明治開化 安吾捕物
その十九 乞食男爵
坂口安吾
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この事件をお話しするには、大きな石がなぜ動いたか、ということから語らなければなりません。
終戦後は諸事解禁で、ストリップ、女相撲は御承知のこと、その他善男善女の立ち入らぬところで何が行われているか、何でもあると思うのが一番手ッとり早くて確実らしいというゴサカンな時世でしたが、明治維新後の十年間ほどもちょうど今と同じように諸事解禁でゴサカンな時世でした。ソレ突ケヤレ突ケなどというのは上の部で、明治五年には房事の見世物小屋まで堂々公開されたという。女の子のイレズミもはやったし、男女混浴という同権思想も肉体の探究もはやり、忙しく文明開化をとりいれて今にもまさる盛時であった。
当時は南蛮渡来のストリップのモデルがなかったせいか、または西洋音楽も楽隊も普及しておらぬせいか、ハダカの西洋踊りは現れなかったが、今のストリップと同じ意味で流行したのが女相撲であった。号砲一発の要領でチョッキリ明治元年から各地に興行が起ってみるみる盛大に流行し、明治二十三年に禁止された。
一座が組織立っていたせいか、今でも一番名が残っているのは山形県の斎藤女相撲団であろう。斎藤という人は信濃のサムライあがりだが、山形ではじめて女相撲を見て、こいつはイケルと思った。そこで自分の女房キンとその妹キワ、モトという三人を女相撲へ弟子入りさせ、やがて自分で一座をつくり、勇駒という草相撲の大関を師匠に四十八手裏表の練習をつませたうえ、全国を興行して人気を集めた。この一座の人気力士は遠江灘オタケという五尺二寸四分二十一貫五百の女横綱。特に歯力の強さでオタチアイをガクゼンとさせたそうだ。二十七貫の土俵を口にくわえ、左右の手に四斗俵を一ツずつぶらさげて土俵上を往来するという特技のせいである。
斎藤一座は女力士の数が多く、粒も技術も揃い、興行の手法に工夫があったから名声を博したが、女の日下開山となると、女相撲抜弁天大一座の花嵐にまさる者はない。体格も力の強さも比較にならなかった。
当時の女相撲は十五六貫から二十一二貫どまりであるが、女相撲だからデブで腕ッ節の強いのが力まかせに突きとばせば勝つにきまっていると思うのは早計である。斎藤一座は特に四十八手の錬磨にはげませたから、例の遠江灘オタケ二十一歳六ヶ月、五尺二寸四分二十一貫五百匁が歯力ならびに腕力抜群でも、実は西の横綱だった。東の横綱は富士山オヨシ二十六歳八ヶ月、五尺二寸五分、体重はただの十六貫二百である。体格の均斉ととのい、手練の手取り相撲。遠江灘オタケの重量も馬鹿力もその技術には歯が立たなかった。
ところが、抜弁天一座の花嵐オソメとなると、段が違う。十六の年から三十一まで十六年間一座の横綱をはり通して、女相撲の禁止令で仕方なく廃業したが、五尺七寸二分三十二貫五百匁。たしかにデブには相違ないが、骨格も逞しく、胸には赤銅の大釜のみがきあげた底をつけたようで、両の乳房も茶碗をふせたように形よくしまって、土俵姿は殊のほか見事であったという。同輩が押しても突いても動きもしない。あべこべにオソメがチョイと肩を押すと吹ッ飛ばされてしまう。草相撲で名を売った諸国のアンチャン関取もたいがい歯がたたなかったそうだ。
遠江灘オタケは口に二十七貫の土俵をくわえたそうだが、花嵐オソメにとってはそれぐらいお茶の子サイサイであったろう。しかし二俵も三俵もくわえて見せる方法がないから、口の芸当はやらなかった。
その代り、四斗俵を七ツまとめて背にかついだ。四俵をタテに、その上にヨコに三俵のせて縄でからげて背負う。一俵十五貫なら百五貫だが、戦後のカツギ屋風景を見ると小ッチャクて、ヤセッポチのお婆さんやオカミサンが二十貫ちかいような大荷物をかつぎあげてそろって潰れもせずに歩いているから、女の背中と腰骨は特別なのかも知れない。死んで焼くと男と同じタダの白骨には相違ないが、女骨プラス慾念の場合には何かと何かを化合すると特殊鋼ができるような化学作用をあらわすらしいや。
そうしてみると花嵐オソメさんもさほどのこともないかも知れんが、七俵をからげてヤッと背負う。縄を胸にガンジにからめて、両手に一俵ずつのオマケをぶらさげて土俵を五周十周もしてみる。これだけでオタチアイのドギモは存分に抜かれているのだが、その次ある事が余人の及ばぬ荒芸なのである。
土俵中央に立ちどまり、土をふんまえて呼吸をはかり、満身に力あふれて目玉に閃光がさした瞬間、
「ウウエーイッ」
ゴ、ゴ、ゴオーッと嵐が起って土俵上空を斬り狂う。腰の一と振りで七俵の四斗俵が縄をはずれて四方にとんだ。今やダラリとゆるんだ縄だけを胸にかけたオソメさんが、何事もなかったように土俵中央に青眼の構え。つまり、背をまるめ、首を俯向け気味に、七俵を背負っていた時と同じ姿勢で青眼にハッタと構えているだけである。
かくて数秒。不動のうちに見栄がきまる。千両役者の芝居のようにいいところだ。オソメさんの両の手にはまだ一俵ずつ残っているのだが、今やこんなのメンドウくさいやと手のゴミを払うようにほうりだして、一礼して引きさがるという次第であった。
この花嵐オソメさんを一枚看板の抜弁天一座が、芝虎の門の琴平様の縁日をあてこんで五日前からかかっていた。
今ではすたれてしまったが、芝の琴平神社と人形町水天宮の縁日は東京随一の賑いであった。浅草の観音様や大鷲神社の賑いもこれには及ばなかったものである。琴平神社の縁日は毎月の十日であった。
縁日を間にはさんで前に五日後に七日と二週間ちかく興行したが、縁日の当日はとにかく、成績は上乗ではなかった。ストリップ的にうけている見せ物だから、花嵐の怪力の実績だけではうけなかったのである。
ところが一夜この小屋へ花嵐を誘いにきた若い女があった。夜目にハッキリは見えなかったが、上品なキリョウのよい女であったそうだ。
「ちょッとした座興のために花嵐をかりたいが」
と一夜十円という相当な高給で花嵐をつれだした。日中でもあんまり客足のない小屋だから、夜の興行は休んで死んだようにヒッソリしている。一座の親方も花嵐も大よろこびで応じてくれた。
土地不案内の上に暗闇で分らないが、歩いで二三十分ぐらい、静かな邸内へ案内された。空家のようにヒッソリと、無人の家だ。おスシのモテナシをうけ、刻限まで寝ていてかまわないと云われるままに、そこは全然無神経な女関取、グウグウねむる。何時ごろか分らないが、さッきの女に起された。
みちびかれるままに邸をでて、手をひかれて歩いた。あッちへ曲り、こッちへ曲りして立ち止ったところで女はチョウチンをかざして、ささやいた。
「この石を起してちょうだい。シッ! 声をだしちゃダメよ。唸り声をたててもダメ。これを上へ起すのよ」
大きな石だ。大の男が五人がかりでも動かせそうもない大石。花嵐はこの一ツしか特技がないのだから、力技と分ればあとはナニクソと大石に挑みかかって無我夢中。大地にくいこんだ大石をついに起してしまった。
「そのまま、ちょッと待って」
女はチョウチンの火を消した。そしてシャガミこんで何をしたか分らないが、やがてまたチョウチンをつけて、
「石を元通りにしてちょうだい。手荒らな音をたてず、静かにね」
満身の怪力を要する難事業だが、花嵐はこれもやりとげた。
再び女に手をとられて、あッちへ、こッちへとグルグル歩きまわったあげく、
「この石を背負うのよ。今度は、背負って、ちょッと歩いてちょうだいね」
これも相当な大石だが、さッきの石にくらべれば楽なもの。言われるままにそれを背負う。
二三十間歩いて、命じられた場所へ静かに石をおろした。また手をとってみちびかれてしばらく歩くうちに、大通りへでた。
「まッすぐ行くと虎の門よ」
と女が道を教えてくれて、別れた。
翌日、芝山内の山門の前、道のマンナカに大石が一ツころがっていた。酔ッ払った奴のイタズラではなさそうだ。二三十間はなれた道端の庚申塚の石だが、それをここまで運ぶには大の男の四五人がかりで全力をあげてやっても危いような仕事だ。
「まさか天狗のイタズラでもあるまいが」
と、納所坊主が寄り集って大ボヤキ。この大石をどかさないと、人が通れない。それを見て、どうかしましたか、と人が集る物見高さ。
「へえ、この石を、ねえ。オイ。天狗のイタズラだってよ」
というわけで、たまたまこれが女相撲の小屋まで伝わったから、それじゃア花嵐が妙な女にたのまれて動かしたのはその石かも知れないと気がついた。このことが口から口へと伝わって、
「花嵐が狐に化かされて何百貫の大石を芝山内へ持ちこんだそうだぜ」
と評判がたった。やがて珍聞の記事にもでた。そのときはもう女相撲の一行はこの土地をひきあげていた。そしてこの出来事は忘れられてしまったのである。
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日本橋にチヂミ屋という呉服問屋があった。先代が死んで、ようやく四十九日がすぎたばかりというとき、小沼男爵が坂巻多門という生糸商人をつれてやってきた。
小沼男爵はチヂミ屋の当主久五郎(二十八)の女房政子(二十一)の父親だ。商人が男爵の娘をヨメにもらッたというのは当時としてもハシリであったが、先代にはそういうオッチョコチョイの気風があって、商家の内儀に男爵令嬢は当世風、商人もゆくゆくはコンパニーなんぞをやって外国風を用いなくちゃアいけねえなんぞとワケも分らずに福沢諭吉先生なんぞを尊敬したアゲクが倅に貧乏男爵の娘をヨメにもらってやった。
