旧聞日本橋
町の構成
長谷川時雨
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一応はじめに町の構成を説いておく。
日本橋通りの本町の角からと、石町から曲るのと、二本の大通りが浅草橋へむかって通っている。現今は電車線路のあるもとの石町通りが街の本線になっているが、以前は反対だった。鉄道馬車時代の線路は両方にあって、浅草へむかって行きの線路は、本町、大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町とつらなった問屋筋の多い街の方にあって、街の位は最上位であった。それがいまいう幹線で、浅草から帰りの線路を持つ街の名は浅草橋の方から数えて、馬喰町、小伝馬町、鉄砲町、石町と、新開の大通りで街の品位はずっと低く、徳川時代の伝馬町の大牢の跡も原っぱで残っていた。其処には、弘法大師と円光大師と日蓮祖師と鬼子母神との四つのお堂があり、憲兵屋敷は牢屋敷裏門をそのまま用いていた。小伝馬町三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門通がある。
そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告っていた。私は厳密にいえば、小伝馬町三丁目と、通油町との間の小路の、油町側にぞくした角から一軒目の、一番地で生れたのだ。小路には、よく、瓢箪新道とか、おすわ新道とか、三光横町とか、特種な名のついているものだが、私の生れたところは北新道、またはうまや新道とよばれていて、伝馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。この道筋だけが五町通して、本町石町から緑河岸まで両側の大通りと平行していた。
面白くもない場所吟味はやめよう。以下、私の記憶のままで、年月など、幾分前後したりするかも知れないが──
しかし、アンポンタンの生活がはじまったのも、かなり成長してからの眼界も、結局この街の周囲だけにしか過ぎない。で、最も多く出てくる街の基点に大丸という名詞がある。これは丁度現今三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然と聳えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助が、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。
問屋町の裏側はしもたやで、というより殆ど塀と奥蔵のつづき、ところどころ各家の非常口の、小さい出入口がある。女たちがそっと外出をする時とか、内密の人の訪れるところとなっている。だからとても淋しい。私の家は右隣りが糸問屋の近与の奥蔵、左側は通りぬけの露路で、背中は庭の塀の外に井戸があり、露路を背にした大門通り向きの幾軒かの家の、雇人たちのかなり広くとった共同便所があり、それを越して表通りの足袋問屋と裏合せになっていた。左横の大門通り側には四軒の金物問屋──店は細かいが問屋である、この辺は、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春と、元禄の昔其角がよんだ句にもある、金物問屋が角並にある、大門通りのめぬきの場処である──その他に、利久という蕎麦屋、べっこう屋の二軒が変った商売で、その家の角にほんとに小さな店の、ごく繁昌する、近所で重宝な荒物屋があった。小さな店にあふれるほど品が積んであった。
煩さくはあるが、もすこし近所の具合を言っておきたい。荒物屋の向っ角──あたしの家の筋向いに横っぱらを見せている、三立社という運送店の店蔵は、元禄四年の地震にも残った蔵だときいていた。左横に翼がついていて木の戸があった。内には縄や筵が入れられてあったが、そのまた向う角が、立派な土蔵づくりの八百屋、後には冬は焼芋屋になり、夏には氷屋になった。その店の焼芋はすばらしく大きかったので、遠くからも買いに来た。他処では見られないことは、この家、この店土蔵だけの住居で二階が住家であり、小さな物干場へは窓から潜り出していた。芋屋の並びはほとんど金物問屋ばかり、火鉢ばかりの店もあれば金だらいや手水鉢が主な店もあり、襖の引手やその他細かいものの上等品ばかりの店もあり、笹屋という刃物ばかりのとても大きな問屋もあった。銅、鉄物問屋はいうに及ばない。
