紅毛傾城
小栗虫太郎
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序 ベーリング黄金郷の所在を知ること
ならびに千島ラショワ島の海賊砦のこと
四月このかた、薬餌から離れられず、そうでなくてさえも、夏には人一倍弱いのであるが、この夏私は、暑気が募るにしたがって、折りふし奇怪な感覚に悩まされることが多くなった。
ちょうどそれは、私の心臓のなかで、脈打ちの律動が絶えず変化していくように、波打つ暑気の峰と谷とだ。はっきりと、しかも不気味にも知覚されるのであった。
しかし、そうした折りには、家人に命じて庭先に火を焚かせ、それに不用な雑書類などを投げ入れるのである。それは、影像の楯をつくって、ひたすら病苦から逃がれんがためであった。
そのようにして私は、真夏の白昼舌のような火炎を作り、揺らぎのぼる陽炎に打ち震える、夏菊の長い茎などを見やっては、とくりともなく、海の幻想に浸るのが常であった。
ところが、ある一日のこと、ふとその炎のなかで、のたうち回る、一匹の鯨を眼に止めたのである。
そこで私は、まったく慌てふためいて、手早く煨を蹴散らしながら、取りだした二冊の書物があった。ああ、すんでのことに私は、貴重な資料を焼き捨ててしまうところだった。
表紙のないその二冊には、ただピーボディ博物館という、検印が押してあるのみなので、軽率にも私は、取るに足らぬ目録のたぐいかと誤信して、そのまま書き屑のなかへ突っ込んでしまったらしいのである。
しかし、そうして事新しく、その二冊を手にしたとき、これこそ、泥沼に埋もれつつある石碑の一つだと思った。
それは以前、合衆国マサチュセッツ州サレムにあった、ピーボディ博物館の蔵書であって、著名な鯨画の収集家、アラン・フォーブス氏の寄贈になるものであった。
で、そのうちの一冊は、書名を『捕鯨行銅版画集、付記、捕鯨略史』という、一八六六年の版、ジェー・アール・ブラウンという人の著書である。
それには、ヨナと鯨の古版画をはじめとして、それらに入れ混じり、勝川春亭の「品川沖之鯨高輪より見る之図」や、歌川国芳の「七浦捕鯨之図」「宮本武蔵巨鯨退治之図」などが挿入されてあった。
しかし、真実の驚きというのは、もう一冊のほうにあって、私は読みゆくにしたがい、容易ならぬ掘り出し物をしたことがわかってきた。
そのほうは、ずうっと版も古く、書名を『捕鯨船ブリッグ号難破録』というのである。
その船の名は、スターバックの『亜米利加捕鯨史』にも記されているとおりで、一七八四年の夏ボストンに、鯨油六百樽を持ち帰ったのが、最初の記録だった。
しかし同船は、その後一七八六年に、アリューシャン列島中のアマリア島で難破したのであるから、当然その一冊も、船長フロストの遭難記にほかならぬのである。
ところが、内容の終わり近くになると、計らずも数ページの驚畏すべき記事が、私の眼を射た。
それは、素朴そのままの、何ら飾り気のない文章で、七年ぶりに帰還した、土人ナガウライの談話と銘打たれてある。
しかし、読みゆくにつれて、私の手は震え、脈が奔馬のように走り始めた。
なぜなら、同人の見聞談として、最初まず、千島ラショワ島に築かれた、峨々たる岩城のこと……、また、そこに住む海賊蘇古根三人姉弟のこと……、さらに、その島を望んだヴィッス・ベーリング──(注 ベーリング──。事実はそうでないが、ベーリング海峡の発見者といわれる丁抹人。一七四一年「聖ピヨトル号」に乗じて、地理学者ステツレル、船長グレプニツキーとともに、ベーリング海峡を縦航したるも、十月五日コマンドルスキー群島付近において難破し、十二月八日壊血病にて斃る。その島をベーリング島という)が、兼ねて伝え聴きし、黄金郷こそこの島ならんか──と、その事実を、遺書にまで残したことなど、記されているのであるから。
EL DORADO──それはついにインカ族が所在を秘しおおせてしまったところの、まさに伝説中の伝説であった。
かつて、西班牙植民史には幻の華となって咲き、南米エセクイボの渓谷にあるとのみ信じられて、マルチネツはじめ、数千の犠牲をのみ尽くした黄金都市がそれである。
だが、いったいベーリングは、なぜその夢想の都市に、千島ラショワ島を擬しているのであろうか。ああ、どうしてのこと、熱沙の中から、所在を氷海の一孤島に移しているのであろうか。
私も、読み終わると同時に、しばらくの間は、熱気のほてりに茫然となっている。
しかし、黄金郷の所在──そういう世紀的な謎をめぐって、あの、ラショワ島の白夜を悩まし続けた、血みどろの悲劇を思うと、なんだかこれを、実録として発表するのが惜しくなってきた。
そして、泡よくば一編の小説として、これを世に問いたい誘惑に打ちかち兼ねてしまったのである。
緑毛の人魚
つい一刻ほど前には、渚の岩の、どの谷どの峰にも、じめじめした、乳のような海霧が立ちこめていて、その漂いが、眠りを求め得ない悪霊のように思われた。
すでに刻限も夜半に近く、ほどなく海霧も晴れ間を見せようというころ、ラショワ島の岩城は、いまや昏々と眠りたけていた。
見張りの交代もほど間近とみえ、魚油をともす篝の火が、つながり合いひろがり合う霧の中を、のろのろと、異様な波紋を描きながら、上っていくのだった。
すると、それから間もなく、何事が起こったのであろうか、ドドドドンと、けたたましい太鼓の音。それが、海波の哮りを圧して、望楼からとどろき渡った。
「慈悲太郎、どうじゃ。見えるであろうな。あの二楼帆船には、ベットの砲楼が付いているわい。ハハハハ、驚くには当たらぬ、あれが軍船でのうてなんじゃ。魯西亜もこんどこそは怒りおったとみえ、どうやら、火砲を差し向けてきたらしいぞ」
と蘇古根横蔵は撥を据えて、いつも変わることのない、底知れぬ胆力を示した。そして、海気に焼け切った鉤鼻を弟に向けて、髻をゆるやかに揺すぶるのだった。
「だが兄上、私はただ、海波高かれとばかりに祈りおりまする。そして、舷側の砲列が役立たぬようにとな」
火器のない、この島のひ弱い武装を知る弟は、ただただ、迫り来たった海戦におびえるばかりだった。が、それに横蔵は、波浪のような爆笑をあげた。
「いやいや、火砲とは申せ、運用発射を鍛練してこその兵器じゃ。魯西亜の水兵どもには、分度儀も測度計も要らぬはずじゃ。水平の射撃ならともかく、一高一低ともなれば、あれらはみな、死物的に固着してしまうのじゃよ。慈悲太郎、兄はいま抱火矢を使って、あの軍船と対舷砲撃を交わしてみせるわ」
それは、何物の影をも映そうとせぬ、鏡のように、外は白夜に開け放たれた。
その蒼白さ、なんともたとえようのない色合いのほのめきは、ちょうど、一面に散り敷いた色のない雲のようであった。
その中を、渚では法螺貝が鳴り渡り、土人どもは、櫂や帆桁に飛びついた。次第に、荒々しい騒音が激しくなっていき、やがて臆病な犬のそれのように、嚇しの、喉をいっぱいにふくらませた、一つの叫び声にまとまっていくのだった。
しかし、渚を離れて、その幾艘かの小舟が、ほとんど識別し難い点のようになると、入江の奥は、ふたたび旧の静寂に戻った。
その時慈悲太郎は、静かに砂を踏み、入江を囲む、岬の鼻のほうに歩んで行った。
青白い日光が、茫漠たる寂寥の中で、こうもはっきりと見られるのに、岬の先では、海が犠牲をのもうと待ち構えている。それが、嵐を前にした、ねつっこい静けさとでもいうのであろうか。いや、嵐を呼ぶ、海鳥の泣き狂う声さえ聞こえないではないか。
背後には、四季絶えず陰気の色の変わらぬ、岩柱の城がそそり立ち、灰色をした地平線の手前には、空の色よりも、幾分濃いとしか思われぬ鉛色の船体が、いとも眠たげに近づいてくるのである。