小沼男爵というのはさる大名の末の分家、石高一万か二万の小ッポケナ小大名で、先祖代々の貧乏大名。維新で領地を失うとその日から路頭に迷うようなシガない殿様であったが、忠臣や名家老の現れるようなハリアイのある大名じゃないから、主家と一しょに老臣も足軽も路頭に迷って、とる物はとり、ごまかす物はごまかしてしまうと、主人をおッぽりだしてみんなどこかへ行ってしまった。
小沼男爵の旧領の出身で東京へでて産をなしている筆頭がチヂミ屋だから、これに泣きついて借金を重ねたあげく、行末長く借金に事欠かぬ胸算用をたてて、娘をヨメにやった。
先代に輪をかけてオッチョコチョイの倅久五郎、英学塾へ学んで、諸事新式を心がけていたから、美人の男爵令嬢オーライであると諾然一笑して女房にもらったが、諸式に思想がちがって、夫婦生活は全然シックリしなかった。文明開化はこういうものであると心得ているせいか、甚だ不満なところもあるが、男爵令嬢たる女房の尻にしかれてマンザラでないような気持もあった。
父が死んで、自分の代になった。親ゆずりの稼業をつぐ者にとっては、これは最大の一転機である。親が死んだら、ということは物心ついての彼らの最大の仮定なのだから、このときから人間がガラリと変ってもフシギではない。オッチョコチョイの半生にもその時の含みをのこして色々の複雑な下地ができている。半生がその転機にそなえる下地のようなものでもあった。
小沼男爵が坂巻多門という生糸商人をつれてきて、
「この男はウチの家令の坂巻典六の兄に当るもので、身許は確かな人物だから、信用して話をきいてやってくれたまえ」
とひき合わした。
家令の坂巻典六は久五郎の父が要心していた曲者だった。貧乏華族を承知で仕えているのは大バカか、下心のある曲者か、どちらかにきまっていよう。そして見たところバカではないらしいから曲者だというのが、先代の商人らしい判断であったから、これという曲者の確証があるわけではない。
その兄だときいて、久五郎もひそかに要心は忘れなかった。多門の話はこうだった。
「昨年末以来、生糸が暴落に暴落を重ね、私は年末の今に比べれば相当の高値の時に多量に仕入れたために困っております。ところがペルメルという横浜の外国商人が百斤四百五十ドルの高値で三十五万斤という大量の契約を結びたいと申しているのですが、いかんせん、支払いが品物の引渡し完了の上、となっているので、私には手がでない。私の手もとには年末に仕入れたものが二十万斤あるのですが、あとの十五万斤を仕入れる金もないから、有利な契約と分りながらも手がだせないのです。私が年末に仕入れたときですら、百斤二百七十円、今では百八十円という大安値ですから、四百五十ドルなら大そうなモウケですが、貧乏人というものはみすみすモウケを知りながら見逃さざるを得ないというメグリアワセになりがちなものです」
そこで、あとの十五万斤を仕入れるモトデを貸してくれというタノミなら久五郎は一も二もなく拒絶の肚をきめて話をきいていた。
ところが多門の話はそうではなくて、自分はペルメルとの契約はあきらめるから、代りに久五郎が契約してはどうか。その代りに、自分の手もとにある二十万斤を今の値の百八十円ではなくて自分の買った当時の二百七十円で買ってもらえまいか。買い値で売れば自分のモウケはないようだが、その金で今の安値のものを仕入れて騰貴を待てば一応モウケはとれるから、というのである。
「横浜へ御案内しますから、ペルメルに会ってごらんなさいまし。支払いは品物引渡し後と云っても、困るのは貧乏人の私だけで、お金持のあなたなら、残りの十五万斤を百斤百八十円の安値でいくらでも買えるのですから、大モウケは目の前にぶら下っているのです」
本当なら耳よりな話だが、商家に育った久五郎、もとより口先一ツで信用はしない。とにかく横浜へ同行しましょうということになった。
ペルメルに会ってみると、話はたしかに確実で、多門の云った通りであった。
証文は三十五万斤で、百斤につき四百五十ドル。百斤ごとに一箱につめて、三千五百箱、その引渡しが全部完了の上で現金支払いをする。
「但し、ですね。日本人生糸商人、ずるい。箱の中に元結つめる。もっと悪い人、石炭、鉄つめる。そして、百斤のうち十五斤、二十斤ごまかす。もしもそれしたら、一文も払いません」
ペルメルは要心深げに目を光らせてジッと久五郎の顔を観察して云った。即答をさけていったん久五郎は東京に戻った。そして調べてみると、生糸が暴落を重ねているのも事実であるし、日本の市価と関係のない金額で外国商人が取引するのも例のないことではなく、むしろ、それがあるために生糸貿易というものが巨大な利益をもたらす場合が多いということなどが分った。
そこで久五郎は内心大いによろこび、あとの要心は多門にだまされない分別だけであるから、彼と会って、
「あなたの買い値二百七十円は高すぎる。今の値は百八十円だから、二百円といきましょう。それでも四万円という大モウケではありませんか」
「ペルメルの契約を失う損にくらべれば、十万二十万のハシタ金は物の数ではありますまい。あなたにとっては、私に十万二十万もうけさせても、ノミに食われたぐらいのものじゃありませんか」
たしかにそうだが、理に屈して値切らないようでは商人で身は立たない。けれどもあとのモウケが確実ならばと久五郎も察して、二百五十円で手を打ってやった。その代りに、と久五郎はニッコリ笑って多門を見つめて、
「私の支払いも品物引渡し完了の後ですよ。ですから、明日にでもここへ品物が届き、中を改めて間違いなければ、即座に支払いします。一々中を改めた上で、ですよ。元結や石炭や鉄がつまっていてはペルメル氏同様私もこまることですから」
むろん多門も承知した。そしてあとの十五万斤は百八十円の時価で買ってくれることにきまった。
多門から二十万斤、百斤一箱で二千箱とどいたから一々中味を改めた上、五十万円支払った。これを横浜のペルメルに渡す。ペルメルも中を改めて、満足を表明した。八月末日までに品物の納入完了という契約であるが、早いほど良いからというペルメルのサイソクであった。
そこで久五郎は多門にあとの十五万斤をサイソクしたが、多門からは返事がない。久五郎は心配のあまり直接多門を訪れてサイソクすると、
「それが、あなた、ここまで暴落すると、一様に口惜しくなるのが人情で、歯をくいしばって手離しやしません。大ドコが思惑で買いつけてジッと待っているせいもあるらしいし、やがて騰貴も近かろうと皆が考えているわけですよ。ですから、あなた、私が手離した二十万斤を今の値で買いもどすこともできやしません」
「しかし、約束だから……」
「それはムリですよ。あなたが御自身で売り手を探してごらんになると分りますよ。暴落だ、安値だと云ったって、売り手がなくちゃア仕様がありませんよ。買うなら、高くつきます。そこが売り手の思うツボなんですよ。まかりまちがえば、無限に高くつきまさアね。相場はそうしたものですよ」
そこを日参し、拝み倒して、どうやら五万斤だけ二百二十円で買い集めてもらった。十日のうちにあとの十万斤がなんとかなりそうだという。十日といえば八月末日にほぼギリギリというところ。
それを当てにしていられないから、久五郎自身も産地へ走って、あッちで一万、こッちで三千と買い集めて、ようやく五万五千斤ほどまとめた。東京へ戻ってみると案の定多門からは梨のツブテ、十万斤の半分ぐらいはと踏んでいたのに、全然ダメだ。久五郎は泣きほろめいて多門を詰問しカケ合ったがダメの物は仕方がないから、ギリギリの八月末日に自分の買い集めた五万五千斤だけ横浜へ届けて、契約の期限は今日だが、あと十日だけ待ってくれ、残りの四万五千斤はそれまでに必ず納入するから、と懇願した。ペルメルはそれに返事をせずに新着の五万五千斤の中味を調べていたが、
「今度の品物は今までの二十五万斤の品物とは違う。今度のは全部クズ糸です。クズ糸を一部分まぜてごまかすこと、日本商人よくやる手です。それは契約違反である。契約書にも書いてあります。ところが、あなた今日もってきた五万五千斤は、クズ糸を一部まぜたものではない。全部が全部クズ糸だけです。あなたは私を外国人と思い、だます悪人ですね。今日のところは、もう、よろし。帰りなさい。そして、返事、まちなさい」
昔から生糸商人は生き馬の目をぬく商法をやりつけている。素人が買いつけに行くのは大マチガイの大ベラボーだ、何をつかまされるか分らないと相場がきまっている。だから、外国商人も生糸貿易には特に警戒して、これは甲州糸だ、島田の糸だ、上州糸だ、諏訪糸だ、前橋の玉糸だと一目で産地も見分けるぐらい知識を持っている。ましてクズ糸をつかまされるようなバカな外国商人は居なくなったが、久五郎は素人の悲しさクズ糸の見分けもつかなかった。
ペルメルは久五郎を契約違反で訴えた。約束の期限までに納入しなかったことと、五万五千斤のクズ糸をつかませようとしたカドによって、五十万ドルの罰金を要求した。裁判の結果、罰金二十万ドルでケリがついたが、納入の二十五万斤とクズ糸五万五千斤はただ取られで、一文の支払いも受けられない。
久五郎は生糸の買いつけのためにいろいろのタンポで借金までしていたのに、一文の支払いも要求できないどころか、二十万ドルの罰金まで取られることになっては、完全に破産であった。
