高野聖
泉鏡太郎
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「参謀本部編纂の地図を又繰開いて見るでもなからう、と思つたけれども、余りの道ぢやから、手を触るさへ暑くるしい、旅の法衣の袖をかゝげて、表紙を附けた折本になつてるのを引張り出した。
飛騨から信州へ越える深山の間道で、丁度立休らはうといふ一本の樹立も無い、右も左も山ばかりぢや、手を伸ばすと達きさうな峯があると、其の峯へ峯が乗り巓が被さつて、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
道と空との間に唯一人我ばかり、凡そ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返つた光線を、深々と頂いた一重の檜笠に凌いで、恁う図面を見た。」
旅僧は然ういつて、握拳を両方枕に乗せ、其で額を支へながら俯向いた。
道連になつた上人は、名古屋から此の越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私が知つてる限り余り仰向けになつたことのない、詰り傲然として物を見ない質の人物である。
一体東海道掛川の宿から同汽車に乗り組んだと覚えて居る、腰掛の隅に頭を垂れて、死灰の如く控へたから別段目にも留まらなかつた。
尾張の停車場で他の乗組員は言合はせたやうに、不残下りたので、函の中には唯上人と私と二人になつた。
此の汽車は新橋を昨夜九時半に発つて、今夕敦賀に入らうといふ、名古屋では正午だつたから、飯に一折の鮨を買た。旅僧も私と同く其の鮨を求めたのであるが、蓋を開けると、ばら〳〵と海苔が懸つた、五目飯の下等なので。
(やあ、人参と干瓢ばかりだ、)と踈匆ツかしく絶叫した、私の顔を見て旅僧は耐へ兼ねたものと見える、吃々と笑ひ出した、固より二人ばかりなり、知己にはそれから成つたのだが、聞けば之から越前へ行つて、派は違ふが永平寺に訪ねるものがある、但し敦賀に一泊とのこと。
若狭へ帰省する私もおなじ処で泊らねばならないのであるから、其処で同行の約束が出来た。
渠は高野山に籍を置くものだといつた、年配四十五六、柔和な、何等の奇も見えぬ、可懐い、おとなしやかな風采で、羅紗の角袖の外套を着て、白のふらんねるの襟巻を占め、土耳古形の帽を冠り、毛糸の手袋を箝め、白足袋に、日和下駄で、一見、僧侶よりは世の中の宗匠といふものに、其よりも寧ろ俗歟。
(お泊りは何方ぢやな、)といつて聞かれたから、私は一人旅の旅宿の詰らなさを、染々歎息した、第一盆を持つて女中が坐睡をする、番頭が空世辞をいふ、廊下を歩行くとじろ〳〵目をつける、何より最も耐へ難いのは晩飯の支度が済むと、忽ち灯を行燈に換へて、薄暗い処でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更けるまで寝ることが出来ないから、其間の心持といつたらない、殊に此頃の夜は長し、東京を出る時から一晩の泊が気になつてならない位、差支へがなくば御僧と御一所に。
快く頷いて、北陸地方を行脚の節はいつでも杖を休める香取屋といふのがある、旧は一軒の旅店であつたが、一人女の評判なのがなくなつてからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は断らず留て、老人夫婦が内端に世話をして呉れる、宜しくば其へ。其代といひかけて、折を下に置いて、
(御馳走は人参と干瓢ばかりぢや。)
と呵々と笑つた、慎深さうな打見よりは気の軽い。
岐阜では未だ蒼空が見えたけれども、後は名にし負ふ北国空、米原、長浜は薄曇、幽に日が射して、寒さが身に染みると思つたが、柳ヶ瀬では雨、汽車の窓が暗くなるに従ふて、白いものがちら〳〵交つて来た。
(雪ですよ。)
(然やうぢやな。)といつたばかりで別に気に留めず、仰いで空を見やうともしない、此時に限らず、賤ヶ岳が、といつて古戦場を指した時も、琵琶湖の風景を語つた時も、旅僧は唯頷いたばかりである。
敦賀で悚毛の立つほど煩はしいのは宿引の悪弊で、其日も期したる如く、汽車を下りると停車場の出口から町端へかけて招きの提灯、印傘の堤を築き、潜抜ける隙もあらなく旅人を取囲んで、手ン手に喧しく己が家号を呼立てる、中にも烈しいのは、素早く手荷物を引手繰つて、へい有難う様で、を喰はす、頭痛持は血が上るほど耐へ切れないのが、例の下を向いて悠々と小取廻に通抜ける旅僧は、誰も袖を曳かなかつたから、幸其後に跟いて町へ入つて、吻といふ息を吐いた。
雪は小止なく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさら〳〵と面を打ち、宵ながら門を鎖した敦賀の町はひつそりして一条二条縦横に、辻の角は広々と、白く積つた中を、道の程八町ばかりで、唯ある軒下に辿り着いたのが名指の香取屋。
床にも座敷にも飾といつては無いが、柱立の見事な、畳の堅い、炉の大なる、自在鍵の鯉は鱗が黄金造であるかと思はるる艶を持つた、素ばらしい竈を二ツ並べて一斗飯は焚けさうな目覚しい釜の懸つた古家で。
亭主は法然天窓、木綿の筒袖の中へ両手の先を窘まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁、女房の方は愛嬌のある、一寸世辞の可い婆さん、件の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、莞爾々々笑ひながら、縮緬雑魚と、鰈の干物と、とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取做なんど、如何にも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心の可さと謂つたらない。
軈て二階に寐床を慥へてくれた、天井は低いが、梁は丸太で二抱もあらう、屋の棟から斜に渡つて座敷の果の廂の処では天窓に支へさうになつて居る、巌丈な屋造、是なら裏の山から雪頽が来てもびくともせぬ。
特に炬燵が出来て居たから私は其まゝ嬉しく入つた。寐床は最う一組同一炬燵に敷いてあつたが、旅僧は之には来らず、横に枕を並べて、火の気のない臥床に寐た。
寐る時、上人は帯を解かぬ、勿論衣服も脱がぬ、着たまゝ丸くなつて俯向形に腰からすつぽりと入つて、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏つた、其の様子は我々と反対で、顔に枕をするのである。程なく寂然として寝に着きさうだから、汽車の中でもくれ〴〵いつたのは此処のこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あはれと思つて最う暫くつきあつて、而して諸国を行脚なすつた内のおもしろい談をといつて打解けて幼らしくねだつた。
すると上人は頷いて、私は中年から仰向けに枕に着かぬのが癖で、寐るにも此儘ではあるけれども目は未だなか〳〵冴えて居る、急に寐着かれないのはお前様と同一であらう。出家のいふことでも、教だの、戒だの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かつしやい、と言て語り出した。後で聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺の宗朝といふ大和尚であつたさうな。
「今に最う一人此処へ来て寝るさうぢやが、お前様と同国ぢやの、若狭の者で塗物の旅商人。いや此の男なぞは若いが感心に実体な好い男。
私が今話の序開をした其の飛騨の山越を遣つた時の、麓の茶屋で一所になつた富山の売薬といふ奴あ、けたいの悪い、ねぢ〳〵した厭な壮佼で。
先づこれから峠に掛らうといふ日の、朝早く、尤も先の泊はものゝ三時位には発つて来たので、涼い内に六里ばかり、其の茶屋までのしたのぢやが、朝晴でぢり〳〵暑いわ。
慾張抜いて大急ぎで歩いたから咽が渇いて為様があるまい早速茶を飲うと思ふたが、まだ湯が沸いて居らぬといふ。
何うして其時分ぢやからといふて、滅多に人通のない山道、朝顔の咲いてる内に煙が立つ道理もなし。
床几の前には冷たさうな小流があつたから手桶の水を汲まうとして一寸気がついた。
其といふのが、時節柄暑さのため、可恐い悪い病が流行つて、先に通つた辻などといふ村は、から一面に石灰だらけぢやあるまいか。
(もし、姉さん。)といつて茶店の女に、
(此水はこりや井戸のでござりますか。)と、極りも悪し、もじ〳〵聞くとの。
(いんね川のでございす。)といふ、はて面妖なと思つた。
(山したの方には大分流行病がございますが、此水は何から、辻の方から流れて来るのではありませんか。)
(然うでねえ。)と女は何気なく答へた、先づ嬉しやと思ふと、お聞きなさいよ。
此処に居て先刻から休すんでござつたのが、右の売薬ぢや。此の又万金丹の下廻と来た日には、御存じの通り、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んで居ます、脚絆、股引、之は勿論、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包の角ばつたのを首に結へて、桐油合羽を小さく畳んで此奴を真田紐で右の包につけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、お極だね。一寸見ると、いやどれもこれも克明で、分別のありさうな顔をして。これが泊に着くと、大形の裕衣に変つて、帯広解で焼酎をちびり〳〵遣りながら、旅籠屋の女のふとつた膝へ脛を上げやうといふ輩ぢや。
(これや、法界坊、)
なんて、天窓から嘗めて居ら。
(異なことをいふやうだが何かね世の中の女が出来ねえと相場が極つて、すつぺら坊主になつても矢張り生命は欲しいのかね、不思議ぢやあねえか、争はれねもんだ、姉さん見ねえ、彼で未だ未練のある内が可いぢやあねえか、)といつて顔を見合はせて二人で呵々と笑つたい。
年紀は若し、お前様、私は真赤になつた、手に汲んだ川の水を飲みかねて猶予つて居るとね。
ポンと煙管を払いて、
(何、遠慮をしねえで浴びるほどやんなせえ、生命が危くなりや、薬を遣らあ、其為に私がついてるんだぜ、喃姉さん。おい、其だつても無銭ぢやあ不可えよ憚りながら神方万金丹、一貼三百だ、欲しくば買ひな、未だ坊主に報捨をするやうな罪は造らねえ、其とも何うだお前いふことを肯くか、)といつて茶店の女の背中を叩いた。
私は匆々に遁出した。
いや、膝だの、女の背中だのといつて、いけ年を仕つた和尚が業体で恐入るが、話が、話ぢやから其処は宜しく。」
「私も腹立紛れぢや、無暗と急いで、それからどん〳〵山の裾を田圃道へ懸る。
半町ばかり行くと、路が恁う急に高くなつて、上りが一ヶ処、横から能く見えた、弓形で宛で土で勅使橋がかゝつてるやうな。上を見ながら、之へ足を踏懸けた時、以前の薬売がすた〳〵遣つて来て追着いたが。
別に言葉も交はさず、又ものをいつたからといふて、返事をする気は此方にもない。何処までも人を凌いだ仕打な薬売は流盻にかけて故とらしう私を通越して、すた〳〵前へ出て、ぬつと小山のやうな路の突先へ蝙蝠傘を差して立つたが、其まゝ向ふへ下りて見えなくなる。
其後から爪先上り、軈てまた太鼓の胴のやうな路の上へ体が乗つた、其なりに又下りぢや。
売薬は先へ下りたが立停つて頻に四辺を瞻して居る様子、執念深く何か巧んだか、と快からず続いたが、さてよく見ると仔細があるわい。
路は此処で二条になつて、一条はこれから直ぐに坂になつて上りも急なり、草も両方から生茂つたのが、路傍の其の角の処にある、其こそ四抱さうさな、五抱もあらうといふ一本の檜の、背後へ畝つて切出したやうな大巌が二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層なつて其の背後へ通じて居るが、私が見当をつけて、心組んだのは此方ではないので、矢張今まで歩行いて来た其の巾の広いなだらかな方が正しく本道、あと二里足らず行けば山になつて、其からが峠になる筈。
唯見ると、何うしたことかさ、今いふ其檜ぢやが、其処らに何もない路を横截つて見果のつかぬ田圃の中空へ虹のやうに突出て居る、見事な。根方の処の土が壊れて大鰻を捏ねたやうな根が幾筋ともなく露はれた、其根から一筋の水が颯と落ちて、地の上へ流れるのが、取つて進まうとする道の真中に流出してあたりは一面。
田圃が湖にならぬが不思議で、どう〳〵と瀬になつて、前途に一叢の藪が見える、其を境にして凡そ二町ばかりの間宛で川ぢや。礫はばら〳〵、飛石のやうにひよい〳〵と大跨で伝へさうにずつと見ごたへのあるのが、それでも人の手で並べたに違ひはない。
