マルコポロから
寺田寅彦
|
マルコポロの名は二十年前に中学校の歴史で教わって以来の馴染ではあったが、その名高い「紀行」を自分で読んだのはつい近頃の事である。読んでみるとやはり面白い。尤も書いてある記事のあまり当てにならないという証拠は自分の狭い知識の範囲内からでも容易に列挙されるくらいであるが、事実という事は別問題として、単に昔の人の頭に描かれた観念として見るだけでも色々の意味で面白い事が沢山にある。
始めのうちはただ読みっ放しにしていたが、あまり面白いから途中からは時々手帳へ覚え書きに書き止めておいた。その備忘録の中から少しばかりの閑談の種を拾い出してここに紹介してみようと思う。以下に挙げてある頁数は、エヴェリーマンス・ライブラリーの中のこの書物の頁数である。
一
二四八頁にこんな話がある。
カラザンという土地には奇妙な風習があった。異郷から来た旅人が宿泊した時に、その人が風采も立派で勇気があって優れた人物だと思うと、夜中に不意を襲って暗殺してしまう。暗殺の目的は金や持物ではなくて、その旅人の有っている技能や智慧や勇気が魂魄と一緒に永久にその家に止まって、そのおかげでその家が栄えるようにという希望からだという事である。
これはずいぶん思い切って虫の好過ぎる話である。
しかしよく考えてみると今の世でも多少これに似た事実がないでもない。例えば有為の青年を金や権勢や義理合やでとって抑えて本人のあまり気のすすまぬ金持の養子にしたり、あるいはあまり適当でない地位に縛り付けたりする事があるとすれば、これはいくらかカラザン人の遣り口に共通なところがありはしまいか。
この悪習は忽必烈が厳禁してやっと止まったとある。
この地方の人は始終毒を携帯して歩いている。もし何か自分の悪事が見付かって罰せられそうになると、大急ぎでその毒を仰いで自決をしようとする。これは存外見上げたものだと思われる。ところが困った事にはそういう罪人をつかまえる為政者の方でもちゃんとそれを承知しているから、あらかじめ犬の糞を用意しておいて、すぐにそれを食わせ、そうしてすっかり毒を吐き出させてしまう。これではせっかくの毒も何の役にも立たなくて、結局犬の糞を食わされるだけが余計な事になる訳である。それにもかかわらずこのような事が繰り返されていたとすれば、犬の糞の効力の及ばない場合が相当に多かったかもしれない。
これと同じ章に足を有った蛇の記載が出ている。多分鰐の事だろうが、その説明がかなり面白いものである。
二
二四八頁にはカルダンダンという地方の風俗が述べてある。その中に、この地方の人は男女ともに黄金の薄い板を歯にかぶせて飾りにするとある。
この金の板の着せ方がよく分らないのであるが、とにかく現代の吾等の同胞の中にも健全な歯に黄金の板をかぶせて装飾としている人がかなり多数にある。
三
三二八頁にある日本に関する記事の中にこんな事がある。
この国の人に、何故そんな色々の形の神像を作るかと聞くと、これは先祖からのしきたりだと答えた。吾々に先立った人がこういう風にして吾々に残した。それで吾々もこうして子孫に伝えるのだと云ったとある。
その話のすぐ下には、日本人の間に食人の風俗があるように書いてあるくらいだから、上の話も当てにはならない。しかしオリジナリティを尊ばない国民性のようなものが上の話の中に表われているのは不思議である。
四
三三九頁を見ると、
フェレチ王国の人々は朝起きた時に一番先に眼に触れたものを、その一日中崇拝するという事が書いてある。
新輸入の思想の初物を崇拝する現代の多数の人達とこの昔の王国の人とどこか似たところがあるような気がする。こういう風にして行けば頭がいつでも新鮮で、沈殿したり黴が生えたりする心配がなくていいかもしれないが、ただ少し忙し過ぎて困るような気もする。
これとは関係はないが、次の頁の脚註に、中世の博物学書に記述されたウニコール捕獲法というのが書いてある。純潔な処女をこの一角の怪獣の棲家へ送り込むと、ウニコールがすっかり大人しくなって処女の胸に頭をすりつけて来る。そこを猟師がつかまえるのだという。相手がウニコールであるとは云いながら甚だ罪の深い仕業であると云わなければならない。
五
三四三頁にはこんな事がある。
スマトラのドラゴイア人の中で病人が出来ると、その部落の魔法使いを呼んで来て、その病気が治るか治らないかを占わせる。もし不治と云えばその病人の口を蒸して殺してしまう。そして親類中が寄ってその死体を料理して御馳走になる云々。
役人や会社銀行員があるただ一人の長上から無能と宣言されただけで首をきられる。するとその下の地位にいる同僚達は順繰りに昇進してみんな余沢に霑うというような事があるとすると、それはいくらかはこのドラゴイアンの話に似ている。
六
三四四頁には尻尾のある人間の事が出ている。犬の尻尾くらいの大きさだが毛が生えていないとある。譬喩的には今でも大概の人間がみんな尻尾をぶら下げて歩いている。これは誰も知る通りである。
三五八頁には右の手を清浄な事に使い、左の手を汚れに使う種族の事がある。
これもある意味では世界中の文明人が今現にやっている習俗と同じ事である。
三五九頁にはこんな事がある。
債務者が負債を払わないで色々な口実を設けて始末のわるい場合がある。そういう場合に債権者は債務者の不意を襲うてその身辺に円を画く。すると後者はその債務を果たすまでその円以外に踏み出す事が出来ない。もし出れば死刑に処せられる。
こういう法律は今日では賛成者が少なそうに思われる。債務者の方が多数だから。
七
三七二頁には次のような話がある。
ある宗派の修道者が、人から、何故死体を火葬にするかという理由を聞かれた時にこう答えた。死骸をそのままにしておけば蛆がわく。然るに蛆が食うだけ食ってしまっておしまいにその食物が尽きるとそれらの蛆がみんな死んでしまわなければならない。これは甚だ殺生であるからいけない。
同じような立場から云うと、基礎の怪しい会社などを始めから火葬にしないでおいたためにおしまいに多数の株主に破産をさせるような事になる。これも殺生な事であると云わなければならない事になる。
こんな話の種を拾い出せばまだまだ面白いのがいくらでも出て来る。
あまりあてにならないような古い昔の異郷の奇習の物語が一々現代の吾々の生活にかすかながらある反響のようなものを伝えるのが不思議と云えば不思議でもある。「天が下に新しいものはない」というのはこういう事を指していうのかもしれない。
もう少しよく捜したら貴重な未来の新思想の種子がこの忘れられた古い書物の中からいくらも拾い出せそうな気もする。
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
1997(平成9)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。