地虫
小栗虫太郎
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大都市は、海にむかって漏泄の道をひらいている。その大暗渠は、社会の穢粕と疲憊とを吸いこんでゆく。その汚水は、都市の秘密、腐敗、醜悪を湛えてまんまんと海に吐きだす。ところが、どんな都市でも、その切り口を跨いだあたりに奇異な街があるのだ。
そこは、劃然と区切られた群島のようなもので、どこにも橋の影を落さぬ、水というものがない。影は影に接し、水はくらく、しかも海にちかく干満の度がはげしい。ぐるりは、ギラつく油と工場の塀で、まさに色もなにもないまっ黒な堀水である。
そんなわけで、もしも端れの一つに橋がなかったとすれば、その一劃は、腐泥のなかで、孤島のように泛びあがってしまうのだ。
都市中の孤島──私は、当然読者諸君が睜るであろう不審の眼を予想して、次のその実在を掲げることにする。
諸君は、荒川放水路をくだって行った海沿いの一角に、以前から、「洲蘆の居留地」と呼ばれる、出島があるのを御存知であろう。そこは、杭が多く海流が狭められて、漕ぐにも繋ぐにもはなはだ危険な場所である。水は、はげしく奔騰して、石垣に逆巻き、わずか、西よりの一角以外には、船着場所もない。
それに、じめじめと暮れる西風の日には、塵埃焼却場の煙が、低く地を掃いて匂いの幕のように鎖してしまう。また、島の所々には小沼のような溜りがあって、そこには昔ながらの、蘆の群生が見られるのである。そのそよぎ、群れつどう川鵜の群が、この出島の色に音に荒涼さを語る風物なのであった。
そこで起る当然の疑問は、都心に近いこの港の口に、なぜ、こうも荒れ寂びれた出島があるかということである。
けれども、この「洲蘆の出島」は、もともと仏蘭西大使館の鴨猟地なのであった。現在も、以前の猟館には司厨長が住んでいて、他には、自転車の六日競争の小屋があるくらいである。
おまけに、その二、三の棟が疎らに点在していて、もしも秋の日暮に、私たちがこの島を訪うたとして、海風に騒ぐ茫漠たる枯菅の原を行くとしたら、その風雨に荒れ、繕うこともない石壁の色は、もはやとうていこの世のものとは見えぬであろう。背後の檣も、前にある煙突の林立も、およそ文化といい機械という雑色のなかにあってさえも、この沈鬱の気を和らげるものではない。
ところが、四十町七丁目側の石崖が崩壊して、折角あった、ただ一つの木橋が役立たなくなってしまった。
それからはこの島に──といっても、当分のあいだではあるが──埋立地から出る、渡船で聯絡するようになった。そうして、東京という大都市のなかに、見るも黄昏れたような孤島が作られることになったのである。
さて私は、その出島に起った、世にも凄惨な人間記録を綴ろうとするのであるが、それは、鵜の羽音でも波浪の響でもなく、陰々と、地下にすだく地蟲の声なのであった。
その夜、洲蘆の出島を、最後の渡船が出たのは、十時過ぎであった。
この数日来の降り続きで、いまも、心の底に浸みとおるような霧雨が降っている。渡船には、頭巾を冠った巡査が一人だけ乗っていて、寒さに手足をすぼめ、曳船の掻き立てるすさまじい泡を眺めていた。
出島には、もう一点の灯りも見えない。
多くの船体が、雨脚のなかに重なり合って暈されている。
すると、その巡査が、なにを見たのかいきなり舳に屈みかかった。
「あっ、人間だ⁉」
見ると泡の薄れた、船脚の底からスウッと影を引いて、淡い、どうやら人容らしいものが現われてきた。
が、すぐにそれが、気の迷いでもあったかのように、ふたたび泡立ちはじめた河面のなかに隠れてしまったのである。すると次の瞬間、巡査の、心も眼も凍らせるような、怖ろしいものが現われてきた。
激しく湧き立つ真白な泡のなかに、なにか水底からもくもくと吹き出てきたものがあった。その、黒い油のように見えるものは、間もなく泡のなかで、不思議な模様を刻みはじめた。それが扇形に拡がったり、泡が打衝って、白い皮膚のようにスウッと滑らかになると、縞に曲線に、乱れ入り組んで、慄っとするような交錯が起り、また砕け散って、鱗を撒いたような微塵模様となるうちに、今度は……細長い指のようなものが、暈っと光って白く……泡の外へ行列蛆のように消えてゆくのだった。
その、のろのろと連なってゆく薄気味悪さには、巡査も思わず顔をそむけた。
舟は、まだ中流にある。
ただ一つの街灯の光が、向うの河岸縁を赭く染めているだけだ。
「いまのは、指じゃないかしら……」
やがて、巡査の眼には、なにものも映らなくなってしまった。ただ聴えるのは、轟々と水を捲き返す、推進機の音だけであった。
すると、湧いては流れ、解けては結ばれる激流のなかに、茫っと光る、白いうねりのようなものが現われた。その光りは、泡の谷を染め、闇空を映す峯を曇らせて、パッパと閃きながら、八方へと衝き拡がってゆく。
人の形というものには、一種云うに云われぬ不思議な力がある。
どんな闇のなかでも、どこからか、光をとってきて、形を現わすものだ。巡査は曳船に向って、たまらなくなったような叫び声をあげた。
「オーイ、舟を停めろ、水死人だぞ、停めろ、聴えないか、オーイ、停めんかと云うに……」
しかし、それは風の音、機関の響に消されて聴えなかった。と、続いてそこには、まさに、見る眼を覆わしめるような、およそ現実の怪奇としては極端かとも思われる──それは、血を与え肉を授けた地獄絵の様なのであった。
水は、涯しのない螺旋のように逆巻いて、その、顔もさだかでない、屍体を弄びはじめた。もくもくと湧き出す血が、海藻のような帯を引き、ちらりと緑色に髪の毛のようなものが見えたかと思うと、屍体は、激しいうねりを立てて水底に沈んでゆく。
すると血の帯に、見るも悽惨な渦が捲き起って、いくつとなく真赤な螺旋のようなものが直立してゆくのだ。
それは、血の怖れというよりも、むしろ慄っとするような美しさで、ちりちり尾を捲く暗緋の糸のようなものが、下へゆくほど太まり溶け拡がっていて、ちょうどそれは、触手を上向けた紅水母のようであった。
が、やがて眼前には、ひらひら悪夢のなかで蠢く水母の手の代りに、今度は胃も食道も、グイと逆さにしごかれるような感覚が起った。
それは、底のほうから、もくもくと噴油のような血が湧き出したと見る間に、その層が、水面に高くぐいと盛りあがったように感ぜられると、そこを、紗のような横波が、サッと掃いた。すると紅の暗さに、一抹の明るみが差したかのように、血の流れた下から、見るも鮮やかな淡紅色をしたものが現われたのである。
それは、円い、樹肉の断面のようなもので、中央には白い筒のような芯があり、ところどころに、なにか汚ないながらも触りたくなるようなひらひらが動いている。
「アッ、推進機で、首が截られた……」
すると船底を、鈍くゴツンゴツンと突きながら遠のいてゆくものがあって、その響きが、靴の底からズウンと浸み渡ったとき、巡査はもう何事も分らなくなってしまった。が、やがて気がつくと、舟は舳をケリケリと当てながら、対岸の渡船場に着いたのであった。
「君、あれほど呼んだのに、なぜ聴えんふりをするのだ」
巡査は桟橋に飛びあがると、曳舟の船員を怒鳴りつけたが、その声も、風に消されて相手には届かなかった。
湖水のように見える、混凝土の舟待ちには、街灯が一つ長い影を引いている。
しかし船員は、纜を捲きながら、暗い水のうえを覗き込んで、
「ああ旦那、お客様ですぜ。舟も終発なら、この仏様にも返り車がねえときた。ひでえこんだ、こりゃ、推進機にやられたらしいな」
ギラつく脂のなかで、その全裸の屍体が男であると分った。首はなく、推進機の打ち込んだ、無数の切り傷が全身にわたって印されていた。やがて、肩口に縄をつけて、舟待ちに引きあげた。
