教育映画について
寺田寅彦



 教育資料としての映画の価値の多大なことは誰でも認めてはいるようであるが、しかしこの問題については、少なくも我邦わがくにでは、まだあまり十分に研究されていないか、ともかくも一般的興味の対象とはなっていないようである。その証拠には、芸術映画に関する色々の著書や翻訳書が沢山に出版されているにもかかわらず、教育映画に関する書物や論文が、あるかもしれないがあまり普通には見当らないのである。また文部省内には教育映画に関する調査委員会のようなものが設けられてあるそうであるが、その業績として世間一般に広く認められているものはないようである。

 しかしこの問題は現在考えられているよりはもっともっと重大な問題であって、当局者は勿論日本の将来という事を考えるすべての人によってもう少し真面目に講究されなければならないことである。

 ウエルズの空想小説に、今から何百年後の世界を描いたものがある。その世界では現在あるような活字で印刷した書物の代りに映画のフィルムのようなものが出来ていて、書庫の棚にはその巻物がぎっしり詰っている。小説でも歴史の本でも皆そういう巻物になっていて、それを机上の器械にはめてボタンを押すとその内容が器械のスクリーンの上に映写されて出て来るというのである。これは極端な空想であってすべての書物がことごとくそういう映画で代表されようとは考えられない。例えば抽象的な論理学の書物に代用されるような映画フィルムを作ることは不可能でないまでも、現在のところでは甚だ困難な仕事である。しかしこの空想は未来における映画の応用の可能性の広大なことを暗示するものとしての価値は十分にあるであろう。

 文字を読んでそれが表わす内容を頭脳に描き、そうしてそれを次に来る文字の内容とつなぎ合せて一つの文章の意味を理解する。この過程と、映画の一つ一つのカットの連続を見てその一つのシーンの内容を理解する過程とは大体において同じようなものである。映画の製作者はつまり文字の代りにフィルムの断片で文章をかいて、吾々はそれを読んで行くのである。文字の方はその意味を覚えるまでの練習を要する代りに、一度覚え込んでしまえばその意味の内容はある程度までははっきり規定されてしまう。映画の一つのカットの内容はそういう練習を待たずに直接に視覚的に頭の中に飛び込んで来るのであるが、その代りその「意味」といったようなものは非常に複雑なもので、多くの場合に一と口では云われないようなものが多い。それは一輪の朝顔の花にしても、ある朝ある家のある鉢の朝顔をある方向からある距離から撮影した具体的の朝顔の花であるのに、文字の「朝顔の花」は時間空間から抽象された朝顔の花であるからである。それだから映画のカットはむしろ一つの文章である。しかもその限定された内容はいわゆるモンタージュ、すなわち編輯法によって始めて決定されるもので、同じ朝顔の花でも前後の関係によって色々の内容をもって現わされ得ることになるのである。

 こんな理由だけからでも、映画によってすべての文字を駆逐することは出来そうもない。しかしまた同じ理由によって文字では到底勤まらない役目を映画によって仕遂げることが出来るのである。云うまでもなく、朝顔を見たことのないエスキモー土人に朝顔を説明するに百万言を費やすよりも写真か映画で一分間を費やした方が早分りである。一と口に云えば映画は観客の眼の代理者でありまたその案内者なのである。観客が到底行かれぬ場所へ観客の眼を連れて行って見せたいものを見せるのである。過去のある瞬間に世界のうちのある場所で起った出来事を映写器械のレンズで見た、その影像の写しをそのままに吾々の眼を通して直接に吾々の頭の中へ写し出すのである。

 教育機関としての映画の役目は、このように観客の眼の「案内者」としての役目である。何を見るべきか、それを如何に見るべきかということを教えることである。教育映画としての優劣はこの案内の仕方の優劣次第できまるのである。ここに色々の問題が起って来るのである。

 動物の生活を見せる映画について考えてみる。例えば動物園へ子供を連れて行って子供に実際の河馬かばを見せるのと優秀な教育映画の河馬を見せるのと、どう違うかという問題を考えてみる。ちょっと考えただけでは動物園の実物の方がよさそうに思われるであろうが、実は必ずしもそうでないのである。河馬と言うものの特徴を見せるために、その前後並びに側面から見た形、眼、耳、鼻、口、尻尾しっぽ、脚等の形態、水中にもぐって鼻づらだけ出した様子、鼻息で水を吹きとばす有様、水中で動くときに起る水の渦動、こういったようなものを十分に詳しく見せようと思っても動物はなかなか此方こちらの註文通りに動いてくれないし、またせっかく註文通りの部分なり挙動を示しても、その瞬間に観者の注意がそこへ向いていなければ何にもならない。それだからなかなか一度や二度の訪問でこれだけの諸点を観察することは容易でない。しかるに映画の場合では撮影者が長い時間とフィルムを費やして撮影したおびただしい材料の中から、無駄なものを省略し、最も重要なものだけを選び出し、それを巧みに編輯してあるから、観客は極めて短い時間の間にこの動物のあらゆる特徴を最も純粋にまた最も強調された形において観察することが出来るのである。あの大きな口の中の造作でも、それが大写しになってそれだけになって現われるときに始めて吾々は十分な注意をそれに集中することが出来るのである。それは外に注意を牽制すべき何物もないからである。それだからたとえ手近に動物園がある場合でも動物園の映画はそれ自身の独自な価値を主張し得るのである。ましてやアフリカ大陸の自然の棲所すみかで撮った河馬の映画となれば猶更なおさらのことである。

