水鳥亭
坂口安吾



一匹のイワシ


 日曜の夜になると、梅村亮作の女房信子はさッさとフトンをかぶって、ねてしもう。娘の克子もそれにならって、フトンをひっかぶって、ねるのであった。

 九時半か十時ごろ、

「梅村さん。起きてますか」

 裏口から、こう声がかかる。

 火のない火鉢にかがみこんで、タバコの屑をさがしだしてキセルにつめて吸っていた亮作は、その声に活気づいて立ち上る。

 いそいそと裏戸をあけて、

「ヤア、おかえりですか。さア、どうぞ、おあがり下さい」

 声もうわずり、ふるえをおびている。

 野口は亮作の喜ぶさまを見るだけで満足らしく、インギンな物腰の中に社長らしい落付きがこもってくる。彼は包みをといて、

「ハイ。タマゴ。それから、今朝はイワシが大漁でしてね」

 タマゴ三個と十匹足らずのイワシの紙包みをとりだしてくれる。

「これはウチの畑の大根とニンジン」

 それらの品々は亮作の目には宝石に見まごうほどの品々であった。彼は茫然とうけとっているのである。その目には、涙が流れさえするのであった。

「もう、みなさんは、おやすみですか」

「いえ、かまいませんよ。どうぞ、あがって下さい」

「いま伊東からの帰り路ですよ。まだウチへ行ってないのです。おやすみ」

 野口は笑顔を残して、静かに立去る。

 日曜の夜の習慣であった。信子と克子は、これが見たくないので、早々にフトンをひッかぶって、ねてしもうのである。

 そのくせ信子も克子も野口のくれた物を存分に食う。さかんにくれた人と貰った人の悪口をわめきながら食うのである。

「そんなに厭な人から貰った物なら、お前たち、食うな」

 亮作は怒りにぶるぶるふるえるが、二人の女はとりあわない。そして益々悪口を叫びつづける。

「なんですね。あの男は。この子の生れたころは、あなたの同僚ですよ。ひところは失敗つづきで、乞食のような様子をして、ウチへ借金に来たことだってありましたよ。それになんですか。いくらか出世したと思って、たかが戦争成金のくせに、威張りかえって」

「威張っておらんじゃないか」

「威張ってますよ。昔はキミボク、イケぞんざいに話し合っていたくせに、いくらか出世したかと思って、あなた、私。おお、イヤだ。以前なら、いま伊東の帰りだよ、といったところを、いま伊東の別荘からの帰り路なんですよ。なんてイヤらしい」

「バカな。へりくだっているんじゃないか」

「ウソですよ。へりくだると見せて威張るのよ。悪質の成金趣味よ。ねえ、克子」

「そうよ。無学文盲の悪趣味よ。裏長屋の貴族趣味ね」

「バカな。お前らのハラワタが汚いから、汚い見方しか出来ないのだ。だいいち、野口君は、伊東の別荘などと言いはせん。いつも、ただ、伊東の、という。つとめて成金らしい口吻をさけているのが分らんか」

「つまんない。裏長屋のザアマス趣味をひッくりかえしただけよ」

 女子大生の克子は投げすてるように言う。

「伊東の別荘と言いたいのを、伊東で切らなきゃならないからイヤらしいのよ。使用人に届けさしゃいいものを、今、帰り路ですなんて、恩にもきせたいし、伊東の別荘も言いたいからよ。わざと、へりくだることないじゃないの。いつもタマゴは三ツなのね。不自然ね。ムリして数を合せてさ。一から十までムリしてるのよ」

「生意気な。なにを言うか。このイワシをみろ。七匹じゃないか。ムリして数を合せてはおらん。お前らのゲスのカングリ、汚らしいぞ」

 克子は皿の上の焼いたイワシに白い眼をむけて、

「七匹なんて、変ね」

 と、薄笑いをうかべる。イワシを突きこわして、ゆっくり食べながら、

「九匹じゃ、惜しいのね。六匹に一匹、足したツモリかしら。九匹から二匹、ひいたのかしら」

 亮作はつかみかかりたいほど怒りの衝動にかられて、

「私の問いかけたことにハッキリ答えろ。ムリして数を合せているか。これ!」

「それは、たぶん」

 克子の顔から血の気がひいて、白い薄笑いをはりつけたようになるのであった。

「忠誠と柔順に対する特別の恩賞ね。一匹のイワシのために老いの目に涙をうかべて喜ぶ人がいたのね。昔の同僚が町工場の小成金に出世して、拾いあげてくれたの。実直でグズなところを見こまれて、会計をあずかる重要なポストを与えられたのよ。けれども、平社員で、サラリーは安いのよ。その代り、社長は、あなた、あります、とテイネイな敬語で話しかけて、あたたかく遇してくれるのよ。そして六匹のほかに、余分に一匹のイワシも与えるの。すると平社員は老いの目に涙をたたえて、日曜の夜の社長の別荘帰りをお待ちするのよ」

 女子大学生の理にかなった皮肉が、社長からわが身へと移ると、亮作は抵抗を失ってしもうのである。彼の息の根は怒りに止まる。逆上するが、口をつぐんで、うなだれてしもうのである。

 亮作と野口は、東京近郊の農村で、小学校の教員をしていたことがあった。野口は教員にあきたらず、事業に手をだして落魄し、チャルメラを吹く中華ソバ屋をやったり、実入りがあるというので、葬儀屋の番頭をやったり、病気上りの馬を安く買って運送屋をやり、馬がコロリと死んだりした。死ぬかも知れないという不安を賭けての仕事だから、諦めはついたが、この馬は死の直前に発狂して、クワッと血走った目をひらいて瀕死の藁床から起き上ると、天へ跳び上るような恰好をした。つまり後肢で立って、前肢を人間の幽霊のように胸に曲げて、クビを蛇がのびるように天へねじあげたのである。そして綱を切ってしまった。馬小屋をとびだし、真一文字に五六町ほど道を走って、バッタリ倒れて、こときれたのである。医者がみたわけではないが、野口は馬の脳膜炎だと人に話した。

 その後、小さな町工場をやって、今や首くくりというドタンバに、戦争がはじまった。にわかにトントン拍子となり、成金になってしまったのである。

 野口はウダツのあがらぬ亮作を拾いあげて会計をまかせた。グズではあるが、悪事をするほどの能もないというところに目をつけてのことだ。サラリーは時の公定価格で、教員よりは良かっただけである。

 野口は親切であったが、キンチャクの紐をゆるめない男であった。そして彼が使用人たちに敬語で話しかけるのはケチンボーをおぎのうためだと言われても仕方がない程度にケチンボーであった。彼は亮作に産報のビールの券や、食券などを与えたが、飲食するには亮作が金を支払わねばならない性質のものであった。人々は(亮作も)それを野口のケチンボーのせいにしたが、そうしないよりは親切であったに相違ない。

 克子の言葉が正しいことを亮作は知っていたのである。野口は日曜ごとに別荘の畑のものやイワシなどを持参してくれて、なんでもないことのように置いていったが、会社でのひる休みのひとときなどに、伊東ですら、一匹のイワシを手に入れることが、すでにどれほど困難であるか、さりげなく言うのであった。

 一度や二度は我慢ができた。しかし、黙っていれば、おそらく毎日くりかえすだろう。

「エンジンのついた船はですね。それが焼玉エンジンですよ。みんな輸送船に徴用されています。若い漁師は戦争に持ってかれ、年寄まで船と一しょに徴用ですよ。それで千人食べられるだけイワシがとれたらフシギですよ」

 そこで、とうとう亮作は考え深い人のように顔をあげて言うのであった。

「先日、あちらから来た人にききましたが、網をやってますな。たしか、大謀網だいぼうあみもやってるそうです」

 野口はそれが亮作の挑戦であることを見抜くが、微笑を失いはしない。

「あちらッて、どこからの人ですか」

「え、沼津です。遠縁の者が、あそこの工場にいて、時々本社へ上京のたび、私のウチへ寄るのですが」

 亮作はおどおどしている。亀の子のように怯えた顔である。今にも甲羅にひッこめそうだが、頑強に言葉をつづけるのである。

「大謀網は、うまくいく時は、ブリが四五万尾はいる。海の魚は無尽蔵ですな」

「沼津の大謀網は初耳ですな。沼津は漁場ではありませんよ」

「いえ、沼津ではないのです。あのへんにちかい漁場での話です」

 亮作は泣きそうな断末魔の顔だが、必死に口をうごかす。哀れであるが、シブトく、にくたらしくもある。

 野口の顔色が変る。息づかいが、はげしくなる。

「私はこの目で見ていますよ。あなたは耳にきいたことで、私が目で見たことを否定しようとなさるのですか」

 亮作は沈黙する。

「太平洋の沿岸は敵の潜水艦でとりかこまれていますよ。真鶴まなづるでは、大謀網に敵潜が突ッかけてしまいましたよ。ホラ貝をふくやら、大騒ぎしたそうですが、網をかぶったまま、逃げられちゃいましてね。ですからどこの大謀網もかけッ放しで、危くって、沖へでる舟はありませんよ」

 野口が顔色を変え息ぜわしくなれば満足だと、亮作の泣き顔が語っているように見える。しかし野口も、亮作が沈黙すれば、まア、満足であった。そして、社長の落ちつきを取り戻すに時間はかからなかった。

 野口は亮作にお茶をついでやって、

「どうです。一度、伊東へ遊びにいらっしゃい。今度の日曜にお伴しましょう。とにかく、別天地ですよ。ウチの畑は二町歩あります。鶏も一週間ぶんの卵を生んで、私たちを待っていますよ」