下腹は、わけてもパックと口を開けていて、そこから、淡い藤色をした小腸の端がのぞいている。
船員は、群れてくる船蟲を、揮発油で防ぎながら、
「ねえ旦那、こりゃ他殺でしょうかねえ。きょう日は、裸で涼むような、時候でもねえんだし……」
「サア、そりゃ、どうとも分らんよ」
その若い巡査は、雨沫を浴びて、黙然と腕組みをしている。
「とにかく、検屍をうけなきァならん。君、帰ってせっかく休みたいところを気の毒だが……」
するとその時、足を小流れのなかに突っこんだまま、凝っとその様子を見ている男があった。それは、遠くから見たら、幽霊かとも思われるような、影を、流れにちらつく街灯の灯のなかに倒している。
「オーイ船頭、いや船長、ふ、船を出してくれ」
その、死んだように酔っ払った、外套のない男は、足を流れにとられながら、船員の側に歩み寄って来た。
「出せ、船を出せ」
「冗談じゃないよ、時間切れだぜ。これでも、東京市橋梁課の渡船なんだ。お役所仕事だぜ。銭をとる渡しと、ちったァわけがちがうんだ」
「頼む、今夜は洲蘆の出島に、ぜひにもの用があるんだ。ねえ君、判任官閣下、頼むから君、かけ合ってくれ給えな」
が、間もなくその男の眼は、巡査にも船員にも向けられていなかった。まるで、悲しむような、それでいて、異常な興味をたたえている、抉るような視線を、船待ちの屍体のうえに注いでいるのだった。
「どうだ判任官閣下、君はこの屍体が、他殺か自殺か判明せんと云ったね。君、この屍体の胃袋を、押してみたらどうだね。ハハハハハそれで分ったら、御褒美に洋行のことをかけ合ってくれ給え」
巡査の頭巾の蔭には、その四十男を見る不審そうな眼が瞬いている。垢染みた、硬い無精髭が顔中を覆い包んでいるが、鼻筋の正しい、どこか憔悴れたような中にも、凛とした気魄が仄見えているのだ。
「そうか、それでも足りなきァ、船賃に追い付くまで、もう少し弁じようか。そこで、下腹の傷だがねえ。見給え、それだけが──なに、推進機でやられたように真直だと。それだから、君はまだまだ講習が足らんというのだ。だいたい人間の、自然の手の運動というやつは、曲線なんだ。対象を見ないでいて──つまり例を引けば、盲人の手の運動だが──けっして、正しい直線を自然に描けるものじゃない。ところがこの屍体には、それが逆の論理になっている。背後から抱えられて、グサリと突き立てられたとき、屍体には、屈むのと、伸びる反射運動とが連続して起るのだ。だから創の歪みが、その屈伸に符合する。正数が負数に化ける。二段に起る、曲線が直線に是正されてしまうんだ。ハハハハ、分ったかね。それにこいつぁ、創の浅まり方から考えても、明白に左利きだ。ねえ判任官閣下、この屍体の犯人は左利きなんだぜ」
途端に、巡査の眼からは光りが消え、彼は阿呆のようにぽかんと立ち竦んだ。
その憔悴したさま、滴のしたたる蓬のような髪の毛、それを仄めぐって、陰火のような茫々としたものが燃えあがっている。
この男には、自然としか見えぬものでさえも、矯め直す不思議な魔力があるのだ。と、巡査には、なにか人間放れのした神秘的なものを見るように、この男が薄気味悪くなってきた。
すると、その男の顔に、巫山戯たような笑いの皺が打ちはじめて、
「ハハハハ、まだ合点がいかんのかね。左利き──それが、ギリギリ結着というところだ。早く犯人を挙げて、暮にはたんまりと暖まるさ」
そう云って、莨を取り出し、燐寸を摺ったその手を見たとき、巡査は頭から水を浴びせられたような気がした。
この男が、左利きではないか。
赭く、燐寸の灯影にちらつく、刻みあげたような陰影──それを、怖れるかのようにまじまじと見詰めながら、巡査の鼓動がドド、ドドっと走りはじめたのである。そうして、細かい雨と冷たい闇とを挟んで、二人の間には息詰るような沈黙が流れていった。
すると、背後に跫音がして、ひとりの警部補がヌウっと顔を突き出した。
「君、どこかに首なしが、上がったと云うじゃないか」
ところが、その警部補は不思議なことにも、男の横顔に、凝っと視線を据えたまま動かない。その顔には、なかば驚きを交えた、複雑な色が掠めてゆく。そうして、なにやらもそもそと語り合っていたが、やがて船員に、もう一度発船するように命じた。
「有難い、助かった。君は、なるほど話が分るよ。オイ、東京市橋梁課のお役人、ふ、舟を出せ」
その男は、再びもとの酔いどれ口調に返って、襟を立てながら渡舟のなかに蹌踉き込んだ。巡査は、なにか得体の知れない魔性の霧に包まれたような気がして、しかし、屍体はあるぞとまた現実に戻るのであった。
水量の増した、河面をゆるく推進機が掻きはじめ、この神秘の男を乗せた、船尾灯が遠く雨脚のなかに消えてゆくのだった。
「江藤警部補、これはいったい、どうしたということなんです。貴方は、あの不審な男を渡船に乗せてしまって……」
その若い巡査は、やっと夢から醒めたように、警部補になじりかかった。しかし江藤警部補は、いきまく部下を、優しく宥めるように見て、
「なるほど、事情を知らん君は、そう思うだろうがね。いまの男を、君は誰だと思う。知っておるじゃろう──つい四、五年まえ、主任検事級で鳴らした左枝八郎という方を……」
「ああ、左枝八郎……」
しかし巡査にとると、いまの男が左枝八郎であるということは、むしろ無名氏で置くよりも、いっそう不可解なことだった。
「だが、どうにもそれは信じられませんよ。あの変りかたは、いったいなんということです。左枝八郎ともあろう人が、『欧航組』の、組織を木葉微塵に叩き潰した方が、なんという……」
「そうだ、あの方がああなるについては、いまの、『欧航組』の大検挙に原因があった。──それでと云うても勤務中だが、君に警察医が来るまで、かいつまんで話してあげよう」
それから、本庁への報告、水上署への手配が終ると、二人は並んで舟待の腰掛に腰を下した。風が凪いで、波に隠れていた、渡船の灯がまた現われた。
「その、『欧航組』というやつは、君も知っとるであろうが、以前船員だった連中が企んだ、大仕掛な密輸団だった。おまけに、港々には、春婦宿を経営していたし、大規模な、世界を股にかけた、人肉買売までもやっておった。ところで、その組織を云うと、四人の秘密組合になっておってな。そのなかで、高坂三伝というのが、マア首領株で、他にはたしか──それが、三、四、五と順になるような名前じゃったと思うたが──それぞれ船場四郎太、それから矢伏五太夫、もう一人は、ちょっと度忘れしたが、そうだった、成戸六松というその四人じゃったと思うたよ。ところが、しまいには、仲間割れをしおってな。なにしろ、その三伝という男が、冷血なことこの上なしという辣腕家だったで、自然独裁の形にもなるし、他の三人も、自衛上三伝と対立するようになった。つまりが、勢力争いじゃ。そうして、感情やら、利害の衝突やらがつのりきった結果が、誰も知るとおり三伝の死ということで終ったのだよ。それも、一味が検挙されてから、はじめて分ったことで、三伝は横浜の事務所で、矢伏五太夫のために心臓を狙い撃ちにされた。屍体はそのまま、窓から海に落ちて分らずじまいになってしもうたが、いや三伝の死は、無類この上なしという確実なんじゃ。まさか、射ちはしまいと、軽く考えていたのじゃろう。三伝はせせら笑って、弾莢までも調べさせ、サア射てとばかりに、麗々しく胸をはだけたそうだ」
「なるほど、度胸も相当だし……芝居気たっぷりな奴ですね」
「なにしろ、鬼も怖れるという、仏領カレドニアのアンチモー鉱夫を志願したほどで、それから欧州各地を流れ歩いていたのじゃから、腕も度胸も、三伝だけはまったく群を抜いておったよ。ところが、多寡をくくって、よもやと思っていたやつを、矢伏が狙いを定めて、ドカンとやってしもうた。三伝は、あっと叫んで心臓を押えたなり、窓から海中に転げ落ちてしまったのだ。ところが、さて検挙してみると、三伝が保管していた、一味の利得金の所在が分らない。だが、それはまだまだ、手軽な方でな、後で曝け出された事実というのが、比べもつかんほど奇怪なことじゃった。矢伏に、死刑が執行されてから、ちょっと後の話で、意外にも、保釈中の船場四郎太が拳銃で自殺を遂げてしもうた。
