丞、怨みを受ける覚えはない」
ピッタリ青眼に太刀を構え、先ずもって声をこう掛けた。
二人ながら返事をしなかった。星空の下に突っ立っている。そうしてヂリヂリと逼って来る。
「はてな?」と矩之丞が呟いたのは、敵に見覚えがあったからである。そこで、怒声を浴びせかけた。
「やあ汝は同門の、飛田庄介に前川満兵衛! 何と思って切ってかかったぞ?」
だがここまで云って来て、急に矩之丞は口を噤んだ。
「いよいよこいつら隠密だわえ。それと観破したこの俺を、邪魔にして殺そうとするのらしい。いやかえって面白い。知れた手並だ、叩っ切り、中斎先生の身辺から、危険分子を払ってやろう」
──矩之丞はそこでヌッと出た。
だが、何と危険なんだ、又も一つの人影が、木立の陰から現われたが、矩之丞の背後へシタシタと寄った。
途端に飛び込んで来た前面の敵、すなわち飛田と前川が、鋭く声を掛け合ったのは、牽制しようとしたのだろう。果然、同時に、背後の敵、こいつは無言で抜き持った太刀で、矩之丞の背骨から胸板まで、グーッと一気に両手突いた。
と、「アッ」という悲鳴が起こり、連れてドッタリ一人斃れ、つづいて「オッ」という声がした。見れば飛田と前川の二人が、抜身を下げたまま走っている。
見れば一つの死骸の側に、一人の武士が立っている。
「あぶなかったよ」と呟いた。他ならぬ宇津木矩之丞であった。血刀をダラリと下げたまま、しばらく呼吸を静めるのらしい。佇んだまま動かない。
と、ソロソロと首を下げ、足下の死骸を覗き込んだ。
「うむ、やっぱりそうだったか。……うむ、山村紋左衛門だったか」
それからホ──ッと溜息をした。
「これで三人が三人ながら、隠密だったということが、証拠立てられたというものさ。狂いはなかったよ、俺のニラミに」
だが、またもや溜息をした。
「と云うことは半面において、中斎先生の眼力が、狂ったという証拠になる。……和歌山、岸和田に関わる裁判、京師妖巫の逮捕などに、明察を揮われた先生の眼も、今はすっかり眩んでいるらしい。獅子身中の虫をさえ、観破することさえお出来なさらない。では……」
と呟くと悄然とした。
「一切の今回のお企てなども、その狂った眼から、性急に計画されたものと、こう解しても、誤りはあるまい」
フラフラと矩之丞は歩き出した。
「失敗なさろう! 失敗なさろう!」
譫言のように呟いた。
「とはいえ騒動の失敗は、まだまだ我慢することが出来る。しかし盗賊の汚名だけはどんなことをしてもお着せしてはならない」
矩之丞はフラフラと歩いて行く。
「うむ」と云うと足を止めた。
「犠牲になろう、この俺が! 辞す所でない、裏切者の汚名!」
尚フラフラと歩いて行く。
「人を殺したこの俺だ、浪人をしてゴロン棒となり、汚名悪名受けてやろう! 手段はない、この他には。……」
どことも知れず行ってしまった。
後にはザワザワと晩春の風が夜の木立を揺すっている。
天保七年四月中旬の、ある一夜の出来事である。
3
さてその日から幾日か経った。
その時天王寺の勝山通りで、又物騒なことが行なわれた。
まずこのような段取りであった……
一人の若い侍へ、覆面武士達が斬りかかったのを、若い侍が無雑作に、力を抜いて叩き倒し、最後に一人をたたき倒した時、懐紙で刀身をぬぐったのである。
それから懐紙をサラリと捨て、刀をかざすとスーッと見た。
「切ったんじゃアない、峰打ちだ。刃こぼれがあってたまるものか」
そこで、ソロリと鞘へ納めた。すると鍔鳴りの音がして、つづいて幽かではあったけれど、リ──ンと美しい余韻がした。
鍔のどこかに高価の金具が、象眼されていたのだろう。
それへ徹えてリ──ンと余韻が幽かながらもしたのだろう。
宏大な屋敷が立っていて、厳重に土塀で鎧われていて、塀越しに新樹の葉が見える。
空気に藤の花の匂いがあるのは、邸内に藤棚があるのだろう。屋敷は大阪の富豪として名高い平野屋の寮の一つであった。
土塀に添い、十六夜月に照らされ、若い侍は立っている。
身長は高いが痩せぎすであり、着流し姿がよく似合う。瀟洒として粋であり、どうやら容貌も美しいらしい。月を仰いだ顔の色が、白く蒼味を帯びていて、鼻が形よく高いのだろう、その陰影がキッパリとしている。
「平野屋の寮から例の物を持って、誰か江戸へ発足ちはしまいかと、その警戒にやってきたのだが、変な侍三人に、闇討ちされようとは思わなかったよ。どうも今夜は気に入らない晩だ。……だがそれにしても不思議だなあ。素性も明かさず理由も云わず、フラフラッと切ってかかったんだからなあ。……女で怨みを買ったことも、金で怨みを受けたことも、これ迄の俺にはなかったはずだ。……覆面姿から推察ると、こいつら辻切りの悪侍共かな? しかしそれにしては弱いわるだ。……引っこ抜いてポーンと肩を撲ると、一人がゴロッと転がってしまい、もう一度ポーンと頭を撲るともう一人がゴロッと転がってしまい、もう一度ビーンと横面を張ると、三人目のお客さんがひっくり返ってしまった。……ああも弱いと安心だが、また何だか気の毒にもなる。それにさ、第一道化て見える」
ちょっと俯向き、何にもなかったというように、土に雪駄を吸い付かせ、若侍は歩き出した。
取り入れるのを忘れたのであろう、かなり間遠ではあるけれど、五月幟がハタハタと、風に靡く音がした。
深夜だけにかえって物寂しい。
「そうだ今夜は宵節句だった」
これは声に出して云ったのである。
六七間も歩いたかしら、
「率爾ながら……」と呼ぶ声がした。
「しばらくお待ち下さるまいか」
四辺を憚った恥び音だ。
グルッと振り返った若侍は、
「拙者のことで?」と隙かして見た。
黒頭巾で顔を包んでい、黒の衣装を纏っている。いわゆる黒鴨出立ちであった。体のこなし、声の調子、どうでも年は三十七八、そういう武士が立っていた。
大小をピンと胸高に差し、率爾ながらと呼びかけた癖に、何と無礼! 懐手をしている。ひどく横柄なところがあり、見下だしたような所がある。
胸を悪くした若侍は、
「今夜はよくよく変な晩だ、いろいろの芸人が登場するよ」
こう思ったのでぶっきら棒に、
「御用かの! この拙者に?」
すると向こうの武士が云った。
「感嘆してござるよ、立派な腕前」
「大変な黒鴨が出やアがった。俺を褒めるとは度胸がいいや。褒めるからには褒めっ放しでもあるまい。いずれ可い物でもくれるのだろう」
可笑しくなったので若侍は、
「お弱うござんしたからな、先方が」
「なかなかもって」と黒鴨の武士は、
「彼等も相当の手利きでござる」
「ははあ」と云ったが感付いた。
「さては貴殿のお仲間だの」
「さよう」とわるくおちついている。
4
「そうか」と云ったが若侍は、今度は少し腹を立てた。
「では早速お訊き致す、何故拙者を襲われた?」
まごまごした返事でもしようものなら、叩っ切ってやるぞと云うように、ヌッと一足進み出た。
しかし、相手の黒鴨も、何かに自信があると見え、その横柄さを持ち続け、
「士官なさる気はござらぬかな?」
こんなことを云い出した。
「え、士官? 貴殿にかな?」
これには若侍は参ってしまった。
(どうもいけないや、俺より上手だ)
そこで茫然して絶句した。
すると、黒鴨の武士が云った。
「長くとは申さぬ、一カ月余」
それからスルスルと進み寄ったが、囁くように云いつづけた。
「悪いことは申さぬ士官おしなされ。もっとも主取りの御身分なら、無理にもお進め出来ないが。いやいや先刻からの御様子でみれば、かけかまいのない御身上らしい。それで敢てお進めいたす。士官おしなされ士官おしなされ。実は」と云うといよいよ益々、声を細めて囁くようにしたが、
「ここ数夜、この界隈で、拙者試していたのでござる。勝れた武辺者はあるまいかとな。今は天保、浮世は飢饉、そのためでもござろう、腕の出来るご仁に、不幸、一人もぶつかりませんでしたよ。ところが今夜ゆくりなく、ぶつかりましたなア御貴殿に。……そこで、すっかり喜んだという次第。そこで、士官をお薦めするという次第。……そうは云っても藪から棒に、無闇と士官をお薦めしても、貴殿にはおそらく烏乱に覚され、御承引を手控えなされようもしれぬ。これは御理、当然でもござる。それでまず何より拙者の身分を、お打ち明け致すのが順当でござるが、まあまあそれははぶくとして、ただし、姓名だけ申しましょうかな。鮫島大学と申します。それより何より禄の方をな、定めることに致しましょう。一日五両はどうでござる」
ここまで云って来て黒鴨の武士は、ヒョイと二三歩下ったが、首を傾げると覗くようにした。
「ただし……」と云うと黒鴨の武士は、今度は二三歩前へ出た。
と、例によって囁くような声で、
「ただし、仕事はちと困難、と云っても貴殿の腕前なら、勿論何でもなく仕遂げられますて。ところで仕事の性質は? と、貴殿には訊かれるかも知れない。さあこれとて考えようで。善悪両様に取られますなあ。そこで、こいつは預かるか、ないしは善事だと決めてしまうか、ホッ、ホッ、ホッ、どっちでもよろしい」
三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、
「さてここまで云って来れば、後は何も彼もスッパリと、ぶちまけた方がよろしいようで。そこでお打ち明け致しましょう」
ところがそれ前に若侍は、蹴飛ばすような声で云った。
「解っておるよ!」とまずノッケだ。
「受負でござろう、殺人のな!」
「ほほう成程、そう解されたか」
「でなかったらぶったくりさ」
「成程な、なるほどな」
黒鴨の武士は退いたが、
「ひょっとかすると、両方かも知れない」
「殺人の上にぶったくりか、アッハッハッ、それにしては」
若侍は横を向いた。
「安すぎますて、五両の日当」
「割増ししましょう、七両ではいかが?」
「まだ安い。駄目だ駄目だ!」
「あッ、なるほど、では八両」
「刻むな刻むな」と若侍は、グット胸を反らせたが、
「厭だと云ったらどうなさる」
「さればさ」と云うと黒鴨の武士は、スラスラとスラスラ左手へ寄った。間一間、そこで止まると、ピンと右手の肘を上げた。と自然に掌が、柄の頭へあてられた。薄っペラな態度や声にも似ず、腰が据わって足の踏まえ、ピッタリ定まって立派な姿勢。上げた右肘で敵を圧し、全身を斜めに平めかせ、首を幾何か前方へ曲げ、額い越しに睨んで狙いすました。籠めた気合で抜き打ったら、厭でも太刀は若侍の、左胴へ入るに相違ない。根岸兎角を流祖とした、微塵流での真の位、即ち「捩螺」の構えである。
「ううむこいつは素晴らしい」
それと見て取った若侍は、こう思わず呟いたが、
「しかも不気味な腥い、殺気が鬱々と逼って来る。剣呑だな、油断は出来ない」
しかしよくよく若侍には、腕に自信があると見え、刀の柄へ手もかけず、ブラッとしたままで立っていた。
と、黒鴨の武士であるが、別に切り込んで行こうとはせず、あべこべにヒョイと後退ると、ダラリと両手を両脇へ下げ、それからまたも懐手をしたが、薄っペラの調子で喋舌り出した。
「ざっとこんな恰好で。つまり貴殿不承知なら、秘密の小口を明かせた手前、生かしては置かぬ! 叩っ切る! と云うことになりますので。……と云うとおっかない話になるが、何のこんなにも旨い話、貴殿諾かずにおられましょうか。承知と云われるは知れたことで。……だが日当不足となら、清水の舞台から飛んだつもりで、一日十両まで糶り上げましょう。これでは御不満ありますまいな。手を拍ちましょう、シャンシャンシャン! いかがなもので? シャンシャンシャン!」
呑んでかかった態度である。
5
こいつを聞くと若侍は、にわかに愉快になったらしい。
「一風変わった悪党だわえ。よしよし面白い面白い、ひとつこいつの手に従いて、殺人請負業を開店いてやろう。天変地妖相続き、人心恟々天下騒然、食える野郎と食えぬ野郎と、変にひらきがあり過ぎる。こんな浮世ってあるものか。殺人だって必要さ」
そこで若侍はズバリと云った。
「きっと十両出されるかな?」
「出します出します。……御承知かな」
「まず即金、一日分が所」
若侍は手を出した。
「これはお早い、早速のことで」
黒鴨もこれには驚いたらしい。
「が、結構、では十両」
グッと懐中へ手を入れると、チャリン、チャリンと音をさせた。
小判を数えたに相違ない。
手を引き出すと掌の上に、黄金十枚が載っていた。
「遠慮は御無用、さあさあお取り」
「開店祝で、何の遠慮、では確かに」
「あ、しばらく、それにしても、せめて姓名なと! ……」
「拙者姓名は……」と云いかけたが、
(本名宇津木矩之丞と、ほんとに宣っては面白くない)
そこで、
「宇和島鉄之進」と宣った。
「ではこの金を……」
「頂戴いたす。どれ」と小判を掴もうとした途端に、
「こちらへ御士官なされませ!」と、老人の声が聞こえてきた。
「日当二十両出しましょう!」
傍らに立っている平野屋の寮の、その表門の背後から、声は聞こえてきたのである。
「やッ!」と云ったは若侍で、
「しまった!」と叫んだは黒鴨の武士で……
すぐに、ギーと潜戸が開き、またもや老人の声がした。
「お入りなさりませ、御浪人様!」
「オイ」と云ったは黒鴨である。
「どうだどうだ、どっちへ仕える?」
「考えるにも及ぶめえ」
「十両取るか」
「どう致しまして」
