明治開化 安吾捕物
その十八 踊る時計
坂口安吾



 妙子は自分の生れた時信家を軽蔑していた。父の全作がそもそも虫が好かない。父だから仕方なしにつきあっているようなものだが、顔を見るのもイヤなのだ。

 母が生きていれば家庭に親しみが持てたのかしらと考えてみることもあるが、どうも母のないせいではなさそうだ。彼女の母はあんまり父が冷酷でワガママなので、神経衰弱になり、一日に一皮ずつ痩せたあげく、ハヤリ目とカッケにかかって死んだそうだ。

 彼女は継母も軽蔑していたが、もしも実母が生きていれば、継母以上にバカで哀れな存在かも知れないと考えていた。

 継母サナエは元旗本の娘であるが、借金のカタに二十いくつも齢のちがう全作のところへお嫁入りした。全作が五十すぎているのに、サナエはまだ三十だ。美人だし、笑いを忘れた顔だから、変に若くミズミズしくて、二十四の妙子が姉にまちがえられたこともあった。

 全作がサナエの美しいのに目をつけて借金のカタにお嫁にもらったと思うのは筋ちがいのようだ。大変な貧乏で貸金を取りたてる見込みがないと分った上に、カタにとるとすれば娘のほかに目ぼしいものがないせいであった。ちょうど女房が死んだあとだが、女房なんぞは必需品というわけではない。しかし、とにかく何かカタにとらなくちゃケリがつかないとあれば女房で間に合わすのも時の方便かというようなことらしかった。こういう慾のないヨメ選びにかぎって美人に当るものだという話である。

 しかし、全作は後妻については慾がなかったが、ケチンボー、そして金慾の点では甚しいものだった。

 こういうケチンボーが学問にこって洋行までしてきたとは妙な話である。おまけにその学問が今で云えば考古学というようなもので、全く金慾に縁のないようなことに凝っていた。そのうちに土や石の下から出てくることに変りはなくとも、古代美術に凝りだしたのはようやく本性に目覚めたと云えよう。

 古代美術を俗に骨董という。これはお金モウケになる。全作も西洋流の商法を用いて荒かせぎした。けれども本当に良い作品は人に売らなかった。いったん執着すると大金を投じて惜しまなかったし、秘蔵品を人にのぞかれるのもイヤなのだ。

 病気で起居不自由になって以来、秘蔵品の陳列室へ寝台を運ばせた。そこへ寝ついてから三年になるが、一歩も室外へでたことがない。もっとも、歩けないせいもある。松葉杖にすがれば歩けるが、大小便もオマルで間に合わせ、一歩も室外へ出ようとしない。二ヶ所のドアにはいつもカギをかけておく。人をよぶにはオルゴールを鳴らして合図する規則になっていた。

 彼の身辺の世話をするのは、昼の部が時信大伍、夜の部が木口成子という看護婦である。ナミ子という女中が二人の助手で、そのほかの家族は一定の時間以外は病室に近づかせない。時信大伍は全作の弟だった。

 西洋で暮してきた全作が附添いに看護婦を思いつくのはフシギではなかった。ところがその看護婦が当時は珍品であった。明治十九年にようやく看護婦養成所というものができて、二ヶ年の修業で看護婦の育つ仕組みができあがったが、それまでは公式に看護婦という職業はなく、お医者が個人的に、それも主として西洋から招かれてきた紅毛碧眼のプロフェッサーが個人的に希望者を仕込んで自分の用を便じていた。木口成子もそうで、スクリード先生の私的な必要に応じて生れた看護婦第一号以前に属する前世紀動物であった。

 高額の給金を物ともせずに成子を雇っただけの値打はあった。彼女の受持は夜間である。なぜなら、全作は結核性関節炎という主病のほかに、神経痛にゼンソクに痔という三ツの持病があって、夜が大そう不安で怖しい。夜になると神経がたかぶって眠れないばかりでなく、しばしば激痛が襲いかかって死の恐怖と闘わなければならなかったからだ。

 夜の十時から朝の七時までが成子の勤務時間であった。全作の不安は夜があけると落ちつくから、朝食を与えて七時ごろ彼の睡眠を見てひきさがる。

 大伍の勤務は十時からだが、七時から十時までの三時間は女中のナミ子がつなぐことになっていた。しかし全作はその時間にはたいがいグッスリねむっていて、まず用はない。

 さて、成子に代って昼の部をつとめる時信大伍がなぜ附添いに選ばれたか、これがどうもフシギであった。

 サナエ夫人は夫婦甚だ相和さない十年間のツキアイがもとで笑いを忘れた女であるから、身辺の世話を女房に頼みたくない全作の気持はわかる。けれどもいかに血をわけた弟にせよ、鼻ヒゲをたてた中年男が病人の糞便の始末を職業とするのは適当だとは思われない。大伍は若年のころは放浪癖があって、中年に至るまで何をやっても成功せず、四十の年配にあっても、食いつめたあげくが自由党の壮士となって結成式に板垣総理万歳を叫んだ。それも暮しの工夫なら無いよりはマシだが、二三年のうちに彼の自由思想はさッさと死んで、兄貴のところへころがりこんだ。たまたま病床につきそめて不自由をかこっていた全作がどこを見こんでか看護人に選んだ。

「お父さんはずるいのね。叔父さんが大きな顔で居候できるどころか、お給金までいただけるのもお父さんの病気のせい。死んでしまえばクビだもの、喜々として看病にはげむ道理ね」

 妙子は薄笑いを浮かべて考えた。

 先妻の子は妙子だけだ。サナエの実子は雄一という八ツの息子一人であった。サナエにとっては、全作というヤッカイ者は早く死んでくれるに限るのである。ケチンボーで家族へのあたたかい愛情などは影すらもない。この冷血動物がくたばりさえすれば、家をつぐものはわが子である。サナエにとって牢屋にすぎなかったこの家にもたちまちにしてランマンの春が訪れる。

 妙子の一考したところによっても、このオヤジのくたばる方が世のため人のため自分のため功徳となるに相違ないと思うけれども、さて実際に死んだとなると、諸事につけて功徳をさずかるだけとは限らない。

 このオヤジの生きてるうちは妙子の半分だけは時信家の実子であるが、彼が死ぬと、実子の半分も消え失せて、継子が全部になってしまう。継子も居候の一種かも知れないから鼻ヒゲをたてた仕事熱心の看護人を図にのって笑ってもいられない。かりにも子の字がついてるから心やすくクビにできないかも知れないが、その方がむしろツキアイがむずかしいや。

「看護役は居候に限るにしても、オヤジ殿は目が高いや。私だったら始末のわるい小犬のように罵って便所まで追ってやるわ」

 妙子は病気に同情しなかった。同情とは人間が対象で、病気のせいではない。

 しかし、看護に熱心という点では大伍叔父が日本一ではない。早い話が彼にも全作にも姉に当る小坂オトメというお婆さんがはるかに一心不乱に看病するであろう。

 オトメは小坂主税という人のところへおヨメにいったが、主税はノンダクレで、給金も親の遺産ものみほしたあげく、酔ってオトメをぶんなぐる癖があった。今に見やがれと思っているうちに、ある晩主税が酔払ってよそのウチへあがりこんで、

「ヤイ、酒をだせ。ナニ、酒がない。なければ買ってこい。ナニ、酒屋は寝た、と。起きてる酒屋でのんでみせるからゼニをだせ」

 よその女房を五ツ六ツぶんなぐって髪の毛をつかんでひきずりまわした。やりつけてる手法である。ついでに亭主の横ッ腹を蹴り倒してクビをふんづけてタタミにこすりつけた。合わせてオトメ一人ぶんにすぎないのに、オトメは鼻血しかださないが、この夫婦はゼニをだした。その代りそれを握って居酒屋で飲み直していると、巡査がきてブタ箱へぶちこんでしまった。

 そのときオトメがこう証言した。

「酔ってワケが分らなくッて自分のウチをまちがえたろうですッて。とんでもない。ウチには三十年間お金もお米もあったタメシがありませんや。人様のウチと知ればこそ、ヤイお金をだせ、と立派なことが云えるんですよ」

 一点非のうちどころがない論証であるから、めでたく、主税は獄屋へ送られた。目下入獄中であった。オトメの立腹は当り前だが、三十年もこらえていたのが何のためだか分らない。子供の君太郎が三十だから、まさに三十年じゃないか。君太郎はオヤジにせびられるおかげで女房も貰えなかったが、オヤジが入獄したのでオトメの手をおしいただくようなこともしなかった。

