明治開化 安吾捕物
その十一 稲妻は見たり
坂口安吾
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雷ギライという人種がある。まア人間は普通カミナリがキライのようだが、特別キライという人種があって、私の知人にもカミナリがキライで疎開このかた伊東の地に住みついてしまった人がある。伊東は年に四、五回、遠雷がかすかにカミナリのマネをしてみせる程度で、片道三時間の通勤は不便だが、ヘソをぬかれる心配のない平和に替えられないと彼は云っている。
なるほど東京はカミナリの多いところだ、私は矢口の渡しに住んでいたころ、処によると物凄いカミナリになやまされたものだ。矢口のカミナリは武蔵新田の新田神社へ落ちる、とあの辺の人々は信じている。人々は新田の神様の悲しくて荒々しい最期にむすびつけての意味を含ませて云うのかも知れぬが、事実あの杜へはよく落ちる。戦争で新田神社の杜が吹きとばされて消滅したから、カミナリも戸惑ってるだろう。矢口のカミナリは主として大山の方角に発生した雷雲が横浜経由でのりこんでくるのである。一ツの地域へ五六年もすめば、それぐらいのことは分るようになる。
ところが伊東の地へ住みついた雷ギライの先生にはおどろいたが、雷ギライというものは、こんなに猛烈なものでしょうか。彼は東京のカミナリ地図というものを自分でこしらえて所持している。東京を襲う雷雲はどこどこに発生するか。雷雲は各自その進路が一定しているそうで、彼は東京のあらゆるカミナリの進路をしらべあげて、時として進路の変化がある場合はもちろんのこと、どこへ落ちたか、約二十年間にわたって東京のカミナリのあばれた跡が一目で分るようになっている。かりに二十年間に同一地点に発生する雷雲が五百回あったとして、三百回以上同一進路に当った地区は赤色、百回以上がダイダイ色、五十回以上が黄色、十回以上が薄ミドリというように色分けになっていて、この地図を見ると、他の雷雲に二重、三重に見舞われる地域もあるし、まれにどのカミナリの進路にもかからない小さな谷間のようなのもあって、これをカミナリ相手の隠れ里というのであろうか。
このように完備した地図がどうして出来上るかというと、各地域に雷ギライの主のようなのが必ず住んでいるものだそうで、雷のなるたびに半分気を失いながらも必死に手帳とエンピツを握って進路を記録し、また翌日は落雷の地点をたしかめ、各地域の主と主とで記録を交換しあう。主から主へとレンラクはたちまちつくものだそうで、一致団結してカミナリ相手にどういう陰謀をたくらむというワケではなく、特に主同士で私交を深めることもないが、ただカミナリの進路をたしかめて各自の記録を交換しあうという一事に対してのみは神代説話的な執念と共鳴があるもののようだ。彼らがお金持ちの場合は、隠れ里の旅館をつきとめておいて、カミナリの気配がピンとくると取る物もとりあえず電車にのったり円タクをひろってその旅館へとびこむ。すると、よその土地の主も五六人相前後してアタフタととびこんできて、蒼ざめた常連の顔が揃う。カミナリがやむと、にわかに気焔をあげるようなことはなく、なんとなく散会するものだそうだね。隠れ里へ駈けこむ順がほぼ極っていて、特に、一番、二番、三番、という頭の方は狂うことがない。というのは、つまり同じ主のうちでも、他の主よりも一時間も早目にカミナリをピンと感じる特別なのがいるからで、以下四十分早目、三十分早目というようにピンの感度は定っていて狂わない。実に主のピンは測候所の機械よりも確かなもので、かほどの霊感がありながら、と思われるものの、この主の親分が世間的に出世した話はあんまりきかないそうだね。
さて、その晩は一月おくれのお盆がすぎた八月十八日のことであった。東京のカミナリはユウレイのように出現の時間は定まらないが、夕方前後のがわりに多くて、暴れ方も特別だという、これも一人の主の説である。
ところがその晩のカミナリは、ピカリと光りだしたのが九時ちょッと前、八時半ごろ。主でなくてもピンに相違があるのか、カミナリのピカリがいつ始まったか、これは仲々わかりませんよ。
九時ちょッと前か、八時半か、とこれが後日の問題になったのは、本郷駒込の母里大学という役人の邸の話。このへんはお寺の多いところで、八百屋お七ゆかりのお寺もこのへんのこと。母里大学邸も、塀の隣が墓地ではないが、裏の半町ほど先は墓地である。
主人の大学は今で云うと農林省の相当のオエラ方の役人で、年は四十七。先月の終りから北海道へ官命で視察にでて、二十日すぎでないと戻らない。ところが留守の家族は、今度のお盆によんどころない墓参の都合があって、主人が出張で行かれないから、妻ヤスノ(三四)が多津子(十五)秀夫(十二)大三(七ツ)の三子をつれ、家令今村左伝(六二)同人妻カメ女(五五)と、ハツエ(二二)佐和子(十七)という二名の女中をも供にしたがえて故郷九州に旅立ち、これも明十九日か、二十日ごろまで戻らない。
残っているのは大学生の長男由也(二三)。あとは召使いだけで、三枝子(十八)オソノ(十八)の女中二名と、馬丁の当吉(三八)同人妻ラク(三六)、主従合せて五人だけだ。さて、このうちの三名までが、主というほどでもないが、その次席ぐらいの雷ギライで、
「留守中心配もあるまいが、カミナリの時だけは気がかりですね。その時だけは三人のカミナリ病人はとても仕方がないのですから、三枝はシッカリして下さいよ」
と、主婦ヤスノは出発に際して笑いながらもこう言い残したほどである。当吉夫婦とオソノはまさしくカミナリ病人で、カヤをつり、フトンをひっかぶって、呼べど叫べど叩けど、主命とあってもカミナリの音あるうちは汗のしたたるも意とせずフトンをかぶり通すという手の施しようもない病人であった。
家令今村夫妻のどちらかが留守してくれると心配はないのだが、このたびはよんどころない重大な墓参、心きいた夫妻がいないと差支えがあって、どちらを残すわけにもゆかない。しかし当吉夫婦はカミナリ以外の時は信用のおける人たちだから、特に留守中が不安というほどではなかった。
邸内には馬小屋と並んで馬丁当吉夫婦の小住宅がある。主人不在中だから妻ラクだけは本宅の女中部屋へ泊りこんでいた。そこで当吉は女中部屋で一同と夕食を共にしてからいったん自分の小屋へ戻ったが、ピカリときたので、うかない顔で本宅の女中部屋へ現れたのである。とても一人でピカピカゴロゴロに抵抗できない心中察すべきである。
そのうちにゴロゴロがはじまったので女中部屋にカヤをつり、一ツのカヤ中に男女寝床を並べるなどということをトヤカク考える理由はこの際の三人の当事者には一切念頭にないのだから、すこしでも味方の多いに越したことはなく、いそいで三ツの寝床をしいて三人のカミナリ病人はフトンをひッかぶり、貝が敵襲をふせぐようにピッタリとフタを閉じてしまったのである。フタをとじるのはピカピカの侵入をふせぐためと、ゴロゴロの音を小さくするための最上の策だ。
そのうちに雷雨が猛然ときたから、三枝子は各部屋の雨戸をしめてまわる。大学生の由也は夏休み中でもあるが、父母が居ないから連日外出して帰宅がおそく、時には泊ってくるようなこともある。外泊は今まで例のないことであるし、帰宅が十一時十二時をすぎることも父母の居るときは例の少いことであったが、父母の不在になってからは殆ど連日のことで、この日もまだ戻ってこない。三枝子は各部屋の雨戸をしめ、門もしめてクグリ戸だけカンヌキをかけないでおいた。また、由也の部屋には寝床をしき、机上の燭台に火ウチ石とツケ木をそえて、彼が帰宅してもまごつかぬように揃えておいた。また土ビンに水をいれて湯呑みを添えて枕元へおいた。
三枝子が以上のことを果したことがなぜ判るかというと、三枝子が各部屋の雨戸をしめるために立上ったとき、当吉がフトンの中から声だけだして、門をしめることをたのみ、ラクは由也の寝床のことをたのんだ。これは両者の果すべき役割で、この家のサムライ気質のせいか、由也の寝床の始末だけは若い女中がやらずにラクがやる。
