新学期行進曲
海野十三
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第一景 勉強組合
△騒然たる中学校の教室の音響──「やい亀井」「なんだ松岡」「随分黒いぞ」「黒くておかしいかい。やい白ん坊」「なんだ黒ん坊」などの早い会話のやりとりを遠く聞かせる。それに交って、床をドタ靴でふみならしながら、愛国行進曲を口笛で吹いているのが聞える。
△始業のサイレンの音──更に遠くに聞える。
△扉をドーンとついて、また新たに教室へとびこんで来る生徒の靴音、鞄を投げつける音、それに交って「あれ、おれの席はどこだ」「おい吉田吉田こっちだこっちだ」「やあ変だなあ、こんなところに僕の机が……」などと急口調の話声。
生徒蝦原 あっ先生だ……。
△扉がガチャリとしまる音
先生 えっへん
一同、たちまちしーんと静粛になる(間)
先生 (出席簿をバタバタ開けたりしめたりしながら)ああア皆さん。このクラスは相変らず元気者ぞろいじゃのう。夏休み中は、さぞやさぞ楽しいことであったろう。先生などは夏休み中、すこし気にかかることがあって(といってはっと気がつき)ああむにゃむにゃ、えっへん。──ああア、そこで新学期の始めに一つ、クラス全体に苦言を呈しておく。
△生徒大勢がガヤガヤと不安の気配
先生 ああア、どうじゃ、このクラスはなかなか元気者揃いであり、また中々無邪気者揃いであって、先生はよいクラスじゃと思っとるが、ああア、一つ感心せんことがある。それは──それはじゃ、近来宿題をやらせても大分出来が悪いし、試験をやっても、これまた答案の出来が悪い。どうもこれは困った傾向じゃ。
生徒一同。しーんとしている(間)
先生 (励声一番)これ思うに、このクラスの皆が戦争ごっこに夢中になっていて、勉強の方をとんと怠っているからじゃと思う。戦争ごっこ、必ずしも悪くはない。しかし勉強を第一とせんけりゃならん。お前たちはまずなによりも生徒であるのじゃからな。出征兵士は敵兵をたおすのが任務であるごとく、生徒は勉強するのが任務じゃ。お前たち第二国民が今勉強を怠って居ると次の時代に於いてこれがどんな風に響くと思うか。次の時代に戦争が起ったときにゃ、不勉強のおかげで敵軍を撃破するに足る優秀な戦車が出来なかったり、また優秀な飛行機が作れなかったりして、べそをかかんけりゃならん。つまり学問の力で外国に負けるぞ。まことに由々しき一大事ではないか。
廊下にあわただしき靴音、扉ひらく音。
給仕 (息をはずませながら)あ、大山先生。お宅から電話です。すぐお帰り下さい、ですって。
先生 (おどろき)ええっ、な、な、なにごとか起ったというのか。
給仕 先生のお宅で赤ちゃんが生れそうですって。
生徒一同、うわーっと喚声をあげ机を叩き床を踏みならす。
先生 えっ。とうとう始まったか。それはまことに由々しき一大事。
生徒一同うわーっ。
先生 これこれ(と生徒を制しながら)皆よろこんでくれ、先生のところでは十五年ぶりに、ついに赤ん坊が生れるのだ。神様が赤ん坊をさずけたもうたのだ。戦争で、尊い兵士は死ぬ、国力は減る、それを補うのは赤ん坊の誕生だ、笑い事ではない。先生の家には留守番がないのだ。ちょっといってくる、静粛にしているんだぞ。
先生の靴音去る、扉の音。
級長 まことに由々しき一大事か。
こんどは誰も笑うものがない(間)。
級長 ねえ皆。新学期早々、これはまことに由々しき一大事だ。僕たちは、たしかに生徒たる本分を忘れていたようだね。
