弓道中祖伝
国枝史郎



「宿をお求めではござらぬかな、もし宿をお求めなら、よい宿をお世話せわいたしましょう」

 こう云って声をかけたのは、六十歳ぐらいの老人で、眼の鋭い唇の薄い、頬のこけた顔を持っていた。それでいて不思議に品位があった。

「さよう宿を求めて居ります。よい宿がござらばお世話下され」

 こう云って足を止めたのは、三十二三の若い武士で、旅装いに身をかためていた。くくり袴、武者草鞋わらじ、右の肩から左の脇へ、包をななめ背負しょっていた。手には鉄扇をたずさえている。深く編笠をかむっているので、その容貌はわからなかったが、体に品もあれば威もあった。武術か兵法かそういうものを、諸国を巡って達人にき、極めようとしている遊歴武士、──といったような姿であった。

「よろしいそれではお世話しましょう。ここは京の室町むろまちで、これを南へって行けば、今出いまで川の通りへ出る。そこを今度は東へ参る。すると北小路こうじの通りへ出る。それを出はずれると管領かんりょうヶ原で、その原の一所に館がござる。その館へ参ってお泊りなされ。和田の翁よりうけたまわったと、このように申せば喜んで泊めよう。さあさあおいで、行ってお泊り」

 云いすてると老人は腰を延ばし、突いていた寒竹かんちくの鞭のような杖を、振るようにして歩み去った。

 若い武士は唖然としたようであった。

 時は文明ぶんめい五年であり、応仁の大乱が始まって以来、七年を経た時であり、京都の町々は兵火にかかり、その大半は烏有うゆうに帰し、残った家々も大破し、没落し、旅舎というようなものもなく、有ってもみすぼらしいものであった。若武士が京の町へ足を入れたのは、たった今しがたのことであり、時刻はすでに夕暮であり、事実さっきからよい宿はないかと、それとなく探していたところであった。で、老人に呼び止められ、今のように宿を世話されたことは、有難いことには相違なかったが、それにしても老人の世話のしかたが、あまりにも唐突であったので、そこで唖然としたのであった。唖然としたが、それがために、老人の好意を無にしたり、老人の言葉を疑うような、そんな卑屈な量見を、その若武士は持っていないと見えて、云われたままの道を辿り、云われたままの館の前に立った。

 さてここは館の前である。

 もうこの時は初夜であって、遅い月はまだ出ていなかった。

 で、細かい館の様子は、ほとんど見ることが出来なかったが、桧皮葺ひはだぶきの門は傾き、門内に植えられた樹木の枝葉が、森のように繁っていた。取り廻された築地ついじも崩れ、犬など自由に出入り出来そうであった。旅宿といったような造りではなかった。

(これは変だな)と思ったものの、そのことがかえって若い武士の、好奇の心をそそったらしく、立ち去らせる代わりに門を叩かせた。

 と、叩いた手に連れて、門が自ずと少し開いた。

(不用心のことだ)と思いながら、若武士は門内へ入って行った。鬱々と繁っている庭木の奥に、いかめしい書院造りの館が立っていた。桁行けたゆき二十間、梁間はりま十五間、切妻造り、柿葺こけらぶきの、格に嵌まった堂々たる館で、まさしく貴族の住居であるべく、誰の眼にも見て取れた。しかし凄じいまでに荒れていて、階段まで雑草が延びていた。

 森閑しんとして人気もない。勿論燈火ともしびも洩れて来ない。何となく鬼気さえ催すのであった。しかし応仁の大乱は、京都の市街を戦場とした、市街戦であったので、この種の荒れ果てた館などは、どこへ行っても数多くあり、珍しいものではなかったので、若武士は躊躇しなかった。

