海から歸る日
新美南吉



             1


 五年間に通過して來た道、それは今考へたつてわからない。たゞわかるものは今の心だ。五年の最後に到達した心だ。人の心ではない。自分の心だ。


             2


 雲はビルデイングになつてくれない。風鈴草はいくら振つても鳴つてくれない。木馬は乘つたつて走らない。


             3


 私の生活は私の生活。私の心は私の心。あなたの生活もあなたの心もあなたののだ。いかに暴逆なネロでも、私の生活を窺ふ事は出來ない。私の生活は矢張り私の生活。


             4


 初夏のうらゝかな日の午後、せんだんの枝を見てゐると、私は存在してゐるだらうかと思つた。

 そしてせんだんの實がつぶら〳〵となる頃に、私は一つの木の實を拾つた。

 ──存在しないと私が思つた時、私は存在しないのだ。KもMも存在してゐないと思つた時、私に於てKもMも存在してゐないのだ。牛が人間より頭がいゝと思つた時、牛は人間より非常に頭がいゝ。


             5


 

1+2=3 A=B ナルトキ A+C=B+C 2>1

 私達が數學の問題を解く時、若し上のやうな公理が存しなかつたら、問題がとけるだらうか。私達はいつも無意識の裡にそれ等を眞として數學のプロブレムを取扱つて來た。が若し一度

1+2=3 2>1

なる事に疑をもつたらどんな簡單な問題も解く事が出來ない。

2>1

を眞としてかゝればこそどんな複雜なものも解けるのだ。では、

1+2=3 2>1

とは何か。私達はこれを「信仰」と云ふ詞に解釋しよう。一點の疑もいだかない信仰と云はう。

1+2=3

が數學の問題に解決を與へる樣に、信仰は人生の問題に解決を與へるのだ。


             6


 去られたミノベ先生が、こんな事を云はれた事があつた。──科學の源は神樣である。例へば、人類の原始へ科學が溯つてゆくとき、どうしても神樣がなければ、人類の最初のものが生じない事になつて、科學の大きな建物は土臺を失つてしまふ。──私達が神樣の作られたものならば、私達の周圍のすべてのものも神樣の作られたものである。だから私達の周圍にはむだなものは一つもありません。偶然に空から落ちて來た隕石みたいなものは一つもありません。


             7


 僕の父は鰡が生長して膃肭臍になると信じてゐる。このいなが食卓にのぼる度に云ふ。僕がそんな事はない。魚が獸になるなんて事はないと説明する。しかし父は肯んじない。「學問上ではさうかも知らないが、いなは確かに膃肭臍になる。」さう云ふ。

 父は幼い時から、父の兩親から或は友達からさうきかされて來たに違ひない。そして信じて來たのだ。だからおつとせいになると云ひ張る。僕は此の頃

鰡=おつとせい

の信仰に、却つて一種敬虔な感を持つやうになつた。無學な父には夜と晝のやうに明白な眞理なんだ。

 眞理は信仰から生れる。信仰のない者には眞理がない。すべて無だ。水蒸氣の樣なものだ。すべてが無である事はその者が生きてゐない事だ。だから人間の存在すると云ふ事は、その者が信仰を持つてゐると云ふ事だ。


             8


 信仰に善惡があるか。客觀的にはあらうが、主觀的にはない。自分の信仰が正しくないと分つた時、その信仰は信仰でなくなる。

 信仰に大小があるか。主觀的にも客觀的にもある。或る物にぶつかつて、心に迷が生ずる。即ち彼に信仰の不足が生じてゐるからだ。

 では、すべての宇宙間に存する物に一點の迷をもたぬ信仰をもつ事が出來るか。それは釋迦だ。孔子だ。基督だ。

 彼等の信仰は皆色彩を異にするけれど、その大きさは同じだ。昔から多くの人に尊敬されて來た理由として私は新しい解釋を加へよう。

「彼等の信仰が宇宙と同じ大きさであつたからだ。したがつて間隙のない人生を生きたからだ。」

 小學校の生徒に、教壇から、社會の醜をさとす。「皆さん、社會は學校と違ふ。醜いものですぞ。」けれども彼等の頭にそれが信仰となつて這入るか。彼等はさうかしらと思ふだらう。いくら信じようと思つても、「さうかな」の信仰より深入りは出來ない。彼等には經驗がないからだ。つまり自分の信仰を掴んでゐないからだ。自分で掴んだ信仰! それは爆彈のやうに強い。


             9


 五箇年の間どう歩いたか。それは云ひ得ない。たゞ無意に過した五箇年の最後の瞬間に、はつきりと物を見、掴み得た事だ。それは海から歸る日である。自分は嬉しくてたまらない。自分はこれから、海岸の人々に向つて叫ばう。

 ──おゝい! 獲れた獲れた! 小い鰡が三四匹! けれど皆んなぴち〳〵とはちきれさうに生きてゐる、と。

 眞珠貝を拾つて來たかの樣に双手をひろげて叫ばう。そして明日はまた海に行く船出の日だ。

底本:「校定 新美南吉全集第二巻」大日本図書

   1980(昭和55)年630日初版第1刷発行

   1985(昭和60)年520日3刷

初出:「柊陵 第一二号」

   1931(昭6)年33

入力:高松理恵美

校正:川向直樹

2004年1030日作成

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