尤も衣服を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道には些と難儀過ぎて、なか〳〵馬などが歩行かれる訳のものではないので。
売薬もこれで迷つたのであらうと思ふ内、切放れよく向を変へて右の坂をすた〳〵と上りはじめた。
見る間に檜を後に潜り抜けると、私が体の上あたりへ出て下を向き、
(おい〳〵、松本へ出る路は此方だよ、)といつて無雑作にまた五六歩。
岩の頭へ半身を乗出して、
(茫然してると、木精が攫ふぜ、昼間だつて用捨はねえよ。)と嘲るが如く言ひ棄てたが、軈て岩の陰に入つて高い処の草に隠れた。
暫くすると見上げるほどな辺へ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれ〳〵になつて茂の中に見えなくなつた。
(どッこいしよ、)と暢気なかけ声で、其の流の石の上を飛々に伝つて来たのは、呉座の尻当をした、何にもつけない天秤棒を片手で担いだ百姓ぢや。」
「前刻の茶店から此処へ来るまで、売薬の外は誰にも逢はなんだことは申上げるまでもない。
今別れ際に声を懸けられたので、先方は道中の商売人と見たゞけに、まさかと思つても気迷がするので、今朝も立ちぎはによく見て来た、前にも申す、其の図面をな、此処でも開けて見やうとして居た処。
(一寸伺ひたう存じますが、)
(これは、何でござりまする、)と山国の人などは殊に出家と見ると丁寧にいつてくれる。
(いえ、お伺ひ申しますまでもございませんが、道は矢張これを素直に参るのでございませうな。)
(松本へ行かつしやる? あゝ〳〵本道ぢや、何ね、此間の梅雨に水が出てとてつもない川さ出来たでがすよ。)
(未だずつと何処までも此水でございませうか。)
(何のお前様、見たばかりぢや、訳はござりませぬ、水になつたのは向ふの那の藪までゞ、後は矢張これと同一道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのは旧大いお邸の医者様の跡でな、此処等はこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良になりましたよ、人死もいけえこと。御坊様歩行きながらお念仏でも唱へて遣つてくれさつしやい)と問はぬことまで親切に話します。其で能く仔細が解つて確になりはなつたけれども、現に一人蹈迷つた者がある。
(此方の道はこりや何処へ行くので、)といつて売薬の入つた左手の坂を尋ねて見た。
(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行いた旧道でがす。矢張信州へ出まする、前は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時往来の出来るのぢやあござりませぬ。去年も御坊様、親子連の順礼が間違へて入つたといふで、はれ大変な、乞食を見たやうな者ぢやといふて、人命に代りはねえ、追かけて助けべいと、巡査様が三人、村の者が十二人、一組になつて之から押登つて、やつと連れて戻つた位でがす。御坊様も血気に逸つて近道をしてはなりましねえぞ、草臥れて野宿をしてからが此処を行かつしやるよりは増でござるに。はい、気を着けて行かつしやれ。)
此処で百姓に別れて其の川の石の上を行うとしたが弗と猶予つたのは売薬の身の上で。
まさかに聞いたほどでもあるまいが、其が本当ならば見殺ぢや、何の道私は出家の体、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るには及ばぬ、追着いて引戻して遣らう。罷違ふて旧道を皆歩行いても怪しうはあるまい、恁ういふ時候ぢや、狼の春でもなく、魑魅魍魎の汐さきでもない、まゝよ、と思ふて、見送ると早や親切な百姓の姿も見えぬ。
(可し。)
思切つて坂道に取つて懸つた、侠気があつたのではござらぬ、血気に逸つたでは固よりない、今申したやうではずつと最う悟つたやうぢやが、いやなか〳〵の憶病者、川の水を飲むのさへ気が怯けたほど生命が大事で、何故又と謂はつしやるか。
唯挨拶をしたばかりの男なら、私は実の処、打棄つて置いたに違ひはないが、快からぬ人と思つたから、其まゝに見棄てるのが、故とするやうで、気が責めてならなんだから、」
と宗朝は矢張俯向けに床に入つたまゝ合掌していつた。
「其では口でいふ念仏にも済まぬと思ふてさ。」
「さて、聞かつしやい、私はそれから檜の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、樹の中を潜つて草深い径を何処までも、何処までも。
すると何時の間にか今上つた山は過ぎて又一ツ山が近づいて来た、此辺暫くの間は野が広々として、前刻通つた本街道より最つと巾の広い、なだらかな一筋道。
心持西と、東と、真中に山を一ツ置いて二条並んだ路のやうな、いかさまこれならば鎗を立てゝも行列が通つたであらう。
此の広ツ場でも目の及ぶ限芥子粒ほどの大さの売薬の姿も見ないで、時々焼けるやうな空を小さな虫が飛歩行いた。
歩行くには此の方が心細い、あたりがばツとして居ると便がないよ。勿論飛騨越と銘を打つた日には、七里に一軒十里に五軒といふ相場、其処で粟の飯にありつけば都合も上の方といふことになつて居ります。其の覚悟のことで、足は相応に達者、いや屈せずに進んだ進んだ。すると、段々又山が両方から逼つて来て、肩に支へさうな狭いことになつた、直ぐに上。
さあ、之からが名代の天生峠と心得たから、此方も其気になつて、何しろ暑いので、喘ぎながら、先づ草鞋の紐を締直した。
丁度此の上口の辺に美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹抜けの風穴があるといふことを年経つてから聞きましたが、なか〳〵其処どころの沙汰ではない、一生懸命、景色も奇跡もあるものかい、お天気さへ晴れたか曇つたか訳が解らず、目まじろぎもしないですた〳〵と捏ねて上る。
とお前様お聞かせ申す話は、これからぢやが、最初に申す通り路がいかにも悪い、宛然人が通ひさうでない上に、恐いのは、蛇で。両方の叢に尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡して居るではあるまいか。
私は真先に出会した時は笠を被つて竹杖を突いたまゝはツと息を引いて膝を折つて坐つたて。
いやもう生得大嫌、嫌といふより恐怖いのでな。
其時は先づ人助けにずる〴〵と尾を引いて向ふで鎌首を上げたと思ふと草をさら〳〵と渡つた。
漸う起上つて道の五六町も行くと又同一やうに、胴中を乾かして尾も首も見えぬが、ぬたり!
あツといふて飛退いたが、其も隠れた。三度目に出会つたのが、いや急には動かず、然も胴体の太さ、譬ひ這出した処でぬら〳〵と遣られては凡そ五分間位は尾を出すまでに間があらうと思ふ長虫と見えたので已むことを得ず私は跨ぎ越した、途端に下腹が突張つてぞツと身の毛、毛穴が不残鱗に変つて、顔の色も其の蛇のやうになつたらうと目を塞いだ位。
絞るやうな冷汗になる気味の悪さ、足が窘んだといふて立つて居られる数ではないから、びく〳〵しながら路を急ぐと又しても居たよ。
然も今度のは半分に引切つてある胴から尾ばかりの虫ぢや、切口が蒼を帯びて其で恁う黄色な汁が流れてぴくぴくと動いたわ。
我を忘れてばら〳〵とあとへ遁帰つたが、気が着けば例のが未だ居るであらう、譬ひ殺されるまでも二度とは彼を跨ぐ気はせぬ。あゝ前刻のお百姓がものゝ間違でも故道には蛇が恁うといつてくれたら、地獄へ落ちても来なかつたにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏、今でも悚然とする。」と額に手を。
「果が無いから肝を据ゑた、固より引返す分ではない。旧の処には矢張丈足らずの骸がある、遠くへ避けて草の中へ駆け抜けたが、今にもあとの半分が絡ひつきさうで耐らぬから気臆がして足が筋張ると、石に躓いて転んだ、其時膝節を痛めましたものと見える。
それからがく〴〵して歩行くのが少し難渋になつたけれども、此処で倒れては温気で蒸殺されるばかりぢやと、我身で我身を激まして首筋を取つて引立てるやうにして峠の方へ。
何しろ路傍の草いきれが可恐しい、大鳥の卵見たやうなものなんぞ足許にごろ〴〵して居る茂り塩梅。
又二里ばかり大蛇の畝るやうな坂を、山懐に突当つて岩角を曲つて、木の根を繞つて参つたが此処のことで余りの道ぢやつたから、参謀本部の絵図面を開いて見ました。
何矢張道は同一で聞いたにも見たのにも変はない、旧道は此方に相違はないから心遣りにも何にもならず、固より歴とした図面といふて、描いてある道は唯栗の毯の上へ赤い筋が引張つてあるばかり。
難儀さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してある筈はないのぢやから、薩張と畳んで懐に入れて、うむと此の乳の下へ念仏を唱へ込んで立直つたは可いが、息も引かぬ内に情無い長虫が路を切つた。
其処でもう所詮叶はぬと思つたなり、これは此の山の霊であらうと考へて、杖を棄てゝ膝を曲げ、じり〳〵する地に両手をついて、
(誠に済みませぬがお通しなすつて下さりまし、成たけお昼寝の邪魔になりませぬやうに密と通行いたしまする。
御覧の通り杖も棄てました。)と我折れ染々と頼んで額を上げるとざつといふ凄い音で。
心持余程の大蛇と思つた、三尺、四尺、五尺、四方、一丈余、段々と草の動くのが広がつて、傍の谷へ一文字に颯と靡いた、果は峯も山も一斉に揺いだ、悚毛を震つて立窘むと涼しさが身に染みて気が着くと山颪よ。
此の折から聞えはじめたのは哄といふ山彦に伝はる響、丁度山の奥に風が渦巻いて其処から吹起る穴があいたやうに感じられる。
何しろ山霊感応あつたか、蛇は見えなくなり暑さも凌ぎよくなつたので気も勇み足も捗取つたが程なく急に風が冷たくなつた理由を会得することが出来た。
といふのは目の前に大森林があらはれたので。
世の譬にも天生峠は蒼空に雨が降るといふ人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。
今度は蛇のかはりに蟹が歩きさうで草鞋が冷えた。暫くすると暗くなつた、杉、松、榎と処々見分けが出来るばかりに遠い処から幽に日の光の射すあたりでは、土の色が皆黒い。中には光線が森を射通す工合であらう、青だの、赤だの、ひだが入つて美しい処があつた。
時々爪尖に絡まるのは葉の雫の落溜つた糸のやうな流で、これは枝を打つて高い処を走るので。ともすると又常盤木が落葉する、何の樹とも知れずばら〴〵と鳴り、かさかさと音がしてぱつと檜笠にかゝることもある、或は行過ぎた背後へこぼれるのもある、其等は枝から枝に溜つて居て何十年ぶりではじめて地の上まで落るのか分らぬ。」
「心細さは申すまでもなかつたが、卑怯な様でも修業の積まぬ身には、恁云ふ暗い処の方が却つて観念に便が宜い。何しろ体が凌ぎよくなつたゝめに足の弱も忘れたので、道も大きに捗取つて、先づこれで七分は森の中を越したらうと思ふ処で、五六尺天窓の上らしかつた樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まつたものがある。
鉛の重かとおもふ心持、何か木の実でゞもあるか知らんと、二三度振て見たが附着いて居て其まゝには取れないから、何心なく手をやつて掴むと、滑らかに冷りと来た。
見ると海鼠を裂たやうな目も口もない者ぢやが、動物には違ひない。不気味で投出さうとするとずる〴〵と辷つて指の尖へ吸ついてぶらりと下つた其の放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじつと見ると、今折曲げた肱の処へつるりと垂懸つて居るのは同形をした、巾が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠。
呆気に取れて見る〳〵内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太つて行くのは生血をしたゝかに吸込む所為で、濁つた黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもつた、痣胡瓜のやうな血を取る動物、此奴は蛭ぢやよ。
誰が目にも見違へるわけのものではないが図抜て余り大いから一寸は気がつかぬであつた、何の畠でも、甚麼履歴のある沼でも、此位な蛭はあらうとは思はれぬ。
