二都物語
上巻
チャールズ・ディッケンズ
佐々木直次郎訳




「二都物語」はチャールズ・ディッケンズ(一八一二─一八七〇)の一八五九年の作である。すなわちこの巨匠が数え年四十八歳の時の作である。作者は一八三六年に諧謔小説「ピックウィク倶楽部」によって一躍ウォールター・スコット以後のイギリス随一の流行作家となり、以来「オリヴァー・トゥウィスト」、「ニコラス・ニックルビー」、「骨董店」、「バーナビー・ラッジ」、「マーティン・チャッズルウィット」、「ドムビー父子」、「デーヴィッド・コッパフィールド」、「物淋しい家」、「小さなドリット」等の諸大作その他の作品を発表して、既に、当時全ヨーロッパにおける最も高名な小説家の一人であり、その名声のみならず文学的手腕においても彼の高潮に達していたのであった。「二都物語」の作者自身の緒言に記されているように、彼がこの作の主要な観念を思い付いたのは彼の年少の友人ウィルキー・コリンズの劇を演じていた時であって、それは一八五七年の夏のことであった。しかし、その思付きはただごく漠然たるものであり、当時は家庭的不和のためにはなはだしく心を苦しめられていて、ただちにそれの具体化に著手することが出来なかったが、やがて、フランス革命を背景としてその観念を中心に一の物語を創作することとし、慎重綿密にその考案、準備、構想を進めたらしい。翌五八年の一月末には、彼の親友であり後に彼の伝記作者となったジョン・フォースターに宛てた書簡の中で、「いつかは」というその物語の標題を報じており、更に同年三月には「生埋いきうめ」、「黄金こがねの糸」、「ボーヴェーの医師」という標題を挙げている。また、書かれた正確な年月は不明であるが、一八五五年から書き始めた彼の覚書帳メモランダムの中には、この作について、「二つの時期──フランスの劇のように間に時の推移のある──にわたる物語については如何? そういう思付きのための標題。時! 森の木の葉。散らばった木の葉。偉大な車輪。𢌞り𢌞って。古い木の葉。ずっと以前に。遠く離れて。落葉。二十五年。何年も何年も。過ぎ去る歳月。毎日毎日。伐り倒された樹。記憶のカートン。やくざ者。二つの世代。」とあり、他に、この作の主要人物である獅子のやまいぬとしてのカートンと、同じく作中人物のクランチャー夫妻とについての萠芽的な思付きが記されている。しかし、五八年の五月にはディッケンズは妻のキャサリンと遂に合意の別居をすることとなり、また同年から彼の自作朗読会を始めたので、その年もその制作に没頭することが出来ず、翌五九年の三月に至ってようやく「二都物語」と現在の標題が決定され、「ハウスホールド・ワーヅ誌」に代って創刊された同じく彼自身の主宰する週刊雑誌「オール・ジ・イア・ラウンド誌」上に、その第一号すなわち四月三十日号から同年の十一月二十六日号までにわたって連載されたのである。かつ、同年六月から十二月までにわたってチャップマン・アンド・ホール社から作者の他の諸長篇と同様に月刊分冊で逐次出版され、ただちに巨万の読者に迎えられた。これは八分冊に分れ、各分冊に「ピックウィク倶楽部」の挿画以来フィズの名で知られたハブロット・ブラウンの挿画が二葉ずつ入り、第六分冊までは定価各一シリング、最後の第七第八分冊は合本二シリングであって、その最後の分冊に標題紙タイトルページや目次などと共に緒言が附せられた。制作の前及びその間に作者が異常な苦心を重ね努力を払い時日を費したことは彼の手記や書簡などによって窺い知られる。

 本篇の手法に関する意図について、作者は制作中の書簡にこう書いている。「私は、真実に迫った人物、しかし彼等が対話によって自分自身を現すよりも以上に物語そのものが現すべき人物がいて、各章ごとに興味の加わる、画のように叙述した一つの物語を作るこの小さな仕事に専心している。他の言葉で言えば、(中略)人物を出来事それ自身の臼の中で搗き砕き、その人物から彼等の興味を打ち出して、出来事の物語を書くことが出来ると思ったのである。」

 フランス革命に取材したことについては、作者が年来絶えず繰返して読み、決して厭きることのなかった、トマス・カーライルの名著「フランス革命史」に負うところが極めて多かった。この物語の文体、思想等についても、カーライルの影響を示しているところが見られる。なお、作者が制作の準備中に知人であるカーライルに自分の目的に役立ちそうな数冊の参考書の借用を請うたところ、カーライルはただちに荷車二台に満載したフランス革命に関する文献をディッケンズの邸宅に送り届けたという。

「二都物語」は「バーナビー・ラッジ」に次ぐディッケンズの第二の歴史小説であり、また彼の最後の歴史小説である。歴史小説と言っても、時代を過去に採り、背景を歴史的事件に求めただけであって、登場する人物はことごとく非歴史的人物であり、作者自身の純然たる創造になる人物のみである。本篇の主人公である、自己犠牲的な深い愛によって進んで断頭台の下に立つ弁護士シドニー・カートンは、疑いもなく近代小説の群像中でも最も魅力ある性格の一であるに違いない。その他、その正義感のために暴虐な貴族の手によってバスティーユ牢獄に投獄され、十八年間監禁されていた医師アレクサーンドル・マネット、その娘リューシー・マネット、フランスの貴族の地位と財産とを自ら抛棄してイギリスで自活するシャルル・エヴレモンド、その叔父サン・テヴレモンド侯爵、パリーの酒店の主人であり革命党員であるエルネスト・ドファルジュ、その妻テレーズ・ドファルジュ、銀行員ジャーヴィス・ロリー、弁護士ストライヴァー、走使いクランチャー、家政婦プロス等の諸人物は、いずれも、円熟した大作家にふさわしい手腕で鮮かに創造されている。そして、これらの人物が、フランス大革命の前及びその間の時代を背景とし、イギリス及びフランスの両国、主としてロンドンとパリーとの二都を舞台として演ずる劇的な物語は、実に津々たる興味にみちているのである。ある意味ではまさしく歴史小説であるよりも以上に伝奇小説ロマンスであるかもしれない。

 また、この作はディッケンズの全作中において特異な地位を占めるものである。「ピックウィク倶楽部」以下彼の諸長篇の大部分にあっては、殊に前半期の多くの作にあっては、プロットはあまり顧慮ないしは重視されず、誇張して言えば全篇が挿話の連続であり、豊かな興味は主として作中諸人物の滑稽感ヒューマー哀感ペーソスに集中しているのが普通であるに対して、本篇では、プロットは完全に首尾一貫し、全体の構成がはなはだ緊密であり、作中諸人物はことごとく物語の進展に関与し、物語は巧みな戯曲的展開をもって章を逐うて最後の不可避的な結末に至る。すなわち、その人物以上に事件の進展に読者の感興が惹かれる。他の諸大作よりも量において小であり、人物の数も比較的に少く、全体的に極めて圧縮されていることもまた、この作の顕著な一特質である。

 外面的にはディッケンズの最大の特徴である諧謔ヒューマーは、本篇にあっては題材の性質上著しく抑制されている。しかしそれは全然影を潜めているのではなく、この作の処々に現れて微妙な効果を収めていることは、細心な読者には容易に認め得るところである。

 その異常な題材、印象的な人物、劇的な事件、巧緻な手法、等、等によって、この物語はあらゆる読者を深く愉しませるのみならず、また、終りの方に表現されているその主要観念は、愛や人生そのものについて考えさせるものをも含んでいる。

 従来の批評家がディッケンズの他のいかなる作よりもこの作に対する評価について意見を異にし、ある評家は諧謔ヒューマーに乏しいこの物語をさほど高く評価せず、また他の評家はこれをこの作家の最も完璧な傑作と激賞し、作者自身もその完成の少し前に本篇を「自分のこれまでに書いた最上の物語」として期待したが、作家が最近の労作を自己の最上の作と考えやすい傾向などをも考慮に入れても、要するに、この「二都物語」が、ディッケンズの代表作とは遠いものであるにせよ、単に彼の力作たるに止まらず、少くとも「デーヴィッド・コッパフィールド」その他と共にこの民衆の作家、小説文学の巨匠の最高傑作の一であり、かつ世界の文学における傑れた一名作であることは、何等の疑いもあり得ない。

 物語は全三巻から成る。第一巻は、一七七五年の秋から冬へかけての数日間のことを取扱い、この物語全曲に対する短い静かな序曲に過ぎない。第二巻は、一七八〇年の三月からフランス革命勃発の三年後すなわち一七九二年の八月に至るまでの十二年間余にわたり、最も変化に富む展開部に当る。第三巻は、一七九二年秋から翌九三年暮までの一年数箇月間、革命の真最中のことであり、荒れ狂う終曲であると共に、全曲の最高潮クライマクスである。

 第三巻中の医師マネットの手記によって物語の発端は遠く一七五七年まで遡り、更に第三巻の結末にはシドニー・カートンのそれから数十年後の予想が記され、時代はフランス革命の前後数十年間にわたっているが、この作の姿なき主人公はフランス革命であるとも言い得る。この物語によって読者は絵画的に具象化されたかの革命とその時代とについて歴史書以外の知識と感銘とを得るであろう。その意味で、この小説は、人類の歴史が過去に有した最大の動乱の時代の一であるフランス革命の時代に興味と関心とを有する人々にも読まれるに価するものである。

 訳者の他のすべての飜訳におけると同様に、訳文中に傍点を附してある箇処は、原文においてだいたい強調の意味をもって斜体活字イタリックで印刷されている箇処であり、訳文中圏点を附してある語は、同じく原文に強調の意味をもって頭文字のみで記されている語である。ダッシュ、句読点、その他については、絶えず数種の底本を対照して適当と考えるところに拠る。

 星標を附した箇処の語句には巻末に註を附して、主として作品の細部または細部の語句をも正確に理解するに必要なことを記したが、各読者が単にその必要に応じて参照さるべきである。

 同じく巻末に附した解説は、もし読まれるならば、原作の後に読まれることを希望したい。


一九三六年八月
佐々木直次郎


緒言


 私が自分の子供たちや友人たちと共にウィルキー・コリンズ氏の劇の「凍れる海」を演じていた時に、私は初めてこの物語の主要な観念を思い付いたのである。その観念を自分自身で具体化してみたいという強い欲望が、その時私に起った。それで私は自分の空想のうちで特別の注意と感興とをもってそれを追究したが、空想裡ではそれは烱眼な観客に対しての上演を必要ならしめたのであった。

 その観念が私の心に親しくなって来るにつれて、それは次第次第にそれの現在の形体になって来た。その制作の間を通じて、それは私を完全に捉えていた。私は、これらの頁の中になされかつ感じられているところのことを、自分ですべて確かになしかつ感じたくらいにまで、それらを実感したのである

 かの大革命の前ないしはその間におけるフランスの人民の状態についてここに何等かの言及(いかにわずかなものであろうとも)がなされている時にはいつでも、それは、真に、最も信頼するに足る証拠に基いてなされているのである。カーライル氏の驚歎すべき書物の哲学に何かを附け加えるということは何人にも望むことが出来ないけれども、あの怖しい時代についての一般の絵画的な理解の手段に何ものかを附け加えたいというのは私の希望の一つであったのである。


ロンドン、タヴィストック館にて、 一八五九年十一月。

第一巻 よみがえ


第一章 時代


 それはすべての時世の中で最もよい時世でもあれば、すべての時世の中で最も悪い時世でもあった。叡智の時代でもあれば、痴愚の時代でもあった。信仰の時期でもあれば、懐疑の時期でもあった。光明の時節でもあれば、暗黒の時節でもあった。希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。人々の前にはあらゆるものがあるのでもあれば、人々の前には何一つないのでもあった。人々は皆真直に天国へ行きつつあるのでもあれば、人々は皆真直にその反対の道を行きつつあるのでもあった。──要するに、その時代は、当時の最も口やかましい権威者たちのある者が、善かれ悪しかれ最大級の比較法でのみ解さるべき時代であると主張したほど、現代と似ていたのであった。

 イギリスの玉座には、大きな顎をした国王と不器量な顔をした王妃とがいた。フランスの玉座には、大きな顎をした国王と美しい顔をした王妃とがいた。どちらの国でも、現世の利得を保持している国家の貴族たちには、天下の形勢が永久に安定しているということは水晶よりも明かなのであった。

 それはキリスト紀元一千七百七十五年のことであった。その恵まれた時代には、現代と同様に、さまざまの心霊的な啓示がイギリスに授けられた。サウスコット夫人は彼女の第二十五囘の祝福された誕生日を迎えたばかりであったが、近衛騎兵聯隊の予言者の一兵卒が、ロンドンとウェストミンスターとを呑み込む手筈が出来ていると言い触らして、彼女の荘厳な出現を先触れしていた。例の雄鶏小路コック・レーンの幽霊でさえ、あの昨年の精霊も(不可思議にも独創力に欠けていて)御託宣メッセジをやはりこつこつと叩いて知らせたように、自分の御託宣メッセジをこつこつと叩いて知らせた後に、鎮められてから、ちょうど十二年たったに過ぎなかった。それとは違って俗世界の出来事であるが、ただの音信メッセジが、つい先頃、アメリカにおける英国臣民の会議から、イギリスの国王ならびに人民宛にやって来た。不思議なことには、この音信メッセジの方が、これまで雄鶏小路コック・レーンのどのひよっこから受け取ったどんな通信よりも、人類にとってもっと重要なものであるということが、後にわかったのである

 心霊的な事柄では概して楯と三叉戟との姉妹国ほどに恵まれていなかったフランスは、紙幣を造ってはそれを使い果して、素晴しい勢で下り坂を転げ落ちていた。そのほか、キリスト教の牧師たちの指導の下に、フランスは、一人の青年がおおよそ五六十ヤードばかり離れた視界の内を通り過ぎる修道僧たちのきたならしい行列に敬意を表するために雨中にひざまずかなかったからといって、その青年の両手を切り取り、舌を釘抜くぎぬきで引き抜き、体を生きながら焼くように、宣告したりするような慈悲深い仕事をして楽しんでいた。その受難者が死刑に処せられた時に、フランスやノルウェーの森林には、歴史上にも怖しい、嚢と刃物との附いているある動かし得る枠細工を作るために、伐り倒されて板に挽かれるようにと、運命という樵夫きこりが既にしるしをつけておいた樹木が、生い繁っていたのであろう。また、その日には、死という農夫がかの大革命の時の自分の死刑囚護送馬車にするために既に取除けておいた粗末な荷車が、パリー近隣のねとねとした土地を耕している百姓たちのむさくるしい納屋の中に、田野の泥にまみれ、豚に嗅ぎ𢌞され、とりどもにとやにされて、雨露を防いでいたのであろう。しかし、その樵夫きこりとその農夫とは、絶えず働いてはいるけれども、黙々として働いているのである。それで、彼等が跫音あしおとを忍ばせながら歩き𢌞っているのを、誰一人として聞きつけはしなかった。彼等が目を覚しているのではなかろうかと疑いを抱くだけでも、無神論者で叛逆者になるというのであったから、それはなおさらのことであったのだ。

 イギリスでは、大層な国民的の自慢ももっともだというだけの秩序や保安は、すこぶる怪しいものだった。武器を携えた連中の大胆不敵な押込強盗や、大道強奪は、首都でさえ毎晩のように行われた。市内の家庭へは、家具を家具商の倉庫に移して安全にしてからでなければ市外へ出てはならぬと、公然とお達しがあった。夜の追剥おいはぎ昼間ひるま本市シティーで商売をしている男であった。そして、「首領キャプテン」の資格で止れと命じた自分の仲間の商人に正体を見破られてなじられると、勇ましくその男の頭を射貫いぬいて馬を飛ばして逃げ去った。駅逓馬車が七人の剽盗に待伏せされ、車掌がその中の三人を射殺したが、「弾薬が欠乏したために」自分も残りの四人に射殺された。その後で駅逓馬車の客は無事安穏に掠奪された。あの素晴らしい勢力家のロンドン市長も、ターナム・グリーンで一人だけの追剥に立ち止って所持品を渡せとやられたものだった。追剥はその著名な人物を彼の随行員一同の目の前で剥奪したのであった。ロンドンの監獄の囚人が獄吏と戦闘をし、弾丸を籠めた喇叭銃らっぱじゅうが尊厳なる法律によって囚人たちの中へ撃ち込まれたこともあった。盗賊どもが宮廷の引見式で貴族たちの頸から金剛石ダイヤモンドの十字架を切り偸んだこともあった。銃兵たちが密輸品を捜索するためにセント・ジャイルジズへ入って行くと、暴民が銃兵に発砲し、銃兵が暴民に発砲したこともあった。が、誰一人としてこれらの出来事のどれ一つをも大して変ったこととは考えなかったのである。こうした出来事の最中に、いつも多忙でいつも無益であるよりも有害な絞刑吏は、のべつに用があった。時には、ずらりと並んだいろいろな罪人を片っ端から絞殺したり、時には、火曜日に捕えられた強盗を土曜日に絞首にしたり、時には、ニューゲートで十二人ずつ手に烙印を押したり、また時には、ウェストミンスター会館ホールの入口のところで小冊子パンフレットを焼き棄てたりした。今日きょうは、兇悪な殺人者のいのちを取るかと思うと、明日あすは、百姓のせがれから六ペンスを奪ったけちな小盗のいのちを取ったりした。

 こういうすべての事柄や、これに類した数多あまたの事柄が、その親愛なる一千七百七十五年とそのすぐ前後に起っていたのであった。例の樵夫きこりと農夫とが誰にも気づかれずに働いていた間、そういう事柄に取巻かれながら、大きな顎をしたあの二人と、不器量な顔と美しい顔をしたあのもう二人とは、すこぶる堂々と歩み、彼等の神授の王権を傲然と携えて行った。こういう風にして、一千七百七十五年は、その王者たちや、無数の微賤な人々──この物語に出て来る人々をもその中に含めて──を導いて、彼等の前に横わる道を進ませたのである。


第二章 駅逓馬車


 十一月もおそくのある金曜日の夜、この物語と交渉のある人物の中の最初の人の前に横わっていたのは、ドーヴァー街道であった。そのドーヴァー街道は、その人の前にと同じく、シューターズヒルをがたがたと登ってゆくドーヴァー通いの駅逓馬車の先に横わっているのであった。その人は駅逓馬車の脇に沿うて泥濘の中を阪路を歩いて登っていたのであるが、他の乗客たちもやはりそうしていた。それは、何も彼等がこういう場合に少しでも歩行運動に趣味を持っていたからではなく、その丘も、馬具も、泥濘ぬかるみも、馬車も、みんなひどく厄介なものだったので、馬どもはそれまでにもう三度も立ち停ったし、おまけに一度などは、ブラックヒースへ馬車を曳き戻そうという反抗的な意思をもって、街道を横切って馬車を牽き曲げたからなのである。しかし、手綱と鞭と馭者と車掌とが、一緒になって、放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論もくろみを、禁止するところのあの軍律を、読み聞かせたのだ。それで、馬どもも降参して、彼等の任務をまたやり出したのだった。

 彼等は、頭をうなだれ尾を震わせながら、折々は、四肢の附根つけねのところで潰れはしないかと思われるくらいに、足掻あがいたりつまずいたりして、どろどろの泥の中を進んで行った。馭者が、油断なく「どうどう! はい、どうどう!」と言いながら、彼等を立ち止らせて休ませるたびに、左側の先導馬は、いかにも並外れて勢のある馬らしく──頭や頭に附いているすべてのものを激しく振り動かし、こんな丘へこんな馬車を曳き上げるなんてことが出来るものかと言っているようだった。その馬がそういう音を立てるたびごとに、例の旅客は、神経質な旅客ならするように、びくっとして、心がどきどきするのであった。

 谷間という谷間には濛々もうもうたる霧がたちこめていた。そして、悪霊のように、安息を求めて得られずに、寄るべなく丘の上へさまよい上っていた。じっとりした、ひどく冷い霧、それが、荒れた海の波のように、目に見えて一つ一つと続いて拡がっているさざなみをなして、空中をのろのろと進んで来る。馬車ランプの燃えているのと、その附近の道路の数ヤードとを除いては、何もかもランプの光から遮っているくらいに、濃い霧だった。そして、喘ぎながら曳っぱっている馬の立てる湯気がそれとまじり、その霧がみんな馬の吐き出したものかと思われるほどであった。

 例の旅客のほかに、もう二人の旅客が、その駅逓馬車の脇に沿うて丘をのそりのそりと登っていた。三人とも、耳の上も頬骨のところまでも身をくるんでいて、膝の上までの大長靴を穿いていた。この三人の中の誰一人も、自分の見たことからは、他の二人のどちらかがどういうたぐいの人物であるか言えなかったろう。また、銘々は、自分の二人の道連みちづれの肉眼に対してと同様に、彼等の心眼に対しても、ほとんど同じくらいたくさんのものを纒って自分を隠していた。その頃の旅人は、ちょっと知り合っただけで打解けることをひどく嫌っていたのである。というのは、道中で逢う人間は誰であろうと、それが追剥か、追剥とぐるになっている者であるかもしれなかったからである。その追剥とぐるになっているということなら、何しろ、宿駅という宿駅、居酒屋という居酒屋には、亭主から一番下っぱの怪しげな厩舎係までにわたって、「首領キャプテン」の手当を貰っている者が誰かしらいるという時代では、それはいかにもありそうなことなのだ。そんなことをドーヴァー通いの駅逓馬車の車掌が腹の中で思ったのは、一千七百七十五年の十一月のその金曜日の夜、シューターズヒルをがたがた登りながらのことで、その時、彼は馬車の後部にある自分だけの特別の台に立って、足をどんどんと踏み、自分の前にある武器箱に目と片手とを離さずにいた。その武器箱の中には、彎刀わんとうを一番下にして、その上に七八挺の装薬した馬上拳銃が置いてあり、それの上に一挺の装薬した喇叭銃が載せてあったのだ。

 このドーヴァー通いの駅逓馬車は、車掌が乗客をうたぐり、乗客たちは相互に疑り車掌を疑り、みんなが他の者を一人残らず疑り、馭者は馬よりほかのものは何も信用しないという、それのいつも通りの和気靄々わきあいあいたる有様であった。その馬については、それらがこの旅行には適していないということを、馭者は潔白な良心をもって両聖約書にかけて宣誓することでも出来た。

「どうどう!」と馭者が言った。「はい、どう! もう一度ぐっと曳っぱりゃ、てっぺんだぞ、いまいましい奴め。手前てめえたちをそこまで漕ぎつけさせるにゃあおれあずいぶん骨を折ったからな! ──ジョー!」

「おうい!」と車掌が答えた。

何時なんじだろうね、ジョー?」

「十一時たっぷり十分過ぎてるよ。」

「驚いたな!」といらいらした馭者は叫んだ。「それでいてまだシューターズのてっぺんへ著けねえんだぜ! ちえっ! やい! そら行け!」

 例の勢のある馬は、断乎としていうことをきかないでいたところへ鞭でぴしりとやられたので、今度は断然とき登り出した。すると他の三頭の馬もそれに倣った。もう一度ドーヴァー通いの駅逓馬車はがたごとと動き出し、乗客たちの大長靴もその脇に沿うてぴしゃりぴしゃりと進んで行った。馬車が止る時には彼等は止り、それとぴったりくっついていた。もし、その三人の中の誰でも一人が、他の者に、霧と闇との中へ少し先に歩いて行こうではないかと言い出すような、大胆なことをしようものなら、彼は自分を追剥としてたちどころに射殺されるようにするようなものであったろう。

 最後の疾駆で馬車は丘の頂上に達した。馬はまたいきをつぐために立ち止り、車掌は下りて来て、下り坂の用心に車輪に歯止はどめをかけ、乗客を入れるために馬車のドアけた。

「しっ! ジョー!」と馭者は、馭者台から見下しながら、警告するような声で叫んだ。

「何だい、トム?」

 彼等は二人とも耳をすました。

「馬が一匹緩駈ゆるがけでやって来るぜ、ジョー。」

いや、馬が一匹疾駈はやがけでだよ、トム。」と車掌は答えて、ドアを掴んでいる手を放し、自分の席へひらりと跳び乗った。「お客さん方! よろしいですか、皆さん!」

 大急ぎでこう頼むと、彼は喇叭銃に撃鉄をかけ、撃つ身構えをした。

 この物語に既に記載されている例の旅客は、馬車の踏台に乗って、入りかけていた。他の二人の旅客は、彼のすぐ後にいて、続いて入ろうとしていた。彼は、半身を馬車の中に、半身を馬車の外にしたまま、踏台に立ち止った。他の二人は道路の彼の下に立ち止った。彼等三人は馭者から車掌へ、車掌から馭者へと眼をやり、そして耳をすました。馭者は振り返って見、車掌も振り返って見、例の勢のある馬でさえ、逆らいもせずに、耳をそばたて振り返って見た。

 夜の静かな上に、馬車のがらがらごとごという音がんだための静けさが加わって、あたりは全くひっそりしてしまった。馬の喘ぐのが伝わって馬車がぶるぶる震動し、ちょうど馬車が胸騒ぎしてでもいるようだった。旅客たちの心臓はおそらく聞き取れそうなくらいに高く鼓動していたろう。とにかく、そのひっそりしている合間は、人々が息を殺し、固唾かたずを呑み、何事が起るかと思って動悸を速めている様子を、聞えるほどにあらわしたのであった。

 疾駈はやがけで来る馬の蹄の音が猛烈に丘を上って来た。

「おうい!」と車掌は呶鳴れるだけの大きな声で呼びかけた。「こらあ! 止れ! 撃つぞ!」

 馬の歩みはぴたりと止められた。そして、頻りに泥をはねかす音と足掻あがく音がすると共に、霧の中から一人の男の声が聞えて来た。「それあドーヴァー通いの馬車かい?」

「何だろうといらぬお世話だい!」と車掌が言い返した。「おめえこそ何者だ?」

「それあドーヴァー通いの馬車なのかい?」

「どうしてそんなことを知りてえんだ?」

「もしそうなら、わっしはお客さんに用があるんだよ。」

「何というお客さんだい?」

「ジャーヴィス・ロリーさんだ。」

 例の記載ずみの旅客はただちにそれが自分の名前であるということを告げ知らせた。車掌と、馭者と、他の二人の旅客とは、胡散うさんそうに彼をじろじろ見た。

「そこにじっとしていろよ。」と車掌が霧の中の声に呼びかけた。「もしおれが間違まちげえをやらかすとなると、そいつあおめえの生涯中取返しがつかねえんだからな。ロリーって名前のお方、じかに返事してやって下せえ。」

「どうしたのだね?」と、その時、例の旅客は穏かに震えた口振りで尋ねた。「わたしに用があるというのは誰だね? ジェリーかい?」

(「あれがジェリーってえんなら、そのジェリーてえ奴の声が、おれにゃ気にくわねえよ。」と車掌がひとりでぶつぶつ言った。「あいつはおれの気に入らねえほどのしゃがれ声をしていやがるよ、あのジェリーはな。」)

「そうですよ、ロリーさん。」

「どうしたのだい?」

「あっちの向うからあなたの後を追っかけて急ぎの書面を持って来ましたんで。T社で。」

「わたしはあの使いの者を知っていますよ、車掌。」とロリー氏は言って、道路へ下りたが、──彼が下りるのを背後から他の二人の旅客は丁寧にというよりは素速く手助けし、その二人はすぐに馬車の中へもぐり込んで、ドアめ、窓も引き上げてしまった。「あの男なら近くへよこしても大丈夫だ。何も間違いはないから。」

「なけりゃいいが、わしにゃあそいつがほんとに信じられねえ。」と車掌が無愛想なひとごとのように言った。「おういおい!」

「よしよし! おうい!」とジェリーは前よりももっとしゃがれ声で言った。

「並足で来るんだぞ。いいか? それからもしお前がその鞍にピストル袋をつけてるんなら、手をそいつの近くへやるのをおれに見せねえようにしろよ。何しろおれは間違まちげえをするなあ悪魔みてえにはええんだからな。そしておれが間違まちげえをやらかす時にゃ、きっと鉛弾丸だまでやるんだからな。さあ、もうやって来い。」

 一頭の馬と乗手との姿が、渦巻いている霧の中からのろのろと出て来て、例の旅客の立っている、駅逓馬車の脇のところまでやって来た。その乗手は身を屈め、それから、車掌をちらりと仰ぎ見ながら、一枚の小さく折りたたんだ紙片を旅客に手渡しした。乗手の馬は息を切らしていて、馬も乗手も両方とも、馬の蹄から男の帽子まで、泥まみれになっていた。

「車掌!」と旅客は、平静な事務的な信頼の語調で、言った。

 用心深い車掌は、右手を自分の持ち上げている喇叭銃の台尻に、左手をその銃身にかけ、眼を騎者に注ぎながら、ぶっきらぼうに答えた。「へえ。」

「何も懸念することはない。わたしはテルソン銀行のものだ。ロンドンのテルソン銀行はお前さんも知っているに違いない。わたしは用向でパリーへ行くところなのだ。酒代さかてに一クラウンあげるよ。これを読んでいいね?」

「速くして下さいますんならね、旦那。」

 彼は自分のいる側の馬車ランプの明りの中にそれをけて、そして読んだ、──最初は口の中で、次には声を立てて。「『ドーヴァーにてお嬢さんマムゼールを待て。』と。長くはないだろう、ねえ、車掌。ジェリー、こう言ってくれ。わたしの返事は、甦る、というのだった、とね。」

 ジェリーは鞍の上でぎょっとした。「そいつあまたとてつもなく奇妙な御返事ですねえ。」と彼は精一杯のしゃがれ声で言った。

「その伝言ことづてを持って帰りなさい。そうすれば、わたしがこれを受け取ったことが、手紙を書いたと同じくらいに、先方にわかるだろうからね。出来るだけ道を急いで行きなさい。じゃ、さようなら。」

 そう言いながら、旅客は馬車のドアけて入った。が、今度は相客たちは少しも彼の手助けをしなかった。彼等は自分の懐中時計や財布を長靴の中へ手速く隠し込んでしまって、その時はすっかり眠っている風をしていたのだ。それは、特にはっきりした目的があってのことではなく、ただ、何等かの他の種類の行動の原因を作るような危険を避けるためなのであった。

 馬車は再びがらがらと動き出し、下り坂へ来かかると、前よりももっと濃い環を巻いた霧が周りに迫って来た。車掌はまもなく喇叭銃を武器箱の中へ戻し、それから、その中にある他の武器をしらべ、自分の帯革につけている補充用の拳銃ピストルを検べると、自分の座席の下にある小さな箱を検べてみた。その中には二三の鍛冶道具と、火把たいまつが一対と、引火奴箱ほくちばこが一つ入っていた。それだけすっかり備えておいたのは、折々起ったことであるが、馬車ランプが嵐に吹き消された時には、車内に入ってめきり、火打石と火打がねとで打ち出した火花を藁からほどよく離しておけば、かなり安全にかつ容易に(うまくゆけば)五分間で明りをつけることが出来たからである。

「トム!」と馬車の屋根越しに低い声で。

「おうい、ジョー。」

「あの伝言ことづてを聞いたかい?」

「聞いたよ、ジョー。」

「おめえあれをどう思ったい、トム?」

「まるでわかんねえよ、ジョー。」

「じゃあ、そいつもおんなじこったなあ。」と車掌は考え込むように言った。「おれだってまるっきりわかんねえんだからな。」

 霧と闇との中にただ独り残されたジェリーは、その間に馬から下りて、疲れ果てた馬を楽にさせてやるばかりではなく、自分の顔にかかっている泥を拭ったり、半ガロンほどの水を含むことの出来そうな自分の帽子のつばから水気を振い落したりした。駅逓馬車の車輪の音がもう聞えなくなってしまい、夜がまたすっかり静まり返るまで、彼はひどく泥のはねかっている腕に手綱をかけたまま立っていたが、それからぐるりと身を𢌞して丘を歩いて下り出した。

「あんなにテムプル関門バーから駈け通しで来たんだからなあ、お婆さん、おめえ平地ひらちへつれてくまではおれはおめえの前脚を信用出来ねえよ。」とこのしゃがれ声の使者は、自分の牝馬をちらりと眺めながら、言った。「『よみがえる』だとよ。こいつあとてつもなく奇妙な伝言ことづてだなあ。そんなことがたくさんあった日にゃあ、おめえのためにやよくあるめえぜ、ジェリー! なあ、おい、ジェリー! もし甦るなんてことが流行はやって来ようものなら、おめえはとてつもなく面白くもねえことになるだろうぜ、ジェリー!


第三章 夜の影


 あらゆる人間が他のあらゆる人間にとって深奥な秘密であり神秘であるように出来ているということは、考えてみると驚くべき事実である。私が夜間にある大きな都会に入る時、その暗く寄り集っている家々の一つ一つがそれぞれの秘密を包んでいるということや、その一つ一つの家の中の一つ一つの室がまたそれぞれの秘密を包んでいるということや、そこにいる幾十万の胸の中に鼓動している一つ一つの心臓が、それの思い描いている事柄によっては、それに最も近しい心臓にとっても一の秘密である! ということは、考えるとおごそかな事柄である。死というものでさえ、その恐しさの幾分かは、このことに基くのである。もはや私は自分の愛したこのなつかしい書物の紙葉をめくることが出来ない。そして、いつかはそれをみんな読もうと思っていた望みも空しくなってしまう。もはや私は深さの測り知られぬこの水の底を覗き込むことが出来ない。瞬時の光がちらりと射し込んだ時に、私はその水の中に沈んでいる宝やその他の物を瞥見したことがあったのだが。その書物は、私がたった一頁だけ読んでしまうと、永久に永久にぴたりと閉じられる宿命さだめになっていたのだ。その水は、光がその水面に閃いていて、私が岸に何も知らずに立っている時に、永遠の氷にとざされる宿命さだめになっていたのだ。私の友人が死ぬ。私の隣人が死ぬ。私の恋人、私の心の愛人が死ぬ。それは、その個人のうちに常に宿っていた秘密の仮借なき凝固であり永久化であるのだ。そういう秘密を私もまた自分の裡に宿して自分の生涯の終りまで持って行くことであろう。私の今通っているこの都会のどの墓地にでも、この都会の忙しく働いている住民たちが、その心の一番奥底では、私にとって窺い知りがたいものであり、あるいは私が彼等にとってそうであるよりも以上に、窺い知りがたい死者というものが、果しているであろうか?

 この、生得の、他人に譲ることの出来ない資産ということでは、例の馬上の使者も、国王や、宰相や、ロンドン随一の富裕な商人などと全く同じだけのものを持っているのであった。また、がたがたと音を立てて行く一台の古ぼけた駅逓馬車の狭苦しい中に閉じこめられている、あの三人の旅客にしても、やはりそうなのだ。彼等は、一人一人が自分自身の六頭牽の馬車に乗って、あるいは自分自身の六十頭牽の馬車に乗って、自分と隣の者との間に一つの郡ほどの間隔を置いてでもいるように、完全に、お互が神秘なのであった。

 例の使者はゆっくりした早足で馬に乗って引返し、かなり幾度も路傍の居酒屋に止って酒を飲んだが、しかし、なるべく口を噤み、帽子を眼深まぶかにかぶっているようにしていた。彼はそういう帽子のかぶり方に極めてよく釣合った眼をしていた。黒味がかかった眼で、色でも形でも深みが少しもなく、もし余り遠く離れていると何かの事で片眼だけが見つけ出されはしないかと恐れてでもいるかのように──ひどくくっつき過ぎているのだ。その眼は、三角の痰壺のような古ぼけた縁反帽ふちそりぼうの下、頤とのどとを巻いてほとんど膝あたりまで垂れ下っている大きな襟巻の上に、陰険な表情をしていた。止って一杯飲む時には、彼は、右手で酒をぐうっとやる間だけ、その襟巻を左手で取り除け、それがすむや否や、すぐに再び巻きつけてしまうのだった。

「いいや、ジェリー、いやいや!」と使者は、馬に乗っている間も一つの事ばかり考え返しながら、言った。「そいつあおめえのためにゃよくあるめえぜ、ジェリー。ジェリー、おめえは実直な商売人なんだからな、そいつあお前の商売にゃ向くめえよ! よみが──! うん、旦那は一杯飲んで酔っ払ってたにちげえねえや!」

 あの伝言ことづては彼の心をひどく悩ませたので、彼は何度も帽子を脱いで頭をがりがり掻くよりほかに仕方がないくらいであった。ぱらぱらと禿げている脳天を除いては、こわい黒い髪の毛がその頭一面にぎざぎざと突っ立っていて、ほとんど彼の団子鼻のあたりまでも生え下っていた。その頭は鍛冶屋の作った物のようであった。髪の生えた頭というよりは、堅固に忍返しのびがえを打ちつけてある塀の頂に似ていた。だから、蛙跳びの一番の名人でも、跳び越すのにこれほど危険な男は世の中にもいないと言って、彼を跳び越すことはことわったかもしれなかった。

 彼がテムプル関門バーの傍のテルソン銀行の戸口のところにある番小屋の中の夜番人に渡し、その夜番人がまたそれを中にいる上役たちに渡すことになっているはずの、あの伝言ことづてを持って、馬を早足で歩ませながら引返している間、夜の影は、彼にとっては、その伝言ことづてから生じたような形をしているように見え、その牝馬にとっては、その馬だけにしかわからないいろいろの不安の種から生じたような形をしているように見えたのであった。そういう不安の種はたくさんあったらしく、馬は路上のあらゆる物影におびえていた。

 その間に、例の駅逓馬車は、お互に窺い知りがたい三人の相客を車内に乗せたまま、がたがた、ごろごろ、がらがら、ごとごとと、そのもどかしい道を進んで行った。この三人にも、同じように、夜の影は、彼等のうとうとしている眼と取留めのない思いとが心に浮ばせた通りの姿をして現れた。

 テルソン銀行がその駅逓馬車の中で取附けに逢っていた。あの銀行員の乗客が──馬車が特別ひどく揺れる度に、隣の乗客にぶつかって、その人を隅っこに押しつけることのないために、車内の者が皆しているように、吊革に片腕を通したまま──眼を半ば閉じながら自分の座席でこくりこくりやっていると、小さな馬車の窓や、そこから仄暗ほのぐらく射し込んで来る馬車ランプや、向い合っている乗客の嵩ばった図体などが、銀行に変って、一大支払をやっているのだった。馬具のがちゃがちゃいう音は、貨幣のじゃらじゃらいう音になった。そして、五分間のうちに、テルソン銀行でさえ、その国外及び国内のあらゆる関係方面をみんなひっくるめて、かつてその三倍の時間に支払ったことのあるよりも以上に多額の、為替手形が支払われた。それから今度は、テルソン銀行の地下の貴重品室が、その乗客の知っているような高価な品物や秘密物を納めたまま(そしてそれらの物について彼の知っていることは少くはなかったのだ)、彼の前に開かれた。そして、彼は大きな幾つもの鍵と微かに弱々しく燃えている蝋燭とを持ってその中へ入って行った。すると、その品々は、彼が最後に見た時とちょうど同じに安全で、堅固で、無事で、平静であることがわかった。

 しかし、銀行がほとんど絶えず彼と共にあったけれども、また馬車も(阿片剤を飲んだための苦痛があるように、混乱したのにではあるが)絶えず彼と共にあったけれども、その夜じゅう流れてまなかったもう一つの印象の流れがあった。彼はある人を墓穴から掘り出しに行く途中なのであった。

 ところで、彼の前に現れる多数の顔の中のどれが、その埋葬されている人のほんとうの顔なのか、夜の影は示してくれなかった。だが、それらはどれもこれも年齢四十五歳の男の顔であって、主として異っているのは、そのあらわしている感情と、その瘠せ衰えた様子の物凄さとの点であった。自負、軽蔑、反抗、強情、服従、悲歎などの表情が次々に現れ、いろいろのこけた頬、蒼ざめた顔色、痩せ細った手や指などが次々と現れたのだ。しかしその顔はだいたいは同一の顔で、頭はどれもまだそういう年でもないのに真白だった。幾度も幾度も、このうとうとしている旅客はその亡霊に尋ねるのであった。──

「どれくらいの間埋められていたんです?」

 その答はいつも同じであった。「ほとんど十八年。」

「あなたは掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」

「ずっと以前に。」

「あなたは御自分がよみがえっていることを御存じなのですね?」

「みんながわたしにそう言ってくれる。」

「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」

「わしにはわからない。」

「あのひとをあなたのところへお連れして来ましょうか? あなたの方からあのひとに逢いにいらっしゃいますか?」

 この質問に対する答は、いろいろさまざまで、正反対のもあった。時には、とぎれとぎれに「待ってくれ! 余り早く彼女あれに逢ってはわたしは死にそうだから。」という返事をすることもあった。時には、さめざめと涙の雨にくれ、それから「わたしを彼女あれのところへ連れて行ってくれ。」という返事をすることもあった。また時としては、じっと見つめて当惑したような顔をして、それから「わしはそんな女を知らん。わしには何のことかわからん。」という返事をすることもあった。

 そういう想像上の会話の後に、この旅客は、その憐れな人間を掘り出してやるために、空想のうちで──ある時は鋤で、ある時は大きな鍵で、ある時は自分の両手で──掘って、掘って、掘るのであった。顔にも髪にも土をくっつけたまま、ようやく出て来ると、その男はたちまち倒れて塵になってしまう。すると旅客ははっとして我に返り、窓を下して、霧と雨とを頬に実際に感じるのであった。

 それでも、彼が眼を見開いて、霧と雨や、ランプから射す光の動いてゆく斑紋や、ぐいぐいと遠退とおのいてゆく路傍の生垣などを眺めている時でさえ、馬車の外の夜の影は、いつの間にか馬車の内の夜の影のあのつらなりと一緒になるのだった。テムプル関門バーの傍のほんとうの銀行も、前日のほんとうの事務も、ほんとうの貴重品室も、彼の後を追っかけて来たほんとうの急書も、彼が持たして返したほんとうの伝言も、みんなそこにある。そういうものの真中から、例の幽霊のような顔が現れて来る。すると彼はまたそれに話しかける。

「どれくらいの間埋められていたんです?」

「ほとんど十八年。」

「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」

「わしにはわからない。」

 掘って──掘って──掘っている──と、とうとう二人の乗客の中の一人がたまりかねたような身動きをするので、彼ははっと気がついて窓を引き上げ、片腕をしっかりと吊革に通して、眠っている二人の姿を黙想する。そのうちにいつの間にか彼の心は二人のことから離れて、彼等は再び銀行と墓穴との中へ滑り込んでしまう。

「どれくらいの間埋められていたんです?」

「ほとんど十八年。」

「掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」

「ずっと以前に。」

 この言葉がつい今しがた口で言われたようにまだ耳に残っている──今までにかつて口で言われた言葉が彼の耳に残ったようにはっきりと残っている──時に、その疲れた旅客は、明るい光に気がついてはっとし、夜の影がもう消え失せていることを知った。

 彼は窓を下すと、顔を外に突き出して、さし昇る太陽を眺めた。そこには、山脊のようになって長く連っている耕地があって、からすきが一つ、前夜馬をくびきから離した時に残されたままにしておいてあった。耕地の向うには、静かな雑木林があって、燃えるようにあかい木の葉や、金色のように黄ろい木の葉が、梢にまだたくさん残っていた。地面は冷くてしっとり湿しめっていたけれども、空は晴れわたっていて、太陽は燦然と、穏かに、美わしく昇っていた。

「十八年とは!」と旅客はその太陽を眺めながら言った。「お慈悲深いお天道てんとうさま! 十八年間も生埋いきうめにされているなんて!」


第四章 準備


 駅逓馬車が午前中に無事にドーヴァーへ著くと、ロイアル・ジョージ旅館ホテルの給仕がしらは、いつもきまってするように、馬車のドアけた。彼はそれを幾分儀式張ってぎょう々しくやったのであった。というのは、何しろ、冬季にロンドンから駅逓馬車で旅をして来るということは、冒険好きな旅行者に祝意を表してやってしかるべきくらいの事柄であったからである。

 この時までには、その祝意を表さるべき冒険好きの旅行者は、たった一人しか残っていなかった。他の二人は途中のそれぞれの目的地で下りてしまっていたからだ。馬車の黴臭い内部は、その湿しめっぽいよごれた藁と、不愉快な臭気と、薄暗さとで、幾らか、大きな犬小屋のようであった。藁をふらふらにくっつけ、長いけばのある肩掛をぐるぐる巻きつけ、つばのびらびらしている帽子をかぶり、泥だらけの脚をして、その馬車の中からからだをゆすぶりながら出て来た、乗客のロリー氏は、幾らか、大きな犬のようであった。

明日あすカレー行きの定期船は出るだろうね、給仕?」

「さようでございます、旦那、もしお天気が持ちまして風が相当の順風でございますればね。しおは午後の二時頃にかなり工合よくなりますでしょう、はい。で、おやすみですか、旦那?」

「わたしは晩になるまでは寝まい。しかし、寝室は頼む。それから床屋をな。」

「それから御朝食は、旦那? はいはい、畏りました。は、どうぞそちらへ。和合コンコードの間へ御案内! お客さまのおかばんと熱いお湯を和合コンコードの間へな。お客さまのお長靴は和合コンコードの間でお脱がせ申すんだぞ。(上等の石炭で火が燃やしてございますよ、旦那。)床屋さんを和合コンコードの間へ呼んで来ておあげなさい。さあさあ、和合コンコードの間の御用をさっさとするんだよ!」

 その和合コンコードの寝室というのはいつも駅逓馬車で来た旅客にあてがわれていたので、そして、駅逓馬車で来た旅客たちはいつも頭の先から足の先までぼってり身をくるんでいたので、その室は、ロイアル・ジョージ屋の人々にとっては、そこへ入って行くのはただ一種類だけの人に見えるが、そこから出て来るのはあらゆる種類のさまざまの人であるという、妙な興味があるのだった。そういう訳で、六十歳の一紳士が、大きな四角いカフスとポケットに大きな覆布ふたのついている、かなり著古してはあるが、極めてよく手入れのしてある茶色の服に正装して、朝食をとりに行く時には、別の給仕と、二人の荷持と、幾人かの女中と、女主人とが、和合コンコードの間と食堂との間の通路の処々方々に偶然にもみんなぶらぶらしていたのであった。

 食堂には、その午前、この茶色服の紳士よりほかに客はなかった。彼の朝食の食卓は炉火の前へ引き寄せてあった。そして、その火の光に照されながら、食事を待って腰掛けている間、彼は余りじっとしているので、肖像画をかせるために著席しているのかと思われるくらいであった。

 彼はすこぶるきちんとして几帳面に見え、両膝に手を置き、音の大きな懐中時計は、あたかもかっかと燃えている炉火の軽躁さとうつろいやすさとに自分の荘重さと寿命の永さとをきそわせるかのように、垂片たれのあるチョッキの下で朗々たる説教をちょきちょきちょきちょきとやっていた。彼は恰好のよい脚をしていて、少しはそれを自慢にしていたらしい。というのは、茶色の靴下はすべすべとぴったり合っていて、地合が上等のものであったし、緊金しめがね附きの靴も質素ではあったが小綺麗なものだったから。彼は、頭にごくぴったりくっついている、風変りな小さいつやつやした縮れた亜麻色の仮髪かつらをかぶっていた。この仮髪かつらは髪の毛で作られたものであろうが、しかしそれよりもまるで絹糸か硝子質の物の繊維で紡いだもののように見えた。彼のシャツ、カラー類は、靴下と釣合うほどの上等なものではなかったが、近くの渚に寄せて砕ける波頭なみがしらか、海上遠くで日光にきらきらと光っている帆影ほどに白かった。習慣的に抑制されて穏かになっている顔は、うるおいのあるきらきらした一双の眼のために、例の一風変った仮髪かつらの下で始終明るくされていた。その眼をテルソン銀行風の落著いた遠慮深い表情に仕込むには、過ぎ去った年月の間に、その眼の持主に多少は骨を折らせたものに違いない。彼は健康そうな頬色をしていて、その顔には、皺がよってはいたけれども、憂慮の痕は大して見えなかった。だが、おそらく、テルソン銀行の機密に参与する独身の行員たちというものは、他人の苦労に主としてかかりあっていたのであろう。そして、おそらく、他人のお古セカンドハンドの苦労というものは、他人のお古セカンドハンドの著物と同様に、脱ぐのも著るのも造作のないものなのであろう。

 肖像画をかせるために著席している人との類似を更に完全にしようと、ロリー氏はうとうとと寐入ねいってしまった。朝食が運ばれて来たのに彼は目を覚された。そして、自分の椅子を食事の方へ動かしながら、給仕に言った。──

