戦争と気象学
寺田寅彦
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ユーゴーは『哀史』の一節にウォータールーの戦いを叙してこう云っている。「もし一八一五年六月十七日の晩に雨が降らなかったら、ヨーロッパの未来は変っただろう」と。雨が降って地面が柔らかくなり、ナポレオンが力と頼む砲兵の活動に不便なために戦闘開始を少し延ばしたばかりにブリュヘルが間に合って戦局が一変したと云うのである。これは文学者の誇張であるかもしれないが、こういう例は史上に珍しくはあるまい。同じ筆法で行けば弘安四年六月三十日から七月一日へかけて玄界灘を通過した低気圧は我邦の存亡に多大の影響があったのである。もし当時元軍に現時の気象学の知識があったなら、あの攻撃はあるいはもう数ヶ月延期したかもしれない。
日露戦役の際でも我軍は露兵と戦うばかりでなく、満洲の大陸的な気候と戦わなければならなかった。日本海の海戦では霧のために蒙った損害も少なくなかった。こういう場合に気象学や気候学の知識が如何に貴重であるかは世人のあまり気の付かぬ事である。
欧洲大戦が始まって以来あらゆる科学が徴発されている。気象学の知識を借りなければならぬ事柄も少なくないようである。例えば毒ガスの使用などでも適当な風向きの時を選ぶは勿論、その風向きが使用中に逆変せぬような場合を選ばなければならない。本年四月十日と五月十二日に独軍の使用した毒ガスは風向き急変のために却ってドイツ側へ飛んで行ったという記事がある。また四月英国の閉塞隊がベルギー海岸のドイツ潜水艇の根拠地を襲撃した場合にも、味方の行動を掩蔽するために煤煙の障屏を使用しようとしたのが肝心の時に風が変って非常の違算を来たしたという事である。これらの場合に充分な気象観測の材料が備わっていて優秀な気象学者がこれに拠って天候を的確に予報する事が出来れば如何に有利であるかは明らかである。
また一例を挙げると、三月十六日パレスタインで強風が砂塵を立てているに乗じてトルコの駱駝隊を襲撃し全滅させたという記事もある。その他各戦線にわたって天候のために利を得また損害を受けた実例は枚挙に暇ないほどある。ことに飛行隊の活動などは著しく天気の影響を受けている事は日々の新聞記事に徴しても明らかである。
ドイツ側は勿論、聯合軍側でも気象学者がどれだけ活動しているかについては寡聞にして何らの報告にも接しないが、ドイツのごとき国柄では平生から推して考えてもほぼ想像は出来る。必ずこの方面にもぬかりなくやっているに相違ない、敵国側の観測材料を得る事にも苦心しているかと想像される。ことにツェッペリンの襲英などに際しては気象状態に最も慎重な注意を払うは勿論であろう。それには英国側の観測が重要であるから、在英独探中にはこの方の係りも必ずあるだろうと想像される。
ついこの頃の雑誌で見ると、英国の気象局長ショー氏は軍事上に必要な顧問となるために同局の行政的事務を免除され、もっぱら戦争の方の問題に骨を折る事になったとある。これはむしろあまり遅きに過ぎると思われるが、いったい英国の流儀としては怪しむに足らぬかもしれない。ドイツでは一八九九年以来高層気象観測所を公設し、ことにカイゼル自身がこの方に力瘤を入れて奨励した。カイゼルの胸裡にはその時既に空中襲英の問題が明らかに画かれていたと称せられている。これに反して英国で高層観測事業が一私人ダインスの手から政府に移ったのはずっと後の事であった。また近頃エールシャイアのある地に航空隊の練習場を設けかかった。あらかじめ気象学者の意見を徴すればよいのに、工学者や軍人だけで土地を選定しいよいよ工事を始めてみると気象方面の不都合な点が出て来て中止する事となり、約五百万円くらいの金を棒に振ったという事である。『ネチュアー』の記者はこれについて大いに当局の迂愚を攻撃しているのは尤もな事である。
近頃またアメリカでは飛行機で大西洋を飛び越し、運送船の力を借らず航空隊を戦場に輸送しようという計画がだいぶ真面目に研究されており、それについては大西洋の気象という事が重要な問題になるのである。この事については『ローマ字世界』の十二月号に詳しく述べるつもりであるから御参照を願いたい。
日本軍がシベリアへ出征するという場合でも、気象学上の知識は非常に必要である。彼の地における各時季の気温や、風向、晴雨日の割合などは勿論、些細な点についても知識の有無に従ってその方面の準備の有無は意外の結果を来たすであろうと考えられる。
底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「理科教育 臨時増刊号 戦争と科学」
1918(大正7)年12月10日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年11月2日作成
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