首頂戴
国枝史郎



     一


 サラサラサラと茶筌の音、トロリと泡立った緑の茶、茶碗も素晴らしい逸品である。それを支えた指の白さ! と、茶碗が下へ置かれた。

 茶を立てたのは一人の美女、立兵庫にお裲襠かいどり、帯を胸元に結んでいる。凛と品のある花魁おいらんである。

 むかいあっているのは一人の乞食、ひどい襤褸ぼろを纏っている。だが何んと顔は立派なんだろう! ムッと高い鼻、ギュッと締まった口、眼に一脈の熱気がある。年輩は二十七、八らしい。

 茶碗を取り上げるとキューッとしごき、三口半に飲んで作法通り、しずかに膝の先へ押しやった。

 茶釜がシンシンと音立てている。香爐から煙が立っている。だがその上を蔽うているのは、莚張りの蒲鉾小屋、随分穢い、雨露にうたれたのだ。

 春三月、白昼まひるである。

「ここへ住んで一月になる、大分評判も高まったらしい」こういったのはその乞食。

「其方にも再々厄介になった」

「よい保養を致しました。わたしこそご厄介になりました」こういったのは花魁である。

「保養か、成ほど、そういえるな。いや全くいい景色だ。菜の花、桜、雲雀の唄、街道を通る馬や駕籠、だがこの景色とも別れなければなるまい」

「あの然うして妾とも」

「うむマァざっと然ういうことになる」

「お名残りおしゅうございます」

「泣きもしまいが、泣いては不可ない」

「泣けと有仰るなら泣きますとも、泣くなと有仰れば耐えます」

「祝って貰わなければならないのだよ」

「では笑うことにいたしましょう」

「ナニサ故意とらしく笑わないでもよい」

「では無表情でおりましょう」

「そいつだ」と乞食微笑した。「ああそいつだよ。無表情がいい。……墨をお摩り、何か書こう」

 蒔絵の硯箱が側にある。その横に短冊が置いてある。

 乞食スラスラとしたためた。

「読んでごらん唐詩からうただ」

「風蕭々易水寒シ」

「壮士一度去ッテ復還ラズ」

 膝元に青竹が置いてある。取り上げた乞食、スッと抜いた。

「怖くはないかな、村正だ」

 春陽にぶつかって刀身から、ユラユラユラユラと陽炎が立つ。

「怖いお方もございましょう、妾は怖くはございません」

 乞食、刀を見詰めている。

「鍛えは柾目、忠の先細く、鋩子ぼうし詰まってにえおだやか、少し尖った乱れの先、切れそうだな、切れてくれなくては困る」

 ソロリと納めると膝元へ置いた。

「華やかな行列が通るのだ。ああ然うだよ、江戸へ向かってな。が、ナーニ見たようなものだ。遣り損なうに相違ない。相手はあれ程の人物だからな。そこへこの俺が付け込むのだ。と、村正が役立つのよ」

