麻雀を語る
南部修太郎
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話はだいぶ古めくが、大正十一年の秋の或る一夜のことだ。三ヶ月ほどの南北支那の旅を終つて、明日はいよいよ懷しい故國への船路に就かうといふ前の晩、それは乳色の夜靄が町の燈灯をほのぼのとさせるばかりに立ち罩めた如何にも異郷の秋らしい晩だつたが、僕は消息通の一友と連れ立つて上海の町をさまよひ歩いた。先づ四馬路の菜館で廣東料理に舌皷を打ち、或る外國人のバアでリキユウルをすすり、日本料理屋で藝者達の長崎辯を聞き、更にフランス租界の秘密な阿片窟で阿片まで吸つてみた。
「さア、もう一ぺん四馬路の散歩だ。」
と、お互に微醺を帶びて變に彈み立つた氣分で黄包車を驅り、再び四馬路の大通へ出たのはもう夜の一時過ぎだつた。
言ふまでもない、四馬路は東京の銀座だ。が、君子國日本のやうに四角四面な取締などもとよりあらう筈もなく、それは字義通りの不夜城だ。人間は動く。燈灯は映發する。自動車は行く。黄包車は走る。そして、この東洋の幻怪な港町はしつとりした夜靄の中にも更け行く夜を知らない。やがて歩き疲れてふらりとはひりこんだのが、と或る裏通の茶館だつた。
窓際の紫檀の卓を挾んで腰を降し、お互に疲れ顏でぼんやり煙草をふかしてゐると、女が型通り瓜子と茶を運んでくる。一人は丸顏、一人は瓜實顏、其に口紅赤く、耳環の翡翠が青い。支那語の達者な友人は早速笑ひ聲を交へながら女と何やら話しはじめたが、僕は至極手持ち無沙汰である。傍の窓をあけて上氣した顏を冷しながら暗いそとを見てゐると、一間ばかりの路次を隔ててすぐ隣の家の同じ二階の窓から、鈍い巷の雜音と入れ交つてチヤラチヤラチヤラチヤラと聞き馴れない物音が聞えて來た。
「おいおい、あの音は何だい?」
暫く靜に聽耳を立ててゐた僕はさう言つて、友人の方を振り返つた。いつの間にか彼の膝の上には丸顏の女が牡丹のやうな笑ひを含みながら腰かけてゐる。が、彼はすぐに僕の指さす方に耳を傾けて、
「あア、麻雀をやつてるんだよ。」
「麻雀?」
僕がさう鸚鵡返すと同時に、僕の傍にゐた瓜實顏は可憐な聲で、
「好的麻雀……」
と、微笑とともに呟いた。
今でこそ、僕もどうやら四段といふ段位をもらへるほどに麻雀にも耽り親しんでゐるが、かれこれ十年も昔の話だ。奉天城内のと或る勸工場へはひつて、或る店先に並べてあつた麻雀牌の美しさに眼を惹かれて、
「綺麗なもんですね。何か飾り物ですか?」
と、連れの人に尋ねかけると、
「いやア、ばくちの道具ですよ。日本のまア花合せですかね。」
と、幾らか笑ひ交りに答へられながらも、さすがにばくち好きな支那人だ、恐ろしく凝つた、洒落た物を使ふなアぐらゐにほとほと感心してゐたやうな程度で、もとよりどんな風に遊ぶのかも知らなかつたのだが、さてその窓向から時折談笑の聲に交つてチヤラチヤラチヤラチヤラ聞えてくる麻雀牌の音、それがまたあたりがあたりだけに如何にも支那風の好ましい感じで耳に響いたものだつた。
近頃、東京に於ける、或は日本に於ける麻雀の流行は凄まじいばかりで、麻雀倶樂部の開業は全く雨後の筍の如しで邊鄙な郊外の町にまで及んでゐるやうだが、そこはどこまでも日本式な小綺麗さ、行儀よさで、たとへば卓子の上にも青羅紗とか白ネルとかを敷いて牌音を和げるやうにしてあるのが普通だが、本場の支那人は紫檀の卓子の上でぢかに遊ぶのが普通で、寧ろさうして牌の音の高いのを喜ぶらしい、だからこそ、その時も紫檀の堅い面を打ち、またその上でひつきりなしにかち合ふ麻雀牌の音が窓向うながらそれほどさはやかにも聞え、如何にも支那風の快さで僕の耳を樂しませたのに違ひない。