──犯人は俺じゃという、遺書を残してな」
三伝、四郎太、五太夫、六松と、偶然にも三・四・五と揃った「欧航組」の幹部が、ひとりは仲間に殺され、ひとりは死刑になり、もう一人は、遺書に告白を記して自殺を遂げてしまった。
そうして、残る成戸六松の一人だけが、四年の刑期を豊多摩刑務所で送っているのである。「欧航組」は、こうして壊滅した。けれども、その終焉を、いと朦朧とさせているのは、一つの殺人に、下手人が二人現われたということである。生憎、屍体は海中に落ちて、発見されなかったのであるから、三伝が、二つの弾のどっちの方をうけたのか、また、その二つが二つともという場合もあるだろうし、もし屍体があがれば、体位からでも推定できることであるが、いまはその証明が全然不可能になってしまった。が、一方に、また船場の遺書を見ると、その疑問を、やや解き得たかのような気もするのだった。
「そこで、遺書の内容を云うと、たぶんこんなことが書いてあったと思うよ。矢伏の手が顫え、腕にも安定がない。たぶん弾は、肩を掠めて後方に飛ぶであろうから、自分が彼に代って狙撃をした。それは、ほとんど矢伏の発射と同時であって、居合せたのも、私が狙撃をしたことを知らなかったようである。というんだが、わしはなるほどと思った。要するに、問題は撃ち手の腕にあるのだからな」
屍体の菰に船蟲がざわざわざわめく音が、この奇怪な話にいっそうの凄気を添えた。しかし、若い巡査は、眼を眩しそうに瞬いて、
「ですが、居合せたもののなかで、誰かその辺の機微を、知っている者はなかったのでしょうか」
「ところが君、耳というやつはじゃよ。両側で、同時に非常な高い音を出された場合、その人間には、音の見当というのがてんで付かなくなってしまうそうだよ。そのことは、居合せた証人で、抱え淫売婦のお悦という女が証言しておる。それに、船場の女中の話によると、その遺書は、わずか五、六分の間に認められたのだし、むろん、筆跡には寸分の相違もないし、そうこうの事で、左枝検事はポンと辞表を投げ出してしもうた」
「自分が起訴をして、死刑になった男が、無罪という……。そりゃ、左枝検事でなくても、たまらないでしょうからね」
「それで、職を退いた後の左枝検事は、自暴自棄という有様で、奥様には去られるし、もともと資産というほどのものもないし、今では、どうして暮しておられるのか、まったく沙汰の限りじゃよ。ああ、憔悴れ果て、うらぶれた姿を見たら、誰が、法衣に包まれた昔の検事を思うじゃろうか。だが儂には、そういう気持が、てんで分らんがねえ。自分の起訴が正しかったか正しくなかったかって。ハハハハ、あの御仁は哲学者じゃよ」
そう云って警部補は、さも自分には、左枝の辞職が腑に落ちぬといったような素振りを見せた。しかし、若い巡査には、左枝の苦悶も、呵責にひしめくような有様も、しかもそうしていながら、なにかを凝然と見詰めているような気がしてならなかった。
「私は左枝検事に、なにかあの方だけが疑問に思っていることがあるのじゃないかと思いますよ。人間の力では、とうてい割り切れない問題を、あの方だけは、御自身でやり遂げようとなさっているのではないでしょうか。それに……」
と云いかけて、巡査はハッとしたように口を噤んだ。二人の間には、時代の隔たりがある。まして、上司である警部補にそれを云うということは、今の身分として、はなはだ当を得たことではない。彼は、左枝八郎の姿に、悲劇的なものを感じながら、それから黙々と考えはじめたのである。
われわれは、常に過失を犯している。
しかし、検事の起訴理由には、寸毫の謬りもないのである。
船場四郎太が、遺書に告白を残して死んでいったということも、人であり、神でないかぎりは窺うことさえ出来るものではない。まして、矢伏の犯行には、自白を伴っている。いわば、それは確実以上の事実である。それを一瞬の間に、覆してしまうような、怖ろしい力が現われたとき、人は不可抗とだけで、悔いの欠片も残さずケロリと断念めてしまうものである。
人間は、自分の力の限りというものを知っている。
けれども、稀に出る、高い稟性を持つ人物というものは、よく自分を、人間以上のとんでもない位置に置きたがるものだ。検事の苦悶も、呵責も、実にそこから発しているのではないか。彼はいま、不可抗と闘いながら、路傍を彷徨っている。人が裁くか、神が裁かれるか──それこそ、人間の一番な壮烈な姿であろう。
と、やがて若い巡査には、ひしと胸を打つ、ひたむきなものが感ぜられてきた。ところが、ちょうどその頃、左枝八郎を送り届けた洲蘆の出島には、陰々と闇にひしめく悲劇の兆しが濃くなっていったのである。
その、出島にある猟館には、仏蘭西大使館の司厨長中村銀次郎が住んでいた。と云うよりも、ただ台帳にある、名のみというのを便宜にして、こっそり彼はまた貸しをしているのだった。そしてそこには、三伝の妻お勢が住んでいて、秘かに営んでいる春婦宿になっていた。
そのお勢という女は五十に近く、三伝とともに、永らく欧洲各地を放浪した札付きであるが、三伝の変死当時は上海にいて、しかも多情、その三伝の死も、暗に糸を引いてお勢が三人を踊らせたのではないかと云われている。
大戦当時、伯耳義で独逸兵の輪姦をうけた彼女は、脊髄に変化が起って、歩くのにも異様なガニ股である。しかも、歯がないせいか、顔が奇妙な提灯のような伸縮をして、なんとも云えぬ斑点のような浸染のようなもので埋まっている。
それは、駆黴に使った水銀のせいとも云えるが、またこの顔は、永い醜行と悪行との現われのようにも考えられるのだった。
左枝八郎は、いま枯菅を踏みながらこの猟館へと歩んでゆく。
しかし読者諸君は、自分が剔抉し撲滅したこの一団に、なぜいま、左枝が訪れようとするのか疑念を持たれるだろう。けれども左枝八郎とこの一味との間には、とうに、それまでに異様な繋がりが出来ていたのである。
その、そもそもの始まりというのが、今年になってから最初の雪の夜のことだった。左枝はただ引かれるもののように、洗足の五太夫の家を訪れた。
当時矢伏は、すでに刑死台にのぼっていて、遺族としては早苗という一人娘がいるだけであった。
その早苗は、どこか神経的な凝視的な影のある娘で、美しくはないが、清麗さにかけては万人に優るものがあった。
「ああ、また家宅捜索でございますの」
早苗は左枝を見ると、冷やかにそう云ったが、彼女にとって、実に出来ることなら飛び退きたいようなこの男が、どうしたことだろう唖のように口を噤んでいるのだ。顔には、悲痛の色が漲り、咽喉は撚れ合う縄のような筋が張っている。
時が流れる、彼は唇を開こうとはしない。
窓をサラサラと粉雪が掠め、早苗は、この沈黙がやがて薄気味悪くなってきた。
「なんでございますか、もしなんぞ、御用件がおありでしたら」
「実は」
と云って、左枝は重たそうに口を開いた。額には、はぜた粟粒のような汗が泛んでいる。
「今夜お訪ねをしたわけは、貴女なら僕をお救け下さるだろうと思ったからです」
「な、なにをおっしゃるのです」
この思わぬ言葉に、早苗は、相手の眼のなかを窺うように、覗き込んだ──ひょっとすると、この男は狂人になったのじゃないかしら。
「貴女が、僕をどう思っていらっしゃるか……。僕は、貴女のお父さんを起訴して、絞首台に送りました。しかし後で、その事実が、間違っていることが分りました。貴女はお父さんが、理由のない首を絞められたのを御存知でしょう」
