貞操問答
菊池寛
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七月、もうすっかり夏であるべきはずだのに、この三日ばかり、日の目も見せず、時々降る雨に、肌寒いような涼しさである。
今も、小雨が降っている。だが空はうす白く、間もなく雨も降り止みそうな光が、ただよっている。
新子は、ぼんやり二階の居間から、外を眺めている。
路次の水たまり、黒い小猫がぴょんぴょんと水溜をさけて、隣の生垣の下をくぐった。茶色の雨マントを着た魚屋が、自転車に乗って来て、共同水道のわきで、雨にぬれながら、切身を作り始めた。
豆腐屋のラッパ、まだ午前なのである。
「あーあ!」新子は、かるい欠伸をした。
とたんに、階段の下から、甘えかかった、
(新子姉さまア!)という声が、弾み上り、ドタドタとかけ上って来る足音がして、勢いよく襖が開いた。
あまり成育しない前に、熟れてしまった果物のような、小柄な、身体全体が、ピチピチした──深々とした眼、小さい鼻、小さい唇の、生々とした新子の妹、美和子である。
「何よう!」新子は、無愛想に、広い聡明な額のうすい細い眉をひそめて、そちらを振りむいた。下顎骨が形よく精巧に発達していて、唇が大きかった。のどかそうな、それでいてひどく謎めいている大きな目が、無愛想な言葉を、やわらげるように、ニヤニヤ妹へ笑いかけていた。
「ストッキングが、みんなどれも満足なのがなくなっちゃったのよ。」
「日曜くらい、お家にいらっしゃいよ。それに、もうご飯よ。雨は降っているし……」
「だってえ、家にいたら、呼吸がつまりそうなんですもの。渡辺さんとこへ行くって約束してあるんですもの。一時の約束よ、もう支度しなければ、遅くなるわ。」
「じゃ着物になさいよ。」
「意地わるっ! こんなに、ちゃんと着てしまっているのに──」クリーム色のピケで、型ばかりはひどくハイカラだが、お手製らしいワンピースを、大仰に手を展いて見せた。その胸に、大きな乳鋲のように正確な半球が二つ、見事に盛り上っていた。
「少しくらいの穴、かがってはいていらっしゃいよ。」
「かがれるだけは、かがってよ。もう、その余地がないのよ。ほら!」美和子は、姉の膝にストッキングを落した。脚の型のまま、だぶだぶにふくらんでいる膝のあたりに、虫の喰ったくらいの丸い穴があいている。
「これくらい、大丈夫よ。マニキュアのエナメルを塗っておくと、毛が抜けないから。洋服でかくれちゃうわ。」
「うん、そうする。でも、帰りに新しいのを買って来なくっちゃ、お金頂戴!」
「この間上げた五円、どうなったの?」
「少し残っているけれど、ストッキングを買えば、バスにも乗れないわ。」
「チェッ!」笑いをふくんだ舌打ちをして、ねめすえて、五十銭銀貨を二つ出してやると、美和子は現金によろこんで、階下へ降りて行った。
台所へ降りて、昼の支度をと思っていると、
「新子ちゃん!」と、すぐ隣の部屋で、姉が彼女を呼んだ。
(新子ちゃん! ちょっと来てよ。話があるの)隣室からの姉の声がつづいた。
「お姉さまも、ご用?」ちょっと、皮肉に笑いながら立ち上った。スラリとした長身、ふくよかな感じはなかったが、清純な仇っぽさが──そんな言葉が許されないとしたら──特別な風情が、新子のからだには、流れていた。
襖一重の姉圭子の部屋は、およそ異人種でもが住んでいるほど、区切られて特異であった。
床の間一杯に、おびただしい和書洋書が積み重ねられ、明り取りの円窓の近くに、相当古いがドッシリとした机が置かれ、その前の皮ばりの椅子に、圭子は腰かけていた。
壁には、外国の名優の写真らしいのが、銘々白い框の縁に入れて三つかかっていた。
小さい水彩画と、ピカソの絵葉書、その脇には圭子自身の製作らしい麻布に葡萄の房のアプリケが、うすよごれた壁をすっかりかくしていた。
「話って?」新子は、姉の机の脇に立った。
「佐山さんが、貴女が私達姉妹の中では、一番曲者だっていっていたわよ。」と、圭子が、微笑しながらいった。
「それは、どういう意味?」
「貴女には、聖母のような清らかさと、娼婦のようなエロがあるんだって! 恋愛でもしたら、男殺しという役だって!」
「へえ。そんなこといった? だって、佐山さん、一度しか私と会いもしないくせに、分るもんですか。」
圭子は、姉妹の中で一番美しいかもしれなかった。とにかく、完璧な美人タイプに列し得られる。白粉気がなく、癖のない潤沢な黒髪を、無造作に束ねているので、たいへん清楚な感じがした。
「話って、それぎり?」新子は、もう一度訊いた。
姉は、ちょっと首を振って、
「ううん、これよ。」と、丸善のビルを新子に渡した。
洋書が五冊、新子は内訳は見なかったが、合計は二十三円五十銭だった。
「お母さまにいうと、また長講一席よ。貴女から、話してほしいの。」
新子は、しばらくの間だまってしまった。
姉妹の父は、長い間、台湾のさる製糖会社の技師をして、相当な高給を食んでいた。退職したときにも、数万円の手当を貰った。しかし、生活ぶりが、華手だったので、一昨年脳溢血で死んだときは、金はいくらも残っていなかった。そして華手な生活ぶりと、金の事を気にしないルーズな性格とだけが遺族の上に遺されていた。今年の初め、あわてて家賃の安い現在の家に引越して来たのであるが、働く者のない家庭は窮乏の淵へ一歩一歩ズリ落ちて行く外はなかった。
その上、姉妹の母が、生活に対しては、ひどく没常識であった。
父が死んだ後も、母は漫然として、何の新しい収入の当もないのに、家賃の高い麹町の家に暮していた。姉の圭子は相不変女子大に通い、新子は津田英学塾に通っていた。
今年の初め、母が少し愚痴っぽくなったので、新子がおかしく思って、母に迫って家の経済状態を根掘り葉掘り問い質してみると、父が勤めていた会社の株が五十ばかりのほかには、銀行預金が二千円とわずかしか残っていなかった。父の死後、そんなわずかな預金の中から、月々三百円に近い生活費を出していた母の出鱈目さに驚いたが、今更どうすることも出来ず新子はあわてて、自分で学校を廃めてしまい、母を勧めて、家賃の安いここ、四谷谷町の家へ越して来たのであるが、しかしそれは半年で駄目になる生命を、やっと一年に延ばしたというだけのことで、前途に横たわる生活の不安は、どう払いのけることも出来なかった。
しかし、それは新子だけの気持で、姉の圭子も妹の美和子も、家の生活の実際を知りもしなければ知ろうともせず、太平無事の日々を過していた。殊に、圭子は文学好きで、去年あたりから新劇研究会のメンバーになると、家の暮し向きなどはおかまいなしで、いつも損をする公演の手伝いなどに、うき身をやつしているのだった。
だから、新子が今年の初めから母を助けて家計を切り盛りし、月々幾何幾何と、定めておいても圭子も美和子も、ムダな浪費をする習慣がなかなか止まず、本好きの姉は、この頃為替相場の関係でめっきり高くなった洋書を、買ったりするのである。
「二十三円五十銭、こまるわね。お母さまが、この頃愚痴っぽくなったのも、無理はないのよ。お姉さま、家に今お金いくらあると思っていらっしゃるの?」新子は、ビルを手にしながら、金銭というものの脅威が、しみじみ身に迫るのを覚えながらいった。
「おやおや、貴女まで愚痴っぽくなったのね。だって、これ二月分よ、私もっと買いたい本があるのを辛抱しているんですもの。その代り、私着物なんか一枚だって買わないじゃないの?」もう、姉は少し中腹らしかった。
初めての愛児として、両親の全盛時代に、甘やかされて育った姉は、生活ということに対しては、全然考えようともしないらしく、てんで話にならなかった。
こんな機会に、もっと真面目に、根本的に姉に話してみようかと新子が考え出したとき、階下から母親が高い声で、
「新子さん。ちょっと階下へ来て下さいな。」と叫んだ。
「はい。」と、新子は返事をした。
一家中、何かにつけて、新子だった。いかなる場合でも、一番深く考えている者が苦労するように、母も姉も妹も、みんな新子に背負いかかっているのだった。
新子は、姉に自分達の生活について、何かいってやりたい気持を抑えて、階下へ降りてみると、上で気がつかない内にそこの玄関へ、父の存生中から、出入りしている重松という日本橋の時計屋が来ていた。四、五年前までは、よく恰好な出物があるといって、売り付けに来たのであるが、去年あたりからは、母が生活費のたしに、時々売り払う品物を買いに来るようになっていた。
茶道具のわきに、新子の見馴れない金の大きい指輪が、二つ置いてあった。
母は子供のように秘密主義で、子供にまでかくして、色んなものを持っていたのだが、この指輪も、母がとって置きの秘蔵品だったのかと思うと、新子は悲しかった。だが、母はニコニコしながら、
「重松さんにね、こんな指輪、どうせ安いんだろうと思って見せたら、金は今とても、値がいいんですってね。ねえ、新子売ってもいいだろうね。あなたに相談しようと思って、呼んだのよ、どう?」母は、二、三年来の金の値上りにさえ、今更おどろいているらしかった。
「そうね。そりゃ売ってもいいけれど、重松さん、今一匁いくらで買って行くの。」
「十円五十銭です。」頭をテカテカになでつけた重松は、どっかにずるそうなところのある四十近い小男だった。
「もっと、するのじゃないの。」
「十一円五十銭まで行きましたが、このところ一円ばかり下っていますので……」
「この指輪、何匁あるの。」新子は、一つずつ持ち上げてみながら訊いた。
「大きい方が、五匁二分。小さい方が、四匁四分、両方で九匁六分でございます。」
「重松さんのはかり、インチキじゃないの。」と、新子がからかうと、
「どう致しまして、それにお母さまが、ちゃんと古い書付を持っていらっしゃいます。ごまかしがきかないんですよ。」
「へえ。どんな書付?」
「これよ。」母は、うれしそうに、膝の上に置いてあった渋色になった、みの紙の書付をひらひら出して見せた。
一、金二十三円九十二銭也
平打純金指輪。五匁二分(一匁四円六十銭也)
一、金二十円二十四銭也
平打純金指輪。四匁四分(一匁同上)
細工料一円二十銭
明治四十年九月吉日
と書いてあった。
考えると、これは両親のエンゲージ・リングなのである。
「売っちゃうの。」新子は、何か悲しいような、あさましいような気がして、しずかに母の顔を見返した。
この四、五年来、金輸出禁止とか解禁とか、再禁止とか、あんなに騒ぎがあって、金の値上りについての新聞記事だっていく度も出ているのに、それをちっとも知らない母は、重松のいう相場に、何か大もうけでもしたように、うれしがっていた。
「ねえ。この書付だとこんなに安いのが、百何円にもなるのだねえ。やっぱり、昔のものは、物がいいんだね。」
ほかの物は、いざ知らず、金はいつにでも金であるところに値があることを知らないらしい母に、新子は、
「ええ。」と返事はしたものの、あたたかく眼頭がうるんで来た。
父が死んで以来、母が経済的には不具だということが、露骨に分って来ていた。百円の金は、半月くらいの間に、煙の如く意味もなく、消えるのだろうと思うと、そのために、亡父と母との大事な記念物が、易々と消えて行くことが、新子には悲しかった。
重松は、紙幣を数えて、母に渡し、小銭をも出そうとすると、母はあわてて、
「端金は、いらないから。」と、あきれるばかりの気前のよさで、ほくほく紙幣を受け取るのであった。その端金があれば、午後取りに来るはずの電燈代が払えるのにと思うと、新子は、
(妾がいるから、重松さん、置いて行きなさいよ!)と危く口に出かけたが、今でも貧乏たらしくすることのきらいな母の気持を傷つけたくないために新子はだまっていた。
重松が帰ると、結局金を持って気の大きくなっている母から、さっき頼まれた姉の書籍代を引き出すことに、気をつかわねばならなかった。
「ねえ。お母さま、お姉さまの本代がいるのよ。二十五円ばかり、その中から出して下さらない?」気のいい母は、かの女の思わく通り、割合機嫌よく、圭子の書籍代を、その内から出してくれながら、
「ほんとうに、あの子は金喰い虫だね。でも、来年学校を出たら、働いてくれるだろうね。」と、いった。
「どうですか。女子大なんか出たって、今年なんか十人に一人くらいしか、就職出来ないそうですよ。それに、お姉さまのような人働けるかしら。」
「だって、そのために学問をしているのじゃないのかい。」
「そうは行かないのよ。お母さん、この頃は男の大学を出たって十人に二、三人しか口がないんですもの。お姉さんなんか、芝居なんかを熱心に研究したって、どうにもなるもんですか。」
「じゃ、お前だんだんお金が減るばかりだし、先々どうなるのだろうね。私は、圭子が学校を出るまで、どうにかして喰べつなげばいいと思っていたんだが……」
「妾が、働くつもりよ。」
新子は非生活的な一家の代りに、自分が働くよりしようがないと、つとに決心していた。
母と卓子をはさんで新子は、しみじみと云い出した。
「お母様。私、すぐ働くようになるかもしれないのよ。お母さまも知っているでしょう。前川さんて、私のお友達があるでしょう。この間、他所でお会いしたときに、私働きたいって、お話ししたら、ちょうどあの方のお兄さんが、家庭教師を探しているんですって、日曜だったら兄もきっと家にいるから、一度会いにいらっしゃいって、おっしゃって下さったのよ。今日これから、伺ってみて、私に勤まりそうだったら、おねがいしてみるつもりよ。」
「だって、お前は美沢さんと、結婚するのじゃないのかい!」と、母は気をきかして云った。
「いやなお母さま。だしぬけに、そんなことを。」物に動じない新子の頬が、かすかに染まった。
「だって、美沢さんは、随分お前と親しそうじゃないか。」
「私が、今結婚してしまったら、お母さん達どうなるの。」
「それも、そうだけれど……」
「それに、美沢さんだって、結婚できるような身分じゃないわ。それに、お友達としては、いい方だけれど……。とにかく、私午後から、前川さんのお宅へ伺ってみますから。」そう云って、新子はお昼の支度にと、台所へ立った。
ここへ引っこして来たとき、女中には暇を出したが、長年奉公している六十に近い婆やだけは、今更出すにも出せなかったし、母から、つねに口やかましくいわれながらも、それを気にしないで忠実に働き、買物なども一人でやってくれるので、新子はたよりにしていた。
婆やに、昼のお惣菜の指図をしてから、母の居間に、さっき出かけた美和子がぬぎばなしにしていった着物を片づけていた。
「ねえ。お前が働くということ、圭子は知っているかい?」茶箪笥の抽出しから、手提金庫を取り出して、さっきのお金をしまい込みながら、母が新子に云った。
「いいえ。まだ。」
「一度、相談してみたら、どう? 圭子には、また何かいい考えがあるかもしれないもの。」
「いいですわよ。」
「なぜ。圭子は、長女だもの、お前を一番に働かすなんて法はないわよ。」
「いいのよ。お母さん! お姉さんには、またお姉さんとしての考え方があるのよ。」
「だって、そりゃ──お前の決心を聴いたら、圭子だって、何というか分りませんよ。」
「私、話がきまってから、お姉さんに報告するわ。お姉さんはお姉さん、私は私だわ。じっとしていられない性分ですもの、つまり苦労性なのよ。私は、おおいに働くわ。」
それから、三時間ばかりの後に、新子は麹町元園町の前川邸の応接間にいた。
友達の訪れを、心待ちにしていたらしい令嬢の路子は、さっぱりした趣味のよいアフタヌーンを被て、新子を欣び迎えてくれた。
絹ばりの壁や、カーテンの快い色彩、置き棚や卓子の上に飾られた陶器や、青銅の置き物や、玻璃製の細工物などの趣向のこった並べ方が、その豊かな暮しを現して、すべてがゆったりと溶け合っていた。窓からは、手入のよく行き届いた庭の一部が眺められ、雨に咲いている、くちなしの強い甘い匂いが、ときどき、かすかにうっとりとするほど、部屋の中に揺れて来るのであった。
三、四年前までは、この家へ二、三度遊びに来たこともあり、こうした応接間の空気などにも、特別に感じ入りもしなかったのであるが、やや切端つまった就職者として来ているせいもあって、新子は何か不思議な圧迫を感じるのであった。
「今年小学校五年になる兄の子が、あまり甘やかしたせいか、頭はそんなにわるくないんだけれども、学校が出来ないの。」
「男のお子さん……」
「ええそう。いたずらっ子だけれども、性質は素直なの。それから、小学校三年の女の子、この方は、どちらでもいい。この方は、面白いかわいい子よ。二人とも、貴女がてこずるような子じゃないけれど、問題は姉よ。」
路子は、新子に比べると、冴えたところはないが、丸顔で眼も唇もほっそりしていて、豊かな黒髪を短く切って、洗練された衣裳の好みや、金持の娘にしてはすましていない点などで、何となく人好きがした。弾力に充ちた身体は、しなやかで、いかにも快活そうだった。
「お姉さまって?」
「つまり、子供のお母さまよ。」
「じゃ、お兄さまの奥さま!」
「ええ。」愛嬌ぶかい路子の茶がかった眼が、ちょっと皮肉な笑いをうかべた。
「それは、どういう意味で!」
「貴女、私の義姉とお会いになったことないかしら。」
「一度くらい、お目にかかりましたわ。」新子は、いつか劇場か何かで、路子といっしょにいるときに、ちょっと挨拶したことを思い出した。
「そうだったかしら。私、貴女なら辛抱して下さると思うけれど、……」
路子は、かわいい苦笑をつづけた後、
「兄は、とてもいい兄ですの。温良で、物分りがよくって、品行方正で……自分の肉親の兄をほめるのはおかしいけれど……」と、路子はしばらくは顧みて、他をいう形だった。
(辛抱とは、どういう意味の?……)新子は、路子と視線を合わしたまま、先を促した。
「兄は、貴女もご存じのとおり、長く米国におりましたから、すっかりレディ・ファストなのよ。それもすこし極端なんですの。それに、義姉は、私の父には主人筋に当る子爵家のお姫さまでしょう。兄も、死んだ母も、三拝九拝して、来て頂いたんでしょう。だから、家じゃまるで、女王さまのような勢いよ。兄なんか、一生文句の云えない呪文にかけられているように、頭が上らないのよ。前に来ていた家庭教師の方は、義姉があまりに、家庭教育ということに、理解がないと云って憤慨して出てしまったのよ。だから、貴女は義姉のすることを出来るだけ気にしないことが、大切だと思うのよ。そういうことは聡明な貴女なら何でもなくやって下さると思うのよ。」
「お義姉さまは、全然お子様達の勉強に、無関心でいらっしゃるの、それとも何かにつけて、干渉なさるのですの。」と、新子は訊いた。
「どちらでもないの、まるで気まぐれなの。全然無方針でいて、それで、ときどき何か云い出すらしいのよ。」
話の様子だけで察しても、頗る難物であるらしい。だが、新子はどうせ働くからは、出来るだけ、やり甲斐のある難局に身を処してみたい気持だった。
「ほら、国語の杉原先生が、新子さんのことをいつか、賞めたじゃないの。貴女なら、どんなむずかしいお姑さんだって、勤まるだろうって、南條さんは、お姑さんの機嫌ぐらいとるのは朝飯前だろうって、それで私は貴女ならきっと見事つとめて下さるだろうと思ったのよ。」
「いやだわ。あれは、杉原先生が私を皮肉ったのよ。」
「皮肉の意味もあったかしらん。でも、結局は貴女が、クラスで一番悧巧だということを認めていたのじゃない?」
「まあ、路子さんは、いろいろなことを覚えていらっしゃるわねえ。」
学校時代の話が出たので、急にむかしの親しみが、よみがえって来て、新子は路子の好意をうれしく思った。
「とにかく、私出来るだけやりますから、お兄さまにお願いして頂きたいわ。」と、新子は言葉を改めて頼んだ。
「ええ、いいわ。私だって、貴女が来て下さったら、お友達ができていいのよ。出来るだけ、うまく話して来るわ。しばらく、待っていて下さらない?」と、路子は立ち上って奥に入った。
新子は、ひとりとり残されて、路子の云う義姉のことを考えていた。
すると、一度しか会ったことのない前川夫人の面影が、おぼろげに頭の中に、浮び上って来る。
きかぬ気らしい張りのある眼や、唇元や、背の高い、つんとした貴族的な態度までが、路子の言葉を裏づけているような気さえした。
そして、家庭教師などいう仕事も、決して生やさしいものではないとつくづく思った。
そんなことを考えながら、新子が豊かに生い繁った庭の樹立に、眼を移してしばらくぼんやりしているときだった。
扉が、つつましく滑らかに開いて、人かげがした。新子が、ハッと視線を上げると、思いがけなくも、路子の兄の準之助氏が、独り落ちつき払った愛想のいい物腰で、部屋の中へはいって来た。
新子が、あわてて立ち上ろうとすると、
「いや、どうぞそのままで……」と、気持のいい潤いのある、男らしい中低音がそれをさえぎった。
でも、新子は立ち上って、意味もない微笑と笑顔で、初対面の挨拶をすませると、準之助氏は、椅子をちょっとずらせて、新子の真向いに腰をおろした。
上品に刈りこんだ頭、背がすらりと高く、色白く眼が柔和で、四十歳以上と聞いていたのに、三十代に見える若々しさであった。
どことなく明治文壇の鬼才川上眉山の面影あり、近くはアドルフ・マンジュウの顔を、少し四角くしたような、瀟洒たる紳士であった。
口の重い人らしく、何もいいかけないので、新子はかるく腰をうかせると、
「路子さんまで、お願いしておきましたが、私で勤まりますようでしたら……」と、挨拶した。
「はあ。今日は、雨が降りますのに、ご苦労でしたね。今子供達も参るでしょうが、どうもわがまま者ぞろいで、困っているのです。この二十日から、夏休みになりますので、本当は九月から、お願いしてもいいのですが、貴女のご都合がおよろしければ、休み中軽井沢の方へ行きますので、あちらへ来て頂いても、よろしいのですが……」と、手をのばして、シガーボックスから、キリアジを取り、火を点じると、やがてゆるやかに紫煙を漂わせた。
新子は、いかにも物なれた優美さに、ある驚きをさえ持った。路子さんが、もっと兄さんに似ていたら、どんなに美しかっただろうと思ったくらいである。物を云う、その声の調子にさえ、ゆかしい薫りのようなものが、感ぜられた。
その上、準之助氏の話しぶりでは、もう自分を雇ってくれることは、定っているようなものであった。
働くと決心した以上、軽井沢へ付いて行って、早く子供達になじんだ方がいい。九月まで待っている内に、前川家の事情が変ったりしては、いけない。殊に、奥さまは、気まぐれだというんだもの。
「はあ。どうぞ、私はどこへでもお伴いたしたいと思います。」
呼鈴に答えて、はいって来た女中に、
「子供達をここへよこしてくれないか。」と、命じた。
間もなく、小さい足音が廊下に入り乱れて、扉があくと、路子に連れられて、兄妹がはいって来た。前川氏は、ふり返って十二になる男の子の頭に手を置くと、
「小太郎というんです。」と、やさしく名を呼び、父らしい微笑の眼で新子を見た。
短いズボンの下に、かぼそい足が、むき出しになっていた。モジモジしながら新子に頭を下げると、すぐ父の肩につかまった。
「これが祥子。」前川は、今度は右側の女の子の頭に手を置いた。
「この子は、まだ家庭で勉強させる必要はないんですが、兄がやるもんですから自分もしたがってきかないんです。この方は、オマケですな。」
「まあ、かわいいお嬢さん!」
新子は、心からそう思った。大きな眼を早くも、クルクル廻して、人なつかしそうに、早くも新子にほほえみかけながら、子供らしい元気なおじぎをすると、傍らの若い叔母の手にぶらさがった。
路子は、ぶら下がられて、中腰になりながら、
「さっちゃん、貴女、お使いが出来るかしら……出来ないわねえ。きっと。」
「ううん。出来る、何でも出来るわ。何……」
「ではねえ、ママのところへ行って、およろしかったら、応接間へいらしってと、申し上げて来てくれない……」と、祥子にいってから、兄に、
「ねえ。お兄さま、お義姉さまにも、今ついでに会って頂いた方がいいでしょう?」と、兄の承諾を求めた。
何事につけても、義姉に対して気をつかっているらしい容子が、新子の心を少し重くした。
「ああいいだろう。」前川氏はおうように肯いた。
女の子はもう一度新子を見て、目をクルクルさせると、一散に部屋を出て行った。
しばらくすると、かわいい足音が廊下にきこえて、前よりもっと勢いよく、呼吸をはずませながら、かけ込んで来た祥子は、父と叔母と新子と三人を等分に見廻しながら、父に、
「ママは、今ご用ですって! しばらく待っていて下さいって──」
「そう、ありがとう。」と前川氏は、子供をいたわったが、すぐ新子に、
「しばらく、どうぞ。」と、挨拶した。
子供に関する話題を中心に、三人の間にしばらく話が交わされ、二十分ばかり時間が経ったが、夫人は容易に現れては来なかった。
(何につけても、こんなに勿体ぶるのであろうか。家庭教師の候補者などには、そうやすやすとは会わないという肚だろうか)そんな邪推が、新子の心に、ようやく萌し始めた。
夫人の姿は、現れずして三十分近く経った。
準之助氏はたまりかねたと見え、
「今度は、お前が行って、ママを呼んでおいで!」と、小太郎を迎いにやった。
いつかまばゆいシャンデリヤに、灯が入って、雨の日の昼の光では、やや重苦しく冴えなかった部屋が、急に花やかに照り返った。
やっと、廊下にほのかな衣ずれの音がしたかと思うと、半ば開かれた扉から、夫人が長身の姿をあらわした。
それを見ると、新子はいちはやく椅子をはなれて立ち上った。
その新子に、夫人はほほえみもせず、頭の高い挨拶をして、良人と並んだ椅子にだまったままで腰をおろした。
主人からは、対等に扱われていたのが、たちまちドスンとばかり、雇人志願者の位置に突き落されているのであった。
いつか劇場で見た感じよりも、ずーっと若々しく、顔の色は浅黒く生々としているし、高貴に取りすましながらも、眼にも驚くほどの艶があり、気品と明快さと堂々たる奥さまぶりで、準之助氏と並べて見劣りせず、夫人がそこに腰かけたことで、この応接間の画面の感じは、その仕上げを受けて、最高の生彩を発揮したといってよかった。
眼立たないが、贅沢至極な好みの衣裳で、気持のよさそうな博多の単帯で、胴のあたりを風情ゆたかにしめあげていた。
新子は、路子の注意を聴いているし、自分に会うために、衣物を着換えたのかと思うと、いよいよかたくなって、すぐには口がきけなかった。
「この方が、南條新子さんだ。」と、準之助氏が紹介してくれたので、
「どうぞ何分よろしく。」と、新子が再び立ち上って挨拶すると、
「お初に。お名前はおききしていました。」と、さすがにかるい愛想笑いを見せた。
「どうぞ、勤めさして頂きたいと存じます。」と、新子がいうと、
「はあ。」何かふくみのあるような返事である。
「路子のお友達だし、いいだろう。」と、準之助氏がとりなしてくれると、
「ええ。それは、結構なんですの。でも、家庭教師として、家へ来て頂くとすれば、路子さんのお友達だからといって、ご遠慮ばかりしていられないところも、出来ますから。」
新子は、急にこの美しい応接間に在って、大きな蛾をでも見つけたように、襟元寒い思いがした。物を云うとき何か、一ひねりしてみないと気のすまない性格だろうか、このような言葉は初対面の折になど、云わなくてもよい、いやがらせであると思って、気持がわるくなりかけたが、ここが路子の注意だと思い、
「はあ。どうぞ、万事奥さまのお指図どおり出来るだけの努力を致したいと思います。」出来るだけ素直に、出来るだけほがらかに答えた。
新子が出来るだけ、下手に出ての哀願に、夫人はニコリともせず、
「はあ。宅とも、よく相談しまして、二、三日内に、ハッキリしたお返事をいたします。」と、どこか打ちとけない返事であった。
もう、すっかり定ったことと安心していた新子は、急に、夫人の手で三、四尺後へ、押しのけられたような気持であった。
新子は、急にバツがわるく路子か準之助かが、何か一言取りなすような言葉をはさんでくれることを望んだが、二人とも何ともいってくれなかった。
「では、何分よろしく。」
新子は、自分の身が、みじめに感ぜられ、モジモジしながら、暇を乞おうとしている機先を、夫人は見事に制して、
「まあ。およろしいじゃありませんか。食事の用意を申しつけてありますから、路子さんや子供と一しょに召し上って下さいませ。私も、ご一しょだといいんですけれど、ちょっとこれから、外出致しますから、あしからず。」といいさして優美に腰を浮かせると、新子が眼のやりばにこまったほど、色っぽい眼差しで、夫君を見おろして、
「じゃ、貴君、私は行って参りますから。」と、やさしく、しかし、誇りかに挨拶すると、子供達の方には眼もくれず、部屋を出て行ってしまった。
子供達は、それでも急いで母の後を追った。
(なるほど、これは相当なものだ!)と、新子は思った。もう自分を雇ってくれることが定っていながら、二、三日の内に通知するなどいうのは、何事にも勿体ぶろうという夫人の趣味であろう、と新子は見てとった。
それから、新子を晩餐に招じておいて、それを路子や良人への目つぶしにして、スラリと外出してしまうなど、心得たものであると思うと、新子は、これは、路子のいった通り、生やさしいご主人でないと思った。
自分に会うために、着物を著換えたのだろうと思ったことなど、たいへんなうぬぼれだった。
それに第一、日曜の晩に、良人と子供とを放りぱなしにして、外出する! 普通の奥さまには、とても出来そうもない芸当を、アッサリと、威厳と自信とに充ち、優美な態度を崩さずに敢行する、それは新子にとっては、一つの驚異だった。
だが、それを見送って、のどやかに眉一つ動かさずにいる準之助氏の態度も、落着いたものだった。(こんなことに馴れ切っているのかしら、それとも止むを得ぬ外出先なのだろうかしら)などと、新子は去った夫人と残っているご良人とのことを等分に考えていた。
そのとき、食事を知らすらしい支那風の銅鑼が鳴りひびいた。
「じゃ、路子、南條さんを食堂へ案内してあげなさい。」と、準之助氏が面を吹いて寒からず楊柳の風といったような、おだやかな声でいった。
家を一足出ると、ストッキングに開いている穴のことなどはすっかり忘れて、美和子がうきうきと、訪ねて行った先は、四谷からはさほど遠くない原宿であった。
その昔、下町の華族女学校といわれたほど、校風も生徒も華手である美和子の女学校は、お友達もみな相当の、お金持の家の娘ばかりであった。
美和子の親友相原珠子の家も、日本橋の大きな海産物問屋で、原宿の住居も新築のすばらしい邸宅である。
日本間にすれば、三、四十畳も敷けそうなサロンに、この天気の悪いのにお客が十人近く集まっていた。ほとんどクラス・メートばかりなので美和子は、はればれと、
「今日ア。」と、おどけて、珠子のいるソファにトンと腰をおろした。
「美坊、おそいんだもの。心配したよ。どうしたのさア。」と珠子がいった。
「だってエ。相変らず、お姉さまのガチがうるさいもの、機を見て出て来たのさ。」
家にいる美和子とは、似て似ぬほど、ほがらかで、しかもお互に男のような、言葉づかいの乱暴さであった。
「とても、今日ラッキイなのよ。お兄さまのお友達で、新音楽協会の練習所にいる人で、とてもハンサム・ボーイを、お兄さまが呼んであるんですって……」
「へえ──」
キラキラ笑いにうるんだような美しい瞳をみはって、一わたり友達を見廻すと、美和子は、
「で、解った、道理で、ター公のお化粧が念入りだとさっきから、感心していたのさ。」
「チェッ! 生意気いうな。こいつめ!」と、殊子に肩先をつねられそうなのを、仰山に飛びのいて、
「めんちゃい! めんちゃいっ!」と、向う側のソファに逃げた。笑いや、色や香りや、花園のように小鳥籠のように、華やかで、騒々しかった。
その騒ぎの内に扉が開いて、珠子の兄が、笑いながら立った。その背後により添うて、いわゆるハンサム・ボーイ君が控えていた。みんなは、ちょっと神妙にわるびれて取りすました。
が、美和子はいきなり叫んだ。
「いやだ! 美沢さんじゃないの。」
美沢も、美和子を見つけると、
「美和子さん、いらっしっていたんですか。僕が来たからといって、いやだはないでしょう。」と、この年頃の娘さん達は、扱い馴れているというように、ゆったりした容子でまず美和子にほほえみかけて、他のお嬢さん達にも、ごく自然な会釈をすると、空席に腰をおろした。
「ねえ、ちょっと美沢さん。貴君好青年かしら?」
「これはどうも……」物に動じない快活な青年の顔にも、てれくさそうな色がひろがった。
お嬢さん達は、笑いのコーラスだった。
ひとしきり楽しく笑いおわると、若い沢山の瞳が、一斉に美沢の方を向いて、パチパチとまたたいていた。
珠子の兄が、頃合を見つけて、
「南條さんとは、お知合いだったのですか。僕の妹珠子です。美沢直巳君。」と、こんな風に紹介した。
「ほほはほほ、珠子さんが、新音楽協会なんて、おっしゃるから、解らなかったのよ。ヴァイオリンの美沢先生といえばすぐ分ったのよ。それに、ハンサム・ボーイなんていうから、いよいよ解らなくしたのよ。」美和子は、なお悪ふざけを止めなかった。
美和子のそうした態度は、美沢が一歩部屋にはいると同時に、たちまちうら若い令嬢達の注視の的になったのを見てとって、自分がいかに美沢と親しいかを、お友達に見せびらかしたいという肚もあったのだ。
美沢が、美和子の姉の新子と知り合ってから、もう二年になる。二人は、友人であるといってもよいし、愛人同士であるといってもよいような、即かず離れずの間だった。
しかし、新子も恋愛だけに夢中になるのには、聡明すぎたし、美沢は美沢で、恋愛に夢中になるのには、あまりに生活の負担が重すぎた。
かれは、音楽学校を出ると、すぐ母と弟とを養わねばならなかった。だから、かれは卒業と同時に、小さい私立女学校の音楽教師になってしまった。しかし、かれの芸術的野心や情熱は、そうした生活では充たされなかった。
その上、かれは美男であったから、女学校の教師には不適任であった。
思慮もなく、ただ無分別に、うろうろと、あこがれの瞳をよせる少女達に、小突きまわされて、かれは当惑した。その上、周囲の教師達の猜疑と嫉妬との狭量な眼もいやだった。
結局一年と一学期辛抱した後、このほど思い切って、好きなヴァイオリンの試験を受けて、新音楽協会の練習所員となった。
初給は四十五円。教師のときよりも、ズーッとわるかった。新子に結婚の申込などする勇気はいよいよなくなった。しかし、公演もあり、放送もあり、技を磨くには絶好の職業であった。芸術家としてのかれの人生の曙光は見えた。
新子には、職業替えをしたについて、すぐ手紙を出した。新子からの返事の中に、
練習所の方が気分がよろしいとのこと、結構ですわ。でも、月給は安いんでしょう、貴君は、自尊心がありすぎるから、蔭ながら心配していますわ。でも、生活の問題なんて、芸術家の貴君には、下らないことなんでしょう。……私は、この頃だんだん愛嬌者になって行きますわ。……
というような言葉があった。
かれは考えさせられたり、何だか腹が立ったりして、そのままになっていた。
新子は、彼女の愛人のことについてなど、一切妹に喋らなかったから、美和子は、彼が先生を廃したのを知らなかったのである。だから、新音楽協会の人といわれて、まごついたのである。
それに、美和子が、彼の好青年ぶりをからかっているのも間違っていた。もっとも、美和子も冗談半分にいっているのであろうが、彼はたしかにあるタイプのハンサム・ボーイだった。中肉中背、やや整いすぎて気むずかしそうに見える顔立ちではあったが、眼が向き合えば、心清げに笑いかけるのが、少女達にとって一つの魅力らしかった。とにかく、少女達の注意が彼に集まれば集まるほど、美和子は美沢をからかったり、弥次ったりした。しかし、どんなにからかわれても美沢は愛人の妹である美和子には、絶えず親しい微笑をつづけていた。
折を見て、
「新子姉さんは?」と、美和子に訊いた。
「私、お姉さんの番人じゃないことよ。」いたずらっこらしい眼をクルクルさせた。
「これは失礼! でも、貴女がお出かけになるときは、お家にいらっしゃいましたか?」
「ええ。それはいたわ。」
「じゃ、今日多分お家にいらっしゃるでしょうね。」
「いるかどうか、今日帰るとき私を送っていらっしゃれば! 分りますから。」
「じゃ、そういうことに致しましょうかな。」と、美沢は結局美和子に、うまく送らされる約束をしてしまった。しかし、彼も美和子を送るという口実で、新子を訪ねたかった。
そして、新子に自分が、職業を換えた気持をよく説明して、かの女の手紙にいささか現れている皮肉や批評を取り消してもらいたかったのである。
だが、晩餐までは、トランプや、新ルードや、カロムなどでさわぎ廻り、晩餐がすんでからは、レコードをかけてダンスが始まったので、時間はグングン早く進んだ。
美沢が、明朝八時から練習があるので、七時前に起きなければならぬのを思い出して、急に暇を告げた時は、九時を少し廻っていた。
もう、美和子を送って、新子に会おうなどという考えは捨てていた。
だのに、美和子は美沢が、帰りかけたのを早くも見つけて、
「美沢さん。帰っちゃうの。私も、帰るから、送って頂戴ね。」先刻の約束をちゃんと覚えていて、みんなの前で、宣言した。
美和子は、お友達にからかわれながら、美沢に寄り添ってその家を辞した。
お友達のひやかしや、いろいろなお別れの言葉を背中に聞き流して外へ出ると、まだぬか雨がふりしきっていて、七月とは思えないほどの、うすら寒い夜であった。
「私の傘つぼめちゃうわ。貴君のに、入れてね。」美和子は、自分の小さい洋傘をつぼめると、美沢の手にすがって来た。
小柄で、まだ子供子供している上に、愛らしくはあるが、色っぽくはないので、そんなに近々と身を寄せられても、てれくさくないばかりか、肩に手をかけて歩いても、恥しくないほど、時々と愉快である。
「美沢さん、家へ送って下さるんでしょう?」
「そうね。遅くなったからな……」
新子に会えば、この上遅くなるし、それに新子の家では、姉妹達がいて、思ったことも話せないし……と美沢は考えた。
「ウソつき!」水だまりをよけながら、美沢の肘に、すがっていた美和子の手に重みが加わった。
「あした、八時から練習があるんですよ。明後日放送だもんだから……」
「あなた先生よしたの本当?」美和子はまだ半信半疑であったらしかった。
「本当ですとも。」
「いいわね。私、大賛成だわ。美沢さんは、天分があるんですってね。」お世辞ではあろうが、新子の手紙よりはズーッとうれしかった。
二人は、バスの停留場に出ていた。
「これから、銀座へ出ても、もうお店起きてないかしら?」
「まだ大丈夫ですよ。」
「ねえ、美沢さん。一しょに銀座へ行かない?」
「何か用事があるのですか?」
「靴下を買うのよ。これ穴が開いているんですもの。お姉さま、お金ちっとしかくれないから、一円五十銭のを買うの。美和子悲しいわ。」見栄もなく、正直になげくので、美沢は何となくいじらしくなった。
「でも、僕はあした早いから……」
「いいじゃないの。私、円タクをおごるわ。」
「円タク賃ぐらい、僕が出してもいいけれども。」
「じゃ、行きましょうよ。ねえねえ。」美和子は、両手で洋傘を持っている美沢の手を、一、二度ゆすぶった。
美沢は、とうとう通りかかった円タクを呼び止めて、銀座まで五十銭に値切った。
時間が遅いので、新子に会うのを断念した自分が、美和子につき合わされて、銀座へなどと思うとくすぐったい思いがしたが、しかし朗かさそのものである美和子と一しょに居ることも、愉しいことに違いなかった。
第一、美和子は、新子のように批評的に、皮肉に人を見たり考えたりしなかった。
美和子が、靴下を買うのにつき合ってから、ジャーマン・ベイカリで、一しょにお茶を飲み、数寄屋橋まで歩いて、別々の電車に乗り、美沢は本郷弥生町の家に帰って来た。
ささやかな門のついている暗そうな借家であった。
狭い玄関に上りかけたとき、母が出迎えて、
「お帰り、ほんの一足ちがい──新子さんが、八時半頃お見えになって今しがたまで、いらっしたのよ。」と、云った。
「へえ!」内心の驚きと口惜しさとをこらえて、無愛想に云うと、二階の書斎へ上って行った。美和子などにつき合ったばかりにと思うと、新子にひどくすまない気がした。
二階は、八畳一間。床の間に、清々しい白百合と、根じめにりんどうの花が生けてあった。花をよく持って来てくれる新子が、自分を待つ間の手ずさみだと思うと、銀座行きがひどく後悔されて来て、何かしら自分と新子との愛情に凶相が萌したような気がした。
彼は、黙々として卓子の前に坐った。と、手元に彼の使っている白い封筒がふくらんで、きちんと、置かれているのに気がついた。
思いがけない嬉しさに、救われたような気がして、乱暴に封を切った。
私とうとう働くことになりましたの。家庭教師です。今日、お目見得、多分採用される見込み、前川準之助って実業家の家……ご存じないかしら、私のお友達のお兄さんよ。
子供さん達は、みな素直な良い子らしいの。ただ前川夫人が少し難物、一ひねりも二ひねりもありそうな人物。でも、私おおいに奮闘してみるつもり。私が、働かないと、だんだん家中干ぼしになる怖れあり、貴君は家庭教師など、不賛成かもしれませんが、どうかあしからず。
二、三日の内に軽井沢へ行きます。貴君もお忙しいようだし、多分秋までお目にかかれません。お花を買って来て、よかったわ。あまり、このお部屋殺風景じゃございません? 物干しに、朝顔の鉢でも、お置きになったらどう? 私のような、麗人を迎えるのに、ふさわしくないわ。レコードだけじゃ、物足りないじゃありませんか。
でも、レコード聞かせて頂いたわ。ラローのスペイン交響曲、とてもいいわ。貴君を待っている気持にぴったりしていたかもしれません。
お煙草、チェリイが一日に四箱ですって、お母さまに伺ったのよ。二箱になさっちゃどう?
直巳様
美沢は、美和子につき合った浮気心を、我ながらいよいよ情なく思った。
新子は、十一時まで美沢を待っていた。かの女は、美沢が近頃猛練習で、忙しいのを知っていたから、今宵会わなければ、軽井沢へ行くまでに、会う機会がちょっと得られないことを知っていた。
しかし、三時間近く待っていてさらにそれ以上待つのは、自分の心の底を見すかされるような気がしていやだった。
十二時近くまで未練がましく待って、それでももし帰って来なかったりしたら、いよいよ引っ込みがつかなくなると思ったので、十一時になったのをキッカケに、体よく美沢の母に暇乞いして、帰途についた。
新子は、美沢と交際ってから一年以上になるが、その間に美沢の欠点も美点も、すっかりのみ込んでいた。美沢が芸術至上で、自分の芸の完成にどんどん邁進して行くところは好きだった。金は無くても、芸術貴族として、世俗に対し、気むずかしそうに、眉をひそめているところなど好きであった。しかし、それでいて彼女の現実的な考え方から、時々美沢に、「ヴァイオリニストで、ちゃんと一家を持って行っている人は、日本に何人いるのかしら。」など云って、美沢をいやがらせていた。
実生活でも、美沢は質屋へ行った話をしながら、時に驚くほど高価なネクタイをかけていたり、趣味のいいステッキなどを持っていた。
貧乏でも、貧乏たらしくないところなど好きであったが、しかし結婚すべき良人としての美沢を考えると、前途は遼遠としていた。
どちらかに、馬車馬のように猛進する情熱のない限り、金のないインテリ階級にとって、結婚難は現代の宿命の一つだった。
だから、二人とも結婚について語ったり、愛について語ったことはなかった。しかし、二人の間は美しいひもに結ばれているように遠慮のない交際ぶりから、ちょっといさかいをしても、一週間も経てば、元通りになり、しばらく手紙も書かず、会いもしないでも、常にお互に快く思い起していた。
だから、会わずにこのまま、軽井沢へ行ったところで、二人の間にどう影響するという間柄ではなかったが、でも新子は何となく物足りなかった。
電車から降りて三町ばかり、もう人通りの少くなった路次を通って行く、新子の心はさびしかった。
と、ハイヒールの靴音が、大またに自分を追うて来たかと思うと寝しずまった町並の家の安眠妨害になりはしないかと思われる大声で、
「あら、新子姉さんじゃないの。今頃、お帰り!」と、何かうれしいことがあるらしく、おのずからはずむ声高く呼びかけたのは、思いがけもない妹の美和子である。
「まあ、美ちゃん、こんなに遅く!」と、新子は、つい自分の遅いのも忘れて、姉らしくとがめた。
「だってえ。相原さんのところに九時までいたんでしょう。それから、靴下を買いに銀座へ廻ったんでしょう! 遅くなるはずよ。それよりも、お姉さん、わたしとてもいい人に逢っちゃったのよ。」と、息をはずませている。新子は、妹の逢った人など、およそ興味がないといったように、だまって足早に歩きつづけていると、
「ねえ。お姉さん、誰だか当ててみないこと。」
「知らないわよ。」少し邪慳につっぱねると、
「ううん。お姉さまの知っている人よ。」と、思わせぶりな、口のききように、新子もやや釣り込まれて、
「だあれ。」と訊くと、
「当てなきゃ云わない。」と、今度は妹の方でじらしにかかるので、
「じゃ聴かない。」と、新子ははしゃいでいる妹の気持に、つき合うのが少しうるさくなっていると、
「お姉さんのとてもよく知っている人よ、私、相原さんのところで、逢うなんて、とても意外だったのよ。」と、甘えかかって来た。
(美沢かしら)と、さすがにわが愛人の名を、最初に思いうかべていると、妹は素直に、
「美沢さんに会ったのよ。」と、いった。
「そう。」と、うらさびしく答える姉の返事など、待っていず、
「珠子さんの兄さんが、新音楽協会の人で、とてもハンサム・ボーイを連れて来るといって騒いでいるんで、私どんな人かと思って待っていると、はいって来たのは、美沢さんでしょう。私、とてもおかしかったわ。美沢さん、先生をよして(新協)へ入ったんですってね。」
「………」新子は、何か悲しく、返事が出来なかった。
「お姉さん、ご存じなかったの。先生、およしになったんだって! だから、私大賛成だと云ったわ。だって、あの方、天分がおありになるんでしょう。いつか、お姉さん、そうおっしゃっていたわねえ。女学校の先生なんかしているより、よっぽど、その方がいいわ。ねえ、そうじゃないこと。」
美沢のことを、何かわがもののように話している美和子が、まだ年端の行かぬ妹とはいえ、何かうとましく、新子はいよいよおしだまっていた。
赤い産婆の軒燈のついた家に添うて、わが家のある路次へ曲るとき、
「美沢さんという方、思いのほか親切な方ね。」と、美和子は、楽しげなといきのようにいった。
姉妹が帰ったとき、母はまだ起きていた。
圭子は、二階で勉強しているとみえて、階下へ降りて来なかった。
美和子は、すぐ二階へ上ってしまったが、新子は母と二、三十分、着物を着換えながら、前川家のことなど、少し話してから自分の部屋へ上っていった。
美和子は、新子の部屋で、一しょに寝ることになっているので、もう床の中へはいり、うつぶせに雑誌を見ていたが、後からはいって来た姉を上目づかいで見た眼には、まだ楽しそうな微笑があふれて、もっと、何か話したそうである。
新子は、自分が美沢の家で、待ちくらしている間、妹が美沢と楽しく遊んでいたのだと思うと、心の平静が失われて、この上不愉快なことを聴くまいと、クルリと背を妹に向けて、床にはいった。
「ねえ。お姉さま!」美和子が、姉の背中に話しかけた。
「ほら、靴下が破けたから、買いたいって、云っていたでしょう。相原さんのお家を出てから、気がついたの。だから、私美沢さんとお別れして銀座へ行こうと云うと、あの方、ご一しょにいってあげましょうかって、……円タクを停めて下さったのよ。そして、靴下を買ってから、ジャーマン・ベイカリでお茶のご馳走になったの。あの方見かけよりは、ずーっとご親切ね。家へいらっしゃる時なんか、つーんとしていていやだったけれど、二人ぎりでお交際すると、とてもいいわ。気に入っちゃった。フレドリック・マーチの小型みたいで……」
新子は、背中一杯に針をさされるような気がした。
「お姉さま、聴いていらっしゃるの……」と、新子の沈黙をゆりうごかしてから、独り言のように、
「美沢さん、この頃、とても忙しいんですって──新協では、才能次第で、グングン月給が上るんですって……だから、美沢さんは夢中で勉強しているんだって、いっていたわ。明後日放送があるんですって、だから明日は八時までに練習所へ、顔を出さなきゃいけないんですって……練習所は、荏原の方だから、早起きしなければいけないんですってね……」
美沢の噂をするのなら、せめて(お姉さんによろしくといっていたわ)とか、(お姉さんに会いたいといっていたわ)とか、あっていいはずである。美沢は、そんなこと、一言も口にしなかったのだろうか。新子は、さすがに少しジリジリして、
「美沢さん、別に私のこと何か貴女に訊かなかった?」と、背を向けたまま訊ねた。
思いがけない姉の積極的な問いに、美和子は、ドキッとした。
(私を送ってお姉さんに会いに来るはずだったのを、私が銀座へ連れ出したの)などと答えては、たいへんだと思ったので、
「ううん。何も。」美和子の声は、低く小さく、さりげない夜風のよう。それを聞いた新子は、急に淋しく胸がふさがった。
一家の生活問題に及ばずながら立ち向おうと、立ち上ると、その隙間に側に寝ている肉親の妹が、早くもわが愛人をかき乱そうとするのか。新子は、全身をながれる悲しみを感じて、瞼の裏があたたかくぬれてきた。
久しぶりの青空である。
午後からは、カッと暑くなりそうな、日曜日である。十六、七日の藪入りを雨に取られたので、そのつぐないをしようとする小店員。リュクサックを肩に、一晩泊りのハイキングに出るオフィス・ガールや青年達。街も活気に充ちていたが、上野駅は一時に夏が押しかけて来たよう──嬉しげな靴の音や、はしゃいだ下駄の音、午前十時何分かの登山列車は、ほとんど空席のないほど、混雑していた。
新子は、採用が定って、前川家の人達よりも、一日遅れて、軽井沢へ来るよう命ぜられた。
「羨ましいわ。これから東京は暑くなるのに、新子姉さまだけが別天地にいられるわけね。いいわねえ。」と、美和子がいうと、圭子までが、
「私も新子ちゃんみたいに、夏休み中だけでも、家庭教師をやればよかった。」と、新子が何か面白ずくで家庭教師になって、涼しい旅行が出来、うまくやっているというような顔をしていた。
「身体を気をつけてね。奥さまや、お子様達の気に入るように……」
車の外に止まっている母は、初めて家庭から離れる娘の上を、ただわけもなく不安がっていた。
「お姉さん、私一ペンだけは、遊びに行ってもいいでしょう。」姉の荷物を網棚に置きながら、美和子がいうと、
「ダメよ。」と、にべもない返事に、美和子はしょげた。
車の外の母が、
「軽井沢は寒いだろうから風邪を引かないように……」と、窓から首をさし入れて、念を押した。
圭子も美和子も、次々に乗って来る人達に押し出されるように、プラットフォームに降りてしまった。
ベルが鳴った。
「さよなら。」
「気をつけてね。」
車が動くと、見送人は吹き寄せられたように取り残される。はしゃいでいる美和子は、汽車と一しょに走って、フォームのはずれまで来て手を振った。
新子は、とうとう美沢とは会わなかった。美沢は、前夜の手紙に対し返事を速達でよこし、急に会いたいといって来たが、それと同時に軽井沢行きが定って今日の出発となった。
会いたくもあったが、しかし会わないで行く方が、余情が多いようにも思った。
どうせ、簡単に結婚できないとすれば、ある間隔を保っていた方が、お互のためにいいのではないかと思った。
それに、美和子などが、あんな調子で甘えかかっていても、そうやすやすとは心をうごかす美沢でないことを、新子は信じたいと思った。
だから、美沢のことは、比較的安心が出来た。心配なのは、やはり準之助夫人である。昨日夫人からもらった採用通知の電話の最初の言葉なども、嫌だった。
(主人ともいろいろ相談致しましたが、こちらはどちらでもよろしいんですけれども、貴女が非常にご希望のようですから……)という切り出しだった。何事にも高飛車に、上手から出ようという態度が、二、三分間の電話の中でも、新子を不快にした。
生活への最初の出発、昔からいう初奉公の不安、それに難物の夫人、東京を離れた刹那から、新子はやはりかるい物思いに沈んだ。
(あの夫人と衝突して、半月や一月でよすくらいなら、いっそ最初から行かない方が……)と、考えたりした。しかし、夫人が昨日の電話での物のいいぶりや態度でこちらを不愉快にさせながら、
(お礼は、五十円くらいは、さしあげられると思いますの)と云ったことは、彼女をよろこばした。一時は、夫人に対する不快を忘れさえした。
その上、新子は子供に好かれる性質であったし、彼女自身子供に愛着を感じ、子供と心から遊べる性質であった。
だから、前川家で、一夜晩餐を共にしただけで、もうすっかりお仲よしになり、帰りには彼女の肩につかまった小さい兄妹を考えると、彼女は頼もしくも思えたし、ある楽しみをも感じた。
高崎あたりから、うすぐもりの空となり、熊の平では、かしこの峰、ここの谷に、うす白い霧がまい下りて、ひんやりと浮世ばなれのした風が、窓から出した頬を吹きわたるのだった。
(いいわ。奥さまが、我慢できなければ、他に就職の途を見つけるとして)と、唇にしみじみ山の気を吸いこむと、どうやら彼女の気持は明るくなったような気がした。
軽井沢の駅には、小さい兄妹が、十六、七の女中につき添われて出迎えに来ていた。
青い草をもてあそんでいた小太郎が、いちはやく彼女を見つけると、草の茎で窓をポンポンと叩いた。
祥子は、
「先生、もっと、早い汽車でいらっしゃればいいのに、私とても待ちどおしかったのよ。」とおませな口を利きながら、すぐ新子の手にすがって来た。
やや憂鬱であった新子の車中の顔は、子供達の歓迎で、のどかなきよらかな笑いでかがやかしくなった。
「路子叔母さまは、いらっしゃらないんですの?」と、新子は、子供達に訊いた。
「路子さんは、房州よ。三谷の伯父さまのところよ。」と祥子が答えた。
(お母さまは?)と、訊きたかったが、両親のことは、何かにつけ訊かない方がいいと思ってよした。
待っていた自動車に乗った。
湿った街道に、うす日がさし、まるで砂ぼこりのような霧が、サッサッと舞い上っていた。
別荘は諏訪の森の近くであった。
表向きは、天然のひろやかな庭に二つの石柱が建っているばかりのように思えるのに、小径を辿って行くに従って、両側の白樺並木の、しだれた若い緑の繁みごしに、ヴィラの傾斜のなだらかな屋根と、カーテンの揺れている白い框の窓が見え、繁みが切れると、玄関のポーチまで、一面の花園で、その真中を気持のよい芝生の小径が通っている。
ポーチの脇に、兄妹の緑と赤との愛らしい自転車が置いてあった。
別荘は、しんとしていて、絶えずよい草の香りのする風が吹き、しきりなしに鳴く郭公の声が遠く近くきこえるばかりであった。
運転手が、新子の荷物を運び入れてくれると、奥から三十ばかりの女中頭らしいのが出て来て、
「いらっしゃいませ、どうぞ、お部屋をご案内したします。」と、どんどん先へ立って行こうとするので、
「あの、奥さまに、ご挨拶したいのですが……」というと、
「奥さまは、来週の水曜まで、東京にいらっしゃいますので……」
「まあ……じゃ、こちらは……」と訊くと、
「旦那さまと、お子さまだけでございます。旦那さまは、ただ今ゴルフへ行っていらっしゃいます。」と云う返事だった。
廊下が、一段トンと低くなって、そのとっつきの洋室が、新子のための部屋だという。
庭に面して、二方に窓があり、淡いみどりの壁紙が貼ってあり、取りつけのベッドがあり、気持のよい部屋で、軽井沢特有の少し湿気を帯びた、すがすがしい山の風が、部屋の中を吹き払っている。
カーテンが風に、帆のようにふくらみ、たちまちガラス窓に、ぴったりと吸われる。
「もったいないほど、よいお部屋でございますこと。」と、新子が云うと、
「洗面所やバスは、後でご案内いたします。」と、外人別荘にいたことのあるらしい女中は、英語を使った。
それまで、新子につきまとっていた子供に、
「さあ、先生は汽車でお疲れになっていますから、少しお休みになるそうですから、お坊っちゃん達は、お二人でお遊びなさいませ。」と子供にいってから、新子に「四時にお茶でございますから、そのとき旦那さまにご挨拶なさいませ。」と、いって、子供達を向うへ連れて行ってくれた。
新子は何から何まで、外国式なこの家の主人に気に入るように、キチンとしたいと思って、髪をなおし、足袋をはきかえ、帯のゆるみをなおしてから、荷物を一通り片づけて、さて気持を落ちつけるために、壁際にあるソファに、腰をおろした。
路子が来ていないと知ったとき、自分を夫人からかばってくれる人が居ないのを知って、悲しく思ったが、その夫人が五、六日は来ないことを知って、うれしくなった。
あの高飛車な夫人に対する気兼さえなければ、この家は相当楽しいところに違いない。準之助氏は、英国紳士のように、優雅で親切に思えたから……霧が、だんだん晴れて窓から近く離山が見える。こんなに明るい静かな生活であったら、自分も勉強が出来る。まるで、都会の厩舎から高原の牧場へ放された馬のようではないかと思っていると、お茶の迎いらしく幼い足音が、響いて来た。
新子は、次の朝郭公とミヒヒという山羊の声で眼がさめた。腕時計を見ると、六時少し前であったけれど、彼女はそのまま起きて、やや肌寒いのでセルのサッパリした常着に着かえて庭へ出た。
庭の面には輝かしい朝の陽が溢れているのだったけれど、家をとりまく緑の繁みに、まだ朝ぎりが、ほのぼのと煙っていた。
白樺の小径には、短い夏の夜を鳴き足りない虫の、かぼそい声がきかれた。
ふと小径の曲り角で、新子は足音と影とを見て立ち止まった。
それは、準之助氏であった。
早くも今朝カミソリの刃を当てたらしいすがすがしい顎、麻の単衣に、竹のステッキを持っていたが、新子を見ると、
「ああ、お早う。」と、呼びかけて、
「貴女は、お若いのに早起きですな。今朝だけですか、それとも習慣ですか。」
「今朝は、特別でございますけれども、家におりましても、朝は早い方でございます。」
「そうですか。じゃ、昨夜、申し上げた日課を改めましょうか。子供達も、休み中なるべく早起きの習慣をつけたいと思っていますから……」準之助氏は、新子をうながすように、小径を先に立って歩きながら、
「じゃ、朝食前に、小太郎に読み方と算術を教えて下さい。そして、十時に女の子の勉強を見て頂いて、午後二時にまた小太郎に、ほかの学課の復習をしてやって下さい。」
「かしこまりました。」と、新子は頭を下げた。
「今日から始めて頂きましょうか。」準之助氏は、昨夜と今朝と、新子と話をするごとに、よりふかく新子に満足してくれるらしかった。
「食事は、みんなと一しょに食堂で召し上って下さい。それから、夜は一切貴女のご勝手にして下さい。こっちの書庫にも割合本がありますから、読みたいものがありましたらご遠慮なく。」
二人はいつか、裏庭の芝生に出ていた。大きな柏の下に、山羊が、二匹つないであった。
家からは、人声が洩れ、かん高い幼い声も交った。
「お子さま達も、お眼ざめのようですわ。」
「そうですな、後で、貴女の授業ぶりを拝見したいですな。」
「お恥かしいけれども、どうぞ。」
準之助氏は、新子に庭内の樹や草花の名前を教えながら庭内を一廻りした。
──七時から初めての授業。小太郎は物解りのいい子であった。そして、先生が新しくって珍しいせいか、熱心に応えたりきいたりして、無事に授業がすんだ。
準之助氏は、遠くはなれたソファに腰をおろしながら、始終ニコニコしながら、満足そうに新子の教えぶりを見ていた。
二時から、小太郎に地理や歴史などの復習をしてやると、あとはかの女の時間であった。
主人や子供達と一しょに、お茶を頂くのも新子には楽しかった。
二、三日のうちに新子は、すっかりこの生活に落着いてはれやかになった。ただ、夫人が東京から来る時が近づいて来るのが、不安だった。
三日目の晩、美沢に手紙を書いた。
どうか安心して下さいませ。
こちらの生活は、とても楽しゅうございます。健康で、ご飯までがおいしく頂けます。
それに、このお手紙を書いている私の部屋のよい匂い、高原の草の香りが、しみ込んでいて、どんなよい床まき香水もこの匂いには敵わないでしょう。
前川氏は、万事外国好みですの。だから、私なども、一個の貴婦人として、とても大事にして下さいますの。
洋書も和書も、沢山ございますわ。別荘に、これだけの書庫を持っている実業家なんて、ほかには滅多にないと思いますわ。
旦那さまと、お子さまだけをこちらへよこして、奥さまは、まだ東京にいらっしゃいますの。奥さまのご交際の都合だとのことですの。
私は、ほんとうに気が晴れやかですわ。
東京で姉や妹の生活を見て、ジリジリしているより、どんなにいいか分りませんわ。
お子さまに、一日三時間お相手をすれば、後は私の時間ですの。私の時間には、絶えず貴君のことを思いだしております。
来てから四日目、お茶の時間に、小さい兄妹は、お昼寝をしていたため、新子と準之助氏とだけで、お茶をのんだ。お茶が済んでも、準之助氏が何だか所在なさそうなので、新子は何となく立ち去りかねていた。
「貴女は、ダイヤモンド・ゲームをおやりになりますか。」
「はあ。」
「じゃ、一つお相手しましょう。」
「どうぞ!」
準之助氏は、笑いながら、向うの玩具棚から、ダイヤモンド・ゲームを持って来た。
二人は、かなり身近く相対した。二人は、お互に子供らしく緊張しながら、駒をうごかしはじめた。新子は、英学塾の寄宿舎などで、お友達の誰とやっても、なかなか負けなかった。この遊び方のコツといったものを呑み込んでいた。
準之助氏は、手もなく負かされた。
二度目に駒を並べるとき、新子はいった。
「お母さまが、いらっしゃらなくっても、お子さまは、たいへん、大人でいらっしゃいますね。」
「普段から馴れていますから、私の家では、(ママ! パパがお帰り)なんていうことはめったにありませんよ。大抵、(パパ! ママがお帰り)というんですからな。」と、上品にほほえみながらいった。
新子は、思いがけない言葉に、ふと相手の心の底をのぞいたような気がして、合槌にこまって、だまって相手を見ていると、準之助氏はつづけて、
「僕も、妻がいない時の方が、かえって気楽ですよ。」と、何気なくいった。
聴いてはならない言葉である。
「まあ! そんなことございませんでしょう。」というよりほかなかった。
「いいや、男女が二人して作る生活に、幸福なんて滅多にないのじゃありませんか。夫婦生活も、楽しいのは最初のうちだけで、お互に生地を出しはじめると、月並な文句ですが、墓場ですな。」
新子は、主人の思い切った言葉に、あわてながら、
「そんなものですかしら!」と、辛うじて答えた。
準之助氏は、いい過ぎたと思ったらしく、
「ああ、悪いことをいいましたね。僕は……独身の貴女を前にして、……しかし、夫婦生活なんて、両方であきらめるか妻か夫かの一方があきらめるか、どちらかのものですよ。僕の家なんか、僕が早くからあきらめていますから、十五年にもなりますが、けがもなく過ぎて来ているんです。いや、これはとんでもないことを申しました。さあ、どうぞその駒をおすすめ下さい!」新子は、ひどくのどかな気持でいたのに、準之助氏のこの思いがけない話題で、すっかり気持が乱れた。
もう、子供のようにダイヤモンド・ゲームなど、やっていられる気持ではなかった。強いて駒を動かそうとしても、考えがまとまらなかった。
折よく、目覚めた幼い兄妹が、歩調を合わせて、廊下を駈けて、この部屋へ走り込んで来てくれたので、新子はホッと救われた気持になった。
祥子は、新子の肩にすがりながら、
「南條先生、ずるいわ。パパと二人ぎりで、お茶をめし上って、なぜサチ子を呼んで下さらないの?」と、わる気はないが、詰問だった。
「あら、ご免あそばせ。でも、祥子さんは、ほんとうに、よくお休みになっていたんですよ。お起しするのがわるいくらい。」
「そうお。ダイヤモンド・ゲーム、サチ子としましょう。」と、祥子がいうと、
「祥子がすんだら、僕とだよ。ねえ、先生!」と、小太郎は自分の順番を確保した。
子供達と、ゲームを争いながらも、新子は準之助氏の言葉が、気になって仕方がなかった。
そして、ふと準之助氏の方を見たとき、相手の眼が、あまりにも自分の方を、親しげに見つめているので、更に心の平静を乱された。
晴れた日と澄んだ夜と、高原の夏は、人の身体から、汚ないものを吸い取ってしまうような気がした。
翌日は、二時の復習が了ると、子供達は父と散歩かたがたアメリカン・ベイカリへ行く嬉しさで、無遠慮になっていた。
「先生のお洒落! パパは、もうお支度が出来ているのに……」小太郎は、新子の部屋の扉を開けて、足踏みをしながら叫んだ。
新子が、パラソルの中に、祥子を入れて玄関を出た時には、小太郎とその父は、白樺の繁みで手を振っていた。
ニュウグランド・ホテルの前を通って、陽の眩ゆい草原の道を真直ぐに進みながら、小さい兄妹はえんじ色にうれた野苺を見つけて、わざと草深い中を歩きながら両手にあまるほど苺を摘んだ。
「こんなの、甘いよ。」と妹に云いながら、小太郎が、大きな紅玉を、唇に持って行きそうにすると、