まこと、その二つのものは、冷たい海の上に現われた幻のように、それとも、仄暗い影絵としか思えないのだった。
しかし、味方は巧妙に舟を操って、あるいは水煙の中に隠れ、滝津瀬のようなとどろきを上げる、波濤の谷底を選り進んでは、軍船に近づくまで、いっこうに姿を現わさなかった。
そうしているうちに、真っ蒼に立ち上がってくる、山のようなうねりが押し寄せたと見る間に、その渓谷から尾を引いて、最初の火箭が、まっしぐらに軍船をめがけて飛びかかった。
ところが、その瞬間、砲声を聴くと思いのほか、意外にも、侘びし気な合唱の声が、軍船の中から漏れてきた。
そして、海に、人型をした灰色のものを投げ入れながら、そのぐるりを静かに回り始めたのである。それには、錫色の帆も砲門の緑も、まるで年老いて、冷たい眠りに入ったかのようであった。
迷信深い魯西亜の水兵どもは、綾に飛びちがう火光を外目にして、祈祷歌を、平然と唱え続けているのだ──それは沈厳な、希臘正教特有の、紛う方ない水葬儀だったのである。
一つ二つ──そうして、甲板から投げ込まれる、灰色のものを、二十五まで数えたときだった。
思わず慈悲太郎は、総身にすくみ上がるような戦慄を覚えたのである。
もしやしたら、この軍船は悪疫船ではないか……。
しかし、そう気づいた時は、すでに遅かった。後檣の三角帆から燃え上がった炎が、新しい風を巻き起こして、いまや岬の鼻を過ぎ、軍船は入江深くに進み行こうとしている。
そして、最後に二十六番目の死体が──それも麻布にくるまれ、重錘と経緯度板をつけたままの姿であるが──ドンブリと投げ込まれたとき、火気を呼んだ火縄函が、まるで花火のような炸裂をした。かくして、その軍船は、全く戦闘力を失ってしまったのであるが、その時小舟の一つから、うめきとも驚きとも、なんとも名付けようのない叫び声があがった。
というのは、一筋銀色の泡を引いて、水底から、不思議な魚族が浮かび上がってきたからである。
はじめ、水面のはるか底に、ちらりと緑色のものが見えたかと思うと、その影は、すぐに身を返して、尾をパチパチとさせ、またも返して、激しいうねりを立てる。と、銀色をした腹の光が、パッとひらめいて、それが八方へ突き広がっていくのだった。
そのうねりの影は、真っ白な空を映して無数に重なり合う、刃のように見えた。
しかし、そうして一端は、遠い大きな、魚のように思えたけれど、ほどなく、渚近くに浮き上がったものがあった。
その瞬間横蔵は、眩み真転わんばかりの激動をうけた。平衡を失って、不覚にも彼は、片足を浅瀬の中に突き入れてしまった。
いまや帆を焼き尽くし、火縄を失って、軍船は速力さえも減じつつあるのではないか。まさに、追撃を試みる絶好の機会にもかかわらず、なにゆえに横蔵からは、好戦の血が失われてしまったのであろう?
彼は、眼前の、この世ならぬ妖しさに蠱惑され、自分の幻影を壊すまいとして、そのまましばらくは、じっと姿勢を変えなかったのである。
それは、眼底の神経が、露出したかと思われるばかりの、鋭い凝視だった。
頭上の、蒼白い太陽から降り注ぐ、清冽な夜気の中で、渚の腐れ藻の間から、一人の女が身をもたげてきた。そして、体を動かすごとに、藻の片々が摺り落ちて、間もなく彼女が、裸体であることがわかった。
こんな遅い時刻でさえも、中天にただ一つ、つけっ放しになっている蒼いランプは、すんなりした女の姿を、妖精のように見せていた。それがちょうど、透き通った、美しい外套でもあるかのように、両肩も胸も、たくましい肉づきの腰も、──何もかも、つるつるとした絹のような肌身を、半ば透明な、半ばどんよりとした、神秘の光が覆うているのだ。
こうして、最初のうちこそ、流血を予期された事態が、計らずも一変した。軍船も砲列も、毒矢も、火箭も、ただいちずに、夢の靄の中へ溶け込んでゆくのである。
しかし一方では、そうした驚きの中で、妙に迷信的な、空恐ろしさが高まっていった。
というのは、女の体の一部に、どう見ても、それが人間的でないものが、認められたからである。その女の持つ毛という毛、髪という髪からは、肩に垂れた濡髪からも、また、茂みを吹く風のように、衣摺れの音でも立てそうな体毛からも、それはまたとない、不思議な炎が燃え上がっているのだ──緑色の髪の毛。
それゆえ、ともすると横蔵は、錯覚に引き入れられ、金色に輝く全身の生毛に、人魚を夢見つつ、つぶやくのだった。
「うむ、緑の髪を持った女──さっき渚から這い上がったとき、たしかに儂は、貝殻のような小さい足を見たはずだぞ。両親は、寛永の昔サガレンに流れ寄った漂流民、それから、イルツクの日本語学校で育った儂たちだ。松前の藩から、上陸を拒まれたを機に、この島に根城を求めたが、今までは一とおり、金髪にも亜麻色にも……。ええしたが、五大州六百八十二島の中で、ものもあろうに緑の髪の毛とは……」
しかし、そうしているうちに、横蔵の眼は、ほとんど痛いくらいに、チカチカしはじめた。
見ると、女はよろよろ歩き出して、夢中に藻の衣を脱ぎ続けるのだ。
唇をキュッと結び、寒気を耐えるように、両腕を首の下で締めつけると、ずるりと落ち、荒布の下から、それは牝鹿のような肩が現われた。乳房は石のように固くなっていて、高まり切った乳首、えくぼのような臍、それを中心に盛り上がった、下腹部の肉づきのみずみずしさ。
彼女の動作は、大きく弱々しく、ほどよく伸びた腓が、いまにも折れそうになっていく。
しかし彼女は、横蔵を眼に止めたとき、はじめて──それも本能的に、羞恥の姿勢をとった。はじめは、メディチのヴィナスのように、片手を乳の上に曲げ、他の伸ばしたほうの掌を、ふさふさとした三角形の陰影の上に置いた。が、すぐとこんどは、カノヴァのそれのように、両手を胸の上で組み交わした。
そして、その姿勢のまま、臆する色もなく横蔵に言った。
「私、たいへん寒いんですの。もう凍え死にしそうですわ。いえいえ決して、あなたがたの敵ではございませんから」
それはともすると、打ち合う歯の音に、消されがちだったけれど、紛れもない魯西亜言葉だった。
「うむ、煨はもちろん、場合によっては、家も衣も、進ぜようがのう。したが女、そちはどこからまいったのじゃ」
そう言いながら、自分の唇に、濡れた相手の腋毛を、しごきたいような欲情に駆られ、横蔵はぶるると身を震わした。
「言うまでもありませんわ。あの軍船、アレウート号からでございます。実は、十日ほど前から、悪疫に襲われまして、すんでのことに、私も水葬されるところだったのでした。でも、御安心あそばせな。私はただ、一つの部屋におりましたというのみのこと、伝染るのを恐れて、投げ入れられましたなれど、実はこのとおり健やかなのでございますから」
女の心臓が、横蔵のそれほど、激しく鼓動してないことは、言葉つきでも知れた。そして、静かに顔をめぐらして、岩城の明かりを、もの欲しげに見やるのだったが、その時、軍船の舵機が物のみごとに破壊された。新しい囚虜を得た、歓呼の鯨波が、ドッといっせいに挙がる。
おお、魯西亜の軍船アレウート号は、われらが手に落ちた。そして──と横蔵は、ふと恋のなかった自分の過去を、あれこれと描き出すのだった。
それから、小半刻ばかりののちに、女はどうやら精気を取りもどしたらしい。岩城の中の一室で三人の姉弟に取り巻かれて、いまや彼女は、薔薇色のうねりを頬に立てつつあるのだ。
それは、惹きつけられるほどに若い、二十歳ごろの娘だった。
髪も眉も、薄い口髭もまったくの緑色で──その不思議な色合いが、この娘を何かしら、神々しく見せるのだった。