どうあがいても、破産以外に辿る方法がなかったのである。
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あとで聞いたところでは、ペルメルは生糸商人泣かせの札つきの悪者だったそうだ。日本の生糸商人のずるいのと相対的に、外国の生糸商人も悪いのが多かった。生糸貿易にかけては素人のフリをして、期限ぎれや、わざと粗悪品をつかまされるように仕向けて、契約違反で訴えて、品物はタダ取りの罰金はモウカルというモトデいらずの商法の大家が多かったのである。ペルメルもその一人だが、あるいは多門と組んでいたのではないかと考えられた。
ここに、おどろいたのは小沼男爵であった。むろん多門が久五郎を一パイはめてモウケルことは心得て、少からぬ割前をとって、多門を久五郎に紹介してやったのだ。多門の最初の利益十四万円の半分ぐらいの割前はとっていた。
しかし、久五郎が破産する結果になろうとは考えていない。チヂミ屋は彼の生活を保証する銀行みたいなものだから、これに破産されては元も子もなくなる。
小沼男爵の考えでは、さし当って多門がもうけ、つづいて久五郎がもうける。つまり多門の言葉を信用していたのである。そして久五郎がペルメルから全額支払いをうけて大モウケのあかつきにはタンマリ割前をとる胸算用であった。
意外の破産に驚いたが、こうなってしまえば仕方がない。彼は久五郎を面罵して、
「キサマはなんというマヌケのバカヤローだ。ヌケ作の破産者に男爵の娘が女房などとはもってのほかだから、つれて帰る。娘をキズモノにされたのは残念だが、財産がなくなっちゃア慰藉料もとれない。しかし、全然一文なしではあるまい。何かあるだろう。この離婚願いに印をおして、何かだせ」
一しょに来ていた男爵の長男周信、これが立派な身ナリをカンバンに悪事を商売にしているシタタカな男で、血も涙もない奴だから、
「タンポにはいってないのは芝の寮だけだ。日本橋の店も土地もそッくりタンポにとられているから仕様がないが、カケジや焼物なんぞに何かないかな」
ちゃんとタンポまで調べあげている。土蔵をひッかきまわしたが目ぼしい物もない。すると政子が、久五郎を睨み下して、
「この男はずるい悪党よ。破産して一文ナシだなんて世間には吹聴して、虎の子を肌身はなさず隠しているのよ。探してごらんなさい。身につけていなければ、どこかに隠しているのよ」
周信は逃げようとする久五郎にとびかかり、逆手をとって捩じふせ、妹と二人がかりで着物をはぐと、まさしく腹巻の中に五万円の札束がギッシリつまっていた。
「どうだい。ひどい野郎じゃないか。五万円も身につけて隠していやがる。気がつかなければ持って逃げるツモリだから、狡猾きわまる奴だ。これは政子の慰藉料には不足だが、その一部分にとっておく。何万斤という生糸を買いつける予定にしていたほどだから、人から借りた金にしても、モッと現金を隠していやがるのだろう。実にふざけた奴だ。お前は心当りを探してみよ」
「ええ。そういうインケンな男ですよ。シラッパクレて、コソコソと利口ぶったことをしたがるのよ。もしもそれに私たちが気がつかないと、私たちの後姿に舌をだして嘲笑うのよ」
兄と妹の家宅捜索は真剣そのものだった。むろん父の男爵もモウケルことで子供に劣るような人物ではないから、せッせと物色して目ぼしい物をかきあつめる。
タンスのヒキダシは一ツ一ツ放り出す。ひッかきまわす。机のヒキダシも、押入れの中のものも放りだしてひッかきまわす始末であった。
久五郎の妹の小花(二十)が腹を立てて、兄をせめた。
「何をボンヤリしているのですか。他人にわが家をひッかきまわされて、ボンヤリ見ているオタンチンがあるものですか。追い返すことができないのですか」
「破産してしまえば、オレのウチも、オレの物もあるものか。踏みつけられるだけ踏みつけられるのをジッとこらえているだけがオレにのこされた人生なんだ。ジッとこらえるほかに、何ができるものか。一ツや二ツのことにジタバタしたって、オレが失った人生は取り返されやしない」
「破産したから離婚だの慰藉料をよこせだのと仕たい放題に振舞われても、刀をぬいて斬りつけることもできないのね。魂からの素町人のマヌケのイクジナシ。豆腐に頭をぶッて死んじまえ。こんな情けないマヌケのイクジナシが私の兄だなんて、まッぴらよ。私も離縁するから、そう思ってよ」
久五郎は長火鉢によりそって端坐して、人々のなすがままにまかせて放心しつづけていた。プンプンしている妹と同じ程度に、家宅捜査の親子三人組も真剣で気魄がこもっていてワキ目もふらない。
三四日のうちに用がなくなる番頭も女中も、もうこのウチの出来事なんぞはどうだってかまわない。考える必要は自分自身のことに限られたときまって、そッちの方が火事だろうと泥棒だろうと無関心という落ちつき方、たった一人、ハマ子というちょッと渋皮のむけて小股のきれあがった小娘の女中が、ニヤニヤと、主家の騒動がタノシミらしく、主人の前をスーと行ったり戻ったり、三人組の捜査隊の勤労の右側と左側を行ったり、戻ったり、なるほど見世物として眺めれば、タダとは云いながら興趣つきない味があろう。
どことなく不潔なような妙に情慾をそそる小娘だ。久五郎は冷い夫婦生活の中に居住してからというもの、なんとなくこの小娘に情慾をそそられていたが、生れつき男の誘いを待つことだけを一生の定めとしているような不潔な色気が、さて自分が破産しておちぶれてみると、不潔で卑しいどころか、自分よりも高貴でミズミズしくて清らかで利口にすら見えるから、改めて心をひかれた。
政子などという男爵令嬢はもうどうでもいいが、この小娘すら自分の手のとどかぬ存在となったのかと考えると、自分の人生は八方フサガリの感きわまるものがある。女房め、男爵め、周信め、妹め、と何を怒ったって始まりやしない。もしも真に何かを始めるとすれば、憎むべき奴らを叩ッ斬るのが総てだくらいは妹の奴めに云われなくッとも決まっている話じゃないか。しかし総てを失った奴が仇を叩き斬ってなんになるものか。
三人組は政子の調度類や分捕品をまとめて荷造りした。そして離婚の書類一式にそれぞれ久五郎に捺印させ、慰藉料として五万円その他の物品を支払うからそれでカンベンしてまけてくれという書類にもハンコを捺させた。むろん久五郎は今さら取り乱さずにハンコを捺した。
「フーム。落着き払っていやがるな。まだまだ相当の大金をどこかに隠してやがるに相違ない。由緒ある小沼男爵家の姫を傷物にして五万のハシタ金ではすまないが。これ。顔をあげろ」
周信は指で久五郎の額を押した。すると横からとびだしてその手をつかんで腹立ちまぎれに振りまわしたのは小花。
「兄さんに指一本ふれたら、私が承知しないわ。由緒ある小沼家とは何のことよ。生れつきの貧乏男爵。乞食男爵。イカサマ男爵。一家総勢力を合わせて人をだまして世渡りするのが先祖代々から伝わってきた家伝のイカサマ根性なのよ。乞食! 泥棒! こう言われて怒れないのか。ヤイ、乞食男爵の倅」
「バカ!」
周信は小花の横ッ面に平手打ちをくらわせた。小花はワッと泣いてとびかかった。しかし、一突きで突きとばされて壁際まで素ッとばされてしまった。
すると、小花の素ッとんだところに小娘が立ってニコニコと見物している姿をようやく人々は発見した。主家の娘が自分の足もとへ素ッとんできてころがったが、この小娘は介抱なんぞする気配はまったくない。あんまり面白そうに眺めている顔だから、
「なんだ、キサマは?」
と周信が睨みつけたが、小娘は平然たるもの。周信の睨みの威力はてんで小娘の上に及びがたいらしく、小娘の珍しそうな笑い顔にはミジンも変化が起らない。政子は憎らしがって、
「ここの女中よ。薄汚い、助平ッたらしい小娘ねえ。あの男はこの小娘に気があるのよ。ちょうど似合っているのよ」
ハマ子は珍しそうに目を上げて、感心したように政子の顔を眺めた。政子はいかにもバカにされたように感じたらしく、
「あっちへ行って! 女中の分際で勝手に茶の間へきて立っているのは失礼よ」
ハマ子はさらに感心したらしく政子に見とれていたが、やがて念仏か呪文でも唱えるように、
「立ってお預けチンチンは乞食男爵だけ」
ニッコリとイヤに色ッぽく笑って、ふりむいて、立ち去った。大横綱と取的の勝負のように、てんで問題にならない。乞食男爵の正体バクロして一族三名小娘に投げとばされたように見えた。
「それ。人足をよんで、荷を運ばせろ」
周信はいまいましげに政子に目くばせして云った。荷車をひいた人足をつれて来ているから、ただちに積み込みがはじまる。周信は積み荷に一々視線をくばりながら、政子に向って、
「オイ。オレのあれはどこへ包んだ? マチガイなくあるだろうな」
「私の着物類と一しょに、この包みの中」
「どれ?」
周信は中を改めていたが顔色が変った。
「ないじゃないか」
「どうして? アラ、ほんと。ないわ」
「たしかにこの中へ入れたのか」
「いいえ、これと一しょにタンスへ入れておいたのよ。その中のものをそッくり一包みにしたから、この中にある筈だと思うんだけど」
「じゃア目で確めてみなかったのか」
「このフロシキをひろげた上へタンスのヒキダシを順にぶちまけただけよ。そしてそのまま包みを造ったんですから、こぼれる筈はなし、有るものと信じていたわ」
「きっとそのタンスか」