「およし。チブスになるぞ!」と、父は急に乱暴に、厳しい調子で叱った。小太郎は、いさぎよく赤い粒を、地面にバラバラと落して、父のステッキを持っている手の甲に、犬のように頬を押しつけた。それが、新子には愛らしく無邪気に見えた。
やがて、草原の末に、ベイカリの屋根が見えると、兄妹は駈けっこを始めた。
新子は、準之助氏と並んで、それを見送りながら、歩調は変えなかった。
「貴女は、当分結婚なさらないのですか。」いきなり準之助氏は、新子に訊いた。
「あら、どうしてそんなことを、お訊きになりますの。昨日は、結婚生活をつまらないとおっしゃったじゃありませんの……それに、私は駄目ですわ。私が、結婚しますと、私の家の中心になるものが無くなりますの。私は、つまり働き蜂に生れついていますの。」と、明るくいって、それから一家の状態を、恥にならぬ程度で、打ちあけた。
準之助氏は、一々しみじみと肯いて聴いていたが、ふと兄妹達が駈けて行ったベイカリの通りを一台の自動車が疾駆して来たのを見ると、ハッとして立ち止まった。万一、子供達が自動車に触れはしないかと心配したのであろう。
だが、自動車が行き過ぎてしまうと、砂ほこりを浴びながら、兄妹はこちらを向いて手を振っていた。
二人が、お互に安心した拍子に、眼がかち合った。
すぐ、その眼をそらしながら、準之助氏は、
「貴女は、子供好きですね。」と、いった。
「ええ。」
「私の妻なんか、自分の子供でも、あまり可愛くないと見えますね。」
新子は、また返事に窮した。
「貴女がながくいて下さるといいですな。」
「なぜで、ございます。」
「貴女が、子供と一しょにいて下さったこの三日、僕は何となく安らかな思いでいましたよ。」
藤棚の下の、一番よい場所の卓子を占領して、子供達は二人を待っていた。
準之助氏の心に、とろりと艶めかしいわだかまりが出来ていることを、新子はハッキリ感じていたが、しかし新子は、それによって、心を動かされはしなかった。といって、それを煩わしいとも重くるしいとも思わなかった。ただ好意のある微笑をもって、のぞもうと思っていた。
初対面のときから、準之助氏に好意と敬愛とを持ってはいたが、しかしそれが、どうころんでも愛慕になるとは思えなかった。
それに、彼女は美沢を愛していたから。
でも、こうして四人づれで、子供達には仮の母のように、準之助氏には、仮の妻のように、行動していることも楽しいことには違いなかった。
ベイカリの帰りには、森に入ってからではあったけれども、軽井沢特有の雷雨に会ってしまった。小太郎と祥子とは、それをまた、面白がって走り廻ったので、ビショ濡れになった。
別荘の前の道まで、走りぬけると、女中が傘を二本持って迎いに来ていた。
女中は、準之助氏に傘を渡しながら、
「あの奥さまが、先刻お着きになりました。」といった。
準之助氏は、不意の知らせにいささか驚いたらしかったが、すぐ常態に返って、
「駅へ誰も迎いに出なかったのかい。」と、尋ねた。
「はあ、お電話も下さらないものですから……」と、女中は弁解した。
新子は、今しがたの雷が、まだ空に鳴りつづけているような不安を感じた。
「ママのお土産なんだろう。」
さすがに、兄妹は母来ると知ると、新子のさし出した傘にはいろうともせず、小降りながら、まだふりつづいている白雨中を、門の中にかけこんでしまった。
主人と二人並んで門をはいるのが、新子は何となく気が引けた。
主人は玄関から、新子は内玄関の方から、家へはいった。
濡れた衣類を着かえて、夫人のところへご挨拶に出ようと思って、自分の部屋の扉を開けてみて、新子はハッとした。
それは、間違って別室に入ったのではないかと思ったほど、容子が変っていたからである。自分が使っていた机の上は、キチンと片づけられ、そこに置いてあった数冊の本は影もなく、女郎花と桔梗とを生けてあった花瓶も見当らず、ベッドの上の麻のかけぶとんもなく、棚の上のスーツ・ケースも無くなっていた。
あまりの激変に新子は、あっけに取られて、立ちすくんでいると、新子の帰宅をそれと気づいたらしい女中が、廊下をバタバタと後を追って来た。
「南條先生! たいへん、失礼致しました。でも、奥さまがいらっしゃいまして、先生のお部屋が違っていると、おっしゃるもんですから、お留守でしたけれども、早速お変えしたんですの、奥さまはおっしゃったことを、すぐ致さないとご機嫌が、悪いものですから。」人のよさそうな女中は、オドオドしながらいった。
新子は、思わず身体が、ムーッと熱くなるような憤りを感じた。
奥さまの考えで、部屋が違っていたにもせよ、自分が帰って来るのを待って引越させてくれてもいいではないか、たとい雇人であろうとも、他人の留守に勝手に、荷物を運び出すなんて……女中のせいではないと思いながらも、かの女はつい険のある眼になって、
「そして、新しいお部屋は……」と訊いた。
「どうぞ、こちらへいらしって……」と、女中は先に立った。
肩のあたりが、雨にぬれていて気持がわるく、一層ジリジリした。
二階へ上るといっても、女中部屋の脇からの裏階段で、母屋とは棟ちがいの中二階の部屋に案内した。
畳数は六畳で、同じような作りの部屋が二つ並んでいた。
とっつきの部屋は、物置になっているらしく、静子に当てられた次の部屋も、小さな窓が一つあるだけで、何となく暗く、床まき香水を思わせるよい草の匂いなどはおろか、うかうかすればカビの香りでもしそうである。
隅にある安手な机と書棚、新子の荷物が部屋の真中に薄情そうに雑然と置かれてあるのを見ると、ものかなしくなって、そのまま暇を告げて、東京へ帰りたい気持がした。
「では、ご免遊ばせ。」と、女中は新子の顔を見ないようにして、コソコソと階下へ行ってしまった。
新子は、目見得に来た女中のように、スーツ・ケースから着物を出して、ともかくも着かえてから、部屋を片づけた。
(これが、生活なのだ。これが世間なのだ。これが奉公なのだ。部屋は、これでちょうどいいのだ。さっきまでのは良すぎたのだわ)と、新子は妙に、イライラした自分の神経をなだめるように、胸の中でいった。
奥さまのところへ、挨拶に行くのが何となくおっくうで、不快で、しばらくの間ぼんやりしていると、さっきの女中が来て、
「奥さまが、お部屋でお目にかかるといっていらっしゃいます。」と、いった。
奥さまの部屋は、二階に在り、子供達に案内してもらって一度見たことがある。新子の部屋から廊下を真っ直ぐに、三段ほど上って母屋の二階へ出ると、主人の部屋と並んでいた。
バルコニイのある貴族趣味の、いかにも別荘らしい瀟洒たる部屋で、ぜいたくを極めていた。
白い色を多く使った明るい家具が置かれ、バルコニイ近い豊かなソファに、軽い紗のアフタヌーンを被た夫人が、あだかも大公妃のような態度で、彼女を待っていた。
新子は、準之助氏と一しょに散歩に出たことについても、きっと叱言があるに違いないと思うと、女学校時代にやかましいオールド・ミスの先生に呼び出された時のように、丁寧に会釈すると、何かいわれるまでは、立っていた。
「どうぞ、おかけ下さい。」と、夫人は身近い椅子を指ざした。新子は、卑屈にならない程度で、愛想ふかく、ほほ笑みながら、腰をおろして落着くと、
「子供と一しょに来ないで、いろいろご迷惑でしたでしょう。主人から伺いましたけれども、子供の勉強を見て下さる時間割は、たいへんけっこうだと思います。でも、貴女が子供達を遊ばして下さるのは、ご親切ですけれども、あまり馴々しくさせないで頂きたいと思いますの。家庭教師は、女中ではありませんから。先生としての恐さを無くしてしまうと、いろいろ弊害が多いと思いますから……そのおつもりで……」と、夫人は何か小さい卓上演説でもするように、ハッキリというとだまってしまった。主人と散歩してはいけないなどいうような注意は、夫人自身の尊厳を害するとみえて、おくびに出さず、顧みて他をいったというような注意だった。
しかし、それも何かしら無理な注意で、
「はア。」と、新子は、憤りと口惜しさに顔を赤くしながらも、しとやかに夫人の言葉を受けた。
「それだけ、申し上げたくてお呼びしたのです。どうぞ、お引き取り下さい!」と、夫人はあくまで高飛車に、部屋を取りかえたことなどは、夫人としては当然すぎることらしく、それに対する挨拶などは一切なかった。
新子も、こんな気持で、夫人とこれ以上対坐することは、堪えられなかったので、
「失礼致しました。」と、せわしなくいって、立ち去ろうとすると、
「ちょっと、恐れ入りますが……」と、ひどくやさしく夫人は、新子を呼び止めた。
新子が振り向くと、夫人はステンド・グラスの張ってある白い卓子の上の、青磁の花瓶を指しながら、
「何でもようございますわ。これに、花をさして持って来ておいて下さいませんか、庭に何かあるでしょうから。」
「はア。」新子は、花瓶をとり上げて、早々に部屋を出た。
新子は、文句を云われた後に、たちまち用事をいいつけられたので、驚きながらも、庭へ出て、ポンポン・ダリヤばかりを切って、夫人の部屋へ持って行くと、夫人は、
「ありがとう。それから、これを切っておいて下さいません。」と、ペイパ・ナイフと「英国近代短篇集」という書籍をさし出した。
新子は、しばらく夫人の傍で切られていない本の頁を切っていた。
夫人は、新子が傍にいることなどは、すっかり忘れたように、スリー・キャッスルの細巻を吸いながら、綺麗なファッション・ブックを漫然とながめているのだった。
新子は、切り終った本を卓の上に、そっと置いて、
「これでよろしゅうございましょうか。」と、丁寧にいうと、
「はい。」と、夫人は、礼もいわず、ふり向きもしなかった。叱言をいった上に、人を使ってと思うと、新子は少し苛々して部屋を出た。
夫人は高飛車にかまえていながら、人使いは巧みな女性らしい。この分だったら、明日から、どんな風に使い廻されるかわからない、と新子は一方の肩をすくめて考えた。
六時になった。軌道の上を走っているように正確な、この家の生活は、六時になれば食堂に集まって夕食なのである。
今宵から、夫人の前で、かしこまって、子供達とも笑い興ずることも出来ずに、ご飯をたべるのかと、新子が考えている矢先に、先刻の女中が上って来て、またひどく気の毒らしく、
「奥さまが、お食事は家族だけでなさりたいとのことで、今晩から貴女は別に差しあげることになりました。」といいに来た。
(その方が、いい。その方が気楽だわ)と、思いながらも、新子はひどく淋しかった。
家族達ばかりの食堂で、新子の姿が見えないのに、料理がどんどん運ばれるので、祥子が一番に心配して、
「南條先生は? 南條先生はどうしたの?」と、女中に二、三度訊いていたが夫人は相手にしなかった。準之助氏が、不審を起して、夫人に、
「どうしたの。南條さんは。」と、訊いた。
「今日から、別室で召し上って頂くことにしましたの。」
「なぜさ、こちらでは、一しょでもいいじゃないか、その方が賑やかで……」
「でも、家族と雇人とは、ハッキリ区別した方が、よろしいようですわ。」
「うん。そうか。」と、準之助氏は、素直にうなずきながら、
「しかし、今日は貴女が初めて来た晩だし、懇親の意味で、ここで一しょに食事をして頂いた方がよかったねえ。」と云うと、夫人はやさしく、しかし同時に嘲るような表情で、夫君の言葉を聴いていたが、ニコニコしながら、良人には答えず、子供の方に向いて、
「ねえ、貴君達だって、パパとママと四人ぎりの方がいいわねえ。ほかの人がいたら、窮屈でしょう。ねえ。」といった。小太郎と祥子とは、びっくりしたように、母の顔を見上げたが、ママの顔が、その優しい言葉に引きかえて、厳しいので、
「うん。」と、いってしまった。
あまりにも、部屋の有様が異なってしまって、新子は落着けなかったし、物悲しさがなかなか薄らがず、美沢に手紙を書いて、この間の手紙を早速取り消したいと思いながらも、それも何となくものうかった。
十時過ぎ、風が出て、庭の樹立に、ゴウとすさまじい音を立てた。
前庭に、突如自動車の警笛の音が聞える。不意のお客だろうか、階下が何かざわざわしている。そう思っていると三十分ばかりしてその自動車は帰り去った。
間もなく、階下はしずかになったが、その静けさの中に、ほのかに氷を砕くらしい音が伝わって来る。新子は「おや!」と思いながら、耳をすました。
ここの部屋からは、窓を明けると、闇に面するばかりで、何もうかがえなかったけれど、常の夜とは異なって、母屋の方が薄ら明るかった。
新子が廊下に出ると、階段の口が、パッと明るかった。新子は、まだ寝衣にも着更えていなかったので、そのまま女中部屋の方へ降りて行った。
すると、氷嚢を持った女中に、パッタリ出会った。
「どなたかお悪いの?」
「はア、お嬢さまが──」
「まあ、祥子さまが……どこがお悪いの?」
「お風邪を召したんでしょうが、お熱が三十九度もおありになるんですの。ご夕飯がすむと、急にお熱が出て、今お医者さまがいらしったんですの。」と、女中も不安そうだった。新子は、さっき、祥子が夕立にぬれていく度もくしゃみをしていたのを思い出した。
「そうお。私、お見舞いに伺いたいんですけれど、伺ったらいけないでしょうかしら。」と、夫人に対する気兼で、おそるおそる訊ねた。
「およろしいでしょう。お嬢さまは、よくお熱をお出しになるので、奥さまはいつもの熱だとおっしゃって、もうお居間へお引取りになったようですよ。」と、女中は新子の気を察したように云った。
女中の後から、随いて行ってみると、祥子は、小さい寝台の上にグッタリとなっていた。
なるほど、夫人の姿は見えず準之助氏だけが、病児の顔をじっと見詰めながら、枕元の椅子に腰をかけていた。
「お風邪でございますか……」と、静かに新子が訊ねたのに対し、父が答えない先に、祥子がうるんだ眼を開けて、
「先生、祥子胸がくるしいの。さすって頂だい!」と、すぐ甘えかかった。
「ええ。どこが。」
「ここんとこ……」と、さも悩ましげに、掛ぶとんをおしのけて、左の胸を指した。
新子は、そこへかるく手をやりながら、
「さっき、雨におぬれになったのがいけないのでしょうか。」と、準之助氏にいうと、準之助氏は新子の方をチラと、意味ありげに見て、
「原因は論じないことにしましょう。でないと、とんだ責任問題が起りますからね。」と、苦笑しながら、小声でいった。新子が、夫人を憚る以上に良人はその妻を憚っているのだった。
準之助氏の言葉に、新子も肩をすくめながら、病児がともすれば熱のために、払いのけようとする蒲団を、そっと小さい胸の上にかけて、その下に手をさし入れて、
「こうして、さすって上げましょうね。」と、柔軟な小さい肉体をさすり始めた。
祥子は、ウトウトし始めた。新子は、火のかたまりのように、ほてっている身体に驚きながら、こんなときあまりさすってはかえっていけないのだろうと思って、そっと手を引こうとすると、祥子はパッと眼を開くのだった。
静かに、静かにさすりながら、祥子の寝つくのを待つより外仕方がなかった。
「熱が高いので、肺炎を警戒するように医者が云っていました。」準之助氏が、低くつぶやくように云った。
「まあ。おかわいそうに、やっぱり、雨におぬれになったのが、いけなかったのですね。」女中が居なくなったので、新子は準之助氏の注意に拘らず、同じことをくり返した。
「そうかもしれません。しかし、僕達がそんなことを云い出してはいけません。妻が聴こうものなら、僕と貴女とで、病気にしたようなことを云い出しますからねえ。」
「でも、わるかったわ。アメリカン・ベイカリで、もっと休んでいればよかったのですわね。」
「いや、この子は、よく熱を出すんです。妻なんか、冗談にこの子のことを、熱出し機械なんて云っているくらいです。だから、安心し切っていますよ。」新子は、子供のうつらうつらと寝入った気配に、そっと手を引いた。
「眠ったようですな。どうぞ、引き取ってお休み下さい。もう十一時過ぎですから。女中が、附き添っていますから。」
「ええ。でも、もう少しお傍にいたいと思います。ほんとうにはよくお休みになっていないようですもの。」
「そうですか。じゃ、しばらく傍にいてやって下さい。すぐ女中が、参るでしょうから。」そういうと、準之助氏は、立ち上って、階上の居間に引き取ってしまった。
間もなく、女中がはいって来た。
「ご病気でも、奥さまはお子さまと別々にお休みになりますの。」と、新子はつい訊いてしまった。
「奥さまは、万事外国風なんですの。あちらに四、五年いらしったものですから。だから、小さいお嬢さまなんか、ほんとうにお気の毒なんですの。」
自分をあんなに慕うのも、やっぱり母の愛に飢えているからだろう。そう思うと、新子はいじらしさが、胸の中に、しみ出して来て、あの高飛車な夫人に対する意地からでも、徹夜して、看病したくなった。
小さい寝息は、時々苦しげに、せわしくなった。そして、(あつい! あつい!)と叫びながら蒲団をおしのけたりした。
「ねえ。しずかに、お休みなさい! あしたまでには、きっとよくなりますわ。ねえ、ねえ。そうしたら、今日のつづきの漫画よんで上げましょうね。」
羽根蒲団の上をかるく叩いた。
女中と交替に、氷嚢をとり換えに行った。
何時間経っただろう。女中は、台所の方へ行ったまま帰って来なかった。新子も、椅子の背にもたれて、わずかにまどろんだとき、部屋にはいった人の気勢がしたので、ハッと眼を開けるとそれはパジャマを着た準之助氏であった。
明け方近い病室に、なお止まっている新子を発見して、驚いて見つめている準之助氏の眼にいい知れぬ優しさが、漲っているのを見ると、新子は名状しがたい恥かしさに、一時に頬をそめてしまった。
優しい準之助氏の眼は、たちまち親しく怒りつけるような眼つきに変って、新子を見ながら、抜足して病床に近づいて来て、
「あれから、ずーっとここにいらしったんですか。そんなことをしては駄目ですよ。それじゃ、貴女の身体がたまらない。第一、貴女の仕事でもないじゃありませんか。」と、好意に充ちた小言だった。
白々と明るくなった静かな空気の中に、スヤスヤと祥子の寝息が通っていた。
「大丈夫……」何か云いつづけようとしたけれど、声がかすれているので、新子は微笑で、まぎらしてしまった。
「大丈夫なものですか。もう五時過ぎていますよ。早く行ってお休みなさい。」
「今から、眠るということも出来ませんし、小太郎さんの勉強がすんでから、ゆっくり休ませて頂きます。」と、新子は小声でいった。
準之助氏はじっと新子の顔を見つめていたが、
「貴女の顔も、なんだか赤いようですよ。熱があるんじゃありませんか……」さっき赤くなった頬が、まだあせないでいたのである。
「熱なんか……」と、いいながら、新子はつい自分の額に手をあてると、
「どれ!」と、準之助氏は、無遠慮に新子の手首を取り上げて、脈拍を探った。
新子は、間がわるく、あわてて手を引っ込めようとしたが、そんなことをしては、なおこの場が色っぽくなるような気がして、静かに相手のなすままに委せていた。
「少し早いじゃありませんか。ムリをしちゃいけませんな。女中を呼びますから、お引き取りになって下さい。」
新子は、すっかり睡気がなくなってしまっていたが、こうやって準之助氏と向い合っていることがきまりがわるくなったので、
「それでは、失礼します。」というと、部屋を出て行った。
新子の屋根裏に近い部屋は、電燈の灯ったままで、ひんやりと、明方の空気が肌寒かった。
新子は、蒲団を伸べる気にもなれず、灯を消したままで机の前に坐った。
そして、準之助氏の指の下で、血の流れを伝えた自分の手首を珍しいような、恥かしいような気持で、しばらく見つめた後、自分でも脈を数えてみた。
脈が早かったのは熱のせいではなく、準之助氏の思いがけない出現と自分に対する態度のせいであると思った。
そして、準之助氏があれ以上、自分に親しみを見せるようであったら、考えなければならぬと思った。
そう思うと、たちまち美沢の若々しい面影が生々しく眼の中に浮んで来るのだった。
四日目の朝になって、祥子の熱がようやく、七度台に下った。
新子は、二晩はまるで、一睡もしなかった。祥子の病室に徹夜していると準之助氏が時々、容子を見に来た。そして、新子に引き取るように勧め、新子はこれをこばみ、その間に二人の感情や好意が、からみ合った。だが結局女中達よりも、新子の方が、夜通し付添っていた。その方が、祥子がよろこぶからだった。
夫人は、祥子が病んでいても、午前は良人とゴルフに行き、夜は知合いの外人の別荘にダンス・パーティがあるといって出かけた。新子が祥子の看病をしていることなど、およそ自分とは関係のないような顔をしていた。むろん、礼もいわなかった。
今朝も、夫人の親類に当る木賀子爵という青年が、東京から三、四日の予定で遊びに来ると、夫人はその青年と乗馬で、鬼押出しの方へ遠乗りに出かけてしまった。出がけに、ちょっと病室へ顔を出し、そこに新子がいるのを見ると、
「この子の熱は、四日目には、きっと平熱になるんですよ。主人なんか、毎度大さわぎをやりますんですけれど──あまり子供を大事にし過ぎると、かえって結果がよくありませんからね。本なんかも、あまり読んでやったりなさらないように、病気のときなんかかえって神経を刺戟し過ぎますし、また本を他人によませて、聴くなんていい習慣じゃありませんからね。」
新子が、膝の上にのせていた「漫画常設館」という本を、ちらりと見ていった。自分が新子に本の頁を切らせたのを忘れたように。
しかし、新子は夫人が出て行くと、すぐ祥子に本をよんでやった。
祥子は、かわいそうな話と恐い話が好きで、アラビアン・ナイトの悪魔を壺へ封じ込める話など、幾度もくり返して聴きたがった。
小太郎も、祥子の部屋に遊びに来た。さわやかな午前だった。
女中が、はいって来て、(旦那さまが、お呼びです)と、云った。
二階の書斎へはいって行くと、準之助氏はひどく嬉しそうで、向き合っている新子の方まで、つい頬をほころばしたくなった。
「今、僕部屋をのぞきに行ったの、知っていますか。」
「いいえ、存じません。」
「子供達が、貴女をまるで、母親のようにして、甘えているんで、僕は扉を開けずに、上へ帰って来たんですよ。」新子は準之助氏の視線を避けるようにして、答えなかった。答えようもなかった。
「僕は貴女にお礼をしたいんです。」
「お礼なんて──私が、何を致しましたかしら、祥子さんのご病気を、私が看病するくらい当然じゃございませんかしら。」
「いや、当然なことをしない女だって、沢山いますからな。僕にお礼をさせて下さい、でないと、僕の感情が、どんなふうに爆発するか分りませんよ。」
「そんなこと、おっしゃっては困りますわ。」
「じゃ、お礼を受けとって下さるでしょう。」と云って準之助氏は、自分用らしい白い角封筒を新子の前にさし出した。
新子は、それを断るには、たいへんな努力が要ると思ったので、素直に受けとった。
内懐にしまって、子供達の部屋に降りて来て、祥子の相手をしていたが、昼食のとき自分の部屋へ帰ったとき、開けてみると、それは、思いがけない不当な大金であった。
ここらあたりは、スカンジナビアかどこか、北欧の景色に似ているという、薄白く霧のかかっている草野原で、土地の女の子が撫子をつんでいる。
「このへんでお休みになりませんか。」
若さで、はち切れそうな青年紳士が、先へ打たせている同じ馬上の夫人に呼びかける。
「押出しまで行きましょうよ。休みなら千ヶ滝の坂の下へ、馬を預けて、ホテルでお茶をご一しょに、その方がいいわ。」
競走馬上りと見える流星栗毛のスマートな牝馬に、純白の乗馬服を着た夫人は、大公妃のように跨っている。しかし、声は新子に話す時などとは違って、小娘のようにはずんでいる。
つばの広い帽子の下で、双眸がはれやかにまたたき、さわやかな風に頬をなぶらせ、夫人はまるで別人のようにはしゃいでいるのだ。
二、三町ばかり、軽い速歩で進むと、眼下に新しい景色が展ける。それは小浅間の鬼押出しと呼ばれている、流れ出した熔岩のかたまった焼石の原である。
その景色と、その上に点出された馬上の二人と、まるで外国の絵のようだ。
熔岩の道は、だんだん爪先上りになり、やがてまた谷のような、くぼみの所まで出ると、夫人は手綱をしめて馬を控えた。
「下りてご覧になりますか。」黒鹿毛に乗っている青年は、後から声をかけた。夫人はかむりを振った。
「貴君こそ疲れたのじゃない? 弱虫ね。」
「ご冗談を! 僕は学習院にいたとき、これで伊豆半島一周の遠乗りをしましたよ。」
青年の盛んな答えを、嬉しそうな笑顔で受けて、夫人は馬を立て直すと、やや早い馳走で走り出した。
荒涼たる焼石の原から、柔かい緑の丘へ、二頭の馬はたてがみで高原の涼風を切る。
夫人は昵懇らしい百姓家に、馬を預け飼料をやるように頼むと、鞭をステッキのように持ったまま青年と並んでグリーン・ホテルへ行く坂道を歩き出した。
「逸郎さん、貴君、当分宿って行くでしょう。」
「当分って、二、三日のつもりですよ。」
「お家へ電話で断ればいいじゃないの。貴君は、いつまでも子供ね。」
足下に、山々にかこまれた広い平原が見え出した。
健康な男性美に富んだ青年は、立ち止まって、大きい呼吸をして、
「いいなあ!」と歎じながら、
「なぜ、前川さんを無理にもお誘いしなかったんですか。」と訊いた。
夫人は、良人のことをいわれると気むずかしそうに、眉をひそめつつ、
「前川のことなんか、もう結構よ。私、二人の子供と、たった一人の男を相手に、もう十五年も暮して来たのよ。前川なんか、何の刺戟でもないわ。あの人は、英国流の温厚な紳士で、そして無精で、本ばかり読んでいて。」
「それでけっこうな旦那様じゃありませんか、貴女の自由をちっとも束縛しない……」
「貴君は、なぜいやがらせばかりおっしゃるの。若い方は、そんなふうな物云いはしないものよ。」
夫人は、艶めかしくいうと、肩もすれすれに、青年に近よって、
「主人と一しょになんか来れば、この美しい景色が、台なしになってしまうわ。」そっと青年の肩に手を置いた。
「これ、りんどうじゃないでしょうか。」彼は、突如、路傍の紫の花に、手をさし出すことで、巧みに夫人の手から離れた。
ホテルの喫茶は、二階の食堂の廊下に在った。そこから、このあたり一帯の異国情緒の風光が一望され、見晴しが美しいのである。
二人は、窓際に向い合って席に着いた。
近代的で、スポーツマン・タイプで、清秀で明るい感じのこの青年は、綾子夫人の母方の遠縁に当るという。夫人は、この青年を、彼女の「足下」にひざまずかせようという意図でもあるように夫人の片言微笑には、孔雀が尾羽を、一杯に広げたような勿体ぶった風情があり、華やかな巧緻な媚に溢れていた。
青年は、常に無邪気そうな、しかし時々気むずかしそうな、名投手の球勢変化を思わせるような抑揚のある態度で夫人に対しているのであった。
「ほんとうに、長くいて、私の遊び相手になってよ。でないと、私身体をもてあましてしまうのよ。主人とばかり顔を見合わせているのじゃ、息がつまりそうよ。」
「だって、祥子さんが、ご病気だというじゃありませんか。」
「いつもの風邪よ。あの子は、土地が変ると、きっと熱を出すのよ。ちっとも、心配することないわ。」
「見馴れない若い女の方が、付添っていらっしゃいましたね。」
「今度来た家庭教師よ。」
「勝気そうな、美しい人じゃありませんか。」
「おや、そんなことまで、いつ見たの。」
「チラと見たばかりですけれど。」
「ああいう人、私すかないの。ちょっと、乙にすましている女。だから、私思いきり、いろいろな用をさせようと思っているの。私は、一般に同性は、嫌いなのね。同性を見ていると、何だかいらいらして来る性分なんだわ。」
その美貌と才能とに、あまりに自信を持ちすぎる高慢な婦人の通弊だと思いながら、青年はだまって、夫人の顔を見つめていた。
青年はシガレット・ケースを開けると、夫人に勧めた。
「何?」
「キャメル……」
「ごめんなさい。私、これしか吸えないの。」と、いって夫人は、自分の赤革のケースから、スリー・キャッスルの細巻を出して、青年がライターをつけてくれるのを待った。
「私、三、四日のうちに、伊香保へ行ってみたいんだけれど、貴君も行ってみない。」
「さあ! 貴女と二人で……ですか。」
「逸郎さん。貴君、前川を恐がっているようね。」
露わに、艶めかしい夫人の言葉に、青年は善良そうに、顔を染めて、苦笑しながら、首を振った。
「なら、私が恐いの?」
姉か何かのような上手の位置から、青年が顔を染めるのを、楽しい観物ででもあるかのように、見おろしながら、しかも同時に媚を呈しながら、夫人が云った。
青年は、ほのかに首を振って、
「どちらも、恐いわけではありませんが……」
「ねえ。一しょに行ってみない。佐竹の伯母さんとこへ訊ねて行くといえばいいでしょう。私、ここもいいけれど、観るものも聞くものもないから退屈するのよ。前川と話しすることなんか何にもないし……」
夫人は、いつも高慢な態度を持しているが、しかしこういう若い男性に微笑を見せるということだけは、また別なことであるらしかった。
夫人としては、自分の媚態が、男性にどんな影響を及ぼしそのために男性の眼に、どんな熱情が浮び、どんな不安が浮び、どんな哀願が浮ぶかを見ることが、楽しい刺戟であるらしかった。
しかし、この青年は、夫人のそういう態度には、免疫になっているらしく、一も二もなく、支配されているわけではなかった。
「そろそろお帰りになりませんか。」と、煙草を捨てて立ち上った。
「ほほ、もう帰るの? じゃ、私達は食前の運動に来たと云うだけだわ。」夫人は、さも可笑しそうに笑いながら、ボーイをよんで勘定をすませると、ツカツカと階段を走り下りた。
ホテルを出たところで、
「貴君は私の家に居るの窮屈?」
「なぜ? 決してそんなことありませんよ。」
「じゃ、長くいらっしゃい! そして、私の相手をして頂戴! 前川だけじゃつまんないわ。」
「僕だって、あまり面白い人間じゃないことをご存じじゃありませんか。東京じゃ、子供扱いで、まるで相手にもして下さらないじゃありませんか。」
「ほほほほほほ。じゃ軽井沢だけの男友達でいいじゃないこと、ほほほほほ。」
夫人は、その美しい長身をくねらせながら笑いこけた。
青年の顔は、一層あからんだ。が、しばらくしてから、思い切った風情で、
「いくら、親類でもあまり親しくしていると、つまらない誤解を受けますし……それに、貴女を好きになっちゃ、なおたいへんだし……」
「ほほほはほ。」青年の言葉が、おわり切らない内に、夫人はまたさも可笑しそうに笑い出した。青年は、驚いたように、夫人と顔を見合わせた。
「貴君のように、大ゲサな物いいをする人はないわ。私達は、お友達同士じゃありませんか。いつまでも、貴君は私の好きなお友達よ。」いとしむような、艶やかな愛嬌に溢れている夫人の顔を、それ以上見るのが恥かしく、青年はまた視線をそらした。
「一しょに遠乗りをしても、用心する。パーティに行くのも危険だ。一しょに小旅行に行くなんて一大事だなんて云うお友達は、一体どんな顔をしている。どーらちょっとこちらを向いてごらんなさい!」と、云いながら、夫人の手が無造作に、青年の顎に延びた。
青年は、真赤になりながら、いやでも夫人と顔を見合わせなければならなかった。彼は、咽喉と胸がいくらかつまるような気持がして夫人の手をそっと顎から押しのけた。
ちょうど、馬を預けてある百姓家の前へ来た。
「ほほ……。もう何にもお願いしないわ。でも、馬にだけは乗せてくれるでしょう?」青年は、夫人を介添して、夫人のほっそりした右の片足を支えて、馬背にまたがらせた。
再び馬上の人となった夫人は、薔薇の花のように、ほこらしげに笑った。
並んで、馬を打たせ始めると、夫人は怒ってでもいるように、軽井沢近くなるまで、物を云わなくなってしまった。
離山のふもとまで来たとき、青年は、この気まぐれの大公妃のご機嫌を取るつもりで、実に用心ぶかくつつましく、不安げに訊いた。
「何か、お気にさわりましたか。」
「私が……何を。」夫人は、いたずらいたずらした大きな双眸を、ジッと青年の方へ向けた。
夫人を敬遠しながらも、やはり青年は夫人の影響の下にあると見えて、やはり青年の気持ちには落着きがなく、夫人の媚態の甘やかさに酔うていたのだ。
「だまっておしまいになったから。」
「そうよ、貴君が、警戒ばかりするからよ。」そういいながら、夫人はかるく拍車を当てた。馬は、急に早い速歩に移った。
「危いですよ、そんな……」青年は、もう別荘地の道に出るので、夫人の無謀を制しようとすると、夫人はわざと一鞭くれた。
競走馬上りだけにかんのいい牝馬は、すぐ駈足になって戞々たる馬蹄の音を立てながら前川邸近い森の中に走り入ろうとしたように見えたが、何人かの悲鳴が聞えると同時に、たちまち馬が、竿立になり、タッタタッタと、二、三歩後退した。
ちょうど、別荘から出て来た新子と、折悪しく夫人の馬とが、出会頭になったのだ。
夫人も必死に馬を止めたらしく、ちょっと口が利けないほど、驚いているし、新子はあわてて馬を避けた拍子に、背後へ倒れかかったらしく、そこにある白樺の太い幹へ、十字架にかかったような姿勢でよりかかって、痛そうに顔をしかめ、鷺のように片足で立っているのだった。
青年は驚いて馬から降りると、手早く馬を傍の木につなぎ、
「蹴られたんですか。」と、不安そうに、新子に近づいた。
「大丈夫よ。ただ、不意だったから、びっくりなさったのよ。ねえ、怪我なんかないでしょう。」さすがの夫人も、あなやという思いをして、胸をとどろかせているのに、なお平生の虚勢を捨てないのだった。
「大丈夫でしょう。ねえ。」と、もう一度云うと、すっかり不機嫌そうに、謝罪の言葉など一言もなく、二人の脇を馬に乗ったまま、通りすぎてしまった。
「足を、どうかなさったのですか。」そう云いながら、青年は取り敢ず、新子の手を曳いて、彼女が落ちかかっていたくぼ地から、彼女を小径の方へ連れ出した。
「何でもございませんの、私、ぼんやりしておりましたので、随分驚いてしまって……痛っ……」シャンとしようとすると、足首が痛かったので、彼女は思わず声を立てて、青年の肩にすがった。
「足をくじかれたのでしょうか。」
「いいえ。大丈夫です。どうぞ、いらっして下さいませ。」新子は、すぐにも自分の痛い足を見たいのに、青年がいるので、裾を揚げるわけにも行かず、夫人のお客様などの世話になる気には、とうていなれず、ただ早く立ち去ってくれればと思っていた。
「手から血が出ていますよ。」と、云われて、新子は初めて、手首の痛みにも気がついた。白樺の幹ですりむいた傷らしかった。
彼女の白い手の甲に、うっすらと血が滲んでいた。
「無茶ですよ。あの人は、……乱暴に飛ばせるんだもの……」夫人のことらしかった。新子は黙って、そっと手首の傷を叩いた。
「貴女、僕の肩へすがって、いらっしゃいませんか。もし、足をくじいているとすればなるべく動かさない方がいいですから。」新子は、ハキハキしている悪気のなさそうなこの青年に、うちとけてもいい好意を感じた。彼女は、怯びれず肩にすがらせてもらった。
「でも、よかったですね。蹴られたりなんかすると、たいへんですよ。」
「あんまりあわてたもんですから、もっと落着いていればよかったんですわ。」
「誰でも、あわてますよ。こんな道で、あんなに駈けさせるんですもの……」
夫人の高慢な態度を、新子に代って非難するように、新子を慰めつづけた。
新子の姉の圭子が、会員になっている新劇研究会というのは、M大学の文学科の教師をしている小池利男というフランス帰りの劇作家が、顧問兼監督をしていて、会員は大概良家の文化的の子女で、大学や専門学校へ通学している男女学生である。この春から第一回の公演として、アンリ・ルネ・ルノルマンの「落伍者の群」を、やるやると歌に唄いながら、結局学校の休暇を待つよりほかなかった。
それに、劇場も夏場で、借りやすくなったので、S劇場を七月の二十五日から二十九日まで五日間だけ借りて、いよいよ公演の運びになった。
圭子は、みんなから推されて、女主人公である「彼女」の役をやることになった。
最初は、切符を会員で分担して売ることになっていたが、いざとなると、思った三分の一も売れず毎日の小屋代、大道具代、衣裳代、弁当代、かつら代などの調達に、初日早々から、四苦八苦の有様だった。
しかも、どの費用も大抵は、その日払いで、ちゃんと払わなければ翌日から、小屋を開けてくれないので、苦労知らずの若い連中は、初舞台を踏む興奮も嬉しさも、金策の苦労で消されがちだった。
ただ圭子は、十四場の長い芝居に、どの場もどの場もやり甲斐があり、殊に「彼女」という役そのものが、貧苦に責められながら、純情と女らしさとで、わが命の最後まで「彼」を愛して、「彼」を援けつづけるという役だけに、今度の公演でも、たとい困難があっても、自分があらゆる犠牲を払って、五日間の公演を無事に済ませようといったような純情的な興奮に燃えていた。
初日の夜の十一時過ぎ、身体は疲労しているが、頭ばかりは興奮して、冴えてしまっている圭子は、昭和通りのマリキタという、スペイン風の酒場で、小池と差向いで、ジン・フィズの盃を、半分くらい乾していた。
小池は、快活な小柄な男だった。
熊手にした指で、ふさふさ落ちかかって来る髪の毛を、しきりと後へ高く掻きあげながら、眼の玉をくるりとむき、唇をとがらせて、
「これじゃ我々自身が『落伍者の群』になりそうじゃ。衣裳代をかけすぎましたな。もっと筒井を頼りにしていたんだが、あれが三、四百円は切符を売るといっていたんだが、『第二の亡霊』だけじゃ厭じゃというて、逃げ出してしまうなんて、あまり万事筋書通り過ぎるですなあ。」
「………」
「この分じゃ、五日間はムリですな。第一、小屋代の工面が、つかんですな。」
圭子は、舞台の上の「彼女」のような気持になって、
「初めての公演なんですもの。いよいよ困れば、私何とかしたいと思いますの。」
女の一本気から、かえって落着いた度胸を見せて、じっと小池を見つめながらいった。
「いや、貴女だけに、心配をかける訳には行かないし、それに、毎日二百円はかかりますよ。切符代なんて、てんで集まらないし……僕は、すっかり憂鬱になりますな。」溜息を吐くと、小池は卓子の上に肘をついて、圭子を見た。
「初めての試みなんですから、誰の責任でもございませんもの。私、出来るだけ、お金作りますわ。」
「貴女の『彼女』は予想以上の成功ですし、中途でなんか止したくないだろうな。さっき、久能さんが、賞めていましたよ。」
「まあ! 久能さんも、見物にいらしっていたんですの。」
「ええ。あの人は新劇には、今でも熱心ですよ。」久能というのは老劇作家で、新劇団の先輩であった。
「私明日は、十三場の幕切を、気をつけてやってみたいと思いますの。あすこ、今日は少し失敗だったと思いますの。」と、圭子は、若々しい身体の肺の豊かさを思わせるような、吐息まじりに、顔を輝かせた。
小池は、肘を起して、今度は足を張って、椅子を反りかえらせた。
「しかし、人生においても、演劇においても、先立つものは金ですな。」小池は、圭子の顔をじっと見て苦笑した。
第三者が、冷静に観ていると、小池には、深いずるさではないが、毒のないずるさがあり、圭子の家に、相当の小金があると察し、また金離れのよい圭子の性格を、それと悟って、わざと持ちかけている愚痴のようにもきこえたであろう。
「お金のこと、ほんとうに私、どうにか致しますわ。」
「それは、一番良いことのようで、一番悪いことですよ。」
「なぜですの。」
「それは、貴女独りに、あらゆる負担を転嫁することですもの。」
「だって、私が自発的にやるんですから、いいじゃありませんか。私、舞台に出てみて、初めて自分の生きる道が分ったような気がしますの。」
「なるほど、貴女は情熱家だ。そうした気持で『彼女』をやるんだから、成功するはずですな。しかし、貴女にムリをさせて、僕達が傍観するわけには行きませんからな。」
「先生。大丈夫だと申し上げましたのに。私、母に話せばどうにかなると思いますの。」
学問はあっても少うしお調子ものの圭子は、頼まれもせぬのに、つまらない役を買って出ているのだった。
「そうですか。それでは、一つお願いするかな、これこの通り……」小池は、卓子の上に、蛙が両手を張ったような形に、両肘を延ばすと、頭をつけて低頭してみせた。
「いやですわ、先生。そんなことをなすって、おほほほほほ。」
小池はなかなか頭を上げなかった。圭子は笑いながら手を延ばすと、小池の頭を両手ではさんで持ち上げた。
圭子の母は、長女が芝居の研究会にはいっていることは知っていたが、まさか舞台に出るまで深入りしているとは、知らなかった。
今日は、この三、四日、研究会の集まりで、非常に遅くなるといって、出かけて行った。
だから、十一時までは気に止めなかったけれど、その頃美和子が帰って来て、
「お姉さまは、今晩もきっと遅いわ、でも、お母さん心配しないでいいのよ、お姉さま、とても素敵なお仕事をしていらっしゃるんだから……」と、母親をからかうようにいって、二階の寝床へ上ってしまった。
妹が帰った後、一時近くになっても、姉は帰って来なかった。母はいても立ってもいられない気持になった。
いっそ、美和子を起して、様子を訊こうかと、二階へ上りかけたとき、路次の入口で、自動車が止り、走り込んで来る靴音がした。
こっちも走り出て、玄関を開けると、
「ああ、疲れちゃった。お母さん、まだ起きていらしったの。寝ておしまいになれば、よかったのに……」と、圭子の顔は、口惜しいほどのんきだった。
「まあ! お前が帰るまでは寝られますか。何時だと思うの……」と、母親らしい叱責の言葉に、圭子は応えもせず、
「眠いわ。」と、二階へ行こうとする。
「女世帯で、こんなに遅くなったりすると、外聞が悪いったらありませんよ。圭子!」
「もう、分ったわ。お叱言は、あした伺うわ。とても、疲れているの。早く寝ないと明日がたいへんだわ。」と、せいぜいわがまま一杯なことをつぶやいて、早くも階段を上り切ってしまった。
その翌日、十一時近くまで、寝ていて、食事に階下へ降りて来ると、いきなり、
「お母さん、お願いがあるのよ。」と、思い入った風情でいい出した。
「何……?」圭子が改まって、やさしい言葉を使うときは、お金の入用に定っているので、母親はたちまち警戒して、こわい眼で娘をながめながら無愛想にいった。
「お金がいるのよ。それも沢山なの。私、学校をよしてもいいから、私の学資にとっておいたお金を、今一度に出してくれない!」
「まあ。お前何をいうんですか。だしぬけに……」
「だって、そのお金がないと、私死ぬほど辛いのですもの。」と涙声になっていった。
「いくらくらいなの一体?」と、母は総領娘には、やっぱり甘かった。
「五百円いるの。」
「五百円!」母はあきれて、マジマジと娘の顔を見つめるばかりだった。
金の無心とは察していたが、娘のいい出した金額が、あまりに計算はずれなので、母はぽかんとして驚いているばかりだった。
「ねえ、お母様。そのお金がないと、研究会の仕事が、駄目になってしまうのよ。ねえ、私学校を出て就職するにしても、この頃は口なんか、てんでないのよ。だから、研究会の方で、一生懸命劇の方を勉強して、いっそ舞台に立とうと思っているの。」
「それじゃ、女優さんにでもなろうというの?」
「ええ。いいでしょう。その方が、結局早道だわ。学校を出たって、新子ちゃんのような口だって容易に見つからないことよ。それよりも思い切って……」娘のいうことは、いよいよ出でて母親にとって、意外のことばかりだった。
新子が軽井沢へ行くとき「今ウカウカしていると、親子四人で飢えるようなことになることよ。だから、お姉さんが学校を出るまでは、月七十円以上貯金を下げてはいけない。私がお給金を手をつけずに送るから、月百円くらいで暮して下さい。お姉さんや美和子が何といっても、余計なお金は出さぬように。」と、くれぐれもいい置いて行ったから、五百円はおろか、五十円だって出してはいけない。だから、金の相談は断るほかはないが、それと同時に女優になるといったような途方もない考えも、早く棄てさせなければ、亡き良人に対して申し訳ないと、母は考えた。
「まあ! とんでもないことばかりいうのね。研究会なんか潰れてもいいじゃありませんか、潰れたらいい機会だから、学校の方を真面目に勉強して、卒業したら新子のように働いてくれなければ……。私達はどうなって行くのですか。」
「それが、お母さんの考え違いよ。学校を出るより、舞台の方を勉強した万が、どのくらい世の中へ出るチャンスがあるか分らないというのよ。」
「その女優になって世の中へ出るということが、お母さんは、嫌いなんですよ。」
「なにいってるの。お母さんは、分らず屋ね!」
「お前こそ分らず屋ですよ。五百円なんて、まとまったお金を出せば、明日から私達は飢えますよ。」
「家に、そのくらいな余裕がないなんて考えられないわ。」
「家の経済は新子がお前にもよく話したはずじゃないの。」
「新子ちゃんのは、あれは誇張よ。あの人は、ああいう風に考えて、自分が一家のために奮闘するといったような気持を味わいたいのよ。」
「まあ、お前は新子や私の気も知らずに……」
母親が思いのほかに強硬なので、圭子はいらいらした。少くとも、今日百円や百五十円は持って行かなければ、自分をアテにし切っている小池に合わす顔がない。楽屋入りは三時である。などと思うと、欲しい玩具を買ってもらえない子供のようにかりんの茶卓の上に、ほろりと涙を落してはそれを指の先で潰していた。
「そんな無理難題をいってお母さんをいじめるもんではありませんよ。お前いくつだと思っているの!」そういって、母は台所の方へ立ってしまった。
書留など、どこから来たのだろうと、圭子が不思議に思いながら玄関へ出てみると、それは新子からの手紙だった。
「判がいるんですね。ちょっと、待ってね。」と、立ちもどって来て、茶箪笥の上に、針箱と同居している用箪笥の小引出しから、判箱を出して、書留用紙に判を押して返した。
圭子が茶の間に、帰っても流し元で、シャアシャアと水の音がするばかりで、母は戻っていなかった。
新子からの手紙は、もちろん母の宛名、お給金を送って来るには時期が早すぎるのに書留とは、と思いながら、母より先に見たって差支えあるまいと、サリサリと封を切ってみると、手紙と共に数枚の為替証書だった。
そのとき、誰か部屋にはいって来る気配がしたので、圭子は咄嗟に手紙を懐に入れてしまった。半ば発作的に。後の襖が明いた。母ではなく、さっきから勝手で、顔を洗っていた妹の美和子だった。
「お姉さま、どうしたの。お母さまを怒らしたの? ご機嫌がわるいったらないわ。」
妹の爽やかな調子に、圭子はいましがたの自分のあさましい所業に、面ぼてりがして、一時に身内がカーッとほてって、返事をしないでいると、
「あら、お姉さまも時雨ているのね。お母さまが、あの調子じゃ、私今日少しお小遣いをねだろうと思っているのに、絶望だわ。お姉さま、三円かしてくれない?」
「駄目だわ。私だって!」やっと声が出た。
「え、駄目なの──切符を、十枚も売って上げたのに、少しコミッションよこしてもいいわ。」
美和子は、美和子としての不平をいいながら、タンゴのステップで、クルクル廻りながら、圭子の向いに、どしんと坐った。
「それどころじゃないわよ。研究会が火の車で、マゴマゴすると、小屋代が払えない始末よ。」と、いい捨てながら、圭子は二階へ上った。
自分の部屋へはいると、さすがにふるえる胸を制して、為替をしらべてみた。金額二十円の小為替が、都合七枚、新子らしく、便箋へ簡明に走り書がついている。
こちらへ来ると、すぐお嬢さまが、ご病気で、徹夜で看病しました。これを、ご主人が欣んで下さって、沢山のお手当をいただきました。これは、どうぞすぐ貯金へ。ご主人へ、お礼状などは、お出しにならないように、そんなことはお嫌いな方ですから。
母上さま
圭子は悪いと思いながらも、天の与える金のような気がして、胸が躍った。
(前川さんなんて、さすが大ブルジョアだけあるわ、百円や五十円なんて、私達の五円か十円かなんだわ、五十銭か一円なんだわ。新子ちゃんは、前川氏夫妻にとても気に入ったのに違いないわ。きっと、これは当座のご褒美なんだわ)と、圭子は思った。(それにしても、このお金は母には思いがけない金なんだもの、私がとにかく借りて使っても、後で新子ちゃんの諒解さえ得れば、それでいいんだわ)大それたという気がないでもないのを、圭子は強いてまぎらして、新子の便箋は、チギレチギレに裂いて、為替だけをハンドバッグに入れた。
その時、階下から妹の声がして、
「お姉さまア。」と呼ばれたので、ハッとして、
「何?」と、訊き返すと、
「あのね。いま、誰が来ましたかって、お母さまが訊いていらっしゃるのよ。」と、美和子の声が、飛び上って来た。
さすが、ドキッとする胸を押えて、
「いいえ。誰も……」
「でも、玄関が開きやしなかったかって?」
「ええ、押し売か何かよ、断ったのよ。」切羽つまったウソをいった。
下からは、それぎり何の応えもなくなったので、圭子はホッと、安堵の思いをした。
さっき、書留を見た刹那、為替証書を見た刹那、精しくいえば、無意識に懐へしまったまでに、わずか二、三分たらずの間に、圭子の心は、決していたのである。
このお金が、どんなお金であろうとも、自分のしていることが、どんなに無法であろうとも、ともかくもこのお金は、小屋代に──と思ったのである。しかも、母も美和子も、書留の来たことさえ、気がつかなかったのは、まことに幸運だったと、圭子の心は快哉を叫んだのである。
圭子は、にわかに元気づき、椅子の背に昨夜のままかかっているドレスを取って、手早く支度をしてしまった。
母とも妹とも、口をきかず、怒っているような姿勢を取って家を出ると、途中日比谷で下りて、そこの郵便局で現金に換え、三時少し前に劇場へ着いた。
小池は、一時間も前から来ていたらしい。圭子の顔を見ると、
「どうです、首尾は?」と、さすがに、不安そうにオズオズ訊くのを、圭子は快活な笑顔で受けて、
「上首尾よ! でも、随分おかしい半端よ。百四十円、百五十円に十円足りないのよ。」
「けっこうですとも。けっこうですとも、それだけあれば、御の字ですよ。」と、こんな人が、こんなにと思われるほど小池は相好を崩していた。
親姉妹に対する内面は悪いくせに、他人にはひどく当りがよく、他人から頼まれると、いやとはいえないような圭子だった。
「それで今日と明日とは、どうにかなります。だが、問題は明後日ですな。」という小池に、
「明後日まででしたら、私きっと後を何とか致しますわ。」と、圭子はまた引き受けてしまった。
長女としてあまやかされ、わがままに育ったから、肉親に対しては、いつも無口で不機嫌で、殊にガッチリした新子に対してなぞ、始終いらいらしがちで、お互に語り合うようなことがなかった。だが、一旦「外面」となると、快活で愛想がよく、不景気のフの字も見せず、万事いやな顔などせずきれいごとで行こうという、お嬢さまの圭子だった。
その夜帰りのタクシの中で思うよう(お母さまに、もう一度おねだりして、ダメだったら……)。
圭子は、今朝判箱を取るために、用箪笥を開けたとき、甲斐絹のごく古風な信玄袋がはいっているのを、チラリと見た。あの中には、貯金の通帳がはいっているはず──あれをそっと持ち出して……。
(だって、「落伍者の群」の「彼女」は、貞操まで、お金に換えてしまうんだもの。このくらいなことしたって……)
その夜は、少し睡眠剤を飲んでから、床に就いたのであったけれど、頭は大事決行の思考で、血が立ち騒いで、なかなかに寝つかれなかった。
だが、そのうちに圭子は、気がついた。銀行の使いは、今までずーっと新子の役であって、それに使う実印だけは、母が判箱には入れてないで、どっか箪笥の抽斗の奥ふかくしまってあるということを。……
通帳をそっと持ち出すことはやさしいが、母の眼をしのんで、箪笥の抽斗をかき廻して実印を探し出すことは至難であるということを。
もっと、名案がないかしら……彼女は、暗闇の中でじっと眼を開けていた。
(そうだ。新子ちゃんに頼んでみよう、前川さんは、ちょっとしたことで、あんな大金を呉れるんだもの。お給金の前借なんか簡単に出来るかもしれない)
家の生活がどうなろうと、母姉妹をどう詐そうと、乗りかかったこの船を降りて、なんの生き甲斐があるものか。芸術のためだもの、自分が本当に生きて行くためだもの、手段なんか、どうだって──と、子供らしい向いっ気で、そんなことを思いつくと、
(そうだ! 新子ちゃん大明神だわ。明日の朝、早く電報を打とう! そうすれば、明後日までに間に合うわ)
すぐにも新子が送金してくれるような気がして、ぞくぞくと嬉しくなってしまった。
(それにしても、必死的な退引ならぬ電報の文句を!)と、圭子は考え出した。
樹の根に、踝を打ちつけて、青いあざを残したけれど、痛みはその時だけで、手の甲の傷も、ほんのかすり傷だった。
それなのに木賀子爵をはじめ、夫人をのぞく人達は、新子の傷を心配してくれた。熱が下ったばかりで、起きられない祥子は、新子の足に、繃帯を巻きたがった。
翌日は、もうさわってみると、ほのかに痛みを感ずるというくらいだった。
夫人も、少しテレていると見え、あれから新子に顔を合わせることを避けていた。
小太郎はその日夏休みの復習帳に、晴というのを時と書き、曇という字を雲で間に合わせているのを、新子に指摘されて、午前中廊下をかけ廻りながら、
晴を時と間違えた
曇を雲と間違えた
テリヤを輝や(女中の名)とまちがえた
という自作の即興詩を、奇妙な節をつけて、歌って歩いて、夫人から叱られて、一時からの復習の時は、殊のほか神妙であった。
新子は、二時から祥子の部屋にいたが、母夫人の入って来る気配がしたので、そこはかと、部屋を出たが、歩いてみたくなったので、大好きな別荘前の諏訪の森へ、遊びに行った。
地面が絶えずジメジメして、しだが生えており、空気がひんやりしていた。
横手の外人別荘から、小さい金髪の男の子が、ワイヤー・ヘヤードを連れて、どこどこまでもかけて行った。
後は全く静かであった。
新子は、美沢が(墓地の静けさ)が好きなので、よく二人で弥生町の家から、谷中の天王寺に出かけたり、省線で横浜へ行き外人墓地を高見から、眺めたりしたことを思い出した。
この森を、美沢と一緒に歩きたいような希望が、頭の中に湧いた。
家の前途を、一人で背負って悩んでいる新子は、時には誰かに慰め労られたいような気持がした。そんな気持で、美沢に会うのであったけれども、美沢がまた、どちらかといえば、新子に慰められる側の性格で、いわば新子は、美沢にとって姉的愛人だった。
だから、新子は今まで何人にも労られたことがない。
準之助氏から、労られたのが初めてである。
昨日は、不当な大金を、お菓子をもらう子供のように、易々ともらってしまい、もらった後で、相当考えてみたが、準之助氏の気持が、順逆いずれにもせよ、自分は順に素直に受けた方がよいと考えて、十円だけ自分のお小遣いに取っておいて、後は母へ送った手紙にも、もらった理由をかくさずに書いておいた。
不当な大金であるとは思ったが、それだけに母に送ったときの母の笑顔や、またその金に依って、一家の生活と安寧とが、一月でも三月でも支えられるということは、新子にとってはたいへんなことだった。
(たとい謝礼が多すぎても、私が小太郎さんや祥子さんに、誠意を尽すことで、それに相当して行けば……)とも新子は考えた。
ただ準之助氏がお金を呉れるときにいった言葉が、遠雷を聴くような不安を、今でもかすかに残している。
だが、とにかく他人からお金を貰うことはそれが生れて初めてのことであるだけに、新子は悲しかった。わが心があさましく寂しく思われる。
そんなことを考えながら、新子は冷たい樹の幹によりかかってぼんやりとしていた。
その時、彼女の眼を後から、誰かが無理に延び上って、無理に延ばした細い指先で、眼かくしをした。
「知っているわ。小太郎さんでしょう。さっきから知っていたんだから、駄目よ。」
「ウソいっている。随分驚いたくせにねえ、驚いたでしょう……」
「ええ。ええ。」
小さい手を握って、眼から離して、前へクルリと引き寄せると、きっと準之助氏が一しょだろうと、後を振り返ってみると、白いリネンの服を着た青年子爵が、二、三間後に立っていた。
子爵と新子とは、微笑んだ。
昨日、傷の手当を、かなり親切にしてくれた。
「もう、お痛みにならないんですか。」
「ええ、もう。すっかりよくなりました。いろいろご心配をかけまして……」
「外人達のテニスのトーナメントがありますよ。見にいらっしゃいませんか。」
「ええ。」
「小太ちゃんが、貴女がきっと、ここにいらっしゃるから、誘って行こうって、僕を連れて来たんです。」青年は、何か闖入者であるかのように、弁解した。この森が、まるで新子の森で、自分が無断ではいって来た闖入者でもあるかのように。
「南條先生は、ここが好きだねえ。」小太郎は、感に堪えたようにいった。
「テニスは、あまり見たことがないんですけれども……」と、新子が青年に答えると、小太郎は横から口を出して、
「野球なんかより簡単だよ。すぐ分るよ。カウントの取り方、僕教えるよ。」と、ませた口のきき方をした。
「でも、小太郎さんは、また何かを何かと間違えるんじゃなくって! おほほほほほ。」とからかうと、
「やい! 南條先生の意地わる!」と、いって笑いながら、武者振りついて来た。
新子も、祥子が病気になって以来、一度行ったことのあるテニス・コートの前のブレッツで、クリームを買いたいと思いながら、そのままになっているので、同行することにした。
三人は、森を抜けて、陽のよく当る白い径を、旧道の方へ歩いた。
彼女の愛人の美沢は、早く父を亡くして母親育ちであるだけに、お洒落な細かい動作が、身体にしみついていて、いかにも美青年らしく見えたが、この青年はいかにも健康な、スポーツででも鍛えたらしい若人という感じがした。
話しぶりも、明るくて、気が置けなかった。
新子も、本来の明るいのびのびした気持に還っていた。
旧道に出て、洋服屋や、野菜店や、家具店などの小さな街を歩きながら子爵は、
「南條さんは、僕の名前ご存じないでしょう。木賀逸郎といいます。どうぞよろしく。」と自分で正式に紹介した。
「はア、私は南條新子と申します。どうぞよろしく。」と、新子がすっかり親愛の度を深めた微笑で、答えると、小太郎が傍から、
「逸郎兄さんは、愛嬌がいいんだってさ。」と、いったので、子爵は急に真赤になって、
「小太坊、生意気なこというな!」と云った。
「だって、ママがパパにそう云ったんだものオ……」と、小太郎はすましていた。
コートのスタンドは、ほとんど外人ばかりだった。
子爵は、知合いらしい亜米利加人夫婦と何か隔てなく、話し合っていた。新子は、子爵の英語を相当なものだと感心して聴いていた。
新子は、富も位置もあり、教養もあり、容貌にも健康にも恵まれている青年が、前川別荘に来て、高慢な夫人の、相手をしているなど、本当に夫人が好きなのであろうか。それとも、愛人がないので閑暇なんだろうか。どちらにしても、何だか少し気の毒のように思った。
しばらく見ていると、青年はズボンのポケットから新しい四角にたたんだ麻のハンカチーフを出すと、新子に渡して、
「顔を掩うていらっしゃい。洋服ならいいけれど、和服で日焼けなさると、お困りになるでしょう……」といった。
新子は、笑いながら、大きなハンカチーフを拡げて、頭から天蓋のようにしながら、
「安心しましたわ。貴君には、やっぱり愛人がおありになるんだわ。」と、初めて、本当の親しみを見せて、スパリとした口のきき方をした。
「なぜです。」青年は、驚いたように訊き返した。
「だって、レディにご親切だから……」
「じゃ、今までは僕に愛人なんかいないだろうと、心配していて下さったんですか。」
「だって、あまりお閑のように、お見受けしましたの、ほほほほ。」
いたずらいたずらした新子の眸が、相手の言葉を誘い出すように輝いた。
試合が了ると、小太郎がアイスクリームを食べたいというので、三人はブレッツに寄った。そこで、新子はクリームを買った。
卓子に、子爵は新子とさし向いに坐ると、キャメルに火をつけながら、
「貴女がさっき愛人とおっしゃったのは、愛人か許婚かのつもりで、おっしゃったのですか……そんな深い意味じゃないんでしょう。それなら、いろいろありますよ。」
「ほほほほほ。だから、安心したと申し上げたじゃありませんか。」
「何もなかったら、心配して下さるんですか。」
「ええ……」といって、すぐ(だって、前川夫人のお相手なんかだけじゃ、お可哀そうですもの)と、いおうと思ったが、小太郎が居るので、笑いながら黙ってしまった。
「僕の方こそ、心配していますよ。貴女のような方が、こんな腕白坊主の相手ばかりしていらっしゃるんだったら……」
「まあ。ひどいことをおっしゃるわねえ。ねえ、小太郎さん!」
「逸郎兄さんは、男の人には、口がわるいんだよ。僕だって、男だろう。」と、小太郎がアイスクリームを、スプーンで口に運びながら、大人のように云ったので、新子も木賀も笑い出してしまった。
「私には、小太郎さん達をお預りしているのが、ほんとうに楽しい仕事なんですもの。だから、案じて頂かなくてもよろしいんですの。」と、新子が微笑で云うと、
「うむ。うむ。」と、子爵は、ちょっと真面目な表情になって、「貴女は随分勝気でいらっしゃいますね。」といった。
「なぜでございますの。」
「前川夫人に泣かされないから、あの人に毅然として対抗しているから。」小太郎に分らないようにいった。
新子は、子爵の現実を避けない愉快な物いいに、明るくのびのびと笑った。子爵はつづけて、
「でも、それだけが楽しみじゃないでしょう。愛人だって、お在りになるんでしょう。」と訊ねた。
「ございましてよ。貴君のように複数でなく、単数で……ほほほ。」
「は、はア。これはたいへん失礼致しました。失礼ですが、先刻のハンカチーフをお返し下さいまし……」
相手のあざやかな応酬に、新子はポッと赤くなりながら、さっきから返しそびれてキレイに畳んで懐にしまっていたハンカチーフを返した。
三人は、やがてブレッツを出た。
若い男と女との会話は、全く磁石のような力を持っているものだ。まして、新子の情感に溢れたほがらかな言葉づかいは、相手にひしひしと浸み込んで行くような性質のものだった。
だから、わずかの間ではあったが、子爵の心には、新子に対する深い親愛と好意とが湧き上った。
しかし、最後の言葉が、いけなかった。単数の愛人あり! それは(われに、近寄り給うな)と、いう警笛のようにも聞えた。
子爵は、歩きながら考えた。単数の愛人って、誰だろうか。まさか、準之助氏ではあるまい。でも、昨日、新子が負傷した時の、準之助氏の狼狽えかたは、少し可笑しかった。それに、新子を見るときの情熱の籠った双眸! でも、まさかと子爵は、そんな考え方を捨てようとした。
両側の草原から、絶えず、清々しい香りが立ち上って、胸を気持よく柔らげるのであった。
小太郎が、大きい揚羽の蝶を見つけて、草原の中へ十間ばかり追いかけて行った。
しばし黙っていた木賀子爵は、その機会に、
「マダムは、難物ですが、前川氏は、きっといい味方になってくれるでしょう。あの人は、元来女性尊重主義者だから……」
「まあ、なぜ……貴君はそんなことをおっしゃるのですの。」
木賀の云い方に、すぐ賛成するかと思った新子が、思いがけなく反撥したので、木賀は大きく見張った新子の視線を、あわててそらしながら、
「僕が、あの人をほめては、いけないんですか。」と、タジタジしながら云った。
「いいえ。お賞めになっても結構ですわ。でも、私とマダムと対立でもしているようにお考えになってはいやですわ。」と、新子は云った。
木賀は、新子の慎みぶかい予防線に、感心しながら肯いた。
新子は、自分が準之助氏から、ある危険を感ずるように、他人の眼にも、それが露わに映っているのかと思うと、いやだった。
だから、子爵のそうした観察にハッキリ抗議したのである。
きのうなんか、わずかに傷ついただけなのに、あの方はあんまり、あわてすぎていた。
(やっぱり、あんな不当な謝礼は、頂くのではなかったかしら)金銭の収受は、男女の間をたちまち接近させるものではないかしら、と思ったりした。
白樺の繁みをぬけて、三人が母屋に近づいた時、バルコンの上で、お茶を飲んでいる準之助夫妻を、小太郎が、いちはやく見つけて、
「パパとママが、あすこにいるよ。」と、遠くから指さした。
前川夫妻は、まだこちらに、気が付かないようだった。
「とても、円満な夫婦のようじゃありませんか。」と、木賀子爵が、微苦笑しながら云った。
「ご円満なのでしょう。」と、新子は、ちっとも皮肉を交えずに云った。
「僕行って、お茶をいただく!」小太郎は、一散に建物の方へ急いだ。
熱は冷めても祥子は高熱が続いた後なので容易に床を離れることが出来なかった。
それだけ、退屈し切っていて、新子が病室へはいって行くと、すぐねだって、幼年雑誌や漫画の本を読んでもらった。その朝も、新子が病室へはいると、祥子は待ち兼ねていたように、
「ご本よんで!」といった。
「今日はもうよむご本ありませんよ。」
「動物園見物。」
「でも、これは三度目でしょう。」
「三度目だっていいの。」
「じゃ、およみしますわ。」新子は、枕元に坐って、読みはじめた。
サアどっちからみる? ぼくライオンからみる。あたしゾウから。ゾウともおし。僕等はシシから。あらシシは十六ばんめにみるものよ。アア四四十六か。