そこは、部屋とはいえ、むしろ岩室と呼ぶほうが似つかわしいであろう。それとも、教坊の陰気臭さが、奇巌珍石に奥まられた、岩狭の闇がそれであろうか。岩をくり抜いて作った、幾つかの部屋部屋には、壁に、斜め市松の切り子ガラスなど、はめられているけれども、総じて無装飾な、真っ黒にくすぶり切った、椅子や曲木の寝床などが散在しているにすぎなかった。
壁の一枚岩にも、ところどころ自然がもてあそんだ浮き彫りのようなものが見られるけれど、それらもみな、蒼然たる古色を帯び煤けかえっているのだ。
しかし、そこで女は、彼女に劣らぬほど、美しい一人の女性を発見した。
その婦人は、横蔵・慈悲太郎には、姉に当たる紅琴女だった。
年のころは、三十を幾つか越えていて、鼻のとがった、皮膚の色の透き通った──それでいて、唇には濃過ぎるほどに濃い紅がたたえられているといった──どこか調和のとれない、病的な影のある女だった。そして、すらりとした華奢な体を、揺り椅子に横たえて、足へは踵の高い木沓をうがち、首から下を、深々とした黒貂の外套が覆うていた。
女は、紅琴の慈悲深い言葉で問われるままに、最初自分の名を、フローラ・ステツレルと答えた。
「一とおりお耳に入れて、なぜ私が、この軍船に乗り込まなければならなかったか……、またなぜ、逃れねばならなかったか……、それから、アレウート号がこの島を目指したについての指令を、一応はお聴き分け願いたいと存じまして。でも、それは容易に、御理解できなかろうと思いますわ。あんまり人の世放れのした、それはそれは、不思議な話なんですもの。実は、私サガレンのチウメンで父を殺してまいりました──あのザルキビッチュ・ステツレルをですわ」
とフローラのこめかみに、一条、真っ蒼な血管が浮かび上がると、紅琴は、それを驚いたようにみつめて言った。
「なに、そもじはなんとお言いやった──たしか、ザルキビッチュ・ステツレルと、私は聴きましたが。ではあの、ベーリングの探検船『聖ピヨトル』号に乗り込んだ、博物学者のステツレルはそもじの父なのか」
フローラは、それを眼色でうなずいて、むしろ冷たく言い返した。
「もっとも、母のドラと従妹だったせいもあるでしょうが、父とベーリングの仲は、それはまたとない間柄だったのです。私は、出発の朝──それが六つの三月でしたけれども、二人には雪割草の花束を贈り、また二人からは、頭をなでられたのを、記憶しております。ところが、ベーリング様は、翌年の十二月八日に、ベーリング島でお亡くなりになりました。父も最初は、チウメンで、その五年後に凍死したという、噂を立てられましたのです。それが気病みとなって、ほどなく母は、私を残してこの世を去ってしまいました。
ところがそれからも、私の不仕合せはいつから尽きようとはいたしませず、慈悲も憫れみもない親族どもは、私をカゴツ(中欧から北にかけて住む一種の賤民)の群れに売り渡してしまったのです。そうして、普魯西から波蘭を経て、魯西亜の本土に入り、それからは果てしのない旅を続けました。
その間私は、いつ海が見えるか、見えるかと思いながら、草原の涯に、それは広大な幻を描いておりました。なぜかと申しますなら、父を奪い去った海、あの自由な不思議な水の国を見て、私は自分の運命を、泣きもしようし悲しみもしようし、またその底深くに、もしやしたら、あきらめがありはしないかと思われたからです。
そうして、とうとう海に近い、チウメンまでたどりついたのですが、それは氷が割れて、新しい苔が芽を吹き出す五月のこと、それでかかった十数年の旅の間に、私はすっかり、熟し切った処女になっておりました。ところが、チウメンに宿を求めた、三日目の夜のこと、私は思いがけなく父に出会ったのでした」
「したが、成人されたそもじを、父はどうして知りやったのじゃ、さぞ幼いころの面影を思い出して、そもじの父は、泣きやったであろうな」
とわがことのように、紅琴が急き入るにもかかわらず、フローラはいっこうに表情を変えなかった。
「いいえ、それはこうなのでございます。実は、炉辺のつれづれ話に、うっかり私は、本名を明かしてしまったのです。すると、そばにおりました富有そうな老人が、やにわに私の腕をつかんで、別室に引き入れました。その老人が、以前は『聖ピヨトル号』の船長だった、グレプニツキーだったのです。
そして、私の父が、今なおこの町に、生存していることを話してくれましたし、何よりその場で、私を父に会わせると誓ってくれました。しかし、翌朝になってみると、この世が現在も未来も、すべてがもの恐ろしい、空虚の底へなだれ込んでしまったのを知りました。
私は、いつの間にか、壁側の椅子になんということなく腰を掛けていて、この上は苦しみから逃れるために、いっそ生命も尽き、墓石の下で安らかに眠りたいとばかり念じておりました。それは、眼の前に、冷え冷えと横たわっている、一人の老人があったからです。
父でした──ええ、父ですとも、なんで幼かったとはいえ、私の記憶からあの面影が消え去りましょうか。しかし、父は中風を患ったとみえて、私のことなどさらさら記憶にもなく、おまけに左眼はつぶれ、右手は凍傷のため反り腕になっていて、両手の指は、醜い癩のようにひしゃげつぶれているのでした。その腕を広げて、あろうことか、私に淫らしい挑みを見せてまいったのです。そして、その獣物のような狂乱が、とうとう私に……」
とフローラは、長々と尾を引いて、低く低く声を落としたが、続けた。
「ですけど、お慈悲深い基督様は、たぶん私をお許しくださるでしょう。およそ地上に、こうも不思議と神秘に満ちた大いなる愛があるでしょうか。私は、父の死後の生活を思って、同じ血同じ肉の交らいを、犯させまいとして、父を刺し殺したのでございます。ですけど、父と子のつながり──あの血縁の神秘は、決して、夢の中で話されるような、取りとめのない言葉ではございません。
私は、そのようにして、父を安土に導いたとはいえ、一方では、あの狂った哀れな父が、二度と再び現われてこないと思うと、不意に、痛ましい悲しみの湧くのを覚えるのでした。けれども、そこには一つの疑惑があって、果たしてあの男が真実の父なのだろうか──そう思うと、面影にこそ記憶があれ、いちずにそうとのみ、決めてしまうのができなくなったように思われました。
そうして私は、父の遺骸を始末してくれた、グレプニツキーに伴われて、いつ尽きるか果てしのない、苦悩と懐疑の旅にのぼっていったのです。そこで、お話ししなければならないのは、なぜグレプニツキーが、はるばるサガレンまで来たかということです。実は奥方様、あの男は、カタリナ皇后から、アレウート号の船長に任命されて、このラショワ島にある黄金郷の探検を命ぜられたのです。あの黄金都市の輝きを、いまも私は、はっきりと見たのでしたわ」
その一言で、はしなく三人の目が一つになった。
それは、驚異などという言葉では、とうてい言い表わせない、むしろ恐ろしい、空虚のように思われた。ことに、横蔵の眼は爛々と燃えて、今にも全世界が、彼の足下にひれ伏すのではないかと考えられた。
フローラは、言葉を次いで、
「つきましては、最初からの事を申し上げねばなりませんが、グレプニツキーの話によりますと、それが、一七四一年六月のある朝だったそうでございます。この島の南々東二カイリの海上を進んでおりますうちに、聖ピヨトル号の甲板にいた、ベーリングと父が、はっきりとこの島の上に、円い金色の幻暈を見たのでした。
それは、海霧の中を、黄色い星の群れが、迷いさまよってでもいるかのように、その金色の円盤が、島を後光のように覆うていたとか申します。そして、ベーリングはただ一人小舟を操って、そのころは無人島だった、この島に上陸したそうですが、その結果がどうであったかということは、とうとうもどってからも、聴かれなかったとかいうそうでした。