生徒、賛否両論ガヤガヤ。
級長 どうだ皆、こうしようじゃないか。この由々しき一大事を突破するために、わがクラスは勉強組合というのを作ろうじゃないか。
生徒ガヤガヤ。
生徒 勉強組合ってなんだ。
級長 勉強組合というのはね、放課後、皆で学校に残るんだ。
生徒 残って、何をするんだ。
級長 残って、皆でその日習ったところを復習するんだ。復習するだけじゃない。委員をきめて、模擬試験をやるんだ。そして出来ない奴があったら、皆して分るとこまで教えっこするんだ。
生徒 放課後は運動したいね。体力をつけることも、第二国民には大事なことなんだぜ。
生徒大勢「そうだそうだ」
級長 じゃ夕飯がすんでから、誰かの家へ集ってやることにしよう。僕の家の会社に広い会議室があるから、お父さんにいってあそこを貸してもらおうや。
生徒 うまくゆくかなあ。
級長 きっとうまくゆくよ。
生徒 でも蝦原のような出来ないやつは、いくら教えたって出来やしないよ。
級長 なあにきっと、うまくゆかせるよ。僕にゃ、まだとって置きのいい手があるんだ。この手でやれば、どんなに出来ないやつだって、出来るようになるぜ。つまりこういう風に……。
場面一転する感じの出る音楽。
生徒ガヤガヤ。
遠く自動車の警笛、口笛を吹いている行人、など街の騒音。
級長 外が騒々しいね。暑いけれど、窓を閉めよう。
窓を閉る音。
生徒 あっ、出来た。これでいいんだろう。Xは5でYは3、Zは12さ。
級長 ええ、ちょっとかしてごらん、Xは5、Yは3で、Z……12か。よし答は合っている。ほら、キャラメル一個だ。
生徒 (よろこんで)ああサンキュウ、これでキャラメルは五ツ目だ。(と、口の中へ放りこんでピチャピチャなめる)やあ蝦原が泣いてらあ、蝦原、出来ないのか。
蝦原 (くすんと鼻をすすり)なんべんやっても出来ねえ。
生徒 ちぇっ、ちょっと見せてごらんよ。あれ、まだ二番じゃないか。
蝦原 ああ、そうだよ。僕なんか、まだキャラメルを一個しか喰べていないんだ。
生徒 そりゃ仕方ないよ。だってまだ一題しきゃ出来てないんだもの。今日代数の時間、君は飛行機の絵ばかり書いていたじゃないか、あれじゃ駄目だよ。
蝦原 なにが駄目だい。
級長の足音。
級長 ああっ、君たち喧嘩なんかしちゃいけないよ。
生徒 ねえ蝦原はやっぱり出来ないんだよ。まだ二番の問題で、ひっかかっているんだ。君教えてやり給え。
級長 よし。蝦原、どこまでやったんだ、あっ、これじゃ駄目なんだ。君は公式を忘れているんだ。だから出来ないんだ。さっき教えてやったじゃないか。Aの二乗、マイナス、Bの二乗を因数分解すると、さあどうなる?
蝦原 えーとAの二乗、マイナス、Bの二乗はえーとえーとえーえー。
級長 早く思いだし給え、おい蝦原、キャラメルを喰べたかないかい、ほらこんなにいい色をしているよ。
蝦原 喰べたいよ。それを喰べると、公式を思いだすかも知れない。
級長 駄目駄目思い出さなきゃ絶対にやらないよ。あっそうだ、君に頑張ってもらうため、おまけを一つつけるよ。ほらチョコレート一つおまけだ、チョコレート喰べたかないかい。
蝦原 喰べたいよ喰べたいよ、口の中にツバがたまってきたよ。ああたまんない、目の毒だ。目をつぶっちゃおう。Aの二乗、マイナス、Bの二乗はえーーと、えーと、AマイナスBの二乗……じゃないや、AマイナスBとそれからキャラメル、いやちがった。ええうーんあっ、そうだ、わかったわかった、AマイナスBとAプラスBの積だ!