祥子は、もういく度も聞いた洒落であるのに、ニコニコうれしがっているのであった。ちょうどその時、扉が開く気配がしたので、新子が顔を上げると準之助氏がはいって来た。
「また、動物園見物か。何度目だい? お前が飽きなくっても、南條先生は飽き飽きしていらっしゃるだろう。あんまり、先生をいじめちゃいけないよ。」準之助氏は、にこやかに祥子を叱った。
「先生だって、面白いのよ。ねえ、先生!」
「ええ。とても。」と、新子も真面目に肯いて読みつづけた。
準之助氏は、本を読んでいる新子と、仰のけに寝ながら、新子の読む声に聞き惚れて、美しい黒目を一章一章に、うごかしている祥子とを、何か楽しい観物のようにしばらく眺めていた。
そのとき、あわただしい足音がして、扉がノックされて、
「どうぞ!」と、新子が答えるのも待たず、女中がはいって来て、新子に電報を手渡した。
(今頃、何の電報!)と、思う胸騒ぎを、じっと抑えて、読み下すと、
アスマデニ三〇〇エンツゴウシテクレ、イノチガケニテタノム、アネ
と、いう電文だった。
姉の唐突な無法な依頼に、呆れて新子の顔は、サッと蒼ざめた。
一昨日の金は、着いたのだろうか。着いたとしたならば、その上に何の急用あっての金だろうか。恐らく母が入用の金ではあるまい。姉一人でいる金としたならば、一体何の金だろう。昨年あたり新聞でよく見た、左傾した女の人達が無理算段の金を作るように、まさかあの姉が急に左傾して、党へ出すとかいう金をでも作るわけでもあるまいに……。
「どうなすったんです。南條さん!」準之助氏に、声をかけられて、新子はハッと狼狽した。
「いいえ、つまんない用事なんですの。電報なんか打たなくっていいことなのですの、……ご免なさい祥子さん。先を読みましょうね。」
ずいぶんながくかんがえてたのね。だから、カンガエールカンガエールカンガールて、だれいうとなしにそういってしまったのさ……
だが、もう新子の声は、かすかにふるえて漫画の説明を読むには、一番不適当な声になっていた。
祥子も、新子の声のふるえに気がついたと見え、もう漫画からは眼を離して子供らしく気づかわしげな眼を、新子の顔に向けていた。
新子は、それでも祥子の注意を絵本に向けようとあせって、また一ページばかりも、読みつづけた。
「南條さん。本は、それくらいにしてどうですか。ねえ、祥子もういいだろう。」と準之助氏が口を出した。
「ええ。」と、祥子も父の意を汲んで素直に、うなずいた。新子は泣きたいような気持で、本を下に置いた。
「南條さん、不意の電報なんて、よくないことに定っているものですが、一体どういう報せなんです。構わなかったら、きかせて下さいませんか。」準之助氏は、たまりかねて訊いた。
「先生のママさんが、ご病気なの?」と、腺病質で、勘のいい祥子までが、大きい眼を刮って、愛らしく新子に訊いた。
新子は、危うく涙になりそうな微笑で、首を振り、準之助氏の方を見上げながら、
「ほんとうに、何でもございませんの。姉のつまんない勝手でございますの。お聞かせするような筋じゃございませんの。」と、いった。
「じゃ、姉さんが、用事があるから、すぐにでも東京へ帰れとでもいうのですか。」
「いいえ、そんなことでもございませんの。」
「じゃ……」準之助氏は、しばらく考えて「貴女に無理な依頼でもして来たのですか。」
「ええ。まあ……」と、新子は言葉を濁した。
「依頼って、どんな性質のものですか。」
「つまらない、出鱈目な事なんでございますの。」
「というと……」準之助氏は、じっと新子を見つめながら、追及して来た。
新子は、ちょっと身がちぢむような気がした。相手は、あくまで紳士的に、礼を失しないように自分の窮状を察してくれようとするのであったが、それ以上は訊いてもらいたくはなかった。
「あんまり唐突で、私にも、何が何だか分りませんの。早速問い合せの電報でも出してみようかと思っていますの。ほんとうに出しぬけで、……でも、ご心配して頂く筋じゃございませんの。」と、新子は、しっかりした態度で、準之助氏の好意を斥けた。
準之助氏は、新子の微笑にまぎらしている憂鬱そうな顔を、なおしばし見つめていたが、
「貴女にも分らないとすれば、どうともしようがないですね。」と、いった。新子は、笑いながら、うなずいた。
「じゃ、先生電報が来ても、ここのお家にいるんでしょう。」
「ええ。いますとも、祥子さんと一しょでなければ、東京へ帰りませんわ。」
「じゃ、すぐその間い合せの電報を打っていらっしゃい!」と、準之助氏がいってくれたのを機会に、新子は祥子の部屋を出た。
新子は、自分の部屋へ帰って来たが、姉の無理解に、腹が立って仕方がなかった。自分に、三百円の大金が、どうして作れると思っているのだろう。百四十円という金を送ったので、それに味を占めて、前川さんに借りてくれとでもいうのなら、姉にも似ず、あさましい考え方だと思った。
無性に腹が立って、問い合せの電報も、断りの電報も、打つ気にならなかった。自分に、こんな電報を打ってよこすなど、ただ自分を苦しめ悩まし、不愉快にするだけではないか。
新子は、収まらぬ胸を落ちつけるつもりで、机の上に置かれてある、朝刊を取り上げた。
朝の内に、主人が読み、その次に夫人が読む、夫人は朝寝であるから、新子のところへ新聞が廻って来るのは、いつも祥子の勉強が了ってからであった。
三面をザッと読んでから、文芸欄を開いて、随筆や時評などを漫然と読んでいると、ふと「新劇研究会の公演」という見出しが眼についた。埋草のように六号で組まれたものだが、姉が関係していることを知っているだけに、新子の眸はひきつけられた。
二十五日より今月末まで、S劇場で旗拳公演をしている、小池利男氏の統制下にある若い素人の劇団だ。出し物のうち、ルノルマンの「落伍者の群」は、稽古が足りない恨みがあるが、どこか新鮮な力の溢れている演出だ。殊に白鳥洋子の「彼女」は傑出している。恐らく、今度の公演での唯一の収穫だろう。聡明な理解に充ちた演技だ。この人の未来を嘱望せずには居られない。(IT生)
読みおわると、新子は胸がおどった。姉の圭子が問わず語りに、
(妾、もし舞台に出るのであったら、白鳥洋子という芸名にするの。どう、白鳥洋子と、いうの?)と、いったのを思い出したからである。
姉は、実生活に、のんきで出鱈目であるだけに、一方にこんないい天分が、かくされているのだ。短い寸評だけれども、これ以上の認められ方なんて、ありゃしないわ。
そう思うと、新子は姉に対する感激で胸に、グッと熱いものが、こみ上げて来るのだった。
今の今まで、姉に対して、懐いていた不愉快な感情までが、カラリと拭われたように無くなってしまった。そして、姉がずーっと、自分よりも、貴い人種のように思われて来た。
(そうだ! あの無心のお金も、きっと今度の公演に必要欠くべからざる金なんだわ。女優なんかになることは、大反対の母に断られて、止むを得ず、自分に訴えて来たのだろう。わずか、三百円で、姉の女優としての素質が、ハッキリ認められるのなら、こんなに廉いことはないわ)
S劇場の舞台で、観客を前にして、芝居をしている姉の姿が浮び上って来た。「落伍者の群」なら、新子も読んだことがある。「彼女」の台辞だって、切々に覚えている。そんなことを考えていると、新子は姉に対する、肉親らしい感激で、さっきとは別人のように、興奮してしまった。
どうせ、実生活には不向きな姉である。
大空に向って、翼を張り、自由に雄飛すべき天分の持主ならば、それを無理に、家庭生活の煩わしい鎖で、つなぎ止めて、平凡な生活を送らせるよりも、姉の思うままに芸術の世界へ、輝く脚光の国へ送り出してやるのが、妹としての、真の愛情ではあるまいか。天才的な姉のために、自分が犠牲になってやるのが、妹として正しい道ではないかしら。前川さんにお金を借りるくらいの危道を踏んでもいいのではないかしら。
今まで、姉の実生活的方面のみを軽蔑していた新子は、姉の他の輝かしい半面を見つけて、新子が実際的の人間であればあるだけ、その光輝に打たれて、すっかり興奮してしまった。
前川氏にお金のことをいい出すのはいやだ。しかし、その嫌さを忍んで、姉のこの機会を充分に生かしてやるのが、自分の義務かもしれないと新子は思った。
新子は、何か物に憑かれたようになって部屋を出た。前川氏は、まだ祥子さんの部屋にいるだろう。居てくれれば都合がいいと思いながら、階下へ降りて行った。
準之助氏は、新子の希望していたとおり、祥子の部屋に居て、今度は新子の代りに、祥子に本を読んで、きかしていた。
父と子は、にわかに晴れやかになった新子の顔を、いくらか不思議そうに迎えた。
「どうなすったんです……?」と、準之助氏が、まず訊いた。
「姉の電報の意味が分りましたの。」
「ほう。どういうわけだったんですか。」準之助氏は、けげんそうであった。
新子は、折りたたんで持って来た新聞を、準之助氏の前に差出しながら、劇評のところを指して、
「姉は、こんな道楽をしておりますの。白鳥洋子というのは、姉の芸名なのでございますの。」と説明した。新子の気持も言葉も、上ずっていた。
前川氏は、それに目を通すと、
「はア。これは、素晴らしい讃辞じゃありませんか。」と、新子の満足そうな笑顔に、やさしい愛情に充ちた眼を向けた。
「ええ。私もびっくり致しましたの。」と、新子はしおらしく合づちを打った。
「それで、先刻の電報は?」
「お金の無心なんですけれども、どうしてお金がいるのか分りませんでしたの。これで、分りましたわ。みんな、学生ばかりですから、この公演の途中で、資金が足りなくなって、困っているのだと思いますの。そして、私のところまで、あんなとばっちりのようなムリな電報を寄越したのでございますわ。これを見るまでは、何が何だか解らなかったんですもの。」と、新子は、少し浮かれてでもいるように、喋りつづけた。
「そうですか。いや、それで安心しました。貴女のお姉さまなら、僕は欣んで後援しようじゃありませんか。」
新子は、嬉しくなって、頬がカーッとなった。
「失礼ですが、電報では、いくらほどご入用だと云うのですか。」準之助氏は、続けて訊いた。
新子は、準之助氏と、おずおず眼を合せながら云った。
「もしも、こんなことが許して頂けるんでしたら……私の月々頂くものを、半年分ほどまとめて、拝借できないでしょうか。」
「いや、いや、月給は月給、これはこれですよ。」と、準之助氏は、手を振りながら、
「そのくらいでいいんでしたら、僕が貴女のお姉さんを後援する意味で、差しあげましょう。今日にでも、東京の事務所の方へ電話をして、お宅の方へお届けしましょう。」
「先日、あんなお礼まで、頂いて。でも、あれは、母の方へ送りましたのですが、母は芝居なんかに、とても理解がありませんから、恐らく姉の方へは、ちっとも廻らなかったと思いますの。」新子は、真赤に上気しながら弁解した。
「いや、ごもっともです。お年寄は、女優なんかになるといえば、恐らく大反対でしょう。」と、そういってから小さい娘に、
「祥子や、安心しなさい。先生への電報は、わるい報知じゃなかったんだよ。パパは、ちょっとご用事が出来たから、『コンコン山のきつね』は、また後にしようね。」祥子が、素直にうなずくのを新子は、
「今度は、私がお読みしましょうね。」と準之助氏の膝にある本を受けとった。
「四谷のお宅は、谷町でしたね。谷町の何番地ですか。」
「二十七番地でございますの。」
「お姉さんのお名前は?」
「圭子でございます。」
「ケイ、どんなケイです。」
「土を二つ重ねた。」
「分りました。じゃ、出来れば今日中に届くように。遅くとも明日午前中に届くように。スリー・ハンドレッドでいいんですね。」と、念を押して、前川氏は部屋を出て行った。
新子は、前川氏の後姿を、ありがたく見送りながら、(いい方だわ。あの方が、私のことを心の底でどう思って、いらっしゃるにせよ、とにかく、いい方だわ。こんな問題に、こちらをちっとも、不愉快にせずに、あんなに美しくお金を出して下さるなんて!)と、思うと、たまらない気持になって、祥子にいった。
「祥子さんのお父さまは、何ていい方でしょう。ほんとうに、いい方だわ。」
何だか、祥子に頬ずりしたい気持だった。祥子も、その大きい眼をかがやかし、
「そう。じゃ、先生もパパ好き。」
「ええ大好き。」
「祥子も好き、ママよりもズーッと好きよ。」
その日の午後、木賀子爵は急に東京へ帰ることになった。新子が小太郎の相手をしている時に、女中が知らせに来たので、新子も小太郎と一しょに、玄関まで見送って出た。
「やあ! また、お目にかかりましょう。お元気で……」木賀は、明るい微笑と遠慮のない調子で、新子に云った。
相変らず、大公妃のようにすましている夫人が、木賀がそう云うと同時に、いやな一瞥を新子に送った。
木賀が自動車に乗ってしまってから、夫人は、あわてて呼び止めた。
「逸郎さん。私、やっぱり駅まで送って行ってあげるわ……駅へ行くの少しおっくうだけれどいいわ……このままでいいんだから……」と、云いさして良人の方へ視線を向けて、
「逸郎さんを送って行ってもいいでしょう。ねえ、ちょっと行って来ますわ。」と、云った。いつものとおり、傍若無人で良人の意志など問題でないようであった。
「ちょっとまた、支度しますから……」と、云って、奥へ引き返すと、お化粧を仕直して、帯をしめ直したらしく、十分近くも皆を待たせてから出て来た。
自動車に乗った二人を、新子は丁寧に頭を下げて見送った。
サイレンの響きが、かすかになった頃、準之助氏は新子に、
「四谷谷町二七でしたね、さっき電話をかけておきました。もし、お姉さんが留守だったら、劇場の方へお届けするよう、云い添えました。貴女からも、お姉さんに、電報をお打ちになったら、どうですか。そして、お姉さんに、物質的なことは心配なさらないで、専心に舞台の方を、おやりになるよう、激励しておあげになったらどうですか。」かゆい所に手の届くような心づかいだった。まるで、自分に対する親切と好意の権化のように思われた。
もうその人に対する心の警戒も遠慮も忘れて、頼もしく嬉しくありがたく思うばかりだった。
姉の歓喜、輝きに充ちた舞台姿などが、胸の内に浮び上って来る。
なごやかな感情と、充ち溢れる感謝とを、新子は、
「ありがとうございます。」と、簡明にいい表した。
不当な謝礼を貰った上に、不当なお金を借りる、慎まねばならぬと思いながら、結局新子は、準之助氏に甘えているのであった。
小太郎は、緑色の自転車に乗って、前庭を、クルクル廻っていた。
「どうぞ、いつまでも、僕の家にいらっして下さい。」
「それは、私の方からお願いすることですわ。」新子の言葉に初めて、媚態らしいものが、ほのめいた。
「僕は、いつも貴女に、今のような晴れやかな顔をして、いてもらいたいのです。お困りになれば、どんなご相談にでものりますよ。」気がつくと、準之助氏があまりに、身近にいるので、新子はハッとして一歩退いた。
美沢は、新子からの手紙を受けとった。
おたより有難う存じました。
小さいお嬢さんが病気になったので、その方に気を取られて、四、五日お手紙を書けなかったのですわ。でも、もうほとんどよくなったので、私も安心しました。ところが三、四日前、私は無茶に走らせて来た夫人の馬と出会頭になって、驚いて樹にぶっつかりましたので、足を痛めましたの。わずかな傷でしたが、ショックの方が大きく、気持がわるくなって、お返事をすぐ書く気になれなかったのでした。
今日は、また森に行って、貴君のことを思いました。ここの静かな森を、貴君と一しょに歩きたいと思いましたの。
軽井沢は、ほんとに貴君に気に入りそうなところですわ。何とか都合して、一日でもいいから遊びにいらっしゃいませんか。夜など、一人でぼんやりしているとき、貴君のお部屋の容子なんか、よく思い出していますのよ。今頃は物干しに、貴君はきっと朝顔の鉢をいくつも並べているでしょうね。いつも貴君の書棚の上にかかっている「読書随処浄土」というお父さまが、お書きになったという字額が、すぐ目に浮んできますのよ。ここでは、貴君とお話しするように、心からお話の出来る人は、誰もいませんの。……
七月も終りになってから、美沢の通っている練習所も閑散で、練習はほとんど休みになったので、美沢は大抵家にいた。
この手紙も、昼を過ぎた暑い部屋でよんでいた。面と向って話していると、センチメンタルなところは少しも感ぜられない新子ではあるが、手紙となると、お互に別れて半月以上にもなるせいか、ひどく熱情的になったような気がした。
そして、新子の心はいつも、自分の身辺にまつわっていてくれるような気がして、心強い感激を感じるのであった。
やはり、新子は自分を愛していてくれるのだ。ただ、現代の女性が、多くそうであるように、愛情と結婚とを性急に、むすびつけようとしないだけなのだと思った。
彼は、新子の手紙を二度くり返して読んだ。そして、四、五日の内に、一度軽井沢へ行ってみようと思い出した。
前川氏は、物分りのよさそうな人だから、新子を訪ねて行ってもおかしくないだろうし、初めての軽井沢を、新子に案内してもらって歩いたら、どんなに楽しいだろうと思ったりした。
そんなことを考えていると、つい新子と相対坐しているような楽しい気持になった途端、彼はマザマザと新子の肉声を、耳にしたような気がした。
「ご免下さい!」
二度目に、ハッキリと下から聞えた声は、ソックリ新子の声だった。(急に軽井沢から帰って来たのかな)そう思って、胸をとどろかして、階段の口まで出た。
「ご免下さいまし!」
いよいよ新子のような声が、玄関から、あきらかに、ひびき上って来た。
思いがけない──全く思いがけなく、それは美和子だった。
新子ならば、──彼は瞬間新子が来たと感じてしまったので──物をも云わず手を取って、二階へ抱き上げてしまおうと思い、激しい情熱が顔一杯に露出になっていたので、──意外にも洋装の美和子の姿が、ヒョッコリ三和土の上に微笑むと、彼は表情のやり場に困って、顔や心を冷静に引きもどすために、しばし黙っているよりほかに、方法がなかった。
「何を、びっくりしていらっしゃるの?」美和子も、てれくさそうに、しかし、すぐと散る花片のように、表情を崩しながら、彼を見上げた。
「お上り! 一人?」彼は、まだ妹の背後から、玄関へはいる新子を想像していた。
「上ってもいいの?」
「だって、遊びに来たんでしょう。」ようよういつもの自分に返ることが出来た。
「小母さまは?」
「今、ちょっと用達に出かけている。」彼は、そういうと、先へ大急ぎで、二階へ上ると、新子からの手紙を机の抽出しにかくした。
後から静かに上って来た美和子も、いきなり男の部屋を訪ねて来た恥かしさに、落着けないらしく、
「大きいお姉さまが、二十五日からお芝居をしているのよ。私初日に見たけれども、割と評判がいいからもう一度見たいの。でも、一人で見るのもつまらないから、美沢さんでも誘おうと思って来たのよ。坂を上ると、とても暑いわねえ。」と、クルリと美沢に背を向けた。そしてコンパクトを出して、顔を直し始めた。
ボイルの洋服が、汗でジットリと背について、白い首筋と黒い断髪と、全体がなにか親しい、生々しい感じであった。
美沢は、妹にしてやるように、団扇でその背をハタハタと煽いでやりながら、
「姉妹って、どこか似ているもんだなあ! 貴女と新子姉さんとは、顔立ちはまるで違うから、面と向って話していたんじゃ、ちっとも気づかなかったけれど、声だけ聞くとまるで同じだ……」
「そうお、そんなに似ている?」
「似てるよ。さっき、姉さんかと思ってびっくりしたよ。それに美和ちゃんらしくもなく気取っていたからさ……」
「だって、貴君の家へ来るの初めてだし、小母さんいるんだし、少し気取っていったのよ。」
子供らしく、艶めかしくいいながら、
「ありがと。もういいの。」と、美沢の手から団扇を取り上げると、ストンと脚を投げ出し、横坐に坐った。
「お姉さんの芝居、なかなか好評だね。」と、美沢がいった。
「貴君も見たの。」
「ああ、一昨日。」
「なあんだ! じゃ、あれ見に行かなくってもいいわ。ズー・イン・ブダペストって、活動見に行かない?」
ハッキリした二重瞼の大きい瞳を、浮気っぽく動かしながら、甘えかかった物いいをした。
暑い陽が、カッと部屋の中に射し込んだので、美沢は立って、簾をおろした。
立ったついでに、階下へ行ってお茶を持って来るつもりで、美和子の背後を通ろうとすると、
「ねえ、どこへ行くの?」と、美しい滴のような眼が、彼を見上げた。
「お客様には、お茶というものがいるからさ。」
「厭やン。いやだわ。初めて来たお部屋に、一人になるの嫌い。ここにいて、ねえ! お茶なんか飲みたくないわよ。お婆さんじゃないんだもの……」
「駄々っ子だねえ。じゃ、小母さんの帰るまで、飲まず食わずにいるさ。」と、いって美沢が美和子と、さし向いに坐ってチェリイをつけると、美和子はすぐ羞しそうに、唇の傍に手をあてたり、下眼づかいをしたり、いたいたしいほど、処女めいた表情をする。彼は、このお嬢さんを、いかに扱うべきか考えずには、おられなかった。
「靴下がとても、汗ばんで気持がわるいの。ちょっと、取っていてもいいかしら。」
「いいさ。」
美和子は、立ち上ると、それでもしおらしく、後を向きながら、スルスルと靴下を取ったが、かの女は彼の眼を、さっぱり恥かしがっていなかった。
「ねえ。随分毛深いでしょう。」
「うん。」
惜気もなく、前に出された裸の脚に、美沢は、ふーっと瞼や唇元を、温い風に吹かれたような気持で、
「僕なんか、キレイなものだ!」と、自分も、ちょっと浴衣の裾を、あげて見せた。
「厭やン。男のくせに、そんなにのっぺりしたの気味がわるい。」と、いいながら、盛んに自分のスカートを引張り降して、
「毛ぶかい人は、情が深いって! 貴君なんか薄情なのよ。」まるで、年増芸妓のような言葉を、はずかし気もなくズケズケいった。
「頭の毛なんか薄いんでしょう……」と、のび上って頭の頂辺をのぞきに来た。
美沢は、もう美和子の前では、何事も遠慮なし、横になって話ししようと、また美和子が、シュミーズ一つになろうと、それは何でもないことだと、軽快に感じられて来た。
「こんなものさ。」と頭を下げて見せた。
「立派ね。あら、あら、白髪があるわよ。」
「ウソをつけ、光線のせいで光っているんだよ。」
「あんなこといっている。二本あるわよ。取ってあげるから、ジッとしていらっしゃい。」
美沢の耳の後に、美和子の手がふれて、頭を上げると、それが美和子の乳房を打つような感じだった。
雌蘂に抱かれた一疋の虫のように、美沢は、深々と呼吸づきながら、
「痛っ!」
「それ、ごらんなさい。これ、白髪でしょう。白髪よ。」
「なるほどね。後は取らないでよろしい。」
「なぜ?」
「若白髪は金持になるんだろう。」
「そう云うわね。でも迷信よ。白髪なんか、ない方がいいわよ。」
「僕は、かつぎ屋だから……」と、あまりに近づく、美和子の肌を遠ざけながら立ち上って、片隅のビクトロラの蓋を払って、バッハのコンチェルトをかけた。
「美沢さんのところには、ジャズがないのね。」
「有る。二、三枚なら、テレジイナのカスタネットでもかけようか。」
「そんなのいや。もっと、ウットリとのびのびするようなの、ないの。どら。」
立って来て、レコード・ケースを掻き廻して、
「仕方がないわね。これでもかけましょう。」と、取り出したのは、ラヴェルのエスキャール。
「そりゃジャズじゃないぜ。」
「これの方が、ましだわ。」
「へえー。君、ちゃんと知っているんだねえ。」
「そりゃア知ってるわよ。新協なんか、もうせんから、シーズンになれば欠かさないのよ。」
美沢は、美和子の中に、なにか新しいものを発見けたように、彼女を見直した。
やがて、レコードが重くはなやかに、物がなしく、ひそやかに、あらゆる感情の交錯した音を、ひきずり出して、部屋の気分を一変させた。
「君が、音楽が好きだとは思わなかった!」
「あたし何でも好きよ。音楽も、文学も、恋愛も。」
「へえ! 剛気だな。でも、恋愛だけは余計じゃないか。」
「三人姉妹でしょ。三つの階級があるのさ。上のお姉さまは、貴族よ。新子姉さまは平民で、あたしは芸術家よ。」
「なるほど、そうかもしれないな。」
「上のお姉さま、少しいやよ。家では、お高く止まって、結局皆に何かさせてしまうのよ。新子姉さまは、あまりに家のことを心配しすぎるのよ。つまり、貧乏性の損な性分なのよ。」
「君は?」
「ボクはね。とっても素敵さア。」
いきなり男の子のように、きらきらと眼を輝かした。
美沢は、いつの間にか、壁に背をもたせて、両足を前に投げ出していた。美和子と話していると、人間の男と女という気がしなくって、ついそんな遠慮のない姿勢になってしまうのだった。
美和子が、一茎の薔薇ならば、彼も一茎の植物の花になり、新鮮に軽快に、のびのびとした気持になるのだった。
コマシャくれた頭のいい妹と話しているような気になって、
「美和子ちゃん、君が素敵って、どんな風に素敵なのさ?」と、訊いた。
「そりゃ、キミがいわなくっちゃ。」白々と男の子のような、あどけなさで云った。
「チェッ、素敵なものか。僕に云わせりゃ、不良少女だぜ。」
「ああ、そう。私少し不良ね。」と、アッサリ肯定した。
「君は、正直だからいいね。」
「そこなんか、つまり素敵なんさ。正直でうぬぼれが強くって、だから失恋なんかしたことないの。」
「失恋なんかしたことないって、第一恋愛したことあるのかい。」
「無いわ、でも、すぐあるかもしれないわ。」
「美和子ちゃんの好きなタイプの男って、どんな人?」
「例えば……」そう云いかけて、たちまち頬を赤くしたかと思うと、匂うほど、女になってしまうのだった。
美沢は、美和子と話していると、自分の心が楽しく弾み上って来るのを感ぜずにはいられなかった。
彼は、美和子を女らしく感じた途端、脚をひっこめて、たばこに火をつけた。
「あたしにも一本……」そういって、美和子は、美沢のさし出したチェリイの箱から、一本とり出して、可愛い手付で火をつけると、
「ねえ。活動に行かない?」と、促した。
「こんな真昼に、暑いじゃないか。」
「冷房装置のある所へ行けば、ここよりは、よっぽど涼しいわ。」
美沢は、苦笑しながら、
「美和子ちゃん、僕も不良だぜ。あんまり、くっついていると、こわいぜ。」
「どうするの?」
「さあ! 何をするか……」
「美沢さんなんか、こわくないわ。新子姉さんに、甘いところ、さんざん見ているんだもの。そんなおどかしきかないわ。ねえ、シネマへ行きましょうよ。」
時には、妖婦のように色っぽく、時には天真爛漫の子供のように無邪気な美和子を、美沢は持ち扱いながら、結局……妖婦らしいところには、眼をつむって、愛らしい少女らしいところだけを、見ておればいいのだと思った。
新子の妹として、映画へ連れて行ってもいいだろうし、こうして無駄口を利いていることも、新子を偲ぶよすがにもなるだろうと思った。
しかし、彼の官能が、新子などにはとても見られないような、美和子の新鮮さに刺戟され、楽しまされていることは事実であった。
もう、一しょに出かけることになって、母親の帰りを待つ間に、美沢は美和子から、洋服を着せられてしまった。
弟を連れて、親類の家に行っていた母が帰って来ると、美沢は美和子に母を紹介したが、その紹介が結局帰りがけの挨拶のようになって、美和子は美沢と連れ立って、弥生町の坂を逢初橋の方へ降りて行った。
ここからは、浅草が一番近いので、二人は予定通り、大勝館へ行くことにして、円タクに乗った。
大勝館で、美和子は「ズー・イン・ブダペスト」はお終いまで、神妙に見たが「ジェニイの一生」になると、中途まで見て、
「ねえ、出ましょうよ。」と、いった。
美沢は、見ても見なくてもよかったし、美和子はのん気に見えても、帰りを急いでいるかもしれないと思って、だまっていわれるままに、外へ出た。
「面白かったわ。『ジェニイの一生』なんていうの、いや。あれを中途まで見ている内に、散歩のプランが浮んだから、出てしまったのよ。」六区の雑沓の中へ出ると、すぐ美和子がいった。
「まだ散歩するの。」
「だって、これからすぐ帰っても暑いわ。」
「どんなプラン?」
「私に委せて下さらなきゃいや、貴君のお家の近くで蜜豆を喰べるのだけれど、その前にちょっと散歩したいの。」
時計は、まだ八時を少し過ぎたばかりであるし、美和子の子供っぽい願いを、無下に斥けるのも何となくいじらしく思われたし、
「うん。」と、いってしまった。
うんと聞くと、美和子はもう、小走りに松竹座の前の大通りに出て、そこにいる「空車」の一つを、三十銭に値切ってしまった。
車へ乗ってから、美沢は訊いた。
「どこへ行くの。」
「訊いちゃいや。出来たら、眼をつむっていて……」
「僕を誘拐するの。」
「女ギャングよ。」そういって、小さい右手をピストルの恰好にして、美沢の横腹にさし当てた。
「くすぐったいよ。」美沢は、その手を握っておしのけた。
自動車は、美和子に命ぜられていたと見え、公園裏のコンクリートの大道を、入谷から寛永寺坂にかかって、上野公園の木立の闇を縫い、動物園の前で止まった。
「どう、ここから池の端へ降りて、不忍の池の橋を渡って、医科大学の裏の静かな道を一高の前へ出て、あすこで梅月の蜜豆を喰べて、追分のところで、別れるの。少し長いけれど、いい散歩コースじゃなくって、さっき活動を見てから考えたの。」
美和子は真面目にしているのかふざけているのか分らないが、とにかくこのコースは、いかにも恋人同士が選びそうな人目の薄い散歩道である。こんな所を歩きたがるとすれば、女として彼女を警戒する必要がある。そう、美沢が思った途端、水銀のように変化の早い彼女はもうそれと悟って、美沢の警戒を柔らげるように、たちまち子供らしく無邪気に振舞うのであった。
「私、動物園とても好きよ。だから、今の活動もとても見たかったの。ほんとうに、今日は楽しかったわ。私、お友達がみんな避暑に行っているから、とてもつまんないの。新子姉さんはいないし、圭子姉さんは、芝居に夢中だし……」
「しかし、美和子ちゃんは不良だね。ここから、弥生町へ抜ける道を知っているし、四谷に住んでいて、梅月の蜜豆なんかたびたび喰べに来るのかい?」
「だってえ、そりゃ西片町にお友達があったのよ、それから桜木町にも仲よしがいたんだもの。だから、この道は随分歩いたのよ。」
「だって、西片町から桜木町なら、逢初橋へ出た方が近いじゃないか。」
「そら、用事のときはあっちを歩いたわよ。散歩のときは別よ。散歩って近道することじゃないでしょう。」
二人は、そんな無駄口を利きながら、清水堂の下の石敷の小径を歩いていた。
そこらあたりは、樹の茂みで闇が濃く、一人の人にも会わなかった。
「貴君は、不良だなんて云ったけれども、善良な紳士ね。」と、美和子は云った。
「なぜさ……?」
「なぜでも、それに臆病ね。」
「何を生意気な、子供のくせに……」
「皆、私を子供と云うわ。でも、私もう子供じゃないわよ。何でも分っているのよ。」
彼女はちょっと立ち止まって、
「ねえ。美沢さんも、新子姉ちゃんがいないで、寂しいでしょう。だから、私ちょっと慰問に来て上げたのよ。ほんとうはそうなのよ。」
「何を下らんことを!」
美沢は、本気に少し腹が立って来たので、美和子を振り捨てるように、足早に歩き出した。
美沢が、足早に歩き出すと、美和子はすかさず、追いかけて、
「ねえ。」と、改めて彼の腕に縋りながら、
「私、美沢さんに初めてお会いしたの、去年の三月よ。」
美沢が、だまっていると、いよいよ美沢の胸に首をすり寄せながら、
「貴君、覚えていない?」
「覚えているよ。麹町の家でだろう。お茶を出して、すぐ逃げてしまったじゃないか。それから二、三度会ったけれど、いつも居るなと思う瞬間にパッと逃げて行ったりなんかして、ふざけたお嬢さんだと思っていたよ。」
「どうして、逃げたか知っている?」
「そんなこと知るもんか。」
「貴君に顔を見られるのが、とてもきまりが悪かったからよ。その頃から、私貴君に顔を見られると変だったのよ。」
組んでいる腕と腕との間が、しとしと汗ばんで、美和子の言葉を聞いていると、彼女の軽い腕が、千鈞の重みを持って来る。
「ねえ。」美和子は、また立ち止った。
「何だい。」
「貴君が欲しいと云えば、私あげるものがあるのよ。」
「ええ。」
思わず、その顔を見ると、その暗い闇の中で、美和子は眼をつむって、桜んぼの堅さを思わせるような型のよい愛らしい唇を、心持上へさし出して……。
美沢は、身体の中で、何かが砕けて行くような気がするのを、グッとこらえながら……これは処女ではないのだろう。
(もしそれならちょっとだけホンのちょっとだけ。花の匂いを嗅ぐだけなら)そうした意慾が、チョロチョロ燃えた。
「度胸がないのねえ。」
木の実のような赤い唇が、チラチラ白い歯をこぼして……。その言葉で、美沢は、鞭打たれたように、いきなり抱き寄せると、一瞬天も地もなかった。二人は、闇にとけたように……。
「厭。厭。そんなのいや。」
いきなり、美和子は美沢を突き退けると、三、四間先へ走った。
夢見心地を、つきのけられたのが、思いがけなかったので、息を弾ませながら、追いついた。
石燈籠が、ずらりと両側に並んで、池の端から、下谷の花柳界の賑いの灯が、樹間に美しく眺められた。
「ただ、お友達の印だけの、かるい接吻がほしかったのに……まるで、恋人同士みたいなこと、するんだもの、あんなのいや。」
近寄ると、美和子の顔が、頼りなげな、泣き出しそうな感じである。
一擒一縦! 子供と油断したが、これは天性の娼婦である。
(しまった!)と、美沢は刹那に感じた。
祥子は、綴方や童謡などを好んで、即興的につくるのに、小太郎は面倒くさがり屋で、数学や理科が好きで、国語ことに綴方など、大嫌いという性質であった。
だから、夏季休暇中の宿題となっている綴方はもちろん、一日一日の日記帳の小欄に、たとえば(町でも屈指の財産家となる)とか(まことにもっともな話である)などという断片的な文章を用いて作る短文などは、一から十まで新子にまかせたきりである。そして、自分では何もしようとしないので、昨日小太郎がパパに連れられて、国境平の奥の方に放牧の牛を見に行ったのを機会に今日の午後までに、宿題の一つである(夏休みの一日)という綴方を作っておくように、指切りげんまんまでして約束した。
小太郎は、二時の授業時に、笑いながら、半截の用紙に、それでもやっと一枚と二行くらい書いて来て、新子にさし出した。
お父さまが、「牛を見に行こう」と、おっしゃったので、僕は洋服をきかえたり、サンドウィッチを作ったり水筒に紅茶を入れてもらったりして、仕度をした。軽便を降りて牧場まで歩いて行くと、暑くて、苦しかった。日向の草原に、牛が寝たり、立ったりしていた。牛の子もいた。お父さまが、「牛についていってごらん」と、おっしゃったので、僕は「四足獣、草食獣、複数の胃で、はんすうする」と、いった。
するとお父さまがニコニコした。
よく見ていると、仕度という字を、一度平仮名でしたくと書いてから、消して、仕度と直してあった。
この字は、四、五日前に、新子が支度の方が正しいと、教えたばかりであったので、彼女は、微笑を浮べながら、しかしややきびしい調子で、
「たいへん、お上手だけれども、一字小太郎さんらしくもない間違いをしていらっしゃるわ。ね、仕度は、支度の方が正しいと、この間云ったでしょう。」と、新子は鉛筆で、白い紙の端に支度とかいてみせた。
いつも、素直な小太郎であるが、嫌いな綴方を、やっと自分で作ったのに対し、とやかく云われたことが、すぐかんに触ったらしく妙に意固地になり、てれくさくなったらしく、
「僕、それよく分らなかったから、平仮名で書いておいたの、そしたら、ママが本字を教えてくれたんだもの。それでも、いいんだよ。」と、子供らしく、喰ってかかって来た。
「ええ、普通によく仕度とかいてありますけれど、それは間違いなんですよ。やっぱり支度と書かなけりゃ。」
「だって、僕が間違ったんじゃないや、僕は平仮名で書いておいたんだもの。ママが悪いんだ、ママに怒って来る!」と、云うと小太郎は早くも立ち上って、(アッ!)と云う間もなく、飛鳥のように部屋を飛び出した。
「小太郎さん、お待ちなさい!」と、新子はあわてて、後から部屋を出て、呼び止めたが、小太郎は綴方の紙をヒラヒラさせながら、廊下を、首をすくめ、肩を怒らしたふざけた恰好で弾丸のように走って、二階への階段を一足飛びに上りきってしまった。
新子は、小太郎の後姿を見送りながら、これは大変なことになったと思ったが、今更施すべき策がなかった。
「ママの嘘つき!」
「何が……」
「仕度って字は、こう書くんじゃないって!」
夫人は、美しい眉をよせて、
「ママは、その字ばかり使っていてよ。それ以外に、したくと、どんな字を書くんだろう。」
小太郎は、新子が書いた字を、母に示しながら、いった。
「こう書くのが本当だって、だから僕仮名で書いておいたのに、ママが余計なこというんだもの。ママなんぞに、直してもらわなければよかった。」
夫人の眉は、たちまちピリピリと吊り上って、
「そうお。それで、南條先生が、わざわざ貴君を、ここへよこしたの。」
「ううん。」小太郎は、騎虎の勢い、そう答えた。
「じゃね、貴君の勉強の時間が了ったら、先生にお話があるから、この部屋に見えるようにいって頂戴!」
「うん。」
母の部屋から、バタバタとかけ出した小太郎は、階段を降りようとして、下から不安そうに、上を見ている新子と顔を見合わした。
「僕、ママにそう云ったよ。だって僕が間違ったんじゃないんだもの。」と、声が高かった。
母夫人は、小太郎の声に、新子が、すぐ階下にいると知ると、部屋から出ると、
「南條先生、下にいらっしゃるの?」と、小太郎に云った。
「うん。」
「じゃ、今の方がいいわ。すぐ、先生にママの部屋に来るように云って頂戴!」
小太郎は、母の険しい言葉を聞くと、ようように、自分が調子に乗り過ぎて、とんだ失策をして、南條先生を窮地に陥れたことに気がつくと、かなしそうに新子を見おろしながら、階段を下りて来てさっきとはまるで違って、しょげ切った容子で、
「ママが、先生にご用だとさ……」と、すまなさそうに云った。
今更、小太郎を咎めるわけにも行かず、といって自分のしたことを後悔する気にもなれず……とはいえ、新子にとって思いがけない災禍だった。
小太郎が、不安そうに新子の顔を、見上げるのを、
「じゃ。ちょっと行って来ますから、貴君はおさらいをしていて頂戴ね。」と、やさしくいって二階へ上って行った。
夫人の部屋の扉を、ノックすると、
「どうぞ!」と、いう馬鹿丁寧な返事に、新子は針の山へ入る思いで、部屋にはいった。
招じられたぜいたくな椅子にも、剣が植えてあるような思いである。
夫人は、かるく一つ咳をしてから、
「後でもいいんですけれど、私いいたいことをためておくの、いやな性分ですから、すぐ来ていただいたんですの。私が教えた仕度という字、違っておりますの?」と、単刀直入であった。
「………」
新子は、夫人の勢いを避けて、だまっていると、
「ああ書きますと、誰にも通じませんかしら……」
「いいえ、通じますわ。」
「そうでしょう。通じれば、それでいいじゃありませんか。」
「はあ。」
「言葉というものは、通用するということが、第一じゃありませんの。貴女は、英語の方は、お精しいそうだからご存じでしょうが、保護者という字だって、本当に発音すれば、ペイトロンか、ペトロンでしょう。」いかにも、外国に行ったことのあるらしい、しゃれた発音であった。
「はあ。」
「でも、パトロンはパトロンでいいじゃありませんか。もう、それは日本語なんですもの。それを知ったかぶりで直すのこそ、おかしいと思いになりません。それから、大統領のリンコルンだって、本当はリンカーンでしょう。でも、リンコルンというのも、それで何だか、昔風でなつかしくっていいじゃありませんか。」
「はあ!」
「日本の言葉にだって、間違ってそのまま通用している言葉が、沢山あるでしょう。殊に仕度という字なんか、十人の中で七、八人まで、仕度とかいていやしませんかしら。」
「はあ。」
「十二、三の子供の綴方に、仕度と書いてあったからといって、それを一々直すには及ばないと思いますが。」
「はあ。」
「もっとも、子供の間違いを直すのと同時に、親の間違いを直してやろうと、おっしゃるのなら、これはまた別の問題ですが……」
「まあ! 私に、そんな……」
「だって、小太郎を、私のところへおよこしになったのは、貴女でしょう。」
「まあ決して……」
そこまで、夫人が、いったとき思いがけなく小太郎が、ひょっくり部屋の中へはいって来た。
子供心にも、新子のことが心配になり、先生のために、何か一言釈明したかったのであろう。夫人はすばやく、それを見つけると、
「小太郎さん。貴君は、下へ行っておさらいをしていらっしゃい!」と、いった。
「だってえ、おさらいといっても、僕は今日まだ、何にも先生にしてもらっていないんだもの。」と、鼻にかかった声でいうと、夫人はすぐ威丈高に、
「あなた、ママの云うことを近頃聞かなくなったわねえ。早く行って、おさらいをしていらっしゃい!」と、これも新子への当てつけに、聞えた。
小太郎は、不平らしく、しかも新子の方を、心配そうに、ちらっと見て、部屋を出て行った。
新子は、こんなときには、あっさりと謝った方がいいと思ったので、
「私、何の気もなく、ご注意したので、奥さまのおっしゃるような、そんな気持で、ご注意したのじゃございませんわ。」と下手に出ると、夫人は新子の顔を、ジロジロ見ながら、
「仕度が間違いで、支えるという字をかくのが正しいにしたところで、ここにたいへんな大問題がございますわね。」と、夫人は前よりも、更に開き直った口調だった。
新子は、夫人が更に何を云い出すのかと、呆っ気に取られて、夫人の顔を、ぼんやり見上げていると、
「子供の教育についてですねえ……」と、改まった言葉に、
「はい。」と素直に受けると、
「些細な誤りを訂正して下さる利益と、親の云うことにも間違いがあるという観念を植えつける害悪と、差し引きが付くものでしょうかしら……」それは、思いがけない鶴の一声だった。
「まだ、十二、三の子供なんですもの。仕度なんていう字を、どう書こうと介意ないと思いますの。だが母としての私の云うことを、あれが信じなくなったとすると、これは取り返しのつかない一大事じゃございませんかしら。」
「はあ、ごもっともで。」新子は、そう云わずにはいられなかった。
「貴女は、失礼でございますけれど家庭教育の本末を顛倒していらっしゃらないでしょうか。」
新子は、先刻から、馬鹿馬鹿しくなり、こんなことで云い争っても、つまんないと思っていたが、こうまで夫人が、カサにかかって来る以上、もうこの仕事をよすほかはないと決心した。
綾子夫人は、指先で椅子の腕を軽く叩きながら、今までの態度を、急に無雑作な調子に崩すと、いった。
「第一貴女に、家庭教師としての嗜みを知って頂きたいんですよ。」
それは、もう露骨な侮蔑であった。新子は、夫人の物の云い方に半ばあきれながら、顔色を蒼白くさせて、きっと夫人の顔を見守った。
この相容れざる二人の間には、ささいな問題から思いがけない突風が、吹き起ったのである。
夫人は云いつづけた。
「第一、貴女が私の家にお客に来ている若い男の人と、すぐ馴々しくなって、散歩に出たり……また最初ご注意したと思いますが、貴女は家庭教師として、来て頂いているんですから──決して私の家の親類でも家族でもないんですから、子供達とあまり親しくして頂いてはこまるんです。子供達が貴女を女中のように、使い廻すようになったらおしまいですからね。子供に本を読んでやるなどということは、女中のすることですからね。」と、一気に云うと、綾子夫人はいかに積もる忿懣の情に堪えないと云うように、椅子の背に身体をもたせて、絹よりもなめらかな麻のハンカチーフを両手の中でもみしだいた。
新子は、女性としての悪徳である、嫉妬心、高慢、わがまま、邪推というようないやな物ばかりを、つつしみもなく、さらけ出す夫人に対して、思わず冷笑が浮び上るのを、ジッと噛みしめながら、椅子から腰を浮かせると、一歩退いて、ハッキリと、
「私の致しました一々のことが、そんなにも奥さまのお気に召さないとすると、致し方ございませんから、おひまを頂きたいと思いますけれど……」と、云った。
新子が、充分謝りもしないで、すぐ反抗的に出た態度が、グッと夫人の神経を、いらだたせたらしく……。
「私は、貴女にそんなことを云わせようとして、お呼びしたわけじゃないんですわ。ただ、お年若な貴女に、ご注意をしたかったまでなんですの……」と、わざと少し声をやわらげて云った。夫人の趣意は、新子を思うさま、やっつけることであり、新子が、今までの家庭教師に比して、ずっと秀れていることを、心の内では認めているだけに、これを機会に追い出そうという肚ではなかった。
しかし、もう新子の心は、定まっていた。
「ご好意はありがとうございます。でも、この先お邪魔致しておりましても、奥さまのご希望どおりになれますかどうですか!」
綾子夫人は、新子の最後の言葉を聞くと、サッと顔色を変えて、肘掛椅子から立ち上ると、
「では、どうぞご自由に。」と切口上だった。
新子が出て行くと、夫人は左右の手の中指と母指とを、タッキタッキと交互に鳴らしながら、姿見の前へ歩いて行って、自分の姿や顔をにこやかに眺めながら、香水を耳や喉につけて、心の中で、
(この次は、若い男の家庭教師を雇うことにしよう。女なんか真平だわ)と考えた。
その時、厳格な表情をした準之助氏が、はいって来た。
夫人は、腕かけ椅子に、深々と腰をおろすと、しおらしい表情で良人を見上げた。
「どうしたのだい? 一体、小太郎が綴方の字を間違えて、それで南條先生が……」と、準之助氏のいいかけるのを、夫人は頷きながら、引き取って、
「小太郎が、貴君に何か申し上げましたの? ほんとに、何でもないつまらない、ことなんですの。」
夫人は、笑いながら、ごく自然に良人の片手を握って、
「そう? だって、私も少し驚いているんですよ。あの人くらい、高慢で、しかも自我の強い人ったらありゃしないわ。私が小太郎に仕度という字を仕ると教えたのが、違っていると云って……」
「支度は仕ると書いたら、間違いか……」
「ほら、貴君だって、仕るとお書きになるでしょう。それを支える度が正しいと云って、小太郎をわざわざ私の処へ訂正によこさなくってもいいじゃありませんか。それじゃ、私だっていい加減不愉快になるじゃありませんか。それに、あの人子供と少し馴れすぎるし、逸郎さんなんかと、すぐ散歩するのだって、どうかと思いますのよ。だから、その点も、ちょっと注意しましたの。すると、もう開き直ってよすというんですもの。」
「ふむ。」準之助氏は、呼吸をのんだ。
「私だって、今までの家庭教師よりは、あの人よっぽど、いいと思っていますわ。でも、ああ高慢で素直でないとなると考えますわねえ。それに、私がちょっと注意したら、すぐ跳ね返して来て、お暇を頂きたいというんですもの。(どうぞご自由に)というほかないじゃありませんか。」
「しかし、子供達は、とても南條さんに馴れているじゃないか。南條さんが来たために、小太郎なんか、ずーっと勉強するようになったと思うが……」
「ですから、私もあの人に出て行ってくれなんて、ちっとも云いませんのよ。でも向うから暇をくれと云う奉公人に、主人が頭を下げて、どうぞ居てくれとも云えないじゃありませんか。あの人も、少し高慢なところが、瑕ですわ。もう、少し素直だとほんとうにいい人なんですけれど。」
「ふむ。」準之助氏は止むを得ずうなずいた。夫人がこうも円転滑脱、弁舌さわやかに、自分の立場を明らかにした以上、こっちからそれを崩しにかかることは、たいへんである。下手に、かかって行けば、たちまちヒステリックに不貞くされてしまうに違いないのだ。夫人が、まだ表面だけでも体裁のいいことを口にしているのを、よいことにして、新子を引き止める承諾を求めるのが肝腎だと考えた。
準之助氏は、もの静かに云いつづけた。
「しかしね。かわりの先生を雇うにしたって、すぐにいい人はないに定っているし、折角小太郎も勉強ぐせが付いたのだし、ともかく夏休み中だけでも、南條さんに居てもらおうじゃないか。」
「ええそりゃ、あの人が私に謝って来さえすりゃ、今日のことは何も無かったと思ってあげられるわ。」と、夫人は大いに寛大なところを見せた。
夫人も、新子が居なくなると、折角自分にまつわらなくなった祥子や小太郎が、何かとうるさくなるに定っているし、それに八月の十日頃に一度、一人で東京へ遊びに帰ろうと思っているので、その留守中新子がいた方が、子供のために安心だと考えているのである。
夫人の言葉を聞くと、準之助氏の表情は、急に明るくなって、
「どうせ、よすにしたところで、南條さんは僕のところへ、挨拶に来るだろうから、そしたら、お前の意のあるところをよく伝えて……」
夫人は、もう面倒だというように、小さい欠伸を噛みころしながら、
「でも強いて居てくれなくっても私はいいんですよ。」と、まだ嫌がらせをいっていた。
「お前今日ゴルフへ行くんだろう。」と、準之助氏は、それとなく気を引いてみた。新子を説得するには、相当曲折があろう。それには、夫人が家に居ない方がいいと思ったからである。
「今日はよそうと思っていますの!」
「なぜ? 今日、村山夫人と勝負をつけるのじゃなかったのか。」
「あの人のお相手は、真平だわ! あんな汚いプレイをする人きらいだわ。」
「たいした気焔だね。」
「貴君一人でどうぞ!」
夫人に、そう云われたとき、準之助氏は新子と話をすることについて、別のことを考えついた。
「じゃ、僕一人で、行って来るよ。」そう云って、準之助氏は夫人の部屋を出た。
自分の部屋へ帰ってみると、事件の発端を作った小太郎が、所在なさそうに、大きな椅子に、足をブランブランさせながら、悄気かえって、父をむかえた。
「パパ!」
「何だい。」
「南條先生泣いているよ。泣いちゃったよ。」
「先生どこに居る?」
「お部屋にいる。僕、先生のお部屋をのぞきに行ったら、お机のところにこうしているの、きっと泣いているんだよ。ママこわいから厭さ。」
「お前が、余計なことを云うからいけないんだよ。」
「だってさ、南條先生、東京へ帰ってしまうだろう。そしたら、僕はかまわないけれど、祥子が困るでしょう。」分別のある大人のような口調だった。
新子は、部屋に帰ると、一しきり口惜し涙にむせんでいたが、それが乾く頃には夫人に対してあまりに思い切った態度を取ったのを、後悔していた。
夫人との間には、何の貸借もないが、準之助氏に対しては、そうは行かなかった。姉のために、あんな大金を借りたばかりである。相手が、どんな好意で貸してくれたにしろ、自分は月給の中から、いくらかずつでも払おうと思っているのに、ここで夫人と争って出てしまえば、あまりに義理が悪すぎる。この家へはいる時、路子さんからも、特別に注意されていたのに、もっと隠忍すべきであった。
準之助氏に、何と云い出そうかと、思い悩んでいたので、部屋にそっと、はいって来た小太郎の手が、肩にかかるまで気がつかなかった。
「はい、先生! これパパから。」肩に置かれた小さい手から、眼の前に白い紙片が降った。
「まあ! 小太郎さん。」振り向いた新子の顔が、案外笑顔であったので、小太郎も笑った。
「さよなら。」でも、小太郎はまだ少し、テレていると見え、ふざけたおじぎを一つして、すぐ部屋を駆け出して行った。
新子は、レター・ペイパーを二重に折った書付を開けてみた。
今日のことごかんべんありたし。なお、お願いしたきことあり、今すぐサナトリウムの前にて、お待ち下されたし。
と、書いてあった。
このわずかな文字は、彼女を生々とさせた。もうすべてのいきさつを知っている準之助氏が、自分を引き止めてくれるのだろう。もし、そうなれば、自分も難きを忍んで、夫人に謝りに行こう。彼女は、準之助氏が自分を部屋へ呼ばないのは、夫人を憚っているためであろうと思った。その方が、自分も話しやすい。
彼女は、コンパクトを出して、涙のあとをザッとかくしてから、部屋を出ると、別荘の裏口から森を抜け、草の小路を真直ぐに、外人の経営している療養所の赤い建物の方へ歩いた。
アカシヤの並木がつづき、近く小川のせせらぎが聞えて来る。夏の午後とも思えない静かさである。ここまで、歩いて来ると、新子の気持もずうっと、落着いて来た。
その辺を行きつもどりつ歩きながら、そのあたりの風光から、かの女は非常に佳い音楽や、よい絵画や、よい物語を感じていた。美沢さんなどは、このあたりを、どんなに欣ぶだろうかと考えたくらい、すっかり平静な彼女になっていた。
彼女が、アカシヤの幹にもたれて、今来た道をふり返ったとき、ゴルフ・パンツに鳥打の紳士が歩いて来るのを見た。それが、準之助氏の若々しい姿だと気づいたとき、新子の頬に自然な微笑が溢れた。
「お待たせしましたね。」と、準之助氏は近寄って来て、彼女とさし向いにちょっと立ち止まると、
「あちらへ歩きましょう。」と、新子を誘った。新子も、うなずいてアカシヤの並木道を、山手の方へ並んで歩き出した。
準之助氏は、しばらくの間無言だった。
右側の林の中を、見えがくれに小川が流れている。時折、鶯が鳴き、行く手の道を、せきれいが、ヒョイヒョイと、つぶてのように横切って飛んだ。
N博士の別荘から、左に折れると、落葉松の林の間に、外人の別荘地が少し続き、やや爪先上りになった道を、峠の方へただわけもなく歩きながら、準之助氏はまだ黙っていた。
黙っている相手をどう扱っていいか、新子はやや困惑しながら、しかし自分の方から話しかける場合でないので、やっぱり黙って歩いた。
峠道にかかると、楓や樅やぶなの樹などが、空もかくれるほど枝を交していて、一そう空気がひんやりとして陽の色も暗くなった。
ポタリと頬に露が、
「雨じゃないでしょうか。」新子は立ち止った。
「いや、樹の雫ですよ。お疲れになりましたか。」と、準之助氏は立ち止って、おだやかに云った。
「いいえ。」と、新子は首を振った。
静かな空気の中で、パッとマッチの火が白く光った。準之助氏は、うまそうに煙草を吸いながら、
「いかがです、ずーっと、このまま子供達の面倒を見て下さいませんか。」と、云った。
「はア。」
新子は、準之助氏の長い無言の散歩が、何を意味していたかが、そのときハッキリと分った。
主人として、新子の釈明も求めず、また良人として妻のために弁明もすることなく──そういうことは、新子に不愉快な感情を再現させることだと知って、ただ新子の気持をいたわり、落ちつかせ、平静をとりもどすまで、ブラブラと散歩をして、折を見て結論だけを云った準之助氏の言葉を、新子はうれしく思った。
「妻は、もう何でもありませんよ。貴女も、さっきのこと、もうお忘れになって下さいませんか。」
「はア。奥さまにお詫びに行こうと思っておりますの。」
「そうですか、それはどうもありがとう。それでホッとしましたよ。」急に、準之助氏は、明るく微笑した。
「ほんとうに居て下さるでしょうね。大丈夫でしょうね。」準之助氏は、もう一度くり返した。
「私の方でおねがい致すことですわ。」新子は、こんなに甘えさせられては、いけないと思いながらも、嬉しくなった。
「貴女が、いらっしゃらなくなると、小太郎も祥子も、ガッカリしますよ。僕もガッカリします。どうぞ、これからも、つまらないことは、気にかけないで、のびのびと貴女らしく、子供の面倒を見てやって下さい。どうぞ、これは改めて僕のお願いです。」若者のように、情熱のこもった言葉だった。
「お話は、これですみましたが、ついでに、この次の丘の上まで行きましょう。軽井沢が一目に見えますよ。おつかれでなかったら、ご案内しましょう。」にわかに、少し硬くなった声が──しかしまことに、何気なく新子を誘った。
準之助氏は、新子が、病的にわがままな夫人と、いつかきっと衝突することを心配していた。しかし、聡明な新子のことだから、うまくバツを合わせてくれるだろうと思っていたのが、思ったよりずーっと早く、事件を起してしまった。小太郎から、事件のあらましを聴いたとき、これはいけないと思い、新子がこのまま去ってしまうことを考えると、身内のどっかを抉り取られるような気がした。それほど、新子はもう、彼の心の中に深くはいっていた。
だから、新子と会って、新子に止まってくれるように頼むまでは、何かが咽喉下に突っかけて来ているような感じだったが、こんなに簡単に話が付いてみると、すべてがそのまま楽しい散歩に変っていた。
妻が、やかましい権女であればあるほど、その眼を忍んで、含みのある青い色のうすものに、絹麻の名古屋帯を結んだスラリと伸びた、しかし、どことなく頼りなげな新子と、二尺と離れず歩いていることが……準之助氏にとって、何か恐ろしい何かすばらしい冒険のような気がして悲調を帯びた彼の恋心を深めるのであった。
二人はあまり、お互同士を意識していたので、やがて間もなく雨となる前ぶれのように、霧が一さんに、峠の樹々の間を薄白く、駈け降りているのに、気がつかなかった。
準之助氏は丘に上ったら、新子と一しょに見下す軽井沢が、どんなに美しいだろうかと考えていた。
新子は、準之助氏の何かしみじみした、いつもふっくりと、自分の為に、冷たい風を遮ってくれるような態度を、身に浸みてありがたく思った。が、しかし、それと同時に、なんとなく息づまるような、勿体ないが迷惑だという気持がしないでもなかった。それは、こうした場合における年齢の相違から来る悲しい間隙とでもいわれようか。
そこらあたりからは、いよいよ深く樹が茂り合っていて、太い幹に、山葡萄やあけびの蔓が、様々な怪奇な姿態でからみつき、路傍の熊笹や雑草も延びほうだいに延びている。と、ザッザッと異様な音がしたので、新子がドキッとして、思わず準之助氏の方へ肩を寄せると、径のすぐ傍から、一羽の雉子が飛び出した。雉子の方でも、驚いたらしく、バタバタとたちまち、繁みの奥へ低く飛んでかくれた。
「まあ! 雉子なんでしょうか。」新子の声が、思わず明るくはずんで、巧まぬ媚を含んでいた。
「雉子ですよ。この辺には、雉子や山鳥が時々いますよ。僕達の散歩を歓迎してくれたのでしょう。心憎き雉子ですよ。」
「いっそ、飛び出すなら、傘を持って来てくれると、よかったのに。もう、引き返したら、よろしいのじゃないでしょうか。何だか、夕立になりそうでございますわ。」新子も、少しふざけながらいった。
「はははは。でも雉子の貸してくれる傘なら、山蕗の葉かなんかで、軽井沢の夕立の役には立ちませんよ。夕立になるのかな。」と、不安そうに、樹の間をすかして空を眺めた準之助氏の顔にサッと一陣の風が吹き降して来た。樹々の肩が、その風で一斉にかしいだと見ると、大粒の雨が、樹々の葉を、まばらに叩いて渡った。
「これは、いかん!」
準之助氏は、いささかあわて出して、
「さア降りましょう。ここで降られてはこまる。なるべく濡れないように、樹の下を歩くようになさい!」と、新子を促した。
が、一町もそうして、坂道を下ったとき、吹き下しの疾風に、足許もおぼつかなく、二人は一時立ち止った。新子の着物の裾も袂も、千切れそうに、前へハタハタと吹きなびいた。髪が頬に、ベッタリとひきついた。その凄い風と同時に、一層陰惨な感じのする暗さが、周囲の繁みから湧き始めた。
「この峠の下に、外人の古い別荘が、二、三軒あったでしょう。あすこまで、とにかく降りましょう。そして雨宿りをさせてもらいましょう。サア。」と、促されて、また半町くらい、足早にかけ下った。
一の疾風に、つづいて第二第三の疾風が、空に鳴り林に響いて、樹々の葉が、引く潮に誘われる浜砂のように、サーッと鳴って、一瞬底気味わるい静寂が、天地を領した。と、たちまち眼の前の、ぼーっとした仄暗い空を切り裂いて、青光りのする稲妻が、二条ほどのジグザグを、竪にえがいた。殷々たる──と云うのは都会の雷鳴で──まるで、身体の中で、ひびき渡るような金属的な乾いた雷鳴が、ビリビリと、四辺の空気を震動させた。
新子は、天変地異に対する恐怖の念で、半ば意識を失ったような気持で、準之助氏の方へ駈け寄った。
「大丈夫! だいじょうぶ!」と、云う準之助氏の声も、次に、豆のはぜるような音を立てて襲って来た雹雨の音に、かき消された。
二人は、一心に、径を下った。ゴルフ扮装の準之助氏は、何のことはなかったが、新子のフェルトの草履は、ビショぬれになり、白足袋に雨がしみ入る気味のわるさ。もう、落葉松の林径に出ているのであったけれど、雨はますます猛威をたくましくして、落葉松の梢は風に吹き折られそうに、アカシヤは気味わるいほど、葉裏をひるがえして、風に揺られ雨に痛振られていた。まして、雑草や灌木は、立ち止るひまもないほど、雨と風とに叩き潰されていた。
「こちら! こちらですよ。」と、いつか鳥打を失くしてしまっていた準之助氏は、もう両袖をじっとりと濡らしている新子の手を取って、その落葉松の林の中に、見捨てられたように、建っている別荘の軒先にかけ込んだ。
樹の細い梢など、あわれにも吹き千切られて、投槍のように飛び、樹の葉はクルクルと、不吉な紋様をえがきながら、舞い上り舞い落ちた。
雨の水沫は、別荘の軒下にまで、容赦なく吹き込んで、雷はしきりなく鳴り渡って、絶え間なくあたりの空気を震わせ、嵐のシンフォニイは、今や最高潮に達していた。
別荘の扉を、ほとほとと叩いていた準之助氏は、にわかに元気な声をあげた。
「貸家だ、貸家だ。ここにハウス・ツー・レットとかいた紙が、剥がれている。これはちょうどいい。ちょっと失敬しましょう。ここじゃ水沫がたいへんだ。待っていらっしゃい! ここは開かないから、僕、裏へ廻って入口を見つけて来ますから。」と、雨の中へ飛び出して行った。
新子は、夕立に悩まされながら、しかしそのために、夫人に対する感情の名残が、吹き飛ばされ、洗い去られたような気がした。そして、今までかなり遠い距離に立っていた準之助氏と、お友達か兄妹かのように、手を取り合って、自然の暴威と戦っていることが、何か物めずらしく、物新しく、びんのおくれ毛が、頬にくっつくのを気味わるく思いながらも、心は興奮し、はずんでいた。
間もなく、傍の窓硝子を、風雨に抗しながら、わずかに開けた準之助氏が、
「玄関は、内から鍵がかかって、とても開きそうにもありません。貴女は裏口から廻っていらっしゃい!」と、叫んだ。
新子も、軒下に立ってることは、とても辛かったので、いそいで軒つたいに、雨を避けながら裏口の方へ廻った。
と、勝手口は閉がっていたが、そこから一間ばかり向うの半間ほどの入口の扉が開いていた。そこからはいってみると、バスと洗面所との間の廊下で、空家らしい気持の悪い温気をたたえて、壁や天井が薄白く光っている。外人が建て、外人が住んでいたらしく、畳の敷けそうな部屋は一つもなかった。
食堂らしい部屋を通りぬけて行って、準之助氏の居ると思われる部屋をソッとのぞくと、そこは、サロンらしく壁に薪をくべるらしい大きい炉が切ってあり、中は山小屋らしく作られており、腰の低い窓が、いくつか開いている。
その一つの窓を開けて外を見ながら立っている準之助氏は、
「やあ! よく降る!」と、盛んな自然の大暴れに、嗟嘆の声をあげていた。
家の中は、不気味に薄ぐらかった。椅子も卓子もなく、ただ粗末な食堂用らしい曲木細工の椅子が、ただ一つ塵にまみれて、棄て置かれてあった。
この薄闇は、普通の夜の暗さなどよりも、ずっと気持がわるかった。そこここの隅々から、奇怪な幻像でもがうごき出しそうな気味わるさを持っていた。
ある恐怖と圧迫を感じて、新子は扉口ではいりわずらっていた。
その上、ときどき窓からサッと流れ入る電光の紫線は、いよいよ部屋を物すごく見せた。
新子が、そこに立ちわずらっているとき、電光の閃とほとんど同時に、硝子板を千枚も重ねて、大きい鉄槌で叩き潰したような音がした。たしかに、近くへ落雷したのだと思うと、新子は心が一層寒くなった。
準之助氏も、扉口に人形のように、息を呑んで、立ちすくんでいる新子を見ると、彼もまたある胸苦しさを感じているらしく、すぐには呼び入れようともしなかった。
「こわいわ!」だまっていると、息づまりそうなので、新子が勇気を出して、口を開いた。
「僕もいささかこわいですよ。中へおはいりなさい。一緒に居ましょう。」と、準之助氏は、窓ぎわから離れた。
二人は、両方から部屋の中央に歩み寄った。
一足先へ、この空家にはいった準之助氏の心には、新子に対するなまめいたある感じを抑えることが出来なかった。
嵐に包まれた家の中に、二人ぎりでいる。お互に、身近く立っていると、準之助氏は、さっき坂を下るとき、手を取ってやった新子の雨にぬれた生暖かい肌の感触が、ゾッとするほど、心の中に生き返って来た。
夕立は、その始まり方の凄じさ、速かさと同じように、幕切れもアッケなく早かった。
雨は水沫だけのように、空一面に、細く粉のように拡がった。風も、それに準じて、勢いを収めて、見る内に、山の頂きには青空が顔を出した。
雷の八つ当りは、もう大丈夫だろうかと検すように、森の中でかっこうがホルンを吹奏した。
天と地との間には、もう鬱積がなくなったように、快い風と光とが躍りはじめた。
見事なトサカを持ったレグホン種の真白い雄鶏が、納屋から飛び出して、ときを作った。
白い綿雲が邪魔扱いにされて、低い空をグングン流れて行く、一番いたぶられた月見草や芝草が、綺麗に露で化粧をして、あまやかな土から、徐々に頭をもたげかけている。
別荘の窓が、一つ一つ開けられる。
綾子夫人の部屋からは、スキーパの魅惑的な恋の歌が、流れ出す。階下の子供部屋から、小太郎が、
雨、雨、降れ! 降れ!
