美談附近
岸田國士
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川村節子さんは、未だ嘗て、人のせぬことをしたことはなかつた。それほど、目立つことが嫌ひであり、異を樹てるといふことに趣味はなかつた。
ところが、たつた一つ、今度といふ今度は、人のせぬことを、ついしてしまつた。夫の周作が不機嫌な顔をするのも無理はない。
それは、新聞に、婦人の標準服といふものが図解入りで発表された、その日、川村節子さんは、式服を除いて、持つてゐる着物全部の両袖を切つてしまつたのである。
もう取り返しがつかぬ。
家にゐる時はともかく、毎日買ひ物に出歩くにも、隣組の常会へ行くのにも、また、ちよつと親戚を訪ねるのにさへも、誰も着てゐない筒袖を着なければならないのである。
初めのうちは、なるべく外へ出ないやうにし、そのうちにみんながさうなればと、その時を待ち暮したが、一向世間はさうなるやうに見えない。
切つた袖は、幾枚も、丁寧にほどいて、火熨をかけて、畳んで、蜜柑の空箱にしまつてある。
川村節子さんは、火熨をかけながら空想した──きつとこの両袖は、全国のを集めて、何かお国の役に立つ用途が考へられるに違ひないと。ふと「両袖献納運動」といふ言葉が頭に浮んだ。さういふ運動が、どこかの発議できつと起りさうな気がした。
しかし、何時までたつても、さういふ運動は起りさうになく、ただ人がぢろぢろと、自分の風変りな恰好を眺め、なかには、女仲間で薄笑ひを浮べた顔も目につく。
いつたい、どういふわけで、した方がいゝことを誰もしないのだらう?
「みんながする時にすればいゝんだ」
と、夫の周作は、当り前のことしかいはないのである。
川村節子さんは、常会でちよつと希望を述べてみたことがある。それもさうだが、この組だけでやつてもはじまらぬといふ大方の意見で、あつさり片づけられた。
新聞に投書をしてみようかとも思つた。夫に叱られさうである。川村節子さんは、たびたび、箱の中で切られた両袖がひそひそ話をしてゐる夢をみた。彼女の志はそれらの両袖に籠つて、今や脾肉の歎をもらしはじめたのであらう。
川村節子さんは、毎朝毎夕、新聞をひらいて「両袖献納」の文字を探してゐる。
ある地方の国民学校の校庭である。全校の生徒が円陣を作つてゐる。
その真ん中に、枯枝と落葉が一と山、焚火でもするやうに積まれてゐた。
国旗が空高くはためいてゐる。
校長先生を中心に、先生たちが厳粛な面持でその左右に控へてゐる。首席先生の手には、硝子箱入りの人形が青い眼を光らせてゐた。
校長先生の声は、時々北風にあふられて聞えなくなる。しかし、生徒たちには、話の本筋はよくわかつた。米、英は憎んでも余りある日本の敵である。われら神州に生れ、正義の剣を抜いて、今や、傲慢無礼なる彼等米、英人をこの地球から追ひ払はうとしてゐるのである。由来、アングロサクソンは、鬼畜の如く、悪魔の如く、時には慇懃、紳士の仮面を被つてわれに近づき、時には海賊ギャングの正体を現はして、わが周辺を脅かす。かのペルリが下田を訪れたのも、表面は親善を装ひながら、深い陰謀を秘めてゐたことは事実であり、近くは、同じ米国が、わが少国民を手なづけようとして贈つたのが、諸子の面前にあるこの人形である。
かういふ意味の前置きをして、さて、
「この人形の処置について諸子の意見を徴したところ、毀してしまへといふのが二百四十三、海に投げ棄てよといふのが三百十八、送り返せといふのが三、焼いてしまへといふのが三百二十一、それから、どこか見えないところへしまつて置けといふのが一、そこで、大体の意見としては、この人形を死刑に処するといふことにきまつたわけである。先生がたもみなこの意見に賛成せられたから、今日、此処で、全校の手によつて火焙りの刑に処することにした。不倶戴天の仇、米国の末路はかくの如きものである。高等科二年の加藤、その薪に火をつけろ」