さて三枝子が頼まれたことを果して戻ってくると、当吉はフトンのフタをあけずに、クグリ戸のカンヌキはかけずにおいたかと確かめたし、ラクは机上の燭台のことと枕元の水のことを確かめ、由也はまだ戻らないことも確かめた。
いよいよゴロゴロが頭上にせまってきた。ピンピンキーンとはりさけるような落雷音。天地はわれる思い。由也が帰宅したのはそのさなかである。三枝子が「ハイ」と叫んで立上ったようだから、オソノが、
「なアに?」
フトンのフタをあけずにこうきいた。オソノだけが質問したのは、まだしも彼女が一番生色が残っていたせいらしい。
「お帰りのようだわ。今、そこでお手が鳴ったの」
三枝子はこう答えて去った。お手が鳴ったというが、雨戸をうつ豪雨の物すごい音のさなかではあるしフトンのフタをシッカと閉じた三名にはそのお手の音がきこえなかったが、三枝子はそこでお手が鳴ったという。由也の部屋は女中部屋からズッと離れていて、大豪雨と大雷鳴の最中に部屋でお手を鳴らして聞えるとは思われないから、わざわざ女中部屋の近くまできてお手を鳴らしたものらしい。玄関にも距離があるので、由也が玄関の戸をあけて戻った音は三枝子に判らなかったらしいのである。それが判れば彼女は立って迎えたはずであった。
この晩のカミナリは実に長時間にわたった。由也が戻ってきたのは九時半ぐらいから、十時までの間だろうと考えられている。とにかくその時は大雷雨の真ッ最中であったが、この晩のカミナリは母里大学邸を中心にそのまわりを二回三回四回とゆっくり散歩しているのか、前後左右の天地を割り裂きつつ、遠ざかると思えば近づき、右にまわれば、左に引き返し、実に十一時をすぎるまで大雷雨がつづき、ようやくハッキリと遠ざかったのは十一時半。十二時をすぎても、まだ思いだしたように、雷鳴が起っていた。
三枝子はなかなか女中部屋へ戻らないようであったが、由也の帰宅がいつもより早く九時半か十時ごろであったし、おそく帰宅して食事するのはこの連夜その例があるから、前もって夜食の用意はととのえておいたし、三枝子は台所で、用意のものを取り揃えて持参し、それらの用で当然時間がかかっているのだろうと、誰も怪しまず、そのうちに三人ながら眠ってしまったのである。
まッさきに目をさましたのはラクらしい。まだ雷鳴もはげしく豪雨もあった。それから三四十分以上もたったらしく、どうやらハッキリ遠方へ去って、雷鳴がかすかになったので、カヤの外へでて手燭に灯をつけて、女中部屋の柱時計を見ると、十二時十分前だ。そこで亭主の当吉をゆり起して、お前さんは帰ってお休み。いつまでも女中部屋にねていちゃいけないよ。どうやら雷もやみそうだから、と彼の小屋へ戻らせた。当吉がモゾモゾ起きつつあるときにもピカリときたが、よほどたって遠雷がきこえた。いッたんハッと坐ってしまった当吉は、遠雷の音をたしかめて安心して去ったのである。ラクはオソノをゆりおこして、
「あなたも寝こんだのね。三枝ちゃんはどうしたのだろう? もう十二時だというのに、どこにいるのかしら? 私たちがカヤの中イッパイにフトンをひッかぶっているから、よその部屋でねていたのかも知れないわ。カミナリがやんでみると暑いのが分るわねえ。雨戸をしめきっているのだからねえ。三枝ちゃんは暑くッてこの部屋に居たくなかったのだろうね」
実際オソノも汗グッショリであった。もう一ツの女中部屋にも三枝子の姿はなかったが、湯殿の隣室の化粧部屋とか、下の者の出入口につづく控えの小部屋のような涼しそうな部屋が諸々にあるから、そこに寝ているのだろうと話し合って、別に気にかけずにねむった。二人が眠りにつきそうなころ、裏庭にちかい井戸の中へ何かが落ちたのかボーンバシャッという大きな水音がきこえた。ラクは自分の気持では首を浮かしたように思ったが、実は首を浮かそうと思っただけで、彼女の身体の過半を占めかけていた睡魔が実際の行動をとめていたようだ。
「何か音がしたわね?」
ラクがこう呟くと、
「そうね」
オソノが答えたが、ラク以上に睡魔に占領された声であった。
「裏庭の井戸じゃアないかしら?」
「そうね」
その返事に生気ある手応えがないのでラクもそのまま寝込んでしまった。こうして三枝子の姿は邸内から掻き消えたのである。
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翌朝二人は三枝子が彼女らの使用しうるどの部屋にも寝た形跡がないのに気がついたし、第一、由也の夜食に用意したものがそッくり台所の置かれた場所に在るのにも気がついたが、まだ二人はさのみ疑る心を起さない。掃除に立ったオソノが台所で食事の仕度中のラクのところへ戻ってきて、
「玄関が大変よ。由也様は玄関へお吐きになってるわ。玄関は足跡で泥だらけ。下駄がないのですもの。大方カミナリで慌ててお駈けになって、夜道で下駄をなくなされたようね」
泥の足跡があんまりひどいらしいので、ラクも行ってみると、なるほど泥の足跡が入りみだれている。吐いた汚物は洋書の上にかかっており、由也は吐くためにかがんだとき所持した本を落してその上に吐いたのかも知れない。
「ナマのようなネギだのシラタキだのお肉のようなものだの、スキヤキをそっくり吐いてらッしゃるよ。この本はどうしたものかねえ」
汚物には灰をかけて、すくッて持ち去ってオソノが便所へすてた。洋書は汚物を洗って干したが、一夜汚物の下になっていたから、紙を傷めないように洗うのは大変だった。玄関の戸締りもしてなかったし、クグリ戸のカンヌキもおりていないのは泥酔のせいであろう。
さて足跡であるが、誰かが一応ふいたようなところもある。しかしクラヤミのせいか、よく拭きとられていないのだ。
「お手を鳴らしにわざわざ歩いていらしたのよ」
台所の近いあたりまで来たらしい足跡がある。しかし、玄関のところにベタベタと諸方に泥のあとがあるのは、そこでよほど難渋したのであろう。玄関のヘドでも難渋の理由が分るようだ。
「三枝ちゃんがクラヤミで拭たのでしょうか。よくふきとれてないけど」
オソノはそんなことを呟いて、由也の寝室の入口まで泥の跡をたどって、みんなキレイにふいた。来客用のお座敷の次が仏間、それから由也の部屋だ。ところが、座敷の床の間の青磁の花瓶と、飾り物の大きな皿が、二ツながら割れている。皿の方は柿右衛門の作とか、青磁は支那の逸品とかで、母里大学という人は陶磁器に趣味がありその所蔵品には相当逸品があるそうだが、この二ツは特に彼の愛蔵の自慢品で、女中たちはその取扱いにはかねて特別の注意を厳命されていた。自分が割ったのではないのに、それを見ただけでオソノは真ッ蒼になってしまった。おどろいてラクにしらせる。二人は顔を見合せたままゾッと立ちすくんでしばし言葉もなかったが、家宝の品物の破損、三枝子の行方、それまで実際の不安となるに至らなかった三枝子の行方不明が、にわかに決定的な怖しい事実として迫ってきた。
あの裏庭の井戸の中へ何か落ちたらしい音。
日本人には誰しもピンとくる筈であろうが、女中という身分の者には特に身につまされることでもあろう。特にそれが貴重な瀬戸物であれば、ケースは全く同じではないか。番町皿屋敷。
ピンときて、ゾッとして、以心伝心、蒼ざめて立ちすくんで、とても言葉には語り得ず、語らなくともピンピン分り合う二人であったが、馬丁の当吉は男のことで、
「なア、オイ。ゆうべオレが小屋へもどって、さて、寝ようというときに、ボシャーンという大きな音がしたなア。たしかに裏庭の井戸だと思うが、まさか……」
二人の女はその三分の一も聞かないうちから、もう、やめて、と手を合せて拝みたいほどの怖しさ。
午ちかくなって、ようやく由也が起きたから、貴重な品物の破損を示して、何かお気づきのことが、ときくと、
「ウム。そうか」
由也はうなだれて何か考えこむ様子。その顔色の蒼いのは深酒の宿酔のせいか。まるで彼自身がこわしたようにジッと考えこんでいたが、
「三枝があやまって、こわした。雷鳴のせいか、よろけてその上に倒れたのだ。そして、泣いていた」
