我が人生観
(五)国宝焼亡結構論
坂口安吾
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小生もついに別荘の七ツ八ツ風光明媚なるところにブッたてようという遠大千万なコンタンによって「捕物帳」をかくことゝなり、小説新潮の案内で、箱根の谷のドン底の温泉旅館へ行った。
このへんは谷川といっても川の趣きではなくて、流れの全部が段をなした瀑布であり、四方にはホンモノの数百尺の飛瀑も落下している。音があると思う人には、これぐらいウルサクて頭痛の種のところもないかも知れないが、無神経の私には、こんなに音のないところはなかった。隣の話声も、帳場のラジオも、宴会室のドンチャン騒ぎも、蝉の声も、一切合財、きこえない。女中が唐紙をあけてはいってくるのが、跫音も、唐紙をあける音もきこえないから、忽然として、女中が現れている。忍術の要領である。文明国のどこを探しても、こんなに物音のないところはないのである。私はラジオの音が何より仕事の邪魔だが、ここではその心配が完全にない。大そう私向きの旅館であった。その代り、殺人事件があっても、きこえない。ここで捕物帳を書いていると、そういうことを時々考えてゾクゾクすることもあり、おのずから捕物帳の心境となって、探偵気分横溢しすぎるキライがないでもない。
この旅館の庭は、何百貫という無数の大石で原形なく叩きつぶされている。アイオン颱風というもののイタズラである。
私はこの川が海にそそぐところの、小田原市早川口というところの堤の下で洪水に見舞われたことがあるが、利根川の洪水とは、趣きが違う。利根川の洪水は、大陸的に漫々的で、巨人的であり、死神の国の茫々たる妖相にみちて静寂であるが、早川の洪水は違う。こんなウルサイ洪水はない。
箱根山上千米の蘆ノ湖から目の下の河口まで直流してくる暗褐色の洪水が、太平洋の水面より四五米の余も高く、巨大な直線の防波堤となって、一哩も遠く海中に突入しているのである。太平洋の荒波が、この水の防波堤につきよせ、ぶつかり、噴騰するが、暗褐色の直流する水勢の凄さは、海の荒波の如きは、なんの抵抗にもならないのである。荒波のさわぎを眼下にしたがえて、暗褐色の一直線の水流は海面上数米の高さにモックリとはるか水平線に向って長蛇の如くに突入している。遠く沖合に、荒波がこの防波堤に突き当って、噴騰し、山となって盛りあがり、シブキをあげているところもある。
しかし、より以上に呆れるのは、ゴロゴロと、河底一面しっきりなしに遠雷がとどろいている音響である。何千何万の戦車が河底をしきならべて通っていても、これほどの音ではない。アスファルトの路面を通る戦車のつぶれたような通過音とちがって、こもりにこもった轟音である。
私はこの音のイワレを理解することができなかった。数日後に水がひいて、河底が露出するまでは。
洪水前までは小砂利だけしかなかった河底が、一面に、数百貫、時に千貫の余もあるかと思う岩石でしきつめられ積み重なっているのだ。それは遠く太平洋の海底に、一哩ちかく突入しているに相違ない。河底の轟音は、この岩石が山から海へぶつかり合って無限に突入してくるその音であった。洪水がすむと、河底にはトロッコがひきこまれ、無数の岩石は建築用として、洪水のなにがしかの代償となる。次の洪水がこないうちに、岩石はたちまち消えて、砂利だけの河底となってしまう。小さい河だから、一面しきつめ、つみ重なった岩石でも、タカの知れた数量なのである。あるいは、人間の消費する物の量というものが、洪水の怪力をもってしても歯が立たないほど、超自然的なものであるらしいのである。要するに、人間は自然に勝っている。そのちょッとした証拠でもある。
私は戦時中、日映に勤めていたとき、「黄河」という文化映画の脚本を書こうとしたことがある。