「今日から親でもないし子でもない」

 と云って、どこかへ立ち去ってしまった。オトメは自分一人では食うことができない。面倒を見てもらいに全作にたのみにきたが、会ってもくれないから、ドア越しに、

「私はこのうちの長女、お前の姉さんだぞ。オノレ祈り殺してやるから覚えてろ」

 ドアをぶッたり蹴ったりして帰った。一人じゃ生きて行けないから、大霊道士のところへころがりこんだ。道士は霊界と自在に往来通話ができる人の由で、オトメは十年も昔から信心していた。教祖の膝下に身を投じたから、悟りをひらいたのか、ちかごろは三日にあげず全作を見舞って、

「神様に祈って病気を治してあげるから、会っておくれ。顔を見せてくれなければお祈りもきかないよ。たちどころに病気が治るからさ」

 相変らずドア越しであるが、来るたびに声が優しくなるばかり。このさき益々声が優しくなるかと思うとゾッとするようだ。

 この一心不乱の志願者にくらべれば、弟の大伍が便器を捧持して往復する姿などには第一霊気の閃きがない。

「祈ってもらえばいいのに。退屈な病人だ」

 見るもの聞くものが妙子の気に入らなかった。しかし、まさか全作を殺すような気性のスッキリした人物がこの邸内に居ようとは考えていなかったのである。もっとも、彼(つまり彼女のオヤジ)が殺されてみると、誰が彼を殺してもモットモだと妙子は思ったが。


          


 その日は月曜日であった。

 なるほど全作が殺されてみると、この日は朝から変った一日であった。

 ふだんは十時からであるのに、この日は七時前に大伍が病室へ現れた。まだ木口看護婦が全作に食事を与えている最中であった。それを見ると全作は待っていたらしく、

「そろそろお前を起させようと思っていたところだ。宮本は成田へたったろうな」

「今朝五時にたちました」

「ナミをよべ。伊助をむかえるダンドリをオレがよくきかせてやる。お前は伊助がくるまで隣りの部屋に居るがよい」

 宮本とは当家の書生だ。これがまた書生の中で有数の能ナシで、もう三十を一ツ二ツこして鼻下にヒゲをたててもフシギのない年配であるのに、よその三畳にくすぶってオマンマにありついてる。そこに住みついてから十年にもなるという人のウチのヌシになりそうな存在であった。

 大伍がナミをつれてくると、全作がナミに云った。

「八時に伊助という織物の行商人がくるから、門の外で待っておれ。四十がらみの見るからに品のない行商人らしい小男だ。それらしい人がきたら伊助さんですかと訊いて、そうだと答えたら、外の道を一まわりして、庭の木戸から連れこむがよい。裏階段から登ると人目に立たずに連れこむことができる。人目にふれてもかまわないが、伊助が玄関へ立って、御主人様にお目にかかりたいと言わせなければそれでよい」

 その場に居合わせた成子はこの言葉をよく頭にたたみこんだ。全作の命令は秘密くさいものではなかった。ニコリともしない毎日の病床生活や激痛の呻吟にゆがんだ泣顔を見なれているから、彼としてはむしろ珍しく生き生きした声であった。良からぬことを予期したものでないようだった。成子がこの言葉に聞き耳をたててよく頭にたたみこんだのは、珍しく明るい声であったからだ。

「八時の約束だが、もしものことがあるから、今から門に立つがよい」

 こうせきたてて返らせた。この会話をきいていたのは成子だけで、大伍はナミ子をつれてきて、ただちに室外へ去ったのである。そのあとは成子は知らない。彼女は自分の部屋へ戻って、ねむった。

 ナミ子が伊助をつれてきたのは、まさに八時であった。言われたように庭の木戸から裏階段を案内した。この階段を登ると北側のドアが近いが、このドアはカギをかけたまま開けてはならぬ定めであるから、廊下を一曲りして控え部屋へ案内した。ここに大伍が待っていた。二階は陳列室と控え部屋の二間しかない。陳列室は南北に十二間、東西に五間の広間。北と西が廊下で、西の廊下を突き当ると控えの間。突き当って折れると玄関へ通じる階段だ。

「伊助さんだね?」

 大伍は立ち上って訊いた。彼は初対面らしい。

「そうです」

 と答えると、大伍はだまってうなずき、ドアをあけて伊助を兄の部屋へ通したのち、

「誰が来ても中へ入れるな」

 ナミ子にこう命じた。内部からドアのカギをかける音がした。

 ナミ子は伊助を見分けることができるかと心配だったが、織物の行商人は一目でたちまち判るものだ。上体の倍もあるような矩形の大包みを背負ってるから、きかなくとも分った。塀についてひろい庭を半周させるのが気の毒だから、

「重いのに大変ですね」

 と云うと、

「なれてるから、なんでもない」

 と答えた。なるほど小男ながらガッシリと逞しい骨格であった。二人の会話はそれが全部であった。

 ナミ子が一人になって十分ほどたつと、急いでやってきたのはオトメであった。この無遠慮な訪客は何よりも危険人物だから、

「いけません。いけません。この時間はいけません。お休の時間です。お客さまはもとより奥さま坊ちゃまですら御面会は夜の七時から十時までと定まっています。そのことは御存知でしょう。ましてあなたは面会の御許しがないのですから、ここへ近よるのも御遠慮なさるのが当然です」

 ナミ子は立ちはだかって制したが、ムキになりすぎて語気が荒かったから、オトメを怒らせてしまった。

「私はこのウチの長女だよ。全作さんにも姉に当る私だよ。女中風情が、無礼じゃないか」

「それはすみませんでしたね。ですが、私の役目ですから、お通しするわけには参りません。大声もいけません。この時間には皆さんが遠慮なさるのですよ」

「ですがね。今日は来ないわけにはいかなかったのよ。神様のお告げなの。私が見ていてあげないと、あの人は殺されるのよ。神様がハッキリそう仰有おっしゃった。マチガイはありません」

 ナミ子の制止がきいて、にわかに遠慮ぶかい小声になったが、目はギラギラ光っていたし、激発を押えている意気ごみが察せられた。思いがけない言葉で、小声のためにかえって薄気味わるかったが、この婆さんが狐ツキのフーテン病みだという定説を考えれば、意気ごみはとるに足らない。自分の役目が必要なのは、こんな怪人物がいるせいだ。

「十かぞえるまでに帰って下さい。それが私の役目です。あなたの騒ぐのが旦那様の御病気に何より悪いのです。女中と侮ってはいけません。役目ですからイノチガケですよ」

 若い娘だから、相手の気勢に輪をかけて応じた。それをジッと見て、とてもダメだとオトメは観念したらしい。

「ちょッとだけおイノリします。死神をおとすおイノリをね。ほんとに、仕様がない」

 目をとじて合掌して、ナム、クシャクシャクシャと唱えるうちに、合掌の手が延びたり輪をえがいたり縮んだりニュッと横をさしたり、それにつれて、ナム、クシャが急に大きくなッたのでナミ子がハッとしたときに、ピタリとやんだ。瞑目して、静かに合掌、最敬礼。いのり終ると、サヨナラも云わずに、さッさと戻ってしまった。

 そう長くは待たなかった。二人は陳列室から出てきた。八時三四十分であったろう。大伍はドアのカギをかけ終えて、

「伊助さんはここで待っていなさい。では一ッ走り行ってくるから。一時間あまりかかると思うが、伊助さんがお待ちの間は、ナミはさがっていなさい。お茶をあげるがよい」

 こう云いのこして、大伍は急いで階段を降りた。ナミ子も云われた通り、伊助を残して下へ降りた。一度だけ茶菓を運んだ。伊助はイスの中に深くめりこんで目をとじていた。


          


 大伍が戻ったのを認めたから、ナミ子はその後について二階へ行った。大伍は伊助をみちびいて再び陳列室へ消えた。十五分すぎた。ナミ子は柱時計を見ていたのだ。やがて二人はそろって病室から退出した。ヤレヤレ、これで用がすんだと、大伍が出てきてドアを閉じたと思うと病室のオルゴールが鳴った。「来い」という合図のオルゴールだ。大伍はとって返したが、一分もかからぬうちに戻ってきた。