「それじゃアあっちへ行くつもりか?」
「云うにゃ及ぶだ、倍も食えらあ」
「きっとか」と黒鴨は眉を縮めた。
「何時如何なる時代でも、もっと食える方へ行くものさ」
「ホッ、ホッ、ホッ」
嘲笑である。黒鴨が嘲笑をしたのである。
が何とその嘲笑、残忍性を帯びていることか。
「そうか、だがな、オイ若侍、そうなった日の暁には、拙者の矢面へ立つのだぞ!」
「よかろう、大将、戦おうぜ!」
「まずこうだあァ──ッ」と凄い気合を、かけると同時に抜いた太刀で、のめらんばかりの掬い切り、若侍の股の交叉を、ワングリ一刀にぶっ放した。──と云う手筈になるところを、飛び違った若侍は、
「こっちもこうだあァ──ッ」と浴びせかけ、飛び違う間に抜いた太刀を、ヌ──ッとのすと振り冠った。
で、無言だ。静かである。ハタハタハタ……ハタハタハタと、夜風に靡く五月幟の、音ばかりが聞こえてくる。
位取った二人は動かない。藤の花の匂い、ほのかであり、十六夜の光、清らかである。こんな奇麗な佳い晩に、二人は斬り合おうとするのであった。
二人は動いて、太刀音がした! 即ち鏘然、合したのである。と、ピッタリ寄り添った。鍔逼り合いだ! 次は勝負! どっちか一人斃れるだろう。しかし群像は動かない。群像の頭上を抽てキラキラ閃めくものがある。月光を刎ねたり纏ったり、ビリ付いている太刀である。と、忽然、次の瞬間、「ウン」と云う呻き! 二人同時だ! 群像は前後へ別れたが、不思議とどっちも仆れなかった。しかも一つの人影が、糸に引かれるそれのように、非常に素早く後退り、潜戸の側まで近寄って、そうして潜戸が一杯に開いて、その人影を吸い込んで、そうしてギ──ッと閉ざされた時、闘争は終りを告げたのである。
屋敷へ入り込んだは若侍であり、後へ残ったのは黒鴨の武士で。……
後はひっそりと静かであった。
6
事件はここで江戸へ移る。
ここは深川の霊岸島。そこに一軒の屋敷があった。特色は表門の一所に、桐の木の立っていることであった。その奥まった一室である。
一人の着流しの武士が、頬杖をついて寝そべっている。年の頃は三十七八、色蒼黒く気味が悪い。ドロンと濁ってはいるけれど、油断も隙もならないような、妙な底光を漂わした眼、しかも左の一眼には、星さえ一つ入っている。顎の真中に溝があって、剣難の相を現わしている。小鼻の小さい高い鼻、──いやという程高いので、益々人相を険悪に見せる。いつも皮肉な揶揄的の微笑が、唇の辺りにチラツイている。だが一種の好男子とは云える。
この家の主人鮫島大学で、無禄の浪人でありながら、非常に豪奢な生活をしている。──と云う噂のある人物である。
その鮫島大学の前に、膝を崩して坐っているのは、ちょっと言葉に云い表わせないような、濃艶さを持った女であった。薄紫の単衣、鞘形寺屋緞子の帯、ベッタリ食っ付けガックリ落とした髷の結振りから推察ると、この女どうやら女役者らしい。よい肉附き、高い身長。力のある立派な顔、女役者としても立て物らしい。大きなハッキリした二重瞼眼、それには情熱があふれている。全体が非常に明るくて、いつも愉快な冗談ばかりを、云いたそうな様子を見せている。人生の俗悪そのもののような、興行界に居りながら、それに負けずに打ち勝って行く──と云ったような女である。
小屋掛けではあるが大変な人気の、両国広小路にこの頃出来た、吉沢一座の女歌舞伎、その座頭の扇女なのであった。年は二十二三らしい。
明るく燈火が燈もってい、食べ散らし飲み散らした盃盤が、その燈火に照らされて乱雑に見え、二人ながらいい加減酔っているらしい。
「どうだどうだ、え、扇女、ソロソロおっこちてもいいだろう」
扇女の胸の辺りへ視線を送り、大学はこんなことを云い出した。
「御贔屓様は御贔屓様、旦那様は旦那様、可愛いお方は可愛いお方、ちゃあんと分けて居りますのでね」
扇女は早速蹴飛ばしてしまった。ビクともしない態度である。
「久しいものさ、その白も」
大学はニヤニヤ笑っている。決して急かない態度である。
二人ながらちょっとここで黙った。
やがて、大学は云い出した。
「ところで有るのかい、可愛い人が?」
「こんな商売、情夫がなくては、立ち行くものじゃアありませんよ」
「一体どいつだ、果報者は」
勿論大学怒ったのではない。語気を強めて云ったまでである。
怒るような大学ならいいのであって、いつも冷静、いつも策略、そうでなければ世は渡れぬ──と考えている彼なのであった。
「あやかりたいの、果報者に」
「なかなかむずかしゅうございますよ、果報者にあやかるということわね」
「ひどく勿体をつけるじゃアないか」
ツト手を延ばすと盃を取り上げ、
「まず注いだり。……冷めたかな」
銚子を取り上げた吉沢扇女は、盛り溢れるほど酒を注いだ。
「注ぎっぷりだけはいい気前だ」
「他人のお酒でございますもの」
「御意、まさしく。拙者の酒で……」
するとその時どこからともなく──と云って勿論屋敷内からではあったが、罵り合う声が聞こえてきた。
ガラガラと物を投げる音もした。
7
「おや」と扇女は聞きとがめた。
「何をしたのでございましょう?」
だが大学は黙っていた。とはいえ顔の表情の中には、困ったことをしやアがる、こんな肝心な大事な場合に──と云ったような気振りが見える。
物を投げる音に引きつづき、罵り合う声が聞こえてきた。それも二人や三人ではなく、たくさんの人達が大声で、罵り合っているようである。
「静かなお屋敷だと思っていましたのに、どうやら大勢の人達が、おいでなさるようでございますね」
こう云った扇女の言葉には皮肉の調子がこもっていた。
「女中三人に下僕が二人、閑静な生活をしているよ、だから遊びに来るがよい。──などと仰有ったお言葉も、あてにならないようでございますね」
大学は顔を顰めている。神経質らしいところさえ見せ、不機嫌に盃を嘗めている。
物を投げる音は直ぐ止んだが、罵り声はまだ止まない。
「気味の悪いお屋敷でございますこと。……どれ妾は帰りましょう。気味のよくないお屋敷などで、気味の悪い旦那様を相手にし、いつ迄お酒盛りをしたところで、面白くも可笑しくもございません」
「待てよ」とはじめて鮫島大学は、チラリと凄味を現わしたが、
「帰しはしないよ、遊んで行け。屋敷が不気味であろうとも、この俺が不気味であろうとも、それに怖気を揮うような、初心なお前ではないはずだ」
ここでニタリと笑ったが、干した盃を突き出した。
「まず一杯、飲むがいい」
「はい」と云うと穏しく、扇女は盃を手で受けたが、
「酔わせてグタグタにして置いて……などというような厭らしい、野暮なお方でもありますまい」
「またお前にしてからが、男の前で酔っ払い、不様に姿を崩すような、あたじけない女でもないはずだ」
この時、バタバタと足音がして、隣部屋へ人が来たらしく、
「お頭!」と呼ぶ声が聞こえてきた。
「馬鹿!」と一喝した鮫島大学は、
「これこれ何だ、言葉を謹め! 客の居るのを知らないのか!」
「あッ、なるほど、これは粗相……」
恐縮したらしい声音である。
「あの、旦那様に申し上げます」
「何か用か? 用なら云え」
「少し間違いが起こりまして……」
「何を馬鹿な! 間違いとは何だ!」
「へい加賀屋の野良息子が、贋物のネタを割ったんで……」
「行け!」と怒鳴ったもののギョッとしたらしく、扇女の顔色を窺った。
「へい!」と云ったが、バタバタバタと、隣部屋の人間は立ち去ったらしい。
すると、鮫島大学であるが、もうどうにも仕方がない──こう云ったような酸味ある笑いを、チラリと顔へ浮かべたが、弁解するように云い出した。
「何の、実はこういう訳だ。屋敷は広く俺は浪人、そこでわる共が集まって来て、手慰みをやっているというものさ。これも交際仕方もない。とはいえ俺は手を出さない。屋敷を貸しているばかりさ。だからよ、何も、この俺をだ、悪漢あつかいにしないがいい。だが」と云うとヒョイと立った。
「どうやら間違いが起こったらしい。黙ってうっちゃっても置かれまい。ちょっくら行ってあつかって来よう。何さ何さ帰るには及ばぬ。ゆっくり遊んで行くがいい。すぐさま帰って来るからな」
刀を下げて部屋を出た。
「態ア見やがれ、尻尾を出したよ」
一人残ったは扇女である。
「繁々お茶屋へは呼んでくれる、パッパッと御祝儀は切ってくれる。派手にお金を使うので贔屓筋としては大事な人、こうは思っていたものの、万事の様子が腑に落ちず、迂散者らしく思われたが、やっぱりニラミは狂わなかったよ。不頼漢の頭、賭博宿の主人、どうやらそんな塩梅らしい。……何だか気味が悪いねえ、どれソロソロ帰るとしよう」
ひょいと立ち上ったが考えた。
「何も好奇、屋敷の様子を、こっそり探ってみてやろう。うまく賭博場でも目つかったら、とんだ面白いことになる」
それで、ソロリと襖を開けた。
8
一つの部屋で、一人の若者が、匕首などを振り廻し、大声で喚きちらしていた。
「なんだなんだ飛んでもねえ奴等だ! うまうま俺を瞞しゃアがった。これで解った、これで解った! 幾度勝負を争っても、一度も勝ったためしがねえ、おかしいおかしいと思ったが、こんな仕掛けのある以上、負けつづけるのは当然だ! ……飛んでもねえ奴等だ、承知出来ねえ! ……さあ叩っ斬るぞ叩っ斬るぞ!」
年の頃は二十一二、非常に上品な若者である。否々むしろ坊ちゃんなのである。色が白く血色がよい。栄養の行き渡っている証拠である。丸味を帯びた細い眉、切長で涼しくて軟らか味のある眼、少し間延びをしているほど、長くて細くて高い鼻、ただし鬘だけは刷毛先を散らし、豪勢侠に作ってはいるが、それがちっとも似合わない。着ている物も立派であって、腰につけている煙草入の、根締の珊瑚は古渡りらしく、これ一つだけで数十金はしよう。秘蔵がられている豪商の息子が、悪友のために惑わされ、いい気になって不頼漢を気取り、悪所通いをしているという、一見そういう風態であった。
で、匕首は振り上げたが、敵を切る前に自分の手を、切りそうで切りそうで見ていられない。──と云ったようなあぶなさがある。
加賀家百万石の御用商人、加賀屋と云って大金持、その主人を源右衛門と云ったが、その息子の源三郎なのであった。
「キ、切るゾ──ッ! キ、切るゾ──ッ!」
源三郎は匕首を振り廻すのであったが、しかし誰一人相手にしない。ニヤニヤみんな笑っている。
源三郎を取り巻いて、十五六人の男がいたが、この連中が大変物で、浪人風の者、ゴロン棒風の者、商人風の者、鳶風の者、そうかと思うと僧形の者、そうかと思うと大名方の、お留守居風の人物もいるのであった。
しかしいずれも変装らしく、どうやらみんな仲間らしい。
それらの人数を抱いている、部屋のこしらえというものが、また大変なものであった。だがそれとて一口に云えば、上海風ということが出来る。壁の一方に扉がある。双龍珠を争うところの図案を描いた扉である。一方の壁に窓がある。龕燈形の窓である。そのくせ窓には真鍮の棒が、無数に厳重に穿めてある。そうして窓のあるその壁にも、双龍珠を争う図が、黄色い色彩で描かれてある。いやいや双龍珠を争う、そういう図面は二ヶ所ばかりでなく、青く塗られた天井にも、板敷になっている床の上にも、他の二方の壁の面にも、ベタベタ描かれてあるのであった。それにしても双龍の争っている、珠の形の大きいことは! 直径二尺はあるだろう。そうして一体どうしたのだろう、時々その珠が忽然と、鏡のように光るのは? いやいや鏡のように光るのではなく、事実鏡に変わるのであった。誰がどうして変えるのだろう? もし誰か龕燈形の窓へ行きそこから外を覗いたなら、そこに真暗な部屋があり、そこに一人の人間がいて、絶えずこの部屋を覗きながら、その真暗な部屋の壁に、突起している幾個かのボタンを、時々押すのを見ることが出来よう。その男の押すボタンに連れて、珠が鏡に変わるのである。部屋の広さ三十畳敷ぐらいそこに幾個か円卓があり、円卓の周囲に榻がある。そこで勝負をするのだろう、この時代には珍らしい、トランプが幾組か置いてある。
だがもう一つこの部屋に続き、異様った部屋のあることを、ここへ来るほどの人間は、決して決して見落とすまい。寝椅子、垂幕、酒を載せた棚、そうして支那風の化粧をし、又支那風に扮装った幾人かの若い娘達、そういうもので飾られている、いわゆる酒場──安息所が、そこに作られているのだから。
だがそれにしてもその部屋へは、どうしてどこから入って行くのだろう? 双龍の描いてある一つの扉、そこから入って行くのだろうか? いやいやそうではなさそうである。扉の外は廊下なのだから。……ではどこから行くのだろう? どこかに隠された扉でもあって、それを開けると行けるのらしい。
勝負に勝った連中が、その部屋へ行って飲むのである。
これも充分支那風の、南京玉で鏤めた、切子型の燈籠が、天井から一基下っていて、菫色の光を落としているので、この部屋は朦朧と、何となく他界的に煙っている。
それにしてもこんな天保時代に、こんな支那風の不思議な部屋が、中央ではないにしても江戸の中に、出来ているとは何ということだろう? いずれこれの経営者は、鮫島大学に相違あるまいが、ではその鮫島大学なる武士は、どんな素性の者なのだろう? 支那と関係のある人間だろうか?