これは宣伝映画で、戦争中、シナ軍が退却に際して黄河の堤をきって水を落して逃げた、このために黄河の河口が数百里移動して揚子江にそそぐに至ったが、この日本軍の治水事業を宣伝映画にしようというわけだ。
前篇、後篇に分れていて、後篇がこの宣伝映画であるが、前篇は純然たる文化映画で、黄河とはいかなる河であるか、その独特の性格を知らせるための芸術効果を主にしたもの、つまり治水事業の困難さを知らせる伏線的なものである。そして万人がその困難さを納得するに値するだけの雄大独自な個性をそなえた大河なのである。私は前篇の脚本を書くことになった。
けれども、この命令をうけたのが、終戦の年である。後篇の宣伝映画の方はすでにニュースやその他の目的で撮影されたものが多くあって、それを編輯し、多少手を加えるだけで出来上るかも知れないが、私の受けもった方はそうはいかない。
日本の諸都市はバクゲキで焼野原となり、大陸でも、敵軍の攻勢がはじまったという時に、悠長に黄河の流域を奥地まで撮影して歩けるものではない。
しかし、あのころはヤブレカブレで万事につけて表裏一体をなしたものはないのだから、ハ、こんな映画を企画しております、と威勢よく言った方が上司の受けもよくて、ハ、あの辺はもう撮影ができませんから企画をひッこめました、などというと社長はこの敗戦主義者めと軍人にブンなぐられたのかも知れない。表面と裏面と、理想と現実と、全然仕事のツジツマが合いやしないが、命じる方も平気な顔、こっちも平気な顔、一切合財、日本中のあらゆる物がツジツマが合ってやしなかったのだ。
とにかく戦争中は、酒をのむこともできないし、見物する見世物といってはないし、まことにヒマであるから、人生の愉しみは読書である。敗戦が目に見えていて、実にどうも全く目的というものの立てがたい毎日に、黄河という課題を与えられたのはモッケの幸いであるから、さッそくシナ研究所というようなところを訪ねて、学者たちから黄河について教えてもらう。しかし、黄河そのものは日本のシナ学者の研究対象ではないらしく、
「おききしたいのは、こッちですが、今の黄河はどこへそそいでいるんですか」
と質問をうけた。ハッキリした発表がないから、黄河がそのときどこへそそいでいるか、シナ学者でも知らない筈であった。当時は揚子江へそそいでいた。
学者たちがかき集めても、黄河に関する文献というものはいくらもない。当時入手しうるものほぼ全部をあつめて三十冊ぐらいのものであった。私はこれを空襲の合い間合い間に、ひっくりかえって、毎日読んでいた。読めば読むほど黄河という河はおもしろい。自然華北の農業とか、風習、文化、生活、歴史、それらを知りたくなる。私は商売をウッチャラかして、半年間この読書に没頭した。すると、戦争が終ってしまった。
黄河は二三十年ごとに大洪水を起す。河南の潼関までは山地であるから洪水にはならないが、ここから先の海まで五六百キロの平地は、北は天津から、南は南京の対岸まで、黄河が流れた跡なのである。
潼関から上流の三千余キロというものは、河南、山西、陝西、甘粛の黄土層を流れてくる。
華北には雨季という特別のシーズンはない。時に、三日から十日ぐらいドシャ降りの降りつづく時がある。春先に多いが、他の季節にもある。黄土層にこのドシャ降りが降りつづくとつもりつもって黄河の大洪水となるのである。
黄土層というところは木も草も一本ないハゲ山だ。ドシャ降りになると、山肌には無数のヒビができて、ヒビの中から泥の奔流がシブキをあげ滝となって斜面という斜面を落下して黄河へあつまる。これが深さ十数メートルの泥の流れとなって、シブキをあげて海へ走るのであるが、黄河の水は俗に水一斗につき泥六升という伝えがあって、だいたいに於て五〇パーセントの黄土を含み、水の流れではなくて、泥の流れなのである。
この泥が黄河の底へたまるから、大雨のあとでは河床は一どに一米の余も高くなり、やがて平地よりも十数米も高くなってしまう。堤を高くしても追っつかない。二三十年目には、どうしても大洪水を起すという必然の運命になるのである。黄河の歴史のある限り洪水をくりかえしているのである。