母さんが
蛇の目でお迎い嬉しいな。
ピチ、ピチ、ジャブ、ジャブ、ラン、ラン、ラン。
と、歌いながら飛び出して来た。
準之助氏は、水を吸って重くなった靴を、三和土に脱いだ。靴下から湯気が出ている。
「やア。パパのびしょぬれ! 野良犬みたいに、なっちまった!」
小太郎の歓声に、準之助氏は、人知れず頬を染めて苦笑しながら十分ばかり先へ帰した新子が、目立たないで帰れたか、どうかを考えながら、二階へ上って行った。
レコードが、ピタリと止まると、笑った夫人の顔が、廊下へ現れた。
「まあ! たいへんね。どこで、雨にお逢いなすったの。」
「クラブ・ハウスから、一番遠いコースにいたんだよ。早く引き上げればいいやつを……」と、何気なく弁解した。
「あら! じゃ、やっぱりゴルフに行ってらしたの。杉山、どうしたんでしょう。折角、車を持ってお迎いにやったのに。」
準之助氏は、ギョッとして思わず、妙な顔をした。
「杉山は、キャディに訊いても、ハウスの人に訊いても、今日はお見えにならないと云ったって、帰って参りましたのよ。」
(失敗った! 妻の不断に似合わず、いやに気のついたことをしたもんだ。これじゃ、ゴルフに行ったと云うんじゃなかった!)と、後悔したが駟も及ばず。
「杉山の探しようが、下手なんだ!」と、強引に嘘を云って、部屋へはいろうとすると、夫人は、
「早く洋服をお脱ぎになって!」と、追いかけて来ながら、「ハンチングも、大変でしょうね。どこへお脱ぎになった!」と、訊いた。
「あの強い風にたまるものか。持って行かれてしまったよ。」
「夕立の中を、よっぽど歩いていらっしったのね。妙な方。」
さりげない夫人の言葉にも、浄玻璃の鏡をさしむけられたようにすべてを知っていられるのではないかと不安だった……。
最後の電鳴のはげしさに、思わずすがりついた新子を掻き抱くと、どちらからともなく、唇を合わせてしまった楽しい秘密も……。
準之助氏は、身体全体が、カッと熱くなって、いそいで己れの部屋へはいると、扉を立ててしまった。
新子が濡れた足袋を脱ぐと、十の指は、爪まで色を失って、冷たく、凍えていた。手の指も、ハッと呼吸を吹きかけないと、自由にならないほど、冷え切っていた。高原の夕立は、都会のそれとは違って猛烈で、雨が冷たかった。準之助氏より、十分ほど早く帰って来た新子は、和服でもありかなりひどく濡れてしまっていた。
女中達に騒がれるのを厭って、コソコソと自分の部屋へ上って来たのだけれど、いくら注意して歩いても廊下に、雫の落ちるほどあさましく濡れた我身であった。
手早く、銘仙の着物に着換え、帯もシャンと締直し、髪も手がるに束ねなおし、気を落ちつけるように机の前に、坐った。
途端に、聞き馴れたスキーパの独唱が、夫人の部屋から聞えて来た。新子の好きな、そして美沢も愛好している「グラナダ」という、古いレコードである。
何という不可思議な心理だろう。新子は、三十分前の自分の気持が、自分でも分らなかった。美沢とは、二年近い交際で、最初から好きで、だんだん愛するようになり、二人ぎりで居る機会も多かったにも拘わらず、美沢が自分の手を握ったことだって、二、三度しかないのに、……準之助氏は、さのみに愛してもいず、一言だって愛を語ったわけでもないのに、どうして、あんなに脆くも唇を許してしまったのだろうか。
新子は、自分の気持が、不可思議でならなかった。やはり、あんな大金をもらったという弱味が、いつかしら自分の心を、あの人の方に傾けていたのかしら。新子は、そう思うと、急に悲しくなった。
言葉に出して愛をささやかれ、言葉に出して愛を求められる場合は、女性の心は、ピンと張り切っていて、理性が働き感情が冴えて、容易に肯かないものであるが、すべてが行動で、その時と場合との機みに乗って来られたのでは、ちょうど先刻の夕立のように、身を避ける間もなく、濡れてしまうのではないかしら。
準之助氏も嫌いな人ではない。しかし、ああも簡単にはと思うと、新子は、自分のしたことが自分で信ぜられない気持だった。
そうした、いろいろな後の思いに、打ちひしがれていた新子は、準之助氏が帰って来たこともレコードが一時止まったことも、気が付かなかった。
しばらくしてスキーパの「グラナダ」が、その盤の裏にある「プリンセスタ」に、変っているのに、気がついただけであった。
あの曲が、了ったら夫人のところへ行こう。あまり、時が経ち過ぎて、不自然にならない内に、謝りに行こう。しかし、主人とあんな風なことをした後で、謝りに行ったのではと思うと、新子の心は暗かった。
ほんとうは、これを機会に、この家を出た方がいいのではないかしら、それが、準之助氏のためにも、自分のためにも一番いいのではないかしら、自分と準之助氏との関係が、これ以上進まないうちに。
自分は、あの方からお金を借りている。しかし、あの方に唇を奪われた。どんなに低く評価しても、処女の唇、その価五百金、千金に価しないだろうか。
スキーパの声が、高く高くなる。新子の心は、悔いと悲しさに、揺れ動かされていた。
雨によごれた顔を、クリームでふき取り、鏡を出して、化粧を直そうと思ったが、鏡を見ることが、とても辛かった。
主人とのことがあったために、夫人との間にわだかまりが出来たような気がして、夫人の部屋へ行くことが、とてもおっくうだった。
しかし、もうやがて、夕食の時間である。謝りに行くのなら、今の内、でなかったら、今日中には、機会を逸してしまう。
かの女は、やっと勇気を出し、自分で明るい気持を作りながら、夫人の部屋の扉をノックした。
「お入りなさい!」
新子は、扉をそっと開けて、静かに足を踏み入れたが、容易に夫人の顔を振り仰ぐことが出来なかった。
「あら! 南條さんだったの!」珍しいことがあるもんだと、いわぬばかりの口調であった。
「先ほどのお詫びに参りましたの。先刻は……」と、いい難きを忍んで、立ったまま丁寧に小腰をかがめると、夫人はひどく上機嫌で、
「まあ。こちらへ、おかけなさいましな。」と、招いた。
夫人と相対して、長くはいづらいので、早くこっちの意を伝え、早くこの部屋から逃げたいので、
「はア。」と、ありがたく受けたものの、椅子にはかけず、その脇に立ったままで、「私、奥さまさえ、許して下さるのでしたら、やっぱりお子様達のお世話をさせて頂きたいと存じますのですが……」と、細々した声で、詫び入ると夫人はさも面白そうに、陽気な表情で、ながめながら、
「南條さん、貴女、主人とこのことで、お話しになりましたの?」と、明るく訊ねた。
「はア。」と、思わず返事したが、すぐハッとなっていると、夫人はかまわず続けた。
「主人と、いつどこで、お話しになりましたの?」
新子は、ギョッとして、眼顔で夫人の心中を探るように、顔を上げた。
「南條さん、貴女、さっきの夕立のとき、どこに行っていらっしゃいましたの。」友達のように、隔てのない物云いで、夫人の眼はいたずらっぽく、輝いていた。
「旧道の方へ出かけておりまして。」新子は、よんどころなくそう答えた。
「そうお。じゃ、その道で、主人とお会いになってお話しになりましたの。」
「はア。」退引ならず、新子は真実の先端を、チョッピリ夫人に打ち明けた。
「そうお。」夫人の笑顔が、急に権柄ずくな常の顔に変った。
つと立ち上ってビクトロラの傍に行って、またスキーパの曲に、針をあてがうと、ビクトロラに寄りかかるような姿勢をしながら、嘲笑を浮べて新子に話しかけた。
「貴女の散歩は、時を選ばないのね。おかげで、主人は、ハンチングは風に取られたというし、そりゃビショぬれで、ひどい目に会って、帰って参りましたよ。」
新子は、身内から、サッと血が引いて行くような感じだった。
「南條さん。さっきは、貴女からひまを取るというお話でしたが、今度は私から、今すぐひまを取って頂くことに致しますわ。どうぞ、出来るだけ早く、この家からお引き取り下さい!」
(出て行け!)西洋の映画にあるとおり、扉を指ささんばかりであった。
祥子の誕生した頃には、すでに前川夫妻の間には、大きな愛情の間隙が、出来ていた。
一つの屋根の下に住み、外面はあくまで夫妻であったが、しかし良人は、心の中で妻に、さじを投げていた。が、生得上品な性質である上に、外国に長くいたために、女権主義者であり、平和主義者であり、煩わしいことが、嫌いであるので年々悪妻の強さを発揮している綾子夫人を、当らずさわらず、取り扱うことに馴れてしまったのである。
その上、愛児の生長が彼を家庭につなぎ止めているのと、酒をたしなまず、花柳界の趣味を解しないため、路傍の花に心を奪わるることなく、上部だけは善良な良人であった。だから、綾子夫人は、良人を信じ切り、良人で得られない刺戟は他の男性から求めていた。
そこへ突然、新子が出現したのである。今までは(悪妻である。イヤな女性である。しかし、一旦結婚した以上、あきらめる外はない。こういう妻に対して、辛抱するのも、また一つの人生修行である)と、考えていた彼の眼に、たちまち華やかな一つの幻覚が浮び、遠く桃源の里を望み見たような心のときめきを感じはじめ、生活が急に生々となって来たのである。
が、不意に時節到来、今日お互に緊張し切迫した気持で、散歩しているとき、雷雨に逢い、平調を失った──あるいは平調を失う口実を得た彼は、思わず新子の顔を腕の中に抱いてしまったのである。
にわかに、新子を愛人と云ってもよいほど、身近に獲てしまった彼は、自ら非常な覚悟をしなければならなかった。
(このことで、新子を絶対に不幸にしてはいけない。どんな犠牲を払っても、あの人を幸福に!)と、彼はそう思った。彼が以前読んだ英国の小説に(恋愛はしてもいい。しかし、そのために相手を不幸にするな。それが、恋愛をする場合の男子の心得である)と説いたのがあった。
妻には、絶対に悟られないように、そうして新子さんを出来るだけ、幸福にするように、こうなった以上、それが自分の義務だと準之助氏は考えていた。
浴室から上って、セルを出させて着、食堂へ来てみると、幼い兄妹は、食器棚の後に付いている大きな鏡に向って、何か面白そうに騒いでいる。
その子供達の姿を見ながら、自分とああなった以上、新子が自分の家族達と同じ屋根の下に住むことは、あの人にとって不愉快ではないかしら、よき愛人を獲たことは、子供達のよき家庭教師を失うことになるのではないかしら、……自分は結局子供達のものを奪ったことになるかしらなどと、思いはしきりに新子の上に置かれてあった。
と、扉が開いて、夫人がはいって来て、席に着いた。見ると、彼女は外出着を着て、美しく化粧している。
良人は、妻に対して傷もつ脛の、いつもよりも優しく、
「どこかへ出かけるの……」と訊いた。
「ええ。ルーシイさんのところに、サッパー・ダンスがありますの。行かないかって、添田さんに誘われましたの、八時半頃に迎いに行くって、電話がありましたから、支度をしてしまったんですの、お食事少ししか頂かないわ。」夫人は、普段より、ズーッとおとなしい。準之助氏は、ホッと安心して、
「沢山集まるのかい。」
「ええ、フランス大使のお嬢さまや、松平侯爵夫人なんかいらっしゃるらしいわ。……貴方は、この頃少しもお踊りにならないわねえ。ゴルフも一時ほど熱心じゃないし、今に肥っておしまいになるわ。」
「肥ったら、わるいだろうか。」
「肥った男なんて意味ないわ。私、嫌いよ。ダンスにも、お出かけなさいましよ。たまには。」
と、ひどく愛想がよかったが、でも今宵誘おうとするのでもなかった。父母の会話を外に兄姉達は、喰べるのに忙しい。殊に小太郎の健啖ぶりは、痛快と云うよりも、親の眼からは、あの小さい身体のどこへはいってしまうのかと、ハラハラするほどで、スープと肉と、その後のトルヴィルというケチャップで、色をつけた鳥めしのような前川家自慢の料理を、大きい皿でおかわりをして喰べている。
「よく喰べられるね。お腹大丈夫かい。」と云う良人の言葉にも、夫人は興味がなさそうに、子供達の方は見やりもせず、レヴァ・トーストばかりを、少しずつ、ちぎってたべている。
と、前庭に、自動車のはいって来る音がした。
「添田さんが、見えたかね。」準之助氏が問うと、夫人は笑いながら、首を振って、
「違うでしょう。まだ七時ですもの。」
「じゃ、誰だろう。お客さまか。」
「いいえ、私の用事。」と、答えたままだまってしまった。
自動車は、五分間ばかり止っていたと思うと、すぐエンジンの音を立てて、軋み出る気配がして、やがて時々鳴らすサイレンが、だんだん遠くなって行った。
軽井沢へ来てから、昼間あまり、かけずり廻るので、夕ご飯がすむ頃には、もう眠くなってしまう小太郎だった。
眼の上を、ちょっと不機嫌そうにしかめながら、
「眠いよ! ママ、もうお湯にはいらなくてもいいでしょう。」
「あんまり食べるからですよ。ご飯中、ねむくなるなんて、そんなお行儀のわるいことじゃ駄目ですよ。顔だけでも、洗ってからお休みなさい。」という母に祥子が、
「ねえ、ママ、祥子、明日から南條先生に教えて頂いてもいいでしょう。」と訊いた。
「そんなことは明日になってからで、いいじゃありませんか。」ときめつけた。
母の不機嫌な顔を見て、祥子は危くベソをかきそうになりながら、
「だって、お熱なんか、もう先からないわよ。」と、云ったが、夫人はもう返事をしなかった。ベルを鳴らして、女中を呼ぶと、子供達を連れ去るように命じた。
そして、手ずから良人に、コーヒを注いで、手渡しながら、
「私が、貴君よりも善良な人間であることを、今日悟りましたわ。」と、子供が居なくなると、果然ねちねちした調子に変った。まさに遠雷の音をきくような気味わるさであった。準之助氏は、少しあわてて夫人の顔を見直した。
「貴君は、ウソつきですわねえ。少くとも、あの南條という家庭教師よりも……」
たちまち、遠雷は頭上に来た。しかも、夫人は意地わるく、呆気に取られている良人の顔の前で、微笑した。
準之助氏は、もう万事発覚したのかと蒼くなっていると、夫人は静かに、
「私やはり、家庭教師を替えることに致しましたわ。」
「どうして?」準之助氏は、思わずせきこんだ。
「だって、あんな散歩好きの人、ほほほ……困るわ。夕立の中で、散歩するような人、ほほほ困りますわ。貴君も、ご一しょであったそうですね。そりゃ、偶然ご一しょになったのでしょうけれど、それを貴君が私におかくしになったことは、困りますわね。もちろん、あの女がそうさせるように、仕向けたんでしょうけれど……。ほほほほほ、私がやきもちなんか焼いているとお考えになると、それは貴君の誤解ですわよ。私、貴君がまさかあんな女を、何とも考えていらっしゃらないこと、よく分っていますのよ。私、あんな人に対して、やきもちを焼くほど、自分をみじめたらしく考えたくないんですの。その点では、充分貴君を信じていますわ。多分、私に対するお話をあの女となすったんでしょうね。それは、よく分っていますの。でも、私、貴君があの女と話をなすったことをおかくしになったということが、気に入らないんですの。……」
(悪魔が吹かせる風は、誇という声がすると云うが、この女も悪魔だ!)準之助氏は、自分のした悪事を悔いるよりは、妻の人を人とも思わざる思い上った考え方を憎悪する心が、燃え上った。
夫人は、平然として云いつづけた。
「夏休み中、家庭教師がなくっても、差支えはないと思いますし、あんな散歩好きの人だと、どういうところを、ウロウロするか分りませんし、狭い軽井沢ですもの、貴君とご一しょのところなんか人に見られたら、私の顔にかかわることですものね。子供なんか誰にだって、馴れますわ。何もあの人に限るわけのものではありませんわ。」
夫人の性格の中には、やさしさとか素直さとかは、薬にしたくもなかった。すべてが、皮肉で、意地わるで、厭がらせで、しかも鋼鉄の針のように、鋭かった。
だから、素直に、正面からやきもちを焼くなどということは、彼女の誇が絶対にさせないことである。
(どう? こう、私が云えば貴君は、何も文句はないでしょう)と、そんな眼顔で、準之助氏をながめやりながら、夫人はもうこのことは、片づいたと云わんばかりに、
「何時かしら、添田さんは、随分遅いわねえ。」と、空うそぶいている。
準之助氏は、心の中の烈しい動揺を、じっと抑えて、
「南條さんは、帰るとすれば、いつ帰るのかね。」と訊ねてみた。
「あの人も、憤り虫らしいから、私に暇を出された以上、一晩だってこの家にいないでしょう。もう帰ったのかもしれないわ、貴君にご挨拶もしないで。そうそう、さっきの自動車、あれで帰ったのかもしれないわ。」
温柔な良人の顔を、馬鹿にしたような笑顔で見やった。
先刻、自動車のエンジンや警笛が聞えた時、不思議がって訊くと、白ばくれてだまっていながら、今になって、と思うと、準之助氏は思わず、湧き上る怒をじっとこらえたが、顔の表情は、あやしく歪んだ。
そのゆがみを、夫人はすかさず見て、立ち上って、呼鈴を押すと、
「ご心配なら、女中を呼びますから、お訊きになるといいわ。」と、いった。
女中を呼んできいてみたとて、新子がいるはずはない。すべてが、夫人の思惑どおりに行われたに違いない、新子にすぐ支度をするように命ずると、きっと女中を通じてこんな風にいったに違いなかった。
(お帰りになるんでしたら、子供達が食事をしている内に、帰って頂きたいんですの。子供達が貴女のお帰りになるのを知って、うるさくつきまとったりすると、ご迷惑でしょうから。主人にも私からよく申しておきますから、直接ご挨拶なさらなくとも、いいと思いますの。でも、強いてお会いになりたいんでしたら、お止めは致しません)
とにかく、一刻もいたたまれないような、言葉で新子を追い出したに違いなかった。
すぐ、夫人の押した呼鈴に応じて、女中がはいって来た。
夫人は、だまったままで、良人に、
(お訊きになっては!)という、顔をした。準之助氏は、さすがに夫人の前で、夫人に踊らされて、そんなムダな問いを発したくなかった。
「別に用はなかった。テーブルの上を片づけてくれ。」といった。
常に、つねにそうであるように、夫人とは是非を論ずることは、出来なかった。論ずれば、そこに大破裂があるだけだった。
準之助は、今も夫人の巧妙な、意地のわるい仕打ちの前に、うんともすーともいえず、ズシーンと重く暗く、心が沈んでしまい、ただ一刻も早く夫人が外出してくれればと祈るばかりであった。
だから、彼は夫人が、誘いに来た添田夫人と一しょに出かけるが早いか、すぐ新子の部屋に駈けつけてみた。
机と座蒲団のほか、その人のらしい荷物は影もなく、室内塵一つ止めない寂しさ、整然さ──準之助氏は、急転直下の勢いで、自分の心が、地の底へめり込んで行くのを感じた。
「おい! おい! ちょっと。」彼は、階段の所へ出て来ると、そこから近い台所の召使を呼んだ。
太った身体をよちよちさせて、駈け上って来た旧い顔の女中に、もどかしげに、
「南條先生は、何時に発った!」とかぶりつくよう。
「先生は、七時半の汽車でお帰りになりましたんですが。ああ、まだ申し上げも致しませんでしたが、先生からお心づけを頂戴致しましたんで……」
「杉山いるかい。」
「ただ今奥さまのお伴で……」
「こまったな。旧道の何とか云うタクシ、あすこへ電話をかけて一台急にと云ってくれ。」
「はい。」
もう、八時近い。しかし、先刻食事の時に聞いた自動車で行ったのなら、新子も汽車に乗り遅れて、駅でマゴマゴしているかもしれない、それがただ一つの心頼みで……。
自分に、一言の伝言もなく去らなければならなかったとすれば、妻の態度がどんなに辛辣であったかが想像される。恐らく、新子は自分とも再び会わないつもりで、この家を去ったのかも知れない。準之助は、失踪した愛人を、追いかける青年のように、焦慮し緊張していた。
駅までの道を、思いきりスピードを出させたので、雨でこわれた路面のため、準之助の身体はいくども弾んだ。
だが、駅に着いてみると、上りも下りもしばらく間のあるという待合室や、プラットフォームは、寂として人影もなく、準之助は今さらのように、心を抉るような悲しみに囚われてしまった。
新子は、自分にとって最初の恋人である。
むろん、先刻の行為は、穏当ではなかった。
しかし、それが妻に分っているわけはない。妻に分っていることは、雷雨の中で、二人がどこかで会ったかもしれないということである。たったそれだけのことで、罪人をでも叩き出すように、新子を追い出すということが許せるだろうか。
準之助は、他人を一歩も仮借しようとしない、夫人の増上慢に、……その無残な仕打に、良人として、いな一人の人間として、呪咀の叫びを上げずにはいられなかった。
(俺は、キレイ事が好きだった。平安を愛した。だから、俺は、お前に辛抱したんだ! しかしこうまで、俺を侮辱するなら、俺も人間としての自由と、男性としてのわがままを発揮してやる。こんなことで、新子さんを俺から奪ったつもりでいるのか。俺は、今までの十倍もの強さで、新子さんを追ってやるぞ!)
そんな憤りや決心が、彼の心を縦横に飛び違った。
新子が、昨夜四谷の家に帰ったのは、十二時過ぎであったが、昼の酷暑に乾き切っている都会の空気は、夜になってもまだむしむしと暑く、殊に建てこんでいるこの裏街では、まだ縁台に出ている人もあり、戸を閉めない氷店もあるくらいで、新子の家も、今しがた美和子が帰って来たばかりらしく、家族は起きていた。
時ならぬ時の新子の不意の帰宅に、みんな不吉な想像しか湧かせなかったが、誰も新子に遠慮してその理由を深くは訊かなかった。
新子も、それを幸いに、妹と一しょに二階へ上ると、いち早く寝衣に着かえて、床の上に四肢をのばした。が、軽井沢の冷々した夜気にひきかえて、夜半過ぎても汗ばむほどの東京の暑さと、昼から引きつづいている胸のもだもだしさのため、容易に寝つかれず、幾度も寝がえりして、二時を聞くまでは、寝わずらっていたが、間もなく文字どおり、前後不覚な深い眠りに落ち、部屋に射し込む暑い午前の日ざしに、眼が覚めるまでは、夢も見ずに眠ってしまった。
眼覚めてしばらくは、頭の中に何もなかった。昨日のことさえ跡形もなかった。ただしみじみと手足をのばし、眠れた朝の、頭の明らかさで、ひどくわが家が、しんみりと楽しい場所に思われた。
静かに頭をめぐらすと、淡いピンク色のシュミーズ一つで、朱塗りの鏡台を光線の都合を計って、畳の真中に持ち出して、化粧をしている美和子の姿が、ピチピチした新鮮な、一枚の油絵のように眺められた。
パチパチ眩しそうに、愛らしく目ばたきしながら、姉の方をチラと見て、
「お姉さま、死んだ人のように眠ってたわよ。」と云った。
美和子の手元から、甘い香料が強く匂って来た。
「美和ちゃん。急に綺麗になったわねえ。」新子は、驚きをそのまま、言葉に表して云った。
一心に鏡の中を見入りながら、横顔で、満足そうな笑顔を見せて、
「みんながそう云うのよ。だから少し嬉しがってるの。」と云うのを、
「顔でうぬぼれるのはおよしなさいね。みっともないから……」と、云いながら、それを機会のように、身を起した新子はまたびっくりしてしまった。
美和子の鏡台の前には、実にぜいたくな化粧品が美々しく並んでいるのだった。
「あーら、貴女。こんないいものを使っているの。」
新子自身、教養ある女性の趣味として、せめて化粧品だけは、筋の通ったよい匂いのするものを使いたいという慾望をやっと抑えているだけに、妹の使っている七円もするウビガンのケルク・フルールの小さいやさしい瓶に、非難の眸を向けずにはいられなかった。
「圭子姉さまが、この間資生堂で、ドウランを買う時、一しょに買いなすったのよ。」
美和子は、云いわけをしながら、小さい唇に、タンジーの紅をつけている。
「そのほかは、みんなマックス・ファクター専門なの?」
妹を非難する新子の心も、鏡台の前の各々好もしい形をしたマックス・ファクターのクリームやローションや粉白粉の瓶の形の好もしさに緩和された。
新子も、それを見ている内に、一瞬いそいそとした気持になり、そのまま美和子の立った後に坐って、コールド・クリームで顔を拭き始めた。
「ねえ、お化粧品だけは、いつでもこんなの使っていたいわ。ねえ。お姉さま。私、指輪だの時計だの帯どめなんか、ちっともほしくないの。」
「貴女、随分お洒落になっちまったのね。」
「ええ。」
あまりに、釈然とした返事だったので、思わずおかしくなって後をふり向くと、ついぞ見馴れない、洋服をすっぽりと頭から被っていた。
ギンガムか、トブラルコか、何かしら木綿のゴワゴワと音のしそうなものだったが、そのくせ着てしまうと、どんな絹物でも、この味は出まいと思われるほど、ピッタリと、はち切れそうな身体の線に合って、それがむき出しの肩と、胸についているシイクな桃色のレースの飾りに調和し、小さい美和子の身体がとても色っぽく見えるのであった。
「いつこさえたの、お手製じゃないわね。」
「相原さんの作る銀座のクロバーよ。」
「あんなところじゃ、木綿ものだって、シルクと同じくらい、仕立代がかかるんでしょう。」
「布地は、全部で三円五十銭しかしないのよ。仕立代は、相原さんの方の、つけにしておいてもらったの。」
「そんなことしたら、悪いじゃないの。仕立代いくらくらいなの。」
「十円くらいでしょう。……ねえ、似合うわね、シルヴィア・シドニイみたいじゃない?……」
「何を、そうお調子に乗って、浮々しているの。貴女少しおかしいわねえ。」
「ふうん。」と、ちょっと恥かしそうな、含み笑いをしながら、
「だってえ。この頃とても、楽しいんだもの。今日は、そら日曜でしょう。日曜は坂を上ることに決めたのよ。」
「何を云ってるのか、お姉さんにはちっとも分らないわ。」
「お姉さまなんか、軽井沢へ行って、先生なんかしているからいけないのよ。日曜日には坂の上にある家を訪ねることになっているのよ。まだ解んないのかなア。」
これは、靴下を穿きながら、うつ向いて、小さくいった言葉であった。が、にわかに改まって、
「お姉さまは、もう軽井沢へいらっしゃらないの。」と、訊いた。
「もう行かないわ。九月になったら、会社か雑誌社のようなところに、就職を頼んでみるつもりよ。」
「お姉さまが、もうずーと、家にいらっしゃるんだったら、私お願い……って、話があるんだけれど……今日じゃなくってもいいのよ。」
「貴女さえ、いそいで出かけないんなら、今日だって、いいことよ。何よ。」新子は美和子が恋をしているのだと直感した。
ちょっと会わない間に、まるで新しい生命を吹き込まれたように、美和子は生々としていた。以前から、快活でお転婆ではあるけれど、つい一月前の美和子には無かったような、抱きしめてやりたいような、女らしい弱々しさが、生気とともに、媚々と彼女の全体から感じられた。
新子は、よく小言をいうものの、心の中では美和子を愛していた。
お転婆で、茶目で、母に世話をやかせるところの多い妹ではあるが、新子は姉よりも、ずーっと愛しがっていた。
もしも、恋をしているのなら、早く様子を聞いて、最初の恋を遂げさせてやりたかった。
(誰にだって、愛されるに違いなく、どんなに愛されたって、いい娘だもの)そう思って、新子はやさしい微笑を、美和子に向けた。
美和子は、なぜかあわてて、姉の眼をそらしながら、
「お姉さまは、結婚なさる?」と、口ごもりながら、いきなり訊いた。
「結婚するって、誰と。」
「しようと思えば、誰とだって出来るじゃないの。誰かと結婚しようと思ってらっしゃるかって、伺ってるのよ。」と、急に意地のわるい物云いをした。
「おや、こわいのね。私、結婚しようなんて思ってる人なんかないわ。あったって、なかなか出来ないもの。どうして、そんなこと訊くの?」
「ほんとうに、本心からそう思ってらっしゃるの?」
「気味がわるいわ。もちろん、本心からよ。」
「で、安心したわ。私、お姉さまは、美沢さんと結婚するつもりかと思っていたのよ。で、なんだったら……」
新子は、いきなり真正面から、不意打に、胸を衝かれたような思いで、美和子を、じっと見据えた。
美和子も、強い眼で、その視線を受けながら、
「私、お姉さまが、軽井沢へいらしった後で、美沢さんに会ったの。」と、云いつづけた。
新子はそう聞くと、眼の前に立っている妹へも、また美沢に対しても、等分に、心の底から浮ぶ瀬のないような、厭な気持に暗くなりながら、思わず、せき込んで、
「それでどうしたの……?」と、訊いた。
美和子も、ハッとするほど、その瞬間に、姉の顔にはげしい影が通り過ぎ、嫉妬と憤りと悲しみの色が満ち溢れたので、さすがの妹も、それ以上臆面もなく、物をいい続けることが出来なかった。
かの女は、洋服のひだをピタピタたたくと、姉に背を向けて、縁の方に歩いて行き、欄干にもたれて、ぼんやりと晴れている空に、眼を向けてしまった。
「ねえ、美和ちゃん。貴女美沢さんと、なにか約束でもしたというの? ちゃんと聞かせて、頂戴!」新子はたまりかねて、一時に動きの取れなくなった気持を、そのまま言葉の調子に表して、美和子を追及した。
「美沢さんて、いけないのよ。」
「どうして!」
「だって、日曜日ごとに会おうって、約束しちまうんですもの。」
「いつ、そんな約束したの。」
「この前の日曜日よ。あんまり、色々訊かないでよ。お姉様。」
「それで……それで、貴女いいつもり?」新子は、口が利けなくなっていたが、それでもまだ健気に、涙だけは抑えていた。
美和子は、クルリとこちらへ向いた。
「美沢さんは、お姉さまに、悪いといっていたわ。でも、美沢さんもいっていたわ。新子さんは、僕と結婚するつもりはないんだって。……私は、お姉さまが、許して下されば、あの人と結婚するつもりでいるの。」新子は、茫然としてしまった。たちまち、愛人からも肉親からも、馬鹿にされたような、深い悲しみを感じた。
彼女は、妹の前で泣いてはならぬと、グッと喉もとで、悲しみをこらえながら、
「許すも許さないも、ないけれど。だって……」と、云いさして、こらえ切れなくなり、妹から顔をそむけた。
美和子も、涙をこらえていた。彼女は、自分が、美沢と交際することが、こんなにまで姉を苦しめるとは思っていなかった。幼かったとき、姉がよく玩具などについての無理を聞いてくれたほどの手ぬるさで、許してくれると思っていた。だって、お姉さまは、美沢さんに不即不離だったんだもの、私の方がハッキリ愛しているんだものと、思っていた。だから、姉がこんなに狼狽し、こんなに悲しがるとは思わなかった。それで彼女も、悲しくなって、うつむいて、靴下の爪先に、ぽたりと涙を落した。
しかし、もうどうすることも出来なかった。
その涙も、一分も経たない内に収まってしまうと、かの女は、姉に露骨にいってしまった晴々した幸福の方が、ムズムズ強くなった。
お姉さまは、何とかあきらめて下さるに違いないと思った。
日曜日ごとに会おうということは、本当は美和子の方からいい出したので、今日も美沢がほかに用などの出来ない内にと、一刻も早く出かけたかった。
「お姉さんが、こんなに急にお帰りになると思わなかったんだもの……だから不意にこんなこといっちゃって……」いいわけにもならぬことをいいながら、階下へ降りる機会を、計っていた。
美和子が階下に降りて行き、やがて格子戸の開く音がして、外へ出て行ってしまうと、新子は急に泣き出した。
つもりつもった涙で、一たんこぼれ出したとなると、後から後からと止める術もなかった。
妹を心から非難することも出来ず、美沢を深く咎める気にはなれなかったが、ただ自分だけが、羽根をむしられた鳥のように、寂しい悲しい気がした。
家のため、姉妹のためにと思って、思い立った家庭教師の仕事だった。美沢と、ひたむきに結婚まで進まなかったのも今自分が結婚してしまっては……母が……妹が……と思う心づかいからであったのに。
だのに、たった半月しか東京を離れていないまに、美沢も妹も、自分からはるかに遠い人間になってしまっているのだ。
軽井沢へなど行かなければ……と、やや涙の納まったひまに思い返すと、悪夢のような昨日のことが、準之助氏の面影と共に、ハッキリと甦って来た。
あのあやまちも、軽井沢へ行ったためだった。夫人に対する意地と反感と、準之助氏から受けた同情と好意と自然の脅威を前にして、人間同士がお互にすがりつこうとする本能から、ついあんなあやまちを犯してしまった。
何だか、自分自身が、頼りなく、哀れまれて、大ゲサな感傷に揺り立てられて、容易に泣き止むことが出来なかった。
「新子ちゃん、どうしたの。新子ちゃん。」
階下から隣の部屋へ、上って来ていたらしい圭子が、聞きつけて、びっくりしたようにはいって来た。
姉にとがめられて、ピタリとすすり泣きは止めたものの、まだ肩がふるえていた。
「どうしたのよう。」
容易なことで、取りみださない平生の新子を知っているだけ、圭子もこれはよほど、重大事と思ったらしく、しゃがむと姉らしく肩に手をかけて、
「ねえ。どうしたの。」と、不安そうにうかがうと、
「放っておいて!」と、新子は肉親らしい遠慮のない邪慳さで、姉の手から身を引いた。
「何でもないのよ。放っておいて。お姉さんなんか、あっちへ行っちまってよう。」と、切れ切れにいいながら、また泣き沈むと、圭子はもの珍しいような、困ったような表情で、
「ほんとに、どうしたの。子供みたいに、ねえ泣くのよして。どうしたのか、おっしゃいよ。」と、無理につっぷしているのを起しにかかると、
「お姉さんの知ったことじゃないの。あっちへ行って!」力いっぱいよけられて、圭子は明かに不満の色をうかべ、
「まるで、ヒステリイね、前川さんのこと、ダメになったの。」と、立ち上りながら、手もちぶさたに妹を見おろしていた。
新子は、姉から前川家のことをいわれると、にわかにまた、いやな気持になってしまった。姉から、あんな非常識な無心が来なかったら、あんな事件も起らなかったかもしれず、また起ったにしたところで、金銭上の負い目さえなければ、もっと朗かで居られたのにと思うと、この惨めな暗い気持の原因のいくらかは、姉にもあるような気がして、急に語気も荒々しくなって、
「前川さんのことなんか聞かないでよ。そんなことを心配するくらいなら、あんな心ない無心なんかどうしてするの?」と、いった。
姉も、少しタジタジとなって、
「それは、私がわるかったわ。でも、あのことで、前川さんの方がダメになったのじゃないでしょう。だって、あの無心は快く聴いて下さったんでしょう。あの翌日、お使いの人がちゃんと届けて下さったんですもの。私、随分感心したのよ。前川さんて、何といういい方かしらって、ご主人がいい方? 奥さまがいい方?」
「………」
新子が、ますます不愉快になって黙っていると、
「お二人ともいい方なんでしょう。そうして、芸術に理解の深い方ね。それに、第一貴女がとても、信頼されていたんでしょう。これじゃ興行ごとに、切符の百枚や二百枚は、引き受けて下さるだろうと思って、私すっかり嬉しくなっちゃったのよ。」と、勝手なことを話し出すので、新子はすっかり憂鬱になって、だまりつづけていた。
「ねえ。」
「………」
返事をしないでいると、姉の手がまた肩にかかった。
「私、お目にかからなくっても、前川さんという方想像が出来てよ。だから、貴女が急にダメになるなんて、考えられないの! ねえ、どうしたの? 私だって、ガッカリしちゃうわ。」
姉の利己的な考え方に、あきれて涙も出なくなってしまった新子は、顔を上げて姉の顔を見直した。
「貴女、ほんとうに前川さんのところよすつもりで帰ったの。一体、どうして?」
「お願いだから、今訊かないで……」
「でも、よしたことはよしたの。」と、なおしつこく訊くので、新子はうるさそうに、
「ええ、前川さんのところはよしたの。でも、それだけが悲しいのじゃないのよ。いろんなことが、一しょくたになって悲しいのよ。」と、ややこらえ性のない人のように、恨みっぽく、姉にも少し当てつけていうと、また涙になりそうなのを、やっとこらえた。
「新子、起きたかい、起きているなら、ご飯たべたらどう。ここが、片づかないから。」と、母が階下から声をかけた。
「はーい。ただ今。」新子は、それを機会に姉を棄てて、下に降りた。
下の茶の間には、もう夏の陽がカッと反射して明るかった。
新子は、茶卓の前に、まだ尾を曳いている悲しい気持を、紛らわすように、朝刊を展いて坐った。
母は、ギヤマンの壺から、梅ぼしを小皿にわけて、茶を入れてくれたが、
「どうしたの。新子、額が狭くなったみたいよ。たいへんな顔をしてるわねえ。どうしたの。」心配そうに尋ねた。
「何でもないのよ。」と、母にも少し、すねて答えると、
「何でもないって! 昨夜だって、あんなに突然帰って来て、顔色もよくなかったし、こっちだって心配で、昨夜はろくすっぽ眠りもしなかったのよ。話しておくれ、ほんとうに、どうおしだい?」
「どうもしないわ。ただね、前川さんの方、もうダメになってしまったの。どうも、奥さまと、うまく行かないの。今朝起きてそのことを考えていたら、つい悲しくなって! でも、もうなんでもないの。」
「お父さまがね、生きていて下さったら、お前に他人さまのご飯をたべさせるようなことは、しないでも済むのに……お父さまも、もう五年生きていたいと、おっしゃっていたが……奥さまはむずかしい方らしいと、初めからお前も云っていたね。あんなに遅い汽車で、若い娘を帰しておよこしになるなんて!」愚痴まじりに、母の声が悲調を帯びて来た。
新子は、母に狭く見えると云われた額のあたりをさすりながら、つとめて快活に、
「汽車なんか、私が勝手に遅い汽車に乗ったのよ。そりゃ、お子さん達は、とても素直で可愛いのよ。私に、とてもよくなついて、女のお子さんなんか、病気中、まるで私がお母さんの代りなの。だから、ご主人が、あんなに沢山お金下さったのよ。ねえ、お母さん! あのお金、どうなすった? 月末の払いをして、少しは残ったでしょう?」と、訊ねると、
「お金って、何だろう。」と、母は、けげんそうに、目を刮った。
「あら、いやアね。お嬢さまが、ご病気の時、私がよく看護してあげたので、そのお礼として、お金を頂いたから、その内私十円だけお小づかいに取っておいて、後は書留で送ったはずよ。」と、新子も興奮して説明した。
「知らない。初耳よ。そんなこと!」
「まあ! 着かなかった?」新子は、驚いて母の顔を見つめた。
「いやだわ。大金よ、お母さま。」
「いくら。いつ頃送ってくれたの?」
「百四十円、十日くらい前。」
「まあ!」母もあきれて目をまるくした。
母は、どうにも腑に落ちないという眼を、新子に向けながら、
「まあ? おかしいわねえ。十日くらい前だって、一度だって、家を空けたことはないんだがねえ……」と、云いさして、台所に向い、
「おしげさん。」と、婆やを呼んだ。
「はい。」と、婆やがそこから、顔を出すと、
「十日くらい前に、家へ書留が来なかったかしら。」と、訊いた。
婆やは、ちょっと首をかしげると、
「そうですね。いつか、上のお嬢さまが、書留らしいものを、お受けとりになったようでございますよ、たしか。」と、云った。
そう云われて、母と新子とは目を見合わしたが、新子が、
「お母さま。じゃ、私お姉さまに訊いてみるから……」と、腰を浮かすのを、母は、
「新子!」と、おずおず呼び止めた。
新子を姉娘のところにやることは、母としては何となく恐ろしかった。
「え!」と、探るように、母の前に、もう一度坐り直すと、母はもう涙を浮べていた。
「圭子はねえ。この十日くらい前まで、ひどくお金を欲しがって、わたしも四、五十円は出してやったんだが、いくらでも欲しがるので、お前に云われたこともあるし、ハッキリ断っていたんだが、それが十日前くらいからピッタリ強請らなくなったので……」母は、早くも姉娘を疑っているのだった。
「じゃ、お母さまは、私の送った書留を、圭子姉さんが、だまって使ったと思っていらっしゃるの……」
「まさかとは思うけれど……」母は暗澹としていた。
「じゃ、私お姉さんに訊いてみるわ。もしそうだとすれば、お姉さん、あんまりヒド過ぎるんですもの。行って訊くわ。お姉さまに。」と、決然として立ち上ろうとすると、
「お前が訊いたんじゃ、姉妹喧嘩になってしまうんだもの。私があとで訊いておくから……。でも、そんなお金があったら、どれだけ助かったか分らないよ。先月は、美和子も随分お金を使うし……いくら、貯金を減らさないようにしたって一文も外から入って来ないんだからねえ。お前が折角送ってくれるものは、そんな風になってしまうし……」母は、堪え性のない涙をボロボロ膝の上に落していた。
妹が妹ならば、姉も姉だった。
新子は思わず、舌打ちの出そうな自棄くそな気持が、胸もとへジリジリと焼けついて来た。
その翌朝のことだった。
宵の化粧を、すっかり拭き取った……そのために一層子供らしく、軽い開いた唇の間に、安らかに正しい呼吸が通っている、美和子の寝顔を、新子は複雑な感情で眺めていた。
肉親の姉のことも、先々の生活のことも、一切考えない、どうでも一緒になりたいと、しゃにむに突進する美和子の情熱に、顔負けした新子は、一時は茫然としたが、しかし心の中は荒み切っていた。
もちろん、一歩も二歩も間隙のある恋愛であったにしろ、お互に理解し合った愛情を堅く信じていた美沢が、かように速かに自分の手から離れるとは思っていなかった。
むろん、やんちゃな妹が、何をいおうとも、もう一度美沢に会って、相手の気持を確かめたい未練が、切実に湧いた。しかし、美沢の心が変っていないとしても、美和子があきらめるはずはなく、結局は姉妹のあさましい競り合になって、お互に気まずい思いの数々を、味わわなければならぬと思うと、今更美沢に手紙一つ書きにくく、電話一つかけにくいような、割切れないものが、心の底に澱んでいた。
美和子が、眠そうに細目を開けた。静かに、首を廻らして、ジッと姉の視線を迎えた。
「もう何時……?」
「八時半頃じゃないかしら……」そう答えた新子の気持は、不思議なくらい、平静なものになっていて、自分でも気づかない内に、姉らしい微笑を向けていた。
「ねえ。お姉さま。昨夜よく、お休みになれた……?」寝起きとも思われないほど、ハッキリと晴々した声に、新子は、
「そうね、貴女が帰って来て、唄を歌っていたのは知っていたけれど、眠ったふりをしてたわ。なぜ?」と、正直に訊き返した。
「ううん。」と、美和子は、身を転じてしまった。
そうされると、新子はまた平静な気持が、グラグラとこわされかけたので、静かに床を離れて階下へ降りてしまった。
すると、新子の下りるのを待ちうけていたように、圭子が、
「前川さんから速達よ!」と、白い封筒を差出した。ちょっと、かつがれたのではないか、と思いながら、受け取った。が、まさしく裏に元園町のアドレスを刷り込んだ前川氏の手紙だった。
その白い封筒を、サリサリと裂いたとき、新子の気持は、決して平らかなものではなかった。
いろいろ貴女に、お詫びしたいことばかりです。僕も昨夜遅く帰って来ました。一刻も早く貴女にお目にかかりたく、その上、お詫の言葉と僕の気持を聴いて頂きたいのです。今日午前中は自宅に、午後は会社におります。いずれかへ、ぜひお電話をねがいます。電話が、ご都合わるき時は、お手紙を。会社の電話番号は、銀座五六八一です。一刻も早くお目にかかりたいと思います。
文句は、短かったが、新子は相手の、青年のような熱情に打たれずにはいられなかった。
手紙を読み了えた新子に、
「前川さんも、東京へ帰っていらっしゃるの?」たちまち、傍から姉が、余計な詮索をし始めた。
新子が、だまっていると、
「何て云ってよこしたの、貴女にすぐ帰ってくれと云うんでしょう……」だまっていると、もっと余計なことを云いそうなので、
「ほんとうは、私奥さまと喧嘩をしてしまったの。ご主人にご挨拶もしないで帰ってしまったので、心配していらっしゃるの。でも、どうにもなりやしない!」
「だって、折角手紙下さるんですもの、行って会っていらっしゃい。今度は、関係していらっしゃる会社の方にでも、使って下さるわよ。」
「いやよ。もう、前川さんのお世話なんかに二度とならないことよ。」
「そうお、それでも、ご主人だけには、挨拶して来るといいわ。私のためにだって、あんなにして下さったんですもの。」
「………」
新子がだまっていると、
「私も、お礼に顔出ししなければいけないわねえ。」と、とんでもないことを云い出したので、
「よしてよ。お姉さんが、余計な所へ顔を出すのは。」と、ハッキリ抗議した。
まるで、この半月ばかり、姉のために奉仕したような気がしていやだった。何から何まで、勝手なことをして(前川さんへお礼に行く)もないものだと思った。
新子は、姉との小うるさい問答を避けて、二階へ上った。そして、美和子を追い立てるように、階下へやると、前川氏への手紙を書き始めた。
会いたくないことはなかった。自分独りが、こづき廻されているような、悲しい気持を慰めてもらうのには、前川氏に会うのが、一番だったが、こんな迷い子みたいな今の気持で、前川氏に会うことは、避けたいと思った。今日など会って、こちらの悲しみを話し、お互に慰め合ったりしていると……そこまで考えると、空恐ろしくなったので、このまま会わないか、でなかったら、当分の内でも、会わないことにしたいと思った。
ただ今、速達を頂きました。私の突然な帰京で、お心を乱してすみません。何とか、一言ご挨拶すべきであったと後悔しています。
お詫びなどと、おっしゃられると、かえって困ります。私も、軽井沢にいたときのことは、みんな夢であったと、忘れ棄てるように努めますゆえ、貴君様も、あれは夢であったとお忘れ下さいませ。折角のお手紙ですが、今お目にかかりますのは、何となく恐ろしい気が致しますゆえ、もっと時が経ってから、一度お目にかからせて頂きます。蔭ながら、お子様のご幸福とご健康をお祈りいたします。
前川様
電話など、到底かける気はしなかった。