「まちがいないわ」
どう探してもそれが見当らないと分ると、周信の顔色の変りよう、一気にして不安におののく野獣のような落着きのない挙動に変った。いっぺん積み込んだものを引きずり下して、全部改めてみたが、更に奥の部屋々々へ走り、政子に指図して、あれを倒し、これをひろげ、ひッくり返したり、まくってみたり、タタミが帳面のようにめくれるものなら、それすらもタンネンにめくりかねないほど気ちがいじみていた。
「畜生め! あれを盗んだのは誰だ。今に思い知らしてやる!」
ついに盗まれたと断定して、家の者全員を一室にカンキンして、家の中を全部しらべたが、どこからも目当ての物は出なかった。いッぺん調べた部屋も安心できないらしく、引返したり、走り去ったり、上を改め下をくぐり、邸内くまなく調べたが、ついになかった。全員の身体検査もムダであった。
「人に盗まれる筈のないものだと思うが、お前の記憶ちがいじゃないか」
こう云われて政子は気色ばみ、あわや兄妹の喧嘩になりかける形勢に、年功の周信、これはマズイと悟ったらしく、にわかに切りあげて、三人組は荷車と一しょに引き上げてしまったのである。
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久五郎と小花は今はのこされた唯一のもの、芝の寮へ移りすんだ。女中のハマ子だけが、自分の荷物をぶらさげて一しょについてきた。女中はいらないからと小花がことわったが、
「いいわよ。タダで働いてあげるわ。私の食費もだしていいわ。気が変れば、どこかへ行っちゃうから、それまで置いてね」
もう友達同士のような口々きいて、なれなれしいものだ。見たところ十六七の小娘に見えるが、実は二十二、小花よりも二ツも年長なのだ。すでに友達と見たせいか、本当の年齢を打ちあけた。
「二十二だって! お前、奉公のとき十七ッて云ったじゃないの」
「へへ」
「いやらしいウソつきね。じゃア子供を三人ぐらい生んでるのでしょう」
「そうは見えないでしょうねえ」
と落着き払ったものである。小娘だと思っていたときはフテブテしいイヤらしいところが目立って見えたが、本当の齢を知ってみると、それもうなずける。それになんとなく頼もしい感じもするから、総てのものに見放されて孤立してしまったような境遇にハマの存在は力づよく思われもした。兄と妙なことになりそうな不安はあるが、破産した今となっては、あのマヌケのオタンチン野郎に不足の女房ですらもないらしいではないか。
ところが寮へ移ったその晩から、久五郎とハマは誰はばからぬ夫婦生活である。小花は腹にすえかねて、
「なんて悪党なのよ、あんた方は。昨日まで私をだまして何食わぬ顔はどういう意味? 私は他人だというわけなのね」
「そうじゃないよ。オレとハマがこうなったのはだいたいのところ昨日からで……」
久五郎はてれたのかモグモグと言葉をにごした。
「ウソですよ。私だって子供じゃないわ。昨日からの仲でないぐらいは、昨晩の様子で分りますよ」
「それがその以心伝心なんだな。オレが思い、アレが思い、たがいにそれがこゝに移り住んでピッタリ分ったから年来の仲のように打ちとけたのだが」
と久五郎は赤くなって口ごもった。ハマは黙々とニヤついて、悠々たるもの。やがて久五郎はわびしく苦笑して、
「しかし、お前もオレに隠して乞食男爵の倅とできていたじゃないか」
小花はグッと胸にこたえたらしいが、
「兄さんは知っていたの?」
「イヤ。先日、お前と周信が奥の一室で言い争っているのを偶然きいてしまったのだ」
小花はまッかになった。
「こんなふうになるらしい予感もあったし、羞しくッて隠していたのです。あの人にだまされたのは私ばかりじゃないわ。モッと身分の高い人も、その他、大勢いるのよ」
「誰だい? 身分の高い人とは?」
「云っちゃ、いけなくッてよ。あの人がウッカリ私に威張って教えただけの秘事だもの。男ッて、そんなことまで偉そうに言ってきかせたがるのね。でも、羞しいわね。兄さんに聞かれたなんて」
「ナニ、ハマ子もきいていたぜ」
「じゃア、あなた方は隣室でアイビキしていたのね」
「あの最中にアイビキなんぞできるものか。オレがふと気がついたら、猫のように音もなく、ハマ子が傍に立っていたのだ。まア、以心伝心はそのせいかも知れないな」
と久五郎は赤くなって口ごもった。バカのように満悦の態がイヤらしかったから、小花は癪にさわって庭へとびだした。
しかし、この侘び住居も安住の地ではないらしかった。どうやら新しい生活になれそめたころ、乞食男爵の三人組がそろって姿を現して、
「隠し持った品々オタカラの類をそろそろ取りだしたころではないかい。ちょッと探させてもらうから一室へ集まってもらうぜ。先の書附にも慰藉料の一部分として五万円とこれこれの品を受けとったとチャンと書いてある通り、残りの分をもらう権利があるのだから仕方がない。この家屋敷をそッくり貰うこともできらアな」
半日がかりで邸内クマなく探しまわった。店の方から持参の日用品とガラクタの類しか現れないが、身体検査で再び久五郎の懐中から三千円なにがしを発見して、
「隠すより現るるはなし、じゃないか。先日の家捜しの時にはなかった三千円だ。してみれば、まだまだ、あるな」
ジロリと睨んで、三千円を懐中に入れた。彼らは立ち去りかけたが、まだミレンがあるらしく、隣室でごてついて、
「やっぱり、ここにはないのよ」
「じゃア、どこだ?」
「典六。薄々感づいているのは、アレだけよ」
「フム」
周信は考えこんでいるらしかったが、
「典六が最後にチヂミ屋へ行ったのは、いつのことだ」
「いつが最後とは覚えがないけど、ウチの用でチョイ〳〵来ていたわ」
「チョイ〳〵行くようなウチの用がありやしないじゃないか」
「フフ。私に用があったのさ。私のプライベートな部屋へ。今だから、申上げますけど、そんなわけよ。それぐらいのイタズラせずに、あんな埃ッぽいウチに住んでられやしないわよ」
「バカ!」
周信の怒気は意外にも噛みつかんばかり真剣だった。
「キサマ、典六に喋ったな」
「いいえ。それだけは信じてちょうだい。典六なんか道具だと思ってるだけだもの」
政子は冷く言い放った。彼らが本当に立ち去ると、小花は溜息をもらした。
「怖しい人たちね。姉さんが坂巻をひきいれてそんなことしていたのを、兄さんは知らなかったの」
「知らぬは亭主ばかり」
憮然と言葉もない久五郎の代りに、ハマ子がつぶやいた。
「じゃア、女中たちは知っていた?」
「ええ、薄々は。本当に見たのは私だけかも知れないけど」
「あんたという人は跫音がないのね。薄気味がわるい!」
「そうかしら」
ハマ子は上を向いてフッフと笑った。小花は見るもの聞くもの癪にさわらざるはない無念の思い満ち溢れて、
「ねえ、兄さん。乞食男爵一味が狙ってるように、たしかにナイショでお金を隠しておいてるのね。あの五万円といい、今度の三千円といい、あの人たちの云うように、本当はない筈のお金じゃありませんか。それに、私まで貧乏のマキゾエを食わせておいて、私にナイショのお金を隠しておくなんて、卑怯千万だわ。隠したお金をだしなさいよ。その半分は私に下さるのが当然よ。それを持ってこのウチを出るわ。あなた方のオツキアイは、もうタクサンよ。隠したお金をだしてちょうだい」
「隠したお金なんて、もうないよ」
久五郎は赤らんでうつむいて、羞しそうに云った。小花は怒った。
「ウソです。隠したお金がなければ、兄さんの性分で、そんなに落着いていられる筈はありません。兄さんは、ずるい人ねえ。昔からその正体は感じていたけど、今まではそのたびに否定しようと努めていたのよ。とても利己的で、冷酷なのねえ。そして、とても陰険そのものよ。乞食男爵のような悪党一味だって、一家族の者だけは腹をうちあけて助け合ってるわ。兄さんは、親兄弟をも裏切って自分一人の利益だけはかる人よ。そしてウワベには色にも見せずに、いろいろな企みができる人ねえ。怖しい悪党よ。生れながらにずるくッて、一見薄ッペラなトンマな坊ちゃんらしい外見を利用する本能まで授ってる人だわ。顔をあからめて口ごもるんだって、生れつき授ってる手じゃないの。もうそんなことで、だまされないわ。私だって、いずれ、家探しするわよ。当り前よ。顔をあからめてごまかす代りに、せめて、マキゾエにしてスミマセン、ぐらいの口上でも述べたら、どう? むろん口上ぐらいで、許せないわ。兄さんは乞食になっても、私の生活を保証する義務があるわよ。我利々々のダマシ屋の卑怯ミレンなイカサマ師だわねえ」
小花は喚きたてたが、久五郎が例の生れながらに授った手という奴で、うなだれて、よわよわしげに侘びしい笑いを浮かべている様子を見ると、ノレンにスネ押しと思ったか、プイと立って外へとびだした。
そして、どういうことが起ったのか、そのまま家へ戻らなかった。陰鬱な隠遁老夫婦は妹の行方を探したり捜査をねがったりするような生き生きと希望のある人生に縁を絶たれた心境だから、それをそのままほッたらかしておいたのは自然なことでもあった。
★
それから二ヶ月ちかくすぎた日、周信がたった一人ものすごい剣幕でのりこんできて、
「貴様ら、まだ品物を隠しているな。オレには見透しだ。みんな分っているのだ。今度こそは許さぬ。明日は早朝から、何十人の大工やトビの者をつれてきて、天井の板も、ネダも、羽目板もひッぺがして家探しするから、そのツモリでいろ。今度こそは洗いざらい、隠しものを一ツあまさず、見つけだして取りあげてやる。ハダカにして尻の穴まで改めてやるから、風呂につかって垢を落しておけ」