肱をばさりと振たけれども、よく喰込んだと見えてなかなか放れさうにしないから不気味ながら手で抓んで引切ると、ぶつりといつてやう〳〵取れる暫時も耐つたものではない、突然取つて大地へ叩きつけると、これほどの奴等が何万となく巣をくつて我ものにして居やうといふ処、予て其の用意はして居ると思はれるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔い、潰れさうにもないのぢや。
と最早や頷のあたりがむづ〳〵して来た、平手で扱て見ると横撫に蛭の背をぬる〳〵とすべるといふ、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋、蒼くなつてそツと見ると肩の上にも一筋。
思はず飛上つて総身を震ひながら此の大枝の下を一散にかけぬけて、走りながら先心覚の奴だけは夢中でもぎ取つた。
何にしても恐しい今の枝には蛭が生つて居るのであらうと余の事に思つて振返ると、見返つた樹の何の枝か知らず矢張幾ツといふこともない蛭の皮ぢや。
これはと思ふ、右も、左も前の枝も、何の事はないまるで充満。
私は思はず恐怖の声を立てゝ叫んだすると何と? 此時は目に見えて、上からぼたり〳〵と真黒な瘠せた筋の入つた雨が体へ降かゝつて来たではないか。
草鞋を穿いた足の甲へも落た上へ又累り、並んだ傍へ又附着いて爪先も分らなくなつた、然うして活きてると思ふだけ脈を打つて血を吸ふやうな。思ひなしか一ツ一ツ伸縮をするやうなのを見るから気が遠くなつて、其時不思議な考が起きた。
此の恐い山蛭は神代の古から此処に屯をして居て人の来るのを待ちつけて、永い久しい間に何の位何斛かの血を吸ふと、其処でこの虫の望が叶ふ其の時はありつたけの蛭が不残吸つたゞけの人間の血を吐出すと、其がために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかはるであらう、其と同時に此処に日の光を遮つて昼もなほ暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になつて了うのに相違ないと、いや、全くの事で。」
「凡そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、其が代がはりの世界であらうと、ぼんやり。
なるほど此の森も入口では何の事もなかつたのに、中へ来ると此通り、もつと奥深く進んだら早や不残立樹の根の方から朽ちて山蛭になつて居やう、助かるまい、此処で取殺される因縁らしい、取留めのない考が浮んだのも人が知死期に近いたからだと弗と気が着いた。
何の道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片端でも見て置かうと、然う覚悟が極つては気味の悪いも何もあつたものぢやない、体中珠数生になつたのを手当次第に掻い除け毟り棄て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、宛で躍り狂ふ形で歩行出した。
はじめの内は一廻も太つたやうに思はれて痒さが耐らなかつたが、しまひにはげつそり痩せたと、感じられてづきづき痛んでならぬ、其上を用捨なく歩行く内にも入交りに襲ひをつた。
既に目も眩んで倒れさうになると、禍は此辺が絶頂であつたと見えて、隧道を抜けたやうに遥に一輪のかすれた月を拝んだのは蛭の林の出口なので。
いや蒼空の下へ出た時には、何のことも忘れて、砕けろ、微塵になれと横なぐりに体を山路へ打倒した。それでからもう砂利でも針でもあれと地へこすりつけて、十余りも蛭の死骸を引くりかへした上から、五六間向ふへ飛んで身顫をして突立つた。
人を馬鹿にして居るではありませんか。あたりの山では処々茅蜩殿、血と泥の大沼にならうといふ森を控へて鳴いて居る、日は斜、谷底はもう暗い。
先づこれならば狼の餌食になつても其は一思に死なれるからと、路は丁度だら〴〵下なり、小僧さん、調子はづれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁げたわ。
これで蛭に悩まされて痛いのか、痒いのか、それとも擽つたいのか得もいはれぬ苦しみさへなかつたら、嬉しさに独り飛騨山越の間道で、御経に節をつけて外道踊をやつたであらう一寸清心丹でも噛砕いて疵口へつけたら何うだと、大分世の中の事に気がついて来たわ。捻つても確に活返つたのぢやが、夫にしても富山の薬売は何うしたらう、那の様子では疾に血になつて泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地の汚い下司な動物が骨までしやぶらうと何百といふ数でのしかゝつて居た日には、酢をぶちまけても分る気遣はあるまい。
恁う思つて居る間、件のだら〴〵坂は大分長かつた。
其を下り切ると流が聞えて、飛だ処に長さ一間ばかりの土橋がかゝつて居る。
はや其の谷川の音を聞くと我身で持余す蛭の吸殻を真逆に投込んで、水に浸したら嘸可心地であらうと思ふ位、何の渡りかけて壊れたら夫なりけり。
危いとも思はずにずつと懸る、少しぐら〴〵としたが難なく越した。向ふから又坂ぢや、今度は上りさ、御苦労千万。」
「到底も此の疲れやうでは、坂を上るわけには行くまいと思つたが、ふと前途に、ヒイヽンと馬の嘶くのが谺して聞えた。
馬士が戻るのか小荷駄が通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の経つたは僅ぢやが、三年も五年も同一ものをいふ人間とは中を隔てた。馬が居るやうでは左も右も人里に縁があると、之がために気が勇んで、えゝやつと今一揉。
一軒の山家の前へ来たのには、然まで難儀は感じなかつた、夏のことで戸障子の締もせず、殊に一軒家、あけ開いたなり門といふでもない、突然破椽になつて男が一人、私はもう何の見境もなく、(頼みます、頼みます、)といふさへ助を呼ぶやうな調子で、取縋らぬばかりにした。
(御免なさいまし、)といつたがものもいはない、首筋をぐつたりと、耳を肩で塞ぐほど顔を横にしたまゝ小児らしい、意味のない、然もぼつちりした目で、ぢろ〴〵と、門に立つたものを瞻める、其の瞳を動かすさい、おつくうらしい、気の抜けた身の持方。裾短かで袖は肱より少い、糊気のある、ちやん〳〵を着て、胸のあたりで紐で結へたが、一ツ身のものを着たやうに出ツ腹の太り肉、太鼓を張つたくらゐに、すべ〳〵とふくれて然も出臍といふ奴、南瓜の蔕ほどな異形な者を、片手でいぢくりながら幽霊のつきで、片手を宙にぶらり。
足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾を立てたやうに畳まれさうな、年紀が其で居て二十二三、口をあんぐりやつた上唇で巻込めやう、鼻の低さ、出額。五分刈の伸びたのが前は鶏冠の如くになつて、頷脚へ刎ねて耳に被つた、唖か、白痴か、これから蛙にならうとするやうな少年。私は驚いた、此方の生命に別条はないが、先方様の形相。いや、大別条。
(一寸お願ひ申します。)
それでも為方がないから又言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりといふと僅に首の位置をかへて今度は左の肩を枕にした、口の開いてること旧の如し。
恁云ふのは、悪くすると突然ふんづかまへて臍を捻りながら返事のかはりに嘗めやうも知れぬ。
私は一足退つたがいかに深山だといつても是を一人で置くといふ法はあるまい、と足を爪立てゝ少し声高に、
(何方ぞ、御免なさい、)といつた。
背戸と思ふあたりで再び馬の嘶く声。
(何方、)と納戸の方でいつたのは女ぢやから、南無三宝、此の白い首には鱗が生へて、体は床を這つて尾をずる〴〵と引いて出やうと、又退つた。
(おゝ、御坊様、)と立顕はれたのは小造の美しい、声も清しい、ものやさしい。
私は大息を吐いて、何にもいはず、
(はい。)と頭を下げましたよ。
婦人は膝をついて坐つたが、前へ伸上るやうにして黄昏にしよんぼり立つた私が姿を透かし見て、(何か用でござんすかい。)
休めともいはずはじめから宿の常世は留主らしい、人を泊めないと極めたものゝやうに見える。
いひ後れては却つて出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼にもなることゝ、つか〳〵と前へ出た。丁寧に腰を屈めて、
(私は、山越で信州へ参ります者ですが旅籠のございます処までは未だ何の位ございませう。)」
「(貴方まだ八里余でございますよ。)
(其他に別に泊めてくれます家もないのでせうか。)
(其はございません。)といひながら目たゝきもしないで清しい目で私の顔をつく〴〵見て居た。
(いえもう何でございます、実は此先一町行け、然うすれば上段の室に寝かして一晩扇いで居て其で功徳のためにする家があると承りましても、全くの処一足も歩行けますのではございません、何処の物置でも馬小屋の隅でも宜いのでございますから後生でございます。)と前刻馬の嘶いたのは此家より外にはないと思つたから言つた。
婦人は暫く考へて居たが、弗と傍を向いて布の袋を取つて、膝のあたりに置いた桶の中へざら〳〵と一巾、水を溢すやうにあけて縁をおさへて、手で掬つて俯向いて見たが、
(あゝ、お泊め申しましやう、丁度炊いてあげますほどお米もございますから、其に夏のことで、山家は冷えましても夜のものに御不自由もござんすまい。さあ、左も右もあなたお上り遊ばして。)
といふと言葉の切れぬ先にどつかり腰を落した。婦人は衝と身を起して立つて来て、
(御坊様、それでござんすが一寸お断り申して置かねばなりません。)
判然いはれたので私はびく〳〵もので、
(唯、はい。)
(否、別のことぢやござんせぬが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞かうといたしますが、あなた忘れても其時聞かして下さいますな、可うござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたは何うしてもお話しなさいませぬ、其を是非にと申しましても断つて有仰らないやうに屹と念を入れて置きますよ。)
と仔細ありげなことをいつた。
山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人の言葉とは思ふたが、保つにむづかしい戒でもなし、私は唯頷くばかり。
(唯、宜しうございます、何事も仰有りつけは背きますまい。)
婦人は言下に打解けて、
(さあ〳〵汚うございますが早く此方へ、お寛ぎなさいまし、然うしてお洗足を上げませうかえ。)
(いえ、其には及びませぬ、雑巾をお貸し下さいまし。あゝ、それからもし其のお雑巾次手にづツぷりお絞んなすつて下さると助ります、途中で大変な目に逢ひましたので体を打棄りたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中を拭かうと存じますが恐入りますな。)
(然う、汗におなりなさいました、嘸ぞまあ、お暑うござんしたでせう、お待ちなさいまし、旅籠へお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何より御馳走だと申しますね、湯どころか、お茶さへ碌におもてなしもいたされませんが、那の、此の裏の崖を下りますと、綺麗な流がございますから一層其へ行らつしやツてお流しが宜うございませう、)
聞いただけでも飛でも行きたい。
(えゝ、其は何より結構でございますな。)
(さあ、其では御案内申しませう、どれ、丁度私も米を磨ぎに参ります。)と件の桶を小脇に抱へて、椽側から、藁草履を穿いて出たが、屈んで板椽の下を覗いて、引出したのは一足の古下駄で、かちりと合はして埃を払いて揃へて呉れた。
(お穿きなさいまし、草鞋は此処にお置きなすつて、)
私は手をあげて一礼して、
(恐入ります、これは何うも、)
(お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでござんす、あなた御遠慮を遊ばしますなよ。)先づ恐ろしく調子が可いぢやて。」
「(さあ、私に跟いて此方へ、)と件の米磨桶を引抱へて手拭を細い帯に挟んで立つた。
髪は房りとするのを束ねてな、櫛をはさんで笄で留めて居る、其の姿の佳さといふてはなかつた。
私も手早く草鞋を解いたから、早速古下駄を頂戴して、椽から立つ時一寸見ると、それ例の白痴殿ぢや。
同じく私が方をぢろりと見たつけよ、舌不足が饒舌るやうな、愚にもつかぬ声を出して、
(姉や、こえ、こえ。)といひながら、気だるさうに手を持上げて其の蓬々と生へた天窓を撫でた。
(坊さま、坊さま?)