「さて、用がすんだ。ナミはお連れした道を通って、伊助さんをお送りしてあげるがよい。庭木戸から出て塀に沿うて門まで、アベコベに一通りやりなさい。来るが如くに去る。去るところを知らずかね。伊助さん。ゴキゲンよう」

 伊助は無言で頭を一つペコンと下げただけだ。重い荷を背負って歩きだした。まったく来た時も去る時も、伊助は同じであった。重い顔、無言、そしてテクテク歩いてる。

「織物を買っていただいたんですか」

 思いついたことを訊いてみると、

「そうだ」

 と答えただけだった。彼の方から一度こう訊いた。

「旦那の病気は何だね。ウミの匂いがプンプンする」

「オヘソのあたりや腰や股に銅貨ほどもある孔がいくつもあいて、絶え間なしにウミがにじみでているんですッて。ウミの匂いが強くなると香水をまくんだけど、今日は香水をまいてないのね」

 会話はそれだけで全部であった。塀に沿うて半周して門の前で別れた。伊助はまた頭をペコンと下げただけで振向きもしなかった。

 ナミ子が二階へ戻ると、控えの間から立ち去る大伍とすれちがった。

「旦那様はお疲れだ。これからようやくおやすみだから、誰も近づけてはいけないよ。三四時間はオレに用がなかろう。オレも早起きしたから、ねむたくなった。オルゴールがなるまでお部屋に入らぬがよい」

 言いのこして彼は去った。まったく旦那はお疲れだろうとナミ子は思った。七時からの三四時間は熟睡のオキマリだが、それを起きていたのだから、当分はお目ざめがあるまい。時計を見ると、十時ちょッとすぎたところ。ふだんなら大伍の御出勤時間。本日はアベコベだった。

 当分お目ざめがあるまいと確信のせいか、本を読んでるうちについウトウトしかけたり、ふと気がついて本の続きを読んだりした。ウトウトしたと云っても、二三分間のことだ。安心はしていても、ナミ子は役目を忘れなかった。その心がけを見こまれて全作が特に係りに選んだのだ。ナミ子はその責任も感じていた。だからウトウトしても物の気配を感じる程度に、浅く、また短かかった。

 思いがけなくオルゴールがなった。ちょうど時計が十一時をうってるところだった。一時間しかたたないのに、もうお目ざめかとナミはおどろいて立ち上った。習慣はこういうものだ。七時にねて十一時に目をさます人は十時にねても十一時に目がさめる。ナミ子はドアへ走った。

 ドアにつづく壁際に小卓があって、成子のカギはいつもその上に置かれていた。勤務時間が終ると、成子は自分のカギをそこへ置き残して去る。ナミ子はカギを持たないからだ。

 カギは二ツあった。一ツは大伍が持っていた。大伍はカギを肌身離さなかった。

 小卓の上を見たが、ある筈のカギがない。ナミ子は卓の下を探した。それから、部屋中を探しまわった。オルゴールが同じ歌を六七回もくりかえして鳴りやんだのに、カギが見当らない。

 ナミ子の胸は早鐘のように鳴りだした。大変なことになった。思い当ることがありすぎる。

 これだけ探しても見当らなければカギは盗まれたに相違ない。ドアの開けたてごとに大伍はカギを使っていたが、あれは彼のカギだし、開けたてごとにカギをかけるのは彼のいつもの習慣だ。

 伊助がこの部屋に大伍の帰りを待っていた一時間あまりの間はナミ子がこの部屋にいなかった。伊助がカギを盗むことはできるが、彼にはその必要がなかろう。また、伊助が一人で居るとき誰かが来てカギを盗み去っても、伊助はその目的に気づかないであろう。

 けれども、誰よりも疑わしい犯人にナミ子はまッさきに気づいていた。オトメが早々に現れて、死神をおとすおイノリと称して、タコ入道の踊りのように合掌の手をふりまわした。二本の手が八本以上にも見えたほどクネクネと目をあざむくばかり、予測しようもない動きであった。あの怪しい手が盗んだのかも知れない。そして、他の誰に盗まれてもさしたることはないが、オトメに盗まれたとなると気がかりである。三日にあげずやって来てムリにも中へ入りたがるが、カギがあれば自由に忍びこむことができる。

 ナミ子はふと気がつくと、おどろいて、跳びあがった。そして、一目散に廊下をまがって北のドアへ走った。把手に手をかけて引いた。カギがかかっている。ホッとした。

 二ツのドアは同じカギで間に合うのだ。内側と外側からも同じカギで間に合う。北側のドアをあけないのは、出入は西のドアに限ると云い渡されているからにすぎない。云い渡しをまもらない人はカギさえあればいつでも北のドアがあけられるし、カギを盗んだ犯人は云い渡しをまもらない者にきまっている。

 ナミ子は大伍の部屋へカギを借りに走って行った。部屋には寝床が敷きッぱなしてあって今まで寝ていた様子だが、彼もまた十時にねても十一時には目がさめざるを得ない習性に負けたのかも知れぬ。

 中年まで概ね浮浪生活の大伍は三度や五度は女と同棲したかも知れぬが、キチンとした女房らしいものは一人もいなくて、目下は悠々独身であった。

 人々にきいてまわると、大伍は十分ほど前に壮士のステッキをふりまわして散歩にでかけたそうだ。

 こうなっては遠慮していられないから、成子の部屋へ行って、ゆり起した。

「申訳けありません。オルゴールが鳴ってるのにカギがなくてはいれないのです。いつもの小卓の上に置いて下さったのでしょうね」

「ええ、そうよ」

 成子はムッツリ答えた。成子は機械と同じように習慣的に行為する人であった。たとえば勤務を終って出るとき肩を並べて一しょにドアをくぐっても、ハイ、と云ってカギを手渡さずに、小卓の上へ黙ってカギを置いて行く人であった。そして、その習慣を忘れることが考えられない人であった。

「カギがなくなったの?」

 成子の目の色は深かった。彼女も何か思い当ったような目の色だった。

「盗まれたんだわ。思い当ることがあるの。朝の八時ごろオトメさんが押しかけてきたのよ。旦那様が今日殺されるお告げがあったからですッて。そして、死神おとしの変なオイノリをして立ち去ったのよ。オトメさんの手は小卓の上をクネクネと舞っていたけど、私はそのときカギのことは考えていなかったの。私は今朝からカギを注意したことがなかったのです。自分でカギをあけてお部屋へ出入する必要もなかったから」

「誰だって必要のない物には注意を忘れがちだわ」

 と、成子は軽くうなずいて言った。

「オトメさんがカギを盗んでも病人の前でオイノリするぐらいでしょう。一度使って気がすめば返してくれるでしょう」

 成子はこう笑って、この問題にケリをつけた。話題を転じて、質問した。

「織物の行商人は何しに来たの?」

「私は別室にいたから分らない」

「たしかに変ったことがあったと思うな。私がここへ来ての三年間に、今日だけがいつもと変りのあるたった一日だったから」

「何が変っていたの?」

「今日一日だけ、病人の心が浮き浮きしていたのよ。私はハッキリ認めたのよ」

 ナミ子は同感とまでは行けなかった。そんなに浮き浮きしていたろうか。ナミ子は変りが思いだせなかった。だが、黙々たる来訪者はいくらか変っているかも知れない。行商人なら、お喋りが普通だろうに、とにかく石地蔵ではないことが分る程度にしか喋らなかった。あれでは反物がはけなかろうとナミ子は思った。


          


 ナミ子が控えの間へ戻っていると、大伍が来た。ナミ子がせきこんでカギの報告をしたが、大伍は動じなかった。

「誰がカギを盗んでも大したことは起らない。え? 兄貴は十一時に目をさましたかい。今が十一時半だね。また眠ってしまったらしいな。今さら慌てて、ヘイ、御用は? と駈けつけることはない。とにかく習慣とちがったことをやったから、目をさませば戸惑って、一応オルゴールを鳴らすだろう。それだけのことだ。シンが疲れきってるから、また眠ったにきまっているさ」

 いっぺんフタをあけると四五分鳴りつづけるオルゴールだから、ネジをまく手間を入れても病人に過激な作業ではない。つづいてオルゴールがならないのは、本当にさしせまった用ではなかったからだろう。云われてみれば、尤もなことだから、ナミ子も落ちつきをとりもどした。