黄河治水は歴代の統治者の宿題であったが、今日に至るまで、成功した者はいない。二千年前に匙を投げた学者があって、堤をつくるのは下策である、水と地を争うというコンタンがマチガイの元で、水には逆わぬ方がいい。潼関から下流の人民をそっくり他の地へ移動させて、勝手に洪水にさせておくに限るという名論をはいた。なるほど、これに限る。さすれば洪水の悲劇というものは全然起らないが、その代り、最も肥沃な農作地帯に一粒の米も実らぬということになるだけの話である。
だいたいシナという国は人口が多い。人間どもが繁殖しすぎる。こんなに繁殖すると、人口過剰で国運疲弊するが、洪水だのカンバツだのと天災が多くて、おかげで年々五十万もの百姓どもが死んでくれるので、ちょうどバランスがとれている。人口調節の天意であるから、天災には逆わん方がいい、という名論をはいた学者もいる。黄河治水は数千年来の難題であり、学者たちは、それぞれヤケ気味でもあるようである。悠々として成功を説いた歴代の学者に成功したタメシがないのだから、ヤケクソの方に名論が多い。
洪水のたびに河口は移動して、一挙に数百キロも離れた海へそそぐような大変化を起す。洪水のあとは水が数年ひかなかったりするが、洪水地帯へ流れこんで一米から三米の厚さに堆積した黄土は新たに豊饒な沃野をつくり、豊かな作物を実らせてくれもするのである。もっとも、洪水がなければカンバツという天災があって、照るにつけ、降るにつけ、黄土地帯の農民は楽ではない。
シナの歴史は黄河の歴史でもあり、黄河はシナ文化の温床でもあった。黄河治水に没頭十三年、わが家へ帰るのも忘れたという禹が治水の功によって王に挙げられて以来、孔子はここで王道を説き、三蔵法師は黄河をさかのぼって天竺へと志し、諸侯が争った中原はこの黄土地帯であった。さらに遠く上は北京人類にさかのぼり、下はパールバックの大地に至る、人類の発生からヨーロッパ文明との交流期に至るまでシナ文化史の中枢を徹頭徹尾貫くことに相成った。
日本王朝ならびに日本文化発祥の地、大和に於ても、古代日本を象徴する一本の川が流れていた。曰く、飛鳥川である。
万葉の詩人は、有為転変の人の世を飛鳥川になぞらえて、昨日の淵は今日は瀬となる、と詠歎し、彼らの生活に於て変化の甚しきものは川の流れであることを素朴に表現しているのである。ジュウタン・バクゲキも鉄砲すらもなかった古代に於て、川の流れが、彼らの生命である土地に最も大きな変化を与える怪物であったことは、ジュウタン・バクゲキを数度にわたって経験した小生に於てすらも、文句なしにこれを認めることができる。早川口に於て、利根川に於て胆を冷やし、下っては書物で黄河を読んで舌を巻いたからである。
しかしながら、飛鳥川というものは、川の幅が三間ぐらいしかないのである。山から流れてくるけれども、耳成山だの天ノ香具山だのウネビ山だのという箱庭程度の小づくりの山からチョロ〳〵と流れてきて、古の帝都の盆地を走っているにすぎない。
私が小田原で胆を冷やした早川は、谷底を九十九にまがった分を勘定しても、全長五里か七里ぐらいのものだろう。けれども、これは、千米の蘆ノ湖からたった五里か七里ぐらいで海へ突ッこんでしまうのだから、大雨至るや、ジュウタン・バクゲキをくらった男が改めてドギモをぬかれるほどの大きなことをやらかすのである。
飛鳥川は玉川上水と同じぐらいの小川にすぎない。
大黄河にもみまくられて育ったシナの歴史や文化にくらべれば、飛鳥川に有為転変の感懐を託していた日本文化の源流というものは、温室育ちも極端であり、あまりにも小さすぎて、いじらしく、悲しく、おかしく、異様ですらある。
