島木赤彦臨終記
斎藤茂吉
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一
大正十五年三月十八日の朝、東京から行つた藤沢古実君が、柹蔭山房に赤彦君を見舞つた筈である。ついで摂津西宮を立つた中村憲吉君が、翌十九日の午ちかくに到著した筈である。廿日夜、土屋文明君が東京を立つた。
翌廿一日の午過ぎに、百穂画伯、岩波茂雄さんと僕とが新宿駅を立つた。たまたま上京した結城哀草果君も同道した。少しおくれて東京から高田浪吉、辻村直の両君が立ち、神戸から加納暁君が立つた。
上諏訪の布半旅館で、中村憲吉君、土屋文明君、上諏訪の諸君と落合つて、そこで一夜を過ごした。中村、藤沢両君の話に拠ると、十七日に、主治医の伴鎌吉さんが、赤彦君の黄疸の一時的のものでないことの暗指を与へたさうである。その夜、夕餐のとき赤彦君は『飯を見るのもいやになつた』といつたさうである。十八日に摂津国を立つた中村君は、十九日に柹蔭山房に著いた。その時赤彦君は、『煙草ももう吸ひたくなくなつた』『ただ静かにしてゐるのが何よりだ』と云つたさうである。翌廿日、中村、藤沢の両君が諏訪上社に参拝祈願して護符を奉じて来た。赤彦君は、『ありがたう。おれにいただかせろ』といつた。こゑは既にかすかで、一語一語骨が折れる風であつた。夫人の不二子さんは護符を以て俯伏してゐる赤彦君の頭を撫でた。赤彦君は、『ありがたう』といつた。そして、『きたないとこに置くなよ』と云つたさうである。その夜、藤沢古実君に、言葉が跡切れ跡切れに、『己はな、いかんとも疲労してしまつてなあ。余病のために、黄疸のために、まゐるかも知れん』と云つた。その終の『まゐるかも知れん』のところが急に大ごゑになつて、健康な時の朗々たるこゑを思はせたので、胸がぎくりとしたと古実君が語つた。
廿一日朝、赤彦君は首をあげて、皆に茶を飲みに来るやうに云つた。中村憲吉、藤沢古実、丸山東一、久保田健次の諸君、不二子さん、初瀬さんが集まつた。その時、藤沢君の美術学校卒業製作塑像の写真を見せると、『ありがたう。素直だな。しづかなのは一層むづかしいものだ』と云つたさうである。それから、『どうもな。本病より余病の方がえらいやうだ。斎藤もさう云つて来たよ。伴も同じ意見だ。余病が。余病が余病だけですめばいいが、本病にはとりつけないで』とも云つたさうである。僕は、神保博士の意見として、どうも黄疸は単純な加答児性のものでなく肝の方から来てゐることを手紙に書いたのであつた。それでも癌の転移証状であることは書けなかつたのである。赤彦君はそれゆゑ飽くまで黄疸を余病と看做し、余病を先づ退治して置いて、そして生きられるだけ生きようと覚悟したのであつた。それであるから、極力友人に会ふことを厭うて、静かに身を保たむとしたのであつた。赤彦君は四五月の候になれば余病を退治して、今度は楽しく友にも会はうと思つてゐたのである。赤彦君はその夜こんなことをも云つた。『伴さんは本当に熱心だからな。己ははじめは知らなんだ。一遍見て貰つたらもう伴さんに限るやうになつた』『自分ひとりではと思ふときには屹度ほかの人にも相談してなあ』『腕はあるんだからなあ』などとも云つたさうである。
二
廿一日に、中村憲吉君は校歌の話を為出した。校歌といふのは、秋田県角館中学校の校歌を平福百穂画伯から嘱付して赤彦君に作つて貰ふことになつてゐた。それを謂ふのである。すると赤彦君は、『北日本の脊梁の。千秋万古やまのまに。偉霊の水を湛へたる。田沢の湖の水おちて。鰍瀬川とながれたり』云々と低いこゑで云ひ、憲吉君の批評をも求め、もう七分どほりは出来てゐることを云つた。その時、藤沢古実君が傍から、『ちよつと其を書いて置きませうか』と云つて、それから不二子さんもそれをすすめると、『書いちやいかん。それだでこまる』『みどころを取つて行かれるやうだ』と云つたさうである。