大門通りも大丸からさきの方は、長谷川町、富沢町と大呉服問屋、太物問屋が門並だが、ここらにも西陣の帯地や、褂地などを扱う大店がある。
荒物やの正面向う角が両替屋で、奇麗な暖簾がかかっていて、黒ぬりの〓(「(「銀行」を表す「地図記号」)<丸」)こういう看板に金字で両替と書いたのが下げてあった。そこの家はいつも格子がすっかりはまっていて、黒い前掛けをかけた、真中から分けた散髪の旦那と、赤い手柄の細君がいる奇麗な小さな角店だった。その隣りが酒屋の物置と酒屋の店蔵で、そのさきが煙草問屋、煙管の羅宇問屋、つづいて大丸へむかった角店の仏具屋の庭の塀と店蔵だった。
あたしの家の真向こうに──三立社の尻にこの辺にはあるまじいほどささやかな、小さな小屋で首を振りながら、終日塩せんべを焼いているお婆さんがあった。その隣家はこんもりした植込みのある──泉水などもある庭をもった二階家で、丁度そこの塀を二塀ばかりきりとって神田上水の井戸があるのを、塩せんべ屋のお婆さんが井戸番をしているようなかたちだった。あたしの家の裏の井戸は玉川上水だった。
その二階家は「炭勘」という名の──炭屋勘兵衛とでもいったのだろう。鼈甲細工屋のになっていたが、黒い三巾の垂れ暖簾に〓(「仝」の「工」に代えて「炭」)の白ぬきのれんが、鼈甲屋とは思わせない入口だった。尤もそこは青柳という会席料理だったのだそうで、炭勘はその後から前へ進入したのだ。お茶屋があったからというわけではなかろうが、その隣りに阪東三弥吉という女の踊りの師匠がいた。その側に、私の父の俥をうけもって、他に曳子を大勢おいていた俥宿があった。
なんで細かく此処まで書いたかというに、前にも言ったように、私の家のならびは、窓ひとつもない、塀と土蔵裏と、荷蔵ばかりつづいているその向う側であるからで、俥宿までの町並は二間半たらずだが、そこからぐっと倍も広がっている。それが、何故かというと、三誠社という馬車を扱う大きな運送店があって、その前身が、伝馬町の大牢の、咎人の引廻しの馬舎だったというのだ。町巾が其処だけ広がっているのが妙に嫌な気持ちにさせる。俥宿と馬舎との間の地処にかこいをして草を植え、植木棚をつくり、小さな祠を祭って、毎朝表通りの店から散歩にくる老旦那もあった。
アンポンタンが三ツか四ツの時、額の上へ三日月形の前髪の毛をおいた。それまでは中剃り(頭の真ン中へ小さく穴をあけて剃っていること)をあけたおかっぱで、ヂヂッ毛とおやっこさんをつけていた(ヂヂッ毛は頸のボンノクボに少々ばかり剃残してある愛敬毛、おやっこさんは耳の前のところに剃り残したこれも愛敬毛)。そのほかは青く剃りあげていたのへ、小さいお椀を伏せて恰好のよい三日月形を剃り残したのだ。その時向うのせんべやのお婆さんが、剃刃をあてるのに動かないようにと、おせんべにするふかしたしん粉をもって来てくれて、あたしの祖母が、狆を拵らえて紅で色どってくれた。それに味をしめて、さかゆきをするたんびに、おせんべやの店へとりにゆくと、首振り婆さんは、私の家の門の桜の木の上へ出そめた三日月を指さして、
「のん、のん、此処にも、あすこにも。」
と、あたしの頭を指で押して、空をも指さすのだった。
お婆さんの息子は車力だった。あたしは鹿の子絞りの紐を首の後でチョキンと結んで、緋金巾の腹がけ(金巾は珍らしかったものと見える)、祖母さんのお古の、絽の小紋の、袖の紋のところを背にしたちゃんちゃんこを着せられて、てもなくでく人形のおつくりである。
──ある時(妹でも出来た時かも知れない)、理髪店ではじめて剃ってもらった時、私ははじめじぶくったが、あたしを抱いていた女中が大層機嫌がよかったので、しまいにはあたしまで悦んで膝の上で跳ねた。職人はたぶん女中の頸をおまけに剃ってやっていたのであろうが、あたしがあんまり跳るので、女中にもなんしょで、ひょいと、あたしのお奴を片っぽとってしまった。あたしはなおさらよろこんだ。機嫌のよい女中におぶさって帰ってくると、すぐおせんべやの首振りお婆さんに見せにいった。ただ笑って、よろこんで指で毛のないあとを押し示した。
「あらまあ、お供さんが片っぽおちて──」
お婆さんは歯のない口を一ぱいにあいて笑った。だが、この人は直きなくなって、おせんべやは荷車の置場に、屋根と柱だけが残されるようになった。竹であんだ干籠に、丸いおせんべの原形が干してあったのも、その傍にあたしの着物を張った張板がたてかけてあったのも、その廻りを飛んでいた黄色の蝶と、飛び去ってしまった。