 春の日がだんだん暮れようとする。

 街道を通る旅人の足が、泊りを急ぐのかあわただしい。


     二


「ほほう不思議な乞食だの」こういったのは総髪の武士。「淀川堤の蒲鉾小屋でな?」

「茶を立て香を焚き遊女を侍らせ、悠々くらしておりますそうで」こういったのは頬髯の濃い武士。「しかも素晴らしい名刀を所持しておるとかいうことで」

 大坂心齋橋松屋という旅籠、奥まった部屋での話しである。

「で、貴公、どう思うな?」

 こう訊いたのは総髪の武士、相手をためすらしい口調である。

「さよう」といったのは頬髯の濃い武士。「由縁ある武士が乞食に窶し……」

「親の仇でも討とうというので?」

「いかがかな、この見立ては?」

「どういうところから思い付かれたな?」

「名刀所持とあってみれば……」

「だが時々その名刀を、スッパ抜いて見るというではないか」

「それが何とか致しましたかな?」

 総髪の武士笑ったが、「目付かる敵でも逃げてしまうよ」

「ははあ」といったが解らないらしい。

「俺は敵討ちだ敵討ちだ、披露目をしているようなものだからの。だって貴公そうではないか」総髪の武士ニヤニヤと揶揄やゆするようにいい出した。「蒲鉾小屋に住んで、襤褸を着て、名刀を所持してスッパ抜く、ちゃァんと敵討ちに出来ている。そんな噂を耳にしてごらん、狙われている敵は飛んでしまうよ。そうでなかったら衆を率い返討ちにして殺してしまうだろう」

「成程」と今度は判ったらしい。「敵討ちでないとしますると、何処かの大通が酔興のあまり……」

「その見立てもあたらないな」総髪の武士蹴飛ばしてしまった。「いかさま茶を立て遊女を侍らせ、香を焚きながら蒲鉾小屋にいる。──という風流にもなろうけれど、どうもその後が似合わしくない」

「何んでござるな、その後とは?」

「矢っ張り夫れさ、名刀さ」

「ははあ名刀が邪魔しますかな」

「どだい風流というやつは、人間をノンビリさせ茫然ぼんやりさせ、生鼠にするのに役立つものでな、そこに風流のよい所がある。ところが刀というやつは、人間を頑張りにし意地っ張りにし、肘を張らせるに役立つものさ。このまるっきり反対のものを、一緒に引っかかえている以上、大通の酔興とはいわれないよ」

「これはご尤」と頬髯の濃い武士、照れたように苦笑を浮かべたが「貴殿のお見立て伺い度いもので」

「何んでもないよ、名を売りたがっているのだ。いい換えると評判を立てたがっているのさ」

「あああ評判を? 何んのために?」

「高く売ろうとしているのさ、彼奴の持っている何かをな?」

「ああ夫れでは名刀を?」

 するとクスリと総髪の武士、酸性の笑いを浮べたが「そうそうこだわっては不可いけないよ、ああ然うだよ。名刀ばかりにな」

「ははあ左様で、名刀め、今度は役に立ちませんでしたな。……夫れでは一体どんなものを?」

「うむ」という総髪の武士、にわかに真面目の顔になったが「彼奴自身、そのものであろう」

「あッ、成程、わかりました。太公望を気取っているので?」

「この見立は狂うまいよ」

「では武王が無ければならない」

「その武王こそ我々なのさ」

 ここで二人共黙って了った。

 ひっそり部屋内静かである。

 と、俄に声をひそめ、総髪の武士いい出した。

「大坂城代土岐丹後守、東町奉行井上駿河守、西町奉行稲垣淡路守、この三人を抑えつけた今日、我々の企て八分通りは成就したものと見てよかろう。後の二分とてこの順で行けば、先ず先ず無難と睨んでいい。さて所で我々の企て、いよいよ成就となった日には、お互大変なことになる。浪人から一躍大名になれる。そこでだ」といって来て総髪の武士、例の酸性の笑い方をしたが「いろいろの武士ども仕官したがっているなあ。そこで其奴も……その乞食も、仕官亡者と目星をつけても、大概外れることはないではないか。仕官亡者に相違ないよ。しかも奇矯な振舞いをして、世間にパッと評判を立て、その評判を我々に聞かせ、迎いに来るのを待っている奴だ。で、二通りに解釈出来る。山師かそれとも骨のある武士か? どっちにしてからが面白い。そこでこの俺は思うのだ。彼奴の投込んだ餌無しの針へ、ひとつ好んで掛かってやろうとな。我々にしてからがよい味方はほしい。で甚だ足労ながら、貴公即刻蒲鉾小屋へ行き、其奴の人物確めて下され」

 こういわれたので頬髯の濃い武士、深く頷いてノッソリと立った。

「但し」と総髪の武士が止めた。「セチ辛い浮世だ、そうでもないヤクザが、僅の餬口ここうにあり付こうと、柄にもない芝居を打つこともある。もしも其奴がそんな玉なら構うことはござらぬ、叩っ切りなさい」