そのうち腰の痛みが出て来た。『水脈坊水脈坊。お客様がゐていやかも知れんがおさへて呉れなくちや』と云つた。それから、『飲物も食物も皆さげてくれ。目のまへにあると溜まらんから』と云つたさうである。その時按摩が来たので皆が部屋を退いた。その時古実君に、『訂正を送つて呉れたか』と云つた。『はい、送りました』と答へると『確だな』と念を押したさうである。この訂正といふのは、雑誌改造に出した、『風呂桶に触らふ我の背の骨のいたくも我は痩せにけるかな』の下の句を『斯く現れてありと思へや』と直し、憲吉・古実君の意見をも徴して、其をアララギの原稿にしたのである。それを謂ふのである。尚今雑誌を調べて見ると改造に出した歌をアララギでは少しづつ直してゐる。
信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる茎漬のいろ (改造)
信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる漬菜のいろは (アララギ)
神経の痛みに負けて泣かねども夜毎寝られねば心弱るなり (改造)
神経の痛みに負けて泣かねども幾夜寝ねねば心弱るなり (アララギ)
廿一日夕七時ごろ、古実君との問答がある。
古実『中村さんは明日か明後日帰ると云つてゐました。どうも己が行つて赤彦を興奮させて済まなかつたといつてゐました』
赤彦『中村は己が相手をしなんで不服らしかつたかな』
古実『そんなことはありません』
赤彦『己は一言いふにもつかれるのだ』
古実『……』
赤彦『もう一度会ふさ』
古実『それでは明日でもお会することにしませう』
かういふ会話などがあつた。それから八時頃かういふことを云つたさうである。『画伯、斎藤、岡、土屋、岩波──五人だなあ。……それへおれの病を君から委しく書いてやつて呉れ。まだ容態をくはしく書いてやらうとしてゐて書いてやらないから。……身のおきどころがない。……坐つてゐても玉のやうな汗が額から出る。いかんとも為様がないとさう書いてくれ。……そして物をいふと、それだけ疲労するから、静かにしてゐると書いて呉れ、医者もさういつてゐるし、それが己には薬だ』かう云つた。古実君は『かしこまりました』といふと、『用件はそれだけ』『あつちで寝て行つて呉れ』と云つた。
その夜の十時頃、妹の田鶴さん、不二子さん、水脈さん、初瀬さん、健次君、丸山君、藤沢君等を部屋に呼び、『おれはなるべく物を云はぬから、そつちでお茶を飲んで呉れ』と云つた。間もなく、辛うじて身を起し、『明治四十一年浅間山へのぼる。雲の海の上にあらはるる信濃のやま上野のやま下野の山』『明治四十一年十一月とおぼえておけ。日本新聞に出てゐる』と云つた。
その時、赤彦君のうしろに猫がうづくまつて咽を鳴らしてゐた。これは赤彦君がいつも猫を可哀がるので傍に来てゐるのであつた。皆が、猫の話をし、夏樹さんの猫をいぢめる話などをしてゐると、赤彦君は、『初瀬、歌の原稿を書け』と云つた。そして、『わが家の猫はいづこに行きぬらむこよひもおもひいでて眠れる』と云つた。暫くして、『ちがつた。ちがつた。猫ぢやない。犬だわ』と云つて笑つた。これは数日前に居なくなつた犬のことを気にして咏んだ歌である。
わがいへの犬はいづこにゆきぬらむこよひもおもひいでてねむれる
その後は遂に歌を作らずにしまつた。この歌が赤彦君の最終の吟となつたのであつた。
三
廿二日朝、土屋君は僕を伴さんのところに連れて行つて呉れた。僕は初対面の挨拶をし、初診以来熱心の治療に対して謝した。伴さんはその前にも、赤彦君の病状に就いて委しく通信され、また黄疸のあらはれた三月一日には態々電話で知らせて呉れたのであつた。午過ぎに、平福・岩波・中村・土屋の諸君と伴さんと僕と柹蔭山房に出かけた。