前川氏は、午前中家で新子からの電話を待ち、午後から会社のビルディングへ行き、交換手に電話がかからなかったかと訊いてみたが、いいえ、どなたからもという返事であった。冷房装置が、妙に肌寒く、少し偏頭痛を感じ、絶えず新子からの電話が気になり、留守にした間に、たまった文書に目を通す気にもなれなかった。こんなに、絶えず気がかりになるのであったら、いっそのこと会うべき場所を指定した方が、キッパリしてよかった。電話をかけてくれなどというのが、無理だった。手がるに電話を借りる家がなければ、この炎天に自動電話へ行かねばならず、などと考えて後悔しながら、あきらめ悪く、会社を出たのが、六時近くであった。
家へ帰って、一人で食事をするのも憂鬱なので、東京倶楽部へ立ち寄って、食事をした。顔見知りの連中は、みんな避暑へ行ったとみえ、ここも淋しかった。
家へ帰ってみたが、高原の涼風に馴れた身には、いわん方なく暑かった。洋館の居間には、風が通らないので、浴衣に寛ぐと、庭に面した下座敷の十二畳のガラス障子を開け放って、冷たい飲み物を前に、涼を入れていると、縁側に女中がピッタリと坐って、
「あの、南條さんとおっしゃる方が、お見えになりました。」と、しかつめらしく云った。
「えっ!」と、思いがけないことなので、訊き返すと、
「若い女の方でございます。」という。あまりの吉報なので、かえって信じられず、
「おかしいな。軽井沢に行っている南條先生かい?」と訊き返すと、
「さあ。私は、南條先生には、お目にかかったことはございませんけれど、多分その方でございましょう。若い、お美しい方でございます。」と云う。
準之助は、そう答えられると、もう疑う余地はなかった。(電話をくれ)と云ったのを相手はまだるしとして、直接に来てくれたのである、あの人が、こんなに簡単に手がるに(妻も一しょに帰っているという危険もあるのに)来てくれるとは思わなかった。──ともあれ、早く会いたい。にわかに、生々とあわて出した。
「応接室へ──暑いだろうね、どこも……」
「はあ。」
「と云って、ここじゃわるいし。応接室へ、煽風器をかけて、冷たいものを差し上げて……」自ら弾む口調で、命じると、浴衣ではわるいと思い、さっき脱いだ黒い上布に着かえ、応接室へ急いだ。
だが、応接室へ、顔をのぞかせて、思わず、
「あっ!」と、小さくはあったが、口に出して叫んでしまった。彼は、訪客を新子であると信じ切っていたのに、彼が部屋へはいると同時に、立ち上った女性は、全然見知らぬ女性であった。しかも新子くらい美しい……。
準之助がけげんな面持で、一歩を部屋の中に進めると、見知らぬ美しい女性は、たちまち立ち上って、愛嬌深く笑った。その唇元で、準之助は、やっとこの女性は、新子の姉妹であると思い当った。かれも初めて、親しい笑いをもらして、軽く一礼した。
「妹だとお思いになったのでしょう。私、新子の姉の、南條圭子でございます。妹がいろいろお世話になりまして……」鹿つめらしい挨拶に、
「いや。どうぞ、おかけ下さい!」と、席に落着かせた。新子の電話を待ちつづけた準之助には、思いがけない姉の訪問は、多少とも心うれしいことだったが、同時に新子が病気にでもなって、その断りに姉をよこしたのではないかと、少し不安になっていた。
新子よりは、二つくらいは上の二十三、四であろうのに、新子よりもむしろ妹に見えるほど、整い過ぎた美貌で、しかも笑うとたちまち子供じみてしまって、いうことも世間知らずな、お嬢さま気質が染みついていた。
「私、どうしてもお礼に伺わなければ、気がすみませんでしたの。ほんとうに、あんなに後援して頂きまして、有難う存じました。何か持って参ろうと思ったんですが、まだお目にかかったことがないので、どんな物が、お気に召すか分りませんので、お花ならと思いまして……」と、パラフィン紙の中から、強烈な匂いをこぼしている、アメリカン・ビュウティと呼ばれる赤みを含んだ黄バラの花束を、準之助の前に差し出した。
若い女性から、花束を贈られたような例のない彼は、微苦笑を浮べて、
「これは、どうも恐縮ですな。」と、いいながら受け取って、炉棚の大理石の上に、人形でも横たえるように、大事に花束を置いた。
そして、席に帰ると、
「新子さんは、ご病気ですか。」と、先刻から気にかかっていることを訊いた。
「いいえ。私、新子にも内緒で、お礼に伺ったんですの。新子は、直接お礼に行ったら、いやだと申したのですが、私の気持として、お礼に参らずには、居られなかったのですの。ありがとうございましたわ。あの……劇は、よっぽど、お好きでいらっしゃいますの。」
こちらが訊いた新子のことなどは、てんで触れようとしないのだった。自分のことしか話せないわがままな、しかし悪気のない性質だということが、感ぜられた。
「はア、昔は好きでしたが……」
「学校時代には、ご研究になりましたの? 何かお演りになったことなどございません……」演劇以外には、人生にやる仕事がないと云わんばかりの演劇至上熱の中に、相手を引きずり込もうとするような訊き方だった。
「とんでもない、ただ見るのが好きなばかりでした……」と、準之助は、あわてて打ち消した。
演劇マニヤともいうべき、圭子は少しもたじろがず、
「でも、そういう方も、頼もしいんですわ。私なんかも、最初は見るばかり、読むばかりで満足したり、興奮したりしておりましたんですが、お友達の間に研究会というのが出来まして、新しい戯曲を訳したり、朗読したりしています内に、どうしても舞台に立たねば、収まらなくなりましたの。だから、先日の公演を機会に、学校の方はよしまして、舞台の方へ専心したいと思うようになりましたの。まだ、自分の天分には、充分な自信は持てないんですけれども……」
「はア。」一気に、喋りまくられて、準之助氏は、呆れながらも、しかし悪い気持はしなかった。涼やかな娘らしい声と、邪気のない、一本気な心の底が、見通せるような女性なので、微笑と共に肯いてみせた。それをよいことにして、圭子はすぐ話をつづけた。
「あのお金を届けて下さいましたときは、ほんとうに大助かりでございましたの。みんな学生ばかりですから、お金はちっともございませんでしたの。あの日も、劇場の借賃が払える払えないで、騒いでいましたの。ところへ、あのお金が来たものですから、みんな躍り上って欣びましたの。あの奥さまも、劇がお好きなんでございましょう。」
「いや、妻は……」
「まあ、お好きじゃございませんの、それは残念でございますこと……私また奥さまもお好きで、奥様のお口添もあったと思っていましたの……」
「いや。しかし、大変よい評判で、結構でした。軽井沢に居りましたので、新聞の批評だけで、舞台は拝見しませんでしたが……」
「それは、残念でございましたわ。初舞台ですから、充分工夫が出来ませんでしたの。あんな風に賞められると、かえって何だか頼りない気が致しますの。九月には、モルナールのものをやることになっていますの、その方が私の柄にあうんじゃないかと思っていますの。」
「はア。」準之助は、圭子の絶間ない饒舌に、少し辟易しながら、シガーに火を点じた。
「もう、明後日から稽古にかかることになっておりますの。劇団にはお金はちっともありませんし、この間の興行の借金が、結局いくらか残りましたし、今度はうんと切符を売らなければなりませんの。」言葉尻が、みんな子供のような笑顔で、消えてしまう女だった。
「僕も出来るだけ、後援致しましょう。」準之助は、半分義理で、半分好意でそう云った。
「あら! いいえ、そんなつもりで申し上げたのじゃございませんわ。」と、パッと小娘のように、顔を赤くした。
顔を赤らめた圭子の、お喋りはしていても、どこか初心なところのある容子に、準之助は好意を感じて、ニコニコ笑っていると、圭子はまた喋り出した。
「私達の会にも、筒井子爵の息子さんが、パトロン格でいらっしゃりましたの。その方が、費用なんか持つとおっしゃるので、その方を当にして、やりはじめたんですが、この間の公演のとき、配役が不満で、間際になって、およしになりましたので、それでスッカリ予定が狂って、あわててしまったんですの。ほんとに、そんな役不足なんかおっしゃる方は、芸術を理解していらっしゃらないんですわねえ。」
「はア。」準之助が、大人しく聴いているのをよいことにして、どこまで続くか分らないお喋りであった。
こうした演劇熱に夢中になるような姉を持ち、母や妹を控えて、一家の中心として働こうとしていた新子を考えると、自分の新子に対する行為が、結局新子の職業を奪ったことになったのが、ひどく悲しまれた。新子に対する償いのためにも、また自分の助力で、一つの研究劇団が興行を続け得るという楽しみのためにも、少し金を出してもいいと考えた。
「じゃ、劇団には基本金というものが、ちっともないんですか。」
「はア。」
「稽古を始めるのにも、いろいろお金がいるでしょうな。」
「交通費なんか、自弁なんですの。でも、貸席の費用とかお弁当とかそれに宣伝もしなければなりませんし……準備に四、五百円は……」
「ちょっとお待ちなさい!」と、立ち上ると、準之助は部屋を出て行った。
だが、五分と経たない内に、帰って来た。
準之助の中座を、気にしていたらしい圭子は、
「ほんとうに、もう失礼いたしますわ。」と、いいわけのようなことをいいながらも、準之助氏が、席に落ちついて、吸さしのシガーに火をつけると、また喋り出した。
「私に、もっと力があれば、費用なんかみんな出したいんですの。でも、父が死にましたし、つい新子に、あんな無理なんか申しましたの。でも、お金があると、何かといいですわね。方面は違いますけれど踊りの花柳登美さんなんか、舞台衣裳に、お金を糸目なくおかけになるので、あの方の芸が、それだけ引き立つんですわねえ。」と、少し脱線気味である。
「失礼ですが僕貴女の劇団の基金として、これを差し上げることに致します。」と準之助氏は、袂から白い封筒を取り出すと、圭子の顔を見ないように、卓子の上をすべらせた。
圭子は、差し出されたその白い封筒を、一眼見ると、興奮に明るんでいる顔を、一層赤くして、
「いけませんわ。」と指先で、押しもどした。
「お収めになって下さい。失礼ですけれども。」
「だって、いけませんわ。今日はほんとうにお礼にだけ、伺ったんですもの。困りますわ。公演が近づきましたら、ご無心に上るかもしれませんけれど、今からこんなにして頂くなんて、いけませんわ。」
「いいじゃありませんか。公演の時は、公演の時として、また切符をお買いしましょう。これは、基金のような意味で……」
「でも……」と、云いながら、圭子はしばらくもじもじしていたが、
「どうぞ、お収め下さい!」と云う準之助の言葉に、圭子は一大決意を示したような表情で、
「じゃ、私個人としてでなく、研究会へ下さるものとして、頂戴してもいいでしょうか。」と、云った。妹に、文句を云われた場合に、自分の責任を軽くするための準備であろう。
「それで、結構です。」と、準之助が、微笑しながら云うと、
「では、有りがたく頂戴致しますわ。」と、云いながら細いきれいな指で無造作に、その封筒を取り上げると、舞台から持って来たような眼顔で会釈をして、ハンドバッグの中に収めた。
その封筒を収めてしまうと、さすがの圭子も、自分本位のおしゃべりをしばらく中止したので、準之助氏はやっと、こちらの云いたいことを云った。
「新子さんにも、お目にかかりたいんですが、そう貴女からもお伝えして頂けないでしょうか。」と、圭子はちょっとあわてて、
「あら、だって先刻も申しましたとおり、私新子に内しょで伺ったんですもの。でも、いいわ。私、それとなく新子に、早くこちらへお伺いするようにすすめますわ。」と、上目づかいに企まざる媚が溢れた。
「どうぞ。」
「それから、新子のことですが、奥様に何かお気に入らないことがあったそうですが、家庭教師の方がいけないようでございましたら、何か外に適当な……」と、初めて姉らしいことをいいかけた。
準之助は、にわかに真面目な顔になり、圭子に皆までいわさず、
「はあ、それはもう。僕は全力をつくして、あの方のために計るつもりです。」といい切った。
初めは、美和子かと思ったほど浮々と上機嫌で、ジャズを鼻音で唄いながら、二階へ上って来た姉が、いきなり新子の部屋に、ニコニコした顔を見せると、
「私、驚いたわ。」と、いった。
「何が……」と、新子が、ぼんやりしていた顔を上げると、
「貴女に、内緒にしておこうと思ったんだけれど、いわずにいられないわ。ねえ。」
「何? 一体。」
「私ね、やっぱり、前川さんのところに、お礼に行くことにしたのよ。」
「お止しなさいったら……」
「いやアね。人の話を半分しか聞かないで……もう行って来ちゃったのよ。」と、圭子は、福引の一等でも当てたように、得意な表情をした。
「嘘でしょう。いつ? 行く暇なんかないじゃないの。」
「今行って来たのよ。」
夕景、銀座へ行くといって出かけた姉であった。新子は姉の非常識に、半ば呆れながら、
「いやだわ、お宅へ行ったの。前川さん、びっくりなすったでしょう。まあ! ひどいことするわ!」烈しい非難をこめた。しかし、それは姉に通ぜず、
「前川さんて、素晴らしい紳士じゃないの。あんないい方ないわ。私ね、貴女が厭がっていたから、内緒にしておくつもりだったけれども、前川さんに言伝を頼まれちゃったのよ、貴女に、至急会いたいって! 令夫人は、帰っていないらしいわ。」
「いやだわ。行くのおよしなさいって頼んでいるのに、内緒に行って、そんな余計な言伝なんか頼まれて! お姉さまが直接お礼に行ったとしたら、私もう一生行かなくってもよくなったわ。」と、厭味を云ってから、重ねて、
「でも、もうこれから、前川さんのところへお芝居のことで、話しになんか行ったら、私本気で怒るわよ。」と、つけ加えた。
「そんなこと、今更云ってもダメだわ。前川さんのようないい方ないわ。今日、私この前のお礼しか云わないのに、黙って研究会へ寄附して下さったのよ。随分沢山なお金を……」
「まあ!」新子は、険しい顔で、姉を見上げた。
「そんなに、私に怒ってもダメだわ。私個人で頂いたんじゃないんだもの、研究会へ下さるとおっしゃるんですもの。私一人で左右すべきものじゃないんだもの。」と、新子の非難を外らそうとする姉を、新子はうらめしく睨みながら、
「一体いくら頂いたの?」と、詰った。
「驚いたわ。私ね、二、三百円だろうと思ったの、それが、そうじゃないの。だから、あまり軽く頂きすぎたと思って後悔しているの。」
「それを、お姉さまは、私と関係なしに貰ったとおっしゃるの?」新子の声は、ふるえていたが、
「まあ、そうよ。」と姉はすましていた。
「お姉さんッ!」正面に見据えて、こう呼びかけた新子の声には、押え切れぬ腹立ちの殺気を含んでいた。
「何よ。」圭子は、あくまでシャアシャアと、眼元で茶化しにかかるのを押えて、
「お姉さんのすることは、まるで乞食か、泥棒のようだわ。」と、鋭く罵った。
「何が……」と、あまりにひどい言葉づかいに、さすがの圭子も、色を変えて、白けかえった。
「乞食よりも、泥棒よりも、もっとひどいわ。泥棒だって、親姉妹のものなんかは、盗りはしないと思うわ……お姉さまは……お姉さまは……」新子は、押えても湧こうとする悲憤の涙を、グッと呑み込みながら、
「お姉さまは、私がお母さまに送ったお金まで、無断で盗ったじゃありませんか。」と、云い切った。姉には、このくらい思い切って云わなければ通じないと思ったし、一方つもりつもった鬱憤が、一時に爆発したのであった。
圭子は、思いがけなくも、自分の弱点を突かれると、普通の応対では敵わないと思ったらしく、たちまち不貞腐れて、眉一つ動かさず、(それがどうしたの?)と云うような顔をして、新子の視線を受けかえしていた。
「そして、あんな非常識極まる電報をよこして……私が、何をしに軽井沢へ行っていたと考えていたの。私は、あの電報を見ただけでも、腹が立ったわ。まるで、滅茶なんですもの。私は、すぐ断りの電報を打つつもりであったの。ところが、前川さんに、あの電報が来たことが分ってしまって、色々に云って下さったから、ついお姉さんの出鱈目が成功したのよ。でも、あれだけで、もう沢山じゃないの。たった、半月かそこら、お世話になった前川さんに対して、あんなご恩になることだって、随分肩身が狭いじゃないの。それだのにこれ以上、お姉さんは、何をなさろうと思っていらっしゃるの。私に、前川さんの前で、顔も上げられないような、口も利けないような、恥かしい思いをしろと、おっしゃるの、お姉さんには、受けてはならない人の恩を受けるということが、どんなことだか分らないの!」圭子も、唇の血の気がなくなるほど、蒼くなりながら云い返した。
「分っていればこそ、貴女の代りにお礼に行ったじゃないの。」
「だったら、なぜ、お礼を云っただけで帰って来ないの、物ほしそうな顔をして、そんな大金を貰って来るの、まるで、泥棒猫が、投げてくれた魚の骨に味をしめて、ノコノコお座敷へ上り込んで行くような恰好じゃないの。図々しいにも程があってよ。」
新子は、憤りで身体が、熱くなっていた。今まで比較的に、平穏無事であったために、軌み合うことなしに過ぎた二人の性格の歯車が、今やカツカツと音を立てて触れ合っているのだった。なまじ、相手が肉親であるだけに、つい言葉も、ぞんざいになり、一旦云い出したとなると、真正面から遠慮会釈もなく、切り込む新子の太刀先を、あしらいかねて、圭子はタジタジとなったが、すぐ立ち直ると出鱈目な受太刀を、ふり廻し始めた。
「私が、前川さんから、いつ乞食みたいに、お金を頂いたと云うの……。貴女は、お金というものに対して、俗人根性を持っているから、そんなことを云うんだわ。前川さんは、演劇の愛好者だわ。その方が芸術のために、下さったお金は、浄財よ。それを頂くことなんか、恥でも何でもないわ。だから、私前川さんに、個人で頂くのではない。会として頂くと云ってお断りしておいたわ。だから、個人としての私が、恩に着ることはないし、まして私の妹である貴女が、眼に角を立てて、ワイワイ云うことではないわ。」
「おだまりなさい。下らないわ。前川さんは、私の姉としての貴女だから、会ったのよ。私の姉の貴女だから、お金を呉れたのよ。あの方、演劇愛好者でも何でもありゃしないわ。そんな、空論で私をゴマかそうとしても、駄目だわ。」
「貴女の云っていることの方が、よっぽど空論だわ。俗人の余計なおせっかいだわ。」
「私の云っていることが、おせっかいと思うのなら、私お姉さんを軽蔑するわ。お姉さんみたいのが、役者馬鹿と云うのだわ。昔の千両役者のように、お給金を沢山取っているのなら、お金の勘定も知らないような役者馬鹿も愛嬌よ、他人に迷惑がかからないんだから。お姉さんなんか、まだ役者になり切らない先に、役者馬鹿になられたら、傍の者がたまらないわ。私が送ったお金をゴマかすなんて辛抱するわ。私の迷惑になるようなお金を、他人様から貰って来ることだけは、かんにんしてもらいたいわ。……お金が、そんなに必要でしたら、私の知らない演劇愛好者から、いくらでもお貰いになるといいわ。前川さんからだけはよして頂戴ね。」
「………」
姉は、すねて口をきかなかった。
新子は、やや言葉を柔らげると、
「ね、返して来て頂戴! 家へ持って帰ったら、新子に叱られましたからと云って!」
「バカバカしい。あんたの指図なんか受けないわよ。」
そう云うと、圭子はサッと、隣の部屋へ引き上げて、聞いていた境の襖をピシリと音を立てて閉ざした。
新子は、姉と云い争ってから、すぐにも前川氏を訪ねて詫を云い、そのついでに、今後は一切かまってくれないように、頼んでおかないと、姉がいい気になって──また自分への意地も手伝って──何をし出かすか分らないと思った。
しかし、準之助氏に電話をかけようと思うと、あんな手紙を書いた後だけに、何となくわだかまりが出来て、つい三日ばかり経ってしまった。
東京へ帰ってからの、打ちつづく悲しさ腹立たしさに、食慾が衰え、新子は急にやせてしまったように、思われた。
夜は、美和子と床を並べて寝るので、妹が黙っているにつけ、喋るにつけ、その背後に在る美沢のことを考えて、いつまでも心が冴え、やがて思考から来る疲労と悲哀の圧力とで、押しつぶされたように睡眠に入るのは、いつも二時過ぎだった。朝は、夜の間にわれ知らず流した涙がにじみ拡がって頬をぬらしているのだった。
今朝は、部屋の中が暗く、いつものように暑くなかった。美和子は、心地よさそうに眠っている。起きて、窓から見ると、雨である。サツサツと横なぐりの夏の雨である。八月とは思えぬほど冷たかった。
新子は、今日は準之助氏に電話をかけようと決心した。姉の問題もあるが、しかし、今よるべき一縷の糸もない新子のよりどころない心の寂しさが、そう決心させたのかもしれない。
十時頃、近所の酒屋から電話をかけると、
「新子さんですか、僕は、もう会って下さらないものだとあきらめて、明日は東京を離れようかと、思っていたところです……」せわしない興奮した声が、新子を何となく微笑ました。
正午、昭和通りのレストゥラントAで、会おうという約束で、電話が切れた。
家へ帰って、久しぶりでどことなく、ふくらみを持った気持で、鏡台に向うと、新子はまた一層気持が改まった。
姉妹とは背き合い、美沢までも情けなくも自分を見棄て去った現在……彼女は、鏡に向って己の顔を眺めていると、この頼りない自分の姿を、そのまま見せてもいい相手は、前川一人のような気がした。
彼女は、入念な化粧をした。汗がにじみやすい、夏の化粧は浮き立って、思うようにはしにくいものであるが、今日は肌が冷たく秋の初めのように、白粉も紅も、肌によく落着いて心地よかった。
姉よりも地味な好みの、たった一枚持っている上布の着物に、淡い色ばかりの縞の博多帯で、やや下目にキリリと胴を締めて、雨よけのお召のコートを着て、新子は十一時、四谷の家を出た。
ただ一人、円タクの片隅に小さくなって……しかし、思案深げな双眸の下の頬には、ウットリとした明るみが、久々に忍び上っていた。
八階まで、エレヴェーターで運ばれて、雨の日の午の、さすがに閑散な広い食堂の、ロビイに足を入れると、葉巻をくゆらせて、準之助氏が一人、横顔を見せていた。
新子は、そのまま立ち止って、準之助氏が、こっちを振向いてくれるのを待っていた。
「やあ。」
「私の方が、早いつもりでしたのに、お待たせしてすみません。」
新子は、微笑しながら、準之助氏のかけているソファに間隔を置いて坐った。連れが揃ったと見て、給仕が早くも、メニュを持って、料理を訊きに来た。
「何になさいます。」と、準之助氏が新子を顧みた。
「何でも。嫌いなものございませんから……」
「僕と同じでかまいません?」
「どうぞ……」
「じゃね、ポタージュ、お魚のムニエール。マカロニ・ア・ラ・イタリアン。それだけ貰おう。」給仕は下って行った。
「先日は、姉が突然伺いまして、ほんとうに申し訳ございません。」新子の顔は、恥じらいで赤くなっていた。
「いや、僕は、貴女の代りに、お姉さんが来て下さったことも嬉しかったですよ。」すらすらと苦笑まじりに、そう云う準之助氏の言葉に、
「え?」と、新子が眼を上げると、
「そのくらい、僕は貴女をお待ちしていたと云いたいのです。」
と、冗談めかしく、サバサバ云ってのけて、準之助氏は、新子に姉についての詫言など、云わせまいとする。
「あの晩、僕、すぐ貴女を駅まで、追いかけたのですよ。女房の容子で、貴女がどんなに嫌な気持で、帰られたかがよく解りすぎて、僕もとても厭な気持でした。だから、翌日、軽井沢を引き上げて来たのです。」準之助の気持も、新子の顔を見た時から、興奮し、はずみ上って、何となく浮々としているらしかった。
「お待たせしました。」給仕が、食卓の用意の出来たことを知らせに来た。二人は、ごく親しい連れのように、食卓に着いた。こうした寛いだ気持になったのは、初めてである。窓からは、雨に黒々と濡れている街の屋根が、遠くはるかに眺められて、雨が降っていても、ここ食堂の光線は、豊かに明るかった。準之助は、窓外に眼をやって、ナプキンを拡げながら、
「我々と雨とは、縁があるんじゃないですか、あの日も、今日も……」あからさまに、楽しい思出を辿るような視線で、そういう準之助氏の言葉に、
「え、ほんとうに。」と、答えたが、何だか情を迎えるような調子であったことに気がつき、自分一人で羞かしくなり、頬が熱くなった。
もはや雇傭関係のない──主人でなく、家庭教師でなくなった二人の物いいは、自然と、わけ隔てがなく、フォークをときどき、休めて優しく話し合った。
「姉に、あんなことをして頂くと、ほんとうに困りますわ。姉は、演劇狂なんですもの、そのためには、どんなことをしても許されると思っているらしいんですもの。この先、どんなご迷惑をおかけするか……」
「いいじゃありませんか。僕は、ああいう方も好きですよ、一本気で……貴女よりもずーっと、子供みたいで……」
「いやでございますわ。そんな比較なんかなすって? もう、どうぞ私達姉妹のことは、捨てておいて頂きたいんですの……」
「それが、そうは行きません。僕には……」肩のこりの除れるような、遠慮のない会話になり、新子は準之助氏に会ってよかったと思った。
「なぜでございます。」
「なぜって、僕は今まで、あまり道楽のない男だったんですから、月々ある程度の出費は、何とも思いませんし、貴女のお姉さんを後援するなんて、僕にとっては嬉しいことですし……それに圭子さんは、僕を演劇愛好家に定めてしまっているんだし……」
「まあ、いやだわ。姉が、つけ上るはずですわ。」と、いったが、しかし新子は準之助の鷹揚な気持が、うれしくなって、つい笑ってしまった。
「それに考えてみると、僕という悪い人間は、貴女を失業させたことに、なっているんだから、どんなにしても、その償いをしなければいけないし……」
「あら、そんな理窟なんか、ございませんわ。」
「ありますとも、大有りですよ、圭子さんが見えた次の日、僕は貴女の手紙を見て、悄げてしまいましたよ。これぎりじゃ、僕は貴女を、たいへん不幸にしたことになるんですもの。だから、これぎりになるなんて、僕はたまらないと思いましたよ。だから、貴女がもし、あのまま、僕と会って下さらないとすれば、せめて縁につながるお姉さんの仕事でも、後援して貴女に対する自責の心を、少しでも慰めようと思っていたくらいです。」
「まあ!」新子の気持は、だんだん準之助氏の言葉によって慰撫され、甘やかされていた。
「今日はまるで、思いがけなかったのです。もう、あきらめて明日は、軽井沢へ行って、女房と替ろうと思っていたのです。だから、どんなにうれしかったか知れやしません。ねえ、新子さん。」初めて親しく名を呼んだ。
「何でございます。」
「貴女、何かご自身でやってみたいとはお考えになりませんか。」と、しんみり訊かれた。
デザートのハネデュウ・メロンをスプーンですくい上げながら、
(何かしませんか……)と、云ってくれた準之助氏の言葉を、新子はいぶかしげに、眼で訊き返した。
「お姉さんの外に、妹さんもおありになるんでしょう。」
「はア。」
「あのお姉さんは、生活なんて、てんで考えない方でしょうし、妹さんはどうですか……」
「………」新子の顔に、苦笑の影が浮びかけて消えた。
「妹さんも、頼りにならないのでしょうな。と、貴女独りで、働いていらっしっても、追つかないじゃありませんか、何か、ご商売でもお始めになった方がいいじゃありませんか。」
「ほんとうに……」新子は、目を伏せて、こんな親切な人が母方の伯父ででもあったら、どんなに好都合だろうかと思った。
「でも、女のする商売って、どんなものがございましょうかしら、それに……」
(資本金も要りますし)と、いう言葉を、差し控えた。
「僕も、どんな商売が女性に向いていて、有利か研究したことはありませんが、まあ場所を撰んで『酒場』を出すか、『洋品店』をするか、洋裁の心得のある方だったら、婦人、子供洋服の店を持つとか……」
「………」
「婦人雑誌に、そんな記事が時々出ているようですが、レコードを売る店なんてどうでしょう。小ギレイで……」
準之助氏は、好意ずくめのよい人であるし──またその好意の根に、一々野心のわだかまっているような性質の人でないことは、ハッキリ分っていても、この相談に乗って、この上ともこの人の世話になることは、自分で退引ならぬ羽目に自分を追い込んで行くような気がした。
「因循姑息な地味な商売より、当りさえすれば儲けのある水商売の方が、やはり女の人には向いていると、云わなくてはいけないでしょうな。思い切って、『酒場』か『喫茶店』──この頃、銀座に流行っていますな──ああいうものを、やってみては如何ですか。」
「はア。」
「もっとも、お始めになる意志が、おありになれば、僕がよく人に頼んで、場所も経営方法も調べさせておきましょう。」
「はア、でも、そんなにまで、お世話になることは、ございませんもの。何かまだ、私が働けるような口でも、ございましたら……」と、新子は婉曲に断った。
新子が、婉曲に断ろうとするのを、準之助氏はてんで受けつけず、
「いや、就職口を探せとおっしゃるのなら、僕はどうにでもして探しますが、しかし現在の女事務員の月給なんて、結局三、四十円ですからな。貴女一人のお化粧代と交通費になるかならないかですからな。……もっとも、貴女お一人の小づかいさえあればとおっしゃるのなら、それで問題はありませんけれど……」
そういわれてみると、その通りだった。結局特殊の技能を持っていない限り、女一人で働いて一家を支えようなどということは、妄想に近かった。
新子が、伏目になって黙っていると、準之助氏は続けていった。
「お姉さんの演劇熱の後援も、僕は欣んでやりますよ。しかし、僕はその十倍も、百倍もの熱心さで、貴女の生活の後援がしたいんです。そして、貴女の生活を安定して、貴女に幸福になっていただきたいんです。でないと、僕は一生寝ざめがわるいですからな。」
「そんなに、お世話になる筋はございませんもの……今までだって、余分なことをして頂いたんですもの。」
「いや、筋がなければ、こちらでお願いしますから、そうさせて頂けませんか……」準之助氏の頬が、青年のそれのように、あかあかと輝いた。
「僕は、何かの意味で、僕の傍から貴女に離れて頂きたくないんですよ。貴女をお世話したため僕が貴女に、何かを求めやしないかというご心配なら、どうぞご無用にねがいたいのです……この間の夕立のときのことは、僕も全く発作的で、貴女にどうおわびしていいか……あの償いのためにでも、僕はあなたのために、どんなことでも致したいのです。その代り、このままで、路傍の人にだけはなって頂きたくないんです。」
中年の男子の、胸の中に鬱積した思慕の熱情といったものが、ふつふつとして、たぎるのを聞く気がした。新子は、身体中が熱くなり、じっと坐っていられないようななやましさを感じた。
「ですから、どんな誓言でも、どんなお約束でも致しますから、僕に世話をさせて頂けませんか……」じっと、見つめられた眸の強さに、新子は眼をしばたたきながら、
「まあ……そんな心配なんか致しませんわ……心配しているのは、私自身の心ですわ。私、あまりお世話になっていると……」新子は、そこまでいって、食後のマスカットの一粒を、そっととり上げた。
「だから、お互に邪心なく、天空海闊に、お世話になったり、世話をしたりしようじゃありませんか……月も濁らず、水も濁らず……」
「そんなこと出来ませんわ。またいつどんな夕立が来るかも分らないんですもの。」と、新子は恥かしげに微笑した。
「はははは。」準之助も、新子のユーモラスないい方に、うちとけて笑いながら、
「だから、お互に、これからどんな夕立にも、一しょに降り込められないよう、気をつければいいと思います。殊に僕は必ず慎みますよ。」と、心に誓うようにいった。
額で、準之助氏の視線を受けながら新子は、だまって味わうように準之助氏の言葉を、聞いていた。
「僕の、前によく友人と行っていたクララという小さい酒場ですが、客がとても多いんですよ。二十三と二十の兄妹が、二人限りで三千円ばかりの資本ではじめたというのですが、この頃なんぞ兄の方は金廻りがよくて、競馬などに行ってるという話……食物商売は確かにうまく行きさえすればいいんですよ。」
「はア……そのお話、私よく考えさせて頂きますわ。」
「ああ、それは、……僕は、貴女が、どんなことなさっても、前にも申しあげたように心安く援助させて頂きたいんですから、よくお母様ともご相談なすって……」と、そこで、準之助は、葉巻を出して、火を点じながら、
「コーヒは、あちらで頂きましょう。」と、云って、立ち上った。
また、さっきの待合室のソファに、二人並んで腰をかけると、新子は一時間も食事に時間を費したことに気がついて、
「今日は、会社の方は……?」と、訊ねた。
「僕はもう、今日は会社の方へは参りません。貴女、何かご用事でもおありになるんですか……?」と、訊ねかえして来た。
「いいえ。私は浪人でございますもの。」と、新子は、笑いながら云った。
「はははは、じゃア、もう少しご一緒に居て頂いても構いませんね。シネマでも見ましょうか。僕と一しょじゃいけませんか。」
「いいえ。どうぞ。」新子も、もうしばらく準之助氏の、やさしい言葉に慰められていたかった。
「どこがお好きなんですか……?」
「帝劇なんかで観るのが好きなんですけれど、……いま、何を演っておりますかしら……?」
と、云うと、準之助氏は、立って行って、ロビーの隅に置いてある、新聞の綴こみを持って来ると、広告欄を開けて指を辿り始めた。
「『裏街』ってのを、演っておりますよ。」
「あ、それは、たいへん評判の映画でございますわ。」
新子は、一ト月前ぐらいに、予告で筋を知っている、可憐な、アメリカのお妾物語を、もう一度頭の中に浮ばせて、人知れず、胸をときめかせながら、
「それ、ご覧になります……?」と、われから誘うように、準之助氏を見上げた。
帝劇を出たときは、ちょっとの間、夕霽にあがりそうに見えた空も、また雨は銀色の足繁く降り出して、準之助氏のラサールという、素晴らしく長い車台の車に送られて、四谷の家近く、だがなるべく近所の人の目にふれない所で、おろしてもらった時は、六時というのに冬の日の暮のように暗く、運転手が開いた蛇の目に、点滴の音が、さかんであった。
「ねえ、よくお考え下さって! 僕まだ四、五日は、こちらにいますから、どうか会社の方へ電話を……」と、やさしく云ってくれた準之助氏の言葉を耳の底に、走り去る自動車を見送っていた。
一しょに居ると、頭のてっぺんから爪先までいたわりの限りをこめた、柔かく暖かいものに包まれているようで、相手の好意が、しみじみと有がたく感じられる。だが、それだけにどっか、気のつまる感じがして、
(お夕食もどうですか)と、云われたのに(家で待っておりますから──)と、云って、断ったのは一人になって考えたい心持もあったし、長く一しょにいてはズリ落ちて行くようになる自分の心を、引き止めたい気持もあった。
姉も妹も居ない薄暗い家の中に、ぼんやり独りになると、なんとなく心が滅入り込んで行った。美沢に対する未練までが、心の中に残っていて、一度美沢にあって、美和子のことを思い切り詰ってやりたい気持の湧く傍から、粋な酒場を開いて、浮れ男をあやつりながら、しかも道徳堅固に暮してみるのも面白かろうなどと、とり止めもない物思いがつづいた。
どんな世話になっても、自分さえちゃんとしていれば、何をいい出す前川氏でもないことが、ハッキリ分ったが、しかし肝心の自分が、ちゃんとしておられるか、どうか。あの夕立の時だって……と、思うと今見たばかりの「裏街」の女主人公のことなどが、思い合わされ、正統な結婚以外の男女の間は、どんな純愛で、結び付いていようとも、結局悲しいものだと思わずにいられなかった。
八時過ぎると、二階へ上って、床の上に身を横たえて竪樋を落ちる雨音を、さみしく聞いていると、美和子が明るい顔で帰って来た。
何も見まい何も聞くまいと、薄い掛蒲団の下で、ジッと眼をつむって、寝入りばなを装っているのに、
「お姉さまア。眠っているの。ウソでしょう。お姉さまったら……」と、またしても気になる、からかい気味の言葉である。
「何よ。うるさい。少し気分がわるいんだから、静かにしてよ。」と、にべもなく、つっぱなして、眼をつむるのに、
「気分が悪いなんて、ごまかしても駄目よ。さっき、見ちゃったもの。いいところを!」と、いわれて思わず、眼を刮って、
「貴女も帝劇へ行っていたの?」と、語るに落ちた。
小さい机の端に、灰皿とも飾りとも付かずに、置いてある綺麗な小皿を、手元に下して、美和子はこの頃吸い覚えたらしい無器用な手付きで、チェリイの煙を、もくもくとただ吹き上げて、
「だって、随分目に立ったわよ。あんなブワブワとした珍しい自家用に、スマートな紳士と一しょに乗り込むんだもの。あの人、誰?」新子は、その話をさえぎって、
「美和ちゃん、貴女誰と帝劇に行っていたの?」と開き直って訊いた。すぐ(美沢にも見られたかしら!)と、ワクワクと、胸先に苦しさが来たからである。
「クライヴ・ブルックみたいじゃないの。あの人誰さ? お姉さまが云えば、美和子も云うけれど……」顧みて他を云うと、いった調子で、美和子は狡猾らしく、姉の質問をそらして、自分の問いのみを主張した。
「あれ、前川さんよ。」新子は、妹を問いつめる必要上、覚悟をして、アッサリ云った。
「へえ──。前川さんって、あんなに素敵な人なの、驚いた──とても立派ね、……」
「貴女は、誰と行っていたの。」新子は、すかさず訊いた。
「私はね……云うのよしとこうっと……」
「ずるい! 仰っしゃいな。」と、下から見上げる姉の眼に、かち合うと、すぐあらぬ方に、視線を外して、
「あの人ったら、とても慌てて、……私達は、切符を買ってはいるところ、お姉さま達は出るところでしょう。あの人雨に濡れるのに、大急ぎで外へ飛び出して、石柱にぴったりと家守のようにくっついて、あの自動車をいつまでも恨めしそうに見送っていたわ。それで、くさっちゃって、もう活動なんか見るのよそうというのよ。……美沢さん、やっぱりお姉さんが、随分好きだったのね。」大きな上眼で、天井を見上げたまんま、美和子の言葉を聴いていた新子の口尻に、びくっと力が入った。瞳の色は、飽くまで冷たかったが、微かにせまった眉や、顎のあたり、胸底の懊悩をじっと押しこらえている感じが、歴々と浮び上った。
姉のそうした表情を、妹は露ほども気がつかず、
「直感ね。私は、今日美沢さんと、一しょに出かける時から、何となくお姉さまに逢うような、逢ったら困るような気がしたのよ。でも、パッタリ出会さなかったし、……それにお姉さまも一人じゃなかったでしょう。何だか、くすぐったいような、妙にサバサバしたような、安心したような気持になっちまって、でも活動は一時間ぐらいしか見なかったのよ。それから、銀座へ出てフロリダへ廻ったの。だって、美沢さん、滅茶滅茶に騒ぎたいというんだもの。……」
新子が、黙って聴いているので美和子もさすがに、気がさしたのか、ちょっとの間口を閉していたが、やがてしんみりと、
「美沢さん、お姉さんがよっぽど好きだったのね。だからつまりヤケになって騒ぎ廻ったわけよ。それに、私も悪いことしていたのよ。お姉さまが、軽井沢から帰ったことを、あの人に全然だまっていたのよ。だから、あの人帝劇でお姉さんを見つけたとき、すっかりびっくりしてしまったのよ。フロリダから、近所のバーへ行ったら、美沢さん、ハイボールを二杯も、飲むのよ。そして酔っぱらって、新子さんに、言伝があるというのよ……」
「何ていったの?……」小さく思わず、口に出して呟いた。
「僕は、新子さんの幸福も不幸も解りません、サヨナラって! 云ってくれと云うの。お姉さんをあきらめて、しまったらしいのよ。あの前川さんを、お姉さんの愛人かパトロンかと思ったらしいのよ。あの方とお姉さん、何でもないの?」
「うるさいわよ。」姉は、つい険しい声で、きめつけると、顔をそむけた。さすがの美和子も、姉によっぽど悪いと思ったらしく、手早く寝間着に着換えると、電燈を消して、床の中へはいってしまった。そして、しばらくすると、この大胆なる恋愛行者は、もうかすかな寝息を立てているのであった。
考えまい考えまいとしても、頭の中に一杯拡がって来ることなら、いっそ考えて考えぬいて、疲れた時に眠ることにしようと、新子は眼さえパッチリ闇の中に、開けてしまった。
前川氏とたった一度一しょに、シネマを見れば、美沢に見つけられて、美沢が美和子と一しょに遊ぶ口実にもなれば、美沢が自分を思いあきらめる最後のとどめになるなんて、何という馬鹿馬鹿しいことだろうと苦笑したいくらいだったが、しかし、それを美沢に会って弁解する必要も感じなかった……。
自分が一家のためだと思ってしたことが、いたずらに姉の演劇熱をそそり、妹のわがままを増長させ……前川氏の家庭を騒がし、奥さまにイヤな目に会わされ……だから、今後も自分としてはあまり殊勝な心がけで行動するよりも、もっと大胆に……。奔放に、前川さんにおねがいして、いっそバーでも出してもらった方が……。
バーを開くとしたならば(イザベル)、アンドレ・ジイドの小説の題でもつけようか。(サフォ)(エンマ)(クララ)(レオカディ)(マニュエラ)でも、人の名は粋だけれども、少し地味だし……。
音楽の曲名をつけるとすると、
(グラナダ)(ダルダナス)(ラ・カンパネラ)(カプリース)あんまり華美で仰山な名はいやである。口ずさんで楽しい明朗な名がほしかった。(バー・アイリス)(バー・ミモザ)
雨の音はいつか絶えていた。
妹や美沢のことを考えると、とても不愉快だった。美しいバーの名前でも、考えている方がせめてもの慰めだった。
溝板を飛んで来る板裏草履の音がして、勢いよく格子戸が開くと、
「南條さん、お電話ですよ。」と、酒屋の小僧さんの声が、家の中を、つん抜けた。
食卓をかこんでいた姉妹は、一様に視線を合せたが、新子は、前川氏からだろうと思うと、大いそぎで立ち上ろうとすると、美和子が、
「あたしよ。」と、厳しく云うと、早くも茶の間を横ッ飛びに飛んで、駈けだして行った。
思えば、前川氏に呼出しの電話番号は、教えてなかったものをと、新子は、われ知らず頬を染めて、また箸を取りあげた。
間もなく、
「ゼャーズ、ア、ランプ。シャイニング、ブライト、イン、ア、キャビン。イン、ザ、ウィンドウ、イッツ、シャイニング、フォア、ミイ。アンド、アイ、ノウ、ザット、マイ、マザー、イズ、プレーイン……」と、鼻にかかった、甘ったるい声で、晴れ晴れと唄いながら、美和子が帰って来た。
「誰から……?」圭子と新子が、同時に訊いた。
「お友達……フォア、ザ、ボーイ、シー、イズ、ロンギイン、ツウ、シイー……」頭を、コクリコクリとうなずきながら、
「もう、ご飯食べないわよ。」と、二階へ上ってしまった。
新子は、美沢からだったのだろうと、推察して、いよいよ目の前に、ぴたりと冷たい鉄扉を立て切られたような気持になった。後で、前川氏に、手紙で(「酒場」を、させて頂くことに決めました)と、書いてやろうと、咄嗟に思案しながら、自分の心の傷口をいたわった。
美和子は、洋服を着て、化粧して降りて来ると、すぐ、新子の肩につかまって、
「お小遣いが欲しいの、……」と、いった。
「一ト月に、二十円で足らなくて……この頃は三十円くらい使うって、お母さまがこぼしていらしたわよ。使い過ぎるわよ。」
「使い過ぎるも、過ぎないもないわ。実際けちくさいンだもの。お友達に気がひけて仕方がないわ。」
「交際を、お断りすればいいじゃないの。昨夜シネマに行ったばかりだし、……」新子は、意地の悪い皮肉な顔をした。
「お姉様のひどい人、……いいわ、文無しだって、どうにかなるわよ。」と、ぷーんとして、くるりと後を向いてスタスタ行きかけるのを、母親が、
「この日盛りを、病気になってしまうよ。お止しなさい。」
「氷じゃあるまいし、とけやしないわ。」母にまで、八ツ当りして、靴を穿いているのに、新子は立って行って、
「お姉さんだって、お金ないのよ。これだけ、持っていらっしゃい。」と、出してやるのを、
「不要ないわ。」と、後向きのまんま、格子戸を締めて、駈け出してしまった。
その日の晩、十二時はとくに打ったのに、つけっぱなしの電燈の下に、蚊帳は広々と、美和子の寝床は空であった。新子も、反感めいた気持で、空っぽの寝床に背を向けて、今夜は美和子の帰らない内に、どうでも寝つこうとし、寝つくために、何か下らない古雑誌でも読もうと、床を這い出して、机の前にいざり寄ると、階下からしのびやかに、母が上って来る足音がした。
「おや、起きてるのかい。」と、近寄って来て、小声で、
「ねえ。どうしたんだろう美和子は。遅いったって、こんなことは今までにないんだけれど……」不安げに云った。
「大丈夫ですよ。」美和子のことなんか、誰が心配してやるものかと思った。
「だって、もう一時になるのよ。」新子には、連れが美沢だと判っているだけに、心配する気にはなれなかった。
「相川さんのところにでも行って、泊ってしまったんでしょう。」母への気安めを云った。
「だって、お友達は、みんな避暑に行ったと云って、こぼしていたんだが……」
「じゃ、避暑地へでも誘われたんじゃない。今日、出がけに、お小づかいを欲しがっていましたもの……」
「そうかしら。こんなに遅くなっちゃ、心当りへ電話をかけるわけにも行かないし……明日帰って来たら、よく訊き質して叱ってやっておくれ。私の云うことはバカにしてちっとも聴かないんだから……」母親は、なおクドクドこぼしながら、階下へ降りて行った。ガーゼの浴衣を着た母の姿が、空気の抜けた風船のように、小さくあわれに見えて、気の毒であった。だが、新子はもう、美和子のことなど、心配してやる気はなかった。
美和子は、思いきりよく美沢に呉れてやれ!
