わが妻の記
伊丹万作



        素姓


 中学時代の同窓にNという頭のいい男がいた。海軍少尉のとき、肺を病つて夭折したが、このNの妹のK子が私の妻となつた。

 妻の父はトルストイにそつくりの老人で税務署長、村長などを勤め、晩年は晴耕雨読の境涯に入り、漢籍の素養が深かつた。

 私の生れは四国のM市で、妻の生れは同じ市の郊外である。そして彼女の生家のある村は、同時に私の亡き母の実家のある村である。だから、私が始めて私の妻を見たのはずいぶんふるいことで、多分彼女が小学校の五年生くらいのときではなかつたかと思う。


        健康その他


 結婚以来、これという病気はしないが、娘時代肺門淋巴腺を冒されたことがあるので少し過労にわたると、よく「背中が熱くなる」ことを訴える。戦争中は激しい勤労奉仕が多く、ことに私の家では亭主が病んでいるため隣組のおつき合いは残らず妻が一手に引受けねばならず、見ていてはらはらするようなことが多かつた。家の中でどんなむりをしても外へのお義理を欠くまいとする妻は激しい勤労のあとでは決つて二、三日寝込んだ。こんなふうでは今にまいつてしまうぞと思つているうち、妻より先に日本のほうがまいつてしまつた。

 身長は五尺二寸ばかり。女としては大がらなほうである。

 きりようは──これは褒めても、くさしても私の利益にならない。といつて黙つているのも無責任である。だが──考えてみると妻もすでに四十四歳である。彼女の鬢に霜をおく日もあまり遠い先ではなさそうである。してみれば、私が次のようにいつても、もうだれもわらう人はあるまい。すなわち、「若いころの彼女は、今よりずつとずつと美しかつた」と。


        主婦として


 まず経済。家計のことはいつさい任してあるが決してじようずなほうではない。といつてむだ費いもしない。ときに亭主に黙つて好きな陶器や家具を買うくらいが関の山である。家計簿はつけたことがない。私がどんなにやかましくいつても頑として受け付けない。そういうことはできない性分らしい。近ごろではこちらが根負けして好きにさせてある。結婚当時の私の定収入は月百円、シナリオを年に二、三本書いて、それが一本二百円くらいの相場だつたから、どうやらやつては行けたが、彼女の衣類が質屋に行つたことも一、二度あつた。昭和八、九年ごろから十三年ごろまでは一番楽な時代で、この間はずつと八百円くらいの月収があつたから、保険をかけ、貯金をし、家具を備え、衣類を買うことができた。

 昭和十三年に私が発病してからは彼女の御難時代で、ことに現在では当時の半分しか収入がないうえに、物価が百倍にもなつたため貯金を費い果し、保険を解約して掛金を取りもどしたりしたが、それもほとんどなくなつた。昨年の秋からは、妻にも明らかに栄養失調の徴候が現われ始めた。要するに、現在は妻にとつて結婚以来もつとも苦難の激しい時である。

 育児。確かに熱心ではある。しかし、女性の通有性として偏執的な傾向が強く、困ることも多い。勉強などではとかく子供をいじめすぎる。もつともこれはどこの母親も同じらしい。去年の春、子供が潁才教育の試験を受けたときなどは心痛のあまり病人のようになつてしまつたのには驚いた。どうも母親の愛情は父親の愛とは本質的に違うようだ。食糧事情が窮迫してからは、ほかからどんなに説教しても自分が食わないで子供に食わせる。そして結局からだを壊してしまう。理窟ではどうにもならない。

 裁縫。きらいである。そのかわり編物は好きらしい。それにミシンがあるので子供のものだけは家で片づいてゆくが、大人のものはよそへ出す。それでいて裁縫がへたではない。一度妻の縫つたものを着ると、他で縫わせたものはとても着られないくらいだ。ただあまり丁寧な仕事をするため、時間がおびただしくかかり肩がこるらしい。

 掃除と整理。これはもう極端に偏執的である。たとえば自分の好きな所はピカピカ光るほど磨き上げるが、興味のない所は何年もほこりが積み放しになつている。家の中のある部分は神経病的に整然と物が並び、だれかが彼女のるすにホンの一ミリほど品物を動かしてもすぐに気づいてしまう。そのかわり、いつも手のつけようもないほどむちやくちやにものが突つ込んである所が家の中に一、二カ所は必ずある。