「ご免下され、お取次頼む」

 こう高声でよばわった。が、返辞は来なかった。そこで若武士はさらに呼んだ。三度四度呼んで見た。が、依然として返辞はなかった。

「やれやれ」と若武士はつぶやいた。

「これはどうやら無住の館らしい。とするとどうしてあの老人は、こんな所を世話したのであろう?」

 これからどうしようかと考えた。足も疲労つかれていたし気も疲労ていた。で、無住の館なら、誰にも遠慮することもない。ともかくもしばらく休息して行こう。こう考えて玄関を上った。二ノ間一ノ間を打ち通り、奥の間へ来て佇んだ。燈火のない屋内は、ひたすらに暗く何も見えなかった。

 そこで若武士は膝を揃えて坐った。疲労た足を癒すには、端坐するのがよいからであった。


 こうしてしばらく時が経った。と、その時裏庭の方から、清らかな若い女の声で、今様めいた歌をうたう、歌の声が聞こえてきた。

(はてな?)と若武士は耳を澄ました。

〽荒れし都の古館、見れば昔ぞ忍ばるる、よもぎが原に露しげく、啼くはうずらか憐れなり

 それはこういう歌であった。若武士は当然意外に感じた。

(このような荒れ果てた館の庭で、歌をうたう女があろうとは? さては無住ではなかったのか?)

 で若武士は立ち上り、部屋を出て縁へ立った。星明りの下に見えたのは、荒れた館にふさわしく、これも荒れ果てた裏庭で、雑草は延びてじょうにも達し、庭木は形もしどろに繁って、自然の姿を呈して居り、昔は数奇をきわめたらしい、築山、泉水、石橋、亭、そういうものは布置においてこそ、造庭術の蘊奥うんおうを谷めて、在る所に厳として存在していたが、しかしいずれも壊れ損じ、いたましいざまを見せていた。

 と、白衣びゃくえの丈の高い女が、水のない泉水の岸のほとりを、築山の方へ歩いていた。

(あれだな)と若武士は突嗟に思い、少しはしたなくは思ったが、そこに穿物はきものがなかったので、跣足はだしのままで庭へ下り、驚かせたら逃げるかもしれない、こう何となく思われたので、物の陰から物の陰を伝い、女の方へ近寄って行った。しかし泉水の岸のほとりまで、その若武士が行った時には、女の姿は見えなかった。

築山つきやまの向こうへでも行ったのであろうか)と思って若武士は先へ進んだ。

 と、突然老人の声が、築山の方から聞こえてきた。

「参るぞーッ」という声であった。

 途端に烈しい弦音つるおとがした。

「うん!」

 気合だ! 気合をかけて、若武士は持っていた鉄扇で、空をパッと一揮した。足下あしもとに落ちたものがある。平題いたつきであった。

「お見事!」と女の声が聞こえた。築山の方から聞こえたのである。

 と、又老人の声がした。

「もう一條ひとすじ参る、受けて見られい」

 ふたたび烈しい弦音がした。

「うん」と全く同じ気合だ。気合をかけて若武士は、またも鉄扇を一揮した。連れて箭が足下へ叩き落とされた。

「お見事」と又も女の声がし、すぐに続いて問いかけた。

弓箭きゅうぜんの根元ご存知でござるか?」

「弓箭の根元は神代にござる」

 言下に若武士はそう答えた。

の国に赴きたまわんとして素盞嗚尊すさのおのみこと、まず天照大神あまてらすおおみかみに、お別れ告げんと高天原たかまがはらに参る。大神、尊を疑わせられ、千入ちいりうつぼを負い、五百入いおいりの靱を附け、また臂に伊都之竹鞆いつのたかともを取りき、弓の腹を握り、振り立て振り立て立ち出で給うと、古事記に謹記まかりある。これ弓箭の根元でござる」