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金閣寺に放火した犯人が「美に対する嫉妬」と言ったり、「見物にくる人間への反感」と言ったという新聞記事の報道は、犯人がそのとき、そう言ったという事実を伝えているかも知れないが、犯人の本当の心がそれにつくされていると考えるのは速断にすぎるであろう。犯人というものが本当の心を言わないという事ではなく、人間というものが、真実を語ろうと努力している時ですらも、表現が思うようにできなくて、頭の中にあることと相当ヒラキがあるような、自分にとっても甚だ空疎でヘタな説明しかできなかったりしがちなものである。犯人が罪を犯したか否か、というような返答の場合ではない。特に、観念的な事柄の表現に於てである。そして、私のように、それを表現することが商売の人間ですらも、自分の観念を思うように表現するには時間も技術も必要であり、うッかりすれば、人の言葉の借り物となり、自身考えつつあることとは相当ヒラキのある妙なものとなってしまいがちである。
つまり、美に対する嫉妬、ある階級への反感、というようなことは、その一つを執りあげて言葉の真実を主張するには、微妙にすぎるものである。思考の老練家が、自分の観念を分析した場合でも、このような結論を真実なものと断定して提出することは、一朝一夕の推考ではできがたい。
まして捕らわれた犯人というものは、真実よりも、虚偽を、虚偽よりも、むしろ虚勢を語り易いものである。彼らが最も真実であると肩をそびやかして語ることを、彼がこう語った、という事実として新聞が報道するのは当然であるが、文士や学者や社会批評家という啓蒙をもって天職とせられるお歴々に至るまでが、これを真実として批評の対象とせられるのは、どうかと思う。
こういう時には、まず、疑ってかかるものだ。それは、人を疑るからではなくて、こういう場合に想定せられる自分自身を疑らざるを得ないからだ。
美に対する嫉妬、見物人に対する反感、そういうことを、この犯人が考えたことがなかったというわけではない。そういうことも考えたことがあったであろう。しかしながら、真に彼が火を放った原動力というものは、果してかかる観念的な結論から到達した決断であったか、どうかは疑わしい。
私は思うに、人々は(立派な文士、学者、社会批評家、美術家をひッくるめて)焼かれた金閣寺という建築物に重点が置かれすぎて、判断に公平を失したのだろうと思う。金閣寺でなくて、もっと名もない建物に放火したのであったら、彼がもっと深遠な放火動機を述べたてても、まるで犯人の言った言葉が「生き物」として扱われるような、変な取扱いをうけることにはならなかったであろう。
私はこんな青年はザラにいると考えているのである。彼はたぶん変質者で、同居人や、主人筋の人々に愛されず、ひそかな反抗を内攻させて、あげくの放火であったろうと思うが、たまたま彼が金閣寺に住んでいたから、金閣寺に放火するに至ったまでのことである。彼が田中という旧家の使用人であった場合には、田中家に放火したであろう。
たまたま、このような青年が金閣寺に住んでいたために金閣寺が焼かれただけのことで、金閣寺というものの特性が彼に放火せしめたのではないのである。
自分を裏切った女の顔に硫酸をブッかける犯人は、裏切ったどの女にも硫酸をブッかける必然性が彼の方にあって、彼女の方にどの男からも硫酸をブッかけられる必然性をもっていたわけではない。
金閣寺の青年は、寺内の人々への反感に次第に放火を決意するに至ったが、一番溜飲の下るのは、彼らすべてがそれを飯の種にし、彼らの生存の誇りともしている金閣寺そのものに放火することで、反感とか復讐というものが、最も主要なものを対象に選ぶのは、当然なことである。
彼が女の顔に硫酸をブッかけたり、田中家の土蔵に放火したり、野球選手の腕をカミソリで斬ったりする場合であったならば、その場合に応じて、復讐の一念のほかに、その罪を犯すことの社会的な責任とも一応は闘い、結論として、その弁明を得ていたに相違ない。たとえば、このような浮気女をのさばらせると、さらに多くの男が泣くであろう、とか、田中家の財産は代々の罪の集積であり、農民の膏血をしぼって得られたものであり、それへの反感であった、とか、彼の右腕は世間を欺瞞しているから、というような。