家に入るところの道は霜解がして靴がぬかつた。松樹はもとの儘だが、庭は広げられてあつた。大正十年の夏に僕夫婦の一夜宿つた部屋には炬燵がかけてあつて、そこに諏訪の諸君があたつてゐた。暫くして先づ伴さん、中村憲吉君、僕の三人が部屋に入つて行つた。部屋は新築したばかりの書斎である。いままでのは、書斎も客間も一しよで、書きものなどの散らばつてゐる時には困るといふので、元の土間の処に書斎を造つたのであつた。そこの炬燵に赤彦君は俯伏して、頭のところに両手を固く組んでゐる。伴さんは来意を告げた。すると赤彦君は辛うじて顔をあげ、それから両手を張つて姿勢を正し、そして、『ありがたう』と云つた。こゑは低くそして幽かであつた。そしてその儘また俯伏してしまつた。赤彦君の顔面は今は純黄色に変じ、顔面に縦横無数の皺が出来、頬がこけ、面長くて、一瞥沈痛の極度を示してゐた。
『だいぶ痩せたなあ』と僕は云うた。すると赤彦君は、『冷静だ。極めて冷静だ』と云ひながらその儘俯伏してゐた。僕は咽のつまるやうにおぼえて唯『うん』と云うたのみであつた。僕はその時、三月十二日に、古今書院主人橋本福松君が柹蔭山房をたづねた時に、赤彦君がこゑを挙げて泣いたといふことを思ひ出したのであつた。赤彦君は暫くして極く静かに、『伴先生は毎日診て下さるが斎藤君は久しぶりだから、どうか見て呉れたまへ』と云つた。僕は伴さんから聴診器を借りて型のごとくに診察をした。その間赤彦君は我慢をして起直つてゐた。それからまた俯伏してしまつた。暫くして僕は、『画伯も、岩波主人も来てゐるから、どうか会つて呉れたまへ』といふと、赤彦君は『どこに』と大きなこゑを出して顔をあげた。そして黄色の大きな眼を睜つた。『此処に一しよに来た』といふと、今度はただ点頭いた。そこに平福・岩波・土屋の三君が入つて来、中村・藤沢の二君も交つて談笑常の如くにした。赤彦君は新来の客には一々丁寧に会釈をし、をかしい時には俯伏した儘笑つた。それから、『若い連中も来てゐるから会つて呉れないか』といふと赤彦君はただ点頭いた。そこに加納暁、結城哀草果、高田浪吉、辻村直の諸君が入つた。赤彦君は一寸うなづき、『おれはなるたけ物を云はぬが、君等はいろいろ話してくれたまへ』と云つた。それでも種々歌柄についての短評などをも云つた。気になると見えて発行所のことなどをも云つた。それから、『おれも生きられるものなら生きたいのだが』といふ幽かなこゑも聞えた。その間に僕等に茶を饗することを命じたり、ぼんたんを持つて来て食はせることを命じたり、いろいろ細かいところに気が付いてゐた。そして僕等は諏訪湖からとれる寒鮒の煮たのを馳走になり、酒をも飲んだ。これは一々赤彦君の差図によつたのであつた。僕等は病床の邪魔をしたことを謝しながら、それでも二回まで会つた。その時赤彦君は『何だかこれではあつけないやうだな』と云つた。僕等は、明日二たび邪魔するだらうことを告げて柹蔭山房を辞した。
その晩、急に気のゆるんだやうにおぼえて、みんなは布半旅館で馬肉を食ひ、坐り相撲を取り、将棋などを差した。百穂画伯は赤彦君の病顔の写生図を作つた。夜更けて温泉に浴し、静かに眠らうとしたが、心が落付いて来ると赤彦君の顔容が眼前に髣髴としてあらはれて来た。諏訪の諸君も、それから中村憲吉君も、数日来の張りつめた心に幾分の緩みを得て、そして酒に酔うたのであつた。森山汀川君は今夜向うにつめてゐる。藤沢君は夜更けてから向うに宿りに行つた。
四