「さらに問い申す重籐しげとうの弓は?」

「誓って将帥の用うべき品」

「うむ、しからば塗籠籐ぬりごめどうは?」

「すなわち士卒の使う物」

蒔絵まきえ弓は?」

儀仗ぎじょうに用い」

「白木糸裏は?」

「軍陣に使用す」

天晴あっぱれ!」と女の清らかな声が、築山の方からまた聞こえてきた。

「お若いに似合わず技巧わざばかりでなく、学にも通じて居られますご様子、姓名をお聞かせ下されよ」

「伊賀の国の住人日置正次へきまさつぐ、弓道の奥義極めようものと、諸国遍歴いたし居るもの。……ご息女のお名前お聞かせ下され」

 すると代わって老人の声が、遮るように聞こえてきた。

「あいや、ご無用、まだ早うござる。……なるほど防身うけみは確かでござる。が果たして射術の方は? ……両様のたい定った暁、何も彼もお明しなさるがよろしい」

 ここでにわかに手を拍つ音が、田楽の節を帯びて聞こえてきた。

天王寺てんおうじ妖霊星ようれいぼし 天王寺の妖霊星!」

「見たか見たか妖霊星!」

 女がそれに合わせて歌った。これも同じく手を拍っている。

千早ちはやは落ちたか、あら悲しや」

「悲しや落ちた、情なや」

「天王寺の妖霊星!」

「妖霊星、妖霊星!」

 足拍子の音が聞こえてきた。

 しかし次第に遠退いた。踊りながら築山の奥の方へ、二人揃って行ったようであった。


 書院へ帰って来た日置正次は、あッとばかりに驚かされた。蒔絵の燭台に燈火がともり、食机おしきの上に盆鉢わんばちが並び、そこに馳走の数々が盛られ、首長の瓶子へいしには酒が充たされ、大さかづきが添えられてあり、それらの前に刺繍を施したしとねが、重々あつあつと敷かれてあったからである。

「ほう」と正次は声を洩らした。

「これは一体どうしたことだ?」

 しかし直ぐに感づいた。

(さっきの女性にょしょうと老人とが、この館に住む人々で、その人々がこの身に対し、心尽くしをしたのであろう)

かたじけのうござる、頂戴つかまつる」

 どこにも人影は見えなかったが、いずれどこかでこっちの進退を、仔細に観察しているだろうと、こんなように考えられたところから、こうつつましく礼を云い、それから瓶子を取り上げて、酒を注ぎ盞を取った。で、悠々と酒を飲み、数々の料理に箸をつけた。その間も館内は寂然としていて、全く人の気勢けはいはなく、人家に離れているところから、他に物音も聞こえなかった。充分に腹を養ったため、とみに正次は精気づき、心ものびのびとひろがって来た。で、のんびりと部屋を見廻した。

「ほう」とまたも正次は、思わず声を洩らしてしまった。

 見れば背後うしろの床ノ間に、倍実のぶさね筆の山水の軸が、大きくいっぱいに掛けられてあり、脇床の棚の上にはちつに入れられた、数巻の書が置かれてあり、万事正式の布置であって、驚くことはなかったが、ただ一つだけ床ノ間に、陰陽二張の大弓と、二十四條のを納めたところの、調度掛が置いてあったことが、正次の眼を驚かせた。しかも定紋は菊水きくすいであった。

「ム──」と何がなしに正次は唸って、調度掛の前へいざり寄った。


 その同じ夜のことであった。異装の武士の大衆が、京の町を小走っていた。人数は三十五人もあったが、いずれも一様に裸体であり、髪は散らして太い縄で、結び目を額に鉢巻し、同じく荒縄を腰に纏い、それへ赤鞏あかざやの刀を差し、脚には黒の脛巾はばきを穿き、しかも足は跣足はだしであった。が、その中のはすねへばかり、脛当をあてた者があり、又腕へばかり鉄と鎖の、籠手こてを嵌めたものがあり、そうかと思うと腰へばかり、草摺くさずりを纏った者があった。手に手に持っている獲物といえば、まさかり、斧、長柄ながえ、弓、熊手、槍、棒などであった。先へ立った数人が松明たいまつを持ち、中央にいる二人の小男が、蛇味線じゃみせんばちで弾いていた。