級長 蝦原えらい! それでいいんだ。こんどはもう忘れちゃ駄目だよ、ほらキャラメルとチョコレートをやるよ。
蝦原 どうもありがとう(と早速ホオばり、口をもごもごさせながら)ああうまい、ホオペタがおっこちそうだ。
級長 公式を思いだしたら、問題を早く解いてしまいなよ。ほらここだ。AマイナスBがこっちにもあるから、AマイナスBでくくれるじゃないか。
蝦原 ああ本当だ。AマイナスBでくくってあとは、えーと3Aプラス2Bと、AプラスBか、ねえ、これから先、どうするの。
級長 いやんなっちゃうね。それで出来たんだよ、それが答なんだよ。
蝦原 えっこれが答かい、なあんだ。訳はねえや。うふふふ、代数ってなかなか面白いもんだねえ。
級長 あははは、蝦原の奴代数が面白いっていったぞ。あははは。
生徒 代数よりキャラメルの方がうまいだろう。
級長 えっへん、これは誠に由々しき一大事じゃ、勉強組合ばんざいだ。
生徒大勢、あはははと朗かに笑う。
街の遠くから、出征兵士を送る「天に代りて」の合唱近づき来る。
第二景 夢の中の模擬試験
音楽。夢の曲(トロイメライの如く)
受験生青木 はて見なれない所だなあ。どうして僕は今ごろ、こんな野原を歩いているんだろうねえ……おや、変だなあ。とつぜん目の前に、立て看板が出たよ。なんだ? 模擬試験場と書いてある。模擬試験なら、受けると自信がつくから受けてもいいんだが、どこにあるんだろうね。
女教師 もしもし青木さんここへいらっしゃい。
青木 はあ。……いつの間に先生はお出でになったんですか。ああ机も腰かけもありますね。ああ、わかりました。これが模擬試験場なんですね。
女教 さあ皆さん、揃いましたから問題を出します、ようございますか。或るところに卵売りのお婆さんがありましてねえ、若干個籠に入れて、町へ売りに行きましたの。最初の家では、卵の半数と一個の半分とを売りました。次の家では、残りの卵の半数と一個の半分とを売りました。それから最後の家で、残りの卵の半数と、一個の半分とを売って、それで全部売りつくしました。最初籠に入れてあった卵は何個だったでしょうか。但し、この卵売は卵を実際半分に割ったりしないで、うまく三軒の家に完全な卵を売りました。これを代数で解いて下さい。
青木 先生もう一度いって下さい。
女教 はい、もう一度申します……卵売りのお婆さんが卵を若干個、籠に入れて、町へ売りに行きました。最初の家では卵の半数と一個の半分とを売り、次の家では残りの卵の半数と一個の半分とを売って、最後の家で、残りの卵の半数と、一個の半分を売ってそれで全部売りつくしました。最初、籠にあった卵は何個だったでしょうか。但し卵は、いつも割らずに売りました。これを代数で解いてください。
青木 やあ面白いなあ。まるでナゾナゾの問題だ。これを代数で解けとは、ますます面白い。まず卵の総数をXと置いて、それから……。
女受験生房子 はい先生、できました。
青木 あれっ、もう出来た子がいるよ。
女教 はい房子さん、出来たんですね。どういう式を立てたか、そこで読みあげてごらんなさい。
房子 はい。まず最初の家で売った卵の数は、Xを二で割って、そこへプラス二分の一個です。これをまとめますと、分母が二、分子がXプラス一となります。仮りにこれをAと置きます。
女教 Aとおくのですか、それから……。
房子 さて、次の家で売った卵の数は残りの卵の半数ですから、XマイナスAを二で割ったものと、そこへ二分の一個を足したものです。このうちAは前に出ていますから、それを代入しまして、結局第二番目の家で売った数は分母が四、分子がXプラス一となります。これをBと置きます。
女教 それまではよろしい、それから……。
房子 最後の家で売った卵の数は、XマイナスAマイナスB、これを二で割ったものと、そこへ二分の一個を足したものですから、これは分母が八、分子がXプラス一となります。これをCと置きます。
女教 それで答は?