大入道が火焔にまかれて唸っているような怖しい剣幕でがなりたてて、土を踏みやぶるように跫音あらく戻って行った。
せっかくの世捨人も、これでは世を捨てて暮せないから、額をあつめて、
「どうしたらいいでしょうね」
「仕方がない。アイツがああ云った上は、明早朝やってきて尻の穴まで改めるに相違ないから、垢のあるのが羞しいと思ったら一風呂あびてくるがよかろう」
「冗談ではすまないわよ」
世捨人たちはぜひなく明早朝を期していたが、夕方になっても、大工もトビも現れないし、周信も姿を見せない。翌日も、その翌日も、十日すぎ、一月すぎても尻の穴を改めにやってこない。人の骨までシャブル悪党にしては珍しいことだと思いつつ、日ごと怖しい訪れを待つ気持も次第に薄れて二月すぎた。
周信が現れないも道理、彼は失踪して行方不明であった。二ヶ月とは余りのことだから、父の男爵から捜査ねがいがでる。相手が男爵家だから疎略にもできず、一人の巡査が命令をうけて、彼と交渉のあった友人縁者片ッぱしから廻る役を仰せつかい、やがて世捨人夫婦のところへも訪問の順がまわってきた。なるほど行方不明なら現れないわけだ。しかし、あの怖しい鬼のような男がまさか人に殺される筈はあるまいから、人に顔を見せられないような悪事にとりかかり中かも知れない。しかしウカツに鬼の悪口を言いたてると後日のタタリが怖しいから、当りさわりのないことだけ云っておいた。
「小沼周信という人に、たとえば不良仲間の仇敵というような相手はおりませんかな」
「私たちはあの人のその方面の生活には無関係ですが」
「なるほど。つまり、御当家は小沼氏の妹のお聟さん。離婚はなさッたが、以前はそのお聟さんでしたな。まア昨年まで小沼家と最も親しい御当家ですから、何かお心当りはありませんか。たとえば、恋人というような婦人関係……」
久五郎は妹のことを思いだして、むろんこれは言うべき筋ではないときめたが、思えば無頼漢の周信の失踪すらも巡査が探しまわるぐらいなら、妹の失踪を誰かが探してもフシギはない。
「どうも、恋人の心当りなんぞは、親類ヅキアイというウワッツラの交際だけでは皆目知れるものではありません。これは小沼周信氏に関係あることではありませんが、実は当家でも妹が失踪して行方が分らなくて困っております」
こう打ち明けたことから、ここに改めて小花の失踪も問題となり、こうなると誰しも一応周信と小花を結びつけた考えもしてみたいのが当然で、二人の結び目を辿ってみると意外なことが分ってきた。
それが分ったのは政子の口からで、ヘエ、あの女の子も失踪中ですか、と政子は意外な面持であれかれと考えたすえ、
「そうねえ。兄と小花さんは一時関係のあったこともあるけど、恋人というほどではないわね。チヂミ屋が没落しなければあるいは結婚したかも知れないけど。それは私の結婚と同じように処世的、形式的なものね。華族と平民の結婚ですもの、ですから、この二人が駈け落ちするなんてことはバカらしい考えですし、他の何かの理由で兄があの人を誘いだして失踪する場合も考えられませんね。二人の行方不明は無関係よ。小花さんは家が没落して暮し向きが不自由だから、大方インバイにでもなったんでしょう」
こういう話だ。政子は本当のところをズケズケ云ってるのだが、警察の方では男女関係アリとくれば、さてこそと二人を堅く結びつけて考えはじめるのも理の当然。そこで二人を結びつけ、小沼家とチヂミ屋を結びつけて洗って行くと、両家の関係、チヂミ屋の悲運や、小沼男爵一族の悪魔的な素行の数々も分ってきた。そこまで分ったが、それと失踪と結びつくものが見当らない。
政子は上級の警官の密々の訪問をうけて、兄の私行について突ッこんだ質問をうけた。その質問をきくと、兄の悪行の九割までチャンと調査ずみと判定されたから、もうこの上は何を隠すにも及ばないと結論し、この失踪に関係アリと信ずべき最大の秘密をきりだした。
「失踪の手ヅルがあるかも知れない心当りは一ツしかないのですが、そこへ私をつれて行って下さい。しかし、約束して下さい。あなた方は自分勝手に調べてはいけませんよ。私とそこのウチのある人とを秘密に会見させていただきたいのです。横から口をだしさえしなければ、皆さんが立会ってもかまいません」
「事情が分ればそれも結構ですが、それはなんというウチですか」
「羽黒公爵家。私の会いたいお方は、公爵家の御曹子英高氏夫人元子さま。もとは浅馬伯爵家の令嬢で、女学校では私の上級生、私を妹のように可愛がって下さった姫君でした」
大変な名が現れてきた。羽黒公爵家は日本有数の大名門。うかつに警官の近づける家ではない。けれども政子の申出であるから、上司に報告し、慎重に協議の上、しかるべき私服を一人政子のお供につけて、両婦人の会見に立会わせることにした。
羽黒元子夫人への政子からの面会を申しこむ。そのとき、ひょッと顔を見せた羽黒家の女中の一人を認めると、アッと叫びをあげて、政子の顔色が変ってしまった。
「どうしたのですか」
「奇妙なことになったわ。わけが分らなくなったのよ。ちょッと考えさせて……」
甚だしく意外におどろきはてた顔色。すると、女中の方でも政子の訪れに気がついて、一時は隠れたが、やがて心をきめてきたらしく、静かに姿を現した。そして、するどい語気で言った。
「私をかぎつけて来たのね?」
「いいえ。若夫人元子さまにお目にかかりに。女中のあなたは退っていなさい」
女中は政子を睨みつけて消えた。同行の私服はタダならぬ気配におどろき、
「あの女中とはお知り合いですか」
「チヂミ屋の娘、小花」
胸の怒りを叩きつけるように、政子は答えた。意外にも、失踪の小花であった。
元子夫人は突然の訪問にその日の面会を拒絶し、二三日中に知らせをあげるから、改めてお目にかかりましょう、その日をたのしみに致しておりますという侍女からの返事であった。
★
意外なことになった上に、事件の正体が益々雲をつかむようだから、この役は紳士探偵新十郎が適任だと決して、その日のうちに古田巡査が新十郎にこの旨を伝えた。
会見の日時の通知が元子夫人から届いたので、政子に同行して、新十郎は羽黒公爵邸へ赴き、会見に立ち会った。むろん機敏な新十郎は、警察が調べた以上に多くのことをその日までに調べておいたが、公爵邸の会見で知り得たことは、外部からでは調査の届きがたい意外千万な秘密であった。
政子の質問はこう始まった。
「まだ兄からの脅迫状を受けとっておいでですか」
「受けております」
「最近はいつごろ?」
「三週間ほど前のほぼ二タ月もしくは一ヶ月に一度の割で受けております」
「要求の金額ひきかえに、秘密の品物は常にまちがいなく受け取られましたか」
「まちがいなく受けとっております」
「元子さまから兄へ当てて重ねて要求あそばした提案があるにも拘らず、それと無関係な脅迫がつづいているのをフシギに思いあそばしたことはございませんか」
「悪事をなさるお方のフルマイに筋目が立たないからとフシギがるほど子供でもございません」
「兄は三ヶ月前から行方不明ですが、それでも脅迫がつづいておりますね」
「行方不明のお方は他人を脅迫なさることができないと仰有るのですか」
「兄は半年ほど前から、元子さまを脅迫すべき秘密の品物の包みを失っているのです。それにも拘らず脅迫はくりかえされ、元子さまは金と引き換えに秘密の品を入手していらッしゃるのです。すると……」
「どなたの手に品物があるにしても、私にとっては同じことです」
「そうでしょうか」
政子はちょッと考えていたが、
「当家でハナ子とおよびの女中はいつから働いておりますか」
「当てにならない記憶ですが、三四ヶ月、四五ヶ月ぐらい以前からかも知れません」
「女中の身許を御存知でしょうか」
「当家の者の中にそれを存じてる者が他におりましょう。杉山さんのお話では、当家出入りの呉服商人が身許を保証して頼んだものとか承わっております」
「杉山さんとは?」
「私の御相談相手の御老女」
「出入りの呉服商とは、日本橋の伊勢屋?」
「そうです」
「たぶんそうと思いました。あの女中は日本橋の呉服問屋チヂミ屋の娘小花と申す者で、一度は私の妹でした。なぜなら、半年以前まで、私はチヂミ屋の総領のおヨメでしたから。小花さんは同じ町内の伊勢屋の娘とは同窓で、特別親しいお友だちでした。そして半年前までは、ひょッとすると小花さんが兄のおヨメになるかも知れない人でした。私がチヂミ屋の総領と結婚した理由と同じように、チヂミ屋の財産と私の生家と濃いツナガリをもつ必要のためにです。天下名題の貧乏男爵家ですから。ですが私の結婚だけでほぼ事足りていたようですから、兄は結婚の気持もなかったかも知れません。チヂミ屋は半年前に没落しましたから私は離婚を命じられましたし、兄は申すまでもなく結婚いたしませんでしたから、結果は兄の本心通りに現れたと申せましょう。もともと手近かに在るから手をだして弄んでいただけなのです。小花さんがなぜ御当家を選んで女中となったか、なにかフシギなツナガリはございません?」
話の途中から元子夫人の美しい顔が蒼ざめて、はげしい衝撃のために、身のふるえの起るのが認められた。
政子のきびしい視線は、そのいたましい様を見てたじろぐことがなかった。そして猟犬がクサムラをわけて突き進むような鋭い追求の語気をはり、