「ええ。ぜひ一度、お伴させていただきます」

 亮作も忠実な社員にもどって、ニッコリ笑う。そして、社長の善良な思いやりと、親切を、あたたかく感じとるのである。

 月曜からの六日間、野口のケチンボーにイライラと不快な思いをさせられるにしても、日曜の一日はその親切な訪れをまつ喜びで一ぱいになる。そして、夜十時、静かに裏戸に近づいてくる跫音あしおとに、最高潮に達する。

 あるいは裏戸に跫音をきく瞬間までは、社長のケチンボー、安い月給を敬語でおぎのうことなどを罵る思いがくすぶっていたかも知れない。しかし、訪う人の声によって彼であることを確めると、もうダメだ。亮作は感動だけのカタマリであった。胸の鼓動は羽ばたいて彼を裏戸へ走らせ、老いの目に涙をうかべさせてしもうのである。

 亮作はその自分をあさましいとは思わなかった。人の善意を信じることは大切だと思うのである。しかし、信子や克子を相手にして、彼はそう考えているのであって、彼自身が直接社長に対しては、一週間の六日間はそのケチンボーや敬語を軽蔑しているのであった。だから一匹のイワシに泣く男をあさましいと思うのは、亮作が誰よりも激しかったかも知れない。

 女房や娘の汚くて意地悪い表現によって、一匹のイワシに泣く己れの姿をシテキされては、もうオシマイであった。彼は逆上しながら、口をつぐんで、うなだれてしもう。

 しかし、やがて、カマクビをたてなおす。

 そして、社長に遠まわしの皮肉をきりだすと同じようにオドオドと、しかし執拗にくいさがる。

「お前はそのイワシを食べてはいけない」

 言葉は、できるだけ静かであった。ただ、抑えきれない亢奮が口から泡をふかせているだけである。

「それほど軽蔑し憎むものをなぜ食べるのだね。それはお前が軽蔑しているものよりも、もっと軽蔑すべきことだと思わないかね」

 それに対して、克子はまずこう答える。

「ツバがとぶわね。食物に」

 それからゆっくりと、ゴミをすてるように、火のない火鉢の中へイワシを投げすてる。

「これ待ちなさい!」

 父は娘の腕をつかむ。もしくは、つかもうとする。そして叫ぶ。

「今さらゴミよりも軽蔑した手ツキでイワシを投げすててみせても、今まで食べていた意地汚さを打ち消す力にはならないのだよ。むしろ今までの意地汚さを自分で軽蔑したことになるのだ」

 克子は顔の血の気をまったく失って立上る。お弁当をとりあげる。彼女はこれから徴用の仕事場へでかけるところだ。

 克子は膝の上でお弁当をひらいて、オカズの一匹のイワシをつまみあげて、流しへほうりだす。一すじの涙がながれ、やがてかすかにシャクリあげるが、クチビルをかみしめて身支度をととのえなおす。

「克子をいじめて、おたのしいのですか」

 信子のカン高い叫びが彼を突きさす。

 彼は無言である。

「克子を泣かせて、縁起でもない。これから徴用の職場へ出勤という克子を。女子の徴用は男子の出征と同じですよ。一匹のイワシを食べるぐらいが、何様を軽蔑することになるんですって! 私だってイワシよりも棺桶屋を軽蔑しますよ。たかが一匹のイワシをたべるにも高尚な理窟がいるんですか。私は理窟ぬきに棺桶屋を軽蔑したいもんですよ。たかが一匹で意地汚いとは、おお、イヤだこと。意地汚いのは、あなたですよ。一匹のイワシを娘に食べさせるのも惜しいんですね。この御飯は、克子のために、田舎の大伯母さまが届けて下さるお米ですよ。あなたは、それを食べているではありませんか」

 亮作は無言であった。克子は勝ち誇るために泣いているが、彼は泣くこともできない。

 彼も立上って出勤の支度をはじめる。彼はイワシを投げすてた克子のように、お弁当の御飯を投げすてることはできない。

 戦争に負けるか勝つかということも、この苦しみから遁れられるか遁れられないかということよりは重大に見えないのである。


本と鶏小屋


 亮作は皇軍勝利確信派であったが、信子と克子は敗北確信派であった。

 サイパン戦況不利の報に、母と子はいち早く荷物の疎開をはじめた。

 信子が着古した衣類をせっせと荷造りしているのを見て、克子が言う。

「そんなもの、持ってって、どうするのよ」

「これだって、まだ着れますよ。あなたのためにもさ。いずれ役に立ちますよ」

「私、そんなもの、着やしない」

 娘は目を白くして、舌打ちした。

「衣裳道楽の大伯母さまが、一生かかっておあつめになった美術品のような衣類を、そっくり私に下さるというのに。そんなもの、女中だって着やしない」

「モッタイないことを言うんじゃありませんよ。これはみんな私がお嫁入りのとき、持ってきた物なのよ。それをアレコレ工夫して、一生着こなしたんですから、なつかしいのよ。あなたのお父さんに着物を買っていただいたことなんて、一度もありません」

 娘は母の感傷などに一顧を与えた様子もなかった。しかし父への軽蔑は新にしたようであった。

「それ、ほんと。お嫁入りして今までに?」

「ほんとですとも」

「ほんとかしら。お嫁入りして今までッて云えば、私の年よりも多いわけだわね」

「あたりまえよ」

「フウン。グズだわね」

 母の無言は同意をあらわしているのである。

 戦時の夜は静かであった。二人の会話はグズの耳に筒ぬけにきこえた。

 亮作は検定試験をうけて、中等教員になろうと思っていた。小学校の教員になると、ただちに受験準備をはじめたのである。彼の乏しい給料は概ねそのために費された。歴史と地理を志し、後に国漢も受けたが、何度やってもダメであった。

 信子も亮作が小学教師で終らぬことを信じた上で結婚した。中等教員はおろか、その上の試験にもパスして、教授、学者になるかも知れないと思っていた。仲人の口もあったが、書籍の山にうずもれた彼の書斎の風姿に接したときに、なんとなくそう信じたのである。

 三十前後までは、彼への世間の信用も大きかった。学識深遠、小学教師などで終るべき凡庸の徒ではない、というのである。人々は彼を仰ぎ見た。

 四十前後には、完全にその逆であった。同じ人間が、同じ土地で、目立って変った生活はひとつもしていないのに、こんなに世評がひッくりかえるということは、信じられないようであった。しかし世間は彼を遇するに、ひところはそのように甘く、そして後には冷めたかった。

 彼に憐れみを寄せる人もなかった。軽蔑と嘲罵が全部であった。

 学務委員はそれが父兄全体の声でもあると云って、彼が全然見込みのない受験のために、当面の教育をないがしろにしていることを校長につめよるのである。

 校長は彼のために弁護しなかった。

「まったく、あの人物には困りましたよ。よそへ廻したくても、どこの校長も引きとってくれません。まだしも代用教員を使う方がマシだと言いましてね」

「そんなことを云って、大事な子供をまかせておく我々はどうなるのかね」

「今になんとかしますが、本人にも言いきかせますから、辛抱して下さい」

 そのたびに彼は校長室によびつけられ、学務委員や有力者の家を謝罪して廻らねばならなかった。

 そして彼の月給は、いつまでたっても、ほとんど初任給に近かった。彼は十の余も若い人たちに追いぬかれ、新学期のたびに、彼の級をひきついだ若い教師に、彼の一年間の教育がなっていないことを罵倒されるのであった。

 信子は、大伯母の援助がなければあなたを道づれに自殺したろうと克子に言いきかせるのであった。

 信子の母の姉、克子には大伯母に当る人が富裕な人と結婚し、わがままな生涯を送っていたが、ツレアイも死に、アトトリもなかった。このわがままな年寄が、克子を養女の筆頭に選んだのである。

 信子はひとり児を養女にだすことに、反対の理由を知らなかった。梅村亮作の家名の如きは、絶えることが世のため人のためである。その家名には恥と貧窮と、悲しみと嘆きがつきまとっているだけだ。のろいによって充たされているだけである。梅村亮作の恥辱まみれの一生は、彼ひとりでしめくくるのが当然であった。

 大伯母からは克子の教育費が送られ、克子は女子大学へ進んだ。亮作が世間からうけた冷遇も、大伯母のそれに比べれば、あまいものであった。大伯母の彼に対する感情は憎悪であった。全人格を無視し、否定し、刺殺していた。

 克子は休暇のたびに、母と一しょに大伯母のもとで暮すようになったが、亮作は門前にたたずむことも許されていなかった。そして克子の休暇中は、彼は自炊して出勤しなければならなかったが、恥辱という苦痛がなければ、一人暮しの不自由も苦しいというものではなかった。

 克子の教育費は、亮作を含めた生計費に用いることを禁ぜられ、信子もその禁令を堅く守っていたが、戦争がはげしくなり克子への食糧が大伯母から届けられるようになると、そのもの自体の恩恵に浴することは稀れであっても、配給の食糧をかなり豊富にとることができて、亮作も間接の恩恵に浴することができた。

 母と娘は、夜毎に疎開の荷造りをしていた。荷物の送り先は、もちろん大伯母のもとであり、亮作の品物がその荷造りから一切はぶかれていたことは言うまでもなかった。

 彼女らの荷物を送りだしても、炊事道具やチャブダイは亮作に属していたので、三人の生活は不自由はなかった。

 二人は亮作に荷物の疎開をすすめなかった。彼女らの生活が不自由になるせいもあったが、亮作の品物などは一切煙と化したところで惜しくはなかったからである。

 二人の荷物が発送されると、空間のひろがりが目立った。それが目にしみると、亮作も疎開ということを考えた。せめて本だけは、と考える。それだけが彼の足跡だった。本が焼かれることを思うと、自分が焼かれるような苦痛を覚える。