「いいえ、そのことについては、私、少しもお怨みはしておりませんの、何事も、運命ですわ。それに、父の方だって、私の知らない間に、大変悪いことをして……」
「では、僕が控訴したのをお忘れになったのですね。それがあったばかりに、一審の有期刑が、どうなったと思います? もし僕が、お父さんにそのままの服役を許したとしたら、船場四郎太の告白で、殺人の罪が消えてしまったことになるのです。御覧なさい、この手です。この手が、むざとせっかくの機会を捥り取ってしまったのです」
すると早苗の顔に、サッと血の気が上った。
いまの一言で、彼女は水を吹きかけられたような気がした。
けれども、なによりいっこうに解せないのは、この男が、憎め憎めと云うように唆りたてる態度だった。
「貴女が、どこにこの不幸の根があるか──知らぬはずはないと思いますがね。いざ、死なれてみると、貴女は蓄財のないことがお分りになったでしょう。どうしたら、これからやってゆけるのか──それだのに、自分をどん底に突き入れた男の顔を見ていても、唾一つ吐きかけるでもない……」
そうして女の顔に、憎悪の色がようやく仄見えてきたとき、意外にも、男は張りの弛んだような吐息を洩らすのだった。
彼は、職を退いてからも、どうしたら、心の亀裂を埋めることが出来るかと考えていた。
自分はいま、一つの罪を感じて自分の魂を苦しめている。理由のない、良心の呵責に悩み疲れている。理由はない、まさに確然と理由はない、それであるのに……。どうして、懲罰とか贖罪とかいう意識がさき走ってくるのだろう。
それが左枝八郎の、どこか頭の隅に棲んでいる、地蟲のようなものだった。いわばそれは、水に姿を映してそれに恋をする、ナルシサスの理想の我であった。そうして彼が、絶えずその強い衝動と闘っているうちに、いつの間にか、自分を虐げることに異常な興味を覚えてきた。
卑屈になる、貧乏になる、人に蔑まれる──自分を狂気から救ってくれる道が、ただそれだけのように思われてきた。
「あれからの僕も、そりゃ惨めでしたよ。したい三昧な事をして、わずかあった、金になるものもことごとく失いましたし、しまいには、家内の着物までも裸かにして──その時、僕は独りぽっちになってしまったのです」
それを聴いているうちに、早苗の表情がだんだんに硬くなっていった。彼女は、眼を桟の雪に据えて、凝っと考えていたが、一度はうるんだ瞼も、やがて涸々になった。
掻き立てられた憎悪に身を切るような思いを耐えても、早苗は、もうこの男を容赦しないぞと心に決めた。
彼女は、絶望のなかでもそれだけが、はっきりと光明であるのを知った。自分の肉体を投げ出して、この男を堕ち切るまで堕落させるのだ。無頼な、恥も矜持もうけつけない、腐敗したような性格を作り、しまいには、この男に犯罪までも犯させると──早苗は、父の幻と重ねるようにして、今が、遁してはならぬ復讐の時機だと考えた。
「でも、そんなことより、貴方には復職のことが大切じゃございませんの。四郎太の遺書が、もしかして偽造とでもなったら、その悪い夢もきっと消えてしまうと思いますわ」
「ああ、あの遺書がですか、だが僕には、遺書よりも、もっと大切なことがあるのです。それは、船場という男ですが、あの人間には、悔悟とか自殺とかいう性格は、微塵もありませんからね」
左枝の眼が、ほんのりと輝きを帯びてきた。
それが、まるで二重人格のように、それまでの彼にはけっして見られなかった、一種異様な鋒鋩の閃きなのであった。
法庭に天降ってくる、神の光のように、人の運命を秤るときのあの俤が……。けれども、それは間もなく消えて、左枝の身体には、痙攣のようなものが起ってきた。
「それに、僕は卑しいでしょう。あれから賭博もしましたしね。ところが今夜は、それ、こんな風に勝ってしまって……。だが僕は、しかし、一文なしです。これから帰るには、貴女に御拝借をしないと……」
この、例えようもない、解しようもない矛盾に、早苗もしばらく眼を睜って男の顔を見詰めていたが、やがて左枝は、取り出した札束にアッという間もなく火をつけた。
焔が消えると、そのうえをグイと踏みつけて、
「ねえ、どうかお願いです。僕に、帰るだけの金を、貸しちゃいただけませんか。投げて下さい。床に、乞食に投げるように、チャリンと音をさせて下さい」
そうして、呆気にとられた早苗の手から、二、三枚の銀貨を握ったとき、左枝は突然、脳に灼熱するようなものを感じた。
一瞬の間に、苦悶も不安も何処へか飛び去ってしまい、ただ漲るのは、それまで知らなかった異常な活力だけであった。
しかも、激しく押し迫る破倫な衝動のために、いきなり彼は、早苗の手を捉えてグイと引き寄せた。ところが、早苗は振り解こうともせず、まるで、寝た振りをした子供のように抱きすくめられた。唇の端には、無恥な、挑むような、狡そうなものが、そして、眼には、湿けた、暗い水の粒が宿っている。左枝は、いったんは感じた女の顫えが、やがて、消えてグッタリとなったのを知った。
翌朝左枝は、全身が粉々になったような思いで、起き上がった。同じ布団、同じ掻巻にくるまって……電燈は消え、窓は雪明りでほんのりと明るかった。
しかし、不思議な一夜が明けると、一人は憎悪のために、一人は、愛すでもない異常な目的のために離れられなくなった。
早苗は間もなく、生計のために三伝の妻を訪れて、その、出島にある春婦宿で働くことになった。前検事左枝はそうして、早苗が身を削る、いくばくかの金で養われることになったのである。
彼女からは、絶えず鞭のように、憎悪と蔑視とが飛んでくる。出島の一味からは、かつて鉄槌を下したその人の末路かと嘲られる。けれども、もしそれが仮りになかった時のことを考えると、おそらく左枝は、あの衝動と闘うために、気が狂ったのではないだろうか。
左枝はいま、雨沫を浴び、微かに洩れる猟館の燈を目指して歩んでゆく。と、ちょうどその頃、お悦という姐さん株の一人が、早苗と湯気に煙る窓越しの雨を眺めていた。
「ねえ、この淋しさったら、お話しじゃないじゃないの。橋が落ちて、渡船が出来てからは、なんだか、人別を見られるようで気が引けるって、客足は落ちるし、こんな雨の日なんかは、三伝さん御全盛の、あの頃を想い出すよ」
その、坂東お悦という古顔の女は、これまで三伝のもとを一日も離れたことはなかった。丈が低くて、まん丸こくって、太い咽喉がいつもベトリと汗ばんでいる。そのくせ、齢の割に皮膚が艶々しく、どこか娼婦というよりも喰物の感じが強い女だった。嘘吐きで、お人好しで、人に瞞されやすく、自分の行為に、善悪の識別というものを持たない。彼女は、恩顧をうけた三伝を裏切って、彼が来たことを他の三人に内通したのであったが、その後は、まるで何事もなかったかのように、お悦はケロリとしているのだった。
「当時『船』と云や、もぐりの遊び場の中で、歴としたものだったよ。いまと違って、組が二つほどあってね。『白星組』に『青いリボン組』という、女にだっても、やれ『金の矢』とか『銀の翼』とか、いちいちそれは穿った、船の名前がつけられていたんだよ。それに、お前さんのようなのを小蒸気と云ってね。『水精の蕊』なんて源氏名があったものねえ」
「じゃ、そのとき姐さんは、なんという名だったの」
「私かえ、私は、『ブーランジェ将軍』号さ」
そう云って、しばらく咽喉の奥でクックと含み笑いをしていたが、お悦は、急に何事か思い出したとみえて、
「どう早苗ちゃん、成戸はまだ帰って来ない。淋しいの、お茶引きだのといったところで、こんな渡世も、もう今夜限りだものねえ。私だって、きょうという日を、どれほど今まで待ち焦がれていたか知れないんだよ。誰が、好き好んでやってるわけじゃあるまいし、出来るものなら、さっさと足を洗いたいじゃないか」
それは、ひとりお悦ばかりでなく、その日が来ることは、一味にも再生を意味するのだった。