三月二十三日午前、皆して二たび柹蔭山房に行つた。ゆうべ、百穂画伯の『丹鶴青瀾図』の写真を赤彦君が見たときのことを森山汀川君が話して呉れた。赤彦君は努力して両手を張つてそれを見た。そして、『これはたいしたものらしい』と云つた。それから、『どうも写生に徹したものだ』とも云つたさうである。そこで、けふも赤彦君の枕頭でその絵の話などをし、時に諧謔談笑した。午餐には諏訪湖の鯉と蜆とを馳走になつた。これは、『どうも何もなくていけないが、鯉と蜆でも食べて行つてくれたまへ』といふ赤彦君の心尽しであつた。静かに籠つてゐたい赤彦君の病牀を邪魔したのさへ心苦しい。然るに赤彦君は苦しいうちにかういふ心尽しをされるのであつた。僕等は忝く馳走になつた。
午後三時に伴さんが見えて、注射を二とほりされた。僕もそのとき同坐した。注射の一つは強心の方の薬で、一つは神経痛のための薬であつた。この注射は赤彦君から進んで所望されるので、今朝から催促されてゐたものである。それから一時間ばかり経つて僕等は二たび病牀を見舞つた。その時には赤彦君は珍らしく機嫌好くていろいろの話をした。これは強心の方の薬にコフエンが入つてゐるので、それが神経に働いたためであらうか。角館中学校の校歌の話になつたとき、『つまり茶話会などの時に歌ふのもあつていいですね。何とか謂つた。佐竹義敦、小田野直武は日本洋画の紅二点、といつた調子ですね。デカンシヨ式でも好し。男美術に女の美術、美術美術で苦労する、と云つた調子ですね』『天にそびゆる秋田の杉も巌を貫く根元から。それから、行つて見たかや田沢の湖へ、そこの浮木の下のみづ。かういふのは幾らでも出ます。校歌の方は一遍妻に書かせてみます』こんなことを赤彦君は俯伏しながら云つたので、皆が愁眉を開いて喜んだのであつた。けれども赤彦君は、このごろ眠りと醒覚との界で時々錯覚することがあつた。ゆうべあたりも、『おれの膝に今誰か乗つてゐなかつたか』などと問うたさうであつた。
そこで、赤彦君は皆に茶を饗することを命じた。その間に赤彦君は冷水を音させながら飲干して、『実に旨い。これが一等です』などとも云つた。僕は、この分ならば赤彦君の寿命は三月一ぱいは保つであらう。そして短歌の方の製作も幾つか出来るだらうと思つて、秘かに喜んだのであつた。そして、四月の四日過ぎには少し暇になるであらうから、その時また出直して来て邪魔するなどとも云つた。けれども僕の眼識は欲目のために鈍つてゐて、赤彦君は三月尽を待たずに歿し、短歌の製作も『犬の歌』以後は絶えたのであつた。
僕等は赤彦君のまへに偽を言ひ、心に暗愁の蟠りを持つて柹蔭山房を辞した。旅舎に著いて、夕餐を食し、そして一先づ銘々帰家することに極めた。それまで湯に入るものは湯に入り、将棋を差すものは将棋を差した。心が妙に興奮してゐて、思はぬ所ではしやいだりしたのであつた。
五
その夜十一時幾分かの上諏訪発の汽車で、中村憲吉君は摂津に向ひ、僕等は東京に立つた。平福百穂、岩波茂雄、土屋文明、高田浪吉の諸君同道である。
朝六時頃新宿駅に著くと、家根瓦の上に霜が真白に置いてゐた。今ごろなんだつてこんなにきびしい霜だらう。さうおもひながら僕は家に著いた。家には父母も妻も誰もゐなかつた。これはゆうべ妹の死報に接して、その方につめかけてゐたのであつた。妹は、ゆうべ僕らが上諏訪を立つて少し来たころに歿したのである。僕は実に混乱せんとする心を無理におししづめて暫く眠つた。それから外来診察をし、溜まつてゐる手紙端書を少し書いた。そこへ、今井邦子さんから電話がかかつて、どうしても一度、島木先生にお目にかかりたいといふことであつた。僕は直ぐそのことを否定した。今井さんは涙を流してゐる風であつた。兎も角今夜アララギ発行所に来てもらひたい旨をいつて電話を切つた。
午後に僕は妹を弔ひに行つた。妹は安らかな顔をして死んでゐた。妹が生んだ大きい方の女の子は珍らしい客が来るので切りにはしやいでゐるのも、ひどく僕を感動せしめた。夕刻に妹の家を辞して、途中で蕎麦を食ひ、その足でアララギ発行所に行つた。