 わずかな月給から買いだめた蔵書が二十何年のうちに二千冊余になっていた。

「なア、信子や。この本だけでも大伯母さんに預ってもらえないかな」

 信子はあきれて、溜息をつくのであった。

「なにを言うんでしょうね。あなたは。よくも、まア、羞しげもなく、そんなことを。私はB29に依頼して、この本だけは焼き払ってもらいたいと思っていますよ。考えてもごらんなさいよ。この本のおかげで、私は一生を棒にふったようなものよ。どんなに泣かされたか知れません。あなたは、よくも、まア、ガラクタ本を焼き払う気にならないものですね。人を散々泣かせて、三文の得にもならないどころか、笑いものになったばかしじゃありませんか。この本の一冊ごとに、あなたが低脳だという刻印が捺してあるのですよ。低脳の証拠を毎日眺めて平気でいられるのがフシギですよ。どこまで低脳だか、分りゃしない。私や克子がともかく生きていられたのは、大伯母さまのおかげです。さもなければ、本のために母子心中していますとも」

 信子の偽らぬ気持であった。克子にはきき古りた愚痴である。これをきかされるために生れてきたかのように、ウンザリさせられてもいる。信子の語気は激しかったが、克子の耳には陳腐なクリゴトで、なんの興もそそられなかった。

「お父さんは、どこへ疎開するの」

 克子がきいた。

 皮肉な思いは含まれていない。同じところへ父が疎開するはずのないこと、そして、それが当然であることを信じているだけの話であった。父の行先に、ちょッと興味があるだけである。

「疎開する所があるものですか」

 信子の攻撃がつづく。

 亮作はちょッと首をすくめて、困惑した薄笑いをうかべた。

「どこへ行く必要もないがね。そろそろ皇軍の総反撃のはじまるころだ。今ごろ、はじまっているかも知れん。敵さんの物力で半永久的な飛行場をつくらせてから、とりかえす。すこし手がかかるが、物量を節約するには、こんなこともせにゃならん。作戦は計画通りいっとる」

 日本の反撃は亮作の反撃であった。彼の顔色は、ちょッと得意にかがやく。これが彼の為しうる唯一の執拗な反撃であり、仕返しなのである。

 克子はそんな子供じみた仕返しに興味がなかった。

「じゃア、疎開しないの?」

 自分の興味だけ追求する。

「疎開するところがないからなのよ。負け惜しみッてことが分らないのかね」

「いいじゃないの。きいてみたって」

「きくだけ、ヤボよ」

「でも、ききたいわね」

「きいて、どうするのね」

「この本の保管托されてさ。なんの役にも立たなかったガラクタだなんて、その人知らないわね。おもしろいじゃないの」

 亮作は亀の甲から首をだす。

「人間には夢が必要だ。夢を持たなきゃ生きられない。三文の値打もないと分っていても、夢に托して生きる。お前さん方には、わからない。戦争が終って、私と本が又一しょに暮すようになる。時世が変って、私のような老書生も試験にパスして、新時代に返り咲くかも知れない。バカらしくとも、夢に托して生きて行くのがカンジンさ」

「なんだ、つまんない」

 克子は即座にうちけした。

「戦争が終ってから試験にパスしたって、もう停年の年齢じゃないのよ。どこにも夢なんて、ありゃしない」

「克子は夢がないのかね」

 亮作の言葉は穏やかであったが、例の弱々しく執念深い抵抗が、すくんだと見せて小さなカマクビをもたげているのである。

 克子は軽く舌打して、その小さなカマクビを払い落した。

「軽蔑されるの、当然だわね。私たちの年齢に夢がない人あって? お父さんの年齢で、試験にパスする夢なんて、よくよくだわね。再来年は、私でも中等教員の免状もらえるのにね。中等教員になりたいなんて、思いもしないけどね」

 克子の述懐に底意はなかったようだが、亮作のカマクビはうち砕かれて、抵抗も言葉も失ってしまった。

 どうしても本だけは疎開しようと亮作は思った。それだけが二人の女に抵抗する手段のように思われた。本に対するやみがたい愛惜もたしかであった。

 ひねもす本のことだけが気にかかる。

「社長におねがいがあるのですが」

 と、亮作は野口にたのんだ。

「実は、疎開のことですが」

「疎開なさるんですか。結構ですね。早いが勝ですよ。どちらへ?」

「いえ、それがね」

「奥さんの伯母さんの所でしょう。大変なお金持だそうですね。羨しいですよ。こッちへも少し分けて下さい」

「ええ。家内と娘はそこへ疎開させますが、私はちょッと遠いものですから」

 亮作は家庭の不和を隠していた。誰にも知られたくなかったのである。

「遠いッたって、なんですか。持久戦ですよ。物資のあるところに限りますぜ。こんな小ッポケな工場を持ったおかげで、私なんか身動きができないから哀れですよ。田舎へひッこんで、新鮮なものをタラフク食べて、忙しい思いを忘れたいですよ」

「実はお宅の伊東の別荘の片隅をかしていただけたらと、あつかましいお願いなんですが」

 思いがけない申出に、野口の微笑が一時に消えた。やがて苦笑して、首を横にふった。

「御依頼に応じかねますな。たった四間の掘立小屋ですよ。ウチの家族だけで、はみだしてしまいますよ」

「軽井沢でも結構ですが」

「あれは人に貸しています」

 野口は嘘をついた。

 彼は軽井沢と伊東に別荘を持っていた。それは彼の多年の夢想であった。夏は北方の山荘に暑気をさけ、冬は南海の別荘に正月をむかえる。

 その夢が手ごたえもなく実現してしまったのだった。

 軽井沢は住みてを失い安値に売りにでたのを買ったもので、中流の立派な別荘であった。

 伊東には手ごろの別荘の売物がなかったが、温泉のでる土地を買った。そこは駅から成年男子で四十分以上も平野の奥へ行きつめたところで、わずかな平地を残して三方は山にかこまれ、人家はほとんどなかった。

 畑の中に温泉が湧きでていた。その野天温泉と、それを中心にした二町歩ほどの田畑を買った。

 伊東の駅にちかいところは人家が密集して、もう発展の余地がない。未来の繁栄は奥手の発展にかかっている。奥へ行くほど泉質もよかった。

 今は人煙まれなドンヅマリだが、戦争がすんで遊山気分がおこると、遊楽地帯の発展ぐらい急速なものはない。野口は思惑をはたらかせて、土地ぐるみ温泉を買った。ゆくゆく大旅館をたてて、儲けながら温泉気分にひたろうというモクロミであるから、当座のしのぎに小さな別荘をつくった。留守番をおいて田畑をつくらせ、鶏を飼い、戦争中の栄養補給基地に用いるという一石二鳥の作戦でもあった。

 しかし、伊東の駅へ降りて、袋小路のような平野が山に突き当るドンヅマリまで四五十分の道中をてくっていると、戦争に勝って気違い景気が津々浦々にみなぎっても、伊東の繁栄がここまで延びるには、目の玉の黒さの方がオボツカナイような気持になる。又、それだから、温泉ぐるみ二町の田畑を安く買うこともできたのである。

 亮作もこの別荘へ一度だけ招待されたことがあった。なるほど当座しのぎの安普請で、部屋数は四間しかなかった。

 鶏小屋が二つあった。大きい小屋に二三十羽の鶏が飼われ、小さい方は廃屋になっていた。亮作はセッパつまって、それを思いだした。もう何でもいいというヤケであった。

「たしか鶏小屋が一つ、あいてましたね」

「ハ? なんですか」

「鶏小屋が一つ、あいてましたね」

「ハア。鶏小屋ですか。あいています。それが、どうしたというのですか」

「あれを貸していただけませんか」

「鶏小屋を!」

 野口は興にかられて亮作を見つめた。

「小さい方の使っていない小屋のことでしょうね」

「むろん、そうですとも。使用中のものを、お願いできるとは思いませんから」

「あの小屋なら、一間の四尺五寸、つまり一坪に足りないのですよ。あれをどうしようと仰有おっしゃるのです」

 野口は益々興にかられて亮作を見つめた。そんな目で見つめられると、亮作はナメクジが溶けるように目をすぼめて泣き顔になるのであったが、弱々しい、しかし執拗な抵抗が、また、カマクビをもたげるのである。

「いえ、ナニ、ちょッと本を二千冊ほど疎開させたいのですよ。ほかに金目のものがないわけではありませんが、私は財産を疎開させようなんて、考えちゃおりません。戦争ですから、職域を死守する、私は東京を動きません。一兵卒のつもりです。身辺の家財もうごかしません。死なばもろとも、です。けれども、書籍は文化財ですからな。私のは、特殊な専門図書ですから、金には換算できないものがあるのです。まア、見る人によりけりですがね。焼け残れば、よろこんでくれる人もあるでしょう。そして後世、役立つこともあるでしょう。私のためじゃアないのですよ。碌々たる私の一生でしたが、一つぐらい、ほめられることもしておきたいと思いましてね。いまわの感傷にすぎませんがね」

 それが野口のカンにさわった。彼はさりげなく微笑して、

「とんでもないことです。そんな国宝的な品物はお預りできません。保管の責任がもてません。私はズボラですから」

「いえ、責任をもっていただく必要はありません」

「ダメ。ダメ。あなたがそう仰有っても、戦火で焼くとか、紛失するとか、してごらんなさい。野口はくだらぬ私物を大事にして、人から托された国宝的な図書を焼いてしまった、と後世に悪名を残すのは私ですよ。それほど学術的価値のあるものでしたら、文部省とか、大学などに保管を托されることですな。そんな物騒な高級品は、私のような凡人の気楽な家庭へ、とても同居を許されません。意地が悪いようですが、堅くおことわり致しますよ」