と云うのは、大検挙の際、所在不明を伝えられた利得金が戻ってくるのであって、それは三伝が、ある銀行に変名で預け入れてあったのである。それを、一味三人が、とうとう秘し了せてしまったのであって、昨夜成戸六松が、ひさびさで娑婆の土を踏み、いよいよその金が、四年ぶりで陽の目を見る。
今夜は、温かい、黄金の雨が降るであろう──お悦の二重顎がぶるると顫えたが、早苗は、それを聴くと陰気そうな顔で黙ってしまった。
「私はね、分けて貰った金で小商売でもしたいし、当分は身体の方も労ろうと思うの。それよりね、そんな事が、いつまで続くとは考えていないさ。第一、私の身体には、稼がないと脂肪がついてくるんだものねえ。オヤ早苗ちゃん、そんな陰気な顔をして、どうしたっていうんだい」
お悦は、早苗の顔をしげしげと見入っていたが、いきなり吸いかけた莨をポンと捨てて、
「お止し、いい加減におしなよ。お前さんの執念深さにも、つくづく呆れがきたよ。お前さんが、あの人を堕落させて、そのうえ、罪でも犯させて嗤ってやろうという魂胆は、そりゃお父つぁんのことを考えりゃ、けっして無理とはいわないよ。だけどさ、そんな事になったら、第一、お前さん自身が片なしになってしまうじゃないか。ねえ、少しは自分の胸にも、聴いてみるもんだよ。早苗ちゃん、どう、これが私の邪推かしらん。お前さんは、この頃変ってきちゃいないかい。もうあの人を、憎んでばかりいるんじゃないだろうね」
云われて、早苗が狼狽の色を隠せなかったほど、お悦は彼女の心の核心を突いたのだった。
異常な関心を、一人の男に持ちつづけてきたことが、今になってみると、ただ膠着という結果よりほかにないのだった。最初抱いていた、あの熾烈な憎悪も、近頃ではどうやら惹き合うものが現われてきて、早苗は、愛憎並存の異様な心理に悩むようになってきた。
しかし、お悦の言葉には、強く頭を振ったのである。
「なにを云うのかと思っていたら、姐さんも、案外心理学者ね。だけど、私の気持おんなじよ。たとい、お金を貰ったにしろ、この稼業は当分続けてゆこうと思うの」
「マア、呆れたよ。すると、お前さんのような人間が、ほんとうの淫売婦なんだね。お金を持っていて、どうやら暮してゆけるくせに、それでいて、男を道楽したいというのが、ほんとうのお女郎なんだよ。それじゃ、私から相談があるんだけど……」
とお悦の唇が、いきなり濡れてきて、眼に肢体に、開けっ放しの淫らがましいものが輝きはじめた。
「それは、ほかでもないんだが、もし、その早苗ちゃんの心が、変っていないんだったら、いいじゃないか、最後の晩だからさ、今夜だけあの人を私に貸してもらえない?」
早苗はその時、お悦の糸切り歯が怖ろしく思われたほど、彼女は退っ引きならぬ土壇場に立たされてしまった。
しばらく彼女は、瞳を定めて凝っと考えていたが、みるみる、顔が縄のように引き緊まってゆく。切迫した、喘ぐような、内心でなにかと闘っているような表情をしていたが、やがて、笑いの消えた顔を、懶そうに縦に振った。
「そうかい、済まないねえ。私だって、あの前検事殿には、満更でもなかったんだから。それはそうと、お女将さんの許から、稲野谷というあの情夫、帰っただろうか」
その稲野谷という男は、女将お勢の、情夫というよりも男妾のような存在だった。ところが奇怪なことに、誰もその男の顔を、一度も見たものはなかったのである。それに、いつも来るときは、こっそりと裏口から入って来て、帰ってゆく後姿は一、二度見られたけれど、それがどんな顔か、誰も真実確かめたものはなかった。
しかも、より以上奇怪なことは、その男が来るのは冬だけに限られていて、十一月から二月の末までの、一定の季節があるということである。
それで、その男が、どこかの定期的な航路通いではないか──この魔窟には、そういう噂も立てられていた。
しかし読者諸君は、その稲野谷という一人物によって、はじめて本篇に水勢が加わったことを察せられるであろう。誰も顔を見たものがない、しかも、来るのに不思議な季節がある。
「ああ、あの人なら、先刻九時半頃窓越しにちらっと帰る姿を見たわ。たぶん終発の一つ手前あたりで間に合ったんじゃないかしら、アッ姐さん、お女将さんが呼んでるわよ」
それから連れ立って、お女将の部屋に行くと、そこにはお勢と成戸六松が紙のような顔で向き合っていった。
お女将が、なにか云おうとしても、声は歯音に消されて聴えなかった。
「お悦ちゃん、大変なことになってしまったんだよ。本当に、私たちを信用しておくれね。とても、夢でもなけりゃ、信じられない事が起ってしまって……。実はお前さん、先刻成戸さんに、金を取りに行ってもらうと、銀行じゃ、それを四年前にお渡ししてしまったと云うじゃないか。その渡した日というのが、三伝が死んでからちょうど四日目のことで……それも、受取った当人が……お、お前さん、しっかりしておくれよ……それが、さ、三伝だと云うのさ」
「え、三伝が生きていた……」
これには、さすが野放図なお悦も、愕然と色を失った。夢ではないかと身内をま探っていたほど、それほど三伝の生存は信じられなかった。心臓を撃たれた──それには今でも、色や幻がはっきりと浮び上がってくる。
彼の死には、人間の生理が一変してしまわないかぎり、どこにも、疑義の欠片さえ差し挟む余地がないのである。
七日後に、蘇った基督があるというけれど、三伝のそれは……幽霊か、他人の変装か、それとも彼は真実蘇ったのであろうか、と、四人は、三伝の風貌を眼のあたりに思い泛べるのだった。
鼻の丸い、卵なりの輪郭をした、どこか病的らしい暗黄色の、それでいて、人を食ったような三伝の顔が、いまは仄かに陰火をめぐらす怖ろしげなものになってゆく。そうして、この室には、しんしんと犇みゆくような沈黙が続いてゆく。
「あの男なら、俺らに仕返しをやりかねまいぜ。だが、あいつが生きているとは……。とにかく、ここに四人いるからなア──お女将に、俺に、お悦に、それから左枝だ」
雨が小止みになって、どこかの床の下で、地蟲がじいんと鳴いている。それも、成戸の顫えがやまぬ声も、三伝が、秘かに楽しんでいる復讐の前味のように思われた。そこへ扉が開いて、泥のように酔った、左枝八郎の姿が現われた。
「ホウ、こりゃなんとしたな。一家眷族が、残らず一堂に揃って、鉛色の顔をしておるが」
左枝の、支える側から流れてゆく、跫音のみが高く、この一座はあまりにも閑そりとしていた。お勢の、壁虎の背のような怨み深げな顔……、成戸の、打算に長けた白々とした眼も……苦々しく、打衝かり合うが、言葉は出ない。
「それは、三伝がね」
お悦はいまの話も、どうやら成戸の細工のように考えているらしい。
「あたいは、何が何だかいっこうに分らないんだけど、とにかく成戸さんが、ドロドロだって云うんだからね。莫迦にしてるじゃないの。高坂三伝が、三伝が生きてるんだって。三伝が、死んで四日目に銀行へ現われたんだとさ」
「そうか、ついでに何かと思ったら、お化け話か。三伝が、三伝が現われた、死んだはずの、高坂三伝が、蘇ったときたな」
異様なリズムを帯びて、唱い廻すような左枝の声が、ふと杜絶えたかと思うと、その、とろんとした物懶そうな眼に、なにやら真剣なものが輝きだしてきた。
(心臓を叩き抜かれた、墓場にいるはずの三伝が蘇ったなんて、なァるほどこの貉ども、利得金をひとり占めにしようとして、芝居を仕組んでいるな。だがもし、それがまっこと、真実としたらどうだろうか。三伝が生きて──もしそうだとしたら、たぶんあるにちがいない奸黠な綾のなかに、船場の遺書も自分の苦悶も、みな筋書のようにして織り込まれているのではないだろうか)
と、いつか彼には、莫迦げたその物語が光明になるのではないかと信じられてきた。しかし、そうして一方に理性が擡がってくると、また、そう考えることが迷信のような気がしてきて、結局彼には何事も信ぜられなくなり、やはり濁った、もとのあの眼に帰ってしまうのであった。