9
また源三郎は怒鳴り出した。
「鏡仕掛けとは何事だ! 鏡に持札を写されてみろ、相手に持札がみんな知れ、どんな旨い手を使ったところで、裏ばかり掻かれて勝負にならねえ! おおおお、おおおお手前達、グルだなグルだな、みんなグルだな! みんなグルになって俺一人にかかり、大金を捲き上げようとしたんだろう!」
又、匕首を揮うのであるが、腰をかけたり佇んだり鼻歌をうたったり囁いたり、笑ったりしている悪漢どもは、
「何を坊ちゃんが云いおるやら、うっちゃって置け、うっちゃって置け」
こう云ったように冷淡に、取り合おうとさえしないのであった。
こういう空気は当然に、人をして一層怒らせるもので、源三郎は手近の一人を切った。
「ワッ」という悲鳴を立てて切られた鳶はぶっ仆れた。
つづいて起こった混乱で、
「小僧、生意気!」
「飛んでもねえ奴だ!」
「うっそり者の狂人め!」
「めんどッくせえや、眠らせろ!」
声の渦巻きが渦巻いて、つづいて人間の渦が巻いた。大勢一度にムラムラと、源三郎へかかったのである。ガラガラと物を投げる音! 二三人の者が源三郎を目掛け、榻や器物を投げたのである。
と、三四人悲鳴を上げ、人間の渦から飛び出した。逆上していよいよ狂暴になり、勇気を加えた源三郎が、夢中で揮った匕首で、傷つけられた連中である。
「あぶねえあぶねえ気を付けろ!」
「弱い野郎が物に憑かれ、にわかに強くなりゃアがった。だから一層物騒だ!」
あつかい兼ねたというやつである。ダラダラと一同は後へ退いた。
背後の壁へ背中をあて、全身をガクガク顫わせながら、匕首を頭上に振り冠り、その匕首から血をしたたらせ、突っ立ったのは源三郎で、髻がバラバラに千切れてい、頬から生血が流れてい、腰に下げていた煙草入など、どこへ行ったものか見当らない。従って高価な古渡り珊瑚の、根締の玉も見当らない。ドサクサまぎれに何者か、ふんだくってしまったに相違ない。
この時一人のゴロン棒風の男が、手捕りにしようと思ったのだろう。
「ヤイ!」と喚くと飛びかかった。
「うぬ!」と呻くと源三郎は、ピューッと匕首を横へ揮った。
「あぶのうございます」と飛び退いた。
「今度は俺だ」と浪人風の男が、刀を鞘ぐるみ引っこ抜き、鐺をグッと突き出した。
「見やがれ!」と叫ぶと源三郎は、一躍パッと飛び込んだ。
と、カチリという音がした。匕首で鞘を払ったのである。
「あッ不可ない、一両の損だ! 鞘を直しにやらなけりゃアならない」
浪人は後へ退いた。
獲物を揮って討ち取るのなら、何の手間暇もいらないのであって、すぐに柔弱の源三郎ぐらい、討って取ることは出来るのであるが、しかし源三郎は名家の息子、殺しては世間が承知しまい。大騒ぎをするに相違ない。世間が大騒ぎをすることによって、この屋敷のカクラリが、暴露されないものでもない。それが彼等には恐かった。それで手捕りにしてふん縛り、うんと虐め懲しめて、今後二度と来させまいとするのが、彼等悪漢共の思惑なのであった。
ところが一方源三郎は、怒りと屈辱とで正気を失い、今や狂暴になっていた。そこで、無闇とあばれ廻り、無二無三に匕首を揮い、遠慮会釈なく人を切る。捕らえることも抑えることも出来ない。
10
しかし扉が開いてこの屋敷の主人の、鮫島大学が現われて、無雑作に源三郎の前に進み、源三郎の手をムズと掴み、グッとばかりに引っ立てた瞬間、この場の治まりは付いてしまった。
「汝は誰だ!」と源三郎は怒鳴った。
「拙者かな、拙者かな、さあ何者でござろうやら」
「痛え痛え、手を放せ!」
「ホッ、ホッ、ホッ、お痛いかな」
三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと、女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、
「これ」とにわかにいかつくなった。
「二度と来るなよ、こんな場所へ! 人に云うなよ、この場の光景を」
更に一層凄くなり、
「上海仕立ての遊戯室、世間へ明かしたら賽の目だ、無いぞないぞ、汝の命は! 痛えどころか殺すぞよ!」
グッと睨んだが考えた。
「待てよと……オ、茨木! 茨木!」
「は」と云いながら進み出たのは、いましがた鞘ぐるみ刀を出し、源三郎をからかった、浪人風の男であった。
「たしかこいつは。……この若造は……加賀屋源右衛門の倅だったの?」
「は、さようでございます」
「よし」と云うと有意味に笑った。
「飛び込んで来た、よい囮が! 今まで迂濶りしていたよ。……何よりの玉だ、こいつを利用し……」
呟くと一緒に突き飛ばした。
突かれて蹣跚いた源三郎は、ドンと壁へぶつかったが、充分の恐怖、充分の怒り、しかし依然として心は夢中で……
「汝は、汝は!」と匕首を揮った。
「ホッ、ホッ」という例の笑いと共に、入身となった鮫島大学は、グッと拳を突き出した。
「ムーッ」とこれは源三郎で、泳ぐような手付きをしたかと思うと、グニャグニャになってぶっ仆れた。
「悪い格好で寝ているよ。大金持の若旦那も、からきしこうなっちゃア見られないなあ」
懐手をした鮫島大学は、見下ろしてこう呟いたが、
「おい茨木、考えがある。この態の悪いお客さんを、じめつく地下の物置で、大して大事にしなくともいいが、とにかく介抱してやってくれ。……ええとそれから」と鮫島大学は、手下の悪漢どもを見廻したが、
「あぶれた立ン棒じゃアあるまいし、並んで茫然立っているなよ。……ちょっと待て待て、オイ茨木! 今夜、宇和島という侍が、例の品物を懐中して、海路大阪から江戸へ着くはず、その宇和島への両様の手宛、もうすっかり出来ているだろうな」
「へい、すっかり出来ています。……最初は正面から斬ってかかり……」
「云うな云うな、出来ておればよい。……松本々々依頼がある」
「へい」と云って顔を出したのは、御留守居風をした男である。
「今考えついた細工だが、お前町方役人となって、加賀屋へ行って主人と逢い……これこれちょっと耳を貸しな」
囁くのを聞き取った御留守居風の男は、
「こりゃァ名案でございますなあ。……それにしても東三め、うまくやればよろしゅうござるが」
「久しい間入り込んでいるあいつ、ヘマなことはしないだろうよ」
ここで又大学は茨木という男へ、苦笑いしながら話しかけた。
「大阪では宇和島というあの侍に、ひどい目に逢ったのう」
「ミッシリ峰打ちに叩かれて、ぶざまに気絶をいたしました」
「本来はあいつを味方に引き入れ、平野屋から加賀屋へ送る品物──凄く高価な品だというから、いずれは腕利きの人物に持たせ、送り届けるに相違ない。その送人を途中に擁し、宇和島に殺させ奪い取ろうと、そう目論んでの仕事だったのに、あいつの腕が利き過ぎていたので、平野屋の主人に逆に雇われ……」
「あいつが高価の品物を保護して、江戸入りすることになったとは、面白くない運命で」
「面白くない運命といえば、源三郎の運命も……金太々々ちょっと来い」
「へい」と近寄って来た乾兒の一人へ、又大学は囁いた。
「へえ、それでは加賀屋の倅を、加賀屋の金蔵へ送り込むんで」
「うん。……さあさあみんな行け」
一同の悪漢どもが立ち去って、一人になると大学は榻の一つへ腰かけた。
「この考えは素晴らしいぞ」
独り言を云いながら考え出した。
すると、その時扉をあけて、スッと入って来た女があった。
「大変な芝居をなさいましたねえ」
女役者の扇女である。
「ほほうお前か、見ていたか。舞台の芝居より凄かろう」
「血糊と異って流されたは、本当の血でございましたからね」
「どうだ扇女、物は相談、凄味に惚れちゃアくれまいかな」
「そうですねえ、考えましょうよ、一つじっくりと考えましょうよ」
「そのじっくりだが、気に入らないな。それにさ恋というものは、考えてやらかすものではない。と、こんなように思うがの。大概考えている中に、恋というものは逃げてしまう」
「逃げてしまうような恋でしたら、やらない方が可いでしょう」
「これが秘決だ! 無分別! どうだこいつでやらかそう!」
「ところが妾は天邪鬼で、無分別が恋の秘決なら、思慮熟慮で行きましょう」
「理詰めで行こうとこういうのか?」
「そうですねえ、そうでしょうよ」
「オイ」と大学猛くなった。
「その理詰めだが嵩ずるとな……」
「どうなろうと仰有るので?」
「こうなるのだ! こうなるのだ!」
ノッと立ち上った鮫島大学は、巨大な鳥が小雀を、翼の下へ抱え込むように、扇女を両腕へかい込もうとした。
だがその途端に一方の壁の、真中の辺りへ穴が開き、一人の女が現われた。
隣部屋へ通う隠し戸を開け、手に阿片の吹管を持ち、支那の乙女の扮装をした、若い女が現われたのである。
「阿片をお吸いなさいまし。結構な飲物でございます」
そう云いながらその女は、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出た。
「奇麗な夢が見られます。見ることの出来ない美しい、世界を見ることも出来ましょう。聞くことの出来ない美しい、音楽を聞くことも出来ましょう。石榴石から花が咲いて、その花の芯は茴香色で、そうして花弁は瑪瑙色で、でもその茎は蛋白石の、寂しい色をして居ります。そういう花も見られましょう。……そこは異国でございました。そこは上海でございました。その裏町でございました。一人の女が誘拐され、密房の中へ閉じ籠められ、眠らされたのでございます。黒檀の寝台には狼の毛皮。でその毛皮の荒い毛が、体の肉を刺しました。菱形の窓から熟んだ月が、ショボショボ覗いて居りました。猫目石のような月の眼が、女の胸を探りました。とどうでしょうお月様の眼が、潰れてしまったではございませんか。胸の辺りに刳られた穴が、龕のように出来ていたからです。それを見たからでございます。それで吃驚してお月様の眼が、潰れてしまったのでございます。……誰が刳ったのでございましょう? 青々と光るものがある! 鉛で作った大形の、偃月刀でございます。柄に鏤めたは月長石と、雲母石とでございました。それで刳ったのでございます。可哀そうな可哀そうな女の胸を! でもその間その女は、歌をうたって居りました。大変いい声でございました。だが本当に美しいことは、その歌声が熱のために、凍ってしまったことでございます。で虹色の一本の、棒になったのでございます。……阿片をお喫みなさいまし、凍った歌声の虹の棒を、手に取ることが出来ましょう。だが御用心なさりませ、今度は手の熱に冷やされて、棒が融けるでございましょう。それはまだまだよろしいので。ではその時歌声が、こう響いたらどうなさいます。『誰も彼も生きている死骸だよ』……よこせ! よこせ! よこせ! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 寄って集ってたくさんの人が、虐むからでございます。そこで、生きながら誰も彼も、死骸になるのでございます。……死骸はいやらしゅうございます。見ない方がよろしゅうございます。死骸を見まいと思ったら、阿片をお喫いなさいまし。……お前は誰だい!」
とその女は、よろめく足を踏み締めると、扇女の前へ突立った。
支那風に髪を分けており、髪に包まれて顔があり、その顔は仮面と云った方が、似合うように思われた。と云うのは支那製の白粉で、部厚く一面に、塗りくろめ、書き眉をし、口紅をつけ、頬紅を注しているからである。特色的なのは眼であろう。眼窩が深く落ち窪み、暗い深い穴のように見える。
楔形に削ったのだろうか? こう思われる程ゲッソリと、頬が頤へかけて落ちている。
上着の模様は唐草で、襟と袖とに銀の糸で、細く刺繍を施してある。紫色の袴の裾を洩れ、天鵞絨に銀糸で鳥獣を繍った、小さな沓も見えている。
「奇麗な御婦人、別嬪さん!」
云いながら睨むように扇女を見た。それから大学へ眼をやった。
「そうかそうか、恋仲か! 恋をしようとしているのか! だがねえ」とまたもや扇女を見た。
「用心が大事でございますよ。迂闊に恋などなさいますな。凄いお方でございます。この大学という方は! もし迂闊にこの人と恋仲などになりましたら、妾のようにされましょう。廃人にね! 廃人にね! ……」
ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと歩き出した。針金細工の人形かしら? あまりにも痩せているではないか! そうしてヒョロヒョロと歩く毎に、どうしてあんなにも顫えるのだろう?