ところが、その年の十二月八日、ベーリング島で臨終の朝に、はしなくその秘密が、ベーリングの手で明らかにされました。壊血病にかかって、腐敗した腿の上に、見えない眼で、EL DORADORA──とまで書いたそうですが、それなり父の手を、かたく握りしめてあの世に旅立ってしまったのでした。
その RA が、RASHAU 島の最初の一つづりであることは、すでに疑うべくもありません。しかし、それを見て父はあまりの驚きに狂ってしまったのでしたが、グレプニツキーは翌年本土にもどって、その旨をカタリナ皇后に言上したそうです。けれども、奥方様、私は乗り込んだアレウート号の中で、ふたたび、あの獣物臭い恐怖を経験することになりました。
それが、どうでございましたろうか、心臓を貫いて、硬ばりまでした父が──しかも八尺もの地下に葬られたはずの父が、いつの間にか船に乗り込んでいて、私の前に、あの怖ましい姿を現わしたのですから、私は、土をかき分け、墓石を倒した血みどろの爪を、はっきりと見たのでしたわ」
恋愛三昧
「それが、乗り込んでから、十八日目の夜のことで、戸外の闇には、恐ろしい嵐が咆え狂っておりました。冷たい風が、どこからとなく隙をくぐって、ともすると消されがちな、角燈を揺らめかしているのでしたが、私は、なんのことなく椅子にかけていて、いつか通り過ぎた、シベリアの村々を夢見ておりました。すると、霧が細かい滴となってかかる、ガラス戸の向こうに、それはおそろしいものが現われたのです。
どす黒い、斑点のある、への字形に反りかえった腕が、格ガラスの右端から現われて、今にも、ハンドルに手をかけようとするのです……おお、父はよみがえったのでした。どうあっても、あんな片輪めいた、反り腕の男など、乗組員の中には一人としていないのですから。そう思うと私は、頭の中の血が、サッと心臓に引き揚げたように感じて、クラクラと扉によろめきかかりました。そして、呼吸を落ち着け、しっかりしようと努力しながら、扉に当てた椅子に、いつまでかじりついていたことでしょう。
しかし、父の腕は、その瞬間限り消えてしまいましたけれど、ふとそれにつれて、私の胸にギスリと突き刺さったものがありました。というのは、海に乗り出すと間もなく、船内に、それは得体の知れない、悪疫がはびこってきたからでした」
「悪疫」
三人は、思わず弾ね上げられたような、声を立てた。
「さようでございます。最初は、二、三日下痢模様が続きますと、骨も髄も抜け果てたようになって、次第に皮膚の色が透き通ってまいるのです。それで、病人たちは、死の近きを知るころになると、きまって船底近い、臥床から這い出していくのです。そして、狂気のようになって、甲板へ出ようとしますけれど、そこには岩のような靴と、ヒューヒューうなる鞭が待ち構えているのでした。でもう、しまいには死の手に押さえつけられてしまって、わずかに首と、弱った頭をもたげるにすぎなくなってしまうのです。
ところが、それから二度三度と現われた父の手は、いつも決まって、船底に続く鉄梯子の方角のほうから現われてくるのでした。それからというもの私は、もしやしたら父と悪疫との間に、何か不思議なつながりがあるのではないか──ないかないかと、それのみをただ執念く考えつめるようになりました。ですから、その軍船の中には、じりじり燃え広がっていく、恐ろしい悪疫と……。それから、野鳥のように子を犯そうとする、煙のような悪霊とが潜んでいるのです。
打ち沈めて、……お願いですわ。……打ち沈めてくださいまし。それでないと、今にきっとこの島には鳥一羽、寄りつかなくなるに決まってますから」
次第に調子を高めてきたフローラは、最後の言葉を、つんざくような鋭さで叫んだ。
すると、応と答えた横蔵が、撥を取り上げ、太鼓を連打すると、軍船を囲んだ小舟からは異様な喚声があがり、振り注ぐ火箭が花火のように見えた。
そうしてしばらくの間、アレウート号の炎は、いろいろな形に裂け分かれて、真紅の模様を、輝く水面に刻み出していたが、やがて波紋が積もり重なり、柔らかな鏡のようになると、わずか突き出た檣の先に、再び海鳥が群がりはじめた。
こうして、フローラを忌まわしくも追い続けた悪霊の船、悪疫を積んだアレウート号は、再び水面に浮かぶことがなかったのである。
その間、ちらつく火影の中で、紅琴はフローラの物語を聴き続けていた。
「でございますもの。私がいつか、あの船を逃れよう逃れようとしたって、無理ではございませんでしょう。ところが、そうこうともだえているうちに、計らずも今朝、黄金郷の輝きを望見したのでございます。
それは、白夜がはじまろうとする白っぽい光の中で、島の頂きを覆う金色の輪が、暈のように広がり縮んでいて、それは透かし絵の、影像のように見られたのでした。しかし、その冷たい湿っぽい感覚が、私の肺臓にずうんとしみわたりました。逃れるのはいま──私は、鹹っぽい両掌に汗を浮かべて、病を装おうと決心しました。それからが、こうして、手厚いおもてなしをいただく仕儀にございます。どうかいつまでも、下碑になりと、御手元にお置きくださいませ」
永々と続いた、フローラの物語は終わった。
ちょうどそれは、鏡に吹きかけた息のようなものであった。彼女をおびやかした、忌まわしい悪夢の世界は、すべて何もかも、海中に没し去ってしまったのである。
そうしてフローラは、新しい生活を踏み出すことになった。
しかし、ベーリングをはじめ、彼女さえも遠望したという黄金郷の所在は、ついに、この島のどこにあるのか明らかではなかった。それは、フローラという緑毛の処女が、そもそも神秘的な存在であるように、黄金郷という名を、聴いただけでさえ、三人は竜巻の中に巻き込まれたような気がしたらしい。
ところが、その翌日から、フローラをめぐって、この島には激しい情欲の渦が巻き起こることになった。
その翌日──フローラがすがすがしい陽の光に眼覚めたとき、浜辺のほうから、異様な喚声が近づいてくるのを聴いた。
見ると、彼女はハッとなって胸を抱きしめた。そこには、土人たちに取り巻かれて、昨夜運命を、船と共に決したとばかり思われたグレプニツキーが、無残な俘虜姿をさらしているのだ。
首には、流木の刺股をくくりつけられ、頭はまた妙な格好で、高く天竺玉に結び上げられている。そしてこの黄色い顔に、洞のような眼をした陰気な老人は、突かれては転びながら、次第に岩城さして近づいてくるのである。
けれども、それから始まった、横蔵の火の出るような尋問も、ついに効果はなかった。
やはり彼も、フローラと同じことを言うのみで、黄金郷の所在は、依然迷霧の中に閉ざされているのであった。それから、グレプニツキーは、土人小屋に収容されたが、賢しい紅琴は、早くもただならない、二人の気配を悟ることができた。
「そもじ二人は、小さいながら、このラショワ島が一国であるのを忘れたとみえますのう。総じて貴人というものは、上淫を嗜むのです。そなた二人は、虹とだに雲の上にかける思いと──いう、恋歌を御存じか。そのとおり、王侯の妃さえも、犯したいと思うのが性情なのじゃ。そのゆえ、遊女には上﨟風の粧いをさせて、太夫様、此君様などともいい、客よりも上座にすえるのです。それも、一つには、客としての見識だろうと思いますがのう。くれぐれも、女子の情けを、ひどう奪ってはなりませぬぞ。それで、今日この今から、フローラを太夫姿にして、私は、意地と振り(客と一つ寝を拒む権利)を与えようと思うのです。相手の意に任せながら、その牆を越えてこそ、そもじ二人は、この島の主といえるのじゃ」