「若い御婦人が今日きょうここへ何時なんどき来られるかもしれないが、そのかたのために部屋を用意しておいてもらいたい。その御婦人はジャーヴィス・ロリーさんはいないかと言って尋ねられるかもしれないし、それとも、ただ、テルソン銀行から来たお方はいないかと尋ねられるかもしれない。そしたらどうか知らせて下さい。」

「は、畏りました。ロンドンのテルソン銀行でございますね、旦那?」

「そうだ。」

「は、承知いたしました。手前どもでは、あなたさまのところの方々かたがたがロンドンとパリーの間を往ったり来たりして御旅行なさいます時に、たびたび御贔屓にあずかっております、はい。テルソン銀行では、旦那、ずいぶん御旅行をなさいますようで。」

「そうだよ。わたしどもの銀行は、イギリスの銀行であると同じくらいに、全くフランスの銀行ででもあるようなものだからね。」

「は、なるほど。でも、旦那、あなたさまはあまりそういう御旅行はしつけてお出でになりませんようでございますが?」

「近年はやらない。わたしどもが──いや、わたしが──この前フランスから戻ってから十五年になるよ。」

「へえ、さようでございますか? それでは手前がここへ参りましたより以前のことでございますよ、はい。ここの人たちがここへ参りましたよりも以前のことで、旦那。このジョージ屋はその時分はほかの人の経営でございました。」

「そうだろうねえ。」

「しかし、旦那、テルソン銀行のようなところになりますと、十五年前はおろか、五十年ばかりも前でも、繁昌していらっしったということには、手前がどっさりかけをいたしましてもよろしゅうございましょうね?」

「それを三倍にして、百五十年と言ったっていいかもしれんな。それでも大して間違いじゃないだろうよ。」

「へえ、さようで!」

 口と両の眼とを円くしながら、給仕人ウェーターは食卓から一足下ると、ナプキンを右の腕から左の腕へと移して、安楽な姿勢をとった。そして、客の食べたり飲んだりするのを、展望台か望楼からでもするように見下しながら、立っていた。あらゆる時代における給仕人ウェーターのかの昔からの慣習に従って。

 ロリー氏は朝食をすましてしまうと、浜辺へ散歩に出かけた。小さな幅の狭い曲りくねったドーヴァーの町は、海の駝鳥のように、浜辺から隠れて、その頭を白堊の断崖の中に突っ込んでいた。浜辺は山なす波浪と凄じく転げ𢌞っている石ころとの沙漠であった。そして波浪はおのが欲するままのことをした。その欲するままのこととは破壊であった。それは狂暴に町に向って轟き、断崖に向って轟き、海岸を突き崩した。家々の間の空気は非常に強く魚臭い臭いがして、ちょうど病気の人間が海の中へ浸りに行くように、病気の魚がその空気に浸りに来たのかと想像されるほどであった。この港では漁業も少しは行われていたが、夜間にぶらぶら歩き𢌞って海の方を眺めることが盛んに行われた。殊に、しおがさして来て満潮に近い時に、それが行われるのであった。何一つ商売もしていない小商人が、時々、不可思議千万にも大財産をつくることがあった。そして、この附近の者が誰一人も点灯夫に我慢がならないことは不思議なくらいだった。

 日がかげって午後になり、折々はフランスの海岸が見えるくらいに澄みわたっていた空気が、再び霧と水蒸気とを含んで来るにつれて、ロリー氏の思いもまた曇って来たようであった。日が暮れて、彼が朝食を待っていた時のようにして夕食を待ちながら、食堂の炉火の前に腰掛けていた時には、彼の心は、赤く燃えている石炭の中をせっせと掘って掘って掘っているのであった。

 夕食後の上等なクラレットの一罎は、赤い石炭の中を掘る人に、ともすれば仕事を抛擲させがちであるからということのほかには、何の害もしないものである。ロリー氏は永い間安閑としていたが、そのうちに、中年を過ぎた血色のいい紳士が一罎を傾け尽した場合にいつも見られるようなこの上もなく満足だという様子で、自分の葡萄酒の最後の杯をいだ時に、がらがらという車輪の音が狭い街路をこちらの方へとやって来て、旅館の構内へごろごろと入って来た。

 彼は杯に口をつけずにそれを下に置いた。「お嬢さんマムゼールだな!」と彼は言った。

 数分たつと給仕人ウェーターが入って来て、マネット嬢がロンドンからお著きになって、テルソン銀行からお出でになった紳士にお目にかかれるなら仕合せですと言っていらっしゃいます、と知らせた。

「そんなに早く?」

 マネット嬢は途中で食事をおとりなったので、今はちっともほしくはないそうで、もしテルソン銀行の紳士の思召しと御都合さえよろしければ、すぐにお目にかかりたいと非常にお望みです、とのこと。

 そのテルソン銀行の紳士は、そのためには、ただ、無神経な捨鉢らしい風に杯の酒をぐうっと飲みし、例の風変りな小さい亜麻色の仮髪かつらを耳のところでしっかりと抑えつけて、給仕人ウェーターの後についてマネット嬢の部屋へと行きさえすればよいのであった。そこは大きな暗い室で、黒い馬毛織を葬式にふさわしいような陰気なのに飾りつけ、どっしたりした黒ずんだ卓子テーブルを幾つも置いてあった。これらの卓子テーブルは油を塗ってぴかぴかと拭き込んであるので、室の中央にある卓子テーブルに立ててある二本の高い蝋燭は、どの板にもぼんやりと映っていた。あたかもその蝋燭が黒いマホガニーの深い墓穴の中に埋められていて、そこから掘り出されるまではその蝋燭からはこれというほどの光は期待することが出来ないかのようだった。

 そこの薄暗さでは見透すのが困難であったので、ロリー氏は、だいぶん擦り切れているトルコ絨毯の上を気をつけて歩きながら、マネット嬢は一時どこか隣の室あたりにいるのだろうと想像したが、やがて、例の二本の高い蝋燭の傍を通り過ぎてしまうと、彼には、その蝋燭と煖炉との間にある卓子テーブルの傍に、乗馬用外套を著て、まだ麦藁の旅行帽をリボンのところで手に持ったままの、十七より上にはなっていない一人のうら若い婦人が、自分を迎えて立っているのを認めた。彼の眼が、小柄で華奢な美しい姿や、豊かな金髪や、尋ねるような眼付をして彼自身の眼とぴたりと会った一双の碧い眼や、眉を上げたりひそめたりして、当惑の表情とも、不審の表情とも、恐怖の表情とも、それとも単に怜悧な熱心な注意の表情ともつかぬ、しかしその四つの表情を皆含んでいる一種の表情をする奇妙な能力(いかにも若々しくてなめらかなひたいであることを心に留めてのことであるが)を持つ額などにとどまった時──彼の眼がそれらのものに止まった時に、突然、ある面影がまざまざと彼の前に浮んだ。それは、霰が烈しく吹きつけて波が高いある寒い日、この同じイギリス海峡を渡る時に彼自身が腕に抱いていた一人の幼児の面影であった。その面影は、彼女の背後にある気味の悪い大姿見鏡のおもてに横から吹きかけたいきなぞのように、消え去ってしまい、その大姿見鏡の縁には、幾人かは首が欠けているし、一人残らず手か足が不具だという、病院患者の行列のような、黒奴くろんぼのキューピッドたちが、死海の果物を盛った黒い籠を、黒い女性の神々に捧げていたが、──それから彼はマネット嬢に対して彼の正式のお辞儀をした。

「どうぞお掛け遊ばせ。」ごくはっきりした気持のよい若々しい声で。その口調アクセントには少し外国なまりがあったが、それは全くほんの少しである

「わたしはあなたのお手に接吻いたします、お嬢さん。」とロリー氏は、もう一度彼の正式のお辞儀をしながら、昔の作法に従ってこう言い、それから著席した。

「あたくし昨日きのう銀行からお手紙を頂きましたのでございますが、それには、何か新しい知らせが──いいえ、発見されましたことが──」

「その言葉は別に重要ではありません、お嬢さん。そのどちらのお言葉でも結構ですよ。」

「──あたくしの一度も逢ったことのない──ずっと以前にくなりました父のわずかな財産のことにつきまして、何かわかりましたことがありますそうで──」

 ロリー氏は椅子に掛けたまま身を動かして、例の黒奴くろんぼのキューピッドたちの病院患者行列の方へ心配そうな眼をちらりと向けた。あたかも彼等がその馬鹿げた籠の中に誰でもに対するどんな助けになるものでも持っているかのように!

「──そのために、あたくしがパリーへ参って、あちらで、その御用のためにわざわざパリーまでお出で下さる銀行のお方とお打合せをしなければならない、と書いてございましたのですが。」

「その人間というのがわたしで。」

「そう承るだろうと存じておりました。」

 彼女は、彼が自分などよりはずっとずっと経験もあり智慮もあるかただと自分が思っているということを、彼に伝えたいという可憐な願いをこめて、彼に対して膝を屈めて礼をした(当時は若い淑女は膝を屈める礼をしたものである)。彼の方ももう一度彼女にお辞儀をした。

「あたくしは銀行へこう御返事いたしました。あたくしのことを知っていて下すって、御親切にいろいろあたくしに教えて下さる方々かたがたが、あたくしがフランスへ参らなければならないとお考えになるのですし、それに、あたくしは孤児みなしごで、御一緒に行って頂けるようなお友達もございませんのですから、旅行の間、そのお方さまのお世話になれますなら、大変有難いのでございますが、と申し上げましたのでございます。そのお方はもうロンドンをお立ちになってしまっていらっしゃいましたが、でも、そのお方にここであたくしをお待ち下さるようにお願いしますために、そのかたあとから使いの人を出して下すったことと存じます。」

「わたしはそのお役目を任されましたことを嬉しく思っておりました。それを果すことが出来ますればもっと嬉しいことでございましょう。」とロリー氏が言った。

「ほんとに有難うございます。有難くお礼を申し上げます。銀行からのお話では、そのかたが用事の詳しいことをあたくしに御説明して下さいますはずで、それがびっくりするような事柄なのだから、その覚悟をしていなければならない、とのことでございました。あたくしはもう十分その覚悟をいたしておりますので、あたくしとしましてはどんなお話なのか知りたくて知りたくてたまらないのでございますが。」

「御もっとも。」とロリー氏は言った。「さよう、──わたしは──」

 ちょっと言葉を切ってから、彼はまた例の縮れた亜麻色の仮髪かつらを耳のところで抑えつけながら、こう言い足した。──

「どうも言い出すのが大変むずかしいことなのでして。」

 彼が言い出さずに、躊躇しているうちに、彼女の視線とぱったり出会った。と、例の若々しい額が眉を上げてあの奇妙な表情をし──しかしそれは奇妙なというほかに可愛いくて特有の表情であったが──それから、彼女は、何かの通り過ぎる物影を思わず掴むか引き止めるかのように、片手を挙げた。

「あなたはあたくしのまるで知らないお方なのでしょうか?」

「そうじゃないと仰しゃるんですか?」ロリー氏は両手を拡げて、議論好きなような微笑を浮べながらその手をぐっと左右に差し伸ばした。

 彼女がこれまでずっとその傍に立っていた横の椅子へ物思わしげに腰を下した時に、眉毛と眉毛の間、この上なく優美な上品な鼻筋をした女らしい小さな鼻のすぐ上のところに、例の表情が深まった。彼は彼女が物思いに沈んでいるのを見守っていたが、彼女が再び眼を上げた瞬間に、こう話し出した。──

「あなたの帰化なさいましたこの国では、あなたをお若いイギリスの御婦人としてマネット嬢ミス・マネットと申し上げるのが一番よろしいかと存じますが?」

「ええ、どうぞ。」

マネット嬢ミス・マネット、わたしは事務家でございます。今わたしには自分の果さなければならん事務の受持が一つございますのです。あなたがそれをお聴き取り下さいます時には、わたしをほんの物を言う機械だというくらいにお思い下さい。──全くのところ、わたしなぞはそれと大して違ったものじゃありません。では、お嬢さん、御免を蒙って、わたしどものほうのあるお得意さまの身の上話をあなたにお話申し上げることにいたしましょう。」

「身の上話ですって!」

 彼女が言い返した言葉を彼はわざと聞き違えたらしく、急いで言い足した。「そうです、お得意さまです。銀行業の方ではお取引先のことをお得意さまといつも申しておりますんで。そのかたはフランスの紳士でした。科学の方面の紳士で。非常に学識のある人で、──お医者でした。」

「ボーヴェー出身のかたではございませんの?」

「そうですねえ、ええ、ボーヴェー出身のかたです。あなたのお父さまのムシュー・マネットと同じように、その紳士はボーヴェー出身のかたでございました。あなたのお父さまのムシュー・マネットと同じように、その紳士もパリーでなかなか評判の人でした。わたしがそのかたとお近付ちかづきになりましたのはそのパリーだったのです。わたしたちの関係は事務上の関係でございましたが、しかし非常に親しくして頂いておりました。わたしはその頃わたしどものフランスの店におりまして、それまでには──そう! 二十年間もそこにおりましたのですが。」

「その頃──と仰しゃいますと、いつ頃なのでございましょうかしら?」

「わたしは、お嬢さん、二十年前のことをお話申しておるのです。そのかたは御結婚なさいました、──イギリスの御婦人とでした。──そしてわたしは財産管理人の一人になりました。そのかたの財務上の事は、ほかのたくさんのフランスの紳士方やフランスの御家庭の財務と同様に、すっかりテルソン銀行に任せてございましたのです。そんな風にして、わたしは現在、いや以前から、たくさんのお得意さまのあれやこれやの管理人になっております。これは皆ただの事務上の関係ですよ、お嬢さん。それには友情とか、特別の関心とかはなく、感情といったようなものは何もないのです。わたしは事務の人間として今日までの生涯を送って来ました間に、そういうのの一つからほかのにと移って参りました。それは、ちょうど、わたしが毎日事務を執っています間に、一人のお得意さまから他のお得意さまへと移ってゆきますようなもので。手短に申しますと、わたしには感情というものがございませんのです。わたしはほんの機械なんです。で、話を続けることにいたしますと──」

「でもそれはあたくしの父の身の上話でございましょう。あたくし何だか、」──と例の不思議な表情をする額が彼に向って熱心になりながら──「あたくしの母が父の亡くなりましてからたった二年しか生きていなくて、あたくしが孤児みなしごになりました時に、あたくしをイギリスへ連れて来て下さいましたのは、あなたでしたように、思われて参りました。あなたに違いないような気がいたします。」

 ロリー氏は、彼の手を握ろうとして信頼するように差し伸べられた、ためらっている、小さな手を取って、それを幾らか儀式張って自分の脣にあてた。それから彼はその若い淑女をすぐにまた彼女の椅子のところへ連れて行った。そして、左手では椅子の背を掴み、右手を使って自分の頤を撫でたり、仮髪かつらの耳のところをひっぱったり、自分の言ったことを注意させたりしながら、立って、腰掛けて自分を見上げている彼女の顔を見下した。

マネット嬢ミス・マネット、それはいかにもわたしでした。ところが、それ以来わたしがあなたに一度もお目にかからなかったことをお考え下されば、わたしがつい今、自分のことを、わたしには感情というものがないとか、わたしと他の人たちとの関係はみんなただの事務上の関係だとか申しましたことが、ほんとうであることがおわかりになりますでしょう。そうです、一度もお目にかかりませんでした。あなたはそれ以来ずっとテルソン商社の被後見人ですのに、わたしはそれ以来ずっとテルソン商社のほかの事務にばかり齷齪あくせくしていたのです。感情なんて! わたしにはそんなものを持つ時まもなく、機会もありません。わたしは一生、お嬢さん、大きなおさつ皺伸機しわのしを𢌞して過すのですよ。」

 自分の毎日の仕事をこういう奇妙なのに説明してから、ロリー氏は亜麻色の仮髪かつらを両手で頭の上から平らに抑えつけ(これは全く余計なことで、そのぴかぴかした表面は前から何も及ばないくらいに平らになっているのである)、それから元の姿勢に返った。

「ここまでは、お嬢さん、(あなたの仰しゃいました通り)あなたのお気の毒なお父さまの身の上話なのです。ところが、これからは違うのですよ。もしも、あなたのお父さまが、お亡くなりになったという時に、亡くなられたのではない、としますと──。驚かないで下さい! そんなにびっくりなすっては!」

 彼女は、実際、跳び立つほどびっくりしたのだった。そして両手で彼の手頸を掴んだ。

「どうぞ、」とロリー氏は、左の手を椅子の背から離して、それを烈しくぶるぶる震えながら彼の手を握っている懇願するような指の上に重ねながら、なだめるような調子で言った。──「どうぞお気を鎮めて下さい、──これは事務なんですから。今申しましたように──」

 彼女の様子がひどく彼を不安にさせたので、彼は言葉を切り、どうしようかと迷ったが、また話し出した。──

「今申しましたように、ですね。もしもムシュー・マネットが亡くなられたのではないとしますと、ですよ。もしもあなたのお父さまが突然に人にも言わずに姿を消されたのだとしますと、です。もしも神隠しか何かのようにされたのだとしますと、です。どんなに恐しい処へ行かれたか推測するのはむずかしくはないが、どんなことをしてもお父さまを探し出すことは出来ないのだとしますと、ね。お父さまには同国人の中に一人の敵があって、その敵が、この海の向うでわたしが若い時分どんな大胆な人でもひそひそ声で話すことも恐しがっていたということを知っているような特権を──例えばですね、書入れしてない書式用紙にちょっと名前を書き込んで、誰をでも牢獄へどんなに永い間でも押しこめておけるという特権を──使える人間だったとしますと、ですね。お父さまの奥さんに当る人が、王さまや、おきさきさまや、宮廷や、僧侶に、何か夫の消息を聞かしてくれるようにと歎願なすったが、みんな全く何の甲斐かいもなかったとしますと、ですね。──もしもそうだったとしますと、そうすると、そのあなたのお父さまの身の上は、ボーヴェーのお医者である、今の不幸な紳士の身の上になるのです。」

「どうかもっとお聞かせ下さいますように。」

「お聞かせいたしますよ。しようとしているところです。あなたは御辛抱がお出来になりますね?」

「今のようなこんな不安な気持でいるのでさえなければ、あたくしどんなことでも辛抱が出来ますわ。」

「あなたは落著いて仰しゃいますし、あなたは落着いて──いらっしゃいますね。それなら大丈夫ですな!」(しかし彼の態度は彼の言葉ほどには安心していなかった。)「事務ですよ。事務とお考え下さい、──しなければならない事務とね。さて、もしそのお医者の奥さんが、大変気丈夫な勇気のある御婦人ではありましたけれども、お子さんがお生れになるまでにこの事で非常に御心痛になりまして──」

「その子供と仰しゃいますのは女の子だったのでございますねえ。」

「女のお子さんでした。こ──これは──事務ですよ、──御心配なさらないで下さい。お嬢さん、もしそのお気の毒な御婦人が、お子さんがお生れになるまでに非常に御心痛になりまして、そのために、可哀そうなお子さんにはお父さまはお亡くなりになったものと信じさせて育てて、御自分の味われたようなお苦しみは幾分でも味わせまいという御決心をなさいましたものとしますと──。いやいや、そんなに跪いたりなすっちゃいけません! 一体どうしてあなたがわたしに跪いたりなぞなさるんです!」

「ほんとのことを。おお、御親切なおなさけ深いお方、どうかほんとのことを!」

「こ──これは事務ですよ。あなたがそんなことをなさるとわたしはまごついてしまいます。まごついていてはわたしはどうして事務を処理することが出来ましょう? さあさあ、お互に頭を明晰にしましょう。もしあなたが今、例えばですね、九ペンスの九倍はいくらになるか、あるいは二十ギニーは何シリングかということを、言ってみて頂ければ、よほど気が引立つんですがねえ。わたしだってあなたのお心の工合にもっともっと安堵が出来るというものですが。」

 こう頼んだのに対して直接には答えなかったけれども、彼女は、彼がごく穏かに彼女を起してやった時に、ジャーヴィス・ロリー氏に多少の安心を与えるくらいに、静かに腰を掛けたし、ずっと彼の手頸を握っていた手を今までよりももっとしっかりさせたのであった。

「それでよろしい、それでよろしい。さあ、しっかりして! 事務ですよ! あなたは事務を控えているのです。有益な事務をね。マネット嬢ミス・マネット、あなたのお母さまはあなたに対してそういう御方針をお執りになったのです。で、お母さまがお亡くなりになり、──御傷心のためかと思いますが、──その時あなたは二歳で後にお遺されになりましたのですが、お母さまは御自分では何の甲斐かいがなくてもお父さまの捜索を決して怠られなかったのに、あなたには、お父さまが牢獄の中でまもなく死なれたのだろうか、それともそこで永い永い年月としつきの間痩せ衰えていらっしゃるのだろうかと、どちらともはっきりわからずに過すというような黒い雲もささずに、花のように、美しく、幸福に、御生長になるようになさいましたのです。」

 こう言いながら、彼は、房々と垂れている金髪を、感に堪えないような憐みの情をもって見下した。あたかもその髪がもう既に白くなっているのかもしれぬと心の中で思い浮べてでもいるかのように。

「御承知のように、御両親には大した御財産はございませんでしたし、お持ちになっていらしたものは皆お母さまとあなたとのお手に入りました。おかねにしても、そのほかの何かの所有物にしても、今さら新しく発見されるものは何一つなかったのです。しかし──」

 彼は自分の手頸がいっそうしっかりと握り締められるのを感じたので、言葉を切った。これまで特に彼の注意を惹いていた、そして今では動かなくなっている、額の例の表情は、ますます深まって苦痛と恐怖との表情になっていた。

「しかしあのかたが見つかったのです。あのかたは生きてお出でになるのです。さぞひどく変っていらっしゃることでしょう。ほとんど見る影もなくなっておられるかもしれません。そんなことのないようにと思ってはいるのですが。とにかく、生きておられるのです。あなたのお父さまはパリーで昔の召使の家に引取られてお出でになるので、それでわたしたちはそこへ行こうとしているところなのです。わたしは、出来れば、お父さまであるかどうかを確めるためにですし、あなたは、お父さまを生命と、愛と、義務と、休息と、慰安とにかえさしておあげになるためにです。」

 身震いが彼女の体に起り、それが彼の体に伝わった。彼女は、まるで夢の中ででも言っているように、低い、はっきりした、じ恐れた声でこう言った。──

「あたしはお父さまの幽霊に逢いにゆくのですわ! お逢いするのはお父さまの幽霊でございましょう、──ほんとのお父さまじゃなくって!」

 ロリー氏は自分の腕に掴まっている手を静かにさすった。「さあ、さあ、さあ! もうわかりましたね、わかりましたね! 一番よい事も一番悪い事ももうすっかりあなたにお話してしまったのですよ。あなたはあのお気の毒なひどい目に遭われたかたのおられるところをさしてよほど来ておられるのです。そして、海路の旅が無事にすみ、陸路の旅も無事にすめば、すぐにそのかたなつかしいおそばへいらっしゃれましょう。」

 彼女は、囁き声くらいに低くなった前と同じ調子で、繰返して言った。「あたしはこれまでずっと自由でしたし、ずっと幸福でしたのに、でもお父さまの幽霊は一度もあたしのところへ来て下さいませんでしたわ!」

「もう一ことだけ申し上げますと、」ロリー氏は、彼女の注意を惹きつけようとする一つの穏かな手段として、その言葉に力を入れて言った。「あのかたは見つかりました時には別の名前になっておられました。ほんとうのお名前は、永い間忘れておられたか、それとも永い間隠しておられたのでしょう。今それがどっちだか尋ねるということは、無益であるよりも有害でしょう。あのかたが何年も見落されておられたのか、それともずっと故意に監禁されておられたのか、どちらか知ろうとすることも、無益であるよりも有害でしょう。今はどんなことを尋ねるのも、無益どころか有害でしょう。そういうことをするのは危険でしょうから。どこででもどんなのにでも、その事柄は口にしない方がよろしいでしょう。そして、あのかたを──何にしてもしばらくの間は──フランスから連れ出してあげる方がよろしいでしょう。イギリス人として安全なわたしでさえ、またフランスの信用にとって重要であるテルソン銀行でさえ、この件の名を挙げることは一切避けているのです。わたしは自分の身の𢌞りに、この件のことを公然と書いてある書類は一片も持っておりません。これは全然秘密任務なのです。わたしの資格証明書も、記入事項も、覚書も、『よみがえる』という一行の文句にすっかり含まれているのです。その文句はどんなことでも意味することが出来るのです。おや、どうしたんですか! お嬢さんは一ことも聞いていないんだな! マネット嬢ミス・マネット!」

 全くじっとして黙ったまま、椅子の背に倒れかかりもせずに、彼女は彼の手の下で腰掛けて、全然人事不省になっていた。眼は開いていてじっと彼を見つめており、あの最後の表情はまるで彼女の額にきざみ込まれたかきつけられたかのように見えた。彼女が彼の腕にひどくしっかりと掴まっているので、彼は彼女に怪我させはしまいかと思って自分の体を引き離すのを恐れた。それで彼は体を動かさずに大声で助力を求めた。

 すると、まるであかい顔色をして、髪の毛も赭く、非常にぴったりと体に合っている型の衣服を著て、頭には親衛歩兵の桝型帽、それもずいぶんの桝目のもののような、あるいは大きなスティルトン乾酪チーズのような、実に驚くべき帽子をかぶっているということを、ロリー氏があわてているうちにも認めた、一人の荒っぽそうな婦人が、宿屋の召使たちの先頭に立って部屋の中へ駈け込んで来て、逞しい手を彼の胸にかけたかと思うと、彼を一番近くの壁に突き飛ばして、その可哀そうな若い淑女から彼を引き離すという問題をすぐさま解決してしまった。

(「これはてっきり男に違いないな!」とロリー氏は、壁にぶっつかると同時に、いきもつけなくなりながら考えた。)

「まあ、お前さんたちはみんな何てざまをしてるんだね!」とその女は宿屋の召使たちに向って呶鳴りつけた。「そんなところに突っ立ってわたしをじろじろ見てなんかいないで、どうしてお薬やなんぞを取りに行かないの? わたしなんか大して見映みばえがしやしないよ。そうじゃないかい? どうしてお前さんたちはるものを取りに行かないんだよ? 嗅塩かぎしおと、おひやと、おを速く持って来ないと、思い知らしてあげるよ。いいかね!」

 それだけの気附薬を取りに皆が早速方々へ走って行った。すると彼女はそうっと病人を長椅子ソーファに寝かして、非常に上手にやさしく介抱した。その病人のことを「わたしの大事なかた!」とか「わたしの小鳥さん!」とか言って呼んだり、その金髪をいかにも誇らかに念入りに肩の上に振り分けてやったりしながら。

「それから、茶色服のお前さん!」と彼女は、憤然としてロリー氏の方へ振り向きながら、言った。「お前さんは、お嬢さまを死ぬほどびっくりさせずには、お前さんの話を話せなかったの? 御覧なさいよ。こんなに蒼いお顔をして、手まで冷くなっていらっしゃるじゃありませんか。そんなことをするのを銀行家って言うんですか?」

 ロリー氏はこの返答のしにくい難問に大いにまごついたので、ただ、よほどぼんやりと同情と恐縮とを示しながら、少し離れたところで、眺めているよりほかに仕方がなかった。一方、その力の強い女は、もし宿屋の召使たちがじろじろと見ながらここにぐずぐずしていようものなら、どうするのかは言わなかったが何かを「思い知らしてやる」という不思議なおどし文句で、彼等を追っ払ってしまってから、一つ一つ正規の順序を逐うて病人を囘復させ、彼女をなだすかしてうなだれている頭を自分の肩にのせさせた。

「もうよくなられるでしょうね。」とロリー氏が言った。

「よくおなりになったって、茶色服のお前さんなんかにゃ余計なお世話ですよ。ねえ、わたしの可愛いい綺麗なお方!」

「あなたは、」とロリー氏は、もう一度しばらくの間ぼんやりした同情と恐縮とを示した後に、言った。「マネット嬢ミス・マネットのお伴をしてフランスへいらっしゃるんでしょうな?」

「いかにもそうありそうなことなのよ!」とその力の強い女が答えた。「でも、もしわたしが海を渡って行くことに前からきまってるんなら、天の神さまがわたしが島国しまぐにに生れて来るように骰子さいころをお投げになるとあんたは思いますか?」

 これもまたなかなか返答のしにくい難問なので、ジャーヴィス・ロリー氏はそれを考えるために引下ることにしたのであった。


第五章 酒店


 大きな葡萄酒の樽が街路に落されて壊れていた。この事故はその樽を荷車から取り出す時に起ったのであった。樽はごろごろっと転がり落ちて、たががはじけ、酒店の戸口のすぐ外のところの敷石の上に止って、胡桃の殻のようにめちゃめちゃに砕けたのだ。

 近くにいた人々は皆、自分たちの仕事を、あるいは自分たちの無為を一時中止して、その葡萄酒を飲みにその場所へ走って行った。街路のごつごつした不揃いな敷石は、四方八方に向いていて、それに近づくあらゆる生物いきもの殊更ことさらびっこにしてやろうというつもりのもののように思われたが、その敷石が流れた葡萄酒を堰き止めて、小さな水溜りを幾つも作っていた。その水溜りは、それぞれ、その大きさに応じて、そこへ来て押し合いへし合いしている群集に取巻かれた。男たちの中には、跪いて、両手を合せてすくって、その葡萄酒が指の間からすっかりこぼれてしまわないうちに、自分で啜ったり、自分の肩の上に身を屈めている女たちにも啜らせてやろうとしたりする者もあった。中には、男も女も、欠けた陶器の小さな湯呑で水溜りを掬ったり、女たちの頭から取った手拭までも浸して、それを幼児の口の中へ絞り込んでやったりする者もあった。また、葡萄酒が流れてゆくのを堰き止めようと、小さな泥の堤防を築く者もいた。上の方の高い窓から見物している者たちに教えられて、あちこちと走り𢌞って、新しい方向に流れ出してゆく葡萄酒の小さな流れを遮り止める者もいた。渣滓おりの滲み込んでいるじくじくした樽の破片にかじりついて、酒で朽ちたじめじめした木片をさもうまそうに舐めたり、噛みさえしたりする者もいた。葡萄酒の流れ去る下水は一つもなかった。それで、それがすっかり吸い上げられたばかりではなく、それと一緒にずいぶんたくさんの泥までが吸い上げられたので、この街には市街掃除夫がいたのではなかったかと思われたくらいであった。もっとも、これは、誰でもこの街のことをよく知っている人が、そういう市街掃除夫などという者が奇蹟的にもここに現れるということを信ずることが出来たとしてのことであるが。

 笑い声と興がっている声──男たちや女たちや子供たちの声──の甲高かんだかい響が、この酒飲み競争の続いている間、その街路に鳴り響いていた。この競技には荒っぽいところがほとんどなくて、ふざけたところが多くあった。それには特別な仲のよさが、一人一人が誰か他の者と仲間になりたいという目立った意向があって、そのために、酒に運のよかった連中や気さくな連中の間ではとりわけ、剽軽ひょうきんに抱き合ったり、健康を祝して飲んだり、握手をしたり、さては十二人ばかりが一緒になって手を繋ぎ合って舞踏をするまでになったのであった。ところが、葡萄酒がなくなってしまって、それのごくたっぷりあった場所までが指で引掻かれて焼網模様をつけられる頃になると、そういう騒ぎは、始った時と同じように急に、ばったりと止んでしまった。切りかけていた薪に自分の鋸を差したままほおって来た男は、またその鋸を挽き出した。熱灰あつはいの入っている小さな壺で自分自身か自分の子供かの手足の指の凍痛をやわらげようとしてみていたのを、その壺を戸口段のところにほおっておいて来た女は、壺のところへ戻った。穴蔵から冬の明るみの中へ出て来た、腕をまくって、髪をもつらし、蒼白な顔をした男たちは、立去って再び降りて行った。そして、日光よりももっとこの場にはふさわしく見える陰暗がこの場面に次第に募って来た。

 その葡萄酒は赤葡萄酒であって、それがこぼれたパリーの場末のサン・タントワヌの狭い街路の地面を染めたのであった。それはまた多くの手と、多くの顔と、多くの素足と、多くの木靴とを染めた。薪を挽いている男の手は、その薪材に赤い痕を残した。自分の赤ん坊のもりをしている女のひたいは、自分の頭に再び巻きつけた襤褸布片ぼろぎれ汚染しみで染められた。樽の側板がわいたにがつがつしがみついていた連中は、口の周囲に虎のような汚斑をつけていた。そういうのに口をよごしている一人の脊の高い剽軽者が、その男の頭は寝帽ナイトキャップにしている長いきたない袋の中に入っていると言うよりも、それからはみ出ていると言った方がよかったが、泥まみれの酒の渣滓おりに浸した指で、壁に、──となぐり書きした。

 やがて、そういう葡萄酒もまたこの街路の敷石の上にこぼされる時が、またそれの汚染しみがそこにある多くのものを赤く染める時が、来ることになっていたのである

 さて、一時の微光のためにサン・タントワヌの聖なる御顔から払い除けられていた暗雲が、またサン・タントワヌにかかってしまったので、そこの暗さはひどくなった。──寒気と、汚穢と、疾病と、無智と、窮乏とが、その聖者の御前に侍している貴族であった。──いずれも皆非常な権勢のある貴人であったが、とりわけそうなのはその最後の者であった。老人をいて若者にしたというお伽話の碾臼ひきうすとは確かに違った碾臼で恐しくも碾きに碾かれて来た人間の標本が、あらゆる隅々に震えていた。あらゆる家々の戸口を出入していた。あらゆる窓から覗いていた。風にあおられているあらゆる形ばかりの衣服を著ながらうろうろしていた。彼等をね潰した碾臼は、若者を碾いて老人にする碾臼であった。子供たちまでが年寄のような顔と沈んだ声とをしていた。そして、その子供たちの顔にも、大人おとなの顔にも、年齢のあらゆる皺の中に鋤き込まれてからまた現れて来ているのは、飢餓という目標めじるしであった。それは至る処に蔓っていた。飢餓は竿や綱にぶら下っているみすぼらしい衣服の中に入って高い家々から突き出されていた。飢餓は藁と襤褸と木材と紙とで補片つぎをあてられてその家々の中へ入っていた。飢餓は例の男が鋸で挽き切るわずかな薪のどの屑の中にも繰返された。飢餓は煙の立たぬ煙突からじっと見下していたし、塵芥の中にさえ食えるものの残屑一つないきたない街路から跳び立った。飢餓はパン屋の棚の少しばかり並べてある粗悪なパンの小さな一塊ずつに書いてある文字であった。腸詰屋では売り出してある犬肉料理の一つ一つに書いてある文字であった。飢餓は囘転している円筒の中の焼栗の間でその干涸ひからびた骨をがらがら鳴らしていた。飢餓は数滴の油を不承不承にらして揚げた皮ばかりの馬鈴薯の薄片の入っているどの一文皿の中にも粉々に切り刻まれていた。

 飢餓の住所はすべてのものがそれに適合していた。気持の悪いものと悪臭とのみちている狭い曲りくねった街路、それから幾つもわかれている別の狭い曲りくねった街路、そのどこにもかしこにも襤褸と寝帽ナイトキャップとの人間が住んでいて、どこにもかしこにも襤褸と寝帽ナイトキャップとの臭いがして、目に見えるすべてのものが険悪そうに見える考え込んでいるような顔付をしている。人々の狩り立てられたような様子の中にも、いよいよ追い詰められるとなると振り返って反抗するかもしれぬという野獣の気持がまだ幾分かはあった。彼等は銷沈していてこそこそしてはいたけれども、焔の眼は彼等の間にないではなかった。また、彼等の抑えつけている感情のために血の気の失せた、きっと結んでいる脣もないではなかった。また、彼等が自分でかけられるか、それとも人にかけてやることを考えている、あの絞首台の縄に似たのにひそめているひたいもないではなかった。商売の看板は(そしてそれは店の数とほとんど同じほどあったが)、いずれも皆、窮乏の物凄い図解であった。牛肉屋や豚肉屋は肉の一番脂肪分の少い骨の多い下等なところだけを描いたのを出していた。パン屋は一番粗末なけちなパン塊を描いて出していた。酒店で酒を飲んでいるところとしてぞんざいに画いてある人々は、水っぽい葡萄酒やビールの量りの悪いことをぶつぶつ言いながら、凄い顔をして互にひそひそ話をしていた。道具類と兇器類とを除いては、景気よく描き出されているものは何一つとしてなかった。ただ、刃物師の小刀や斧は鋭利でぴかぴかしていたし、鍛冶屋の鉄鎚はどっしりと重そうであったし、鉄砲鍛冶の店にある商品はいかにも人を殺しそうであった。鋪道のあの人をびっこにしそうな石には、泥水の小さな溜りはたくさんあっても、別に歩道はなくて、家々の戸口のところでいきなりに切れていた。その埋合せに、下水溝が街路の真中を流れていたが、──それはともかく流れる時だけである。流れる時というのはただ豪雨の後ばかりで、その時にはたびたび矯激な発作でも起したように家々の中へまで流れ込むのだった。街々を突っ切って、遠く間を隔てて、不恰好な街灯が一つずつ、滑車綱でつるしてあった。日が暮れて、点灯夫がそれを下し、火を点じて、また吊し上げると、弱い光を放っている数多あまたの仄暗い灯心が、病みほうけたように頭上で揺れ動いて、あたかも海上にあるようであった。実際それらは海上にあるのであった。そして船と船員とは嵐に遭う危険に臨んでいたのであった

 なぜなら、この界隈の痩せこけた案山子かかしたちが、する仕事もなく腹をかしながら、永い間点灯夫のすることを眺めているうちに、その点灯夫のやり方を改良して、自分たちの境涯の暗闇くらやみを明るくするために、その滑車綱で人間をひっぱり上げようという考えを思い付く時が、やがて来ることになっていたからである。しかし、その時はまだ来てはいなかった。そして、フランスを吹きわたるどの風も徒らにその案山子たちの襤褸をはたはたと振り動かすだけであった。なぜなら、鳴声も羽毛も美しい鳥どもは一向に自らを戒めるところがなかったからである。

 さっきの酒店は角店かどみせで、外見や格式が他の大抵の店よりも立派であった。その酒店の主人は、黄ろいチョッキに緑色のズボンを著けて、店の外に立って、こぼれた葡萄酒を飲もうと争っている有様を傍観していた。「こいつあおれの知ったことじゃねえや。」と彼は、最後に肩を一つすくながら、言った。「市場いちばから来た連中がしでかしたんだからな。奴らにもう一つ持って来させりゃいい。」

 その時、ふと彼の眼が例の脊の高い剽軽者があの駄洒落だじゃれを書き立てているに止ったので、彼は路の向側のその男に声をかけた。──

「おいおい、ガスパール、お前そこで何してるんだい?」

 その男は、そういう手合のよくやるように、さも意味ありげに自分の駄洒落だじゃれを指し示した。ところが、それがまとはずれて、すっかり失敗した。これもそういう手合にはよくあることである。

「どうしたんだ? お前は気違い病院行きの代物か?」と酒店の主人は、道路を横切って行って、一掴みの泥をすくい上げ、それを例の洒落しゃれの落書の上になすりつけて消しながら、言った。「どうしてお前は大道なんかで書くんだ? こんな文句を──さあ、おれに言ってみろ──こんな文句を書き込む場所がほかにないのか?」

 こう言い聞かせながら、彼は汚れていない方の手を(偶然にかもしれぬし、そうではないかもしれぬが)その剽軽者の胸のところに落した。剽軽者はその手を自分の手でぽんと敲いて、ぴょいと身軽く跳び上り、珍妙な踊っているような恰好で下りて来ながら、酒で染った自分の靴の片方を、足からひょいと振り脱いで手に受け止め、それを差し出して見せた。そういう次第で、その男は、飽くことのない悪戯いたずら好きであることは言うまでもないが、極端な悪戯いたずら好きの剽軽者らしく見えた。

「靴を穿きな、靴を穿きな。」ともう一人のほうが言った。「酒は酒と言って、それでめとくんだぞ。」そう忠告しながら、彼は自分の汚れた方の片手をその剽軽者の衣服で拭いた。──その男のせいでその手を汚したのだというので、全くわざとやったのだ。それから、道路を再び横切って、酒店へ入った。

 この酒店の主人というのは、猪頸いくびの、勇敢そうな、三十歳くらいの男であった。そして熱しやすい気性の人間に違いなかった。というのは、身を斬るような寒い日だったのに、彼は上衣を著ないで、それを肩へ投げかけていたからである。シャツの袖もまくし上げてあって、日にけた腕は肱のところまでむき出しになっていた。それから、頭にも、自分自身のくるくると縮れている短い黒っぽい髪の毛よりほかには、何もかぶっていなかった。彼は総体に浅黒い男で、感じのいい眼をしており、その眼と眼との間にはかなり大胆な豪放さがあった。概して愛嬌のよさそうな男であるが、執念深そうでもある。明かに強い決意と頑固な意思とを持った男だ。右側にも左側にも深淵のある隘路を駈け降りて来る時には出くわしたくない男である。というのは、どんなことがあってもこの男を後戻りさせることは出来ないだろうから。

 彼の妻のマダーム・ドファルジュは、彼が店に入って来た時には、店の中の勘定台の後に腰掛けていた。マダーム・ドファルジュは彼とほぼ同年輩のがっしりした婦人で、滅多に何でも見ないように思われる油断のない眼と、たくさん指環を嵌めた大きな手と、きりっとした顔と、きつい目鼻立ちと、非常に落著き払った態度とをしていた。マダーム・ドファルジュには、彼女なら自分の管理しているどの勘定ででも自分の気のつかない間違いを滅多にやることはあるまいと誰でもが予言出来そうな、一種の特性があった。マダーム・ドファルジュは寒がりだったので、毛皮にくるまって、その上、首の周りには派手な肩掛ショールをぐるぐる巻きつけていた。もっとも、それも大きな耳環が隠れてしまうほどにはしていなかったが。彼女の編物がその前にあったが、彼女はそれを下に置いてつま楊枝で歯をほじくっていた。左の手で右の肱を支えながら、そうして歯をほじくっていて、マダーム・ドファルジュは、自分の御亭主が入って来た時には何も言わずに、ただ一度だけちょっと咳払いをした。この咳払いは、彼女が爪楊枝を使いながら黒くくっきりとした眉毛をわずかばかり揚げることと共に、彼女の夫に、彼が路の向側まで行っていた間に誰か新しいお客が立寄っていないか、店を見𢌞してお客の間を探した方がいいだろう、ということを暗示したのである。

 そこで酒店の主人は眼をぐるぐるっと𢌞してみると、その眼は、やがて、一隅に腰掛けている一人の中年過ぎの紳士と一人の若い淑女とに止った。店にはほかにも客がいた。骨牌かるたをしているのが二人、ドミノーズをしているのが二人、勘定台のところに立ってわずかな葡萄酒を永くかかってちびちび飲んでいるのが三人いたのだ。勘定台の後へ𢌞って行く時に、彼は、その中年過ぎの紳士が若い淑女に「これが例の男ですよ。」と目色で言ったのを見て取った。

「一体全体お前さんたちはそんな処で何をしてるんだい?」とムシュー・ドファルジュは心の中で言った。「こちとらはお前さんたちなんか知らねえや。」

 しかし、彼はその二人の見知らぬ人には気がつかぬ風をして、勘定台のところで飲んでいる三人組の客と談話をし始めた。

「どうだね、ジャーク?」とその三人の中の一人がムシュー・ドファルジュに言った。「こぼれた葡萄酒はみんな飲んじまったかい?」

「一しずくも残さずによ、ジャーク。」とムシュー・ドファルジュは答えた。

 こんな風に洗礼名の交換がすんだ時、マダーム・ドファルジュは、爪楊枝で歯をほじくりながら、また一つ咳払いをし、また少し眉毛を揚げた。

「あのみじめな獣たちは大抵は、」と三人の中の二番目の者がムシュー・ドファルジュに向って言った。「葡萄酒の味を知るなんてこたあ滅多にねえんだからな。いや、葡萄酒だけじゃねえ、黒パンと死ぬこととのほかのものの味を知るってことは滅多にねえんだ。そうじゃねえか、ジャーク?」

「そうだよ、ジャーク。」とムシュー・ドファルジュは返答した。

 こうして二度目にその洗礼名を交換している時に、マダーム・ドファルジュは、極めて落著き払ってやはり爪楊枝を使いながら、また一つ咳払いをし、また少し眉毛を揚げた。

 今度は、三人の中の最後の者が、からになった酒を飲むうつわを下に置いて脣をぴちゃぴちゃ舐めながら、自分の言うことを言い出した。

「ああ! それよりはもっと悪いんさ! ああいう可哀そうな畜生どもがしょっちゅう口にしてるのはにがい味ばかりなんだ。そして奴らはつらい暮しをしているんだよ、ジャーク。おれの言う通りだろ、ジャーク?」

「お前の言う通りだよ、ジャーク。」というのがムシュー・ドファルジュの返事であった。

 この三度目の洗礼名の交換が終った瞬間に、マダーム・ドファルジュは爪楊枝をやめて、眉毛をきっと上げ、自分の座席で少しさらさら音をさせた。

「待てよ! うん、なるほど!」と彼女の夫は呟いた。「諸君、──わしの家内だ!」

 三人の客はマダーム・ドファルジュに向って自分たちの帽子を脱いで、それを大袈裟に振り𢌞した。彼女は、頭をぐるりと向け、彼等をちらっと見て、彼等の敬礼に報いた。それから、彼女は何気ない風に店の中をちらりと見𢌞し、見たところ非常に平静な沈著な様子で自分の編物を取り上げて、余念なく編み出した。

「諸君、」ときらきら光る眼を注意深く彼女に注いでいた彼女の夫は、言った。「さよなら。あの独身者向きに設備してある部屋は、それ、君たちが見たいと言って、さっきわしがちょっと表へ出た時に尋ねていたあの部屋だが、あれは六階にあるんだ。そこへゆく階段の出入口は、わしの家の窓際の、この左手にくっついた、」と手で指しながら、「小さな中庭のところにあるよ。しかし、今思い出したんだが、君たちの中の一人はあすこへ行ったことがあるんだから、道案内は出来る訳だね。じゃ、諸君、さようなら!」

 その三人の客は飲んだ葡萄酒の勘定を払って、そこから出て行った。ムシュー・ドファルジュの眼は編物をしている妻をじっと見守っていたが、その時、例の紳士がさっきの隅っこから進み出て、ちょっと一ことお伺いしたいと言った。

「お安いことで。」とムシュー・ドファルジュは言って、その紳士と一緒に戸口のところまで静かに歩を運んだ。

 二人の会談は極めて短かったが、また極めててきぱきしたものだった。ほとんど最初の一語で、ムシュー・ドファルジュははっとして非常に注意深く耳を傾けた。それが一分と続かないうちに、彼はうなずいて出て行った。すると紳士は例の若い淑女を手招きして、その二人もまた出て行った。マダーム・ドファルジュは眉毛も動かさずに指を敏捷に動かしながら編物をして、何も見ようとしなかった

 ジャーヴィス・ロリー氏とマネット嬢とは、こうしてその酒店から出て来ると、ムシュー・ドファルジュがつい先刻彼の他の客たちに教えてやったあの階段の出入口のところで彼と一緒になった。そこは悪臭のある小さな暗い中庭に向いていて、多数の人々の住んでいる積み重なったたくさんの家々の共同の入口になっていた。床瓦ゆかがわらを鋪いた薄暗い階段へと続く床瓦を鋪いた薄暗い入口のところで、ムシュー・ドファルジュは昔の主人の息女に対して片膝を曲げて身を屈め、彼女の手を自分の脣にあてた。それは優雅な行為であったが、しかしそのやり方はちっとも優雅ではなかった。数秒の間に極めて著しい変化が彼に起っていたのだ。彼の顔には愛嬌のいいところがなくなったし、けっ放しの様子も少しもなくなり、寡言な、怒りっぽい、危険な人間になっていた。

「ずいぶん高いんです。少々厄介ですよ。ゆっくりかかった方がいいでしょう。」三人が階段を昇りかけた時に、ムシュー・ドファルジュはきっとした声でロリー氏にこう言った。

「あのかたは独りでおられるのですか?」と後者が囁いた。

「独りでですと! お気の毒に、あのかたと一緒にいるなんて者はいやしませんよ。」と今一人のほうが同じ低い声で言った。

「では、あのかたはしょっちゅう独りでおられるんですか?」

「そうです。」

「あのかた自身のお望みで?」

「あのかた自身の余儀ない事情ででさ。あの人たちがわっしを見つけ出して、わっしがあのかたを引取るかどうか、またわっしが危険を冒しても慎重にやってくれるかどうかと聞きただした後で、わっしは初めてあのかたにお目にかかったんですが、──その時あの方は独りであったように、今でもそうなんですよ。」