 ある製造工場を見学するにしても、実際の場合は一見雑然とした機械の嵐のように運転する中を案内されて説明を聞いても眼が戸まどいをして視るべき要点をつかまえることが困難であるが、適当に編輯された映画で見れば、例えば飛行機なら飛行機の製造される過程が実に明瞭によく分るのである。

 こういう訳で、映画の眼を通してものを見るということは、実物を見るとはよほどちがった長所をもっている。映画を見ることによって吾々は凡庸な観察眼の代りに異常に鋭い観察者の眼を獲得することになる。同時に非常に長い時間と多大な費用を節約し得られるのである。ある映画監督は猫が鼠を捕る光景を撮るために七十時間とそれに相当するフィルムを費やしたそうである。

 極めて平凡なものの観察でさえも映画によって始めて可能な利益があるとすれば、映画技術によってのみ得られる観察、例えば高速度撮影や反対の低速度撮影のごときものの効能は今更いまさら云うまでもないことである。

 しかしこういう教育映画を作るのはなかなか容易でないことも明白である。時間と労力と金とを費やすだけでは十分でない。撮影者が単に映画のテクニークに通暁しているばかりでなく、その対象に関する十分な知識をもっていることが絶対に必要である。それかといって単なる学者では勿論駄目である。「映像の言葉」の駆使に熟達した映画監督の資格を同時に具えていなければならない。そういう人はなかなかそう容易たやすく見附かるものではない。現在ドイツのウーファがこの点でほとんど独り舞台を見せているが、近頃のロシアの「婦人の衛生」などもこの点で著しい傑作であった。ところで我邦の教育映画はどんな有様であるか。自分はまだ不幸にしてその実例を多く見ていないから何とも批評する資格はないが、わずかに見ることを得た二、三のものは、甚だ愚劣なものであった。例えば火山の噴火を示すのでも本当に子供だましの模型や如何いかがわしい地殻断面図の行列であって、一つも現象の科学的な要点に触れていなかった。また例えば子供の誤って呑込んだおはじきが消化器系を通過する径路を示すのを見たが、これなどでも消化器というものの本質には少しも触れないで、ただ土管のつながりのようなものとしか思われないように出来ていた。勿論これらはほんの素人の慰み半分の小型映画作品であったのでこういう厳重な批評をするのは無理であろうが、これでもおおよその水準をうかがうことは出来るであろうと思われる。

 元来教育映画は骨の折れる割合に商品価値の低いものである以上、現在日本の映画会社では到底手をつけないであろうから、どうしても政府の事業としてやる外はないと思われる。しかし現在我邦の政府で映画教育の価値がほんのわずかしか認められていないとしたら、何時になったら立派な教育映画が出来るようになるか全く見込が立たない有様である。もし誰か金持の中の変り者でもあって、月並の下らないいわゆる社会事業などに出す金をこの方面に注いで、そうして適当な監督を見出し養成すればあるいは出来るかもしれないのである。しかしそれよりも先に一般民衆が教育映画というものの価値を十分に認めること、またその将来の可能性が如何に大きいものであるかをリアライズすることが必要であるかもしれない。

 実際もし映画ことに発声映画の技術が発達を重ねて行ってその器械がもう少し安くなって一般の使用に便利なようになれば、多くの学校の無味乾燥な教授の大部分は映画で置換えられるであろう。全級一度に教授することによって教員の手がく。先生方はそうして得らるる時間の余裕を利用して色々な教材の映画シナリオの共同編纂に従事することになるであろう。それらの試作映画を文部省かどこかで検定し、優秀なものは全国に配布することも出来るであろう。これは夢のような話ではあるが、しかし実現の可能性のない夢とは思われない。

 いわゆる思想善導の問題でも、あらゆる方法の中で最も有効有力なものは、適当な映画の制作であろうと思われるが、これについては余白がないからここれは触れない。しかしうかうかしていると、色々な妙な思想がフィルムの形になって外国から続々入り込んで全国に燃え拡がるのは事実である。

 現代一部の日本人をすっかりヤンキー化させたものはほとんど全く映画の力だと云っても誇張ではあるまい。実に恐るべきことである。それだのに我国の文教の枢府ではこの事実に無神経である。

 映画などは不良少年少女の見るものであるといったような時代放れのした気持が、いわゆる教育家や、特に真面目な中堅人士の間にいくらかでも残っている間は教育映画の時代はめぐって来ないであろう。現在の映画ファンの中の堅実な分子の中から総理大臣文部大臣以下各局長が輩出する時代が来て始めて私の夢は実現されるかもしれない。しかしそういう日の来ないうちに不良映画の不良教育を受けた本当の不良が天下をおぼらすようにならないとは限らない。そうならないためには、今から教育者の地位にある当局者は、この眼前の生きた現象をいたずらに回避する代りに、これに直面してもう少し積極的な手段を取るべきではないか。あえて本誌の読者の一考を煩わしたいと思った次第である。

(昭和七年八月『公民教育』)

底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店

   1997(平成9)年77日発行

初出:「公民教育」

   1932(昭和7)年81

※初出時の署名は「吉村冬彦」です。

入力:Nana ohbe

校正:しだひろし

2006年1222日作成

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