 頭領と見える四十五六の男は、さすがに黒革の鎧を着、鹿角かづのを打ったかぶとを冠り、槍を小脇にかい込んでいた。

 この一党は何物なのであろう? いわば野武士と浪人者と、南朝の遺臣の団体あつまりなのであった。応仁の大乱はじまって以来、近畿地方は云う迄もなく、諸国の大名小名の間に、栄枯盛衰が行なわれ、国を失った者、城を奪われた者が、枚挙に暇ないほど輩出した。その結果禄に離れた者がおびただしいまでに現われた。すなわち野武士浪人が、日本の国中に充ちたのである。それ以前から足利幕府に、伝統的に反抗し、機会さえあったら足利幕府に、一泡吹かせようと潜行的に、策動している南朝方の、多くの武士が諸方にあった。すなわち新田にったの残党や、又、北畠きたばたけの残党や、楠氏なんしの残党その者達である。で、そういう武士達は、時勢がだんだん逼塞し、生活苦が蔓延するに従い、個人で単独に行動していたのでは、強請ごうせい押借おしがりというようなことが、思うように効果があがらなくなったのと、いうところの下剋上げこくじょう──下級したの者すなわち貧民達が、上流うえの者を凌ぎ侵しても、昔のようには非難されず、かえって正当と見られるような、そういう時勢となったので、そこで多数が団結し、何々党、何々組などと、そういう党名や組名をつけて、搢紳しんしんの館や富豪の屋敷へ、押借りや強請に出かけて行くことを、生活の方便とするようになった。

 ここへ行く一団もそれであって、「あばら組」という組であり、頭目は自分で南朝の遺臣、しかも楠氏の一族の、恩地左近おんじさこんの後統である、恩地雉四郎であると称していたが、その点ばかりは疑わしかったが、剽悍の武士であることは、何らの疑いもないのであった。

 この一団が傍若無人に、それほど夜も更けていないのに、京都の町をざわめきながら、小走りに走って行くのであった。


 調度掛にかけてある弓箭きゅうぜんを眺め、しばらく小首を傾けている、日置正次へきまさつぐの耳へ大勢の人声が、裏庭の方から聞こえてきたのは、それから間もなくのことであった。

(はてな?)と正次は耳を澄ました。大勢の人間が裏門を押し開け、庭内へ入って来たようであった。

 不意に呼びかける声が聞こえてきた。

「お約束の日限と刻限とがただ今到来いたしてござる。恩地雉四郎お迎えに参った。いざ姫君お越し下され。お厭とあらば判官殿手写の『養由基ようゆうき』をお譲り下されよ!」

 濁みた兇暴の声であった。

 すると書院の次の間から、──すなわち一ノ間から老人の声が、嘲笑うようにそれに答えた。

「雉四郎殿か、お迎えご苦労! が、姫君には申して居られる、迎えにも応ぜず『養由基』もやらぬと。……雉四郎殿お立帰りなされ」

「黙れ!」と、雉四郎の怒声が聞こえた。

「それでは約束に背くというものだ」

「元々貴殿より姫君に対して、強請された難題でござる。背いたとて何の不義になろう」

「よろしい背け、がしかしだ、一旦思い込んだこの雉四郎、姫も奪うぞ『養由基』も取る! それだけの覚悟、ついて居ろうな!」

 すると老人の声が書院の方へ──正次の方へ呼びかけた。

「あいや客人、日置正次殿、我等必死のお願いでござる、貴殿の弓勢ゆんぜいお示し下され! 寄せて参ったは、不頼のともがら、あばら組と申す奴原やつばら、討ち取って仔細無き奴原でござる!」

「応」と云うと日置正次は、調度掛にかけてある陽の弓、七尺五寸、叢重籐むらしげどう、その真中まんなかをムズと握り、白磨箆鳴鏑しろみがきべらなりかぶらを掴むと、襖をあけて縁へ出た。