すると婦人が、下ぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはき〳〵と続けて頷いた。
少年はうむといつたが、ぐたりとして又臍をくり〳〵〳〵。
私は余り気の毒さに顔も上げられないで密つと盗むやうにして見ると、婦人は何事も別に気に懸けては居らぬ様子、其まゝ後へ跟いて出やうとする時、紫陽花の花の蔭からぬいと出た一名の親仁がある。
背戸から廻つて来たらしい、草鞋を穿いたなりで、胴乱の根付を紐長にぶらりと提げ、啣煙管をしながら並んで立停つた。
(和尚様おいでなさい。)
婦人は其方を振向いて、
(おぢ様何うでござんした。)
(然ればさの、頓馬で間の抜けたといふのは那のことかい。根ツから早や狐でなければ乗せ得さうにもない奴ぢやが、其処はおらが口ぢや、うまく仲人して、二月や三月はお嬢様が御不自由のねえやうに、翌日はものにして沢山と此処へ担ぎ込んます。)
(お頼み申しますよ。)
(承知、承知、おゝ、嬢様何処さ行かつしやる。)
(崖の水まで一寸。)
(若い坊様連れて川へ落つこちさつさるな。おら此処に眼張つて待つ居るに、)と横様に椽にのさり。
(貴僧、あんなことを申しますよ。)と顔を見て微笑んだ。
(一人で参りませう、)と傍へ退くと親仁は吃々と笑つて、
(はゝゝゝ、さあ早くいつてござらつせえ。)
(をぢ様、今日はお前、珍らしいお客がお二人ござんした、恁ふ云ふ時はあとから又見えやうも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさらう、私が帰るまで其処に休んで居てをくれでないか。)
(可いともの。)といひかけて親仁は少年の傍へにぢり寄つて、鉄挺を見たやうな拳で、脊中をどんとくらはした、白痴の腹はだぶりとして、べそをかくやうな口つきで、にやりと笑ふ。
私は悚気として面を背けたが婦人は何気ない体であつた。
親仁は大口を開いて、
(留主におらが此の亭主を盗むぞよ。)
(はい、ならば手柄でござんす、さあ、貴僧参りませうか。)
背後から親仁が見るやうに思つたが、導かるゝまゝに壁について、彼の紫陽花のある方ではない。
軈て脊戸と思ふ処で左に馬小屋を見た、こと〳〵といふ物音は羽目を蹴るのであらう、もう其辺から薄暗くなつて来る。
(貴僧、こゝから下りるのでございます、辷りはいたしませぬが道が酷うございますからお静に、)といふ。」
「其処から下りるのだと思はれる、松の木の細くツて度外れに背の高いひよろ〳〵した凡そ五六間上までは小枝一ツもないのがある。其中を潜つたが仰ぐと梢に出て白い、月の形は此処でも別にかはりは無かつた、浮世は何処にあるか十三夜で。
先へ立つた婦人の姿が目さきを放れたから、松の幹に掴まつて覗くと、つい下に居た。
仰向いて、
(急に低くなりますから気をつけて。こりや貴僧には足駄では無理でございましたか不知、宜しくば草履とお取交へ申しませう。)
立後れたのを歩行悩んだと察した様子、何が扨転げ落ちても早く行つて蛭の垢を落したさ。
(何、いけませんければ跣足になります分のこと、何卒お構ひなく、嬢様に御心配をかけては済みません。)
(あれ、嬢様ですつて、)と稍調子を高めて、艶麗に笑つた。
(唯、唯今あの爺様が、然やう申しましたやうに存じますが、夫人でございますか。)
(何にしても貴僧には叔母さん位な年紀ですよ。まあ、お早くいらつしやい、草履も可うござんすけれど、刺がさゝりますと不可ません、それにじく〳〵湿れて居てお気味が悪うございませうから)と向ふ向でいひながら衣服の片褄をぐいとあげた。真白なのが暗まぎれ、歩行くと霜が消えて行くやうな。
ずん〳〵ずん〳〵と道を下りる、傍の叢から、のさ〳〵と出たのは蟇で。
(あれ、気味が悪いよ。)といふと婦人は背後へ高々と踵を上げて向ふへ飛んだ。
(お客様が被在しやるではないかね、人の足になんか搦まつて贅沢ぢやあないか、お前達は虫を吸つて居れば沢山だよ。
貴僧ずん〳〵入らつしやいましな、何うもしはしません。恁云ふ処ですからあんなものまで人懐うございます、厭ぢやないかね、お前達と友達を見たやうで可愧い、あれ可けませんよ。)
蟇はのさ〳〵と又草を分けて入つた、婦人はむかふへずいと。
(さあ此の上へ乗るんです、土が柔かで壊へますから地面は歩行かれません。)
いかにも大木の僵れたのが草がくれに其の幹をあらはして居る、乗ると足駄穿で差支へがない、丸木だけれども可恐しく太いので、尤もこれを渡り果てると忽ち流の音が耳に激した、それまでには余程の間。
仰いで見ると松の樹はもう影も見えない、十三夜の月はずつと低うなつたが、今下りた山の頂に半ばかゝつて、手が届きさうにあざやかだけれども、高さは凡そ計り知られぬ。
(貴僧、此方へ。)
といつた、婦人はもう一息、目の下に立つて待つて居た。
其処は早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかゝつて此処によどみを造つて居る、川巾は一間ばかり、水に望めば音は然までにもないが、美しさは玉を解いて流したやう、却つて遠くの方で凄じく岩に砕ける響がする。
向ふ岸は又一坐の山の裾で、頂の方は真暗だが、山の端から其山腹を射る月の光に照らし出された辺からは大石小石、栄螺のやうなの、六尺角に切出したの、剣のやうなのやら鞠の形をしたのやら、目の届く限り不残岩で、次第に大く水に浸つたのは唯小山のやう。」
「(可塩梅に今日は水がふへて居りますから、中に入りませんでも此上で可うございます。)と甲を浸して爪先を屈めながら、雪のやうな素足で石の盤の上に立つて居た。
自分達が立つた側は、却つて此方の山の裾が水に迫つて、丁度切穴の形になつて、其処へ此の石を箝めたやうな誂。川上も下流も見えぬが、向ふの彼の岩山、九十九折のやうな形、流は五尺、三尺、一間ばかりづゝ上流の方が段々遠く、飛々に岩をかゞつたやうに隠見して、いづれも月光を浴びた、銀の鎧の姿、目のあたり近いのはゆるぎ糸を捌くが如く真白に飜つて。
(結構な流でございますな。)
(はい、此の水は源が瀧でございます、此山を旅するお方は皆大風のやうな音を何処かで聞きます。貴僧は此方へ被入つしやる道でお心着きはなさいませんかい。)
然ればこそ山蛭の大藪へ入らうといふ少し前から其の音を。
(彼は林へ風の当るのではございませんので?)