そして、その心の傷を癒すためには、前川氏の好意に甘えて、風変りの新生活に、飛び込んでみよう。そのために、一家の生活が安定を得れば、母だって喜ぶに違いない。新子は、そう決心すると案外、気持が落着いて、眠ることが出来た。
翌朝、眼がさめたのは、八時であった。美和子の床は、昨夜のままで、少しも乱れていなかった。午後になっても美和子は帰って来なかった。二時頃、母親が美和子の心配で、昨夜ろくろく寝なかったらしい表情で、二階へ上って来た。
「美沢さんのお母さんが、何か話があるといって、お見えになったのよ。お前は、よく知っているのだから、お前降りて来て、話をきいてくれないか。」新子は、また胸を衝かれるような気がしたが、すぐ落着いて、
「すぐ行くわ、少し綺麗になって……」と、毛の落ちかかっている生際へ、手をやった。
年寄同士のくどい挨拶の、頃を見計らって顔を出そうと、茶の間で、座敷の話を聴いていると、案に違わず、美和子は美沢と、昨夜一夜を過したらしい。
新子の母は、思いがけないことばかりで、(まあ?)とか(おや!)とか、いう感嘆詞ばかりで答えている。
(新子は、長い間お交際していたようですが、美和子までが、そんなお交際していようとは、驚きましたね)と、あっけに取られている。
美沢の母の話によると、美和子は昨夜美沢と一しょに、鎌倉か逗子かへ遊びに行って、今朝二人で美沢の家へ帰って来たが、(家へ帰ると叱られるから、小母さまが行って、話をつけてくれ!)と傍若無人の駄々を、こねているらしかった。
「新子!」と、母がその時呼んだので、新子は境の襖をあけて、上半身をのぞかせた。新子とは幾度も会ったことのある美沢の母は、愛想よく蒲団から、身を退らせて、挨拶した。
「しばらく……軽井沢の方へ、おいでになって、いらしったそうで、少しおやせになりましたようで……」
「はア。」新子は、やさしく笑った。
「昨夜は、ご心配をおかけして、相すみません。美和子さんが、宅の方にいらっしゃいますのですよ。」
「あの人、ほんとうにわがままで、ご迷惑をおかけしてすみません。」新子は、もう覚悟していたことなので、素直に答えることが出来た。
「いいえ。」美沢の母は、ちょっと新子の心持を探るように、ジッと視線を合せて、新子の澄んだ静かな瞳にぶっつかると、安心したように、
「何ですか。こう、藪から棒のようなお話ですけれど、……若いもの同士で、あやまちのありません内に、いっそ美和子さんを、私の方へいただきたいと思うんでございますけれど……」
「美和子でございますか。」美沢の母の言葉が終らない内に、新子の母が、びっくりして訊き返した。
「はア。昨夜なんぞも……」美沢の母は、ちょっと思い計るように、そこで止してしまって、新子に、
「貴女とも、一度よくご相談したいと、思ってはおりましたんでございますけれど……」そう云われて、新子は顔を真赤にしたが、しかし、しっかりした調子で、母へ、
「お母さん、美和ちゃん、子供みたいですけれど、あれでよくいろんなことに、気がついているんですし、それに音楽なんかよく解るし……いっそ、お願いして、美沢さんに貰って頂いたら、どう?」と、云った。
新子の母は、(貴女は、それでいいの?)と、云うように、眼顔で、パチパチしばたたいた。
新子は、勇敢に事件に直面して、冷静に己れを持した。そのために、ヒステリックにもならなければ犠牲主義も振りまわさなかった。美沢をアッと云う間に美和子に取られてしまったことも、考えれば今までの新子の生涯にいく度かあったことと、大した相違はなかったのである。
綺麗な着物は、姉圭子に、新子はいつも、そのお古を、大きい方のお菓子は、それは、いつでも妹の美和子にあたえられるにきまっていた。幼い時代が過ぎて、大きいお菓子が、愛人になって、それを妹に渡してやっただけのことである。それっきりの話である。こうした我慢には、好い加減馴らされている新子であった。東京下町の小学生が唄いはやす(真中まぐそ、はさんですてろ)と、いうのが、南條家の新子の場合なのである。姉は年上なるがゆえに威張り、妹は年下なるが故に甘やかされる。
とは云え、美沢に対しては、よい気持はしなかった。余りにも、たやすく見替えられたわれとわが身が憐れまれ、その打撃に無神経になるまでには、相当長い時日がかかると、覚悟しなければならなかった。覚悟の土台を築くために、自分で自分の傷を癒すために、新子はいよいよ決心した。
もう母にも相談しなかった。新子は、簡単に、前川氏へ、
先日は失礼致しました。帰宅致しまして、いろいろと、思案致しました。厚かましく、万事おすがり申すことに決心致しました。何分よろしくお取計らい下さいませ。
妹は、この秋に、結婚致すかもしれません。私も自分本位の生活が致しとう存じます。私は「酒場」の名を、いろいろ考えております。
その返事は、その翌日、速かにもたらされた。
──お手紙拝見、先日お別れしてから、知人に、適当な場所や家を探してもらったりしておりました。銀座裏に、芸妓家の売家があること、……しかし、貴女からのご返事があるまでは、空なものでありましたが、お手紙ですっかり勇み立ち、僕もちょっと見て参りました。場所もなかなかよろしく、隣りは煙草店、建て方ひとつで、気持のよい「酒場」になることと思います。あまりこっちに長く居りまして、具合が悪いので、明後日軽井沢の方へ参るつもり、明日午後は暇ですから、よろしければその家見にいらっしゃいませんか。午後一時、省線四谷駅前で、お待ちうけします。
いらっしゃれれば、別にご返事には及びません。もしご都合が悪ければ、ちょっと電話でお知らせ下さい。僕が、昨夜考えた「酒場」の名、バー・スワン、いかが、……妹さんご縁組のよし、貴女のご辛労たいへんでしょう。では、お目もじの上、いろいろと。失礼。
投函して、二時間くらいで来た速達のような手紙であった。
新子は、その手紙を見ると、その日の内にも、準之助氏に会いたいように思った。
万事を、準之助氏に頼んで、八月は何ということなしに、暮してしまった。
九月も、半ばになった。
空は、一面にどんよりとした層雲で包まれているのに、街の裾から、カッと落日の光がさし込んで、暗い通りに、建物の倒影が、クッキリ落ち、行きずりの人の顔など、眩しいほど、鮮に見える。バサバサと葉の茂った街路樹に、生あたたかい風が、ゆるゆると当る、季節境の荒模様の夕暮であった。
「家が落成しましたから、見にいらっしゃい。六時頃なら、僕も行っています。」と、今朝準之助氏から電話がかかって来た。
銀座の表通りから二つ目の裏通りの新橋寄りで、芸妓屋が二、三軒並んでいる場所で、うり貸家の紙が、斜に貼られてあった家を、(ここですよ)と、一度見せてもらったぎり、落成するまでは見に来ないで下さい、という準之助氏の言葉を、堅く守った故、どんな家になっているか、少しも想像がつかなかった。ハッキリ覚えていた場所を、円タクの運転手に教えたが、そこへ行ってみると、危く通りすぎそうになって、
「あ、ここ、ここ。ここだったわ。」と、思わずはずんだ声を上げてしまった。
周囲が周囲だけに、モダンな表構えの家が、劃然と目に立っていた。見るからに、南欧風の明るく小ぢんまりした構えで、扉は何か作りつけているらしく、開け放たれて、紺の半纏を着た男が、ばしょうの鉢植の蔭で、チラチラ動いていた。よくも短日月の内に、こんな変装が出来るものだと思われた。
滑るような床張りの中央に、古物らしいイタリイ製の水盤が置かれて、低いゆったりしたソファに椅子が、木製の美術的な小卓をかこんで巧みに配置され、白い壁にとりつけてある目を楽しませるだけの飾棚や、壁にかかっている見事な織物や金属製の飾物、どの一つにも豊かな詩趣と、驚くばかりの贅が、こらされていた。つき当りのスタンドの上の壁の、水彩画の中に、スワンが二羽、長い頸を延ばしていた。
「バー・スワン」準之助の明るい気持が、新子の眼の前に躍り出した。
「バーテンの後から、二階のお部屋へ行かれますよ。」大工の棟梁らしい男が新子に話しかけた。
バー・スタンドの後に、四畳半の部屋があり、そこから二階へ行く狭い階段がある。上って行くと、こぢんまりした一室が、居心地よく装飾され、スプリングの心地よいソファ・ベッドや、三面鏡や、簡単な衣裳箪笥が置かれていた。その行き届いた快さに、新子は茫然として立っていた。
その時階下から、
「新子さん、二階ですか。」と、久しぶりに聞く、なつかしい準之助の声がした。
「はア。下へ参ります。」いそいそと、思わず声も動作も、弾み上って、親しさと感謝で、明るく相好を崩した新子が、階段をかけ降りて、店の間に立っている準之助の側へ、近々と寄った。
「しばらく。どうです、少しはお気に召しましたか。」
「まあ、こんなに何から何まで、して頂いて……相すみません、軽井沢からは、いつお帰りになりました?」
「四、五日前ですよ。毎日ここへ寄っていたんですが、すっかり仕上ってからと思って、お電話しなかったんです。」
イの一番のお客のように、二人は卓をはさんで、ソファに腰をおろした。準之助は大工に、
「電話は、やっぱり奥の方がいいね。四畳半の上り口の壁にとりつけてもらいたい。」
「へえ──。板だけでも、とりつけておきましょう。」
「まあ、電話まで……」新子は、包みきれぬうれしさで、笑顔でうつむいていた。下手なお礼をいうより、黙っていたかった。(大恩は謝せず)という古語がある。こんなに何から何まで、してもらっては、(ありがとう)などいう言葉を、何百遍くりかえしても足りないと、新子は思った。
「バーテンダーは、頼んでおきましたよ。フランスにしばらくいた男で、カクテルには、自慢の腕を持っています。偏屈ですけれど、人間はごく正直な男ですから、洋酒の仕入れなど、一切委せたらいいでしょう。貴女は、カウンターをやって、女給は気持のいい少女を二人くらい傭ったらどうですか。」
「はア。」
「開業も、縁起のよい日がいいと思って、そんなことをよく知っている人に聞いたんですが、貴女は六白だから、今月は縁談金談はいいんです。十二日が大安でしたけれど、貴女の年には凶の日で、二十日の先勝がいいんですって……」
「まあ……そんなこと、お気になさいますの?」
「ははははあ。こういう水商売は、縁起をかついだ方が、いいのじゃありませんか。」準之助は、首をすくめて笑った。
「警察への届けなどは、こちらでやります。貴女は、明日でも新聞に広告して、貴女の気に入るような女給を見つけて下さい。」
「はい。」新子は、長い言葉が出ないのであった。
「貴女、よくご覧になって足りないところがあったら、遠慮なく云って下さい。バーテンダーになる鈴木という男に万事頼んでおきましたから、大抵大丈夫でしょうけれど……表の看板のネオン・ライトは薄紫がよくはありませんか。」
「はア……」新子は、危うく涙になりかけるほど、有頂天な嬉しさに浸っていた。
もう、母や姉妹に、少くとも母には、だまっているわけには行かなかった。
しかし、故もないのに、前川氏に立派な店を持たしてもらったといったら、母は理解できずに、不安に思うだろうし、わがままな姉は、またいい気になって、前川氏にどんなことを頼むか分らないと思ったから、ただ前川氏に頼まれて「店の監督」になったといっておけばいいと思った。
綾子夫人も、とっくに帰京しているので、前川氏は妻の手前早く帰ってしまったので、新子も家へ帰ったのは、七時半頃だった。母一人のところで話せばいいものを、新しい生活に入る嬉しさは、おさえ切れず、つい美和子の居るところで、話してしまった。
「まあ、その酒場、前川さんが、おやりになるの?」と、美和子が訊いた。
「ええ、お道楽でおやりになるんですって。」
「素敵なんでしょうね。」
「ええ、とても気持のいい家よ。」
「新聞広告なんかしたって、なかなか美人なんて来ないわよ。私のお友達に、適当なのがあるわ、つれて来てあげるわ。」
新子は、美和子を見ながら、妹も満更役に立たないこともないと思った。美和子のお友達だったら、女学校は出ているし、モダンな娘だろうと思った。
「だって、貴女のお仲間、そんなところで働くような境遇の人いないじゃないの?」
「いるわ、一人。働きたい働きたいっていっているの。もう先、仲のよかった人よ。ちょっと、可愛い人よ。」
「そうお。じゃ、早速連れて来て見せてくれない。」と、美和子の側へ坐ると、美和子も興奮しているらしく、美しい鳶のように、眼をかがやかしていた。
「お姉様ア、美和子も、手伝わしてよ。ねえ、いいでしょう。私、知合いのボーイを沢山、引っぱって来るわ。」新子は、初め美和子が冗談を云っているのかと思ったが、彼女はますます双眸を輝かして、
「美和子なら、いいじゃないの。お互に監督し合えばいいわ。前川さんは、スマートで、お金持なんでしょう。お姉さん、一人じゃ危いわ。」
「何を云っているの! 貴女は、美沢さんと結婚するのじゃないの。」
「そんなに、早く結婚なんかしないわ。つまんないもの。それに、美沢さんの月収、いくらもないのよ。美和子のお小遣いくらい自分で稼げばうれしいわ。ねえ、美和子を使ってよ。明日一しょに、お店へ行くわ。」新子は、やはり美和子には、後で話せばよかったと思った。
「いやですよ。およしなさい。」
「ほんとうに、美沢さんのお母さんも、どうおっしゃるか分らないし……」傍から、母が口を出した。
「とにかく、開業の時お友達をつれて、行ってみるわ。行ってみるだけなら、いいでしょう。」と、ずるそうに笑った。
いくらお膳立が整い、箸を取るばかりになっているとはいえ、無経験な仕事であるだけに、開業日が迫ると共に、足の地に着かない、わくわくした落着かない気持がした。
二、三日して、美和子が、お友達の杉田よし子という少女を連れて来た。顔立のいいというわけではなかったが、色白で骨細で、誰からも嫌われはしないといった型の、いかにも酒場の女給に、ふさわしい娘であった。
準之助氏が、以前会社に使っていたという給仕上りの娘を、一人世話してくれた。色の浅黒いチンマリかわいい顔立で、身体もガッチリしていて、いかにも働けそうだった。妙子と呼ぶことにした。
案内状は、主に準之助氏の知人関係に配られた。
二十日、いよいよ開業の日である。美和子が、(お姉さま、今日だけは、わたし、とにかく手伝ってあげるわ)といってくれたのが、頼もしく思えたほど、心配だった。
四時に店を開けてみると、最初一時間半ばかりは、お客がなかったが、六時近くになると、珍しいもの好きな銀座マンが一人はいり、二人はいり、ソファと椅子とに坐り切れず、予備の小椅子まで持ち出す盛況であった。
手伝いに来ただけの美和子が、一番大車輪で、お客の註文など、一つも間違えず、
「お新規さんよ。キング・ジョージが二つ、それからソーセージが二つ。」などと、よし子や妙子を使い廻しての奮闘ぶりに、新子はなるほど、妹が自信ありげに、手伝いたがるはずだと、スタンドの陰で、微笑しつづけていた。
それに、ベビー・エロと云ってもよい、美和子の白いスカートに黄色い腕なしのブラウスをつけた姿は、あらゆるお客の注視の的となり、いつの間に名を訊かれたのか教えたのか、
「美和子さん。美和子さん。」と、ひっぱりだこになっていた。
新子は、美和子の持っている性的魅力の強さに驚きながら、(妹を使えば、お店の繁昌は疑いないけれど、でも使うのはいやだし……)と、迷っていた。
準之助氏は、もし都合がつけば開店の景気を見に来るといっていたが、とうとう来ず、九時近くになって、電話がかかって来た。
「どうです、景気は?」
新子は、わくわく胸を躍らせながら、
「たいへんな景気よ。ちょっといらっしゃらないこと?」
「もう、家へ帰ってしまったのです。」
「まあ、お家から?」
「はあ。」
「つまんないわ。」
新子は、物足りない気がして、ついそんなはすっぱな言葉づかいをしてしまった。こうして家を持たしてもらうと、ただ出資者というものに対する感情以外のものが、もう胸の中に出来上っているのであった。
上々吉の開業日の、あくる日だった。
まだ暮れて間のない七時頃に、美和子はお友達を五人連れて、勢いよく乗り込んで来た。その中に、相川さんというお嬢さんは、新子も一、二度顔を見たことのある美和子の親友だったが、他の四人は見知らぬ青年達で、美和子のいわゆる男友達らしく、美和子のその青年達に対する態度は、傍若無人であった。
「ねえ。お姉さま、このくらいお客様を連れてくれば、大したものでしょう。みんなお酒飲みを集めたのよ。それに、勘定少し高く取っても大丈夫よ。特に、この人はねえ……」と、美和子は、背の高い、眼鏡をかけている青年の肩に、馴々と手をかけて、
「大村さんという、大ブルジョアなの。」と、無遠慮に云うので、初めてバーのマダムの如く、愛想のよい笑いを浮べながらも、心の中では……妹がこんなに誰彼なしに、媚態を見せても大丈夫なのかしらと、恨みを忘れて、美沢のためにハラハラするのであった。
皆が、お店の一角に、席を占めると、美和子はビクトロラの傍に飛んで行って、レコード・ボックスから、「ボレロ」を取り出してかけた。店の中は急にロマンチックな気分になり、新子までが妹の大胆な言動に、辟易しながら、やはり楽しい気持になって行った。男達の前には、ビールが、美和子と相川さんの前には、バーテンの創案の、アルコール分の少いアヴェック・モア・カクテールが運ばれた。
「美和ちゃんのお姉さんのために、チェリオ!」青年の一人が、そう云って、みんなが一斉に盃を拳げた。
「美和子のためにも、チェリオ!」美和子は、自分で盃をあげた。
「美和子ちゃんも、何かお祝いすることがあるのかい。」と、青年の一人が云った。
「大有りさ。美和子、今に結婚するかもしれないのよ。」
「おや。誰とさ。」
「誰とだって、いいじゃないか。今に分るさ。」美和子は、男の子のような口をきいていた。
だんだん客が、立てこんで来た。
八時近く前川が、友達二人と、客のようにすまして、はいって来た。そして、音楽や、若々しい笑い声や、酒の香りに、濁りかすみながら、陽気な空気の渦巻いている容子に、満悦しながら、美和子達のグループのすぐ隣に、腰をおろした。
新子は、前川がはいって来たのを、目ざとく見つけたが、ちょうど他の客に、サービスしていたし、よし子も妙子も、物を運んでいたので、誰もすぐには註文を訊きに行かなかった。
それを知ると、美和子は、お友達に、
「美和子の女給ぶりを、ちょっと見せるわよ。」と耳語すると、たちまち自分の座席から立ち上って、前川の卓子に行き、
「いらっしゃいませ。何をお持ちしましょうか?」と、訊いた。
「ウィスキイ。オールド・パーがいいね。」
「皆さん?」
「ああ。」
前川は、こんな可愛い少女を、いつの間に新子が見つけたのだろうと、驚きながら答えた。
(ああ)と応じた前川の言葉に、人言を真似る鳥のように、美和子も、
「ああ。」短く同じように領いて、ジッと見ていたが、いきなり親しげに眸を輝かせると、
「分ったわ。貴君ですのね。」と、云った。前川は驚いて、首をかしげ、
「貴君ですのねって、何です?」訊き返した。
「いいの。いいの。何でもないの。」と、女学生風な親しげな物云いを残して、バー・スタンドの方へかけて行ってしまった。
「可愛い子ですね。少し酔っていますね。」
「そうだね。」前川の連れは、そんなことを呟き合っていた。
新子は、前川がどんな種類の友達と一しょに来ているか分らないし、──もっとも、ここへ来る以上、自分が挨拶に行って構わないだろうけれど、なるべくなら、普通の客のように扱うのがいいだろうと、いつの間にか日陰の女がするような心配を、している自分が、淋しく思われた。それにしても、帝劇で前川をチラリと見て知っているはずの美和子が、連れも構わず、下らないことを云い出しはしないかと不安になった。
美和子は、バーテンに前川の註文を通すと、姉の傍に飛んで来て、耳の後で、
「お姉さまのあの人来ているわよ。」と、いやな云い方をするのを、
「何を云ってるの。貴女、お連れがあるから、つまらないこと云っちゃダメよ。」と、たしなめると、
「心得ていてよ、私、妹だとも云わないわねえ。女給のような顔しているわよ。ステキ、ステキ!」新子が、重ねて注意をしようと思う間に、美和子はもう、バーテンからウィスキイの壜とリキュールと落花生とをのせた銀盆を、すまして前川の席へ運んで行った。
このような、男性を相手の「酒場」になぞ持って来ると、美和子はいよいよ天成のコケットだった。幼い時から、お伽話と実際の差別がつかなかったり、人前に立ってワイワイもてはやされると、いよいよ有頂天になる性質は、たちまちその本領を発揮して、人に対する奉仕というようなものでなく、彼女自身がその空気の中に溶け込んで、浮れ出してしまうのであった。彼女の楽しさが即ち男を喜ばす言葉や仕草となって現われるのであった。前川が新子の妹だとは、到底気がつかないほど、彼女の女給ぶりは板に付いていた。
「君幾つ!」
「十八……」
「何て云うの──」
「まだ名前、ついてないの。多分ミミということになるでしょう。」
「本当の名は……」
「只では教えない! ここイかけさしてね。」
独りでかけている前川の隣に、ぴったり寄り添って腰をかけると、そっと自分の連れのいる隣の席へ、(どうです?)というような意味のこもったウィンクを送った。
いきなり、脇へ腰をかけられた前川も、二人の連れも妖精じみて、美しい少女へ、マンジリともしない眼を向けていた。
美和子ぐらいの年頃の、まだ場所馴れしない娘であったなら、こうも男達の視線を、ジカに自分の上に集められたら、気怯れしてはにかんでしまうに違いない。美和子も、少し心臓の鼓動がはずんでいるが、かの女はそうした自分の気持を、速やかに言葉に表せる、開放的な性質を持っている。
「いや、そんなにご覧になっちゃ。テレてしまうわ。」と、ウィスキイの注がれたリキュールを、前川の方へ、押しすすめた。
前川は、一口なめるように舌の上へ落すと、喉が乾いていたところなので、カーッと味の解らないほど、口全体が熱くなった。
「炭酸水をもらおうかな。」
「はい。」美和子は、側に来かかったよし子に、
「ウィルキンソンにコップが三つ、ぶっかきを入れて、持って来て頂戴!」と、いった。やがて、よし子が運んで来ると、
「貴女もいらっしゃいね。」といいながら、
「私も十六ミリだし、貴女も小型だもの、ここへ二人かけられてよ。」と身体全体で、前川をグッと押した。無遠慮で乱暴だが、しかし色っぽく艶めいた仕草だった。前川は、ウィスキイと炭酸水とを別々に、口に運びながら、
「君達二人とも、初めて?」と訊ねた。よし子は、温順しく眼を伏せて肯いたが、美和子は、
「そうよ。ここのマダムも初めてよ。お店も新しい、ホラ唄にあるじゃないの……」
「唄にあるって……」前川は、陶然とした気持に、揺られながら、訊き返した。
「ええ、船は新造で、船頭さんは若い、河は新川、初上りって……」
「へえ──、しゃれた唄を知っているんですね。」と、これは前川よりやや年若の連れの人が、それまでマジマジと美和子を眺めていたのが、初めて口をきいた。
「ええ、唄なら大抵知っているわよ。音楽家よ、わたしは……」
「何か歌って下さいよ。」
「いやよ。私『歌わせてよ』じゃないわよ。まだ、お酔いになっていないのに、聴かせるものですか。」
「じゃ、酔ったらきかせてくれますか。」
「ええ、そして毎晩、お店へ来て下さるというお約束をして下さらなければ……つまり、どうぞゴヒイキにということなのよ、分って……」と、冗談ともつかず、真面目ともつかず、美和子はペコリと頭を下げた。
いかにも、あどけない少女らしく見えていて、男心を捕えるのに妙を得て、奔放自在、しかもどっかに才気の閃きを見せて艶冶である、こんな少女を、一体どこで見つけて来たのだろうと、前川は感嘆しながら、心の底まで楽しくなっていた。二人の連れの一人が、前川を先生と呼ぶのを早くも聞き覚えて、
「ねえ。先生、グウ、チョキ、パッをしない?」と、可愛い握り拳を出した。
子供のやる気合ゲームで、相手がグウを出せと云ったら、それに誘われないように、チョキかパッを出さねばならない。
前川は、小太郎や祥子の相手をさせられているだけに、
「グウ、キョキ、パッよろしい、君なんか一ひねり……」と、自信を以て始めたが、アッサリ美和子に負けてしまった。
「じゃ、僕と……」連れの一人が代ったが、これは前川より、もっと手がるに片づけられてしまった。
「じゃ、この次、三回勝のジャンケン。三回つづけて勝てばいいの。」と、別のジャンケン遊びを始めたが、これも美和子は、可愛いかけ声に拘らず、どこか気合がすぐれていて、相手の気を釣って、巧みに勝ってしまった。
その時、新子がサービスしていた客が帰ったので、ようやく、前川のところへ来て、挨拶したが、みんなは美和子とたわいなく遊ぶのに夢中であった。美和子は、それと気づくと、芝居気たっぷりに、「マダムここへおかけにならない?」と、わざと席を立って、笑いもせずに、新子の袂をとらえて、坐らせようとした。
「この人は、とてもいい子だね。」と、前川は楽しそうな眼で、新子を見上げた。新子は、前川が、美和子が、自分の妹であると知ったら、どんな顔をするだろうと、苦笑せずにいられなかった。美和子は、前川を姉に委せると、自分はまたお友達のグループにはいって、そこで賑やかにさわぎ出していた。
前川の一行が、しばらくしてから勘定をすませて、帰りかけると、美和子は後を追うて、前川の背後にすがりつきながら、
「ねえ。あした来て下さる?」と、甘えかかった。
「ああ来よう。」
「きっとね。私六時までに来ているわ。」戸外まで送り出して、前川の肩を、「サヨナラ。」と云って、軽く叩いた。
二夜、夜更しが続いたので、朝は深い眠りで、明るくなったのにも気がつかず、新子は、十一時半頃、やっと眼を覚した。傍の美和子は、まだ綺麗な寝顔で、しんしんと眠っていた。枕元に、美和子宛の速達が来ていた。表書の筆蹟が、努めて違えてあるようだが、どこか、美沢のそれらしかったが、裏を返しては見なかった。新子は、美和子を起してやろうと思ったが、止してしまった。
昨夜、お店で前川がご不浄に立ったとき、(明日二時、ちょっと来ます)と、行きずりに囁いたので、早く店へ行かねばならず、大急ぎで化粧をした。
姉の幸福は、自分もちょっと噛ってみねば、気のすまないような美和子に対して、新子はある煩わしさを覚えていた。美和子が、毎晩のように、お店に現われると、結局美和子が、バー・白鳥に駕する王女になってしまうような気がした。だから、今日も美和子が、(一しょに行く)などと云い出さない内に、サッサと家を出かけてしまいたかった。どこからか聞えている昼間の演芸放送が、ニュースに代りかけても、美和子は起きて来なかった。
銀座へ来たのは、一時半を過ぎていた。店には、もう前川が、会社のひまを盗んで来たらしく、帽子も被らず、やって来ていた。
「お待たせしました。」
「いや、僕も今来たばかり……」と、右手に持った金属性の鳥籠を、どこへ置こうかと、部屋を見廻していた。
「まあ。カナリヤですの……可愛いこと。」
「いま来がけに、そこでフラフラと買っちゃって、水盤の上へでも吊ろうかと思っているんですが……」
「可哀想ですわ。お店じゃ。夜更しをして、煙草にむせて、お酒に酔って……」
「じゃ、貴女のお部屋にしますか。」
「ええ。」と、新子が手を延ばして、籠のてっぺんを持とうとすると、
「僕が、持って行って、上げますよ。ウッカリ持つと、水をこぼしちまう……」と、前川は籠をぶら下げて、新子の部屋へ上って行った。新子も後に従って行った。カナリヤが、籠の中で怖れるように、忙しなく短く、鳴いている。カラリカラリと前川は、カーテンを開いて、出窓の上に鳥籠を安定させると、新子を振り向いて、何と云うことなしに微笑した。
新子も同じように、微笑しながら、この世に幸福を盛る器があるとすれば、自分はその中にいるような、晴々したのどかな気持になっていた。もっとも、その器の中にいるだけで、ほんとうに幸福であるかどうかは、別問題であったが……。
しかし、そうした幸福感が、間もなく妙に新子を切なくした。なぜといえば、前川は、小さい椅子にかけて、葉巻をくゆらせながら、開店景気とはいえ、この二日間の売上げの好かったことを話し、でもこれが当分続くとしても、やがて常連だけになり、そこで初めて店の収入が決まるというような、その場合の新子の気持とは、およそそぐわない話をし始めたからである。新子は味気なく、物足りない気がして悲しかった。
「会社の方、まだお仕事があるんじゃございませんの?」
「いや、別に。帽子やステッキを持ってくれば、会社へ帰らなくってもよかったんです。でも、今日は六時までに、家に帰らなければ……」
「祥子さんや小太郎さん、お元気なんでしょう。」
「ええ、しょっちゅう、貴女のことを云って、会いたがっていますよ。それに、路子も、たいへん貴女に、すまながっています。今度、何か機会を作りますから、子供をご覧になりませんか。」
「ぜひ、どうぞ。」
話していても、新子は何となく不満である。もっと外の話がしたい。もっと心に触れる話が……こんな話で飽きたらないのは、結局前川を愛しているためだろうか。と新子は、自分の心を探ってみている。前川とても、同じ気持であろうか、他愛ない話を、あれやこれやとしながらも、容易に腰を上げかねていた。時間ばかりが、切なく過ぎる。突然、
「お姉さまァ。上にいらっしゃるの!」ハッとするほど陽気な声がして、バタバタと、階段を上って来る足音がした。
「僕、居てもかまいませんか。」と云う、前川の言葉の終らぬ内に、部屋の中へ、美和子が飛び込んで来た。
「あら!」前川を見ると、さすがに顔を赧くして、「お姉さま、ちゃんとご紹介してよ。」と、恥かしそうに、前川から顔をそむけて、姉の肩に甘えかかった。新子もつい、おかしくなって、笑いながら、
「前川さん。妹の美和子でございます。」と、紹介した。
「そうですか。昨夜は、あんなに僕達をおかつぎになって! これは驚いた。」と、前川はびっくりして、美和子を見直した。
「だって、私はどこの方だか、分らなかったんですもの。お姉さまのお世話になっている前川さんだとは夢にも知らなかったんですもの。すみません、どうも。」と、早くも別なウソをつく円転自在な美和子に、姉は心の中で、何かしら油断のならぬ気がした。
いきなりはいって来た美和子をたしなめる気持も手伝って、
「貴女、こんなに早く何しに来たの?」と、新子が詰ると、
「カットが、こんなに伸びちゃったんだもの。美容室に行くの。」と、前川に愛らしい笑顔を向けて、ちょっといいよどみながら、新子の耳に口を寄せ、
「それで、お姉さまに、お小遣を頂きに来たの。お小遣じゃないわ。二日間のお給料としてでもいいわ。」と、前川にも聞えるように囁いた。新子は、苦笑しながら、
「もうそんな……」といいながら、五円札を出してやると、わるびれもせず、ハンドバッグをパチンと聞けて、中に入れて、今度は前川の方へ向いた。
「晩に、またいらっしゃるでしょう。」
「いや、晩には来られません。」
「いけないわ。嘘をおつきになっちゃ、昨夜私とちゃんとお約束なすったのに……」長い睫毛を、しばたたきながら、詰った。
「ご免なさい。今日は、都合がわるいから、改めて約束の仕直しをしましょう。明日きっと来て、あなたのサービスぶりを拝見いたします。」と、やさしくいうと、すぐそれに甘えて、
「じゃ、もうお帰りになるの。」と、訊いた。
「ええ、僕ノウ・ハットだから、会社へ、帽子を取りに行かなければ……」
「あら、帽子なんかいいじゃありませんか。今晩、いらっしゃらない罰に、これから銀座で何かご馳走して下さらない。私、あわててお家で、何も喰べて来なかったの。お腹、ペコペコなの。ねえ、お姉さまも、一しょにお出かけになるでしょう。」
「何を云っているの。前川さんにご迷惑なことを云っちゃ。」
美和子が、前川に対して、あまりに無遠慮なので、新子が真面目な表情をしてたしなめると、美和子はケロリとして、
「お姉さまは、前川さんと歩くのおいや? 何とか云われやしないかと、心配なんでしょう。私は、平気だわ。私は、前川さんと一しょに歩いたって、伯父さんかパパのようにしか見えないんだもの。ね、そうじゃありません?」新子は、不愉快になってだまったが、前川は冗談に、
「パパは、ひどいでしょう。」と、抗議すると、
「だって、美和子の覚えているパパは、前川さんくらいだわ。ねえ、お姉さま。」と、姉の気持などおかまいなしに同意を求めた。
新子は、ますます不機嫌になって、
「そんなご迷惑なことを云わないで、早くカットにいらっしゃい。熊の子みたいな頭をして……」と、美和子を追い立てにかかったが、美和子は立ち上ろうとはせず、
「独りで、何か喰べるくらい、つまんないことないわ。お姉さま、一しょに行ってよ。」と、ねだるのを、前川は、取りなして、
「じゃ、僕も、会社へ帰る途だし、昨日サービスしてもらったお礼に、ちょっとつき合いましょう。」と、前川は立ち上った。そうした前川の親切気を妨げる手もないので、新子はだまっていた。
「ああ! 嬉しい。」美和子は、もう馴々と、前川の側へ立ち寄っていた。新子は、妙に胸騒ぎを感ぜずにはいられなかった。
美和子の心は、まるで水銀のようである。美沢の美貌と芸術家であることに魅せられて、フワフワと恋愛したように、今度は前川のありあまる物質を背景とした中年の紳士姿に、どう影響されるかもしれたものではなかった。
「美和子ちゃん。貴女、速達が来ていたの、急用じゃないの?」と、美沢のことを思い起させようとしたが、
「あれは、何でもないの。」と、あっさり答えて、
「じゃ、お姉さまは、いらっしゃらないのね。じゃ、出かけましょうか。」と、前川を促した。
「じゃ、また……」と、挨拶して、美和子とともに出かけようとする前川に、
「お転婆で、わがままで、ほんとうに困るんですよ。どうぞ、甘やかして下さらないように。」
と、云うと、前川は新子の言葉を、姉としての謙遜としか解さないらしく、
「いや、なかなか明朗なお嬢さんですよ。」と、微笑しながら、美和子の後を追うて降りて行った。
前川さんが、まさかまだお乳の香のとれない美和子などにと思っても、子供ながらに一くせも二くせもある妹だけにいやだった。といって自分も一しょについて行くことは、はしたない気がして……。もっとも、美沢の場合にだって、何も云う権利のない自分であるから、前川氏の行動に対して文句を云えるはずもなく──いな、心をうごかすはずでもないのであるが、何となくやるせなく不安になるのをどうすることも出来なかった。前川が置いて行ったカナリヤの籠に面してぼんやり立っているうちに、なぜかしら寂しくなって、新子はぼんやりと涙ぐんでいた。
二人ぎりで、鋪道を歩いて行くと、さすがに美和子は話がないらしく、カツカツとハイヒールの靴音を立てて、おとなしく一歩後からついて来た。
快活で、こだわりのない、こんな妹が新子にあることは、いろいろ好都合だと思った。第一、この妹にねだられるのを口実に、毎日スワンへ通うことだっておかしくないし……。
この間中から、新子がお召の着物に、ハイカラな縞の博多帯ばかりをしめているのが気になっていた。よく似合うし、趣味も悪くはないが、あまり同じものをつづけているので……。何か新しい着物を贈りたい、と思いながら機会がなかったが、今日妹と歩くのは好都合だ。妹に何か買ってやるのを、キッカケに、新子に新しい着物を買おう、そうすれば自然でいいと、万事綺麗事好みの前川らしい考えが、胸の中に浮んで来た。
「お腹とても空いているのですか。」と、後へ微笑みかけながら訊くと、
「ええ、ペコペコよ。」
「百貨店の食堂なんか嫌いですか。」と云うと、けげんな顔で、
「百貨店に、用事がおありんなるの?」
「ちょっと、松屋で買いたいものがあるんですが、貴女のご意見も伺った方が、いいかもしれないので、一しょに行って頂こうかと……」と云うと、早くも悟って、
「ああ、解ったわ。お姉さまに、何か買ってお上げになるんでしょう。いいわ。私が見立てるわ。その代り、私にも何か買って下さるんでしょう?」
「もちろん、そうなるでしょうな。」前川も、幾分ふざけて云った。
松屋まで歩くのは、ちょっと辛かったので、そこの駐車場から、円タクに乗った。
「買物を先にしても、大丈夫ですか。お腹が空いて倒れることなんかないですか。」と云うと、
「もう、お腹の空いていることなんか、忘れちゃったわ。何を買って頂こうかと、考えているのよ。もう、ご飯なんか、どうだっていいわ。私、ひとりで後で頂いてもいいことよ。」と、たちまち発揮する勝手坊主に、前川は苦笑しながら、
「貴女は、どんなものがいいんでしょうか。」と訊くと、美和子は小さい頭をかしげ、
「美和子、欲しいもの、いろいろあるのよ。でも、デパートなんかには、ないかもしれないわ。ローヤルで、サンダル・シューズをあつらえたいし、ヴァニティ・ケースもほしいのよ。」と、買ってもらうにも、自分の趣味は、主張しようとする。
「じゃ、お好みのものを。とにかく、松屋で、お姉さんに上げたいものを、見立てて頂いてから。」
「おお、うれしい。とても素晴らしい。でも、お姉さまの方が、私よりズーッと幸福だわ。」と、云った。
三階の呉服売場へ、真直ぐに行こうと、自動車を降りると、人混をわけて、真直ぐにエレヴェーターの方に歩き出す前川の後から、チョコチョコと美和子が、追いかけて来て、一しょにエレヴェーターに乗ると、前川がためらいもせず、
「三階!」と、命じる背中に、美和子は混んでいるので、蝉のように、くっついたまま、
「前川さん、女みたいに、よく知ってらっしゃるのねえ。」と、低くささやいた。前を向いたまま、前川は苦笑を浮べていた。
もう九月の二十日過ぎで、百貨店には、ボツボツ秋の新製品の陳列で、単衣物の良いものなど見当らないばかりか、いつか綾子夫人と一しょに来たとき、新子のために目星を付けておいたお召の単衣など、ショウ・ケースから姿をかくしている。前川は、うず高く積んである反物を、一反ずつ見る気にもなれず、ウロウロしていて、顔見知りの番頭などに、つかまるのも厭だった。場内を一巡して、またエレヴェーターの前に戻って来て、美々しく飾られている帯地の陳列を眺めていると、美和子が、
「あれ、ハイカラな帯ね。お姉様には少し華美かもしれないけれど……」と、海老色の繻子に、草花の刺繍のしてある片側帯を指した。そこへ目をやりながら、前川は、その帯の隣にある古風な更紗を、巧みに近代風な図案にした袋帯を見つけて、これは新子に似合うと思った。
「その隣のは、どうです?」と、美和子に訊ねると、彼女は生意気そうに、しばし見ていたが、
「悪くはないわ、少し高そうね。」と、陳列の帯がすだれのように垂れている中に、首を突っ込んで、値段を調べた。
「七十七円だわ。袋帯にしては高いのね。」と、もどって来た。
「これがいい、これに定めましょう。」傍に立っているショップガールを、眼でさし招くのを、美和子が、
「あら、お買いになるの。お姉さまいいわねえ。」と、云った。
前川は、今日は夫人が、長唄のお稽古に行っているので、デパートへなど来るはずはないが、しかし万々一ということもあるので、大いそぎで金を払うと、包んでくれるのを待ちかねながら、
「食堂は上へ行きましょうか。下へ行きましょうか。」と、美和子に訊いた。美和子は、何となく気落ちのした顔で、店員の手から、帯の包みを受け取りながら、
「下がいいわ。お姉さま、羨しいわ。」と、云った。
美和子が、姉を羨んで、しょんぼりしてしまったのを、慰めるため、エレヴェーターで降りながら、
「美和子さんの結婚のお祝いには、何か素晴らしいものを、プレゼントしますよ。」と、お世辞をいった。
「あら、お姉さま、お喋りだわ。そんなことまで、ご存じなの……。でも、まだ分んないの、どうなるか……。いま、ビフテキを喰べながら、お話しするわ。私、ちょっと煩悶してるところなの……」と、男の子のように、明るくいった。実のところ、前川の如き中年の男にとっては、美和子のような年頃の女の子の、いうこと為すこと、一々が思案のほかであった。
洒々と、自分の結婚のことについて、馴染の浅い大人をつかまえて、底を割った話をするかと思うと、下の食堂へ行ったときは、その話はケロリと忘れたように、自分一人の食事を、怯びれもせず、註文して、紅茶一杯でつきあっている前川になぞ、一切気を使わず、プディングを頼んだり、果物を取ったりしているのであった。
何本目かの煙草に、火を点けながら、前川は実感をそのままに、
「美和子さんなんかに、煩悶なんかありそうもないですがね。」というと、美和子は、子供のように、かんむりを振って、
「大在りなの。そのね、結婚しようっていう人が、愛してくれるってところまで、まだ行っていないの。私に対して、ただ遊び相手みたいな気持しか持ってくれないんだもの。それが、癪なの。」
「だって、もう結婚することに、定っているんでしょう。」と、美和子の素直な告白に、微笑ましくなって、やさしく云うと、
「それが、とてもおかしいの。あんまり、その人と遊び過ぎてしまって、私お家へ帰らなかったの。それで、その人のママさんに、お家へことわりに行ってもらったの。するとそのママさんが、気を廻してしまって、お母さんや新子姉さんと、縁談なんか始めてしまったの。少し困っているのよ。」
「いいじゃありませんか。遊び過ぎるくらいなら、貴女だってその方だって、お互に好きなんでしょう。」
「私は好き。でも、その方は私が好きかどうか疑問なのよ。その方ったら、新子姉さんを、とても好きだったの。今だって、きっと好きだと思うわ。」と、アケスケな話に、準之助は、思わず引かれるように、美和子と視線を合わせて、相手を見つめた。
「じゃアつまり、お姉さまと、愛人関係だったんですか。」と、緊張して訊いた。
新子に愛人があったかどうかは、前川にとって、かなり気にかかることだった。
「ええ、そうだったのよ。」と、美和子はアッサリ肯定してつづけた。
「でも、美沢さんって方、気が小さくて神経質でしょう、お姉様はデンと落着いている方でしょう。だから、いつまで交際っていても、あまり発展しないのよ。ところが、この夏、お姉さまが軽井沢へ行ってしまったでしょう。その留守に淋しがりやの美沢さんは、少し自棄で、私と遊んでしまった形があるのよ。……ところが、この頃、たちまちつまんなくなってしまったの。だって、結婚っていうことになると、美沢さん、とてもいらいらしてしまっているの。一しょにいても、ちっとも楽しくないの。だから、私お姉さまのところへ、毎日手伝いに行くのよ。」
「だって、貴女は好きなんでしょう、その人が。」前川は、新子にも関係のあることなので、もう一度改めて訊き直した。
「ええ、そりゃ……でも、私フラフラだから、自分でもとても困るわ。お姉さんのお店へ行っていると、何だかあんな仕事が、ほんとに自分の性に適っているような気がして、この頃、結婚なんかどうでもよくなってきちゃったのよ。」
あんまり、物いいが率直で、かえって嘘か真実か、区別がつかないような美和子に、前川は思わず苦笑を浮べながら、胸の中は、前にいる美和子のことよりも、新子のことで一杯だった。
新子に、つい最近まで愛人があったとして、それが今美和子と結婚しかかっているとしたら、前川はその結婚が滞りなく、早く纏まってほしかった。新子の周囲には、愛人らしいものの、翳影も落ちていない方が、のぞましかった。こうして、新子の面倒を見ていて、いつかどうしようという野心は、神に誓ってないと前川は自分で思っている。また軽井沢で、自然の力と境遇の偶然性に駆られて、ちょっと唇を触れただけでも、その怖しい報いが、踵を接してやって来た。だから、懲り懲りしている。清浄に、潔く、心持の上でも、その野心の芽を摘み取っているのであるが、しかし自分があきらめているだけに、新子の周囲も、掃き浄められたものであって、ほしかった。自分が足を踏み入れない聖域には、他人にも足を踏み入れてもらいたくなかった。だからその美沢という男は、早く美和子と結婚してほしかった。
「でも、その美沢さんという方は、いい方じゃないんですか。」と、前川がおだてるように云うと、
「そりゃとても。……新子姉さんだって、随分好きだったのよ。」いたずらっ子の美和子は、知ってか知らずにか、前川を更に心配させるような返事をした。
新子が、美沢という男を好きであったと聞かされて、前川には急に、自責の気持が起った。二人の相愛関係が破れて、美沢が、美和子の方へ走っている原因には、自分というものがあるのではないかと思ったからである。自分が、新子に必要以上に、親切にしたばかりでなく、あの思いがけない雷雨の中の出来事のために、二人の関係が崩れたのではないだろうか。自分は、新子の良人にも愛人にも、成り切れないくせに、徒らに新子の運命を狂わせているのではないかしら。そんなことを思うと、自分は今一層、新子を慰め、いたわる責任があるような気がした。
(あの演劇マニヤの圭子さんと、この恐るべき妹と、新子さんも大変だな)と、前川は考えながら、無邪気そうに、バナナを喰べている美和子を眺めていた。
「ねえ。サエグサへ、一しょに寄って下さる。」
前川は、腕時計を見ながら、「もう、五時ですな。いかがです。貴女が一人で、ゆっくりお買物なすった方が、楽しくありませんか。僕、ご費用だけは差しあげておきますから。」
「ええ、それもそうですけれど……じゃ、こうして下さらない。──サエグサだけ、つき合って下さらない。サエグサから、私をローヤルまで、円タクで送って下さって、それから会社へいらしってもいいわ。」
前川は、苦笑しながら、「サエグサは、すぐ前でしょう。」
「ええ、だって厭だわ。私、お姉さまのために、ここへ来て、もう頭なぞ、やってもらう暇がなくなったんですもの。それだのに、私の買物となると、おっぽり出されるなんていやだわ。それに銀座なんか、少しの間だって、独りで歩くの、間がぬけているわ。」前川は、仕方なく肯いて立ち上った。
松屋を出て、電車通りを横ぎり、そこの洋品店の前で、前川はショウウィンドーを見ながら待っていた。美和子は、十分もかかって、自分の好みのハンドバッグを撰み出すと、表で待っている前川のところへ来て、
「ねえ、ハンドバッグと靴とで、お姉さんと一しょに、七十円くらいまではいいでしょう?」
前川は、美和子らしい得手勝手な金額に微苦笑しなら、「どうぞ。」と云った。
その夜は、特別上機嫌の美和子が、若い会社員風の五人連れの席に一人交じって、十二時近くまで唄を歌ったり、卓子と卓子とのわずかな隙で、ダンスをしたり、おしまいには、ハイボールのやり取りをはじめた。男達は、面白がって美和子にばかり飲ませるらしく、美和子はすっかり酔っぱらってしまい、前髪を切り下げている円顔は赤くなって、まるで可愛い金時のようであった。誰彼かまわず、しきりとからんで行く醜態に、新子はひきずるように、二階へ上げたが、しみじみこれでは困ると思った。
一時に店を片づけて、美和子を介抱しながら、自動車に乗ったが、美和子は車が動き出すと、気持が悪くなったらしく、水のようなものを、ゲラゲラ吐き出した。
「困りますね。何か敷いてくれませんか。」運転手は、ブツブツ云いながら自動車を止めた。
新子は、妹の浅ましさに泣きたいような気持で、脊を撫でてやると、美和子は思いがけなく、運転手に啖呵を切り始めた。
「あなたの車なんか、よごさないわよ。ヨッパライを乗せてるんだから徐行してよ。お金なら、いくらでもまして上げるわよ。」運転手は、苦笑しながら、しかし云われたとおり、静かに走り始めた。
美和子は、姉の肩に身をすりつけて、
「ねえ、楽しいわ。」と、酒臭い溜息をした。
「楽しいもないわ。そんなになって醜態だわ。明日からお店へ来るのお断りだわ。」
「お姉さまの意地悪!」と、一層新子の胸に、顔を埋めて、甘ったるい泣言を云い始めた。
「美沢さんなんてエ、駄目なの。美和子、酔っちゃったから、ほんとのことを云っちまうわよ。美沢さんなんか、心ならずも、私と仲よしになったもんだから、今になって何か云うと、私にばかり責任を被せたがるのよ。男の癖にイ……」にわかに、しくしくと洟をすすり始めた。
かと思うと、ニコニコ子供のように笑い出して、
「お姉様が、前川さんを好きなわけが、今日はとてもよく分ったわ。あんないい方ないわ。やっぱり、男は四十近い人がいいわね、こちらがどんなわがままをいったってフウワリ受けとってくれるんだもの、いいわ。あたし、お姉さまがつくづく羨しいわ。」
新子は、まるで軌道のない星のように、どこの星座へでも、侵入して来る妹が、つくづく恐ろしくなった。
新子は、いくら肉親の妹だからと云って、許せないような気がして、自分の胸に落ちかかるようになって来る美和子の身体を、グイと押し返しながら、
「何を云っているの。私が、前川さんを好きだとか何とか、そんな卑しい想像はよして頂戴よ。私は前川さんと、ちゃんとお交際しているんですよ。そんな余計なことを云うのなら、もう絶対に、お店に来てもらいたくないわ。」と、色を易えるばかりに烈しく云った。
さすがに、美和子も少ししょげて、車が溜池から四谷見附へかかる間、だまっていたが、またケロリとして云った。
「わたし、もう美沢さんなんかと結婚するつもり、ちっともないわ。わたし、思い切って、スワンの女給になって、前川さんから月々お小づかいを貰って、遊んでいる方がよっぽど楽しいわ。」
「美和ちゃん! あまり出鱈目をするのよしなさいよ。私、あなたが美沢さんと、どうなっているのか知らないけれども、美沢さんのお母さんが、あんな話を持ち込んで来た以上、そんなに簡単に中止することは出来ないはずよ。女なんて、そんなに軽々しくするものじゃなくってよ。そんなことをすれば、だんだん自分の値打ちが下って来てよ。」と、運転手には聞えないように、小声ではあったが、かなり険しくたしなめた。
「だってェ……」
「だってじゃないわよ。私だって前川さんに、お世話になる筋はないのを、眼をつむって、お世話になっているのに、貴女までがご迷惑をかけるなんて、手はないじゃないの。貴女が、あの方にあまりウルサクするのなら、私あのお店なんかよしてしまうわ。」
「だって、そりゃお姉さまの、つまらない心配よ。前川さんなんて方、お金が沢山あるんだもの、向うでして下さることを、こちらで心配しなくってもいいじゃないの。今日なんか、このハンドバッグのほかに、靴を買うお金まで頂いたの。」と、宵に前川と別れてお店に帰って来たときから、気がついている、あまり気取りすぎて、美和子には、地味じゃないかと思われる鹿革のヴァニティ・ケースを、とり上げて姉に見せた。
「お金で貰うなんて、下品ね。」
「いいじゃないの。美和子には美和子の考えがあるから、放っといてもらいたいわ。お姉さまは、姉だからと云って、私のすることに責任を持つことないじゃないの。私は、最初あの方とお店で知合いになったのよ。お客と女給としてだわ。あの方だって、私個人に興味を持って、親切にしていて下さるのかも分らないわ。」酔っぱらっている故もあろうが、姉を姉とも思わぬ不敵な妹に、新子は暗然となって、もう口が利けなくなった。
「お姉様ア。なぜ黙っていらっしゃるのオ。前川さん、これから毎日いらっしゃると云ったわ。あたし、これから甘えちゃうの。とても、いい人だもの。」
朝風には、もう秋のさわやかな冷気が、感じられた。簀戸のかなたに、冴々と青空が、広がっている。新しい生活の最初の馴れない疲労が、ズキズキと背中や後頭部にうずいていた。それに新子は、昨夜美和子のあさましいまでの醜態を見、前川に対する気持を聞かされてすっかり憂鬱になり、床にはいってからも容易に寝つかれなかった。
妹と一人の男を中に、みにくい争いをするのが嫌さに、美沢は思い切って、妹に与えたつもりでいたのに、子供が玩具に飽きるように、美和子はたちまち美沢を放り出して、新子の生活に侵入して来て、今度は新子を向うに廻して、前川の寵を争うつもりでいるらしい。今度は、身を避けるのにも避けようがなかった。まだ子供だし、なすがままに委せて見ていればいいようなものの、子供とは云え、どこかに逞しい機智が閃き、それに持って生れた少女魅力を備え、何をするか分らない出鱈目さがあるし……。
美沢との関係が、なまじ純潔で、誓いの言葉一つ交していなかったし、唇さえ接したことがなかったため、たちまち妹に奪われてもどうすることも出来なかったように……前川とも、ただ精神的な繋がりだけで、一度の突発的な接吻以外は、何のとりとめた間柄ではないだけに、新子は、妹が前川の身辺に、からみつくことは不快だった。
昨日だって、前川と美和子とが、一しょに店を出て行った後は、仕事も手につかないほど取乱していた自分が、自分で分っていたし……。これから先も、自分が、前川には遠慮があって、思うことの三分の一も話せないのに、妹があの調子で、渾身の力を振って甘えかかって行ったら……、しかも、あの奔放自在な媚態で……。などと、考えて来ると、新子はいらいらして乾いて来る自分の心を、制しきれなかった。
これはたしかに嫉妬である。しかもかなり烈しい嫉妬であると、気がつくと、その嫉妬の底に在る、前川に対する愛情に、初めて気がついたように、新子は我ながら狼狽した。これは、今の内に善後策を講じないと、どんな悲しいことになるかもしれないと考え出した。自分がどんなに叱っても制しても、どうなる妹でもないし、母にはむろん手に負えないし……新子は考え迷った末、いっそ美沢に頼んで、美和子をしっかり捕まえていてもらうのが、一番いいことだと思った。美沢だって、母をよこすくらいだから、結婚してくれる気持はあるはずだし、一度美沢に会って、美和子に対して、どんな気持を持っているのか、よく訊き質した上で、美和子をウロウロさせないように監督してもらおうと思った。それが、昨夜の内にまとまった、新子の思案である。
新子は、およそ二月ぶりで、美沢に手紙を書くとなると、無理矢理に押し込んだり、駆逐したりしていた感情が、一々新しい生命を吹き込まれたように、心の隅々に甦って来て、とても平静な気持で、美沢に呼びかけ、美和子のことを書き出すことが、出来にくかった。無意味な小唄の小曲を、幾回となくくり返して、口ずさみながら、自分の感情をまぎらしてから、やっと手紙を書き始めた。
久しいご無沙汰、おゆるし遊ばせ。
ご存じのことと思いますが、私すっかり変りましたの。ただ今、銀座のバー・スワンという酒場で傭いマダムを致しておりますの。
突然ですが、妹のことで貴君と一度お話ししたり、お願いしたいことがございますの。それで、近日中にお目にかかりたいのですが、ご都合おしらせ下さいませ。店の方は、四時からでございますから、それまでなら結構でございます。時間と場所は、そちらでお決め下さいませ。
書いてしまうと、気の変らぬ内に封をして、ハンドバッグの中に入れてしまった。
新子は、とりとめては、美沢を憎いとも思っていなかったし、恨んでもいなかった。再び、逢い戻りたい未練もない代りに、心の上で、背いたとか背かれたとかいうような、ハッキリした感情はなかった。こうした結果になったのは、自分の心の上にも、一本調子になれなかった責があるし、美沢にも多少の責任はあるが、半分までは妹が悪いのだと思っていた。今では、美沢が妹を引き受けてくれて、良い良人となってくれればいいと、願っていたし、当座には幾分でも、妹の行状を直してくれればと望んでいた。もっとも、ジッと眸をやる青空に、滲み拡がる美沢の面影の中には、再び手の届かぬ、貴く得がたい初恋の味が、あるにはあったけれど……。
午後家を出て、ポストのある所へ来るまでに、(厭だな。美和子のことなんか、成行にまかせて、美沢さんに会うことなんか、よそうかしら)と、新子はハンドバッグのパチンを開けて、手紙を破り捨てようとしたけれど……。
しかし、今は前川の、愛情を底深く蔵した庇護の下に、どうやら息づいている自分の生活を、これ以上美和子に掻き乱されたくなかった。美和子などにどうされる前川氏だとは思い得なかったが、しかし自分の方が、美和子に刺戟されて、前川氏とこれ以上、深入りすることの方が、恐ろしかった……。
美沢へ手紙を出してしまうと、新子は美沢との気まずい会合を早く片づけたいと、返事が来るのが、気がかりだった。
だが、返事は、その翌日も翌々日も来なかった。
三日目に、新子が三時頃に、お店へ行って、お掃除をして、開店の準備をしていると、時計が四時を打ったばかりに、フラリとはいって来たお客があった。逆光線で初めはフリのお客かと思っていると、それが思いがけなく美沢であった。新子は、瞬間、ドギマギしたけれど、すぐ他意のない微笑をかれの眼に送った。しかし、美沢は眉の間に、筋を作って、少しも笑わなかった。
ソファと椅子に、焦茶色の卓子をはさんで、二人の間にしばらくの間、沈黙がかぶさった。やっと、新子は、
「どっか、外へ参りましょうか。」と、云ったが、美沢は首をふるばかり……。新子は、わびしい気がしながらも、
「美和子のことなんでございますが……」と、話を切り出した。美沢は、味気なさそうな眼を、ボンヤリ新子に向けた。新子は、その眼をなるべく意識しないように、
「貴君のお母様からも、お話がありましたし……美和子も、貴君と結婚したいように申しておりましたんですけれど、……この頃美和子は、まるで貴君とも、全然お目にかかっていないようだし、一体どうしたんでございましょうか……」
美沢は、無言である。つねさえ、あまり口数をきかない人が、何か一杯抗議を盛った沈黙で、向い合われると、新子は勢い、自分一人で喋りつづけるほかはなかった。
「それに、この頃の美和子は、まるで結婚前の娘とは思われないようなことばかり致しておりますの。頼みも致しませんのに、この店へ手伝いに参りまして、毎晩遅くまで、お客さまの相手をして、酔っぱらったりなんか致しますの……。貴方とのお話があるのに、何ですか、することなすこと、私には腑に落ちないことばかりですの……。だから、一度貴君にお目にかかって、貴君ご自身の美和子に対するほんとうの気持を、お訊きしたかったんですの。」
しかし、美沢はまだ無言であった。
「私も、いろいろお話しいたしますわ。貴君のお気持も、うかがってもいいんですわ。……とにかく、改めて美和子の姉として、貴君にお願いしたいと思いますの。」
美沢は、やっと苦笑して、
「お互に、あさましい話をするようになりましたね。」と、云った。新子もともに、やや笑った。
「だって、仕方がありませんわ。」
(貴君も、私も同じように失策をしたんですもの)と、後の方は心の中で云った。
二人とも、やや核心にふれた物云いをしたので、思いがけなく、心の角が除れ、新子は急に話しやすくなった。
「美和子ね。まるで、とり止めがなくて、手こずっているんですよ。貴君が、結婚して下さるおつもりなら、貴君に監督をお願いしようかと思って……。私の云うことなんか、てんで聴かないんですもの……」新子は、以前の親しみが、半分以上、甦ったような物云いが出来た。
「いや、美和子さんなんて、誰の手にだって負えるもんですか。あの人の気持なんか、僕になんか分りませんよ、千変万化ですよ、僕なんかいい加減、引っぱり廻されていたんですよ。……」そう云って、美沢は、改めて眉をひそめた。
そう云われてみれば、温和しく純真な美沢に、美和子を操る力など、最初から無かったことに、今更のように気がついて、新子は更に、味気ない気になった。
「それよりも……」
美沢は、じっと新子の眼を見つめながら、
「僕は、貴女のお気持が聴きたいんですよ。貴女は、どうして軽井沢から、帰って来ながら、すぐに僕のところへ、手紙なり姿なり見せてくれなかったんですか。」と詰って来た。
「その時、すぐにも貴女に会えたら、こんな妙ちきりんな三角関係なんか、出来なかったんですよ。僕も、いけなかったですけれど、新子さん! 僕は、貴女に洗いざらい打ち明けて、美和子さんとの話は、打ち切りたいと思ってやって来たんですよ。」
新子が、何か物云う隙もなく、後をつづけた。
「美和子さんは、貴女とはまるで違う。明るくて、無頓着で、超人的な魅力を持っていますよ。それだけに、誘惑されたり、征服慾を誘われたりするものの、心の底からの愛情の動きなんかちっとも感じられませんね。あの人は、心を持たない女ですよ。結婚するには、感覚的な刺戟や、性的魅力の有無などということよりも、心の愛情が一番大切なんじゃありませんか。あの人は、ただあそびのお友達ですよ。ほんとに、心を委せておけるような……」
「でも……貴君のお母様のお話では……」
「母のことなんか云わないで下さい。美和ちゃんは、あんな年寄なんか、掌中に丸め込むのは、お手のものじゃありませんか。それも、僕をほんとうに愛しているからじゃなく、ただ興味本位の一時のお芝居なんですよ……だから、もう飽きてしまって、僕のところへなんか寄りつかないじゃありませんか。」
藪を突ついて蛇! 美和子の煩わしさを突き去ろうとして、思いがけなく、美沢との煩悩をつつき出した形である。
美沢も、なお言葉をつづけた。平生、口数の少いだけに、こうなるとその切々とした述懐に、力が籠って来るのである。
「貴女が軽井沢へ行かれた後、不意に美和ちゃんに、訪ねて来られて、その晩か次の晩に、接吻をしてしまって失敗ったと思ったんです。何の深い考えもなく、全く突発的な出来事だったんです……しかし、僕は、貴女にすまないと思いました。」
そう云われると、新子は自分をアテこすられているようで、身が竦む思いがした。しかし、(私も、それと同じことがあったんです。全く突然で、深い考えもなく……)とは、告白できなかった。
美沢は、新子の表情が易ったのを、自分に対する非難だと思ったらしく、
「だから、僕は貴女が、お帰りになるのを待って謝ろう、いさぎよく貴女の制裁を受けようと思っていたのですが、貴女は美和ちゃんから、どういうことを聴かれたのかもしれないが、今日まで一切何も云ってくれないでしょう。勝手なうぬぼれかもしれないが、口に出して云わなくっても、お互に愛人同士だと思っていただけに、貴女の無言は、貴女の気持を見失ったように思われ、ボンヤリしてしまったんです。それに、僕は自分で犯した罪があるだけに、自分の方からは図々しく、貴女の方へ働きかけることが出来なかったのです。その内に、貴女と前川さんとが……あの方、前川さんでしょう……帝劇から出るところを見てしまったんです。失恋とは、こんなものかなあと思うほど、みじめな気持になってしまったんです。美和ちゃんとのことなんか、あの人から渡される芝居の役柄のような立場を、苛々しながら、勤めていただけですよ。」
言葉づかいは改まっていたが、心のままを素直に打ちあけられて、新子は悲しかった。
軽井沢から、帰って来て、すぐにも美沢のところへ行かれなかったのは、自分にも美沢と同じあやまちがあったからである。
美沢が苦しんでいたくらいは、自分も苦しんでいたのだ。と、急に泣けるくらい、悲しくなって来たのをこらえて、
「ごめんなさいまし……」と、云った。
「貴女は何を謝るんですか。」
美沢は、駭かされたらしかった。美沢は、あやまってはもらいたくなかった。謝ってもらうかわりに、許してもらいたかった。
(そう。美和子のことなんか、どうせあんないたずらっ児相手のことですから、何とも思っていませんわ)と、云ってもらいたかった。
しかし、新子の心に、前川の落している翳影は、かなり大きかった。新子は、自分の心持を打ちあけ、お互に許し合って、三月前の二人に帰るべく、あまりに複雑した気持になってしまっていた。
「貴女が謝ることはない。僕は、ちっとも貴女に謝ってもらおうと思って来たんじゃない……悪いのは、僕だもの。失策をした僕としては、勝手な云い草だけれど、僕に過ちがあるにしろ、貴女が一度も僕を詰らずに、冷然としているんで、僕は何だか貴女が恨めしくなってしまったんだ。貴女とは、お互に随分好きだなんて、思っていたことが、全然僕の独り合点だったんだと思った。すると、何から何まで厭になってしまって……」
そう云いながらも、美沢は自分の云いたい気持が、ハッキリ掴めなくなったように……自分に対しても、新子に対しても、もの足りなさや、苛立たしさが、湧き返って来たように、綺麗な眉や眸を、高い鼻の上へ、きゅっと寄せてしまった。