泣いていた。そこに全てがつきている。泣いていた三枝子の悲しさが彼女らの背中を水が走るようによく分る。当吉はお人好しだが、大の弱虫。三枝子が中に死んでいると知って井戸へ降りられるような男ではない。セッパつまって警察へ届けると、相当上の警官と若い巡査が井戸屋をつれてきてくれた。おどろいたのはラク。宿六の大弱虫野郎め。由也様のお許しもうけずに巡査にたのむとは。慌てて巡査と井戸屋を待たせておいて、急を由也につげる。そのとき由也は茶の間でオソノの給仕でようやくおそい朝食であったが、裏庭の、ときいて、
「エ?」
ギョッとして、信じられないらしく、次には怖しい想像に打ちのめされたらしく、
「裏庭の……」
井戸という言葉が言い切れないらしいのだ。オソノとラクがそうで、朝からまだ一ぺんも、その問題の中心たる名詞だけ発音できない始末であるから、同感によって三人ながらゾッとしてしまう。
「裏庭の……。そうか。それを巡査が。そうか。仕方がない。そうだったか」
病みつかれたような、よくききとれないような衰えきった呟き。まもなく、ポトリと箸を落した。ジッとうなだれていたが、食事の途中だというのに、ヒョッと立ち、フラフラと茶の間を去って、自分の部屋へ戻ってしまった。
オソノがあとからお茶をもって行くと、由也は机の前にボンヤリ坐りこんでいたが、
「もうお食事はよろしいのでしょうか」
ときくと、由也はそれに答えずに、
「三枝が裏庭の井戸にとびこんだのを誰が見たのか」
「私ども一同が水音をききました。誰も見た者はありませんが、あの皿屋敷のように」
そのときだ。実にその瞬間、由也はまるで目マイでも起したのか、フラフラフラと、身ぶるいを起して、ホッと一息して、
「そうか。皿屋敷か。そうだったか」
すくむように、うなだれてしまった。
ところがフシギなことが起った。井戸屋が井戸の中をしらべてみると、女中の死体などはないのである。なにぶん大豪雨のあとだから井戸水はおどろくほど増水して、深い井戸だが、相当水がせり上っている。とても底までくぐることができない。棒を突ッこんでみると、水の深さ四間半もあって、とても底まで潜って調べられない。棒でついて慎重に探してみたが、どうも何もないようである。上役の警官は気が強くなったのか、
「どれ」
と、自分もフンドシ一ツになり、井戸の中へ降りて水中をよくかきまわしたのちに、
「オレは房州生れだからアマの作業を見て知っているが、四五貫の石をつけると底まで一気に楽に沈んで調べることができるだろう。手の石を放せば浮くのは楽だ。四間半なら大事あるまい」
二人の井戸屋に命じて息綱を腰にまかせてイザというとき引っぱりあげる用意をしてやり代る代る石を持たせて底をさぐらせ、自分も同様な方法で三べんも底へくぐって調べて、遂に井戸の中に誰の死体もないことを見とどけたのである。
「この井戸に身投げしたものは確かに居ないぞ。この近所に、ほかに井戸はあるのか」
むろん当時のことで井戸のないウチはない。母里家の台所は田舎風の土間になっておって、台所の中に内井戸がある。そのほかに馬小屋の横にも井戸がある。この二ツをしらべてみたが、同様に三枝子の死体はなかった。近所の家の井戸も見せてもらッたがどこにも三枝子の死体はない。
「すると、井戸へ石でも投げこんで死んだと見せて、自分のウチへ逃げて帰ったらしいぞ。三枝のウチはどこだね」
「三枝ちゃんのウチは没落して家も身寄りもないらしいのですが、たッた一人の兄さんがオソノちゃんの実家に居候だかお客様だかで居るようです。ねえ、オソノちゃん。たしか身寄りはそれだけだったねえ」
「そうか。それではオソノの案内でちょッと確かめてこい。居たら連れてこいよ」
と、若い巡査に言い含め、オソノの案内で下谷のオソノの実家へ向わせた。
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三枝子の兄は頼重太郎と云って、二十五になる大学生だ。苦学のために、年をくっているが、秀才でもあるし、豪胆な熱血児であり、正義を愛し、弱者貧民のために身をなげうとうと心をきめた快漢であった。
オソノの実家は代々非人頭で、車善七の血統をひく今でも乞食の頭目。しかし彼は重太郎のすすめで五年前に乞食をやめ、薬種商をひらいている。実に重太郎が乞食の世界を巡歴して彼らを正業につかせようと努力しはじめたのはわずかに十七の時である。この少年の献身的な忠言に耳をかたむけてくれたのは、オソノの父、車長九郎あるのみだ。彼は薬屋をひらいて、輩下の希望者を行商人に仕立て、同時にとかく不衛生そのものの乞食どもにクスリを与え、まず健康、それから正業につかせようと努力した。けれども三日やると止められない乞食を先祖の代からやってる連中だから、誰も乞食をやめたがらない。生れつき乞食であるのに不服がないから、その身分に恥を感じなければ乞食をやめたがらぬのは当然かも知れん。
車長九郎は輩下の者が自分を見ならってくれないのにガッカリしたが、学業をなげうって乞食のために献身しようという重太郎を今度は彼がいさめて再び学業につかせた。重太郎は学業のかたわら乞食部落に寺小屋をひらいて、乞食の子供に教育をさずけ、子供が大きくなった時には乞食部落が自然消滅するような長期計画の実行にうつった。彼はヤソ教の教会で知り合った同じ信者の今村左伝夫妻にたのみ、三枝子とオソノを母里家へ女中奉公にだした。というのは、今村カメ女は貧乏士族の娘で、同じように貧乏士族の左伝と結婚して母里大学の家令をやって細々生計をたてているが、実は今村カメ女と云えば歌人としても名があるし、書道、華道、茶道、料理に一流の見識があって、その道では重んぜられている人だが、深くケンソンして弟子をとらず、清貧に甘んじ、それを知る人々には一そう奥ゆかしく見られておる。カメ女がそういう人であるから、妹と乞食の頭目の娘の身分をあかして、その膝下に行儀見習いにだした。弟子をとらず、また自宅に女中をおくような人ではないから、託された二人を母里家に奉公させて行儀を見習わせることにしたが、母里大学は乞食の娘ときいても驚きもしなかったが、妻のヤスノと娘の多津子は乞食の娘ときいてオソノと三枝子をいやがる。特に娘の多津子はオソノと三枝が非常に容姿の美しい娘であるから、それにネタミを持つのか、いろいろと二人にイヤガラセや辱しめを与えたりする。また先輩女中のハツエがこれ幸いとそれをたきつけるようにする。多津子は父母にせがんで、貧乏士族の娘の佐和子というのを女中にやとってもらい、それを自分たちの小間使いにして、
「佐和子は士族ですから佐和子に私たちの身のまわりを見てもらいます。ハツエも町家の出だからまアよろしい。お前方二人は乞食の子だから、穢らわしいから私たちのお部屋へはいらないように」
折にふれて、こう云う。大学生の由也は先妻の子だが、兄が三枝子やオソノに用を云いつけるのにもヤキモチをやいて、兄がそうしないように中傷したり二人にシクジリをさせるような陰謀をたくらんだりする。三枝子は重太郎の妹。兄は乞食部落に住んでいるが、没落したとは云え、歴とした旗本の子孫だ。その旗本というのがシャクにさわるから、これも乞食の妹ときめている。
今村夫婦は一応それをかばうように取はからってくれもするが、実はやっぱり旧弊が身についているから、先祖代々の乞食の娘ということに色目をもっていることは、当人が何よりそれを感じ易くて、三枝子とオソノはまだ子娘ながらも今村カメ女必ずしも奥ゆかしい超俗の詩人にはあらず、神の正しい教えを身に体した偏見なき信女にあらず、と見ている。まだしも馬丁当吉夫妻が誰よりも偏見がなくて、士族も新平民も区別をもたない。
さて、重太郎は三枝子が主家の秘宝をこわして行方をくらましたときいて、妹はよくヤソの教えをまもって子供ながらも義務や責任をわきまえ、自らアヤマチを犯した時にとるべき手段をあやまるような娘ではない筈である。主家の秘蔵品をわって逃げ隠れをするとは思われないが、事実ならば妹を見つけだして主家へ詫びさせて、その将来をいましめなければならぬ。また無実ならばその真相をつきとめて妹の潔白を明かにしてやらなければならぬ、と心をきめた。