同じ麻雀でもそれぞれの國民性に從つて遊び方なり樂しみ方なりが自然と違つてくるのは當り前の話で、卓子の上に布を敷いて牌音を和げるといふやうな工夫は如何にも神經質な日本人らしさだが、元來麻雀とは雀の義で、牌のかち合ふ音が竹籔に啼き囀る雀の聲に似てゐるから來たといふ語源を信じるとすれば、やつぱり紫檀の卓子でぢかに遊ぶといふのが本格的で、その音を樂しむといふのもちよつと趣があるやうに感じられる。尤も、支那人は麻雀を親しい仲間の一組で樂しむといふやうに心得てゐるらしいが、近頃の日本のやうにそれを團隊的競技にまで進めて來て、いつかの日本麻雀選手權大會の時のやうに百組も百五十組もの人達が一堂に集つて技を爭ふとなれば、紫檀の卓子の上でぢかになどといふことはそれこそ殺人的なものになつてしまつて、大會ごとに氣が違ふ人が何人となく出來るかも知れない。
とまれ、十年前の秋の一夜、乳色の夜靄立ち罩めた上海のあの茶館の窓際で聞いた麻雀牌の好ましい音は今も僕の胸底に懷しい支那風を思ひ出させずにはおかない。
女と、ばくちと、阿片と、支那人の一生はその三つの享樂の達成に捧げられる──などと言ふと、近頃の若い新しい中華民國の人達から叱られるかも知れないが、これは或る點まで殘念ながら眞實らしい。苦力達は營營と働く、女──細君を買ひたいために、ばくちをしたいために、阿片を吸ひたいために。また將相達はなぜあれほど主權を爭ひ合ふのか? 多くの婢妾の肉に倦きたいために、ばくちに耽る悠悠閑日月を自由にしたいために、豪華な廊房で阿片の夢に浸りたいために。で、それほどばくち好きな支那人が工夫考案したものだけに、麻雀ほど魅力のある、感じのいい、倦くことを知らない遊びはまア世界にもあるまいかと思はれる。近頃、歐米では一時の麻雀熱がさめてブリツヂ・ポオカアの遊びに歸つたと言ふし、日本でも花合せの技法がずつと深奧複雜でより感興深いことを説く人もあるが、麻雀には遊びの魅力は魅力として、外にあの牌に觸れるといふ不可思議な魅力がある。あの牌音を聞くといふ力強い魅力がある。だからこそ、麻雀は少し遊びを覺えると、大概の人が一時熱病的になつてしまふ。そして、全くこれほど遊び倦きることを知らない遊び事もちよつと外には無ささうだ。
一代の覇圖も夢物語に奉天城外の露と消えてしまつたが、例の張作霖は非常な麻雀好きだつたと言ふ。何でも第二次奉直戰爭の時などは自分の方の旗色がよかつたせゐもあつただらうが、戰線のことは部下任せにして置いて、宮苑の奧深くお氣に入りの嬪妾や嬖臣達を相手に日もす夜もす麻雀に耽り樂しんでゐたと言ふ。で、そこはまた拔目のない所謂政商などは莫大もない金を賭けて張と卓子を圍む。そして、わざと負ける。想像すれば、始終青一色をさせたり、滿貫役をつけさせたりするのだらうが、それが自然と取り入りの阿堵物になることは言ふまでもない。
「いや、何とも何とも。今日の閣下の昇天の御勢にはわたくし共まるで木つ葉微塵の有樣でございましたな。」
「ふふふふ、弱いなうお前等は……」
定めてあの張作霖がそんな風に相好を崩してのけぞり返つただらうと思ふと、その昔馬賊の荒武者だつたといふ人のよさも想像されて、無殘な爆彈に血染められたと言ふその最後が傷ましくも感じられはしないだらうか?