「寄せて来られた方々に申す。拙者は旅の武士でござって、今宵この館に宿を求めた者、従って貴殿方に恩怨はござらぬ。又この館の人々とも、たいして恩もよしみもござらぬ。がしかしながら見受けましたところ、貴殿方は大勢、しかのみならず、武器をたずさえて乱入された様子、しかるに館には婦人と老人、たった二人しかまかりあらぬ。しかも二人に頼まれてござる。味方するよう頼まれてござる。拙者も武士頼まれた以上、不甲斐なく後へは引けませぬ。……そこで箭一本参らせる。引かれればよし引かれぬとなら、次々に箭を参らせる」

 云い終わると箭筈やはずを弦に宛て、グーッとばかり引き絞った。狙いは衆人の先頭に立ち、槍を突き立て足を踏みひらき、鹿角打った冑をいただいている、その一党の頭目らしい──すなわち恩地雉四郎の、その冑の前立であった。弦ヲクニ二法アリ、無名指ト中指ニテ大指ヲ圧シ、指頭ヲ弦ノ直堅チヨクケンに当ツ! コレヲ中国ノ射法トフ! 正次の射法はこれであった。満を持してしばらくもたせたが「えい!」という矢声! さながら裂帛! 同時に鷲鳥の嘯くような、鏑の鳴音響き渡ったが、源三位頼政げんざんみよりまさぬえを射つや、鳴笛めいてき紫宸殿ししんでんに充つとある、それにも劣らぬ凄まじい鳴音が、数町に響いて空を切った箭! 見よおりから空にかかった、遅い月に照らされて、見えていた恩地雉四郎の、鹿角の前立を中程から射切り、しかも箭勢せんぜい弱らずに、遥かあなたに巡らされている、築土の塀に突き刺さった。

 ド、ド、ド、ド──ッという足音がして、この弓勢ゆんぜいに胆を冷やした、あばら組三十五人は、一度に後へ退いた。が、さすがに雉四郎ばかりは、一党の頭目であったので、逃げもせず立ったまま大音を上げた。

「やあ汝出過者め、無縁とあらば事を好まず、穏しく控えて居ればよいに、このあばら組に楯衝いて、箭を射かけるとは命知らずめ、問答無益、出た杭は打ち、遮る雑草は刈取らねばならぬ! さあ方々おかえりなされ! 弓勢は確かに凄じくはござるが、狙いは未熟で恐るるところはござらぬ。冑の前立をかつかつ射落とし、眉間を外した技倆うでで知れる!」

 すると正次は嘲るように云った。

「雉四郎とやら愚千万、昔保元ほうげんの合戦において、鎮西ちんぜい八郎為朝ためとも公、兄なる義朝よしともに弓は引いたが、兄なるが故に急所を避け、冑の星を射削りたる故事を、さてはご存知無いと見える。拙者先刻も申した通り、我と貴殿と恩怨ござらぬ、それゆえ故意わざと眉間を外し、前立の鹿角を射落としたのでござるぞ。それとも察せずに只今の過言、狙いは未熟とは片腹痛し、おお可々よしよしご所望ならば、二ノ箭にてお命いただこう。……参るゾーッ」と背後うしろを振り返り、床の間にある調度掛の箭を、抜き取ろうとして手を延ばした。


 途端に箭が一條眼の前へ出された。

「いざ、これで、遊ばしませ」

「うむ」と思わず声を上げ、その箭を取ったが眼を据えて見た。その正次の眼の前に、──だから正次の背後横に、髪は垂髪、衣裳は緋綸子、白に菊水の模様を染めた、裲襠うちかけを羽織った二十一二の、ろうたけた美女が端坐していた。

貴女きじょは?」と正次は驚きながら訊ねた。訊ねながらも油断無く、ゆみ矢筈やはずをパッチリと嵌め、脇構えにおもむろつるを引いた。

「この家の主人あるじにござります。……」

「では先刻の……今様いまようの歌主?」

 云い云い八分通り弦を引き、

「ご姓名は? ……ご身分は?」

「楠氏の直統、光虎みつとらの妹、しのと申すがわらわにござります」

「おお楠氏の? ……さては名家……その由緒ある篠姫様が……」

 ヒューッとその時数條の箭が、敵方よりこなたへ射かけられた。と、瞬間に正次の眼前、数尺の空で月光を刎ねて、宙に渦巻き光る物があった。

「おッ」──キリキリと弦を引き、さながら満月の形にしたが「おッ」とばかりに声を洩らし、正次は光り物の主を見た。一人の老人が小薙刀を、宙に渦巻かせて箭を払い落とし、今や八双に構えていた。