「脅迫の手紙の文字や文章の変化にお気がつきませんでしたか」
「それを疑う理由がありましょうか。脅迫をうける私の身には、悪い人の片目を思いだすのも怖しいばかりです」
「新しい脅迫状を見せて下さい」
「用がすみ次第、地上に跡形も残らぬようにと、目をそむけ、目をつぶりながら、ですがイノチをこめてタンネンに焼きすてております。もう、何も訊いて下さいますな。そのような怖しいことを。もう、一切……」
元子夫人の声はシドロモドロとなり、フラフラと立ち上った。気をとり直して、必死に力をこめて、直立した。そして、やがて静かな別れの一礼を政子に与えて歩きかけようとしたが気をとり直して新十郎の方へ一足すすんで、
「結城新十郎さまと仰有いましたね」
「左様でございます。探偵とは正義のために戦うことを務めとし、いかなる人々の秘密をも身命にかえて守ることを誇りと致す者です」
「改めてお目にかからせていただくことが御不快ではございませんでしょうか」
「いいえ、その御懸念はアベコベです。私から奥様にいつか再びお目にかからせていただく申出が無礼に当りはしないかと実は気にやんで差し控えておりましたのです」
「ぜひともお目にかからせていただきとうございます」
「小沼さまをお宅までお送り致すと、そのあとはずッと約束も予定もございません」
「私にはお構いなく。美男子の紳士探偵さん。公爵家の美しい若夫人とお似合いよ」
政子は大声で言いたてながら立上った。それを見て政子を送るのを無意味とさとってか、新十郎は軽快に応じて、
「私の半可通の紳士ぶりがおキライのようですね。我ながら悪趣味と見立てていますよ。今後あなたにつきあっていただく時は、本性通りの三百代言の風体に致しましょう。しかし、あなたの御本心は、素性正しいホンモノ紳士ならばお好きのようですね」
「お気の毒さま。心底から、紳士大キライ。貴婦人大キライ。私がタンテイをカモにするときは、お涙でも、お色気でもないわね。ピストルか短刀よ。サヨナラ」
と言いすてて政子は二人にふり向きもせずサッソウととび去った。
★
元子が周信の脅迫をうけているのは、公爵との結婚前に周信と恋を語らった秘密の時期があるせいだった。女学校時代、元子は年少政子を特殊な愛情でいたわる親しい関係にあったために兄の周信とも知りあい、彼の巧妙な口説のトリコとなって一時は身も心もささげたことがあった。愚かではあるが、夢のような時代だ。そして、そのころ胸の思いをせッせと書き送った周信への手紙が、今や脅迫の原料に用いられていたのだ。周信の御親切な報告によると、それは合計して百十数通にも及んでいるそうだ。
周信から脅迫状のたびに指定の場所へ使者を差し向けて、一通二千円でひきかえる。いつも一通ずつだった。こうして大方十五六通は買い戻したであろう。生れたときから十一二まで乳母として附きそってくれた杉山シノブという老女が公爵家での新婚生活を案じて婚家へついてきてくれた。それが脅迫の秘密をうちあけた唯一の相談相手で、お金を渡す使者の役目も果してくれるのだが、二千円の金策では例外なく苦労がつきまとい、いつも二人の胸をいためる問題だった。
いっそ全部一まとめに売ってくれさえすれば、十万円でも二十万円でも構わない。一時の恥をしのんで生母にすがる勇気があれば、金額の多少なぞはさしたる問題ではなかろう。この方がむしろ苦痛を早めに救う策と思われたから、その旨を周信にたびたび提案した手紙を送ったが、周信はその提案をうけつけてくれなかった。一とまとめでは味もタノシミもないし、第一、全部一とまとめに渡すとなると、とかく善人どもという奴、策をかまえて、手紙の束をまきあげておいて引き換えの金をくれないことが起りがちだが、一束そっくりまきあげられて残りの証拠がないから、もうインネンがつけられない。左様なわけで、まアせいぜい一通ずつ末長くオツキアイ致しましょう、というような憎らしい返事であった。
この秘密を人にうちあけることができるなら、すべての人々に打ちあけて救いを乞いたいような気持であった。新十郎との再会をねがったのも、救いの力がほしい一念のせいだ。しかし元子は怖い悲しいの思いで、脅迫状も半分目をづぶって走り読みにするほどだから、新十郎の機密を要する問いに答えて手ガカリを与えてくれる役には立たない。
新十郎は元子を慰め、必ずや近く朗報の訪れがあるでしょうと力を与えて、老女杉山に会った。
「手紙とお金の引き換えの方法は?」
「指定の場所も方法もあちらの代人も一通ごとに変っているのです。周信自身が現れたことはなく、代人は時に流し三味線の女だったり、車夫だったりで、二度と同じ者が現れたことはありません」
「脅迫状を読んで、筆者の変化にお気づきではありませんか」
「そんなことがあろうとは思わなかったせいか、ついぞ気づいたことはございません。手紙の文面を頭にたたみこむと直ちに焼きすてることを急ぎも致します」
「脅迫状がだいたい何月何日ごろに到着したか分りませんか」
「それは私の日記に、人様には分らぬ符号でみんな印してありますから調べてお知らせ致しましょう」
「それは実に幸運でした。私の仕事では、そのようなちょッとしたことから春の訪れを見る例が多いのですよ。最後に一ツだけ、特にメンミツに本当の事実を思いだして教えていただきたいのですが、若奥様とあなたのほか、もしや他のどなたかにふとこの秘密を口外なさったことはございませんでしたか。それを慎重に思いだしていただきたいのですが」
「他に一人だけ、たしかに、私が口外いたしました。私の一子で、杉山一正と申します。手紙とお金との引き換えの使命を無事果すのが不安のために倅に同行護衛をもとめたのが事の起りですが、わが子の自慢とお笑いかも知れませんが、親の慾目ながらも、これにまさる頼もしい男の心当りもなく、秘密をうちあけて裏切ることのない心当りの者も他にないと思い定めたすえに、生活の幅も目の届く幅もせまい女の判断ではありますが、わが子一正にだけは秘密のあらましをうちあけてしまったのです。まさか母を裏切ることがあろうとは信じられませんが」
「杉山一正と仰有るのは、拳法体術の達人と名の高い杉山先生ですか」
「その杉山一正です」
「立派な御子息をお持ちでお幸せですね。先生は御人格の高さでも有名なお方ですね」
日記を調べて脅迫状到着の日附の書附をもらい、最後に小花に会った。これも美人だが、いかにもきかぬ気の、気象のはげしさが人相にうかがわれる娘。元子夫人が直々に、
「結城さまには私から御依頼した筋があるのですから、何事もつつまず御返事して下さるように頼みます」
と言葉をかけてくれたから、対談はスラスラと、彼女の家出に至るまでのテンマツは私がすでにお話し致したところだが、それとほぼ同じことを逐一物語ってくれた。
「あなたが当家へ住みこんだにはワケがあろうと思われますが、それを語っていただけませんか」
「案外単純な理由だけです。自活の必要にせまられたこと、自活の途は女中奉公ぐらいしか思い当らなかったこと、女中になるなら御当家なぞへと思った程度のことからです。御当家の若奥様が私に似たお気の毒なギセイ者のお一人だとは周信さんから承わったことがありましたのでそれが心にしみてもいましたが、どうせ奉公するなら大家にかぎるとの考えで、大家と申せば今までの行きがかりのせいで心当りの筆頭にはまず御当家を思いだしも致しましょう。御当家がたまたま私が身をよせた伊勢屋さんのオトクイ様ときいて、益々なつかしく、御当家ならばね、とふと希望をもらしたのが案外にも本当の話になったのでした」
「御当家へ奉公ののち、周信さんの話の通り若夫人がたしかに彼の昔の恋人だと思い当るようなことが有りましたか」
「それはついぞありませんでした。お側近くお仕えしたことがめッたにありませんでしたし、直接のお言葉をいただく例もまずなかったと申してよろしいほどですから」
「兄上とハマ子さんとは寮へ引き移るまでは特に親しい素振りがなかったのですね」
「主人と女中の関係以上に親しいという素振りはついぞ気づかなかったのです。私のウカツかも知れません。奥の間で私と周信さんの言い争っているのを兄さんと一しょにハマ子もきいたと申しているのですから、私の気づかなかったのがフシギだったのかも知れません」
「その奥の隣室には、兄さんはともかく、女中が勝手にふみこむイワレがないと仰有る意味ですね」
「女中が勝手に来ていけない部屋とは申しませんが、男主人がそこに居ると知りながら、御用でよばれたワケではないのに奥の部屋へ参るのは不審です。ハマ子が単に女中ならば主人の姿を見て振向いて戻ったでしょう。もっとも当日のハマ子はウロウロと面白そうに諸方の部屋々々の騒ぎを見物に歩き廻ってはいましたが」
「奥の部屋まで見物にでかけるような特に変ったことはなかったのですね」
「私と周信さんとが奥の部屋へ姿を消したのに気がついて、それを見物に近づいたのかも知れません。また兄さんも私たちの立聞きが目的かも知れませんね。小心で何もできないお坊ッちゃんに見え、またそのようなフリをして見せることが本能のような兄ですが、実は立聞きだの、隠し物だのと、人の目を盗むことにかけてはとても素ばしこくて天才的な術にめぐまれているのです。その早業を見破られて後の処置にも天分があって無限にそらとぼけて、ただなんとなく顔をあからめて世なれない坊ちゃんらしくゴマカシおおす手法なんぞ、みんな生れつきの本性なんです」