張作霖と言はず、如何に支那人が麻雀を好くかといふことはいろいろ話に聞くが、驚くことは彼等二日も三日も不眠不休で戰ひつづけて平氣だといふことだ。僕、この遊びを覺えてから足掛け五年になるが、食事の時間だけは別として戰ひつづけたレコオドは約三十時間といふのが最長だ。それはたしか去年の春頃、池谷信三郎の家でのことで、前日の晝頃はじめて翌日の夕方過ぎまで八圈戰を五回ぐらゐ繰り返したやうに思ふが、終りには頭朦朧として體はぐたぐたになつてしまつた。そして、二三日その疲れの拔け切らないのに今更自分の愚さを悔いたやうな始末だつたが、支那人が二日も三日も戰ひつづけて平氣だといふのは、一つは確に體力のせゐに違ひない。が、もう一つは氣質の相違によるものだらう。言ひ換へると、支那人は技法の巧拙は別問題として、可成り自由に延び延びと麻雀を遊び樂しむからではあるまいか?
僕思ふに、いつたい僕等日本人の麻雀の遊び方は神經質過ぎる。或は末梢的過ぎる。勿論技を爭ひ、機を捉へ、相手を覘ふ勝負事だ。技法の尖鋭慧敏さは如何ほどまでも尊ばれていい筈だが、やたらに相手の技法に神經を尖がらして、惡打を怒り罵り、不覺の過ちを責め咎め、自分の好運衰勢にだらしなく感情を動亂させるなどは甚だしばしば僕のお眼に掛かることだが、そして、僕と雖も敢へてそれが全然無いとは言はないが、その如何にもあくせくした感じは常に僕をして眉を顰めしめる。言ひ換へると、どうもゆとりが無い、棘棘し過ぎる。だから、長い戰ひに堪へ得ず、結局心身共にくたくたに疲れ切つてしまふのだらうが、思ふに、支那人の麻雀戲には彼等の風格に存するやうな悠悠味がどこかにあるのではなからうか?
一時、これは麻雀界の論議の的になつたことだが、麻雀が技の遊びといふより以上に運の遊びであることは爭へない。實際、運のつかない時と來たらこれほど憂欝な遊びはないし、逆に運の波に乘つて天衣無縫に牌の扱へる時ほど麻雀に快い陶醉を感じる時はない。自然、そこが麻雀の長所でもあり短所でもあつて、どつちかと言へば玄人筋のガンブラアには輕蔑される勝負事のやうに思はれる。けれど、實際はそれこそ麻雀が人達を魅惑する面白さなので、誰しも少しそれに親しんでくるといつとなくその日その時の縁起まで擔ぐやうになるのも愉快である。そして、その點でとりわけ物事に縁起を擔ぐ支那人が如何に苦心焦慮するかはいろいろ語られてゐることだが、全く外のことでは如何なる擔ぎ屋でもない僕が麻雀の日となると、その日の新聞に出てゐる運勢が變に氣になる。で、たとへば「思はぬ大利あり」とか「物事に蹉跌あり、西方凶」などといふ、考へれば馬鹿らしい暗示が卓子を圍む氣持を變に動かすこと我ながらをかしいくらゐだ。
滑稽なのは、日本の麻雀道のメツカの稱ある鎌倉では誰でも奧さんが懷姙すると、その檀那樣がきつと大當りをすると言ふ。所が、何でも久米正雄夫人自身の懷姙中の運勢の素晴しかつたことは今でも鎌倉猛者連の語り草になつてゐるくらゐださうだが、懷に入つてふとるといふ八卦でもあらうか? 少少うがち過ぎてゐて、良人久米正雄ならずとも、思はず微苦笑せずにはゐられない。いつたい誰でも運勢が傾いてくると、自然とじたばたし出すのは人情の然らしむる所だが、五段里見弴は紙入からお守札を並べ出す、四段古川緑波はシガアレツト・ライタアで切り火をする。三段池谷信三郎は骰子を頭上にかざして禮拜する。僕など麻雀はしばしば細君と口喧嘩の種子になるが、これが臨戰前だときつと八卦が惡い。
「今日は奇數番號の自動車には絶對に乘らないぞ。」
「向うに着くまで猫を見なけりや勝だ。」
などと年甲斐もなく男一匹がそんな下らないことを考へたりするのも、麻雀に苦勞した人間でなければ分らない味かも知れない。
「知らない支那人と麻雀を遊ぶのはよつぽど注意しなければいけない。」