     三


 松屋の玄関に列べられたは、鉄砲二十挺に槍十五筋、門の入口に造られた番所、そこに役人が詰めている。門の右手には紅白の幔幕、突棒刺叉捩など、さも厳しく立て並べてある。門を離れた左手にあるは、青竹で作った菱垣で、檜逆目のございません板へ、徳川天一坊殿御旅館と、墨色鮮かに書いてある。正面一杯に張り廻された、葵御紋の紫地の幕に、高張提燈の火が映じ、荘厳の気を漂わせている。

 ヌッと現われた頬髯のある武士。

「赤川大膳様ご外出でござる。駕籠を!」

 と呼ぶやつを手で制し、

「供は不用ぬよ」

 と抜出した。

 二、三町行くと懐中から、頭巾を取り出したものである。と見ると一軒の駕籠屋がある。つと這入った赤川大膳、

「駕籠一挺、早いところを」

 ポンと乗ると駆け出させた。本陣から駕籠に乗らなかったのは、秘密をたっとんだからであろう。

「山内伊賀殿はさすがに知恵者、旨いところを見抜かれたものだ。世間に評判を立てて置いて、迎えに来るのを待っている! 成程な噂に高い乞食、その辺に目星をつけているのだろう。そこで俺が迎いに行く。さあて何んな応待で其奴の本性見破ろうかな? 意外に偉い人物で、恥でも掻かされたら耐らない。ヤクザ者なら叩っ切る。こっちの方から手間暇は不可ぬ。野武士時代の蛮勇を揮い、スポリと一刀に仕止めるだけさ。……それは然うと此処は何処だ?」

 駕籠の戸をあけて覗いたが、

「よろしい、ここで下ろしてくれ」駕籠から出ると

「それ酒手だ」

「これは何うも、莫大もない」

 喜んで帰る駕籠かきを見すて、赤川大膳先へ進んだ。

 薄墨のように淀川堤、眼の前に長く横仆わっている。人家も無ければ人気もない。見下ろせば河原で枯れ蘆が、風に吹かれて揺れている。暁近い月の下に生白く光るは川水らしい。

「たしか此方の方角のはずだ」

 上流の方へ歩いて行く。

 と、果して蒲鉾小屋が、ハタハタと裾を風に吹かせ、生白く月光に濡れながら、ションボリとして立っていた。

「うむ、これだな」と立ち止まったが「さあ何んといって声をかけたものか?」思案せざるを得なかった。「乞食と呼ぶのも変なものだ。御免というのも変なものだ。まさかに許せなどともいわれまい。……はてな?」

 というと深呼吸をした。芳香が馨って来たからである。

「香を焚くという噂だが、成程な、香の匂いだ。しかも非常な名香らしい」

 とはいえ勿論野武士育ちの、ガサツな赤川大膳には、何んの香だか分らなかった。

 そういう赤川大膳にさえ、無類の名香に感ぜられたのだから、高価なものには相違あるまい。

 それが大膳を尊敬させて了った。

「御浪士!」と大膳呼んだものである。

 ところが内から返辞がない。でまた「御浪士」と呼んでみた。矢っ張り内からは返辞がない。

「眠っているのかな、留守なのかな?」

 耳を澄ましたが寝息がない。

「失礼、ごめん」と声を掛け、大膳、小屋のタレを上げた。

 落ちかかった月の蒼白い光が横からぼんやり射し込んでいたが、見れば誰もいなかった。

 だが白々と一葉の紙が莚の上に落ちていた。

 取り上げて見ると短冊であった。

風蕭々易水寒シ

壮士一度去ッテ復還ラズ

「ははあ夫れでは立ち去ったのか?」赤川大膳考え込んでしまった。「では山内伊賀之助殿の、仕官亡者という観察は、狂ったものと見なさなければならない。伊賀殿の観察を狂わせる程の乞食、いよいよ只者では無さそうだな。……焚きすてられた香の香が、残って立ち迷っているところを見ると、つい今し方立ち去ったのだろう。寒い! どっちみち帰るとしよう」