 大伍はイスにノンビリもたれていたが、ふと立ってそッとドアをあけ、跫音あしおとを殺して中へはいった。いつもの通り中から一応カギをかけたが、五分ほどすぎてから跫音を殺して出てきて、

「コンコンと熟睡だ。だが、これは何だろう? 北のドアから誰かが一度はいったのかな。特に変ったこともないが、感じが何かをささやくような問題だ。これは伊助の落し物かも知れないな」

 それはツケヒゲのようであった。しかし伊助は来たときもツケヒゲなぞはつけていなかった。

「こんな物が落ちていたのですか」

「マア、マア、気にかけるな」

 大伍は笑って行ってしまった。

 この日はたしかに変っていた。午後になっても、変った訪問者が絶えなかったからである。十二時をややまわったとき、川田秀人が馬車を走らせてやってきた。

 川田は全作の唯一と云ってよい友人であった。銀行の副頭取だが、古美術では人後に落ちない趣味家であった。

 川田が全作を訪ねてくるのは、たいがい土曜日の夜だ。夜の七時から十時まで。それが全作の面会時間だから、土曜日以外に来ることがあっても、ひるごろ来るようなことはない。一同のいぶかしむ顔色に川田は笑って、

「病人に会いに来たんじゃないよ。大伍君で間に合う話のようだが、なかなか云ってきかせてくれない人だね。とにかく気にかかるから、来てみたよ。言ってきかせてくれないと夜にまた出直してくるよ。今日銀行からひきだした金の使い道が気にかかるね。あの金額は気がかりの金額だね。思い当ることが、なきにしもあらずだね」

 川田もそれ以上のことは云わなかった。この言葉によると、大伍が伊助を待たせておいて出かけたのは、川田の銀行へ金をひきだしに行ったもののようだ。気がかりの金額とは多額を意味することでもあろう。大伍は笑っただけで返答しなかった。

 川田は二日前の土曜の晩も遊びに来ていた。その晩、病床のまわりに集ったのは、川田と大伍のほかに妙子がいたし、ややおくれてサナエ夫人も雄一をつれて良人おっとの病床を見舞いに来た。もっとも雄一がねむたがるので、おそく来て、誰よりも先に去った。サナエの訪問はいつもそんな風だった。笑いを忘れた顔から病人を慰める言葉がでる筈もなかった。お義理だけだが、彼女の加入は一座をしめッぽくするというマイナスのオマケまでついていた。

 土曜の晩、月曜の早朝に五万円ひきだすからよろしく頼むということを全作が川田に云ったのを妙子はたしかに聴いていた。当時の五万円といえば、利子だけでも生涯中流の生活ができるほどの大金であるから、前もって了解を得ておかないと当日窓口が即座に支払ってくれないほどの金額でもあった。

 無尽蔵の金がある全作ではないはずだ。むしろ彼の財産は残りが多くはないはずだ。家族には分らなくとも、取引の銀行には分る。利殖の投資以外のことに五万円ひきだすとすれば大胆すぎることであった。ヤブレカブレの感なきにしもあらずであった。

「これで家族には一文の小遣いも与えたことがない人だとはウソのような話だ。ゲタをはき捨てるのが早すぎると云って、歯の根元まですりきれてから捨てることを執拗に要求してやまない人物と同一人の所業だとは信じられないことだ。ケチンボーというべきではなくて、家族の人格や値打を根元まで歯のすりきれたゲタの程度にしか認めていないことであろう。だが、ケチとは要するにそのことでもある」

 川田は家族たちが全作を嫌うのは尤も千万だと思った。彼もこの友人が好きではない。だが全作のコレクションには魅力があった。奴メが死ぬとコレクションはどうなるか。気にかかる大問題であった。数は多くはないが、粒よりの一級品であった。

 大伍らが午の食事中であったから、川田は座をはずした。陳列室の外側の廊下をブラついた。控えの部屋にナミ子がいたから、

「御主人のゴキゲンはどうだ?」

「熟睡していらッしゃいます」

「御主人の今朝のお買上げ品を見たかい」

「いいえ」

 女中には見せまい。川田は諸方をブラブラ歩いた。カギのかかっている部屋以外は遠慮なくのぞいて歩いた。庭へでて陳列室を見上げると、窓は全部閉じられていた。初夏にちかい陽気だというのに、真夏以外は概ねこうだ。窓をあけるとゼンソクにわるいという信条のせいにもよるのだが、空を吹く風には植物鉱物動物どもの雑な呼吸がこもっているから吸う人の胸壁をむしばむ悪作用があると信じて疑わぬオモムキがあった。

 庭木戸をあけてヒョイとはいってきた人物がある。見るとオトメであった。川田を認めてオトメは呟いた。

「朝から気ぜわしくッて、心配で、ジッとしていられないのよ。今日、あの部屋で誰か死ぬ人があるわよ。オイノリして死神を落してさしあげなくちゃア」

 陳列室を指してみせた。そして小走りに走った。川田が懐中時計を改めると、一時にちかい時刻だった。

「ノンビリと遊びすぎたぞ」

 彼は一同に挨拶もせずに馬車にのッて銀行へ戻った。


          


 月曜は日中いっぱい手の施しようがないほど習慣の行事が乱れてしまった。

 病人の昼食はトースト三片と紅茶で、大伍がその世話をしてやるのだが、控えの間に用意のパンはそのままに置きッ放しであった。

「コンコンとおやすみだから、今日はほッとくがよい」

 大伍は習慣にこだわらなかった。ナミ子もこだわらなかった。ナミ子は助手で、看護人ではないのだから、根をつめて控えの間に詰めきる必要はない。日中は大伍の勤務御時間だ。ナミ子は自分の昼食に下りて、その後は概ね女中部屋にいたが、ふと大伍の部屋の前を通ったら、彼の大イビキがきこえた。

 ナミ子は気がかりになって、午後は二度だけ二階へ登ってみたが、控えの間に大伍の姿も他の誰の姿も見かけなかった。そして昼食のパンは夜がきても卓上に置かれたままであった。

 夕方の七時になった。夕食の用意ができた。大伍はようやく寝ぼけ眼をこすッて起きてきたから、

「私が旦那様に御食事を差上げます」

 と大伍のカギをかりで、二階へ夕食を運んだ。日中は誰も便器も見てあげなかったようだから一パイつまって臭いかな、と案じながら、まずドアをあけて燭台をかかげて病人のゴキゲン偵察に中をのぞきに行った。これから夏になるとだんだんウミの臭気がひどくなる。便器の臭気やらウミの臭気やらで、広い陳列室が充満してしまうのだ。

 病人は変なカッコウをしてねていた。背中をまるめてフトンをひッかぶっている。まだお休みかしら? お疲れだろうから、とナミ子は思った。近づかずに、ナミ子はそッと戻ってきた。病人が目をさましてオルゴールの合図をするまで待つべきだと考えたからだ。大伍が来て指図をするまで、自分の一存で病人の眠りを妨げるのは慎しむべきであろう。こう考えて、ナミ子は控えの間に燈りを立て並べて待っていた。大伍は一風呂あびたり夕食したりで、なかなか現れてくれない。まず現れたのは川田であった。

「病人はまだおやすみだって?」

「お食事が冷くなってしまったわ。お昼食もお夕食もまだなんです」

 川田のあとからそッとついてきたらしいオトメが叫んだ。

「大変だわ。神様のお告げの通りよ。きッと悪いことが起っています。どうしましょう。心配でたまらないわ。ホラ、胸騒ぎのすること。さア、大変。ナム、クシャクシャ」

 ナミ子は思わずカギを握って立ち上った。なるほど様子が変だった。もっとも、ナミ子は助手にすぎないから、オルゴールの合図がなければ病室へはいることはまずなかった。だから病人の寝ている姿を見たことはめったにない。けれどもこの一日のことを全部綜合してみると、何から何までいつもと変っている。別に大そうな変りではないが、ガラリとふだんと違うことは確かであった。

 ナミ子が燭台をもって歩きだすと、川田とオトメもついてきた。ナミ子は燭台をかざして、一風変った寝姿を人々に示した。毛布をかぶっている。しかし、背中をまるめて俯伏しにねていると思ったのはマチガイだ。セムシだって、こんなに背中はとがるまい。ナミ子はその異状に気がついた。と、同じことを見てとった川田が毛布をつかんで、そッとあけた。顔色が変った。