「だが、そんな怪談噺よりも、僕はいま正真正銘のものを見てきたんだ。それが、ここへ来る終発の渡船だったんだが、ひとり殺られたらしい男の屍体があってね」
と云う口の下で、お勢の顔色が紙のように変ってしまった。
「なに、男の屍体だって。左枝さん、まさかお前さんは、冗談を云うんじゃないだろうね」
「それどころか、曳舟の推進機で、首のなくなった奴を、この眼で見てきたんだ。下腹を一文字にやられてね、しかも、殺ったそいつが、左利きときてるんだ」
「ああ、それじゃ稲野谷……」
お勢が身悶えをして、絶え入るような叫びをあげた。すると、それを聴いたとき、三人は、ハッと打ち据えられたように、顎を竦めるのであった。
ああ、なんという符合か、三伝は左利きなのである。
しかも稲野谷兵助は、ついぞ先刻、終発間近にこの家を去ったわけではないか。
ここに、なかば信じられ疑われもしていたところの、三伝の生存に、ようやく確信が植え付けられたのである。彼は、この一夜を踏み出しにして、裏切られ、死地に追い込まれた一味に、復仇を遂げようとするのではないか。それは沈黙のなかを、虚空から凝っと見詰める眼があるような気がして、なにか由々しい怖ろしいものがぞくぞくと身のうえに襲いかかってくるような感じだった。そうしてその一夜は、地蟲の声とともに、夜陰を深めてゆくのである。
ところが、それから二時間ばかり経った後に、左枝は、灼きつくような渇きにふと目を醒した。
さっきのあの室で、椅子に酔い潰れたような気もするが、それから何処へ運ばれたのか、いっこうに覚えがなかった。部屋は薄暗く、水色の覆いが掛っていて、肩に腰に、妙に媚めかしい、ぬくもりが触れてくる。
ハハア、早苗の部屋だな──そう思って、相手のくるぶしに合せて、ぐいと伸びをした時、いつもなら、胸骨の上あたりを撫でる頸筋の後れ毛が、今夜はずうっと下って、乳辺にあるのに気がついた。
饐えたような、髪毛の匂いがぷうんと鼻を衝く。
お悦だ──と彼はそうと知ると同時に、なぜ自分が、ここへ運ばれてきたのか、不審に思わないわけにはゆかなかった。
すると、その時壁一重の向うに、誰やら、コトリコトリと歩き廻るような音が聴えてきた。今夜は客もない、真暗な隣室に──と思うと、われにもなく、三伝という異様な動悸が弾んでくる。
しかし、なおも耳を澄すと、それは隣室ではない。この室の、しかも間近である。
そうして、お悦の肩越しに、寝台の床を覗き見ようとしたとき、彼はそこに見た、怖ろしい何ものかに身を竦ませたのである。
お悦の胸には、細い機械錐のようなものが心臓深めに突き刺されていて、そこから、真紅の泉が滾々と湧き出してゆくのだった。
敷布の先を伝わって、雨滴れの合間を縫って……そうしてその時も、地蟲の嗄れたような声を聴いたのである。
緋の地に、源氏車を染め抜いた床着にくるまって、お悦はまるで眠っているように死んでいた。顔には、少しの苦悶の影もなく、もし、それにちょっとでも触ったら、唇が、また綻びそうである。が、左枝は、腕を組んで、まじまじと考えはじめたのであった。
「床の中で、昇天してしまうなんて、いかにも此奴、淫売らしい死に方だぞ。だが、この室にいたのは、自分よりほかにない。同じ床、同じ夜着のなかで……いかに酔っていたとはいえ、この女の死を、知らぬと云いつづけられるだろうか」
寝台の側には、三稜の立鏡台があり、洗滌器や、壁にはいろいろな酒を入れた、護謨製用具がいくつとなく吊してある。窓は、内側からかたく鎖されていて、扉は押しても引いても開こうとはしない。おまけに、鍵穴には鍵が突っ込まれ放しになっていて、これでは、外から鍵を動かそうとしてもとうてい無駄ではないか。
ああ、この室は、密室だったのである。このままの状態では、出るも、入るも出来ないはずである。それだのに、何者かが、お悦の心臓を貫いてしまっている。
自殺ではない。
この女には、船場と同じように自殺するような性格はない、と、左枝は、知らずに重ねてゆく、莨烟のなかでまったく途方に暮れてしまった。
事実それは、もし現代の世に、妖術というものが実現されたときのような状態であった。頭が重く、顳顬の辺が灼けるように疼いて、左枝には、花瓶の柔皮花の匂いもいっこうに感ぜられなかった。
が、この惨劇を、他の三人に隠しおおせることはできない。
「僕が殺した、溝をきれいにした……。こんな淫売の、一人や二人がどうしたってんだ。妙な顔をして疑っているくせに……オイ成戸君、殺ったのは、この僕なんだよ」
三人の顔を見て、彼は堪らなくなったように、叫び立てた。六つの眼を──敵意と疑惑に燃えた、その六つの眼を見ているうちに、早苗からは最終の審判を、他の二人からは、報復の色が窺われるのだった。
「そりゃ、分ってるさ。誰も入れないこの室のなかで、お前さんのほかには、殺せるものがないんだからね。ねえ成戸さん、いったい此奴をどうしようかね」
お勢が、左枝と成戸を等分に見比べながら云うと、
「ですがねえ女将、此奴がお悦を殺した、理由が分らねえように思うんだ。云わせたら、どうでしょうね。オイ左枝、何もかも、ここで打ち明けてしまったらどうかね」
「吐くとも、腹の底まで吐いてしまうよ。そこで、まずこの機械錐だがね。君も見るとおり、一抉りというにしては、少々先が鈍すぎるんだ。こんなもので、お悦の眼を醒まさずに、やり了せられると思うなら、それは君の方から伺いたいものだよ。ハハハハ、いくら鈍いお悦の神経だって、これじゃ、どうやら魔睡が必要になってくるぜ」
と、躊ぎはじめた成戸六松の顔を、相変らず、左枝は死んだような表情で見詰めている。鈍い、黄味がかった盲人の鞏膜のような、しかし、ぼやついたその靄の奥には、いつでも踏みこらえるような不思議な力がこもっていた。
「だから、白状すると、犯人はこの僕じゃないということになるんだ。僕が、どうして殺るもんか。君は、この女を、人世の虱を──僕が捻り潰したとでも云うのかね」
「いいえ、貴方ですわ」
早苗のその声は、低いが、しかし異様な張りを帯びていた。
「ここへ連れて来られるとき、貴方は前後不覚だったじゃないの。間違えて……、ほんとうに、姐さんの可哀想なことったらね。私と感違いして、顔もろくろく見ずに、貴方が殺ってしまったにちがいないわ」
「さ、早苗」
これにはさすがの左枝も、溢れてくる困惑の色を隠せなくなってしまった。
いよいよ最後の時が来た。
この女の胸には、これ以上、めくる頁がなくなってしまったわけだ。
「どう、白状したら……、でも、いい醜態じゃないの。自分がさんざん、罪科もない人たちを、見下していたんだからね。その台の下へ、いまに御自分が立つんでしょうからねえ」
その、怨み深げな早苗の顔が、ぐうっと迫ったように思われたとき、彼は意外にも平然たる口の利き方をした。
「じゃ早苗、すると君は、僕がこの室を出て、お悦を射殺してからまた入って来たと云うんだね。だが、僕のどこに、そんな銃器があるだろうか。君はお悦が、どうして殺されたかも知らないでいて……」
「なに、銃器」
この、あまりにも意外な、強弁としか思われぬ言葉に、お勢も成戸もアッと驚きの声を洩らした。
すると左枝は、右側の羽目にある、よく見ると、色が変っている嵌め込みを指差した。そこは、よく魔窟にある、「魔鏡」に類したもので、色のよく似た、護謨板が嵌め込まれてあった。
けれども、埃の様子を見ても、最近に取りはずしたような形跡はないのである。
彼は、そこにある針先ほどの孔を示して、