(否、誰でも然う申します那の森から三里ばかり傍道へ入りました処に大瀧があるのでございます、其れは〳〵日本一ださうですが路が嶮しうござんすので、十人に一人参つたものはございません。其の瀧が荒れましたと申しまして丁度今から十三年前、可恐しい洪水がございました、恁麼高いところまで川の底になりましてね、麓の村も山の家も残らず流れて了ひました。此の上の洞もはじめは二十軒ばかりあつたのでござんす、此の流れも其時から出来ました、御覧なさいましな、此の通り皆石が流れたのでございますよ。)
婦人は何時かもう米を精げ果てゝ、衣紋の乱れた、乳の端もほの見ゆる、膨らかな胸を反らして立つた、鼻高く口を結んで目を恍惚と上を向いて頂を仰いだが、月はなほ半腹の其の累々たる巌を照らすばかり。
(今でも恁うやつて見ますと恐いやうでございます。)と屈んで二の腕の処を洗つて居ると。
(あれ、貴僧、那様行儀の可いことをして被在しつてはお召が濡れます、気味が悪うございますよ、すつぱり裸体になつてお洗ひなさいまし、私が流して上げませう。)
(否、)
(否ぢやあござんせぬ、それ、それ、お法衣の袖に浸るではありませんか、)といふと突然背後から帯に手をかけて、身悶をして縮むのを、邪慳らしくすつぱり脱いで取つた。
私は師匠が厳かつたし、経を読む身体ぢや、肌さへ脱いだことはついぞ覚えぬ。然も婦人の前、蝸牛が城を明け渡したやうで、口を利くさへ、況して手足のあがきも出来ず背中を丸くして、膝を合はせて、縮かまると、婦人は脱がした法衣を傍の枝へふわりとかけた。
(お召は恁うやつて置きませう、さあお背を、あれさ、じつとして。お嬢様と有仰つて下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い、)といつて片袖を前歯で引上げ、
玉のやうな二の腕をあからさまに背中に乗せたが、熟と見て、
(まあ、)
(何うかいたしてをりますか。)
(痣のやうになつて一面に。)
(えゝ、それでございます、酷い目に逢ひました。)
思ひ出しても悚然とするて。」
「婦人は驚いた顔をして、
(それでは森の中で、大変でございますこと。旅をする人が、飛騨の山では蛭が降るといふのは彼処でござんす。貴僧は抜道を御存じないから正面に蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。お生命も冥加な位、馬でも牛でも吸殺すのでございますもの。然し疼くやうにお痒いのでござんせうね。)
(唯今では最う痛みますばかりになりました。)
(それでは恁麼ものでこすりましては柔いお肌が擦剥けませう、)といふと手が綿のやうに障つた。
それから両方の肩から、背、横腹、臀、さら〳〵水をかけてはさすつてくれる。
それがさ、骨に通つて冷いかといふと然うではなかつた。暑い時分ぢやが、理屈をいふと恁うではあるまい、私の血が湧いたせいか、婦人の温気か、手で洗つてくれる水が可工合に身に染みる、尤も質の佳い水は柔ぢやさうな。
其の心地の得もいはれなさで、眠気がさしたでもあるまいが、うと〳〵する様子で、疵の痛みがなくなつて気が遠くなつてひたと附ついて居る婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたやうな工合。
山家の者には肖合はぬ、都にも希な器量はいふに及ばぬが弱々しさうな風采ぢや、背を流す内にもはツ〳〵と内証で呼吸がはづむから、最う断らう〳〵と思ひながら、例の恍惚で、気はつきながら洗はした。
其上、山の気か、女の香か、ほんのりと佳い薫がする、私は背後でつく息ぢやらうと思つた。」
上人は一寸句切つて、
「いや、お前様お手近ぢや、其の明を掻立つて貰ひたい、暗いと怪しからぬ話ぢや、此処等から一番野面で遣つけやう。」
枕を並べた上人の姿も朧げに明は暗くなつて居た、早速燈心を明くすると、上人は微笑みながら続けたのである。
「さあ、然うやつて何時の間にやら現とも無しに、恁う、其の不思議な、結構な薫のする暖い花の中へ、柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸から次第に、天窓まで一面に被つたから吃驚、石に尻持を搗いて、足を水の中に投出したから落ちたと思ふ途端に、女の手が脊後から肩越に胸をおさへたので確りつかまつた。
(貴僧、お傍に居て汗臭うはござんせぬかい飛だ暑がりなんでございますから、恁うやつて居りましても恁麼でございますよ。)といふ胸にある手を取つたのを、慌てゝ放して棒のやうに立つた。
(失礼、)
(いゝえ誰も見て居りはしませんよ。)と澄まして言ふ、婦人も何時の間にか衣服を脱いで全身を練絹のやうに露はして居たのぢや。
何と驚くまいことか。
(恁麼に太つて居りますから、最うお可愧しいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来ては恁うやつて汗を流します、此の水がございませんかつたら何ういたしませう、貴僧、お手拭。)といつて絞つたのを寄越した。
(其でおみ足をお拭きなさいまし。)
何時の間にか、体はちやんと拭いてあつた、お話し申すも恐多いか、はゝはゝはゝ。」
「なるほど見た処、衣服を着た時の姿とは違ふて肉つきの豊な、ふつくりとした膚。
(先刻小屋へ入つて世話をしましたので、ぬら〳〵した馬の鼻息が体中へかゝつて気味が悪うござんす。丁度可うございますから私も体を拭きませう、)
と姉弟が内端話をするやうな調子。手をあげて黒髪をおさへながら腋の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立つた姿、唯これ雪のやうなのを恁る霊水で清めた、恁云ふ女の汗は薄紅になつて流れやう。
一寸〳〵と櫛を入れて、
(まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落こちたら何うしませう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といつて見ませうね。)
(白桃の花だと思ひます。)と弗と心着いて何の気もなしにいふと、顔が合ふた。
すると然も嬉しさうに莞爾して其時だけは初々しう年紀も七ツ八ツ若やぐばかり、処女の羞を含んで下を向いた。
私は其まゝ目を外らしたが、其の一段の婦人の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向ふ岸の潵に濡れて黒い、滑かな、大な石へ蒼味を帯びて透通つて映るやうに見えた。
するとね、夜目で判然とは目に入らなんだが地体何でも洞穴があると見える。ひら〳〵と、此方からもひら〳〵と、ものゝ鳥ほどはあらうといふ大蝙蝠が目を遮つた。
(あれ、不可いよ、お客様があるぢやないかね。)
不意を打たれたやうに叫んで身悶をしたのは婦人。
(何うかなさいましたか、)最うちやんと法衣を着たから気丈夫に尋ねる。
(否、)
といつたばかりで極が悪さうに、くるりと後向になつた。
其時小犬ほどな鼠色の小坊主が、ちよこ〳〵とやつて来て、啊呀と思ふと、崖から横に宙をひよいと、背後から婦人の背中へぴつたり。
裸体の立姿は腰から消えたやうになつて、抱ついたものがある。
(畜生お客様が見えないかい。)
と声に怒を帯びたが、
(お前達は生意気だよ、)と激しくいひさま、腋の下から覗かうとした件の動物の天窓を振返りさまにくらはしたで。
キツヽヽといふて奇声を放つた、件の小坊主は其まゝ後飛びに又宙を飛んで、今まで法衣をかけて置いた枝の尖へ長い手で釣し下つたと思ふと、くるりと釣瓶覆に上へ乗つて、其なりさら〳〵と木登をしたのは、何と猿ぢやあるまいか。
枝から枝を伝ふと見えて、見上げるやうに高い木の、軈て梢まで、かさ〳〵がさり。
まばらに葉の中を透かして月は山の端を放れた、其の梢のあたり。
婦人はものに拗ねたやう、今の悪戯、いや、毎々、蟇と蝙蝠とお猿で三度ぢや。
其の悪戯に多く機嫌を損ねた形、あまり子供がはしやぎ過ぎると、若い母様には得てある図ぢや、
本当に怒り出す。
といつた風情で面倒臭さうに衣服を着て居たから、私は何も問はずに少さくなつて黙つて控へた。」
「優しいなかに強みのある、気軽に見えても何処にか落着のある、馴々しくて犯し易からぬ品の可い、如何なることにもいざとなれば驚くに足らぬといふ身に応のあるといつたやうな風の婦人、恁く嬌瞋を発しては屹度可いことはあるまい、今此の婦人に邪慳にされては木から落ちた猿同然ぢやと、おつかなびつくりで、おづ〳〵控へて居たが、いや案ずるより産が安い。
(貴僧、嘸をかしかつたでござんせうね、)と自分でも思ひ出したやうに快く微笑みながら、
(為やうがないのでございますよ。)
以前と変らず心安くなつた、帯も早や締めたので、
(其では家へ帰りませう。)と米磨桶を小脇にして、草履を引かけて衝と崖へ上つた。
(お危うござんすから、)
(否、もう大分勝手が分つて居ります。)
づツと心得た意ぢやつたが、扨上る時見ると思ひの外上までは大層高い。
軈て又例の木の丸太を渡るのぢやが、前刻もいつた通草のなかに横倒れになつて居る、木地が恁う丁度鱗のやうで譬にも能くいふが松の木は蝮に似て居るで。
殊に崖を、上の方へ、可塩梅に畝つた様子が、飛だものに持つて来いなり、凡そ此の位な胴中の長虫がと思ふと、頭と尾を草に隠して月あかりに歴然とそれ。
山路の時を思ひ出すと我ながら足が窘む。
婦人は親切に後を気遣ふては気を着けてくれる。
(其をお渡りなさいます時、下を見てはなりません丁度中途で余程谷が深いのでございますから、目が廻と悪うござんす。)
(はい。)
愚図々々しては居られぬから、我身を笑ひつけて、先づ乗つた。引かゝるやう、刻が入てあるのぢやから、気さい確なら足駄でも歩行かれる。
其がさ、一件ぢやから耐らぬて、乗ると恁うぐら〳〵して柔かにずる〳〵と這ひさうぢやから、わつといふと引跨いで腰をどさり。
(あゝ、意気地はございませんねえ。足駄では無理でございませう、是とお穿き換へなさいまし、あれさ、ちやんといふことを肯くんですよ。)
私はその前刻から何となく此婦人に畏敬の念が生じて善か悪か、何の道命令されるやうに心得たから、いはるゝままに草履を穿いた。
するとお聞きなさい、婦女は足駄を穿きながら手を取つてくれます。
忽ち身が軽くなつたやうに覚えて、訳なく後に従ふて、ひよいと那の孤家の背戸の端へ出た。
出会頭に声を懸けたものがある。
(やあ、大分手間が取れると思つたに、御坊様旧の体で帰らつしやつたの、)
(何をいふんだね、小父様家の番は何うおしだ。)
(もう可い時分ぢや、又私も余り遅うなつては道が困るで、そろ〳〵青を引出して支度して置かうと思ふてよ。)
(其はお待遠でござんした。)
(何さ行つて見さつしやい御亭主は無事ぢや、いやなかなか私が手には口説落されなんだ、はゝゝゝはゝ。)と意味もないことを大笑して、親仁は厩の方へてく〳〵と行つた。
白痴はおなじ処に猶形を存して居る、海月も日にあたらねば解けぬと見える。」
「ヒイヽン! 叱、どうどうどうと背戸を廻る蹄の音が椽へ響いて親仁は一頭の馬を門前へ引出した。
轡頭を取つて立ちはだかり、
(嬢様そんなら此儘で私参りやする、はい、御坊様に沢山御馳走して上げなされ。)
婦人は炉縁に行燈を引附け、俯向いて鍋の下を焚して居たが振仰ぎ、鉄の火箸を持つた手を膝に置いて、
(御苦労でござんす。)
(いんえ御懇には及びましねえ。叱!、)と荒縄の綱を引く。青で蘆毛、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡ぢやわい。
其馬がさ、私も別に馬は珍らしうもないが、白痴殿の背後に畏つて手持不沙汰ぢやから今引いて行かうとする時椽側へひらりと出て、
(其馬は何処へ。)
(おゝ、諏訪の湖の辺まで馬市へ出しやすのぢや、これから明朝御坊様が歩行かつしやる山路を越えて行きやす。)
(もし其へ乗つて今からお遁げ遊ばすお意ではないかい。)
婦人は慌だしく遮つて声を懸けた。
(いえ、勿体ない、修行の身が馬で足休めをしませうなぞとは存じませぬ。)
(何でも人間を乗つけられさうな馬ぢやあござらぬ。御坊様は命拾をなされたのぢやで、大人しうして嬢様の袖の中で、今夜は助けて貰はつしやい。然様ならちよつくら行つて参りますよ。)
(あい。)
(畜生、)といつたが馬は出ないわ。びく〳〵と蠢いて見える大な鼻面を此方へ捻ぢ向けて頻に私等が居る方を見る様子。
(どう〳〵どう、畜生これあだけた獣ぢや、やい!)