昨夜に続いて、再びこの島にも、聞くも不思議な世界が、ひらかれいこうとしている。
それは、横蔵、慈悲太郎の瞳の底で、ひそかに燃え上がった、情けの焔を見て取ったからであろうか、二人の争いを未然に防ごうとして、紅琴が、世にも賢しい処置に出たのであった。そして、フローラには、あわただしい、春の最初の印象が胸を打ったのである。
ぬれた、青葉のような緑の髪を、立兵庫に結い上げて、その所々に差し入れた、後光のような笄に軽く触れたとき……フローラの全身からは、波打つような感覚が起こってきた。またそうした、恋の絵巻の染めいろを、自分の眉、碧々とした眼に映してみると、その対照の香り不思議な色合いに、われともなくフローラは、美の泉を見いだしたような気がした。
彼女は、ハッハと上気して、腰を無性にもじもじ回しはじめた。
それから、床着の黄八丈を着て、藤紫の上衣を重ね、結んだしごきは燃え立つような紅。そのしどけなさ、しどけなく乱れた裾、燃え上がる裾に、白雪と紛う腓。やがて、裲襠を羽織ったとき、その重い着物は、黄金と朱の、激流を作って波打ち崩れるのだった。
こうして、フローラに太夫姿が整えられると、悩ましかった過去の悪夢も、どこかへ消え去ってしまった。
彼女は、二つの世界の境界を、はっきりとまたぎ越えて、やがて訪れるであろう恋愛の世界に、身も世もなく酔い痴れるのだった。
けれども、翌日から彼女を訪れるものは、やはり横蔵であって、慈悲太郎は、自分から近づくような気振りを見せなかった。それが、フローラの影法師を抱きしめて朦朧とした夢の中で楽しんでいるように見えたのである。
「のうフローラ、そなたとこうして、恋のはじめの手習いをするにつけて、つくづく近ごろは、沖に船が、通らねばよい──とのみ念ずるようになった。したがそなたは、儂の髪ばかりを梳いていて、なぜにこちらを向いてくれぬのじゃ。察してくりゃれよ。日がなそなたの呼吸を、首ばかりでのう、嗅いでおる儂をな」
と、横蔵が、恨みがましい言葉を口にしたように、何よりフローラは、彼の艶々しい髪の毛に魅せられてしまったのだ。
海気に焼け切った、横蔵の精悍そのもののような顔──鋭く切れ上がった眥、高く曲がった鼻、硬さを思わせる唇にもかかわらず、その髪は、豊かな大たぶさにも余り、それが解かれるとき、腕に絡んで眠る水精のように思われたのだった。
しかし、それには理由があって、以前大陸の東海岸に近いある町で、偶然フローラは、一枚の木版画で日本という国を知ったのであった。
それには、顔に檜扇を当てた、一人の上﨟が、丈なす髪を振り敷いて、几帳の奥にいる図が描かれてあって、それに感じた漠然としたあこがれが、いまも横蔵の、美しい髪を見るにつけ意識するともなく燃え上がったのであった。
「ホホホホ、お難かりもほどになさいませ。いま一の絃をしめて、私調子を合わせたばかりのところでございますわ」
と華奢な指に、一筋髪を摘まんで、輪になったそれを解しながら、
「ではいっそのこと、合わせ鏡をしたら……。それほど、私の顔を御覧になりたいのなら──、いかがでございますか」
と持ち添えた、二つの鏡をほどよく据えて、前方の一つ──なかに映った横蔵の顔を、じっとのぞき込んだときだった。
何を見たのかフローラは、アッと叫んで、取り落としてしまった。なぜなら、そこに映ったのが、銅々と光った、横蔵の半面と思いのほか、意外にも、奇怪を極めた絵となって飛びついてきたからだ。すでに、海底の藻屑と消えたはずの父ステツレルの顔が、つぶれた左眼を暗くくぼませて、寒々とこちらを見返しているのだ。
その黄色い皮膚、薄汚い襞々は、まるで因果絵についた、折れ目のように薄気味悪く、フローラは全身の分泌物を絞り抜かれたような思いだった。それからフローラは、邪険に横蔵を追いやって、その折回廊を、慈悲太郎が通り過ごしたのも意識するではなく、ただただ父の名を呼び、いつまでも、しびれたように座っていた。
その一瞬の間に、彼女の眼は別人のように落ちくぼんでしまった。
鉄の輪が、いつもこめかみを締めつけているように感じ、舌は、熱病のような味覚を持っていた。しかし、そうしているうちに、ふと横蔵の迫り方を思うと、いつかチウメンで出会った、あの恐怖がしくしくと舞いもどってきた。
父の影を持つ男──それに、いつか身を任さねばならないとすれば、神かけても彼女は不倫から逃れねばならない。そう思うと、フローラはすっくと立ち上がって、一つの恐ろしい決意を胸に固めたのである──あのいとわしい幻影を殺すために、まったく不思議な心理、信ぜられない潔癖のために、彼女は、横蔵に生存を拒まねばならないのだ。
「のうフローラ、姉の才量で、今日から城内に、グレプニツキーを入れることにした。そして、黄金郷の在所を、じわじわ吐かせることに決めたのじゃ」
と言った横蔵の唇が、いつになく物懶げであったように、それから数日後になると、果たしてステツレルの出現と合わしたかのごとく、城内には、悪疫の芽が萌えはじめてきた。
それは壁という壁から立ち上がる、妖気でもあるかのように、最初横蔵に発して、さしも頑強な彼も、日に日に衰えていった。錐のような髯が、両頬を包んで、灰色がかった皮膚から、一日増しに弾力が失われていくのだ。
したがって、フローラの決意も、やがて下ろうとする自然の触手を思うと、いつか鈍りがちになるのも無理ではなかった。
ところが、それから一月後のある朝、思いがけなく横蔵が、胸に短剣を突き立てられ、うねくる血に彩られた、無残な姿を発見された。
その日は、垂れこめた雲が、深く暗く、戸外は海霧と波の無限の荒野であった。その夜慈悲太郎はフローラと紅琴を前にして、彼が耳にした、不思議な物音のことを語りはじめた。
「ちょうど、寅の刻の太鼓を聴いたとき、風にがたつく物の響き、兄の吐くうめきの声に入り交じって、それは、薄気味悪い物音を聴いたのじゃ。のう姉上、儂の室の扉の前を離れて、コトリコトリと兄のいる、隣室に向かう足音があったのだ」
「いやいや、何かそちは、空想におびやかされているのであろうのう。気配とやらいうものは、もともと衣としか見えぬ、ちぎれ雲のようなものじゃ」
「ところが、それには歴然とした、明証がありおった……。通例の歩き方で、二歩というところが一歩というぐあいで、その間隔が非常に遠いのじゃ、それで、なにか考えながら歩いておったと儂は推測したのだが……」
「おお、それでは……」
とフローラは、いきなり紅琴の腕をつかんで、けたたましく叫んだ。
「それでは、父の亡霊が歩んでいたとおっしゃるのですか。中風を患った父は、不自由なほうの足を内側から水平に回して、弧線を描きながら運ぶので、自然そんなぐあいに聞こえるのでございますよ。ああ、あの父が、チウメンで殺された、アレウート号といっしょに、沈んだはずだった父が……」
フローラは、心痛と恐怖のあまり、歯はがちがちと打ち合い、乾いた唇から、嗄れたうめき声を立て続けるのだった。
しかし、不倫の悪霊ステツレルは、どうしたことかそれなり姿を現わさなかったし、また横蔵の、下手人とおぼしいものも発見されなかった。
そうして、いつとなく思い出さえも薄らいでしまって、今ではフローラも、慈悲太郎の唇を、おのが間にはさむような間柄になった。
慈悲太郎は、兄とはちがって、白いふっくらとした肉で包まれ、むしろ、女性的に見えるのだが、その弾力、薄絹のような滑りに、フローラはじりじりと酔わされていった。
その日は、空が青い光を放ったように思われ、波濤の頂きが、薔薇色のうねりを立てていた。
「こうして、白い雪のようなお肌の上に、手を置いておりますと、私の手が、なんとなく汚らしく、それに、黄色く見えるようでございますわ。早く奥方様のお許しをうけて、あなた様のお肌をほんとうに、私のものとしたいくらいでございますのよ」