「や、貴殿は? ……」

「昼の程は失礼」

「うーむ、和田の翁でござるか」

「すなわち楠氏の一族にあたる和田新発意しんぼちの正しい後胤、和田兵庫ひょうごと申す者。……」

「しかも先刻築山の方より、拙者を目掛けて箭を射かけたる……」

「それとて貴殿の力倆如何いかにと、失礼ながら試みました次第……」

「…………」

 矢声は掛けなかった! それだけに懸命! 切って放した正次の箭! 悲鳴! あたった! 足を空に、もんどり討って倒れたのは、雉四郎の前に立ちふさがった、敵ながらも健気けなげの武士であった。

 ワーッとどよめき崩れ引く敵! しかも遥かに逃げのびながら、またもハラハラと箭を射かけた。と薙刀を渦巻かせ、和田兵庫は正次の前方、書院の縁の端に坐り、片膝をムックリと立てていた。

「いざ、三ノ箭! 遊ばしませ」

 姫が差し出した三本目の箭を、素早く受けると日置正次、矢筈に弦を又もつがえ、グーッと引いて満を持した。

「その楠氏の姫君が、何故このような古館に?」

洞院左衛門督信隆とういんさえもんのすけのぶたか卿、妾の境遇をお憐れみ下され、長年の間この館に、かくまいお育て下されました。しかるに大乱はじまりまして、都は大半烏有に帰し、公卿方堂上人どうじょうびと上達部かんだちめ、いずれその日の生活たつきにも困り、縁をたよって九州方面の、大名豪族の領地へ参り、生活くらしするようになりまして、わが洞院信隆卿にも、過ぐる年周防すおうの大内家へ、下向されましてござります。その際妾にも参るようにと、ねんごろにおすすめ下されましたが……」

「…………」

 矢声は掛けなかった、充分に狙い、切って放した正次の箭! あたって悲鳴、又も宙に、もんどり打って仆れた敵! ワーッとどよめいて敵は引いたが、懲りずまた箭をハラハラと射かけた。

 渦巻かせた兵庫の薙刀のために、箭は数條縁へ落ちた。

「四本目の箭、いざ遊ばせ!」

「うむ」と受け取り、そのままつがえ

「何故ご下向なされませなんだ」

「先祖正成まさしげより伝わりました、弓道の奥義書『養由基ようゆうき』九州あたりへ参りましたら、伝える者はよもあるまい、都にて名ある武士に伝え、伝え終らば九州へと……」

「養由基? ふうむ、名のみ聞いて、いまだ見たこともござらぬ兵書! ははあそれをお持ちでござるか」

 云い云い正次は、キリ、キリ、キリ、と弦をおもむろに引きしぼった。

「養由基一巻拙者の手に入らば、日頃念願の本朝弓道の、中興の事業も完成いたそうに。欲しゅうござるな! 欲しゅうござるな。……さてこの度は何奴を!」

 満月に引いてグッと睨んだ。


 自分の部下を目前において、二人まで射倒された雉四郎は、怒りで思慮を失ってしまった。箭に対して刀を構えようとはせず、持っていた槍を引きそばめ、衆の先頭へ走り出た。

「やあおのれよくもよくも、我等の味方を箭先にかけ、二人までも射て取ったな。もはや許さぬ、槍を喰らって、この世をおさらば、往生遂げろ!」

 叫びながら驀進まっしぐらに、正次目掛けて走りかかった。

(いよいよ此奴こやつを!)と日置正次、引きしぼり保った十三束三伏ぞくみつぶせ柳葉やなぎはの箭先に胸板を狙い、やや間近過ぎると思いながらも、ひょうふっとばかり切って放した。