     四


 御先供は赤川大膳、先箱二つを前に立て、九人の徒士、黒積毛の一本道具、引戸腰黒の輿物に乗り、袋入の傘、曳馬を引き、堂々として押し出した。後から白木の唐櫃が行く、空色に白く葵の御紋、そいつを付けた油単を掛け、黒の縮緬の羽織を着た、八人の武士が警護したが、これお証拠の品物である。それから熨斗目のしめ麻上下、大小たばさんだ山岡主計かずえ、お証拠お預かりの宰領である。白木柄の薙刀一振を、紫の袱紗で捧げ持ち、前後に眼を配っている。つづいて血祭坊主が行く。つづいて行くのは島村左平次、戸村次郎左衛門、石川内匠たくみ、石田典膳、古市喜左衛門、山辺勇助、中川蔵人、大森弾正、齋藤一八、雨森静馬、六郷六太郎、榎本金八郎、大河原八左衛門、辻五郎、秋山七左衛門、警衛として付いて行く。つづいて行くのが天一坊の輿物、飴色網代蹴出造、塗棒朱の爪折傘、そいつを恭々しく差しかけている。少し離れて行くものは、天忠坊日親で、これまた先箱を二つ立て、曳馬一頭を引かせている。つづいて行くのは藤井左京、抑えの人数を従えている。最後に馬上で行くものは、即ち山内伊賀之助、熨斗目麻上下を着用し、総髪にして蒼白い顔、鷲のように鋭く澄み切った眼、広い額に善謀を現し、角ばった頣に果断を示し、高い頬骨に叛気を漂わせ、キッと結んだ唇に、揶揄、嘲笑をチラツカせている。これも片箱一本道具、曳馬無しに従えている。下座触制止の声を掛け、同勢すべて二百人、大坂を立って江戸へ入る。徳川天一坊の行列である。

 淀川堤へかかった時だ、山内伊賀之助上流を見た。

 蒲鉾小屋が立っている。

「ははあきれだな」と呟いたが、何となく不安の表情が、チラチラチラと眼に射した。

荊軻けいかの賦した易水の詩、そいつを残して立ち去った乞食、鳥渡ちょっと心にかかるわい。荊軻は失敗したのだからな。そうだ刺客を心掛けて。秦の始皇帝を刺そうとして。……勿論我々の企ては、将軍を刺そうというのではない。いやむしろあべこべだ。将軍になろうとしているのだ。しかし危険という点では、荊軻の企ての夫れよりも、より一層いちじるしい。……易水の詩! 失敗の詩! どうも幸先がよくないなあ」

 こんな気持を感じたのは、伊賀之助としては始めてであった。

「ナーニ何うだって構うものか、どうせヤマカンでやっていることだ。成功しようと思うのが、元々間違いといっていい。だがそれにしてもその乞食に、逢えなかったのが心残りとはいえる」

 下座触制止堂々と、行列は先へ進んで行く。

「九分九厘成就と思っていたが、何んだかあぶなっかしくなって来た。弱気というやつだな、こいつは不可ない! どうでも追っ払ってしまわなければならない……一番俺にとって致命的なのは、曾て一度も狂わなかった、自信のある眼力の狂ったことさ。一つ狂うと二つ狂う、二つ狂うと三つ狂う。どうして最後まで狂わないといえよう。……仕官亡者と思っていた奴が、仕官亡者でなかったばかりか、不可解の謎を投げかけて、姿をかくしてしまったんだからな」