 亮作は無言であった。その悄然たる有様に野口は慈愛の眼差しをそそいだ。

「ねえ、梅村さん。あなたは間違ってやしませんか。命あってのモノダネですよ。あなたがどんな貴重な図書をお持ちか知れませんが、失礼ですが、小学教員のあなたが、──いや、悪くとらないで下さいよ。大学教授でも、専門学者でもないあなたが集めた程度の書籍は、ちょッとした学者の本箱にはザラにあるにきまってますよ。強がりを仰有っては、いけませんね。それは、あなたの一生の愛着が本にこもっていることは分りますがね。しかし、戦争ですよ。命あってのモノダネですよ。足手まといの本なんか、売っちゃいなさい。そのお金で、片田舎の百姓家でも買って疎開先を用意するのが利巧ですよ。意地悪いようですが、本の疎開でしたら、あの鶏小屋は絶対にお貸し致しません。しかし、まさかの用意に、鍋釜、フトンでも分散しといて、イザというとき、逃げこもうという算段でしたら、あの鶏小屋をあなたに開け渡してあげます」

 亮作は泣きそうな顔に微笑をうかべた。

「いえ、いいんです。私は疎開は考えません。一億玉砕の肚ですから。最後の御奉公ですよ。それに、日本は、負けやしません。最後には勝つのです。何年先か分りませんがね。そのとき私の残した本が、まア、いくらか、お役に立つでしょう。私はそれだけで満足です。ほかに思い残すこともありません」

「梅村さん。戦争は何百万の雷をあつめたように、容赦しませんよ。小さな負け惜しみや、小さな意地をはってみたって、なんにもなりゃしませんよ」

「いえ、なります。時間の問題ですから。軍は秘密兵器を完成しています。敵が図にのって、総攻撃に来たときに、奥の手を用いて一挙に勝利へみちびく。これが軍の既定の作戦なんです」

 亮作は口に泡をためて無数にツバをふきながら言う。野口は微笑しながら、それを見つめた。ひどく感服したように。

「フトン、衣類、鍋釜でしたら、鶏小屋へ保管してあげます。まア、せいぜい、分散しておくことですよ。必需品ですから。そして、書籍などは、値のあるうちに、売り払いなさい。もっとも、タキツケの役に立つときが来るかも知れませんがね」

「ええ、まア、タキツケには、なりますね。戦国乱世には、皇居の塀や国宝の仏像で煖をとります。庶民は、仕方のないものです。私の本も、おなじ運命かも知れません」

 野口は益々感服して首をふり、あきらめて、ふりむいた。

 信子と克子は正月の休みに大伯母のもとへ行ったまま、学校へは診断書を送って、再び東京へ戻らなかった。

 三月十日の空襲に、亮作も野口も焼けだされた。しかし、命は助かった。

 亮作は大本営発表や、新聞などの景気のいい言いぐさを信用していたし、それまでの空襲の被害が少いので、タカをくくって、防空壕もつくらなかった。もっとも、彼の住むあたりは、土を掘ると水がわくので、手軽に防空壕もつくれなかった。

 亮作は家財を一物も助けることが不可能であった。それでも命の助かったのがフシギなくらいであった。

 この夜の空襲は、敵機が投弾を開始して諸方に火の手があがってから、ようやく空襲警報がでた始末で、亮作が身支度を終らぬうちに、バクダンの凄い落下音がせまりはじめた。それでも彼はまだ空襲の怖しさを知らなかったので、身支度だけは終ることができたし、現金の小さな包みを腹にまきつけることも出来たのである。

 外へでると、火の手がせまっていた。目の前が、まッかなのだ。焼けた烈風が地を舐めて走り、いきなり顔を熱のかたまりがたたきつけた。彼は悲鳴をあげて、とびあがった。風下へ夢中に泣いて走っていた。

 彼は逃げた道順がまったく分らない。逃げ足が早かったので助かったのである。常に火に追われ、火にさえぎられて、とめどなく、逃げまどっていただけだ。そして逃げのびる先々に、彼に安全感を与えるだけの堅牢な建物や防空壕や広い公園などのなかったことが、彼を助けてくれたのである。

 それほどの長距離を走った自覚がないのに、彼は海岸にたたずんでいた。そして夜明けをむかえたのである。

 わが家の跡には何もなかった。くずれた瓦礫の下に、書物の原形をそっくりとどめた灰もあった。みんな燃え失せたのだ。まだ東京には多くの家が残っているし、さらに多くの家が日本の各地には有るけれども、彼の住む家はもうどこにもない。

 たった半日に、彼は無数の焼けた屍体を見た。見飽いて、立ちどまる気持も起らない。しかし、わが家の焼跡を見ると、悲しさがこみあげて、涙がとめどなくあふれた。そのあたりの路上や防空壕にも黒こげの屍体がころがっていたが、各々の焼跡に立っているのは、彼だけであった。

 野口の自宅も工場も焼けていた。焼跡へ行ってみると、野口夫妻と子供たちが、墓の中から出て来たように、顔も手足も泥まみれに、かたまっていた。

 みんなおし黙ってニコリともせず彼をむかえた。

「みんな焼けましたよ」

 野口はつぶやいた。何も言いたくない、というような、不キゲンな声だった。

「私もみんな焼きました。残ったのは、私の着ているものだけです」

「命が助かっただけ、しあわせです。しッかりしなさい」

 険悪な顔、噛みつく声であったが、亮作には、人間味がこもって、きこえた。

 すがりつきたい思いであったが、野口の手を握るだけで精一ぱいであった。なつかしさに、胸がはりさけるようだ。彼は嗚咽して、数分は言葉もなかった。

「しッかりしなさい」

 野口はやさしく彼の肩に手をかけた。

「私はバカでした」

 亮作は、しゃくりあげた。

「そんなことを言っても、どうにもなりゃしませんよ。夥しい屍体を見たでしょう。利巧な人も、たぶん死んでることでしょうよ」

 野口は相変らず不キゲンだった。彼は死と闘ったのだ。助かるための努力だけが、怖しい一夜の全部であった。

 亮作も死に追いつめられた一夜の恐怖は忘れることができない。しかし、今となっては、生き残った恐怖の方が、まだひどかった。

「私に鶏小屋をかして下さい。私は、すべてのものを失いました。私はバカでした」

 亮作は、はげしく、しゃくりあげて、叫びつづけた。

「私をひとりぼっちにしないで下さい。お願いです。考えただけで、息がとまってしまいます。下男でも作男でも、なんでもします。伊東へつれてって下さい。鶏小屋へ住ませて下さい」

 野口の子供たちは、あきれて、目をそらした。

「あなたはフトンも衣類も疎開しなかったのですか」

「いえ、私は、いらないのです。私はひとりぼっちが怖しいのです。夜露をしのぐ屋根さえあれば、たくさんなんです。こんな怖しいところへ、私を見すてないで下さい」

「むろん助け合うことは必要です。しかし、奥さんの疎開先へいらしたら、どうですか。あなたは逆上して、いろんなことを忘れてらッしゃるようですね。屋根だけじゃありませんよ。フトンも、鍋釜もある筈ですよ。奥さんが待っておられますよ。心配しておられるでしょう」

「いえ、私は働かねばなりません。社長に見放されては、生きることができません」

「私の工場は焼けました。伊東にはチッポケな家があるだけです。私は、もう社長ではありません」

「私を見すてないで下さい」

 亮作は狂ったように嗚咽した。

 野口は苦りきって、目をそらしたが、思い返して、つぶやいた。

「とにかく工場の後始末に、私だけは四五日東京に残らなければなりますまい。あなたにも手伝っていただかねばならないことが有るかも知れません。それから先のことは、お互に分りゃしませんよ。私はどこかの工場へ勤めますよ。一工員にすぎません」

 彼はふりむいて、焼跡や防空壕をほじって品物を探しはじめた。


売買


 亮作は野口にゆるされて鶏小屋にすんだ。床をはり、板で囲った。戦災者の特配品と、人々からの貰い物で、日常の用は最小限度に間にあった。彼は現金を持っていたが、食物以外には一文も使わなかった。タオルを持たなかったので、温泉につかると、からだの乾くまで、浴室にたたずんでいた。野口の家族たちは、彼に同情することや、物を与えることをやめた。

「梅村さん。利用ということを考えてはいかがですか。からだをふくにはタオルでなければならない筈はありません。なにも持たないといっても、全然代用品がないこともありますまい。ほらね。たとえば、あなたは肌身放さず腰にフロシキ包みを巻きつけていらっしゃるでしょう。あのフロシキだって、タオルの代りにはなるでしょう」

 そのフロシキには、かなりの現金がつつまれているらしい。いくらぐらいかしら、と野口の家族は噂していた。野口は言葉をつづけて、亮作をからかった。

「あなたはウチのなたでエンピツをけずっていらっしゃいましたね。鉈は叩き割る道具ですが、どうでした、うまく削れましたか。ウチの者に仰有ればナイフぐらいお貸ししますよ。しかしナイフぐらいお買いになってはどうですか。まだ売ってる店を見かけましたよ」