呼び出された高等二年の加藤壮一は、静かに列を離れて枯枝の小山の前に立つた。先生の一人が差し出すマッチを、ちらと横目で見たまゝ、受取らうとしない。
「校長先生」
と、彼は、喉の裂けるやうな声で叫んだ。
「御命令なら、私は火をつけます。たゞ、一と言、申上げたいことがあります。
この人形は、十年以来、この学校に住み、われわれと共に教へを受け、日本人の心を心とし、日本の有難さを知り、再びアメリカへは帰らない、この土地のものになつてゐる筈だと思ひます。われわれは、一人のアメリカ人も、皇威にまつろはぬ限り、生かしては置きません。しかし、十年間、日本の学校にゐたアメリカ人形を、日本の味方にすることができなかつたとあつては、われわれの罪こそ、まさに死に値すると思ひます」
校長先生は眼をつぶつて考へてゐた。
アメリカ人形は、焼かれなかつた。
防空訓練が始まつた。
筒井莞爾君は生来の病身で、会社勤めも早くから罷め、現在は、細君の稼ぎで生計を立てゝゐる有様である。細君は、それゆゑ、結婚後歯科医の免状を取つたほどの夫想ひであつた。
「ご近所ではあなたのことはみんな知つてらつしやるんだから、家にじつとしてらつしやい」
夫の古ズボンをどうやらモンペ風に直して、それをキリヽとバンドで締めたのが、女群長さんの健気ないでたちであつた。
「しかし、寝てるわけぢやないから、さうはいかんよ。監視係ぐらゐは勤まるだらう」
「いゝえ、また熱が出るから駄目……」
いつも同じことである。細君が、最後の患者に含嗽をさせ、手術着を脱いで出て行くと、その後から、きまつて、筒井莞爾君は、国民服に脚絆を巻いて、見学に出掛けて行く。
訓練はだん〳〵激しくなり、本格的になつて来た。女軍の奮闘は特に目覚しかつた。濡れ筵を盾にして燃えさかる焼夷弾に突進するお向ひの奥さんは、薄化粧の頬に決死の色をみせてゐた。
いよ〳〵、負傷者を救護所へ運ぶことになつた。急造の担架が用意され、腕つ節の強さうな二人が選ばれた。強さうなといつても、女は女である。腰を屈める形もまことに優美である。
負傷者が指名される段になつてみんなが今度は、尻ごみをした。手を放されたらおしまひといふ危険がある。
「僕ぢやどうです」
と、この時、筒井莞爾君は、意気揚々と名乗つて出た。
女たちは、互に顔を見合はせた。
「なんにもお役に立たないから、それくらゐのことでもさせて下さい」
彼はもう、担架の上に長々と寝そべつた。
一、二、三で、担架は宙に浮き、弾力ある繊手を背中に感じながら、筒井莞爾君の両眼は晴れた青空の下を滑つた。
街筋は、ものみなが動いてゐた。警防団の制服が右往左往し、ホースが水を吐き、屋根が揺れ、梢は踊つてゐた。
筒井莞爾君は、これが若し、演習でなく、ほんたうであつたらと思つた。
遠く、飛行機の爆音が聞えた。
重傷者の役は、これは訓練にははいらぬと、彼は、はじめて気がついた。
さうでなくても、病弱の悩みは、筒井莞爾君の朝夕の悩みであつた。その悩みが、この訓練の担架の上にもあつた。
雲ひとつない空の一角に、キラリと銀翼が光つた。蜻蛉のやうな三機編隊の、まつしぐらに帝都を襲ふすがたと見えた。
筒井莞爾君は、右手を縮め、左手を差出し、肩に銃を当てゝ狙ふ真似をした。先頭の一機にぴたりと照準をつけた。そして、口の中で、ズドン、ズドンと敵機撃墜の「役目」を引受けた。筒井莞爾君の眼は怒りに燃えてゐた。
「これで約束の時間に間に合ひますか」