オソノは重太郎を世界一の偉い人と信じ、まずその妹の三枝子に愛されたい、誰よりも三枝子のよい友達でありたいとのみ望んで本当に姉妹よりも仲よしの二人であったのは、あるいはその原因の一ツが重太郎への一途の恋心のせいであったろうか。オソノは重太郎まで三枝子を一応うたぐるのが心外らしく、巡査の前も怖れずに、
「三枝ちゃんが瀬戸物をわったなんて、信じられません。人を疑るのは悪いことかも知れませんけど、ふき残されていた泥の足跡がたしかに二人の人の足跡なんです。大きさがずいぶんちがっていてハッキリ大小の別が分りました。きっと何かがあったんですわ」
「しかし、クラヤミで三枝子が花ビンにつまずいて倒れるようなことはありがちだね」
「いいえ。三枝ちゃんは手燭を持って立ちました。フトンをかぶっていましたけど、少しスキマがありましたから、三枝ちゃんの立去るのと一しょにだんだん暗くなったのを知っていました」
「しかし、三枝子が家宝をわって戸外へ逃げようとするのを由也さんが追っかけて、二人ともハダシで外へでて、いったん玄関まで連れ戻された、大小のみだれた足跡はそれを語っているような気もするよ」
「ですが、その足跡の一ツは三枝ちゃんではないと思います。なぜなら、いつもお寝床の始末をするラクさんが、今朝のお寝床は泥でよごれて大変だから手伝ってと仰有るので参ってお手伝いしましたが、由也さまのオフトンを入れる押入の中を見ると、その中にもう一人前のオフトンがはいっていて、それも泥でよごれていたのです。ラクさんが不審に思ってそのフトンをおろしてひろげると、オフトンの中は由也様のよりも泥だらけで、その中からメガネが現れました。由也様はメガネをお用いではありませんし、三枝ちゃんが男物のメガネをかけるわけは一そう有りえないでしょう。どなたか泥だらけの男の方が泊って夜の明けないうちに立ち去ったのだと思います」
これは意外の話である。同行した若い巡査は遠山というが、オソノに好意をよせ、それにひきつづいて重太郎に親しみを寄せたらしい。重太郎、三枝子、オソノの来歴や身分を知って非常に感ずるところがあったらしい様子であった。
「なるほど、何か深いワケがありそうだ。皆さんのお話の様子だと、三枝子さんが逃げ隠れするとは思われない。しかし死んだ形跡もないとすると、どういうワケになるのだろう。ぼくはそれを上申して取調べてもらいましょう。とにかく妹さんが行方不明という件ですから、一応署へ来て下さいませんか」
「承知しました。そして御尽力できることがありましたら、どうか調査の用に使って下さい。妹の有罪無罪いずれにしても、兄として真相をつきとめないワケには参りません」
そこで三人は警察へ行って、重太郎は形式上の質問をうけたが、井戸へもぐった佐々警部補は遠山巡査の疑惑を是として、さらに調査を命じた。そこで三名は母里邸へ行った。
重太郎がヘドの下にあったという書物をみるとシェクスピヤである。ローマ字でK・TOCHIOという署名があった。トチオという友人をきいてみると、すでに由也は外出したあとだが、ラクもオソノも栃尾という友人の名を知っていた、幸い住所も分ったから、白山下の彼の家を訪問すると、彼は在宅しておって、自分がその本の所持者であることを肯定したが、
「それは昨日時田に貸した本さ。時田と母里と川又という三人が遊びに来たから、時田にその本を貸してやり、四人で白山上のハゲ蛸という馬肉屋へ行って飲食した。時田は非常に秀才だが酒癖が悪くて、酔うと前後不覚になって喧嘩口論、手荒なことをやる奴だ。昨日もそうさ。そこへピカリと光りはじめたからいそいで散会したが、時田が酔っているので方角の同じ母里がつれて行った筈だな。四人とも酔ってはいたな。川又はオレを送ってくれたから、オレが母里と一しょでないのは川又の奴が知ってるのさ」
白山上はすぐだから、遠山巡査と重太郎はハゲ蛸へ行ってみた。看板に書生鍋とあって、馬肉の鍋を主としてやっている。四人は常連だから、そこのオヤジはむろん知っていて、
「そうですよ。時田さんが、ちょッと口論のようなことを、ええ、まア、たまにネ。ふだんは秀才でシッカリした人だが、ああなると人が変って手に負えないね。口論だって大したことじゃアないよ。友達同士だもの」
「相手は?」
「なに、友だちだよ。内輪のことだよ。栃尾さんとあの人だもの、仲よしで秀才同士だよ、喧嘩じゃないよ。酔っ払ったら、あたりまえのような仲よし同士の口論なんだよ」
「別にお二方の秀才が悪いことをする筈はなし、お二方の悪事をしらべてるんじゃないよ。実はお二方の一人の行方が知れないので身寄りの方から調査依頼があって、それで昨夜の足どりをきいてるのだから、その口論の様子なども一応きかせてもらいたいね」
「へい。そうですかい。栃尾さんはさッきウチへカサを返しに来たから、するてえと時田さんが行方不明かね。だって若い男だもの、一晩ぐらい沈没したってフシギはないさ」
「さ。それがだ。実は今晩、見合いとか、なんとか重大な要件だから、至急居場所をつきとめて貰いたいと、実のところはこういう内々の警察には珍しい大そう粋なことで頼まれたのだよ」
「なるほど。そうですかい。それにしては、そんなこと、ゆうべは一言も仰有らないね。ブッ。笑わせるよ。口論の元というのが実際つまらん話じゃないか。母里さんのウチは田舎のお盆や何かで皆さん帰郷して、残っているのはあの方ひとり、あと四人の召使いだけだってね。その中の三人までがカミナリのたびにテンカンを起すそうで、すると正気で残るのが何とかいう女中一人だそうだよ。それが大そうなベッピンだってね。カミナリが鳴りだしたから、泥酔した時田さんがオレを泊めろと母里さんに云う。皆さん留守だし、正気なのはアノ子だけだから、オレに手を握らせろなんてネ。酔ってのイタズラだが、云い方がしつこくて、あくどいね。それで栃尾さんが怒ったのさ。いえ、母里さんじゃないよ。栃尾さんがよ。大したことじゃアないやね。しつこいのは止せッてんで二ツ三ツ時田さんをぶッたかね。ぶたれたのは時田さんよ。酔ってるもの。ひどい泥酔よ。足腰てんでシッカリしないや。その二人を引きわけて、母里さんが時田さんを担ぐようにして送って帰った筈だがね。家へ帰って飲むからと母里さんは貧乏徳利ぶらさげてね。その時はまだ雨は降りださないよ。栃尾さん、川又さんは後まで残ってまた少しのんだが、そのうち雨がふりだしたから、やむまで待つツモリだったらしいが、やむどころか大変な大雷雨になって益々ひどくなる一方だから、ウチのカサをかりて帰って行ったよ。そうだね。先の二人が帰ってから一時間ぐらい後だったネ。え? 雨が降りだした時刻だッて? そいつは分らないが、時田さん母里さんが帰ったあと十分ぐらいからポツポツきて、大雷雨になったのはそれから三十分ぐらいたってのことだ。後のお二人の帰るころから、絶頂になって、それからのビリビリバリバリ、ひどいの長いの凄いのオレが生れて以来の大カミナリさ」
きいてみれば口論の相手は栃尾で、殴った方まで栃尾とは人をくった栃尾の口ぶりではないか。時田は泥酔して足腰も定まらないほどだったというから、自宅へ帰れずその途中の母里のところへ泊ったのかも知れぬ。玄関の泥の足跡がもつれていたのはその証拠のようであるが、ハゲ蛸の話だとポツポツきたのが二人が去って十分あとだというのに、お手が鳴って三枝子がハイと立ったのは大雷雨の絶頂に達してからで、すくなくとも彼らがハゲ蛸をでてから一時間あとでなければならぬ。ハゲ蛸から母里家まで並足で三分か五分ぐらいのもの。くらい夜道で、どうもつれて歩いても、二十分か、三十分後に到着しない筈はない。