 追っ払おうと思えば思うほど、伊賀之助の心には乞食のことが、こだわりとなって残るのであった。

 伊賀之助ズラリと行列を見た。「これほどの行列を押し立てて江戸入りするという事だけでも、正しく男子の本懐ではないか。しかし思えば気の毒なものだ、誰も彼も成功を信じている。誰も彼も俺を信じている。立身するものと思っている。誰も彼も肝腎のこの俺が迷っているとは感付かない」

 自信が強ければ強いほど、それを破ったその物が、その者を傷つけるものである。

「何者だろう、是非逢い度い。そうして易水の詩を残した、乞食の心持ちを聞いてみたい」

 執着狂の夫れのように、伊賀之助はそればかりを思うようになった。

 そうして夫れは事が破れて、江戸は品川八ツ山下の御殿で、多くの捕吏ほり囲繞とりかこまれ、腹を掻っ切ったその時まで、彼の心を捉えたのである。


     五


「オイ赤川、もう駄目だよ」

 こういったのは伊賀之助。

「どうにか成りませんかな、伊賀之助殿」

 こういったのは赤川大膳。

 八ツ山下の御殿である。

「どうなるものか、海上を見な、すっかりあの通り手が廻っている」

 窓をひらくと品川の海、篝火かがりびを焚いた数十隻の船が、半円をつくって浮かんでいる。

「漁船のようには見えるけれど、捕方の船に相違ない。海上でさえあの通りだ。陸上の警固は思いやられる。蟻の這い出る隙間もない──ということになっているのだ」

「それに致しても」と赤川大膳さも不思議そうに伊賀之助へいった。「大事露見と見抜かれながら、天一坊はじめ天忠、左京まで町奉行所へ遣られたは、如何の所存でございますかな?」

「うむ、そいつか」と伊賀之助、苦々しそうに眉をひそめた。「あいつらみんな悪党だからよ。まず天一坊からいう時は、師匠の感応院を殺したばかりか、お三婆さんをくびり殺し、まだその外に殺人をした。また常楽院天忠となると、坊主の癖に不埓ふらち千万、先住の師の坊を殺したあげく、天一という小坊主をさえ殺したのだからな。藤井左京も十歩百歩、神部要助という伯母の亭主を、これまた殺しているのだからな。事もあろうにこれらの三人、目上の者を殺している。天人共に許さざる奴等、そこで刑死をさせてやろうと、大岡越前の手の中へ、わざわざ捕らせにやったのさ。そこへ行くとお前は少し違う。野武士時代にはあばれもしたろうが、恩顧を蒙った目上の者を、殺したことはないのだからな。そうして俺に至っては、人をあやめたことはない。で多少は許されるだろう。そこでお前に贋病けびょうを使わせ、そうして俺も贋病を使い、二人だけ此処へ残ったってものさ。……さあさあ大膳腹を切ろう。まごまごしていると捕方が来る。それにしても」と伊賀之助、苦渋の色を顔に浮べた。「淀川堤に住んでいた、乞食のことが気にかかる。……彼奴見抜いていたのだな! 今日のことを、露見のことを!」

 ドッとその時戸外にあたり、ときを上げる声が聞えて来た。つづいて乱入する物の音!

「いよいよ不可ねえ、さあ大膳、捕方が向かった、腹を切ろう!」

 差添を抜いた伊賀之助、腹へ突っ込もうとした途端、捕方ムラムラと込み入って来た。

「おのれ?」

 と飛び上がった赤川大膳、太刀を揮うと飛びかかった。

「御用々々!」

 と叫びながら、大膳の殺気に驚いたか、サーッと後へ引っ返した。

「どうせ駄目だよ、追うな追うな!」

 呼び止める伊賀之助の声を残し、のがれられるだけは遁れてみよう、こう思ったか追っかけた。

「御用々々!」

 と遠退く声!