右左にして綱を引張つたが、脚から根をつけた如くにぬつくと立つて居てびくともせぬ。
親仁大に苛立つて、叩いたり、打つたり、馬の胴体について二三度ぐる〳〵と廻はつたが少しも歩かぬ。肩でぶツつかるやうにして横腹に体をあてた時、漸う前足を上げたばかり又四脚を突張り抜く。
(嬢様々々。)
と親仁が喚くと、婦人は一寸立つて白い爪さきをちよろちよろと真黒に煤けた太い柱を楯に取つて、馬の目の届かぬほどに小隠れた。
其内腰に挟んだ、煮染めたやうな、なへ〳〵の手拭を抜いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁は之で可しといふ気組、再び前へ廻つたが、旧に依つて貧乏動もしないので、綱に両手をかけて足を揃へて反返るやうにして、うむと総身の力を入れた。途端に何うぢやい。
凄じく嘶いて前足を両方中空へ飜したから、小な親仁は仰向けに引くりかへつた、づどんどう、月夜に砂煙が𤏋と立つ。
白痴にも之は可笑かつたらう、此時ばかりぢや、真直に首を据ゑて厚い唇をばくりと開けた、大粒な歯を露出して、那の宙へ下げて居る手を風で煽るやうに、はらり〳〵。
(世話が焼けることねえ、)
婦人は投げるやうにいつて草履を突かけて土間へついと出る。
(嬢様勘違ひさつしやるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめから其処な御坊様に目をつけたつけよ、畜生俗縁があるだツぺいわさ。)
俗縁は驚いたい。
すると婦人が、
(貴僧こゝへ入らつしやる路で誰にかお逢ひなさりはしませんか。)」
「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売に逢ひましたが、一足前に矢張此路へ入りました。)
(あゝ、然う、)と会心の笑を洩らして婦人は蘆毛の方を見た、凡そ耐らなく可笑しいといつた仂ない風采で。
極めて与し易う見えたので、
(もしや此家へ参りませなんだでございませうか。)
(否、存じません。)といふ時忽ち犯すべからざる者になつたから、私は口をつぐむと、婦人は、匙を投げて衣の塵を払ふて居る馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、
(為様がないねえ、)といひながら、かなぐるやうにして、其の細帯を解きかけた、片端が土へ引かうとするのを、掻取つて一寸猶予ふ。
(あゝ、あゝ、)と濁つた声を出して白痴が件のひよろりとした手を差向けたので、婦人は解いたのを渡して遣ると、風呂敷を寛げたやうな、他愛のない、力のない、膝の上へわがねて宝物を守護するやうぢや。
婦人は衣紋を抱合はせ、乳の下でおさへながら静かに土間を出て馬の傍へつゝと寄つた。
私は唯呆気に取られて見て居ると、爪立をして伸上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣を撫でたが。
大な鼻頭の正面にすつくりと立つた。丈もすら〳〵と急に高くなつたやうに見えた、婦人は目を据ゑ、口を結び、眉を開いて恍惚となつた有様、愛嬌も嬌態も、世話らしい打解けた風は頓に失せて、神か、魔かと思はれる。
其時裏の山、向ふの峯、左右前後にすく〳〵とあるのが、一ツ一ツ嘴を向け、頭を擡げて、此の一落の別天地、親仁を下手に控へ、馬に面して彳んだ月下の美女の姿を差覗くが如く、陰々として深山の気が籠つて来た。
生ぬるい風のやうな気勢がすると思ふと、左の肩から片膚を脱いたが、右の手を脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着て居た其の単衣を丸げて持ち、霞も絡はぬ姿になつた。
馬は背、腹の皮を弛めて汗もしとゞに流れんばかり、突張つた脚もなよ〳〵として身震をしたが、鼻面を地につけて、一掴の白泡を吹出したと思ふと前足を折らうとする。
其時、頤の下へ手をかけて、片手で持つて居た単衣をふわりと投げて馬の目を蔽ふが否や、
兎は躍つて、仰向けざまに身を飜し、妖気を籠めて朦朧とした月あかりに、前足の間に膚が挟つたと思ふと、衣を脱して掻取りながら下腹を衝と潜つて横に抜けて出た。
親仁は差心得たものと見える、此の機かけに手綱を引いたから、馬はすた〳〵と健脚を山路に上げた、しやん、しやんしやん、しやんしやん、しやんしやん、──見る間に眼界を遠ざかる。
婦人は早や衣服を引かけて椽側へ入つて来て、突然帯を取らうとすると、白痴は惜しさうに押へて放さず、手を上げて。婦人の胸を圧へやうとした。
邪慳に払ひ退けて、屹と睨むで見せると、其まゝがつくりと頭を垂れた、総ての光景は行燈の火も幽かに幻のやうに見えたが、炉にくべた柴がひら〳〵と炎先を立てたので、婦人は衝と走つて入る。空の月のうらを行くと思ふあたり遥に馬子唄が聞えたて。)」
「さて、其から御飯の時ぢや、膳には山家の香の物、生姜の漬けたのと、わかめを茹でたの、塩漬の名も知らぬ蕈の味噌汁、いやなか〳〵人参と干瓢どころではござらぬ。
品物は佗しいが、なか〳〵の御手料理、餓えては居るし冥加至極なお給仕、盆を膝に構へて其上を肱をついて、頬を支えながら、嬉しさうに見て居たわ。
椽側に居た白痴は誰も取合はぬ徒然に堪へられなくなつたものか、ぐた〳〵と膝行出して、婦人の傍へ其の便々たる腹を持つて来たが、崩れたやうに胡座して、頻に恁う我が膳を視めて、指をした。
(うゝ〳〵、うゝ〳〵。)
(何でございますね、あとでお食んなさい、お客様ぢやあゝりませんか。)
白痴は情ない顔をして口を曲めながら頭を掉つた。
(厭? 仕様がありませんね、それぢや御一所に召しあがれ。貴僧御免を蒙りますよ。)
私は思はず箸を置いて、
(さあ何うぞお構ひなく、飛だ御雑作を、頂きます。)
(否、何の貴僧。お前さん後程に私と一所にお食べなされば可のに。困つた人でございますよ。)とそらさぬ愛想、手早く同一やうな膳を拵えてならべて出した。
飯のつけやうも効々しい女房ぶり、然も何となく奥床しい、上品な、高家の風がある。
白痴はどんよりした目をあげて膳の上を睨めて居たが、
(彼を、あゝ、彼、彼。)といつてきよろ〳〵と四辺を眴す。
婦人は熟と瞻つて、
(まあ、可ぢやないか。そんなものは何時でも食られます、今夜はお客様がありますよ。)
(うむ、いや、いや。)と肩腹を揺つたが、べそを掻いて泣出しさう。
婦人は困じ果てたらしい、傍のものゝ気の毒さ。
(嬢様、何か存じませんが、おつしやる通りになすつたが可いではござりませんか。私にお気扱は却つて心苦しうござります。)と慇懃にいふた。
婦人は又最う一度、
(厭かい、これでは悪いのかい。)
白痴が泣出しさうにすると、然も怨めしげに流盻に見ながら、こはれ〳〵になつた戸棚の中から、鉢に入つたのを取出して手早く白痴の膳につけた。
(はい、)と故とらしく、すねたやうにいつて笑顔造。
はてさて迷惑な、こりや目の前で黄色蛇の旨煮か、腹籠の猿の蒸焼か、災難が軽うても、赤蛙の干物を大口にしやぶるであらうと、潜と見て居ると、片手に椀を持ちながら掴出したのは老沢庵。
其もさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたらうといふ握太なのを横啣にしてやらかすのぢや。
婦人はよく〳〵あしらひかねたか、盗むやうに私を見て颯と顔を赤らめて初心らしい、然様な質ではあるまいに、羞かしげに膝なる手拭の端を口にあてた。
なるほど此の少年はこれであらう、身体は沢庵色にふとつて居る。やがてわけもなく餌食を平らげて、湯ともいはず、ふツ〳〵と太儀さうに呼吸を向ふへ吐くわさ。
(何でございますか、私は胸に支へましたやうで、些少も欲しくございませんから、又後程に頂きましやう、)と婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片つけてな。」
「頃刻悄乎して居たつけ。
(貴僧嘸お疲労、直ぐにお休ませ申しませうか。)
(難有う存じます、未だ些とも眠くはござりません、前刻体を洗ひましたので草臥もすつかり復りました。)
(那の流れは其麼病にでもよく利きます、私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽れましても半日彼処につかつて居りますと、水々しくなるのでございますよ。尤も那のこれから冬になりまして山が宛然氷つて了ひ、川も崖も不残雪になりましても、貴僧が行水を遊ばした彼処ばかりは水が隠れません、然うしていきりが立ちます。
鉄砲疵のございます猿だの、貴僧、足を折つた五位鷺、種々な者が浴みに参りますから其の足痕で崖の路が出来ます位、屹と其が利いたのでございませう。
那様にございませんければ恁うやつてお話をなすつて下さいまし、淋しくつてなりません、本当にお可愧しうございますが恁麼山の中に引籠つてをりますと、ものをいふことも忘れましたやうで、心細いのでございますよ。
貴僧、それでもお眠ければ御遠慮なさいますなえ。別にお寝室と申してもございませんが其換り蚊は一ツも居ませんよ、町方ではね、上の洞の者は、里へ泊りに来た時、蚊帳を釣つて寝かさうとすると、何うして入るのか解らないので、階子を貸せいと喚いたと申して嫐るのでございます。
沢山朝寝を遊ばしても鐘は聞えず、鶏も鳴きません、犬だつて居りませんからお心休うござんせう。
此人も生れ落ちると此山で育つたので、何にも存じません代、気の可い人で些ともお心置はないのでござんす。
それでも風俗のかはつた方が被入しやいますと、大事にしてお辞義をすることだけは知つてゞございますが、未だ御挨拶をいたしませんね。此頃は体がだるいと見えてお惰けさんになんなすつたよ、否、宛で愚なのではございません、何でもちやんと心得て居ります。
さあ、御坊様に御挨拶をなすつて下さい、まあ、お辞義をお忘れかい。)と親しげに身を寄せて、顔を差覗いて、いそ〳〵していふと、白痴はふら〳〵と両手をついて、ぜんまいが切れたやうにがつくり一礼。
(はい、)といつて私も何か胸が迫つて頭を下げた。
其まゝ其の俯向いた拍子に筋が抜けたらしい、横に流れやうとするのを、婦人は優しう扶け起して、
(おゝ、よく為たのねえ、)
天晴といひたさうな顔色で、
(貴僧、申せば何でも出来ませうと思ひますけれども、此人の病ばかりはお医者の手でも那の水でも復りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。其に御覧なさいまし、お辞義一ツいたしますさい、あの通大儀らしい。
ものを教へますと覚えますのに嘸骨が折れて切なうござんせう、体を苦しませるだけだと存じて何も為せないで置きますから、段々、手を動かす働も、ものをいふことも忘れました。其でも那の、謡が唄へますわ。二ツ三ツ今でも知つて居りますよ。さあ御客様に一ツお聞かせなさいましなね。)
白痴は婦人を見て、又私が顔をぢろ〳〵見て、人見知をするといつた形で首を振つた。」
「左右して、婦人が、激ますやうに、賺すやうにして勧めると、白痴は首を曲げて彼の臍を弄びながら唄つた。
木曾の御嶽山は夏でも寒い、