「ひどく変っておられるでしょうな?」

「変ってるですって!」

 酒店の主人は立ち止って、片手で壁をどんと叩き、恐しい呪いの言葉を呟いた。どんな露骨な返事でもこの半分の力をこめることも出来なかったろう。ロリー氏の気分は、彼が二人の同伴者と共にだんだんと昇ってゆくにつれて、だんだんと沈んでゆくのであった。

 パリーの古くからの込んでいる地域にある、そういう階段や、それの附属物は、今でもずいぶんひどいものであろう。が、その当時では、それは、そういうものに慣れて無感覚になっていない人の感覚には実に厭わしいものだった。大きな不潔な巣のような一つの高い建物の内部にある一つ一つの小さな住居──言葉を換えて言えば、共同の階段に向いている一つ一つの戸口の内にある一室ないし数室──は、銘々の階段の中休み段に銘々の塵芥を山のように積み重ねておき、その上、残りの塵芥を窓から抛り出した。こうして出来たどうにも手のつけようのない始末に負えぬ腐敗の堆塊は、たとい貧窮と剥奪とがそれの無形の不潔物を空気に多量に含めなくてさえも、あたりの空気を十分汚したであろう。そこへその二つの悪い原因が一緒になって加わったものだから、そこの空気はほとんど我慢の出来ぬものになっていた。こういう空気の中を、塵埃と毒気との急勾配の暗い堅坑を通って、路は続いているのであった。ジャーヴィス・ロリー氏は、刻一刻とひどくなって来る自分自身の心騒ぎと、自分の若い同伴者の興奮とに負けて、二度も立ち止って休息した。その立ち止ったのは二度とも陰気な格子のところであった。その格子からは、少しでも腐敗せずに残っている衰えたよい空気は皆逃げ出して、すべての悪くなった不健康な瓦斯体が這い込んで来るように思われたのであった。その銹びた鉄棒の間から、ごちゃごちゃになっている附近の様子が、眼で見えるというよりも、舌で味われるようであった。そして、ノートル・ダムのかの二つの大きな塔の頂よりこっちにある、あるいはそれよりも低いところにある区域内には、健康な生活や健全な熱望などの見込をちょっとでも持っているものは何一つとしてないのであった。

 遂に、階段のてっぺんに達し、彼等は三度目に立ち止った。が、屋根裏部屋の階まで行くには、今までよりももっと勾配の急な、幅の狭い、もう一つ上の階段をまだ昇らなければならなかった。酒店の主人は、あの若い淑女に何か質問をされるのを恐れてでもいるように、絶えず少し先に立って歩き、絶えずロリー氏の歩く側を進んで来たが、このあたりでくるりと向き直り、肩にかけていた上衣のポケットの中を入念に探って、一つの鍵を取り出した。

「じゃ、君、ドアには錠を下してあるんですね?」とロリー氏は意外に思って言った。

「ええ。そうです。」というのがムシュー・ドファルジュの厳しい返事であった。

「君はあの不仕合せなかたをそんなに閉じこめておくのが必要だと思うのですね?」

「わっしは鍵をかけておくのが必要だと思うんです。」ムシュー・ドファルジュはロリー氏の耳のもっと近くで囁いて、ひどく顔をしかめた。

「どうしてです?」

「どうしてですって! もしドアけっ放しになっていようものなら、あの人はあんなに永い間押しこめられて暮して来られたので、こわがって──あばれて──われとわが身をずたずたに引き裂いて──死んでしまうか──どんな悪いことになるかわからないからでさ。」

「そんなことがあり得るだろうか?」とロリー氏は大声で言った。

「そんなことがあり得るだろうかってんですか!」とドファルジュは苦々にがにがしく言い返した。「そうですよ。われわれが美しい世の中に住んでいる時に、そんなことは実際あり得るのです。また、そのほかのそういうようなことがたくさんあり得るんです。あり得るだけじゃない。現にあるのです、──いいですか、あるんですよ! ──あの空の下で、毎日毎日ね。悪魔万歳だ。さあ、行きましょうか。」

 この対話はごく低い囁き声で行われたので、その一語も若い淑女の耳には達しなかった。けれども、この時分には彼女は強烈な感動のためにぶるぶる震え、彼女の顔には深い不安と、とりわけ憂慮と恐怖とが表れていたので、ロリー氏は元気づかせる一二語を言うのを自分の義務と感じた。

「しっかりなさい、お嬢さん! しっかりして! 事務ですよ! 一番つらいことはじきにすんでしまいましょう。ただ部屋の戸口を跨ぐだけのことです。そうすれば一番つらいことはすんでしまうのですよ。それからは、あなたがあのかたに対して持ってお出でになるあらゆるよいこと、あなたがあのかたに対して持ってお出でになるあらゆる慰安、あらゆる幸福が始るのです。ここにおられるわたしたちの親切な友達にそちら側から力を藉してもらいましょう。それで結構、ドファルジュ君。さあ、さあ。事務ですよ、事務ですよ!」

 彼等はゆっくりとそっと上って行った。その階段は短くて、彼等はまもなく頂上へ著いた。そこへ来ると、そこで階段が急に一つ曲っていたので、彼等には突然三人の男が見えるようになった。その三人は一つのドアの脇にぴったり寄り添うて頭を屈めていて、壁にある隙間か穴から、そのドアのついている室の中を熱心に覗き込んでいるのだった。足音が間近に迫って来るのを聞くと、その三人の者は振り向いて、立ち上った。見ると、それはさっき酒店で酒を飲んでいたあの同一の名の三人であった。

「わっしはあなた方が訪ねてお出でなすったのにびっくりして、あの連中のことを忘れてましたよ。」とムシュー・ドファルジュは弁明した。「おい、君ら、あっちへ行ってくれ。わしたちはここで用事があるんだから。」

 三人の者は傍をすうっと通り抜けて、黙ったまま降りて行った。

 その階にはほかドアが一つもないようであったし、自分たちだけになると酒店の主人はそのドアの方へ真直に歩いてゆくので、ロリー氏は少しむっとして囁き声で彼に尋ねた。──

「君はムシュー・マネットを見世物にしてるのかね?」

「わっしは、選ばれた少数の者に、あなたが御覧になったようなやり方で、あの人を見せるのです。」

「そんなことをしていいものですかな?」

わっしはいいと思っています。」

「その少数の者というのはどんな人たちです? 君はその人たちをどうして選ぶのですか?」

「わっしは、わっしと同じ名の者を──ジャークってのがわっしの名ですが──ほんとうの人間として選ぶんです。そういう連中には、あの人を見せてやることはためになりそうなんでね。が、もうしときましょう。あなたはイギリス人だ。だからそんなことは別問題です。どうか、ほんのちょっと、そこで待ってて下さい。」

 二人に後に下っているようにとさとすような手振りをしながら、彼は身を屈めて、壁の隙間から覗いて見た。ほどなく再び頭を揚げると、彼はドアを二度か三度叩いたが、──それは明かにそこで物音を立てるだけの目的でしたのであった。それと同じ目的で、鍵をドアにあてて三四度ずうっと引き、その後で、それを不器用に錠の中へ挿し込み、出来るだけがちゃがちゃさせながらそれを𢌞した。

 ドアは彼の手でゆっくりと内側へ開き、彼は室内を覗き込んで何かを言った。すると弱々しい声が何かを答えた。どちら側からもただの一こと以上はしゃべらなかったに違いない。

 彼は肩越しに振り返って、二人に入るようにと手招きした。ロリー氏は自分の片腕を令嬢の腰にしっかりと𢌞して、彼女を支えた。彼女がぐったりと倒れかかるように感じたからである。

「こ──こ──これは──事務ですよ、事務ですよ!」と彼は励ましたが、その頬には事務らしくもない一滴の涙が光っていた。「お入りなさい、お入りなさい!」

「あたくしあれがこわいのです。」と彼女は身震いしながら答えた。

「あれとは? 何のことです?」

「あのかたのことですの。あたくしの父のこと。」

 彼女はそういう様子だし、案内者は手招きしているので、幾分やけ気味になって、彼は自分の肩の上でぶるぶる震えている彼女の腕を自分の頸にひっかけ、彼女を少し抱え上げるようにして、彼女をせき立てて室内へ入った。彼はドアのすぐ内側のところで彼女を下し、自分にしがみついている彼女を支えた。

 ドファルジュは鍵を引き出し、ドアめ、内側からドアに錠を下し、再び鍵を抜き取って、それを手に持った。こういうことを皆、彼は、順序正しく、また、立てられるだけの騒々しい荒々しい音を立てて、やったのであった。最後に、彼は整然たる足取りで室を横切って窓のあるところまで歩いて行った。彼はそこで立ち止って、くるりと顔を向けた。

 薪などの置場にするために造られたその屋根裏部屋は、薄暗くてぼんやりしていた。何しろ、そこの屋根窓型の窓というのは、実際は、屋根に取附けたドアであって、街路から貯蔵物を釣り上げるのに使う小さな起重機クレーンがその上に附いていた。硝子は嵌めてなく、フランス風の構造のドアならどれも皆そうなっているように、二枚が真中でまるようになっていた。寒気を遮るために、このドアの片側はぴったりとめてあり、もう一方の側はほんのごく少しだけけてあった。そこからわずかな光線が射し込んでいるだけだったので、最初入って来た時には何を見ることも困難であった。そして、こういう薄暗がりの中で何事でも精密さを要する作業をする能力は、どんな人間にしてもただ永い間の習慣によってのみ徐々に作り上げることが出来るだけであったろう。しかるに、そういう種類の作業がその屋根裏部屋で行われていたのであった。というのは、一人の白髪の男が、戸口の方に背を向け、酒店の主人が自分を見ながら立っている窓の方に顔を向けながら、低い腰掛台ベンチに腰掛けて、前屈みになってせっせと靴を造っていたからである。


第六章 靴造り


今日こんにちは!」とムシュー・ドファルジュは、靴を造るのに低く屈んでいる白髪の頭を見下しながら、言った。

 その頭はちょっとの間揚げられ、そして、ごく弱々しい声が、あたかも遠くで言っているかのように、その挨拶に答えた。──

今日こんにちは!」

「相変らず精が出るようですね?」

 永い間の沈黙の後に、頭はまたちょっとの間上げられ、さっきの声が答えた。「はい、──仕事をしております。」今度は、顔が再びがくりと垂れる前に、やつれた両眼が問いかけた人をちょっと見た。

 その声の弱々しさは哀れでもあり物凄くもあった。幽閉と粗食も確かにそれに与ってはいたろうけれども、それは肉体的の衰弱から来る弱々しさではなかった。それの悲惨な特性は、それが孤独でいて声を使うことがなかったことから来る弱々しさであるということであった。その声はずっとずっと以前に立てた音声の最後の弱い反響のようであった。それは人間の声らしい生気ある響をすっかり失っているので、かつては美しかった色彩が色褪せて見る影もない薄ぎたない汚染しみになってしまったような感じを与えるのであった。それは非常に沈んだ抑えつけられた声なので、まるで地下の声のようであった。それは望みの絶えた救われない人間をよくあらわしていて、ちょうど、飢えた旅人が、曠野の中をただ独りさまようて疲れ果て、行き倒れて死ぬ前に、故郷と近親の者とを思い出す時の声はこうでもあろうかと思われるくらいであった。

 無言の作業の数分間が過ぎた。それから例のやつれた眼が再び見上げた。それは、幾分でも興味や好奇心からではなく、その眼の見て知っている唯一の訪問者が立っていた場所から、まだその人が立去っていないことを、予め、ぼんやりと無意識に知覚したからであった。

「わたしはね、」とその靴造りからじっと眼を放さずにいたドファルジュが言った。「ここへもう少し明りを入れたいんですがね。もう少しくらいなら我慢が出来ましょうね?」

 靴造りは仕事をめた。耳をすましているようなぼんやりした様子で、自分の一方の側のゆかを見た。それから、同じように、もう一方の側のゆかを見た。それから、話しかけた人を仰いで見た。

「何と仰しゃいましたか?」

「あなたはもう少しくらいの明りは我慢が出来ましょうね?」

「あんたが入れるというなら、わたしは我慢しなけりゃならん。」(その最後の言葉にほんのごくわずかばかりの力を入れて。)

 開いている方の片扉が更にもう少しけられ、差当りその角度で動かぬようにされた。幅の広い光線が屋根裏部屋の中へさっと射し込み、その靴工がまだ仕上らぬ靴を膝の上に載せたまま働く手を休めている姿を見せた。彼の二三の普通の道具と、鞣皮なめしがわのさまざまの切屑とが、彼の足もとや腰掛台ベンチの上に散らばっていた。彼は、ぎざぎざに刈った、しかしさほど長く延びていない白い鬚と、肉の落ちた顔と、非常に光る眼をしていた。その眼は、よし事実大きくはなかったにしても、まだ黒い眉毛ともじゃもじゃの白髪の下で、肉が落ちて痩せこけた顔のために大きく見えたであろう。ところが、それは生れつき大きかったので、異様に大きく見えた。黄ろいぼろぼろになったシャツののどもとが開いていて、からだしなびて痩せ衰えているのが見えた。彼の体も、古ぼけた麻布の仕事服も、だぶだぶの靴下も、身に著けているすべてのひどい襤褸ぼろ著物も、永い間じかに日光と外気とにあたらなかったために、すっかり色が褪せて、一様にくすんだ羊皮紙のような黄色になっているので、どれがどれだか見分けもつきかねるくらいであった。

 彼は片手を自分の眼と光との間に揚げていたが、その手の骨までが透き通って見えるように思われた。仕事の手を休めたまま、じっとぼんやりした眼付をしながら、彼はそうして腰掛けていた。彼は、音声を場所と結びつける習慣を失ってしまったかのように、最初に自分のこちら側、次にあちら側と見下してからでなければ、決して自分の前にいる者の姿を見ないのであった。まずこんな風にきょろきょろして、口を利くのも忘れてからでなければ、決して口を利かないのであった。

今日きょうのうちにその一足の靴を仕上げようというんですか?」とドファルジュは、ロリー氏に前へ出るようにと手招きしながら、尋ねた。

「何と仰しゃいましたかな?」

今日きょうの中にその一足の靴を仕上げるつもりなのですか?」

「仕上げるつもりだということはわたしには言えません。仕上るだろうと思うだけです。わたしにはわかりません。」

 しかしその質問は彼に仕事のことを思い出させ、彼は再び身を屈めて仕事にかかった。

 ロリー氏は、令嬢をドアの近くに残して、無言のまま前へ出て来た。彼がドファルジュの傍に一二分間ばかりも立っていた頃、靴造りは顔を上げて見た。彼は別の人間の姿を見ても別に驚いた様子は見せなかった。ただ、その姿を見ると彼の片方の手のぶるぶるしている指が脣にふらふらとあてられ(彼の脣も爪も同じ蒼ざめた鉛色をしていた)、それからやがてその手はばたりと仕事のところへ落ち、彼はもう一度靴の上へ身を屈めた。この見上げるのとこれだけの動作をするのとはほんのしばらくしかかからなかった。

「そら、あなたのところへお客さんですよ。」とムシュー・ドファルジュが言った。

「何と仰しゃいましたか?」

「お客さんが来ていらっしゃるよ。」

 靴造りは前のように顔を上げて見たが、しかし仕事から手を離さなかった。

「さあ!」とドファルジュが言った。「ここに、出来のよい靴を見ればすぐおわかりになるかたが来てお出でになるのだ。お前の拵えているその靴をこのかたにお目にかけなさい。旦那ムシュー、それを取ってみて下さい。」

 ロリー氏はそれを手に取った。

「このかたに、それがどんな種類の靴か、また製造者の名前は何というのか、申し上げなさい。」

 いつもよりももっと永い間をおいてから、靴造りはこう答えた。──

「あんたのお尋ねになりましたのはどんなことだったかわたしは忘れました。何と仰しゃいましたのですか?」

「このかたの御参考に靴の種類を説明してあげることが出来ないか? と言ったのだよ。」

「それは婦人靴です。若い婦人の散歩靴です。それは今の流行のものです。わたしはその流行を一度も見たことがありませんでした。わたしは型を一つ持っているのです。」彼は、つかのほんの微かな誇りの色を浮べながら、その靴をちらりと見やった。

「それから製造者の名前は?」とドファルジュが言った。

 その靴造りは、する仕事がなくなったので、右手の指のふしを左のてのひらに載せ、次には左手の指の節を右の掌に載せ、それから次には片手で鬚の生えた頤を撫で、そういうことを規則正しく一瞬も休まずに続けた。彼が口を利いた後で必ず陥る放心状態から彼を囘復させる骨折は、誰か非常に虚弱な人を気絶から囘復させたり、何かの打明け話を聞くことが出来ようかと思って、死にかかっている人間の魂を引き止めようと努めたりするのに似ていた。

「わたしの名前をお尋ねになりましたのですか?」

「いかにも尋ねた。」

「北塔百五番。」

「それだけか?」

「北塔百五番。」

 吐息といきともき声ともつかぬものういをほっと洩らすと共に、彼はまた身を屈めて仕事をし出したが、やがて沈黙はまた破られた。

「あなたは本職の靴造りではないのでしょうね?」と、彼をじっと見つめながら、ロリー氏が言った。

 この質問をドファルジュに転嫁したがっているかのように、彼のやつれた眼はドファルジュの方に向いた。が、その方面からは何の助けも来なかったので、その眼はゆかを捜してから質問者に戻った。

「わたしが本職の靴造りではないだろうって? はい、わたしは本職の靴造りではありませんでした。わたしは──わたしはここへ来てから覚えたのです。独りで覚えたのです。わたしはお許しを願って──」

 彼はそう言いかけたまま何分間もぼんやりした。その間中、あの両手の規則的な代る代るの動作を繰返していた。彼の眼は、とうとう、そこからさまよい出た元の顔へゆっくりと戻った。その顔に止ると、彼ははっとして、眠っていた人がつい今目が覚めて、前夜の話題をまた話し出すような工合に、再び言い始めた。

「わたしはお許しを願って独りで覚えたいと思いましたが、ずいぶん永い間かかってやっとのことでそのお許しを得ました。その時からずっと靴を造っております。」

 彼が取り上げられている靴を受け取ろうとして手を差し出した時に、ロリー氏はなおも彼の顔をじっと覗き込みながら言った。──

「ムシュー・マネット、あなたは私のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか?」

 靴はゆかにばたりと落ち、彼はその質問者をじいっと眺めながら腰掛けていた。

「ムシュー・マネット、」──ロリー氏は自分の片手をドファルジュの腕にかけて、──「あなたはこの人のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか? この人をよく御覧なさい。私をよく御覧なさい。あなたのお心の中には、昔の銀行員や、昔の仕事や、昔の召使や、昔のことが少しも浮んで参りませんか、ムシュー・マネット?」

 その永年の間の囚人がロリー氏とドファルジュとを代る代るじいっと見つめながら腰掛けているうちに、ひたいの真中の、永い間掻き消されていた、活動的な鋭い知能のしるしが、彼にかぶさっていた黒い霧を押し分けてだんだんと現れて来た。と、その徴は再び霧に覆われ、次第に微かになり、とうとう消え去ってしまった。が、それは確かにそこに現れたのであった。そして、その表情は、壁に沿うて彼の姿の見られるところまでそうっと歩いて来て、今はそこに彼を見つめながら立っている令嬢の、美しい若い顔にも寸分の違いなくそっくりに現れたので、──その彼女は、最初は、たとい彼を近づけず彼の姿を見まいとするためではないにしても、恐怖をまじえた憐憫の情から両手をただ挙げていただけであったのに、今は、亡霊のような彼の顔を自分の暖かな若い胸に休ませて、それを愛撫して生命と希望とに引戻してあげたいという熱望で震わせながら、その手を彼の方に差し伸べていたのであるが、──その表情は彼女の美しい若い顔にも寸分の違いなく(もっともその性質はいっそう強かったが)そっくりに現れたので、移り動く光のようにそれが彼から彼女に移ったのかと思われるくらいであった。

 暗黒がその表情に代って彼に覆いかぶさっていた。彼が二人を見つめる注意が次第次第に弱くなり、その眼は陰鬱な放心状態で前のようにしてゆかを捜し自分の周りを見𢌞した。遂に、深い長い吐息を一つつくと、彼は靴を取り上げて、また仕事にかかった。

「あのかただという見分けがおつきになりましたか、旦那ムシュー?」とドファルジュが囁き声で尋ねた。

「つきました。一瞬間ですがね。最初はわたしはそれを全く望みがないと思いましたが、ほんの一瞬間、わたしが以前よっく知っていた顔を確かに見ました。しいっ! わたしたちはもっと後へさがりましょう。しいっ!」

 彼女は屋根裏部屋の壁のところから離れて、彼の腰掛けている腰掛台ベンチのごく近くまで行っていた。手を差し出せば身を屈めて仕事をしている自分に触れるところにいる人の姿をも意識しない彼の様子には、何となくぞっとするようなところがあった。

 一語も話されなかったし、何の音も立てられなかった。彼女は彼の傍に精霊のように立っていたし、彼は仕事をしながら屈んでいた。

 そのうちに、彼は手に持っている道具を靴造り用の小刀ナイフに持ち替える必要が出来た。その小刀ナイフは彼女の立っている側と反対の側にあった。それを取り上げて、再び仕事にかかろうと屈んだ時に、ふと彼女の衣服のスカートが目についた。彼は眼を上げて、彼女の顔を見た。傍に見ていた二人の者ははっとして前へ出た。が、彼女は片手を動して彼等を制止した。彼がその小刀ナイフで彼女を突き刺しはしまいかと、彼等は懸念したにしても、彼女は少しもしなかった。

 彼は恐しい眼付で彼女を見つめた。そして、しばらくしてから、彼の脣は、まだ少しの声もそこから出て来はしなかったけれども、何かの言葉を言う形をし出した。漸次に、速い苦しげな息遣いの合間合間に、こう言うのが聞えて来た。──

「これはどうしたことだろう?」

 涙を顔にぽろぽろ流しながら、彼女は自分の両の手を脣にあて、それに接吻して彼に送った。それから、その手をちょうど彼の破滅させられた頭をそこに休ませるかのように、自分の胸の上に組み合せた。

「あなたは牢番さんの娘さんではありませんね?」

 彼女は溜息をつくように言った。「ええ。」

「あなたは誰ですか?」

 彼女は、まだ自分の声の調子があてに出来なかったので、彼と並んでその腰掛台ベンチに腰を掛けた。彼は尻込みした。が彼女は自分の片手を彼の腕にかけた。彼女がそうした時に奇妙な戦慄が彼を襲い、それが目に見えて彼の体中に伝わった。彼は彼女を見つめながら、小刀ナイフをそっと下に置いた。

 長い捲毛にしている彼女の金髪は、ぞんざいに掻き分けてあって、彼女の頸のところまで垂れていた。彼は手を少しずつ伸ばし、その髪を手に取り上げてじっと見入った。そうしている最中に彼は気がふらふらとして、もう一度深い吐息をつくと、靴を造る仕事を始めた。

 しかし永い間ではなかった。彼女は彼の腕を放して、彼の肩に手をかけた。すると彼は、あたかもその手がほんとうにそこにあるのかということを確めようとするかのように、二度か三度それを疑わしげに眺めてから、仕事を下に置き、自分の頸のところへ手をやって、黒くなった一筋の紐を取り出した。その紐にはたたんである襤褸の小片が結びつけてあった。彼はそれを膝の上で気をつけてけた。中にはほんの少しの髪の毛が入っていた。彼がいつか以前に自分の指に巻きつけて取ったらしい一筋か二筋の長い金髪だった。

 彼は彼女の髪の毛を再び手に取って、それをつくづくと眺めた。「同じものだ。どうしてそんなことがあるはずがあろう! あれはいつのことだったろう! どうしてだったかな!」

 例の思いを凝すような表情が彼の額に戻って来た時、彼はその表情が彼女の額にもあるのに気がついたようであった。彼は彼女を光の方へまともに向けて、彼女を眺めた。

「わしが呼び出されたあの晩、彼女あれはわしの肩に頭をあてていた。──彼女あれはわしの出かけるのを心配していた。わしの方は少しも心配などしなかったのに。──それからわしが北塔へ連れて来られた時に、これがわしの袖についているのをあの人たちが見つけたのだ。『あなた方もこれはわたしに残しておいて下さるでしょうな? これはわたしの魂の脱獄には助けになるかもしれんが、体の脱獄には決して助けになることは出来んものだから。』わしはそう言ったものだった。わしはそれをよく覚えている。」

 彼はこれだけの文句を口に出せるまでには、何度も何度も脣でその文句の形をしてみたのであった。しかし、話そうとする言葉が出て来始めると、ゆっくりではあったけれども、次々に続いて出て来た。

「これはどうしてだったろうな? ──あれはあなただったのか?」

 彼が恐しく不意に彼女の方に振り向いたので、もう一度、二人の傍観者ははっとした。だが、彼女は彼の手に掴まえられたまま全くじっと腰掛けていて、ただ低い声でこう言った。「どうぞ、お願いでございますから、皆さま、あたくしたちの近くへお出で下さいますな、口をお利き下さいますな、お動き下さいますな!」

「おや!」と彼は叫んだ。「あれは誰の声だったかな?」

 この叫び声を立てると彼は両手を彼女から離し、自分の白髪のところへ上げて、気違いのようにそれを掻きむしった。それも次第に止んでしまった。彼の靴造りの仕事以外のどんなことでも彼には次第に止んでゆくように。そして彼はあの小さな包みを再び摺み、それを胸のところへしまいこもうとした。が、やはり彼女を見ていて、陰気な顔をしながら頭を振った。

「いや、いや、いや。あなたは若過ぎる。若盛り過ぎる。そんなことはあるはずがない。この囚人がどんなになっているか見て御覧。この手は彼女あれの知っていた頃の手ではない。この顔も彼女あれの知っていた頃の顔ではない。この声も彼女あれの聞いたことのある声ではない。いや、いや。彼女あれも──またその頃のわしも──北塔で永い年月としつきがたたぬ前のことだ、──ずっとずっと昔のことだ。優しい天使さん、あなたの名前は何というのですか?」

 彼の語調と挙動とのやわらいだのに喜んで応ずるように、彼の娘は彼の前に跪いて、訴えるように両手を彼の胸のところへ差し出した。

「おお、あなたさま、いつかまた別の時に、あたくしの名前や、あたくしのお父さまがどなたでしたか、お母さまがどなたでしたか、またそのお二人のつらいつらいお身の上をどうしてあたくしがちっとも知らずにいましたか、お話申し上げましょう。けれども、今は申し上げられません。ここでは申し上げられません。ここで今申し上げられますのは、どうかあたくしにお手をあててあたくしを祝福して下さいましとお願いすることだけでございますわ。あたくしに接吻して下さいまし、接吻して下さいまし! おお、おなつかしいお方、お懐しいお方さま!」

 彼の冷い白い頭は彼女のつやつやした髪の毛とまじり、その髪は彼を照す自由の光であるかのようにその頭を温め輝かせた。

「もしあなたがあたくしの声をお聞きになりまして、あたくしの声に──そうなのかどうかあたくしは存じません、そうであるようにと思っているのでございますが──あたくしの声に、以前あなたのお耳にとって美わしい音楽でありましたお声に幾らかでも似たところがございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあなたがあたくしの髪にお触りになりまして、あなたがお若くて自由でいらした頃にあなたのお胸にもたれた最愛のかたのおつむりを思い出させるものが何でもございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあたくしがこれから御一緒に家庭をつくって、出来るだけ忠実に出来るだけ真心をこめてあなたにお仕えいたしましょうと申し上げます時に、あなたのお気の毒なお心が思い悩んでいらっしゃる間、永い間見棄てられていた家庭を思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし!」

 彼女は彼の頸をいっそうしっかりと抱き締めて、彼を子供のように自分の胸のところで揺り動かした。

「もしあたくしが、お懐しいお懐しいお方、あなたのお苦しみはもうすみました、そのお苦しみからあなたをお救いするためにあたくしはここへ参りました、あたくしたちは平和に安穏に暮すためにイギリスへ行くのです、と申し上げます時に、あなたが、御自分の有益な御生涯が無駄になりましたことや、あたくしたちの生れ故郷のフランスがあなたにたいそう意地わるであったことを思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! それからまた、もしあたくしが自分の名前と、生きてお出でになるあたくしのお父さまのお名前と、おくなりになりましたお母さまのお名前を申し上げます時に、あたくしのお気の毒なお母さまが御慈愛からあたくしのお父さまのお苦しみをあたくしにお隠しになりましたため、あたくしがお父さまのために一日中骨を折ったことや一晩中眠らずに泣き明かしたことが一度もなかったことを、あたくしの立派なお父さまの前に跪いて、お父さまのおゆるしをお願いしなければならないのです、ということがおわかりになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! お母さまのために、それから、あたくしのために、お泣き下さいまし! まあ皆さま、何て有難いことでしょう! 父の浄らかな涙があたくしの顔に落ちますの。父の啜り泣きがあたくしの胸に響いて来ますの。おお、御覧下さいまし! あたくしたちのために神さまに感謝して下さいまし、何と有難いことでしょう!

 彼は彼女の胸の中でぐったりとなり、その顔は彼女の胸のところに落ちていた。それは実に感動的な光景であった。しかも、これまでに彼が受けて来た非行と苦難とを思えば、実に恐しい光景であった。二人の傍観者は顔を蔽うたのであった。

 屋根裏部屋の静けさは永い間乱されずにいた。そして、彼の波打つ胸も震える体も、あらゆる嵐の後に必ず来るあの静穏──人間にとっては、生活という嵐が遂には鎮まって必ずそこへ落著くあの休息と沈黙との表象──に永い間委ねられていた。それから、二人の傍観者はその父親と娘とをゆかから抱き起そうと前へ進み出た。父親の方はだんだんにゆかにずり下っていて、疲れ果てて、昏睡状態になってそこで横わっていた。娘の方は、片腕に父の頭を載せておけるようにと、彼と一緒に下へうずくまっていた。そして、彼に垂れかかっている彼女の髪の毛は彼から光を除けていた。

「もし父を起さずにおいて、」と彼女は、ロリー氏が何度も鼻をかんだ後で二人の上に身を屈めた時に、ロリー氏に片手を挙げながら、言った。「父をこの家からすぐ連れて行けるように、あたくしたちがすぐさまパリーを立つ手筈がすっかり出来ますならば──」

「だが、お考え下さい。お父さまは御旅行をなすってもよろしいですか?」とロリー氏が尋ねた。

「父にとってあんなに恐しいこの都にいるよりは、まだしもその方がよい、とあたくしは思いますわ。」

「それあそうですよ。」と、見たり聞いたりするのに跪いていたドファルジュは、言った。「そればかりじゃありません。ムシュー・マネットは、あらゆる理由から、フランスを去られる方が一番いいんです。じゃあ、わっしは馬車と駅馬を雇って来ましょうか?」

「それは事務ですな。」とロリー氏は、すぐさま彼の几帳面な態度に返りながら、言った。「事務をやらねばならんのでしたら、わたしがやる方がいいでしょう。」

「では、どうぞあたくしたち二人をここに残しておいて下さいまし。」とマネット嬢は言い張った。「御覧の通り父はこんなに落著いて参りましたから、もう父をあたくしと一緒に残してお出でになりましても御心配はございません。どうして御心配なことなどございましょう? 誰も入って来ませんようにドアに錠を下して下さいますなら、きっと、父は、あなた方がお戻りになります時には、お出かけの時と同じように穏かにしておりますでしょうよ。何にしましても、あなた方がお帰りになりますまであたくしは父を預りましょう。そしてお帰りになりましたらあたくしたちは早速父を連れ出すことにいたしましょう。」

 ロリー氏もドファルジュも二人とも、このやり方は幾分気が進まず、二人の中のどちらか一人が残ることに賛成であった。けれども、馬車と馬の手配りをしなければならぬだけではなく、旅行免状の手配りもしなければならなかったし、それに、日も暮れようとしていて、時間が切迫していたので、とうとう、ぜひしなければならない用事を大急ぎで二人に分けて、それをしに二人が急いで出かけるということになった。

 それから、闇が迫って来ると、娘は自分の頭を父親のすぐ傍の堅いゆかの上に横えて、彼を見守っていた。闇はだんだんと濃くなって来た。そして二人は静かに横わっていた。そのうちに、とうとう、壁の例の隙間から灯光が一つちらちら洩れて来た。

 ロリー氏とムシュー・ドファルジュとが、すっかり旅行の準備をすませて、旅行用の外套や肩掛膝掛などのほかに、パンと肉、葡萄酒、熱い珈琲を携えて来た。ムシュー・ドファルジュは、この食糧と、彼の持っているランプとを、靴造りの腰掛台ベンチ(その屋根裏部屋にはそれ以外に藁蒲団の寝台ベッドが一つあるだけだった)の上に置いた。それから彼とロリー氏とは囚人を呼び覚し、助けて立ち上らせた。

 彼の顔に現れた、おびえたような、茫然とした驚きの中に、彼の心の奥を読み取ることは、いかなる人智にも出来なかったろう。彼がこれまでに起ったことを知っているのかどうか、彼等が彼に言ったことを思い出せるのかどうか、彼が自分の自由になっていることを知っているのかどうか、それはいかなる智慧も解くことの出来ない疑問であった。彼等は彼に話しかけてみた。が、彼はひどくまごまごして、返事もなかなか出来ないので、彼等は彼の当惑する様にびっくりして、当分はその上彼をいじくらないことにしようということにした。彼は、時々両手で頭を抱えるような、前には彼に見られなかった、狂気じみた、我を忘れたような挙動をした。それでも、娘の声だけでも聞くのは幾分気持がよいらしく、彼女が口を利く時にはきっとその方へ振り向くのであった。

 圧制に服従するのに永い間慣れていた人間に見られる柔順な態度で、彼は、彼等が飲み食いするようにと与えたものを飲み食いし、彼等が身に著けるようにと与えた外套やその他の身に纒うものを著た。彼は娘がその腕を彼の腕と組もうとするのにすぐに応じて、彼女の手を自分の両手に取って──放さずに持っていた。

 一同は下へ降り始めた。ムシュー・ドファルジュはランプを持って真先に行き、ロリー氏はその小さな行列の殿しんがりになった。あの長い本階段をそう幾段も降りないうちに彼は立ち止って、屋根をじっと見つめ、壁をじろじろ見𢌞した。

「この場所を覚えていらっしゃいますか、お父さま? あなたはここを上っていらしたことを覚えていらっしゃいますか!」

「何と仰しゃったかな?」

 しかし、彼女がその問を繰返さないうちに、彼はあたかも彼女がその問を繰返したかのように答を呟いた。

「覚えているかって? いいや、覚えていない。あれはずいぶん以前のことだったからな。」

 彼が牢獄からこの家へ連れて来られたことについては少しの記憶も持っていないのは、彼等には明白になった。彼等は彼が「北塔百五番。」と呟くのを聞いた。そして、彼が自分の周囲を眺める時には、明かにそれは自分を永い間取囲んでいた堅固な城壁を探し求めるためであったのだ。一同が中庭まで来ると、彼は、吊上げ橋のあるのを予期しているように、知らず識らずのうちに歩き振りを変えた。ところが、吊上げ橋がなくて、からりとしている街路に馬車が待っているのを見ると、彼は娘の手を放して、また自分の頭を抱えた。

 入口のあたりには人だかりもなかった。たくさんの窓のどれにも人影は見えなかった。街路にも偶然に通りかかっている人さえ一人もいなかった。不自然なほどの沈黙と寂寞とがあたりを領していた。ただ一人の人間だけが見えた。それはマダーム・ドファルジュであった。──彼女は入口の側柱に凭れかかって編物をしていて、何も見ずにいた。

 かの囚人が馬車の中へ入ってしまい、彼の娘がその後に続いて入ってしまった時に、ロリー氏は、囚人が彼の靴を造る道具とあの仕上っていない靴とを哀れげに求める声を聞いて、踏台の上に足を止めた。マダーム・ドファルジュはただちに自分の夫に声をかけて自分がそれを取って来ようと言い、編物をしながら、中庭を通って、ランプの光の届かぬところへ歩いて行った。彼女は急いでそれを持って降りて来て、馬車の中へそれを手渡しした。──そしてすぐに入口の側柱に凭れかかって編物をし、何も見ようとしなかった。

 ドファルジュは馭者台に乗って、「城門へ!」と命じた。馭者は鞭をひゅうっと鳴らし、一同の乗った馬車は弱い光を放って頭上に吊り下っている街灯の下をがらがらと走って行った。

 頭上に吊り下っている街灯──立派な街になるほどますます明るく、悪い街になるほどますます薄暗く吊り下っている──の下を通って、また、灯火のついた店や、楽しげな群集や、灯光で装飾された珈琲店や、劇場の入口などの傍を通り過ぎて、市門の一つへと。そこの衛兵所の、角灯を持った兵士たち。「免状だ、旅行者たち!」「ではこれを御覧下さい、お役人さん。」とドファルジュが、馬車から降りて、その役人たちを由々しげに離れたところへ連れてゆきながら、言った。「これが車内の頭の白い人の旅行免状です。この免状は、あの人と一緒に、わっしが──で引渡されまし──」 彼は声を低くした。すると衛兵たちの角灯の間にざわめきが起った。そして、その角灯の一つが軍服を著た腕で馬車の中へ突き入れられると、その腕に接続した眼が、不断の日の、いや不断の夜の眼付とは違った眼付で、その頭の白い人を眺めた。「よろしい。通れ!」と軍服から。「御機嫌よろしゅう!」とドファルジュから。そして、だんだんと光の弱くなってゆく頭上に吊り下っている街灯がしばらく続いている下を通って、星が広くたくさん輝いている下へ。

 動かざる永遠のともしび──その中のあるものは、この小さな地球から非常に遠く隔っているので、その光線が果してこの地球をそこで何事でも苦しんだりしている空間中の一点として見つけたことさえあるかどうか疑わしいと学者が言っている──のその穹窿の下に、夜の影は広々とまた黒々としていた。夜が明けるまでの、冷い、眠られぬがちな時間を通じて、その夜の影は、ジャーヴィス・ロリー氏──埋められていて掘り出された人と向い合って腰を掛け、この人からどんな微妙な能力が永久に失われたのか、どんな能力が囘復出来るのかといぶかっているロリー氏──の耳に、もう一度、あの以前の問を囁いた。──

「あなたはよみがえりたいとお思いでしょうね?」

 それからまたあの以前の答を囁くのだった。──

「わしにはわからない。」

第二巻 黄金こがねの糸


第一章 五年後


 テムプル関門バーの傍のテルソン銀行は、一千七百八十年においてさえ、古風な場所であった。それはごく狭くて、ごく暗くて、ごく不体裁で、ごく勝手が悪かった。その上に、その商社の社員たちがその狭いのを誇りとし、その暗いのを誇りとし、その不体裁なのを誇りとし、その勝手の悪いのを誇りとしているという精神的の特質でも、それは古風な場所であった。彼等は自分の銀行が狭くて暗くて不体裁で勝手の悪い点で際立っていることを自慢さえしていて、もしそれがこれほどひどくなかったならば、銀行の品格はそれだけ低くなるだろうという、明確な信念に燃えていた。これは決して消極的な信念ではなくて、もっと便利な営業所に対して彼等が閃かす積極的な武器であった。テルソンは(と彼等は言うのだった)何もゆとりなどを必要としない。テルソンは何も明りなどを必要としない。テルソンは何も装飾などを必要としない。ノークス商会には必要かもしれぬ。スヌークス兄弟商会には必要かもしれぬ。だが、テルソンには、有難いことには! だ──。

 こういう社員は誰でも、テルソン銀行を改築しようなどという問題を持ち出そうものなら、自分の息子でも勘当したことであろう。この点ではその銀行はこの国とよほど似ていた。この国は、永い間非常に非難のあった、しかし品格だけはますます備わって来た法律や慣習を改善しようと言い出した息子たちを、はなはだしばしば勘当したのだから。

 こういう次第で、テルソン銀行は意気揚々と不便の極致になってしまっていた。白痴のように強情なドアを低い軋り音を立てながらぐいとけた後に、諸君はテルソン銀行の中へ二段だけ下って降りる。そして、小さな勘定台の二つある、みすぼらしい、小さな店の中で、諸君は我に返る。そこでは、この上もなく年をとった人たちが、諸君の小切手をちょうど風がそれをさらさら音を立てさせるかのように振り動かしてみたり、また、この上もなく黒ずんだ窓の傍でその署名を調べてみたりする。その窓はフリート街から来る泥土をいつも雨のように浴びせられていて、その窓に附いている鉄格子と、テムプル関門バーの重苦しい影とのためにいっそう黒ずんでいたのだ。もし諸君が自分の用件で「銀行」と会う必要が生ずるならば、諸君は奥の方にある罪人の監房のようなところに入れられる。諸君がそこで空費された生涯ということについて黙想していると、やがて銀行は両手をポケットに突っ込んでやって来る。そこの陰気な薄明りの中では諸君は彼を辛うじて細眼ほそめで見ることが出来るだけだ。諸君のおかねは虫の喰った古い木製の抽斗ひきだしの中から出て来る。またはその中へ入って行く。その抽斗がけられたりめられたりする時に抽斗の微分子が諸君の鼻の中を舞い上ったり諸君ののどを舞い下ったりするのである。諸君の銀行紙幣は、まるでそれが再びもとの襤褸ぼろにずんずん分解しつつあるかのように、黴臭い匂いをしている。諸君の金属器類はそこらあたりのどぶ溜のようなところの中へしまいこまれる。そしてしき交りがそれの善き光沢を一日か二日のうちにそこなのである。諸君の証券は台所と流し場とを改造した俄か造りの貴重品室の中へ入ってしまう。そしてその羊皮紙から脂肪がすっかりい取られてその銀行の空気になってしまう。家庭の書類を入れた諸君の軽い方の箱は、階上の、いつも大きな食卓が置いてあるが決して御馳走のあったことがないバーミサイドの部屋へ上って行く。そして、その部屋で、一千七百八十年においてさえ、諸君の以前の愛人や諸君の小さな子供たちによって諸君に宛てて書かれた最初の手紙は、アビシニアかアシャンティーにふさわしい狂暴な残忍さと兇猛さとをもってテムプル関門バーの上に曝されている首に、窓越しに横目で見られる恐怖から、ようやくのことで免れるのである。

 しかし、実際、その当時では、死刑に処するということは、あらゆる商売や職業に大いに流行している方法であった。そしてテルソン銀行でもそれにおくれは取らなかった。死ということはあらゆることに対する大自然の療法である。とすればどうしてそれが法律の療法でないことがあろうか? そういう訳で、文書偽造者は死刑に処せられた。不正な紙幣の行使者は死刑に処せられた。信書の不法開封者は死刑に処せられた。四十シリング六ペンスを偸んだ者は死刑に処せられた。テルソン銀行の戸口にいる馬の番人が馬を曳いて逃走して死刑に処せられた。不正貨幣の鋳造者は死刑に処せられた。犯罪の全音域中の楽音を鳴らす者の四分の三は死刑に処せられた。そうしたところで犯罪防止に少しでも役に立ったという訳ではない、──事実は全くその正反対であったと言ってもいいくらいであったかもしれぬ、──が、そうすることは一つ一つの事件の煩わしさを一掃(現世に関する限りでは)して、それに関係のあることで考慮しなければならないようなことを他に一切残さなかったのだ。そういう次第で、テルソン銀行も、その全盛時代には、同時代の他の大きな営業所と同様に、非常に多くの人命を奪ったものである。だから、もしその銀行の前で打ち落された首が、こっそりと始末されないで、テムプル関門バーの上にずらりと並べられていたならば、その首は、おそらく、銀行の一階が受けているわずかばかりの明りをかなりはなはだしく遮ったことであろう。

 テルソン銀行のさまざまの薄暗い食器戸棚や兎小屋のようなところに押しこめられて、この上もなく年をとった人たちがいかにも真面目まじめに事務を執っていた。彼等は青年をテルソン銀行ロンドン商社に採用した時には、その青年が老年になるまで彼をどこかに隠しておく。彼等は彼を乾酪チーズのように暗い場所に貯蔵しておくのだ。するとしまいに彼は十分にテルソン風の風味と青黴とを帯びて来るのである。そうなってようやく、彼は、人目に立つように大きな帳簿を調べたり、自分のズボンとゲートルとを銀行の全体の重みに加えたりして、人目に触れることを許されるのであった。

 テルソン銀行の戸外に──呼び入れられる時でなければどうあっても決して入ることのない──時には門番になり時には走使はしりづかいになる、雑役夫が一人いて、その銀行の生きた看板になっていた。彼は、使いに行っている時のほかは、営業時間中にはそこにいないことは決してなかった。そして、その使いに行っている時には、彼のせがれが彼の代理をした。彼にそっくり生写いきうつしの、十二歳になる、人相の悪い腕白小僧だ。世間の人々は、テルソン銀行が大まかなやり方でその雑役夫を使ってやっているのだということを承知していた。その銀行はいつも誰かしらそういう資格の人間を使ってやっていたのであって、歳月がこの人間をその地位に運んで来たのである。彼の姓はクランチャーといって、幼少の頃に、ハウンヅディッチの東教区教会で、代理人を立てて悪行を棄てると誓った時に、ジェリーという名を附け加えてもらっていた。

 場面は、ホワイトフライアーズのハンギング・ソード小路アレーにおけるクランチャー氏の私宅であった。時は、わが主の紀元アノー・ドミナイ千七百八十年、風の強い三月のある日の朝、七時半。(クランチャー氏自身はわが主の紀元のことをいつもアナ・ドミノーズと言っていた。キリスト紀元なるものはあの一般に流行している遊びの発明された時から始っているのであって、それを発明したある婦人が自分の名をそれに与えたのだ、と明かに思い込んでいたものらしい。

 クランチャー君の借間アパートメントは附近が悪臭のない場所ではなかった。そして、たといたった一枚だけの硝子板の嵌っている物置を一室に数えるとしても、間数まかずは二つきりであった。しかし、その二はごくきちんと片附いていた。その風の強い三月のある日の朝、まだ時刻が早かったのに、彼の寝ている部屋はもうすっかり拭き掃除がしてあった。そして、朝食の用意に並べてあるコップや敷皿と、がたがたする樅板との間には、ごく清潔な白い布が掛けてあった。

 クランチャー君は、くつろいでいるハーリクィンのように、補綴つぎはぎだらけの掛蒲団をかぶって寐ていた。最初は、ぐっすりと眠っていたが、だんだんと、寝床の中でのたくり𢌞ったり波打ったりし始め、遂には、例の忍返しのびがえしを打ちつけたような髪の毛で敷布シーツをずたずたに裂きそうにしながら、蒲団の上へぬっと起き上った。その途端に、彼は恐しく怒り立った声で呶鳴った。──

「畜生、あいつめまたやってやがるな!」

 部屋の一隅に跪いていた、おとなしそうな、勤勉そうな女が、今言われたあいつとは彼女のことであるということが十分にわかるほどあわてておどおどして、立ち上った。

「こら!」とクランチャー君は、寝床の中から片方の長靴を探しながら、言った。「おめえまたやってやがるな。そうだろ?」

 この二度目の会釈で朝の挨拶をすませると、彼は三度目の会釈として片方の長靴をその女をめがけて投げつけた。それはひどく泥だらけな長靴であった。そして、それは、彼が銀行の時間がすんでからきれいな靴で家へ戻って来るのに、次の朝起きる時にはその同じ長靴が粘土だらけになっていることがしばしばあるという、クランチャー君の家事経済に関係のある、奇妙な事柄を紹介し得るのである。

「何を、」とクランチャー君は、狙ったまとてそこなってから自分の呼びかける人間の言い方を変えて、言った。──「何を手前てめえはしてやがったんでえ、人に迷惑をかける奴め?」

「わたしはただお祈りを唱えていただけですよ。」

「お祈りを唱えていたと! ひでえ阿魔あまだよ、手前てめえは! へえつくばりやがって、おれに悪いことになるようにって祈るなんて、どういうつもりなんだ?」

「わたしはお前さんに悪いようになんて祈りやしませんよ。お前さんによいようにと祈ってたんです。」

「そうじゃねえだろ。よしそうだったにしろ、おれあそんな勝手な真似なんぞしてもれえたかねえ。おい! めえのおっかあはひでえ女だぜ、ジェリー坊。おめえとうちゃんの運がよくならねえようにってお祈りをするんだからな。おめえは律義なおっ母を持ったもんだよ、おめえはな、小僧。おめえは信心深えおっ母を持ったもんだぞ、おめえはよ、なあ、坊主。へえつくばって、自分の独り息子の口からバタ附きパンをひったくって下さいって祈るんだからなあ!」

 小クランチャー君(彼はシャツのままでいた)はこれをひどく怒って、母親の方へ振り向くと、自分の食物を祈って取ってしまうようなことは一切してくれるなと烈しく異議を唱えた。