房子 Xイコール、AプラスBプラスCですからこれを解いてXは七個となります。
女教 御名算です。はじめ籠の中にあった卵は七個でした。
△音響、パチパチと大勢の拍手
青木 どうも驚いた。子供のくせに随分出来るんだなあ、僕はもっと代数を勉強しなきゃ駄目だ。あーあー教だんに別の先生が現われたぞ、今度はひげのお爺さん先生だ。
老教 これこれお前たち、わしの見るところでは、お前たちはどうも教科書に征服されたり、試験に呑まれたりしていてどうもいかんね。お前たちはもっとゆっくりした気持で勉強せんけりゃいかん。さあそこで奇抜な問題を出すぞ。この答案がうまく出来れば試験パスじゃ。これは立体幾何学の問題じゃ、えーと、「幾何学をもって幽霊の存在を証明せよ」どうだ分るか、もう一度いう「幾何学をもって幽霊の存在を証明せよ」問題はそれだけじゃ。
△音響、大勢がやがや。
老教 これ、しずまれ。おい青木、お前一つ解いてみろ。さあ立て、男らしく立て。
青木 はあ、幽霊を幾何で証明しろなんて、そんな変てこな問題は解けません。
老教 なんでもいいから立てというんだ。立てば、わしがここからそっと電波を出してお前に教えてやる。
青木 そうですか、教えてくれますか、はい立ちました。先ず平面の世界を考えます。おやおや、これはおかしい。ひとりでに僕の口がすらすらとしゃべりださあ。
老教 まず平面の世界を考えます。それからどうするんだ。先をしゃべれ。
青木 はい先生、平面の世界では縦横の長さはありますが、高さというものを知りません。僕達は立体の世界に住んでいるので、縦横、高さ、皆分っています。平面の世界の一例は静かな水面です。水の表面だけの世界を考えて下さい。そして、そこに住んでいる生物をも考えて下さい。
老教 よしよし、それから。
青木 今ここに卵が一個あります。この卵は勿論立体です。その卵を指でつまんで水面に近づけます。そしてそっと放します。さあ、どうなるでしょうか。もちろん、卵は水面を通りぬけて水中に落ちます。さあ、水面の世界の生物には卵が通りぬけるとき、これがどの様に見えるでしょうか。
老教 はて、どの様に見えるかなあ。平面の世界では、卵に高さがあることは理解できないのじゃから。
青木 まず最初、卵が水面に触れたせつ那を考えましょう。水面の世界では、これが一つの点としか見えません、何しろ、水面より高いところも低い所も見えないのですから。
老教 うむ、なるほど。
青木 そのうちに卵はだんだん水につかって落ちます。水面の世界ではこれがどんな風に見えるでしょうか。いきなり目の前に一つの点が現われたと思う中に、それが見る見るおおきく円形になって広がってゆく。そして遂にその円形が最大値に達すると、今度は逆に小さくなって行きます。つまり卵が半分以上水につかると胴が細くなるから、水面に接している面積が小さくなってゆくのです。その中に遂に点になり、そして消え失せます。水面の世界では、卵が落ちていったんだとは知らない。はじめは目の前に点が現われ、それが見る見る大きく拡ってゆくと見る間に今度はどんどん小さくなりはじめ、やがてぱっと消えて了った。何だか訳が分らないものを見た。これこそ予て聞き及んだ幽霊というものだろうと思うでしょう。
老教 ごたごたした云い方じゃが、まあそのへんだろうね。それからどうなる。
青木 それから……今度は我々の立体世界に現われる幽霊を証明します。我々人間は縦、横、高さの三つしか知らないが、今ここに、もう一つなにか人間の感じないものを備えている超立体世界があったとしましょう。この超立体世界の卵かなんかが、いま突然我々の目の前をとおりぬけたとしたら、それはどんな風に見えるでしょうか。まず、はじめはぽつんと点があらわれますね。それが見る見る膨れてやがてゴム毬のようになり、更にだんだんおおきくなって、ガス・タンク位になりました。と思うと、今度はどんどん縮みはじめて、あれよあれよといううちに、元のゴム毬位の大きさになり、やがてぱっと消えてしまいました。さあ人間はびっくり仰天、これをなんていうでしょうか「ああ、わしは今そこで幽霊を見たよ」って!