燈籠の火に照らされて、阿片の吹管が反射する。それを握っている手の指が、あたかも鈎のように曲がっている。
と、だるそうに振り返り、ノロノロと片手を上げ、それで大学を指さしたが、
「ね、妾の恋男さ! そうさ妾の大学さんさ! 取っちゃア不可ないよ、この人をね!」
それから自分を指さした。
「教えてあげよう、妾の名をね! 『阿片食い』のお妻だよ!」
またヒョロヒョロと歩き出し、部屋をグルグル廻り出した。
同じこの夜のことである。
「一体どうしたのでございましょう、こんな夜が更けたのに、兄さんがお帰りにならないとは」
こういう娘の声がした。清浄であどけないその中に、憂いを含んだ声である。
すぐ老人の声がした。
「源三郎にも困ったものだ。悪い友だちが出来たらしい。碌でもない所へ行くらしい」
ここは浅草の蔵前通りの、富豪加賀屋の奥座敷である。
源三郎の父の源右衛門と、源三郎の妹のお品とが、源三郎の身の上を案じ、寝もせず噂をしているのであった。
するとその時足音がして、襖の陰で止まったが、
「大旦那様、大旦那様」
こう呼ぶ不安そうな声がした。
「長吉どんかい、何か用かい」
「心配のことが出来ました」
「入っておいでな、どんな事だい?」
襖を開けて顔を出したのは、長吉という手代であった。
「町役人の方がおいでになり、お目にかかりたいと申しております」
ところが同じこの夜のこと、旅装凜々しい一人の武士が、端艇で海上を親船から、霊岸島まで駛らせて来た。
「御苦労」と水夫へ挨拶をして岸へ上るとその侍は、あたかも人目を忍ぶように、佐賀町河岸までやって来た。
すると家陰から数人の人影が、タラタラと一勢に現われたが、旅侍を取り巻くや、四方からドッと切り込んだ。
「うむ、出たか! 待っていたようなものだ」
嘯くように云ったかと思うと、抜打ちに一人を切り斃し、
「すなわち人殺受負業! アッハッハッハッ、一人切ったぞ」
その時、
「引け」という声がした。……途端に刺客の人影は、八方に別れて散ってしまった。
「おかしいなあ」と佇んだまま、旅侍は呟いたが、
「はてな?」ともう一度呟いた。
というのは行手、眼の先へ、加賀屋と記された提燈が、幾個か現われたからである。
「宇和島様でございましょうな。加賀屋からのお迎えでございます」
手代風の一人が進み寄ったが、こう旅侍へ声をかけ、さも丁寧に腰をかがめた。
ところがこれも同じ晩に、もう一つ奇怪な出来事が起こった。
一人の立派な老人が、それは加賀屋源右衛門であるが、手燭をかかげて土蔵の中を、神経質に見廻していた。土蔵の中に積まれてあるのは、金鋲を打った千両箱で、それも十や二十ではない。渦高いまでに積まれてある。その一つの前へ来た時である。
「あッ」と老人は声を上げた。
と、その声が呼んだかのように、土蔵の口へ現われたのは、顔に醜い薄痘痕のある、蔵番らしい男であったが、手に匕首を握っている。じっと狙ったは老人の首で、ジリジリジリジリと擦り寄って行った。
11
「親分おいででござんすかえ」
「はいはいおいででございます」
「これは親分お早うございます」
「はいはいお早うございます」
「たんへんな事件が起こりましたので」
「ははあ左様で、承わりましょう」
「加賀屋の主人が消えましたんで」
「これは事件でございますな」
「昨夜のことでございますよ」
「ははあ左様で、昨夜のことで」
「いまだに行方が知れませんので」
「なるほどこれは大変なことで」
「家内中大騒ぎでございますよ」
「これは騒ぐのが当然で」
「ところがああいう大家のことなので、表立って世間へは知らせられないそうで」
「もっとももっとも……もっとももっとも」
「それ信用にも関しますので」
「左様どころではございません」
「一通り訊いては参りました」
「これはお手柄、承わりましょう」
「ええと昨夜も更けた頃に、町方のお役人がこっそりと、加賀屋へ参ったそうでございますよ」
「ああ町方のお役人様がね」
「で主人と逢いましたそうで」
「ああ左様で、源右衛門さんとね」
「ええそれからヒソヒソ話……」
「ははあお役人と源右衛門さんがね」
「と、どうしたのか源右衛門さんには、にわかに血相を変えまして、奥へ入ったということで」
「なるほどね、なるほどね」
「つまりそれっきり消えましたそうで」
「なるほどね、なるほどね」
「ところがもう一つ不思議なことには……」
「はいはい、不思議が、もう一つね」
「その夜若旦那も帰りませんそうで」
「へーい、なるほど、源三郎さんもね」
「親子行方が知れませんそうで」
「それは、まあまあ大変なことで」
聞いているのは岡引の松吉で、その綽名を「丁寧松」といい、告げに来たのは松吉の乾兒の、捨三という小男であった。
所は神田連雀町の丁寧松の住居であり、障子に朝日がにぶく射し、小鳥の影がぼんやりとうつる、そういう早朝のことであった。
捨三が旨を受けて行ってしまうと、丁寧松は考え込んだ。
その時お勝手から声がした。
「何だいお前、お菰の癖に、親分さんに逢いたいなんて」
ちょっと小首を傾げたが、ツイと立ち上った丁寧松は、きさくにお勝手へ出て行った。
「お梅さんお梅さんどうしたものだ、お菰さんだろうと何だろうと、お出でなすったからにはお客さんだよ。不可ない不可ない、粗末にしては不可ない」
下女のお梅をたしなめたが、ヒョイと丁寧松は眼をやった。乞食が勝手口に立っている。
「これはいらっしゃい。何か御用で?」
「へい」と云ったが入って来た。
「お貰いに参ったんじゃアございません、お為になろうかと存じましてね。ちょっとお聞かせにあがりましたんで」
「ああ左様で、それはそれは。……お梅さんお梅さん向うへ行っておいで。……さあさあ貴郎遠慮はいらない。おかけなすって、おかけなすって」
「ここで結構でございますよ、実はね親分」と話し出した。
「人殺しがあったんでございますよ」
「へーい、人殺し? それはそれは」
「そいつをあっしは見ていたんで」
「なるほどね、なるほどね」
「あっし達の住居は軒下なんで。どこへでも寝ることが出来ますので」
「自由でよろしゅうございますなあ」
「昨夜寝たのが佐賀町河岸で」
「あああの辺りは景色がいい」
「と、侍が来かかりました」
「ナール、侍がね。……どうしました?」
「と、ムラムラと変な奴が出て、斬ってかかったんでございますよ」
「うむ、うむ、うむ、侍がね」
「と、スポーンと斬ったんで。侍の方が斬ったんで」
「冴えた腕だと見えますねえ」
「引け! というので引いてしまいました。その現われた連中の方が」
「衆寡敵せずの反対で」
「するとどうでしょう、提燈の火だ」
「ほほう提燈? 通行人のね?」
「加賀屋と書いてありましたんで」
「え」と云ったが松吉の眼は、この時ピカリと一閃した。
「加賀屋と書いてありましたかな」
12
なおも乞食は云いつづけた。
「宇和島様でございましょうな、加賀屋からのお迎えでございます。……こう云ったではありませんか」
「ははあ提燈の持主がね?」
「へい左様でございますよ。……それから、侍を囲繞んで、霊岸島の方へ行きましたので」
「霊岸島の方へ? 不思議ですなあ。加賀屋の本家も控えの寮も、霊岸島などにはなかったはずだが」
「これが好奇というのでしょう、後をつけたのでございますよ、人殺しをした侍が、どこへ落ち着くかと思いましてね」
「偉い」と松吉は手を拍った。
「ねえお菰さん、お菰さんを止めて、私の身内におなりなさいまし」
「これは」と乞食は苦笑したが、
「で、つけたのでございますよ」
「それで、どうでした、どこへ行きました?」
「へい、柏家へ入りました」
「柏家? なるほど、一流の旅籠だ」
こうは云ったが考えた。
「ちょっと不思議な噂のある旅籠だ。……ところで、それからどうしました?」
「話と申せばこれだけなので」
ニンマリと乞食は笑ったが、
「親分さんは御親切で、どんな者にでもお逢いになり、話を聞いて下さるそうで。……仲間中での評判でしてね。……お為になれば結構と存じ」
「よく解りました、有難いことで。……これはほんの志で。……オイオイお梅さんお梅さん、このお客さんへお酒をお上げ。ええとそれからおまんまをね」
居間へ引っ返した丁寧松はポカンとした顔で考え込んだが、やがて長火鉢のひきだしを開けると、ちいさい十呂盤を取り出した。
パチ、パチ、パチと弾き出した。
岡引の松吉は三十五歳、働き盛りで男盛り、当時有名な腕っコキで、十人以上の乾兒もあったが、どうしたものか独身であった。そうして彼は変人でもあった。起居も動作も言葉つきも、岡引どころの騒ぎではなく、旦那衆のように丁寧なのである。乾兒や乞食に対してさえ、丁寧な言葉を使うのである。
丁寧松の由縁である。
ところで彼は捕り物にかけては、独特の腕を持っていた。武器はと云えば十呂盤と十手で……
十手が武器なのは当然だが、十呂盤が武器とはどういうのだろう?
それは誰にも解らなかった。
とはいえ、彼は事件にぶつかると、きっと十呂盤を取り出して、掛けたり引いたりするのであった。
こじつければこんなように云うことは出来る──すべて数学というものは、人の心を緻密にし人の心をおちつかせる。そこで心をおちつかせるために、十呂盤弾きをするのだと。
今も熱心に弾いている。
「二、一天作の五、二進が一進、ええと三、一、三十の一……加賀屋親子の行方不明、佐賀町河岸での人殺し、そこへ迎えに出た加賀屋の提燈……これには連絡がなければならない。……宇和島という若侍……それに泊まった柏屋という旅籠? ……柏屋、柏屋、柏屋だな?」
どうにも考えがまとまらないらしい。
「加賀屋から迎えに出た以上は、本家か寮かへ連れて行かなければ、本当のやり口とは云われない。……十から八引く六残る。冗談云うなよ、二が残らあ」
珠算をしながら考えている。
痩せぎすでそうして小造りであり、眼が窪んで光が強く、どっちかというと醜男である。だが決して一見した所、人に悪感を与えるような、そんな人相はしていない。
「十から八引く二が残る。と云うのが浮世の定法だが、本当の浮世はそうでない。八が残ったり四が残ったり、もう一つこいつが酷いことになると、十一なんかが残ったりする」
などと警句を云う男であった。
珠を払うとヒョイと立った。
「本筋から手繰って行くことにしよう」
土間を下りると雪駄を穿き、格子をあけると戸外へ出た。
午前六時頃の日射しである。
早朝だけに人通りが少なく、朝寝の家などは戸を閉ざしている。
須田町から和泉橋、ずっと行って両国へ出たが、駕籠を拾うと走らせた。
「へいよろしゅうございます」
駕籠屋に対しても丁寧である。酒手まではずんだ丁寧松は、駕籠を下りると歩き出した。
13
立派な旅籠屋が立っていた。
すなわち目的の柏屋で、下女が店先で水を撒いてい、番頭が小僧を追い廻している。
「御免下さい」と声をかけ、丁寧松は帳場の前へ立った。
「宇和島様おいででございましょうか」
「へい」と云ったは番頭であった。ジロジロ松吉を見廻したのは、品定めをしたのに相違ない。
「ええどちら様でございますかな?」
居るとも居ないとも返事をせず、相手の身分を訊いたのは、大事を執ったためなのだろう。
鼻が平らで眉が下っていて、人のよさそうな人相ではあったが、眼に一脈の凄味がある。大きな旅籠屋の番頭なのである。人が良いばかりでは勤まらない、食えない代物には相違あるまい。
「加賀屋の者でございますがね」
そこは松吉岡引である。加賀屋を活用したのである。
「おや左様でございましたか。これは失礼をいたしました。へいへい確かに宇和島様には、昨晩からお宿まりでございますよ」
──加賀屋から来たと聞いたので、番頭は安心をしたらしい。
「ちょっくらお目通りいたしたいもので」
「ちょっとお待ちを」と云いながら、番頭は女中へ頤をしゃくった。取次げという意味なのだろう。
すぐに女中は小走って行ったが、どうしたものか帰って来ない。かなりの時間を取ってから、もっけの顔をして飛び帰って来たが、その返事たるや変なものであった。
「どこにもおいででございません」
「冗談お云いな、馬鹿なことを」
番頭の言葉におっ冠せ、お杉という女中は云い張った。
「いえ本当なのでございますよ。どこにもおいでなさいませんので。お部屋にも居られず厠にも居られず、もしやと思って裏庭の方まで、お探ししたのでございますが、やっぱりお姿は見えませんでした。それで、念のために一部屋一部屋、お尋ねしたのではございますが……」
「お姿が見えないというのだね」
「はい、そうなのでございますよ」
「ふふん」と云ったが怪訝そうである。
番頭は松吉の顔を見た。
「いやそうかも知れませんねえ」
丁寧松は驚かなかった。
「それが本当かも知れませんねえ。実はね」というと丁寧松は、丁寧の調子を砕いてしまった。
「加賀屋の者じゃアないのだよ。連雀町の松吉なのさ。ちょっと見たいね、部屋の様子を」
「へえ、それじゃア親分さんで」
番頭はすっかり顫え上った。
「うん」と云ったがズイと上る。
「どうぞこちらへ……偉いことになったぞ」
不安に脅えた番頭を睨み、奥へ通った丁寧松は、またも丁寧な調子になった。
「ねえ番頭さん番頭さん、ビクビクなさるには及びませんよ。貴郎が人殺しをしたんじゃアなし、お咎めを受けるはずはない。だが」と云うときつくなった。
「嘘を云っちゃア不可ねえぜ!」
丁寧松ではなくなったのである。
胆を潰したのは番頭で、
「それでは昨夜のお侍様は、兇状持なのでございましょうか?」
「つまりそいつを調べに来たのさ。それで出張って来たってやつさ」
だがまたもや丁寧になった。
「立派な造作でございますねえ」
云いながら四辺を見廻したが、立派な造作を見たのではなく、間取りの具合を見たのらしい。
真中に廊下が通っていて、左右に座敷が並んでいる。
その一画を通り過ぎると、広大な裏庭になっていて、離れ座敷に相違ない、三間造りの建物があり、母家と渡り縁で繋がれていた。
その建物の中の部屋の、襖の前まで来た時である。
「このお座敷なのでございますよ」
こう云って番頭は辞儀をしてみせた。
14
「なるほど」と云ったが丁寧松は、開けてみようともしなかった。
「結構なお庭でございますなあ」
こんなことを云い出してしまったのである。
築山、泉水、石橋、燈籠、一流の旅籠の庭だけあって、非の打ちどころのないまでに、まさに結構な庭ではあったが、築山の横に木立に囲まれ、古々しい一棟の離れ座敷の、家根の瓦の見えるのが、全体の風致を害していて、欠点といえば欠点とも云えた。