「ところで、この自惚うぬぼれ女め、手前てめえはな、」とクランチャー君は、前後撞著に気がつかずに、言った。「手前のお祈りの値打がどれだけあるだろうと思ってるんだい? 手前のお祈りに手前てめえのつけてる値段を言ってみろ!」

「わたしのお祈りは心の中から出て来るだけだよ、ジェリー。それよりほかに値打ってありゃしないよ。」

「それより他に値打ってありゃしないだと。」とクランチャー君は繰返して言った。「じゃあ、てえして値打のねえものなんだな。あったってなくったって、おれあもう祈ってもれえたかねえんだぞ。おれあそんなこたあ我慢が出来ねえ。おれあ手前がこそこそやってそのために不仕合せにされるなんて厭だ。手前てめえがぜひともへえつくばらなけりゃならねえんなら、手前てめえの亭主や子供のためになるようにへえつくばれ。ためにならねえようにやるんじゃねえぞ。もしおれに邪慳じゃけんな女房さえなかったならだ、そいからこの可哀かええそうな子供に邪慳なおっ母さえなかったならばだ、おれあ、先週なんざあ、悪いように祈られたり、目論もくろみの裏をかかれたり、信心のために出し抜かれたりして、この上なしの運の悪い目になんぞ遭わねえで、おかねを幾らか儲けてたんだ。ち、ち、畜生め!」とそれまでの間に衣服を著てしまっていたクランチャー君が言った。「あの先週は、神信心だのあれやこれやの呪い事だので、おれあぺてんにかけられて、可哀かええそうな実直な商売人めがこれまで出くわしたことのある中でも一番不仕合せな目に遭ったじゃねえか! おい、ジェリー坊、おめえ著物を著てな、おれが靴を磨いてる間、時々おっ母に気をつけてろよ。そしてまたへえつくばりそうな様子がちょっとでも見えたら、おれを呼ぶんだぜ。てえのはだ、手前てめえ、いいかい、」とここで彼はもう一度女房に話しかけて、「おれあまたあんな風にやられたかねえからなんだぞ。おれあ貸馬車みてえに体がぐらぐらしてるし、阿片チンキを飲んだみてえに眠いし、体の筋はあんまり使い過ぎてるんで、もし痛みでもなかろうものなら、どれがおれでどれが他人ひとさまだかわかんねえくれえなんだ。それだのにおれのふところ工合はそのためにちっともよくはならねえ。で、おれあどうも、手前てめえが朝から晩まであれをやってて、おれの懐工合がよくならねえようにしてるんじゃねえかと思うんだ。おれあそんなことは勘弁がならねえ、この人に迷惑をかける奴め。さあ、手前てめえ、何とか言うことがあるかい!」

 その上にまだ、「ああ! そうだよ! 手前てめえはそれに信心ぶけえ人間だったな。それなら自分の亭主や子供のためにならねえようなことはしめえな、そうだろな? そうとも、手前はしねえとも!」というような文句を呶鳴ったり、ぐるぐる𢌞っている彼の憤怒の囘転砥石からその他の皮肉の火花を散らしたりしながら、クランチャー君は自分の長靴磨きや出勤準備をやり出した。そうしている間に、彼の息子は、このほうの頭は父親よりは幾分柔かな忍返しを打ってあるし、その若々しい眼は父親のと同じに互にくっついていたが、言いつかった通りに母親を見張っていた。彼は時々、身支度をしている自分の寝間の物置から飛び出して来て、小さな叫び声で「おっかあ、おめえつくばろうとしてるな。──おうい、とうちゃん!」と言い、そして、そういういつわりの警報を発してから、親不孝なにたにた笑いを浮べながらまた自分の部屋へ飛び込んで、あの可哀そうな婦人を大いにまごつかせるのであった。

 クランチャー君の機嫌は、彼が朝食に向った時にも、ちっともよくなっていなかった。彼はクランチャー夫人が食前の祈祷をするのを特別の憎悪の念をもって憤った。

「やい、人に迷惑をかける奴め! 手前てめえは何をしていやがるんだい? またあれをやってるのか?」

 彼の妻は、ただ「食事前に祝福を願った」だけだと弁明した。

「そんなこたあしてくれるな!」とクランチャー君は、あたかも女房の祈願の効験でパンの塊が消え失せてゆくのが見えはしまいかと思ってでもいるようにあたりを見𢌞しながら、言った。「おれあ祝福してもらってうちから追ん出されたかねえんだよ。おれあ祝福で自分の食物たべものを食卓からふんだくられるなあ厭だ。じっとしてろ!」

 ちっとも陽気にならなかった宴会で一晩中起きてでもいたかのように、ひどく赤い眼とこわい顔をして、ジェリー・クランチャーは、動物園のあし連中のように食事を前にして唸りながら、朝食を食べるというよりも噛みちらかしていた。九時近くになると、彼は苛立いらだった顔付をやわらげ、そして、自分の本性にかぶせられる限りの恥しからぬきちんとした外見をよそおいながら、その日の業務に出て行った。

 その業務たるや、彼自身が自分のことを好んで「実直な商売人」と称してはいたけれども、どうも商売とは言いがたいものなのであった。彼の元手もとでは、背の壊れた椅子を切り縮めて拵えた木製の床几しょうぎ一つだけであった。その床几を、小ジェリーが、父親と並んで歩きながら、銀行のテムプル関門バーに一番近い窓の下のところまで毎朝運んで行くのだった。その場所で、その雑役夫の足を寒気と湿気とから防ぐために、どれでも通りがかりの車から拾い取ることの出来た最初の一掴みの藁を加えれば、その床几はその日の陣所となるのだ。彼のこの持場にいるクランチャー君は、フリート街やテムプルによく知られていることは関門バーそのものと同じくらいであった。──また形相の悪いこともそれとほとんど同じであった。

 例のこの上もなく年をとった人たちがテルソン銀行へ入って行く時に自分の三角帽に手をかけて挨拶するのにちょうど間に合うようにと、九時十五分前に陣取って、ジェリーは、その風の強い三月の朝、彼の部署に就いたのである。小ジェリーは、関門バーを通り抜けて侵入していない時には、父親の傍に立っていて、自分の愛らしい目的には適当なくらいに小さい通りがかりの少年たちに、手厳しい種類の肉体的及び精神的の危害を加えてやろうとしていた。お互に非常によく似た父と子とが、銘々の両の眼が互に近よっていると同じように二つの頭を近よせながら、フリート街の朝の人通りを黙然もくねんと眺めている様子は、二匹の猿にすこぶる類似していた。その類似は、成人のジェリーの方は藁を噛んでは吐き出しているのに、少年のジェリーの方は頻りにぱちぱち瞬きしている眼で父親やフリート街の他のあらゆるものをきょろきょろと気をつけているという、従属性の情况によって減少されはしなかった。

 テルソン銀行所属の常雇の屋内小使の一人が戸口から頭をにゅっと出して、こういう指図を伝えた。──

「門番さん御用ですよ!」

「万歳、父ちゃん! 朝っぱらにとっつきから一仕事だい!」

 小ジェリーは、こう言って父親の門出かどでを祝うと、例の床几に腰を下して、父親の噛んでいた藁に継承的な興味を持ち始め、それから考え込んだ。

「いっつもさびだらけだ! 父ちゃんの指はいっつも銹だらけだ!」と小ジェリーは呟いた。「父ちゃんはあんな鉄の銹をみんなどっからつけて来るんだろう? ここじゃあ鉄の銹なんてつくはずがねえんだがなあ!」


第二章 観物みもの


「お前はもちろんオールド・ベーリーをよく知っているね?」とこの上もなく年をとった事務員の一人が走使いのジェリーに言った。

「へえい、旦那。」とジェリーはどこか強情な様子で答えた。「ベーリーは知っておりますとも

「あ、そうだろう。それからお前はロリーさんを知ってるな。」

「ロリーさんなら、旦那、わっしはベーリーを知ってるよりはよっぽどよく知ってますよ。実直な商売人のわっしがベーリーを、」とその問題の役所へ不承不承に出頭した証人に似なくもないように、ジェリーは言った。「知りたいと思ってるよりはよっぽどよく知ってまさあ。」

「よしよし。じゃあな、証人の入って行く戸口を見つけて、そこの門番にロリーさん宛のこの手紙を見せるんだ。そうすれば門番はお前を入れてくれるだろう。」

「法廷へですか、旦那?」

「法廷へだ。」

 クランチャー君の二つの眼はお互に更に少しずつ近よって、「こいつあおめえどう思う?」と尋ね合ったように思われた。

「わっしは法廷で待っているんですかい、旦那?」と彼は、眼と眼のその相談の結果として、尋ねた。

「今言ってやるよ。門番は手紙をロリーさんに渡してくれるだろう。そうしたら、お前は何でもロリーさんの目につくような身振りをして、あの人にお前のいる場所を見せてあげるんだぞ。それからお前のしなければならんことは、あの人の用事があるまでそこにずっといるだけだ。」

「それだけなんですか、旦那?」

「それだけだ。あの人は走使いの者を手許にほしいと仰しゃるのだよ。これにはお前がそこにいることをあの人に知らせてあるのさ。」

 老事務員が手紙を丁寧にたたんで表書をした時に、クランチャー君は、その行員が吸取紙を使う段になるまで彼を無言のまま眺めていた後に、こう言った。──

今朝けさは偽造罪を裁判するんでしょうね?」

「叛逆罪さ!」

「それじゃあだ。」とジェリーは言った。「むごたらしいことをするもんだなあ!」

「それが法律だよ。」と老事務員は、びっくりしたような眼鏡を彼に向けながら、言った。「それが法律だよ。」

「人間に𣏾くいを打ち込むなんていくら法律だってひでえとわっしは思いますよ。人間を殺すのだって十分ひでえが、𣏾くいを打ち込むなんて全くひでえこっでさあ、旦那。」

「そんなことはちっともないさ。」と老事務員は返答した。「法律のことを悪く言うものじゃない。自分の胸にあることと声にすることに気をつけるんだよ、ねえ、お前。そして法律のことは法律にまかせておくがいい。それだけの忠告をわたしはお前にしてあげるよ。」

「わっしの胸と声に宿ってるものってのは、旦那、湿気でさあ。」とジェリーは言った。「わっしの暮し方がどんなに湿しめっぽい暮し方だか、旦那のお察しにまかせますよ。」

「うむ、うむ、」と老行員は言った。「わたしたちはみんなさまざまな暮しの立て方をしてるんだよ。湿っぽい暮しの立て方をしている者もあれば、干涸ひからびた暮しの立て方をしている者もあるさ。さあ、手紙だ。行って来てくれ。」

 ジェリーは手紙を受け取った。そして、表面に見せかけているほどには内心では敬意を持たずに、「そういうお前さんだって実入みいりの少い爺さんだろうよ。」と心の中で言いながら、お辞儀をして、通りすがりに自分の息子に行先を告げて、出かけて行った。

 その時代には、絞刑はタイバーンで行われていたので、ニューゲートの外側のかの街は、その後にそこの附物つきものとなった一の不名誉な醜名を、まだ受けてはいなかった。しかし、その監獄は厭わしい処であった。その中では大抵の種類の背徳や悪事が行われ、そこではいろいろの恐しい疾病が生れた。その疾病は囚人と共に法廷へ入り込んで、時としては被告席から裁判所長閣下にさえ真直に突き進んで、閣下を裁判官席からひきずり下すこともあった。黒い法冠をかぶった裁判官が囚人に死の判決を宣告すると同じくらいにはっきりと自分自身に死の判決を宣告し、しかも囚人よりも先に死ぬことさえも、一度ならずあった。そのほかのことについては、オールド・ベーリーは死出の旅宿のようなものとして名高かった。そこからは、色蒼ざめた旅人たちが、二輪荷車や四輪馬車に乗って、他界への非業の旅へと、絶えず出立したのである。もっとも二マイル半ばかりは一般公衆の街路や道路を通って行くのだが、それを見て恥辱とするような善良な市民は、よしあったにしても、ごく稀であった。──それほど習慣というものは力強いものであり、またそれほど始めからよい習慣をつけておくということは望ましいことなのである。オールド・ベーリーは、また架形台でも名高かった。これは賢明な昔の施設物の一つで、誰一人としてその程度を予知することの出来ない刑罰を課したものであった。なおまた、そこは笞刑柱でも名高かった。これもなつかしい昔の施設物の一つであって、その刑の行われているのを見ると人をごく情深くし柔和にするのであった。それからまた、そこは殺人報償金の手広い取引でも名高かった。これも祖先伝来の智慧の一断片であって、この下界で犯すことの出来る最も恐しい慾得ずくの犯罪へと当然に到らしめるものであった。結局、当時のオールド・ベーリーは、「何事にても現に起っていることはすべて正当なり。」という箴言の最良の例証なのであった。この格言は、かつて起ったことはすべて誤っていなかった、という厄介な結論さえ包含しなかったならば、ずいぶんものぐさな格言ではあるが、それと同時に決定的な格言であったろうが。

 この忌わしい所業の場所のあちらこちらに散らばっている不潔な群集の中を、こそこそと道を歩くことに慣れた人間の巧妙さでうまく通り抜けて、例の走使いの男は自分の探している戸口を見つけ出した。そして、そこのドアについている落し戸から例の手紙を差し入れた。人々は、その頃は、ベッドラムにある芝居を見るのに金を払ったと同じように、オールド・ベーリーの芝居を見るのに金を払ったものであった。──ただ、後者のオールド・ベーリーの余興の方がずっと値段が高かったが。だから、オールド・ベーリーのあらゆる戸口は厳重に番人を置いてあった。──ただし、犯罪人たちが入って来る社会の戸口だけは確かにその例外で、そこだけは常に広くけ放してあったのだ。

 しばらくぐずぐず遅滞していた後に、ドアはその蝶番ちょうつがいのところでしぶしぶとほんのわずかばかり囘転し、そしてジェリー・クランチャー君にようやく法廷の中へからだをぎゅっと押し入れさせた。

「何が始ってるんです?」と彼は自分の隣に居合せた男に小声で尋ねた。

「まだ何も。」

「何が始るとこなんですか?」

「叛逆事件でさ。」

「四つ裂きの事件ですね、え?」

「ああ!」とその男はさも楽しみそうに答えた。「あいつは網代橇あじろぞりに載せて曳っぱられて行って半殺しに首を絞められ、それからおろされて自分の眼の前で薄割うすざきにされ、それから臓腑を引き出されて自分の見ている間に焼き捨てられ、それから次には首をちょんられ、体を四つにぶつ切られる。そいつが判決でさあ。」

「もし有罪ときまったら、って言うんでしょう?」とジェリーは但書と言ったような意味で附け加えた。

「いや、なあに! きっと有罪になりますよ。」と相手が言った。「そいつあ心配するにゃあ及びませんや。」

 この時、クランチャー君の注意は、さっきの手紙を片手に持ってロリー氏の方へ歩いて行くのが見える門番にらされた。ロリー氏は、仮髪かつらをかぶった紳士たちの間に、一脚の卓子テーブルに向って腰掛けていた。そこから遠くないところに、囚人の弁護士である、仮髪かつらを著けた一紳士が、大束の書類を前にしていたし、また、ほとんど向い合ったところに、今一人の仮髪かつらを著けた紳士が、両手をポケットに突っ込んでいたが、この人の全注意は、クランチャー君がその時眺めてみた時にもその後に眺めてみた時にも、いつも法廷の天井に集中されているように思われた。ジェリーは荒々しい咳払いをして、頤をさすり、手で合図をした挙句、立ち上って彼を探しているロリー氏の目に留った。ロリー氏は静かにうなずいて、そして再び腰を下した。

あの人はこの事件にどんな関係があるんですかい?」とジェリーのさっき口を利いた男が尋ねた。

「わっしはまるで知らねえんで。」とジェリーが言った。

「じゃあ、こんなことをお訊きしちゃ何だが、あんたはこの事件にどんな関係があるんですかね?」

「そいつもまるっきり知らねえんで。」とジェリーは言った。

 裁判官が入場し、それに続いて法廷内に非常なざわめきが起ってやがて鎮まってゆき、それらのために二人の対話は中止された。ほどなく、被告席が興味の中心点となった。今までそこに立っていた二人の看守が出て行き、やがて囚人が連れ込まれて、被告席に入れられた。

 天井を眺めている例の仮髪かつらを著けた紳士一人を除いて、その場にいる者は一人残らず、その被告を凝視した。場内のあらゆる人間の呼吸が、波のように、あるいは風のように、あるいは火のように、彼をめがけて押し寄せた。彼を見ようとして、多くの熱心な顔が柱の蔭や隅々から差し伸べられた。後の方の列にいる見物人たちは、彼の髪の毛一筋でも見逃すまいと、立ち上った。法廷の平場ひらばにいる人々は、誰に迷惑をかけようとも彼を一目見てやろうと、前にいる人々の肩に手をかけ、──彼の姿をどこからどこまで見ようと、足を爪立てて立ったり、何かの出張りの上に乗っかったり、ないも同然のものの上に立ったりした。この後者の仲間の中に一際目立って、ニューゲートの忍返しのびがえしを打ってある塀の一小片が生きて来たように、ジェリーが立っていた。彼はここへやって来る途中で一杯ひっかけて来たのだが、そのビール臭いいきを、囚人めがけてわめき出した。それは、囚人に向って流れている、他のビールや、ジン酒や、茶や、珈琲や、何やかやの波とまじった。その波は、既に、囚人の背後にある幾つかの大きな窓にぶつかって砕けて、よごれた霧と雨になっていたのだ。

 こういうすべての凝視と咆哮との対象というのは、日にけた頬と黒眼がちな眼とをした、体格もよく容貌もよい、二十五歳ばかりの青年であった。彼の身分で言えば青年紳士であった。彼は、じみに、黒かあるいはごく濃い鼠の服を著ていた。そして、長くて黒っぽい彼の髪は、頸の後のところでリボンで束ねてあった。それは飾りのためというよりは邪魔にならぬようにしておくためだった。心の中の感情は体のどんな覆いを通しても必ず現れ出ると同様に、彼の今の立場が生んだ蒼白い顔色は彼の頬の日にけた鳶色を通して現れていて、精神が太陽よりも力強いことを示していた。その他の点では彼は全く落著いていて、裁判官に一礼をして、静かに立っていた。

 この人間を見つめたりこの人間に呶鳴ったりする人々の興味は、人間性を高めるような種類のものではなかった。彼がこれほどの怖しい判決を受ける危険に臨んでいるのでなかったなら──その判決の残忍な細目の中のどれか一つでも免ぜられる見込があるのだったら──それだけ大いに彼は自分の魅力を失ったことであろう。あのように言語道断な切りさいなまれ方をされる宣告を受けることになっている人間の姿、それが観物みものなのであった。あのように惨殺され切れ切れに裂かれて末代まで名を残すことになっている男、それが人気を生み出していたのだ。種々雑多な見物人たちが、自己を欺くことにかけての自分たちのそれぞれの技巧と能力とに応じて、その興味をどんなに糊塗してみたところで、その興味は、その根底においては、食人鬼のような興味であった。

 法廷内はしいんとする! チャールズ・ダーネーは、彼を告発した(際限のないべちゃくちゃしたおしゃべりをもって)起訴に対して、昨日無罪の申立をしたのであった。その告発というのは、彼はわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の君主なるわが国王陛下に対する不忠の叛逆者であって、その理由とするところは、彼は、種々の機会に、種々の手段と方法とをもって、フランス国王リューイスが上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下に対してなせる戦争において、彼リューイスを援助したのである。すなわち、彼は、上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下の領土と、上述のフランスのリューイスの領土との間を往復し、上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下が幾何いくばくの軍隊をカナダ及び北アメリカに送る準備をしておられるかを、邪悪にも、不忠にも、叛逆的にも、その他種々奸悪にも、上述のフランスのリューイスに密告したのである、ということに対してである。これだけのことは、ジェリーは、いろいろの法律の用語のために髪の毛を逆立てられて頭がますます忍返しのようになりながらも、会得出来て大いに満足した。それで、前述の、幾度も幾度も前述のと言われた、チャールズ・ダーネーなる者が、彼の前で審問を受けようとしているのだということと、陪審官が就任の宣誓をしているのだということと、検事長閣下が弁論にかかろうとしているのだということを、曲りなりにもやっとのことで了解出来たのであった。

 その場にいるすべての人々の心の中で絞首され、斬首されて、四つ裂きにされていた(そして彼自身もそのことは知っていた)被告は、そうした立場にひるみもしなければ、そうした立場にあって少しでも芝居じみた態度をよそおいもしなかった。彼は平静にして傾聴していた。厳粛な関心をもって弁論の開始されるのを注視していた。そして自分の前にある厚板に両手を載せたまま立っていたが、極めて自若としているので、その手は板の上に撒いてある薬草の一葉をも動かしはしなかった。法廷には、獄舎臭と獄舎熱とに対する予防として、一面に薬草を撒き散らし酢を振り撒いてあったのだ。

 囚人の頭の上には鏡があって、彼に光を投げ下すようになっていた。これまでに幾多の悪人や幾多の卑劣漢がその鏡に映されては、その鏡の表面からもこの地球の表面からも共に姿を消してしまったのであった。大洋がいつかはその中に沈んでいる死者を出すことになっているように、もしその鏡がそれに映った姿をいつか元へ戻すことが出来るならば、この厭わしい場所は実に物凄い幽霊屋敷となることであろう。恥辱不名誉という思いが、それのために鏡はそこに置いてあったのだが、その囚人の心にもちらりと浮んだのかもしれない。それはともかく、彼は姿勢をちょっと変えると、自分の顔に射した一条の光に気づいて、上を見た。そして鏡を見た時に彼の顔はさっと赧らみ、彼の右の手は薬草を押し除けた。

 その動作は、偶然、彼の顔を、法廷の彼の左手に当る側へ向かせたのであった。彼の眼と同じ高さのあたりに、裁判官席のそこの隅に、二人の人が腰掛けていて、彼の視線はただちにその人たちにとどまった。それが非常に突然であったし、また非常にひどく彼の顔付が変ったので、彼に向けられていたすべての眼が、今度はその二人の方へ振り向いた。

 見物人は、その二人の人物が、二十歳を少し出た若い婦人と、明かに彼女の父親である一紳士とであることを知った。その紳士というのは、頭髪の真白な点と、顔に一種名状しがたい強さがある点とで、極めて目に立つ外貌の男であった。強さと言っても活動的な強さではなくて、沈思黙考しているような強さであった。この表情が現れている時には、彼はあたかも老人であるかのように見えた。が、その表情が掻き動かされて消え去る時──ちょうど今も彼が自分の娘に話しかける際にたちまちそうなったように──には、彼はまだ人生の盛りを越えていない立派な男に見えるようになった。

 彼の娘は彼の傍に腰掛けながら、片手を彼の腕に通し、片方の手をその腕に押しつけていた。彼女は、この場の光景の恐しさと、囚人に対する同情とで、父親にひしと寄り添っていた。彼女のひたいには、被告の危難以外の何ものも見ないほどの一心の恐怖と同情とが、ありありと現れていた。それが極めて目に立ち、極めて力強く飾らずに表れていたので、今まで被告に対して何の憐憫の情も持たずにじろじろ見ていた連中も、彼女のためにさすがに心を動かされた。そして、「あの人たちは何者だろう?」という囁きが拡まった。

 走使いのジェリーは、それまで自己特有の流儀に自己特有の観察をしていて、夢中の余りに自分の指についている鉄銹をしゃぶり取っていたが、その二人が何者であるかを聞こうとして頸を差し伸ばした。彼の近くにいた群集が、その質問を、その親子の一番近くにいる傍聴者の方へだんだんと押し送っていた。そしてその傍聴者のところからそれはいっそうのろのろと押し送られて戻って来て、ようやくジェリーのところに著いた。──

「証人だとさ。」

「どちら側の?」

「反対側の。」

「どっち側に反対の?」

「被告側にだってさ。」

 検事長閣下が絞首索をい、首斬斧をぎ、処刑台に釘を打ち込まんがために立ち上った時に、裁判官は、ずうっと見𢌞していた眼を元へ戻し、自分の座席でり返って、自分の手中にその生命を握っている人間をじっと眺めた。


第三章 当外あてはず


 検事長閣下は陪審官に向って次のようなことを告げなければならないと言った。諸君の面前にいる被告人は、年こそ若いが、死刑に価する叛逆の術策では極めて老獪である。彼が吾々の公敵と通信していることは、今日きょう昨日きのうからのことではなく、昨年や一昨年からのことでさえない。被告が、それよりももっと永い間、秘密の用務を帯びてフランスとイギリスとの間を往復する習慣にあったことは確実であって、その用務については彼は何等明白な説明をすることが出来ないのである。もしも叛逆行為なるものが栄えるのがその自然であるならば(幸いにもそういうことは決してないのであるが)、彼の用務が真に邪悪であり有罪であることはそのまま発見されずにすんだかもしれない。ところが、天帝は、恐怖にも動かされず非難にも動かされない一人の人間の心にそのことを知らせて、彼をして被告の画策の性質を探出させ、嫌悪の念に打たれて、その画策を陛下の首席国務大臣ならびに尊敬すべき枢密院に暴露させたもうたのである。この愛国者は諸君の前に出頭させられるであろう。彼の立場及び態度は概して崇高である。彼は被告の友人であったのであるが、幸いにしてかつまた不幸にして被告の非行を看破すると、もはや腹心の友とは認め得ないその叛逆者を、国家の聖なる祭壇に捧げようと決心したのである。いにしえのギリシアやローマにおけるが如く、わが英国にももし公共の恩人に対して彫像を贈る法令が発布されるならば、この輝ける市民は確かにそれを受けるであろう。が、そういう法令が発布されていないので、彼はおそらくはそれを受けることはあるまい。美徳というものは、詩人たちが古来述べているように(そういう詩の幾多の文句を陪審官諸氏が一語一語舌端にそらんじておられるであろうことを自分はよく知っているが、──と検事長が言うと、陪審官たちの顔は彼等がそういう詩句については少しも知らぬことに気がついていささかやましいような色をあらわした)、ある意味では伝染するものであり、愛国心、すなわち国を愛する心として知られているかの赫々たる美徳はとりわけそうである。清浄潔白な一点の非難すべきところもない、国王陛下のためのこの証人、陛下の御事に言及するのはいかに些細なことであっても名誉であるが、この証人の示した気高い亀鑑は、被告の従僕に伝染し、彼の心に、その主人の卓子テーブル抽斗ひきだしやポケットを調べ、主人の書類を隠匿しようという、神聖な決意を生ぜしめたのである。自分(検事長閣下)はこの賞讃すべき従僕に加えられる若干の誹謗を聞くことを覚悟している。が、全体から言って、自分はこの従僕を自分の(検事長閣下の)兄弟姉妹よりも好み、彼を自分の(検事長閣下の)父母よりも以上に尊敬するのである。自分は陪審官諸氏に来って同じようになされよと確信をもって要求するものである。この二人の証人の証言は、やがてここに提出されるであろうところの彼等の発見した文書と共に、被告が、陛下の兵力と、その海陸における配慮と戦備とについての明細書を所持していたことを示すであろう。しかして、彼がそのような情報を敵国へ常習的に送っていたということに何等の疑いをも残さないであろう。これらの明細書が被告の手蹟のものであるということは証明出来ない。が、それはどちらでもよろしいのである。実際、それは、被告が警戒手段に巧妙なることを示すものとして、起訴にはかえって好都合なのである。その証拠書類は五箇年前まで遡り、被告が既に、英国軍隊とアメリカ人との間に行われた実に最初の戦闘の時日から数週間以前に、そういう有害な任務に従事していたことを示すであろう。これらの理由によって、陪審官諸氏は、忠誠なる陪審官であるがゆえに(諸君がそうであることを自分は知っている)、また責任を重んずる陪審官であるがゆえに(諸君がそうであることを諸君自らが知っておられる)、諸君の好むと好まざるとにかかわらず、断然この被告を有罪と決し、彼を殺さなければならないのである。この被告の頭の刎ねられない限り、諸君は決して枕を高うして眠ることが出来ないであろう。諸君は諸君の妻が枕を高うして眠っているという考えをも忍ぶことが出来ないであろう。諸君は諸君の子供たちが枕を高うして眠っているという思いをも堪えることが出来ないであろう。要するに、諸君にとっても諸君の妻子にとっても、もはや枕を高うして眠るなどということは決してあり得ないのである、と。検事長閣下は、順々に彼の考え得られるあらゆるものの名にかけて、また彼が既に被告をもう死んでいるも同然と考えているという彼の厳粛な誓言に基いて、その被告の首を陪審官たちに請求することによって、論告を終えたのであった。

 検事長の論告が終ると、法廷内ががやがやして来た。それはあたかも雲霞のような大きな青蠅のむれが、その囚人がまもなくどうなるかということを見越して、彼の身辺に群っているかのようであった。それがまた静まった時に、かの一点の非難すべきところもない愛国者が証人席に現れた。

 次席検事閣下が、それから、彼の指導者の指導に従って、かの愛国者を審問した。名はジョン・バーサッド、紳士である。彼の純潔な精神の物語は検事長閣下がさっき述べたところと寸分の違いもなかった。──それに何か欠点があったとすれば、おそらく、いささか寸分の違いもなさ過ぎたことであろう。彼はその高潔な胸中の重荷を卸してしまったので、つつましげに引下ったであろうが、ロリー氏から遠くないところに腰掛けている、書類を前にした、あの仮髪かつらを著けた紳士が、彼に二三の質問をしたいと請うたのであった。向い合って腰掛けている例の仮髪かつらの紳士は、まだやはり法廷の天井を眺めていた。

 君はかつて自分で間諜スパイをやっていたことがあるか? いいや、自分はそういう卑劣なあてこすりを軽蔑する。君は何によって衣食しているか? 自分の財産によってだ。君の財産はどこにあるか? どこにあるかは正確に記憶していない。その財産は何であるか? 何も他人に関係のあることではない。君はその財産を相続したのか? そうだ、相続したのだ。誰からか? 遠縁の親戚から。非常に遠縁か? かなり遠縁である。監獄に入ったことがあるか? 確かにない。債務者監獄に入ったことは一度もないか? そんなことが今の件とどんな関係があるのかわからない。債務者監獄に入ったことは決してないか? ──さあ、もう一度問う。決してないか? ある。何度か? 二三度。五六度ではないか? あるいはそうかもしれない。何の職業か? 紳士だ。人から蹴られたことがあるか? あったかもしれぬ。たびたびあったか? いいや。階段から蹴落されたことがあるか? 断然ない。一度階段の頂上のところで蹴られて、自分勝手に階段を落ちたことがある。その時は博奕ばくちでごまかしをやったために蹴られたのか? そういうような意味のことを、自分にそういう乱暴を加えた酔っ払いの嘘つきが言った。がそれはほんとうではない。それがほんとうではないということを誓うか? きっぱりと。賭博でごまかしをやって生活したことがあるか? 決してない。賭博をやって生活したことがあるか? ほかの紳士のする程度以上ではない。被告から金を借りたことがあるか? ある。返したことがあるか? ない。被告と親交があると言っても、それは実際のところはごくちょっとした交際で、乗合馬車や宿屋や郵船などの中で被告に無理に押しつけた交際ではないか? いいや。その明細書を被告が持っているのを見たということは間違いないか? 確かだ。その明細書についてはそれ以上のことは知らないのか? 知らない。例えば、君はそれを自分で手に入れたのではなかったか? そうではない。この証言によって何かを得ようと期待しているのではないか? いいや。いつも政府に雇われてかねを貰って、他人を罠に陥れることを仕事にしているのではないか? とんでもないことだ。それとも何かためにしようとしているのではないか? とんでもないことだ。それを誓うか? 幾度でも。全くの愛国心という動機以外には動機はないのか? ちっともない。

 かの謹直な従僕、ロジャー・クライは、非常な速度でさっさと宣誓しては証言して行った。自分は四年前から誠実にかつ純樸に被告に奉公していたのである。カレー通いの郵船の中で、自分は被告に向って小用しを雇うつもりはないかと尋ねた。すると被告は自分を雇ったのである。自分はお情に小用足しを使ってくれと頼んだのではない。──そういうことは思いもよらぬことだ。まもなく、自分は被告を怪しいと思うようになり、彼を監視し始めた。旅行中、彼の衣服を整頓する際に、何囘となく自分はこれと似た明細書が被告のポケットにあるのを見たことがある。自分はここにある明細書を被告の机の抽斗から取り出したのである。自分が最初にそれをそこに入れておいたのではない。自分は、被告がこれと同じ明細書をカレーでフランスの紳士たちに見せ、またこれと似た明細書をカレーとブーローニュとの両地でフランスの紳士たちに見せているのを見た。自分は自分の国を愛するから、それを忍ぶことが出来ず、密告をしたのである。自分は銀製の急須を盗んだという嫌疑をかけられたことは一度もない。芥子からし壺に関して中傷されたことはあるが、しかしそれは鍍金めっきの品に過ぎないことがわかった。自分はさっきの証人を七八年来知っている。それは単に暗合に過ぎない。自分はこれを特に不思議な暗合とは考えない。暗合というものは大抵不思議なものであるから。また、自分の場合でもまた真の愛国心が唯一の動機であるということも、自分は不思議な暗合とは考えない。自分は真の英国人であり、自分のような者の多からんことを希望するものである。

 青蠅がまたぶんぶん唸った。そして検事長閣下はジャーヴィス・ロリー氏を呼んだ。

「ジャーヴィス・ロリー氏、あなたはテルソン銀行の事務員だね?」

「そうです。」

「一千七百七十五年の十一月のある金曜日の夜、あなたは用向でロンドンとドーヴァーとの間を駅逓馬車で旅行しましたか?」

「しました。」

「その駅逓馬車にはほかに誰か乗客がありましたか?」

「二人ありました。」

「その二人は夜の間に途中で降りましたか?」

「降りました。」

「ロリー氏、被告を見なさい。被告はその二人の乗客の中の一人ではなかったか?」

「そうであったとお請合うけあいは出来ません。」

「被告はその二人の乗客の中のどちらかに似てはいませんか?」

「二人ともすっかり身をくるんでおりましたし、真暗まっくらな晩でしたし、それに私たちは皆一向に口も利きませんでしたので、それさえもお請合うけあいは出来ません。」

「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。被告がその二人の乗客のしていたように身をくるんでいると仮定して、彼のかっぷくと身長とに、彼がその中の一人でありそうにもないと思わせるようなところがありますか?」

「いいえ。」

「ロリー氏、あなたは被告がその中の一人ではなかったとは誓わないんですな?」

「それは誓いません。」

「それでは少くともあなたは彼がその中の一人であったかもしれぬと言われるんですね?」

「そうです。ただ一つ違いますのは、その二人とも──私と同様に──追剥をこわがってびくびくしておりましたと記憶いたしますが、この被告には小胆な様子がございません。」

「あなたはいかにも臆病らしく見える人間というのを見たことがありますか、ロリー氏?」

「確かにそういう人間を見たことがございます。」

「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。あなたの確かに知っておられるところでは、あなたは以前に彼に逢ったことがありますか?」

「あります。」

「いつです?」

「私はそれから数日後にフランスから帰ろうといたしましたが、カレーで、被告が私の乗っておりました定期船に乗船して参りまして、私と一緒に航海をいたしました。」

何時なんじに彼は乗船しましたか?」

「夜半少し過ぎに。」

「真夜中にだね。そんな時ならぬ時刻に乗船した乗客は被告一人だけでしたか?」

「偶然にも被告一人だけでした。」

「『偶然にも』などということはどうでもよろしい、ロリー氏。その真夜中まよなかに乗船した乗客は被告一人だけだったのですな?」

「そうでした。」

「あなたは一人で旅行していたのですか、ロリー氏、それとも誰かつれがありましたか?」

「二人のつれがありました。紳士と婦人とです。その二人はここにおられます。」

「その二人はここにおられるのだね。あなたは被告と何か話をしましたか?」

「ほとんどしません。天候は荒れておりましたし、その航海は長くかかって海が荒れましたので、私はほとんど岸から離れて岸に著くまで長椅子ソーファに寝ていましたのです。」

マネット嬢ミス・マネット!」

 さっきも場内のすべての眼がその方へ振り向き、今また再び振り向けられた、かの若い婦人は、自分の腰掛けていた場所に立ち上った。彼女の父親も一緒に立ち、自分の片腕に彼女の片手を通したままにしていた。

マネット嬢ミス・マネット、被告を御覧なさい。」

 そういう同情と、またそういう真心のこもった若さと美しさとに対することは、その被告にとっては、場内のすべての群集と対するよりも遥かにつらいことであった。いわば自分の墓穴のふちに彼女と共に別になって立っているので、じろじろと見つめているすべての人の好奇心の眼は、しばらくの間は、彼に全くじっとしているように力をつけることが出来なかった。彼の右の手は前にある薬草をあわてて掻き分けて空想の中で庭園の花壇にした。そして息遣いを落著かせてしっかりさせようとする彼の努力のために脣はぶるぶる震え、その脣からは血の気がさっと心臓へ戻った。例の大きな蠅のぶんぶん唸る音がまた高まった。

マネット嬢ミス・マネット、あなたは以前に被告に逢ったことがありますか?」

「はい。」

「どこで?」

「ただ今お話に出ました定期船の中で。同じ折に。」

「あなたは今話に出た若い御婦人ですね?」

「はあ! ほんとに不仕合せなことに、さようなのでございます!」

 彼女の同情から出たその悲しげな声音こわねは、裁判官が幾分荒々しく「あなたに尋ねられた質問に答えればよろしい。それについて意見がましいことを言ってはならぬ。」と言った時の、彼のあまり音楽的でない声の中に消されてしまった。

マネット嬢ミス・マネット、あなたはイギリス海峡を渡る時のその航海中に被告と何か話をしましたか?」

「はい。」

「それを思い出して御覧なさい。」

 深い静けさの中で、彼女は弱い声で言い始めた。──

「あの紳士が乗船なさいました時に──」

「あなたは被告のことを言っておられるのか?」と裁判官は眉をひそめながら尋ねた。

「はい、閣下。」

「では被告と言いなさい。」

「被告が乗船して参りました時に、被告は、私の父が、」と彼女は傍に立っている父親に自分の眼を愛情をこめて向けながら、「たいそう疲労していまして、からだもひどく弱っておりますのに、目を留めました。父はずいぶん衰弱しておりましたので、私は父を外の空気のあたらないところへ連れて参りますのはよくないと存じまして、船室の昇降段の近くの甲板の上に父のために寝床ベッドを拵えておきました。そして、父の世話をするために、私は父の傍の甲板に坐っていたのでございます。その晩は私ども四人のほかに乗客はございませんでした。被告は、親切に、私に私のいたしましたよりも上手に父を風や寒さに当てないようにするにはどうしたらよいか教えてあげてもよろしいかと申してくれました。私は、港の外へ出ますと風がどんなに吹くものか存じませんでしたので、それを上手にするにはどうしたらよろしいのかわからなかったのでございます。被告は私に代ってそれをしてくれました。被告は私の父の様子についても大変やさしく親切に言って下さいましたが、きっとほんとうにそう思われたのだと私は思っております。こんな風にして私たちは言葉をかわし始めたのでございました。」

「ちょっと話の途中ですが。被告は一人だけで乗船したのですか?」

「いいえ。」

「何人被告と一緒にいましたか?」

「フランスの紳士が二人でした。」

「三人で一緒に相談していましたか?」

「フランスの紳士たちが御自分たちのはしけに乗って陸へ引揚げなければならなくなる最後の時まで、その三人は一緒に相談していらっしゃいました。」

「この明細書に似た何かの書類が、彼等の間で遣り取りされていませんでしたか?」

「何か書類がその人たちの間で遣り取りされておりました。けれどもどんな書類だか私は存じません。」

「形や寸法がこれに似ていましたか?」

「そうかもしれません。でもほんとうに私は存じませんの。その人たちは私のごく近くでひそひそ話をしながら立っていらしたのではございますけれども。と申しますのは、その人たちは船室の昇降段の一番上のところに立っていらしたのですから。それはそこにつるしてありましたランプの光を使うためなのでした。そのランプは暗いランプでしたし、それにその人たちはごく低い声で話していらっしゃいましたので、私にはその人たちの言っていらっしゃることは聞き取れませんでしたし、またそのかたたちが書類を見ていらっしゃるということだけしか見えなかったのでございます。」

「では、被告の話したことについて言って下さい、マネット嬢ミス・マネット。」

「被告は、私の父に対して親切で、好意を持って、いろいろ世話をして下さいましたように、私にも打解けて何でも話して下さいました。──それは私の頼りない境遇から起ったことでございましょうが。私は、」とわっと泣き出して、「今日きょうあのかたに御迷惑をおかけして、あのかたに恩をあだで返すようなことがなければよいがと存じます。」

 青蠅がぶんぶん唸る。

マネット嬢ミス・マネット、もし被告が、あなたがそれを述べることがあなたの義務であり──あなたの述べなければならない──またあなたがどうしてもそれを述べずにいる訳にはゆかない──ところの証言を非常に気が進まぬながら述べておられるのだ、ということを完全に理解していないとするなら、彼はここにいる者の中でそのことを理解していないただ一人の人間です。どうか先を続けて下さい。」

「被告は、私に、自分はある面倒なむずかしい性質の用事で旅行しているのだが、その用事はいろいろの人に迷惑をかけることになるかもしれない、だから自分は変名を使って旅行しているのだ、と話しました。また、自分はその用事のために数日前にフランスへ行って来たのだが、これから先も永い間そのために折々フランスとイギリスとの間を行ったり来たりすることになるかもしれない、と申しました。」

「被告はアメリカのことについて何か言いましたか、マネット嬢ミス・マネット 詳細に述べなさい。」

「被告はあの戦争がどうして起るようになったかということを私に説明してくれようといたしました。そして、自分の判断し得る限りでは、あれはイギリス側が間違った愚かな戦争をやったのだ、と申しました。また、常談のように、たぶんジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世とほとんど同じくらいの偉大な名声を残すだろう、と言い足しました。でも、その言い振りには少しも悪気はございませんでした。それは、笑いながら、時間をまぎらすために、話されたのでございます。」

 芝居の非常に興味のある場面で、多くの眼の注がれている主役俳優の顔に、何か強く目立つ表情が現れるたびに、その表情は見物人に無意識の中に模倣されるものである。彼女がこの証言を述べている時にも、また、それを裁判官が書き留めている間彼女が言葉を切っている合間に、その証言が弁護士に与える印象がよいか悪いかを注視している時にも、彼女のひたいは痛々しいまでに懸念と緊張とを現した。すると、法廷内の到る処で傍聴者の間にそれと同じ表情が現れた。裁判官がジョージ・ウォシントンについてのあの恐しい異端の言を聞いて、自分の控書から顔を上げてぎろりと眼を光らせた時には、そこにいた人々の額の大部分は、この証人を映す鏡となったと言ってもよいくらいであった。

 検事長閣下はこの時裁判長閣下に、念のためと、また形式上から、この若い婦人の父マネット医師を呼び出すことを必要と認める、ということを知らせた。それで彼が呼び出された。

マネット医師ドクター・マネット、被告を見なさい。あなたはいつか以前に彼に逢ったことがありますか?」

「一度だけ。彼がロンドンの私の寓居へ訪ねて来ました時に。約三年か、三年半ばかり前。」

「あなたは彼があの郵船にあなたと同船した乗客に相違ないと認めることや、あるいはあなたの令嬢と彼との会話について話すことが出来ますか?」

「閣下、私にはどちらも出来ません。」

「あなたがそれをどちらも出来ないということには何か特別の理由がありますか?」

 彼は、低い声で、答えた。「あります。」

「あなたは、あなたの生国で、公判も、告発さえも受けずに、永い間の監禁を受けるという不幸な目に遭われたのですか、マネット医師ドクター・マネット?」

 彼は、あらゆる人の心を動かす語調で、答えた。「永い間の監禁でした。」

「あなたは今問題になっている折に釈放されたばかりだったのですか?」

「皆が私にそう申しております。」

「その折の記憶が少しもありませんか?」

「少しも。私が監禁の身で靴造りに従事しておりましたある時──それがいつであるかということさえ私には言えないのでありますが──その時から、ここにおります可愛いい娘と一緒に自分がロンドンに暮しているのだと気がつきました時まで、私の心は白紙なのです。お恵み深い神さまが私の心の力を囘復して下された時には、娘は私とごく親しくなっておりました。しかし、どんな風にして親しくなって来たのかということを申し上げることさえ私には全く出来ないのです。それまでの経路については少しも記憶がありません。」

 検事長閣下は腰を下し、そしてその父と娘とは一緒に腰を下した。

 一つの奇妙な事柄がその次にこの事件に生じた。目下の目的は、被告が、まだ逮捕されない誰かある共犯者と共に、五年前の十一月のその金曜日の晩にドーヴァー通いの駅逓馬車に乗って出かけたが、人目をごまかすために、夜中よなかにある土地で馬車を降り、そこには足を留めずに、そこから約十二マイルかそれ以上も後戻りして、兵営と海軍工廠とのある処まで行き、そこで情報を蒐集した、ということを証拠立てることなのであった。で、一人の証人が呼び出されて、被告はその兵営と海軍工廠とのある町のある旅館の食堂に、誰か他の人間を待ちながら、ちょうどその必要な時刻にいた男に違いない、ということを鑑定させることになった。例の被告の弁護士はこの証人にいろいろ対質訊問をしていたが、この証人がその時より以外のどんな機会にも被告を見たことが一度もないということのほかには、何一つ得るところがなかった。この時、これまでずっと法廷の天井を眺めていた例の仮髪かつらの紳士が、小さな紙片に一二語書いて、それをひねって、その弁護士に投げてやった。弁護士は、訊問の次の合間にその紙片を開いて見ると、非常な注意と好奇心とをもって被告をうち眺めた。

「君はそれが確かに被告であったということを十分に確信していると今一度言えますね?」

 その証人はそれを十分に確信していると言った。

「君はこれまでに誰でも被告に非常に似た人を見たことがありますか?」

 被告と見違えるくらいに似た人は見たことがない(と証人が言ったのであるが)とのこと。

「では、あの紳士、あそこにいるわたしの同僚を、」とさっき紙を投げてよこした男を指さしながら、「よく見たまえ。それから次に被告をよく見たまえ。どう思います? 二人は互に非常に似ていやしませんか?」

 二人をそうして見比べてみると、その同僚弁護士の風采が放埓なというほどではないにしても無頓著でじだらくなのを差引すれば、二人が互に非常に似ていることは、証人ばかりではなく、その場に居合せたすべての人を驚かすに十分であった。裁判長閣下が、仮髪かつらを脱ぐようにその同僚弁護士に命じて頂きたいと請われて、あまり快くもなさそうな承諾を与えると、二人の似ていることはますます目立つようになった。裁判長閣下は、ストライヴァー氏(被告の弁護人)に向って、では吾々は次にはカートン氏(彼の同僚弁護士の名)を叛逆罪のかどで審理しなければならないのか? と尋ねた。けれども、ストライヴァー氏は裁判長閣下に答えて、そうではない、しかし、自分はその証人に、一度あったことは二度あるものかどうか、もし証人が彼の軽率を示すこういう例証をもっと前に見ていたなら、今のような確信を持ったかどうか、現にそれを見た上でも、今のような確信を持つかどうか、云々、ということを答えてもらいたいのだ、と言った。その訊問の結果は、この証人を瀬戸物のうつわのように粉砕し、この事件における彼の役割を無用のがらくたとしてしまうまでに打ち砕いたのであった。

 クランチャー君は、ずっと今までの証言を聴きながら、この時分までには自分の指から全く一昼食ランチ分くらいの鉄銹を食べてしまっていた。彼は、今度は、ストライヴァー氏が被告側の申立をきっちりした一著の衣服のように陪審官に合せて造ってゆくのを、傾聴しなければならなかった。ストライヴァー氏は陪審官たちに次のことを証示した。愛国者と称せられるバーサッドはお傭い間諜スパイで、友を売る人間であり、他人の血を売る鉄面皮な商人であり、呪うべきユダからこのかたこの地上に現れた最大悪党の一人であり──そのユダに彼は確かに顔も幾らか似ている、ということ。謹直な従僕と称せられるクライは彼の友人で同類であり、またそうであるに恥じぬものである、ということ、この二人の事実捏造者で偽証者が自分たちの喰い物にしようとして被告に油断のない眼を注いでいた訳は、被告はフランス生れであるので、フランスにおける何かの家庭問題のためにそのようにイギリス海峡を渡って幾度も往復しなければならなかったからであり、──もっとも、その家庭問題というのが何であるかは、彼の近親の人々に対する考慮から、被告には、生命を賭しても、打明けることが出来ないのである、ということ。陪審官諸氏の現に見られたようにあの若い婦人をあのように苦しめて述べさせ、彼女から扭じ取り捥ぎ取ったところのあの証言は、誰でもそういう風に出会った若い紳士と若い淑女との間にありがちな、ほんのちょっとした無邪気な慇懃と礼儀とを意味するだけであって、何にもならぬものであり、──ただ、ジョージ・ウォシントンに関するあの言葉だけは例外であるが、それとても全く余りに途方もないあり得べからざる言葉であるので、しからぬ常談としての見地より以外の見地で見らるべきものではない、ということ。最も下等な国民的反感と恐怖心とを利用して人気を博そうとするこの企てが失敗すれば、政府における一つの弱点となるであろうから、検事長閣下は極力努力されたのである、ということ。さりながら、この企てには、余りにしばしばこのような事件を醜悪化するところの、またこの国の国事犯裁判に充満しているところの、あの陋劣で破廉恥な性質の証拠のほかには、何等拠るべきものがないのである、ということ。しかし、ここまで彼の弁論が進んで来た時に裁判長閣下は言を挟んで(あたかも彼の言ったことが真実ではなかったかのようにしかつめらしい顔をしながら)、自分はこの法官席に坐っていて、そういうあてつけを忍ぶことは出来ない、と言った。