「ヤ。ヤ。血だ。アッ。殺されている!」

 懐剣が病人の背中をブッスリ突き刺しているのだ。全作は冷くなってことぎれていた。七時三十五分であった。


          


 翌日一日、警官たちが二階でごッた返していた。家族は下の小部屋に閉じこもって、わが家を占領した人々の乱暴な動作に呆れていた。この家でこの荒々しい動作が可能だということすらも人々は今まで考えたことがなかった。人々が鉄工所の中や工事場でしているような動作が、このキチンとした家の中でもやろうと思えばできるらしい。

 人殺しだって、こんなに思いきった荒々しい動作でやりやしないだろう。

 我慢しかねて抗議したのは、この家の者ではなくて、見舞いに来てくれた川田であった。もっとも彼は発見者の責任もあった。

「広間の陳列品は日本の一流の美術品だから気をつけて下さいよ。骨董屋の店先に並んでいるピカピカしたガラクタとは物がちがう。一ツでも、何万、何十万という珍品ぞろいだ。この品物と一しょにいると、品物が持主を殺したがるに相違ない。品物の面魂つらだましいを見てごらん。ジッとイノチを狙っているね。そういうのが三十や五十はあるだろう。なにしろ、本来の持主と一しょに、土の下の古墳の石の部屋の中にある石の棺の中に千年も二千年も眠っていた品々だからね。一枚の石のフタが四畳半はタップリある奴を五枚も十枚もならべた下に二千年も眠っていたのだ。怒っているよ。病人を殺した短剣だって、墓の中から出てきたものかも知れない」

 こうおどかされて、警官も単なる人殺しの現場以上に妖気がこもっているのに気がついた。人殺しなんてものは警官にとっては便所のようにありふれた物にすぎない。死んだ病人のウミの方が死人よりもイヤだ。同じ便所にしても健康人のそれが病人のそれよりも感じがいい。けれども要するに便所そのものは有りふれている。しかしこの現場には有りふれていない何かがあるらしい。その妖気に気がつくと、にわかに川田に威厳がこもって彼自身が妖気を放つ一人の偉人の如くに見えた。

 それと気がついた一人はナミ子であった。ナミ子は平凡な女だ。平凡な観察しかできなかった。しかしナミ子はこの人殺しを彼らが発見した直後の異様さは忘れることができなかった。その場には、ナミ子と川田とオトメの三人がいた。元々異様なオトメがそのとき更に異様な表現を示したのはフシギではないが、その異様さはいかにもただの異様さだった。川田の示したものと比較ができてそれが分った。ナミ子は思いだして人々にこう語った。

「殺されてる人のことに川田さまの注意がむけられてたのは一分足らずだったわ。私が気がついたとき、あの方の見ていたのは人ではなくて、人の周囲の物だったわ。殺された人を見ている目よりも真剣に見える目の色だったの。そして、燭台をかざしてグルグル歩いて一ツ一ツ見て廻ったわ。人殺しにとりのぼせて鵞鳥の喚くような声でオイノリしているオトメ婆さんなんてつくづく平凡でダラシがないと思ったのよ。ノッシノッシ一廻りしてきた川田さまの顔は静かなタダの顔でした。静かなタダの顔の怖しさが身にしみたのよ」

 妙子はこの言葉をきいてビックリした。その静かなタダの顔がアリアリと目の前に見えるように思われた。川田は銀行家だ。人殺しも血も墓から掘りだした美術品も人骨も、十円札と同じように一枚々々数えているタダの顔なのだ。

 殺された全作やその弟の大伍は、同じ十円札をかぞえても、銀行家のようにタダの静かさではない。人生万事にもっとダラシなく喜怒哀楽がこもっている。人々に呪われて生きていた全作は人を凍らせるように冷い人間だったが、殺されて冷くなったせいか、彼の冷さの凄味が甚しいものでないことが妙子に分ったような気がした。冷く見える冷さはタカが知れている。

 大伍は彼の職務の本体がなくなったから、便器を中心に一意精励努力する焦点がくずれて、その虚脱を最も象徴的に示しているのが鼻ヒゲだ。彼はもう川田のように妖気や威厳をおびて歩くことはできない。彼が昨日まで歩いていた部屋には川田が歩いている。そして彼自身は女中部屋でウタタネしていた。

「主人が死んでも女中はヒマをだされるとは考えていないな。女中は家についてる動物だ。犬は主人につき、猫は家につく、ところでオレは犬に似ている。葬式がすむと、新しい主人を探さなければならない」

 大伍はねころんで呟いた。

「オレの主人を誰が殺したか。そんなことはどうだっていいや。ただ彼が死んだということはオレ自身の問題だが、死んだ奴が地獄か極楽へ行くのにくらべて、オレの行先はハッキリしないな。ただこのウチがオレの住宅区域でなくなったのは疑えない」

 病人の家から家に無限の職場がつづいている成子にはこの心境は無縁であった。そこで成子は考えていた。

「この初老の浮浪児は楽天的だが、ウワベに見せていることと、腹の底とは違っているようだ。川田に妖気があるなんて、つまらない。ナミ子に見える妖気なんて、ちッとも凄味はありやしない。やっぱり人を殺すのは静かなタダの顔ではなくて、オトメのような気違いがやるのだ。その一瞬間には、そうでなければならない。外科の先生が患者の片足をノコギリで斬り落すようなタダの静かな顔で人殺しはやらない。勤務時間中は一意精励マイシンしている鼻ヒゲ男が昨日に限って二時ごろから七時までヒルネをしていたのは奇妙だが、ほんとにヒルネしていたのかしら。この男は何かを偽っているに相違ない」

 しかし、この時間には同時に成子もねていたのだ。そして彼女以外の女たちは、成子の疑問に答えてたちどころにこう証言したであろう。初老の鼻ヒゲ男は疑いもなくその時間には大イビキでねむっていた、と。むしろ成子がその時間に寝ていたことの方が人々には信じる根拠がない。十一時三十分にナミ子に叩き起されてから彼女が再びねたかどうかは誰も見ていやしないのだ。

 新十郎一行は午すぎに到着した。


          


 新十郎は一通りきいて、一通り見て廻って、一応概念をのみこんでから、もういっぺんテイネイに調べはじめた。

 実に珍奇な蒐集品だ。ヨーロッパの品物もある。病人が蒐集品と病める身体とだけで一室にこもって余人をまじえずにカギをかけきって同居生活をしていた心境は異様なものではない。「来い」という合図にオルゴールを用いていたとは、ほほえましい思いつきだ。電気時代の今とちがって昔の呼びリンは伏せた鈴の上のポチを手でチンチンと叩くのが普通であったが、リンのポチを叩くことよりもオルゴールの方がカンタンだ。軽いフタをあければよい。四五分も鳴っている。呼びリンを叩く力はオルゴールの軽いフタをあけるのと同じぐらいの力しかかからないが何回も叩かなければならない。このオルゴールの曲は「ホタルの光」だ。オルゴールは美術品ではない。西洋ではありふれたタバコ入れか菓子入れのような日用品だ。

「オヤ?」

 ネジをまいてオルゴールをかけた新十郎は小さな呼び声をあげで何かを見つめていた。

「病人はオルゴールをタバコ入れや菓子入れに使わずに、スズリ箱に使ったことがあるのかしら? 中にスミのあとがある。しかし、スズリも筆も今はない。オヤ。このテーブルの上にちゃんと立派なスズリ箱がある。病人の日常にはスズリを使うこともあった。現に昨日か一昨日は使っていますよ。まだスミがかわいていない」

 テーブルの上には彼の日常品があった。置時計や燭台やサモワル。それらは同時に珍しい美術的なものだが、四囲の古代のピカ一的な美術品にくらべると、現代の美術品には妖気がない。妖気は年代の与えるものだ。同じ楠でも樹齢二千年の楠を見よ。子供の妖怪はないのだ。

 そのとき川田が新十郎に話しかけた。

「病人がスズリを用いたのは昨日の朝八時半ごろでしょうな。私に当てて手紙を書いたのです。五万円おろして使者大伍氏に渡してくれという手紙ですな。むろん私はその手紙のようにしてやりました。彼は昨日の朝九時半ごろにはこの部屋で五万円受けとっている筈ですよ」