「腰かけてお話しいたしましょう」
縁からダラリと足を下げ、縁へ腰かけた丁寧松は、さも悠暢に云い出した。
「お話を聞こうじゃアございませんか、どんな恰好でございましたかね?」
「へい?」と云ったものの番頭は、何の意味だが解らないらしい。
「何さ、昨夜の泊り客のことで。詳しく話していただきましょう」
「あ、その事でございますか。はいはいお話し致しますとも」
そこで番頭は話し出した。
「ずっと夜更けでございましたが、門を叩くものがございましたので、開けて見ますと加賀屋の提燈、手代風のお方が五六人、ゾロゾロ入って参りましたが、『大切のお客様でございますから、丁寧にあずかって下さるように』と、かように申してお連れして来ましたが、二十五六のお武家様で、宇和島様だったのでございますよ。本来なればそんな夜更け、お断りするのでございますが、名に負う加賀屋様の御紹介ではあり、立派なお武家様でございましたので、早速この座敷へお通し申し……」
「今朝まで安心していなすったので?」
「へいへい左様でございます」
「ええと、所で云う迄もなく、その加賀屋の手代衆は、お引き取りなすったでございましょうね?」
意味ありそうな質問である。
「はい……いいえ……お一人だけは……」
「え?」と松吉は訊き咎めた。
「一人どうしたと仰有るので?」
「お泊まりなすったのでございますよ」
「変ですねえ。……どこへ泊まりました」
「隣りのお部屋でございます」
「宇和島という侍の隣り部屋で?」
こう訊いた松吉の声の中に、鋭いもののあったのは、何かを直感したからだろう。
「はいはい左様でございますよ」
「それで、只今もおいでなさるので?」
「それが明け方、暗い中に、お帰りなすったと申しますことで」
「お前さんそいつを御存知ない?」
「家内中寝込んで居りましたので……」
「どなたが表の戸を開けましたかい?」
グッと鋭く突っ込んで訊いた。
「寝ずの番の女中のお清という女で……」
「ちょっと聞きたいことがある、お清という女中を呼んで下せえ」
間もなく現われたお清という女中は、年も若いし、ぼんやり者らしく、それに昨夜の寝不足からだろう、眼など真赤に充血させていたが、御用聞に何かを訊かれるというので、ベッタリ縁へ膝をつくと、もうおどおどと脅え込んでいた。それと見て取った松吉は、恐がらせては不可ないと、こう思ったに相違ない、丁寧な調子で話しかけた。
「今朝方帰ったという加賀屋さんの手代、何か持ってはいませんでしたかえ?」
「へい」とお清は考え込んだが、
「何にもお持ちではございませんでした」
「ふうん」と云ったが首を傾げた。
「痩せていましたかえ、肥えていましたかえ? 何さ、着ふくれちゃアいませんでしたかね?」
「へえ」と又もや考えたが、
「気がつきませんでございました」
だがもう一度考えると、
「そう仰有ればそんなようで、着ふくれていたようでございますよ」
「廊下には行燈でもありましたかね? 玄関には無論あったでしょうね?」
「それがホッホッと消えましたので」
意外のことを云い出した。
「うむ」と云ったが丁寧松は、チラリと明るい眼付をした。何か暗示を得たようである。
「どっちが先立って行きましたね?」
「お客様がお先へ参りました」
「こう何となく反り返って、お辞儀なんかはしなかったでしょうね?」
こう云ったが笑い出した。
「こいつァ無理だ、訊く方が無理だ、寝ずの番だって人間だ、夜っぴて起きていた日にゃア、明け方には眠くなるからねえ、そんな細かい変梃なことに、気の付くはずはありゃしない。いや有難う、御用済みだ……。ところで」と云うと丁寧松は、番頭の方へ顔を向けたが、
「気を悪くしちゃア不可ませんぜ」
一層声を押し低めたが、
「あれが評判の開けずの間だね?」
築山の横に木立に囲まれ、立っている古々しい離れ座敷へ、頤を向けて訊いたことである。
「へい左様でございます」
「どれちょっくら拝見して来よう。ナーニ中へは入りゃアしない」
庭下駄を突っかけて歩いて行った。
15
変った建物では無かったけれど、陰森たる建物には相違なく、縁が四方を取り巻いてい、雨戸がビッシリと閉ざされていた。縁も古ければ雨戸も古い。しかし用木は頑丈で、それが時代を食んでいる為か、鉄のような色を呈してい、瓦家根が深く垂れ下り、その家屋も黒く錆ていた。だから巨大な蝙蝠が、翼をひろげているようである。何処からも日の目が射して来ない。繁った木立が四方を鎧い、陽を遮っているからだろう。とは云え家根の一面だけが、陽を受けて明るく燃えている。それで、そこだけが昼であり、その他の所は宵闇であると、こういうことが出来そうである。つまりそんなにも建物と建物の周囲は陰気なのであった。
周囲の繁った木立によって、一切外界と交渉を断ち、一劃をなした別世界に、一種威嚇的な空気を纏い、物云わず立っている気味の悪い存在! それが離れ座敷の姿であった。
だからその前に立った人は、そういう空気に圧迫され、逃げ出してしまうに相違ない。
にも拘らず松吉は、怖くはないよと云いたそうに、胸の辺りで腕を組み、大工が普請でも見るように、家の周囲を廻りながら、仰向いて見たり俯向いて見たり、一向暢気そうに眺め出した。
「今朝方箒目をあてたと見え、地面も縁の上も平されている」
口の中での呟きである。
「おや木の枝が折れてるぜ」
たしかに一所木の枝が、無理に乱暴に折り取られている。
「腰でもかけて休もうかい」
──縁へ腰をかけた丁寧松は、後脳を雨戸へ押し付けて、ぼんやり空を眺めたが、どうやら本当はぼんやりと、空を眺めているのではなく、何かを聞き澄ましているのらしい。
「いい天気だなあ、鳥が啼いていらあ」
梢で雀が啼いている。
「宇和島というお侍、高価な物でも持っているのか、人に怨みでも受けているのか、とにかく何者かに狙われているらしい。だから大勢の者に切りかけられたり、贋加賀屋の手代どもに、こんな旅籠へ連れ込まれたり……さあその贋加賀屋の手代の一人が、宇和島という侍の隣り部屋へ、泊まり込んだということだが、そうして今日の明方早く、立去って行ったということだが、こいつがどうにも眉唾物だて」
──番頭の言葉と婢女の言葉、それを綜合して丁寧松は、推理と検討とに耽りだした。
その間も松吉は縁の上などを、こっそり掌で撫でまわした。
「縁の上にひどく砂があるなあ。縁近くの庭で取っ組み合いでもしたら、縁の上へ砂ぐらい刎ね上るだろうよ。……ところで宇和島という侍だが、この旅籠から消えたとは何ということだ。……二から一引く一残る! これが十呂盤の定法だが、この事件はそうでねえ、二から一引く皆な消えっちゃった! 侍も手代もきえっちゃった。……こんな解らぬ話ってねえ。……ナーニこいつアこうなるのさ。……宇和島というお侍さん、身の危険を感じたので、贋手代を気絶でもさせて、そいつの衣裳をひん剥いて、自分の衣裳の上へ着て──着ふくれていたっていうことだからな──手代に化けてこの旅籠から、脱出して行ったというものさ。……行燈の火が消えたという。案内の女中に化けた姿を、感付かれまいために宇和島という武士が、行燈の側を通る時、袂でも振って消したのさ。……さて疑問として残るのは、衣裳を剥がれた贋手代の、可哀そうな身柄がどこにあるかってことさ……」
この時開けずの間の建物の中から、物の気勢が聞こえてきた。
「いつからともなく柏屋の庭に、開けずの間という建物があって、一切人を内へ入れず、一切人を寄せ付けず、厳に鎮座ましますと、世間の噂に立つようになったが、どう考えてもおかしいよ」
口の中での呟きである。
「どだい建物というものは、人が住むために建てるものだ。人の住めない建物なら、さっさと壊すがいいじゃアないか。そんな建物を建てて置く! どうでも二二ンが四じゃアない」
胸の中で珠算をやり出した。
「もっとも」と、これも口の中である。
「お宮と云ったような建物もある。だがもしそいつがお宮なら、神様が住んでいなけりゃアならない。……となすとここの建物にも、神様が住んでいるのかな」
頭が一方へ傾いて行く。ピッタリ片耳が戸へあたる。
「うむ!」と突然丁寧松は、呻の声を洩らしたが、
「やりゃアがったな!」と飛び上った。
「ヤイ!」と怒鳴ったが鋭い声だ。
「殺生な真似をしやアがるな! 丁寧松だ! 見現わしたぞ!」
だがその次の瞬間には、非常な危険を直感した、猟り立てられた獣のように、庭を駆け抜け、主母を駆け抜け、往来へ飛び出してしまったのである。
すると、その時音も立てず、離れ座敷の雨戸が開いたが、その隙間から見えたのは、一人の女の姿であった。身に行衣を纏ってい、左手に御弊を握っている。しかし右手に下げているのは、血に塗られた短刀であった。御弊に仕込まれた懐刀らしい。美しいことも美しいが、その凄さは二倍と云えよう!
髪を頸に束ねている。それで額が三角形に見える。ぼうぼうと毛ば立った太い眉、耳まで続いていないだろうか? そう思わなければならない程、延々と長く引かれている。だがその下に凝然と、見据えられた眼を見た人は、ああこの女は狂信者だ! こう思わずにはいられないだろう。
女は、全身を現わしたのではない。二尺余り開いた戸の隙から、半身を覗かせているのであった。
「市郎右衛門! 市郎右衛門!」
その女が呼んだのである。喰い縛ったような声である。
すると、木立を押し分けて、一人の男が現われた。他でもない番頭であった。だが、相好が変っている。キョトキョト恐れおどついていた、先刻までの番頭ではないのであった。
「お久美様!」と土下座をした。
「かようなことになろうとは……迂闊千万にございました」
「今は云わぬよ! 何にも云わぬよ! ……しかし生かしては置かれない! ……今日中に命を取るがいい! ……手が入ったら一大事だ」
「手配り致すでございましょう。……それに致しても血刀は?」
「意外だったよ、妾にしてからが! ……裸体に剥かれた人間が……」
「お部屋にいたのでございますか?」
「で、切ったのだ! 剖いたからの」
「では宇和島と宣った武士で?」
市郎右衛門はギョッとしたらしい。
「妾は知らぬよ。……切っただけだよ。……手配りをおし! 一刻も早く!」
「はい」と云うと走り去った。
なお、女は立っている。
「あいつのお蔭だ! ……大塩中斎! ……お気の毒な貢様! ……妾までこんな目に逢っている。……」
血刀が鈍く光っている。
「一世の碩学、貢の巫女……それから伝わったこの教法……滅ぼしてなろうか! 滅ぼしてなろうか!」
柏屋を飛び出た岡引の松吉は、この頃往来を走っていた。
16
だが、十間とは走らなかった。柏屋と斜めに向かい合い、表門の一所に桐の木を持ち、黒板塀に蔽われた、宏大な屋敷が立っていたが、ちょうどそこまで走って来た時、一つの事件にぶつかってしまった。
と云うのは二階の障子が開き、武士の姿が現われたが、松吉を目掛けて腕を振り、同時に障子を閉じたのである。
昼の日を貫き一閃したは、投げられた小柄に相違ない。同時にピシッと音がした。
すなわち岡引の松吉が、走りながらの神妙の手練、懐中の十手を引き抜くと、見事に払って捨たのである。
「うむ、やったな! 鮫島大学!」
叫んだ時には数間のかなたを、岡引の松吉は走っていた。
だがその行手に露地があり、そこへ駈け込んだ一刹那、またもや意外な出来事に逢った。
「無双の早業、素晴らしい手並、すっかり見ていた、立派であったぞ!」
深編笠に黒紋付、仙台平の袴を穿き、きらびやかの大小を尋常に帯び、扇を握った若侍に、こう言葉を掛けられたのである。衣裳の紋は轡である。
「え」と云った岡引の松吉は、足を止めざるを得なかった。
「お褒めのお言葉、有難いことで。……が、全体、貴郎様は?」
「拙者か」と云ったが歩き出した。
「柏屋の秘密を知って居るものだ」
「では」と云うと睨むように見た。
「宇和島様ではございませんかね?」
一種の直感で感じたのらしい。
それには返事をしなかったが、
「見受けるところ目明しだの。……柏屋から飛び出したあわただしい気振り、それもすっかり見届けた。……そこで、約束をしてもよい。お前の力になるかもしれない。この俺がな、都合次第。……今日はこれだけ。別れよう」
露地から出たが人混にまじり、間もなく姿が見えなくなった。
「おかしいなあ、何者だろう? ……宇和島という武士に相違ない。よし来た、一番、つけてやろう」
追っかけようとしたが駄目であった。その時一群の人間が、彼の方へ走って来たからである。
「不可ない! しまった! あいつらだ! 多勢に一人、とっ捉まる!」
サーッと一散に走り出した。露地が左右に別れている。
「よし、こっちだ!」と曲がったは左で、そこでグルリと振り返って見た。町人風ではあったけれど、ただの町人とは思われない、そういう人数が一二三人、執念く後を追っかけて来る。
「俺には解る! あの一味だ! ……偉いことになったぞ、偉いことになったぞ! ……こんな大物になろうとは、夢にも俺は思わなかった!」
──露地が丁字形になっていた。左へ曲がるとトッ走った。と、小広い往来へ出た。
「不可ない不可ない、往来は不可ない! 人に見られたらみっともない!」
──またもや露地へ駈け込んだ。追って来る一団も駈け込んだらしい、足音が乱れて聞こえてくる。案内には詳しい岡引である。露地から露地と縫って走る。だが執念深い追手であった。どこ迄もどこ迄も追っかけて来る。
「南無三宝! 行き止まりだ!」
まさしく露地は行き止まり、その正面に格子造りの、粋な二階家が立っていた。
「ううむ」と唸ったが岡引の松吉は、早くも決心をしたらしい。飛びかかると格子をソロリと開け、それを閉じると穿物を脱ぎ、懐中に入れたが敏捷である、障子を開けると辷り込んだ。
「だアれ!」と直ぐに声がして、つづいて隣部屋から現われたは、風俗で解る、女役者であった。
「太夫、頼む、かくまってくれ!」
ちょうどその日のことである。時刻は午後三時頃でもあろうか、所は蔵前の表通り、そこに立っている加賀屋の店へ、しとやかに入って来た若侍があった。
「拙者は宇和島と申す者、当家御主人にお目にかかりたく、大阪表よりまかりこしてござる、よろしくお取次ぎ下さいますよう」
若侍は奥へ通された。
17