発行所で今夜は、同人の重立つた人々に来て貰つて、今日まで秘して居つた島木赤彦君の病気の経過を報告しようとしたのであつた。席には土屋文明君、橋本福松君もすでに見えてゐた。僕は同人の重だつた人々に赤彦君の疾病の経過の大体を話し、一月廿一日に伴さんから胃癌の宣告を受けたこと。二月二日に胃腸病院の神保孝太郎博士の診察を受けたこと。次いで佐藤三吉博士の診察を受けたこと。今はすでに重篤の状態にあることをも云つた。そして、赤彦門下の三人の女流は岡麓さんと一しよに明日信濃に立つこと。そのほかの諸君は病気の邪魔になるから行かぬことを約したのであつた。同人のうちにはこらへ切れない程赤彦君に会ひたい者もゐたが、僕は、赤彦君の寿命は三月一ぱいは保つやうに思はれたので、強ひてさう約束してもらつたのであつた。僕はなほその席で、これまで口を緘して赤彦君の病気を通知しなかつた訣をも話した。『実は発行所に起臥してゐる高田浪吉君にも知らせなかつたのだから』といふやうなことも其時附加へたのであつた。夜ふけてから僕は家に帰つた。
翌廿五日午過ぎの新宿発の汽車で、岡麓さんは今井邦子さん、築地藤子さん、阪田幸代さんの三人を連れて信濃に立つた。午後に僕はアララギ発行所に行き、赤彦君と親交のあつた二三の方々に赤彦君の病のすでに篤きことを告げた。なほ数人の方々に手紙を書かうとしてゐるところに、発行所宛に赤彦君危篤の電報が届いた。僕は手紙を書くことをやめて家に帰つた。家にもやはり電報が届いてゐた。その夕すぐさま岩波茂雄さんは信濃へ立つた。夕食後、アララギ発行所に行くと土屋文明君はじめ七八人の同人が集まつてゐた。留守居万事を土屋文明君、高田浪吉君に頼み、十時幾分かの汽車で新宿駅を立つた。橋本福松、高木今衛、馬場謙一郎の三君同道した。夜が更けても目が冴えてなかなか眠れない。甲府駅で弁当を買つて食つた。
『おや。雪だ雪だ』暫くして汽車が信濃に入つたとおもふころ、かうひとりが云つた。
『成程たいへんな雪だ。いつこんなに降つたかな。ゆうべあたりかも知れんな』かうまた一人が云つた。二日まへ此処を通つた時には雪はすつかり消えてゐたからであつた。
『おや。まだ降つてゐますよ。吹雪ですよ』『なるほど、こいつはひどい。かうして見ると信州の気候はやつぱり鋭いんだね』こんなことをも云ひ合つた。島木赤彦君の息は既に絶えてゐるだらうとも思ひながら、こんな会話をするのであつた。暁天に近い信濃の国は一めんの雪で蔽はれ、それを烈風が時々通過ぎて、吹雪の渦を起させてゐるのであつた。
六
三月二十六日午前五時四十分に、四人は急いで上諏訪の停車場で降りた。町の家々は、未だひつそりとして居る。雪のさかんに降るなかを四人は布半旅館にたどりついて、戸を破れる程たたいた。
布半には東京から来た人々はもう誰も宿つてゐなかつた。赤彦君はもう駄目に相違ないといふ予感が強く僕の心を打つたが、女中は、守屋喜七さんの宿つてゐられることを告げたので、四人は守屋さんの部屋になだれるやうにして入り込んだ。守屋さんは、赤彦君の息のまだ絶えないでゐることを語られた。赤彦君の親しい友である守屋さんは病をおして長野から来てゐたのである。
四人は女中をせきたてて、人力車を雇つてもらつた。雪の降るなかを人力車は走るけれども、それがもどかしい程遅い。高木村の入口で人力車から降りて坂をのぼつて行つた。息を切らし切らし家に著いた時には、もう雪は小降りになつてゐた。入口から直ぐの部屋には昨夜来赤彦君の枕頭をまもつた人々の一部が疲れて眠つてゐる。森山汀川君は直ぐ僕たちを赤彦君の病室に導いた。
赤彦君は今は仰臥してゐる。さうして、純黄色になつた顔面から、二日前に見たときのやうな縦横無数の皺が全く取れて、そのために沈痛の顔貌は極く平安な顔貌に変つてゐる。そして平安な息を続けてゐるけれども、意識はすでに清明ではなかつた。時々眼を半眼に開き、瞳はもはや大きくなつてゐた。