「そうでしたか。すると、八時半には彼はまだ生きていたし、そのとき新しくスミをすったに相違ない」

 新十郎の返答はスミの方にこだわっていた。しかし、川田のすました顔を見て、彼が何かを語りたがっていることを新十郎は見つけだした。そこで云った。

「で、その五万円が病人には特に必要な事情があったのですね。むろん、そうにきまっていますが、その事情を御存知でしょうか」

「私はバンカーにすぎませんから、彼の求めによって五万円さげてやっただけです。事情はたぶん故人の弟の大伍君、つまり銀行へ来た使者の人ですが、彼が知っているでしょう。しかし、三万円でも十万円でもフシギではないが、五万円という金額はちょッとタダではない。五万円に限って、彼のウミの匂いのようになんとなく臭いようですよ」

「それは?」

「結城さんは洋行からお帰りになって間もないから御存知ないかも知れませんが、あれは今から四五年前になりましょうか。一色又六の事件を御存知でしょうか」

「あいにく当時は洋行中です」

「一色又六は群馬県の小さな村の役場の小使です。役場の小使に落ちつくまでには、日本はおろか支那へまで行商にでかけ、そこで無頼の生活をしてきたような気性のはげしいナラズ者なんですね。ところで彼が役場の小使をしていたとき、村の誰かが珍しい古墳をほり当てたのです。群馬県は古墳の多いこと、また大古墳の多いことでは東国随一なんです。百姓が山上に畑を開墾するツモリで掘りあてた古墳でしたが、特に大きい古墳というほどではないが、横に入口のない石室が現れたのです。一枚三畳もあるようなフタの石が五ツも六ツもあるのですが、その一番小さそうなフタを持ちあげて外さないと中へはいることができないのです。一般に、古墳の石室には横に小さい入口があります。ところが、この古墳は大石のフタを外さないと中へふみこめないのです。そのために千年の余も盗人に掘られることがなかったのでしょう。村の者が集まって、大がかりに力を合わせて石を一枚外しました。すると、盗掘をまぬかれたせいか、または特に貴人の墓のせいですか、中から現れたものはピカ一の名品ぞろいでしかも多くが昔のままの姿をそっくり今にとどめていたのです。珍しい金銀宝石をちりばめた太刀も短剣もそっくりで、飾りの金は光っていました。ヨロイもありました。マガ玉の類は二千箇もでたそうですよ。百姓どもが発掘中に失敬して報告しなかった分を合わせると三千以上はあったのでしょう。しかし、それらの品々は他の古墳でも見られる種類のものでした。驚くべきことには、そのほかに多くの美術的な仏具が現れました。古来、古墳は仏教渡来以前のものと考えられていたのです。出土品に仏具類がないための断定にすぎませんが、特に横穴のない石室はさらに時代が古いものと考えられていたのです。ところがそのタテ穴の古墳から仏具がでた。しかもです。奈良の古寺でもまったく見ることのできないようなトビキリの仏象がでてきました。古墳の主が朝夕拝んでいた持仏でしょうが一尺五寸ぐらいの半跏像ですが、観音様だか何仏だか、ちょッと風変りで素性の知りかねるものであったそうです。黄金の仏像ですが、両手をヒザにそろえて一ツの玉を持っていました。この玉が古墳の中へ人々がふみこんだとき、ピカピカと閃光を放って燃えているように見えたそうです。まさに人々の目を射たのです。この玉だけは黄金ではなく、無色透明なものでした。そして専門家が出張して鑑定の結果、黄金は二十二金。ほぼ純金ですね。無色透明で閃光を放つ玉はダイヤモンド。一見して百カラット以下のダイヤではなかったのです。西洋の物好きな富豪がそれを一見して五万円で買いたいと村の役場へかけあいに来たそうです。発掘品の価値が大きすぎて学界の問題になったから、村の一存で売買ができません。五万円という驚くべき大金を涙をのんでみすみす見逃さなければなりませんでした。けれども、もしもダイヤの品質がよいものならば、実はダイヤだけでも二十万や三十万以下ではないのです。なんしろ百カラット以下では有り得ないダイヤだというのですから、品質によっては五十万以上、もっと高額を望めます。百万円以上ですらも有りうるのです。ですが、それを見た人々は主として全く宝石の知識のない百姓たちが、全部でした。その人々は五万円におどろいただけで、仏像自体の真価は知りませんでしたが、一人の村人だけが真価を感づいたのでしょう。そして役場に保管されていた宝石づきの仏像だけがいつの間にか盗まれていたのです。ケンギは仏像の盗まれた二三日前から行方をくらましていた役場の小使の一色又六にかかったのです。そして彼は数日後横浜で捕われたのですが、すでに彼は盗品の仏像を所持しておりませんでした。彼の申立てによると、外国人に売ったというのです。ですが、売った金も持っていません。それを追求されると、実はだまされて、まきあげられたと主張しました。そして、だました外人が誰だか分らないと云うのです。世間ではそれを信用しませんでした。どこかへ埋めて隠しておいたのだろうと思ったのです。そして彼は三年だかの刑に服しました。そして特に関心をもった人々はこう考えていました。彼が出獄した時こそは問題だ。彼は仏像をほりだして、今度はどう処分するであろうか、と。ところがですよ。彼が横浜で捕えられたとき、何だかワケの分らないかきツケ類の中に時信全作の所番地と姓名を書いたものがあったのです。それについて一色の言葉はこうでした。人の話で、この人が高価を惜しまず骨董を買う人だときいて書きとめておいたのだ、と。時信全作も一色に会ったことはないと証言した筈です。当時彼はまだ発病前の丈夫な身体でしたよ。私も好きな道ですから、このことは忘れておりません。もしも出獄後の一色がホトボリのさめてのち仏像の処分をするとすれば、時信全作のところへも当りにくる可能性は考えられる。それは当然の考えでしょう。ですから、私は五万円という金額の必要が時信全作に起ったのを知って、ただちにこのことを考えました。さては一色がいよいよ仏像をもって現れたな、と結論したのです。私はそれを確めに、午に一度、夕方に一度、ここへ来ました。しかし、それを確めることができないうちに、彼の死体を発見したのです。そして、五万円の有無は私に調べはできませんが、このコレクションの品々は一昨日までのものと変りがない。この陳列室の中には、私のまだ知らなかったものはありません。百カラットのダイヤを膝にのせた黄金の仏像はこの部屋には見当らないのです。しかし、全作氏が誰かに殺されている以上は、その仏像がここになかったという証明はできない。昨日は、イヤ、昨日のある時間までは、ここにその仏像があったかも知れない。私はむしろ在ったと確信していますよ。別に事業に投資しているわけではない全作氏が、そして起居不自由で隠れた生活をもつことのできない全作氏が、他にどのような必要があってそんな大金をひきだす必要があるでしょうか。私は彼の趣味を知っていますが、彼が五万円を投じても惜しまぬほどの珍宝は今のところその仏像しか考えられないと信じるのです。そして泥棒が人を殺しても盗む必要のあるものは、単なる美術品ではあり得ない。美術品には公定価格がなくて、趣味が問題ですから、人殺しに引き合うほどの価格はないのです。だが、あの仏像だけは人を殺しても引き合うのです。百カラット以上のダイヤモンドがついてるのですから」

 なるほど彼の話をきいてみると、彼が昨日二度も現れて全作の買い物を偵察したのは充分の理由があったということが分った。

 その仏像を持ちまわっている者があるとすれば、彼は村役場の小使で、その昔は支那まで行商に歩いたことがある人物だという。それは行商人伊助の風体に合わないこともなかった。

「あなたは仏像泥棒以外の犯人をお考えの余地がないでしょうか」

 と新十郎が川田にきくと、

「それはむろん昨日でさえなければ大アリですとも。家族はたいがい全作氏に好意的ではありませんでしたね。彼が死ねば幸福になれる人もあります。けれども昨日は別の日ですよ。私の銀行へ使者がとりにきた五万円の金がそれを物語っています」

 川田は静かに微笑して答えた。

「あなたは午すぎにいらしたとき、邸内をしばらく散歩なさッたそうですね」

「左様です。十二時十五分ごろから、かれこれ一時ごろまで、邸内を散歩しました。まずこの部屋のほかのところは全部のぞいて廻りましたね。一番のぞきたいのはこの部屋ですが、カギがない上に、女中さんが隣室にガン張ってるから忍びこむわけに行きませんでしたよ」