と悩まし気な、視線を彼に投げ、ほんのりと、紅味に染んだ見交わしの中で、その眼は、碧い炎となって燃え上がった。そして、片肌を脱がせ、紗の襦袢口から差し入れた掌を、やんわりと肩の上に置いたとき、その瞬間フローラは、ハッとなって眼をつむった。
彼女は、臆病な獣物が、何ものかを避けるように飛びのいて、ふたたび、その忌まわしい場所に視線を向けようとはしなかったのである。
というのは彼女が手を引くと同時に、窓越しに差し出された、一つの、煙のような掌を見たからであった。
それは、おそらく現実の醜さとして、極端であろうと思われる──いわばちょうど、孫の手といったような、先がべたりと欠け落ちたステツレルのそれであったからだ。
その夜、徹宵フローラは、壁に頭をもたせ、うずくまるようにして座っていた。
父ステツレルの怪異が──、あの妖怪的な夢幻的な出現が、時を同じゅうして、いつも、痴れ果てたときの些中に起こるのは、なぜであろうか。と、いくら考えつめていっても、同じような混沌状態と同じような物狂わしさは、いっかな果てしもなく、ただただ彼女だけが、その真っただ中に、取り残されているのを知るのみであった。
すると突然、ひゅうひゅうというすさまじい声が、空から聞こえてきた。
彼女の相手となる、男という男に、あの世から投げる父の嫉妬が、あまねく影を映すとすればいつか彼女に黴が生え、青臭い棺に入れられても、その墓標には、恋の思い出一つ印されないに相違ない。もう一度、そうだ……。もし慈悲太郎に、横蔵と同じ運命をたどらせるとすれば、もはや男と呼ばれて、彼女をおびやかす、忌まわしい対象が、この島にいなくなるのだ。
と思いなしか、前よりもいっそう狂い募る、波の響き、風の音の中から、彼女にそう警告したものがあった。
しかし、ここに奇異というのは、間もなく横蔵の場合と、符合したかのように、慈悲太郎が悪疫にたおされてしまったからである。
そして、季節も秋近く、そろそろ流氷のとどろきがしげくなったころ──、その日は、暮れるとともに、恐ろしい夜となって展開した。
一刻一刻と風は高まり、海は白い泡をかぶって、たてがみのような潮煙を立てた。その時、異様な予感にそそられて、フローラは頭をもたげ、部屋の濃い闇の中をじっとのぞきはじめた。それは、嵐の合間を縫って、どこからともなく響いてくる、漠然とした物音があったからだ。
そうして彼女は、その夜更けに、ふと慈悲太郎との部屋境にある、格ガラスを透かして、時折り青白いはためきをする、蝋燭の炎を見つめているうちに、いきなり、激しい恐怖の情に圧倒されてしまった。
見ると、扉がいつの間に開かれたのであろうか、荒れ狂う大風に伴った雨の流れが、その格ガラスの上に、ドッと吹きつけたのである。と思うと、瞬間おどろと鳴り渡った響きの中から、見るも透んだ蒼白い腕が──しかも、指のひしゃげつぶれた、反り腕の父のそれが──フローラの眼をかすめて、スウッと横切ったのであった。
黄金郷の秘密
翌朝になると、果たして慈悲太郎は冷たい亡骸と変わり、胸には、横蔵と異ならない位置に、短剣が突き刺さっていた。
その日の午後、フローラは、しょんぼり岬の鼻に立っていて、いまにも氷の下に包まれるであろう、死者のことを思いやっていた。それは、村々の外れに淋しく固まっている共同墓地の風景であった。
しかも、その時ほど、自分の宿命と、罪業の恐ろしさを、しみじみ感じたことはなかったのである。彼女は、靄の中に隠されている、ある一つの、不思議な執拗な手に捕らえられているのだ。その明証こそ昨夜まざまざと瞳に映った、父の腕ではないか。
そして、最初横蔵の鏡に映った片眼が、もしそうであるにしても──と、フローラは不思議な自問自答をはじめた。
というのは、はしなくその時の鏡が、古びた錫鏡だったのに気がついたからである。
元来錫鏡というのは、ガラスの上に錫を張って、その上に流した水銀を圧搾するのであるから、したがって鏡面の反射が完全ではなく、わけても時代を経たものとなると、それは全く薄暗いのである。すると、横蔵の背後に置いた一つが問題になってきて、もし、その角度が、光線と平行な場合には、当然水銀が黝んで見えるはずであるから、正面に映った横蔵の眼に、暗くくぼんだような黝みが映らぬとも限らないのである。
また、慈悲太郎の肩に現われた父の手も、どうやら錯覚らしく思われてきた。
というのは、白い地に、黄色い波形のものを置いて、その上を、紗のようなものでかぶせると、取り去ったとき、かえって残像が、白地のほうに現われて黒く見えるのである。
また、それには、光のずれのことなども考えられるので、あの時、指のひしゃげつぶれた、父の掌と思ったものも、蓋を割ると、案外たわいのない錯覚なのではなかったろうか。
と、フローラは、皮質をもみ脳漿を絞り尽くして、ようやく仮説を組み上げたけれども、昨夜見た父の腕だけは、どう説き解しようもないのだった。
彼女は、一夜のうちに若さを失ってしまい、罪の重荷を、ひしと身に感じた。そして何もかも紅琴に打ち明けて、彼女の裁きを受けようと決心した。
「そういうわけで奥方様、私は、基督様の御名など、口には出せぬ罪人なのでございます、横蔵様のときも、慈悲太郎様のときも──アレウート号に起こった、悪疫の因がそもそもではございますが──実は私、蝋燭の芯の中に砒石を混ぜておいたのです。そして、立ち上がる砒の蒸気で、数多の人の命を削ってまいりました。たしか、お気づきのことと思われますが、時折り見える、青い炎がそれでございました。ですもの、あの下手人が、だれであろうがどうだろうが、百度千度、清い心と自分から決めて十字を切ろうが、この憂愁と不安を除くことは、どうあってもできないのです。どうか私を、御心の行くままに、奥方様、どうなりともお裁きくださいまし……」
言い終わるとフローラは、まるで、汚物を吐き尽くした後のようにガックリとなった。
しかし、紅琴には、露ほども動揺した気色がなく、じっと石壁に映る、入り日の反射をみつめていたが、やがてフローラを促して、岩城を出で、裏山に上って行った。
その頂きは鉛色をした、荒涼たるツンドラ沼だった。
そこには、露をつけた、背の低い、名の知れない植物が這い回っていて、遠く浜から、かすかな鹹気と藻の匂いが飛んでくるのだ。紅琴の顔は、折りから白夜がはじまろうとする、入り日に燃えて、生き生きと見えた。
彼女はフローラに向かって、静かに、不思議な言葉を吐いた。
「そもじの嘆きは、葉末の露に、顔を映せば消えることです。独り胸を痛めて、私は、ほんとうに哀おしゅう思いまする。すでにそもじは、十字架に上りやったこととて、基督とても、そもじの罪障を責めることはできませぬぞ」
そういわれたとき、フローラは、眼前にこの世ならぬ奇跡が現われたのを知った。
眼が薄闇に馴れるにつれて彼女の眼は、ある一点に落ちて、動かなくなってしまった。
それは、葉末の露に映った、自分の頭上に、見るも燦然たる後光が照り輝いていて、またその光は、首から肩にかけた、一寸ばかりの空間を、透んだ蒼白い、清冽な輝きで覆うているのだ。
とめどなく、重たい涙が両頬を伝わり落ちて、歓喜のすすり泣きが、彼女の胸を深く、波打たせた。
が、そのとき、紅琴の凛然たる声を背後に聞いたのだった。
「だが、そもじの罪障は消えたとて、二人を殺めた下郎の業は永劫じゃ、私は、今日これから、そなたの前で、そやつを訊し上げてみせますぞ」
それから、小半刻ばかりたったのちに、一人の背の高い男が、浜辺に集った土民たちの中で、身を震わせていた。
