南部修太郎



 五月のあるれた土えう日の夕がただつた。いつになく元のいい、明るい顏付かほつきつとめ先からかへつて耒たM会社員くわいしやゐんの青木さんは、山ののあるしづかな裏通うらとほりにある我家わがやの門口をはひると、今までむねつゝんでゐたうれしさを一き出すやうにはしやいだこゑおくさんの名をんだ。とおくさんはびつくりしたやう子で小はしりにそこへむかへ出て耒た。

「おかへんなさい。──いつたいまあなんなの? いきなりそんな大きなこゑをなすつて……」

 さうたづねかけながら、おくさんは女学生がくせいらしさのまだ十分にぬけきらない若々わか〳〵しいひとみを青木さんにげかけた。

「いゝこと素適すてきことがあるんだよ。」

 さうこたへて玄関げんくわんにあがると、機嫌きげんのいいときにするいつものくせで、青木さんは小がらおくさんのからだかるせながら、そのくちびるみじかせつぷんあたへた。

「まあ、なんんでせう?」

 おくさんはたくましい青木さんのかた片手かたてをかけたまゝびるやうにそのかほ上げた。

「うむ、あれさ。あれをとうとう今日けとつて耒たんだよ。」

あれつて?」

「ほら、あれさ。」

「ああ、わかつた。うれしいわね。──どんな番がうだつて?」

「それがさ、馬𢈘ばかによささうな番がうなんだよ。──ちよつとおち……」

 さういひながら、玄関げんくわんつゞきのちやへはひると、青木さんはかみにくるんだ額面がくめん十円の債劵さいけん背広せびろの内がくしから、如何いかにも大さうにとり出した。

「これなんだよ。──ほらね。の一万二千三百七十五がうなんだかいゝ番がうだらう?」

の一万二千三百七十五がう、さうね、ほんとにいゝ番がうだわ。」

 おくさんはれしくひとみかゞやかしながら、しばらくその額面がくめんながめ入つてゐた。

なんだかあたりさうね。」

「さうなんだ。ぼくはその番がうを一目とき直感的ちよくかんてきにさうおもつたね。」

 青木さんは興奮こうふんしたこゑでさうあひづちつた。

「あたつたら、実際じつさい素適すてきだな。」

素適すてき以上だわ。──一万二千三百……」

「……七十五がうだい一、五がつくのなんて半とこがなくて馬𢈘ばかにいいよ。」

「さうね。の一万二千……」

 青木さん夫婦ふうふはこのごろにないりのある、明るい氕持きもちで、希望きばう信頼しんらい笑顏えがほたがひにぢつと見交みかはし合つた。

 従兄妹いとここひし合つて、青木さんの境遇きやうぐうにすれば多少たせう早過はやすぎもしたのであつたが、たがひおもひつめた若々わか〳〵しい熱情ねつじやうのまゝにおもつて結婚生活けつこんせいくわつにはいつた二人は、まる三年かんを〓(「糸+(舎-口)」)たそのころになつて、可りな生活難せいくわつなんにとらはれてしまつた。といふのは、せう代に両しんわかれた一人つ子の青木さんは、わづかなその遺産ゐさんでどうにか修学しうがくだけはましたものの、全く無財産むざいさんの上だつた。で、新婚生活しんこんせいくわつは七十円らずの月きふはじめられたが、もなく女の子が生れた上に、世間的せけんてきな物價騰貴ぶつかとうきで、そのくらしはだん〳〵くるしくなるばかりだつた。そしていつとなく青木さん夫婦ふうふは、かつてはゆめにも想像さうざうしなかつた質屋しちや暖廉のれんくぐりさへ度重たびかさねずにはゐられなくなつてしまつた。

「いやだいやだ。わづかな金で月々こんなみじめなおもひをさせられるなんて……」

 月すゑちかづくと、青木さんはいつもくら顏付かほつきでそんなことをつぶやきながら、ためいきづいたり、いらだつたりした。そしてそんなとき、人のいいよわおくさんはなんことばもなくたゞまぶたをうるませてゐるばかりだつた。