主治医の伴さんは、きのふ以来帰宅せずに全く赤彦君の枕頭を護られたのであつた。伴さんはかういふことを語られた。赤彦君はきのふ迄は、いつもどほり神経痛のための注射を要求されたさうである。『今日もやはり注射をしませうか』と問うたとき、『もちろん』と答へたが、それが非常に幽かなこゑであつたさうである。今までは神経痛のために仰臥することが出来ずに、おほむね炬燵に俯伏になつてゐたのが、昨夜以来は全く仰臥の位置の儘だといふことである。きのふ以来、急に脈搏が悪くなるので、虚脱の来るのを恐れたといふことである。さういふことを伴さんは語られた。昨夜十二時過ぎに状態が悪くなつて、みんなが枕頭につめかけたのであつたが、それが少しく持直して今日に及んだのであつた。
藤沢古実君はかういふことを話して呉れた。きのふ、岡麓さん、今井邦子さん、築地藤子さん、阪田幸代さんの見えられたとき、『先生。岡先生がおいでになりました』といふと、赤彦君は辛うじてかうべを起して、銘々に点頭いたさうである。そして『ありがたう』といつたが、それが恐らく最後の言葉であつたのであらう、といふことであつた。
それからかういふことも話して呉れた。廿三日、僕等友人が皆辞して帰つた日である。その日の夕食後、長女初瀬さんが、『今夜はお父さんはえらい楽のやうだね』と云つたさうである。さうすると赤彦君は、『大敵退散した』と云つて笑つたさうである。『大敵』といふのは、赤彦君が静かに静かに籠つてゐたかつた病牀に、どやどやとつめかけた平福・岩波・中村・土屋・僕その他の友人、門人を謂つたのであつた。さうして赤彦君はつづいて、『来る人も遠いところを容易ではないよ。感謝しなければならないよ。斎藤はおれの体を気にして来て呉れたし』と云つたさうである。その言葉は遅く、切れ切れで、幽かなのである。一語いふにも骨が折れるのである。
炬燵に俯伏して頭のところに手を組んでうつらうつらしてゐた赤彦君は、その夜の十時過ぎに居合せた家族、親戚の皆を枕頭に呼んで、『今晩おれはまゐるかも知れない』と云つたさうである。併し暫くすると、枕頭でみんなに茶を飲ませ、『これで解散だ』といつたさうである。それが廿三日夜のことであるから、廿四日なか一日置いて、廿五日には意識がすでに濁りかけたのであつた。
廿六日は午になり午後になり、赤彦君の状態は刻々に変つて行つた。主治医は、三時間おきに強心の薬を注射した。次男周介君は、いま入学試験に行つて居り、けふの正午までに体格検査が済む筈である。そして直ぐ汽車に乗れば今夜の三時に上諏訪駅に著く筈である。それまで赤彦君の息を断たせまいといふ主治医の念願であつた。そこで夕刻、リンゲル氏液五百瓦をも右側大腿の内側に注入した。それから、息のあるうち写真も撮りたい。それから藤沢古実君が土を用意して来て居り、息のあるうち恩師の顔を塑にとりたいといふので、夫人不二子さんの許を得て、写真も撮り、面塑も出来た。そして廿六日は暮れた。
夕食後、九時になり、十時になり、十一時になつたころ、息も脈も細り体が冷えかけた。そのうち夜半を過ぎたので一まづ皆が枕頭を去つて休むことにした。主治医の伴さんと僕と交る交る容態をまもつてゐたが、ふたりも少し休むことにした。午前二時に上諏訪駅まで周介君のむかひに行くやうに人を頼み、それから脈搏、呼吸の方を初瀬さんに看てもらふやうに頼み、僕もそのまま布団をかぶつてしまつた。さて小一時間も経つたかとおもふころ、しきりに赤彦君を呼ぶこゑがする。それは不二子さんのこゑである。それから初瀬さんのこゑである。それから周介君のこゑである。しかし、赤彦君は一言もそれに返辞をしない。呼ぶこゑは幾たびか続いて、それに歔欷のこゑが加はつた。僕は夢現の間にそれを聞いてゐるのであるから、何か遠い世界の出来事のやうに思へる。痛切に感じてゐるやうで、実は痛切に感じてゐない。