「ワッ」と二、三度悲鳴がした。

 大膳が捕方を切ったのらしい。

「よせばよいのに殺生な奴だ! どうせ捕れるに決っている。覚悟の出来ていない人間は、最後の土壇場で恥を掻く。……が、俺には却って幸い、どれこの隙に腹を切ろう」

 左の脇腹へブッツリと、伊賀之助刀を突き立てた時、

「お見事!」

 という声が隣室でした。

 襖をひらいて現れたのは、青竹の杖をひっさげた、容貌立派な乞食であった。

「やッ、汝は!」と伊賀之助。

「淀川堤におりました者」

「汝が然うか? どうして此処へ?」

「御首級しるし頂戴いたしたく……」

「俺の首をか、何んにする?」

「或お方のお屋敷へ参り、或お方へ近寄って、一太刀なりとも恨みたい所存……」

「ううむ」と唸ったが伊賀之助「身分をいわっしゃい! 名をいわっしゃい!」

「或お方の差金により、取潰された西国方の大名、その遺臣にござります」

「淀川における風流は?」

「ただ拙者という人間を、貴殿のお耳に入れようとな」

「うむ矢っ張り然うだったか。易水の詩を残したは? 我等の企ての失敗を、未然において察しられたか」

「正しく左様、一つには! ……が、同時にもう一つ、拙者の心境を御貴殿へ、お知らせ到そうと存じましてな」

「成程」

 といったが伊賀之助、次第々々に苦しくなった。顔は蒼白、血は流れる。「成程……貴殿は……荊軻の身の上! ……が、今度は拙者より申そう、その或お方は無雙の人物、失敗致そう、貴殿の計画!」