「変だなア。お手が鳴ったのは、たしかに大雷雨の真ッ最中になってからだそうだが、口論の起りが三枝子さんのことで、殴った方が栃尾だとすると、栃尾は三枝子さんにかねて懸想していたのかも知れないようだ。他の三名の召使いがカミナリデンカンだということを一同が知っていたとすると、栃尾がある目的でひそかに忍びこんだと疑うこともできる。さすれば奴めの本が落ちているのは当然だ。奴めは時田に貸した本だと云うが、あのシャア〳〵と人を食ったことを云う栃尾の言葉が信用できないのは分りきったことだ。だが、まア、時田に先に会ってみましょう」
遠山巡査は若いけれども、なかなか目がとどいている。彼の言に一理ありと重太郎も感心した。だが、栃尾はメガネをかけていないではないか。
「昨夜の四人のうちでメガネをかけているのは誰ですか」
こう重太郎がきくと、ハゲ蛸は考えて、
「メガネをかけているのは、たしか、時田さんだけだね。そう、そう。酔っ払いというものは、よくメガネを落すね。時田さんが担がれるようにして店をでたときメガネを落したね。イナビカリがあって、母里さんがすぐ拾ってあげたよ」
「四人の方々が食ったのは馬肉のナベだね」
「へい。そう。ほかにはこの店には食う物がないよ」
「ここに居るうちに酔って吐いた人は?」
「そんなことまで一々分らないよ。外へ小便にでてのことを一々ついて行って見ているとでも思うのかい」
「誰か本を持ってた人は居なかったかね」
「書生さんはたいがい本をフトコロに入れてらアな。そんなことが一々覚えられるかい」
ハゲ蛸は面倒になってカンシャクを起したらしいが、この重太郎の質問をきいて、遠山巡査はそれが要所をついているのに面くらッた。メガネの件は特に重大でなければならぬ。時田がこの店を去る時はメガネをかけていたのだ。
時田の家はハゲ蛸と母里家の倍あって、母里家がちょうどマンナカぐらいである。非常に広い邸で、父母はすでに死んでるが祖父が、健全だ。時田は大学を卒業すると祖父が隠居して彼が家督をつぐはずで、それは来年のことだという。相当な財産家らしい。多くの女中はよくシツケがとどいていて、時田はすでに当主のように扱われているようだ。来客中で、それは由也であったが、洋風の大きな応接間へ現れた時田は女中の不用意な言葉を遠山巡査からきくとやや狼狽して、その事実を否定した。
「時田さんはメガネをかけてらッしゃると伺いましたが、どうかなさッたのですか」
重太郎にきかれて、時田は蒼ざめた顔をあげて彼を睨むように見返した。腹をすえたような感じであった。
「メガネは部屋においてますよ。つまらぬことはやめて、用件を云いたまえ」
遠山がひきとって、
「実はそれが用件なんですが、あなたのメガネと思われるものが妙なところから現れたのですが」
そこまでは時田は実に平然ときいていた。と、遠山が意外にも、
「実はそのメガネは母里さんの裏庭の井戸の底から出て来ましたが」
テコでも動くまいと思われた時田の顔に、まるでポッカリと大穴があいたようなビックリ仰天の表情が現れた。実に心底から動揺してしまったのである。彼は大きな目玉をむいて、
「井戸の底から! 知らないぞ。そんな井戸は。オレはメガネをなくしたことはない」
「そうですか。では、お部屋のメガネを見せて下さい」
時田の顔はゆがんだ。すぐ気をとり直したが、二人の鋭い目はそれを見のがさなかったし、メガネをとりに去った彼の様子は、後向きになるとにわかに気が弛んでか、ひどくガックリと重く悲しい足どりになったようだ。十分たっても時田は戻らない。遠山はにわかにクツをはいて飛びだした。彼が裏門の方へまわって木の繁みからうかがっていると、女中が気チガイのように駈けこんできた。それを見とどけて彼は応接間へ戻ってきた。すると時田がメガネをかけて現れて、
「ゆうべ酔っ払って片方のガラスをわったから修繕にだしておいたのだ。今、女中をとりにやって届いたところだ」
と不興げに云う。遠山が裏門を見張っていたのを知ってか、用意しておいた言葉のよだ。遠山は残念に思った。失敗だった! 時田に会う前に、女中たちから、昨夜の彼の帰宅の時間やメガネのことなど訊いておくべきであった。時田その人の口から確かめる必要はなかったのだ。それからの時田は何をきかれても知らぬ存ぜぬ。嘘だと思うなら、女中に訊けの一点ばり。遠山は敵の弱点をついて、ついにねじ伏せたと見て敗残の敵の後姿を快く見送ったと思っていたのに、逆にそれを敵が利用して、メガネを買いに女中の一人を走らせる一方には女中を集めてアリバイの打合せ、女中たちに一切の訓令がぬからず行き届いてしまったに相違ない。二人はスゴスゴと退去せざるを得なかった。
母里邸へ戻ると待っていたオソノが走りでてきて、
「重大なことが分りましたわ。家令の今村さまのお宅は当家の裏、そしてあの裏庭の井戸のすぐ向うがそうなんですが、今村さまの御子息の小六さまと仰有る方が、井戸の水音をおききだったのです。小六さまは神学校の生徒で生マジメなヤソ教徒で、毎夜のように深夜二時ごろまで勉強なさるので有名な方です。裏庭の井戸の音におどろいて、立って下をのぞかれたそうです。あの方のお部屋は二階ですから、外はクラヤミで、のぞいても外が見えよう筈はありませんが、そのときイナズマが光ったのです。その瞬間に小六さまは井戸から遠ざかろうとする二人の人影をごらんになったそうです。二人とも、男ですッて。誰かは分りませんが、二人だったのと、男だったことはマチガイないと仰有ってます」
喜んだ両名が小六に訊いてみると、果してオソノの伝えた通りである。井戸は母里家の裏庭の塀際にあって、母里家の母屋からは離れているが、むしろ今村家にとっては、そのすぐ近くまで、小六の部屋の真下に近いところである。雨がやんだので、小六は雨戸をあけておいた。小さなローソクの灯で読書していたが、真下に起った水の音にビックリして下をのぞいた。実にその一瞬にイナズマが光って、井戸と下の塀の中間に塀際へ進んでいるらしい二人の男の姿を見た。ただちに闇にもどって、それ以上は分らなかったが、彼らの跫音も話声もきこえなかったという。
判明したことはむしろ奇怪な事実であった。その井戸には何もなかったのだ。いったい、どうしたワケなのだろうか。
二人が署へ戻って佐々警部補に報告すると、警部も首をかしげて、
「なるほど、実に奇妙だなア。ところで、母里家に怪事があったときいて、他の係りの者から報らせがあったが、浅草のさる質屋からの申告で、昔そのために戦争まで起ったというムカデの茶器とかいう重宝のホンモノらしいものが十日ほど前に入質されたが、それは現在は母里家に所蔵されているのが好事家間には分っているのだそうだ。それで盗品ではないかと云って届けがあった。それが昨日のことで、今朝浅草の警察からこッちへ書類が廻されてきたそうだよ。入質したのは向島の小勝という芸者だそうだよ。ひとつ、洗ってみてくれないか」
遠山はこう命じられたが、今までの失敗にこりたから私服に着かえて、重太郎と連れだって、直接小勝には当らずに近所をコクメイにしらべると、小勝は二十二の土地でも指折りの美形で、旦那に一軒もたせてもらって抱えを置いてるが、その抱えのヤッコという妓のナジミの大学生というのが、どうも由也のようだ。ヤッコと仲よしで、若い妓の中で土地一番の美形という小仙という妓にお金持の大学生がついてるというが、これはたしかに時田らしい。その時田に連れられてきた由也が色里の味を覚え、ヤッコとなじんだのが去年の暮らしく、彼は時田のように遊ぶ金が自由にならないから、一品二品と家から何か持ってきてヤッコに入質してもらう。ムカデの何とかという天下に隠れもない名題の茶器に至って、質屋も後のセンギを怖れてか届け出たが、実はそれ以前にも相当な品物が同一の手からかなり度重って入質されていたのであった。
遠山と重太郎が搦め手をきゝまわり、三日間かゝって、これだけのことを調べあげた。あとは張りこんで時田や由也の遊ぶ現場を見届ける一手と、相当な収穫に喜んでいったん報告のために署へでると、佐々警部補が彼の顔を見るなり、
「オイ。どこでウロウロしているのだ。浅草の質屋からまた報告があって、例の天下名題の茶器は質入れの当人がうけだしているじゃないか。受けだしたのは、私がお前に調査を命じたその日の夜のことだ。今まで何をボヤボヤしていたのだ」