けれども暫くそれを聞いてゐるうちに、僕は反射的に身を起して布団から顔を出した。これは何かの会釈でもするつもりであつたらしい。然るに僕が顔をあらはした時にはみんなの言葉が既に絶えてもとの静寂に帰つてゐる。僕は急劇に明るい電燈の光を目に受けたので、一語も発せずに二たび布団をかぶつてしまつた。布団をかぶつてしまふと意識がだんだん晴れて来るのをおぼえた。そして先程の赤彦君を呼ぶこゑのことが写象となつて意識にのぼつて来た。気丈な不二子さんは僕等のまへにつひぞ今まで涙を見せたことはなかつた。これは侍の女房の覚悟に等しい心の抑制があつたからであらう。然るに今は他人の尽くが眠に沈んでゐる。赤彦君の枕頭に目ざめてゐるものは皆血縁の者である。そして終焉に近い赤彦君を呼ぶこゑが幾つ続いても、赤彦君はつひに一語もそれに答ふることをしない。血縁の者はいま邪魔なく、障礙なくして慟哭し得るのである。僕は布団をかぶりながら両眼に涙の湧くのをおぼえてゐた。間もなく雞鳴がきこえ、暁が近づいたらしい。その頃から僕は二たび少しく眠つた。
七
廿七日の午前六時半ごろ、主治医と二人で診察すると、脈搏はもはや弱く不正で結代があつた。息も終焉に近いことを示してゐた。そこで主治医の注意によりみんなが枕頭に集つた。赤彦君は稀に歯ぎしりをし、唸つた。その唸が十ばかり続くと、息が段々幽かになつて行つた。そして消えるやうになるかとおもふと、また唸がつづいた。それがまた十ばかりつづいてまた息が幽かになつた。そのうち八時になつたので、みんなが暫く休んで朝食をした。その間に赤彦君を看護つてゐたが、平安な顔貌に幾らか苦しみの表情が出て来た。それを僕が凝視してゐると、幾ばくもなくその表情が取れて行つて、もとの平安な顔になつた。ときどき唸があつて、それが矢張り十ばかり続いた。九時に脈搏が触れなくなつたので、居合せた人々が尽く枕頭に集つた。
厳父、夫人の不二子さん、健次さん、周介さん、夏樹さん、初瀬さん、水脈さん、妹の田鶴さん、弟の葦穂さん、その他の血族。長野から来られた守屋喜七さん。諏訪の田中一造、五味繁作、森山汀川、両角喜重、丸山東一、藤森省吾、両角丑助、堀内皆作の諸君。東京から来た金原省吾、白水吉次郎、鹿児島寿蔵の諸君。京都から来た宇野喜代之介、竹尾忠吉の諸君。それに上に記した岡麓、岩波茂雄、橋本福松、藤沢古実、高木今衛、馬場謙一郎、今井邦子、築地藤子、阪田幸代等の諸君。僕が姓名を知らずにしまつて、また問合せるのに時の無い約十名。あはせて約四十名が枕頭に集つた。北海道の令弟塚原瑞穂さん、それから小原節三、平福百穂、森田恒友、中村憲吉の諸君はいまだ途中にあつた。
赤彦君の安らかな顔貌は一瞬何か笑ふに似た表情を口脣のところにあらはしたが、また元の顔貌に帰つた。その時不二子さん以下の血縁者はかはるがはる立つて赤彦君の口脣を霑した。それから主治医伴さんの静粛な診査があり、赤彦君の息は全く絶えた。時に、大正十五年三月廿七日午前九時四十五分である。
続いて朋友、門人の銘々が赤彦君の脣を霑した。その時僕等は、病弱のゆゑに、師の臨終に参ずることの出来ない土田耕平君をおもはざることを得なかつた。けふは天が好く晴れて、雪がどんどん解けはじめてゐる。友島木赤彦君はつひに歿した。痩せて黄色になつた顔には、もとの面影がもはや無いと謂つても、白きを交へて疎らに延びた鬚髯のあたりを見てゐると、柹の村人時代の顔容をおもひ起させるものがあつた。
底本:「斎藤茂吉選集 第八巻」岩波書店
1981(昭和56)年5月27日第1刷発行
初出:「改造」
1926(大正15)年5月
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月7日作成
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