雑感
寺田寅彦
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子供の時代から現在までに自分等の受けた科学教育というものの全体を引くるめて追想してみた時に、そのうちの如何なるものが現在の自分等の中に最も多く生き残って最も強く活きて働いているかと考えてみると、それは教科書や講義のノートの内容そのものよりも、むしろそれを教わった先生方から鼓吹された「科学魂」といったようなものであるかと思われる。
ある先生達からは自然の探究に対する情熱を吹き込まれた。ある先生方からは研究に対する根気と忍耐と誠実とを授けられた。熱と根気さえあれば白痴でない限り誰でもいくらかの貢献を科学の世界に齎し得るものであるという確信を、先生や先輩に授けられたことが一番尊い賜物であるように思われる。
科学の知識はそれを求める熱さえあれば必ずしも講義は聞かなくても書物からも得られる。頭が良くなくても根気さえあれば人が一日に一時間ずつ費やして会得しまた仕遂げる事を、二時間三時間ずつかければ会得し遂行されよう。
科学教育の根本は知識を授けるよりもむしろそういう科学魂の鼓吹にあると思われる。しかしこれを鼓吹するには何よりも教育者自身が科学者である事が必要である。先生自身が自然探究に対する熱愛をもっていれば、それは自然に生徒に伝染しないはずはない。実例の力はあらゆる言詞より強いからである。
すべての小学校、中学校の先生が皆立派な科学者でなければならないという事を望むのは無理である。実行不可能である。しかしそんな必要は少しもない。ただ先生自身が本当に自然研究に対する熱があって、そうして誤魔化さない正直な態度で、生徒と共に根気よく自然と取込み合うという気があれば十分である。先生の知識は必ずしもそれほど広い必要はない。いわゆる頭の良い必要はない。
雑誌などで時々小学校の理科の教案と称するものを見ることがある。中によく綿密に考えたものだと思うて感心する。しかしまた一方で何となく不自然で人工的なものだという感じもする。これでは児童の頭が窮屈な型に押し詰められて、自由な働きが妨げられはしないかという気がする。こういう教案の作成に費やす時間があれば、むしろその時間に先生が、先生自身の題目の研究をした方がよいと思う。先生自身の研究の挿話は生きた実例としてどれだけ強く生徒に作用するか分らない。死んだ借り物の知識のこせこせとした羅列に優る事どれだけだか分らない。そして更に生徒を相手にし助手にして、生徒から材料を集めさせたりして研究をすすめればよい。
間違いを教えたとしてもそれはそれほど恥ずべき事ではない。また生徒の害にもならない。科学の歴史は一面から見れば間違いの歴史である。間違える事なしには研究は進められない。誤魔化さないことだけが必要である。
小学校でも中学校でもせめて一週間に一時間でもいいから、こういう「自由研究」の時間を設けて、先生も生徒も一緒になって、何でも手近な題目を取扱い、そうして、自然が如何に分らない事だらけであるかという事、その分らない事が、熱と根気で向って行けば少しずつ少しずつ分って行く事、その少しずつ分って行く少なくも分ったような気がして行く事が如何に愉快なものであるかという事などを実習したらいいだろうと思う。先生の分らない事は大抵誰にも本当はよく分らない事である。分らない事は恥でも何でもない。分らない事を分ったような顔をするほど恥ずべき事はない。
手近い実例の人を動かす力は偉大なものである。そういう意味で、教師は時々は我邦の科学者の研究を生徒に紹介するがいいと思う。遠い西洋の大学者の大研究よりも手近い日本の小学者の小研究の方が遥かに切実な印象を日本の生徒の頭脳に刻みつけるであろう。そうして生徒自身の研究慾を誘発するであろう。
日本の科学雑誌が色々ある、中には科学の抜殻だけを満載して中実は空虚なのもあるようである。そういうような雑誌で西洋人の研究発見発明などは下らぬものまで紹介しているが、日本の学者の面白い研究が正当に紹介される事は極めて稀である。たまたま紹介されると、それは新聞の三面記事のようなジャーナリズムの臭味の強烈なものであって、紹介された学者を赤面させるようなものである。
これと同じような傾向が日本の科学教育全般に行きわたっているのではないかと疑う。日本人が科学的頭脳において西洋人に必ずしも劣らないという自信を生徒の頭に植え付ける事もかなり大事な事ではないかと思う。
以上私の述べた事は少し乱暴に聞こえるかもしれない。しかしもし理科教育に従事される方々になんらかの参考になれば仕合せある。
底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成9)年4月4日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店
1985(昭和60)年9月5日第3刷発行
初出:「理科教育 第十一巻第十一号」
1928(昭和3)年11月1日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
2016年2月25日修正
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