角の芋屋がまだ八百屋のころ、お其という小娘が店番をしていた。ちいさい時、神田から出た火事で此処らは一嘗になって、みんな本所へ逃げた時、お其は大溝におちて泣き叫んでいたのをあたしの父が助けあげて、抱えて逃げたので助かったといって、私の赤ン坊の時分からよく合手をして遊ばせてくれた。だが、先方も正直な小娘である。店番をしている時、無銭でとっていったら泥棒とどなれと教えこまれていた。あたしはまた、お金というものがある事を知らず、品物は買うものだということをちっとも知らなかった。他人のものも、自分のものも、所有ということを知らず、いやならばとらず、好きならばとってよいと、弁えなく考えていたと見え、ばかに大胆で、げじけしをおさえて見ていたが、急に口へもってゆこうとして厳しく叱られたりしたというが、その時も、お其の店の赤いものに目がついて、しゃがんで二つ三つとった。お其はだまって見ていたが──たんばほおずきが幾個破られて捨られてもだまって見ていたが、そのまま帰りかけると、大きな声で、
「盗棒、盗棒、盗棒──」
と喚きだした。もとより、あたしもお其にかせいして、盗棒とどなった。
諸方から人が出て来たが盗棒はいなかった。するとお其はあたしに指さして、
「盗棒!」
と言った。幼心にはずかしさと、ほこらしさで、あたしもはにかみながら、
「盗棒!」
とおうむがえしに言った。みんなが笑った。あたしの祖母がお褄をとって来て、巾着からお金を払い、お其にもやった。八百屋の親たちはしきりにおじぎをした。
おせんべやの首振婆さんが私を抱えて帰った。お其も遊びについて来た。
間もなくべったら市の日が来て、昼間から赤い巾をかけた小さな屋台店がならんだ。こんどはお其があたしの後について、肩上げをつまんで離れずにいた。祖母や女中が目を離すと、コチョコチョと人ごみにまぎれ込んで、屋台のものをつまむので、そのたびにお其はハラハラしたのだろう大きな声で祖母をよんだ。祖母はニコニコして後からお鳥目を払って歩いて来た。
お其のうちは八百屋をやめて焼芋屋になった。店の大半、表へまで芋俵が積まれ、親父さんは三つ並べた四斗樽のあきで、ゴロゴロゴロゴロ、泥水の中の薩摩芋を棒で掻廻わした。大きな、素張らしく美事な焼芋で、質のよい品を売ったので大繁昌だった。三ツの大釜が間に合わないといった。近所が大店ばかりのところへ、遠くからまで買いにくるので、いつも人だかりがしていた。一軒のお茶受けにも、店の権助さんが、籠をもって来たり、大岡持ちをもってくるので、一釜位では一人の注文にも間にあわなかった。忙しい忙しいとお其はいって、鼻の横を黒くしていた。で私の遊び合手は、私をも釜前につれていった。冬などは、藁の上にすわって、遠火に暖められていると非常に御機嫌になって、芋屋の子になってしまいたかった。だが、困ったことに家の構造が、角の土蔵なので、煙のはけばに弱らされていた。住居にしている二階の上り口へまっすぐに煙筒をつけて、窓から外へ出すようにしてあった。だから、二階の梯子はとりはらわれて、あたしたちの暖っている頭の上を、猿梯子をかけて登ってゆく、物干場は、一度窓から出て、他家の屋根に乗り、そして自分の家の大屋根にゆく仕かけだった。
「売れすぎて損をするって。」
とお其は告げて、あたしの父を笑わせていた。父の晩酌のお膳の前に座るのを、あたしより前にもった特権だとこの小娘は信じて疑わなかった。
お其が私を紹介した買物のはじめは、角の荒物店だった。足許の箒だの、頭の上からさがって来ているものを掻きわけて、一間たらずの土間の隅につれてゆくと、並んでいる箱の硝子蓋をとって中の駄菓子をとれと教えた。当ものをさせて、水絵──濡らしてはると、西洋画風の蝶や花が、刺青のように腕や手の甲につくのを買わせた。で、彼女は一生懸命にお銭の必用と、物品購買のことを説ききかせて、こういう細長い、まん中に穴のあいているのが天保銭で、それに丸いので穴のあいてるのを一つつけると、赤く光った一銭銅貨とおんなじだと、繰かえしていった。でも、あたしにはあんまり必要がなかった。それよりも、お其の紹介で友達になった子たちが、自分の家の裏庭でとった、蝸牛を焼いてたべさせたりするのを、気味がわるくてもよろこんだ。
この子供仲間は、男の子も女の子もみんな顔色がわるかった。どの子も大きな眼をして痩せていた。小僧さんかお附きの女中がいるので、それらの眼をしのんで、こっそり集るのを、どんなに楽しみにしていたか知れない。だから裏から裏と歩いた。村田──有名な化粧品問屋──の裏を歩くと、鬢附け油を練る香いで臭く、そこにいる蝸牛もくさいと言った。鍛冶七──鍛冶もしていた鉄問屋──の裏には、猫婆がいるということなど、いつの間にか大人よりよく知ってしまった。