「あなたは日記をつけていますか」
「いいえ。つけたことがありません。ですが特に変った出来事の日附でしたら、日記につけずに頭に記憶しておく程度の代用のハタラキは持ち合わせております」
「例えばこの半年に起った大変化のうちで、どのような出来事の日附を覚えていますか」
「たとえば、小沼家の方々が政子さんを離婚させて連れて戻るために乗りこんできて、ドッタンバッタン家中を引ッかきまわして荷づくりして引き払った出来事が十二月十七日。また私と周信さんが言い争ったのもその日です。周信さんが土蔵へ目ぼしい品物を物色にでかける姿を認めたものですから、引き止めて、奥の間へ誘って詰問し、言い争ったのです。その日はせつない日、口惜しい日、そのために忘れられない日でした。十二月二十二日には、兄と私とハマ子と三名、寮へ引越し。一月の十三日に、小沼家の親子三名が寮へ現れて、そろそろ新居に落ちついて隠し物もとりだしたころだろうと憎いことを言いながら家探しの日。家探しの三人が帰ったあとで、私は兄さんと争って寮をとびだしました。家出の記念日です。その日から伊勢屋さんが親切にひきとめてくれるままにズルズルとお世話になって、一月二十八日に御当家へ奉公にあがりました。ざッとこんなことがこの半年の私の大きな出来事でした」
「ではあなたに代って私がそれを文字の日記にしるしておきましょう」
と、新十郎は日附と出来事とを書きとめ、さて元子夫人にイトマ乞いして、
「脅迫状がきましたらイの一番に私に知らせて下さい」
とたのんで別れをつげた。
★
さてその足で久五郎ハマ子の侘び住居を訪れた。世捨人だから言うまでもなく日記もつけていないし、俗事について多く語ることも好まない。何をきいても手応えがなくて手こずった。小花から聞き得た限りの共同の生活中の出来事をたよりにこんなことが有りましたねときくと、そう、そんなこともあったようだ、たしかに、というような返答ぶり。
「いつぞや周信さんたちが凄い剣幕で家探しに現れたそうですが」
「そうでしたッけなア。そう。そうでしたなア。明朝大工とトビをつれてきて天井もハメもネダもひッぺがして人間の尻の穴も改めてやるから待ってろなんて、あの時は、私たちふるえあがりましたっけ」
「それはいつごろのことでしたか」
「さア、春さきの陽気になりかけたころ、三月か四月ごろかなア」
「小花さんの失踪後ですね」
「そうだね。小花はそのときは居りません。なぜってお互の尻の穴を心配し合ったのはたしかに私たち夫婦二人だけ。ほかにお尻がなかったんだねえ。ところが案じたほどのこともありませんでした」
「お尻の穴は無事でしたね」
「いえ、周信ほどの悪党が堅く約束しておきながら現れなかったのです。そしていまだに現れません」
「明朝の大捜査をふれにきたのは、周信さん一人なんですね」
「そうですよ」
「男爵と子供たち三人ぞろいで家探しにきて、あなたの懐中の三千円を奪って立ち去ったことがあるそうですが、それとは違う日のことなんですね」
「アア、そう、そう。いつか、たしか三千円とられたことがありましたよ。その日は寮へ越して間のないころ、たしかに覚えがありますよ」
「ですが、またその日には、ほかに大そう重大なことが起ったのを覚えていませんか」
「え? ほかに?」
久五郎はビックリして新十郎の顔を見つめた。いかにもフシギそうだ。思いだせないらしい。
「その家探しのあとですよ。小花さんが家出して、行方不明になったのが」
「エ? 家出? 小花が行方不明に? ハア成程。そうですか。その日小花が行方不明に」
「あんまりお心にかかる出来事ではないようですね。すると、その後日に、再び周信さんが明朝の家探しのフレを廻しに現れたことがあるのですね。尚そのほかにも周信さんの訪問はありませんでしたか」
「ここへきて、たしか、その二度だけです」
「すると一度目が一月十三日なんですが、二度目の時の日附が御記憶にありませんか」
「日附なんぞは、今日の日附もハッキリ分りやしないのだから、以前のことは分りません。だが、たしか、どこかに女相撲がかかっていたとやら聞きましたね」
「私はこのへんの出来事には不案内で皆目存じていませんが、女相撲がどこかにかかっていたのですか」
「どこかにかかっていたそうですね」
返答はたよりなかった。
世捨人にイトマを告げ、次に海舟先生の町内、氷川町に住む小沼男爵家を訪れて、政子に会って先程の非礼を詫びたのち、
「脅迫原料の手紙の束は、あなたが兄さんから預って御自分のタンスに保管していたのでしょうね」
「よくお分りね。そして兄さんが必要のとき一通ずつ渡してました。ですが、私自身はそんなミミッチイ稼ぎに興味なかったのよ」
「それはお察しいたしております。手紙の束をごらんになった最後の日はいつ頃でしたか」
「つまり私が兄さんに頼まれて一通渡してあげた最後の日ね。それは紛失を発見した十日か半月も前かしら」
新十郎は政子の次に小沼男爵にも会った。御子息の行方不明は御心配のことですねとお見舞いを申上げると、
「ナニ、オレは心配していないね。いつから姿が見えなくなったか、そんなことも思い当るフシがなく、また気にかけたこともないぜ。政子の奴が今度に限って変に気を廻しているだけだ。もっともアイツにしたところで兄の姿が何月何日から見えなくなったなんて心当りが皆目ないのはオレ同様だ。オレのウチでは自分のほかの人間の動勢や運命を考えないのが常態だな」
「すると、どなたが失踪の日を覚えていたのですか」
「女中の奴さ。周信め、小娘をあやつる名人だから、女中めが惚れてるせいだよ」
明快な論断である。そこでその女中の話を訊いてみると、
「三月十五日の夕方でした。すこし早めに夕御飯を召上っておでかけのままお帰りにならないのです。当日、特に変った御様子はお見かけしません。御飯を召上りながら、この寒いのに一晩の不寝番は利口なことじゃないが仕方がない。カゼをひかないように、せいぜい厚着して行こうと仰有ったのを覚えてます」
ということであった。彼女はお給仕しただけで、彼の出るのを見送ったわけでないから、どんな厚着して出かけたか分らないということだった。わが家へ戻った新十郎は、杉山老女が書いてくれた脅迫状到着の日のメモをしらべた。脅迫は一昨年の十月から始って、毎月一度か、まれに二ヶ月に一度のこともあって、全部で十六回。
周信が手紙の束を紛失した前後から、他の目ぼしい出来事の日附と合わせてみると、知り得たところまででは、こんな風であった。
十一月二十六日脅迫状(十二月五日に金品交換。これが政子から兄へ手渡した最後の一通の取引に当るらしい)。
十二月十七日政子強制離婚荷物搬出。
十二月二十二日久五郎ら寮へ移る。
一月八日脅迫状(十一日金品引換え)。
一月十三日小沼男爵父子三名久五郎の寮へ家探しに。当日小花家出。
一月二十八日小花羽黒公爵家へ奉公。
三月五日脅迫状(九日金品引換え)。
三月十五日夕刻周信失踪。
五月三日脅迫状(七日金品引換え)。
五月十四日周信の失踪捜査願い。
ざッと以上のようである。重大なことで日附の不明なのは周信が二度目に寮へ現れて明朝の大捜査を宣言したという日だ。日附順に並べて気のつく事は手紙の束が周信の手を離れた時から、脅迫状の到着日から金品交換の指定日までの日数が短くなってる事だ、それまでほぼ十日近い日数があったのに、俄かに三四日の間しかなく、例外がなかった。
「ともかく日附の配列から一ツの異状が見出されるのは面白いな。すると、他の類似をさがして何かが出てくる見込みはないかな。一月八日に脅迫状が届いてから五日目の十三日に小沼父子が寮へ家探しに行ってるが、かりに脅迫状到着のあとで家さがしがあるものと仮定すると、三月五日の脅迫状のあとで周信が寮へ現れて大捜査宣言を行ったと見るべきだが、マンザラ当らないこともないらしいな。たしかにそれは三月の出来事で、そしてそのとき女相撲があったという話だったが、女相撲のことも調べる必要がある」
そこで諸方をきいて廻って調べてみると、女相撲は三月の琴平神社の縁日をはさんで前後に十三日間興行しており、それは三月五日から十七日までであった。女相撲といえば人の注意をひくに足る珍しく特異なものに見え、まして十三日間も興行していたのだから相当人に知れていそうなものだが、案外にも、そんな興行があったのは知らなかったねと云う挨拶が多い。もっとも中には花嵐オソメが化け狐にたぶらかされて石を運んだテンマツまで事こまかに覚えているというヒマ人もいくたりか居ってそれは三月十五日の夜、周信が失踪した日に当っていた。
元子夫人に会って、脅迫状と金品交換日の間が半年前から短くなったのに気づかなかったかと問うと夫人はビックリして、
「そうでしたわ。にわかに指定の日までが短くなったために、お金の工面に四苦八苦いたしまして、脅迫者宛てに日取りに間隔をおいて下さるようにと杉山さんから依頼の手紙をだしていただいたほどの私たちにとっては大問題でした。けれども、お願いの手紙を差上げても、日取りの間隔は長くはならず、返事もなかったのです」
そこで新十郎は小沼家へ赴いて政子に会って、杉山老女からの依頼状のことを訊くと、