「さあ、ちよつと怪しいな、もう少し急がう」
「地図つてやつはどうも当てにならん」
「地図の方でもさう云つてるよ。医者と地図とどう関係があるつて……」
「それにしても、この辺は人家がなさすぎますね」
「人家無きところ患者あるべき道理なし」
めいめい思ひ思ひのいでたちながら、相当歩くことを覚悟で、××市を今朝発つて来た一行である。医者が二人、新聞記者が一人、国民学校の先生が一人、それに若い女性一人、看護婦である。
峠へさしかゝつた。遥か彼方から同じ道を国民服の二人連れがこつちへ登つて来る。
「ご苦労さま。だいぶ暇どれましたよ」
「もう準備はいゝんですか」
「みんな集つとります」
迎への二人はこの村の訓導と青年団員である。この村は、無医村なのである。
国民学校の教室が診療室に充てられ、老若男女、凡そ病めるものすべてがそこに集つてゐた。
新聞記者のA君が、まづ挨拶をした。
「両先生を御紹介します。こちらが××病院副院長B博士、こちらが××県医師会評議員、眼科のC先生です。特にお断りしておきますが、両先生はもちろん、われわれは決して慈善行為をするつもりはないのであります。病気の治療ができない方が一人でもあるといふことは、お国のために非常に心配なことです。この村にはお医者がゐない、そこで、手のあいてゐる医者が代り代りに来て、患者をみてあげよう、それは医者として当り前なことだ、今度は自分たちが、日曜を利用してひとつ出かけよう、かういふ軽い気持で来られたのであります。しかしです。私はこの一行に加はつて、両先生をみなさんにお引合せする光栄を得ましたについて、何よりもうれしいことは、両先生のさういふさつぱりしたお気持と、この村の村長さんはじめ、村民の方々の、かういふ仕事に対する十分な、ご理解とが、ぴつたり一致して、今後この村から病人を一人も出さないやうにといふ望みが、今、こゝに満ちてゐる春の日射しとともにお互の胸に湧き起つてゐるのがはつきり感じられることであります」
その日の暮れ方ちかく、一行は山を降つた。
「この遠足は、しかし、ちよつとしたもんだつたね」と、B博士は感慨深げに云つた。
「ちよつとしたもんだ。ところで新聞に出す手は絶対にないな、医師会の半分が動き出すまでは……」と、C先生は応じた。
鳥居朝吉君は弟の手紙を繰返して読んだ。
弟は郷里の中学を終へ、高等学校の試験に通つてゐながら、進んで現役志願をして満洲へ渡り、守備隊勤務に服してゐる間に、病を得て内地の病院へ還され、そこで除隊になつて現在は父母の膝下で静養をつゞけてゐるのである。
──からだの方はだいぶんよくなりました。兄さんが結婚されたことをハルビンで聞いた時、僕はこれでもう安心だといふ気がしました。それがどういふ意味か、兄さんにわかりますか。僕は家のことを考へたのです。北満の空は暗雲に覆はれてゐました。僕はいつでも死ぬ覚悟でゐたのに、やつぱり、家を出てゐられる兄さんのことが気がかりでした。ところで、今、かうして家に帰り、少し気持も落ちついて来て、自分の将来のことをあれこれと思ふのですけれども、これは実に不思議な変りやうです。ご承知のやうに、僕の宿望は博物研究です。肩書で云ふならば理学博士です。高校、大学といふ課程は当然踏まなければならぬと思ひ込んでゐたのです。それが、一旦、生死の境を越えて来た僕にとつては、まつたく他愛ない妄想に過ぎなくなりました。僕は、この郷土を離れたくありません。この古びた陰鬱な屋敷が、僕の魂をまだ育てゝくれるといふ気がするのです。そこには、僕の志と一体になり得る光明があることを、やつと発見したのです。家が百姓でないことは残念ですが、土地の人々の表情は僕に冷やかでないばかりでなく、僕の態度ひとつで、それが熱烈に燃えあがる何ものかを包んでゐることがわかりました。僕はおやぢの後をついで竹細工をやります。そして、段々に動植物の本を読み、実地の観察を丹念にやります。さういふ努力の結果が中央の学界を刺戟することになればもつけの幸ひです。結局は、僕の学問に対する情熱が、郷土と家とをはなれてあるのではなく、寧ろ、それへの愛着と献身とによつて一層確かなものになるといふ信念に到達したのです。