猫婆さんは真暗な吹鞘場に──その家も大かた鍛冶屋ででもあったのであろう。大溝が邪魔をして通り抜けられない露路奥になっていたので、そんな家のあることも、そんなお婆さんの生ていることも、ほんとに幾人しかしりはしなかった。ただ猫だけが知っていて、宿無し猫が無数に集ってきていた。いつもお婆さんの廻りは猫ばかりなので、猫ぎらいなあたしは、お婆さんの顔の輪格もはっきり見知らなかった。
「まだ生てるよ、顔だけあったもの。」
なぞと、覗いてきては子供たちはいった。
土のお団子などをこしらえている時に、坊ちゃんの一人が目附けだされて、連れかえられようものなら、その子は家へかえるのを牢獄にでもおくられるように号泣した。残されるものもみんなさびしかった。なぜなら、帰ればその子におしおきが待っているからである。なぜ表へ出て、あんな子たちとお遊びなさいました──とそれはまた、各自の身の上ででもあるからなので──
あたしもよく引き摺ってゆかれて、お灸を据えられたり蔵の縁の下に投りこまれたりした。そうした窮屈な育てられかたをするのはお店の坊ちゃん嬢ちゃんがたで、自由な町の子も多くあった。それがどんなに羨ましかったろう。そしてその多くの町の子たちが遊びの指導者でもあったのだが、彼らはよく裏切りもした。あたしの祖母が、あたしの遊びに抜けだしたのを厳探中、その子たちの仲間の一人にお小遣いをくれると、あたしは直ぐにつかまえられた。逃げでもすると、その子たちは追っかけ追い廻して、意地悪くとらえて祖母に突き出した。何にがそんなに遊んではいけないのだろう? 遊んでいけないのより、許可をうけず外へ出るから、それがいけない、では許可をうければゆるしたか? なんの、
「いけません、おとなしくお家でお遊びなさい。」
である。時たま家中の御機嫌のよい時外へ出して遊ばせてもらう。鬼ごっこ、子をとろ子とろ、雛一丁おくれ、釜鬼、ここは何処の細道じゃ、かごめかごめ、瓢箪ぼっくりこ──そんなことをして遊ぶ。
子を奪ろ子とろは、親になったものの帯につらなって大勢の子がいる。人とり鬼になったものが、どうにかして末の、尻尾の方の子をとろうとするのである。親になったものは、両手をひろげてふせぐ、鬼は、あっちこっちと、両側を狙って、長い列が右往左往すると、虚を狙って成功する──その時分、人浚いが多くあって、あたしの従兄も夕方さらわれていったのを、父が木刀をもって駈けていって、神田弁慶橋で取りかえしたという話もあるので、そんな遊びもしたのであろう。夕方になると子供を外に出しておくのを危険とした。そんな事で、外出もやかましくいったのかも知れないが──
釜鬼は、塀や壁を後にして、土に半輪を描き、鬼が輪の中に番をしていて、みんな下駄を片っぽずつ奥の方へ並べておく。それをチンチンモガモガをしながら、輪の中へ取りにゆくのである。大挙して突進すると鬼が誰をつかまえようかと狼狽る、それが附目なのである。下駄が一ツ二ツ残ると、それからが駈引きで面白く興じるのだ。
──瓢箪ぼっくりこ──つながってしゃがんで、両方に体を揺って歩みを進めて、あとの後の千次郎と、唱いながらよぶと、一番後の子が、ヘエイと返事をして出てくる。問答がすむと、その子がこんどは先頭になるのだ。
雛一丁おくれは、ずらりと子供を並べておいて、売手が一人、買手が一人、節をつけて唄い問答する──
ひな一丁おくれ、
どの雛目つけた。
この雛目つけた、いくらにまけた。
三両にまけた、なんで飯くわす?
赤のまんまくわしょ。
魚をやるか?
鯛魚くわしょ。
小骨がたあつ、
噛んでくわしょ……
ここは何処の細道じゃも唄うのだ。二人の鬼が手を組んで門をつくり袖を垂れている。袖の後に一人の子が隠されている。訪ねてくるものが、まず唄って、鬼がこたえる。
ここは何処の細道じゃ〳〵
天神様の細道じゃ〳〵
ちっと通してくださんせ〳〵
御用のないもな通されぬ〳〵
天神様へ願かけに〳〵
通りゃんせ、通りゃんせ。行きはよいよい、帰りはこわい──
袖があがる、訪ねるものは通ってゆく。こんどは隠された子をつれてくぐりぬけるのに鬼どもはいやというほどなぐろうとする。そうさせまいと走りぬけるのだ。
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年2月
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年4月2日作成
2012年5月19日修正
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