 妻のもののしまい方は普通の世間並とは大分違う。普通の人なら大概たんすにしまう品が食器棚にはいつていたり、流しの棚にあるはずのものが冷蔵庫にしまつてあつたりする。だから彼女の不在中にものを探しあてることはほとんど絶望である。探す以上は一応我々の常識と因襲を全部脱ぎ棄てて、白紙にかえつて探さねばならぬが、そんなことは容易にできることではない。次に、彼女の物の置き方、並べ方はことごとく彼女の抱いている美の法則によつて支配されているので、実用上の便宜というものは一切無視される。どんな不便を忍んでも彼女は自分の美を守り通そうとする。ときに私が抗議を申し込んでみてもとうていむだである。

 料理。結婚当初の半年くらいは、晩飯の食卓に料理が十品くらい並んでいた。ほかに何もすることがないので、私の働いている間中、晩飯のこしらえばかりやつていたのである。しかし、いつのまにか、だんだん品数が減つて、子供の世話に追われるころには「今日は沢庵だけよ」などということになつてしまつた。その子供も今は手が抜けて、妻はふたたび豪華な食卓を飾りたくてたまらないのであろうが、いかにせん、何も材料がなく、あつても買えなくなつてしまつた。

 妻の料理の中で最もうまいのは、何といつても郷土風のちらし寿司である。季節は春に止めを刺すので、材料はたい、にんじん、たけのこ、ふき、さやえんどう、しいたけ、玉子焼、紅しようが、木の芽などである。

 洋風のものではフランス料理を二つ三つ聞きかじつて知つている。ただし、おでんと天ぷらだけは亭主のほうが造詣が深い。


        趣味


 まず衣服であるが、全部和装ばかりで数もごくわずかしかない。洋装は何か妻の空気と合わないような気がする。当人も「私が洋服を着たらモルガンお雪みたいになるでしよう」と言つている。このモルガンお雪というのはたしかに感じが出ている。着物はほとんど全部私が見立てて買つたものばかりだ。もちろんどれも十年も前に買つたものばかりであるが、いま取り出してもまだ渋いようなものが多い。帯は二本か三本しかない。そのうちの一本は私が描いてやつたものである。絵は梅の絵で、右肩に『唐詩選』の句が賛にはいつている。それがちようどお太鼓の所一ぱいに出る。地は黒じゆすで顔料は油絵具のホワイトを少しクリーム色に殺して使い、筆は細い日本筆を用いた。

 妻はよほどこの帯が気にいつたとみえて、十年ほど、どこへ行くにもこれ一本で押し通したため、しまいには絵具が剥げて法隆寺の壁画のようになつてきた。それで五、六年前に新しく描き直してやつた。だから今のは二代目である。いつたい、妻は着物はねだらないほうである。着物はかまわないから家具を買つてくれという。好きな家具や調度を磨いたり眺めたりするのが唯一の道楽のようである。

 今までに彼女をもつともひきつけたのは宮沢賢治で、今も宮沢賢治一点ばりである。別に芸術価値がどうというのではなく「こんな心の綺麗な人はいない」といつて崇拝しているのである。

 その他で一番おもしろがつたのは『シートン動物記』で、これは六冊息もつがずに読んでしまつた。

 映画。映画はあまり好きではない。たまに亭主の作品でも出ると見に行くこともあるが、行かないこともある。その他はほとんど見ないようだ。いつか原節子が見舞いに寄つたとき、玄関に出て「どなたですか」ときいたくらいだから、その映画遠いこと推して知るべしである。


        行儀


 行儀、ことにお作法はむちやである。ねている亭主のところに来て、立つたまま話をする。枕の覆いを洗濯するとき、黙つていきなり私の頭の下から枕を引き抜く。私の頭は不意に三寸ばかり落下する。朝掃除に部屋へはいつて来ると、まずそこらの畳の上にほうきをバタンと投げ出して、いきなりパタパタとはたきをかけ始める。これで娘時代相当にお茶をやつたというのだから、あきれる。そして、彼女の言葉はまたそのお作法に負けないくらいにものすごい。彼女の語彙の中には敬語というものがいたつて乏しい。しかし、来客に対しては何とかごまかして行くが、私と差し向かいになつたら全然もういけない。

 私は何とかしてこれを直そうと思い、数年間執念に戦つてみたが、遂に何の効もなく、これも結局こちらが根負けしてしまつた。考えてみると、何とかして妻を自分の思うように変えてみたいという気持ちが私にある間、私の家ではあらそいの絶え間がなかつた。しかし、そのようなことは所詮人間の力でできることではないと悟つてからはむだな努力を抛棄したから、今ではほとんどけんかがなくなつてしまつた。

 つまり、亭主というものは、妻をもらうことはできるが、妻を作ることはできないものらしい。

(『りべらる』昭和二十一年四月号)

底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房

   1961(昭和36)年820日初版発行

   1982(昭和57)年625日3版発行

入力:鈴木厚司

校正:土屋隆

2007年725日作成

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