 ストライヴァー氏はそれから自分の方の数人の証人を呼び出し、そしてクランチャー君は、次には、検事長閣下がストライヴァー氏がさっき陪審官に合せて造った衣服をそっくり裏返しにしてゆくのを、傾聴しなければならなかった。検事長閣下は、バーサッドとクライとが彼の考えていたよりも百倍も善良であり、被告が百倍も悪人であることを述べ立てた。最後に、裁判長閣下自身が立って、その衣服を時には裏返しにしたり、また時には表返しにしたりしたが、だいたいにおいて、それを被告の屍衣になるようにてきぱきと裁って型をつけて行った。

 それから今度は、陪審官たちが審議するために向うへ向き、例の大蠅がまた群って来た。

 これまであのように永い間法廷の天井を眺めながら腰掛けていたカートン氏は、この騒ぎの中にあってさえ、座席も変えなければ姿勢も変えなかった。彼の同僚弁護士のストライヴァー氏は、自分の前にある書類を一纒めにしながら、近くに腰掛けている人々と私語したり、時々は陪審官の方を心配そうにちらりと見たりしていたし、すべての観客は多少とも移動したり、新たに集団を造ったりしていたし、裁判長閣下でさえ、その席から立ち上って、壇上をゆっくりと往ったり来たりして歩いていて、観衆の心に裁判長も興奮しているのではなかろうかと疑わせないではなかったのに、この一人の男だけは、やぶけた弁護士服は半ば脱げかかったまま、また、きちんとしていないその仮髪かつらはちょうどさっき脱いだ後に彼の頭の上に偶然載っかったようにかぶり、両手はポケットに入れ、眼は終日そうであったように天井に向けたまま、り返って腰掛けているのだった。彼の態度に何となく特に無頓著なようなところのあるのが、彼を不体裁に見せたばかりではなく、疑いもなく彼と被告との間に存するあの強い類似(それは、二人が見比べられた時には、彼が一時だけ真面目まじめになったために、強められたのであった)を非常に減じたので、見物人の多数の者たちは、今彼に注目すると、その二人がそんなに似ているとは思えなかったはずだがと互に言い合ったくらいであった。クランチャー君はその考えを自分のすぐ隣の者に話して、それからこう言い足した。「あの男なんかにゃあ弁護の口なんざ一つも手にへえりっこねえってことにゃ、わっしは半ギニー賭けたっていいでさあ。一つだって手にへえりそうな奴にゃ見えやしねえ。そうでしょう?」

 だが、このカートン氏は、場内の細かなことを、見掛よりはもっと呑込んでいるのだった。というのは、マネット嬢の頭が父親の胸へがくりと垂れた時に、彼は、それを見つけて、聞き取れる声で「守衛! あすこの若い婦人を介抱してあげろ。あの紳士に手伝って外へ連れ出してあげるんだ。あの婦人が倒れようとしているのがわからんか!」と言った最初の人であったから。

 彼女が連れ去られた時に、人々は彼女を大いに不憫がった。また彼女の父親に大いに同情した。自分の監禁の時代を思い出させられることは、彼には明かに非常な苦痛であったのだろう。彼は訊問を受けた時に強烈な内心の動揺を色に現した。そして、彼を老人に見えさせるあの思いに沈んだような考え込んでいるような様子は、それ以来ずっと、重苦しい雲のように、彼に蔽いかかっていたのであった。彼が出て行った時に、向き直ってちょっと待っていた陪審官は、陪審長を通じて発言した。

 彼等は意見が一致しないので、退廷して協議したいと希望した。裁判長閣下は(たぶん例のジョージ・ウォシントンの件を心に思い浮べていたのであろう)彼等の意見が一致しないということに幾分驚いた様子を示したが、監視附きで退廷してもよろしいという意向を告げて、自分も退廷した。公判は終日続き、やがて法廷内のランプがともされ出した。陪審官は永い間退席しているだろうという噂が立ち始めた。見物人たちは飲食しにぽつりぽつりと去り、囚人も被告席の後の方へ引下って、腰を下した。

 ロリー氏は、さっきあの若い婦人とその父親とが出た時に外へ出て行っていたが、この時再び入って来て、ジェリーを手招きした。ジェリーは、興味が弛んで人が減っていたので、容易たやすく彼の近くへ行くことが出来た。

「ジェリー、お前何か食べたいなら、食べに行ってもいいよ。だが、遠くへは行かないようにな。陪審官が入って来る時には間違いなく聞いていてほしいのだ。ちょっとでも陪審官に遅れちゃいけないよ。その評決をお前に銀行まで持って帰ってもらいたいんだからね。お前はわたしの知ってる中じゃ一番足のはやい使いだから、わたしよりはずっと前にテムプル関門バーに著くだろう。」

 ジェリーはちょうど指のふしで触れられるだけの幅のひたいをしていた。それで彼はこの通牒と一シリングとを受けたしるしに指の節を額に触れた。ちょうどその時にカートン氏がやって来て、ロリー氏の腕に手をかけた。

「あの御婦人はいかがです?」

「非常に苦しんでおられます。が、お父さんがいたわっておられますし、法廷から出たのでそれだけ気分がよいようですよ。」

「僕が被告にそう話してやりましょう。あなたのような体面を重んずる銀行員が、公然と被告と口を利いているのを見られては、よくないでしょうからねえ。」

 ロリー氏は、あたかも自分が心の中でその点を考えていたことに気づいたかのように、顔を赧らめた。それでカートン氏は被告人席の外側の方へ歩いて行った。法廷の出口もその方向にあったので、ジェリーは体中を眼にし、耳にし、忍返しのびがえしにしながら、その後について行った。

「ダーネー君!」

 囚人はすぐに進み出て来た。

「君はもちろんあの証人のマネット嬢ミス・マネットの様子を聞きたがっているだろうね。あの人はやがてよくなるよ。君の見たのはあの人の興奮の一番ひどい時だったんだから。」

「私がその原因であったことを非常にすまなく思っています。私の代りにあなたからあのかたに、私の熱心な感謝と一緒に、そう伝えていただくことは出来ないでしょうか?」

「ああ、出来るよ。君が頼むなら、伝えてやろう。」

 カートン氏の態度はほとんど横柄と言ってもいいくらいに無頓著であった。彼は、囚人から半ば身をそむけて、被告人席に片肱で凭れかかりながら、立っていた。

「ぜひお頼みします。私の心からの感謝を受けて下さい。」

「ダーネー君、」とカートンは、やはり半ばだけ彼の方へ向きながら、言った。「君はどうなると思っているかね?」

「最悪の事を予期しています。」

「そう予期しているのが一番賢明だし、また一番ありそうなことだね。だが、陪審官たちが退出したことは君に有利だと僕は思うな。」

 法廷の出口にぶらぶらしていることは許されなかったので、ジェリーは、それ以上は聞かずに、その二人──容貌では互に実に似ていながら、態度では互にまるで似ていない──両人とも上にある鏡に姿を映しながら相並んで立っている──を後に残して出て行った。

 階下の盗賊や悪漢などの雑沓しているような廊下では、一時間半という時間は、羊肉パイとビールとの助けを藉りて過してさえ、のろのろとたって行った。そのしゃがれ声の走使はしりづかいは、それだけの食事をとった後に一つの長腰掛に窮屈そうに腰掛けながら、ついうとうとと居睡りしかけたが、その時、声高なざわめきの声が起り、法廷へと続く階段を人々がどっとうしおのように速く駈け上って行くので、彼もその中に一緒に運ばれて行った。

「ジェリー! ジェリー!」彼が戸口のところまで行くと、ロリー氏はそこで既に彼を呼んでいた。

「ここです、旦那! 戻って来ますなあまるで戦争でさあ。ここにおりますよ、旦那!」

 ロリー氏は人込みの間から一枚の紙を彼に手渡しした。「大急ぎでな! お前受け取ったか?」

「へえ、旦那。」

 その紙に急いで書いてあったのは「放免」という語であった。

「もしあんたがもう一度あの『よみがえる』って伝言ことづてを出して下すったんなら、」とジェリーはぐるりと向き変った時に呟いた。「わっしも今度はあんたの言う意味がわかったんだがなあ。」

 彼はオールド・ベーリーをすっかり出てしまうまでは、それ以外に何かを言う機会は、あるいは何かを考える機会さえも、なかった。なぜなら、群集は彼の足をさらいそうなくらいの猛烈な勢でどっと押し出していたし、あてはずれた青蠅が他の腐肉を捜し求めに四方へ散ってゆくかのように、蠅の唸るような声高いうわあっという声が街路へ流れ出ていたからである。


第四章 祝い


 法廷の薄暗い灯火のついている廊下から、終日そこで煮られていた人間の蒸煮肉シチューの最後のかすが濾し取られている時に、マネット医師と、その娘のリューシー・マネットと、被告人の弁護の依頼者のロリー氏と、被告の弁護人のストライヴァー氏とが、チャールズ・ダーネー氏──今釈放されたばかりの──を取囲んで、彼が死から免れたことに祝詞を述べていた。

 そこよりはもっとずっと明るい明りで見ても、面貌の理智的な、挙止の端正なマネット医師が、パリーのあの屋根裏部屋にいた靴造りだと認めることは、むずかしかったであろう。けれども、誰でも彼を二度目に見ると、おやっと思って彼を見直さずにはいられなかったろう。もっとも、そうしたところで、まだ、彼の低い沈んだ声の物悲しい調子や、何も明かな原因もなしに発作的に彼に覆いかぶさる放心状態までは、観察する機会は来なかったであろうが。ただ一つの外部からの原因、それは彼のあの永年の間の永引いた苦しみに話が触れることであったが、それはいつでも──さっきの公判の時のように──彼の魂の奥底からそういう状態を喚び起すのであった。が、一方、その状態はまたその性質上ひとりでに起って、彼の上に暗雲を曳いて来ることもあった。それは、彼の身の上をよく知らない人々にとっては、まるで、三百マイルも離れたところにある本物のバスティーユが夏の太陽を受けて彼の上に投げかける影を見たかのように、不可解なことだった。

 彼の心からこの陰鬱な物思いを払い除ける魅力を持っているのは彼の娘だけであった。彼女は、彼をその災難の彼方かなたの過去と、その災難の此方こなたの現在とに結びつける黄金こがねの糸であった。そして彼女の声音こわね、彼女の顔の明るさ、彼女の手の接触は、ほとんどいつでも、彼には強い有益な効力を持っていた。絶対にいつでも、という訳ではない。彼女にも自分の力の及ばなかった場合もあるのを思い起すことが出来たからである。が、そういう場合はわずかでちょっとしたものであったので、彼女はそんなことはもうすんでしまったものと信じていたのであった。

 ダーネー氏は熱情と感謝とをこめて彼女の手に接吻し、それからストライヴァー氏の方へ振り向いて、彼に厚く礼を言った。ストライヴァー氏は、三十を少し越しただけだが、実際よりは二十歳もけて見える、太った、大声の、赭ら顔の、ざっくばらんな男で、敏感デリカシーなどというひけめは一切持ち合せていなかった。人中ひとなかへも会話へも他人を肩で押し分けて(精神的にも肉体的にも)割込んでゆく押の強いたちであった。それは、彼が実生活でも他人を肩で押し分けて出世してゆくことを十分証拠立てているのだった。

 彼はまだ仮髪かつらと弁護士服とを著けていた。そして、人のいいロリー氏をその一団からすっかり押し出してしまうまでに、自分のさっきの弁護依頼人に向って肩肱を張って、言った。「わたしは君を立派に救い出してあげたんで嬉しいですよ、ダーネー君。あれはどうも不埓な告発でした。実に不埓なものでした。だが、そのためにかえってうまくゆきそうだったんですな。」

「私は一生御恩にます、──二つの意味で。」と彼のさっきの弁護依頼人が、相手の手を取りながら、言った。

「わたしは君のためにわたしの全力ベストを尽したんです、ダーネー君。そしてわたしの全力ベストほかの人のに劣らんつもりですがね。」

「劣るどころかずっとまさっていますよ。」と明かに誰かが言わなければならないところだったので、ロリー氏がそれを言った。たぶん、少しの私心もなかったという訳ではなく、もう一度元のところへ割込もうという私心的な目的もあってのことらしかった。

「あなたはそうお考えですかね?」とストライヴァー氏は言った。「なるほど! あなたは一日中出席しておられたんだから、御存じのはずだ。それに、あなたは事務家ですからなあ。」

「ところでその事務家としまして、」とロリー氏が言った。彼は、その法律に精通した弁護士に先刻その一団から肩で押し出されたようにして、今度はその一団の中へ肩で押し戻されていたのである。──「その事務家としまして、私はマネット先生ドクター・マネットにお願いいたしたいんですが、この会議をこれで打切りにして、私どもみんなをうちへ帰らせていただきたいものですね。リューシーさんは工合がお悪いようですし、ダーネー君は恐しい目に遭われたのですし、私どもは疲れ切っておりますから。」

「御自分だけのことを話しなさい、ロリーさん。」とストライヴァーが言った。「わたしはまだしなけりゃならん夜の仕事があるんだ。御自分だけのことを話しなさい。」

「私は、自分のためと、」とロリー氏は答えた。「それからダーネー君に代って、申すのです。それからリューシーさんにも代って、それからまた──。リューシーさん、あなたは私が私どもみんなに代って話してもいいとお考えになりませんか?」彼はきっぱりと彼女にそう尋ねて、彼女の父親にちらりと目をやった。

 彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で見つめていわば凍ったようになっていた。そのじっと見入った眼付はだんだんと深まって、嫌悪と疑惑とのしかめ顔となり、恐怖の色をさえまじえた。そういう奇妙な表情を浮べたまま彼の思いは彼からふらふらと脱け出ていたのだ

「お父さま。」とリューシーは、自分の手をそっと彼の手に載せながら、言った。

 彼は幻影をゆっくりと払い除けて、彼女の方へ振り向いた。

「あたしたちはおうちへ帰りましょうか、お父さま?」

 長い息をつきながら、彼は答えた。「うむ。」

 放免された囚人の友人たちは、彼がその晩釈放されることはあるまいと考えて、──そう考えたのは彼自身が発頭人なのであったが、──もう散り散りになってしまっていた。廊下の灯火はほとんど全部消され、鉄の門はぎいっと軋り音を立てて鎖されかけ、その気味の悪い場所は、明日の朝、絞首台や、架刑台や、笞刑柱や、烙鉄やきがねなどの興味が再び見物人を集めるまでは、人気ひとけがなくなってしまった。リューシー・マネットは、父親とダーネー氏との間に挟まれて歩きながら、戸外へ出た。一台の貸馬車が呼び止められて、父と娘とはそれに乗って去って行った。

 ストライヴァー氏は廊下で皆と別れて、肩で風を切って衣裳室へと引返して行ってしまっていた。その一団に加わりもせず、また彼等の中の誰とも一語をかわしもせずに、壁の蔭の一番暗いところに凭れかかっていたもう一人の人間は、黙々として皆の後からぶらぶらと出て行って、馬車が馳せ去るまで見送っていた。彼はそれからロリー氏とダーネー氏とが鋪道に立っているところまで歩いて行った。

「やあ、ロリーさん! 事務家ももう今じゃあダーネー君と口が利けるようになったという訳ですかな?」

 誰一人としてこの日の弁論におけるカートン氏の役割について少しでも感謝の意を表した者はなかった。誰一人としてそれを知りもしなかった。彼は法服を脱いでいたが、そのために別段風采がよくなっているという訳でもなかった。

「事務家の心が善良な直情と事務上の体面との二つに分れる場合に、その人がどんなつらい思いをするものかということが君にわかれば、君も面白がるんだろうがね、ダーネー君。」

 ロリー氏は顔を赧くして、むきになって言った。「あなたはさっきもそのことを仰しゃいましたね。会社などへ勤めているわれわれ事務家は、自分が自分の思い通りにならんのですよ。われわれは自分自身のことよりももっと会社のことを考えなくちゃあならんのです。」

「わかってますとも、わかってますとも。」とカートン氏は無頓著に答えた。「そう怒っちゃいけませんよ、ロリーさん。あなたが人に劣らない善い人だってことは、僕は少しも疑いませんよ。いや、人より以上に、と言ってもいいでしょう。」

「それにですな、実際、」とロリー氏は、相手の言うことにも構わずに、言い続けた。「わたしにはあなたがそういう事柄にどういう関係がおありになるのか全くのところわからんのです。わたしはあなたよりはよっぽど年長者だから、それに免じて言わしてもらえるならですな、そういうことがあなたの関する事務だとはわたしには全くわからんのです。」

「事務ですって! とんでもない、僕には事務なんてものはありゃしませんよ。」とカートン氏が言った。

「事務がないとはお気の毒なことですな。」

「僕もそう思います。」

「もしおありでしたら、」とロリー氏は言い続けた。「たぶんあなただってそれに身をお入れになるでしょうがね。」

「いやいや、どういたしまして! ──身を入れるものですか。」とカートン氏が言った。

「えっ、何ですって!」と、彼の冷淡さにすっかりかんかんになって、ロリー氏は叫んだ。「事務は非常に結構なものですし、また非常に尊敬すべきものです。それでですな、事務上から拘束を受けて黙っていたり差控えていたりしなければならないとしても、ダーネー君のような寛大な青年紳士は、その辺の事情を大目に見られることなどはちゃんと心得ておられるのです。ダーネー君、おやすみなさい。御機嫌よう! あなたが今日きょう命拾いをされたのはこれから順調な幸福な生涯を送られるためであるようにと思いますよ。──おうい、かごだ!」

 その弁護士にと同様にたぶん自分自身にも少し腹を立てて、ロリー氏はせかせかと轎に乗って、テルソン銀行へと担がれて行った。ポルト葡萄酒の匂いをぷんぷんさせて、全くの素面しらふとは見えないカートン氏は、この時笑い声を立てて、ダーネーの方へ振り向いた。──

「君と僕とが落合うとはこれあ不思議な𢌞り合せだ。自分にそっくりの人間とここで二人だけでこの鋪石しきいしの上に立っているなんて、君にとっても不思議な晩に違いないだろう?」

「私にはまだ、」とチャールズ・ダーネーが答えた。「この世へ戻ったような気が十分しないのです。」

「そいつあ不思議じゃあないよ。何しろ君があの世の方へだいぶ遠くまで行きかけたのはついさっきのことだからな。君は気が遠くなっているようなのに口を利いているね。」

「私は確かに気が遠くなりそうな気がして来ました。」

「それなら一体どうして君は食事をしないんだ? 僕は、あの馬鹿野郎どもが君をどちらの世界に置いたものか──この世か、それともどこか別の世か──と頭をひねっている間に、食事をしたのさ。うまい食事をさせてくれる一番近くの飲食店へ案内しようか。」

 腕と腕とを組み合せながら、彼は相手の男をひっぱって、ラッドゲート・ヒルを下ってフリート街に出て、それから、廊道を上って一軒の飲食店へ入った。そこで二人は小さな一室に案内され、チャールズ・ダーネーは上等のあっさりした食事と上等の葡萄酒とでまもなく力を恢復していた。その間カートンは同じ卓子テーブルに向って彼と向い合せに腰掛けていて、前に自分の別なポルト葡萄酒の罎を置き、例の半ば横柄な態度をすっかり現していた。

「君はもうこの世の人間に戻ったような気がするかね、ダーネー君?」

「私はまだ時間と場所については恐しく混乱していますが、それくらいの気がするほどには気分がよくなりました。」

「それはさぞかし御満足だろうね!」

 彼はにが々しげにそう言って、また自分の杯に一杯にいだ。それは大きな杯であった。

「ところが僕はだ、僕の何よりの願いは、自分がこの世のものだということを忘れたいということなんだ。この世は僕にとっては──こんな酒を除けばだね──何のいいところもないし、また、僕もこの世にとってはそうなんだ。だから、その点では僕たちは大して似ちゃあいないんだな。いや、そればかりか、僕たちはどの点でも大して似ていないような気がして来たよ、君と僕とはね。」

 昼間ひるまの感情の激動で頭が乱れてもいたし、粗野な振舞のこの生写いきうつしの人間と一緒にそこにいるのが夢のように思れもするので、チャールズ・ダーネーはどう答えていいかまごついた。で、とうとう、何も答えなかった。

「さあ、もう君の食事もすんだのだから、」とカートンはやがて言った。「なぜ君は健康を祝さないのさ、ダーネー君? なぜ君は乾杯をしないんだい?」

「何の祝杯を? 何の乾杯を?」

「なあに、そいつあ君の口先まで出ているさ。そうあるべきだよ、そうに違いないよ。そうだということは僕は誓ってもいいぜ。」

「では、マネット嬢ミス・マネットに!」

「では、マネット嬢ミス・マネットに!」

 その乾杯をしている間相手の顔をまともに眺めていたカートンは、自分の杯を肩越しに壁に投げつけた。杯は粉微塵に砕けた。それから、彼は呼鈴ベルを鳴らして、別のを持って来いと言いつけた。

「あれなら暗がりで手を貸して馬車に乗せてやりがいのある美人だね、ダーネー君!」と彼は、新たな杯に酒をぎ込みながら、言った。

 ちょっと眉をひそめて簡単に「そう。」と言うのがその答であった。

「あれなら同情されたり泣いてもらったりされがいのある美人だよ! どんな気持がするかなあ? ああいう美人の同情と憐憫の対象になるのなら、命がけで裁判されるだけの値打があるかね、ダーネー君?」

 もう一度ダーネーは一ことも答えなかった。

「あのひとは、僕が君の伝言ことづてを伝えてやったら、それを聞いてとても喜んでいたよ。いや、なあに、あのひとが喜んでいる素振りを見せたという訳じゃあないんだがね。喜んでいたろうと僕が推量しているのさ。」

 こう言われたことから、ダーネーは、この不愉快な相手が昼間の難関で我から進んで自分を助けてくれたことを、折よく思い出した。それで彼は話をそこへ向けて、彼にその礼を言った。

「僕はどんな礼だって言ってほしくもなければ、言ってもらうだけの資格もないのさ。」というのがその無頓著な応答だった。「第一に、あれは何でもないことだし、第二には、僕はなぜあんなことをしたのか自分でもわからないんだ。ダーネー君、僕は君に一つ尋ねたいことがあるんだがね。」

「どうぞ。あなたの御親切な御尽力に対してわずかな返礼ですが。」

「君は僕が君に特別に好意を持っていると思うかね?」

「全くのところ、カートン君、」と相手は妙に度を失って返答した。「私はそんなことを考えてみたことがないんです。」

「でも今ここで考えてみたまえ。」

「あなたはいかにも私に好意を持っておられるように振舞われました。が、好意を持っておられるとは私は思いません。」

僕も自分が好意を持っているとは思わないんだ。」とカートンが言った。「僕は君の頭のよさにすこぶる敬服するようになったよ。」

「それにしても、」とダーネーは、呼鈴ベルを鳴らしに立ち上りながら、言い続けた。「そのために、私が勘定を持って、私たちがどちら側とも悪感情なしでお別れすることは、差支えがないようにしたいものですね。」

 カートンが「そりゃあちっとも差支えはないとも!」と答えたので、ダーネーは呼鈴ベルを鳴らした。「君は勘定を全部持つか?」とカートンが言った。肯定の返事をすると、「じゃあこれとおんなじ葡萄酒をもう一パイントおれに持って来てくれ、給仕。それから十時になったらおれを起しに来てくれ。」

 勘定書を払うと、チャールズ・ダーネーは立ち上って、カートンにおやすみを言った。その挨拶には返答せずに、幾らかおどすような挑戦するような態度で、カートンも立ち上って、それから言った。「最後にもう一ことだ、ダーネー君。君は僕が酔っ払っていると思うかね?」

「あなたはだいぶお飲みになったと私は思いますがね、カートン君。」

「思うって? 君は僕が飲んでいたことは知っているじゃないか。」

「そう言わなければならないのでしたら、私はそのことを知っています。」

「ではなぜ飲むかってこともついでに知らしてあげよう。僕はね、失望した奴隷なんだよ、君。僕は誰一人だって好きでもなければ気にもかけないし、また誰一人だって僕を好きでもなければ気にもかけやしないんだ。」

「たいそう遺憾なことです。あなたは御自分の才能をもっと有効に御利用出来ますでしょうに。」

「そうかもしれんさ、ダーネー君。そうでないかもしれんさ。だが、君は酒を飲まんからっていい気になってちゃいけないぜ。どんなことになるか君だってわかりゃしないんだからね。おやすみ!」

 一人だけになると、この不思議な人物は蝋燭を取り上げて、壁に懸っている鏡のところへ行き、それに映る自分の姿を綿密にうち眺めた。

「お前はあの男に特別に好意を持っているのか?」と彼は自分自身の姿に向って呟いた。「お前に似ている男だからといって特別に好意を持たなければならん訳があるのかい? 人に好意を持つなんてことはお前のがらじゃない。それはお前も承知しているはずだ。えい、畜生め! 何というお前の変り果てようだ! お前の堕落しない前の姿と、お前のなれたかもしれない姿を見せてくれた男だからといって、その男を好くというのは立派な理由さね! あの男と位置を換えてみろ。そうしたら、お前はあの男と同じようにあの青い眼で見つめられたり、あの男と同じようにあの不安そうな顔で同情されたりしたろうか? さあ、いいか。遠慮なくあからさまに言ってみろ! お前はあいつを憎んでいるのだ。」

 彼は心の慰めを一パイントの葡萄酒に求めて、それを数分のうちにすっかり飲み尽すと、それから両腕の上に突っ伏して寐込んでしまった。彼の髪の毛は卓子テーブルの上に乱れかかり、蝋燭の長い蝋垂れが彼の上にたらたらと滴り落ちるのだった


第五章 やまいぬ


 その頃は飲酒の時代であって、大抵の人は豪飲したものだった。時がその後そういう習慣に齎した改善は極めて著しいものであったので、その頃の一人の男が完全な紳士としての体面をけがさずに、平生よく一晩のうちに飲んだ葡萄酒やポンスの量を、控目に述べても、今日では、馬鹿馬鹿しい誇張と思われるほどであろう。法律家という智的職業階級も、その大酒の習癖にかけては、確かに他のいかなる智的職業階級にもひけを取らなかった。また、もう既にずんずん他人を肩で押し除けて手広く儲けのある商売をやっているストライヴァー氏も、その道にかけては、法曹界の酒気抜きの競争にかけてよりも以上に、彼の同輩たちにひけを取りはしなかった。

 オールド・ベーリーの寵児であり、普通刑事裁判所の寵児であるストライヴァー氏は、自分の登って来た梯子の下の方の段を用心深くも切り落し始めていた。普通刑事裁判所もオールド・ベーリーも今ではその寵児を特に腕を差し伸べて招かねばならなくなった。そして、民事高等裁判所の裁判長の面貌の方へ肩で他人を押し除けて突き出ているストライヴァー氏の血色のよい顔が、ちょうど庭一面に生い繁った仲間のけばけばしい花の間から太陽をめがけてぐっと伸び出ている大きな向日葵ひまわりのように、仮髪かつらの花壇からにゅっと現れ出ているのが、毎日のように見受けられたのであった。

 一頃、ストライヴァー氏は口達者で、無遠慮で、敏捷で、大胆な男ではあるが、弁護士の伎倆の中で一番目立ち一番必要なものの一つであるところの、山なす陳述記録から要点を抜き出すというあの才能を持っていない、ということが法曹界で評判であった。しかし、このことについては著しい進歩が彼に現れて来た。仕事が多くなればなるほど、その精髄を掴む彼の能力が増して来るように思われた。そして、夜どんなにおそくまでシドニー・カートンと一緒に痛飲していても、彼は翌朝には必ず自分の要点をちゃんと心得ていた。

 人間の中でも一番怠惰な、一番前途の望みのないシドニー・カートンは、ストライヴァーには大切な味方であった。この二人がヒラリー期からミケルマス期までの間に一緒に飲んだ酒の量は、王の軍艦一隻でも浮べられそうなくらいであった。ストライヴァーは、いつも両手をポケットに突っ込んで、法廷の天井ばかり見つめているカートンがいなくては、どこででも、決して事件を引受けはしなかった。彼らは巡囘裁判にも一緒に出かけた。そしてそこでさえも彼等のいつも通りの酒宴を夜おそくまで続けるのだった。そして、夜がすっかり明け放れてから、カートンが、どら猫か何かのように、こそこそとひょろひょろと自分の下宿へ帰ってゆくのが見られるという噂が伝わった。遂に、そういう事柄に興味を持っているような連中の間には、シドニー・カートンは決して獅子にはなれないだろうが、非常に立派なやまいぬであるということや、彼はそういう賤しい資格でストライヴァーに奉仕しているのだということが、噂され始めたのであった。

「十時ですよ、旦那。」と彼がさっき起してくれと頼んでおいた飲食店の男が言った。──「十時ですよ、旦那。」

「ううん、どうしたって?」

「十時ですよ、旦那。」

「何だっていうんだい? 夜の十時だっていうのか?」

「そうですよ、旦那。あなたさまが起してくれってわたしに仰しゃいましたんで。」

「ああ! そうだったな。よし、よし。」

 何度かまたうとうとと眠りかけようとするのを、給仕が続けざまに五分間も炉火を掻き𢌞して手際よく妨げたので、彼はとうとう立ち上って、帽子をひょいと頭にのっけて、外へ出た。彼は道を曲ってテムプルへ入り、そして、高等法院どおりと書館どおりの鋪道を二囘ばかり歩調正しく歩いて元気を囘復してから、ストライヴァーの事務室に入って行った

 この二人の協議には一度も加わったことのないストライヴァーの書記はもう帰ってしまっていて、ストライヴァー御本人がドアを開けた。彼はスリッパを穿き、ゆったりした寝衣を著て、もっとくつろぐためにのどもとをむき出しにしていた。彼の眼の周りには、ジェフリーズの肖像画からこのかた、法律家仲間のすべての酒客に見られる、また、画の技巧でさまざまに違うが、いずれの飲酒時代の肖像画にも認められる、あの幾らか気違いじみた、不自然な、ひからびた斑点があった。

「少し遅いぜ、記憶の名人。」とストライヴァーが言った。

「ほぼいつもの時間だよ。十五分くらい遅いかもしれんな。」

 二人は、書物がずらりと列んで、書類が取散らかっている、すすけた一室へ入った。そこには炉火があかあかと燃えていた。炉側棚には湯沸しが湯気を立てていたし、ばらばらに撒き散らばっている書類の真中に、一つの卓子テーブルがぴかぴかと光っていて、その上にはたくさんの葡萄酒と、ブランディーと、ラム酒と、砂糖と、レモンとが載せてあった。

「君は一罎やって来たようだね、シドニー。」

「今晩は二罎だったろう、確か。僕は今まで昼の弁護依頼人と一緒に食事をしていたんだ。いや、あの男の食事をするのを見ていたって言うかな。──どっちだって同じことさ!」

「君があの顔の似ているところへ持って行ったのはね、シドニー、あれは素敵な論点だったよ。どうして君はあんなとこを掴まえたんだい? いつあんなことを思い付いたのかね?」

「おれはあいつはずいぶん美男だなと思ったんだ。それから、おれだって運がよかったなら、奴と同じぐらいの人間になれてたろうと考えたんさ。」

 ストライヴァー氏はその年に似合わぬ布袋腹を揺がせるほどに笑った。「君にして幸運か、シドニー! 仕事にかかるんだ、仕事にかかるんだ。」

 大いに不機嫌な顔をしながら、豺は自分の衣服をくつろげて、隣室に入って行ったが、冷水の入っている大きな水差と、洗盤と、一二枚のタオルとを持って戻って来た。そのタオルを水に浸して、少ししぼると、彼は見るも物凄い工合にそれをたたんで頭の上にのっけて、卓子テーブルに向って腰を掛け、それから言った。「さあ、用意が出来たぞ!」

「今夜の煮詰め仕事は大してないよ、記憶の名人。」とストライヴァー氏は、書類を見𢌞しながら、陽気に言った。

「どれだけ?」

「たった二口さ。」

「むずかしい奴を先にくれ。」

「ほら、それだよ、シドニー。どしどしやるんだ!」

 獅子は、それから、酒の載っている卓子テーブルの一方の側にある長椅子ソーファに背を凭れかけてゆったりと構えた。豺の方は、そのもう一方の側にある、書類の散乱している自分自身の卓子テーブルに向って、酒罎と杯とがすぐに手の届くところに腰掛けた。二人とも頻りに酒の卓子テーブルに手を出したが、その出し方は銘々で違っていた。獅子の方は、大抵は両手を腰の帯革バンドにかけて凭れていて、炉火を眺めたり、時々は何か手軽な方の書類をいじったりしていた。豺は、眉をしかめて一心不乱の顔をしながら、仕事にすっかり夢中になっているので、自分の杯を取ろうと差し伸べる手に眼をくれさえしないくらいで、──その手は、脣へ持ってゆく杯に当るまでには、一分かそれ以上もそのあたりをさぐり𢌞ることがたびたびあった。二度か三度、当面の問題がひどくこんがらかって来たので、豺もどうしても立ち上って、例のタオルを改めて水に浸さなければならなくなった。こうして水差と洗盤のところへ巡礼すると、彼はどんな言葉でも言い現せないくらいの奇抜な濡れ頭巾をかぶって戻って来るのであった。その奇抜さは、彼が気懸りそうな真面目まじめくさった顔をしているので、なおさら滑稽なものになった。

 とうとう豺は獅子のためにこぢんまりした食事を纒めてしまって、それを獅子に差し出しにかかった。獅子はそれを細心の注意をしながら食べ、それに自分の択り好みもし、自分の意見も加えた。すると豺はそのいずれにも助力してやった。その食事がすっかり風味されてしまうと、獅子は再び腰の帯革バンドに両手を突っ込み、ごろりと横になって考え込んだ。豺は、それから、なみなみといだ一杯の酒でのどうるおしたり、頭のタオルを取替えたりして元気をつけると、二番目の食物を集めにかかった。それも同じような風にして獅子に与えられ、それが片附いたのは時計が朝の三時を打った時だった。

「さあ、これですんだんだから、シドニー、ポンスを一杯ぎたまえよ。」とストライヴァー氏が言った。

 豺は、また湯気の立っていたタオルを頭から取って、からだをゆすぶり、欠伸をし、ぶるぶるっと身震いしてから、言われる通りにした。

今日きょうのあの検事側の証人の件じゃ、シドニー、君は実にしっかりしてたね。どの質問もどの質問も手応えがあったからねえ。」

「おれはいつだってしっかりしてるさ。そうじゃないかね?」

「僕はそれを否定しないよ。何が君の御機嫌に触ったんだい? まあポンスをひっかけて、機嫌を直したまえ。」

 不満らしくぶつぶつ言いながら、豺は再び言われる通りにした。

「昔のシュルーズベリー学校時代の昔の通りのシドニー・カートンだね。」とストライヴァーは、現在と過去の彼を調べてでもみるように彼の上に頭をうなずかせながら、言った。「昔の通りのぎいこばったんシーソーのシドニーだね。今上っているかと思えばもう下っている。今元気かと思えばもうしょげてる!」

「ああ、ああ!」と相手は溜息をつきながら答えた。「そうだよ! 相も変らぬめぐあわせの、相も変らぬシドニーさ。あの頃でさえ、おれはほかの子供たちに宿題をしてやって、自分のは滅多にやらなかったものだ。」

「なぜやらなかったんだい?」

「なぜだかわかるものか。おれの流儀だったんだろうよ。」

 彼は、両手をポケットに突っ込み両脚を前にぐっと伸ばしたまま、炉火を眺めながら、腰掛けていた。

「カートン、」と彼の友人は、あたかも炉側格子はその中で不屈の努力が鍛えられる熔鉱炉であって、昔のシュルーズベリー学校時代の昔の通りのシドニー・カートンのためにしてやれる唯一の思遣りのある仕打は彼をその熔鉱炉の中へ肩で押し込んでやることであるかのように、威張り散らすような風で彼に向って肩肱を張って、言った。「君の流儀はなっていない流儀だし、いつだってそうだったんだ。君は気力でも意思でも奮い起すってことがない。僕を見たまえ。」

「おやおや、これあたまらん!」とシドニーは、今までよりは気軽な機嫌のよい笑い声を立てながら、応答した「君のお説教は御免だよ!」

「僕はこれまでやって来たことをどんな風にやって来たかね?」とストライヴァーが言った。「僕は今やっていることをどんな風にやっているかね?」

「僕に給料を払って手伝わせてやってるってとこも少しはあるようだね。だが、僕にそんなことを言ったって、かぜに言ってるようなもので、無駄だよ。君はやろうと思うことはやる人間だ。君はいつだって最前列にいたんだし、僕はいつだって後の方にいたんだ。」

「僕が最前列へ出るには出るようにしなければならなかったんだ。僕だって最前列に生れついたんじゃないよ。そうだろう?」

「僕は君の誕生の儀式に立会ったんじゃないさ。だが、どうも僕の思うところじゃ君はそこに生れついたらしいな。」とカートンが言った。そう言って、彼はまた声を立てて笑い、それから二人とも一緒に笑った。

「シュルーズベリー時代の前だって、シュルーズベリー時代だって、シュルーズベリー時代から後今までだって、」とカートンは言葉を続けた。「君は君の列に就いていたし、僕は僕の列に就いていたんだ。僕たちがパリーの学生街の学生同志で、フランス語だの、フランス法律だの、そのほか大してためにもならなかったフランスのパン屑みたいな学問だのをかじっていた頃でさえ、君はいつだって存在を認められていたし、僕はいつだって──存在を認められなかったんだ。」

「で、それは誰のせいだったのだい?」

「確かに、それが君のせいでなかったとは僕には請合うけあえないんだ。君はいつだってぶつかって割込んで押し除けて突き進んで、ちっとも休まずにいるものだから、僕はどうしても銹びついてじっとしているよりほかに機会がなかったのだ。だが、夜も明けかけようってのに、昔のことなんか話してるのは、陰気くさいな。僕の帰る前に何かほかの話をしてくれよ。」

「それならだ! あの美しい証人のために僕と乾杯したまえ。」とストライヴァーは自分の杯を挙げて言った。「君の嬉しい話になったろう?」

 明白にそうではなかった。というのは彼はまた陰鬱になって来たから。

「美しい証人と。」と彼は自分の杯の中を覗き込みながら呟いた。「おれには今日きょう昼から夜へかけてずいぶん証人があったが。君の言う美しい証人とは誰だい?」

「あの絵のように美しい医者の娘さんの、マネット嬢さ。」

あの女が美しい?」

「美しかあないかね?」

「ないね。」

「だって、君、あの女は満廷讃美のまとだったぜ!」

「満廷讃美のまとがなんだい! 誰がオールド・ベーリーを美人の審査員にしたのだね? あれは金髪のお人形というだけさ!」

「君は知らないだろうがね、シドニー、」とストライヴァー氏が、鋭い眼で彼を見ながら、また片手で自分の血色のよい顔をゆっくりと撫でながら、言った。──「君は知らないだろうがね、僕はあの時、君がその金髪のお人形に同情を寄せていたものだから、その金髪のお人形に何事が起ったか素速く見つけたんだ、と思ってたくらいなんだよ。」

「何事が起ったか素速く見つけたって! 人形だろうが人形でなかろうが、一人の女の子が人の鼻先から一二ヤードのところで気絶したんならだね、望遠鏡なしにだって見えようじゃないか。おれは君と乾杯はするが、美人だということは否定するよ。さあ、これでもうおれは飲みたくない。帰って寝るとしよう。」

 あるじが蝋燭を持って彼の後から階段のところまで送って出て、彼が階段を降りるのを照してやった時、夜明よあけの光はもうそこのよごれた窓から寒そうに覗き込んでいた。彼がその建物から外へ出ると、空気は冷くて陰気で、空はどんよりと曇り、河は仄暗くくすみ、あたりの光景は生気のない沙漠のようであった。そして砂塵の渦巻が朝風に吹かれてくるくるくるくると𢌞っていた。それはまるで沙漠の砂が遠い彼方かなたで捲き上って、それのこちらへと進んで来る最初の砂塵がこの市を覆い始めたようでもあった。

 うちには精根が尽き果て、周囲は一面に沙漠に囲まれて、この男はひっそりした台地を横切ってゆく途中でじっと立ち止った。そして一瞬間、立派な野心と、克己と、堅忍との蜃気楼が、自分の眼前の曠野に横わるのを見た。その幻影の美わしい都には、夢のような桟敷があってそこから愛の神や美の神たちが彼を見ており、花園があってそこには生命の果実が熟して下っており、希望の泉があって彼の見えるところできらきら光っていた。それもほんの一瞬間で、すぐに消え失せてしまった。彼は井桁形に建てられた家の高い部屋まで攀じ上ると、顧みられぬがちの寝台ベッドの上に衣服のままで身を投げかけ、その枕は徒らな涙で濡れるのであった。

 物淋しげに、物淋しげに、太陽は昇った。立派な才能と立派な情緒とを持ちながら、それを適当な方面に働かすことが出来ず、自分自身の裨益にも自分自身の幸福にもすることが出来ず、自分の身を枯らす害虫に気づいていながら、それにわが身を蝕むにまかせて諦めている男、その昇る太陽はこの男よりも物淋しいものを照さなかった。


第六章 何百の人々


 マネット医師の静かな住居は、ソホー広場から遠からぬ閑静な街の一劃にあった。四箇月という月日の波があの叛逆罪の公判の上を乗り越えてしまって、公衆の興味と記憶ということから言えば、それを遠く海の方へ押し流してしまっていた頃の、ある天気のよい日曜日の午後、ジャーヴィス・ロリー氏は、自分の住んでいるクラークンウェルから出かけて、医師と食事を共にしに行く途中、日当りのいい街々を歩いて行った。ロリー氏は、何度か事務上の事だけに専念することにした後に、結局医師の友人になってしまったのだった。そしてその閑静な街の一劃は彼の生活の中の日当りのいい部分となった。

 その天気のよい日曜日に、ロリー氏は、午後早く、習慣上の三つの理由で、ソホーの方へ歩いていたのだ。第一に、天気のよい日曜日には、彼は晩餐の前に医師とリューシーと一緒に散歩に出かけることがたびたびあったからだし、第二に、都合のよくない日曜日には、彼は家族の友人として彼等と一緒にいて、話をしたり、読書をしたり、窓の外を眺めたり、漫然とその日を過したりする習慣であったからだし、第三に、彼は自分の解かねばならないちょっとしたむずかしい疑問を持っていたのだが、医師の家庭の習わしから考えて、その時がそれを解くに好適な時だということを知っていたからであった。

 医師の住んでいるその一劃ほど風変りな一劃は、ロンドン中にも見出せそうになかった。その一劃には通り抜ける路がなかった。それで、医師の住居の前面の窓からは、いかにも浮世を離れたようなのんびりした様子の漂っている街の気持のいい小さな通景みとおしを見渡すことが出来た。オックスフォド街道の北には、その頃は建物がほとんどなかった。そして、今はなくなってしまったその野原には、喬木が繁り、野生の草花が生え、山櫨さんざしが花を開いていた。だから、田舎の空気は、あてどもなくさまようている宿なし乞食のように教区へ弱々しく入り込んで来ないで、自由に元気よくソホーを吹き流れるのであった。そして、あまり遠くもないところに、よく日の当る南向きの塀がたくさんあって、季節にはその塀のところで桃の実が熟するのだった

 夏の光は朝の間だけその一劃にぎらぎらと射し込んだ。が、街々が暑くなる頃には、その一劃は日蔭になった。もっとも、日蔭と言っても、そこの向うにきらきら光る日の輝きも見られないほど引込んだ日蔭ではなかったが。そこは、静かで落著いてはいるが気の晴れる、凉しい場所であり、不思議によく物音を反響する箇所であり、騒擾の街からの全くの避難港であった。

 そういうような碇泊所にはきまって船が静かに泊っているはずであり、また事実泊っていた。医師は大きなひっそりした家の二つの階を借りていた。この家では、昼間ひるまはいろいろの職業が営まれているということであったが、しかしいつの昼でもさほど物音も聞えず、その物音も夜になればみんな差控えられた。一本の篠懸すずかけの樹が緑の葉をさらさらと鳴らしている中庭を通って行ける裏手の一つの建物の中では、教会のオルガンが造られているということであったし、また銀が浮彫を施されているということであったし、それにまた金がある不可思議な巨人によって打ち延べられているということであった。この巨人は表広間の壁から金色こんじきの片腕を突き出していて、──あたかも、自分は自分をこのように高価な金属に打ち換えてしまったのだが、訪問者も片っ端から同じ風に金に変えてやるぞとおどしつけてでもいるかのようであった。このようなさまざまな商売にしても、階上に住んでいるという噂の一人きりの間借人にしても、階下に事務所を持っているという話の魯鈍な馬車装具製作人にしても、いつでもほとんど音も立てなければ姿も見せなかった。時としては、ちゃんと上衣を著込んだ風来の職工が広間を横切って行ったり、あるいは見慣れぬ人がそこらを覗き込んだり、あるいは中庭を隔てて遠くからかちんかちんという金物の音が聞えたり、例の金色こんじきの巨人のところからとんとんと打つ音が聞えたりすることがあった。けれども、こういうことは、家の背後の篠懸の樹の中にいる雀と、家の前の街の一劃の反響とが、日曜日の朝から土曜日の晩まで思いのままに振舞っている、という法則を証明するために必要な、除外例に過ぎなかった。

 マネット医師は、この住居で、彼の昔の評判を知っているとか、また彼の身の上話が口から口へと伝えられるうちにその評判がよみがえったのを聞いたとかして、彼の許へやって来る患者を、迎えた。彼の科学上の知識と、精巧な実験を行う時の彼の用意周到さと熟練とのために、彼には他の方面でも相当の依頼者が出来た。で、彼は必要なだけの収入は得られたのであった。

 以上のことは、ジャーヴィス・ロリー氏が、その天気のよい日曜日の午後、その一劃にある閑静な家の戸口の呼鈴ベルを鳴らした時に、彼の知っており、考えており、気づいていた範囲内のことであったのである。

マネット先生ドクター・マネットは御在宅?」

 もうお帰りになるはずとのこと。

「リューシーさんは御在宅?」

 もうお帰りになるはずとのこと。

プロスさんミス・プロスは御在宅?」

 たぶんいらっしゃるだろうが、しかし、お入り下さいと言っていいのか、いらっしゃいませんと言った方がいいのか、それについてのプロスさんの意向を予想することは、女中には確かに出来ないとのこと。

「わたしは心やすい者だから、」とロリー氏は言った。「二階へ上らしてもらうとしよう。」

 医師の令嬢は、自分の生れた国のことは少しも知らなかったのに、その国の最も有用で最も愉快な特徴の一つである、わずかな資力を大いに利用するというあの才能を、その国から生れながらに享けているように見えた。家具は質素なものではあったが、ただその趣味と嗜好とにだけ価値のあるいろいろの小さな装飾で引立たせてあったので、その効果は気持のよいものであった。室内の一番大きな物から一番小さな物に至るまでのあらゆるものの配置、色彩の配合、些細なものの節約や、巧妙な手際や、明敏な眼識や、優れた感覚などで得られた優雅な多種多様さと対照、そういうものはそれ自身としても非常に快いものであると同時に、それの創案者をも非常によくあらわしていたので、ロリー氏があたりを見𢌞しながら立っていると、椅子や卓子テーブルまでが、この時分までには彼にはすっかりおなじみになっていたあの一種特別の表情のようなものを浮べながら、彼に、お気に入りましたか? と尋ねているように思われるほどであった。