「君、少々講義めくがね、これでも、前の商売のことは、いくらか憶えている。それによると、四百米の速力で、厚さ五粍の護謨板を射撃したとき、そこには、わずか帽子ピンほどの孔しか明かなかった。もちろん、距離に比例して穴は大きく、先端の鋭鈍いかんにも、関係はあるがね。しかしこの機械錐では、針先ほどの孔が当然だと云いたい。どうだ、君か、それとも女将、君か。まさか、早苗じゃないだろうね。消音機をかけて、角度が分っている、この胸を射抜いたのは……」
そうしてついに、お悦の死が密室の殺人ではなくなってしまった。
それが、お勢か、成戸であろうか、早苗であろうか、──それともなると、ふたたび三伝の張る、翼のような影が下りてくるのだった。
稲野谷が殺され、それから、五時間とは経たぬ間に、今度はお悦が斃された。ひとりは密通、一人は裏切り──その嗤いが、微かな余韻のようなものを引き、成戸は、たまらなくなったように地蟲のいる床のうえを踏み付けた。
それで再び、この室は死人と二人だけになってしまった。
「ハハハハ、莫迦め。この機械錐が発射されて、あんな小さな孔だけですむと思うか。やはりこの室は、蟻も入り込めぬ密室に変りはないのだ」
そう云って、隠していた小刀の錐を、ポンと床のうえに投げ捨てたが、そうして、彼の詭策が成功したにもかかわらず、またもとの憂鬱な表情に帰ってしまうのだった。
けれども、高坂三伝が蘇ったということは、これでほぼ確実にされたわけである。彼以外に、彼を除いては、密室を切り破るなどという、離れ業が演じられようか。船場の遺書も自分の運命も──と、左枝は心に、なんとなく曙のようなものを感じてきた。姿のない、地蟲のような三伝に、彼は必死の闘いを挑む決心をしたのである。
やがて、夜が白々と明け初めてきた。
潮鳴りがして、雨を含んだ重たそうな雲が低く垂れこめ、霧はまだ港を鎖ざしている。しかしその日も、迫る恐怖のうちに、やがて夜となった。
すると、彼が占めていた空き部屋の扉を、夜更けて、こっそりと叩く者があった。
「私、今夜はお詫びに来たの。実際、根も葉もない怨みを、執拗く思い詰めていて、今まで、私、ほんとうに悪かったと思いますわ」
早苗は真赤に泣きはらした顔を、左枝の胸のなかに埋めた。波形をなした線、柔らかな呼息、そうして丸い形と、高まった頂きを見せた固い乳房が、左枝を焦だたしいまでに唆りはじめた。
「私、いままで……。貴方を、なんとかしてしまおうとする時は、そりゃ可愛がってあげたの。また、可愛くって可愛くってたまらないときは、どうしても、表面は憎み足りないような、あんな所作をしていたの。でも、勘忍してね。私、もうどんな事があっても、一生離れたくないのよ。よう、どうしたの、そんなに黙っていて……」
左枝は揺すられるままに、しかし、眼を据えてじっと天井の一角を睨んでいた。それは、早苗が気づいたら、うち萎れてしまうような冷やかさだった……。
「だが、それは別として、君に訊きたいんだが、君は昨夜、瓦斯ストーブの栓に躓いたようだったね。それまでに、栓がどうなっていたか、気づかなかったかね」
「開いてましたわ、ごくほんの少しね。だけど……」
左枝はそれを聴くと、早苗の愛撫も忘れて、沈んだように考えはじめた。しかも鼻をひくつかせて、その部屋に漲っている、なにかの香りを嗅ぎ取ろうとした。しかしそれは、早苗にある石竹のような体臭ではなかった。昨夜はあの部屋で、いまここにもある、柔皮花の匂いをいっこうに感じなかった。それだのに、この室では、まるで早苗の情熱から逸散してでも行くかのように、涼しげな、清々しい花粉の香りがする。ああそれが、昨夜はなぜ、薫らなかったのであろうか。
「それから、もう一つ訊きたいんだが、君は一度でも、稲野谷の顔を見たことがあったかね」
「いいえ、顔は一度も見ませんでした。ただ一度、今年の正月でしたか、開橋式の花火をみんなが見ているとき、女将さんがいそいそと廊下を通りかかり、その時、帰ってゆくらしい後姿を見ましたの。中背の小肥りな人で、女将さんは、あの方を見られるのを、そりゃ嫌がっていましたわ」
すると、左枝はいきなり寝台のうえに起き直った。彼は、ぜいぜいと喘ぐような呼吸をして、瞳は、なにかの希望に燃え輝くようであった。
「分ったよ。早苗、昨夜僕が見た首無しは、ありゃア、稲野谷兵助じゃなかったんだ。この事件とは、まるで関係のない別個の殺人なんだよ。だって考えて見給え。体位から推してみたからって、どうして、背の高い三伝が、低いあの男の腹を抉れるものじゃない。それを今まで、どうして僕が迂闊にも見遁していたのだろう。もともと、一瞥くらいで特徴が分るものじゃないが、とにかく、首無しが稲野谷兵助じゃないと分った」
そうして、左枝の顔に、それまでにはなかったところの、悽愴な気魄が泛び上がった。輸贏をこの一挙に決しようとするのであろうか、突然立ち上がると同時に廊下へ飛び出した。
客のない、しかも、死人のいるその夜の廊下は、どこにも、ひしむような、冷たい闇が這い漂っている。
左枝は、お勢の室の前まで来ると、早苗を振り向いて、
「これで、分ったろうね。今夜はぜひ、女将を問い訊さなきゃア、ならないことがあるのだ」
しかし、扉を叩いても返事がなく、やがて階下の炊事場にいるのを発見した。が、お勢は、左枝の視線を見返して、
「だいぶ今夜は、お前さん、気込んでいるらしいが、なんだい、ここでお悦の身体を焼きたいとでも云うのかね」
「君に三伝を出してもらいたいんだ。どこにいる、あの稲野谷兵助は、三伝の別名じゃないか」
「え、なにを云うのさ」
それには、まったく意外という、その表情は、左枝に全然予期されていたものではなかった。
「お前さん、揶揄うのも、いい加減にしてもらいたいもんだよ。せめて、三伝がこの私だと云っておくれよ。知ってのとおり、あれまで上海にいたんだからね。顔も知られちゃいないし、せめて私と云うなら、ものの筋が立っているけど、お前さんのように、稲野谷が三伝だなんて云うんじゃ、私がいま、ここに竦んでいるのが、とんだ酔興ってことになるよ」
左枝は、杜絶れた言葉の間に、相手の顔の動きを凝っと見詰めていたが、
「今夜だって、そうじゃないか。いつ三伝が来るかと思うと……戸締りなんぞに頼れなくなってしまって……私はここで竦んでいるんだし……成戸は成戸で、今夜はお悦のあの部屋にいるんだしね」
と、その時、左枝の瞬きがふいに止まったかと思うと、側にある、瓦斯の計量器のうえに視線が落ちた。
どこかで細目に開いているとみえ、メートルの針が顫えるような微動を続けている。すると、みるみる間に、左枝は紙のように蒼ざめてしまった。
「女将、これで三番目だ。見給え、この指針の動きが、三伝の呼吸使いなんだからね」
その刹那、この地上における、ありとあらゆる物音が停ったように思われた。彼の言葉どおりだと、いま三伝は、この家の何処かにいなければならぬ。早苗は、恐怖にたまらず男の肩に獅噛みついた。
「じゃ、ど、どこにいるって云うのよ。貴方は三伝が、いったいどこにいるって云うのよ」
「たぶん、成戸がいる、お悦の部屋だと思うがね」
しかしその部屋は、昨夜と同じようにかたく尾錠が下されている。それも、鍵を鍵穴に入れ放したとみえて、合鍵では、尾錠が揺ごうともしない。金具が、仄かな暖もりをたたえ、瓦斯の燃える音が囁きのように聴える。
そうして、ついに扉が破壊されたのであった。
ところが、閾を跨いだとき、三人は、そのまま心動を停めたような駭きに打たれた。
そこには、昨夜と寸分も違わぬ状態で、成戸が床のうえに長々と横たわっているのだ。流れ出た血が、焔に映じて玉蟲色に輝いている。ああ、そうしてまた、その時も柔皮花の香りが鼻に触れてこない。
「殺人が行われるとき、その現場に限って、柔皮花が香りを失うとはどうしたことだろう」
彼は、その花粉の秘密を知ることが、結局、密室の謎を解く鍵ではないかと考えた。
花粉と密室、詩と機構──。
それが、神ならでは知らぬ久遠の謎のように彼を悩ました。