つまり、超立体世界のものが我々の立体世界に交わると、それが幽霊に見えるのです。
△幽霊の消える擬音と怪奇音楽よろしくあって……。
第三景 受験生の親達
△遠くでラジオが聞えだす。(浪花節か義太夫か)
受験生の母親 えー、頭足類はたこに、いいだこに、ま烏賊、するめ烏賊、やり烏賊の五つ。この頭文字を読むと、たいますや。えー次は、腹足類、これは四つ、あわびにとこぶしに、さざえ、たにし、この頭文字を読むと、あとさた。えー、たいますやに、あとさた……。
△この辺で大きな鼾の音が聞えだす。
母親 えー次は斧足類。蛤に蜆に……。
△鼾が一段と高くなる。
母親 あーら、なんでしょう。ああ鼾だわ。誰の鼾でしょう。お父さんはまだだし、ねえやは留守だし、するとーすると道夫かしら。あ、道夫だ。受験準備の勉強を怠って居睡をするなんて、まあ情けない人ね。
△音響、畳をけってたち、隣室の襖をあける。
母親 まーあ、道夫、なぜ居睡なんかするんです。そんなことじゃあ、高等学校の入学試験が受かりませんよ。さあ起きなさい。元気を出して。
道夫 ああっ、ああーっ。今日は睡いなあ、お母さん、今日は体操の時間にうんと駈足をしたんで、睡いんですよ。
母親 あーら、そうかい。困ったね。まだやらなければならない問題がうんとあるんだよ。一晩に七十五題はやるようにしないと、入学試験までにとても受験書を皆すませやしないわ。元気を出してよ。お母さんは拝むから。
道夫 だって睡いんですよ。脳髄がまるでよそから借りてきたみたいで、ちっとも働かないんです。
母親 まあ、いけないわねえ。じゃ仕方がない。頭を悪くしちゃだめだから、今日はもうお寝みなさい。ぐーっと睡るといいわ。睡眠剤をのんでやすむのよ。いいかい。
道夫 (いよいよ睡そうに)えーえ、あーあー、
△蒲団を出す音。母親は襖をしめて、もとの茶の間にかえってどさりと座る。
母親 本当に道夫に代ってやりたいわねえ、あたしなんかちっとも睡かないわ……さあ、もっと先を勉強しておきましょう。道夫がどの位勉強したかを験すのは、あたしが道夫以上に、何でも覚えてなくちゃいけないんだわ、一人子の母親って、誰でもこんなにやきもきするものかしら。(気分をかえて)えー斧足類は蛤に蜆に牡蠣、あさり、あげまき、帆立貝、赤貝、ばか貝。
△音響、格子ががらがらとあく。(父親の帰宅)
父親 なんだ。赤貝にばか貝か大変な御馳走だな。しかし、ばか貝は止してくれ。青柳という粋な名があるじゃないか。
母親 お帰りなさいまし。あなた、御飯はもうお済みになりましたの。
父親 どういたしまして。これから洋服をぬいで、そこの長火鉢の前で御馳走になるてえ順序でござんす。
母親 まあ……。
△洋服をぬぎ、洋服かけがちゃつく。同時に膳部の仕度の音、薬鑵、飯櫃の音。
母親 さあ、どうぞ。
父親 よお、どっこいしょ、と……ああ道夫はどうした。
母親 あのう、たいへん睡くて、脳髄がお豆腐のようになりそうだと、こう申しますので、お先に寝かしてやりました。
父親 おおそうかい。道夫も此頃受験準備で、可哀想な位つかれているね。すぐ寝かしてやったとは、お前にしちゃ大出来だ。
母親 さあ、どうぞ。
父親 ああ。山盛よそってくれ。ああ腹が減った。
△音響、茶碗を盆にのせる音。つづいて飯櫃をひらく音。
父親 おや、赤貝に青柳が出ていないぜ、おい、どうしたんだ。
母親 はい。大山盛です。
△父親、飯を頬ばる。
父親 赤貝に、青柳に……。
母親 あーら、いやですわ。あれはあたしが動物学の暗誦をしていたんですわ。
父親 (飯を頬張りながら)動物学だって。
母親 ええ。つまり、斧足類の動物と申しますと、蛤だの、蜆だの、あさりだの、それから赤貝やばか貝でございますの。
父親 なあんだ。御馳走じゃなかったのかい。それは一向つまらんねえ。(気をかえて)しかし、なぜお前が赤貝やばか貝を暗記する必要があるんだ。
母親 あなたア! あ、あ、あなたア!