「いえ、買いません。買いたいと思いません。お金が惜しいからではありません。私は貴重な体験を生かしているのです。私は考古学のまとまった資料や大切な文献をみんな焼いてしまいましたが、文献以上の資料を見出しているのです。それは私の今の生活を原始時代のものとみて、その体験を資料にし、実験しているのです。今までの学者は石器時代の遺跡を地下から発掘しましたが、私は生きている生活を発掘しているつもりなのです。八紘一宇の精神にも一致します。遺跡の発掘は米英的な科学にすぎませんが、私のは、学問の真髄、日本精神にのっとった唯一最後のものなんです。ここまでこなければ、考古学は分りません。そして、私が考古学に於て日本精神による方法の勝利を発見したように、米英の科学思想は究極に於て日本の復古精神に敗れますよ。日本全土が焦土と化した後に於て、米英の科学思想は逆に日本に弱点をつかれます。日本の勝利は近づいているのです」

「なるほど、石器時代を体験なすっていらっしゃるのですか。なるほど、タオルはなかったでしょうな。たしかに沐浴のあとでは、からだを天日にかわかしたでしょうな。しかし、失礼ですが、石器時代は貝塚とか云って、物をナマで食べていやしませんか。まア我々の食べ物は調味料もなし、豚のエサで、石器時代以下かも知れませんが、あのころは、また、穴居とも云いましたようですね。鶏小屋は変じゃありませんか。防空壕で起居なさる必要があるでしょう」

 亮作は無言であった。野口は意地わるく追求した。

「さっそく、穴居すべきですよ。防空壕へ住みかえなさい。真の石器時代を体験すべきです。鶏小屋でごまかしては、いけないでしょう」

 亮作は弱々しい笑いをうかべた。すると、口に泡がたまってきた。

「仰有る通りです。でも、急ぐことはありません。自然にそうせざるを得なくなりますから。日本は焦土になります。ここも焼けるか、吹きとぶか、どちらかです。みんな次第に穴居しますよ。ムリにすることはないのです。自然になされた状態に於て、はじめて体験の真理が会得されます」

「ほんとですね」

「むろんです」

「石器時代に毛布やフトンや着物がありましたかね」

「むろん、ないです」

「なぜ着物をきてらっしゃるのですか。戦災者特配の毛布は、うけとるべきではなかったですね。なぜ、お貰いになったのですか」

「いえ、それでいいのです」

「なぜですか。せっかくの自然状態を自ら裏切ってやしませんか」

「いえ、いいのです。今に、くれる物もなくなる時がきます。みんな、裸になる時がきます」

「それでも日本が勝ちますか」

「かならず勝ちます。『有る』思想は滅亡すべき性格です。『無』の思想には、敗北はないのです」

「あたりまえですよ。無より悪くはなりっこないにきまってますよ」

「いえ、無が有を亡すのです」

 亮作の弱々しい目に妖光がたまっていた。神がかりの度がひどくなっていくようであった。

 日本の諸都市のバクゲキがあらかた片づいて、夏がきた。

 伊豆半島、特に伊東に敵が上陸してくるというので、気違いじみた騒ぎが起った。上陸に適した地勢で、おまけに鉄道の終点であり、敵はここを基地にして、首都へ東上する、そんな尤もらしい噂が流布して、ここが本土の最初の戦場になることを土地の人々が信じはじめた。

 その流説を裏書するように、一個師団がゴッソリかくれて敵の上陸を待ちぶせることが出来るような洞穴が伊東の四周の山々に掘りまくられ、亮作もモッコ運びにかりだされた。

 伊東から四方へ走る峠の細道は、家財を運んで本土最初の戦場を逃げる人々でごった返している。別荘の売物が諸方に現れて、ただのように値が下ったが、買い手がない。

 野口もあきらめた。本土最初の戦場ではないにしても、東京にちかい太平洋沿岸が修羅場になるのは、おそかれ早かれ必然の運命だ。このへんの山という山、海という海が火をふいて、空という空を弾が走るにきまっている。すべての家も木も吹っとんで、一面にひっくりかえされた土地だけが残る。こんなところに住むのは、自殺するようなものである。

 野口は軽井沢に別荘があるから、案外あきらめがよかった。吹きとばされる先に、別荘をうって、軽井沢へひッこむにかぎる。安くても、ただ吹きとばされるよりはマシである。よその別荘は売れなかったが、彼は売りつける自信があった。

 いったい亮作は肌身放さぬ包みの中に、いくら持っているのだろうと野口は真剣に考えこんだ。

「梅村さん。私たちは軽井沢へひきあげようと思いますが、どうです、この別荘を買いませんか。土地ぐるみ、温泉ぐるみ、ただの一万。まるで捨てるようですが、あなたになら、一万でゆずりましょう」

 亮作はモッコかつぎに出ていたから、町の様子は手にとるように知っていた。

 持てる連中は大騒ぎだ。別荘や運びきれない物品が捨て値で売りに出ている。それでも買い手がない。町の人々は敵の上陸を信じこんでいるからだ。亮作がそれを信じないわけはなかった。しかし彼は持たないから、落付いており、あらゆる人々に穴居の運命が近づくのを見ているだけのことであった。

 亮作は自分の家が欲しいと思っていた。焼けだされた当時は、住むべき家のないことが何よりの悲しさであったが、今はそれほどでもない。なぜなら、何百千万の同類ができたからである。しかし欲しくないことはない。

 もしも捨て値の別荘を手に入れて運よく戦禍をまぬがれたらと亮作は思った。今の彼の運命は逆転してしもうのである。家をもてる小数の一人となるかも知れない。

 町の中の別荘とちがって、野口の住居は平野のドンヅマリの田畑の中に孤立している。ひょッとすると、助かる可能性がある。あるいはこの町でただ一人の家をもてる人となるかも知れない。

 そう考えると、むくむくと人生の希望がわいてきた。

 しかし野口の言い値は法外であった。彼は野口のずるさを憎んだ。

「この十倍も大きくて立派な別荘がたった五千円で売りにでていますよ。それでも買い手がありません。あたりまえですとも。一二ヵ月あとには、跡形なく吹きとばされるのですから。一二ヵ月の家賃ですから、まア、高くて百円です。あなたの家でしたら、三十円ですな。それでも高いぐらいです」

 亮作は残酷な笑いをうかべた。

「冗談云っちゃいけません。消えてなくなる別荘とはちがいますよ。土地と源泉がついています。何十トンのバクダンでも、これをどうすることもできないのです」

 野口は薄笑いをうかべて言い返した。一万円は持たないようだ。すこし高すぎたかな、と思った。そして高圧的な商談をたのしそうに語りつづけた。

「あなた、ひがんではいけませんよ。たとえば、単に別荘だけでしたら、金殿玉楼も買い手がないのは当然かも知れません。いま敵に追いつめられ、窮亡のドン底にある我々に、最大の財産はなんですか。言うまでもなく、自給自足しうる土地ですよ。田畑ですよ。いいですか。現在に於ては、そうなんです。しかし、平和恢復後の未来に於ては、田畑の値は下るでしょう。そのときに高値をよぶのは何でしょう。この土地に於ては、先ず第一に源泉にきまってるじゃありませんか。伊東の町にはどの住宅にも温泉がひいてあるかも知れませんが、源泉の数は知れています。おまけに、ここの湯は自噴ですよ。伊東に自噴の源泉なんて、いくつも有りゃしませんよ。大部分がモーターであげているのです。現在に於ける最大の財産と、未来に於ける最大の財産と、二つを一とまとめにして、しかもこれが空襲にも艦砲射撃にも絶対不変の財産ですが、それで一万が高すぎますか。私は親しくしていただいたあなたなればこそ、安くお譲りしようと思っているのです。一万円なら誰だって飛びつきますよ。しかし、見ず知らずの人に売るのでしたら一万円じゃ売りませんとも。失礼ながら、焼けだされて無一物となったあなたのために、すこしでも尽してあげたいと思ったのですよ。お別れすれば再びお目にかかる機会があるかどうか分りませんが、私としては、最後の友情のつもりなんです。餞別にそっくりタダで差上げたいのは山々ですが、私も焼けだされだから、そう気前よく出来ないのが残念です」

「近代戦の上陸地点の激戦の跡というものは、満目荒涼、山の形も川の流れも変るでしょう。草も木も、小鳥も虫も、何もありません。どこに伊東の町があったか、見当もつかないでしょう。あなたの地所が川か沼にならなければ幸せというものですな。温泉町として復活するにも二十年はかかるでしょう。そのころは、私は死んでいるでしょうな」

 亮作は、また、残酷に笑った。

「すると、日本は亡国ですな」

 野口はやりかえした。

「すべてを失った後に於て、日本は勝ちます。太古にかえり、太虚に至って、新世界の黎明が現れます。日本は太虚であり、太陽であり、新世界の盟主です。記紀に予言されたところであり、歴史的必然です」

「そうあって欲しいものですよ。ところで、梅村さん。穴の中に隠れてくらすにしても、人間は何か食わずには生きられませんよ。穴の中の生活に配給はありませんぜ。自分の畑がなくて、あなた、どうなさる。この畑には、鶏小屋も鶏も附属していますぜ。日本の現状に於ては、まさに王侯じゃないですか。第一、私がこの別荘を人に売ったら、あなたは鶏小屋を追われます。あなたの身柄までひッくるめて、買ってくれる人はいませんからなア」

 それは亮作に何より痛いところであった。もしも、買い手がつけば、亮作が追んだされるのは、まぬがれがたいところだろう。

 しかし亮作はひるまなかった。

「ええ、どうぞ。買い手を探して下さい。私に遠慮はいりません。ひさしく寄席も芝居も見ませんが、この家を一万円で買った人間の顔を、見るのを、笑いおさめに、鶏小屋から立ち去ることに致しましょう」

 一万円はまずかったな、と野口は思った。露店のセリの要領で、まず一万と値をつけたが、たしかに高すぎた。この値では買い手がない。追い立てをくう不安がないから、亮作はつけこんで、いきまいている。