「女将、すると明日の晩は、僕か君かということになるね。なにも、そんなに顫えることはないだろうよ。七つの海を股にかけたお勢ともあろうものが、この期に及んで、なんという態だ」
その翌夜は、また誰かの血が、キラキラする陽炎のようなものを、立てるであろうと思うと、さすがの左枝でさえも、落着かず自制を失ったように見えた。ところが、夜になると、彼は再びお勢の部屋に現われた。
「むろん、これは確証というわけじゃないがね。しかし今夜は、とくと君に相談があるんだよ。僕は、いろいろに考えてみたんだが、どうやら、銀行に現われたのと、この三伝はちがうようじゃないか。ハハハハ、顔色を変えたって、もうどうにもなりゃしないぜ」
そう云って左枝は、血相の変ったお勢を、憫れむように眺めはじめた。ボウという汽笛、艙水の流れ、窓には靄をとおして港の灯が見える。
「最初から僕を悩ましたのは、なぜ兇行の都度に、柔皮花の香りが消えてしまうかということだ。僕はそれが、何かの中和現象じゃないかと考えたのよ。あの室に罩もっていて、覚られてはならぬ香りがあるのを……。オイ、遁げようたって、その抽斗に、何があるか僕にはちゃんと分っているんだ。ねえ女将、それを防ごうとして、君はあの室に柔皮花を持ち込んだんだ。あの香りは、エーテルと中和するからね。そこで、君の眼に入れたいものがあるんだが……」
と、衣袋の中から、小さな小指ほどの壜を取り出した。嗅ぐと、快い眩暈を感じてくる。
「これをあの部屋の、鍵穴の中から見つけたんだが、ねえ女将、君はこんな修行をどこで覚えてきたんだ。君は、鯨蝋をエーテルに混ぜて、この中に詰めて置いたね。そして息抜けを作って、鍵穴の中に隠しておいたのだ。すると、摂氏十度でこれが氷結する。ところが、二十五度になれば沸騰をはじめるんだ。それで、栓がだんだんに持ち上がっていって、尾錠の梃子を下から押し上げる。扉は明く、そうして、エーテルの噴気で半魔睡に陥ったやつを、君はらくらくと料理してしまったのだ。どうだい、この事件の、天の配剤というやつは、昨夜君が、炊事場をうろついていたことにあったのだよ。しかし、まだエーテルの魔術は、それだけではなかった」
お勢の顔には、一抹の血の気もなく、すでに観念しているのか、嘲ら笑うような影さえ見えた。左枝は、相手の動作を警戒しながら続けてゆく。
「それは、君が途方もない魔術を使って、稲野谷兵助という、仮空の人物を作り上げたことだ。ねえ女将、あのエーテルと鯨蝋との混合物は、時によると舞台や高座でも使われる。それが沸騰する時は、しだいに輪廓の外側から消えてゆくのだからね。だからもし、衝立にでも人間の形を描いて、気温を高めた場合には、ちょうどそれが、遠ざかってゆく人影のように見えるじゃないか。女将、君の企んだその二役には、微妙なこと、まさに人間業とも思われない……まるで、機にある梭糸のような計画があったね。まず、稲野谷という、仮空の人物を作り上げて、それで、三伝の影を君は覆おうとしたのだ。君は牒し合わせて、まず三伝に、利得金を奪わせておいた。そうしてから、復讐を兼ねて、いずれ追及してくる、一味の者を順ぐりに殺していったのだ。三伝は黒衣で、君は立役者だ。サア、ここで、君に三伝の在所を教えてもらおう。お願いだ、僕は神となるか、それとも、僕という人生を修正するかの境い目にある。お願いだ、三伝は何処にいる。どうして、あの男は死から蘇ったのだ」
左枝は、額に粟粒のような汗を泛べ、その眼は、お勢の唇を凝っと捉えていて動かなかった。この一つが、実に最後の、苦闘の末にようやく恵まれた、機会だ。三伝を射ったのは、船場か、矢伏か。どうか矢伏であってくれ──と、これまで抗争を続け、血みどろに揉み合っていたあの力に、いまは、祈らんばかりに縋りはじめたのであった。が、お勢は冷笑を泛べて云った。
「可哀想にねえ。神様になろうというのも、並大抵のことじゃないねえ。ねえ左枝さん、ほんとうにお気の毒だけど、三伝はとうの昔に死んでいるんだよ。あれを射ったのが、矢伏か船場かっていうことも、もし親戚なら、神様にでも聴いてみてもらおうじゃないか。私はね、実は蔭で、三人を操っていたのさ。それで、殺ったという電報があったので、すぐ、東京の腹心の者に云いつけたのだよ。そりゃ、私のこったもの、似た換玉くらいや、印鑑なんぞに事欠いてたまるもんかね。ホホホホ、私の運の尽きが、お前さんの自滅というわけかね」
そうして、お勢との勝負には勝ち、ついに人世との戦いには敗れた。彼は、お勢の室を出ると、腕を背後に組んで、黙々と歩きはじめたのである。
その足どりには、とうていこの世の人にはない、緩慢沈鬱の気がみなぎっていた。神とはなんだ。人とはなんだ。神は登りつめ、人は登りつつある間に……早くも登り得ざるを思うのが、人である。そうしてついに、左枝は闘いを放棄した。
翌朝、雨上りの最初の微光が、この悲壮な敗戦者の顔に注がれた。ほの白い、たゆとうような曙を前にして、左枝はこの世を去ったのであった。
ところが、午近くになって、早苗が左枝の扉を叩いたのであったが、しかし返事がないので、まだ彼が睡っているのだなと思った。今朝こそ、彼女は心に誓って、左枝と新しい生活に入る決心をしたのであった。
「ああ、きっと眠っているんだわ。それとも、女将さんの部屋かしら……」
しかしそこには、早苗の心臓を凍らすようなものが横たわっていた。お勢が、恨み深げな眼を、くわっと宙に睜いて、床のうえで冷たく縡切れていたのである。
しかも早苗は、その髪に驚くべきものを発見した。
と云うのは、それが何あろうか、巧妙な鬘であって、下は半白の、疎らな短か毛であった。そうして、屍体の手に、一枚の揉みくちゃな紙が握られていたのである。
左枝君、俺は今朝、お勢でなく、高坂三伝として君に挨拶をしたい。
俺は、実のところ、殺されてはいなかったのだ。
あの三人の気配を、前々から察していたので、矢伏の拳銃には、黒鉛の弾丸を詰めておいた。君も知ってのとおり、黒鉛の弾というやつは、発射しても、飛ばずに粉々に砕けてしまうだけだ。後で洗矢で掃除をしてしまえば、それには寸毫の痕跡も止めないのだ。
俺はあの時、乾坤一擲の大賭博を打ったのだよ。
それから、船場の自殺も、やはり、俺の書いた血みどろな狂言だったのだ。
俺は、吃驚する彼に、黒鉛の弾を明かして、どうだ、一番芝居をやろうじゃないか。あの利得金で堪能するためには、まず船場四郎太を戸籍から抹消する必要がある。そこで、告白の遺書を書かせて、黒鉛の弾を示し、射ったらまず川に転げて落ちて、俺の二の轍を踏めと云ってやった。ところが、その弾を、巧妙に実弾と代えてしまったので、慾で船場四郎太はあの世へ旅立ってしまった。
それから、俺はお勢に変装して、二の矢、三の矢の復讐を計ることになった。
オイ左枝君、あの遺書でもって、実を云うと君にも撃ち返してやったのだぞ。俺は、そうして復讐を終った。このまま、人生は終えてしまうことになるが、眼は眼に、耳は耳に、最後の最後の一人の、涸れ血までも啜りとったわけだ。その、最後の人というのが誰かということは、左枝君、君が一番よく知っているはずだよ。
実に、悪蟲三伝の、読むだに総毛立つような告白文だった。
嵐は去った。早苗は、和やかな陽差を満身に浴びながら、檣に揺れる港の旗を眺めていた。
彼女は、この極悪人の死を知るのみであって、左枝が、彼女の胸を離れ去っていたことは知らなかったのである。
底本:「潜航艇「鷹の城」」現代教養文庫、社会思想社
1977(昭和52)年12月15日初版第1刷発行
底本の親本:「地中海」ラヂオ科学社
1938(昭和13)年9月
初出:「新青年」博文館
1937(昭和12)年2月号
入力:ロクス・ソルス
校正:安里努
2013年1月29日作成
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