「町役人の方が参りまして、主人に逢いたいと申しました。そこで丁寧に奥の間へ通し、その旨を主人に申しましたところ、早速主人はそのお方にお逢いし、しばらくお話しして居りましたが、私は手代のことではあり、その場にも居らず、立聞きもせず、店へ参って居りますと、やがてそのお方がお帰りになり、主人も送って出られましたが、その時の主人の顔の様子が、変わって居りましてございます。不安の気持とでも申しましょうか、そんなようなものが顔に見え、おどついていたのでございますが『困った奴だ! 源三郎め! これが本当なら勘当ものだ! えいこうしてはいられない! 調べてやろう! 調べてやろう』と、呟いたものでございます。……それから奥へ入りましたが、どうしたものでございましょうか、それっきり姿が消えましたので、一同大きに驚きまして、諸所方々を探しましたが、今にかいくれ知れませんような次第、裏木戸から外へでも出ましたものか、錠が破壊れて居りました。……しかも、その晩には若旦那にも、家へ帰っておいでなされず、いまだに帰られないのでございます。……そういう不思議な出来事が、一度に起こって参りましたので、お可哀そうにもお嬢様には。……」
こうここまで云って来て、手代の長吉は口を噤んだ。
と云うのは側にお嬢様が──すなわち品子という十八の娘が、放心したような顔をして、茫然坐っていたからである。
ここは加賀屋の奥まった部屋で、三人の人物が対座している。
手代の長吉と娘の品子と、そうして今しがた訪ねて来た、宇和島鉄之進という若侍である。
「なるほど」と云ったのは宇和島という武士で、当惑を顔へ現わした。
「いや左様なお取り込みとも存ぜず、お訪ねしてかえって失礼をいたした。拙者は大阪表より──平野屋と申す大家より、大切の品物をあずかって、持参いたしたものでござるが、御主人が不在とあって見れば、その品物は渡し難く、一旦宿元へ持ち帰りましょう。……しかしそれにしても、御主人の行方の、一日も早く知れますよう、願わしいものでございます」
そっと品子を見やったが、
「品子様とやら御心配でござろう。しかし心をしっかりと持たれ、決してお取り乱しなされぬよう」
こうは云ったが心の中では、
「可哀そうに少しく上気して居る。こじれると発狂もしかねまい」
「それでは御免」と立ち上った。
「主人在宅でございましたら、お扱い様もございますのに、この様な有様でございますれば……」
気の毒そうに長吉が云った。
「いやいや何の、心配は御無用」
「それでは、ただ今のお住居は?」
「神田神保町の若菜屋でござる」
云いすてると宇和島鉄之進は、事情を審しく思ったのであろう、小首を傾げながら座を立った。
そこで、長吉は送って出たが、後に残った品子という娘が、不意に甲高い声を上げた。
「妾には解る! 殺されていなさる! おお、お父様もお兄様も!」
フラフラと立つと眼を抑えた。
「お久美様の祟りだ、お久美様の祟りだ!」
フラフラと部屋から外へ出た。
水に螢をあしらった、京染の単衣が着崩れてい、島田髷さえ崩れている。後毛のかかった丸形の顔が、今はゲッソリ痩せている。優しく涼しい眼だったろう、それが一方を見詰めている。
足許さだまらず歩いて行く。
やがて襖をスルリと開けた。
「宇和島様!」と不意に呼んだ。
「綺麗な綺麗なお武家様!」
それからまたも甲高く、
「献金いたすでございましょう! お久美様お久美様お助け下され!」
また襖をスルリと開けた。奥庭の方へ行くのでもあろう。
その時衣摺れの音がして、すぐに一方の襖が開いたが、その風俗で大概わかる、どうやら品子の乳母らしい、四十ぐらいの女が現われた。
「まあお嬢様!」と声をかけたが、やにわに品子を抱きしめると、二人ながらベタベタと崩折れた。
「乳母!」と呼んだが縋り付いた。
「お嬢様お嬢様! ……もう不可ない! ……気が狂われた! お可哀そうに!」
「乳母!」と縋ったがうっとりとなった。
「献金しておくれよ! たくさんにねえ」
「どこへ?」と乳母は眼を見張った。
「お久美様へだよ。……ねえたくさんに。……」
すると乳母のお繁の顔へ、凄い微笑があらわれたが、
「はいはいよろしゅうございますとも」
だがその時ソロソロと、一方の襖があけられて、一人の男の顔が出た。薄痘痕のある顔である。気付いてお繁が顔を向けると、すぐに襖は閉ざされた。
「蔵番の東三だが、変だねえ」
何となく不安を感じたのだろう、お繁は頤を襟へ埋めたが、ちょうどこの頃宇和島鉄之進は、順賀橋の辺りを歩いていた。
18
本多中務大輔の邸を過ぎ、書替御役所の前を通り、南の方へ歩いて行く。
ヂリヂリと熱い夏の午後で、通っている人達にも元気がない。日陰を選んで汗を拭き拭き、力が抜けたように歩いて行く。ひとつは飢饉のためでもあった。大方の人達は栄養不良で、足に力がないのであった。
「南北三百二十間、東西一百三十間、六万六千六百余坪、南北西の三方へ、渠を作って河水を入れ、運漕に便しているお米倉、どれほどの米穀が入っていることか! いずれは素晴らしいものだろう。それを開いて施米したら、餓死するものもあるまいに、勝手な事情に遮られて、そうすることも出来ないものと見える」
心中でこんなことを思いながら、お米倉の方角へ眼をやった。すると、眼に付いたものがある。五六人の武士が話し合いながら、鉄之進の方へ来るのである。姿には異状はなかったが、様子に腑に落ちないところがあった。と云うのは鉄之進が眼をやった時、急に話を止めてしまって、揃って外方を向いたからである。そうしてお互いに間隔を置き、連絡のない他人だよ──と云ったような様子をつくり、バラバラに別れたからである。
「怪しい」と鉄之進は呟いた。
「加賀屋の手代だと偽って、昨夜深川の佐賀町河岸で、うまうま俺をたぶらかし、柏屋へ連れ込んだ連中があったが、その連中の一味かも知れない。何と云ってもこの俺は、高価の品物を持っている。奪おうと狙っている連中が、いずれは幾組もあるだろう。加賀屋源右衛門へ渡す迄は、保存の責任が俺にある。つまらない連中に関係って、もしものことがあろうものなら、使命を全うすることが出来ぬ。……そうだ、あいつらをマイてやろう」
そこで鉄之進は足を早めた。
旅籠町の方へ曲がったのである。
そこで、チラリと振り返って見た。五六人の武士が従いて来る。
「これは不可ない」と南へ反れた。
出た所が森田町である。
でまたそこで振り返って見た。やはり武士達は従いて来る。そこで今度は西へ曲がった。平右衛門町へ出たのである。
また見返らざるを得なかった。いぜんとして武士は従いて来る。
「いよいよこの俺を尾行ているらしい。間違いはない、間違いはない」
そこでまた南へ横切った。神田川河岸へ出たのである。それを渡ると両国である。
「よし」と鉄之進は呟いた。
「両国広小路へ出てやろう。名に負う盛場で人も多かろう。人にまぎれてマイてやろう」
なおもぐるぐる廻ったが、とうとう両国の広小路へ出た。
飢饉の折柄ではあったけれども、ここばかりは全く別世界で、見世物、小芝居、女相撲、ビッシリ軒を立て並べ、その間には水茶屋もある。飜めく暖簾に招きの声、ゾロゾロ通る人の足音、それに加えて三味線の音、太鼓の音などもきこえてくる。
「旨いぞうまいぞ、これならマケるぞ」
群集に紛れ込んだ鉄之進は、こう口の中で呟いたが、しかし何となく不安だったので、こっそり背後を振り返って見た。
いけないやっぱり従けて来ていた。しかもこれ迄の従け方とは違い、刀の柄へ手を掛けて、追い逼るように従けて来る。群集が四辺を領している、こういう場所で叩っ切ったら、かえって人目を眩ますことが出来る。──どうやら彼らはこんなように、考えて追い逼って来るようであった。
「これはいけない、危険は逼った。ここで切り合いをはじめたら、大勢の人を傷付けるだろう。と云ってああもハッキリと、殺意を現わして来る以上は、憎さも憎しだ、構うものか、一人二人叩っ切って逃げてやろう」
こう決心をした鉄之進が、迎えるようにして足を止めた時、
「駕籠へ付いておいでなさりませ」
艶めかしい女の声がした。
見れば鉄之進の左側を、一挺の駕籠が通っている。
19
「おや」と鉄之進は怪訝そうにした。
「誰に云ったのだろう? この俺にか?」
するとまた駕籠から声がした。
「轡の定紋のお侍様、駕籠に付いておいでなさりませ」
「うむ、違いない、俺に云ったのだ」
──いずれ理由があるのだろう。──こう思ったので鉄之進は、素早く駕籠の後を追った。
側に芝居小屋が立っていた。付いて廻ると木戸口があった。と駕籠が入って行く。つづいて宇和島鉄之進が、入って行ったのは云うまでもない。舞台裏へ入る切戸口の前で、駕籠がしずかに下りたかと思うと、駕籠の戸が内から開き、一人の女が現われた。女役者の扇女である。切戸口から内へ入ろうとした時、裏木戸から武士達が入り込んで来た。鉄之進を従けて来た武士達である。
「御心配には及びませんよ」
扇女は鉄之進へ囁いたが、五六人の武士へ眼をやった。
「ねえ皆さん方、見て下さいよ。ここに居られるお侍さんが、この妾の恋しい人さ。……だから虐めちゃアいけないよ。……お前さん達のお頭の、鮫島大学さんへ云っておくれ。女役者の扇女の情夫は、途方もなく綺麗なお武家さんだったとね。……何をぼんやりしているんだよ。日中狐につままれもしまいし。……早くお帰り早くお帰り!」
鉄之進の方へ身を寄せたが、
「いらっしゃいまし、妾の部屋へ」
裏舞台へ入り込んだ。
楽屋入りをする道程に、扇女は鉄之進を助けたのであるが、たしかもう一人扇女のために、助けられた人間があるはずである。
その助けられた人間が、ちょうどこの頃江戸の郊外に、つく然として坐っていた。
ここは隅田の土手下である。
「十から八引く十一が残る! 今度こそとうとうこんなことになった。何しろ俺という岡引が、悪党に追われて逃げこんだからなあ。由来岡引というものこそ悪党を追っ掛けて行くものじゃアないか。世は逆さまとぞなりにけり」
丁寧松事松吉である。
背後に大藪が繁っていて、微風に枝葉が靡いていた。ここらは一面の耕地であったが、耕地にはほとんど青色がなかった。天候不順で五穀が実らず、野菜さえ生長たないからであった。所々に林がある。それにさえほとんど青色がなく、幹は白ちゃけて骨のように見え、葉は鉄錆て黒かった。どっちを眺めても農夫などの、姿を見ることは出来なかった。
丁寧松は考え込んだ。
20
「さあどこから手を出したものか、からきし俺には見当が付かない。一ツとひとつ珠を弾くか! 柏屋の奥庭の開けずの間さ! ……二ツともう一つ珠を上げるか。久しい前から眼を着けていた、鮫島大学の問題さ。こいつもうっちゃっては置かれない。敵意を示して来たんだからなあ。……三ともう一つ珠を弾くか。加賀屋の主人の行方不明さ。そうして倅の行方不明さ……もう一つ珠を弾くとしよう。宇和島という武士も問題になる。──四ツ事件が紛糾ったってものさ。……ええとところで四ツの中で、どれが一番重大だろうかなあ?」
事件を寄せ集めて考え込んだ。
「四ツが四ツお互い同士、関係があるんじゃアないかしら?」
そんなようにも思われた。
「とすると大変な事件だがなあ」
関係がないようにも思われた。
「関係があろうがなかろうが、どっちみち皆大事件だ。わけても柏屋の開けずの間が、大変物と云わなければならない。人間五人や十人の、生死問題じゃアないんだからなア。……日本全体に関わることだ。……」
藪で小鳥が啼いている。世間の飢饉に関係なく、ほがらかに啼いているのである。
つくねんと坐っている松吉の、膝の直ぐ前に桃色をした昼顔の花が咲いている。
と、蜂が飛んで来たが、花弁を分けてもぐり込んだ。人の世と関係がなさそうである。
「と云ってもう一度柏屋へ行って、探りを入れようとは思わない。こっちの命があぶないからなあ。……鈴を振る音、祈祷の声、……その祈祷だったが大変物だった。……それからドンと首を落とした音! ……いや全く凄かったよ」
思い出しても凄いというように、松吉は首を引っ込ませた。
「そいつの一味に追われたんだからなあ。逃げたところで恥にはなるまい」
こう呟いたが苦笑をした。やっぱり恥しく思ったかららしい。
「いやいい所へ逃げ込んだものさ」
女役者の扇女の家へ、せっぱ詰まって転げ込み、扇女の侠気に縋りつき、扇女が門口に端座して、追手をあやなしている間に、二階の窓から屋根を伝い、裏町の露地へヒラリと下り、それからクルクル走り廻り、ここ迄辿り着いた一件を、心の中で思い出したのである。
「あれが普通のお神さんだったら、驚いて大きな声を上げ、俺を追手の連中へ、きっと突き出したに相違ない。世間に人気のある人間は、度胸も大きいというものさ。扇女ならこそ助けてくれたんだ。お礼をしなければならないなあ」
するとその時藪の中で、物の蠢く気勢がした。
「おや」と思って振り返って見たが、枝葉が繁っているために、隙かして見ることは出来なかった。
「さあこれからどうしたものだ?」
丁寧松は考え出した。
「よし来た、今度は方針を変えて、鮫島大学の方を探って見よう。旅籠屋の柏屋とも近いからなあ。かたがた都合がいいかも知れない。……が。一人じゃア不安心だなあ。……そうしてどっちみち夜が来なけりゃア駄目だ」
するとまたもや藪の中で、ゴソリと蠢く音がした。
「おかしいなあ」と振り向いた時、
「これは連雀町の親分で、変な所でお目にかかりますなあ」
藪から這い出した男があった。
「どいつだ手前は?」
「へい私で」
「よ、今朝方のお菰さんか」
「お金にお飯にお酒を戴き、今朝方は有難うございました」
襤褸を引っ張り杖を突っ張り、垢だらけの手足に髯ぼうぼうの顔、そういう乞食が現われた。
21
「今まで藪の中にいたのかい?」
「ここが私の別荘で」
「いや豪勢な別荘だ」
「少し藪蚊は居りますがね」
「人間の藪蚊よりは我慢出来る」
「いや全くでございますよ」
乞食の上州はニヤリとしたが、
「不景気以上の大飢饉で、どこへお貰いに参りましても、まるで人間の藪蚊のように、相手に致してはくれませんなあ」
云い云い上州は坐り込んだが、妙におかしなところがある。髯こそぼうぼうと生えているが、そうして垢で埋まってはいるが、太い眉に秀でた額、極めて高尚な高い鼻、トホンとした眼付きはしているが、よく見ると充分に知的である。だが口付きは笑殺的で、酸味をさえも帯ている。尋常な乞食とは思われない。
「こいつどうにも怪しいなあ」
──そこは松吉商売柄だ、何か看破をしたらしい。
と、ソロソロと懐中の内へ、右の片手を突っ込んだが、
「私の云ったのはそうではない。お前さんのような由緒のある人を、乞食の身分に落とし入れた、世間のやつらが藪蚊だというので」
「え?」と乞食は眼を据えたが、
「この私が由緒のある。……」
「おい!」
「へい」
「正体を出せ!」