とは或る向うの消息通が僕に聞かせた詞だが、ばくち好きで、またばくちの天才の支那人だけに麻雀道に於ても中には恐ろしい詐欺、いんちきを企てるものが可成りあるらしい。そして、その仕方もいろいろ聞かされたが、僕が如何にも支那人式だなと一番感心し、且つ恐るべしと思つたのは、百三十六個もある麻雀牌の背中の竹の木目をすつかり暗記してしまふといふいんちき師のことだ。而も、その暗記の仕方といふのが、先づ日光の中で、次は曇り日、次は夕方、次は電燈、結局最後に蝋燭の光の中でといふ風に明暗の順序を追つて眼を慣らしながら研究暗記し、乏しい明るさの中でもこの木目はこの牌とすぐ分るやうに努力するのだと言ふ。言はば勝ちたいといふためのその執拗な努力、勿論外の牌を使ふことにでもなれば何の役に立たう筈もないのに、そんな骨折りをするといふ根氣よさ、陰澁さ、それが外ならぬ麻雀牌のあの木目に對してといふだけに全く驚かずにはゐられない。
が、然し、それもこれもつまりは勝負事に勝ちたいといふ慾と、誇と、或は見得とからくるのかと思ふと、人間の卑しさ淺ましさも少々どんづまりの感じだが、支那人の麻雀ばかりとは言はず、日本人のあの花合せにさへ實に多岐多樣な詐欺、いんちきの仕方があるといふのだから、勝負事といふものが存在する限り止むを得ないことかも知れない。一時麻雀競技會の常勝者としてその技法をたゞ驚歎されてゐた某が、支那人式の仕方からすれば至極幼稚な不正を行つてゐたことが分るし、結局麻雀界から抹殺されるに到つたなどは甚だ殷鑑遠からざるものとして、その心根の哀れさ、僕は敢へて憎む氣にさへならない。同じ不正を企るのならば、百三十六個の麻雀牌の背中の竹の木目を暗記するなどは、その努力感だけでも僕には寧ろ氣持がいい。
日本の麻雀も近頃は少々猫も杓子もの感じになつてしまつたが、僅か四五年ほどの間にこれほど隆盛を見た勝負事はあるまいし、またこれほど組織立つて麻雀を社會化したのも日本だけではあるまいか? 圍碁や將棊や花合せの傳統は長い。撞球にしてもそれが今ほど一般的になるまでには二三十年はかかつてゐる。戸外スポオツにしても、野球は勿論だが、近頃それと人氣を角逐しかけて來た蹴球にしてもその今日を見るまでには慶應義塾蹴球部の隱れたる長い努力があつた。が、麻雀は忽ちにして日本の社會に飛躍した。これは一面は明に麻雀戲そのものの魅力からだ。そして、一面は空閑緑以下の識者の盡力からに違ひない。
僕の知る限りでは、日本の麻雀の發祥地は例の大震災後に松山省三が銀座裏から移つて一時牛込の神樂坂上に經營してゐたカフエ・プランタンがそれらしい。勿論、個個に遊び樂しんでゐた人達は外にもあつたらうが、少くとも麻雀戲の名を世間的に知らせたのはどうもあすこだつたやうに思はれる。その意味で、狹い路次の奧にあつた、木造の、あのささやかな洋館は日本麻雀道のためには記念保存物たる價値を持つてゐるかも知れない。
「どうも今考へると、をかしなことをやつてゐたもんだよ。」
と、佐佐木茂索は或る時僕に彼らしい靜かな笑ひを洩らしながら語るのだつた。
何でも市川猿之助と平岡權八郎が洋行歸りに上海で麻雀牌を買ひうろ覺えにその技法を傳へたのださうだが、集るものは外に松山省三、佐佐木茂索、廣津和郎、片岡鐵兵、松井潤子、後に林茂光、川崎備寛、長尾克などの面面で、一筒二筒を一丸二丸、一索二索を一竹二竹といふ風に呼び、三元牌を碰されたあと殘りの一枚を捨てると、それが槓になり、その所有者に嶺上開花の機會を與へるので捨てられなくなるといふ風な妙なルウルもあり、何しろ近頃のやうに明確な標準規約もなく、第一傳へる人がうろ覺えの怪しい指導振なのだから、ずゐぶんをかしな戰ひを交へてゐたものらしい。