金閣寺の彼は、対象が国宝の金閣寺であったがために、その特性に応じた責任感と一応は闘い、それに対して、特殊な弁明をも得ていたにすぎないと思うが、彼が罪の意識と闘ううちに、美への嫉妬とか、見物人への反感というようなことを真実なものとして実感していたことも間違ってはいなかろう。硫酸をブッかけた男が、かかる浮気女に社会的に制裁を加える、というような、自分を離れた正義心を実感していたとしても、その真実を疑うことができないのと同様である。
又、私は、金閣寺が焼失したことについても、新聞に雑誌に、多くの識者が、国家の一大損失であるかのように説き立てることに対しても、まったく賛成していない。
私はこれに対しては、方丈記の思想や、黄河の二千年前の名論の方に賛成であって、生あるものは滅する、木で造ったものが火に焼けるのは当然だ。火や地震と争うのは愚なことで、今後の人間は鉄とコンクリートで造った家へ移りすんで、木で造ったものは、燃えたり崩れたりするにまかせて一向に差支えない、という考えなのである。私はしかし二千年前の黄河学者ほどヤブレカブレではないのである。
只見川上流の山岳地帯をダムにすることとなって尾瀬沼一帯の湿原帯が水底に沈むこととなり、日本に、又、世界に、ここだけしかないという植物の繁殖している貴重な文化宝庫を失うことになるについては、政府のやることは文化を無視して目先の企業に走り怪しからん、という説がある。新聞などの記事によっても、植物博士の肩をもつ調子のものが多いようだ。
しかし、尾瀬沼地帯を水底に沈めてダムにするという計画は終戦後に始まったものではなくて、戦争前の計画であり、そのころから、珍植物の宝庫を失う可否については、ジャーナリズムの片隅で問題になっていたことであった。
尾瀬の珍種というものが発見されて何十年もたっているのに、それに対する徹底的な研究を怠っていた植物博士の怠慢の方が、政府の企業よりも、非文化的だと私は考えているのである。たかが十種類ぐらいの植物じゃないか。その生態をトコトンまで究めるに、何十年が短い時間だとは思われない。尾瀬の開発が、世論にのぼってからでも十余年の年月を経ているのに、その責任に対しても特に研究するということがなく、たった十種ぐらいの植物の存在をタテにとって、広大な高原を自分の不急の研究室として原始のままで保存させうるものときめている植物博士の頭の悪さの方が度しがたい。研究室なり、他の山地なりへ移植を試みる努力をしたという話もきいたことがない。よしんば原物の保存ができなくとも、今日は、後世にミイラを残す時代ではなく、昔のミイラを現代に多少とも復元しうる時代なのである。科学的方法によって、たかが十種ぐらいの生態を原型にちかく、後世に伝えるだけの研究に時間の不自由はなかった筈である。あったのは、植物博士の怠慢、否、徒に文化、学問の美名を説くのみで、誠意ある研究に不熱心な悪徳あるのみであった。
私は文化というものを、それが人間の生活を高めることに役立つための根本的なものとして考えているのであるが、尾瀬を開発して日本の生産力を増大させようという政府の企画と、たった十種の植物のためにあたら大面積の高原を自分の不急の研究室に保存しようという植物博士のコンタンと、どっちが文化的であるか、という点については、躊躇なく政府の方を文化的だと判定するものである。他に適当な場所はいくつもあるという説があるが、この狭小な日本の国土で、果して、適当な場所がいくつもあると思っているのであろうか。自分の専門のたった十いくつの植物についての研究も手ぬかりだらけのくせに、専門外のことに、利いた風なことをいうのも滑稽千万であろう。