だが、美沢が何を求めているか、何のために苛立たしくなっているかは、新子にはよく分っていた。つまり、自分の愛である。どんな形式でもいいから変らざる愛を示す一つの言葉である。それが、分っていながら新子は、素直にそれを与えることが出来なかった。
美和子のために、新子は美沢をあきらめてしまったはずであった。美和子と醜い争いをするのが嫌で、美沢を美和子に呉れてやったつもりでいた。しかし、もしそれならば、美沢が美和子との関係を告白し、それが感覚的な一時の過ちであったことを謝っている以上、……また美和子が、美沢に対して、ケロリとしてしまっている以上、美沢を許して、以前のような愛人関係に……いな雨降って地竪まるように、前よりももっと具体的な愛の誓いを交してもいいはずではないか。新子自身さえ、それがそうなるべきはずであると思いながらも、気持はその方へ、ちっとも動いて行かなかった。
「貴方のお気持よく分っていますの。でも、私軽井沢から帰ると、いきなり美和子から聞かされてしまったんでしょう。その上お母さままでいらしったんでしょう。それですっかりもう決心しましたの……それに、私も母を抱えておりますし、あんな出鱈目な妹を持っていますし、姉は家のことなんか、かまってくれませんし……結局、独立して何か商売がしたくなってしまって……」
「じゃ、つまり貴女は前川さんに、この店を出してもらったんですか……」
笞刑を受けている囚人のような声で、切れ切れに云う美沢の言葉には、言外の意味も含まれていて、新子はギョッとした。
前川に店を出してもらったかという露骨な問いは、新子のそこだけは触ってもらいたくないと思っている心の点に、触れたので、新子は咄嗟に答えられず、だまって卓子の上に目を落した。
そうした態度は、つまりその質問を肯定していることなので、美沢はすっかり絶望的になってしまって……。
「貴女のお手紙にある、変ったと云うのは、どういう意味ですか……」と、つい皮肉な怨言を云ってしまった。
「それは……」
何か適当な弁解をしようと思ったが、結局前川との微妙な関係は、とうてい美沢には理解してはもらえそうもないので、
「つまりバーなんかに出るようなことになったことを云ったのですけれども、私別に前川さんに、ヘンな意味でお世話になんかなっていませんわ。」と、答えながらも、新子の声は心持ふるえていた。美沢は、すぐもろく折れて、
「いや、こんな質問は、僕としては余計なことでした……大変失礼しました。しかし、貴女がもう、以前のお心持に還って下されないことだけは、僕に分ったような気がします。……そういう風に考えてもいいんでしょうね。」
これは、美沢としては、最後の質問だった。
しかし、新子の唇は、かすかに動いただけで、言葉は出なかった。
美沢は、新子の心の奥が、のぞかれたような気がして、索然としてしまった。
こんなに緊張した空気の中へ、いつ戸外からはいって来たのか、美和子が、
「あら、真暗ね!」と、扉口で、電燈のスイッチを押そうとしている声がした。新子はハッとなって、にじみ出ていた涙をかくした。
いつか夕闇が迫って、部屋の中は物の文色も分らないほど暗くなっているのを、二人とも気がつかなかったのである。電燈の光は、ボックスにさし向いになっている二人の姿を、美和子の前に、ありありと照し出した。
「まあ! 駭いた、美沢さんとお姉さまなの! まだお客さま、誰も来ないの。」
「………」新子は、妹の言葉など、耳にはいらなかった。
美和子とても、さすがにその場の空気に馴染みがたいものを感じて、少々鼻じろんだような表情であったが、すぐ美沢の脇へ腰を降して、涙の跡の歴々と見える、姉の顔を見やりながら、
「二人で美和子の悪口を云っていたの?」と、二人の気持を救い、併せて闖入して来た自分の気持も救おうという、よく考えた、さりげない言葉であった。
しかし、姉も美沢も、そんなことは縁が遠いと云うように、笑いもしなければ、美和子を見ようともしなかった。美和子も、取りつく島がなく、マッチを卓子の上で、カタカタと、弄びながら、急に大人っぽい片頬笑いを浮べると、
「美沢さん。この間中から、姉さんと三人で、話をしたいって云ってらしったんだから、ちょうどいいわ。ねえ、いい機会だわ。あたし痩我慢ってことが、一番きらいだわ。あたし、潔く退却するわ。お姉様達二人で、仲直りなさいよ。」
年も行かぬ、打見には子供らしい美和子だったが、その笑い方と云い、言葉と云い、涙ぐんで、ゴタゴタ云っている美沢や姉を憫笑し、しらじらしく眺めているというような、底知れない大胆さが含まれていた。
「美沢さんもお姉さまが思い切れないし、お姉様だって、痩我慢で超然として、いらっしゃるなんて、可笑しいわ。美和子如き問題じゃないわ。バツが悪かったり、つまらない意地を張ってるなら、美和子が握手さしたげる……」と、顎にかかっている美沢の手を、いきなり左の手で掴みかかるのを、美沢はかるくふり払うと、それをキッカケのように立ち上ってしまった。
美沢の態度が、唐突だったので、新子もハッとなって立ち上った。
「さよなら、美和子さん、僕は君とはもう会わないよ。いいだろう。それから、新子さん、貴女とも、もう会う必要はありませんね。」
美沢の顔は、能面のように、無表情であった。
「いいわ。結構よ。」美和子は、亢然と、それに答えると、一散に奥へ走って行った。
新子は引き止める口実もなく、何もいうこともないのに、このまま別れるのが、何となく悲しく、別れるにしても、お互に心をいたわりながら別れたいと思うと、今五分でも十分でも、話がしたく、ズンズン扉口の方へ歩き去る美沢の後を追うて、横飛びに戸外へ飛び出すと、男の足早く、もう五、六間も歩き去っていた。
「美沢さん! 美沢さん!」四辺を気がねしながら、呼んでみたが、美沢は痩せた肩を、聳やかしながら、後もふり返らず歩きつづけた。
「ちょっと! ちょっと!」新子も、小走りに後を追いかけたが、美沢はそこの四つ角へ出ると、駐車場の円タクの一つに、相場も定めず、
「まあ!」と、駭く新子を尻目に、飛び乗ってしまった。
美和子は、姉と美沢とが、前後して戸外へ飛び出してしまうと、美沢とこのまま別れてしまうことが、何となく劇的で、かえって胸の轟くような亢奮を覚えて、彼女らしく激しい音楽が聴きたくなった。彼女は、エレクトロラの蓋を払って、コンチタ・スペルビアのスペイン歌謡曲をかけると、自分も小声で共に和しながら、酒場の中を、一、二度行きつもどりつした。
その時、扉の開く音がした。美和子は、姉でなかったら、女給のどちらかだろうと思って振向きもしなかった。
「今晩は! いいご機嫌ですね。」それは、思いがけなく前川だった。
「あら、いらっしゃい!」たちまち、美和子は何事もなかったような朗らかさに返って、明るい双眸に一杯の微笑みを湛えて、
「お姉さまかと思ったわ。今日は、お早いのね。」
「お姉様は、どうしたんです! 今日は、まだ来ていないんですか。商売不熱心ですね。」
「ううん。違うのよ。」美和子は、含みのある微笑を浮べながら、さりげなく、
「おかけにならない?」と、前川に椅子をすすめた。
前川が、ソファに腰を下すと、美和子も近々とかけながら、
「お姉さま、今しがたまで居たんだけれど……貴君が、まだいらっしゃらないと思って……」
と、思わせぶりな物云いである。
「買物にでも……」
「そうでもないの。」
「ほほう。じゃ、お友達でも……」
「ええ。つまりお友達だわねえ。」
「そうですか。」と、前川が素直に受けているのが、物足らず、
「云っちゃ、お姉さまに悪いかしら……」と、前川の気を引いておいてから、
「美沢さんね、ホラお姉さまの愛人だった人ね、その美沢さんが、さっきここへ来ていたの。そして、一揉めしたのよ。」
前川は、さすがにいい気持がせず、
「揉めるって、どうして……」やや、せき込んで訊ねた。
「つまり、美沢さんは、私と結婚する気持なんかないのよ。ほんとうに、愛しているのはお姉さまで、私とのことなんか、一時の戯れだと云いに来たんだわ。ふふふ……」
美和子は、わざと仰山なしかめっつらをして、低く笑ってみせた。前川は、不快なショックを感じて、云うべき言葉がなくなった。
「それで、お姉さま、美沢さんを追って出て行ったのよ。今頃、しんみりと、どっかの裏通りを散歩してるんだわ。私、つまんないわ。」
そう云うと、美和子はエレクトロラにかけ寄って、コンチタのレコードを、アンコールした。
街角に、美沢に取りのこされた新子は、ぼんやりしている間に、
「ハイ・ヨウ!」と、目の前を走りすぎる、お座敷へ急ぐらしい芸妓をのせた人力車の梶棒に、危うく突き飛ばされそうになって、身を避けると、場所にも在らず、悲しくなって涙がユルユルと流れて来た。
こんな気持ですぐお店へ帰って、美和子と顔を見合わせるのがいやになって、銀座の電車通りの方へ、一人フラフラと歩き出した。
一思いに、ワッと泣けてしまえば、さぞせいせいするだろうが、いろいろ複雑な気持が入り交じっているだけに、悲しみは重く鈍く、胸にわだかまっていて、何も持っていない両手に、頼りない淋しさをそそられて、両方の袖口に、手を差し入れて、我とわが胸を抱くような姿勢で、新子はネオン・サインのにべもなく、続いている銀座の街を、それから二十分ばかり、ぼんやり歩いた。やがて致し方のないことであるというあきらめに、悲しみを心の片隅に追いやって、もう客も来ているであろうバー・スワンへ、戻るべき道を辿ったのである。
お店へ帰ってみると、客は三組ばかり来ていたが、美和子はと思って、見廻すと、先刻まで自分と美沢とが、さし向いになって坐っていたボックスに、思いがけなく前川と、さし向いになって坐っているのである。
前川が、こんなに早くと思っていなかっただけに、新子は少しあわてたが、前川が向うむきになっているのを幸い、外のお客にはちょっと目礼しただけで、二階の自分の部屋へ逃げるように上って来た。
さっきの美和子の、美沢に対する態度を見ると、もう美沢などには何の執着もないことが分ったので、また美和子らしい出鱈目さで、前川に対してどんなことをやり出すかも分らないと思うと、一刻も油断のならぬような気がしたが、といって美和子と争って、前川のご機嫌を取ることは、死んでもいやだと思ったし、美和子が前川の卓子へ行っている以上、近づくのも汚らわしいような気がしたが、それでも、そのままに傍観するのにはあまりに焦々して来る心だった。新子は、それがハッキリ嫉妬であることが、自分で分った。なにか心も身体も疲れて、壁に背をもたせ、両足をなげ出して坐っていたが、階下のことが気にかかりながら、どうしても降りて行こうという気持にはなれなかった。
二十分間もそのままの姿勢でいると、
「お姉さま、降りていらっしゃらない? 皆様お待ちかねよ。」と、声だけは天真爛漫に、美和子が階下から呼んだ。
新子が、ありあまる思いで黙っていると、
「お姉さまア!」と、呼びかけながら、たちまち階段を上って来る騒々しい足音がした。その足音を聞いている内に、新子の胸の中には、自分でも思いがけないほどの激しい憤りを、妹に対して初めて感じた。
「お姉様!」扉の外で、もう一度呼んだ。
「何をして、いらっしゃるの?」と、云いながら、美和子が姿を現した。新子は、なお顔をそむけたままで黙っていた。
「前川さんも、さっきから見えているのよ。知っていらっしゃるんでしょう。皆さん、お待ちかねだわ。」美和子が、口を利けばきくほど、それだけ鬱然と新子は、この妹が憎くなった。
努めて、静かに、しかし冷やかに、
「貴女、お家へ帰ってくれたらどう──もう、ここへ来てほしくないのよ。私は……」といった。
美和子も、さすがに、姉の厳しい様子に、ちょっと目を迯らすようにして、真面目な表情をしたが、すぐに不貞腐れて、白々しく、
「へえ──。美沢さんとの喧嘩の、飛ばっちりが、わたしに来るの? 迷惑だわ。」と、いった。
新子は、自分が男だったら、何か手ひどい一言をいって、部屋の外へ突き出したい衝動を感じた。
「お姉様が、帰れといったって、階下のお客様達は、みんな美和子びいきだわ。」美和子は、そんなことまでいった。
言語道断な気がして、新子が蒼白い顔で、グッと黙りつづけているので、美和子も仕方がなく、
「降りていらっしゃらないのならいいわ。その代りに、前川さん、お帰りになっても知らないわよ。」
黙っている新子にも、気になるにくらしい捨台詞を残して、サッサと下へ降りてしまった。階段の中途からは、はやいつも口ずさむ小唄になり、わざと最後の二、三段は飛び降りたらしい騒々しさと、自分のことを何かおどけて報告したらしく、階下のお客達の笑う声や、美和子の甲高い声がきこえて来た。新子は、身内の慄えるような口惜しさを感じた。美和子など、もう妹とは考えまいと思った。姉の幸福なら、どんなものでも、立ち入って来て自分も味わわねば承知せず、しかもそれを制せんとする姉の手を、チクチクと針で刺す──奇怪な動物のようにさえ感ぜられた。新子は口おしさといきどおらしさで、涙が流れ出すと、たちまち糸の切れた珠数のように止め度なく落ちた。
泣いている内に、頭が熱して来て、終には、悲しさも口惜しさもなく、ただ無暗と涙が出て来た。自分でも、こうしていては、止め度がないと思ったので、気を転じるために、階下へ降りて行ってみようかと思いながら、一時涙を納めてみたが、頭の芯がポーッとしているし、こんな気持では、誰の話相手にもなれないと思ったので、(もう、階下へ行くのは止そう)と、新子は、狂的に頭を振りながら、また泣けそうになっていた。
三十分も経ってから、やっと涙を納めて、考えると、いつか美沢のことは忘れて、階下にいる前川の姿だけが、大きく心の中に浮んでいた。
こんなに、自分が降りて行かないのに、前川さんは、何かの方法で、自分のことを訊ねてくれてもいいのにといったような、甘えたような怨みっぽい気持で、また涙が出そうになった。
それとも、前川さんは、もう帰ってしまったのかしら、そうとすれば少し薄情な、と思った。
美和子が、つまらないことを云って、前川が気を悪くして、帰ったのではあるまいかと思うと、不安な気がして、容子を見に降りて行こうかと思うのだったが、しかし美和子の声がきこえて来ると、また降りて行くのが、いやになった。
子供に返ったような、新子自身にも、どうにもならない気持だった。
しかし、ともかくも、顔を直そうと、鏡台の前に腰をおろした。重い椿の花片のように、眸が泣き腫れて、すべすべしていた。
そのとき、いきなりノックの音がしたので、新子は、ハッと我に返った。
足音も、気配も、感じなかったのに、……もう一度ノックが続いた。
(前川さんだろうか。こんな顔しているのに、困るわ)と、思いながら、しかし嬉しくてたまらなかった。
(おはいり下さい!)と云おうと思ったが、もしも美和子であったら、シャクだと思ったので、立って行って、扉を開けると同時に、
「どうなさったんですか。」と不安そうに訊かれて、新子はやっと微笑しながら、かぶりを振った。涙でよごれた顔もかまわず、むけながら、
「お帰りにならなかったんですの?」と、云った。
「帰れますか。心配で……しかし、ほかに客がいるのに、僕が上って来たら、可笑しいので、苛々しながら、下で待っていたんですよ。」と、云いながら、新子の傍へ坐ろうとするので、新子はあわてて片隅に片づけてあった椅子を取り出して、前川にかけさせた。
妙に興奮している新子は、ただ前川が自分のことを不安に思って、上って来てくれたことだけで、無上に嬉しく、言葉には云えぬ歓びを、微笑で示すほか、術がなかった。
思い切り泣いた後の、開け放しの心を、のぞかれているような恥かしさで、微笑んでいたが、新子は間もなく、緊張した、不安げな準之助の無言に、何か自分の方で、云わねばならないことを感じた。
「あのね。美和子が憎くて、泣いてしまいましたの。みっともないでしょう。」と、少し甘えて手を頬に当てながらいった。
準之助は、キャメルの灰を、無意識に、畳の上に落しながら、
「もっと、ほかのことがあったんでしょう。美和子さんから聞きましたよ。どうなすったんです?」と訊いた。
新子は、首を振りながら、ふとぶっつかった準之助の眼の中に、いつの間にか、愛人同士らしい複雑な表情が宿っているのを見て、あわてて眼を迯らせながら、自分でもいい加減な返事の出来ない気持になりながら、その場合無難な返事として、
「美和子が、何を申し上げたのでしょう?」と、彼女の方から訊ねてみた。
「美和子さんの話では、美沢さんという方が、さっき見えたそうですね。」
「ええ。」と、新子は、素直に肯いた。前川は、そこでちょっと躊躇していたが、
「その方は、美和子さんと結婚なさるはずになっているが、貴女は以前、その方が好きじゃなかったのですか……」といって、あわてて後をつづけた。
「もっとも、僕が、そんなことを、お訊きする資格は少しもないんですが……」と、弁解した。
新子は、前川に対して、気持の上で、いつわりをいっても、仕方がないと思ったので、素直に柔らかく微笑みながら、
「ええ。」と、うなずいた。
「じゃ、貴女が軽井沢へ来ていられた間に、その方と美和子さんが仲よくなってしまったわけですか。」
「ええ。」
「じゃ、こんなことは、僕として自惚れているか、しれませんが、僕があんな軽はずみなことをしたために、貴女と美沢さんとの間が、変になったというのじゃないでしょうか。もしそうだと僕はたいへん心苦しいんですが……」
しかし、前川のぎごちない言葉半ばに、新子は静かに首を振って、打ち消した。前川は、だまっていた。
新子は、もっと前川から、いろいろなことを訊かれたく思ったので彼女は静かに眼を伏せていた。
「じゃ、美沢君の気持が、美和子さんの方へ行ったのですか。」
新子は、かすかに首を振りながら云った。
「そうでもありませんの。」
「じゃ、……」
前川は、何か云おうとして、じっと新子の双眸を見つめた。
「じゃ美和子さんが、あの調子で美沢さんに働きかけるので、貴女が身を引かれたという訳ですか……」と、前川は初めて、事の真相に触れて来た。
「ええ。まあ、それもありますの……」新子は肯きながら、静かにいった。
前川は、新しい煙草に、火を点じながら、やや厳格な調子で、
「しかし、貴女が本当に美沢さんが好きなら、何も美和子さんのために、身を引くには当らないじゃありませんか。それに、美沢さんという人は、もちろん貴女の方が好きなんでしょう。こんなバーなんか、お廃しになって結婚なさればいいじゃありませんか。」前川は、出来るだけ公正でありたいらしく、感情を殺していった。
「まあ、貴君まで、私をいじめていらっしゃるわ。そんなに好きだったら、たとい相手が妹だって、身を退いたりなぞ致しませんわ。」新子は、初めて自分の心をうち明けた。
「じゃ、問題はないじゃありませんか。そんなに、瞼の赤くなるほど、泣くには当らないじゃありませんか。」乱暴にいいながらも、胸の中には、火のように、いとおしさが、こみ上げて来ているのだった。
「あら、だって──美和子は、美沢さんをほんとうに好きでもないくせに、誘惑したように……今度はまた!」と、いって新子は、その平生の賢さに似ず、なまめかしいまでの羞恥に、もだえて両手で顔を掩うた。
「今度は、またどうしたと云うんですか……」
「今度は……羞かしいわ。」
前川は、新子の云おうとしていることが分っているに拘らず、それを新子に云ってもらいたい慾望に燃えて、
「今度は、どうしようと云うんですか。」
新子は、顔から両手を離し、その熱くほてっている頬を撫でながら、
「だって、あの子出鱈目なんですもの。貴君にだって、どんなことをするか、分らないんですもの。さっきだって、私が階下へ降りないと云うと、じゃ前川さんがお帰りになっても知らないなんて、憎まれ口云うんですもの。私が、持っているものには、すぐ手を出したがるんですもの。とても憎らしいわ。」
美和子を憎みながらも、いじらしい媚態の内に自分に対する愛情を告白している新子を、前川は限りなくいとおしく思った。
「新子さん、美和子さんなんか、問題じゃないじゃありませんか。僕がどんなに貴女のことを思っているか……」
前川は、今まで抑えに抑えて来た激情が、一時に溢れ出して、前後不覚になると立ち上って、壁によりかかっていた新子をしっかりと、自分の方へ抱き寄せた。
十月になってから、いくらか日が詰まっているとはいえ、七時といえば、まだ夕暮の、そこはかとないあわただしさが漂っているのに、広い邸の中はしんとして、寂しいほど静かであった。
外出姿の綾子夫人は、三面鏡の前に腰かけて、粉を落さないように、もう一度近々と鏡に顔を寄せて、白粉をつけ直しながら、
「ツル。ツルや。」と、激しく隣室にいる女中を呼んだ。緊張した表情で、扉口にかしこまった女中へ、
「もう一度、会社へ電話して、何時頃お帰りになったか訊いてよ。」と、叱りつけるような口調で命じた。女中は、倉皇として下って行った。
知合いの医学博士の夫人が遊芸好きで、ちょうどいたいけな祥子くらいの女の子に、本式に日本舞踊を習わせていて、その踊りの師匠の花柳何某の春秋二度の発表会に、今日がその子の初舞台である。
帝国ホテルの演芸場へ、お義理に引き受けた切符、日頃の交際の手前、ちょっとだけは顔出しをしなければならなかった。
一人で行くことに決めていたのだけれど、出がけに急に気が変って、その子の踊りだけを見ればよいので、それが終ってしまった後の時間潰しに、良人と一しょに銀座でも歩こうと、急に良人を誘う気になり会社へ電話をかけさせた。と、お帰りになったという。食事をすませて来るのかと、一時間ばかり待ったのに、前川はまだ帰って来ないのであった。わがままな、憤りやすい夫人は、じりじりして来、こうなって来ると妙にしつこく、良人を残して外出することが出来なくなった。
電話をかけに、下へ行った女中が妙に遅いので、自分も階下に降りてみると、扉の半開きになっている電話室から、
「はア。まだお帰りになっていらっしゃいません。」と、いう別な電話を受けているらしい声が、また、じりじりと癇癪にさわった。
「もう多分、お帰りになるだろうと思いますが、ハッキリしたところは……」と、背後に、夫人の気配を知ってオドオドと、受けているらしい女中に、
「誰から?」と、激しく訊いた。
「はア、うかがっておきます。」となお先方へ返事しているので、
「誰だって訊いているのに……」と、小声で烈しくいうと、女中はあわてて送話器に、手をあてながら、
「南條様とおっしゃる方でございます。」と、小声でいった。
「南條! 女の人?」
「はい。」夫人の嶮しい顔色に、女中はわがことのように顫えていた。
「お貸し!」夫人は受話器をひったくった。
前川夫人は、女中を押しのけながら、
「もし、もし……」と、きびしい口調で呼びかけた。
「こちらは、ぜひ二、三日の内に、お目にかかりたいんですの。だから、ぜひご都合を伺っておいて頂きたいんですの。お願いします。」相手は、まだこちらを、女中とばかり思いながら、電話を切ろうとするのを、
「もし、もし、貴女、誰方です。」と、夫人は鋭い気勢で問いかけた。相手は、語調の急に変ったのに、気がつき、少々まごつきながら、
「あら、先だって、伺いました南條圭子と、おっしゃって下されば、ご主人はご存じでございます。」と、云った。
頭に在った新子とは違っているし、声もたしかに、新子ではないし、しかし夫人は語調を変えず、
「もし、もし、南條圭子さんですって! 私前川の妻の綾子ですが、主人にどんなご用でございましょうか。」と、切口上で訊くと、
「あら……」と、小さく、しばらく間を置いて、
「まあ、とんだ失礼を致しました。まあ奥さまで、いらっしゃいますか。私、お宅にお世話になっていました新子の姉で、ございますの。妹が、いろいろお世話になりまして……」と、言葉が改まった。
「まあ、新子さんのお姉さま。そうですか。それは、とんだ失礼を……あの主人に、どんなご用でございますか。」
姉が主人と交渉があるとすれば、妹の方がより以上に何かあるかもしれないと、女らしい敏感さで、ピンと神経を緊張させた。
「あのう、劇の方の後援をして頂いておりますの。」
「何でございますって……」
「劇、あのお芝居でございますの。私達、お芝居をやっておりますの。」
「新子さんも……」
「いいえ。私だけ……」
「まあ……それは。」
「はア、前川さんには、随分お世話になっておりますの。九月の公演にも、切符を沢山引き受けて頂きましたの……」
姉を、そんなに後援するのは、妹と何かある! 夫人の心には、もう嫉妬の焔が、えんえんと燃えながらも、言葉だけは、いよいよ丁寧に、
「そうですか。それは、ちっとも知りませんでした。私も、劇の方は、嫌いじゃないのですの。前川から、何も話がありませんでしたから、ちっとも存じませんでしたの。でも、劇のお話でしたら、私も、出来るだけのことを、致しますわ。今、主人は、いませんけれどいらっしゃいませんか。」
姉を引き寄せて、目ざす妹の消息を知ろうという夫人は、にわかに友達のような親しい物云いをした。
学問はあっても、人の好い圭子は、たちまち嬉しそうに、
「ありがとうございます。明日でも、ご都合がよければ、伺わせて頂きますわ。」と、云うのを、
「これから、すぐでもいいわ。その代り、すぐいらっしゃいませね。」と、夫人はさり気なく誘った。
「でも、夜分でございますから……」
「こっちは、少しも構いませんわ。どうぞ……その代り、なるべく三十分以内にね。」
「じゃ、うかがわせて、頂きますわ。」と、電話は切れた。側に、おずおずと立っている女中へ、
「もう、会社の方へ、電話しなくてもいいわよ。」と、云った。女中は、まだオドオドしながら、
「一度かけましたんですけれど、お話し中でお待ちしている内に、今の方から、お電話がございましたので……」と、相すまなそうな女中の云い訳を、背中で聴き流しながら、二階の部屋へ帰って来ると、綾子夫人は、もう一度鏡の前に、苦っぽい笑いを浮べて、腰をかけた。
もう、四、五年前から、夫婦らしいことは、年にいく度もないという前川である。それだけに、外に女を作るような良人ではないと、夫人は信じていた。もちろん、夫婦生活は不満であった。夫人は、前川氏を意地悪く、真綿で首を締めるような苛め方をして、つまり精神的にサジズムによって、その不満を癒しているような傾向があった。
南條新子に対して、前川が何となく、好もしい感情を持っているらしかったから、事にかこつけて、暇を出した。二人の間は、それぎりだと思っていたのに、思いがけなく、新子の姉という女からの電話である。姉にまで余計な後援をしているとすれば、新子にはどんな後援をしているか、知れたものではない。その上、気がついてみると、この頃前川の帰り方が、以前よりはずーっと遅くなっている。一昨夜も、自分が歌舞伎から帰ってみると、良人の容子に、自分より、ホンの一足前に帰ったらしいところがあった。
(これは、とんだ大きな尻尾を掴んだかもしれない!)と、夫人は憤りとともに意地の悪い快感を覚えて、何も知らぬらしくあわてて飛んで来る新子の姉を待つ気になったのである。電話の容子では、与しやすいと見て、少し調子を合わせながら、新子のことを洗いざらい、訊き質してやろうと考えたのである。
新子の姉を待っているうちに、前川夫人は何か思いついたように、呼鈴を押して女中を呼んだ。
「いまの電話の人、ちょいちょい来たことあるの?」と、やや優しく訊ねた。
「いつか一度、いらしったことがあるそうですが、私はお取次ぎいたしませんでした。九月中に、一、二度お電話がかかりましたことは、存じております。」女中は、まだ恟々としていた。
「そうお。」と、顎であちらへと示しただけでもう顧みず、また鏡に向ったまま、考え始めた。
女道楽の主人が、嫉妬ぶかい夫人を、操る手管を考えるように、夫人は、良人と新子と新子の姉との三人をどんなに扱うべきかを心ひそかに考えているのであった。
これは、前にもいったように、夫婦らしい愛情からの嫉妬というよりも、冷えた夫婦愛が内攻して起る病的なものであるだけに、性質が悪性で、相手を苛めぬいて、出来るだけ、嫌がらせて満足を得ようというのである。
良人が、自分をほんとうは、少しも愛していず、ただ上部の調子だけを合わしていることも、とっくに承知していた。だがそのために、今まで放蕩したこともなく、長い物には巻かれろ主義で、ひたすら家庭平和を保持している良人が、物足りない以上に、憎らしくさえ思っている。こんないい機会に、良人を取っちめて、ご都合主義の仮面をとりはずしてやりたいという肚もあった。
つい、目と鼻の四谷からであるから、二十分とは経たない内に、圭子は前川邸を訪れて来た。
応接室に通されて、腰をかける暇もなく、上機嫌の夫人に迎えられて、初対面の圭子はすっかりうれしくなっていた。
「どうぞお楽に。私一人でしたけれど、新子さんのお姉様だというもんだから、ついお目にかかりたくて、お呼びしたのよ。ご迷惑じゃなかった?」と、夫人は言葉遣いもやや砕けて、しかもそれだけ親しみを見せて、こぼれるような愛嬌だった。
「いいえ、どう致しまして、奥さまにお目にかかれて光栄ですわ。」
「失礼ですけれど、舞台の方に関係していらっしゃるだけあって、おなじご姉妹でも、あなたの方が、ずっとお美しいのねえ。」
「あらまあ!」と、圭子が、うれしがるのを見て、夫人は新子とは違って、芯のないいかにも善良そうな圭子を、いよいよ料理しやすいと、見てとったか、気楽な、砕けた笑顔を向けながら、
「それに、あなたとなら、ほんとうのお友達になれそうだわ。」と、つづけざまに好餌をなげる。
鬼も棲み、蛇も棲まん夫人の心の中を知らず、圭子は、夫人の愛嬌に眩惑され、前川さんも、良い方であるけれど、奥様は一倍ました、何という気の置けない、いい方だろうと感嘆していた。
夫人は、心の爪は、油断なく磨いで、しかも面は、笑みこぼれながら、
「新子さんとも、あれからまだお目にかかっていないのよ。今どうして、いらっしゃるの。あの方、ずーっと私の家に、居て頂きたかったのよ。それが、ちょっとした行き違いで、急に帰っておしまいになって、私ガッカリしているんですよ。子供もよく、なついていて、ほんとうにいい方だったわ。今、どうしていらっしゃるの?」
「まあ!」と、圭子は正直に呆れてしまった。妹の話では、奥さまとの感情の衝突で、たまらなく厭であるらしい容子であったが、この奥様のどこが、そんなに厭なのだろうか。見たところ、賢そうで、親切そうで、しかも現在、暇を出した後までも妹のことを案じていてくれるではないか。圭子の考えでは、これはどうしても、新子の心が、わがままで、強情であったとしか考えられなかった。
「奥様が、そんなに思っていて下さるのに、あの人わがままなんですのね。」と、心から気の毒そうに、申し訳をすると、
「いいえ。新子さんが、悪いわけでもないのよ。原因といえば、子供のけんかのようなの。ちょっとこうなのよ……」と、夫人はますます親しみを見せて、支度という字を、自分が小太郎に仕度と教えたことから、それが新子に支度と訂正されたことだけを、全部の原因のように面白可笑しく話した。すると、圭子は、たちまち、夫人に同情して、
「妹のことを、悪く云うのは、おかしいですけど、それがあの人の欠点なのですの。ちょっと、誇学的で、融通のきかないところが。まあそんなことで、奥様に楯ついたりなんかして、ほんとうに相すみませんわ。ほんとうにそんなことで……」
「いいえ。私も、そんなことに拘泥るのでなかったんですの。私さえ黙っていれば、何でもなかったのに、ついあんなことになって、ほんとうに、お気の毒なことになって……」と、夫人はいよいよ図に乗って、慈愛ぶかさの限りを見せた。
「ご存じでしょうかしら、私が、劇の公演のことで、どうしても、お金が入用になりましたので、新子に無心しましたところ、新子が前川さんにお願いして、お金を出して頂きましたので、やっと公演の始末が出来ましたの。」
「それは、まだ新子さんが軽井沢にいらしった時の、ことなんですの。」夫人は、肝心な点だけは、ちゃんと釘を打っておくのだった。
「はあ、左様でございます。そんなご恩になっていますのに、いきなり帰って参りましたので、家でもみんな、びっくりしてしまいましたの。ほんとうに、奥様のお心持が分ったら、新子もきっと、面目なく思うだろうと、思いますの。私が代ってお詫び致しますわ。」と、圭子は、もう一度頭を下げた。
新子が軽井沢にいた項から、もうそんな金を前川が与えていたなど、駭くに足る新事実であったので、綾子夫人は、急に緊張しながら、
「おや、そんなこともございましたの? 主人は、無口な方ですから、私に何にも申しません。だから、ちっとも存じませんでしたわ。ですから、お電話だけじゃ、よく呑み込めないんで、お呼びしましたのよ。私も、新劇はとても好きでございますの……」
「まあ、うれしい!」
「もと、新興座が分裂しない前に、後援者達で作った火曜会というのが、ございましたでしょう。私、あれに、はいっておりましたの。だから新興座の公演は、替り目ごとに、見に参ったものですわ。」
「まあ。左様でございますか。じゃ、ぜひ私達の劇団も、後援して下さいませんでしょうか。まだ、学生が多くて、未完成でございますけれど……」
「いいえ。その方が、かえって熱があって、いいですわ。貴女なんか、ご器量はよし、舞台にお立ちになったら、見事でしょう。」と、おだてると、
「いいえ。でも、初演のときは、割合好評でございましたの。」と、たわいなく得意になるのを見すまし、
「それで、新子さんも、その方面のお手伝いでもして、いらっしゃるの?」と、さりげなく訊ねた。
人生行路、決して左右を見ない、左右どころか、自分がこう思ったら、道のない所までも、ズンズン歩いて行きそうな、漫画的にまで、真っ正直な圭子も、ここでさすがに、ちょっと思案するのであった。
妹が、バーに出ることなど、圭子は大反対なので、そのことについて、新子とは話も一切せず、何事も訊いてもみないが、しかし母や美和子から、間接に聴いたところによると、新子は前川氏が関係しているらしい酒場の、カウンターをやっているとのことである。
それを、夫人が何も知らないのは、可笑しい。
云ってよいか、どうか、ちょっと思案したが、しかし、こんなに親切な夫人に、物事をかくすのは、いやだったし、もしいったことで、新子が迷惑をするとすれば、それは新子が何か、後暗いことをしているからで、新子自身が悪いのであるという風に考えた。
「それとも新子さんは、何もしていらっしゃいませんの?」と、やさしくもう一度訊かれて、圭子はついに、我が事のように頬を染めて、
「お恥かしいんですけれど、ただ今酒場に出ております。」と、云った。
「まあ、酒場に、じゃ女給さんですか。」と、夫人の言葉には歴々と、嘲りと侮蔑とが強く響いた。
「いいえ。カウンターのようなことをしているようでございます。」圭子は、あわてて打ち消した。
新子が、バーに出ていようなどとは、さすがの夫人も思いがけないことだった。だが、この頃前川氏が、時々酒気を帯びて家に帰って来ることを、それに照し合わせると、良人と新子とを掩う膜が、一皮一皮めくり取られて来るような気がして夫人は意地のわるい快感に、興奮しながら、しかし表面はあくまで、冷静に、
「たとい、カウンターにしろ、あんな方が、バーに現われるなんて、勿体ないじゃございませんか。あんなに、教養も学問もおありになる方が……そんなにまで、身を落しておしまいになるんでしたら、私前川とも相談して、どこへでも、お世話致しますのに。」と、あくまで思いやりぶかい言葉であった。圭子は、ぼんやりと、
「でも、何ですか前川さんのお世話で、はいったようなことを申しておりましたが……」と、云ってしまった。
「まあ! 前川の世話! そんなこと、私にはちっとも申しませんの。おかしいですわねえ。でも、前川の世話だと致しましたら、あの人も考えなしですわ。そんな場所へ新子さんを、お世話するなんて、軽率きわまることですわ。」そう云いながら、もうハッキリ良人と新子の尻尾を掴み得たという、あさましい快感で、モヤモヤ逆せ上って来た。
これ以上叩けば、もっとどんな大きい埃でも出て来るかもしれない。幸いに、この圭子という人物が、白紙のように表も裏もなく、その上こちらの思うとおり、どうにでも染まりそうである。夫人は、自分の策略の成功にひどく、上機嫌になって、
「その酒場、やはり銀座ですの。有名な家?」と、訊くと、
「いいえ。新しい家で、私名前は存じておりませんの。私、バーなどへ出るの大反対でしたから、よく聴いておりませんの。」と、云う圭子の答に、ウソはなさそうである。
「ほんとですわ。バーへ、お世話するなんていやですわねえ。でも不思議ですわねえ。主人はあまり、お酒も飲みませんのに、人様のお世話の出来るほど、バーに馴染があるんでしょうかしら。」
圭子は、また当惑した。美和子の話では、そのバーは、前川の資本に依るということであるが、そんな当てにもならないことを、前川夫人に話しすることは、何か失礼なような気がして、それには返事をしなかった。だが夫人は、しつこく、
「聞かせて頂戴な。もっと詳しく──ねえ、二、三日のうちに、よく調べてね。私主人をいじめて、新子さんを、どうしてそんなところへお世話したか、叱ってやりますわ。そして、その償いに、もっといいところへお世話するよう申してやりますわ。だって、バーなんか、いけないじゃありませんか。」と、云った。圭子を、体よくスパイにしようと云うのである。
圭子は、夫人が酒場を嫌うのも、新子の身を惜しんでくれればこそと感激もし、またそんなに、夫人の蔑しんでいる、バーに出ている妹の代りに、顔を赤らめながら、
「はア。」と肯いた。
「貴女、その酒場に行ってご覧になりませんの?」と、夫人は抜け目なく訊いた。
「いいえ。私も、奥さまと同じに、妹が酒場へなど出ますの、大反対なものですから、行きもしなければ、それについて、訊ねも致しませんの。ただ、銀座裏とだけは、聞いておりますの。」と、相手にバツを合わせながら答えた。夫人は、さり気なく、
「じゃ、お帰りになりましたら、貴女私にお会いになったということは、どなたにも内証にして、そこがどんな筋合のバーだか、前川も時々行くのかどうか、調べて下さいませんか。そして、私にも知らして下さいません? 私、主人をからかってやりたいんですの。私新子さんを酒場になどご紹介するの、怪しからないと思いますから、証拠を掴んでおいて、たしなめてやりたいと思いますの。その上で、主人にすすめて、主人の会社にでも、ちゃんとお世話するように、申しますわ。私、新子さんは、ちゃんとした方で、充分働きのある方だと、思っていますのよ。あんな落着いた、かしこい方、職業婦人などには、もって来いですわ。」と、口ではそう云いながら、さすがの夫人も、一切自分には秘密で、新子をバーになぞ入れたりしている前川のことを考えると、勝気なだけに、かえって、口惜しさで、胸がふるえて来るのだった。だからさっきから続けていた愛想笑いが、急にゆがんで、いい気で新子の世話などしている良人に対して、出来るだけ辛辣な復讐手段を、考えることで、すっかり興奮していた。この圭子を、手先に使って、主人が少しも気のつかない内に、新子をそのバーから、追い出してしまうなども一策だが、しかしもっと、主人と新子とを、驚倒させる方法はないかしらと、しきりに考えながらも、圭子には、ちょっと気を更えたように、
「そう、そう。貴女のご用事の方を、お留守にしては、わるいわねえ。この次の切符、お引き受けすればいいんでしょう。」と、気がるく云ったので、圭子は、
「はア。」と、嬉しがった。
「いくらの切符なんですの。」と、もう、女らしいケチな打算が動いて、圭子が、
「一円に二円でございます。」と答えると、
「じゃ一円の十枚、二円の五枚お引き受けしますわ。それでよろしいでしょう。」と、かさにかかっていってしまうと、夫人の愛想のよさに、百円くらいは引き受けてくれるものと、思っていた圭子は、アテがはずれながらも、
「はア、ありがとうございます。」と、意気地なく、礼をいわねばならなかった。
「その代り、新子さんの酒場の正体を、明かにして下さらなければいやよ。主人をからかってやるの、私とても面白いんだから……主人が、つまらないお世話をしているんでしたら、私の方が、きっとお力になれるわ。」と、また他意ない微笑を浮べた。
圭子を、わざわざ玄関まで送り出し、圭子がジャリジャリと小砂利に音を立てて、植込のかげにかくれてしまうまで、夫人は女中とともに見送っていた。
「蒸して来たわねえ。曇ったんじゃないかしら……風がないもの……」と、女中にやさしく口をききながら、夫人は二階へ上った。
しかし、自分の居間にはいかず、良人の書斎にはいると、そこの壁にとりつけた電燈だけを、ポッと灯して、大きいライチング・デスクの前に立つと、乱暴に電気スタンドの鎖を引いてから、まず真中の抽出しを、タップリと開けた。その中には、その人の性格らしく、不要なものは、一物もなく、右側に関係している会社の書類が幾つかキチンと置かれ、便箋に封筒、疲労回復薬と、頭痛薬などの小さい瓶が、二つ三つ、夫人の探している新子からの手紙など、影もなかった。
圭子の話から推しても、手紙の取りやりくらいあるかもしれない。良人を、のっぴきならぬように、取って押えるには、何か物的証拠をと、探しているのだが……。
今まで、夫婦間に、何一つ隠すところのないために、どこに一つ鍵のかかっているところもない、この机こそ、こうなっては屈竟のものである。袖に五つ、抽出しが付いている。その一つ、一つを、そっと、いじった形跡の残らぬように、何かないかと調べはじめた。真白な紙片の中まで、ハタハタと振ってみたりした。だが、最後の抽出しまで何物も、見出すことが出来なかった。
夫人は、少し気落ちがして、最後の抽出しにはいっているピストルや、双眼鏡や、使わない琥珀のパイプなどを、空しく味気なく眺めながら、いつもながらキチンとボロを出さない良人の態度が、机にまで示されているような気がして、妙な苛立たしさを感じていた。
夫人は、その時少し疲れを覚えて、腰をおろしたが、ふと先刻二番目の抽出しに、はいっていた良人の小切手帳のことを思いついた。あらゆる問題は、金銭に関係している。そう思うと、夫人は良人の小切手帳をとり出して、バラバラめくりはじめた。
夫人は、月々経常費として、二千円ずつ良人からもらっている。もっとも、臨時の買物などする時は、別であるが。だから、良人の小切手帳は、その二千円の支出を除けば、全部良人の身辺の費用に当てられたはずである。八月から九月にかけての日付を探っていると、控えの方に何の名目も書かれずに振り出された金額が、ザッと計算して、八千円余に上っている。
もしや、新子へとは、すぐ疑ったが、しかし、金額があまりに、大きいので、良人がそんなに新子へと思うと、ちょっと信じがたかった。
しかし、姉の演劇運動の後援をするくらいでは、新子にはどんなことをしてやっているかもしれず、その酒場も、案外良人が出してやったのかも測りがたい。もし、そうだったら、良人と新子との関係は、もうかなり深いところまで、行っているのに、相違ないと、夫人の頭の中には、嫉妬から生れるみにくい臆測が充満した。
気がついてみると、もう八時を廻っている。夫人は、驚いて階下に降りると、女中を促して、自動車の用意をさせて、帝国ホテル演芸場へと急がせた。
着いてみると、医学博士のお嬢さんはもう舞台で、「鷺娘」を踊っている。満員の客席の間を、足音を忍ばせて、座席に着いた。
祥子と同い年でも、ずっと小柄な、いたいけな幼子が、白く濃く白粉を塗り、青く光るほど紅を塗って、人形のようなおかっぱで、重たい衣裳をつけて、踊る舞台は、佐四郎人形を見るようであった。長唄連中は、勿体ないような顔ぶれである。撥音が冴えて、美しかった。踊りは、もう半ば以上進んでいて、町娘の衣裳でくるくる日傘を廻していた子は、黒ん坊に衣裳のしつけを取られて、鷺の本性を現し、合の手の、にぎやかにも、おどろおどろとした無気味な音につれて、
獄卒四方に群がりて
鉄杖振り上げ鉄の
牙噛みならし、ぼっ立ぼっ立
二六時中がその間
くるりくるり追廻り追廻り
と、帯に描かれた狐火を、ゆらゆらさせて、いみじく、涙ぐましくなるほど懸命に、踊りぬいていた。終ると、割れるような拍手であった。
夫人は、案外無関心に、その舞台を眺め終ると、早速舞台裏へかけ込んで、踊り手のお母さんに、お祝いやら、お世辞やらを述べた。
その周囲に、ウヨウヨしている顔も、みんな知合いの奥さまやお嬢さまなので、その人達と無駄話をしてから、連れがないので、この次の「三社祭」を見たら、銀座で買物でもして帰ろうかと、大分味気ない顔付で、パーラーの方へ戻って来ると、思いがけなく、木賀子爵が独りで、綺麗な婦人達の中で、紅茶を飲んでいた。
「あら、貴君見えていたの……」
夫人は、たちまち賑やかな笑顔で、近づいて行った。
引き受けた切符が、あり余っていたので、木賀の妹達には、送っておいたのだけれど、ハイカラの妹達も、来はしないだろうと思っていたのに、木賀が来ているので、夫人は驚くとともに、急にうれしくなった。
「貴君がいらしっているとは思わなかった。……主人を誘わなくって、よかったわ。」夫人はちょっと体裁のよい嘘を云った。そして、
「よっぽど、貴君暇なのね。」とからかった。
「いや、あるお嬢さんの踊りをちょっと見たかったから……」
「どなた……」と、夫人はプログラムを拡げた。
「(四季)の中の春を踊った人。」
「知らないわ。今来たばかりですもの。もう、大きい方でしょう、年の……」と夫人はからかうような眼差で、木賀を見上げた。
その時、開幕のベルが鳴った。
「じゃ、貴君もご用が済んだし、私もお義理を果してしまったんだからこれを見たら、一しょに出ましょうか。銀座へ、一しょに行ってほしいわ。」
「ええ。お供しましょう。僕は、もう出てもいいんですよ。」
「だって私来たばかりで、帰っちゃ少し、可笑しいわ、この踊りが終ってからにしましょう。これが済んだら、貴君勝手に出て、私の自動車の中で待っていて頂戴!」と云って、二人はぞろぞろ座席へ行く、人混の中で別れた。
やはり小さい子供達同士の「三社祭」の悪玉、善玉の踊りが終ると、夫人はサッサと退場して自分の自動車へ行ってみると、木賀はもうとっくに乗っていた。
自動車が、山下門の方へ動きかけると、夫人は小声で、
「春を踊った人、岸田千枝子と云ったわねえ。どこのお嬢さん?」
「いや、ちょっと……」
「おかしいわねえ。その人の踊りをわざわざ見に来るなんて! だから、逸郎さんは、近頃私のところへなぞ、寄り付かなくなったんだわ。」
「いや、そんな訳じゃないんですよ。ちょっと、縁談のある相手ですが、僕はもちろん断るつもりでいるんですが、仲人が、内山の伯母さんだもんだから、ちょっと当人くらいは見ておかないと、ウルサイんでね。」
「じゃその方とは会ったことないの?」
「もちろん……」
「それなら、かんにんしてあげるわねえ、逸郎さん、とてもニュースがあるの。降りてから話すわ。」
銀座の電車道で、自動車が止まった。
資生堂で買物をすませると、その向い側の喫茶部で、夫人はボックスで、木賀とさし向いになった。
「さっきいったニュースって、何ですか。誰のニュースですか。」
「今夜聞きたてなんだけれど……誰のことだと思う?」
「分りませんよ。そんなこといったって!」
「ほら、この夏、貴君が軽井沢に見えたとき、南條って、家庭教師がいたでしょう!」
「ええ、南條さん!」木賀は、ちょっとその名前をなつかしそうに、くり返した。
「あの女が、銀座のバーに出ているんですって!」
「女給にですか?」
「カウンターという説もあるけれど、おなじことじゃない、どうせ。」
「だって、あの人……そんなタイプの人じゃないけれど……何か急激な変化があったんですね……」と、木賀は実に意外に思いながら、軽井沢で見た、清々しい、しかし澄んだ色っぽさのある新子の全体を、ハッキリと思い浮べながら、そういった。
「貴君、酒場へよく行くらしいから、知ってるかと思った……案外逸郎さんあたりが、どこかへ紹介したのじゃないかと思ったわ。」
「ご冗談でしょう。僕は、夢にも知らなかった!」
「じゃ、貴君、あの人が、どこにいるか、探してご覧になったら、どう?」
「探して、どうするんです。また家庭教師になさろうとするんですか。」
「いやな人! だって、男の人って、知っている女が、バーへなんか出ると、とても興味を持つんじゃない? だから、貴君も、かの女に会って、かの女の変り方を見るのも面白いんじゃないかと思って……」
「うむ。」
木賀も、一目見たときから、好ましさで一杯だった人だけに、夫人に唆されると、興味を感じずにはいられなかった。その人の立ち働いているバーの容子などを、想像しながら、
「誰からお聞きになりました? 前川さんから?」と、訊ねた。夫人は、あわてて首を振って、
「いいえ、前川から、聞きはしないのよ、また私があの女が、銀座にいることを知っているなぞと、貴君前川にはいわないで頂戴ね。いったら絶交よ。」と、いった。
「前川さんもそれと知ったら、探しそうですか。」
「その危険もあるし、ほかに私が考えていることがあるの。とにかく、あなたあの女の在家を突き止めてくれない?」
圭子を使っている上、木賀も参加させて、どちらからか、事の真相を、一刻も早く知りたい夫人の心である。
長い間の接吻──それは、偶発的でも、突発的でもない……。
前川の気持は、青年のように昂揚し、幸福と歓喜に躍り上った。もちろん、それ以上のものを求めようなどという気持の起らないほど、理想主義的なものであった。
持って生れた平和な性から、不満な家庭の味気なさに安住することに努め、内にも外にも、人間らしい色彩を失いかけていた彼である。
若い純情な、愛し合う男女が、最初の接吻に、陶酔し、それ以上の邪心がないように……前川も、嵐もなく夕立もなく、心と心とが相触れて獲た新子の唇に、充分満足し、青年のような歓喜に躍り上っていたのである。
仮に人生を五十とするならば、あと十年足らずの前川なのだが、恋愛ヌキの漁色だけに、惑溺している知己のAやBを、心の内に思い起しながら、
(俺は君達と少しは違うのだ!)と得意な気持さえ、胸に湧いて来た。
珍しく、十二時近くまで、スワンで過ごして、日比谷から議事堂横を、自動車で走り過ぎながら、前川は幾年ぶりかに、生甲斐のあるような楽しさを感じた。
しかし、そんな多くの男性が、そうであるように、敬遠して独りにしてある夫人に、何か気の毒のような気がして、妻にも一層優しくしなければならないというように、明るく物が考えられて来るのだった。
門をはいって、植込から見上げると、夫人の居室に、水色のカーテンごしに、ぼっかりと灯がついているのが見える。
彼がモザイクの三和土に、靴を脱いでいると、珍しく夫人自身が、階段を走り降りて彼を迎えた。
前川の楽しい気持は、そのまま他愛ない微笑となって、夫人を見た。
「おや、大変なご機嫌ね。」と、夫人は、グッと前川の胸元に、近寄って来ると、若妻のように、前川の唇のまわりの匂いを鼻でクンクンかいだ。
「お酒召し上ったのね。」
「うん、お止しよ。」と、やさしく肩に手をかけて、押しのけようとしながら、前川は久しぶりで、夫人を抱き上げたいような気がした。
しかし、夫人は彼の手を冷たく退けながら、ごく平かな調子で、
「どこで召し上っていらしったの……」と、訊ねた。
「うむ。ちょっと、お客したもんだから……」
「へえー珍しいのね。」
夫人は彼の鼻の先で、馬鹿にしたように、笑った。前川は、角に触れられた蝸牛のように、有頂天の気持から、たちまち身を縮めて、スワンのマッチなぞ、どこへも入れて来なかったかと、改めてズボンのポケットに、手をしのばせた。
「踊りの会、面白かった?」
「面白いはずがないじゃありませんか。」
夫人は、冷たい返事をしなから、共に階段を上って来た。
前川は、一段ずつ、冷しさまされて行く夢心地であった。
階段を上り切ると、夫婦の部屋の分岐点である。
夫人の部屋は左へ、前川の書斎、居間、寝室は、右へぐるりと建物を廻るような配置になっている。前川は、さりげなく夫人の顔を見ながら、
「眠い!」と、いった。そして、すぐ続けて、
「おやすみ!」と、別れの会釈をした。すると、夫人はその手を喰わず、ニヤニヤ笑いながら、
「お待ちなさいませ。少しお話がしたいわ。」と、いって右へ前川に、ついて来た。
「眠いし、疲れているし……、話なら明日にして……」と、逃げようとすると、
「厭よ。用事の話じゃないんですもの。貴君ったら、いつでも私が話をしようとすると、鹿爪らしくお取りになるけれど、たまには無駄話だってしたいわ。私眠くないんですもの。眠れそうにもないし、少しの間、話し相手になって下さるご親切が、あってもいいと思うわ。」
「だって、遅いよ。もう十二時過ぎてるし……」
「それは、貴君が遅くお帰りになるからいけないのよ。意地悪ね。」
そんなことをいいながら、夫人は執拗な態度で、前川の寝室へまで、はいって来た。
前川は、内心薄気味わるく思いながら、ソファにかけた夫人に背を向けて、ネクタイを解き始めた。
「ねえ。」
「………」
「下世話に云うでしょう。ほら、四十を過ぎて始まった道楽は、なかなか止まないって! 心配だわ、私……」
変に、女房らしいことを云い出されて、前川は思わず、クスリと、唇辺に笑いを浮べて、
「何を話し出すかと思えば、そんなつまらんことを。ふざけているのかい!」と、砕けて訊いた。
「いいえ、真面目よ。だって、この頃お酒は召し上るし、それに以前よりお帰りが幾らかずつ遅いし……それに、何だか私の眼にさえ、急に若々しくお成りになったように映るんですもの……いい加減、気になってしまうわ。貴君、何かお出来になったんじゃない?」
前川は、首筋に、氷片を落されたような気持ながら、しかし色には出さず、
「おかしなことを云うね。何か出来たって、何が……」と、とぼけて訊き返すと、
「愛人か……そんなものよ。」前川は、ドキッとして黙ってしまった。しかし、夫人はさる者、ニヤニヤ笑いながら、
「ねえ……」と、眼顔で押して来た。
前川は、急所を突かれながらも、それが夫人の臆測にすぎないと知ると、ホッと安心して、
「そんな冗談にも洒落にもならないことを云うものじゃありませんよ。そんなことを云えば、貴女だって、この頃は頓に、美しく若々しいじゃありませんか。」
「嘘おっしゃい」
酒の下地で、常よりは、やや図々しい前川に、夫人はちょっと業腹で、ヒステリックに、その話を打ち切って、別の手を考えていた。
習慣で、どんなに遅くっても、就床前に必ず歯を磨く前川が、室内の奥についている洗面所の方へ歩いて行く後姿に、
「ねえ、冗談は冗談として、ちょっとご相談したいことがあるの家庭教師のことで……」と、云いさして、夫人は、良人の背中でちょっと舌を出してから、追いかけて行った。
四方白い、小さいタイル張りの部屋の中で、前川は黙っていた。夫人は、入口からのぞき込みながら、
「ねえ……」と、押しかけた。
「二学期が、はじまってから、もうよっぽどになるでしょう。やはり、家で勉強見てやった方がいいらしいんですの。それでいろいろ探しているんですけれど、適当の人が、なかなかないのよ。貴君、なんかお心当りないこと?」
前川は夫人のために、その小さい部屋に閉じ寵められたような、気味の悪い感じで歯ブラシの音と水音とで、返事の出来ないことを示していた。
「ねえ、なぜ黙っていらっしゃるの?」と、夫人は跣足で、二、三歩はいって、良人の顔をわざわざのぞきに来て、
「ああ、口を磨いていらっしゃるのね。じゃ、お待ちするわ。真面目に、ご相談したいことがあるのよ。」と、云いながら、また入口の方に、引き返したが、前川がブラシを使い終るのを待って、
「ねえ、新子さん!」と、いきなり云った。
「ええっ!」前川が、スワ事こそと、あわてて訊き返すと、夫人は、良人の顔を、ジロジロ見ながら、言葉はあくまで、尋常に、
「どう、私、新子さんにもう一度、家へ来てもらおうかと思っているの……」と、云った。
「家へ、もう一度!」意外な言葉に、前川は、鏡に映るわが顔へ、思わず声を出して呟いた。
「ほら、あの南條さん。貴君も、随分ごひいきであったじゃないの。」夫人の声は、浮々とはずんでいた。
「しかし、あの人をなぜ呼び戻すのだ!」前川は、全く夫人に、飜弄されている形だった。
「だってねえ。」夫人の声は、極めて柔かな響きを持っていた。「私、随分探したんだけど、結局南條さんくらい、いい人ないと思うんですもの。」
前川は、夫人の表情を読みたくなり、思わず洗面所から、身を出しかけた。が、また思い直して、手先をゴシゴシと洗い始めた。
「それに、子供達も、時々思い出して、淋しがっているようですし、貴君さえよければ、私、明日にでも手紙を出して、あの人に来てもらいたいの。貴君、宿所ご存じでしょう、貴君がご存じなけりゃ、路子さんに訊いてもいいの。」
前川は、夫人の一言一言に、誘導訊問をする刑事の心理のように、意地のわるい計略が、かくされているように思われ、これは一問一答と云えども、油断をしてはならないと思った。
新子の現在を知ってか知らずにか、自分と新子との関係を、嗅ぎつけているのかいないのか……前川は、酒の酔もすっかり吹き飛ばされて、酔ざめの後の常より一倍冴える頭の中で、彼も夫人の心中を計るべく、作戦を考えねばならなかった。
「ねえ、貴君もご異議ないでしょう。あの人に、もう一度来てもらうこと……」
(本気で云ってるのかな)と、前川もつい思った。しかし、つねに肚と口との違う、しっかりものの夫人である。彼は、少し苛立たしくなって来た。
「ねえ。」夫人は、しつこくくり返した。
「僕は、不賛成だね。」前川は、とにかく受け返した。
「あら、どうして……貴君、前には随分ごひいきじゃなかったの……」
「………」前川は、返事に窮して、また手を洗った。
「ねえ、いつまで顔や手を洗っていらっしゃるの……」
「うむ。」冷静を装っているつもりでも、つい取り乱したと、前川は後悔しながら、さりげなく、彼としては幾分傲然たる態度で、トイレットから出て来た。
「ねえ。あの人に来てもらいたいわ。手紙を出しても、いいでしょう。」
「一度、よしてもらった人に、また来てもらうなんて、可笑しいじゃないか。それよりも、高等師範の学生か何かで、適当な人は、いくらでもあるだろう……」前川は、一語一語に気をつけ、芝居の台詞でもいうように、静かに云いながら、夫人の眼を探るように、ひたと視線を合わした。
「だから、よさせたのは、私軽率だったんだから、私あの方と会って、潔く謝ってもいいのよ。でも、可笑しいわねえ、貴女が反対をなさるとは、おほほほほほ。」
夫人は、前川の窮状を知っているかのように、気持よげに笑った。
前川は、笑う夫人の眼の中に、邪悪な喜びの影を見たように思った。何か新子について聞込んだに違いないと思うと、今宵くちづけの感激も消えはてて、当惑せずにはいられなかった。
「でもあの方、まだ職業が見つからないで、お困りになっているのじゃないかしら……もしそうだと私、いよいよ呼び返してあげたいの……」夫人は、まことしやかに、眼を輝かした。前川は、容易に動かされず、
「僕はとにかく賛成しない。他の人を雇った方がいい。」と、藪蛇にならないように簡単にいった。
「でもなぜ新子さんを、もう一度呼んだらいけないの?」
「そんなハッキリした理由はないさ。あるはずがないじゃないか、しかも一度、貴女と感情の衝突をした人を……」
「だって、それは私が悪いと思うから、謝るつもりなの……」
「しかし、謝ってもらって、来たところが、あの人もいい気持はしないだろうし、貴女だって、きっと何となくそれに拘泥るだろうし……」
「貴君妙だわ。とても、妙だわ。貴君が反対なさるなんて妙だわ。」夫人は、前川の鼻の先で、チラチラ笑いながら、つぶやくように云った。
妙だと云われれば、妙に違いないだろうと思うと、前川はいよいよ不愉快になってだまってしまった。それにしても、片足をあげれば、その片足に、他の足を挙げれば、その足に、とりもちのようにくっついて来て人を窮地に陥れて喜ぶような夫人の性癖を、今更のように、憎々しく感ぜずにはいられなかった。
「じゃ、私路子さんと、相談して、とにかく、新子さんの内意を訊いてもらうわ。向うで、来たいといえば、貴君だってご異存はないんでしょう……」
「およしなさい!」前川は、つい苛々して来て、いつになく険しい声を出した。
「まあ! そんなにまで、反対していらっしゃるの。ああ分ったわ。じゃ新子さんが来ると、貴君の方で何かお差支えがおありになるの?」
「そんなものが、あるわけはないじゃないか。」前川は、あわてて打ち消した。
夫人は、先刻から前川のあらゆる表情動作を、すっかり読み取って、まず今宵はこれでいい、あまりしつこく責めると、かえって前川に警戒されるに違いないと思ったので、口まで出かかった小切手帳の問題は、そのままにして、
「そう。じゃ、私もう一度考え直してみるわ。でも、新子さんという人、後で考えるとだんだんよくなるわ。」前川には、全く謎の言葉を残して、アッサリ部屋を出て行った。
今まで、家中で婆やの次に、起きていた新子が、夜更し続きで、つい寝坊になり、この頃では十一時過ぎまで、寝てしまっても、なお頭の重い感じである。
女らしい始末の悪い母親と、だらしのない圭子と美和子と、それに肝心の新子までが寝坊をすると、家の中は常に雑然としている。新子も、十二時近くに起きたのでは、朝食がひどく不味い。味気ない気持で、食卓で朝刊をひろげると、ラジオの昼間演芸が、今日は新協の放送である。新子は、時計を見上げながら、スイッチを入れた。ベートーヴェンの第五シンフォニイが、たちまち家中に、溢れ出した。
美沢の家でも、よくレコードで聞いた馴染の曲だし、しかも渾然たる絃楽の、その中の一挺のヴァイオリンは、美沢の手で奏でられていると思うと、新子は、ジッと放心したように、聴き入っていた。
十月の半ばで、美沢がこの頃になると、いつも神経衰弱になる季節だといって、厭がっていたのを思い出した。
(今年は、私を清算して美和子も、清算なすったようだから、かえって激しい生彩で、芸術に精進していらっしゃるだろうが、私は……)と、考えながら、新子は何か恥しさで、身内が熱くなった。
大恩は謝せず──新子は今のようになってしまっては、前川に礼をいうことさえも、空々しいほど、世話になり過ぎ、新しい好意を辞退するのが可笑しいほど馴れてしまっている。酒場は成功して、一夜の売上げが少い時で、五十円、多ければ百円に上っている。その上、店が安定するまでの費用という名目で、開店当時、前川から三百円ばかり貰った。
新子も、草履を買ったり、好みの帯止めを買ったり、ドロンウォークの麻のハンカチーフを、半ダース買ったり、実用というのではない、形のピチリとした足袋を買ってみたり、そうした消費は、女性にとっては不思議な魅力を持った快楽である。
このような状態では、激しい恋慕もなく、媚びる気持もなしに、こうした生活を与えてくれた前川の愛撫を待つことになるであろう。現に昨夜は、恋愛に近い情熱で、前川の愛撫を待った自分ではないか。このまま進めば、結局自分のすべてを与えて、一茎の日かげの花、パトロンと愛人との関係に、青春の日を棄てて行くのではあるまいか。
新子は音楽を聴いているうちに、だんだん気が沈んで来て、出ばなのお茶の味さえ消えていた。
二階から、この頃連夜の稽古で夜更しをしている姉が、だらしない寝衣姿で降りて来て、新子と向い合いに、
「あ──あ。」と、欠伸しながら、ドサリと坐った。
「昨夜は、私より遅かったわねえ。」新子は、自分も慰められたいような気持で、姉にやさしくいった。
「うん。昨夜は、ほかの人の都合で十時から稽古だったの。切符は売らなきゃならないし、たいへんよ。」姉は、新子の気持などお構いなしに、自分のことだけを云って、
「美和子居ないかしら。」と、訊ねた。
「知らない……ちょっと、出かけたんじゃない。」