袷遣りたや足袋添へて。
(よく知つて居りませう、)と婦人は聞澄して莞爾する。
不思議や、唄つた時の白痴の声は此話をお聞きなさるお前様は固よりぢやが、私も推量したとは月鼈雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸の続く処から、第一其の清らかな涼しい声といふ者は、到底此の少年の咽喉から出たのではない。先づ前の世の此白痴の身が、冥途から管で其のふくれた腹へ通はして寄越すほどに聞えましたよ。
私は畏つて聞き果てると膝に手をついたツ切何うしても顔を上げて其処な男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はら〳〵と落涙した。
婦人は目早く見つけたさうで、
(おや、貴僧、何うかなさいましたか。)
急にものもいはれなんだが漸々、
(唯、何、変つたことでもござりませぬ、私も嬢様のことは別にお尋ね申しませんから、貴女も何にも問ふては下さりますな。)
と仔細は語らず唯思入つて然う言ふたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪をかざし、蝶衣を纒ふて、珠履を穿たば、正に驪山に入つて陛下と相抱くべき豊肥妖艶の人が其男に対する取廻しの優しさ、隔なさ、親切さに、人事ながら嬉しくて、思はず涙が流れたのぢや。
すると人の腹の中を読みかねるやうな婦人ではない、忽ち様子を悟つたかして、
(貴僧は真個にお優しい。)といつて、得も謂はれぬ色を目に湛へて、ぢつと見た。私も首を低れた、むかふでも差俯向く。
いや、行燈が又薄暗くなつて参つたやうぢやが、恐らくこりや白痴の所為ぢやて。
其時よ。
座が白けて、暫らく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄うたひの太夫、退屈をしたと見えて顔の前の行燈を吸込むやうな大欠伸をしたから。
身動きをしてな、
(寝ようちやあ、寝ようちやあ。)とよた〳〵体を取扱ふわい。
(眠うなつたのかい、もうお寝か、)といつたが座り直つて弗と気がついたやうに四辺を眴した。戸外は恰も真昼のやう、月の光は開け広げた家の内へはら〳〵とさして、紫陽花の色も鮮麗に蒼かつた。
(貴僧ももうお休みなさいますか。)
(はい、御厄介にあいなりまする。)
(まあ、いま宿を寝かします、おゆつくりなさいましな。戸外へは近うござんすが、夏は広い方が結句宜うございませう、私どもは納戸へ臥せりますから、貴僧は此処へお広くお寛ぎが可うござんす、一寸待つて。)といひかけて衝と立ち、つか〳〵と足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌であつたので、其の拍手に黒髪が先を巻いたまゝ頷へ崩れた。
鬢をおさへて、戸につかまつて、戸外を透かしたが、独言をした。
(おや〳〵さつきの騒ぎで櫛を落したさうな。)
いかさま馬の腹を潜つた時ぢや。」
此折から下の廊下に跫音がして、静に大跨に歩行いたのが寂として居るから能く。
軈て小用を達した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢へ干杓の響。
「おゝ、積つた、積つた。」と呟いたのは、旅籠屋の亭主の声である。
「ほゝう、此の若狭の商人は何処へか泊つたと見える、何か愉快い夢でも見て居るかな。」
「何うぞ其後を、それから、」と聞く身には他事をいふうちが悶かしく、膠もなく続を促した。
「さて、夜も更けました、」といつて旅僧は又語出した。
「大抵推量もなさるであらうが、いかに草臥れて居つても申上げたやうな深山の孤家で、眠られるものではない其に少し気になつて、はじめの内私を寝かさなかつた事もあるし、目は冴えて、まじ〳〵して居たが、有繋に、疲が酷いから、心は少し茫乎して来た、何しろ夜の白むのが待遠でならぬ。
其処ではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたつぷり経つたものをと、怪しんだが、やがて気が着いて、恁云ふ処ぢや山寺処ではないと思ふと、俄に心細くなつた。
其時は早や、夜がものに譬へると谷の底ぢや、白痴がだらしのない寝息も聞えなくなると、忽ち戸の外にものゝ気勢がして来た。
獣の足音のやうで、然まで遠くの方から歩行いて来たのではないやう、猿も、蟇も居る処と、気休めに先づ考へたが、なかなか何うして。
暫くすると今其奴が正面の戸に近いたなと思つたのが、羊の啼声になる。
私は其の方を枕にして居たのぢやから、つまり枕元の戸外ぢやな。暫くすると、右手の彼の紫陽花が咲いて居た其の花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。
むさゝびか知らぬがきツ〳〵といつて屋の棟へ、軈て凡そ小山ほどあらうと気取られるのが胸を圧すほどに近いて来て、牛が啼いた。遠く彼方からひた〳〵と小刻に駈けて来るのは、二本足に草鞋を穿いた獣と思はれた、いやさまざまにむら〳〵と家のぐるりを取巻いたやうで、二十三十のものゝ鼻息、羽音、中には囁いて居るのがある。恰も何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したやうな怪の姿が板戸一重、魑魅魍魎といふのであらうか、ざわ〳〵と木の葉が戦ぐ気色だつた。
息を凝すと、納戸で、
(うむ、)といつて長く呼吸を引いて一声、魘れたのは婦人ぢや。
(今夜はお客様があるよ。)と叫んだ。
(お客様があるぢやないか。)
と暫く経つて二度目のは判然と清しい声。
極めて低声で、
(お客様があるよ。)といつて寝返る音がした、更に寝返る音がした。
戸の外のものゝ気勢は動揺を造るが如く、ぐら〳〵と家が揺いた。
私は陀羅尼を咒した。
若不順我咒 悩乱説法者 頭破作七分
如阿梨樹枝 如殺父母罪 亦如厭油殃
斗秤欺誰人 調達僧罪犯 犯此法師者
当獲如是殃
と一心不乱。颯と木の葉を捲いて風が南へ吹いたが、忽ち静り返つた、夫婦が閨もひツそりした。」
「翌日又正午頃、里近く、瀧のある処で、昨日馬を売に行つた親仁の帰に逢ふた。
丁度私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一所に生涯を送らうと思つて居た処で。
実を申すと此処へ来る途中でも其の事ばかり考へる、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかつたが、道が難渋なにつけても汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚も詰らない。紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだ処で何程のこともあるまい、活仏様ぢやといふてわあ〳〵拝まれゝば人いきれで胸が悪くなるばかりか。
些とお話もいかゞぢやから、前刻はことを分けていひませなんだが、昨夜も白痴を寝かしつけると、婦人が又炉のある処へやつて来て、世の中へ苦労をして出やうより、夏は涼しく、冬は暖い、此の流と一所に私の傍においでなさいといふてくれるし、まだ〳〵其ばかりでは自身に魔が魅したやうぢやけれども、こゝに我身で我身に言訳が出来るといふのは、頻に婦人が不便でならぬ、深山の孤家に白痴の伽をして言葉も通ぜず、日を経るに従ふてものをいふことさへ忘れるやうな気がするといふは何たる事!
殊に今朝も東雲に袂を振切つて別れやうとすると、お名残惜しや、かやうな処に恁うやつて老朽ちる身の、再びお目にはかゝられまい、いさゝ小川の水となりとも、何処ぞで白桃の花が流れるのを御覧になつたら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれ〳〵になつたことゝ思へ、といつて、悄れながら、なほ親切に、道は唯此の谷川の流に沿ふて行きさへすれば、何れほど遠くても里に出らるゝ、目の下近く水が躍つて、瀧になつて落つるのを見たら、人家が近いたと心を安ずるやうに、と気をつけて孤家の見えなくなつた辺で指をしてくれた。
其手と手を取交はすには及ばずとも、傍につき添つて、朝夕の話対手、蕈の汁で御膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の実を拾つて、婦人が皮を剥いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑つたり、それから谷川で二人して、其時の婦人が裸体になつて、私が背中へ呼吸が通つて、微妙な薫の花びらに暖に包まれたら、其まゝ命が失せても可い!
瀧の水を見るにつけても耐へ難いのは其事であつた、いや、冷汗が流れますて。
其上、もう気がたるみ、筋が弛んで、早や歩行くのに飽が来て喜ばねばならぬ人家が近いたのも、高がよくされて口の臭い婆さんに渋茶を振舞はれるのが関の山と、里へ入るのも厭になつたから、石の上へ膝を懸けた、丁度目の下にある瀧ぢやつた、これがさ、後に聞くと女夫瀧と言ふさうで。
真中に先づ鰐鮫が口をあいたやうな尖のとがつた黒い大巌が突出て居ると、上から流れて来る颯と瀬の早い谷川が、之に当つて両に岐れて、凡そ四丈ばかりの瀧になつて哄と落ちて、又暗碧に白布を織つて矢を射るやうに里へ出るのぢやが、其巌にせかれた方は六尺ばかり、之は川の一巾を裂いて糸も乱れず、一方は巾が狭い、三尺位、この下には雑多な岩が並ぶと見えて、ちら〳〵ちら〳〵と玉の簾を百千に砕いたやう、件の鰐鮫の巌に、すれつ、縺れつ。」
「唯一筋でも岩を越して男瀧に縋りつかうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も通はぬので、揉まれ、揺られて具さに辛苦を嘗めるといふ風情、此の方は姿も窶れ容も細つて、流るゝ音さへ別様に、泣くか、怨むかとも思はれるが、あはれにも優しい女瀧ぢや。
男瀧の方はうらはらで、石を砕き、地を貫く勢、堂々たる有様ぢや、之が二つ件の巌に当つて左右に分れて二筋となつて落ちるのが身に浸みて、女瀧の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震はすやうで、岸に居てさへ体がわなゝく、肉が跳る。況して此の水上は、昨日孤家の婦人と水を浴びた処と思ふと、気の精か其の女瀧の中に絵のやうな彼の婦人の姿が歴々、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思ふと又浮いて、千筋に乱るゝ水とゝもに其の膚が粉に砕けて、花片が散込むやうな。あなやと思ふと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となつて、浮いつ沈みつ、ぱツと刻まれ、あツと見る間に又あらはれる。私は耐らず真逆に瀧の中へ飛込んで、女瀧を確と抱いたとまで思つた。気がつくと男瀧の方はどう〳〵と地響打たせて、山彦を呼んで轟いて流れて居る、あゝ其の力を以て何故救はぬ、儘よ!