 狙いあやまたず胸板を射抜き、本矧もとはぎまでも貫いた。

 末期の悲鳴、凄く残し、槍を落とすとドッと背後へ、雉四郎は仆れて死んだ。頭目を討たれたあばら組の余衆、競ってかかる勇気はなく、雉四郎の死骸さえ打ち捨て、ドーッと裏門からなだれ出た。


 半刻はんときあまりも経った頃、正次と篠姫と和田兵庫とが、書院でつつましく話していた。正次の前には三宝に載せた「養由基」の一巻があった。姫から正次へ譲られたものである。「養由基」を譲るに足るような武士を、この館へ幾人となく誘い、弓道をこれまで試みたが、今日までふさわしい人物に逢わず、失望を重ねていたところ、今日になって貴殿とお逢いすることが出来た。「養由基」をお譲りする人物に、うってつけに似つかわしい立派な貴殿に。──こういう意味の事を和田兵庫は云った。

「恩地雉四郎と申す男、決してわらわの一族では是無これなく、赤松家の不頼の浪人であり、以前から妾に想いを懸け、『養由基』ともども奪い取ろうと、無礼にも心掛けて居りました悪漢、それをお討ち取り下されましたこと、有難きしあわせにござります。今日まで彼の要望のぞみを延ばし、切刃詰まった今日になって、貴郎あなた様に討っていただきましたことも、ご縁があったからでござりましょう」

 こういう意味のことを篠姫も云って、助けられたことを喜んだ。

「今後のご起居いかがなされます?」

 こう正次は心配そうに訊いた。

「実は明日大内家より、迎いの人数参りますことに、とり定めある儀にござります。その人数に連れられまして、九州へ妾下向いたします。雉四郎の難題を今日まで、引き延ばして居りましたのもそれがためで、さらに今日一日を引き延ばし、明日になった時難を避け、立ち去る所存でござりました」

 こう篠姫は微笑しながら云った。

「きわどい所でござりましたな、私も日中和田兵庫殿に、お目にかかる事出来ませなんだならば『養由基』のお譲りを受けるという、またとあるくもない幸運に、外れるところでござりました」

「ご縁があったからでござります」

 とりが啼いて明星が消え、朝がすがすがしく訪れて来た時、しく着飾った武士達が多勢、立派な輿を二挺舁ぎ、この館を訪れた。大内家からの迎えであった。

「おさらば」「ご無事で」と別離の挨拶!

 挨拶を交わせて名残惜しそうに篠姫とそうして和田兵庫とは、日置正次と立ち別れた。楠氏の正統篠姫は、翠華漾々平和の国、周防大内家へ行ったのである。


 准南子えなんじニ曰ク「養由基ヨウユウキ楊葉ヨウヨウヲ射ル、百発百中、恭王キョウオウ猟シテ白猿ヲ見ル、樹ヲメグッテヲ避ク、王、由基ニ命ジ之ヲ射シム、由基始メ弓ヲ調ベ矢ヲム、猿スナワチ樹ヲ抱イテサケブ」

 それ程までに秀でた漢土弓道の大家、その養由基の射法の極意を、完全に記した『養由基』一巻、手写した人は大楠公であった。その養由基を譲り受けて以来、日置弾正正次へきだんじょうまさつぐは、故郷に帰って研鑽百練、日置流の一派を編み出した。これを本朝弓道の中祖、斯界の人々仰がぬ者なく、日置流より出て吉田よしだ流あり、竹林ちくりん派、雪荷せっか派、出雲いづも派あり、下って左近右衛門さこんえもん派あり、大蔵おおくら派、印西いんざい派、ことごとく日置流より出て居るという。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷

   1993(平成5)年720日初版発行

初出:「キング」

   1932(昭和7)年6

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:阿和泉拓

校正:湯地光弘

2005年516日作成

青空文庫作成ファイル:

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