 ここに一ツの新しい事実が現れた。全作が昨日五万円を必要としたのはいかなる事情によるものであるか、それを突きとめることが必要だ。

「さて、それでは時信大伍さんに来ていただいてお話を承りましょうか。だんだんもつれて、これから何がでてくるか分らない形勢になりましたな。陽のあるうちに現場の調査が一応終ってくれればよいが」

 卓上の置時計が三時をうった。一風変った美術的な時計だから音も澄み渡って美しいこと夥しい。だが、ふりかえって時計を見た人々は、時報と同時に妙なことが置時計の中ではじまったので驚いた。装飾のある円柱の上に文字盤がある。その円柱の左右に一人ずつの女の踊り子の像が立っていたが、時報と同時に、この踊り子が踊りはじめた。踊りながら円柱を各々半周し、中央ですれちがい、踊りが終ったときには、右にいた踊り子が左に、左にいたのが右に、入れ違って静止した。次の時報になると、また入れ違うのであろう。手のこんだ置時計であった。

「これは珍しい時計だ」

 と虎之介が驚いて音をあげると、

「いえ、この程度のことは普通です。もっともっと手のこんだ仕掛け時計はざらにありますよ」

 と川田が虎之介をたしなめた。虎之介がむくれたのは云うまでもない。この一言で、虎之介の犯人は川田にきまったようなものだ。


          


 大伍が現れたので、新十郎は足労を謝して、それから五万円の件をきいた。大伍は隠す風もなく、昨日朝来のことを余すところなく語った。行商人伊助が控えの間に一人で残ったところでは人々は息をのんだが、大伍が戻ってきて再び二人で病室へはいったので人々は安心した。

「で、行商人伊助は実は一色又六ですね」

「そうです」

「彼がその朝八時にくることは、いつから分っていたのですか」

「ちょうど一週間前、先週の月曜日です。無名の封書が来たのです。役場の小使と申しても、金クギ流の文字ではありませんでした。私は兄によばれて封書の内容を読まされたのです。出獄後一年あまり余念なく行商に身を入れたので、人々の疑いもはれ、誰も怪しむ者がなくなったから、仏像をほりだして持ってゆく。織物の行商人伊助と名乗るから左様御承知ありたい。文面から判断して、まちがいなく直筆です」

「すると兄上は前にも一色とレンラクがあったのですか」

「兄の語るところによりますと、一色は仏像を盗みだすと、五万円で買いたがった外人を追って探しあぐねたあげく、捕われる前日、兄を訪ねて来たそうです。その時から仏像は所持しておらなかったそうです。利口な男で、盗品は隠しておいて売り口を探していたのですね。そのとき兄は自首をすすめ、外人にだまされて詐取されたという言いヌケも兄が教えてやったということです。そして一応服役して、それから品物を持ってこい、五万円で買ってやると約束したと申していました」

 人々はタメイキをついた。そして新十郎の質問を期待した。彼は訊いた。

「一色は仏像を持ってきましたか」

「持ってきました。一尺五寸ぐらいの黄金の像で、まさしく膝に大きなダイヤが光っていました。兄は仏像とダイヤが別々にはずされて、原形を失うのを恐れていましたが、そっくり原形のままで、両手の指は意外にもきつくダイヤを抑えていて、ミジンも動かないのですよ。そこに職人の技術がこもっているようだと兄は感心していましたよ。仏像そのものが美術的にも名品だと後で兄はもらしました。彼が予想以上に気に入ったのは私には一見して分りました。もうそうなれば五万円なんぞは眼中にありません。私にスミをすらせ、筆をとって川田さんに一筆したため、以下のテンマツはすでに申上げた通りです」

「その仏像はどこへ置きましたか」

「この卓の上です。置時計の横へおいて、兄はねて眺めていました。私が知っている限りは、仏像はそこにあったのです」

「あなたが最後にこの部屋へはいったのは?」

「それはナミ子がカギを失ったと申して心配していたあとでした。十二時ちょッと前ぐらいです。兄はコンコンとねていました。ツケヒゲを拾いました上に、ナミ子がカギをとられたと申すので誰か北のドアから侵入したかも知れないと疑いましたが、仏像はそのときもまだこの卓上にたしかに在りました。私は不安になりましたから、よっぽど一存でどこかへ隠そうかと思いましたが、兄が目をさましたときの驚きの大きさを想像して、思いとどまったのです」

「それ以後は?」

「昼食後グッスリねこんで、事件が発覚するまでこの部屋へ来ませんでした」

「兄上が殺されたと聞いて、どんなことをお考えでしたか」

「メンドウなことは考えません。仏像はたぶん盗まれたと思いましたよ。そして、その通りでした。さすれば、犯人は多くの人では有り得ませんな。私が考えたのはそれだけですよ」

「なぜ犯人は多くの者ではあり得ないのですか」

「恨みがあって殺したものは、ついでに何かを盗むにしても、あの仏像に特に目をつけないでしょう。あの仏像だけが昨日買い入れた新品だということは、ふだんここへ出入している少数の家族と友人しか知りません。特にそれが曰くづきの珍品だということを知っているか察しているかした者は、決して多くを数えることはできませんな」

「手近かな卓上にあって、黄金製で、ナリが小さくて持ち運びが便利だから、フリの泥棒がついでに盗むことも考えられるではありませんか」

「なるほど。そんなものですかな」

 と大伍は気の乗らない生返事をした。

 次にこの部屋の隣りにいて人の出入に注意をくばっていたナミ子をよんだ。ナミ子は伊助が特別な人物だとは教えられていなかったから、

「いかにも無口な田舎者のようでした」

 と表現した。

「お前が最後にこの部屋へはいったのは?」

「私は朝の七時前によばれて伊助さんを迎える用を仰せつかってからは一度もはいりません。オルゴールが鳴っておよびの時だけしか入らないのです。十一時にオルゴールがなりましたが、カギがなくてはいれませんでした。それ以後は、私がここにいるうちはオルゴールはなりません。旦那様は熟睡だと安心しておりました。私がここにいたのは十二時半ごろまでで、中食に下へ降りてからは、概ね女中部屋にいました」

「ほかに怪しいと思ったことはないかね」

「申し上げただけが全部です。カギを盗んだ人が北のドアから忍びこんで旦那様を殺したのだと思います。私が隣室に控えている最中でも、北のドアから入ってきて殺すことはできます」

「お前は、自分がここに居る間に主人が殺されたと思っているのか」

「いいえ。そのとき殺したのではないでしょうが、私が見張っていても殺すことができたという意味です。たとえば伊助さんにしても、庭木戸から戻ってきて殺すことができます。しかし伊助さんは犯人ではありません」

「どうして分るね」

「あの人が殺す筈はありません」

 それから訊問は家族全員に一巡した。特に注目すべき者は、犯人であるなしは論外として木口成子が筆頭であろう。大伍とナミ子のほかに全作の日常に近侍していたのは彼女だからだ。彼女は冷静にこう答えた。

「別に思い当ることは前日まではありません。その当日はいろいろのことが変っていました。伊助さんの訪問、習慣の変化もそうですが、伊助さんの来訪をまつ旦那様は生き生きとしていました。もっとも、それは兇事の前ぶれではなく、私は良い事の前ぶれだと思っていました。ですから、カギが盗まれたとナミ子さんが蒼くなって起しにきた時にも、私は兇事を考える必要はないと思っていたのです。とにかく、殺人が夜間に起らなくてシアワセでした。私は見かけほど気が強くはないのです」

 最後によびだされたのはオトメであった。その日人が死ぬことがなぜ分ったかという問いに、答えはカンタンであった。

「神様のお告げですよ。あの人が私の云うことをきいて、私をよんで、オイノリをあげて下さいと仰有れば、こんなことは起りません。神様がついております。神様が親切に教えて下さるものを、あの人がそれを素直にきいて私の言葉を信じないから、こうなります。自業自得ですよ」