海霧が、キラキラ光る雫となって、焼けた皮膚や、髯の上に並んでいくが その男はただ止まろうとせず、それが失神したようになって、おののいているのだ。
紅琴は、その男をにくにくし気に見すえて、言った。
「どうじゃグレプニツキー。いまこそ、妾の憎しみを知ったであろうのう。そもじを十字架に付ければとて、罪は贖えぬほどに底深いのじゃ。横蔵を害め、慈悲太郎を殺したそもじの罪は、いまここで、妾が贖ってとらせるぞ。よもや、慈悲太郎が聴いた、足音の明証を忘れはすまいな。だれか、早う、この者の靴を脱がすのじゃ」
凛とした声に、躍りかかった四、五人の者が、長靴を外すと、そのとたん、フローラは激しい動悸を感じた。
見ると、グレプニツキーの右足は、凍傷のため、膝から下を切断されていて、当て木の先には、大きく布片が結び付けてある。
しかし、事態を悟ったグレプニツキーは、意外にも、安堵したような爆笑を立てた。
「これは奥方様、お戯れにも、ほどがあるというもの。なるほど、靴を脱いでしまえば、片足には音がないのですから、さような御推測も、無理とは思いませぬが、しかし、黄金郷の探検を、共にと誓った御両所を、なんで害めましょうぞ。神も御照覧あれ、手厚いおもてなしに感謝すればとて、敵対の意志など、毫も私にはござりませぬのじゃ」
と、はだけたシャツの下から、取り出した十字架に接吻するのだった。
しかし、紅琴は、凝視を休めず言い続けた。
「ええ、そのような世迷いごとに、聴く耳は持たぬわ。この島の法は、とりも直さず妾自身なのじゃ。とくと真実を打ち明けて、来世を願うのが、為であろうぞ」
すると、グレプニツキーは、相手の顔をじっとみつめていたが、見る見る絶望の表情ものすごく、胸をかきむしって、咆え哮けるような声を出した。
「馬鹿な、短慮にはやって、せっかく手に入ろうとする、黄金郷を失おうとする大痴者めが。したが奥方、とくと胸に手を置いて、もう一度勘考したほうが、お為でありましょうぞ」
「ホホホホホ、なんと黄金郷とお言いやるのか……」
女丈夫は、蒼白い頬をキュッと引きしめて、嗤い返した。
「その所在なら、そもじは、不要じゃと言いたいがのう。妾はそうと知ればこそ、このラショワ島に砦を築いたのじゃ」
と、何やら合図めいた眼配せをしたかと思うと、もがいて投げつけられたグレプニツキーの上で、幾つとない銀色の光が入り交じった。
彼は、しばらく手足をばたばたとさせ、狂わしげにもだえていたが、やがて瞼が重たく垂れ呻きの声が途絶えると、そのまま硬く動かなくなってしまった。
紅琴は、しばらく眼を伏せて、グレプニツキーの死体を、気抜けしたように見つめていた。白っぽい、どんよりとした光の中で、海鳥が狂おしげに鳴き叫んでいたが、やがて、血が塩水にまじって沖に引き去られてしまうと、浜辺はふたたび旧の静寂にもどった。
そこへ、フローラは不審気な顔で、紅琴の耳に口を寄せた。
「でも、ほんとうでしょうか、奥方様。ほんとうに、黄金郷の所在を御存じなのでございますか」
「知らないで、なんとしようぞ。フローラ、そもじに、その所在を明らかにするについては、陸では聴く耳があるかもしれませぬ。私たち二人は、沖に出て話すことにしましょう」
と先刻は、鉄を断つ勢いを示したにもかかわらず、その紅琴が、なぜかもの淋しく微笑んで、一艘の小船を仕立てさせた。
次第に、フローラの体には、塩気が粘りはじめて、岩城の頂きが、遠く亡霊のようにぼんやりと見えた。うねりは緩く大きく、船はすでに、二カイリの沖合に出ていた。
するとその時、意外にも、紅琴の瞼がぬれているのを見て、フローラは驚いた。
「おや、奥方さま、なぜにお泣きでございますの。御兄弟お二人を失ったとはいえ、ラショワ島の御主、黄金郷の女王となったあなたさまに、涙は不吉でございますのよ」
「いえいえフローラ、私たちは、いまこそ島に別れを告げねばならぬのです。おお、あの岩城、横蔵、慈悲太郎──これからは、二人の塚を訪れる者とてないであろう。したが、そもじは気づかぬであろうけれど、あの二人がこの世を去ったとすれば、当然火器を作って、土民たちを従えるに足る者が、島にはいのうなったはずじゃ。その理由がようわかれば、なぜ私が、無辜のグレプニツキーを殺めたか、合点がいったであろうのう。私たちが島を去ったのち、見す見すあの者に、支配されるのを口惜しゅう思ったからじゃ。もう私は、ラショワ島の主でも、黄金郷の女王でもない。そもじと同じ、ただの女にすぎませぬのじゃ」
と紅琴は、伸び上がり伸び上がり、次第に点と消えゆく、島影に名残りを惜しんでいたが、その時、島の頂きに当たって、音のない爆音を聞いた心持ちがした。
突如、地平のはるか下から、白夜を押し上げるようにして、燦然たる金色の暈が現われたからである。
それを見ると、フローラは紅琴の裾に泣き伏して、よよとばかりに歔欷り上げた。
「あ、あまりな御短慮ですわ。見す見すあの黄金郷を捨てて、奥方様はどこへおいでになるおつもりでございます?」
「いえいえ、私たちは、黄金郷へ行くのですよ」
紅琴は、意外にも落ち着いた声で、そう言った。
「実を言うと、グレプニツキーをはじめ、島の頂きにある鉱脈に惑わされたのじゃ。あれは、黄銅といって、色は黄金に似ているとはいえ、価格に至っては振り向くものもない、その一部分が、露出しているために、背後に太陽があり、切れ海霧が丸うなってそばを通ると、あのとおり、金色の幻暈を現わすのじゃ。したが私は、誓って終局の鍵が、ベーリング島にあると思うのです。そして、ベーリングの空骸に印された遺書を見るまでは、なんで黄金郷の夢が捨てられましょうぞ」
「おお、それでは……それでは、これからベーリング島へ行くのでございますか」
とフローラは、たまらず不安と寂寥に駆られて、低く声を震わせた。
しかし、同時に彼女は、何事かを悟ったと見え、全身がワナワナとおののきだした。というのは、いま紅琴に説かれた黄金郷の正体が、ついぞ先刻、自分の頭上を飾った、後光と同じ理論に落ちたからである。
それが、いわゆる仏の御光(露が鏡面のように働いて、草の葉の面に太陽の像を現わし、また、その像が光源となり光線が逆もどりして、太陽のあるほうの側に、像ができる。そして、人の眼が、この像のできたところにあれば、露の中から、光を放っているように見えるのだ)──露に映した、自分の頭上に光輪が輝くことは、だれ一人知らぬ者とてない、普遍の道理ではないか。
すると、再びあの苦悩が、しんしんと舞いもどってきて、彼女は、深い畏怖に打たれた声で叫んだ。
こうして、尽きせぬ名残りと殺害者の謎──またフローラにとると、父ステツレルの妖怪的な出現に疑惑を残し、この片々たる小船が流氷の中を縫い進むことになった。
「まいりますとも、まいりますとも……。奥方さまのおいでになるところなり、どこへなりとお供いたしますわ。そして、私は父の亡霊を見にいくのでございます。それは、ほんとうの父ではございません──父の幽霊でございましょう」
それから、十数日の間というのは、まるで無限に引かれた灰色の幕の中を進んでいくようであった。
時として、低い雲が土手のように並んでいると、それが島影ではないかと思い、はっと心を躍らせるのであるが、その雲はすぐ海霧に閉ざされて、海も空も、夢の中の光のようにぼんやりとしてしまうのだった。
そうして、死んだような鉛色の空の下で、流氷の間を縫い行くうちに、ある朝、層雲の間から、不思議なものが姿を現わした。
その暗灰色をした、穂槍のような突角が、ベーリング島の南端、マナチノ岬であった。
そこは、宿る木一つとない、無限の氷原だった。