今度は要心して、その当人や当の店の者に直接会って話をきかなかった。今度はそのために、また失敗してしまったのである。
遠山はまったく元気を失い、次の非番の日にションボリ重太郎に報告した。重太郎は彼を慰めて、
「こうなれば仕方がない。とにかく張りこんで由也の遊ぶ現場をつきとめましょう」
「イヤ、イヤ。もうダメです。由也の父母はすでに三四日も前に旅から戻ってきました。彼は今までのように大ッピラに遊べなくなったのです」
「しかし、今回両親が不在になるまでは外泊したことがないというのだから、彼の特別な遊ぶ方法があるのでしょう。それを突きとめるのは、むしろ重大と思いますが」
「なるほど、それもそうだ。それでは行ってみましょうか」
そこで二人でまた熱心にきいて廻ると、また三日かかって判った。由也らしい男は、時田と一しょでない時は、「カネ万」という小さな料亭で女をよびだして会っていたという。そこで二人はその料亭へ行って訊くと、
「ええ、そうですよ。母里さんは三月ごろからここへ来て女の方をお待ちになりましたよ。たいがい日曜日ですけどねえ。決して夜間にいらしたことはございませんの。女の方というのは十七八、すごい別ピンさんで、全然水商売の女じゃありませんとも。芸者? とんでもない。それどころか、女の方はヤソ教の信者ですとさ。教会へ行くのを口実にアイビキなんですとさ。チャッカリしてますよ。当節のハイカラさんはね。いいえ、二人が連れだっていらしたことはございません」
聞く重太郎は奈落へおちる如くである。三枝子とオソノは毎週の日曜に教会へ行くことができないから、代り番こに、隔週の日曜に教会へ行く。彼女ら二人揃っては行かれないのだし、重太郎も近ごろはもう教会へ行かれないほど毎日が多忙であった。三枝子が教会へ通う前後の行動は誰にも分らないのだ。
実に何たる事か。井戸に細工を施したのは二人組の男と判って妹の無実を明かにする日は近づけりと思っていたのに、妹が無実どころか、由也のアイビキの相手らしいとは。さすれば由也にカラクリを施した形跡があっても、その企みの相棒の中には三枝子も含まれているであろう。井戸の中からその屍体が出ないも道理。由也としめし合せてどこかに隠れているのであろうか。さすがの重太郎も、ここに至ってにわかにガッカリしてしまい、
「こうなっては、もうダメです。わが妹が疑わしいと定まっては、天下にも相すみません。かくなる以上は日本一の探偵に秘密をさがしていただいて、一時も早く事実をつきとめ、天下に謝罪しなければなりません」
こう嘆かれて、遠山も慰めるに言葉もなく、二人は同道して結城新十郎を訪ねた。今までの捜査のテンマツを全部語りあかして、真相究明を依頼したのであった。
★
新十郎は話をきき終り、落胆しきった二人を慰めて、
「あなた方はよくおやりになったのですよ。私がやってもあなた方と同じような順で、ほぼ同じことを訊いて廻ったでしょう。ですが、あなた方は個々に判明する事実をいつも組み合せて考えておしまいになる。それだけは私のやらない方法なんです。たとえば、井戸の水音のとき、イナズマに照しだされたのは二人の男の姿であったということと、料理屋でアイビキしていたのは由也氏と三枝子さんらしいということと、どうして二ツが関係したり組み合う必要があるのでしょうか。イナズマが照しだしたのが二人の男の姿なら、その男が誰と誰か、それを究明することだけがその事実と組み合っているヌキサシならぬことではありませんか。あなた方はメガネの主をつきとめ、その男が現にメガネを紛失していたのを突きとめながら、紛失したメガネが母里家の泥だらけのフトンの間から出てきたのはナゼであるかをどうして追求なさらなかったのでしょうか。私があなた方なら、まず当然次のようなことをぬからずに調べていたでしょう」
こう云って新十郎が示したのは、
一。オソノは三枝子が手燭を持って去ったというが、それは翌日どこにあったか。
二。ハゲ蛸は由也が家で飲むからと貧乏徳利に酒をつめてブラ下げて帰ったというが、その徳利はどこにあったか。
三。台所の近い方まで来ていた足跡は大きい方か小さい方か。
四。泥の足跡をふいた物は発見されたか。
五。由也が当日着て出たものは翌朝どこからどのような状態で見出されたか。
六。母里家から紛失したものは何と何であるか。
七。由也の依頼品らしき入質物でムカデの茶器のほかに受けだされた物はあったか。
八。ムカデの茶器の入質の金額。
九。ムカデの茶器の現在の在り場所。
十。ムカデの茶器がうけだされた晩の由也の動勢。
新十郎は以上十をあげて、
「これだけは当然あなた方が追求すべくして忘れていらッしゃッたことですから、それを調べていらッしゃい。なお、あなた方は自分の方法が失敗だった、そのために敵に裏をかかれたと思い当るたびに方法を改められたのですが、そのために却って大きな失敗をしていますが、これはお気づきになりますまい。それは今度いらッしゃるまでに私が調べておきましょう。では、三日後にお目にかかりましょうか」
その三日後であった。重太郎と遠山が調べてきた十の答えはこうであった。
一。三枝子が持ち去った手燭は仏壇にあった。仏間は由也の寝室と青磁や皿がわれていた座敷の中間である。
二。貧乏徳利はエンマ堂の前にカラになってころがっていた。エンマ堂はハゲ蛸から由也の家へ行く道筋の墓地のはずれにあって、その堂内には二ヶ月前からひそかに一人の乞食が夜間の住居にしており、重太郎の巧みな方法で彼の口をわらせることに成功したが、二人はエンマ堂に腰かけて徳利の酒をのんでいたらしく、大雷雨になってから立去った。二人が去ると乞食はいそいで出てみたが、徳利は横にころがって、中味は殆ど残っておらず、二人の一方は甚しく酔っていた。
三。その足跡の大小はオソノの記憶にはない。足跡の大小に気附かぬうちに真ッ先にふいたからである。
四。泥の足跡をふいたと思れれるものは発見されていない。
五。由也のぬれた着物は部屋の隅に脱ぎすてられていた。由也はネマキをきてねたらしく、そのためか、由也のフトンは押入の中から発見された他の泥だらけのフトンよりも泥の附着が少なかった。
六。母里家から紛失したものは今のところ分らない。
七。由也の入質品はムカデの茶器が受けだされる迄は受けだされたことがない。ムカデの茶器とともに質流れをまぬがれていた品物の全部が受けだされた。それは小刀一振。能面一ツ。色鍋島の皿一ツである。以上の三ツは利子も加えて合計五百五十円ほどである。
八。ムカデの茶器はわずかに五百円で入質されていた。それは使いの小女がそれぐらいでよいとの口上をうけてきたからであった。
九。ムカデの茶器は現在母里家にあると母里大学が言明した。彼はそれが何人かによって留守中に入質されたことを知らないらしく見える。
十。それがうけだされた晩は由也は夜ふけの十二時ちかく帰宅した。その晩は三枝子の失踪が発見しての第一夜であるから、残った三人の召使いは男の当吉も含めて女中部屋に由也の帰宅を待っており、彼が帰るまでは誰かが朝まで起きているツモリであった。由也は三人とも起きているうちに帰宅したから三人で出迎えに出たが彼は手ブラであった。その後も彼が何か持ちかえった様子はない。
以上の通りであった。新十郎はテイネイに読んでうなずいて、
「よくお調べでしたね。いろいろ重大なことが、この結果によって語られていますよ」
「どれが重大なことですか」
「ほとんど一ツ残らず。さて、私が調べておいたことを申しあげましょうか。これは向島方面の警察と区役所の戸籍の係りからの返書で、料亭カネ万の女将はヤッコの抱え主の小勝と五親等の縁戚に当っておって、小勝も抱えのヤッコもカネ万とはジッコンにつきあっておりますよ。両者の交誼は現在に至るまでジッコンにして変化を認め得ず。これは警察の調べです」
「それは何を示しているのでしょうか」
重太郎が思い余ったように訊く。新十郎はニコニコして、