 だが乞食は悠然と「運は天にござります。ただ人力を尽したく……」

「立派なお心」と伊賀之助、首をグーッと突き出した。「ご用に立たば首進上! 死花が咲きます! いっそ光栄!」

 その時であった、戸外から、

「赤川大膳、捕った捕った!」

 捕方の声が聞えて来た。

「未熟者めが」と伊賀之助、嘲りの色を浮かべたが

「とうとう死恥を晒しおる! それに反して俺は立派だ! 義士の介錯受けて死ぬ。死後なお首が役に立つ! ……いざ首討たれい!」

 と引き廻わした。

「ご免」

 というと奇怪な乞食、仕込んだ太刀を引き抜いた。ピカリと一閃、スポリと一刀、ゴロリと落ちたは首である。

「伊賀之助、御用!」

 と捕方の声々、間間近く迫ったが、奇怪な乞食驚かなかった。

 死骸の形を綺麗に整え、傍の屏風を引き廻すと、伊賀之助の首級くびを抱きかかえた。

 と、スルスルと廻廊へ出た。

 襖を蹴仆けたおす音がして、踏み込んで来たのは捕方である。

 チラリと振り返った奇怪な乞食、ヒョイと右手を宙へ上げたが、恰も巨大な暁の星が、空から部屋へ飛び込んだように、一瞬間室内輝いた。

 眼を射られて蹣跚よろめいた捕手が、正気に返って見廻した時には、首の無い山内伊賀之助の、死骸が残っているばかりで、乞食の姿は見えなかった。


     六


 さてそれから一年がたった。

 淀川堤に春が来た。

 例の穢い蒲鉾小屋に、例の乞食が住んでいた。そうして例の女がいた。だが女の風俗は、きらびやかな花魁の風ではなく、男と同じ乞食姿であった。

 茶も立ててはいなかった。香も焚いてはいなかった。蒔絵の硯箱も短冊もない。で勿論茶釜もなかった。名刀を仕込んだ青竹ばかりが、乞食の膝元に置いてあった。

 白木の箱が置いてある。

 どうやら大事の品らしい。

 春陽が小屋の中へ射し込んでいる。街道を通る旅人が見える。淀川の流れが流れている。

 白帆が上流へ帆走っている。

「流石は山内伊賀之助、眼力に狂いがなかったよ」

 こういったのは乞食である。寂しい苦笑が口許に浮かび、顔全体を憂欝に見せる。

「けっく妾にとりましては、その方がよろしゅうございました。ご一緒に住めるのでございますもの」

 こういったのは女である。嬉しそうにその眼を輝かせている。

「大岡越前と来た日には、煮ても焼いても食えない奴さ。伊賀之助の首を持参したら、俺の真意を早くも察し、乞食姿の俺を招じ、途方もなくご馳走をした揚句、政治というもののむずかしいことと、役人というものの苦衷とを、いろいろ話して聞かせた上、紋服を一かさねくれたのだからな」チラリと長方形の箱を見たが「アッハハハ何んという態だ、ひどくその時の俺と来たら、しんみりとした気持になり、切ってかかろうともしなかったのだからな」

「でもその時越前守様が、おっしゃったそうではございませんか『一年の間考えるがよい』と」

「ああ然うだよ、そういったよ。そうして今日が一年目だ」

「どう考えがつきました?」鳥渡不安そうに女が訊いた。

「俺はこんなように考えて了った。「一年考えるということが、もう抑々間違いだった」とな。……一年の間考えてごらん、張り切った精神なんか弛んでしまう。復讐なんていうものは、一種の熱気でやる可きものさ。考えたら熱気が覚めてしまう」

「それではせめて紋服なりと、刀でお突きなさりませ」

「そうさなあ、紋服をお出し」

 立ち上がった女箱を取ると、ポンとばかりに箱の蓋をあけた。

 差し延ばした乞食の手につれて、現れたのは一襲の紋服。

 スラリ刀を引き抜いて、グッとばかりに突くかと思ったら、刀も抜かず突きもせず、紋服をヒラリと着たものである。

「どんなように見える? 似合うかな?」

「ちっともお似合い致しません」

「そうだろうとも然うだろうとも、矢っ張り町奉行の品格がないと、町奉行の衣裳は似合わないと見える」

「お脱ぎなさりませ、そんな衣裳」

「うむ」というと脱ぎすててしまった。

「お怨みなさりませ一刀」

「馬鹿をおいい」と笑い出した。「予譲にまでは成り下がらないよ」

 菜の花の匂いが匂って来た。遠くで犬の吠声がする。草の間からスルスルと、小蛇が一匹這い出して来た。啓蟄けいちつの季節が来たのだろう。土手の向う側へ隠れてしまった。

「これから何んとなされます?」

「そうよなァ、泥棒になろう」

 女、さすがに沈黙した。

「どうだな?」と乞食微笑した。「怖いかな? お前は厭か?」

「花魁から乞食、乞食から泥棒、その辺がオチでございましょう」

「武士から乞食、乞食から泥棒、まずこの辺が恰好さ」

 春昼ひるである。暖かい。雲雀がお喋舌りをつづけている。

「これもな」と乞食物憂そうにいった。「彼奴、越前へのツラアテさ。手にあまるほどの大盗となり、一泡吹かせてやるつもりさ」


 暁星五郎という大盗が、関東関西を横行したのは、それから間もなくのことであった。火術を使うという評判であった。影の形に添うように、美人が付いているという評判でもあった。


(緑林黒白ニ曰ク)大盗暁星五郎、ソノ本名白須庄左衛門、西国某侯遺臣ニシテ、幕府有司ニ含ム所アリ、主トシテ大名旗本ヲ襲フ、島原ノ遊女花扇、是ト馴染ンデ党中トナリ、変幻出没ヲ同ジウス、星五郎強奪度無シト雖モ、ヨク散ジテ窮民ヲ賑ス、云々。


 兎まれ大岡越前守が、この暁星五郎なる賊を、幾度か捕えようとして躊躇ちゅうちょしたことは、事実らしいということである。

底本:「妖異全集」桃源社

   1975(昭和50)年925日発行

※「到」と「致」の混在は底本通りにしました。

入力:阿和泉拓

校正:門田裕志、小林繁雄

2004年1213日作成

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