「それは確かに受けとりました。またその依頼状によって脅迫がつづいて行われていると分ったので、手紙の束は単に紛失したのではなくて誰かに盗まれたのだということが確認されたのです。依頼状はたしか二度きました。そして私たちがチヂミ屋の寮へ家探しにでかけたのは依頼状を見たせいなのよ。盗まれた手紙を探すためです。二度目の時は兄が一人で寮へ捜査にでかけたようですが、盗まれた手紙は結局どこからも現れませんでした。当然だわ。チヂミ屋の寮を捜したって出てくる筈ないわ。なぜなら意外にも奇怪なことが起ってるのは、そこではないからです。小花さんはなぜ羽黒家に居るのでしょうね。そして、うちつづく脅迫に悲しみ泣かされている人が実は手紙の束を取り戻した人かも知れない場合だって有りうるでしょう。そして、もしも手紙の束を取り戻した人がもう泣く必要がなくなったのに、まだ脅迫が続いていますと探偵さんに物語って泣いてみせているのだとすれば、それは兄を殺した下手人がその人の一味だと問わず語りしていることではありませんか」
政子の疑惑には根の逞しい執念が感じられた。思いつめているのだ。真剣に、一途に唯一の狙いに全部をかけた逞しい疑惑だ。
「ともかく、再び日附の配列から、脅迫状と家探しとに一聯の関係の存在が類推され、そしてその真実が証明された。すると三月の場合に一月の日数を当てはめてみると、脅迫状の到着が三月五日、一月ならその五日後が家探しだ。しかし幸いにも、指定日までの日取りを長くしてくれとの周信へ依頼状を書いた杉山さんはコクメイな日記をつけているから、その正確な日を確かめることができる」
と直ちに問い合わせてみると依頼状は三月十一日の午後投函。すると、十三日、おくれても十四日には周信がそれを読んでる筈だ。
「なんということだ。周信の失踪と寮への怒鳴りこみは、殆ど連続してるじゃないか。アッ、そうだ。ここに女相撲の一件があるぞ。そうだッたなア。これをウッカリ忘れているところだったが、アア、実にこれは重大きわまることらしいぞ。実に、ウッカリ。バカだなア。危くこれを見落すところだったなア。すると、女の横綱が狐の化けた女にばかされて大石を運んだという一見バカバカしいことも、笑いごとだと思ってすませると大変な見落しになるかも知れないぞ。とにかく、これを見落さなかったことは幸せだったが、ウム。たしかにそこに何かがある。アア、期待が先走るために頭が混乱してしまう。落着いて特に、益々、落着いて」
新十郎はこう自分に向って言いきかせると、湧立つ胸を必死にしずめて、考えこんでしまった。(ここで一服、犯人をお当て下さい)
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この事件はその発端が常と変って、新十郎は相棒の同行を許されなかったから、結末に至っても、相棒も海舟先生も現れる余地がなかった。ついに新たな脅迫状が元子夫人をおびやかす日がきた。手紙は待ちかまえていた新十郎に廻送された。
その日から、新十郎は警察に依頼して多くの警官の助力をもとめ、厳重な、しかし敵にさとられることがないような細心の注意をこめて監視網をはりめぐらしたのは、ある一軒の邸宅であった。そして、その邸内から出てきた一人の若い女が街でさる人物と会って一物を手渡して何事か依頼したのを確かめ、依頼をうけた人物の方を取り押えて訊問すると、予期の如くに総てがハッキリと現れた。彼のうけた依頼とは金品交換の指定日に指定の場所で元子の使者から金をうけとる役であった。彼が渡された一物はまさしく金と交換の元子の恋文のうちの一通であった。
監視網をはりめぐらした邸宅とはチヂミ屋の寮。邸内から出てきた女とはハマ子。
かくて犯人久五郎とハマ子は捕えられた。
新十郎は真相をききに来た政子に語ってきかせた。
「女相撲という一見事件にレンラクしそうもないことを最初に私に語ってくれた人が世捨人の久五郎さんだと気がついたとき、私はビックリしたのです。相当に物見高い血気の人でも女相撲の興行を知らない人が少くないのに、めったに外へでない筈の世捨人が、もっとも、単に女相撲の興行の存在を知ってるだけだと云うなら偶然の然らしむるところと考えられもしますが、ほかの出来事は大がい忘れていながら、女相撲と周信氏の宣言という聯想しにくい二ツの事柄のレンラクだけは妙に記憶していました。これは普通ではありますまい。おまけに調査の結果は女相撲と大宣言とたしかにレンラクがありました。周信氏の大宣言はまさに女相撲の興行の最中でした。しかしながら、もしも更に女相撲と大宣言とに密接不可分の関係があって、たとえば女の横綱が狐の化けた女にだまされて大石を運んだことなぞと関係があったと仮定して、そこから曰くありげな何かが考えられるであろうか。こう考えて多くの場合をタンネンに思い描くと、曰く有りげなものが確かに在って次第に鮮明に浮かびでるのが分ってきました。お宅の女中さんの話によりますと、兄さんは失踪直前の夕食中に今夜一晩は不寝番だからカゼをひいちゃいけないな、厚着しようと呟いておられたそうですね。さて、そこで、その兄さんがこの前後にチヂミ屋の寮に現れたときのことを考えて下さい。これから家探しにとりかかるかと思うとそうではなくて、明日早朝を期し、大工とトビをつれてきて天井もハメもネダもひッぺがして徹底的に家探しを致すぜという大宣言の由でしたね。前もってこんな大宣言をする必要があるでしょうか。まるで、だから、ほかのところへ秘密の品物を隠せ、と敵に都合のよいことを教えるだけの逆作用しか考えられないではありませんか。ここが問題なんですよ。これがこの事件の結び目に当る急所だったのです。申すまでもなく、兄さんが親切な大宣言を行ったのはその逆作用を承知の上のことですよ。敵がこの大宣言におどろいて、その夜のうちに秘密の隠し物の場所を動かすに相違ない。それを暗闇に隠れて監視して突き止めるのが狙いなのです。出がけの食事中に呟いたという今夜一晩の不寝番とは、これを指しているのです。なかなか巧妙な策戦でしたね。そこで狙いたがわず目的を達して秘密の場所を見破ったかと申すと、実はアベコベでした。兄さんは己れの才をたのんで敵を甘く見ましたが、実は一見マヌケの如くにして敵の御両氏はさらに抜群の策士でした。否。軍略の才能に差がなくとも、敵を甘く見たことが大きな差をつくりだしてしまったのですね。バカの如くでバカでない御両氏はたちまち兄さんの計略を見破りました。そして兄さんが庭のどこかで不寝番をして見張っているに相違ないのを推察すると、それを逆に利用する策を立てたのです。花嵐にたのみ、庭の巨石をうごかしてその下に何物かを隠したフリをして見せたのです。兄さんは敵を甘く見ているために敵の策を見破ることができませんでした。そして敵が隠し場所を変えたものと真にうけて、手紙の束は石の下にありと思いこんだのです。とても巨石をうごかすことはできないから、石の横から下へと土を掘って目的物に達しうると考えました。巨石の下のしめった土の中へ手紙を隠しておくと紙が傷んで物の役に立たなくなるという不都合な結果が目に見えているから、直ちに発掘にとりかかるのは当然の行動でしたろう。しかし、道具なしに堅い庭土を手で掘るのだから大仕事で、先をあせって無我夢中でやってるところを忍び寄った二人が殺してしまう。そして、屍体をどこかに隠す。たぶん庭のどこかに穴をほって埋めたのでしょう。本日の取調べで夕刻ぐらいまでにその場所は判明するだろうと思いますが、お気の毒ながら兄さんの生きている見込みはありません。あなたのタンスから手紙の束を盗んだのは久五郎さん。見かけによらぬ鋭いカンで、あなたにとってその品物が重要な何かであるのを見破っていたから、あなた方があの日一方的な有勢裡に彼の品物を分捕った腹イセに、一番大切らしいその一品を盗んでやろうと思ったのでしょう。皆さんの隙を見てそれを盗みに奥へ行った。すると方々の部屋をうろついて愉しんでいたハマ子さんがそれを見て、この人も見かけによらぬ鋭いカンと素早い動作にめぐまれているから、あの態度は何かあるなと後をつけて、久五郎さんがあなたの秘蔵品らしい何かを盗んだのを見出したから、我意を得たり、とニッコと親愛の情をこめて笑みを送り、あなたがそれを隠すのは人目につくから私がそれを秘密の場所へ隠してあげましょうという意味とマゴコロをこめて手を差しだす。黙ってただニッコリとほほ笑んで手をだしただけですが、そこに真の情がこもっているから、これ即ち以心伝心ですな。もっとも、これは全部私の想像ですよ。本当にこうだとは申しませんが、こうならなんとなく愛すべき情趣に富んだ一幅の画であるなアと、つまりですね、私は殺されたあなたの兄さんよりも、このノロマの如くで素ばしこい御二方が憎めないのですよ」
新十郎は暗い顔をそむけた。
底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第六巻第九号」
1952(昭和27)年7月1日発行
初出:「小説新潮 第六巻第九号」
1952(昭和27)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「明治
開化安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「明治
開化安吾捕物 その十九」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月23日作成
2016年3月31日修正
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