 相当さうたう身柄みがらいへそだつただけに青木さん夫婦ふうふ相方さうはう共に品のいい十人なみ容姿ようし持主もちぬしで、善良ぜんりやう性格せいかくながらまた良家りやうかの子らしい、矜と、いくらかえをるやうな氕質きしつもそなへてゐた。で、世間眼せけんがんにすれば、どこにも生活せいくわつくるしんでゐるらしいやう子はかんじられないのであつたが、もとよりりつめた、地道ぢみち所帶持しよたいもちなどには全くならされてゐない二人にとつては、それだけにそのくるしみや不くわいさが一そうふかかつた。とりわけ空さうなにかの趣味道楽しゆみだうらくなしには生きられない青木さんにとつては、ただ金にはれてばかりゐるやうな、あくせくした日々の生活せいくわつがむしろのろはしいくらゐだつた。しかし、月きふの上る見込みこみもなかつたし、ボオナスもるばかりの上に、質屋しちやちかしい友だちからの融通ゆうづうもさうさうきりなしとはかなかつた。結局けつきよく、このまゝくらつゞけてくとしたら? さうかんがへたとき、二人はせうさうをはげしい心にかんじた。

「やつぱり金だ。すこしでも生活せいくわつ余裕よゆうのつけられるやうな金がしいな。」

 表面へうめんにこそせなかつたが、青木さん夫婦ふうふあたまにはさういふおもひがいつも一ぱいだつた。

 そこへ突然とつぜん一つの誘惑いうわくとしてあらはれたのが、せい発行はつかう債劵さいけんことだつた。それはある日会社𢌞くわいしやまはりの勧誘員くわんいうゐんがすすめてつたものだつたが、額面がくめん十円一とう二千円のあたりくじ二本を最高さいかうとして額面がくめん倍増ばいまし最低さいていのあたりくじまで総計そうけい二千本、あたらずとも六分利付りつきそんなしといふやうなことが、可り空たのめなことながら、一めんさうの青木さんの氕持きもちつよげきした。悲運ひうんものにめぐつてくるときならぬ福運ふくうん、そんなことまでがしきりにかんがへられた。そして、おくさんのねつ心な賛成さんせいた上で、くるしい内からやうやく工めんして、非常ひじやう期待きたいとともにもとめたのが、の一万二千三百七十五がうといふたつた一まいの、その債劵さいけんなのであつた。

 背広せびろかるいセルのひと衣にぬぎかへて、青木さんがおくさんと一しよにつましやかなばんさんましたのはもう八ちかくであつた。青木さんはすぐにえんの籐イスにせてたば草をふかしながら、夕かんみはじめた。やがて台所だいどころかたづけものましたおくさんはつぎかしてある子どもやう子をちよつとてくると、またちやへはいつて耒て、しやうちかくにきよせた電燈でんとうの下で針仕事はりしごとにとりかゝつた。しづかなよひで、どことはなしに青をにほはせたかぐはしい夜風よかぜには先からながれてくる。二人のあひだにはそのまましばらくなんの詞も交されなかつた。

「ほんとに氕持きもちのいゝばんだな。」

 もなく夕かんえんげ出した青木さんはさうつぶやきながら、おくさんのはうかへつた。

「ええ、ほんとにね……」

 おくさんははりを休めて、しづかにこたへた。

 刹那せつなに、二人の口元にはなんとない微笑びせうながれあつた。さつきまでの氕持きもち興奮こうふんはいつとなくさめかかつてゐたが、それは心のどこかにまだほのかな明るさをげてゐた。そして二人は暗默あんもくの内にもおたがひ何物なにものかの中にぴつたりけあつてゐるやうな、その日ごろにない甘い、しみじみした幸ふくかんをそれぞれにかんじてゐた。言葉ことばはそれなりに途切とぎれて、青木さんはにはくらやみのはうながめ入り、おくさんははりふたゝうごかしはじめた。

「でもね、あなた?」

 やがておくさんはまた口をつた。

なに?」

あれ、ほんとにあたるでせうか?」

「さあ、そりや分らない。すべては運命うんめい神様かみさま御意ぎよいのまゝなんだからな。」

 青木さんはちよつとさびしさうな表情へうじやうでいつた。

「だつて……」

「いや、だからさ。ぼくはやつぱりあたるものとしんじるな。しんじるだけでも、今の僕達ぼくたちにはたのしいんだからね。ははははは……」

 青木さんはうつろなこゑわらつた。

「ええ、そりやほんとにさうね。」

 おくさんは一心にはりうごかしながら、うつ向いたままさういつた。

「でも、しほんとにあたつたら?