 一つの階には三つの室があった。そして、その室と室とを通ずるドアは空気がどの室をも自由に吹き抜けられるようにとけ放してあったので、ロリー氏は、自分の周囲のどこにも目につくその空想上の類似ににこにこしながら眼を留めて、一室から次の室へと歩いて行った。最初の室は一番上等の室で、そこにはリューシーの小鳥と、草花と、書物と、机と、裁縫台と、水彩絵具の箱とがあった。二番目の室は医師の診察室で、食堂にも使われていた。中庭の例の篠懸の樹のさらさらと動く葉影で絶えず変化するまだら模様をつけられている三番目の室は、医師の寝室であって、──その室の一隅には、今は使われていない靴造りの腰掛台ベンチと道具箱とが、パリーの郊外サン・タントワヌのあの酒店の傍の陰惨な建物の六階にあったとほぼ同じようにして、置いてあった。

「どうも驚くなあ、」とロリー氏はあたりを見𢌞すのをめて、言った。「あの人はあんな自分の苦しみを思い出させるものを身の周りに置いとくなんて!」

「何だってそんなことに驚くんですか?」という不意の問が彼をびくりとさせた。

 その問は、彼がドーヴァーのロイアル・ジョージ旅館ホテルで初めて知り合って、その後その時よりは親しくなっていた、例の腕っ節の強い、荒っぽい、赭い顔の婦人、プロス嬢の発したものであった。

「わたしはこう思っていたんですがねえ──」とロリー氏が言い出した。

「ふうん! 思ってたんですって!」とプロス嬢が言った。それでロリー氏は言葉を切った。

「お変りありませんか?」とその時その婦人は──鋭く、だがあたかも彼に対して何も悪意を抱いていないということを示すつもりであるかのように──尋ねた。

「有難う、達者なほうです。」とロリー氏は柔和に答えた。「あんたはいかがです?」

「自慢するほどのことはちっともございませんよ。」とプロス嬢が言った。

「ほんとに?」

「ええ! ほんとにですとも!」とプロス嬢は言った。「私はお嬢さまのことでとっても困ってるんですもの。」

「ほんとに?」

後生ごしょうですからその『ほんとに』のほかに何とか言って下さいよ。でないと私気が揉めて死にそうですから。」とプロス嬢が言った。彼女の性質は(その体格とは違って)短い方だった。

「じゃあ、全くですか?」とロリー氏は言い直しとして言った。

「『全くですか』だっていやですが、」とプロス嬢が答えた。「少しはましですわ。そうなんですよ、私とっても困っているんです。」

「その訳を伺えますかな?」

「私は、お嬢さまに少しもふさわしくない人たちが何十人と、お嬢さまの世話を焼きにここへやって来てもらいたくはないんですの。」とプロス嬢が言った。

「そんな目的で何十人とほんとやって来るんですか?」

「何百人とね。」とプロス嬢が言った。

 自分の最初に言い出したことが疑われると、いつでも必ずそれを誇張するというのが、この婦人(彼女の時代より前でもそれより後でも他にもそういう人々はあるのであるが)の特徴なのであった。

「おやおや!」とロリー氏は、自分の思い付くことの出来た中でも一番安全な言葉として、そう言った。

「私がお嬢さまと御一緒に暮して来ましたのは──いいえ、お嬢さまが私と一緒にお暮しになりまして、私にお給金を下さいましたのは、と申さなければならないんで、もし私が何も頂戴しなくても自分なりお嬢さまなりを養ってゆけるのでしたら、決して決して、お嬢さまにそんなお給金を出していただくようなことはおさせしなかったんですが、──その一緒にお暮しになりましたのは、お嬢さまがまだ十歳とおの時からでした。ですから、ほんとうにとてもつらいんですの。」とプロス嬢が言った。

 何がとてもつらいのかはっきりとはわからないので、ロリー氏は自分の頭を振り動かした。自分のからだのその重要な部分を、何にでもぴったりと合う魔法の外套のようなものとして使ったのである。

「お嬢さんにちっともふさわしくないいろんな人たちが、始終やって来るんですからねえ。」とプロス嬢が言った。「あなたがそれをお始めになった時だって──」

わたしがそんなことを始めたって、プロスさんミス・プロス?」

「あなたがお始めになったじゃありませんでしたか? お嬢さんのお父さまを生き返らせたのはどなたでした?」

「ああ、そうか! あのことがそれの始めだったと言うんなら──」とロリー氏が言った。

「あのことはそれの終りだったとも言えないでしょうからね? 今申しましたようにね、あなたがそれをお始めになった時だって、ずいぶんつらかったんですの。と言って、私はマネット先生に何も難癖なんくせをつけるんじゃありません。ただ、あのかただってああいうお嬢さまにはふさわしくないということだけを別にすればですがね。でもそれはあのかたとがじゃあございませんわ。どんな人にだって、どんな場合でも、そんなことは望むのが無理なんですからね。ですけれども、あのかたの後から(あのかただけは私我慢してあげるんですが)、お嬢さまの愛情を私から取り上げてしまいに、大勢の人たちがやって来るのは、ほんとうに二倍にも三倍にもつらいことですわ。」

 ロリー氏はプロス嬢の非常に嫉妬深いことを知っていた。が、彼はまた、彼女が表面うわべは偏屈ではあるが、その実は、自分たちが失ってしまった若さに対して、自分たちがかつて持ったことのなかった美しさに対して、自分たちが不幸にも習得することの出来なかった芸能に対して、自分たち自身の陰鬱な生涯には一度も射さなかった輝かしい希望に対して、純粋な愛情と欽仰とから、喜んで自分を奴隷にしようとする、あの非利己的な人間──それは女性の間にのみ見出される──の一人であるということも、この時分には知っていた。彼は世間をよく知っていたので、そういう真心の誠実な奉仕にまさるものは世の中には何ものもないということを知っていた。そのように尽された、そのように金銭ずくのけがれを少しも持たないそういう奉仕に、彼は極めて高い尊敬の念を持っていたので、彼は、自分だけの心の中で作っている応報の排列表──吾々は皆そういう排列表を多少とも作っているのであるが──の中では、プロス嬢を、天質と人工との両方によって彼女とは比べものにならぬほど美しく粧うている、テルソン銀行に預金を持っている多くの淑女たちよりも、下級の天使たちによほど近いところに置いていたのであった。

「お嬢さまにふさわしい男は一人だけしかいなかったのですし、これからだってそうでしょう。」とプロス嬢は言った。「その男というのは私の弟のソロモンでしたの。もしあれが身を持崩していませんでしたらばですがねえ。」

 また始った。ロリー氏がいつかプロス嬢の身の上をいろいろと尋ねてみたところが、彼女の弟のソロモンというのは、賭博の賭金にするために彼女の持っていたものを何もかも一切捲き上げて、無一文になった彼女を少しも気の毒とも思わないでそのまま見棄てて行ってしまった無情な無頼漢である、という事実が確かになったのであった。そのソロモンをプロス嬢がそのように信じ切っている(そういうちょっとした身の誤りのためにその信用はいささか減ってはいたが)ということは、ロリー氏には全く常談事とは思えなかった。そしてまた、そのことは彼が彼女に好感を抱くについて大いに効力があったのだった。

「わたしたちは今のところ偶然二人きりだし、二人とも事務の人間だから、」と彼は、二人が応接室へと引返して、そこで打解けた気持で腰を下した時に、言った。「私はあんたにお尋ねしたいんだが、──先生ドクターは、リューシーさんと話される時に、あの靴を造っておられた頃のことを仰しゃったことがまだ一度もないかね?」

「ええ、一度も。」

「それだのにあの腰掛台ベンチとあの道具とを自分の傍に置いておかれるんだね?」

「ああ!」とプロス嬢は頭を振りながら答えた。「でも私はあのかたが心の中でもその頃のことを思っていらっしゃらないとは申しませんよ。」

「あんたはあの人がその頃のことをよほど考えておられると思いますか?」

「思います。」とプロス嬢が言った。

「あんたの想像するところでは──」とロリー氏が言いかけると、プロス嬢がその言葉をこう遮った。──

「何だって想像なぞしたことは一度もありません。想像力なんてちっともないんです。」

「こりゃあ間違ったな。では、あんたの推測するところでは──あんただって時には推測ぐらいはするね?」

「時々はね。」とプロス嬢が言った。

「あんたの推測するところでは、」とロリー氏は、彼女を親切そうに見ながら、例のきらきらした眼に笑いを含んだ光を閃かして、言い続けた。「マネット先生ドクター・マネットは、御自分があんなに迫害されたことの原因や、またたぶんその迫害者の名前などについても、あの永い年月としつきの間ずっと、何か御自分の御意見を持っておられた、と思いますかね?」

「私は、そのことについては、お嬢さまが私にお話下さいましたことのほかには、何も推測したことがありません。」

「で、そのお嬢さまのお話では──?」

「お嬢さまは先生がそれについて御意見を持っていらっしゃると思ってお出でです。」

「ところで、わたしがこんなにいろんなことを尋ねるのに腹を立てないで下さいよ。わたしはただの気の利かない事務家だし、あんたも婦人の事務家なんだからね。」

「気の利かないですか?」とプロス嬢はつんとして尋ねた。

 その謙遜な形容詞を使わなければよかったと思いながら、ロリー氏は答えた。「いや、いや、いや。確かにそうじゃないとも。で、事務のことに戻るとして。──マネット先生ドクター・マネットが、どんな罪も犯したことがないに違いないのに、そうだということはわれわれはみんな十分に確信しているんだが、それだのに、その問題に決して触れようとされないというのは、不思議じゃあないですか? あの人は昔わたしと事務上の関係があったし、今はお互に懇意になっているとはいえ、わたしは自分のために言うのではない。あの人があんなに心から愛著しておられ、またあの人にあんなに心から愛著しておられる、あの美しいお嬢さんのために言っているつもりなんだがね? とにかく、プロスさんミス・プロス、わたしがあんたとこんな話をしようとするのは、好奇心からするのではなくって、心配のあまりにするのだ、ということを信じてもらいたいのだが。」

「そうね! 私にわかっております限りでは、と申してもわずかなことでしょうがねえ、」とプロス嬢は、その弁解の語調のために心をやわらげて、言った。「あのかたはその話には何でもかんでも一切触れるのをこわがっていらっしゃるんですよ。」

「怖がって?」

「なぜ怖がっていらっしゃるかってことはよっくわかる、と思うんですが。それは恐しい思い出ですもの。それにまた、あのかたが正気をなくされましたのもそれから起ったことですもの。どんな風にして正気をなくしたのか、またどんな風にして正気に戻ったのかということを御自分では御存じないので、あのかたには自分がまた正気をなくしないってことはどうしてもはっきりと請合うけあえないんでしょう。このことだけだってその話はあのかたには気持がよくはないんだろうと、私はそう思うんです。」

 これはロリー氏が予期していたより以上の意味深長な言葉であった。「なるほど。」と彼は言った。「だから考えるのも恐しいんだね。それにしてもだ、プロスさんミス・プロス、わたしの心の中には疑いが一つ残っているんですがね。そういう気持を御自分の心の中に始終押し隠しておられるということはマネット先生ドクター・マネットのためにいいかどうか、ということなんだ。実際、その疑いのために、またその疑いから時々私の心に起る不安のために、わたしはこの現在の打明け話をする気になったのだが。」

「どうともしようがないんでしょうね。」とプロス嬢が頭を振りながら言った。「そのことにちょっとでも触れるとなると、あのかたはじきに工合が悪くなるんですもの。うっちゃってそのままにしておく方がいいんでしょうね。つまり、いやでも応でも、うっちゃってそのままにしておくよりほかはないんでしょう。時々、あのかた真夜中まよなかにお起きになりましてね、御自分のお部屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになるのが、この上のあそこにいる私どもに聞えることがよくありますの。お嬢さまは、そんな時には、あのかたのお心が昔の牢屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになっているのだとお思いになるように、今ではなっていらっしゃいます。で、急いであのかたのところへお出でになりまして、お二人で御一緒に、そのまま往ったり来たり、往ったり来たりして、あのかたのお心が落著くまで、お歩きになるんですよ。しかしあのかたはお嬢さまに御自分のじっとしておられぬことのほんとうの原因を一ことも決して仰しゃいませんし、それでお嬢さまもあのかたにそのことを口にしないのが一番いいと気づいてお出でです。で、黙ったまま、お二人は御一緒に往ったり来たり、往ったり来たりして歩いていらっしゃいますと、そのうちに、お嬢さまの愛情とそうして連立っていらっしゃることとであのかたは正気にお返りになるんです。」

 プロス嬢は自分は想像力を持っていないと言ったにもかかわらず、彼女が「往ったり来たりして歩く」という文句を何度も何度も繰返したのをみると、何か一つの悲しい思いに一本調子に絶えず悩まされている苦痛を感知していることがわかり、そのことは彼女がその想像力なるものを持っていることを証明しているのだった。

 その一劃は不思議によく物音を反響する一劃であるということは既に述べた。ちょうど、今彼方此方かなたこなたと疲れた足取りで歩くという話が出たので、そのために起ったのかと思われるほどに、こちらへとやって来る足音が、鳴り響くようにその一劃に反響し始めた。

「そら、お帰りですわ!」とプロス嬢が、その会談を打切りにして立ち上りながら、言った。「もうすぐに何百って人が押し掛けて来ますよ!」

 そこはその音響学上の性質から言って実に珍しい一劃で、実に一種特別な耳のような場所であったので、ロリー氏がけてある窓のところに立って、足音の聞えた父と娘との来るのを待っていると、彼等が決して近づいて来ないのではなかろうかというような気がするのであった。その足音が向うへ行ってしまったかのように、さっきの反響が消え失せたばかりではない。決してやって来ない他の足音の反響がその代りに聞えて来て、それが間近に来たかと思うとそれっきり消え失せてしまうのだった。けれども、父と娘とはとうとう姿を見せた。そしてプロス嬢はその二人を出迎えるために表戸口のところに待ち構えていた。

 たとい荒っぽくて、赭ら顔で、こわい顔付ではあっても、プロス嬢が、自分の大好きな令嬢が二階へ上るとその帽子を脱がせて、それを自分のハンケチの端でちょっと手入れをして直し、ほこりを吹き払ってやったり、いつでもしまわれるように彼女のマントをたたんでやったり、彼女の豊かな髪の毛を、自分自身がもしこの上もなく虚栄心の強いこの上もなく美しい女であったなら、自分の髪の毛にあるいは持ったかもしれないほどの誇らしさで、撫でつけてやったりしているのは、見ていて気持のよいものであった。その彼女の大事な令嬢が、彼女を抱擁して彼女にお礼を言い、自分のためにそんなにまで面倒をみてくれることに不服を言っているのもまた、見ていて気持のよいものであった。──もっとも、その不服を言うのだけはほんの常談に言ってみただけであった。でなければ、プロス嬢は、ひどく気を悪くして、自分自身の部屋にひっこんで泣き出したことであろう。医師が、その二人を傍から見て、言葉や眼付でプロス嬢に彼女がどんなにリューシーを甘やかしているかということを言っているが、その言葉や眼付にはプロス嬢に劣らぬほど甘やかしているところがあるし、もし出来るものならそれより以上に甘やかしたがっているようなのもまた、見ていて気持のよいものであった。ロリー氏が、例の小さな仮髪かつらをかぶってこういうすべての様子をにこにこ顔で眺めて、晩年になって独身者の自分に途を照して一つの家庭に導いてくれた自分の運星に感謝しているのもまた、見ていて気持のよいものであった。しかし、こういう有様を何百の人々は見に来はしなかった。そしてロリー氏はプロス嬢の予告の実現されるのを徒らに期待していたのであった。

 食事時になったが、それでもまだ何百の人々は来ない。この小さな家庭の切𢌞しでは、プロス嬢は台所の方面を引受けていて、いつもそれを驚くほど見事にやってのけた。彼女のこさえる食事は、ごく質素な材料のものでありながら、非常に上手に料理して非常に上手によそってあり、半ばイギリス風で半ばはフランス風で、趣向が非常に気が利いていて、どんな料理も及ばないくらいであった。プロス嬢の交際というのは徹底的に実際的な性質のもので、彼女は、何枚かの一シリング銀貨や半クラウン銀貨で誘惑されて料理の秘訣を自分に知らしてくれそうな貧窮したフランス人を捜して、ソホーやその近隣の区域を荒し𢌞るのであった。そういうおちぶれたゴール人の子孫たちから、彼女は実に不思議な技術を習得していたので、そこの家婢である婦人と少女なぞは、彼女を、一羽の禽、一疋の兎、菜園にある一二種の野菜を取って来させて、そういうものを何でも自分の好きなものに変えてしまうような、女魔法使か、シンダレラの教母のように思い込んでいるほどであった。

 日曜日には、プロス嬢は医師の食卓で食事をすることにしていたが、しかしその他の日には、台所か、それとも三階にある自分自身の室──そこは彼女のお嬢さまのほかにはかつて誰一人も入ることを許されたことのない青い部屋であったが──かで、人知れぬ時刻に食事することを、どうしてもやめなかった。この日の食事の際には、プロス嬢は、彼女のお嬢さまの楽しい顔と彼女を喜ばそうとする楽しい努力とに応じて、よほど打寛うちくつろいでいた。だから、その食事もまた非常に楽しかった。

 その日は蒸暑い日であった。それで、食事がすむと、リューシーは、葡萄酒を篠懸の樹の下に持ち出して、みんなそこへ出て腰掛けることにしましょう、と言い出した。すべてのことが彼女次第であり、彼女を中心にして囘転していたので、皆はその篠懸の樹の下へ出て行った。そして彼女は特にロリー氏のために葡萄酒を持って行った。彼女は、しばらく前から、ロリー氏のお酌取りの役を引受けていたのだ。そして、皆が篠懸の樹の下に腰掛けて話している間も、彼女は彼の杯を始終一杯にしておくようにした。あたりの建物の何となく神秘的に見える裏手や横面がそこで話している彼等を覗いていたし、篠懸の樹は彼等の頭上でその樹のいつものやり方で彼等に向って囁いていた。

 それでもまだ、何百の人々は姿を見せなかった。彼等が篠懸の樹の下に腰掛けている間にダーネー氏が姿を見せた。が彼はたった一人であった。

 マネット医師は彼を懇ろに迎えた。またリューシーもそうした。しかし、プロス嬢は俄かに頭と体とにひきつりを起して、家の中へひっこんだ。彼女がこの病気に罹ることは珍しくなかった。そして彼女はその病気のことを打解けた会話の時には「痙攣の発作」と言っていた。

 医師は体の工合がこの上もなくよくて、特別に若々しく見えた。彼とリューシーとの類似はこういう時には非常に目立った。そして、彼等が並んで腰を掛け、彼女は彼の肩に凭れ、彼は彼女の椅子の背に片腕をかけている時に、その似ているところを見比べてみるのは極めて愉快なことであった。

 彼は、いろいろの問題にわたって、非常に決活に、絶えず話していた。「ちょっと伺いますが、マネット先生ドクター・マネット、」とダーネー氏が、彼等が篠懸の樹の下に腰を下した時に、言ったが、──それは、ちょうどその時ロンドンの古い建築物ということが話題になっていたので、自然その話を続けて言ったのだった。──「あなたはロンドン塔をよく御覧になったことがおありですか?」

「リューシーと二人で行って来たことがあります。だがほんの通りすがりに寄っただけです。興味のあるものが一杯あるなということがわかるくらいには、見物して来ました。まあ、それっくらいのところです。」

「あなた方も御存じのように、私はあすこへ行っていたことがありますが、」とダーネーは、幾らか腹立たしげに顔を赧らめはしたけれども、微笑を浮べながら、言った。「見物人とは別の資格でいたのですし、またあすこをよく見物する便宜を与えられるような資格でいたのでもありませんでした。私があすこにいました時に珍しい話を聞かされましたよ。」

「どんなお話でしたの?」とリューシーが尋ねた。

「どこか少し改築している時に、職人たちが一つの古い地下牢を見つけたんだそうです。そこは、永年の間、建て塞がれて忘れられていたんですね。そこの内側の壁の石にはどれにもこれにも、囚人たちの刻みつけた文字が一面にありました。──年月日だの、名前だの、怨みの言葉だの、祈りの言葉だのですね。その壁の一角にある一つの隅石に、死刑になったらしい一人の囚人が、自分の最後の仕事として、三つの文字を彫っておいたそうです。何かごく貧弱な道具で、あわただしく、しっかりしない手で彫ってあるんです。最初は、それは D.I.C. と読まれたのですがね。ところが、もっと念入りに調べてみると、最後の文字は G だとわかりました。そういう頭文字かしらもじの姓名の囚人がいたという記録も伝説もなかったので、その名前は何というのだろうかといろいろ推測されたんですが、どうもわからなかったのです。とうとう、その文字は姓名の頭文字ではなくて、 DIG という完全な一語ではなかろうか、と言い出した者がいました。で、その文字の刻んである下のゆかをごく念入りに調べてみたんです。すると、一つの石か、瓦か、鋪石しきいしの破片のようなものの下の土の中に、小さな革製のケースか嚢かの塵になったものとまじって、塵になってしまった紙が見つかったんだそうですよ。その誰だかわからない囚人の書いておいたことは、もうどうしたって読めっこないでしょう。が、とにかくその男は何かを書いて、牢番に見つからないようにそれを隠しておいたんですね。」

「おや、お父さま、」とリューシーが叫んだ。「御気分がお悪いんですね!」

 彼は片手を頭へやって突然立ち上っていたのだ。彼の挙動と彼の顔付とはみんなをすっかり驚かせた

「いいや、悪いんじゃないよ。大粒の雨が落ちて来たんでね、それでびっくりしたのだ。みんなうちへ入った方がよかろうな。」

 彼はほとんど即時に平静に返った。大粒の雨がほんとうに降っていて、彼は自分の手の甲にかかっている雨滴を見せた。しかし、彼はそれまで話されていたあの発見のことに関してはただの一ことも言わなかった。そして、みんなが家の中へ入って行く時に、ロリー氏の事務家的な眼は、チャールズ・ダーネーに向けられた医師の顔に、それがかつてあの裁判所の廊下でダーネーに向けられた時にその顔に浮んだと同じ異様な顔付を、認めたか、あるいは認めたような気がしたのであった。

 だが、彼は非常に速く平静に返ったので、ロリー氏は自分の事務家的な眼を疑ったほどであった。医師が広間にある例の金色こんじきの巨人の腕の下で立ち止って、自分はまだ些細なことに驚かぬようになっていない(いつかはそうなるにしても)ので、さっきは雨にもびくりとしたのだ、と皆に言った時には、彼はその巨人の腕にも劣らぬくらいにしっかりしていた。

 お茶時になり、プロス嬢はお茶を入れながら、また痙攣の発作を起した。それでもまだ何百の人々は来なかった。カートン氏がぶらりと入って来たのだが、しかし彼でやっと二人になっただけだ。

 その夜はひどく暑苦しかったので、ドアや窓を開け放しにして腰掛けていても、みんなは暑さに耐えられなかった。茶の卓子テーブルが片附けられると、一同は窓の一つのところへ席を移して、外の暗澹とした黄昏たそがれを眺めた。リューシーは父親の脇に腰掛けていた。ダーネーは彼女の傍に腰掛けていた。カートンは一つの窓に凭れていた。窓掛カーテンは長くて白いのであったが、この一劃へも渦巻き込んで来た夕立風が、その窓掛カーテンを天井へ吹き上げて、それを妖怪の翼のようにはたはたと振り動かした。

「雨粒がまだ降っているな、大粒の、ずっしりした奴が、ぱらりぱらりと。」とマネット医師が言った。「ゆっくりとやって来ますな。」

「確実にやって来ますね。」とカートンが言った。

 彼等は低い声で話した。何かを待ち受けている人々が大抵そうするように。暗い部屋で電光を待ち受けている人々がいつもそうするように。

 街路では、嵐の始らないうちに避難所へ行こうと急いでゆく人々が非常にざわざわしていた。不思議によく物音を反響するその一劃は、行ったり来たりしている足音の反響で鳴り響いた。だが本物の足音は一つも聞えては来なかった。

「あんなにたくさんの人がいて、しかもこんなに淋しいとは!」と、皆がしばらくの間耳を傾けていてから、ダーネーが言った。

「印象的ではございませんか、ダーネーさん?」とリューシーが尋ねた。「時々、私は、夕方などにここに腰掛けておりますと、空想するんでございますが、──けれども、今夜は、何もかもこんなに暗くっておごそかなので、馬鹿げた空想なぞちょっとしただけでも私ぞっとしますの。──」

「私たちにもぞっとさせて下さい。どんな空想だかどうか私たちに知らしていただきたいものですねえ。」

「あなた方には何でもないことに思われますでしょう。そういう幻想は、私たちがそれを自分で作り出した時だけ印象的なのだと、私思いますわ。それは他人ひとさまにお伝えすることが出来ないものなんですのよ。私時々夕方などにひとりきりでここに腰掛けて、じいっと耳をすまして聴いておりますと、あの反響が、今に私どもの生活の中へ入って来るすべての足音の反響だと思われて来ますの。」

「もしそうなるとすると、いつかはわれわれの生活の中へ大群集が入って来る訳だ。」とシドニー・カートンが、いつものむっつりした言い方で、口を挟んだ。

 足音は絶間がなかった。そしてそれの急ぐ様はますます速くなって来た。この一劃はその足の歩く音を反響し更に反響した。窓の下を通ると思われるものもあり、室内を歩くと思われるものもあり、来るものもあり、行くものもあり、突然止むものもあり、はたと立ち止るものもあり、すべては遠くの街の足音であって、見えるところにあるものは一つもなかった。

「あの足音がみんな私たちみんなのところへ来ることになっているのですか、マネット嬢ミス・マネット、それとも私たちの間であれを分けることになるのですか?」

「私存じませんわ、ダーネーさん。馬鹿げた空想だと申し上げましたのに、あなたが聞かしてくれと仰しゃいましたんですもの。私がその空想に耽りますのは、私が独りきりでおります時なので、その時は、その足音を私の生活と、それから私の父の生活の中へ入って来る人たちの足音だと想像したのでございました。」

「僕がそいつを僕の生活の中へ引受けてあげますよ!」とカートンが言った。「僕は文句なしで無条件でやります。やあ、大群集がわれわれに迫って来ますよ、マネット嬢ミス・マネット。そして僕には彼等が見えます、──あの稲光いなびかりで。」彼がこの最後の言葉を附け加えたのは、窓に凭れかかっている彼の姿を照した一条の鮮かな閃光がぴかりと輝いた後であった。

「それから僕には彼等の音が聞える!」と彼は、一しきりの雷鳴の後で、再び附け加えた。「そら、来ますよ、速く、凄じく、猛烈に!」

 彼の前兆したのは雨の襲来と怒号とであって、その雨が彼の言葉をめさせた。その雨の中ではどんな声でも聞き取れなかったからである。忘れがたいくらいの猛烈な雷鳴と電光とがその激湍のような雨と共に始った。そして、轟音と閃光と豪雨とは一瞬の間断もなく続いて、夜半になって月が昇った頃にまで及んだ。

 セントポール寺院の大鐘が澄みわたった空気の中で一時を鳴らした頃、ロリー氏は、長靴を穿いて提灯を持ったジェリーに護衛されて、クラークンウェルへの帰途に就いた。ソホーとクラークンウェルとの途中には処々に淋しい路があったので、ロリー氏は、追剥の用心に、いつでもジェリーをその用事に雇っておいたのだ。もっとも、いつもはこの用事はたっぷり二時間も早くすんでしまうのであったが。

「何という晩だったろう! なあ、ジェリー、」とロリー氏が言った。「死人が墓場からでも出て来かねないような晩だったね。」

「わっしは、そんなことになりそうな晩てえのは、自分じゃ見たことがありませんよ、旦那。──また、見たいとは思いませんや。」とジェリーが答えた。

「おやすみなさい、カートン君。」とその事務家は言った。「おやすみなさい、ダーネー君。わたしたちはいつかもう一度こういう晩を御一緒に見ることがありましょうかなあ!」


 おそらく、あるだろう。おそらく、人々の大群集が殺到しつつ怒号しつつ彼等に追って来るのをもまた、見ることがあるだろう。


第七章 都会における貴族モンセーニュール


 宮廷において政権を握っている大貴族の一人であるモンセーニュールは、パリーの宏大な邸宅で、二週間目ごとの彼の接見会リセプションを催していた。モンセーニュールは、彼には聖堂中の聖堂であり、そのそとの一続きの幾間いくまかにいる礼拝者のむれにとっては最も神聖な処の中でも最も神聖な処である、彼の奥のにいた。モンセーニュールは彼のチョコレートを飲もうとしているところであった。モンセーニュールは非常に多くのものをやす々とくだすことが出来たので、少数の気むずかし屋には、フランスをまでずんずん嚥み下しているのだと想像されていた。だが、彼の毎朝のチョコレートは、料理人のほかに四人の強壮な男の手を藉りなくては、モンセーニュールののどへ入ることさえも出来なかった。

 そうだ。その幸福なるチョコレートをモンセーニュールの脣へまで持ってゆくには、四人の男がるのであった。その四人ともぴかぴかときらびやかな装飾を身に著け、その中のかしらの者に至っては、モンセーニュールの範を垂れたもうた高貴にして醇雅な様式と競うて、ポケットの中に二箇よりも少い金時計が入っていては生きてゆくことが出来ないのだった。一人の侍者はチョコレート注器つぎを神聖な御前へと運ぶ。二番目の侍者はチョコレートを特にそれだけのために携えている小さな器具で攪拌して泡立たせる。三番目の侍者は恵まれたるナプキンを捧呈する。四番目の侍者(これが例の二箇の金時計を持っている男)はチョコレートをぐのである。モンセーニュールにとっては、こういう四人のチョコレートがかりの侍者の中の一人が欠けても、この讃美にみちた天の下で彼の高い地位を保つことは出来ないのであった。もし彼のチョコレートが不名誉にもわずか三人の人間に給仕されるようなことがあったならば、彼の家名のけがれははなはだしいものであったろう。二人であったなら彼は憤死したに違いない。

 モンセーニュールは昨晩もささやかな晩餐に出かけたのであった。その席では喜劇と大歌劇グランド・オペラとが極めて楽しく演ぜられた。モンセーニュールは大概の晩はささやかな晩餐に出かけて、嬌艶な来会者たちに取巻かれるのであった。モンセーニュールは極めて優雅で極めて多感であらせられたので、喜劇や大歌劇グランド・オペラは、退屈な国家の政務や国家の機密に与っている彼には、全フランスの窮乏よりも遥かに多く彼を動かす力があった。フランスにとっては幸福なことだ。同じようなことが、フランスと似たようなのに恵まれているあらゆる国々にとって常にそうであるように! ──(一例としては)国を売った陽気なステューアトのあの遺憾な時代のイギリスにとって常にそうであったように。

 モンセーニュールは総体から見た公務について一つの真に高貴な意見を持っていた。その意見というのは、一切のものをしてそれ自身の路を進ましめよ、というのであった。箇々の公務については、モンセーニュールはそれとは別のやはり真に高貴な意見を持っていた。それは、一切のものはことごとく彼の路を歩まねばならぬ──彼自身の権力と財嚢とを肥す方へ行かねばならぬ、というのであった。総体から見たものと箇々のものとを含めて彼の快楽については、モンセーニュールはまた別のやはり真に高貴な意見を持っていた。それは、この世は彼の快楽のために造られたのだ、というのであった。彼の法則の本文は(原文とは代名詞一つだけ変っているが、それは大したことではない)こうなっていた。「モンセーニュールいけるは、地とこれにてる物はわがものなり。

 それにもかかわらず、モンセーニュールは、卑俗な財政困難ということが彼の公私両方の財政に這い込んでいるのに、ようようにして気がついて来た。それで、彼は、その両方面の財政に関しては、やむをえず収税請負人と結託したのであった。公の財政に関しては、モンセーニュールはそれを全くどうすることも出来なかったので、それゆえ誰かそれをどうにか出来る者にまかさなければならなかったからであるし、私の財政に関しては、収税請負人は富裕であって、モンセーニュールは代々の非常な奢侈と浪費との結果として貧しくなりつつあったからである。そこで、モンセーニュールは、修道院にいる彼の妹を、彼女が身に著け得る最も廉価な衣装である面紗ヴェールをかぶるのが差迫っているのをことわるにまだ時がある間に、そこから連れ戻して、家柄は賤しいがすこぶる富裕な一人の収税請負人に、褒美として彼女を与えたのであった。この収税請負人は、頭部に黄金の林檎のついた身分相応な杖を携えながら、今、外側の室の来客の中にいて、人々に大いに平身低頭されていた。──もっとも、モンセーニュール一門の優秀な人種だけは常にその例外で、その連中は、彼の妻もその中に含めて、最も高慢な侮蔑の念をもって彼を見下みくだしていたのである。

 その収税請負人は豪奢な男であった。三十頭の馬が彼の厩舎にいたし、二十四人の家僕が彼の広間に控えていたし、六人の侍女が彼の妻に侍していた。掠奪と徴発との出来る限りはひたすらそれをのみやるということを公言している人間として、この収税請負人は、──彼の婚姻関係がいかに社会道徳に貢献するところがあったにしても、──当日モンセーニュールの邸宅に伺候した貴顕縉紳の間にあっては、少くとも最も現実性に富んだ人物であった。

 なぜなら、その室にいる者たちは、見た目には美しくて、当代の趣味と技巧とでなし得る限りのあらゆる意匠の装飾で飾られてはいるけれども、実際は、健実な代物ではなかったからである。どこか他の処にいる(そしてそれは、貧富の両極端からほとんど等距離にあるノートル・ダムの展望塔がその両方ともを見られないくらいに遠く隔ってもいない処なのであるが)襤褸ぼろ寝帽ナイトキャップとを著けた案山子かかしたちと幾分でも関聯して考えると、その室にいる者たちは極めて気持の悪い代物であったろう、──もしモンセーニュールの邸宅で誰かそういうことを考えてみる人間があったとするならばであるが。軍事上の知識に欠けている陸軍士官たち。船の観念を少しも持っていない海軍士官たち。政務の概念をも持たぬ文官たち。好色な眼をし、放縦な舌でしゃべり、更に放縦な生活をしている、最悪の世俗的な世界の人間である、鉄面皮な僧侶たち。そのすべての者たちは彼等のそれぞれの職務に全然不適当であり、そのすべての者たちがその職務に適しているような風をして恐しい嘘をついているが、しかしそのすべての者たちは近いか遠いかの別はあれモンセーニュールの仲間の者であり、それゆえに何かが得られる限りのあらゆる公職に嵌め込んでもらった者なのである。こういう連中は何十何百とまとめて数えなければならないくらいいたのであった。モンセーニュールや国務とは直接には関係のない、しかしそうかと言って真実な何等かのものにも一切等しく関係のない、あるいは何等かの現世の正しい目的に向って何等かの真直な道を通って旅して過す生涯にも関係のない人々も、それに劣らず夥しかった。ありもせぬ架空の病気に高価な治療を施して大財産をつくった医者どもが、モンセーニュールの控ので、彼等の閑雅な患者たちに向ってにこにこと微笑の愛嬌を振り撒いていた。国家を犯している小さな悪弊に対するあらゆる種類の救治策を発見していながら、ただの一つの罪悪でも根絶しようと本気でとりかかるという救治策だけは知らない山師どもが、モンセーニュールの接見会リセプションで、人の心を迷わす彼等の譫語たわごとを手当り次第の人間の耳に注ぎ込んでいた。言葉で世界を改造している、また天に攀じ登るためのバベルの骨牌かるたを築いている不信心な哲学者たちは、モンセーニュールによって招集されたこの驚歎すべき会合で、金属の変質ということに著目している不信心な化学者たちと話をしていた。最上等のお仕込を受けた申分のない紳士たち、この最上等のお仕込なるものは、その注意すべき時代にあっては──かつまたそれ以後今日までもそうであるが──人間的な興味のある自然な問題には一切無関心になるというそれの結果によって識別されることになっていたのであるが、そういう紳士たちは、モンセーニュールの邸宅において、最も模範的な倦怠状態にあった。こういうさまざまな名士たちがパリーという立派な世界で彼等の後に残して来た家庭の有様に至っては、そこに集ったモンセーニュールの信者たちの中にまじっている間諜スパイ──それはその優雅な来客の半分ほども占めていたが──でも、その社会の天使たちの中に、態度や容姿で自分が母であるということを自認しているたった一人の人妻さえ見つけ出すことがむずかしい、ということがわかったほどであったろう。実際、一人の厄介な生物をこの世の中へ生み出すというだけの所業──それだけでは母という名前を事実として示すまでには行っていないのである──を除いては、母などというものは上流社会には知られていないのであった。百姓の女たちが野暮な赤ん坊などというものを傍において、育て上げるのであって、六十歳の婀娜なお婆さんたちは二十歳の時のように盛装し晩餐をとるのであった。

 非現実性という癩患がモンセーニュールに伺候するあらゆる人間を醜くしていた。一番外の方の室には、世の中の事態が幾分悪化しつつあるという漠然たる不安を数年前から心の中に抱いていた、半ダースの例外的な人々がいた。その事態を匡正する一つの有望な方法として、その半ダースの人間の中の半分は、痙攣教徒という奇異な宗派の信者になっていた。そして、その時でさえ、自分たちが、口から泡を出し、あばれ𢌞り、呶鳴り、その場で類癇に罹って──それによって、モンセーニュールを導くための未来へのすこぶるわかりやすい指道標を建てるのであるが──みせたものかどうかと、心の中で考えているところであった。こういう苦行僧のほかに、別の宗派へ飛び込んで行った他の三人がいた。その宗派というのは、「真理の中心」がどうのこうのという譫語たわごとで事態を矯正しようとするものであった。すなわち、人間は真理の中心から離れてしまっている──それは大して論証を必要としない──が、またその円周の外へは出ていない、だから、人間は、断食することと精霊を見ることとによって、その円周の外へ飛び出さぬようにしていなければならぬし、またその中心へ押し戻されさえしなければならぬ、ということを主張したのであった。従って、こういう連中の間では、精霊との談話が大いに行われ、──そして、それには、決して明瞭になっては来なかったたくさんの御利益ごりやくがあったのである。

 しかし、幾分心の慰めにもなろうというのは、モンセーニュールの大邸宅に集ったすべての来客が一点の欠点もない服装をしていることであった。もしも最後の審判日が盛装デーであるということが確められさえしたならば、そこに集った者は誰も彼も永遠に正しいものとなれたことであろう。あのように縮らして髪粉をつけてぴんと立てた頭髪や、人工的に保持され修飾されているあのように美しい顔色や、あのように見るも華美な佩剣や、嗅覚に対するあのように鋭敏な配慮をもってすれば、確かにどんなものでもいつまでもいつまでも保たせることが出来るであろう。最上等のお仕込を受けた申分のない紳士たちは、彼等がものうげに動くたびにちりんちりんと鳴る小さな垂れ下っている飾物を身に著けていた。こうした黄金の拘束物は貴金属の小さな鈴のように鳴り響いた。そして、それの鳴り響く音や、絹や金襴や上質の亜麻のさらさら擦れる音などのために、そこの空気の中には、サン・タントワヌと彼のがつがつした飢餓とを遠くへ吹き飛ばしてしまうほどの激動があったのだ。

 服装こそはあらゆるものをそれぞれの位置に保たしめるに用いられる唯一の間違いのない護符であり呪文であった。各人は決して終ることのない仮装舞踏会のために衣服を著けているのであった。テュイルリーの宮殿から、モンセーニュールと全宮廷とを経て、議院や、法廷や、すべての社会(あの案山子たちだけを除いて)を経て、その仮装舞踏会は下賤な死刑執行吏にまで及んだ。その死刑執行吏でさえ、かの呪文に遵って、「頭髪を縮らし、髪粉をつけ、金モールの上衣、扁底靴、白絹の靴下を著用して」職務を執行せよと命ぜられていたのだ。絞首刑や車輪刑──斧鉞の刑は稀であった──の時には、ムシュー・パリー、とムシュー・オルレアンやその他の彼の地方の同業者たちの間では監督派流儀に彼をそう言ったのであるが、そのムシュー・パリーは、そういう優美な服装で職を司ったものである。そして、そのキリスト紀元千七百八十年にモンセーニュールの接見会リセプションに集った賓客たちの中で、頭髪を縮らし、髪粉をつけ、金モール服を著、扁底靴を穿き、白絹靴下を穿いた一校刑史に根ざしたある制度が、余人ならぬ自分たちの運の星の消えるのを見ることになろうとは、誰がおそらく思ったことであろう!

 モンセーニュールは彼の四人の侍者の重荷を卸してやって彼のチョコレートを飲んでしまうと、最も神聖な処の中でも最も神聖な処のドアをさっと開かせて、現れ出でた。すると、何という従順、何という阿諛追従、何という卑屈、何というあさましい屈従! からだと心との平伏については、その方法ではもう少しも天帝に対してすることが残されていないくらいであった。──それが、モンセーニュールの礼拝者たちが天帝を決して煩わさなかったいろいろな理由の中の一つであったのかもしれない。

 ここでは約束の一言を授け、かしこでは一つの微笑を贈り、一人の幸福な奴隷には一片の耳語を恵み、別の幸福な奴隷には片手の一振りを与えながら、モンセーニュールはにこやかに彼の部屋部屋を通り過ぎて、真理の円周の遠いはてまでも行った。そこまで行くと、モンセーニュールはくるりと向を変え、また引返して来て、そうしているうちにしかるべき時がたつと自分を例のチョコレート妖精たちの手によって自分の聖堂の中へ閉じこめさせてしまって、それきり姿を見せなかった。

 見世物が終って、そこの空気中の例の激動はほんの小さな嵐になり、例の貴金属の小さな鈴はちりんちりん鳴り響きながら階下へ降りて行った。まもなくすべての群集の中でただ一人の人物だけがそこに残された。その男は、帽子を腕の下に、嗅煙草入れを片手に持ちながら、鏡のあいだをゆっくりと通って出口の方へ行った。

「貴様なんぞは、」とこの人物は、彼の途中にある最後のドアのところで立ち止って、例の聖堂の方角へ振り向きながら、言った。「悪魔に喰われてしまえ!」

 そう言うと、彼は足のほこりを振り払うように指から嗅煙草を振り払い、それから静かに階下へと歩いて降りた。

 彼は、立派な服装をした、態度の尊大な、精巧な仮面のような顔をした、六十歳ばかりの男であった。透き通るように蒼白い顔。いずれもはっきりとした目鼻立ち。それに浮べた動かぬ表情。鼻は、他の点では美しい恰好をしているが、両方の鼻孔の上のところがごく微かに撮まれたようになっていた。その二つの圧搾したようなところ、あるいは凹みに、その顔の示す唯一の小さな変化は宿っているのだった。その凹みは、時としては頻りに色を変えることがあったし、また何か微かな脈搏のようなもののために折々拡がったり縮まったりした。そんな時には、それはその容貌全体に陰険と残忍との相を与えたのだった。注意して吟味してみると、そういう相を助長するその容貌の能力は、口の線と、眼窩の線とが、余りにはなはだしく水平で細いということの中にあるのであった。それにしても、その顔の与える印象から言えば、それは美しい顔であり、また非凡な顔であった。

 この顔の持主は階段を降りて庭に出ると、自分の馬車に乗り込み、馬を走らせて去った。接見会リセプションでは彼と話をした人は多くはなかった。彼は皆とは離れて狭い場席に立っていたし、またモンセーニュールも彼に対してはもっと温かい態度を示してもよかりそうなものであった。そういう次第であったから、彼には、平民どもが自分の馬の前でぱっと散って、時々は轢き倒されそうになって危く免れるのを見るのは、かえって愉快であるらしかった。彼の馭者はまるで敵軍に向って突撃するかのように馬車を駆った。しかも、馭者のその狂暴な無鉄砲さは、主人の顔に阻止の色を浮べさせたり、脣に制止の言葉をのぼさせたりすることがなかった。馬車を激しく駆るという貴族の乱暴な風習が、歩道のない狭い街路では、ただの庶民を野蛮的に危険な目に遭わせたり不具にしたりするという苦情が、そのつんぼの都会とおしの時代とにおいてさえ、時折は聞き取れるようになることがあった。しかし、そんな苦情を二度と考え直すほどそれを気にかける者はほとんどいなかった。そして、このことでも、他のすべてのことにおけると同様に、みじめな平民たちは自分たちの難儀を自分たちの出来る限り免れるようにするよりほかはなかったのである。

 烈しいがらがらがたがたという音を立てながら、今の時代では了解するのに容易ではないほどの不人情な思いやりのなさで、その馬車は幾つもの街をまっしぐらに駈け抜け、幾つもの街角を飛ぶように走り曲って行き、女たちはその前で悲鳴をあげるし、男たちは互に掴まったり子供たちをその通路の外へ掴み出したりした。とうとう、一つの飲用泉の近くのある街角のところへ走りかかった時に、馬車の車輪の一つが気持悪くちょっとがたつき、数多あまたの声があっと大きな叫び声をあげ、馬どもは後脚で立ったり後脚で跳び上ったりした。

 この馬が跳び立つという不便なことがなかったなら、馬車はおそらく止らなかったであろう。馬車がそれの轢いた負傷者を置去りにしてそのまま駆けてゆくということはよくあることであったし、どうしてそんなことのないはずがあろう? しかし、びっくりした側仕そばづかえはあたふたと降り、馬の轡や手綱には多数の手がかかった。

「何の故障か?」と馬車に乗っているかたが、静かに顔を外に出して見ながら、言った。

 寝帽ナイトキャップをかぶった一人の脊の高い男が馬の脚の間から包みのようなものを抱え上げ、それを飲用泉の台石の上に置いて、泥土どろつちのところへ坐って、その上に覆いかぶさりながら野獣のように咆えていた。

「御免下さりませ、侯爵さま!」と襤褸を著た柔順な一人の男が言った。「子供でござります。」

「どうしてあの男はあのようないとわしい声を立てているのじゃ? あの男の子供なのか?」

「失礼でござりますが、侯爵さま、──可哀そうに、──さようでござります。」

 飲用泉は少し離れたところにあった。というのは、街路は、それのあるところでは、十ヤードか十二ヤード四方ほどの広さに拡がっていたからである。その脊の高い男が突然地面から起き上って、馬車をめがけて走って来た時、侯爵閣下は一瞬剣の𣠽つかにはっと手をかけた。

「殺された!」とその男は、両腕をぐっと頭上に差し伸ばし、彼をじっと見つめながら、気違いじみた自暴自棄の様子で、言った。「死んじゃった!」

 人々は周りに寄り集って、侯爵閣下を眺めた。彼を眺めている多くの眼には、熱心に注意していることのほかには、どんな意味も現れてはいなかった。目に見えるほどの威嚇や憤怒はなかった。また人々は何も言いはしなかった。あの最初の叫び声をあげた後には、彼等は黙ってしまったし、そのままずっと黙っていた。口を利いた例の柔順な男の声は、極端な柔順さのために活気も気力もないものであった。侯爵閣下は、あたかも彼等がほんの穴から出て来た鼠ででもあるかのように、彼等一同をじろりと眺め𢌞した。

 彼は財布を取り出した。

「お前ら平民どもが、」と彼が言った。「自分の体や子供たちに気をつけていることが出来んというのは、わしにはどうも不思議なことじゃがのう。お前たちの中の誰か一人はいつでも必ず邪魔になるところにいる。お前たちがこれまでにわしの馬にどれだけの害を加えたかわしにもわからぬくらいじゃ。そら! それをあの男にやれ。」

 彼は側仕に拾わせようとして一枚の金貨を投げ出した。すると、すべての眼がその金貨の落ちるのを見下せるようにと、すべての頭が前の方へ差し延べられた。脊の高い男はもう一度非常に気味悪い叫び声で「死んじゃった!」とわめいた。

 彼は別の男が急いでやって来たために言葉をめた。他の者たちはその男のために道をけた。この男を見ると、その可哀そうな人間はその男の肩に倒れかかって、しゃくりあげて泣きながら、飲用泉の方を指さした。その飲用泉のところでは、何人かの女たちがあの動かぬ包みのようなものの上に身を屈めたり、それの近くを静かに動いたりしていた。だが、その女たちも男たちと同様に黙っていた。

「おれにはすっかりわかってるよ、すっかりわかってるよ。」とその最後に来た男が言った。「しっかりしろよ、なあ、ガスパール あの可哀そうなちっちゃな玩具おもちゃの身にとってみれあ、生きてるよりはああして死ぬ方がまだしもましなんだ。苦しみもせずにじきに死んだんだからな。あれが一時間でもあんなに仕合せに生きていられたことがあったかい?」