その、乳を流した鏡のような世界の中では、あの二つの複雑な色彩、秘密っぽい黒貂の外套も、燃えるような緑髪も、きらびやかな太夫着の朱と黄金を、ただただ静かな哀傷としてながめられた。
しかし、上陸した時には、糧食も残りわずかになっていて、二人は疲労と不安のため、足もためらいがちであった。それは、肉体だけが覚めていて、心が深い眠りに陥っているかのように、二人はただ、機械的に歩き続けるのみである。
それでなくてさえも、雲は西から北からと湧いて空中に広がり、すでに嵐の徴候は歴然たるものだった。
しかし、夜になると、二人は抱き合って、裲襠の下で互いに暖め合うのであるが、そうした抱擁の中で、ややもすると性の掟を忘れようとする、異様の愛着が育てられていった。
やがて、氷の曠原を踏んで猟虎入江を過ぎ、コマンドル川の上流に達したとき、その河口に、ベーリングの終焉地があるのを知った。
ところが、ベーリングの埋葬地点に達したとき、それがあたかも、悲劇の前触れでもあるかのように、さっと頬をなでた、砂のように冷たいものがあった。
それは、今年最初の雪で、静かに、乳のごとく、霧のごとく空を滑りゆくのだった。
そうと知って、紅琴は愕然としたけれども、千古の神秘をあばこうとする、狂的な願望の前には、なんの事があろう。二人は、互いに励ましながら、氷を割り砂を掘り下げると、果たしてそこからは、凍結した、ベーリングの死体が現われた。
それは、両手を胸に組み、深い雛を眉根に寄せて、顔には何やら、悩ましげな表情を漂わせていた。
しかし、息をあえいで太腿を改め、凍りついた、腐肉の上に瞳を凝らすと、やはりそこにはグレプニツキーの言うがごとく、EL DORADO RA という文字がしたためてあるのだ。
ああ、ついにそうであったか、しかし、もう再びラショワ島に帰ることは──と紅琴は、しばらく黙然としていたが、そうしているうちに、一つ二つと笄が、音もなく抜け落ちたかと思うと、両手に抱えたフローラの体に、次第に重みが加わっていく。
彼女は、すでに渾身の精力を使い尽くし、静かに、いまや氷原の真っただ中で、眠りゆこうとするのだ。
紅琴は驚いて、自分の胸を開き、暖めようとしたが、フローラは微笑んで、じっと紅琴の手を握りしめるのみであった。明らかにそれは、フローラにとって、もっとも不幸な瞬間が近づいたのを、紅琴に思わせた。
彼女は、胸に顔に、熱い息を吐きかけて、狂ったように叫びはじめた。
「これ、気を引きとめて、フローラ、もうしばしがほどじゃ。まだ、見えるであろうな聞こえるであろうな、そのいじらしさに、私は胸のつぶれる思いがしまする。私は、いまここで、黄金郷の所在を、突き止めることができたのですよ。フローラ、そもじこそ、不滅の黄金都市、エルドラドーの女王なのじゃ」
その瞬間、フローラの頬にほんのり紅味がさして、死の影の中から、はっきりとした驚きの色が現われた。
紅琴は、なおも続けて、
「と言って、何もラショワ島にもどるでもなく、この島にもない、それは、そもじの身内の中にあるのじゃ。実は EL DORADO RA と書かれたのは、黄金郷の所在ではなく、そもじと母のドラとベーリング──この三人の間の秘密なのじゃ。
そもじの母のドラは、ベーリングの従妹とか言うたが、ステツレルに嫁ぐまえ、ベーリングと懇ろにしおったのであろう。そのとき、妊ったのがそもじで、その名をベーリングが、末期の際に書いたというのも、ステツレルに対する懺悔の印なのじゃ。
なぜなら EL のEは、Fの見誤りで、次にあるDの字は、腐肉に現われた自然の斑文。その時、ベーリングは、Dの前にある腫粒に触れたために──のう、よいかフローラ、盲者というものは、粒のように微細な点でも、それに触れると、ひどく大きく感ずるものなのじゃ。それで、次のDを飛び越えて、EL DORADO RA と書いたものと思われます。
どうじゃ、わかったであろうな、それはラショワ島を暗示する、黄金郷の所在ではなく、そもじの FLORA と、母の DORA の名を連らねたもの。それゆえ、そもじの父はステツレルではなく、ベーリング海峡の発見者、ヴィツス・ベーリングなのじゃ。愛しのフローラよ、そもじの悩みは、貴い涙となって、父の顔の上に落ちまするぞ」
フローラは、無限の感動をこめて、じっと紅琴の顔を見つめている。もう、薄っすらとにじんだ涙にも流れ落ちる気力はなかった。
紅琴は、彼女の首をひしと抱いて、子供のように胸の上で揺すぶった。
「私は、そもじの過去を、はじめて会うたときに、それと悟ったほど……。その、燃えるような緑の髪も、惨苦と迫害の標章でのうて、なんであろう。そもじは、ネルチンスクの銅山にまで流れていき、髪にそのような、中毒が現われるまで、つらい勤めを続けたのであろう。だが、それはさておいて、今こそ、そもじに横蔵慈悲太郎を害めた、下手人の名を告げましょうぞ。
そもじが見た父とやらは、真実の腕ではなく、実は、格ガラスに現われる、性悪な気紛れなのじゃ。そもじは、砒石の蒸気を防ぐために、硫気を用いたのであろうけれど、それが市松のくぼみに溜まった水に溶け、黝んだことゆえ、まっすぐなものも、かえって反りかえって見えたのじゃ。
船内でも慈悲太郎の部屋でも、一つはそもじをねらった荒くれ漢、また一つが──この私だったと聞いたら、驚くであろうのう」
そう言って、高い木沓を脱ぐと、なかから、それは異様なものが現われた。双方の足趾は、いずれも外側に偏っていて、大きな拇趾だけがさながら、大箆のように見えるのだった。
それは、言わずと知れた、纏足だったのである。
「これを見たら、慈悲太郎の聞いた、足音の主が何者であったか、いまさらくどくどしく、説き明かすまでのこともないであろう。私は、イルクーツクの日本語学校で育てられたとき、漢人に興味を持った、魯人の一人にもてあそばれて、かような痕を残すようになった。それこそ、木沓を脱いだら、壁に手を支えぬと、私は歩けませぬのじゃ。のうフローラ、なぜに私は、かけ換えのない二人の兄弟──横蔵と慈悲太郎を殺めたのであろう。それは、そもじを、太夫姿に仕立てたのを見てもわかるであろうが、それとても、そもじが愛おしく、同胞とはいえ妬ましく、私の小娘のようにもだえ、またあるときは、鬼神のような形相にもなって、なんの不安もなく懸念もなく、いちずに愛の魔術に、愉しく魅せられ酔わされておったからじゃ。人は、恋に向かって歩み、その方向にひたすら進むものです。正しかったり貞潔であったにしても、それがなんの役に立ちましょうぞ。そもじの手は、もう動きませぬか、この白い、美しい臥床を選んで、いまこそ、そもじと妾は(八字削除)、フローラ、私はこの手で、そもじの灯火を消すまいと、腕を回しているなれど……」
けれども、フローラの浄らげな顔は動かず、眼を閉じて、眠っているのか、それとも、永劫の休息に入ったのかわからなかった。紅琴の眼は炎のように燃え、止めどない欲情に駆られて、フローラの体を掻い抱いた。
ぐるりの丘や岩は、不思議な樹木のごとく、咲き乱れた花のごとく、刻々と白く高くなっていく。
こうして、黄金郷の秘密も、悪霊ステツレルも、ラショワ島の殺人者も……、神秘と休息と眠りの中に、名状しがたい色調となり、溶け込んでいくのだった。
底本:「ひとりで夜読むな 新青年傑作選 怪奇編」角川ホラー文庫、角川書店
1977(昭和52)年10月15日初版発行
1980(昭和55)年10月25日6版発行
2001(平成13)年1月10日改版初版発行
初出:「新青年」
1935(昭和10)年10月号
入力:網迫、土屋隆
校正:ロクス・ソルス
2005年1月5日作成
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