「そりやうれしいね。びあがつて、氕〓(「二点しんにょう+麦」)ひのやうにおどりまはるかもれないよ。」

 青木さんのこゑなんとなく上ずつてゐた。そして、わざとらしいはしやぎかた身體からだをゆすぶりながらわらつた。

「だがね、うれしいどころか、反対はんたいすごくなりやしないから? とうだと二千円──ぼくの二年分の給料きふれう以上のお金がいきなり懷にびこんでくる……」

 そこで言葉ことば途切とぎつて、青木さんは不眞顏まがほになりながら、ぢつとおくさんのかほ詰めた。

なんだかこはいやうね。──さうさう、いつかあつたぢやないの? 千円かの無尽むじんにあたつて発狂はつきやうしたといふおぢいさんが……」

「はははは、僕達ぼくたちはそんなにが小さかあない。しかしいいな。今それだけのお金があつたら……」

「ほんとにさうね。あたしおりしてあるかたのを、一番におかへししたいわ。」

 おくさんははり無意識むいしきなやうにひざに休めて、ほの白んだ、硬つたかほを青木さんのはうに向けながら、眞劍しんけんこゑでいつた。

「そりや無論むろんだね。」

 青木さんはつよあひつた。

「それから、あなたどうなすつて?」

「さあ、ヴイクタアをふね。たけ井のつてるやうな……」

「ええ、ヴイクタアはいいわ。ずゐぶんしがつてらつしやるんだから。──あたし、なににしようから?」

「君のしいのはやつぱり着物きものかな?」

「あら、着物きものなんかいらなくつてよ。──さうね、あたしの今一番しいのは上とうの乳母ぐるまよ。ほらキルビイさんのおたくにあるやうな。あたし䴡子をあんなのにせてやりたいわ。」

「しかし、乳母ぐるまなんておやす用さ。」

「それから、やなぎのイスやテエブルを一くみと、ちやだんすのいいのをしいわね。」

「さうださうだ。イスやテエブルはだい一番だな。だが、さうなると、紅茶器こうちやきなんかの上とうしくなる……」

「あら、それぢやきりがないわね。」

 おくさんは朗かなこゑわらつた。

 そのまましばらくことば途切とぎれた。青木さんもおくさんも明るい、たのしげな表情へうじやうで、身動みうごきもせずにかんがへこんでゐた。

「でもね、美奈みな子。二千円あつたら、どうにかうちてられるかもれないよ。そしてそんな一つ一つの品ものなんかよりも、かんがへてみりや、そのはうがずつとこんてきことだとおもふ……」

「ああ、ほんとにさうだわ。いく道具だうぐ立派りつぱだつたつて、こんなうちぢやあね……」

 おくさんはあたりをまはしながらさういつてやんちやらしくひよいとくびをすくめた。

「で、てるとなると、やつぱり郊外かうぐわいね。」

「うむ、そりやさうだとも。大井だの目ぐろだの。ぼくすきだな。あすこらへんのちよつとたかみに、バンガロオふううちでもてられたら、どんなにいいから?」

「とても素適すてきだわ。」

 おくさんはたかこゑをはづませた。

「全くわるくないね。間数まかずはと? ぼく書斎しよさいけん用の客に君の居間ゐま食堂しよくだうに四でふ半ぐらゐの子ども部屋べやが一つ、それでたく山だが、もう一つ分な部屋へやが二かいにでもあれば申分なしだね。そしてにははなるたけひろくとつて芝生にする。花だんをこしらへる……」