そこで、僕は兄さんにご相談したいのです。男の兄弟は僕たち二人ですから、本来なら兄さんが家に留まるべきだと思ふのですが、それは恐らく無理でせう。兄さんは恵まれた才能に従つて東京で好きなことをやつて下さい。日本の経済界の立て直しをやつて下さい。僕は、幸ひ次男として、誰からも強ひられず、不本意ながらといふのでなく、自分の興味と本性の命ずるまゝに、兄さんに代つて家を護ります。わが××町のために一生を捧げます。どうか、僕のこの願ひをそのまゝ信じて下さい。
鳥居朝吉君は、読み終つた手紙を膝の上に置き、「畜生ッ」と肚のなかで叫びながら、ぐつと胸をつまらせた。
浦野今市君は八歳の時から酒の味を覚え、三十五歳の今日、酒さへあれば何もいらぬといふほどの酒好きになつてしまつた。
八歳の時から酒の味を覚えたといふのは、彼が酔へば必ず誇張を交へて語る昔話によると、父親が将来酒の飲めぬやうな男になつてはいかんと、小学校へ上つた年から彼に晩酌の相手をさせたといふ。従つて、十一歳にして既に管を捲いたほどの神童で、と、これが人を笑はせる「落ち」なのである。
浦野今市君は、むろん今では一家のあるじである。貞淑な細君と、可愛らしい二人の子供とを、月九十何円かの月給で養つてゐる。
生活は決して楽ではない。その上、最近は債券を買つたり、貯金をふやしたりするために、消費の節約が絶対に必要とあつて、細君に気を揉ませるまでもなく、当人自ら進んで、酒代といふものを予算からきれいに削除してしまつた。
予算はきれいに削除したけれども、そこにはまだ余裕があつて、たまには好い機嫌で家に帰ることもある。懐をいためないで酔ふ方法がなくもなかつたのである。
ある日、浦野今市君は、しみじみとした調子で細君に話しかけた。
「おれは不思議なことを発見したんだが、同じ酒でも、近頃のやうに、只の酒ばかり飲んでると、どうも人間がだんだんひねくれて来るやうな気がする」
「それごらんなさい」
と、細君は、憂はしげに眉を寄せる。
「だから、どうしたらいゝんだ」
と、浦野今市君は、とぼける。
「すつかりやめておしまひになれないなら、家の方でなんとかしますわ」
夫の永年の習慣を、しかも、それほど害もないと思はれる楽しみを、こゝで急に奪つてしまふ気にはどうしてもなれないのが、細君としての真情であつた。
しかし、細君にさう出られると、浦野今市君も男の意地を立てねばならぬ。
「なんとかするつたつて、どうせお前一人に苦労させるだけのことだ。よし、断然やめる。やめる、やめる、なんと云つてもやめてみせる」
非常な決意である。あまりその声が大きかつたので、隣の部屋で勉強してゐた長女の国民学校二年生が、「お父ちやん、なにやめるの?」と、唐紙を開けて訊きに来た。
浦野今市君は、無理に微笑を浮べようとしたが、頬がつつ張つていふことをきかない。
細君は、夫の顔をちらと見て急いで眼を伏せた。
そして、眼を伏せたまゝ、娘の方へ、少しうつろな声で、云つた。
「あとで教へてあげるから、さ、早く勉強しておしまひ」
それ以来、もうかれこれ二ヶ月になるが、浦野今市君は、文字通り禁酒を実行して来た。時と場所と相手に応じて、或は胃潰瘍と瞞し、或は一滴も飲めぬと白を切り、或は家庭以外ではやらぬと、妙に威張つてみせた。