金閣寺が消失した、文化財の一大損失だというけれども、私もたいがいの国宝建造物は見てまわったが、金閣寺も、銀閣寺も、法隆寺も、決して美しいというようなものではない。歴史とか、美術史とか、そういうものと馴れ合いの上で、色々とツジツマを合せてから、ようやく一応の歴史的な美を納得することができるという性質のものでしかない。
歴史的な記念物という意味に於ても、建築的にいつでも原型のまま復元できるだけの資料を後世に伝えることはできる筈である。こういう種類のものは、それが正確でありさえすれば、模型で保存するだけでタクサンだ。その原物を見せる手段すらもはばんでいる法隆寺の坊主などが論外であり、文化の為に戦うなら、こういう坊主と徹底的に戦うのが、専門家の専門家たるネウチなのだが、自ら坊主退治に戦うべき本分を忘れて、人が火事退治をしてくれるべきものという他力本願に依存しているから、日本の美学者だの歴史家などというものは、口に文化の美名を説き、金閣寺焼亡、政府の怠慢、妙なことを口走るが、私はどう考えても、政府の怠慢よりも、学者の怠慢、学者の頭の悪さというものではないかと思う。
金閣寺は観光日本の一大資源、という意味に於ても、私は過去の遺物が観光客をひく一つの理由となりうることを認めはするが、もっと大切なことはホテルとか道路の建設、観光地帯の積極的な公園化の方がより大切で、観光客向きの遺物としての価値からいっては、金閣寺よりも広島や長崎の原バク記念地の方が、どれくらい国際観光客をひきつけるものであるか知れないと考えている。金閣寺の焼亡をなげくよりも、広島、長崎のバク心地を積極的に保存、公園化する計画を実行した方が、千客万来うけあいの観光計画向きなのである。
終戦後、国際的な資力と科学を動員して、黄河治水を徹底的に完成する、というような計画があったように記憶するが、中国が内戦となって、それも一朝の夢であったらしい。
私は法隆寺だの金閣寺にくらべて、早川の洪水が暗褐色の防波堤となって一哩も海中に突入している力感あふるる景観に、比較にならない美を感じているものであるが、さらに大黄河の泥シブキをあげて溢れたつ洪水の凄さに至っては、雄大きわまりないものであろうと考えている。
しかし、この歴史的な怪物を、ついに五千年の人智の苦闘の後に征服する大施設というものは、これこそ真に文化の記念碑であり、我々の努力は、すべて過去の遺跡の如きものを失っても、かような建設のためにささげられなければならないと考えるものである。文化というものは、過去にもとめるよりも、未来にもとめる建設の方が大切なのである。
すべて人間の生活の敵なるものを征服して、我々の生活を高め、安定させることをもって、文化の正しい目的と考えなければならない。
ついに大黄河を征服する設備が完成した時には、それは雄大なる設計に於て万里の長城の比ではない。
金閣寺の焼亡などというものは、美としても、歴史記念物としても、観光資源としても、識者がそろって泣き言をならべたてるほどの実質的なものは、ほとんど少ししか具っていないものだ。水鳥の羽の音に驚き、飛鳥川の洪水に咏歎をもらすたぐいだろうと思うのである。
大黄河にも及びもつかないが、利根川の水害をなくし、只見川の発電所をつくるぐらいのことは、文句なしに、とりかかるだけの国民的な見解をもちたいものだと思う。文化というものを、そのような積極的な力として見ることを基礎とした上で、再び悠々と古代へ遊びに赴くべきではないかと思うのである。
底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四七巻第一〇号」
1950(昭和25)年10月1日発行
初出:「新潮 第四七巻第一〇号」
1950(昭和25)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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