「何で?」と立とうとするところを、
「狢め!」と一喝浴びせかけ、引き出した十手で、ガンと真向を! ……
「あぶねえ」と左へ開いたが、
「御冗談物で、親分さん」
「まだか!」
懐中の縄を飛ばせた。
「どうだァーッ」と気込んでその縄を引いたが、
「なんだ! こいつアー 青竹の杖か!」
乞食の両脚を搦んだものと、固く信じた松吉であったが、見れば見当が外れていた。乞食は青竹の杖を突いて悠然として立っている。その杖へ縄が搦まっている。万事意表に出たのである。
だがその次の瞬間に、もう一つ意外の出来事が起こり、ますます松吉の肝を冷やした。と云うのは岡引の松吉が、
「いよいよ手前!」と叱咤しながら、グーッと縄を引っ張った途端、スルリとばかり杖が抜け、ギラツク刀身が現われたからである。
「青竹仕込みの。……」
「偽物で。……」
「何を!」
「見なせえ!」と上州という乞食は、カラッと刀を放り出した。
「どう致しまして……そんな古風な……敵討ちの身分じゃアございませんよ。……ましてや大袈裟な謀反心なんか、持っている身分じゃアござんせんよ。……玩具でござんす! 銀紙細工の! もっとも」と云うと身をかがめ、
「呼吸さえ充ちて居りますれば、竹光であろうとこんなもので」
その竹光を拾い上げ、スパッとばかりに叩っ切った。
立木があって小太かったが、それが斜かいに切り折られ、
その切口が白々と、昼の陽を受けて光ったのである。
「素晴らしいなあ」と岡引の松吉は、心から感嘆したように、ドカリと草の間へ胡座を掻くと、
「ゆっくり話をいたしましょう」
「へい、それでは」と上州という乞食も、並んで側へ腰を下ろしたが、しばらく物を云わなかった。
二人ながら黙っているのである。
いぜんとして耕地には人影がなく、ひっそりとして物寂しく、日ばかりが野面を照らしている。
と、一所影が射した。雲が渡って行ったのだろう。
都──わけても両国の空は、ドンよりとして煙っている。
砂塵が上っているのだろう。
乞食はそっちを見ていたが、ふっとばかりに呟いた。
「今夜あたり起こるでございましょうよ。恐ろしい恐ろしい騒動が」
「ほほう」と云ったものの松吉は、どういう意味だか解らなかった。
「何が起こると有仰るので!」
丁寧な言葉で訊き出した。
「私は乞食でございますよ」
「まあね、そりゃア、そうかも知れない。……それがどうしたと仰有るので?」
「で、江戸中をほっついています」
「私の商売と似ていまさあ」
「私の方がもっともっと、露地や裏店に縁故があります」
「そうして私にゃア悪党がね」
「どっちみち浮世の底の方に、縁故があるというもので」
「正に! そうだよ! 違いないなあ」
「親分!」と乞食は意味あり気に云った。
「露地や裏店の連中が、黙っているものと思いなさるかね?」
「何を?」
「へー」
「何をだよ」
「そいつを私にお訊きなさるので?」
「うん」と云ったが気になる調子だ。
「大概見当は付いているがね。……」
「隣家の餓鬼が死のうとも、こっちのお家じゃア驚かない。ところが一旦自分の方へ。……」
「移った日にゃア狂人になる」
「そいつが総体に移っているので」
「全くなあ、その通りだ。場末の横町へ踏み込むと、飢え死んだ人間が転がっているなあ」
「今度は俺らの番だろう……こう考えている人間が、幾万人あるか知れないんで」
「そうだろうなあ、そう思うよ」
「理屈抜きに皆が食えないんで」
「こいつが一番恐ろしい」
「そこを狙って悪い奴が──でなかったら義人だが。もっとも血眼で探したって、義の付く人間なんかいませんがね──烽火を揚げたらどうなりましょう」
「煽動したらと云うのかい」
乞食は幽かに頷いたが、
「火が上りますぜ! 今夜あたり! そうしてそれから騒動よ! 米屋が襲われるでございましょう」
「だがオイ」と云うと詰め寄った。
「どうして付けたね……え、眼星を! そうだよそうだよ、どうして今夜と?」
「申し上げたじゃアございませんか。ね、乞食の身分だと」
「それは知ってる、知ってるがね。……」
「下情に通じて居りますので」
「それも知ってる、知ってるがね。……」
「推察したのでございますよ。今夜あたりが天井だと」
松吉は黙って腕を組んだ。
22
組んだその腕をパラリと解くと、
「素性を明かしておくんなせえ」
丁寧な語調で問いかけた。だが、態度には隙がない。
「さればさ」と云ったが沈痛であった。
「上州産れの乞食だと、こうもう私が云ったところで、合点をしては下さるまいねえ。……永らく私の住んでいた、その土地の名でも申しましょう。……遠い他国なのでございますよ」
「と云って唐でもありますめえ」
「いやその唐だよ、上海だ!」
「上海?」
「左様」
「そうでしたかねえ」
「この国へ帰ったのは一年前」
いよいよ沈痛の顔をしたが、
「追っかけて来たのでございますよ」
「何をね?」と松吉は突っ込んだ。
「大事なものを!」とただ一句だ。
「で、眼星は?」
「まず大体。……」
「付いた? 結構! 方角は?」
「あの方角で! 霊岸島!」
「うむ」と云うと岡引の松吉は、十手と取縄とを懐中へ蔵い、
「霊岸島には用がある。おいお菰さん、一緒に行こう」
「へい」と云ったが空を見た。
「夏は日永で暮れませんねえ」
「ホイ、ホイ、ホイ、そうでしたねえ、日のある中は何にも出来ねえ」
だがその日もとうとう暮れ、夜が大江戸を領した時、いう所の、「ぶちこわし」──掠奪、放火、米騒動の、恐ろしい事件が勃発した。
最初に暴動の起こったのは、霊岸島だということである。
ここはその霊岸島で……
今、一団の群集が、柏屋の裏口から走り出した。
五十人余りの人数である。
真先に立ったのは巫女姿のお久美で、点火した龕を捧げてい、御弊を片手に持っている。懐刀仕込みの御弊である。
白衣、高足駄、垂らした髪、ユラユラユラユラと歩いて行く。
傍に添ったのは市郎右衛門で、脇差を腰にさしている。
それを囲繞した五十余人が、東北の方へ走って行く。
大音に叫ぶはお久美の声で……
「おお信者らよ、教法を守れ! 破壊しようとするものがある! おお信者らよ、教法を守れ! ……有司の驕慢、幕府の横暴、加うるに天災、世は飢饉! 天父がお怒りなされたのだ! 恐れよ、慎め、おお人々よ! 天父をお宥め申し上げろ! ……続け、続け、我に続け! 浄土が見えよう、我に続け! 飢えたる者よ、我に来よ! 死したる者よ、甦るだろう! 病める者よ、癒されるであろう! ……食を見付けよ! 到る所にあろうぞ! 我に来る者よ、幸福であろうぞ! ……」
東北の方へ進んで行く。次第に人が馳せ集まり、百人、百五十人、二百人となった。
「世の建て直しだ!」と誰か叫んだ。
「焼打ち! 焼打ち! 焼打ちにかけろ!」
ボーッと一所から火が上った。
「浮世を照らせ! 浮世を照らせ!」
火事が見る見る燃え拡がる。
群集を掻き分け狂信者の一団は、東北へ東北へと走って行く。
火事の凄じい紅の光! 青い火が一点縫って行く。お久美の捧げた龕の火だ!
叫声! 悲鳴! 鬨の声! ドンドンドンと破壊の音! それが一つに集まって、ゴーッと巨大な交響楽となる。
一瞬の間に霊岸島は、修羅の巷と一変した。
と、その時、鮫島大学の、屋敷の門がひらかれて、
「さあ方々、出動なされ! 面白い芝居が打てましょうぞ!」
こう叫んだ男がある。他ならぬ鮫島大学であった。
と、ムラムラと出て来たは、大学一味の無頼漢であった。
「火の手は上った! 燃え上った! 役目をしようぞ、風の役目を!」
同じく鮫島大学である。
一団となって東北の方へ、走って行こうとした折柄、漲る暴徒を掻き分けて、こっちへ走って来る人影があった。
岡引の松吉と「上州」である。
23
岡引の松吉と上州と、そうしてお久美の一団とは、当然衝突しなければならない。
「上州、お前は自由にするがいい、俺は逃げるぜ。相手が悪い!」
云いすてると岡引の松吉は、露地へ一散に駈け込んでしまった。
「いやはやまたも逃げ出しの番か、今日は朝からげんが悪い。……こいつがあたりまえの連中なら、何の俺だって逃げるものか。……ところが相手は大変者だ。のみならず今夜は大勢で、しかも狂人になっている。取り囲まれたら助からない」
そこで、一散に走るのであったが、お久美を頭に狂信者の群が、その後を追って走って来た。
「今朝方秘密の道場を、看破った人間にございます。連雀町の松吉だと、自分から宣って居りました。岡引に相違ございません」
こう云ったのは市郎右衛門で、脇差を抜いてひっ下げている。
「岡引といえば、官の犬、犬に嗅ぎ出された上からは、手入れをされると思わなければならない。手入れをされないその前に、是非とも命を取ってしまえ!」
龕を捧げたお久美である。
「今朝方仰せをかしこみまして、追いかけましてございますが、とうとうとり逃がしてしまいました。懲りずにまたも近寄りましたは、何より幸いにございます。今度こそ逃がさず追い詰めて、息の根を止めるでございましょう」
狂信者の群を見廻したが、
「向こうへ逃げて行くあの男こそ、我々にとっては無二の敵、教法を妨げる法敵でござる。追い付いて討っておとりなされ」
狂信者の群が後を追う。
背後を振り返った岡引の松吉は、
「いけないいけない追っかけて来る。いよいよ今朝方と同じだ。さあてどっちへ逃げたものだ。まさかにもう一度扇女さんの家へ、ころがり込むことも出来ないだろう。一体ここはどこなんだろう?」
霊岸島の一ノ橋附近で、穢い小家が塊まっている。火事の光でポッと明るく、立騒いでいる人の姿が、影絵のように明暗して見える。
「火事だ火事だ!」
「ぶちこわしだ!」
「さあ押し出せ!」
「ぶったくれ!」
などという声々が聞こえてくる。
軒に倒れている人間がある。飢えた行路人に相違ない。家の中からけたたましい、赤子の泣き声が聞こえてくる。乳の足りない赤子なのであろう。
そこを走って行く松吉である。
と、右へ曲がろうとした。するとそっちから叫び声がした。
「こっちへ来るぞ打って取れ!」
即ち狂信者の連中が、三方四方に組を分け、包囲するように追って来たが、その一組がその方角から、こっちへ走って来るのであった。
「いけない!」と喚くと岡引の松吉は、身を飜えすと左へ曲がった。
なおも、ひた走るひた走る。
するとその行手からこっちを目掛け、狂信者の群が走って来た。
「いけない」と露路へ走り込んだ。
「どうぞお助け下さいまし」
露路に倒れていた一人の老婆が、腕を延ばすと縋り付こうとした。
「お粥なと一口下さりませ」
「こっちこそ助けて貰いたいよ」
振り切って松吉はひた走る。
出た所が川口町で、群集が飛び廻り馳せ廻っている。
大火になると思ったのだろう家財を運んでいる者がある。
ぶちこわしが恐ろしい連中なのであろう雨戸を閉ざす者もある。
露路に向かって駈け込む者、露路から往来へ駈け出る者……それで、往来はごった返している。
「うむ、これなら大丈夫だ。身を隠すことも出来るだろう」
松吉は背後を振り返って見た。薄紅い火事の遠照を縫って、青い火が一点ゆらめいて来る。
「どうもいけない、目つかりそうだ」
また走らなければならなかった。
出た所が富島町で、それを突っ切ると亀島橋、それを渡れば日本橋の区域、霊岸島から出ることが出来る。
「よし」と云うと岡引の松吉は、亀島橋をトッ走った。
中与力町が眼の前にあって、組屋敷が厳しく並んでいる。
「しめたしめた」とそっちへ走った。
組屋敷の一画へ出られたら、松吉は安全に保護されるだろう。
だが運悪く出られなかった。ぶちこわしの一団が大濤のように、その方角から蜒って来て、すぐに松吉を溺らせて、東北へ東北へと走ったからである。
掻き分けて出ようと焦ったが、人の渦から出られそうもない。
で、東北へ東北へと走る。
日本橋の区域も霊岸島と負けずに、修羅の巷を現わしていた。
24
しかしさすがに蔵前へ迄は、ぶちこわしの手が届かないと見え、寧ろひっそりと寂れていた。
と云うのはぶちこわしの噂を聞き込み、ここらに住んでいる大商人達が、店々の戸を厳重にとざし、静まり返っているからである。
ふと現われた人影がある。
「とうとう大事になってしまった」
他でもない宇和島鉄之進であった。
「江戸中騒乱の巣となろう。死人も怪我人も出来るだろう。霊岸島の方は火の海だ。八百八町へ飛火がしよう。と、日本中へ押し広がる。京都、大阪、名古屋などへも、火の手が上るに相違ない。幕府の有司のやり方が、不親切だからこんなことになる。金持のやり方もよくないよ」
呟いたがフッと笑い出した。
「いやその金持の加賀屋の主人だが、もう帰ってはいないかしら。どうにも渡すものを渡さなければ苦になって心が落ちつかない」
扇女のために危難を救われ、扇女の部屋でしばらく憩い、もうよかろうという時になって、芝居小屋から旅籠へ戻り、今まで休んでいたのであったが、預った物が心にかかる。そこで加賀屋をもう一度訪ねて、主人が帰っているようなら、早速渡そうと出て来たのであった。
本多中務大輔の屋敷の前を通り、書替御役所の前を過ぎ、北の方へ歩いて行く。
鮫島大学の一味に追われ、日中早足に歩いたところを、逆に歩いて行くのである。
急に鉄之進は足を止めた。
眼の前に加賀屋が立っている。しかし表戸は厳重に下ろされ、静まり返って人声もしない。
しばらく見ていたが苦笑いをした。
「そうでなくてさえこんな大家は、点火前には戸を立てるものだ。ましてやこんな物騒な晩には、閉じ込めてしまうのが当然だ。──と云うことも知ってはいたが、やはりうかうか出て来たところを見ると、利口な俺とは云われないな」
ここでちょっと考えたが、
「戸を叩くのは止めにしよう。怯えさせるのはよくないからなあ」
そこでクルリと方向を変え、元来た方へ引っ返そうとしたが、
「待てよ」と呟くと足を止めた。
「今日長吉という若い手代が気になることを云ったっけ、『……裏木戸から出たのでもございましょうか、錠がこわれて居りました』と……その裏木戸を見てやろう」
勿論単なる好奇心からではあったが、加賀屋の大伽藍の壁に添い、宇和島鉄之進は裏へ廻った。
裏木戸の前まで来た時である、木戸の内側から女の声が、物狂わしそうに聞こえてきた。
「出しておくれよ、出しておくれよ!」
「戸外は物騒でございます、今夜だけは止めなさりませ」
「出しておくれよ。出しておくれよ!」
「明日の昼にでも参りましょう。さあさあ、お嬢様、お休みなさりませ」
「ねえ乳母、献金しておくれよ。……お久美様へねえ。どっさりお金を」