「おいおい、お前は哲学者じゃのう。」と侯爵が微笑ほほえみながら言った。「お前は何という名前かな?」

「ドファルジュと申します。」

「何商売じゃ?」

「侯爵さま、酒屋で。」

「それを拾え、哲学者の酒屋。」と侯爵は、もう一枚の金貨をその男に投げ与えながら、言った。「そしてそれをお前の勝手に使うがよいぞ。それ、馬だ。馬に異状はないか?」

 群集をもう一度見てつかわしもされずに、侯爵閣下は座席にり返って、あやまって何かのつまらぬ品物を壊したが、それの賠償はしてしまったし、その賠償をするくらいの余裕はちゃんとある紳士のような態度で、今まさに馬車を駆って去ろうとした。その時に、彼のゆったりとした気分は、突然、一枚の金貨が馬車の中に飛び込んで来て、そのゆかの上でちゃりんと鳴ったのに、掻き乱された。

「待て!」と侯爵閣下は言った。「馬を停めておけ! 誰が投げおったのか?」

 彼は、ちょっと前まで酒屋のドファルジュが立っていた場所に眼をやった。が、その場所にはさっきのあの哀れな父親が鋪石しきいしの上に俯向になってひれ伏していて、その傍に立っている人の姿は編物をしている一人の浅黒いがっしりした婦人の姿であった。

「この犬どもめが!」と侯爵は、しかし穏かな語調で、例の鼻の凹みのところだけを除いては顔色も変えずに、言った。「わしは貴様らを誰だろうと構わずにわざと馬に踏みにじらせて、貴様らをこの世から根絶やしにしてくれたいのじゃわい。もしどの悪党が馬車に投げつけおったのかわかろうものなら、そしてその盗賊めが馬車の近くにいようものなら、そやつを車輪にかけて押し潰してやるのじゃが。」

 彼等はずいぶん怖気おじけづいていたし、それに、そういうような人間が、法律の範囲内で、またその範囲を越えて、彼等に対してどんなことをすることが出来るかということの経験は、ずいぶん久しい間のつらいものであったので、一つの声も、一つの手も、一つの眼さえも、挙げる者がなかった。男たちの中には、一人もなかったのだ。しかし、編物をしながら立っている例の婦人だけはきっと見上げ、侯爵の顔を臆せずに見た。それに気を留めることは侯爵の威厳に関わることであった。彼の侮蔑を湛えた眼は彼女をちらりと眺め過し、他のすべての鼠どもをちらりと眺め過した。それから再び座席に反り返って、「やれ!」と命じた。

 彼は馬車を駆らせて行った。そして他の馬車が後から後へと続々と馳せ過ぎて行った。大臣、国家の山師、収税請負人、医師、法律家、僧侶、大歌劇グランド・オペラ、喜劇、燦然たる間断なき流れをなした全仮装舞踏会は、馳せ過ぎて行った。例の鼠どもはそれを見物しに彼等の穴から這い出して来ていた。そして彼等は幾時間も幾時間も見物していた。軍隊と警官隊とがしばしば彼等とその美観との間を通って行って、障壁を作り、彼等はその障壁の背後へこそこそと逃げ、その間からそっと隙見したのだった。さっきの父親はずっと前に自分のあの包みを取り上げるとそれを持って姿を隠してしまい、その包みが飲用泉の台石の上に置いてあった間それに附き添うていた女たちは、そこに腰を下して、水の流れるのと仮装舞踏会が馬車で走ってゆくのとを見守っていたし、──編物をしながら一きわ目立って立っていた例の一人の婦人は、運命の如き堅実さをもってなおも編物をし続けていた。飲用泉の水は流れて行った。かの馬車の迅速な河は流れて行った。昼は流れて夜となった。その都会の中の多くの生命は自然の法則に従って死へと流れ入って行った。歳月の流れは人を待たなかった。鼠どもは再び彼等の暗い穴の中でくっつき合って眠っていた。仮装舞踏会は晩餐の席で輝かしく照されていた。万物はそれぞれの進路を流れて行った。


第八章 田舎における貴族モンセーニュール


 美しい風景。そこには穀物が実ってはいるが、豊かではない。麦のあるべき処にみすぼらしいライ麦の畑。みすぼらしい豌豆えんどう蚕豆そらまめの畑、ごく下等な野菜類の畑が小麦の代りになっている。非情の自然にも、それを耕している男女たちに見ると同様に、不承不承に生長しているように見える一般的な傾向──諦めて枯れてしまおうとする元気のない気風。

 侯爵閣下は、四頭の駅馬と二人の馭者とによって嚮導された、彼の旅行馬車(それはいつもの馬車よりは軽快なものであったかもしれなかった)に乗って、嶮しい丘をがたごとと登っていた。侯爵閣下の面上の赤味は彼の立派な躾の非難になるものではなかった。それは内から起ったものではなかった。それは彼の意力ではどうにも出来ぬ一つの外的の事情──沈みゆく太陽のためになったものであった。

 旅行馬車が丘の頂上に達した時にその落陽は非常に燦然と車内へ射し込んで来たので、中に乗っている人は真紅色に浸された。「もうじきに、」と侯爵閣下は自分の手をちらりと眺めながら言った。「薄らぐじゃろう。」

 事実、太陽は地平線に近く傾いていたので、その瞬間に没しかけた。重い輪止わどめが車輪にかけられて、馬車が雲のような砂埃すなぼこりを立て燃殻もえがらのような臭いをさせながら丘を滑り下っている時、真赤な夕焼は急速に薄くなって行った。太陽と侯爵とは共にくだって行ったので、輪止が取り外された時には夕焼はもう少しも残っていなかった。

 しかし、そこには、断崖をなしたところも広々としたところもある起伏した土地、その丘の麓にある小さな村、その向うの広い見晴しと高台、教会堂の塔、風車、狩猟をするための森、牢獄として使われている堡塁が上に立っている断巌などが残っていた。夜が近づくにつれて暗くなってゆくこういうすべてのものを、侯爵は、いかにも家路に近づいている者のような様子で、ぐるりと見𢌞した。

 その村にはただ一筋の貧乏くさい街路があって、そこには貧乏くさい酒造場や、貧乏くさい製革所や、貧乏くさい居酒屋や、駅馬の継替えのための貧乏くさい厩舎や、貧乏くさい飲用泉や、普通の通りのすべての貧乏くさい設備があった。そこにはまた貧乏くさい村民もいた。その村民は皆貧乏であった。彼等の中には、戸口に腰を下して、夕食の用意に貧弱な玉葱などを細かく裂いている者も多くいたし、また、飲用泉のところで、葉だの、草だの、何でもそういうような土から出来るもので食べられるいろいろの小さなものだのを洗っている者も多くいた。彼等を貧乏にさせたものの意味深い証拠も欠けてはいなかった。国への租税、教会への租税、領主への租税、地方税や一般税が、その小さな村のおごそかな掟に従って、こちらへ払いあちらへ払いしなければならなかったので、遂には、どんなものであろうととにかく村というものが呑み込まれずに残っているということが、不思議なくらいであった。

 子供はあまり見かけられなかったし、犬は一匹も見えなかった。大人おとなの男や女については、この世で彼等の選ぶことの出来る道は次の予想の中に述べられていた。──すなわち、製粉所の下にある小さな村で、命を支えられる限りの最低の条件で生きてゆくか、それとも、断巌の上に高く聳え立っている牢獄の中で監禁されて死んでゆくかだ。

 先頭に立った一人の従僕に先触れされて、また、あたかも侯爵が蛇髪復讐女神フュアリーたちに供奉されてやって来たかのように、馭者たちの鞭が夕暮の空気の中で彼等の頭の周りを蛇のように絡まってひゅうひゅうと鳴る音に先触れされて、侯爵閣下は旅行馬車に乗ったまま宿駅の門のところで停った。そこは飲用泉の近くであって、農夫たちはしていた仕事を中止して彼を眺めた。彼も彼等を眺め、そして、彼等のうちに、貧苦に窶れた顔や姿が徐々に確実に削り落されているのを、そうと気づきはしなかったが、目にした。その彼等の顔や姿が削り落されていることが、フランス人は痩せているということをイギリス人の迷信にしたのであったが、その迷信はそういう事実のなくなった後も百年近くまで続いているのである。

 侯爵閣下が、彼自身と同類の連中が宮廷のモンセーニュールの前にうなだれたように、彼自身の前にうなだれている柔順な顔──ただ、その相違は、これらの顔は単に耐え忍ぶためにうなだれているのであって御機嫌を取るためではない、ということであったが──をずっと見やった時、一人の白髪雑しらがまじりの道路工夫がその群に加わった。

「あいつをここへ連れて来い!」と侯爵は従僕に言った。

 その男は帽子を片手にして連れて来られた。すると、他の連中は、あのパリーの飲用泉のところにいた人々と同じような工合に、周りに寄り集ってじっと見ながら聞耳を立てた。

「わしは途中でお前の傍を通ったようじゃが?」

閣下モンセーニュール、仰せの通りでござります。お途中で手前めの傍をお通り遊ばしました。」

「丘を登っている時と、丘の頂と、二度じゃな?」

閣下モンセーニュール、仰せの通りでござります。」

「お前は何をあんなにじいっと見ておったのか?」

閣下モンセーニュール、手前はあの男を見ておりましたのでござります。」

 彼は少し身を屈めて、自分のぼろぼろになった青い帽子で馬車の下を指した。他の者どもも皆身を屈めて馬車の下を見た。

「どの男じゃ、豚め? そしてお前はなぜそこを見ておるのじゃ?」

「御免下さりませ、閣下モンセーニュール。奴はその歯止沓はどめぐつ──輪止の鎖にぶら下っておりましたんで。」

「誰がじゃ?」とその旅行者が問うた。

閣下モンセーニュール、あの男のことで。」

「この阿呆どもめは悪魔にさらわれてしまうがいい! その男は何という名前か? お前はこの辺の者を一人残らず知っておるじゃろう。そやつは誰だったのじゃ?」

「へえ、閣下モンセーニュール! そいつはこの辺の者じゃござりませなんだ。生れてからこっち、手前はそいつを一度も見たことがござりませなんだ。」

「鎖にぶら下っておったと? いきを詰らすためか?」

「御免を蒙りまして申し上げますが、それが不思議なところでございましたよ、閣下モンセーニュール。そいつの頭は仰向にぶら下っておりました、──こんな風に!」

 彼は馬車に対して横になるようにからだを向け、り返って、顔を空の方へ振り向け、頭をだらりと下げた。それから、体を元へ戻して、帽子をいじくって、ぴょこんと一つお辞儀をした。

「そやつはどんな様子をしておったか?」

閣下モンセーニュール、その男は粉屋よりも真白でござりました。すっかりほこりをかぶって、幽霊のように白くって、幽霊のように脊が高くって!」

 この画のような言い方はそこにいた小さな群集に非常な感動を惹き起した。が、すべての眼は、他の眼とめくばせもせずに、侯爵閣下を眺めた。たぶん、彼には良心を悩ます幽霊などというものがいるかどうかということを観察するためであったのだろう。

「なるほど、お前はでかしおったわい。」と侯爵は、こういう虫けらどもを相手に立腹すべきではないとうまく気がついて、言った。「泥坊めがわしの馬車にくっついているのを見ておりながら、お前のその大きな口を開いて知らせようともしなかったとはな。ちえっ! この男をあちらへ連れて行け、ムシュー・ガベル!」

 ムシュー・ガベルはそこの宿駅長であって、他に何かの徴税吏をも兼ねていた。彼は、さっきから、この訊問を輔佐するためにすこぶる追従するような態度で出て来ていて、その訊問されている者の腕のところの服をいかにも役人らしい風に掴んでいたのである。

「ちえっ! あちらへ行け!」とムシュー・ガベルが言った。

「今の他所者よそものが今夜お前の村で宿を取ろうとしたらそやつを捕えておけ。そしてそやつに悪い事をさせぬようにきっと気をつけるのじゃぞ、ガベル。」

閣下モンセーニュール、御命令は必ず遵奉いたしますつもりでございます。」

「そやつは逃げ失せてしまったのか、野郎めは? ──さっきの罰当りはどこにいる?」

 その罰当りは既に六人ばかりの特別に親しい友達と一緒に馬車の下に入っていて、自分の青い帽子で例の鎖を指し示していた。別の六人ばかりの特別に親しい友達がすぐさま彼をひっぱり出して、いきもつかせずに侯爵閣下のところへ出した。

「その男は逃げ失せてしまったのか、この頓馬め、馬車が輪止をかけに停った時にな?」

閣下モンセーニュール、奴は、川の中へ跳び込む人間のように、頭を先にして、丘の坂のとこるをまっさかさまに跳び下りてゆきましてござります。」

「それを調べてみろ、ガベル。馬車をやれ!」

 鎖を見つめていた例の六人の者は、羊のようにかたまって、まだ車輪の間にいた。その車輪が突然囘転し出したのだから、彼等が皮と骨とを助かったのは全く僥倖であった。その皮と骨とのほかには彼等には助かるべきものはほとんどなかったのだ。でなければ彼等はそれほど運がよくなかったかもしれなかった。

 馬車は急に村から駈け出して、その向うの高台へと登って行ったが、その勢はまもなくその丘の嶮しさに阻まれた。次第に、馬車は速力が衰えて並足となり、夏の夜のいろいろの甘いかおりの間をゆらゆらと揺れがたがたと音を立てながら登って行った。馭者たちは、無数の遊糸いとゆうのようなぶよがあの蛇神復讐女神フュアリーに代って自分たちの周りをぐるぐる𢌞っている中を、ゆったりと自分たちの鞭の革紐の先を繕っていた。側仕そばづかえは馬の脇を歩いて行った。従僕はぼんやりと見える遠くの方へ先頭に立って駈けて行くのが聞き取れた。

 丘の一番嶮しい地点に小さな墓地があって、そこに一つの十字架があり、その十字架に救世主キリストの新しい大きな像がついていた。それはみすぼらしい木像で、誰か未熟な田舎の彫刻師の作ったものであったが、その彫刻師はこの像を実物──おそらくは、自分という実物──から考案したのであった。というのは、それは恐しく痩せ細っていたから。

 永い間だんだんと悪くなって来ていて、まだその一番悪いところへ来ていない一つの大きな悲惨の、この悲惨な表象に向って、一人の女が跪いていた。彼女は馬車が自分に近づいて来ると頭を振り向け、素速く立ち上り、馬車のドアのところに現れた。

「ああ、閣下モンセーニュール! 閣下モンセーニュール、お願いでございます。」

 閣下モンセーニュールは、苛立いらだたしい声を立てたが、顔色は例の通り変えもせずに、窓の外に顔を出した。

「どうした! 何のことじゃ? いつもいつもお願いじゃな!」

閣下モンセーニュール。お慈悲でございます! 御猟場番人の、私の亭主のことで。」

「猟場番人の、お前の亭主がどうしたのじゃ? お前らの言うことはいつもいつもおんなじじゃ。何かが納められないのじゃろう?」

「亭主はすっかり納めました、閣下モンセーニュール。亭主は死にました。」

「そうか! では安穏になっておるのじゃ。わしがそれをお前のところへ生き返らせてやれるか?」

「ああ、さようではございません、閣下モンセーニュール しかし亭主は、あそこに、しなびた草が少しばかりかたまって生えているところの下におります。」

「それで?」

閣下モンセーニュール、そういう萎びた草の少しかたまって生えているところがそれはそれはたくさんございます!」

「それで?」

 彼女は年寄の女のように見えたが、ほんとうは若いのであった。彼女の物腰は強い悲歎を抱いているような物腰であった。代る代る、彼女はその筋立った瘤だらけの両手を烈しく力をこめて握り合せたり、片手を馬車のドアにかけたりした、──まるでそのドアが人間の胸であって、訴える手の触るのを感じてくれるもののように、やさしく、撫でさすりながら。

閣下モンセーニュール、お聞き下さいませ! 閣下モンセーニュール、私のお願いをお聞き下さいませ! 私の亭主は貧乏のために死にました。たくさんの者が貧乏のために死にます。もっとたくさんの者が貧乏のために死にますでしょう。」

「それで? わしがその者どもを養えるか?」

閣下モンセーニュール、それは有難い神さまだけが御存じでございます。けれども私はそんなことをお頼みするのではございません。私のお願いいたしますのは、私の亭主の名前を書きました小さな石か木片きぎれを一つ、亭主の寝ております場所がわかりますように、その上に置かせていただきたいということでございます。でございませんと、その場所はじきに忘れられてしまいますでしょう。私が同じ病で死にます時にはそこはどうしても見つからないでこざいましょう。私はどこかほかの萎びた草のかたまって生えているところの下に埋められますでしょう。閣下モンセーニュール、死ぬ者はそれはそれはたくさんでございます。死ぬ者はずんずん殖えて参ります。貧乏な者がそれはそれはたくさんでございますから。閣下モンセーニュール 閣下モンセーニュール!」

 側仕は彼女をドアから押し除け、馬車は急にはやい早足で駈け出し、馭者は馬の足を速めさせたので、彼女は遥かの後に取残され、そして閣下モンセーニュールは、再び蛇髪復讐女神フュアリーに護衛されて、彼と彼のやかたとの間に残っている一二リーグの距離を急速に短縮しつつあった。

 夏の夜の甘いかおりは彼の周囲一面にたちこめた。そしてまた、そこから遠く離れてもいない飲用泉のところにいる、塵まみれの、襤褸ぼろを著た、働き疲れたむれの上にも、雨の降るように、偏頗なくたちこめた。そのむれに向って、例の道路工夫は、彼の全部であるところの例の青い帽子の助けを藉りて、彼等の辛抱出来る限り、さっきの幽霊のような男のことをまだ頻りに述べ立てていた。そのうちに、だんだんと、彼等は辛抱が出来なくなるにつれて、一人一人と減ってゆき、小さな窓々の中に灯火が瞬き出した。その灯火は、窓が暗くなってもっと星が出て来るにつれて、消されたのではなくて空へ打ち上げられたように思われた。

 その頃、屋根の高い大きな家と、枝を拡げたたくさんの樹木との影が、侯爵閣下に覆いかかっていた。そして、その影は、彼の馬車が停った時に、火把たいまつの光と入れ換った。それから彼の館の大扉が彼に向って開かれた。

「ムシュー・シャルルがわしを訪ねて来るはずじゃが。イギリスから到著しておるか?」

閣下モンセーニュール、まだ御到著ではございませぬ。」


第九章 ゴルゴンの首


 侯爵閣下のそのやかたは、どっしりとした建物であって、その前面には石を敷いた広い庭があり、二条の彎曲した石の階段が、表玄関のドアの前にある石の露台テレスで出会っていた。何から何まで石だらけの建物で、どちらを向いても、どっしりした石造の欄干や、石造の甕や、石造の花や、石造の人間の顔や、石造の獅子の頭などがある。まるで、二世紀前にその建物が竣工した時に、ゴルゴンの首がそれを検分したかのよう。

 侯爵閣下は馬車から出て、火把たいまつを先に立てて、浅く段をつけた幅広の上り段を上って行ったが、その火把はあたりの暗闇くらやみを掻き乱し、彼方かなたの樹の間の厩の大きな建物の屋根にいる一羽の梟から声高い抗議を受けたほどであった。そのほかのすべてのものはごく静かであったので、階段を上りながら持って行かれる火把と、玄関の大扉のところで差し出されているもう一つの火把とは、夜の戸外にあるのではなくて、密閉した宏壮な室の中にでもあるもののように燃えていた。梟の声のほかに聞える物音とては、噴水がその石の水盤に落ちる音ばかりであった。何しろ、その夜は、何時間も続けざまにいきを殺し、それから長い低い溜息を一つ吐いて、また息を殺すと言われるあの闇夜やみよなのであったから。

 玄関の大扉が背後で鏘然たる音を立ててまると、侯爵閣下は、古い猪猟槍や、刀剣や、狩猟短剣などで物凄く飾られ、また、今はおのが保護者なる死のもとへ行っている多くの百姓たちが、領主の怒りに触れた時にそれで打たれたところの、太い乗馬笞や馬鞭などでいっそう物凄く飾られている表広間を、横切って行った。

 夜の用心のために戸締りをしてある、暗い、大きな部屋部屋を避けながら、侯爵閣下は、火把持を前に歩かせて、階段を上って、廊下に向いている一つのドアのところまで行った。そのドアがさっとけられると、彼は、寝室と他の二室、都合三室の彼自身の私室へ入った。ゆかには凉しげに絨毯を敷いてない、高い円天井の室で、炉には冬季に薪を燃やすための大きな薪架があり、豪奢な時代の豪奢な国の侯爵という身分にふさわしいあらゆる豪奢なものがあった。決して断絶することがないはずの王統の先々代のルイ──ルイ十四世──時代の流行様式が、この三室の高価な家具に歴然と顕れていた。が、それは、フランスの歴史の古い時代の頁の挿絵ともなるべきところの数多あまたの品によって変化を与えられてもいた。

 その室の中の第三の室には、夕食の食卓に二人前の用意がしてあった。そこは、その館の消化器のような恰好をした四つの塔の一つの中にある、円形の室であった。小さな、天井の高い室で、そこの窓は一杯にけ放ってあり、木製の鎧戸はめてあったので、暗い夜の闇は、鎧戸の石色の幅広の線と互違いに、幾つもの黒い細い水平の線になって見えるだけだった。

「甥めは、」と侯爵は、その夕食の準備をちらりと見やって、言った。「到著しておらぬということじゃったが。」

 御到著ではありませんが、閣下モンセーニュールと御一緒のことと思っておりましたので、とのことであった。

「うむ! 奴は今夜は著きそうにもない。でも、食卓はそのままにしておけ。わしは十五分のうちに身支度を整えるから。」

 十五分のうちに閣下モンセーニュールは身支度を整えて、選りすぐった贅沢な夕食に向ってただ独り著席した。彼の椅子は窓と向い合っていたが、彼はスープを吸ってしまって、ボルドー葡萄酒の杯を脣へ持って行きかけた時に、その杯を下に置いた。

「あれは何じゃな?」と彼は、例の黒色と石色との水平の線のところをじっと気をつけて見ながら、静かに尋ねた。

閣下モンセーニュール? あれと仰せられますと?」

「鎧戸の外じゃ。鎧戸をけてみい。」

 その通りにされた。

「どうじゃ?」

閣下モンセーニュール、何でもございませぬ。樹と闇とがあるだけでございます。」

 口を利いたその召使人は、鎧戸をさっとけて、顔を突き出して空虚な暗闇を覗いて見てから、振り返ってその闇を背後にして、指図を待ちながら立った。

「よろしい。」と落著き払った主人が言った。「元の通りにめろ。」

 それもその通りにされ、侯爵は食事を続けた。食事を半ば終えた頃、彼は、車輪の音を聞いて、手にしている杯を再びとどめた。その音は威勢よく近づいて、館の正面までやって来た。

「誰が来たのか尋ねて来い。」

 それは閣下モンセーニュールの甥であった。彼は午後早くに閣下モンセーニュールの後数リーグばかりのところまで来ていたのであった。彼はその距離を急速に短縮したのだが、しかし途中で閣下モンセーニュールに追いつくほどに急速ではなかった。彼は閣下モンセーニュールが自分の前に行くということは宿駅で聞いていたのだ。

 ちょうどこちらに晩餐の用意がしてあるから、どうか来て食事していただきたい、と彼に言って来い(閣下モンセーニュールがそう言ったのであるが)とのことであった。まもなく彼はやって来た。彼はイギリスでチャールズ・ダーネーとして知られている人物であった

 閣下モンセーニュールは彼を慇懃な態度で迎えた。が二人は握手をしなかった。

「あなたは昨日きのうパリーをお立ちになりましたのですね?」と彼は、食卓に向って著席した時に、閣下モンセーニュールに言った。

昨日きのう。で、お前は?」

「私は真直に参りました。」

「ロンドンから?」

「そうです。」

「お前は来るのにだいぶん永くかかったようじゃのう。」と侯爵は微笑を浮べながら言った。

「どういたしまして。私は真直に来ましたのです。」

「いや失礼! わしの言うのは、旅行に永くかかったというのじゃない。旅行をする気になるのに永くかかったというのじゃ。」

「私の手間取りましたのは、」──と甥はちょっと返答をためらって──「いろいろな用事のためでした。」

「そうだろうとも。」と垢抜けのした叔父は言った。

 召使人がいる間は、それ以外の言葉は二人の間にかわされなかった。珈琲が出されて、二人だけになると、甥は、叔父を見つめて、精巧な仮面に似た顔の眼と見合いながら、話を切り出した。

「あなたもお察しのように、私の戻って参りましたのは、私が国を去りました目的を続行するためです。その目的のためには私は大きな思いがけない危険に陥りました。しかし、それは神聖な目的です。ですから、もし私がそれのために死ぬところまで行ったとしても、私はそれをやり通したろうと思います。」

「死ぬところまでということはないさ。」と叔父は言った。「死ぬところまで、などと言う必要はないよ。」

「もし私が、」と甥が返答した。「そのために死の瀬戸際まで連れて行かれたとしても、あなたがそこで私を止めてやろうと気にかけて下すったかどうか、怪しいものですねえ。」

 鼻にあるあの深くなったところと、残忍な顔にあるあの細い真直な線が長くなったこととで見ると、そのことは到底望みがないと思われた。叔父はそんなことがあるものかという抗議の優雅な手振りを一つしたが、それは上品な躾から来たちょっとした形式であることは明かであったので、相手に安心を与えるようなものではなかった。

「実際のところ、」と甥が続けて言った。「私の知っている限りでは、あなたは、私を取巻いていた嫌疑を受けやすい事情に、いっそう嫌疑を受けやすい外見を与えるようにと、殊更にお骨折になったかもしれませんね。」

「いや、いや、そんなことはしないさ。」と叔父は面白そうに言った。

「しかし、それはともかく、」と甥は、深い疑惑の念をもって彼をちらりと眺めながら、再び言い始めた。「あなたの御方針がどうしてでも私に思い止らせよう、そしてそのためにはどんな手段であろうと躊躇しないというのであることは、私は承知しています。」

「のう、お前、わしはお前にそう言い聞かせたはずじゃ。」と叔父は、例の二つの凹みのところを微かに脈たせながら、言った。「ずっと以前にお前にそう言い聞かせたのを思い出してもらいたいものじゃな。」

「覚えております。」

「有難う。」と侯爵は言った、──実際ごくやさしく。

 彼の声は、ほとんど楽器ののように、空中に漂った。

「つまりですね、」と甥は言葉を続けた。「私がこのフランスでこうして牢獄に入らずにいられるのは、あなたにとっては不運であると同時に、私にとっては幸運なのだ、と私は信じます。」

「わしにはどうもまるでわからんが。」と叔父は、珈琲を啜りながら、返答した。「説明してもらえまいかのう?」

「もしもあなたが宮廷の不興を蒙ってお出でではなく、またここ何年間もあのように面白からぬ形勢になってお出でではなかったならば、一枚の拘禁令状で私はどこかの城牢へ無期限に送り込まれていたろう、と私は信じているのです。」

「そうかもしれん。」と叔父は極めて冷静に言った。「家門の名誉のためには、わしはお前をそれくらいまでの不自由な目に遭わせる決心をしかねないからな。いや、これは失礼なことを言ったのう!」

「一昨日の接見会リセプションも、私には仕合せにも、例の通り冷いものだったろうと思いますね。」と甥が言った。

「わしなら仕合せにもとは言わぬがな、お前。」と叔父はいかにも垢抜けのした上品さで返答した。「わしにはそうとは信じられんよ。孤独という有利な境遇に取巻かれた、考慮するには持って来いの機会というものは、お前が独力でやるよりも遥かに有利にお前の運命を左右することが出来るのじゃ。だが、その問題を議論したところで無益じゃ。わしは、お前の言う通り、不利な地位に立っておる。そういう小さな懲治の手段、家門の権力と名誉とを守るためのそういう穏やかな助力、お前をそんな不自由な目に遭わせることの出来るそういう些少の恩恵、そういうものも今ではつてを求めてしつこく頼まなければ得られぬことになっておる。そういうものを得ようと求める者は極めて多数じゃが、それを与えられる者は(比較的に言えば)ごく少数なのじゃ! 前はこんなことはなかったのだが、そういうようないろいろのことではフランスは悪化して来ておるわい。わしたちの遠くもない先祖たちは近隣の下民どもに対して生殺与奪の権を持っておったものじゃ。この部屋からも、たくさんのそういう犬どもがひっぱり出されてめ殺されたし、この次の部屋(わしの寝室)では、わしたちの知っているところでも、一人の奴などは、自分の娘のことについて──そやつの娘じゃぞ!──何か横柄な気の利いたことを言いおったというので、その場で短剣で突き刺されたものじゃよ。わしたちは多くの特権を失うてしもうた。新しい哲学が流行はやって来たでのう。で、当今、わしたちの地位をあくまで主張するとなると、ほんとうに不便な目に遭うかもしれんわい。(わしは遭うだろうとまでは言わぬ。遭うかもしれんと言うのじゃ。)何もかも全く悪くなってしもうた、全く悪くなってしもうた!」

 侯爵は穏かに少量の一撮みの嗅煙草を嗅いだ。そして、国家更生の偉大な手段となるべき、この自分という人間がまだ存在している国家について、いかにもこの上なく彼にふさわしく優雅に落胆したような様子で、頭を振った。

「われわれは、昔でも近代でも、余りわれわれの地位を主張して来ましたので、」と甥は憂鬱に言った。「われわれの家名はフランス中のどの家名よりも憎み嫌われていると私は思います。」

「そうありたいものじゃな。」と叔父が言った。「高貴な者に対する憎悪は卑賤な者の無意識の尊敬じゃ。」

「この辺のどこの土地にだって、」と甥は前と同じ語調で言い続けた。「恐怖と屈従との陰鬱な敬意以外のどんな敬意でも浮べて私を見てくれるような顔は一つだって見当りませんよ。」

「家門の偉大さに対する礼儀じゃよ。」と侯爵は言った。「わしどもの一門がその偉大さを維持して来たやり方から見て当然受くべき礼儀じゃよ。はっはっ!」そして彼はまた穏かに少量の一撮みの嗅煙草を嗅いで、軽く脚を組んだ。

 しかし、彼の甥が食卓に片肱をかけて、思いに沈んで元気なくその片手で眼を蔽うた時、あの精巧な仮面は、それをかぶっている人の無頓著をよそおう態度には不釣合なほど、鋭さと細心さと嫌悪とを強く集中させて、彼を横目にじっと見た。

「抑圧は唯一の永続する哲学なのじゃ。恐怖と屈従との陰鬱な敬意は、なあ、お前、」と侯爵は言った。「この屋根が、」と屋根の方を見上げながら、「空を見えぬように遮っている限りは、あの犬どもを鞭に柔順にさせておくじゃろうて。」

 それは侯爵の想像したほど永いことではないかもしれなかった。この時からわずか数年後のその館と、またやはりこの時からわずか数年後のそれと同じような五十の館との光景を、その晩彼に見せてやることが出来たならば、彼は、火災で黒焦げにされ、掠奪で破壊された、その物凄い廃墟から、どれを自分のものとして主張していいか、途方に暮れたことであろう。彼の誇った屋根について言えば、彼はそれが新しい方法で空を見えぬように遮るのを知ったであろう。──すなわち、その屋根の鉛が、幾万の小銃の銃身から発射されて、それにあたった人々の死体の眼から、永久に、空を見えぬように遮る、という新しい方法である。

「ともかく、」と侯爵が言った。「お前が望まんにしても、わしは家門の名誉と安泰とを保ってゆくつもりじゃよ。だが、お前は疲れているに違いない。今夜は話はこれで切り上げるとしようかな?」

「もうしばらく。」

「お前さえよければ、一時間でも。」

「われわれは、」と甥が言った。「悪事をして来たのです。そして今その悪事の報いを受けているのです。」

わしたちが悪事をして来たと?」と侯爵は、尋ねるような微笑を浮べて、最初に自分の甥を、次に自分を優雅に指さしながら、真似て言った。

「われわれの一家がです。その名誉が私たち二人ともにとって全く違った意味で非常に大切なものである、われわれの名誉ある一家がです。私の父の時代だけでさえ、われわれは、何であろうとわれわれの快楽の邪魔をした人間には一人残らず害を加えて、夥しい悪事をしたのです。私の父の時代は同時にあなたの時代なのですから、父の時代のことを話す必要などがどうしてありましょう? 私の父と双生子ふたごの兄弟で、共同相続人で、父の後継者であるあなたを、私は父と切り離すことが出来ましょうか?」

「死という奴が切り離してくれたよ!」と侯爵が言った。

「その父の死のために私は、」と甥が答えた。「私にとっては恐しい制度に束縛されることになり、私はその制度に対して責任はあるが、その中にあって権力がないのです。それでも、私の母の口から出た最後の願いは実行したい、母の眼に現れた最後の眼付には従いたいと思っています。その眼付は慈悲を施して罪のつぐないをするようにと私に懇願したのでした。それで、助力と権力とを求めましたが無駄だったので苦しんでいるのです。」

「そんなものをわしに求めてもだ、のう、お前、」と侯爵は、人差指で彼の胸のところに触りながら──二人はその時は炉の傍に立っていた──言った。「それはいつまでたったって無駄だろうな。そう思っていてもらいたい。」

 彼が嗅煙草の箱を片手にしたまま、彼の甥を静かに眺めながら立っている間、透き通るように白いその顔にあるどの細い真直な線も、残忍そうに、狡猾そうに、きっと引締められた。彼は、あたかも彼の指が短剣の鋭利な切先きっさきであって、それでわざも巧みに相手のからだを刺し貫きでもするかのように、もう一度甥の胸のところに手をあて、そして言った。──

「なあ、お前、わしはこれまで自分の従って来た制度を続けながら死ぬつもりじゃ。」

 こう言ってしまうと、彼は嗅煙草の最後の一撮みを嗅いで、その箱をポケットに入れた。

「お前も道理のわかった人間になって、」と彼は、卓上の小さな呼鈴ベルを鳴らしてから、附け加えた。「お前の生れながらの運命に甘んじた方がいいのじゃが。だが、ムシュー・シャルル、お前にはもうその見込がないようじゃな。」

「この財産もフランスも私にはもうないものです。」と甥は愁然として言った。「私はその二つを抛棄します。」

「二つともお前の抛棄出来るものかな? フランスの方はそうかもしれん。が、財産は? それは言うほどの値打もないくらいのものじゃが、それでも、もうお前の勝手に出来るものか?」

「私の今申しました言葉では、私はそれをもう要求するつもりはないという意味なのです。もしその財産が明日あすにでもあなたから私に譲り渡されるとしましても──」

明日あすそうなるということはありそうにもないという自惚うぬぼれをわしは持っておるが。」

「──あるいは今から二十年後にそうなるとしましても──」

「それはまたずいぶん敬意を表したものじゃな。」と侯爵が言った。「それにしても、わしはその仮定の方が有難いのう。」

「──私はその財産を棄てて、どこか他の処で他の方法で生活します。放棄したところで大したものじゃありません。悲惨と廃墟とのごた集め以外の何でしょう!」

「ほほう!」と侯爵は、豪奢な室内をぐるりと見𢌞しながら、言った。

「見た眼にはそれはここなどずいぶん立派です。しかし、青空の下、白日で、そのほんとうの姿で見れば、それは、浪費と、失政と、誅求と、負債と、抵当と、圧制と、飢餓と、窮乏と、困苦との、崩れかけている塔なのです。」

「ほほう!」と侯爵は、いかにも満足そうな様子で、再び言った。

「もしそれがいつか私のものになるとしましても、私はその財産を、それを曳きずり倒そうとしている重圧を徐々に除去するに(もしそういうことが出来るとしてですが)もっと適した誰かの手に、委ねます。そうして、ここを立去ることが出来ないで、永い間辛抱の出来る限り苦しめられて来た、あの悲惨な人々が、次の代には、幾分でも苦しみが減るようにします。ともかく、それは私のものにはしません。その財産には、またこの国中にも、呪いがかかっています。」

「してお前は?」と叔父が言った。「余計なことまで聞きたがるのはゆるしてくれい。お前はお前の新しい哲学に従って有難く暮してゆくつもりかな?」

「私は、生きてゆくためには、わが国の他の人々が、たとい名門の後楯うしろだてがあろうと、いつかはしなければならないかもしれぬことをするよりほかはありません、──つまり、働くことです。」

「例えば、イギリスで?」

「そうです。そうすれば、家門の名誉がこの国で私のために傷けられる恐れはありませんよ。また、他の国では家名が私のためにけがされるはずはありません。他の国では私は家名を名乗っておりませんから。」

 呼鈴ベルを鳴らしたのは隣の寝室に灯火をつけさせるためだった。その室は今、通路の戸口から、ぱっと明るく輝いた。侯爵はその方を見やって、側仕そばづかえの足音の遠ざかってゆくのに耳を傾けた。

「イギリスはお前にはよほど気に入っておるようじゃのう、お前があちらでまずうまくいっているところを見るとな。」と彼は、それから、微笑を浮べながら平静な顔を甥に向けて、言った。

「さっきも申し上げましたが、私があちらでうまくいっていることについては、あなたのお蔭かもしれないと思っていますよ。そのほかのことについては、あそこは私の避難所なのです。」

「奴らは、あの自慢屋のイギリス人どもは、イギリスはたくさんの人間の避難所になっていると言うておるのう。お前は同国人であすこを避難所にしている人間を知っておるじゃろう? 医者じゃが?」

「ええ。」

「娘と一緒かのう?」

「ええ。」

「なるほど。」と侯爵が言った。「お前は疲れているじゃろう。では、おやすみ!」

 彼が例の極めて慇懃な態度で頭を下げた時に、その微笑している顔には何か隠立かくしだてしているようなところがあったし、彼は今の言葉に何となく不可思議な意味を含ませたので、それが彼の甥の眼と耳とに強く響いた。同時に、あの眼のふちの細い真直な線と、細い真直な脣と、鼻の凹みとが、見事に悪魔的に見える皮肉さを見せてゆがんだ。

「なるほど。」と侯爵は繰返して言った。「娘と一緒の医者か。なるほど。そこで新しい哲学が始るという訳じゃな! お前は疲れているじゃろう。じゃ、おやすみ!」

 彼のその顔に向って質問することは、館の外の石造の顔に向って質問するのと同様な効能しかなかったろう。甥はドアの方へ歩いてゆきながら彼をじっと見たが、何の得るところもなかった。

「おやすみ!」と叔父が言った。「わしは明日あすの朝またお前に逢いたいと思うておるよ。ゆっくりおやすみ! わしの甥どのをあちらの部屋へ明りをつけて御案内せい! ──それから、したければ、その甥どのを寝床の中で焼き殺しても構わんぞ。」と彼はこの最後の文句を心の中で附け加え、それから、小さな呼鈴ベルをもう一度鳴らして、側仕を自分の寝室へ呼んだ。

 側仕は来てやがて引下り、侯爵閣下は、その暑いひっそりした夜、眠れるようにと静かに体を馴らすために、ゆるやかな寝間著を著てあちこちと歩いた。柔かなスリッパを穿いた足がゆかの上で少しの音も立てずに、さらさらと著物の音だけさせて室内を歩き𢌞って、彼は優美な虎のように動いていた。──物語にある、改悛の念のない邪悪なある侯爵が、魔法をかけられて、週期的に虎の姿に変るのが、今終ったばかりなのか、これから始ろうとしているのか、どちらかであるように見えた。

 彼は華美な彼の寝室を端から端まで行ったり来たりしながら、ひとりでに心に浮んで来るその日の昼の旅行の断片を再び眼にしていた。日没頃に丘をのろのろと登って来たこと、沈みゆく太陽、下り坂、製粉所、断巌の上の牢獄、凹地にある小さな村、飲用泉のところにいた百姓ども、馬車の下の鎖を指し示していた青い帽子を持った道路工夫などである。その飲用泉は、パリーのあの飲用泉と、段の上に横わっていたあの小さな包みと、その上に腰を屈めていた女どもと、両腕を差し上げて「死んじゃった!」と叫んだ脊の高い男とを思い起させた。

「もう凉しくなった。」と侯爵閣下は言った。「とこに就けるじゃろう。」

 そこで、大きな炉の上に一つの灯火だけを燃やしておいたまま、彼は自分の周りに薄い紗のとばりを垂らした。そして、眠ろうとして気を落著けた時に、夜が長い溜息を一つついてその沈黙を破ったのを聞いた。

 外囲の塀の上にある石造の顔は、重苦しい三時間というもの、何も見えずに真黒な夜を見つめていた。重苦しい三時間というものは、厩の中の馬は秣架まぐさかけをがたがたさせ、犬は吠え、例の梟は詩人たちが常套的に梟の声としている鳴声とはほとんど似ていない鳴声を立てた。だが、彼等のものと定めてあることを滅多に言わないのが、そういう動物の強情な習慣なのである。

 重苦しい三時間というものは、館の石造の顔は、獅子のも人間のも、何も見えずに夜を見つめていた。深い暗黒はすべての風景を包み、深い暗黒はその静寂をすべての路上の静まり返っている塵埃に附け加えた。墓地ではしなびた草の少しかたまって生えているところが互に見分けがつかぬくらいになっていた。あの十字架についている像は、眼には見えなかったが、そこから降りて来ていたかもしれなかった。村では、収税者も納税者もみんなぐっすりと眠っていた。たぶん、飢えた者が通例するように御馳走の夢をみながら、また、こき使われる奴隷やくびきをかけられた牡牛がするかもしれぬように安楽と休息との夢をみながら、村の瘠せた住民たちは深く眠って、食物を食べ自由の身となっていた。

 暗い三時間を通じて、村の飲用泉は見えず聞えずに流れ、館の噴水は見えず聞えずに落ち、──どちらも、時の泉から流れ落ちる分秒のように、溶け去った。それから、その二つの灰色の水が薄明りの中に幽霊のように見え出し、館の石造の顔は眼を開いた。

 次第次第に明るくなってゆき、とうとう、太陽は静かな樹々の頂に触れ、丘の上一面にその輝かな光を注いだ。その真紅の光を浴びて、館の噴水の水は血に変ったように見え、石造の顔は深紅色になった。小鳥の楽しく囀る声は高く賑かであった。そして、侯爵閣下の寝室の大きな窓の風雨に曝された窓敷の上で、一羽の小鳥が力一杯にこの上もなく美わしい声で歌を歌った。それを聞くと、一番近くの石造の顔はびっくりして眼を見張ったように思われ、口をぽかんとけ下顎をだらりと下げて、じ恐れたように見えた。

 いよいよ、太陽はすっかり昇って、村では活動が始った。開き窓は開かれ、がたがたした戸は閂を外され、人々は、新しい爽かな空気にまだ冷気を覚えて──震えながら外へ出て来た。それから、村の住民の間では、滅多に軽減されることのない一日の労働が始った。飲用泉のところへ行く者もある。野良のらへ行く者もある。ここでは、掘ったり鋤いたりしに行く男や女たちがいる。かしこでは、乏しい家畜の世話をして、どこの路傍にでもあるような牧場へと、骨ばった牝牛を牽いてゆく男や女たちがいる。教会堂の中や例の十字架のところには、跪いている人の姿が一つ二つある。その十字架に祈祷している場に列席しながら、牽かれている牝牛は、十字架の下の雑草の間に朝食を求めようとしていた。

 館は、その格式にふさわしく、遅く目覚めた。が、徐々に確実に目覚めた。まず最初に、陰気な猪猟槍と狩猟短剣とが昔のように赤く染められ、次には、朝の日光によく切れそうにぴかぴかと光った。それから、ドアや窓がさっと開かれる。厩の中の馬は戸口のところへ流れ込んで来る清々すがすがしい光を肩越しに見𢌞す。樹の葉は鉄格子の窓のところできらきらと光りさらさらと音を立てる。犬は鎖を強くひっぱって、解き放たれるのを待ちかねて後脚で立ち上る。

 こういうすべての些細な出来事は、毎日毎日きまりきって、朝が戻って来るごとに、あることであった。が、館の大鐘の鳴り響いたことや、階段を駈け上ったり駈け下りたりすることは、確かに、いつもあることではなかった。また、露台テレスをあわただしく動く人の姿も、ここでもかしこでもどこでも長靴を穿いてどかどか歩き𢌞ることも、急いで馬の鞍に跨って駈け去ることも、確かに、いつもあることではなかった。

 このあわて急ぐことをどんなかぜが例の白髪雑しらがまじりの道路工夫に伝えたのであろう? 彼は既に、村の向うの丘の頂で、その日の弁当(持ち運びえのしない)を鴉でもついばむだけの骨折甲斐のない包みにして積み重ねた石ころの上に置いて、仕事にかかっていたのに。空飛ぶ鳥が、そのあわて急ぎの穀粒を遠方へ運んでゆくうちに、鳥が偶然に種子を蒔くことがあるように彼の上に一粒を落したのであろうか? それはいずれにしても、その道路工夫は、その蒸暑い朝、膝までほこりに埋めながら、まるで命がけのように丘を駈け下りてゆき、飲用泉のところへ著くまでは一度も止りはしなかったのであった。

 村のすべての人々は飲用泉のところに集り、いつものふさぎ込んだ様子であたりに立って、低い声で囁き合っていたが、しかし冷かな好奇心と驚きよりほかには何の感情も現さなかった。大急ぎで牽いて来られて、何でもその辺のものに繋がれた牛は、ぼんやりと見𢌞したり、寝そべって、中途でめになった彼等の逍遥の間に拾い喰っておいた、別にそれだけの骨折をした甲斐もない食物を口の中へ戻して反芻したりしていた。館の人々の何人かと、宿駅の人々の何人かと、租税を取立てる役人の全部とは、多少の武装をして、何もない小さな街路の今一方の側に役にも立たないようなのにかたまっていた。既に、例の道路工夫は五十人の特別に親しい友達のむれの真中へ入り込んでいて、あの青い帽子で自分の胸を敲いていた。こういうすべてのことは何を前兆したのであろう? また、ムシュー・ガベルが馬上の召使の背後にひらりと飛び乗ると、馬が(荷は二倍になったにもかかわらず)、そのガベルを、ドイツの民謡のレオノーラを新たに演じたように、疾駈はやがけで運び去ったのは、何を前兆したのであろう?