「あたし、野菜畑やさいばたけつくりたいわ。」

「いいね。普通ふつう野菜物やさいもの無論むろんとして、ほかにトウモロコシだのトマトウだの、トマトウのとりてつて、ほんとにおいしいからな。」

「さうね。それからダリヤもおもひつうゑてみたいわ。」

「うむ、六七月ころになると、それをきり花にして客かざる……」

「ああ、どんなに奇䴡でせう?」

 おくさんは黒未勝くろみかちな、若々わか〳〵しいひとみを夢見ゆめみるやうに見張みはりながら、れやかにつぶやいた。

 言葉ことばはまたしばらく途切とぎれた。と、程近ほどちかくのイギリス人のいへでいつとなくりはじめたピヤノのが、その沈默ちんもくをくすぐるやうに間遠まとほこえて耒た。それにくともなく耳をかたむけながら、青木さんはしづか煙草たばこをふかし、おくさんははりを休めたまま、たがひにうつとりと今までの空さうあとつてゐたが、その空さうはなぜかだんだんにかげうすめてつた。そして、二人の意識いしきの中にはたつた三しかない古びた貸家かしやである自分のいへが、ほんとにねこひたひほどのにはが、やつとのおもひで古道具屋だうぐやからつて耒たただ一きやくのトイスが、いや、あまりにもそれとかけへだたつたさういふみじめな現実げんじつのすべてがうつすりとよみがへつて耒た。

「さうさう、それからねえ……」

 やがて青木さんはその冷やかな現実げんじつ意識いしきのがれようとするやうに、あらたな空さうをゑがきながら、おくさんを振返ふるかへつた。

なに?」

「さうなつたら、なにか小鳥もはうぢやないか? カナリヤ、目白、いんこ……」

「ええ、それもいいわね」

 おくさんのこゑにはもうなんとなくりがなかつた。そして、そのままひざに視線しせんおとすと、おもひ出したやうにまたはりうごかしはじめた。

「しかし、いいな。しすべてがそんなふうつたら、ほんとにどんなにたのしい、どんなにうつくしい生活せいくわつだかれないな。──一日でもいいから、たつた二日でもいいから……」

 青木さんはふと一人ごとのやうにさうつぶやいて、のき先にえるれた空をぢつと上げた。が、さういふ空さうの明るさとは反対はんたい氕持きもちめうくらしづんでつた。

 おくさんは青木さんのさういふ氕持きもちをすぐにかんじた。そして、青木さんの横顏プロフイイルに──やみの中にうかんでゐるくつきりした横顏プロフイイルにちらと視線しせんをそゝいだが、すぐにをしばしばさせて、くちびるをかみながらまたうつ向いてしまつた。

「しかし、そりやさうとして、なんとかくじがあたらないものかな? 今の僕達ぼくたちには何等なんとうだつてかまはないんだ。ねえ、さうだらう?」

 青木さんは不おくさんのはう見返みかへつた。

「ええ。──ですけれど、もうそんなはなしよしませう。あたしなんだか……」

 おくさんはうつむいたまゝいつた。

「どうしたの?」

「いいえね。いくおもつてみても、そんなこと、あたしたちには目なんですもの……」

 おくさんはかすれたやうなこゑこたへながら、青木さんのかほ上げた。

 そのせつに、おくさんのまぶたに一ぱいにじんでゐたなみだにひよいとがつくと、今まで何氕なにげなさをよそほつてゐた青木さんの心はおもはずよろめいた。青木さんはあわててイスからち上つた。が、すすりきはじめたおくさんのかたをかけると、また心をとりなほしながら、力つよく、なぐさめるやうにその耳元にささやいた。

「そ、そんなことかんがへちやいけない。僕達ぼくたちはせめてさういふゆめでもたのしんでゐたいぢやないか。──それにまた、おもかけない巡りあはせで、人にはどんな好運かううんが向いて耒ないともかぎらないからね……」

 ヽヽヽヽヽヽヽ

 それから半年ほどたつたときの一万二千三百七十五がう債劵さいけん仲買なかがひ人を〓(「糸+(舎-口)」)て、ある田なかの大地主ぢぬしわたつてゐた。青木さん夫婦ふうふわづかな金の融通ゆうづうのために仕方しかたなく手離てはなしたのであつたが、それがもなく五とう百円のくじにあたつたこと無論むろんるはずもなかつた。

─一四・四・一八─

底本:「旬刊 寫眞報知 第三巻第十二号」報知新聞社出版部

   1925(大正14)年425日発行

初出:「旬刊 寫眞報知 第三巻第十二号」報知新聞社出版部

   1925(大正14)年425日発行

※UCV3は、「「未」の「二」に代えて「三」」と「耒」の統合を規定していますが、この規定は誤りとみて、外字注記にはUnicodeを記入しませんでした。

入力:小林 徹

校正:鈴木厚司

2012年328日作成

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