「はいはい献金致しますとも。……今夜はお休みなさりませ」
「眼の前にお父様がお在でなさる。……ああそうしてお兄様も。血だらけになってお在でなさる。……でもお二人とも呼吸はある。……助けてお上げよ! 助けてお上げよ!」
「ね、お嬢様、お休みなさりませ。……どなたか参るといけません。……ね、お嬢様、お嬢様。……」
「すぐ眼の前にいなさるのだよ。……ほんのちょっとした物の陰に。……妾には解る! 妾には解る!」
「……どうでもお気が狂われた。……あれ誰やら参ります。……お部屋へお入りなさいまし。……オヤ、お前東三さんか」
すると男の声がした。
「ああ蔵番の東三さ。……お繁さんお前何をしている」
「お嬢さんが出なさろうというのだよ。……それで妾は止めてるのさ」
「ふん」と東三の声がした。
「お前から勧めているのじゃアないか。……ただの乳母さんとは異うようだなあ」
「何だよ」とお繁の声がした。
「そういうお前さんだっていい加減変さ」
25
娘の品子の声がした。
「東三、東三、悪党だねえ!」
「何を仰有います、お嬢様! ……おいお繁さん、奥へお連れ申せ! ……裏庭なんかを歩かせてはいけない」
「お部屋から抜けて来られたのだよ。……ね、お嬢様、内へ入りましょう」
お繁とそうして東三とが、品子をなだめる声がしたが、やがて立ち去る足音がして、しばらくの間はひっそりとしたものの、またもや足音が聞こえてきた。
「お嬢さんには驚いたなあ。……どうしてお感づきなすったのだろう。……どうもな。……困った。……うっかり出来ない。……だが。……遅いなあ。……やりそこなったかな。……」
裏木戸へ触る音がした。どうやら蔵番の東三らしい。
しかし足音は遠ざかり、そうして全く静かになった。
聞き澄ましていた宇和島鉄之進が、首を傾げたのは当然と云えよう。
「どうやら秘密があるようだ。いやこういう大家になると、いろいろの秘密があるものと見える。……だが、それはとにかくとして、いまだに主人は帰宅しないらしい。……これだけ確かめれば用はない。どれソロソロ帰ろうか」
往来の方へ出ようした時、にわかに四辺が騒がしくなった。
大勢の走って来る足音がする。
「逃がすな逃がすな」
「討って取れ」
「さあ追い詰めたぞ」
「しめた! しめた!」
叫ぶ声々が聞こえてきた。
「はてな」と鉄之進は足を止めた。
「とうとうぶちこわしの手が来たか」
その時一ツの人影が、往来の方から駈け込んで来て、二人あぶなくぶつかろうとした。
「これ、気をつけろ」
「真平御免」
互いに相手を透かしたが、
「おっ、今朝方の小者ではないか」
「あ、あの時のお武家様で」
「どうしたどうしたあわただしい」
「追っかけられて居りますので」
「誰にな?」と鉄之進は不思議そうにした。
「例の柏屋の明けずの間の。……」
「うむ邪教徒の一味にか」
「はい左様でございます」
「よし」と云ったが鉄之進は、刀の下緒を引抜いた。
「今朝方約束したはずだ、場合によっては助けようと」
「それではお助け下さるので」
「拙者にも縁のある奴原だ。と云うより拙者の先生に、深い縁故のある奴だ、退治れば先生のお為にもなる。──其方は逃げろ! 一人で十分!」
キリキリと下緒で綾を取る。
「それでは」と云って駈け抜けようとした時、裏へ廻った狂信者の群が、ムラムラとこっちへ寄せて来た。
「いけねえ」と喚いて岡引の松吉が、往来の方へ走ろうとした時、青白い龕の光が射し、お久美を先頭に狂信者の群が、ながれるように入り込んで来た。
「こっちもいけねえ」と喚いたが、
「ここは加賀屋か、急場のしのぎだ」
壁へ手を掛けると身を躍らせ、飜然と裏庭へ飛び込んだ。
「誰だ!」と鋭い声がしたが、蔵番の東三の声らしかった。
「シッ、野暮な、大声を立てるな! ……よッ手前は大学一味の」
「何を! 手前は?」
「丁寧松だア」
格闘をする音がしたが、つづいて松吉の声がした。
「蔵の戸が開いてる! や、死骸! しかも二人だ! こりゃア大変! ……息がある息がある虫の息だ!」
壁の外側では宇和島鉄之進が、抜いた大刀で待ち構えたが、すぐに狂信者に包まれた。
「おお汝は宇和島鉄之進!」
こう喚いたは市郎右衛門であった。
「うむ、柏屋の番頭か、その実お久美の一味だな。……いかにも宇和島鉄之進だ。……ただし本名は宇津木矩之丞! すなわち大塩中斎先生の門下! これ!」と云うとヌッと出た。
「中斎先生に退治られた、京都の妖巫貢の姥、その高足のお久美という女、網の目を逃がれて行方が不明い。その後も中斎先生には、心にかけられ居られたが、江戸にいようとは思わなかったぞ。見現わしたからにはようしゃはしない。先生に代わってこの矩之丞、破邪の剣を加えてやる。……一度にかかれ! 屯ろしてかかれ! 先ず汝から! 来い市郎右衛門!」
技倆は十分、覇気は満腹、しかも怒りを加えている。
飛び込みざまに横へ薙ぎ、市郎右衛門の胴を割り付けた。
飛び返ると背後に土塀がある。それへ背中を食っ付けたが、
「一人退治た、次は誰だ! お久美お久美、今度は其方だ!」
飛び込もうとするのを見て取るや、五六人信徒が中をへだてた。
「それでも感心、教主を守るか。充分に守れ、充分に切る。ソレ!」と飛び込むと一揮した。
「次はどいつだ。誰でもよい、行くぞ!」と叫ぶとまた一躍し、つれて悲鳴! 倒れる音がした。
邪教徒たちがバタバタと逃げ出した。
26
それを追っかけた宇津木矩之丞は、信徒に囲まれ龕を捧げ、逃げて行くお久美へ追い付いたが、
「天誅!」と叫ぶと背後袈裟に、右肩から背筋へまで斬り付けた。
龕が投げられ、悲鳴が起こり、お久美が倒れてノタ打つのを、宙へ舁きのせたが狂信者の群は、矩之丞の手並に恐れたのであろう、往来の方へなだれ出た。
もう追おうともしなかった。宇津木矩之丞は血刀を拭うと、ソロリと鞘へ納めたが、
「何か加賀屋にあったようだ」
裏木戸までスルスルと引っ返した時、その裏木戸が中から開けられ、
「お武家様いかがでございました」
岡引の松吉が顔を出した。
「ちょっとお入り下さいまし、加賀屋の主人と若旦那とが。……」
「源右衛門殿がな」と入ったが、やがて遠々しく声がした。
「や、若主人が源右衛門殿を!」
「ナーニ、からくりでございます」
岡引の松吉の声である。
一方鮫島大学の身にも、一つの事件が起こっていた。
「さあさあ方々出動なされ、面白い芝居が打てましょうぞ。……火の手は上った。燃え上った。役目をしようぞ、風の役目を!」
火事場泥棒の心持である。ぶちこわしの騒動に付け込んで、悪事をしようと企んだのである。
自分自身が真っ先に立ち、混乱の巷へ押し出した時、一人の乞食が走って来たが、チラリ大学を横目で見ると、掠めるようにして馳せ違った。
「はてな、彼奴は?」と鮫島大学は、背後の方を振り返ったが、もうその時には乞食の姿は、暴徒に紛れて見えなかった。
しかし乞食は立ち去ったのではない。大学の屋敷の裏手の方に、身を潜めていたのである。
と板壁へ手をかけた。そうして次の瞬間には、屋敷の内側へ飛び込んでいた。
探すものでもあるのだろう。足音を盗んで入って行く。
一つの部屋の前へ来た時である。唄うような女の声がした。
扉を押しひらいた乞食の上州は、
「お妻殿か!」
「たあれ、貴郎は?」
上海風の部屋の中に、上海風の寝台があり、上海風の阿片食のお妻が、阿片の吹管を抱きながら洞然とした眼で見詰めている。
「拙者でござる。探しに来ました! ……それでもとうとう目つかった! ……ああそれにしても変わられたことは! ……」
凝然として突立った。
「これが支部長の令嬢か! これが俺の許嫁か! 生ける死骸だ! 生ける死骸だ!」
「阿片をおのみなさいまし」
茫然としてお妻が云った。
「何も彼も忘れてしまいましょう。美しい夢ばかり見られます。……あなたはたあれ!」と恍惚とする。
「どっちみちお助けしなければならない!」
こう思ったに相違ない。つと進むと腕を延ばし、乞食はお妻をひっ抱えた。
「助けて下さいよ! 助て下さいよ! 誰か妾を連れて行きます!」
行くまいとお妻はもがくのである。
だが乞食の上州は、いわゆる有無を言わせないという態度で、お妻を抱えた手をゆるめず、部屋から外へ飛び出そうとした。
そこへ飛び込んで来た人間がある。
「やはり貴殿か!」
──と大学であった。
「忘恩の徒よ! 反逆者よ!」
竹光でこそあれ凄い利器、腕も充分冴えている、大学の胸を貫いた。
こうして大学は斃れたが、突きさした竹光を突きさしたまま、お妻をかかえて、風のように、馳せ去った乞食の上州は、どこへ行ったものかその時以来、二度と姿を現わさなかった。しかし竹光の柄の上に一連の文字が刻ってあったので、その身分を知ることが出来た。
支那には「白蓮会」だの「哥老会」だの「六合会」だのというような、秘密結社がたくさんあったが、その中の「白毫会」という結社には、日本人も会員に加わってい、乞食の上州と宣った人物も(本名は富本雄之進とのこと)鮫島大学も会員であって、支那とそうして日本との間を密行していたそうな。
富本雄之進は正義の士で、将来の日本の大陸進出のため、支那の内情を知ろうとして、白毫会員になったのであるが、鮫島大学はそうではなく、私利私欲を計ろうとして、白毫会員になったのであり、支那の悪質の娯楽場の組織を、江戸へ持って来て打ち立てて、詐欺的行為までしたのであり、なお彼は支那から帰国する際に、白毫会の支部長(これも日本人)の娘で、雄之進の許嫁にあたる、お妻というのを誘惑して来て、娯楽場の酒場のスターにしたが、阿片常用者にまで堕落させてしまった。
しかしその当の大学も、許嫁のお妻を取り返すため日本へ帰って乞食にまでなり、大学を探していた雄之進のために、竹光で刺されて殺されてしまい、外国渡来の悪質娯楽場も、おりからの「ぶちこわし」の火事にかかり、まったく灰燼となってしまった。
27
自分の家の金蔵の中に、どうして源右衛門と源三郎とが、血だらけになっていたのだろう? 鮫島大学の姦策からであった。一味の悪漢東三をして、加賀屋の蔵番に住み込ませたのは、かなり以前からのことであり、大金を盗ませようとしたのである。
で昨夜手下の松本という男を、町役人に仕立て上げ源右衛門へこんなことを云わせたのである。
「源三郎殿には悪所通いをはじめ、おびただしいまでに金を使われる。恐らく御身代へも穴をあけたであろう。充分御注意なさるがよい」と。……
そこで源右衛門が驚いて、金蔵へ行って調べたが、そこを背後から東三が斬り付け、負傷失心して倒れたところへ、大学方から送って来た、──金八という男が運んで来て、木戸をこじ開けて舁ぎ入れた、これも失心した源三郎を押し込め、そうしてその手へ血刀を握らせ、それから大金を奪い取り、大学方へ渡したのである。
源右衛門の行方が知れないと知ったら、加賀屋では官へ届けるであろう。すぐに役人がやって来て、金蔵なども調べるであろう。そこでそういう光景を見ると、官ではきっと思うであろう。──源三郎が金に詰まり、従来も金を盗んでいたが、この夜も金を盗もうとして、金蔵の中へ入り込んだところを、父の源右衛門に発見され、そこで兇行を演じたのであろうと。
………しかし加賀屋で大事を取り、官へ届けるのを控えている中に、松吉のために発見され、その企ては失敗に終った。
そうして慧眼な松吉によって、かえって東三が疑われ、厳重に尋問された結果、一切のことが暴露された。
幸い源右衛門の負傷は軽く、間もなく恢復したそうであり、平野屋から委託された貴重な品を宇津木矩之丞から受け取ることも出来た。
貴重の品物とは何物だろう? 平野屋から加賀屋の手を通し、加賀宰相家へ売り込むべき品で、小さな物ではあったけれど、非常に値打ちのある物であり、金に換えたら萬金にもなろうか。
そこで中斎が奪い取り、救民の資にあてようとしたのを、宇津木矩之丞が賊名を恐れ、変名をして浪人者となり、平野屋の寮の門前で、鮫島大学と斬り合って、その武勇を現わして、平野屋の老主人に認められ、その貴重品を托せられたのである。
一方鮫島大学は、そういう悪党であったため、貴重品のことを耳にするや、奪い取ろうと大阪へ下り、平野屋の寮を窺っている中、宇津木矩之丞と出会ったまでである。
大学は江戸へ帰ったが、矩之丞が大阪から上陸した晩に、手下の者へ云いふくめ、加賀屋からの迎えだと偽わって、旅籠屋の柏屋へ送り込み、手下の一人を同宿させて、機を見て貴重品を盗ませようとしたのを、矩之丞が早くも感付いて、あべこべに手下に当身をくれ、衣裳を奪って自分が着て、旅籠屋の柏屋を抜け出したのである。
裸体に剥いた大学の手下を、開けずの間の中へ放り込んだのには、次のような事情があったのである。
何となく宇津木矩之丞には、開けずの間の建物が気になったので、そこで深夜に行ってみると、その後から例の大学の手下が、コッソリ尾行て来たのである。
そこで、気絶させて裸体に剥き、開けずの間の中へ抛り込んだまでで、その時開けずの間が邪宗の道場で、十字架、祭壇というような、いろいろの物のあるのを知り、一驚したということである。
宇津木矩之丞のその後については、いろいろの説が行なわれている。
大塩中斎に諌言をし、一揆(天満から兵を挙げ、大阪の大半を焼き打ちにかけ、悪富豪や城代を征め、飢民を救済しようとしたので、世人、天満焼と称したが)──その一揆の勃発を、中止させようと努めたところ、中斎がそれを諾かなかったので、矩之丞は断念し、大塩中斎の党から脱し、身を完うしたとそういうのが、一番真相に近いらしい。
乳母のお繁は悪人ではなかった。ただお久美の信者であって、時々品子の口を通し、源右衛門をして献金させようとしたが、源右衛門は承知をしなかったそうで、それを苦にした娘の品子が発作的に一時気を狂わせ、ああいうことを云ったまでで、そうして品子が父や兄について、近所にいると看破したのは、神経病者にありがちの、直感の結果だということである。
底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
1993(平成5)年7月20日初版
初出:「文芸倶楽部」
1927(昭和2)年6月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「仰有る」と「有仰る」、「中務大輔」のルビにおける「なかつかさたいふ」と「なかつかさだいふ」の混在は、底本通りです。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。