「ほんとに、人に売ってもいいのですね」

 野口の顔色が、ちょッと変った。

「ええ、ええ。どうぞ。ひさしく笑うことを忘れていましたから」

「五千円なら買いたいという人があるんですが、おことわりしたんです。しかし、私も、金と命をひきかえるのはイヤですから、値ぎられるよりも、時間のちぢまる方が、なお怖いですよ。あなたは売り別荘続出で、買い手がないとタカをくくってらッしゃるようですが、大戦争の生きるか死ぬかの瀬戸際にも思惑をはる商売人がいるもんですよ。私も、つくづく、呆れました。別荘を買い漁っている人種がいるのです」

「それに似た話はきいております。しかし、私のきいたのは、買い漁ってと云うよりも、拾い漁ってと云う方が正しいような話でしたな。買い漁る必要はないのです。別荘をすてて逃げているのですから。引越しの運賃になれば、よろこんで売るそうです」

 みんな知っているな、と野口は相手を憎んだが、主眼は、どこまでも商売だ。一銭でも高く売りつければ、すむことだ。

「あなたは、まだ誤解してらッしゃるようですな。売り別荘はタダが当然ですとも。しかし私のは、別荘の価値じゃなくて、田畑と源泉の値段です」

「それでしたら、千円ですな。もう、ちょッと安いかも知れない」

「この田畑と源泉が、たった千円ですか!」

「ええ、千円です」

「何から割りだしたお値段ですか。ひとつ、後学のために、きかせて下さい」

「敵の上陸を二ヵ月後として、別荘二ヵ月間のお家賃六十円。それも、四五日後に敵が上陸すれば、丸損ですな。二ヵ月後から十数年間は不毛の沙漠となりますから、土地も源泉も値のつけようがありません。値のつくものは、三十羽ほどの鶏と、いま畑にできている野菜だけです。これを高く見積って、全部でせいぜい千円です。食べきらぬうちに敵が上陸すれば、これも丸損になります。そこを半々にみて、五百円がいい値でしょうな」

「あなた、また、五百円に下ったんですか!」

「ええ、そうなります。それでも高い」

「まだ下るんですか!」

「ええ」

「いくらに!」

「明日、敵が改めてくるかも知れない。今夜かも知れない。いえ、もう、大島辺に敵の艦影が見えて、今に空襲警報がなるかも知れない」

「なるほど。すると?」

「タダです」

「タダなら貰って下さるんですか。イヤ、まったく光栄です。あいにく、そのときは私が鶏と野菜をたべなければなりませんから、さしあげるわけにはいきません」

「私、千円で買ってさしあげましょう」

「ハハア。買ってさしあげて下さいますか。千円でねえ」

「ええ。買ったトタンに敵の上陸作戦がはじまっても、私の不運とあきらめます。あきらめては、いけないのです。あきらめては、この戦争に勝てません。鶏小屋の家賃にしてはすこし高いと思いますが、長らくお世話になったお礼として当然だと思って、あきらめるのです」

「なるほど。たいへん勉強になりました。色々の計算法があるものですなア。私は感服しましたよ。しかし、驚きましたな。どうして、あなたが、もっと出世なさらなかったのだろう? 自分の欲する通りに、千円の物を十円に値をつけて、キチンと思い通りの計算をわりだすことがお出来になる。あなたは四角のものを円だと云って、そのワケをキチンと説明のできる方です。白いものを黒だと云って、そのワケをキチンと証明することもお出来になるに相違ありません。自分の欲する通りの計算がおできなのに、どうして一生貧乏なさったのでしょうね。梅村さん。そのワケがお分りですか。なぜ貧乏なさったか? 思いのままにキチンと計算ができながら、ね。そのワケは、こうです。あなたの計算は、あなただけしか通用しません。世間ではその計算が通らないのです。四角は常に四角。白は黒では有りえないのです」

「公式通りには、いきません。なぜなら、戦争ですから。一寸先はヤミ、ということを、あなたは忘れてらッしゃるのです」

「あなたは、又、一寸先はヤミ、というウマイ方式で単純に割りきって、手前勝手な言いくるめ方をあみだしていらッしゃいますよ。しかし、ねえ、それでは人生は身も蓋もありません。そうでしょう。たとえばですね。家を買う。戦争の時でなくッたって、その晩、火事で焼けるかも知れません。源泉を買う。地底の変化で突然源泉が出なくなるかも知れません。牛を買う。翌日死ぬかも知れません。それを理窟にして、五千円のものを、千円、五百円、タダにしろと云えますか。しかし、理窟としては、たしかにタダでも有りうるのです。なぜなら、買った日に、燃えたり死んだりするかも知れませんから、ね。あなた、その理窟をふりかざして、世渡りができるでしょうか」

「いえ。できますとも。あなたこそ、平時と戦時をゴッチャにして、計算をごまかしていらッしゃる。みんな別荘をすてて逃げている時代なのです。すべて物という物が無価値になりつつある時代なのです。あなたの計算が、手前勝手なのです」

 亮作の眼は妖光を放ち、口はケイレンして泡をふいた。気違いじみた確信だ。

 野口はあせらずに、論争の焦点をずらした。

「私は、こう考えますよ。日本が亡び、人間が死滅するのでない以上、戦争の終ったあとで、私たちの希望のよりどころになるものは、私たちの所有している物だろうと思います。何も所有していなかったら、こんな悲しいことはありません。月給だの食糧だのを与えてくれる機関や秩序があるかどうか、見当もつきませんからね。無一物なら、むかしの野武士のように、強盗でもして生きる以外に手はないでしょう。あなたの年では、強盗もできません。笑いごとではありませんよ。日本人は誰にせよそんな不安を感じているにきまっています。そのときに、田畑や源泉を所有しているということ、群盗横行しても、田畑や源泉は盗まれませんよ。この悲惨な戦争の最中も、田畑や源泉を所有していることが生きがいになりゃしませんか。この家だって、必ず戦禍にやられるとはきまっていません。戦禍にやられるかも知れないということは、やられないかも知れない、ということです。人間は夢を持たなきゃいけません。夢をもてば、たのしいものですよ。しかし、私は、夢に値段をつけようとは云いません。この田畑と源泉が五千円です。六千坪あります。一坪一円にも当らないではありませんか。失礼ながら、あなたの生涯に、もしも戦争がなければ、六千坪の田畑と源泉を所有することなど、夢にも有り得なかったでしょう。人も羨む源泉ですよ。ただ少数の階級だけが所有し得たゼイタク物ですよ。もう、これ以上は申しません。あなたの運を御自由にお選び下さい。五千円なら売ります。おイヤでしたら、やめましょう」

 亮作は肌身放さぬ包みの中に七千余円もっていた。これは彼が主として野口に使われてからの五ヵ年間にためたものだ。万事が配給の時世となって、いくらも生活費がかからず、信子と克子は大伯母からの仕送りで別個にくらすようにもなったから急速にたくわえが出来たのである。

 彼は孤独の行く末を何より怖れていた。怖れの根本は、無一物というところから来ているのである。自分に才のないことも骨身に徹している。そして、年もすでに五十である。そして、無一物である。

 彼はこの別荘をどうしても買いたい気持になっていた。家も田畑も、源泉までも所有しているとは、なんてすばらしいことだろう。このドンヅマリの家だけは戦禍をまぬがれるかも知れないし本当にまぬがれるような気もするのである。

 たとえ家はやられても、この田畑さえあれば、安穏な老後が送れる。

 彼が金をもたなければ、どうしてもこの別荘を買いたいために、泥棒したいと思ったかも知れない。あいにく彼は買えるだけの金を持っていたので、金をだすのがイヤであった。だまされ、ぬすまれるような淋しさがあった。

 だが、それにしても、家と田畑と源泉を所有することが、悪かろうとは思われない。自分がそんな身分になろうなどとは、考えられないほどだった。天にも昇る期待がこみあげる。すばらしい人生。すばらしい戦争。

 彼はクシャクシャ泣きそうな顔に、にえきらない笑いをうかべて、

「じゃア、二千円で買いましょう」

「何を仰有るのです。私だって疎開を急がなければ、こんな捨値で売りやしませんよ。今どき、五千円ポッチで何が買えますか。あなたのように、家も土地も所有したことのない方に、こんな話をしたのがマチガイでした。私も長い辛酸のあげくに、ようやく念願を果したこの別荘です。ハシタ金で、ボートクを加えるほどなら、火をかけて燃した方がマシですとも」

「ボートクじゃないのです。私はお金がないのです」

「じゃア、およしなさい。お金がなければ、話になりません」

「じゃア、三千円で手をうちましょう」

「誰が手をうつのですか」

「私はそれしかお金がないのです」

「ですから、お金がなければ、お止しなさい」

「あなたは卑怯です」

「なぜ」

「私のような鶏小屋の住人に売買の話をもちだす以上、私のもてる限度に於て取引に応じて下さるのが当然でしょう」

「私はあなたとは論争しません。あなたが弁護士でしたら、殺人犯人がどんなに喜ぶか知れませんよ。泥棒や詐欺は正業という結論になったでしょうよ。債権者は罪人になります」

「私をからかうために、この売買の話をもちかけたのですね。それでしたら、あなたは本当に罪人ですとも」

「あなたに善人とよばれるよりは、罪人とよばれることを喜びますよ」

「あなたは私をぬか喜びさせ、期待にふるえる思いをさせて、ドン底へ突き落したのです。希望をもたなかったうちは、私は鶏小屋の生活に安住することができたでしょう。こんなふうに、いっぺん空へ抱き上げて、突き落されては、私はもう平静な心境を失いました。私は絶望させられたのです。手足を折られた上に、さア働いて生きて行け、と突き放されたようなものです。私をどうして下さるのですか」