 それは、彼方かなたの館で石造の顔が一つだけ多くなったことを前兆したのであった。

 ゴルゴンが夜の間にその建物を再び検分して、不足していた一つの石造の顔を附け加えたのである。ゴルゴンが約二百年の間待ちに待っていた石造の顔を。

 その顔というのは侯爵閣下の枕の上に仰向に寝ていた。それは、突然ぎょっとさせられ、憤怒させられ、石に化せられた、精巧な仮面のようであった。その顔にくっついている石の体の心臓には、一本の短刀が深く突き刺してあった。その𣠽つかに一片の紙が巻きつけてあって、その紙にはこう走り書きしてあった。──

彼を速く彼の墓場へ運んでゆけこれはジャークより。」



〔緒言〕

ウィルキー・コリンズ氏の劇の…………  ウィルキー・コリンズは作者ディッケンズの友人の小説家ウィリャム・ウィルキー・コリンズ(一八二四─一八八九)であり、ディッケンズはこのコリンズと共作したこともある。ディッケンズは小説家となる前に俳優になろうとしたことがあるくらいで、劇に対しては生涯強い熱情を抱いていて、素人演劇をしばしば試みていたのであった。コリンズのその劇の主人公のリチャード・ウォーダーの没我的な性格が、ディッケンズにこの小説の主要な観念──それはこの作の終りの方に至ってわかる──を思い付かせ、遂にそれをこの作の主要な人物シドニー・カートンに再現したのである。

私は、これらの頁の中になされかつ……実感したのである  この強烈な言葉はディッケンズにあっては決して空しい嘘ではないであろう。ディッケンズの想像力は非常に強烈であって、彼の作中の人物は彼にとっては常に実在の人物であり、あるいは彼自身の分身であった。彼は筆を執りつつその作中の人物と共にあるいは笑いあるいは泣き、作中人物のことをあたかも実在の人物であるかのように妻や友人たちに語り、一篇の小説を書きおわってその中の人物と別れる時には心から彼等との別れを惜しみ、彼の作の「骨董店」の少女ネルの死や同じく「ドムビー父子」のポール・ドムビーの死などを書いた後には親しい友を失った人のように歎き悲しんで眠ることが出来ずに暁までも街々をさまよい歩いたという。この「二都物語」中の諸人物も彼の心を完全に捉えたことは想像に難くない。

カーライル氏の驚歎すべき書物  トマス・カーライル(一七九五─一八八一)の「フランス革命史(一八三七)をさす。コリンズの劇によって得た著想を表現するに当って作者がフランス革命を材料としたことについては、カーライルのこの書に負うところがはなはだ大であった。また、作者はフランス革命の資料についてはカーライルから数多の参考書を得てそれに拠ったという。

タヴィストック館  一八五一年から五九年までの間ディッケンズの住んでいたロンドンの家。

〔第一巻 甦る〕
〔第一章 時代〕

イギリスの玉座には…………  当時のイギリスの国王はジョージ三世(一七三八─一八二〇)、王妃はシャーロット・ソファイア(一七四四─一八一七)であった。シャーロットは肥満していて不器量であった。フランスの国王はルイ十六世(一七五四─一七九三)、王妃はマリー・アントワネット(一七五五─一七九三)であった。

心霊的な啓示が…………  迷信が盛んであったことをさす。

サウスコット夫人  ジョアナ・サウスコット(一七五〇─一八一四)。もと女中であったが、後に宗教狂となり、一宗派を創立し、押韻の予言を述べ、奇蹟を行う風をし、自分をヨハネ黙示録第十二章に記されている婦であると称した。その信徒十万以上に達したと言われる。この一七七五年には二十五歳であった。

ウェストミンスター  今日はロンドン市の一区であるが、以前は別の町であったのである。旧ロンドン市の西南にある。

雄鶏小路の幽霊  一七六二年、ロンドンのスミスフィールドの雄鶏小路のある家に出たという当時有名だった幽霊。こつこつと叩いたりその他の奇妙な音が聞え、ケント夫人という女の幽霊だと言い触らされて、ロンドン中の大騒ぎとなり、永い間多くの人々が瞞された。これはパースンズという男が十一歳の自分の娘に叩かせていたのだということが発見されて、パースンズは処罰された。この一七七五年から十二年前のことである。

ただの音信が、つい先頃、アメリカにおける英国臣民の会議から…………  一七七五年の七月にアメリカにおけるイギリス植民地の住民から「代議士選出権なき課税」に対してイギリス本国に抗議して来たことをさす。

この音信の方が……人類にとってもっと重要なものであるということが…………  これがアメリカ独立戦争の導火線となり、アメリカ合衆国の独立によってデモクラシーの思想は新旧両世界を風靡し、遂にフランス革命が起るに至ったからである。

楯と三叉戟との姉妹国  イギリスをさす。「楯と三叉戟」は海神ネプテューンの標章であり、イギリスの紋章ではブリタニアをあらわす女人像が海の女王の象徴として楯と三叉戟とを持っているのである。

紙幣を造ってはそれを使い果して…………  財政窮乏のために紙幣を濫発して、国勢が衰えつつあったことをいう。

歴史上にも怖しい……枠細工  フランス革命当時に用いられた歴史上にも有名なかの断頭台をさす。枠細工の上の方に重い刃物が附いていて、それが差し伸べられている処刑者の首へ滑り落ち、その首が転がり込む嚢が附いていたのである。

本市  ロンドン市の中央の最も繁華な商業区。昔の本来のロンドンの区域であった処。

「首領」  当時の有名な追剥の名。

駅逓馬車  宿継馬車。宿駅と宿駅との間を往復する乗合馬車。鉄道の出来る前の主要な交通機関であった。この頃の物語にはよく出て来る。

ターナム・グリーン  ロンドンの西方の郊外にある地名。

喇叭銃  口径の大きな、銃口が漏斗形をした、短い、往時行われた銃。

セント・ジャイルジズ  ロンドンの、本市の西、ウェストミンスターの北東の一地区。貧困と悪行との一中心地として名高かった。

ニューゲート  ロンドンの古くから有名な監獄。旧ロンドン市の西の門のところにあった。一二一八年に創建されて一九〇二年に取毀されるまであったのだから、この作中の時代のみならず、この作者の時代にも存在していたのである。この監獄のことは後にも出て来るが、改善されずに、常によからぬ評判が立てられていた。

ウェストミンスター会館  昔のウェストミンスター宮殿の一部。ここで国事犯に対する審問が行われ、その入口のところで時事問題を論じたパンフレットが焼棄されたのである。

〔第二章 駅逓馬車〕

シューターズ丘  ロンドンの南東八マイルのところにあるかなり高い丘。

ブラックヒース  シューターズ丘とロンドンとの途中にある広濶な公有地。

手綱と鞭と馭者と車掌とが……軍律を読み聞かせた  馭者と車掌とが手綱を曳き鞭で打って馬に先へ歩ませたことである。「放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論」とは、無論、前文にあるように、馬が自分勝手に路を戻りかけたことをさす。以下、この作にも、このように諧謔作家としてのディッケンズを示す文章や箇処が綿密な読者には処々に認められるであろう。

宿駅  駅逓馬車の継替えの駅馬を繋留してある家。

一クラウン  イギリスの五シリングの銀貨。

半ガロン  一ガロンは約二升五合の液量。

テムプル関門  旧ロンドン市の西、ウェストミンスターとの境界にあった有名な門。後の章でたびたび出る。この物語のテルソン銀行はその傍にあるのである。

もし甦るなんてことが流行って来ようものなら…………  このジェリーの言葉の意味はずっと後になって明かになる。

〔第三章 夜の影〕

忍返し  人の忍んで越え入るのを防ぐために、尖頭を外にして塀や垣や柵壁などの上に打ちつける釘状のもの。ジェリーの髪の毛を忍返しに喩えることは、これから後たびたび用いられる。

蛙跳び  前方に屈んでいる人の背に手をつけてその人の上を跳び越す遊戯。馬跳び。

犂  牛または馬に曳かせて耕す鋤。

〔第四章 準備〕

ロイアル・ジョージ旅館  当時はジョージ三世の治世であり、その名を屋号にした宿屋などが多かった。

カレー  ドーヴァーの対岸にあるフランスの港。

海の駝鳥のように…………  駝鳥は追い詰められると頭だけ砂の中へ隠して見えないつもりでいると言われているので、海から上って頭だけを断崖の中へ突っ込んでいるようなドーヴァーの町を、戯れてその駝鳥に喩えたのであろう。

夜間にぶらぶら歩き𢌞って…………  対岸のフランスからの密輸入が盛んに行われていたことを暗示するのである。

クラレット  ボルドー産の赤葡萄酒。

死海の果物  生のない果物の意味。彫刻した食べられない果物だからである。この前後の、黒奴のキューピッドも、黒い籠も、黒い女性の神々も、もちろん、皆、鏡の縁の彫刻である。

少し外国訛りがあったが…………  その理由は少し後になって判明する。

ボーヴェー  パリーの北方約四十マイルのところにある都市。カレーからパリーへ行く途にある。

ムシュー  フランス語の「‥‥氏」、「‥‥さん」、「‥‥君」に当る語。本篇では、もちろん、フランス人の名前に附けてある。また、フランス人が紳士に対する呼掛け語としてもこの語を用いる。

書入れしてない書式用紙に…………  当時、フランスの王は御璽で封印した逮捕または拘禁の秘密令状を寵臣貴族たちに与えたのであった。ゆえに、彼等はその令状に誰でも彼等の欲する者の名を書き入れて、その者を裁判なしにただちに投獄することが出来たのである。

九ペンスの九倍は…………  ペンスもギニーもイギリスの貨幣で、十二ペンスが一シリングであり、一ギニーは二十一シリングに当る。

親衛歩兵の……桝目のもの  イギリスの親衛歩兵第一聯隊の兵は大きなバケツ型の毛皮の帽子をかぶっている。それを「桝」に喩えて滑稽に言ったのであろう。

スティルトン乾酪  もとイングランドのスティルトン村で造り始めた上等のチーズ。

嗅塩と……酢と  嗅塩は婦人などに用いる鼻で嗅がせる気附薬、炭酸アムモニウムのこと。酢はやはり嗅剤で気附薬にしたもの。

〔第五章 酒店〕

サン・タントワヌ  パリーの東方の廓外、バスティーユ牢獄とセーヌ河との間の一区域。下層階級の住んでいた地域であった。

やがて、そういう葡萄酒もまた…………  革命の勃発を暗示するのである。「そういう葡萄酒」とは、もちろん、前文の「血」をさす。フランス革命はこのサン・タントワヌにおける暴動から始ったのである。

サン・タントワヌの聖なる御顔…………  サン・タントワヌはキリスト教教父のサントアントワヌ(英語読みならばセントアントニー)の名をとった地名であるので、ここではその語を街と聖者との両方にかけたのである。このサン・タントワヌの擬人法は、この物語では、この後にしばしば用いられている。

実際それらは海上に…………  この「灯」はフランスの運命を、「船」は国を、「船員」は国民を、「嵐」は革命を象徴するのであろう。

痩せこけた案山子たち  貧民をさす。「案山子」という語は「襤褸を著た人」をも意味するからである。

その点灯夫のやり方を改良して…………  革命の時に、街灯柱を絞首台代りにして、民衆の敵を滑車綱で吊り上げて絞殺したのである。

鳴声も羽毛も美しい鳥ども  貴族をさす。

肩を竦める  不快、当惑、平気、冷淡などをあらわす身振り。

ドミノーズ  二十八箇の牌子を使って二人または数人でやる遊戯。

ジャーク  この名はフランス革命の運動を組織したと信ぜられる秘密結社の合言葉であった。

洗礼名  洗礼式の時に附けられる名。ここでは、もちろん、「ジャーク」のこと。

マダーム・ドファルジュは……編物をして…………  このマダーム・ドファルジュが常に編物をしている理由はよほど後(第二巻第十五章)になって明かになる。

ノートル・ダム  パリーの有名な大寺院。サン・タントワヌの西方市の中央にあり、その大伽藍の上には二つの巨大な塔が聳え立っている。

〔第六章 靴造り〕

何と有難いことでしょう!  彼の涙によって彼の智能が幾分か甦ったことがわかったからである。

〔第二巻 黄金の糸〕
〔第一章 五年後〕

フリート街  旧ロンドン市の西の境界であったテムプル関門から東へ通じている街。

悪しき交りがそれの善き光沢を…………  新約全書コリント前書第十五章第三十三節の「悪しき交りは善き行いを害うなり。」という句から言ったのであろう。

バーミサイドの部屋  「千一夜物語」すなわち「アラビア夜話」の中に、バグダッドの富豪バーミサイド家の人がある時シャカバックという乞食を饗宴に招いたが、立派な食器の中は皆空であった、それをシャカバックは実際に飲食するような身振りをして見せた、云々、という有名な話がある。その話から、このテルソン銀行の階上の、大きな食卓だけは置いてあるが食事のあったことがないという部屋を、諧謔的に「バーミサイドの部屋」と呼んだのである。

アビシニアかアシャンティーにふさわしい……曝されている首  アビシニアはエチオピアのこと。アシャンティーは西部アフリカの黄金海岸の北にあった王国で、一九〇一年にイギリス領となったのだから、この作の書かれた当時はまだ独立国であった。共に黒人の国で、首斬りの蛮風がごく普通に行われていたのであろう。テムプル関門には、往時、処刑者の首や肢体をその上に曝したのであった。

青黴  チーズなどに生ずるものをいう。

ハウンヅディッチ  ロンドンの東部の一区域。

代理人を立てて……誓った時に  「洗礼式の時に」という意味を諧謔的に言ったのである。すなわち、このクランチャーはジェリーという洗礼名であり、第一巻に出て来たあの使いの者なのである。

ホワイトフライアーズ  ロンドンのテムプルに近い一区域。フリート街からテムズ河までに拡がる。

クランチャー氏自身はわが主の紀元のことを…………  「わが主の年にて」すなわち「キリスト紀元」という意味のラテン語を英語読みにして「アノー・ドミナイ」という。それをわがクランチャー君はアナという名の女がドミノーズを発明した年という意味だと思っていたのである。

ハーリクィンのように…………  ハーリクィンは黙劇パントマイムに出て来る道化役の一人で、常に派手な雑色の衣裳を著ているので、クランチャーが補綴だらけの蒲団をかぶっているのを、ハーリクィンに喩えたのである。

彼が銀行の時間がすんでからきれいな靴で……奇妙な事柄  これも、第一巻第二章の終りのジェリーの言葉や、この後のジェリーについての言葉などと共に、後(第二巻第十四章)になってわかるのである。

テムプル  中世紀の聖堂騎士団の殿堂の遺趾のあるところ。フリート街の南にある一区劃。「テムプル」は「聖堂」の意味。テムプル関門はここにあった。テムプルには、有名な内テムプル、中央テムプルの二法学会院があり法律関係の人々が多くいる。

〔第二章 観物〕

オールド・ベーリー  往時のロンドンの中央刑事裁判所、あるいは中央法廷のこと。旧ロンドン市の外壁のところにあったので「オールド・ベーリー」と言われる。「旧外壁」の意味である。フリート街の東北に当るニューゲート街のニューゲート監獄の近くにあった。

四つ裂き  叛逆罪で処刑された人間の体は四つに切断して、その各部分を諸所の都市に分配して曝し、他の犯罪者に対する見せしめとしたのであった。

タイバーン  今のハイド公園の近くにあったロンドンの往時の処刑場。一七八三年すなわちこの時より三年後までここで処刑が行われ、それから処刑はニューゲートの監獄に移されたのである。

二マイル半ばかりは…………  オールド・ベーリーから処刑場のタイバーンまでの道程は二マイル半ほどあった。「他界への非業の旅」と言っても、その二マイル半だけは天下の公道を通って行くのである。

架刑台  往時罪人の頸と手とを板の間に挟んで立たせて街上に曝した刑具。その罪人を見物して笑い物にする見物人は、往々それに投石して負傷させたことがあった。ゆえに、次の文章にあるように、その刑罰の程度を予知することが出来なかったと言うのである。

笞刑柱  罪人を笞つ時にその人間を縛りつける柱。

殺人報償金  死に当る大罪人を告発したり、主人や恩人などを敵に売って殺させたりした報酬として受ける金。

ベッドラム  ロンドンの古くからの有名な瘋癲病院。「ベッドラム」はベスリヘム(ベツレヘム)の転訛。もと修道院であったが後に精神病院となったロンドンのセント・メアリー・オヴ・ベスリヘムを略してベッドラムと言ったのである。以前はロンドン名所の一であって、入場料を取って見物人を入れていた。

社会の戸口だけは…………  社会が犯罪人を生んで盛んに法廷へ送り込んだことをさす。

網代橇  昔、叛逆者、死刑囚などをそれに載せて縛りつけて刑場へ曳いて行った網代の枠のようなもの。

フランス国王リューイスが……なせる戦争  「リューイス」は「ルイ」を英語風に言った名であって、ここではルイ十六世をさす。一七七五年にアメリカ独立戦争が始り、一七七八年にルイ十六世はアメリカ合衆国を承認し、その支援に軍隊と艦隊とを送って、イギリスと交戦状態に入った。その状態は一七八三年まで続いていたのである。

大洋がいつかはその中に沈んでいる死者を…………  新約全書ヨハネ黙示録第二十章第十三節に「海その中の死人を出し‥‥彼等おのおのその行いに循いて審判さばきを受けたり。」とあることから言ったのである。

〔第三章 当外れ〕

君はかつて…………  以下、被告の弁護士が相手方の証人のジョン・バーサッドに向って質問をするのである。すなわち対質訊問をするのである。

階段から蹴落されたこと  何か不正なことなどをして家から蹴出され放逐されることを意味する。

ブーローニュ  カレーの西南にある、やはりドーヴァー海峡に面したフランスの海港。

ジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世と…………  ジョージ三世は第一巻の註に記したように当時のイギリス国王である。後に合衆国の初代の大統領となったジョージ・ウォシントン(一七三二─一七九九)は当時アメリカ軍の総指揮官であって、独立戦争開戦以来各地に転戦していた。

対質訊問  相手方のために召喚されて調べられる証人に対して反問すること。

呪うべきユダ  銀三十枚を得てキリストを売りユダヤの有司に渡して磔にさせたイスカリオテのユダ。

指の節を額に触れる  尊敬または認知のしるしである。

〔第四章 祝い〕

バスティーユ  往時パリーにあった有名な牢獄。主として国事犯罪人を収容した。一七八九年フランス革命が起ると同時に民衆に破壊されたことは普く知られている。サン・タントワヌ門の傍にある。マネット医師はこの牢獄に監禁されていたのである。

彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で…………  マネット医師がチャールズ・ダーネーの顔に何を認めてこのような表情をしたのかは、この物語の終り近く(第三巻第十章)にならなければ判明しない。

放免された囚人の友人たち  当日の法廷の見物人を戯れて言ったのであろう。

轎  一人乗りで二人の轎夫かごかきが棒で肩に担いで運ぶもの。十七八世紀にヨーロッパの諸都市で流行した。

ポルト葡萄酒  ポルトガルのオポルト原産の有名な葡萄酒。

ラッドゲート・ヒル  オールド・ベーリーのあるニューゲート街の南に、セントポール寺院から西に通じている街路。フリート街に続く。そのフリート街の南にはテムプルがあり、その西端にはテムプル関門があるのである。

一パイント  わが三合余に当る。

蝋垂れが…………  イギリスでは、蝋燭の蝋垂れの垂れ落ちる方向にいる人の身の上に凶事殊に死が来る、という迷信がある。

〔第五章 豺〕

ポンス  酒、砂糖、牛乳、レモン、及び香料などを混和して製した飲料。

民事高等裁判所  または単に高等裁判所、あるいは最高民事法院、または単に高等法院とも訳される。原名では「王座裁判所」と言われ、イギリスの最高の裁判所であった。ゆえに、ストライヴァーはオールド・ベーリーも普通刑事裁判所も自分の出世の「梯子の下の方の段」として関係を断とうとしていたのである。

仮髪の花壇  仮髪を著けている裁判官、弁護士たちの席を意味する。

ヒラリー期からミケルマス期までの間に  イギリスではもと高等法院の開廷期が四期に分れていた。ヒラリー期(一月十一日から同月三十一日まで)、イースター期(四月十五日から五月八日まで)、トゥリニティー期(五月二十二日から六月十二日まで)、ミケルマス期(十一月二日から同月二十五日まで)である。ゆえに「ヒラリー期からミケルマス期までの間」とは、厳密に言えば一月十一日から十一月二十五日まで、すなわち高等法院の約一箇年間をさすのである。

巡囘裁判  昔は裁判官が折々田舎を𢌞って裁判した。その時は弁護士もその裁判官に附随して巡囘した。

豺  豺は獅子のために餌をあさりその報酬として食い残りの骨片を与えられるという昔からの言伝えがあるので、「豺」という語は、他人のために下働きをする者、人の手先となって働く者、という意味に使われる。

ストライヴァーの事務室に…………  第二巻第一章の「テムプル」の註に記したように、テムプルには法学会院がある。その法学会院内には弁護士の事務室がある。大抵数室より成る。

ジェフリーズ  この物語の時代から百年ほど前の、残忍と放逸とをもって有名であった裁判官ジョージ・ジェフリーズ(一六四八─一六八九)をさす。

シュルーズベリー学校  イングランドの西部、ウェールズに近いシュルーズベリーの町にある小学校。一五五二年に創立されたという古い歴史を持っているので有名である。

河  テムズ河である。テムプルはテムズ河の畔にある。

〔第六章 何百の人々〕

ソホー広場  ロンドンのオックスフォド街の南にある広場。附近は外国人が多く居住していた。テムプルから一マイルほど隔っている。当時はそのあたりまでが市内であった。

クラークンウェル  ロンドンの本市の北にある区域。住宅地である。当時は市外であった。

オックスフォド街道  ロンドンの西部と本市とを繋ぐ大街道。当時はこの街道から北はことごとく市外であった。

南向きの塀が…………  果樹を南向きの塀のところに植えておくと、暖かいために果実がよく熟するのである。

この巨人は表広間の壁から金色の片腕を…………  この巨大な金色の片腕というのは、金細工師の看板なのである。それをこのように滑稽に説明したのである。

この時分までには……あの一種特別の表情  その家具類の配置などの「創案者」であるリューシーの額に現れるあの特殊な表情をさす。

自分の周囲のどこにも目につくその空想上の類似  家具とリューシーとの表情の類似。

プロス嬢  「嬢」の原語の「ミス」は、未婚婦人の名に冠する敬称であって、このプロス女史は年齢がもうあまり若くはないのであるが、日本語には完全な訳語がないので、老嬢という意味で「嬢」と訳することにする。

応報の排列表  人の行為の善悪に対しての来世における応報についての順番表というような意味。

ゴール人の子孫  フランス人のこと。ゴールは今のフランス及びその近隣の地域にわたって古代にあった国で、フランス人のことを戯れてゴール人とも言う。

シンダレラの教母  シンダレラは有名なお伽噺の女主人公で、彼女は継母や姉妹たちに虐待されながら台所で働いていたが、妖精であるその教母がシンダレラに魔法で美装させて王宮の舞踏会に行かせ、王子に恋されたシンダレラは魔法の消える夜半に宮殿から逃げ帰るが、自分の小さな上靴を落して来たことから遂に王子と結婚することになる。ここに「シンダレラの教母」と言ってあるのは、その教母が宮殿の舞踏会に行くシンダレラのために魔法で南瓜を馬車に、鼷鼠を馬に、襤褸著物を美服に変えたからである。

青い部屋  フランスの中世紀の有名な物語にある青髯という男が、幾度も結婚してその妻を皆殺し、死体を青色の部屋に隠しておいて他の者に入るのを許さなかったということから、誰をも入れなかったプロス嬢の室を諧謔的にこう言ったのであろう。

ロンドン塔  ロンドンのほぼ中央のテムズ河北岸にある古くから有名な建築物。一〇七八年に建築され始め、後次第に増築されたのである。初めは城廓として築造され、王宮として用いられた時代もあったが、永い間政治犯の牢獄として用いられていた。その後種々の観覧物の陳列所や武器庫となった。

あなた方も御存じのように、私はあすこへ…………  ダーネーは例の叛逆罪の廉で捕えられていた時にしばらくロンドン塔に監禁されたのであろうか。

DIG  英語の「掘れ」という語。

彼は片手を頭へやって突然…………  マネット医師がなぜこの時このような挙動をしたかは、この物語の終りの方(第三巻第九章)に至って明かになる。

聖ポール寺院  ロンドン市の中央にある大寺院。ソホー広場の東方約一マイル半、クラークンウェルの南にある。

〔第七章 都会における貴族〕

モンセーニュール  フランスで貴族や高僧などに対して用いた敬称であり、「閣下」、「殿下」、「猊下」の意味に当るフランス語である。その語を作者はフランス貴族の擬人法として用いたのであって、ここでは、「モンセーニュール」は個人の名であると共に、また当時のフランスの貴族を象徴しているのである。後の章では、この語は本来の意味の通りに個人に対する敬称として用いられ、また、更に後の章では、フランス全貴族の代名詞としても用いられる。

チョコレート  ここではチョコレート飲料をさす。チョコレートを砂糖湯または牛乳に溶かしたもの。

国を売った陽気なステューアト  イギリス国王チャールズ二世(一六三〇─一六八五)をさす。ステューアトは、彼の法外な放逸の費用を得るために、フランス国王ルイ十四世から巨額の金銭を得て、国会の意志に反して、ルイ十四世のオランダに対する戦争においてフランスを援助するというドーヴァー条約を、一六七〇年に密かに締結した。このチャールズ二世は「陽気な国王」と綽名されていた。

「モンセーニュール曰いけるは、地とこれに盈てる物はわがものなり。」  新約全書コリント前書第十章第二十六節に「地とこれに盈てる物は主のものなればなり。」とある。その「主のもの」という原文の代名詞を「わがもの」と変えたのである。

収税請負人  フランスの王政時代に、一区域の租税を徴収する特権を政府から得て、その代償として政府に一定の額を支払い、その契約の定額以上に人民から搾取したものはことごとく自己の懐に収めることが出来た収税吏。この収税請負人はこうして人民を誅求して、大革命の前には人民にはなはだしく怨まれていた。

面紗をかぶる  修道院の尼僧になることを意味する。

バベルの骨牌塔 「バベルの塔」は、旧約全書創世紀第十一章に記されている、太古バビロンで天に昇るために建築しようとした高塔で、架空的の計画という意味に使われており、「骨牌塔」とは、骨牌札で築いたようなすぐに崩れる塔という意味であろう。

その社会の天使たち  上流社会の婦人たちをさす。その中にはさすがの間諜でも一人の母性をも見つけ出すことが出来ないほど、上流社会の家庭は乱れていた、というのがこの前後の意味である。

痙攣教徒  十七世紀頃フランスに起った一つの狂信的な宗派の信者。フランスにおけるヤンセン教徒の一派であって、痙攣的発作に陥ったりその他の奇怪な動作によって奇蹟的の治療を行うと称した。彼等はまたその痙攣的動作で未来を予言し社会を改善することが出来ると信じた。

類癇  全身硬直する病気。

テュイルリーの宮殿  以前パリー市の中央にあったフランス国王の宮殿。ルイ十四世時代からは華美を尽していた。

扁底靴  踵のごく低い、または踵のない、エナメル革の浅い靴。主として舞踏の時などに用いられるものである。

車輪刑  罪人の手足を車輪に縛って死に致した残酷な処刑。

ムシュー・パリー  パリー市の死刑執行吏をこう言った。普通にはムシュー・ド・パリー。

監督派流儀に  未詳。この監督派というのはプロテスタント監督教会派をさすのであって、その唱道した監督制度主義とは教会の主権を法王のような一主権者に委ねないで教会の監督たちの手に委ぬべきであるとしたものであった。

一絞刑吏に根ざしたある制度  大革命時代の断頭台による処刑を意味する。

天帝を決して煩わさなかった  願い事をしたりして天帝を煩わさなかったこと。換言すれば、神を信仰しなかったこと。この前後は、彼等はモンセーニュールに対して体のみならず心までも平伏し尽していたので、神に対して平伏する余地が残らなかった。それが彼等の不信仰であった一つの理由であったかもしれぬ、という意味。

ガスパール  第一巻第五章に、サン・タントワヌで街上にこぼれた葡萄酒で「血」という字を書いた、「ガスパール」と呼ばれた「脊の高い」剽軽者がいたことを、読者は記憶されるであろう。これはあの男であろう。

〔第八章 田舎における貴族〕

侯爵閣下の面上の赤味は彼の立派な躾の…………  赤面したりするのは貴族たる者の立派な躾に反するからであろう。

蛇髪復讐女神  ギリシア神話の復讐を司る三女神。長い蛇の頭髪をしていたので、馭者の振う長い鞭をその女神の蛇の髪に喩えたのである。

歯止沓  車が坂を下る時車輪が滑らぬように輪底に取附ける鉄片または木片。

幽霊のように脊が高く  この「脊が高い」という一語によって、侯爵の旅行馬車の下にくっついて他の地方からやって来た男が前章のパリーで子供を侯爵の馬車で轢き殺されたガスパールであることが、ここでは微かに暗示されているに止まる。

六人ばかりの特別に親しい友達  この「特別に親しい友達」という言葉は特殊の意味を持っていて、後になるほど数が増して来る。

永い間……一つの大きな悲惨の、この悲惨な表象  「大きな悲惨」とはその地方全体の貧窮をさすのであり、「悲惨な表象」とはキリストの木像をさすのである。

一二リーグ  一リーグは三マイルである。

〔第九章 ゴルゴンの首〕

ゴルゴン  ギリシア神話の醜怪な容貌をして頭髪は蛇であったという女怪であって、一目でも見る人をことごとく石に化せしめたという。

決して断絶することがないはずの王統  フランスのブルボン王統をさす。ブルボン王統は永久にフランスの王座を保つであろうと予言されていた。

消化器のような恰好  円筒形で、先が円錐形をなして尖っている形。

彼はイギリスでチャールズ・ダーネーとして…………  前に侯爵がこの甥を「ムシュー・シャルル」と言ったが、フランスでシャルルという名は同じ綴字で英語ではチャールズと発音するのである。

拘禁令状  第一巻第四章の註に記した如く、フランスの国王の私印で封印した密書であって、それを国王から貰った人は、それに誰でも任意の者の名を記入して、その者を裁判なしにただちに投獄することが出来た。

その屋根の鉛が…………  大革命時代からナポレオン戦争時代にかけて、建物の屋根瓦の鉛が溶かされて銃弾にされたのである。

イギリスはたくさんの人間の避難所になっている  ヨーロッパ諸国の亡命者などは多くイギリスへ亡命したのである。

ドイツの民謡のレオノーラ  ある乙女が十字軍遠征に行って死んだ恋人を歎き悲しんでいると、夜呼び起され勧められて、馬上の自分の恋人に見える姿の背後に乗って駈け去ったが、それはほんとうは恋人の骸骨の幽霊であったという。十八世紀の末頃にはこの詩はイギリスでもよく知られていた。

解説


第一巻 甦る

〔六章から成る。この物語全体に対する短い序曲。出来事は一七七五年の秋から冬へかけてのわずか数日間のこと。場面はイギリスのドーヴァー街道からフランスのパリーへ。「甦る」という暗号文句を標題とし、フランスの一医師が十八年間の獄中の監禁から再び自由の世界へ甦るまでの顛末が語られるに過ぎぬ。この物語における最も主要な人物でさえこの巻ではまだ全然現れていない。〕


第一章 時代  この章では、作者ディッケンズは、一七七五年すなわちアメリカ独立戦争開始の年でありフランス大革命勃発の十数年前に当る頃におけるイギリス及びフランス両国の政治的及び社会的状態を、陰翳の多い筆で一抹的に描いて、この物語の発端の背景としている。純然たる序言的な章である。

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第二章 駅逓馬車  物語はロンドンからドーヴァーへ通ずる街道から始る。一七七五年十一月末の夜。丘を登るドーヴァー行の駅逓馬車、その傍を歩く一乗客、泥濘の道、馬車を曳く馬、谷々をたちこめるイギリス名物の霧、厚く身をくるんだ乗客たち、馭者と車掌、等、等、──この物語の初めの方は長編の発端らしく悠々としてその道を辿り、遅々として進捗しない。先へ進むに従って速度が速くなる。そのドーヴァー行の駅逓馬車を早馬で追いかけて来た使者のジェリーが、ロンドンのテルソン銀行のジャーヴィス・ロリーという乗客に「ドーヴァーにてお嬢さんを待て。」という簡短な手紙を渡し、「甦る」という奇妙な返事を受けて引返す。この章の筋はそれだけに過ぎないが、読者をも霧の中にいるような雰囲気の中に残す。


第三章 夜の影  この章では、馬車と別れてロンドンの銀行へ帰ってゆくジェリーと、馬車に乗ってドーヴァーへ向うロリーとが書かれているだけで、物語の筋は一向進展しない。ただ、読者にますます疑問と期待との感を抱かせる。「夜の影」とは原語では「夜の闇」の意味であり、それが彼等にとってその夜それぞれの形をなして現れる。ジェリーは生粋のディッケンズ的人物の一人である。ここでその容貌が作者一流の幾分誇張的で怪奇的グロテスクな戯画的手法でスケッチされる。ディッケンズは常に作中人物の容貌風采はもとより音声に至るまでもはっきりと想像したので、各主要人物のそれらを必ず書いている。甦るという言葉に悩まされるこのジェリーは秘密の商売を持っているのだが、その商売が何であるか、またその商売がこの物語にいかなる関係を持つことになるかは、ずっと後の第二巻第十四章と第三巻第八章とに至ってようやく判明するのである。ロリーの馬車の中での夢と現実との交錯は、はなはだ小説的に巧みに書かれている。心に重くかかる何かの用件を持って一晩夜汽車に乗ったことのある読者は、このロリー氏と幾らか似たような経験を持つであろう。彼の夢に浮ぶのは、彼の勤務先の銀行と共に、年齢四十五歳の男の物凄く瘠せ衰えた顔。その男との想像上の対話。それから空想の裡でその男を頻りに掘り出し、その男がようやく出て来ると、たちまち倒れて塵になる。そういう陰惨な夢と、その夢から覚めて見る窓外の紅葉黄葉の疎林と美しく昇る朝暾とは、対照の妙を得て効果的である。


第四章 準備  その日の午前に駅逓馬車の著いたドーヴァーの旅館。それまでぼってりと身に纒っていたものを脱いで正装して食堂へ入るロリー氏。六十歳の独身の紳士、テルソン銀行員。この物語において最初に登場し、最後まで副人物的な役割を勤めるこの一主要人物は、この旅館の食堂で肖像画を描かせるために著席しているかのように静かに腰掛けている間に、作者によってその肖像画をペンで描かれる。それから、ドーヴァーのスケッチ、その他。その夜、彼の後を追うて来たマネット嬢。大きな薄暗い一室で、読者はまた十七歳ばかりの本編の女主人公ヘロインに紹介される。ここで、パリーでこれから処理さるべき事務の準備として、約二十年前の事がロリーの口を通じて一部分語られるのである。前章以来の読者の疑問の霧は幾分かは霽れる。この章の終りのところで初めて登場するマネット嬢の附添いの婦人プロス(ここでは名は記されていないが)。彼女はディッケンズ的喜劇風の身振りで現れて来て読者を微笑させる。駅逓馬車から犬のような様子で出て来るロリー氏の描写や、食堂での彼と給仕人との会話や、その他の細部の巧みさなどは、一々指摘しない。

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第五章 酒店  場面はパリーの貧民窟サン・タントワヌに移る。前章から数日後の冬の日。街上に葡萄酒の樽が壊れて、流れる赤葡萄酒を飢えた人々が争って飲む光景。この街上の葡萄酒は、後にこの区域から始った大革命の流血を前兆するのである。ここに描かれたサン・タントワヌ街の窮乏と汚穢との画面はその臭いまでも読者に感じさせ、極めて傑れている。荘重で峻厳なカーライルの文体を思わせるところがある。この街の酒店の主人ドファルジュとその妻とがここでその風貌を描写される。共に年齢三十歳前後。この二人がいかなる人物であるかは第二巻第三巻に至って次第に明かにされる。しかし、この物語の「姿なき主人公」とも言い得る「革命」は、この章において微かにその前奏曲が奏されている。飢餓、貧窮、欠乏、狩り立てられ、追い詰められかけている人民の野獣的な顔付、ジャークという同一の名を持つ者の秘密結社。マダーム・ドファルジュは既にその編物を始めている。このサン・タントワヌの酒店にマネット嬢とロリー氏とが現れる。そして、彼女の父マネット医師の昔の召使人であったムシュー・ドファルジュの案内で、酒店の附近のある建物の六階の屋根裏部屋へとムシュー・マネットに会いに上って行く。なお、ドファルジュがいかなる人々からマネットを引取ったかは、はっきりとは書いてない。ドファルジュがジャークという同じ名の連中にマネットを覗かせるのは、貴族の圧制と暴虐との一標本を見せるためなのである。


第六章 靴造り  サン・タントワヌ区のある屋根裏部屋。まだやはりバスティーユの牢獄の中にいるつもりで頻りに靴を造っている変り果てた白髪のマネット。名を問われると「北塔百五番」とのみ繰返す永年の囚人。その永年の監禁のために暗雲に鎖された智力。父と娘との初めての対面。娘の髪の毛や声によって微かに甦った遠い昔の記憶。娘の永い言葉によってようやくごく微かに甦った智能。夜になってから、訪問者たちはこの甦る人ムシュー・マネットを馬車に乗せてイギリスに向ってただちにパリーを立つ。パリー市の城門でドファルジュだけが下りて別れる。街灯の下から大空の永遠の灯──星──の下へと走る馬車。第三章の駅逓馬車の中で幾度も繰返されたあの空想の対話が再びロリーの耳に戻って来て、巻を閉じる。

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第二巻 黄金の糸

〔二十四章から成る。序曲に次ぐ展開部である。最も長くかつ変化に富む。年月は一七八〇年三月から一七九二年八月に至るまでの十二箇年余、場面はロンドンとパリーとフランスの田舎とにわたる。この作中の諸人物はほとんどすべて登場し、女主人公ヘロインが彼女の黄金の糸を巻いてゆき、第三巻で起る波瀾はこの巻において完全に準備される。〕


第一章 五年後  ロンドン。前章から五年後すなわち一七八〇年。初めに、ロンドンのテムプル関門バーの傍にある古風なテルソン銀行が描かれる。極めてイギリス風な銀行であることが巧みに語られている。それに附随して、テムプル関門バーの上に曝されている処刑者の首のことから、当時死刑ということが少しも珍しくなかったことが書かれているのは、続章に出て来る叛逆罪の裁判に対する一種の予備知識を読者に与えるためであろう。それに続いて、この銀行の戸外に息子と共にあたかも「銀行の生きた看板」であるかのような役を勤めているジェリー・クランチャー君が再び登場する。その年の三月のある朝。まず彼の私宅の場から始る。クランチャー君は、息子の小ジェリー君や、前に出た女丈夫プロス女史や、後に出て来る弁護士ストライヴァー先生と共に、この物語における喜劇的人物である。自ら「実直な商売人」と称する彼が、温順にして敬虔な細君の祈祷に頻りに文句をつけるのは、何か多少良心に疚しい所業をしているからであろう。彼のいわゆる「蹲る」ことに対してさんざん毒づいた後に、彼は小ジェリーを連れて銀行へ御出勤になり、大小二匹の猿のように銀行の前に陣取る。当時十二歳の小猿は父親の指にいつも鉄の銹がついているのを不思議がる。


第二章 観物  銀行(の戸外)へ出勤したジェリーはまもなく裁判所行の御用を仰せつかり、ロリー氏が行っているオールド・ベーリーへ入ってゆく。このジェリーの描写や会話によって読者は諧謔作家としてのディッケンズに幾分接することが出来る。このオールド・ベーリーにおける叛逆事件の公判の場面で、この物語における二人の主要な人物──互いに容貌が酷似しているシドニー・カートンとチャールズ・ダーネー──が初めて登場する。もっとも、この章では、カートンの方は、まだ名も記されず、ただ「両手をポケットに突っ込んで」、「法廷の天井ばかり眺めている」、「仮髪を著けた今一人の紳士」として簡単に漠然と紹介されているだけであり、彼はこれから後の章に至って次第次第にその姿を大きく現して、最後のこの小説中の最大の人物となるのである。また、ダーネーの方は、フランスの間諜の嫌疑をかけられたこの叛逆事件の被告、恐しい死刑の判決を受くべきこの法廷の観物として現れ、その真の身分などはこの巻の第九章になって明かになるのである。被告席に立った冷静な態度の質素な彼の姿。二十五歳ばかりの青年紳士。その他に、いずれも名は次の章まで記されていないが、被告の弁護士ストライヴァー。証人として現れるマネット医師とマネット嬢。前の巻から五年たっているのだから、五十歳の紳士と二十二歳の令嬢である。


第三章 当外れ  いよいよ被告チャールズ・ダーネーの叛逆罪の公判が始る。検事長閣下の滔々たる論告。検事側の証人ジョン・バーサッド及びロジャー・クライに対する被告の弁護士ストライヴァー氏の対質訊問。それに対するすこぶる怪しげな答弁。次に、ロリー氏と、マネット嬢と、マネット医師との証言によって、五年前に彼等が一緒にフランスからイギリスへ渡った時のこと、マネット嬢とダーネー氏とが初めて逢った時のこと、マネット医師がロンドンに居住したこと、その他が簡短に述べられる。それから、更に公判が進み、ストライヴァーが同僚弁護士であるカートンの注意によってカートンとダーネーとの容貌の酷似を利用して相手側の一証人の証言を粉砕する。次に、彼の被告に対する弁護。このバーサッドやクライというのは、実は、政府に傭われている間諜であって、フランス生れの被告に近づいて無理に交際を結び証拠を捏造してフランスの間諜として告発し、当時のフランスに対する国民的反感を利用して政府への人気を博そうとしたのであり、そういう類のことを職業にしている人間なのである。それがダーネーとカートンとの容貌の類似という思付きから失敗させられ、終日公判が続いた後に陪審官は遂に無罪放免の評決をする。死刑囚を見るつもりで集って青蠅のように騒いでいた観衆は、その当が外れて青蠅のように裁判所から去ってゆく。この章で、カートンとマネット嬢とダーネーとの三人の最初の交渉が微妙に始っている。


第四章 祝い  その夜。法廷の廊下で、釈放されたばかりのダーネーを取囲んで祝いを述べるマネット、その娘リューシー、ロリー、ストライヴァー。大声の太ったストライヴァー氏が改めて紹介される。遠慮、思遣り、上品、敏感など──要するに一語で正確な訳語がないが「デリカシー」というひけめは一切持ち合せていない、三十歳を少し越している男。また、マネット医師のことはここでもこの後でもたびたび書かれるが、第三巻第十章の彼の手記に至るまでは彼の過去の経歴がはっきりわからない。確かに、彼の上にはバスティーユ牢獄の濃い影が落ちているような印象を与える。この法廷の廊下で彼はダーネーの顔に何かを認める。ただ一人壁蔭の暗いところに凭れていたカートンは、皆の後から裁判所を出て、マネットとリューシーとが貸馬車で去るのを黙々と見送った後、ぶらりと鋪道へ現れ、善良な銀行員のロリーをひやかしてから、ダーネーを誘って二人で近くの飲食店へ行く。その二人の人物の対話の場面の大写し。ダーネーが去ってからのカートンの鏡に映る姿に向っての独白。それから酔って卓子テーブルに突っ伏して眠ってしまう彼の上に滴り落ちる不吉な運命を暗示するような蝋燭の蝋垂れ。


第五章   ストライヴァーに対して豺の役目を勤めているシドニー・カートン。彼は飲食店をその夜晩く出て、テムプルのストライヴァーの事務室へ入ってゆく。作者は少年時代に二年ばかり法律事務所の見習書記をしていたことがあり、こういう法律家などを書くことも巧みである。カートンは、ストライヴァーとシュルーズベリー学校以来の同窓生であるから、年齢もやはり同じくだいたい三十歳くらいであろう。前章からこの章へと彼の性格は次第に描かれて来る。ストライヴァーは(第二巻の終りの方である一つの小さな役割を演ずる他は)このカートンの対照に書かれているのである。徹夜して酒を飲みつつ仕事をしてから、カートンはマネット嬢のことを思って憂鬱になりながら、どんよりした陰気な夜明の戸外へ出る。周囲の沙漠。一瞬の蜃気楼。浪費されている才能を抱いて埋もれている男。印象的な場面。

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第六章 何百の人々  前章から四箇月後すなわち一七八〇年七月頃。同じくロンドン。ソホー広場附近のマネット医師一家の閑静な住居が見事に描き出される。ある日曜日の午後。そこへロリー氏が訪ねる。ドーヴァーの旅館で初対面をした例のプロス嬢との対話。それによってマネット医師のことがまた語られる。なお、プロス嬢の話にちょっと出るように、彼女にはソロモン・プロスという弟があることは、この物語の後の方の章のために記憶されなければならない。嫉妬深いプロス嬢がお嬢さんに会いに来る何百の人というのは、ダーネーとカートンとであった。マネットに何か衝撃ショックを与えたらしいダーネーのロンドン塔の囚人の話。リューシーとダーネーとの間に交される二三の簡短な、しかし愛人同志らしい対話。その家で聞える足音の反響をいつか自分たちの生活の中へ入り込んで来る足音の反響だというリューシーの空想。それに対するカートンの言葉。夜になって襲来する雷鳴と電光と豪雨。暗示的で感銘的な場面。雨が霽れて帰る途で迎えに来たジェリーはまたロリーの言葉にぎょっとする。この章の結末の数行は、漠然たる、しかし効果的な暗示の文句である。

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第七章 都会における貴族  これから三章は場面がフランスへ移り、人物はしばらく一変するが、やがて前に出た人物も登場して加わる。前章と同じく一七八〇年の夏。フランス革命の起る九年前である。この章の前半のモンセーニュールは当時のフランスの貴族の象徴的人物であり、ここに、フランスの王政封建時代末期の支配階級の戯画が、モンセーニュールのパリーの邸宅における接見会リセプションの場面によって、描き上げられる。この戯画もまた実に傑れており、第一巻第五章のあのサン・タントワヌ区の画面と対照されて効果的である。この章の後半からは、そのモンセーニュールの接見会リセプションに出席したある侯爵が主な人物となる。例によってその人物の肖像画。彼はそこを去り馬車を駆って街々を驀進し、平民どもを蜘蛛の子のように散らし、その挙句ガスパールという男の子供を轢き殺す。その場へあの酒店の主人ドファルジュが現れる。一人の人間を殺して、金貨を一枚投げ与え、何かの品物を壊してその賠償をすませたかのようにまた馬車を駆って去る侯爵。その侯爵をただ一人きっと見つめるマダーム・ドファルジュ。それから、馬車で流れ去る仮装舞踏会のように著飾った上流人士。自分たちの穴から出てそれを眺め続ける鼠のような貧民たち。昼は夜となり、仮装舞踏会は晩餐の明るい灯火に輝き、鼠は暗い穴の中でくっつき合って眠り、万物はそれぞれの道を流れる。


第八章 田舎における貴族  窮乏し疲弊したフランスのある田舎。前章の翌々日の日没頃から夜へかけて。侯爵は彼の領地へ旅行馬車で帰って行く。穀物の乏しい田園。すべてが貧乏くさい村。貧苦に窶れた村民。その村の宿駅の前でしばらく停った侯爵は、青い帽子を持った一人の道路工夫を訊問して、脊の高い男が一人自分の旅行馬車の下にぶら下って来たことを知る。宿駅長のガベルが現れる。彼は徴税吏をも兼ねている。ガベルに命令を与えてから、侯爵はまた出発する。途で会う一人の寡婦の歎願を押し除けて、日がとっぷり暮れてから彼の館に到著する。彼は著くとすぐに、イギリスから来るはずのムシュー・シャルルが著いているかと尋ねる。


第九章 ゴルゴンの首  侯爵の館。その夜から翌朝へかけて。一目であらゆるものを石に化せしめるというゴルゴンの首が検分したかのような、何から何までが石で出来た堂々たる建物。月もなく風もない真暗なひっそりとした晩。やがて塔の中の豪奢な一室で侯爵が食卓に向っていると、侯爵の甥のシャルルが到著するが、このシャルルとは意外にも数箇月前イギリスでの叛逆事件の被告であったチャールズ・ダーネーである。挙止だけは優雅で心の冷酷な、抑圧を唯一の永続する哲学と信じている、骨の髄からの封建貴族の叔父。貴族の暴虐圧制と誅求搾取とを嫌って、財産継承の権利を抛棄し、国を去り、家名を棄てて、イギリスで働いて生活しようとする、新しい思想を奉ずる甥。この二人(殊に前者)はその会話やわずかな動作などによって驚くべく巧妙に書かれている。甥を別室へ送り出して自分の寝室で寝ようとする侯爵。その日の昼の旅行や前々日のパリーでのことの追想。それから深い夜の闇の三時間。この夜から朝へかけての叙述もまた最も傑れている部分の一つである。夏の夜は早く次第に明けかかり、遂に館でも夜がすっかり明け放れると、館の大鐘が鳴り響き、人々があわただしく駈け𢌞り、ただならぬ模様。侯爵もまた寝室で石になったのである。彼を突き刺した短刀に附いている紙片の文句によれば、ドファルジュの仲間であるジャークの一人に暗殺されたのであって、暗殺者が前日に侯爵の馬車の下にぶら下って来た脊の高い男であり、パリーで侯爵に子供を轢き殺されたガスパールであることは暗示されている。この物語の主要な人物は既に全部出揃い、読者はそれらの人物について一通りは知ったのである。

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第二巻未完。

底本:「二都物語 上巻」岩波文庫、岩波書店

   1936(昭和11)年1030日第1刷発行

   1967(昭和42)年420日第26刷発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

その際、以下の置き換えをおこないました。

「彼奴→あいつ 恰も→あたかも 或る→ある 如何→いか・いかが 聊か→いささか 何時→いつ 一層→いっそう 今更→今さら 謂わば→いわば 所謂→いわゆる 於て→おいて 大凡→おおよそ 於ける→おける 恐らく→おそらく 己→おれ 却って→かえって 彼処→かしこ か知ら→かしら 難い→がたい 且つ→かつ 嘗て→かつて かも知れ→かもしれ 位→くらい 極く→ごく 此処→ここ 毎→ごと 悉く→ことごとく 此→この 而→しかし 然る→しかる 屡々→しばしば 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 頗る→すこぶる 即ち→すなわち 是非→ぜひ 其奴→そいつ・そやつ 大層→たいそう 大体→だいたい 大分→だいぶ・だいぶん 唯→ただ 但し→ただし 直ち→ただち 忽ち→たちまち 度→たび 度々→たびたび 多分→たぶん 給え→たまえ 給う→たもう (て)頂→いただ (て・で)貰→もら・もれ 何処→どこ・どっ 乃至→ないし 尚・猶→なお 尚更→なおさら 何故→なぜ に拘らず→にかかわらず 筈→はず 甚だ→はなはだ 甚し→はなはだし 程→ほど 殆ど→ほとんど 正しく→まさしく 将に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 亦→また 間もなく→まもなく 勿論→もちろん 以て→もって 尤も→もっとも 易→やす 已むを得ず→やむをえず 故→ゆえ 漸く→ようやく 俺→わし 僅か→わずか」

※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。

入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)

校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)

2005年616日作成

2015年416日修正

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