瀧に身を投げて死なうより、旧の孤家へ引返せ。汚はしい慾のあればこそ恁うなつた上に蹰躇をするわ、其顔を見て声を聞けば、渠等夫婦が同衾するのに枕を並べて差支へぬ、それでも汗になつて修行をして、坊主で果てるよりは余程の増ぢやと、思切つて戻らうとして、石を放れて身を起した、背後から一ツ背中を叩いて、
(やあ、御坊様、)といはれたから、時が時なり、心も心、後暗いので喫驚して見ると、閻王の使ではない、これが親仁。
馬は売つたか、身軽になつて、小さな包を肩にかけて、手に一尾の鯉の、鱗は金色なる、溌溂として尾の動きさうな、鮮しい其丈三尺ばかりなのを、腮に藁を通して、ぶらりと提げて居た。何にも言はず急にものもいはれないで瞻ると、親仁はじつと顔を見たよ。然うしてにや〳〵と、又一通の笑方ではないて、薄気味の悪い北叟笑をして、
(何をしてござる、御修行の身が、この位の暑で、岸に休んで居さつしやる分ではあんめえ、一生懸命に歩行かつしやりや、昨夜の泊から此処まではたつた五里、もう里へ行つて地蔵様を拝まつしやる時刻ぢや。
何ぢやの、己が嬢様に念が懸つて煩悩が起きたのぢやの。うんにや、秘さつしやるな、おらが目は赤くツても、白いか黒いかはちやんと見える。
地体並のものならば、嬢様の手が触つて那の水を振舞はれて、今まで人間で居やう筈はない。
牛か馬か、蟇か、猿か、蝙蝠か、何にせい飛んだか跳ねたかせねばならぬ。谷川から上つて来さしつた時、手足も顔も人ぢやから、おらあ魂消た位、お前様それでも感心に志が堅固ぢやから助かつたやうなものよ。
何と、おらが曳いて行つた馬を見さしつたらう、それで、孤家で来さつしやる山路で富山の反魂丹売に逢はしつたといふではないか、それ見さつせい、彼の助倍野郎、疾に馬になつて、それ馬市で銭になつて、お銭が、そうら此の鯉に化けた。大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じやと思はつしやるの。)」
私は思はず遮つた。
「お上人?」
上人は頷きながら呟いて、
「いや、先づ聞かつしやい、彼の孤家の婦人といふは、旧な、これも私には何かの縁があつた、あの恐い魔処へ入らうといふ岐道の水が溢れた往来で、百姓が教へて、彼処は其の以前医者の家であつたといふたが、其の家の嬢様ぢや。
何でも飛騨一円当時変つたことも珍らしいこともなかつたが、唯取出でゝいふ不思議は、此の医者の娘で、生れると玉のやう。
母親殿は頬板のふくれた、眦の下つた、鼻の低い、俗にさし乳といふあの毒々しい左右の胸の房を含んで、何うして彼ほど美しく育つたものだらうといふ。
昔から物語の本にもある、屋の棟へ白羽の征矢が立つか、然もなければ狩倉の時貴人のお目に留まつて御殿に召出されるのは、那麼のぢやと噂が高かつた。
父親の医者といふのは、頬骨のとがつた髯の生へた、見得坊で傲慢、其癖でもぢや、勿論田舎には苅入の時よく稲の穂が目に入ると、それから煩らう、脂目、赤目、流行目が多いから、先生眼病の方は少し遣つたが、内科と来てはからつぺた。外科なんと来た日にやあ、鬢付へ水を垂らしてひやりと疵につける位な処。
鰯の天窓も信心から、其でも命数の尽きぬ輩は本復するから、外に竹庵養仙木斎の居ない土地、相応に繁昌した。
殊に娘が十六七、女盛となつて来た時分には、薬師様が人助けに先生様の内へ生れてござつたといつて、信心渇仰の善男善女? 病男病女が我も我もと詰め懸ける。
其といふのが、はじまりは彼の嬢様が、それ、馴染の病人には毎日顔を合はせる所から、愛相の一つも、あなたお手が痛みますかい、甚麼でございます、といつて手先へ柔な掌が障ると第一番に次作兄いといふ若いのゝ(りやうまちす)が全快、お苦しさうなといつて腹をさすつて遣ると水あたりの差込の留まつたのがある、初手は若い男ばかりに利いたが、段々老人にも及ぼして、後には婦人の病人もこれで復る、復らぬまでも苦痛が薄らぐ、根太の膿を切つて出すさへ、錆びた小刀で引裂く医者殿が腕前ぢや、病人は七顛八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴつたりと胸をあてゝ肩を押へて居ると、我慢が出来る、といつたやうなわけであつたさうな。
一時彼の藪の前にある枇杷の古木へ熊蜂が来て可恐い大な巣をかけた。
すると、医者の内弟子で薬局、拭掃除もすれば総菜畠の芋も堀る、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帯の熊蔵といふ、其頃二十四五歳、稀塩散に単舎利別を混ぜたのを瓶に盗んで、内が吝嗇ぢやから見附かると叱られる、之を股引や袴と一所に戸棚の上に載せて置いて、隙さへあればちびり〳〵と飲んでた男が、庭掃除をするといつて、件の蜂の巣を見つけたつけ。
椽側へ遣つて来て、お嬢様面白いことをしてお目に懸けませう、無躾でござりますが、私の此の手を握つて下さりますと、彼の蜂の中へ突込んで、蜂を掴んで見せましやう。お手が障つた所だけは刺しましても痛みませぬ、竹箒で引払いては八方へ散つて体中に集られては夫は凌げませぬ即死でございますがと、微笑んで控へる手で無理に握つて貰ひ、つか〳〵と行くと、凄じい虫の唸、軈て取つて返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、脚を揮ふのがある、中には掴んだ指の股へ這出して居るのがあツた。
さあ、那の神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣のやうに評判が八方へ。
其の頃からいつとなく感得したものと見えて、仔細あつて、那の白痴に身を任せて山に籠つてからは神変不思議、年を経るに従ふて神通自在ぢや、はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果は間を隔てゝ居ても、道を迷ふた旅人は嬢様が思ふまゝはツといふ呼吸で変ずるわ。
と親仁が其時物語つて、御坊は、孤家の周囲で、猿を見たらう、蟇を見たらう、蝙蝠を見たであらう、兎も蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて、畜生にされたる輩!
あはれ其時那の婦人が、蟇に絡られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸はれたのも、夜中に𩳦魅魍魎に魘はれたのも、思出して、私は犇々と胸に当つた、
なほ親仁のいふやう。
今の白痴も、件の評判の高かつた頃、医者の内へ来た病人、其頃は未だ子供、朴訥な父親が附添ひ、髪の長い、兄貴がおぶつて山から出て来た。脚に難渋な腫物があつた、其の療治を頼んだので。
固より一室を借受けて、逗留をして居つたが、かほどの悩は大事ぢや、血も大分に出さねばならぬ殊に子供手を下ろすには体に精分をつけてからと、先づ一日に三ツづゝ鶏卵を飲まして、気休めに膏薬を張つて置く。
其の膏薬を剥がすにも親や兄、又傍のものが手を懸けると、堅くなつて硬ばつたのが、めり〳〵と肉にくツついて取れる、ひい〳〵と泣くのぢやが、娘が手をかけてやれば黙つて耐へた。
一体は医者殿、手のつけやうがなくつて、身の衰をいひ立てに一日延ばしにしたのぢやが三日経つと、兄を残して、克明な父親の股引の膝でずつて、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋を穿いて又地に手をついて、次男坊の生命の扶かりまするやうに、ねえ〳〵、といふて山へ帰つた。
其でもなか〳〵捗取らず、七日も経つたので、後に残つて附添つて居た兄者人が丁度苅入で、此節は手が八本も欲しいほど忙しい、お天気模様も雨のやう、長雨にでもなりますと、山畠にかけがへのない稲が腐つては、餓死でござりまする、総領の私は一番の働手、かうしては居られませぬから、と辞をいつて、やれ泣くでねえぞ、としんめり子供にいひ聞かせて病人を置いて行つた。
後には子供一人、其時が戸長様の帳面前年紀六ツ、親六十で児が二十なら徴兵はお目こぼしと何を間違へたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育つたから村の言葉も碌には知らぬが、怜悧な生で聞分があるから、三ツづつあひかはらず鶏卵を吸はせられる汁も、今に療治の時不残血になつて出ることゝ推量して、べそを掻いても、兄者が泣くなといはしつたと、耐へて居た心の内。
娘の情で内と一所に膳を並べて食事をさせると、沢庵の切をくわへて隅の方へ引込むいぢらしさ。
弥よ明日が手術といふ夜は、皆寝静まつてから、しく〳〵蚊のやうに泣いて居るのを、手水に起きた娘が見つけてあまりの不便さに抱いて寝てやつた。
さて療治となると例の如く娘が背後から抱いて居たから、脂汗を流しながら切れものが入るのを、感心にじつと耐へたのに、何処を切違へたか、それから流れ出した血が留まらず、見る〳〵内に色が変つて、危くなつた。
医者も蒼くなつて、騒いだが、神の扶けか漸う生命は取留まり、三日ばかりで血も留つたが、到頭腰が抜けた、固より不具。
之が引摺つて、足を見ながら情なさうな顔をする、蟋蟀が𢪸がれた脚を口に啣へて泣くのを見るやう、目もあてられたものではない。
しまひには泣出すと、外聞もあり、少焦で、医者は可恐い顔をして睨みつけると、あはれがつて抱きあげる娘の胸に顔をかくして縋る状に、年来随分と人を手にかけた医者も我を折つて腕組をして、はツといふ溜息。
軈て父親が迎にござつた、因果と諦めて、別に不足はいはなんだが、何分小児が娘の手を放れようといはぬので、医者も幸、言訳旁、親兄の心もなだめるため、其処で娘に小児を家まで送らせることにした。
送つて来たのが孤家で。
其時分はまだ一ヶの荘、家も小二十軒あつたのが、娘が来て一日二日、つひほだされて逗留した五日目から大雨が降出した。瀧を覆すやうで小留もなく家に居ながら皆蓑笠で凌いだ位、茅葺の繕をすることは扨置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣同士、おう〳〵と声をかけ合つて纔に未だ人種の世に尽きぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中に籠ると九日目の真夜中から大風が吹出して其風の勢こゝが峠といふ処で忽ち泥海。
此の洪水で生残つたのは、不思議にも娘と小児と其に其時村から供をした此の親仁ばかり。
同一水で医者の内も死絶えた、さればかやうな美女が片田舎に生れたのも国が世がはり、代がはりの前兆であらうと、土地のものは言伝へた。
嬢様は帰るに家なく世に唯一人となつて小児と一所に山に留まつたのは御坊が見らるゝ通、又那の白痴につきそつて行届いた世話も見らるゝ通、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかはりはない。
といひ果てゝ親仁の又気味の悪い北叟笑。
(恁う身の上を話したら、嬢様を不便がつて、薪を折つたり水を汲む手扶けでもしてやりたいと、情が懸らう。本来の好心、可加減な慈悲ぢやとか、情ぢやとかいふ名につけて、一層山へ帰りたかんべい、はて措かつしやい。彼の白痴殿の女房になつて、世の中へは目もやらぬ換にやあ、嬢様は如意自在、男はより取つて、飽けば、息をかけて獣にするわ、殊に其の洪水以来、山を穿つたこの流は天道様がお授けの、男を誘ふ怪しの水、生命を取られぬものはないのぢや。
天狗道にも三熱の苦悩、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸が痩せて手足が細れば、谷川を浴びると旧の通、其こそ水が垂るばかり、招けば活きた魚も来る、睨めば美しい木の実も落つる、袖を翳せば雨も降なり、眉を開けば風も吹くぞよ。
然もうまれつきの色好み、殊に又若いのが好ぢやで、何か御坊にいうたであらうが、其を実とした処で、軈て飽かれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、忽ち形が変ずるばかりぢや。
いや、軈て此の鯉を料理して、大胡座で飲む時の魔神の姿を見せたいな。
妄念は起さずに早う此処を退かつしやい、助けられたが不思議な位、嬢様別してのお情ぢやわ、生命冥加な、お若いの、屹と修行をさつしやりませ。)と又一ツ背中を叩いた、親仁は鯉を提げたまゝ見向きもしないで、山路を上の方。
見送ると小さくなつて、一坐の大山の背後へかくれたと思ふと、油旱の焼けるやうな空に、其の山の巓から、すく〳〵と雲が出た、瀧の音も静まるばかり殷々として雷の響。
藻抜けのやうに立つて居た、私が魂は身に戻つた、其方を拝むと斉しく、杖をかい込み、小笠を傾け、踵を返すと慌しく、一散に駆け下りたが、里に着いた時分は山は驟雨、親仁が婦人に齎らした鯉もこのために活きて孤家に着いたらうと思ふ大雨であつた。」
高野聖は此のことについて、敢て別に註して教を与へはしなかつたが、翌朝袂を分つて、雪中山越にかゝるのを、名残惜しく見送ると、ちら〳〵と雪の降るなかを次第に高く坂道を上る聖の姿、恰も雲に駕して行くやうに見えたのである。
底本:「新編 泉鏡花集 第八巻」岩波書店
2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「高野聖」左久良書房
1908(明治41)年2月20日
初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂
1900(明治33)年2月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「高野聖」となっています。
※初出時の署名は「鏡花小史」です。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年2月12日作成
2016年2月22日修正
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