「私は何もしませんよ。この土地と建物を売って、軽井沢へひきあげるだけです」

「じゃア、二千五百円で、土地の半分と、建物の半分と、源泉の半分を売って下さい」

「あと半分の買い手を探していらしたらね」

 亮作は顔をしかめて、手放しで、ポロポロとなきだした。

「私は悲しい思いを忘れていました。悲しい思いを忘れずに、どうして鶏小屋に生きられましょう。必死に努力したのです。そして、どうやら、ウジムシのような生活にもなれることができたのです。恥も外聞も忘れて、希望もなく生きる心境をつくることができたのです。それが私の全財産でした。あなたは私の全財産をうばい去ったのです。そして忘れていた悲しさを、いや、もっと大きな悲しさを私の胸に叩きこんだのです。まるで火の玉のように、私のからだの中を悲しさがころげまわり、走り狂っています。三月十日のあの怖しい空襲の火の舌が、私の背を焼き、追いつめてくるではありませんか。私はどうしたらいいのです。三月十日の空襲よりも、もっと怖しい艦砲射撃が耳の底に鳴っています。空という空に火の線が走って、山はゆれ、岩は砕け、大地はわれて、火をふきあげるではありませんか。私はすべてに見すてられました。もう歩く力もないのです。私はどうしたらいいのですか」

 亮作の喉にクックックッとこみあげる音がして、にわかにヒッと泣きふしてしまった。

 野口はなんとなく哀れに思い、三千円だと引越しのツケトドケにしかならないが、どうせ戦禍に消え失せるもの、捨てるよりは三千円で売った方がマシだろうと思った。

 けれども一皮むいて考えると、同情してみたって始らない。戦争というこの冷酷な魔神の通路には、ただ運命があるだけで、誰だって自分の意志でそれを逃れることはできない。自分自身が一時間後にどんな運命になるか、誰も知ってやしない。人に同情するなどとは身の程をわきまえぬ愚行であろう。

「なに、ここだけが戦場になるわけじゃありませんよ。おそかれ、早かれ、日本中がそうなるのです。私は、高いとか安いとか選り好みできるあなたの境遇がうらやましいと思ってますよ」

「じゃア、死ぬる思いですが、思いきって、四千円だします。四千円で売って下さい」

「いえ、いけません。五千円。最低の値をつけたのです。私は商売をしているわけではありません。五千円という捨て値は、まったくの捨て値で、損得勘定の根拠があるわけではありません。ひとつの気分でヒョイときめた捨て値です。愛着のこもったものを捨て去るときの悲しさをいたわってくれるものは気分だけです。私は気分をこわすわけにいきません。商取引のように、値切られたり、まけたりするわけにいかないのです」

 亮作は気違いじみた泣き顔をあげて野口を見つめた。ちょッとオドオドしてはいたが、いつもするような薄笑いの翳はなかった。

「五千円で買ったら、あなたは今日中に立退きますか。いえ、今日中に立退いて下さい」

「今日中はムリですよ。先日来、駅との談合で、明朝荷物を送りこむ手筈になってるのです。用意はできていますから、明日の午後、立退きましょう」

「きっとですね」

「むろん、まちがいはありません。それで、あなたは、いつ五千円下さるのです」

「あなたの立退きとひき換えに」

「いえ、いけません。もしもあなたの気持が変ると、私は出発をのばして、買い手を探さねばなりません。私が怖れているのは、疎開の時間がおくれることです。いま、五千円、いただきましょう」

「いえ、それは片手落です」

「おかしいですね。あなたにとっても今日中に一時も早く登記の手続をすませることが大切ですよ。すると、もう、あなたはここの所有者で、安心してよろしいのですよ」

 こうして野口の別荘は亮作のものになった。

 翌日、野口は荷物を駅へ送りこみ、クワ、鎌、鉈、スコップなど野良道具をぶらさげてきて、

「一式百円で買いませんか。大工道具一式、左官のコテまで揃ってますぜ。御不用なら、駅前でセリで売りますがね」

「百円は高い」

「ほんとですか。桶もテンビンも、噴霧器まで揃ってますぜ。どこを探しても農具や大工道具は売ってませんよ。そして、現在これ以上の貴重品はありません。有り過ぎて困る物ではありませんから、持ってこうかと思ったのですが、こちらに何もなくては、せっかく田畑があっても耕作にさしつかえますから、お譲りしようと思ったのです。高いと仰有れば、重いけれども持ってきましょう」

「それは畑に附属したものです」

「それじゃア家具は家に附属したものですか」

「いえ、それは屋外で使う品物だから」

「アハハ」

「いえ、買いますよ」

 渋々包みから百円札をだした。

 野口一家は去ってしまった。

 野口がこの別荘をつくった時から、女中部屋に風変りな留守番が住んでいた。このへんの人は「金時」とよんでいたが、まだ二十四の女であった。顔もからだもまるまるふとって、怪力があった。

 金時は田畑を耕すことは知っていたが、料理はできなかった。金時に料理をつくらせると、鍋に熱湯をたぎらせて調味料をぶちこみ、飯でも野菜でもなんでもかまわず投げこんで、シャモジでかきまわすだけである。ほかの食物をつくらなかった。

 しかし野良では男の何人分も働いて、二町歩の田畑を楽々たがやした。鍋をかきまわすことよりも、肥ダメをかきまわすことを好んだ。

 金時のもとへ忍んでくる物好きな男もなかったので、田畑づきの別荘番としては、これ以上の適任者は見当らない。

 亮作は耕作の知識がなかったので、つづいて金時に居てもらうことにしたが、二町歩の耕地の実りは大きいから、敵が上陸してくるまでは、金時の働きで左ウチワの生活ができるのである。

 たった一日でフシギな変動であった。鶏小屋住いの無一物の亮作は、今はしかるべき富豪になっていた。それは敵の上陸をめぐって計算された取引であったが、敵が上陸してくるまでは彼が別荘の主人であるのはマギレもない事実であった。

 亮作は満足であった。そして自分の物となった座敷へあがってボンヤリしていた。戦争中の人間は自由の時間にボンヤリするのが例であったが、亮作はもっとボンヤリした。

 金時が部屋へきて、彼のうしろに立った。

「フトン買ってくれ」

「フトン?」

「カヤもいる」

「お前、もたないのか」

「お前も、もたないだろう」

 亮作の胸にほろ苦いものがこみあげる。やっぱり無一物なのだ。彼は憤りを覚えた。

「私の毛布、一枚わけてやる。それで、たくさんだ」

「冬にこまる。いま、買っておけ」

「フトン背負って、戦場を逃げて廻れるものか」

「オレが背負ってやる。カヤも買え」

「カヤはいらん。今に穴ボコの中で暮すようになるのだ。穴の中にカヤはつられん」

「つれる。つれる穴をつくってやる。鍋と釜を買え」

「私が持っとる」

「小さい」

「小さくない。四人で充分にくえる」

「くえん」

「お前バカだな。あの釜は一升たける」

「三升たかねばならん」

「お前、一食に一升くえるか」

「オレは一日に五へん食う」

 亮作は二の句がつげない。金時は彼をあわれむようにジッと見つめていたが、さとすように言った。

「みんな買っておけ。今が安いぞ。オレが安く買ってきてやる。持ってる金、みんな、だせ」

「どうするのだ」

「金のあるだけ品物を買う」

「バカだな。一文なしで、くらせるか」

「心配するな。オレにまかしておけ」

「電燈屋がきたら、どうする」

「畑の物を売って払ってやる。お前は心配するな」

「そうか。本当に大丈夫か」

「大丈夫だ」

「そんなに買いこんで、戦争のとき、持って逃げられるか」

「オレにまかしておけ」

 亮作は金時の言葉にたのもしいものを読みとったので、包みをといて、虎の子をだした。二千余円残っている。

 そろって、買物にでた。

 金時はまず大八車を買った。それは長年月納屋の奥に置きすてられた廃品で、峠越えの疎開用には役立たないシロモノであった。金時はかねて目をつけていたのである。修繕すればまだ使えると亮作に教えた。疎開騒ぎで値のでているのは大八車が筆頭だったが、これは法外に安かった。それでも、大八車が結局最高値の買い物であった。買った品々は車いっぱいになってしまった。

「お前、酒すきか」

「うむ。酒が買えるのか」

「オレが造ってやる」

 金時は徳利と杯を買い、瓶を二つ買った。亮作は、なんともいえない有難さがこみあげた。天に向って感謝したい思いであった。

「お前も酒すきか」

「オレはのまん。オレは腹いっぱい食うのが好きだ」

 最後に魚釣りの道具一式買った。

「畑はオレが一人でする。お前は用がないから、退屈したら、魚釣っとれ」

「そうか。釣れるか」

「釣れるだろう。イヤなら、やめれ」

「やってみる」

 やがて、終戦がきた。

 亮作はこのような幸福を夢にも描いていなかった。彼は大八車いっぱいの荷物と金時と共に穴ボコの中に生き残り、廃墟へもどって、いち早く耕作して、生活の安定をはかることを希望していた。それだけでも充分に希望を托しうる未来であった。しかるに家も畑も残ったのである。

 亮作は毎日街を歩きまわった。落付いて坐っていることができなかった。家と田畑と源泉の所有者だという実感が、孤独な部屋の物思いでは、とらえがたかったからである。ハッとして気がつくと、思わずポロポロと泣いたが、それが所有者の満足だとも思われない。そして急いで街へでる。日ごとに街を歩きまわった。