「ドアの前や庭なぞでオイノリをあげたそうだが、きかなかったようですね」

「そうですとも。本人がその心掛けで、神様におすがりしようとしないから、きく筈はないじゃありませんか。私がいくらオイノリしたって、本人次第ですよ」

「最初に現場を発見した一人だということですが、そのとき何か直感したものはありませんか」

「いえ、もう、それはモロモロのことを直感しました。まず第一に、ああ気の毒な、自業自得、だから云わないことじゃない。そうでしょう。人間は常に家庭に気をつけなければいけません。ワザワイは塀の外からは来ませんよ。ビリッとひびいて、匂ってきたものがありました。ウミの匂いもありましたけど、甘ズッパイ匂い、ビンツケの匂いのようなものがありましたね。私はこれを神様がお知らせになる女の匂いだナとビリッときましたね。この部屋に私たちの前にはいった最後の人間は女ですよ。この犯人は絶対的に男ではありません」

 オトメは自信満々、断言した。

「怪しい人の姿をあなたの目で見かけたことはありませんでしたか」

「肉眼で見えるようなことを、この犯人は絶対に致しません」

 婆さんは断言した。そして、現に神様が彼女にのりうつっているかのように身震いした。


          


 その翌日、横浜出帆の汽船で支那へ行こうとする一色が捕えられたと報じられたが、新十郎はそれにとりあわずに、何かに没頭していた。もういっぺん現場へ調査に行く必要があるからその日の正午に参集するという約束で、みんなの顔がそろったとき、新十郎は明るい顔で書斎からでてきた。

 新十郎がでてきたあとの書斎にはオルゴールが鳴っていた。

「ほら、オルゴールがきこえるでしょう。あれを一晩ひねくりまわしていましたよ。もっともウチのオルゴールはケンタッキーホームですがね。そして、私のオルゴールはタバコ入れです。スズリ箱に用いたことはありませんのでね」

 そして一同を見て、笑って云った。

「今日も調査に行くつもりでしたが、もうその必要はないようです。なぜオルゴールがスズリ箱の代用に用いられたかが分ると、犯人は分るのです。さて、犯人を取り押えにでかけましょう。本日は予定が変りましたから、泉山さんにはお気の毒ですが、氷川詣でができませんでしたね。私も海舟先生のお説がうけたまわれないので淋しいのです」

 虎之介は煮えきらぬ顔だ。オルゴールのスズリバコとは何だ? 海舟先生の邸にはオルゴールはなかったようだな。しかし先生も西洋のことは得意だから、オルゴールのスズリバコを海舟先生に解かせたかった。新十郎の青二才め、オルゴールなんて西洋のオモチャで日本人をおどかして威張りやがるなア、ああ残念だと口惜しがっている。一同は時信家へ急いだ。(ここで一服、犯人をお当て下さい)


          


 一同が到着すると、時信家の現場はまだ片づかずにごッた返している。葬儀がいつになるやら、まだそれもハッキリしない。カンジンの心棒たる唯一の男の大伍は葬式がすむとクビだと心得て、この日は朝から新しいネグラを探しにでかけたそうだ。残ったのは女どもだけ。その中でシッカリした気性の成子は次の看護の口さがしに、これも朝から出かけていた。新十郎は現場にいた警官一同に退席してもらい、一同を隣りの部屋へあつめ、自分だけ陳列室へはいってカギをかけてしまった。三十分ほどすぎた。新十郎は笑いながら出てきた。そしてまたカギをかけた。

「お待たせしました。仕掛けは五分とかからなかったのですが、一定の時刻があるので、ウトウトしてヒマをつぶしてきました。私がそうだから、皆さんは尚退屈なさったでしょう。さて、部屋のカギは事件の当日以来一ツしかなくなって、それは目下私のポケットにあるのですから、カギをかけて密封した陳列室はいかに大なりといえども人間の忍びこむ方法はありません。さて、無人の陳列室に何が起るか、二三分御辛抱ねがいます」

 新十郎は葉巻をとりだして火をつけた。ウミの匂いのこもっている人殺しの部屋の匂いにヘキエキしたのか、珍しく葉巻なぞというものをポケットへ忍ばせてきたらしい。もっとも彼が出がけまでいじっていたオルゴールの中の品物かも知れない。

「シッ!」

 新十郎が一同を制した。一同は驚いて静かになった。すると無人の陳列室にオルゴールが鳴っているのがきこえてきた。一回、二回とオルゴールは同じ曲をくりかえしている。

 新十郎は云った。

「皆さんは事件当日十一時にオルゴールが鳴ったことを思いだして下さい。そのとき、ここにはナミ子がいました。ナミ子は主人がよんでると思ってドアをあけようとしたが、カギが紛失していました。カギが紛失しているわけですよ。つまり、カギを盗んだ犯人は、陳列室へ忍びこむために盗んだのではなくて、十一時にオルゴールが鳴ってもナミ子が中へはいれぬように盗んでおいたのです。ナミ子がはいると、犯人には困ったことが起ります。なぜなら、オルゴールを鳴らしているのは主人ではなかったのです。主人はそのときすでに殺されていました。ではオルゴールを誰が鳴らしているかというと、それは犯人が鳴らしています。しかし、犯人はこの部屋の中にはおりません。居らなくともオルゴールの鳴る仕掛けが施してあったのです。そのとき犯人はよその部屋にみんなに顔を見せていました。そしてオルゴールが鳴り、ナミ子がカギがなくてウロウロしていることをチャンと心得ていました。充分に人に顔を見せておいてユックリ散歩にでました。オルゴールが鳴る以上はこの時間には全作がまだ生きている。だからこの時間以後のアリバイがありさえすれば彼は犯人と疑われる筈がありません。このアリバイに狂いはありッこないのです。なぜなら、彼の予定の時間をずれてオルゴールが鳴るという心配は絶対になかったからです。そんな大胆な確信がなぜ生れるかと申すと、その種アカシはカンタンすぎるのですがね」

 新十郎はドアをあけて一同を部屋の内部へ案内した。卓上に在った物の位置が変っていた。常には寝台附近の別の小卓上のオルゴールが大きなテーブルの上に移され、置時計の位置が反対側に変っている。

 オルゴールのフタの中央についてるカギの孔に糸がむすびつけられている。糸の一端は置時計の踊り子の一人の胴に結びづけられていた。それだけのことだった。

「踊り子がうごきだすと、糸をひッぱる。置時計の直径は八寸ほどありますから、踊り子がオルゴールのフタをあけるには充分すぎますよ。で……」

 新十郎はニヤリと笑って、オルゴールの箱を手にとって、中からスズリをとりだして見せて、

「フタがあいた拍子に軽いオルゴールの箱がバタンと音をたててひッくり返りでもするとヤッカイですから、中へスズリを入れておきました。この部屋にはいろいろな骨董があるが、オルゴールの箱に入れることができてオモリの役を果す品物というと、まったくスズリぐらいしかありません。オルゴールにスミをつけてしまったのは犯人の大失敗ですよ。できれば置時計も隠すか止めておくかすべきでしたね。もっともこの置時計は一週間まきの時計ですから、こわさないと途中ではとめられない。もう犯人はお分りでしょうね」

 新十郎にこう訊かれて、虎之介はハトが豆鉄砲をくらッたようだ。海舟先生がついていないと、この男の威勢のないこと夥しい。仕方がないから新十郎は説明をつけたした。

「十一時にオルゴールが鳴ってから、この部屋へはいった人が犯人にきまっていますよ。なぜなら彼はこの部屋の主人が死んでいることも、時計とオルゴールの仕掛けも見ていながら、部屋の中には変りがなかった、病人はコンコンと眠っていると申しているのですからね。そして、十一時以後にこの部屋へはいった人は、今や残った唯一のカギを握っている時信大伍氏だけにきまっています。彼以外の者がこの部屋へはいることができないようにカギを盗んで隠したのも彼の仕業にきまっています。誰かの手に他の一ツのカギがあると危くて仕掛けができません。ナミ子が伊助を送りだしているとき仕掛を施し、十一時すぎに一度だけはいって仕掛をはずして元通りにして、ツケヒゲを拾ったなぞと尤もらしいことを云っていたのです」

 大伍は夕方戻ってきて捕えられた。

底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房

   1998(平成10)年1120日初版第1刷発行

底本の親本:「小説新潮 第六巻第八号」

   1952(昭和27)年61日発行

初出:「小説新潮 第六巻第八号」

   1952(昭和27)年61日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※表題は底本では、「明治
開化
安吾捕物」となっています。

※初出時の表題は「明治
開化
安吾捕物 その十八」です。

入力:tatsuki

校正:松永正敏

2006年523日作成

2016年331日修正

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