先づ第一に、会社の同僚が黙つてはゐなかつた。殊にそれまでの飲み仲間は、やゝ敵意をさへ交へた調子で、早く生命保険にはいれなどとからかつた。
浦野今市君は、別にさういふ仲間を怖れはしなかつた。禁酒の理由はどうにでもつけられるが、どんな理由よりも堂々とした理由が実際はある。それをわざ〳〵吹聴せぬところに、内心、浦野今市君の矜りがあつた。
そして、これまでは、どれほどのものともわからなかつた自分の意志の力を、こゝで試してゐるのだといふ、一種の満足も手伝つて浦野今市君は、むしろ、仲間の無反省を憐れみたいくらゐであつた。
よんどころない会合の席で、皮肉な若手と頑固な上役に盃を押しつけられ、進退谷まつて、彼は、粛然と膝を正し、
「折角ですが、実は、思ふところあつて、酒を断ちました。どうかあしからず」
と、空の盃を乾す真似をしてみせた。
一座はどつと笑ひこけた。浦野今市君の台詞としては、それほど奇想天外なのである。
夜おそく帰る夫の、ぱつたりと酒臭い息を嗅がせぬやうになつたその変りやうを、細君は細君で、いくぶん気味わるくさへ思つた。
しかし、なんで、その事にわざわざ触れる必要があらう。
細君は、それが初めからのことのやうに、良いとも、悪いともいはなかつた。たゞ、目立つて無口になる夫に、一言でも多く喋らせる工夫をした。家の中の火が消える思ひであつた。
日曜日の午後である。
浦野今市君は、庭の小さな花壇を野菜畑に掘り返すことを思ひたち、長女の二年生に二十日大根の種を袋のまゝ持たせ、
「まだ袋を開けちやいかんよ。ちやんと畝を作つてからだよ。かういふ風に塊りのないやうに土をならしてからでないとね」
お隣で借りた本物の鍬を、浦野今市君は、娘の前で、さも玄人らしく、軽々と振つた。
そこへ、珍しく、旧友の遠山三郎が訪ねて来た。
種はあとで蒔くことにして、浦野今市君は、ひとまづ手を洗つて座敷にあがつた。
遠山三郎は、別に用事があるわけではなかつた。たゞ、最近南方から得た便りなどを二、三紹介し、誰彼の幸、不幸について噂をし、総理大臣の健康を案じ、そして、最後に、酒を特別に飲ませる家を見つけたから、
「是非久しぶりに君を誘はうと思つてね」
と、なにも知らぬ風で、話をそこへもつて行つた。
ちやうど茶を入れかへに来た細君が、じつと息を凝らした。
浦野今市君は、ほとんど泣き笑ひとも云ふべき表情で、旧友遠山三郎の口元を見つめてゐた。
「ほんとだよ。嘘だと思ふなら来てみろよ」
「誰も嘘だなんて思やしないよ。たゞ、かう云ふと、君の方が嘘だと思ふかも知れないが、僕、近頃酒をやめたんだ」
「嘘つけ」
「嘘だと思ふなら……」
と、までは云つたが、証拠とてはなにもない。
「本当ですか、奥さん?」
「はあ」
細君はさう答へたが、ふと、それだけではなんとなく夫にすまぬ気がして、
「さうらしうございますわ」
と、附け足した。
「さうか。そいつはどうも……」
と、ひどく悄げ返る旧友遠山三郎の様子に、浦野今市君は、こゝぞと勇をふるひ「僕なんぞは、君、これくらゐのことでもしなけれや銃後の御奉公にはならんよ」と云ひかけて、それは胸の中へぐつと押し返した。
「しかし、弱つたな、部屋をとつて来たんだよ。それぢや、飯だけつき合へよ。酒はどうでもいゝから……」
数刻、押し問答の末、浦野今市君は、ともかく友情の拒むべからざるを知り、酒の方は一滴も飲まぬからと念を押して、夕暮の我が家を出た。
さて、夜風はもうさほど寒くはないけれども、更けるに従つて、留守をする細君は、空の荒模様が気になつた。
子供たちを寝床へ追ひ込んでから、細君は外の跫音に耳を澄まし澄まし、近頃、隣組で回読することになつた婦人雑誌の頁を静かに繰つてゐた。