 単調な戦争中には見られなかった小さな変化が街の諸方に起っている。亮作はそれらをツブサに目にいれた。

 それは亮作とは何の関係もない変化であった。所有者になったという自覚を与えてくれるものは、ひとつもなかった。それでも、彼には、なつかしいのだ。小さな変化を見るたびに沁々しみじみと目にしみる。心があたたかくなるのであった。

 彼はある晩、表札をださなければならないと思った。

 彼はその時まで表札をだしていなかった。手紙のくる筈がなかったし、もらいたい手紙はひとつもなかった。あらゆる過去に愛着を失っていた。梅村亮作は死んでいる。ひとつ、新しい別人の表札をだしてやろう、そう考えると、こみあげる愉快な思いにたまらなくなった。

 彼は窓を開け放して、澄んだ夜空を仰ぎながら想をねった。

 終戦前、彼が渓流の岩にかくれて、ひそかに釣をたのしんでいたころ、いつも水鳥がさわいでいた。小鳥の多い渓流であった。

 酒を水鳥ともいうのである。これは洒落だ。酒という字を二つにわるとサンズイの水に鳥(酉)となる。金時のつくるドブロクはヘタクソであった。それでも酒の一種になればいい方で、甘酒にしかならないことが多い。金時にはマゴコロがあったが、向上心がなかったので、ドブロクの製法が上達する見込みはなかった。亮作は甘酒ができると、ガッカリしたが、自分で製法を覚えてきて、うまいドブロクを造ろうという考えにならなかった。毎日うまいドブロクをのむことも愉快であるかも知れないが、金時のヘタクソなドブロクや甘酒をのむ方が、満足であった。今度の瓶は何ができるかいな、と心待ちにする方が、いつもうまいドブロクをのむ単調さよりも好もしいようにも思う。金時は何をやってもゾンザイだったが、ゾンザイなところに生一本の人間味がにじみでている。亮作には人のつくったうまいドブロクよりも、金時のゾンザイにつくった出来そこないのドブロクの方が珍重されるのである。

「ウム。水鳥亭。これがいい」

 山の端に半月がかかっていた。

「水鳥亭山月。ウム。これだ」

 そこで、竹をきり、ナイフで文字をほりこんで、表札をつくった。


          


 伊東周辺の山々には戦争中敵の上陸にそなえて掘られた無数の穴があった。それは防空壕とちがい、陸戦用のものであるから、部隊とともに、戦車もトラックもひそむことができるほどの広い穴である。

 その穴の市街地に最も近い一ツが乞食の巣になった。伊東では畑の中に温泉のわいているところもあるし、旅館も、漁師街も、乞食の食用に堪えるものをフンダンに捨てているから、ここは乞食と野良犬の天国であった。上野の地下道の住人でこれを聞き伝えた一部隊の移住をはじめとして、やがて六十世帯ぐらいがここに住みついてしまったのである。

 その一人に、もと中等学校(今の高等学校に当るわけだが)の教師だったという六十ぐらいのジイサンがいた。いったいに、ここの乞食は栄養に事欠かないのか血色がよくて肉づきもよく、また気の向くままに田園の露天温泉に浴することもできるせいか、身ギレイで、戦争中の焼けだされた人々よりもよほどキチンとした風をしていた。彼らが乞食であることを見分けうるのは、バケツやハンゴーやナベや裁縫の道具など、日用品一式を背負って歩いているためで、何も知らない旅行者が彼らを登山家に見立ててもフシギでないほどハイカラな住人もいるのである。

 もと中学教師のジイサンは皆にオヤジとよばれていたが、現役の中学教師に見立てることができる程度に精気があって、また威厳があったのである。その威厳は主として彼の鼻ヒゲと、冥想的な眼光によるのであるが、充分の栄養によって保たれているに相違ない皮膚のツヤツヤした精気がなければ、威厳の半ばも失われてしまうかも知れない。

 彼は孤独と逍遥を愛している様子であった。日用品一式を肩にかけて、職業上の目的とはなんの関係もないらしい静かな落ちついた足どりで街々を歩いているが、たまたま路上に働く人夫を一見れば、

「道路拡張。道路拡張」

 と、呟くのである。

 また、路傍にわく温泉を見れば、

「温泉湧出。温泉湧出」

 と呟くのである。

 その彼が、たまたま水鳥亭の前を通りかかった。彼がここを通るのはこれがはじめてであったが、彼の落ちついた逍遥も全然職業に無関係というわけではないらしく、田園の中にポツンと孤立した水鳥亭前の小道なぞは今まで歩く機会がなかったのであろう。

 水鳥亭の門前で、彼の落ちついた足どりがふと止まった。かつて物に動じたことのない哲人の足の律動を止めたものは何であったか? それは門の表札であった。

「水鳥亭山月。水鳥亭山月」

 二度朗読をくり返して歩きだした。そして、歩きながら、また呟いた。

「水鳥亭山月。フム。浪曲師の別荘か」

 また呟いた。

「浪曲師別荘。浪曲師別荘」

 塀ぎわで畑の世話をしてた亮作は、ひそかにこれを見、これを聞いていたのである。そして息づまるほどの怖れとも驚きともつかぬものに襲われたのであった。

 終戦から、もう数年すぎていた。品物もいろいろと出まわるようになっていた。豚の食物が人間に配給されて、それすらも一ヵ月余も欠配するような時世はどうやら忘れられていた。自分の畑の物をこよなき美味として珍重した時世もすぎていた。金をだせば肉もある、砂糖もある、外国のチーズもある、スコッチウイスキーすらも買うことができる。数年前には一匹のイワシすらも仰ぎ見る貴重品であったのに、伊東の漁師街ではアジやサバの干物なら野良犬すらも見向きもしなくなっていたし、温泉街では一箸つけたばかりの伊勢エビ料理がハキダメへ投げこまれていた。

 穴の中に住む一部隊の乞食たちがだんだん聖賢に近づいているのは無理ではない。居と住に於て不安がなく、むしろ栄養にめぐまれているからである。

 ただ一人亮作のみは──否、名を変えた後の水鳥亭山月に於ても、彼が獲て、また必死に守りつづけているものは、一軒の家とささやかな畑のみであり、そして彼の衣食住は戦争中と全く変りのないものだった。彼は自分の畑の物を食べる以上にどんなゼイタクもできなかった。金がなかった。職もなかった。否。彼は温泉と畑づきの家主たることに誇をもちすぎてしまったのである。フシギなことであるが、その心境は、斜陽族という言葉が何より当てはまるのかも知れない。すでに彼には気位があった。落ちた物を拾うわけにもいかないし、職を得て働くことすらもイサギヨシとしないのだ。

 彼は穴の中の住人中で特に精彩を放っているオヤジの存在を知っていた。道路拡張、道路拡張と呟きながら静かに逍遥している姿を見たこともあるし、彼がもと中学校の教師であったことも聞き知っていた。

 彼はオヤジの存在を知ったとき、皮肉な満足を覚えたことも事実であった。自分は中等教員を半生の願いとしながら、中等教員にはなれなかったが、温泉と畑づきの別荘の主人になった、と。そして、もと中等教員は穴の住人にすぎないのだ、と。

 しかし、戦争の影が薄れるにつれ、彼の生活がつまる一方であることの悲しさが深まるにつれ、彼が他の誰よりも思いだすようになったのは「オヤジ」の存在であった。それは彼の怖しい心の秘密だ。そして、この秘密だけは誰にも知られたくないのであった。

 オヤジの安定した生活にひきかえて、彼の生活は不安定そのものだ。何も収入がないのに、税金や寄附に攻められ、歯をくいしばって浮世の見栄を守らねばならない。温泉と畑づきの別荘の所有者とは云いながら、見ようによればオヤジとても温泉と畑の所有者ではないか。彼らは露天ブロを所有しているようなものだし、畑だけでなく、海の漁場も野の牧場も所有しているようなものだ。山海のあらゆる味を探しだして食うことができるのである。

 彼はしかし乞食を軽蔑し、別荘の家主たることを誇る心は忘れなかった。それを忘れることができないから、いけないのかも知れない。彼はオヤジの存在に圧倒されている心の秘密に甚しく臆病になっていたのである。

「浪曲師別荘。浪曲師別荘」

 オヤジは呟きつつ歩き去った。彼は塀ぎわに働いていた亮作を認めたようであったが、浪曲師その人なぞにはなんの興味もなかったらしい。彼の落ちついた足の律動を乱させたのは、主として「水鳥亭山月」という表札であったのである。亮作も、それに気がついた。

「水鳥亭山月……」

 オヤジの姿が遠くに消え果ててから、亮作はふと呟いた。

 オヤジの認めたのは水鳥亭山月の表札だけで、彼自身の存在ではなかったという事実がしみじみよみがえってきた。それが甚だ当然のような気がしたのである。

「この表札は、オレのではない」

 水鳥亭山月の表札をおろそうと思った。けれども、門前へまわって表札を見ると、いたましくて、とても取り去ることができなかった。いくどか思い直したが、また、ためらって、どうしても外せなかった。

 翌朝、表札を外す代りに、彼自身が鶏小屋の横手で首をくくって死んでいる姿が発見された。

底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房

   1998(平成10)年1020日初版第1刷発行

底本の親本:「夜長姫と耳男」大日本雄弁会講談社

   1953(昭和28)年12月発行

初出:「別冊文藝春秋 第一五号」

   1950(昭和25)年35日発行

※初出時の表題は「水鳥亭由来」です。

入力:tatsuki

校正:花田泰治郎

2006年48日作成

2014年530日修正

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