「林茂光がくるやうになつてから、だいぶすべてが調つて來たが、僕はその時分から大概負けなかつたよ。」
と、これも佐佐木茂索の自慢話だ。
その頃、それが賭博との疑ひを受けて、或る晩一同がその筋から取り調べを受けるやうな事件が持ち上つたが、取り調べる側がその技法を知らないので誰かが滔滔と講釋をはじめ、係官を烟に卷いたといふ一插話もある。勿論、何の事もなく疑ひだけで濟んだのだが、一夜を思はぬ所で明かしてしまつた誰彼、あまり寢覺めがよかつた筈も無いが、何でも物事の先驅者の受難の一卷とすれば、近頃の仕合せな新しい麻雀好きの面面はすべからくそれ等の諸賢に敬意を捧げて然るべきかも知れない。
日本の文藝的作品に麻雀のことが書かれたのは恐らく夏目漱石の「滿韓ところどころ」の一節が初めてかも知れない。無論、讀書人夏目漱石は勝負事には感興を持つてゐなかつたのであらうが、それは麻雀競技の甚だ漠然とした、斷片的な印象を數行綴つたのに過ぎない。が、近代日本のこの優れた文人の筆に初めて麻雀のことが書かれたといふのは不思議な因縁とも言ふべきで、カフエ・プランタンで初めて麻雀を遊んだ人達に文人、畫家が多かつたといふのと相俟つて、麻雀と文藝との間には何か一種のつながりがあるやうな氣持さへする。それにさすがは文學の國支那の遊びで、役の名に清一色とか、國士無雙とか、海底撈月とか、嶺上開花とか、四喜臨門とかいふやうな如何にも詩味のある字句を使つてあるのも面白い。恐らくこれ等の字に就いての感じが分るといふだけでも僕等日本人は歐米人達よりもずつとずつと麻雀を味ひ樂しみ方が深いだらうと想像される。
さて初めに書いたやうに初めて麻雀牌を見て、その牌音を聞いたといふだけなら、僕は近頃の麻雀隆盛にいさゝか先駈けするものだつたが、初めて牌を手に入れたのは大正十四年の秋で、それから誰に教はるともなく次第に習ひ覺えて、去年あたりちよつとその熱病期だつたとも言へる。そして、近頃はだいぶ技法にも自信を得て來たが、運に左右されてしまふ或る境地だけはどうにも仕方がなく、時にあまりに衰運に沈湎させられると、ちよつと麻雀にも嫌厭たるものを感じる。けれど、二三日もたつともうそろそろむづむづしてくるのだから、この熱病生易しいことではなかなか全快しさうにもない。
相手方も勿論仲間内に多く、始終顏を合せるのが六段佐佐木茂索、三段和木清三郎、三段池谷信三郎などで、時に六段菊池寛、五段廣津和郎、七段川崎備寛、六段濱尾四郎、四段古川緑波、五段菅忠雄などといふ所、そして、そんな風に書き並べてみると、素晴しい名人試合ばかりやつてゐるやうだが、時に手に汗を握るやうな亂牌振も見られゝば、颯爽たる一人拂ひ、思はず頤を解くやうな沖和もある。それに大概腕よりもより以上に口の達者な面面が多いのだからその騷々しさも以て察すべきである。そして、たとへば、たとへばと諸賢のの麻雀振も紹介する積りだつたが、ちやうど許された枚數にも達したし、あとの祟りも恐ろしいので。(昭五・三・三)
底本:「改造」改造社
1930(昭和5)年4月1日発行
初出:「改造」改造社
1930(昭和5)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「黄包車」(ワンポイソオ/ワンポオツ)、「卓子」(テーブル/たくし)、「茶館」(ツアコブン/ツアコハン)、「麻雀」(マアジヤン/マージヤン)など、一部のルビに異なった表記がみられますが、底本通りに入力しました。
※「茶館」のルビ「ツアコブン」の「ブ」は印刷の具合が判然とせず、「フ」もしくは「プ」にもみえます。
入力:小林徹
校正:鈴木厚司
2008年1月26日作成
2010年11月9日修正
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