九時が鳴り、十時が打つた。そして、間もなく十一時といふ時分、表の格子が開いて、ドタドタと踏みしめるやうな靴音がすると同時に、
「約束をするまでは断じて帰さん、帰すもんか」
玄関の上り口に肩を組み合つたまゝ坐り込んでゐる男二人の後姿を、細君は、電気もつけずに、茫然と見据ゑた。
「さあ、これから決して飲まんと誓へ。旧友の切なる忠告を聴け。貴公は酒ぐらひ思ひ切れんか。貴公はそんな男ぢやなからう……」
「わかつたよ、もうその話はわかつた」
「なにがわかつた? 酒を、今日限りやめろと云ふんだ」
「よし、よし、だから、もう眠ろよ」
細君は、たまり兼ねて、電燈のスヰッチをひねつた。
正体もなく酩酊した浦野今市君と、その腕に、これまたおとなしく首を抱へさせた旧友遠山三郎とはその時、同時に後ろを振り返つた。
「奥さん、どうも遅くなつて……」
「そんなこた、かまはん。こら、おれは酔つとるから云ふんぢやないぞ」
と、浦野今市君は、今度は、遠山三郎の首をはなして、正面に向き直つた。
細君が何か云はうとすると、それを強く手で制して、
「今夜は、なるほど御馳走になつた。おれが飲まんていふ酒を、貴公は言葉巧みにおれを瞞して、たうとう、好い気持にさせちめやがつた。いや、好い気持になつたのは、これや昔のおれだ。いゝか。今のおれは、貴公にわかるまいが、苦いもんで胸がいつぱいなんだ」
「ちよつと、あなた。もう好い加減になすつたら……。遠山さんがご迷惑ですわ」
「いや、いや」
と、遠山三郎は、頭に手をのせて、
「浦野はすつかり弱くなりましたな」
「余計なことを云ふな。弱いのはお前ぢやないか。人にばかり飲ませて、自分はなんだ。おれは、貴公が心からすゝめてくれる酒を断りかねた。いよいよこれが最後だと思つて、肚をきめて飲んだ。それがどうして悪い。友情は何ものにも代へ難いさ。だから、今度はおれの云ふことを聴け。酒をやめろ。理窟はいゝ。黙つて飲むな。さあ、おれに誓へ、おれの女房に誓へ。ハヽヽヽ明日から酒はアングロサクソンだと、あの冬空の星に誓へ……」
そこで、浦野今市君は、息を切らして、あふむけに、ごろりと寝ころんだ。
遠山三郎は、すつかり酔ひを奪はれたかたちで、挨拶もそこそこ引き上げた。
夫の服を脱がせ、床に就かせる細君の手並は鮮かなものだつた。それは、張合のあることのやうでもあつた。却つて、平生よりもいそいそとしてゐるかのやうにみえた。
しかし、浦野今市君は、細君に一と言も口を利かうとしなかつた。酔ひ方が今までとまるで違つてゐた。鼾までどこか淋しさうであつた。
細君は、その淋しさを、いろいろに考へた。そして、なかなか寝つかれなかつた。
翌朝、浦野今市君は、子供たちと一緒に眼をさまし、元気よく床から跳ね起き、庭へ出てラジオ体操をした。
細君は、チャブ台を拭きながら、さう云ふ夫の方へ軽く笑ひかけた。浦野今市君は笑はなかつた。が、急に、長女の名を呼んで、
「さあ、二十日大根の種を持つといで」
朝の陽が、黒々とした土の上に落ちてゐた。
底本:「岸田國士全集26」岩波書店
1991(平成3)年10月8日発行
底本の親本:「毎日新聞」
1943(昭和18)年3月20日~30日
初出:「毎日新聞」
1943(昭和18)年3月20日~30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年12月11日作成
2016年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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