父親 ななな、なあんだ。急に、か、金切り声など出しやがって。
母親 失礼いたしました。ではございますが、あなたは道夫に対し、たいへん冷淡でいらっしゃいます。道夫が、あの通り受験準備のため、好きなレコードをきくことさえよしていますのに、あなたは道夫の入学試験のことを、ちっとも心配しておやりにならないんですもの。
父親 冗談いうな。俺はどんなにか心配を──。
母親 まあ、あたくしの申すことをお聞きあそばせ。あたくしなんか、道夫と一緒になって受験勉強をしているのでございますよ。頭足類、腹足類、斧足類などを暗記しておりますのも、道夫以上に母親が知っていれば、道夫が発奮すると思うからでございますよ。それから、あたくしは、新聞の広告面を毎日隅から隅まで目をとおしまして、なにか新刊で優秀な受験準備書がありますと、すぐ本屋へとんで行って買ってまいります。そしてまずあたくしが読んでみまして、他の受験書に出ていない問題を選りわけまして、道夫に毎日毎日やらせているのでございますよ。あたくしは、いやしくもわが国において印刷になった練習問題なら、一度は必ず道夫にやらせておかなければ、枕を高くして寝られないのでございます。そのお陰で道夫は入学試験のとき、どんなに楽だか知れません。それほどあたくしが……。
それなのに──。
父親 おい御飯だ、お代りだ。
茶碗と飯櫃の音。
母親 あなたはあまりに冷淡です。
父親 ばかをいうな、お前が熱心であることは認めるが、そんなやり方は感心できない。
母親 とんだことを仰言います。
父親 なあに、本当のことをいっているんだ。無茶苦茶に暗記をしたり、それから、また無茶苦茶に受験書を買いあつめたりするのは愚の骨頂だよ。そんな詰めこみ主義は役にたたんばかりか、むしろ反対に害がある。常識上重要な原理さえしっかり覚えていれば、いいんだよ。受験書なんか、一冊で沢山だ。この間も勘定したら、お前は漢文の受験参考書だけでも二十七冊も集めていやがった。まるで蒐集マニアだ。
母親 蒐集マニアだなんて、まあひどい。あなたの原理主義なんかに従っていると、高等学校のあのむずかしい問題なんか、一題だって出来やしませんわ。
父親 お前がそんなに勉強しているのならちょっと尋ねるが、颱風が近づいてね、いいかい、真東から風が吹いているんだ。しからば颱風の中心はどの方角にあるか。
母親 颱風の中心ですって、そんなこと試験問題集に出ていませんわ。
父親 それ見ろ、知らないじゃないか。これからの試験にこういう常識上知っておかなければならぬ問題が出るんだぞ。参考のため教えてやろう。いいかね、真東から風が吹いていれば、颱風の中心は南南西よりちょっと西よりの方角にあるんだ。大ざっぱにいうと、風を背にして立って左手を斜前へ出す。それが大体、颱風の中心を指す。どんなものだい。
母親 へへん、さよでございますか、じゃあこんどはあたくしが伺いますわ。東洋歴史で、中国で辮髪令が出たのは何年でございますの。
父親 知らん。
母親 あーら、御存知ありませんの、あれは西歴で一六四五年でございますわよ。ほほほほ、じゃあ赤壁の戦は何年でございますの。
父親 知らんよ。
母親 えへん、西歴二〇八年。ではネルチンスクの条約は。
父親 一々覚えとらん、そんなものは年代表をめくればすぐ分る。
母親 でも御存知ないのでは、入学試験に合格しませんわ。
父親 ばか、そんな無駄な暗記は意味がないよ。辮髪令の年号なんか何の役に立つんだ。
母親 だからあなたは冷淡だと申すのですわ。万一辮髪令の年号が試験に出て、道夫が答えられなかったその時は、落第でございますよ。一人息子を落第させるなんて、あなたは鬼か蛇か、実になんという……。
隣室の襖ががらりと開く(道夫起き出る)
道夫 お父さんもお母さんも、やかましくって、僕ねむくなくなっちゃった。久し振りに、レコードでもかけようかな。
母親 これ道夫。
父親 なあに、かけさせておやりよ。お父さんはお前を慰安してやろうと思って、そこにレコードを買ってきたよ。
母親 まあ、あなた。一体どんなレコードを買っていらしったの。
道夫の勉強の邪魔を……。
父親 まあ、そう心配しなさんな。おれは道夫を喜ばせ、且つ愉快に勉強させてやろうと思って、これを買って来たんだ。これ一名親心のレコードという。道夫、さあ、かけてごらん。「算術の歌」というラベルの方だよ。
道夫 はい「算術の歌」の方ですね。
△レコード「算術の歌」賑かに廻る。
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行
底本の親本:「十八時の音楽浴」ラヂオ科学社
1939(昭和14)年5月5日発行
初出:「家庭コント 新学期行進曲」JOAKラジオドラマ台本
1938(昭和13)年9月30日放送
※「西歴」は底本通りです。
入力:土屋隆
校正:田中哲郎
2005年4月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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