「あんまり重大すぎて、その御自分の推察を心配なさッていらッしゃるのでしょう。申すまでもなく、そこの女将と小勝の家とがジッコンなら、小勝の抱えと恋仲の由也君が他の女とのアイビキに当って、どこよりも小勝に知れ易いカネ万を選ぶでしょうか」
「すると、女将の言葉が当てにならないと仰有るのですか」
「さて、どういうことになるのでしょうか。しかし、おかげさまで実に重大なことが分りましたよ。ほら、ごらんなさい。あなた方の調査によって、泥の足跡をふいたらしい物は今日に至るも発見されない、とあります。実に大変なことだ。どれもこれも、大変なことばかり、よくもこう揃って分ったものだ」
新十郎の明るいハシャギ様はまるでフザケているように見えたほどである。それがすむと、彼は別人のように落ちついて、
「明日までに更に重大なことが分るでしょう。それもみんなあなた方の調査のおかげですよ。明日の午ごろおいで下さい。あるいは明日中に事件が解決するかも知れません」
「妹は無実でしょうか」
その思いつめた言葉に、新十郎は黙然として、ながく返事ができなかった。
「そうです無実です」
新十郎は呟いた。彼は重太郎の手をそッと握って、
「あなたのお仕事によって、尊敬すべき頼重太郎のお名前は以前からよく存じあげていましたよ。あなたは太陽ですよ。本当に太陽そのものだ。太陽自身が暗やむようなことは考えられませんでしょう。あなたの一生こそは日本の何百万人のための一生だ。何百万人の太陽があなただということを忘れて下さってはこまりますよ」
それから居合す一同に云った。
「明日、正午に集りましょう」
そして古田老巡査に何事かささやいた。
★
海舟の前にかしこまっているのは虎之介であった。新十郎は今回はまたイヤに分ったらしい顔をしたが、今度という今度ばかりは、虎之介には何が何やら、てんで事件そのものが見当がつかないのである。花廼屋も同様らしく薄とぼけてニヤリニヤリしているが、単に無限にニヤリニヤリしているばかりで、日頃に似ず全然お喋りをしたがらぬ風が妙であるし、おもしろくもある。要するに奴めも全然何が何だか今度ばかりは手の施し様がないのであろう。
そこで今回こそは花廼屋を尻目にかける絶好の機会。虎之介は全部を語り終って、海舟先生の推理が待ち遠しいこと。できるならヤワラの手でもむが如くに海舟の返事がもみだしたいほどムズムズしている。海舟はナイフをとって、例の如くに悪血をとること、今日は実に長い時間だなア。どうも海舟先生も今回だけは窮しているのかも知れん。ところが海舟は悪血をしぼり終ってナイフをおさめて、
「お三枝は無実ではあるが、由也の頼みによって身を隠したことにより、由也めがそれによって悪事を致しておる。お三枝は自らは弁えないが、由也の悪事の片棒を担いだ結果になっているのだなア。青磁や皿をわったのはお三枝に非ず、泥酔の時田だなア。実は由也がわざとそっちへよろけるように仕向けて割らせたのかも知れないぜ。それが真相であろう。かくて時田にわらせ、それを時田に確認させて後に、お三枝がわった如くに見せて、お三枝にムネを含めて失踪せしめたな。時田に向っては、貴公を救うためお三枝の仕業の如くにクラヤミに仕掛をほどこしておいたところ、お三枝は己れのアヤマチと早合点して行方不明と相なったが、死んでおるかも知れぬ。これも貴公のアヤマチあればこそだ。こうインネンをつけて時田をゆすっているな。質をうけだしたのは申すまでもなくユスリでまきあげた金さ。この金の入要が動機であろう。裏庭の井戸に水音がしたというのは、お三枝の身投げと見せかけるためではなくて、そのアベコベだ。召使いが主家の秘蔵の瀬戸物をわれば誰しも思いつくのは皿屋敷にきまッてらアな。お三枝が己れのアヤマチと早合点してそッと家からぬけだした様子だが、裏庭の井戸へ身を投げたようだ。こう時田をおびやかして、わざと彼を井戸端へ案内して、屍体の有無をさぐるために石を落してみる。それが深夜の水の音よ。実地にこうまでしてみせるのは、時田をふるえあがらせてユスリをやるための際どいながらも思いきった手段だなア。由也は相当な悪党だぜ。こう悪度胸のある奴には、信心深い小娘などは却ってコロリと参るものだな。お三枝は無実じゃなく、正真正銘由也のイロであったかも知れないぜ」
海舟はこう語り終って、口辺にかすかな、その意味を理解しがたい謎のような微笑めくものを浮かべた。まるで石仏が一瞬ニッと笑ったようだ。虎之介はギョッとして、思わずハラワタの底の底まで凍りつくような恐怖にかられた。
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正午に一同集まったが、新十郎は昨日の約束を忘れたように、雑談に時をすごしているのであった。そこへ古田老巡査が大急ぎでやってきて、一通の手紙を渡した。新十郎はそれを読み終ると生き生きと笑って、
「さて、出発の時がきましたよ。万事は考えていた通りでした」
一行が駒込の母里家へ到着すると、佐々警部補が出迎えて、お指図通り一同を一室に集めておきました、と云う。新十郎は、
「それは恐縮でした。私はこの現場は始めてだが、間取りや庭など一見させていただきましょうか」
そこで案内されて邸内を見て廻り、庭へでて裏庭の井戸へくると、警部補が、
「もうその井戸はふさいでしまって、ほら、もうこの辺はだだの土一面ですが、そこの下に井戸があったのです。イヤ。今もあるんですな。旅行から主人が戻ると、ケチのついた井戸は不吉だと、すぐさま職人をよんで井戸にフタをして土をかけて跡形も分らぬようにしてしまったそうですよ」
「そうでしたか。たしかにケチのついた裏庭の古井戸などは埋めたくなるのが当然ですよ」
新十郎はアッサリうなずいたが、急にビックリしたように、
「エ? エ? 待てよ。そうか。そうか。それが、あったか」
彼はブツブツ呟いた。複雑な表情だ。
「取り調べの前に、そうだ。一ツ、やってみよう。これも御愛嬌だからな」
新十郎は古田巡査に何かささやいた。何事が起るのか分らないが、一同がポカンとして待っていると、古田巡査がつれてきたのは職人で、井戸をふさいだ土をのけて、ふさいだ物をとりのぞいた。少し井戸の中がのぞけてくると、なんとなく異臭がプンプンする。井戸がポッカリ口をあけると、新十郎はのぞきこんだが、
「どうも深くて見えないが、すでにこの臭気で、だいたいは想像できますね。井戸の底には、今度こそホンモノの三枝子さんの屍体がある筈です。そうか。やっぱり、そうだったか。犯人はそこまで考えていたのだなア。実に怖しい犯人だ」
覆面して井戸へ降りた職人がひきあげてきたのはまさしく三枝子の殺された屍体であった。そッちには目もくれず、新十郎が目をそそいでそッと手を握っているのは頼重太郎に対してであった。
「あなたは太陽なんです。ね。お分りでしょう。これぐらいのことで、太陽ともあろうものが。太陽が泣くなんて……」
一室に足どめされていた関係者の中の真犯人はすでに捕えられていた。一同にうながされて、新十郎はあまり気持もすすまぬらしい話しぶりで、事件の真相を語った。
