淺見淵君に就いて
梶井基次郎



 私は淺見君にはまだ數へる程しか會つたことのない間柄である。隨つて淺見君に就いては知ることが非常に尠い。尤も淺見君の弟である淺見篤(舊眞晝同人)とは高等學校のとき非常に親しかつた。淺見君に會つたそもそものはじめも彼を介してである。

 最初にたしか紅屋の二階であつたと思ふが會つたときは、それが淺見兄弟の共通したフイジイオグノミイである、ちよつと西洋人臭い感じがした。そしてボオドレエルのあるポートレイトにどこか似てゐるやうに思つた。少し吃音癖のある控へ目な話し振りは淺見君の奧床しい人柄を想像させた。そしてこのときの印象は今に於ても少しも變つてゐない。このときはたしか僕達のやつてゐた「青空」が出たか出かけのときで、隨分以前の話である。

 二度目はたしか池袋の方の田舍の新居へこれも弟の篤君と、訪ねたときである。このときは淺見君達は既に同人雜誌「朝」から「文藝城」をやつてゐた。そして種々同人雜誌の話をしたことを覺えてゐる。尾崎一雄君がなかなか太つ腹なことをやり、「文藝城」の經濟が尨大になるといふ話に面白いところがあつて、それは今でも頭に殘つてゐる。

 弟の篤君が自分の頼りにし尊敬してゐる兄の淵君のところへ僕を連れて行つた氣持には、僕は忘れられない好い氣持を持つてゐる。僕達二人は京都に於て最も無頼な友達同志だつたのだから。そして淵君が篤君との關係で僕に種々な心遣ひをさせることなく僕をうけ入れて呉れたことにも僕はいい感じを持つた。そしてさうした二人の兄弟仲からまたいい感じを僕はうけとつたのである。つまり僕と淺見君とが最初にかはした印象は、私達が好い兒になつた、氣持のいい記憶からはじまつてゐるのだ。

 以前に淺見君と會つたのはこの二回位のもので、それ以後は發表された數篇の小説で、その手堅い平明な作風に接した譯である。

 淺見君の小説は、洗練された筆で自分の身邊のことを素朴に書いたものが多い。評論に筆をとつても、すべての言葉が、生活に根をおいた、平明な無理のないところから出て來てゐる。だから云はれてゐることが、すつかり心よくこちらの腹へはひる。そんな點では、僕は淺見君を文藝都市のなかでも、一番しつかりした人だと思つてゐる。しかし僕はその平明な境地の自由さに、心憎さも、そして幾分の不滿も持つてゐることを表明したい。これは最近殊に氣持に無理をしてゐる僕自身から出て來る注文かも知れないが、僕は淺見君を驅つてもつと不自由な無理のある境地へ追ひ上げたいと思ふものの一人である。

 いつか百田宗治氏に會つたとき、僕は次のやうな言葉を意味深く聞いた。それは、藝術家が憂鬱になるのはいつも自分以上のことを表現しようとするからだ。世間の人は自分の身に合つたことに終始してゐてさうした憂鬱を持たない。どうやらこれの方がほんたうの生活らしい。──

 これは反語のやうにもあるひはさうでないやうにも話された。しかしそれは百田氏自身の心境に依つていづれともなり得る。だがこの言葉で大變憂鬱になつたのは僕自身だつた。僕は云はば不純なさうした憂鬱にいつも捕はれてゐる。それが生活に反響し、作品に反響し、また生活に反響し返へして來ることに思ひ及べば、僕はうたた憮然たらざるを得なかつた。この氣持にはもつと鋭い分析が要る。僕はまだそれをしてゐない。しかしこの僕のこの氣持が常に作品の上に無理を重ねてゐることから起つて來たことは爭へない。さうした僕自身である。その僕からかの平明な坦懷な淺見君の作風に接するとき、僕に起る氣持が、心憎さと同時にある種の齒痒ゆさであることは、淺見君にも了解して貰へることだらうと思ふ。もつと冒險をして下さい。僕が淺見君に抱いてゐる今云ひ度いことはそれだけだ。──そしてこの氣持は最近文藝都市に出た短篇「三人」が僕に刺衝した作者への要求である。

 淺見君の作品に就いてはもつと詳しい、種々僕自身としての回顧や感想がある。しかしそれはいづれ他日期を見て筆をとり度く思ふ。

(昭和三年七月)

底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房

   1999(平成11)年1110日初版第1刷発行

初出:「文藝都市」

   1928(昭和3)年7月号

入力:土屋隆

校正:高柳典子

2005年55日作成

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