「煙草が欲しいんだけど……」
「婆やに、買いにやらせば、いいじゃないの……」と、新子が云うと、煙草のことは、それぎりにして、
「美和子、もう酒場のお手伝いはしないんだって……」と、訊いた。
「もう、そんなことお姉さんに云ったの?」昨夜のいさかいを、早くも姉に告げたのかと思うと、新子は美和子の口の軽さに、腹が立って来た。
「昨夜、私が帰ったら、まだあの子寝てないで、階下でガヤガヤ云っていたの……」
「そうお、ちっとも知らなかったわ。」
「私、美和子から、貴女の酒場のこと、いろいろ訊いたわ、美和子のところへ来るお客も、随分あるんだってねえ。」
「………」新子は、不愉快になって、だまっていた。
「それに、新子ちゃん。貴女、少し嘘つきねえ。」
「なぜ……」
「前川さんの関係している酒場に勤めているなんて、本当は、前川さんが貴女のために作ってくれたお店だっていうじゃないの?」
「………」新子はびっくりして姉の顔を見上げた。
「かくされると、いい気持はしないわよ。」
「何を云っているの。美和子のような子供に、何が分るもんですか。」
「あの子は、あれで子供じゃないわよ、そんなことにかけちゃ私達より、ずーっとカンがいいんですもの。私、美和子の云ったことを信ずるわ。」
「だって……あの店、誰のものだか私知らないわ。ただ、前川さんが、経営しろとおっしゃるから私引き受けているだけよ。私、勤めているつもりだわ。」
「だって、貴女のお部屋はあるし、電話はあるし、立派なものだと云うじゃないの。私、小池さんなんかを連れて行ってもいい?」
「どうぞ。いらしって頂戴! 歓待するわ。」新子も、騎虎の勢い、やや棄鉢気味にいった。
「今度の公演のポスターが、昨日出来たからお店にかけておいて頂戴よ。それから、お客さんに切符売れないかしら。ねえ、三十枚くらい売ってくれない。」圭子は、薄情そうな顔付で、そう云った。
「ええ。」新子は、憮然たる表情で、味気ない返事をした。すると、圭子はいきなりニヤニヤしながら、
「一体、貴女と、前川さんとどういう関係なの?」と、訊いた。
姉の露骨な端的な問いに、新子もグッと詰まったが、あわててはならないと、胸を落ちつけて、
「何だって、そんなことお訊きになるの?」と、訊き返した。
「だって、前川さんの貴女に対する親切なんて、度に過ぎていると思うわ。」
「だって、初対面のお姉さんだって、度に過ぎた後援をして下さる方だもの。」新子も、負けずにやり返した。
「それもあるわねえ。」と、圭子は、素直に肯いてから、「でも、美和子の話では、前川さんは二階の貴女の部屋へ上って行って、一時間も二時間も、話し込むというじゃないの。だから、私心配になって訊いたのよ。」
またしても、ひどい美和子の告げ口に、新子はカッと上気しながら、
「だって、そりゃお店の経営や、売上げや何かの話だってあるじゃないの。」と、答えたが、新子は口惜しさで、涙が出そうだった。
「そう、それならいいわ。私だって、貴女が世の中にあるように、前川さんを卑しい意味でパトロンにしているとは、考えたくないの。そんなことをすると、前川さんの奥さんにだってすまないと思うわ。」
「………」
決して快くは思ってはいない、前川夫人まで引合に出しての、無慈悲な姉の非難に、新子は胸がつまって、口がきけなかった。すると、圭子はニヤニヤして、
「でも、何の関係もなしに、やっているとしたら、貴女も相当なもんね。私は、頼もしい妹を持って心強いわ。」と、云った。
「どういう意味なの。お姉さま、それは?」新子は、聞き捨てならぬ気がして、訊き返した。
「どうって……。もし、そうなら、凄いじゃないの。つまり、前川さんをこうだもの。」
と、笑いながら、お手玉を取るような手付をして見せた。
新子は、ムカムカしながら、
「お姉さん、貴女、そんな気持で、私のすることを見てらっしゃるの?」と激しい眼付で、姉をにらんだ。
「だって、そうじゃないの。身体を許さないで、相手にあれだけのことをさせているのは、すごいじゃないの。私になんか、とても出来ないわ。」
「お姉さんの馬鹿!」新子は、とうとうかんしゃくを起して、姉を怒鳴りつけた。
「あら! よく知っているわねえ。私は、どうせ馬鹿よ。新子ちゃんは、利口者よ。おほほほほ。」と、さも可笑しそうに笑い出した。
「お姉さんが、もう少し家のことをかまって下さったら、私酒場なんかに出はしませんよ。」と、新子はつづけて怒鳴った。
「悪かったわねえ。でも、私は劇のほか、何にも分らないの。ご免なさい!」
そう云うと、姉は新子の鋭鋒を避けるように、トントン二階へ逃げ上った。
姉と争った後味の悪い気持で、お店へ来ると、女給の一人の妙子という、チンマリと可愛い顔の少女が、豊かな黒髪を、プツリと切って、すっかり見違えるような後姿で、水盤の水を入れかえているので、新子は驚いて、
「まあ。勿体ない」と、眼を刮って近づくと、すっかり化粧も変えた顔で、
「だって、この方が便利なんですもの。」と、羞かみながらいった。
「似合うからいいわ。」
なかなか、女学生らしい溌剌たる味わいが出て、よく似合っていた。
そんなことで、新子の気もまぎれ、部屋へちょっと上るとすぐ階下へ降りて来て、少女達と話をした後、よし子のトランプを借りて、一人隅の方の卓子で、ペーシェンスで、その日の運勢を占い始めた。
こんな水商売を始めてみると、新子もいつの間にか、御幣かつぎになっていた。自分が六白星だから、七赤、八白、二黒の日は吉で九紫、三碧、四緑の日は凶であるなどと、朝刊の九星を気にしたり、カードのペーシェンスが、一度でパッと揃えば、吉。そろっても、スペードからでは凶、揃わないときは大凶などと、独りでその日の客足を占ってみる習慣が、ついていた。
トランプは、幸先よく揃いそうであったが、中途でつまって、結局うまく行かなかった。
もう一度と、思い切り悪く、カードをまぜていると、
「いらっしゃいまし──」と、いうよし子の挨拶を聞いて、新子は何と云うことなしに、立ち上って、衝立の陰にちょっと身を隠して、客の方を見た。
客は、たった一人でてれくさそうに、部屋の中を見廻して、なかなか席に着こうとはしない。
「君達二人ぎり?」と、少女達に、話しかけるその声で、新子はハッとなった。軽井沢で、前川夫人の遊び友達として、知り合った木賀子爵ではないか。客が、もう一足進めば、すぐ顔を見られる衝立の陰なので、新子は急に悪寒が、胸に上って来た。
「落着いたいい酒場だな。」
客は、無遠慮に、部屋中を見廻しているので、少女達も、モジモジしているばかりである。
相手は、前川とは、それほど懇意でなく、夫人の親しい友達であってみれば、顔を見られぬに越したことがないと思い、木賀が、やっと席につき、煙草を取り出して、うつむいたわずかな隙にサッと衝立の陰をのがれ、バー・スタンドの脇をくぐって、二階の居間に駈け上った。
しかし間もなく、よし子が二階へ追ってきて、
「ねえ、あの方マダムをご存じの方らしいの。会いたいとおっしゃるのよ。」と、扉口に来て呼んだ。
木賀などには、今の場合一番来てもらいたくなかった。いっそ頑張って、会うまいかと思ったが、もし偶然来たものだとすれば、会わない方がかえって前川夫人にすぐ注進されることになりそうなので、新子は胸をとどろかし、顔を赤くしながら、やっと階下へ降りて来た。
「やア、しばらく。」木賀は、案外気がるに、やさしい調子で挨拶をした。
「しばらく、どなたにお聞きになりましたの?」と、新子はさし向いに、腰をおろしながら、探るように尋ねた。
「いや、だれにも聞きやしません。」木賀は愉快そうに、首を振った。
「じゃ、私がここにいること、どうしてお知りになりましたの。」と、重ねて訊ねると、
「そりゃア知れますよ。」と、木賀は事もなげだった。
「でも……」と、不安そうな表情を、正直にさらけ出すと、
「こんなところで、新しい酒場を出せば、すぐ僕に分りますよ。」
「だって、私が居りますのが……」
「そりゃ、僕の六感。」と、木賀は、いよいよ事もなげに笑った。新子も笑いながら、
「こわい六感ですわねえ。私、貴君がはいっていらしったのを見てびっくりしましたの。」と、受けながら、新子の気持はやや落着いた。
「いくら、びっくりしても、あんなに颯爽と、お逃げにならなくっても、いいじゃありませんか。あれで、貴女だということが、いよいよ分った……」
「まあ、颯爽と……」妙な比喩に新子も笑った。
「貴女が、銀座に出たという噂だけは、聞いたんですよ。それ以来貴女を探していたのですよ。でも、ここだろうと睨んだのは、僕の直感だったのですよ。」
「私が、銀座に出ているなんて噂、どなたから、お聞きになりましたの……」新子は、また不安になった。
「それは、貴女の六感に委せる。多分、当る!」
「まあ!」
(前川さんにですか、それとも奥さんからですか)と、訊き返そうとしたが、それは相手が前川と自分の関係を知らない場合は、藪蛇になるので、新子は咽喉まで出た言葉を、噛み殺した。
「とにかく、貴女が酒場のマダムになったのは、大賛成だ。ロマンチックで、いいですな。僕は、軽井沢で、貴女と話をした味が、忘れられないんですよ。──カクテル、辛いのをね。一つ、貴女のとこのバーテンダーの腕前を拝見しましょう。」
木賀は、新子の心の一抹の不安を外に、他意なく微笑んだ。
新子も、ひやっとした気持が、まだ胸には残っているものの、とにかく闊達な若者に対する自然な気安さで、立ち上ってバーテンダーのところへ行った。
銀盆に落花生とカクテルとを載せて、運んで行くと、
「貴女は?」と、問われて、
「いけないんですの。」と、云うと、
「そりゃ、つまんない!」と、云いながらも、酒ずきらしく、唇を細めて盃を嘗めるように、
「こりゃ、相当なもんですな。こんないいバーテンを、どこでお見つけになったんですか。店の装飾と云い、この店の顧問は、一体誰ですか。」と、木賀は悪意は、なさそうであったが、少しニヤニヤ笑いながら、訊いた。
「さあ、誰でしょうか。」新子は、苦笑しながら、ごまかした。
「案外、前川さんあたりじゃないかな。あの先生、あれでなかなかの洋酒通だからなあ。どうです、当りませんか。」
「存じません。」新子は、打ち消すだけの勇気はなかった。
「僕、もう貴女は結婚してしまわれたのではないかと思った。軽井沢で、この一筋と思うような人でなければならんというような気焔だったが、まだ見つからないんですか。この一筋が見つからんので、ちょっと道草ですか。」
「さあ……」
「案外、見つかっているのですか。」
「ご想像に委せますわ。」
「こりゃ、いかん、南條さんも、人が悪くなりましたな。じゃ、見つかっているものと考えていいですか。」
「おほほほ……」
「案外、前川さんあたりじゃありませんか。」
新子は赤くなって、
「あら、違いますわ。そんな風に思って下さっては困りますわ。」
「じゃ、前川さんはこの店には来ないんですか。」と、木賀は笑いながらも、鋭かった。
「そりゃ、時々いらっしゃいます。でも、それとこれとは違うじゃございませんか。」
「もちろん違うし、たとい前川さんが、貴女の後援をしているにしても、僕は変な風には、考えませんよ。前川氏は、紳士だし、たいへんな女性尊重主義者だし……そりゃ清らかなものだと思っていますよ。しかし、それだけに、貴女が、いつかは前川氏をこの一筋と考え込んでしまいそうだな。そこに危険がある!」
新子は、ひしと云い当てられながらも、躍起になって、
「まあ、そんなに想像を逞しくなさるもんじゃ、ございませんわ。まるで、私が前川さんのお世話にでもなっているように……」
「いや、そう思うのは、僕だけではありませんよ。」
木賀の言葉は、なお朗かであったが、新子はズシンと、胸を衝かれた。やはり、木賀が前川夫人のスパイであるような気持がして来た。
新子は、急に真面目になった。
「もし、そんな誤解をしていらっしゃる方がございましたら、貴君がよろしく、弁解しておいて頂きたいわ。」
「そりゃ、頼まれなくってもやりますよ。しかし、前川さんがこの店へ時々来るとすると、そう誤解される危険は、充分あるですな……。それに、あの爆弾夫人は……」
「え!」新子には、何と云ったのか、ちょっと分らなかった。
「いや、あの前川夫人ですよ。あの人は、貴女も知っているとおり、嫉妬という点になると、まるで猟犬か何かのように敏感ですからね。怪しいと見ると、どんな手段でも取りますよ。あの人は、僕なんかも、貴女に対するスパイとして、利用しようとしているんですからな。ところが、僕はスパイを勤めるような顔をして、久しぶりに貴女に会いに来たんですよ。」
「じゃ奥さんは、私がここにいることご存じなんですか。」新子は蒼くなっていた。
「いや、ハッキリは知らないんです。しかし、貴女が銀座のある酒場にいることは知っていますよ。」新子は、それを聞くと、自分のやや安定していた生活が、グラつき揺がされたような気がした。
「誰が、そんなこと話したんでしょう。」新子は、何となく恨めしそうだった。
「誰ですかな。しかし、僕が来たことは安心して下さい。僕は、夫人のスパイを勤めるよりも、必要によっては、貴女のために、策動しますよ。」
「………」
新子は、木賀の相変らずの朗かな調子に、随いて行くことが出来なかった。木賀も、やや、真面目になって、
「貴女のために、計るとすれば、前川さんと全然ご関係がないとすれば別ですが、もしどんな意味でも、ご関係があるとすれば、前川さんは、当分ここへいらっしゃらない方がよくありませんか。でないと、あの夫人は、あれでウルサイですからな。いざとなると恐いですよ。どんなことでもやりかねないんですから。」
それは、木賀の云うとおりであった。このわずか一月ばかりの幸福な生活の地平線に、たちまち黒い密雲の立ち掩うて来るのを感じた。新子は、さしうつむいたままだまっていた。
「僕は、貴女のために、奥さんの動静を探ってあげますよ。必要があれば、時々ご報告します。このマッチに、電話番号が、ついていますね。」と、バー・スワンと銘のはいったマッチを、一箱ポケットの中に入れた。
今更、木賀に対して、前川と何の関係もないと、抗弁するのも愚かしいことであったし、と云って木賀に、どうかよろしくと、依頼する気にもなれなかった。木賀は、新子の気持を充分察しているように、
「あまり、クヨクヨご心配にならなくってもいいじゃありませんか。少し注意をすれば、貴女がこの店にいることだって、容易に分りゃしないですよ。」と、木賀は、サラサラ云ってくれたが、新子の胸の重い澱みは、どうすることも出来なかった。
断髪が散らないように、手拭でキッと鉢巻をして、化粧をしている美和子の肌は、真珠色に輝いている。
「何だ! 朝湯に行って来たの。じゃ、美和ちゃん、一日だけの我慢で、今日はまた、新子ちゃんとこのお手伝いするつもり?」
「ううん。」
圭子に訊ねられて、美和子は眼に奇妙な色を浮べて、生意気な笑い方をして、首を振った。
「じゃ、どっか外へ出かけるの?」
「ううん。」
「じゃ、どうしてそんなに、お洒落するの。」
「別に、当はないの。でも、街を歩いていて、さる人に会った時、相手を少し口惜しがらせるお化粧するの。振られちゃった女の化粧ってのよ。これは……」
「何を云ってるのよ。」
圭子には、美和子の心理なぞ、少しも分らない。美和子は、真面目な表情で、鏡の中の己に、ジッと見入りながら、反り返っているまつ毛の一本一本に、メーヴェリンを塗っている。刷毛でつけた頬紅を、脱脂綿でまたほのぼのとふきとり、上唇の濃いルージュを、下唇に移して、油性のクリームで光らせる。圭子も惹きつけられて、鏡の中の美和子の顔を、まんじりともせず、眺めている。
やがて、アルコールで温めたこてを取り上げて、額ぎわの髪の毛は、すだれのように、カールして、
「どう……クローデット・コルベールのクレオパトラみたいじゃない? 綺麗! 綺麗!」と、独りで悦に入り始めた。
「どうかと思うわ。せいぜい少女歌劇のクレオパトラくらいだわ。あんたのようなのを、ベビー・エロというのかしら。」
「ううん。この頃は、チビ・エロというんだって? でも綺麗なことは、お姉さんだって認めるでしょう。」
「あんたが、うぬぼれなければねえ。でも、あんたのようなお化粧は、お化粧の範囲を通り越しているわ。化粧だわ。」
「だって、ネオン・サインの街を歩くのには、私のようなお化粧でなければ、刺戟がないって! この間、雑誌に出ていたわ。」
「ねえ、どこも、出かける当がないんなら、私の方へお手伝いに来ない? でも、私は新子ちゃんじゃないんだから、お給金なんか上げないわよ。」
「ええ、行って上げようか。私今日から毎日一度ずつ、銀座を歩くことにしたの。だから、ちょうどいいわ。私、銀座で会ったら、示威をしてやりたい人があるの。」
「下らない。来てくれるのなら、一しょに出かけるから、サッサと洋服着てよ。」
「ハイ、ハイ。」と、美和子は立ち上りながら、
「私も、お姉さんのように、舞台へ出ようかな。」と云うと、圭子は、
「駄目! 貴女のような精神的な陰翳のない人は駄目!」
「へえ。」と、唇をそらした美和子の表情の方が、姉よりは、ずーっと陰翳があった。
天性明るく淡泊な美和子ではあったが、しかし、意地っぱり屋であった。
美沢の心の中に、新子に対する清算しきれないものがあるのを知ると、何か苛々して来て、ひたむきに美沢を追う気になれず、その不満をまぎらすために、姉の酒場で働いていると、そこへ美沢が現れて、
(君とも会わないよ!)と、何か新子を清算するお添物のように、あっさり片づけられてしまうと、美和子は口惜しくて仕方がなかった。
何か、あっと云うようなことをやり出して、美沢や姉に思い知らしてやりたい気がしていた。
だから、圭子に精神的陰翳がないから駄目と、あっさり云われても、姉の世話係として、劇団へ出入するうちに、自分も舞台へ出る機会を掴むつもりでいた。
圭子達の今度の公演の場所は、帝国ホテルの演芸場であった。だが稽古場としては、銀座裏の桜亭という貸席を借りていた。
美和子は、その朗かな性質で、たちまち劇団の人達と、お友達になってしまい、姉の手伝いばかりでなく、誰の用事でもしてやるので(美和ちゃん美和ちゃん)と皆から重宝がられていた。
今度の出し物は、日本の現代作家の創作戯曲であった。
第一夜は、満員に近い盛況であった。
第二日目の夜、楽屋入をして間もなく、圭子は面会のお客があって楽屋から出て行ったまま、しばらく帰って来なかった。
二十分も経った頃、座員の一人が美和子のところへ来て、
「お姉さんから、ホテルのグリルにいるから、君にもすぐ来い! という言伝だぜ。」と、云った。
「ご飯喰べているのかしら。」と、美和子が訊き返すと、
「そうだろう。君にも、ご馳走してくれるんだぜ。」
「素敵! 素敵!」美和子は、雀躍りして演芸場からは近い、ホテルのグリルへ駈けつけりた。
やっと六時を過ぎたばかりなので、広いグリルには、お客の影が少く、姉と見知らない一人の婦人とが、入口から左の少し小高くなっている床の卓子に着いているのが、すぐ眼にはいった。
美和子が、わざと靴音高く近づいて行くと、姉がすぐふり返って、
「美和ちゃん、来たの。ここへおかけなさい。」と、自分の右側の椅子を、卓子から引きはなした。
姉と話していた婦人は、そのときチラと美和子の方を、微笑で見上げたが、美しい顔に似合わず、何か人を威圧するような気位のある人だった。
相手は、頭を下げないので、美和子も顎と上体だけをちょっと動かすようなお辞儀の仕方をして、席に着いた。
美和子が席に着くと、すぐ簡単な食事が運ばれた。
「これが、一番下の美和子でございます。」と圭子が先方へ紹介した。
「そうお。」
相手の婦人は、鷹揚にうなずいて、やや険のある美しい眼で、ジッと美和子をみつめていたが、
「どなたも、それぞれ美しいわね。でも、この方が一番モダーンね。」といった。
美和子は、相手が何人か分らないので、ただニコニコ笑っていたが、その婦人の右の手の無名指に輝いている五キャラットはありそうな燦爛たるダイヤに驚いて目を刮っていると、パンを取り上げた左の手にも、同じくらいの石が光っているのを見つけて、(アッ)という叫び声を、口の中で、やっと噛み殺したのであった。
男なら、誰の懐にでも、たちまち飛び込んで行く美和子だったが、女となると割合、好き嫌いが、ハッキリしていて、最初の一瞥から、美和子はこの婦人が、あまり好きでなかった。
食事が終りかけた時、姉の圭子は、以前からの話の続きらしく、
「私が、ご案内してもよろしいんですが、開幕前で、何となく落着けませんし、妹ならもう行きつけているんですから。」といって、相手の婦人が、うなずくと、今度は傍らの美和子に、
「ねえ、美和ちゃん、この方、私の芝居を後援して下さっている方で、新子ちゃんとも懇意にしていらっしゃる方なの。新子ちゃんに、会いたいとおっしゃるから、貴女バー・スワンへ案内してあげてくれないこと?」
「どなた?」美和子は、さすがに、相手の名前を訊ねた。
「前川さんの奥さま。」圭子は、さりげなく返事をした。
「まあ。そうお。」と、美和子は改めて挨拶したが、しかし、美和子は、その老成した頭で、新子と前川とのただならぬ関係をほぼ察していたので、前川夫人を新子の酒場へ、案内することが、どういう役廻りであるか、すぐ思い当ったので、
「でも、新子姉さん、驚かないかしら。」と、真面目な顔で云った。
だが、若々しく愛らしく見える美和子のことなぞ、無視したように、夫人は圭子に、
「圭子さん、いろいろありがとうお忙しいところを。じゃ、しっかり、おやり遊ばせ。明日改めて、拝見に参りますわ。」と、云うと立ち上った。
「厭だ! ずるいや。」と、夫人が二、三間歩き出したとき、美和子は、姉に低くつぶやいたが、後から姉に押されて仕方なく一しょに戸外へ出た。
美和子は、姉の圭子が、このいやな案内役を体裁よく、自分に押しつけたのだと思うと腹が立って仕方がなかった。
彼女は、わがままで随分新子に迷惑をかけていたが、しかし自分には、一文の得にもならないことで、新子を苛めたくはなかったし、その上この夫人を一目見たときから、何となく虫が好かなかった。だから、夫人と素晴らしい高級車に、一しょに並んで乗ってからも、彼女はつんとすましていた。
全然、美和子を子供だと見くびっているらしい夫人は、美和子の機嫌の悪いのを、そういう性格だとでも思ったらしく、いろいろ露骨に、南條姉妹の戸籍調べのような質問ばかりしていた。
しかし、そうなるとかの女は、さざえが戸を閉めたように、無口になっていた。
ホテルから、新橋よりのバー・スワンへは、物の三分ともかからなかった。
自動車が止まると、美和子は常よりも、もっと身軽に飛び降りて、ゆっくり落着きを見せている夫人に、
「ちょっと。お待ち遊ばして!」と、さりげなく云うと、自分だけ、姉の店へ飛び込んだ。
扉口のすぐ傍のボックスにいた新子は、勢いよくはいって来た美和子を見て、
「何というはいり方! もう、来ないのかと思っていた!」と、皮肉を云った。
「それどころじゃないわ。前川さんの奥さんが来たのよ。」
「えっ! 貴女が連れて来たの。」
「だって、圭子姉ちゃんが、無理に、私に案内させるんだもの。お姉さん、困るでしょう……」
新子の顔から、一時に血の気が引いて行くような感じで、口がきけないらしかった。
「お姉さま、私を恨んじゃいやよ。圭子姉ちゃんが悪いのよ。」
「………」
新子は、ふらふらしたらしく、後の衝立によろけかかりそうになった。
「いいじゃないの、お姉さま、何も恐がらなくってもいいじゃないの。何も、お姉さま、なにも悪いことしてないんでしょう。グズグズいえば、お姉さまだって、いうだけいえばいいじゃないの。」
「だって、なまやさしい方じゃ……」と、新子がいいかけたとき、待ちきれなくなったらしい夫人が、扉から早くも半身をのぞかせて、
「私は、はいってもいいでしょうね。」と云った。
新子は、そのまま立ち竦んでしまったように、夫人から視線をそらすことも、首を下げることも出来ずに茫然としていた。
夫人は中へ足を踏み入れながらも笑顔を見せていたが、それは異常な緊張の微笑である。こうなると夫人の高雅な鼻の形などは、それだけの凄味を呼ぶのであった。
新子は、夫人の姿を見た瞬間からあさましさと、恐ろしさとで、床のないところに立っているような感じがして、身体がわなわなふるえた。
「随分立派ね。」夫人は、新子にも会釈もせず、部屋の中を一わたり見廻した後、なすところを知らず、棒立になっている新子を見ていった。
「ほほほほ。駭いたらしいわね。私が、何も知らずにいるなんて、思う方が間違いよ。」新子は、胸を衝かれたような思いであったが、その言葉をきっかけに、やっと視線をそらしながら、機械的に頭を下げた。
「私、貴女にいろいろ訊きたいことがあるの。答えて下さるでしょう。」
店にお客が二組くらいあるので、さすがに物柔らかい調子ではいったが、新子は何とも答えられず、ただおぞましい悲しさで胸が一杯だった。
「お客の居るところで、話しするのは、私はいいけれども、貴女はいやでしょう。静かに話の出来る所はないかしら……」と、夫人は早口に云った。すると、美和子が、
「お二階のお部屋にするといいわ。私、ご案内するわ。こちらへいらしって下さい。」と、云って先に立った。
新子は、薄情な美和子の言葉を遮る気力もなかった。
夫人が、何を訊くのだろう。その訊かれたことに、何と答え、何と抗すればいいのか。傷もつ脛の弱味で、どんなヒドい言葉でも、どんな無慈悲な侮辱でも、甘んじて受けなければならないのだろうか。顔を逆さまに、撫でられるような気がして、どうしていいか分らなかった。
厳然たる態度で、奥へはいる夫人を、美和子は階段のところまで、案内すると、飛ぶように姉のところへ引き返して来た。
「大方、こんなことだろうと思ったのよ。だから、私いやだったのに、圭子姉さんたら、否応なしに私に押しつけるんだもの。ご免なさいね。でも、二階へ上げて、話した方がいいわ。お店で話しているところへ、前川さんが、ひょっくり来ようものなら、たいへんなことになってしまうじゃないの。だから、私下にいて、前川さんがはいって来たら、善後策講ずるわ。」
子供だと思っていると、一旦緩急の場合には、相当頭の働く美和子の顔を、新子は少し呆れて見つめていると、
「そんなに悲しがることないわ。お姉さん、勇気を出しなさいよ。構わないじゃないの。よしんば、前川さんに、どんなことをしてもらっているにしろ、お姉さんがあの奥さんに、責任を持つことないじゃないの。ねえ、勇気を出して、会っていらっしゃい。下手に、謝ったりしたら、いやよ。堂々と、戦いなさいよ。」
やんちゃなだけに、こうなると頼もしい妹である。
来てみるまでは、夫人もかほどまでに、新子に対する良人の心づかいが、行き届いているとは思っていなかった。
階下を見て驚き、二階へ上ってみて、新子の私室らしい小部屋を見て、驚いた。
すべては、小ぢんまりとしていたが、季節の飯蛸のように、充実している。階段を上るとき電話が引かれているのも見逃さなかった。
夫人は憤らしさと口惜しさと、良人に対する馬鹿馬鹿しいといった嘲りを覚えるだけで、良人の愛情にのみ生きている妻のように、嫉妬から来る苦痛は少しも感じず、こんなにまで、良人の世話を受けていては、どんなに面詰しようとも、相手はグウの音も出まいと思うと、彼女の心は躍り、眼は輝き、新子が上ってくる二、三分の間も、もどかしいほど、心がはやるのである。
新子は、このまま逃げ出してしまいたいような、激しい衝動を感じて、藁をもつかみたい今の気持には、美和子に勇気づけられたことで、やっと心を落着け、メズーサの首のようにも恐ろしく思える夫人に直面すべく、階段に足をかけた。
階段を上って行く姉の後姿に、さも絶望したような憐れな容子があるので、美和子はいたく心を動かされた。
ぼんやりしているよし子や妙子の側へ行くと、
「貴女達、気にかけないで、お客さんの方よろしくね。レコードをかけて、大いに騒いでいてね。前川さんが来たら……」と、云いさして、小ざかしくも頭をかしげて物思いながら、
「あんまり、二階の話が長いようなら、私容子を見に行くかも知れないから、その後にもし前川さんが来たら、ちょっと取りこんでいるから、資生堂へ行っているように、話してくれない、ね……」
と、云うと自分も、奥へはいり階段の下から、二番目のところまで昇って上の容子いかにと聞耳を立てるのであった。
新子が、自分の部屋へはいると、夫人は新子のベッドの端に腰をかけながら、皮肉な微笑を浮べて、新子を迎えた。新子が、また落着きを失って、ションボリとその前に立つと、
「ほほほほ。南條さん、しばらく。私が、いきなり来たので、随分驚いていらっしゃるらしいわねえ。でも、私の方だって随分びっくりしていますのよ。私、偶然、貴女のお姉さまとお友達になって、貴女がバーなどに、勤めていらっしゃるって聞いたんで、びっくりしましたの。貴女のようなインテリ女性が、こんな商売をなさるの、勿体ない気がしましたの。そして、酒場へは主人がお世話したという話でしたけれど、まさかと思っていました。でも、ここへ来て、私驚いてしまいましたわ。この家は、たしかに主人が出した店ですわね。私が見覚えのある装飾品だって、三、四点あるんですもの……」と、征服者のように笑いながら、「新子さん、貴女、お腹ン中で、私のウカツさを笑ってらしったでしょう。」と、云った。
こんなことで、取り乱しては、自分の品位に拘るとでも思っているのだろうか、態度だけは、あくまでも冷静に、言葉も針のように鋭く、
「まさか、貴女もこのお店と、主人とが何の関係もないなんて、おっしゃらないでしょうね。家具の好み、装飾の好み、これはたしかに前川ですよ。色の調子なんか、私の家の主人の部屋と、そっくりですもの。」
新子が、良心的である以上、今更そうした断定に抗することは、出来なかった。
夫人は、最初の前提をしっかり定めるべく、
「この店を前川が出したことを貴女否定なさらないでしょう?」
「………」
だまってはいたが、不覚にもかすかに、うなずいた。
「貴女だって、悪人じゃないんでしょうから、こんな見えすいたことまで、かくしはなさらないわけね。じゃ、お訊きするわ……」と、夫人はさも軽蔑したような調子に変り、「私と主人との間には、今までは何の秘密もなかったんですのに、私に全然内証で、主人が貴女の世話をしているなんて……。一体、貴女は主人の何なんですの!」と、冷静を装っている夫人の眼も、さすがに光った。新子は、懸命な努力で、
「前川さんと私、何でもございません。ただご親切にいって下さるもんですから、この店で勤めさせて頂いているだけですの……」と、いった。
「そう! じゃ、貴女は雇人ですの。でも、雇人の貴女が、
こんなハイカラなべッドや、立派な鏡台を持っているんですの……」と、夫人はまず、鋭い皮肉を浴せておいてから、「南條さん、貴女は、口では綺麗なことばかりおっしゃるけれど、貴女と私達一家とは軽井沢でご縁が切れているはずでしょう。それだのに、なぜ主人と交渉を……しかも並々ならぬ交渉をお持ちになっているんですか。しかも、妻たる私に、内証に。それが、私には不可解なのですよ。貴女が、最初から私と、何の面識もない、どっかの職業女性なら、こりゃ私文句は云いませんわ。ところが貴女は、かりにも、半月なり一月なり同じ家にいて、私と朝夕顔を見合わせた関係でありながら、私に内証で、前川と特別の関係をお持ちになる。主人が貴女を再び呼んだのか貴女が主人を呼び出したのかどうか知りませんけれど、一切私に秘密に、こんないかがわしい店に、貴女がいて、毎晩主人と会っていらっしゃる。そういうことはかりそめにも、教育のある淑女のなさることでしょうか。貴女自身可笑しいとお考えにならないのですか。そんなことをなさっては、貴女を立派な淑女として、私の家へ紹介した路子さんに、申し訳がないとは、思わないのですか……」
層々と畳みかけて来る夫人の、一言一言剣を並べたような鋭い侮辱に、新子は完膚なきまでに斬り苛まれながらも、返すべき言葉は見当らず、ただじっとこらえる全身の口惜しさに、指先が烈しく震えて来るのであった。
夫人は、新子が自分の言葉に、打ちひしがれて返事も出来ぬ容子に、有頂天になり、口で与え得るかぎり、あらゆる侮辱を与えて、二度と再び前川の周囲に、立ち寄らせないことにしようと、頭の中でいろいろ効果のある云い廻しを考えた後、
「こんな生活なんて、大抵自尊心のない、無教育の女がやることですけれど、貴女は不思議ですわね。専門教育をお受けになったくせに、よくこんな寄生虫的な生活がお出来になるのですね。」と、(つまり、貴女は教育があるのに、人の妾になるのか)と、云わんばかりの言葉で嘲った。
新子は、たとい貞操を売っていないにしろ、形式だけはそう思われても仕方のない生活をしているだけに、夫人の非難の少くとも半分は胸にヒシヒシと徹えるので、心はしめ木にかけられたように苦しく、なぜこんな生活に、足を踏み入れたのだろうかと、我が身があさましく思われて、危く涙が出かかった。
その上、新子がだまっていればいるほど、それはいよいよ夫人の気勢を、煽ることになるらしく夫人はいよいよ図に乗って、
「この店で働いているなんて云えば、とても体裁がいいけれど……私は、良人が、こんな不見識な商売をしていることだって、我慢できないんですよ。私の実家や、お友達にでも知れようものなら、良人はともかくも私までが、どんなに恥しい思いをすることでしょう。しかも、以前、私の家で家庭教師をした女を、その店のマダムに使っているなんて、分ろうものなら、それこそ、いい加減醜聞じゃないでしょうかしら。それにしても、貴女に長く子供達を委せておかなかったことは、こうなってみると、ほんとうによかったと思いますわ。」
夫人は一層意地わるく、ジリジリと新子を責め始めて、
「あのまま貴女に長く居て頂こうものなら、それこそ私の神聖な家庭まで、汚されたかもしれませんわ。」
「まあ! 奥さま、それはどういうことなんですか。」と、新子も堪りかねて云った。
「どういうことだか、貴女の胸に手を当てて、訊いてごらんなさい!」
「だって、奥さま、私前川さんと何も邪しい!」
新子の口惜し涙は、とうとう頬に糸を引くまでになって、身をふるわせながら、必死に叫んだ。
「じゃ、お訊きします。貴女は、この部屋で、前川とお会いになったでしょう。それとも、お会いになりません? この部屋、このベッドなんか置いてある部屋で!」
夫人の額にも、激しい嫉妬の影がひらめいた。
西洋では、男女二人ぎりで会う時は、部屋の扉を開けておくと云う、日本は、それほどでないにしても、ベッドの在る部屋で会っていれば、どんな疑いをかけられても仕方のない道理なので、急所を衝いて来る夫人の言葉に、新子はまた一太刀斬りつけられた思いで、
「でも何にも……」といったまま、後の句が継げないでいると、夫人は緩急自在、やや鋭鋒を収めた形で、
「まあ、いいわ。今までのことは、どうだっていいわ。よしんば、貴女と主人との間に、何かあったにしろ、どうせ主人の気紛れか過失だったと思いますわ。主人が、貴女のような人を本気に愛しているなんて、考えられないんですもの。だから、今までのことは深く咎めないわ。ただ、これから、先のこと私の心配しているような醜聞が、世間に広がらないように貴女にも考えて頂きたいのよ。そのために、私恥を忍んでここへ来たんですから、貴女だって、いずれはお嫁にいらっしゃる身体でしょう、今下らない噂なんか立てられたら、一生の恥じゃありません?」
そう云われれば、そのとおりには違いない。しかし、新子は素直に、肯く気にはならなかった。
「だから、私、貴女が主人と、何でもないとおっしゃるのなら、それを信じたいわ。貴女も、信じてもらいたいでしょう。でも、貴女が潔白を証拠立てるのには、この店から、今晩にでも出て行って頂くのが一番よくないかしら。貴女が一介の雇人だとおっしゃるのなら雇人だということを、私の前で見せて頂きたいの。ねえ、南條さん! 私の申し上げることが、無理かしら。」
まず名分論で、新子をさんざん痛めつけた上、今度は実際論で、新子を窮境に追い込もうという作戦であった。
新子としても、かほどまでに悪辣な夫人に対しては、教養も外聞もかなぐり捨てて、滅茶苦茶な論戦を開くか、でなかったら、夫人の面前で前川との関係を、きれいに清算して(お騒がせしてすみません)とアッサリ引き下るか、二つに一つを出でないのであり、しかも今更、夫人と、いぎたなく口争いする勇気もない以上、今はサラサラと引き下る外ないのであるが、しかし、ただこのままに出て行くのは、何と云っても口惜しく、敵わぬまでも、何かしら云ってみたく、
「でも、私前川さんから、このお店を、お預りしているんですから、前川さんから、お話がない以上は……」と、云いかけると、夫人は軽く引き取って、
「それはいいじゃありませんか。この店が前川のものであることを、貴女が認めていらっしゃる以上、前川の妻の私が、出て下さいと云う以上、お出になってもいいじゃありませんか。バーテンダーを呼んで下さいませんか。私バーテンダーに話しますから。」
新子にとって、はや絶対の場合となった時、何と思ったか、美和子が、気楽そうな笑顔で、いきなり扉を開けて、部屋の中をのぞき込んだ。
美和子は、姉の泣き顔を一目見ると、急に前川夫人に対して、猛然たる敵意を感じたらしく、その可愛い眼に、殺気を漂わせ、部屋の内にはいって、姉の傍に歩み寄りながら、
「お姉さま、どうしたの?」と、いって訊いた。
「………」
新子は、さすがに妹の肉親の情の頼もしく、それだけまた悲しくなって、口がきけずにいると、美和子はいきなり、前川夫人に対して、
「奥さま、どうしたと、おっしゃるんですの。私に、案内させておきながら、お姉さまを苛めるなんて、厭ですわ。」と、喰ってかかった。
夫人は、この小イちゃい娘をハナから、無視していることとて、
「貴女は、お若いんだから、下へ降りていて下さらない?」と、アッサリ片づけようとすると、
「いいえ。いやですわ。お姉さまを苛められて、私だまっては、いられないわ。」
小さい身体が、まるで反抗の塊のように、飛びかかって来そうである。
「まあ! 私いじめてなんかいませんよ。」
「いいえ。いじめていらっしゃるんですわ。きっと、お姉さまに、いろいろな疑いをかけて!」
夫人は、少し本気になり、
「だって、そりゃ疑わしいことを、いろいろするんですもの。」と、いった。
「疑わしいことって、何ですの。」
「貴女のような、小イちゃい人には、話せないことだわ。」
「それなら、分っていますわ。お姉さまと、前川さんとの間を、疑っていらっしゃるんでしょう。」
「おませね、貴女は……」
夫人は、眉をひそめながら、いまいましそうに、
「それなら、貴女にもいってあげるわ。どうせ貴女も圭子さんも、新子さんの縁で、前川の世話になっているんでしょう。そういうことを、貴女は自分で可笑しいと思わないんですか。前川と新子さんとが、普通の関係で、貴女方妹姉までの面倒が見られますか。」と、夫人は手きびしくやっつけたつもりでいると、美和子はケロリとして、
「あら、それは、奥様のひどい考え違いですわ。お姉さまなんか品行方正よ、ちゃんとしているわ。」
「品行方正で、こんなに前川の世話になっているんですか、前川と何でもなくて、こんなにまで前川の世話になれますか。」
「あら、お姉さんは、前川さんの何でもないわ、ただ、前川さんがお姉さんを、トテも好きなだけだわ。」
それは、まさに夫人の自尊心を、真向に割りつけた返事である。
たとい、良人と新子との間に、関係があったにしたところで、それを良人の気まぐれ、乃至は過失として片づけたい夫人には、良人が新子を愛していると云われたことは、堪えられないことだったので、思わずカッとなって、
「汚わしいことですわ、良人に限って、他の女性を愛しているなんてこと、絶対に信じられませんわ。」と、大見得を切ったが、美和子は、それを事ともせず、
「だから、奥さまは何にもご存じないんだわ。ご存じなければ、ご存じないで、その方が幸福なんだわ。知らなければ、知らないで済んでしまうんですもの。わざわざこんな所を探して、いらっしゃることはないわ。」
あまりの暴言に、夫人は正面からピシャリと叩かれた思いで、しばし呆気に取られて、美和子の顔を、まんじりともせず眺めていたが、その洒々とした容子に、また腹が立って来て、
「まあ、なんて恥知らずの人が揃っているんでしょう。私が、ここへ来て何が悪いんです。私の家庭を破壊しようとする者があれば、その人を面詰するのは、私の権利ですもの。」
今は、皮肉な冷静な調子はなく呼吸もややせわしく取り乱して来た。
「だって、そりゃお姉さんを責めるよりか、前川さんをお責めになる方が、先だわ。」と、美和子は、さり気なく首を振った。
「だって、新子さんは、一度私に使われた人じゃありませんか、その人が、私の家にいる間に、主人と怪しい関係をむすんで、私の家を出ると、コソコソと店を出させたことを、私がだまって放っておけますか、貴方のような子供には、夫婦間の問題なんて、分らないことですわ。下へ降りていて、頂戴!」
夫人は、憤りに煽られて、権柄ずくに、そう云った。
「いやですわ。私が、案内して来た人が、お姉さんを侮辱するのを、だまって見ていられないわ。」美和子は、決然として屈しない。
「私だって、故ない侮辱は致しませんよ。」と、夫人も今は、この小娘侮りがたしと見て、必死だった。
新子は、もうどうにも出来ない羽目に、追い込まれたので、身を棄てて、夫人の罵倒に甘んじようとした矢先、思いがけない美和子の颯爽たる助太刀を、頼もしくは思いながら、これ以上事を荒立てると、どんなことになるかもしれないので、
「美和ちゃん!」と、低くたしなめた。すると、美和子は、紅潮した頬を向け、
「お姉さんが、煮え切らないからいけないのよ。だから、愚図愚図いわれるのよ。」と、姉触るれば姉を斬る勢い。
(愚図愚図いわれるのよ)という美和子の言葉に、夫人はギョッとして、
「愚図愚図いうとは何ですか。生意気だわ貴女は。何だって、私をそんなに侮辱するのですか。」と、今度は自分の方が、被害者でもあるかのような夫人の口調である。
美和子は、相変らず、物に動じない円な瞳をジッと、見はって、
「だって、そうなんですもの。前川さんは、穏便主義でお姉さんは、志操堅固なんですもの。愚図愚図いわれることなんかちっともないわ。お姉さんは、処女ですわ。わたし、処女であることを信じているわ。奥さんに、苛められることなんかちっともないと思うわ。」姉に対する美和子の信念は、熱を持っていて、さすがに有力な反撃であった。だが、夫人も負けてはいず、
「へえ──。不思議なことを聞くものね。それなら、なおのこと、こんなベッドのある部屋で、前川と会うことなんか、慎むべきですわ。」
「そんなことは、お姉さんに、おっしゃる前に、前川さんに、おっしゃるべきだわ。」
「貴女の指図は受けなくっても、むろん前川を責めますよ。しかしそうするためにも、このいかがわしい場所を、確かめておく必要があるじゃありませんか。」
さすがの夫人も、才気煥発、恐ろしい者知らずの美和子には、ややてこずっている気味である。
「だって、確かめようがありますわ。処女であるお姉様に対して、誰と怪しいとか怪しくないとかそんな確かめようなんて、ないと思うわ。そんなことを、おっしゃるのは、かえって貴方の人格を傷つけることになるんだわ。」
と美和子は、もう姉のために弁ずるよりも、いかにもけんだかな増上慢を、歴々と顔に出している夫人に、突っかかって行く興奮に自ら酔うているように、止めどもなく、喰ってかかって行く。
子供らしい彼女の受口の舌の中には、少しは的はずれでも、とにかく相手のどこかを突き刺す毒の針が、無数に含まれている。
新子は、眼を伏せたっきり、問答は全く、夫人と美和子に移って、彼女は圏外に出された形である。
夫人は、今まで、わがまま一杯に育ち、人を権柄ずくにやっつけることには、巧みでも、一度相手から逆撃されてみるとたちまち勝手が違い、カッとのぼせ上って来、気の遠くなるほど、美和子が憎らしくなりながら、口の方はかえって辛辣さを無くしていた。
「私は、別に埃のないところを叩いてやしません。それが証拠に、新子さんは恐れ入ってるじゃありませんか。」
美和子を避けて、弱い姉を衝こうとした。
美和子は、また奮然として、
「お姉さんだって恐れ入っているもんですか。お姉さんは、あんまり良心がありすぎるから、たった一月お世話になったことを考えて、遠慮しているだけよ。こんなに慎みぶかいお姉さまを危険視するなんて、大間違いだわ。お姉さんを、警戒する前に、奥さまは、手近な前川さんの心臓を、しっかりお握りになっているといいんだわ。」
これは、美和子の揮う論理の中でも、相当夫人にとっては、痛いものであるだけに、夫人はますます苛々して、表情らしい表情を無くして了い、
「下らない理窟なんか聞きたくないわ。ともかく今夜かぎり、貴女方姉妹は、この店に出入を止して頂きたいわ。ねえ、新子さん、それに異議はないでしょう、貴女は先刻承諾したはずですもの。」と、敢然として高圧的な態度に出た。
「どんな理由で、止さなければならないんですか。」と、美和子は落着き払って訊いた。
「どんな理由? 私が厭なんです。前川がこんな酒場なぞを出すことに、反対するのです。この店が無くなる以上、貴女がここに止まるわけはないじゃありませんか。」夫人は、ようよう冷然たる態度を取り戻して来た。
「あら、奥さまは、そんな権利をお持ちにならないはずだわ。」
「おや、どうして……良人のものは、私のものですわ。」
「だって、このお店、前川さんのものじゃないわ。」
「じゃ誰のものです。」夫人は嘲りながら云った。
「みんな新子姉さんのものよ。」
「美和チャン!」新子は、思わず美和子を押えようとした。
「お姉さんなぞ、だまっていらっしゃい!」と、云ってまた夫人に向い、「ここのものは、みんなお姉さんのものだわ。」
夫人は口惜しそうに、ジッと美和子を睨みつめながら、
「だって、みんな前川が買ったものじゃありませんか。」
「お金は、誰から出ているか、私知らないわ。しかし、今では、みんなお姉さんのものだわ。だって、お店の名義は、お姉さんの名前ですもの、そりゃ、みんな前川さんから貰ったものかもしれないわ。でも、貰い物は貰った人のものよ。」
「まあ! 図々しい!」
「図々しいよりも、こんなこと云い合うの、下品だわ。あさましいわ。だから、お姉さんは、だまっていらっしゃるのよ。奥さまが、愚図愚図と云えばだまって出て行くつもりよ。だからお姉さんの方が、奥さまや、私よりも人間が上よ、一言も云わないんだもの。」
「ヒドイ!」
夫人は怒りにかすれた喉声でそう云うと、いきなり立ち上った。立ち上って、扉を押すと、よこっ飛びに階段へ出た。
「美和チャン、貴女……」
「シッ、静かに。」と、姉の言葉を押えて、階段口から階下の情勢を窺ったが、動き出した自動車のエンジンの音を聞くと、
「帰っちゃった!」と、舌を出した。
「だって、貴女、ほんとにひどいこと云うんだもの。」
「ひどいって、どちらが……。あれは、一体何をして生きている人種ですか。苦労知らずの奥様で、お金があって、暇があって、旦那様をお尻に敷いて威張っている上に、ちょっと貧しい同性は、目の敵にして、こっちの困ることなんか、おかまいなしに、すぐ出て行けだなんて……人を馬鹿にしているじゃないの、もっと苛めてやればよかった。あたし、あんなのと喧嘩するの大好きだわ。」
美和子が、おどけた口調でいうので、場合を忘れて、新子もちょっとほがらかになりながら、
「だって、貴女だって、あの奥様の立場になれば、きっとああだわ。」
「モチ、あたしだったら、もっと凄くなっちゃう。」と、艶やかな笑顔をしてみせた。
妹の思いがけない奮闘で、急場の難儀を逃れたことを、嬉しく思うものの、しかし新子の心境はみだれていた。
前川が、夫人に対する態度をよく知っており、それを改めることが、前川にとって不可能であると思われるだけに、夫人にすべてが知られてしまった現在では、前川と自分との交際も、これが最後であると考えねばならなかった。
もし、またそれを続けるとしたならば、今以上に、太陽の当らぬ日蔭の地を選ばねばならないし、またどこに隠れていようとも、ゲー・ペー・ウーのように鋭い夫人の眼を怖れて、常に恟々としていることは、新子の堪え得るところではなかった。
今こそ、前川の周囲から、身を引いて、明るいところへ、新しい生活を築き直すべき機会であると思った。
新子が、ふかくうなだれて物を思っていると、女給のよし子が、不安な表情で上って来て、小声で、
「先刻、前川さんがお見えになりましたので、美和子さんのおっしゃったとおり、資生堂で待っていて頂くように、申上げておきました。」と、いった。
「あら、そう、どのくらい前。」
「たった今でございます。」
「お姉さま行く?」と、美和子は姉を見た。一歩、店を出ると、すぐ前川夫人につかまりそうな気がして、新子は会いに行く、勇気が出なかった。
「じゃ、私、行って来るわ。とにかく、事件を報告してくるわ。あの人にも少しいってやるの。」と、新子が、止める隙もなく、美和子は一散に店を飛び出して行った。
(今取り込みがありますのよ。資生堂で、しばらくお待ちになっていて下さいませんか、とおっしゃっていましたわ)と、よし子にいわれて、しかも奥を気にするその態度に、そわそわした不安が感ぜられたので前川は、(あ。よし!)と、軽くうなずいて引き返すと、指定されたとおり、一町とはない資生堂まで歩いて、空いたボックスを探して、腰をおろすとアイスクリームを註文した。
取り込みって、何だろう。姉妹喧嘩でも、始めたのであろうか。それとも、姉から妹に移ったという若い音楽家でも、飛び込んで来て、事件でも起したのであろうか、などと今までに例のないことだけに、狐につままれたような感じのなかにも、新子の身を案ずる不安が漂っていた。
だが、十五分とも、待たないうちに、待っていた姉の代りに、美和子が入口に現われ、わざと入口から見えるような位置に腰かけている前川を見つけると、思いの外に元気のいい笑顔で、近づいて来た。
「やア。」と、笑顔で迎えれば、
「のん気な、顔をしてんのね。」と、きめつけられて、
「おや、あべこべじゃないですか。そちらこそ、取り込みがあったというのに、のん気な顔をしているじゃありませんか。」
「あら、取り込みなんて、よし子がいったの? 取り込みなんかじゃないわよ。ただ、前川さんが、会いたくない人が来ていたのよ。」
「じゃ、昔お姉さんの恋人であった人で、今度貴女と結婚するという人?」
美和子は、ちょっと憤った顔をして、
「自分のお蔵に、火がついたのも知らずに、何を云ってんの。私達の恋人じゃないわよ。貴君の恋人よ!」
「嘘、おっしゃい!」
「嘘なもんですか。前川夫人が乗り込んで来たのよ。」
「僕の女房? ウソでしょう。」
「そらそら、すぐ色を失うくせに、……嘘なもんですか。」
「綾子が……どうして……」前川は、きれぎれに呟いた。
「どうしてだか、お家へ帰って奥さんに訊くといいわ。」
「綾子が、あの家を知ってるわけはないんですよ。冗談にも、そんなことを云うものじゃありませんよ。」
「そんなに、興奮しないで、落着いて、落着いて! とにかく、私がどうにか帰したんだから。」
「本当ですか。」
「本当よ。」癪にさわるほど、美和子は落着き払っていた。
「グレープ・ジュース、氷沢山入れてね。」と、ボーイに命じて、後は前川の張りついたような顔に、愛らしく笑いかけて、
「貴君の奥さんと、やり合ったんで、喉が乾いちゃったの。……でも、不愉快だわ。」
「貴女が、やり合ったんですか。」前川は、気の毒なほど、蒼くなっていた。
「そうだわ。だって、新子姉さんは、何にも云わないんだもの。だから、マダム、俄然威張っちゃって、お姉さんを泣かしてしまったんだから……」
「お店で、ですか。」
「お店で、始まりそうだったから、二階へ上げちゃったの……」
「二階でね。」前川は、秘密の核心を衝かれたように、憂鬱な顔になって、
「しかし、こんなに早くどうしてあの店が分ったんでしょう。」
「圭子姉さん、ご存じ?」
「知っています。」
「あれが、マダムに籠絡されているんだから、世話はないの。私が圭子姉さんに頼まれて、だらしなく案内してしまったの。」
「圭子姉さんか、ウッカリしていた……」
物事の径路がハッキリして来ると、今までは半信半疑であった事件が、マザマザと考えられて来、妻の露骨な仕打ちが、わが事のように羞らわれて来た。
「奥さんも、随分思い切ったことなさるわねえ。たとい、お姉さんを疑っていらしっても、いきなりここへ来て、直接行動を取るなんて、ひどいわねえ。」
「ひどい──とんでもないことをする。」前川は、憮然としている。
「前川さんも、いけないのよ。奥さん一人を、操縦できないくせに、私のお姉さんを、どうかしようって、ムリよ。」前川は、この小娘と思いながらも、返すべき言葉がなかった。
「それに、お姉さんを、心では二っちも三っちもないほど、好きんなっていながら、いつまでも穏便主義でやろうなんて、ムリだわ。ムリというよりも、意気地がないわ。四十男の感傷主義なんていやだわ。女学生の作文のような恋愛なんか、いやだわ。そんな中途半端だから、お姉さんも苦しみ、貴君も苦しむのよ。やるのなら、ハッキリした方がいいわ。」
「ははははは。」
前川も、つい苦笑してしまった。しかし笑いながらも(負うた子に、浅瀬を教えられ)と、いういろはだとえを思い出していた。
「じゃ、あたし行ってお姉さんを代りによこすわ。よく慰めてあげて頂戴ね。お姉さん、随分考え込んでいるわよ。」と、いうとスラリと立ち上って、早くも入口の方へ、二、三間歩み去っていた。
風のように、美和子が去ってしまうと、前川は、しばらく味気なさそうに、煙草を吸いつづけた。
世の常の良人ならば、かかる場合には、たまりかねて、飛び出して来た自分の妻の心根にもかなり同情するのであろうが、同棲して以来、十幾年、常に夫人の高慢な意地の悪さに、悩まされる前川は、夫人の人格的な欠点を、洗いざらい見せられたように、眼の前が暗くなり、妻に対して、落莫たる味気なさを感ずるばかりであった。
五分、十分、新子の来るのが、なぜか手間どった。新子が、どんなに、厭がっているだろうということが、分っているだけに、気が気でなかった。
重ねて、何を註文する気にもなれず、卓の上の一輪ざしの、名も知らぬ西洋草花をじっと見ていた。
「お待たせ致しました。」
ハッとして、顔を上げると、急いで化粧したらしく、乱れのないいつもの新子が、それでもやさしく微笑しながら立っていた。
「すみませんでした。」
前川は、まじまじしながら、頭を下げてあやまった。
新子は、唇のあたりに、ちょっと悲しい影を漂わせて、しかし眼は前川の気を、引き立てるように笑いながら、微かに首を振って、席に着いた。
「ほんとうに、申し訳ありません。かんにんして下さい。」と、重ねて、詫び入りながら前川は、にわかに胸の内に、明るいものが、さし上って来るのを感じた。
(結局、俺の生活には、この人が一番、大事なのだ。この人をさえ失わなければ……何物をも犠牲にして、この人を失わないことが大事なのだ……。人生の方針を、そう訂正することが正しいのだ……)と、彼は思った。
家へ帰って、夫人にどう云われようが、夫人がどんな行動に出ようとも!
曲者の夫人は、こうなれば……前川の愛が、自分にないことを知れば知るほど、ただ夫婦という立場だけを、振り廻して、向って来るに違いなかった。しかし、夫人があらゆる謀計を逞しゅうしても、もう前川は、二足三足昇りかけた殉愛の階段を、降りる気はなかった。いな、たといその階段が、地獄への下りになっていようとも。
「僕どんな償いでも致します。だから、妻の云ったことなど忘れて下さい。」と、云うと新子は、首を振って
「いいえ。」と、打ち消した。
「どうして?」前川は、憂鬱そうに、顔を曇らせて訊ねた。
新子は、せかずにゆっくりと、自分の気持を前川に伝えたかった。しかし、そうするには、ここはあまりに、人目が多すぎた。
新子が、何か云いためらっており、それがまた周囲のせいだと思うと、前川は、
「ともかく、ここを出ましょうか。」と、云った。新子が、機械的に頷いてしまったので、前川は重ねて、
「どこか、静かな家で食事でもしながら、お話ししましょう。」と、云った。
新子は、素直に立ち上って、外へ出ると、レジスターへ行った前川を、涼しい夜風に、吹かれながら待っていた。
「どこへ行きましょうか。」と、訊ねる前川に、
「あちらへ!」と、築地の方向を指さすと、一、二間先に立って、電車通りを渡った。向う側の横町なら、人目も少いし、万が一にも綾子夫人に、見られる気づかいはないと思ったのであろう。
出雲橋を渡って、人通りが少くなると、新子は歩調をゆるめながら、
「私、奥さまに、家庭破壊者だって、いわれたのが、一番悲しゅうございましたわ。」と、いい出した。前川は、だまって聞いていた。
「外国の芝居なんか読んで、(汝! 家庭破壊者よ!)なんて、夫人に追い出される女なんて、どんなに嫌だろうと思っていましたのに、私自身いわれてしまったんですもの。まるで、伝家の宝刀をつきつけられた賊のようでしたわ。私、どんな清純な気持でいても、奥さまの立場から見れば、そうに違いないんですもの。やはり、奥さまのおありになる方には、どんな意味でも、お世話にならない方が、いいんですわ。」
前川は、新子に云わせるだけ、云わせた方が、かえって彼女の胸が晴れるだろうと思って、なお黙然として歩いていた。
「これ以上、お世話になっていても、年中ビクビクしていなければなりませんし……それに、美和子が奥さまに、随分失礼なことを申し上げたので、奥さまは、私達姉妹をもう、仇敵のように思っていらっしゃるでしょうし……」悲しげに声が曇り、新子もしばらくだまって歩いていたが、
「お世話になるばかりなってしまって、勝手なこと申し上げているようで、悲しいんですけれど……」と、新子は前川が、黙々とこっちの云い分を聞いているだけなので、かえって胸が一杯になり、その先を続けて云うことが出来なくなった。
いつか、広い昭和通の歩道を、左へ左へと歩いていた。
「それに、私ばかりでなく、姉や妹までが、ご迷惑ばかりかけているようで、いやになってしまいましたの……」
人の往来は少く、ただ自動車の激しく走り過ぎる広い通りに添うて、どこまでも歩きながら、前川の沈黙は、無気味なくらい続いた。
ふとした出来心だとか、物の拍子で、新子に「酒場」を出させたのではなかった。
新子に会っていさえすれば、何ということなしに心豊かに、新しい希望の湧き立つような、喜悦を感じるからだ。
しかし、前川は穏健主義の紳士で、周囲を毀ち破ってまで、新子との交情を深める考えはなかった。
綾子夫人の眼から、そっとかくれて、静かな、足るを知る幸福に甘んじて暮して行こうと思っていたのに、綾子夫人はこうした、慎しく隠されたる花園にまで、踏み入って来て、新子をそこから追い出そうとしているのである。
新子が感じているように、この関係は不自然に違いない、しかしそれかと云って、新子との交渉を絶ってしまうくらいなら、自分の位置や名誉はおろか、自分自身さえ、何か要らない無用のもののように、感じられて来る前川だった。
(お別れした方がいい)と云っている新子にも、何となくそぐわない一時的の感情が、動いている気がしてならない。
自分の態度が徹底していないために、結局新子も、いい加減なところで、フラフラしているという感じであった。
前川は、歩きながら、つくづく考えた。新子のような性格的にも上品な、一人の処女を獲るためには、自分の家庭や位置や名誉までも、犠牲にする覚悟が必要なのだ。及び腰で、手をさし延べているような、自分の態度のために、かえっていろいろな事件が起って来るのかもしれない。
そう考えて来ると、ジワジワとねばり靭い昂揚が、心の中に盛り上って来た。
「僕は、決心しました。妻が穏便じゃないんですから、僕も平和第一、安全第一の常識を棄てることにします。」彼は、静かにいった。
「え?」と、新子は、びっくりしたように、眼を見開いて、相手の横顔を見た。
「僕は、貴女を失いたくない! 何物に比べても貴女が大事だ!」
「だって……」と、打ち消そうとしたが、新子は顔を赤らめて、うつ向いてしまった。
「迷惑だとおっしゃるんですか。」前川は、勢い旺んに訊ねた。
「まあ、迷惑だなんて、そんなことをおっしゃるのなら、私このままどこかへ身をかくしてしまいますわ。さっきから、そんな気持で、申し上げているのではありませんのに……ただ、奥さまにだって、わるいし、……お子さま達にだって……」
「そんなことを貴女に考えさせていたのは、僕が卑怯だからなんだ、今後、どんなことが起って来ても、僕のことで貴女にご迷惑はかけないことにします。僕は、その決心をしました。」
相手の激しさに、新子はいよいようなだれるばかりであった。
「さあ。もう考えないで下さい。」と、前川は明るく云いながら、我とわが心に、
(どうしたって、この人と離れるものか。どんなことがあっても頑張る、どんな手段でも取る!)と、云いつづけた。
主客転倒で、今度は新子がだまりこんでしまった。
前川は、ふと空を見上げた。昨夜が中秋であったという月夜空、雲がぐんぐんと動いていた。
「だって、どうなさるんですの。」やわらかく、新子が訊き返した。
「僕は、貴女が好きだ、絶対に別れない。今までは、僕が卑怯だったので、貴女に心配させた。これから、周囲のいかなる非難も受ける。妻とも戦います。だから、貴女は、僕の身の上について、心配することは、一切抜きにして、僕に対する一番素直な気持にだけなって下さればいいんです。」
すぐには、返事が出来なかった。
「それそれ、そんなに考えないで下さい。考えれば、どうしたって、余計な思案が入って来ますよ。」
「それでいいのでしょうか。」新子の声が弱々しくかすれた。
「いいどころじゃない。僕達が別れたくないためには、そうしなければならない。理性にだけつけば、僕達は軽井沢で、もう別れて路傍の人になっていますよ。あんな酒場なんか出さないし、今度の事件なんか起らないんですよ。理性と感情と中途半端だから、ゴタゴタするんですよ。僕は、今度は貴女を失いたくないという自分の感情本位で行動しますよ。」
「私だって、感情だけで行動できたら、どんなに幸福だろうかと思いますの……、美和子のように……」
「うむ。」と、前川は深くうなずくと、たちまち自分の目頭がうるむのを覚え、新子が限りなく、いじらしくなり、ギュッと抱きしめて、顔中に唇の雨を降らせたい激しい衝動を感じるのを、息を呑み込んで、ズンズン歩きつづけることで、やっと押えた。
京橋の十字路も、いつか越していた。
「お腹すかない?」
「何だか分りませんの。胸が一杯でご飯頂けるかしら……」
「随分歩いたから、ともかく落着きましょう。」と、その通りの路次を、少しはいった、大きい日本造りの鳥料理の店を、ステッキの先で示しながら、
「あの家静かですから……」
新子はその先を見やりもせず、
「でも、そこまで行ってしまうの、なかなか勇気がいりますわねえ。」
「よろしい。今までは、僕がいけなかった。僕も勇気を出す、そして貴女にも勇気を出してもらうようにする。それでやってみて、もし日本が、住みにくかったら、一緒に三、四年外国へ行っていようじゃありませんか。」
と、前川は獅子の如く勇敢に、料理屋の門をはいって、玄関へつづく砂利の小径を、新子のかぼそい身体を、抱くようにしながら、グングン歩いて行った。
底本:「貞操問答」文春文庫、文藝春秋
2002(平成12)年10月10日第1刷
底本の親本:「菊池寛全集 第十三巻」高松市立菊池寛記念館
1994(平成6)年11月
入力:kompass
校正:土屋隆
2007年8月10日作成
2012年3月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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