「事件の翌朝、三枝子さんの失踪が分った日の、泥や汚物でつくられたものが奇妙だとお考えになりませんでしたか。泥の足跡はふいた様子もありますが、ふき残したところもあって、それは二人の足跡を示しています。寝床は一ツしか敷かれていないが、押入れの中には一そう泥だらけのフトンがあって、その中には念入りにメガネまであって誰かの寝たあとを示しているし、吐いた汚物の下には他人の所有を示す署名の本がある。一応足跡をふいたり、寝床の一ツを押入れへ片づけたりしていますけれども、実際は誰かが前夜一時的に宿泊したことが明白で、それが一応かくされたように見せかけてあるのは、実は一そう誰かの宿泊ということに疑惑が深く差し向けられるように仕向けられたものだと解してよろしいでしょう。ここに事件全体の暗示があったのです。足跡をふいたらしい物が発見されないということは、それが隠されたことを意味し、したがって、他にもどこかに隠された何かが有りうると語ってもいますね。他に何が隠されたと想像しうるか。それは云うまでもなく三枝子さんの屍体ですよ。犯人は家で飲むためにと貧乏徳利に酒をつめてブラ下げたが、家ではのまずに、家にすぐ近いエンマ堂で、当然雨がふりかかるのをかまわずに酒をのんでいます。それはカミナリが更に荒々しくなる時をまつ必要があってのことです。三人のカミナリ病人が有って無き存在となる時をまつ必要もあったし、大雷鳴を利用する必要もありましたろう。その大雷鳴を待ちつつも、もしも時田さんの酔いがさめかけたなら更に酒をのませて正気を失わせる必要もありました。自分のためではなくて、他の一人を酔わせでおくための酒でした。かくて大雷鳴の時に至って、カミナリ組の三名と、他の一名は酒によって、いずれも有って無き存在となり、残る二名のうち、彼以外の三枝子さんは彼に殺されるから、これは完全に無き存在となるわけで、ある時間中は自分以外の「有る」存在は母里家に一人もいなかったという、ハゲ蛸で時田栃尾両名の口論から思いついた犯罪ながらも、計画は行き届いておりましたし、偶然も彼に味方するところが多かったようです。第一昨夜の、大雷雨が実に長時間にわたりました。さて、この事件の結果として、どういうことが起ったかというと、犯人はいったん質に入れたものを受けだしています。それは合計して千円を越す大金ですが、それは事件の発見された当の夜のことで、その日中には犯人は時田さんのところに居ったことが分っているし、これは時田さんから出た金であろう。すると時田さんがユスられているワケであるが、ユスられるのはナゼであるか。それを知る方法は現場には一ツもないのです。私は意を決して時田さんに手紙を送り、彼が犯人ではない理由を証明した上で、どういう方法でユスられているか、その真相の返書を求めました。出発前に古田さんがその返書を届けて下さったのですが、そこには、こう書いてありますよ」
新十郎は手紙を披いて、
「時田さんは泥酔すると前後不覚になって、その時の記憶を失ってしまう癖がありました。彼がふと目をさましたとき、彼がどうしてこんなところに寝ているのか、しばしは分らなかった。彼を起したのは由也で、枕元にションボリとユウレイのように坐っていたそうです。時田さんが由也の様子にハッとして、かたえを見ると、自分と並んで女がねている。見ると三枝子さんで、すでに死んでいたのです。由也の話で彼は次第に思いだしたが、彼はたしかに三枝子に会いたい、三枝子の手を握りたいとか、なんとかだとか、お前のところへ泊めろと由也に対して強情に言いはっていたのも思いだすことができた。また三枝子さんが来たときに、半ばねむりかけていたらしいが由也に起されたのか起き上ってみると、まさにそこへ手燭をもって現れたのが三枝子さんであったから、いきなりとびついて手を握ったが、すると三枝子さんが手燭を落したから、マックラになる。何かゴチャ〳〵しているうちに、そのあとは意識がない。由也の話では彼が手で三枝子さんの首をしめて自然に殺してしまい、由也がようやく手燭の灯をつけてフトンをのけてみると、時田さんは眠りこけているし、三枝子さんは死んでいたと云うのだそうです。由也は茫然として長い失心状態の後に、とにかく時田さんをゆり起したと云いますが、そう云われると、たしかになんとなく思い当るし、自分の腕には三枝子さんにひッかかれたらしいカスリ傷もあるし、彼の言を信ぜざるを得なかったそうです。すると由也は、君が殺したとなると自分も父に叱られて困ったことになるから、父の秘蔵の品物をわって三枝子が失踪したようにしよう。こういうわけで、青磁と柿右衛門の皿をわって、三枝子の屍体はいったん縁の下へ穴をほって埋めた後に、この件では皿屋敷が誰の頭にもピンとくるだろうから、なるべく人にピンとくるように裏の井戸へ石を投げこもう。そのすぐ上の二階には今村小六という勉強ずきの神学生がいて、今も灯がもれているから、この水音をききのがす筈はない。さて、そこで深夜に水音がしたのに井戸を探っても屍体がないとあれば、それは三枝子さんの偽装で、実は三枝子さんは生きて行方をくらましているらしいということが自然に人々に信じられるであろう。これが由也の語ってきかせた計画であったそうです。長時間の大雷雨のおかげで屍体の始末も終り、さて大雷雨のあがるのを待って、井戸へ石を投げこんで、時田さんは母里家を立ち去ったのでした。由也のユスリの計画の方は実に見事に成功したのですね。そして彼は三枝子さんの屍体の最後の始末の方法は時田さんにも語らなかったのですが、彼は実に最初からそれを考えていたと思われる節があります。彼が裏庭の井戸へ石を投げこんだのは、屍体があると思わせて実は屍体がなく、それによって三枝子さんが自ら皿屋敷を偽装したと見せる方策でもありましたが、更にそれよりも重大な意味があった。それは、そこに改めて屍体を隠すためです。なぜなら、一番安全な隠し場所は、いったん警官が捜査したあとへ隠すに限る。二度と捜しはしないし、彼はたぶんその井戸が父母いずれかによって地下に隠されることを知っており、父母がそれを考えつかない時は自分がそれを暗示しても、結局そうなしうることを確信していたろうと思います。いったん警官が存分に捜した後に地下へ没して地上の形すらも失う井戸であるから、これぐらい完全な隠し場所はないでしょう。共同の秘密をにぎる時田すらもそれを知らないのです。かくて彼自身は永遠に安全でもあるし、永遠にユスることもできる。時田さんはいつ発見されるかも知れないよその縁の下の屍体に永遠にビクビクしなければならないのです。もしもイナズマがそのとき庭を照らさなければ、彼の計画はシッポを出さなかったかも知れません。井戸にあるべき屍体がないとだけでは、誰しも三枝子さん自らの偽装であり失踪であると考えます。彼はそれに自信があったのでしょう。わざと泥の足跡を目立たせ、自分一人らしく見せかけて実は二人を暗示し、メガネまで利用して時田さんの容疑を深める方法をとりました。それはユスリに有利のためであり、イナズマを忘れていたためでもあり、要するに彼の恐るべき悪度胸を物語っていますよ」
それが新十郎の推理であった。
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海舟の前にかしこまった虎之介は、今度という今度は特別であったらしく、新十郎の推理を語ったあとでわざと神妙に、
「由也が時田をゆすッた点など相似ておりますが内実は雲泥の差で。ハ。恐れながら、御前の推理が似ていましたのは由也が恐るべき悪度胸であるという一言のみでございましたな。信心深い小娘が悪度胸にゾッコン参るものだなどとはこれも真ッ赤なイツワリ」
今度という今度ばかりは新十郎が現場も見ずに話をきいただけのズバリであるから、虎之介もキモに銘じるところがあったらしい。けれども、新十郎への語り手は重太郎と遠山。海舟への語り手は虎之介。大そう違いがあるらしいのは計算に入れていない。
海舟は平気な顔で、
「悪度胸の一言が似ればタクサンだ。それが全部のカナメだよ。それで全部解きつくしているのだが、バカには分らねえや」
虎之介は分らないことに満足した。
底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第五巻第一一号」
1951(昭和26)年9月1日発行
初出:「小説新潮 第五巻第一一号」
1951(昭和26)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「明治
開化安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「明治
開化安吾捕物 その十一」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
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